2-9.大化改新はヤマト(ヤハウエの民)の復活だった

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 大化改新の主要な目的は、天照大神のもとで、神道を、日本の国家的な宗教の座に回復させる事にあった。[日本書記]の大化改新については、[日本書紀と日本語のユダヤ起源]の中に、旧約聖書との関連が証明されております。日本書紀と旧約聖書を読んでいても、意識して関連づけなければ、全く無縁のものとしか思わないことでしょう。
 例えば、武烈天皇(在位498年〜506年)に関して、「長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令にも詳しかった」とあるが、「法令」は書かれたもののことであり、漢字渡来以前に日本固有の文字が有ったことの証拠の一つ。また、日本で18は長寿を示しているが、なぜなら「生きている」を意味するヘブル単語「ハイ」の数値は18だからである。俳句の17字、十七条憲法のように、17は「良い兆し」を示すとされているが、「良い」を意味するヘブル語「トープ」の数値は17である。さらにヘブル文字に酷似したカナ文字を使う日本人は、ヘブル文字を知っていたと述べています。
 本書は非常に簡明で説得力があるので、これを抜粋して紹介いたします。
  大和言葉とヘブライ語については「大和言葉とユダヤ語」「カタカナ/ひらがな」参照してください。シュメル語との関連は[世界最古の文字と日本の神々]を参照してください。


■ 大化時代の開始

 皇極天皇の治世第四年の七月一日に始まった。
 七月一日は、ユダヤでは新年にあたる。聖書ではこの日を「聖なる集会」の日としている。
 「第七の一日の安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としなさい」[レビ記 23章24]
※「大化」はヘブライ語で「希望」の意味。


■ 捧げ物

 七月十四日に使節を遣わし、神道の神々に捧げるための捧げ物を集めた。
 聖書では、ユダヤ歴七月十四日の夕方から「仮庵の祭」が始まる。その時、神殿に捧げ物がされるので、十四日にはその捧げ物が用意された。


■ 奴隷の子

 大化の政府は、男女に関する法の中で、「もし二つの家の間で男奴隷と女奴隷が子を生んだなら、その子は母につけよ」としている。
 [出エジプト記 21章4]では、もし主人が男奴隷に女奴隷を妻として与え、彼らが子を生んだ場合、子は母につけよとしている。


■ 土地再分配

 大化の政府は「班田収授法」を作った。これは六年ごとに、農業用地を人々に再分配するものだった。
 [レビ記 25章3-4]では、六年の間収穫し、七年目には土地に安息を与えるとある。


■ 人数に応じた土地

 大化の土地配分は、戸籍に基づき、家族の人数に応じてなされた。
 [民数記 26章54]では、「人数の多い部族には多くの、少ない部族には少しの嗣業の土地を与えなさい。嗣業の土地はそれぞれ、登録された者に応じて与えられねばならない」としている。


■ 親族の死

 大化改新では、「死者のために生きている者が断髪したり、股を刺したりて、しのびことを述べたりする旧俗は、ことごとくみなやめよ」としている。
 親族が死んだとき、「自分の頭髪の一部を剃り上げたり、髭の両端をそり落としたり、身を傷つけたりしてはならない」[レビ記 21章5]としている。


■ 嘘言

 大化改新では、「見ていながら見ないと言ったり、見ないのに見たと言ったり、聞いていながら聞かなかったと言ったり、聞いてないのに聞いたなどと言う者がある。正しく語り正しく見ることなくして、巧みに偽る者も多い」と述べ、嘘を禁じている。
 [レビ記19章11]に、「盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない」と述べている。


■ 証人

 大化改新では、妻を疑って、三人の証言があっても皆で相談した後、官に訴えるべきであると述べている。
 [申命記17章6]に、「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証言で死刑に処せられてはならない」と述べている。


■ 宴会

 大化改新では、「農耕の月には田作りに専念させ、美物(魚)や酒を食することを禁ずる」と述べている。
 聖書にはないが、古代イスラエルの伝統によれば、例えば収穫をしてから七週間は、いかなる宴会も慎まなければならなかった。


■ 地域の監視

 大化改新では、「京師を創設し…区画ごとに長を一人置き、四つの区画に令一人を置き、戸口を管理し、正しくないことをする者を監視せよ」と述べている。
 [申命記16章18]に、「主が部族ごとに与えられるすべての町に、裁判人と役人を置き、正しい裁判をもって民を裁かせなさい」と述べている。


■ 二倍の償い

 大化改新では、「不当に自分の身に入れたものは、倍にして徴収せよ」と述べている。
 [出エジプト記 22章8]に、紛失物での言い争いについて、「神が有罪とした者が、二倍の償いをせねばならない。」と述べられている。


■ カタカナとひらがな

 カタカナはヘブル文字に酷似している。「カタカナ」は、「カナンの文字」を意味するヘブル語「クタ・カナン」が若干訛ったものではないだろうか。
 また、「ひらがな」は、ヘブル・アラム語の「絡み合った」を意味する「エーラ・クタ・カナン」(絡み合ったカタカナ)が、後に「エーラ・カナ」となり、これが短く訛ったものではないかいだろうか。



[ユダヤ製国家日本]より

 本書によれば、日清戦争では、神戸に寄留してシェル石油会社を開いたユダヤ人・マーカス・サミュエルの支援があった。そして、日露戦争では膨大な戦費の半分以上が、ロシアに虐げられていたユダヤ人達、及びユダヤ人・ヤコブ・シフにより調達された。そして、シフへの感謝を明治天皇も、昭和天皇も忘れることはなかった。更に、明治憲法は、ユダヤ人・アルベルト・モッセの忠告を受け入れ、立憲君主制度を柱として、きわめて民主的な憲法となった。モッセは明治憲法の父と呼ばれている。このように、明治初期に、多くのユダヤ人が、西洋の学問や技術や芸術を日本へ伝えるのに貢献している。そして、敗戦後の日本国憲法・農地改革他に、ユダヤ人の多くが、差別の激しかったアメリカでは実現することができなかった社会改革の夢を、持ち込んだ。
 明治の日本は、後に新生ユダヤ人国家であるイスラエルが建国されるのに当たって、大きな精神的影響を及ぼして、貢献した。その仲介役が日露戦争時に、日本の捕虜となった「片腕の英雄」「イスラエル軍の父」と呼ばれているヨセフ・トランペドールだ。日本でいえば、坂本龍馬か、吉田松陰のような存在であろう。トランペールは、日本語を喋り、サムライの精神をイスラエル建国の柱とした。今日、イスラエルではどのような小さな村でも、かならず日本の武道が行われている。東と西に遠く離れて、同じ魂が脈打っているのだ。
 更に興味深いことに、秦氏は多くの氏族を持ち、伊賀の服部、宇佐の辛島、田川の赤染、長光、松尾、赤松、物集、島津、長宗我部、呉、等々。しかも、各氏族が、養蚕・畜産・鍛金・治水・土木・修験・芸能など産業の専門である。能の世阿弥、松尾芭蕉、服部半蔵、薩摩の島津家も、秦氏=ユダ族・レビ族である。


(補足)神の前の平等はシュメールから

 神の前の平等については、その萌芽は既に古代シュメール時代の律法にありました。日本では無礼講に相当します。ニヌルタとエンリルの神殿=エニンヌ神殿の建立を祝賀して一時的に奴隷解放を行った。この善政が、ウル王朝にて、奴隷解放を行うきっかけとなった。
「彼の主人(ニヌルタ神)が神殿に入った日から七日間、
 女奴隷は女主人と同等であり、男奴隷はその主人と並
 んで立った。」
 発展して、モーセの律法では、「ヨベルの年」50年に一度、、全耕地が休墾され、負債が免除され、奴隷は解放される。この影響を受けているキリスト教国では、後進国の債務を免除する習慣がある。


■日本の律令制は唐の律令制と根本的に違う
 [日本式律令制=神話継承の律令制]

 大宝律令は、中国と違って、神祇官と太政官が、天皇の下にあり、しかも天皇直轄の神祇官が太政官の上位の形で並存していた。この太政官が後に武士に代わり、幕府体制となる。つまり、画期的な政教分離なのである。「律」はしてはいけないという「刑法」、「令」はしなくてはならないという「行政法」のことです。
 隋唐以降のシナは、神にではなく政治に救済を求めた。だから、日本の神祇官が政治の下位に来ている。
 卑弥呼(日巫女)、天照の本名はオオヒルメムチ=太陽の妻(神妻)であり、ほぼ同じ意味となる。つまり、古代日本の時から、太陽神を主神として祀ってきた。しかし随・唐の覇権から独立を守るために、モーセの民がイスラエル国家を建国したように、国家としての体裁を整える必要があった。そこで、神を祀るに相応しい律令制を導入したのです。ここがシナの専制皇帝制と全く違う所で、イスラエルの神の叡智に従ったのでした。
 [サムエル記]にすでに、ヤハウエは政教分離のあり方を示している。サムエルが年を取り、息子達が父親より劣っているのを見ると、イスラエルの民は周囲の強国のように自分たちの上に「他の全ての国のように」王を求めた。そこで、サムエルは民が神の支配を退けたと感じ、神に祈った。神は民の声に従うようにサムエルに答え、王政を導入する前に「王の権能」を民に知らせておくように告げた。「王の権能」には、軍事活動やその他の活動への民の徴用、民の土地の没収、税の徴収などが含まれていることを、サムエルは民に告げ、次の言葉で締めくくった。
 これに対し、民は次のように答えた。
 そして神の目にかなったベニアミン族の長身のサウルは、サムエルに油を注がれ、イスラエルの初代王となった。「油を注ぐ」ことは、神がその人を王に任命したことを意味する。油を注がれた者はヘブライ語で「マシアハ」と言い、この言葉が「メシア」の語源となった。
 サウルは軍事的才能を発揮し、縦横無尽に活躍する。ところがサウルは、神への感謝の犠牲を自ら捧げてしまう。神への犠牲を捧げる儀式は司祭にのみ許された行為であり、王がこれを行うことは許されていなかった。その結果、神はサウルを王位から退けたのだ。神はサウルに代わり、ダビデという少年に油を注ぐようにサムエルに命じたのだ。どうだろう、これが神を頂く政教分離の原型そのものだと思うのです。
 どうだろう、イスラエルの神を天照大~とし、天皇を大司祭とみなせば、大和朝廷がイスラエル王国と同等だと言うことは明らかでしょう。そして、イスラエル人がヤハウエの民=神の民だから、大和民族=神の民は、天孫族なのです。

    
 ■日本の民度を高めた大学寮の設置 … 科挙より前に設置!
 高等教育の発達もこの時代に進みました。七世紀の天智天皇の時代に創設された学校が大宝律令の制定に伴い教育機関として制度化されました。それが大学寮です。日本人は非常に民度が高い国民です。それは教育によってもたらされるものですが、そのはじまりは奈良時代にあります。
 当時の教育制度では、中央に現在の東大や京大のような中心となる大学寮を設置し、地方には国学という大学が置かれ、経書(儒教の書)、律令、書道、算術などが教えられていました。主として官吏を養成するためでしたが、大学は奈良時代にすでにできていたのです。九年間の大学寮修了者は、試験を受け、その成兢に応じて位階が授けられました。若干の貴族には特権的な地位があったといわれますが、成績順で地位が与えられ、のちの宋で発達する「科挙制度」をすでに成立させていたのです。今日の官立大学が、制度的にはここでできていたと考えてよいでしょう。
 尚、遣唐使が盛んな時、朝鮮や唐からも日本に遣日使が来て日本の文物を学んで帰国していた。おそらく、遣唐使の時代に日本の制度を学んで、それが「科挙」へと至ったのではないでしょうか。
 ◆寺子屋の先生は三人に一人が女性、教育程度が高かった江戸の人々
 社会を安定させた基盤としては、江戸時代の教育の普及を挙げなければなりません。
 国民教育は明治以後、学校制度ができてからだといわれますがそうではありません。江戸時代の教育の普及は大変なものでした。寺子屋といわれるものがそれです。当時は「手習」「手跡指南」「筆道稽古所」などといわれていました。こうした学校は江戸時代を通じて全国に一万六千五百六十枚あったといいます。
 規模は小さいもので二十〜三十人、都市では百人を超えるものもありました。人々は実に教育熱心だったのです。
 先生を務めたのは、最初は僧侶が多かったのですが、都市では下級武士、それに禄を離れて浪人になつた武士も教えるようになりました。元禄期になつて庶民教育が広まると、教養のある町人も教えるようになりましたが、注目すべきなのは女性の先生が増えてきたことです。江戸では三人に一人は女性の先生だったといわれます。それだけ教養を積んだ女性がいたということです(平安時代からです)。
 
 ■日本の国体は、3つの「和」(=神儀+日本式民主主義)である
 日本の国体を端的に表現したのが、唐の軍事的脅威から日本を守る為に制定された日本式律令制です。唐では、皇帝の下に、祭儀を執り行う左大臣と、政治を行う右大臣が置かれている構造で、祭儀は皇帝に仕えるものであり、神の権威と政治の権限の両方を持つ皇帝の独裁国家でした。
 日本の場合、天照大神・皇祖神の元に後裔である天皇・皇室の下に、太政大臣と神儀官が置かれています。唐の場合、位的には祭儀を執り行う部署が矮小化されていますが、日本の場合神儀官が太政大臣よりも位が上です。そして、天皇は直接神儀官を選び一緒に祭儀を執り行うのです。しかし、政治に関しては太政大臣に任せ、彼らが和の精神で討議した内容を確認する権威を持つだけでした。だから、太政大臣については、日本の国体を守る為に時代に合った政治システムが選択されてきました。豪族制の元、聖徳太子は政治の体制を十七条憲法(神に仕える掟、神に代わって政治を行う心構え … この精神は式目・五箇条のご誓文・教育勅語へと引き継がれる)としてまとめ、日本の国体(日本式律令制)の一部である政治について「和=日本式民主主義」の精神を成文化しました。次に、幕府−江戸幕府(藩幕制)−明治憲法(日本式民主主義)−日本国憲法(代議員制)へと、時代に応じて編成してゆきました。しかし、祭儀については何ら変わっていません。つまり、権威は天皇、権力は首相が持ち、両者を合わせた独裁者は決して誕生しない国体なのです。
 これまで、太政大臣に当たる政治システム(日本式民主主義)の変遷については、理解したつもりでしたが、神儀官の重要性については、理解が及んでいませんでした。しかし、『日本の国体の真実 馬淵睦夫著』『古事記と日本人 渡部昇一著』を読むことで、理解不足を補ってもらいました。
 日本の国体は神々と天皇との和天皇と国民との和(天皇制とは天皇と国民が心を一つにして信頼し合うこと)、政治と天皇制の和(主権は君臣一体の共治の根源である天皇制にある)の、三種の「和」から成り立っている。外敵から国体を守る「剣」、まさに大東亜戦争は共産主義から日本の国体を守る為の聖戦でした。神の心を映す「鏡」、天皇は常に神の心を民に伝え、民の平安を神に祈り続ける役割があります。民一人一人が良心「アガタマ」に従い、天皇と民が互いに心を通じ合い、そして神々と心が通じ合うことが、君民一体の共治の源です。だから、日本国民には天皇が高天原の神々と直結しているいる信頼・信仰が有り、これが男系男子を支える最大の根拠であり、日本独自の国体と民主主義を生み出す根源なのです。つまり、現代の日本国憲法において、日本式民主主義は「日本の国体」の一部でしかないのです。
 ここで、日本の国体(天皇制と日本神話+日本式民主主義)は君臣一体の三種の「和」で成り立つ、信義を根本としています。だから、平和で安心な国柄なのです。
 中国であれば、神儀官は存在せず、皇帝(中共では総書記長)が権威と権力を独占する独裁者として、君臨します。だから、独裁者を倒すことは、王朝の交代を意味します。日本のように、政権が変わっても王朝は不変なので、大虐殺が起こることはなかった。
 暗黒のキリスト教時代であれば、教皇が権威と権力を掌握し、キリストの名において国民を使役し、植民地支配と虐殺を正当化してきた。共和制では、王室がないので、大統領が権威と権力を握るので、独裁を抑止する為に、三権分立による抑止が必須になる。しかし、ドイツのように選挙で選ばれたヒットラーが独裁者に成り上がってしまうのですが、日本の国体では権威が男系男子の天皇制にある為、独裁者は皇室を滅ぼさない限り誕生することはあり得ません。それだけ、日本式民主主義は欧米式の民主主義より安定しているのです。
 シュメル古文書によれば、人類を創造したのは天から降りてきた人々、つまり二ビル星人だった。彼らは、二ビル星人の精子と地上の霊長類の卵子を融合させて、黒い頭の人類を創造した。だから、Y遺伝子をたどれば、人類を創造した二ビル星人にたどり着きます。二ビル星人の皇統も男系男子なので、これをまねて、日本だけではなく、古代エジプトでも、他の古代の王室はほとんどが男系男子でした。
 ところが、二ビル星人を創造したプレアデス星人は、二ビル星人が人類を創造したように、二ビル星人を創造したといいます。だとすれば、文明の発生は琴座Aといわれており、彼らは二ビル星人を創造したのですから、琴座王家、プレアデス王家、二ビル王家、人類の最初の王家のY遺伝子は連綿と受け継がれ、同じなのです。そして、母星を離れ移住した惑星の環境に適応するべき、移住先の霊長類の卵子と融合させたのです。そのことは、天照大神が孫のニニギの命に日本に下るように命じられた時、沢山の技術集団を連れて降臨されましたが、妻は連れて来られず、豪族の娘を妻とされています。同じく、神武東征の時、神武天皇は各地の豪族との婚姻によって和睦を結ばれました。このようにして、平和をもたらす為、知的文明の血統を絶やさない為に、男系男子が皇統として定着したのだと思います。
 だから、良心の声に従い、神々や祖先神と結びつき、道義(神々の掟)や倫理に従う。大司祭を神々と結びついた代表としての権威とし、政治により行政の権力を行わせるが、その主権を良心に従う大司祭と国民にあるとする国体は、すばらしいと思います!そして、政治システムとして倫理や道義心からなる信頼関係を基盤とし、かつ基本的人権を守り、自己責任において行動する民主制を是とする。これこそ、神々(人類の祖父である琴座・プレアデス・二ビル・地球の賢人)の英知の結晶で有り、地球文明の模範とすべき国体だと思います。
 これに近いのが日本の天皇制なのですが、戦前であれば「和」の精神に加え、共産主義から国体を守る強い意思がありましたが、現在にはありません。のみならず、狂信的なイデオロギーのテロリスト・リベラリスト・共産主義者には、現在の日本人の精神では対抗できないと思います。だからこそ、キリスト教の「善と悪は相克する」という善に対する厳しい姿勢を、日本人が日本を取り戻す為に必要で有り、世界の国々に対する平和的国家の建国モデルともなり得るのだと思います。(2016/12/11 追加)

 ◇『日本の国体の真実 馬淵睦夫著』から、日本の国体を示す部分を抜粋しました
 ここでは、私たち一人ひとりが神格を宿していること、また国土(山川草木)も神格を有しているということが重要です。戦後、天皇は現人神であることを否定されましたが、私はそのような必要は毛頭なかったと確信しています。天皇は高夫原の大御心を現在に体現しておられる存在である以上、現御神すなわち現人神であることに何の違和感も感じません。
 そして何よりも、私たち自身が高天原の神々の大御心(神性)を宿した存在であることに気づくことです。したがって、私たち自身も現人神なのです。それだけの道義性を有した存在なのです。この高夫原の神々の道義性を私たちも共有しているという点が、重要な点なのです。
 私は、私たち一人ひとりも神の一部であって、そのような私たちを含めてわが国は八百万の神々の国であると素直に感じています。実際には一億を超える神々の国です。私たちも神だというと、神がかった新興宗教ではないかとの誤解をされるかもしれません。
 しかしここで立ち止まって考えで欲しいのです。読者の方々も、自らの心の中に良心のあることは感じでおられると思います。その良心が高天原の神性なのです。良心を通じて、私たちは高天原の神々とつながっているのです。神と人は同一といいうるのです。
 それに、私たちの周りの山川草木やもろもろの動物にも神々の神性が宿っています。これらはすぺて私たちと同胞なのです。
 いうまでもなく、ここにいう神は、一神教でいう創造神とか全知全能の神(GOD)ではありません。このような「神」と混同すると、天皇専制なとといった誤解につながります。それは唯物論的見方です。唯物論では天皇を理解することは絶対に不可能です。(※旧約聖書で、神は人に対して「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」と述べているが、それは当時の人類の文明が低かったからで、科学的知識が豊富な現在においては、自然界との共存共栄を訴えておられます。ですが、日本神話において既に自然との共存共栄が謳われています。)
 念のためにいうと、一神教の絶対神は人間にとって外在の神であり、絶対神と人間の間には決して超えられない溝があります(※だから、選民という優越意識が生まれ、自分以外の者を劣等種と見なすのです)。つまり、神と人とは隔絶している。
 神人同一型の我が国(後裔)と神人隔絶型(人類は原罪である)のユダヤ・キリスト強敵一神教の間決定的な違いを理解することが、『古事記』理解のカギといえます。すなわち、国体を理解するカギなのです。
 繰り返しますが、私たち一人ひとりが高天原の神々の神性を宿しているのです。つまりこれらの神々が私たちの心の中に内在しているといえます。この内在している神を体得すれは、私たちと高天庶の神々がつながり、神々の大御心を継承しておられる天皇とつながり、同じ神々から生まれた国土自然ともつながっていることに気づけるはずです。このようなつながりの精神が「和」なのです
 古事記の「和」には三つの側面が考えられます。
 第一に人間と自然との「和」です。人間も自然も伊邪那岐命と伊邪那美命がお生みになったものなのです。私たちは、自然は同じ親である神々から生まれた同胞だと感じているのです。そして、自然の恵みをいただき、自然に守られて生活しているのですから、自然に対して慈しみの感情を持っでいます。このように、私たちは自然と共存しでいるわけです。ここに、人間と自然の「和」が成立します。
 もっとも、自然は時として荒れ、人間に損害を与えることもしはしばです。しかし、それにもかかわらず自然を敵として恨んだりするのではなく、自然災害は仕方のないことだと日本人はあきらめるのです。(※自然の動物も同じで、脅威が過ぎ去るまでじっと耐えます。ですが、一神教ではそうではありませんが、地球環境の崩壊と共に、人類は地球の生命体を連れて、新しい母星に連れて行く使命が有り、そのためには積極的に自然を観察し、科学知識を増やし、自然を改良する積極性が必要です。)
 私たちにとって自然は、ユダヤ・キリスト教的な一神教にあるように、神が人間のために与えてくれたものでもなく、人間の都合のために征服してもよい対象ではありません。一神教的自然観の国では、人間の利益を優先して自然との調和に欠けた開発が行われています。
 たとえば、かつてのソ連(唯物論の国、無神論の国)では、農業増産のための自然改造と称してアラル海への水流を変更して農業用水に利用しょうとした結果、湖は干上がり湖の生態系が完全に破壊されました。アラル海の自然は元に戻ることはありませんでした。また、最近の例では、中国の環境破壊による砂漠化の進行や、河川や空気の汚染には常軌を逸したものがあります。このように、自然に対して畏敬の念が無いと自然環境は破壊されつくし、やがで人間が住めなくなってしまうでしょう。しかし、自然が人間と同胞であるわが国では、このような環境破壊は起こりえません。
 第二は、人間と人間との「和」です
 各自が個性に相応しい仕事に就き、その仕事に刻苦勉励する、すなわち個性を存分に発揮する。これが分掌・分業です。たとえばオーケストラを考えると理解しやすいでしょう。一つ一つの楽器が奏でる音色は異なっているが、オーケストラ全体として調和された音楽を作り上げているのです。このように、個と全体が調和するのです。その前提は、個がそれぞれの違った役割を果たすことにあります。それぞれが違った役割であるが故に、全体が調和することができるのです。ですから、調和を達成するには皆が同じことをすることでは決してありません
 この点は非常に重要です。皆が同じでないと調和がもたらされないとする考えは、間違っているのです。たとえば、学校教育において皆を同じにしようとの試みが現に行われています。競争で優劣をつけないようにするために、成績評価ではクラス全員を「3」にしたり、百メートル競走においで最後は全員が手をつないでゴールするといった類のことです。言うまでもないことですが、このような状況は決して調和が取れたものとはいえず、ましでや平等が達成されたわけでもありません。差がないことが調和であり平等であると考えているのですが、この様な見方は、物質的な考え方です。目に見える物質的なものだけでは調和も平等も決して達成されないのです。
 重要なことは、個性は決して同じでないということです。ということは、人間は誰しも決して同じではないのです。一人ひとりが違っているのです。しかし、違いは決して上下の関係ではありません。一人ひとりの個性も価値は平等であり、個性が発揮された社会は調和のとれた社会であり、平等な社会なのです。
 大和時代の氏上の制度は、職業を中心とする集団が天皇の下に集い、国家を構成していたのです。わが国の調和の社会とは、天皇の下に人と人、人と物とが一体となるところに、国民生活の特徴があるといえます。職業に精進することも、天皇に仕えることも、本質は同じと考えられていたのです。(※モーセの民も職業により部族が分けられていました。大和民族も同じ部族制だというのは、大和民族がイスラエル人の後裔であることの傍証でしょう。)
 第三に、国と国との「和」です
 わが国の和の精神が世界に広がり、それぞれの民族や国家が各々その分を守り特性を発揮する時、世界平和(世界の大調和)が実現されると考えることは、和の精神からして当然の帰結となります。
 この伝統的平和主義を世界に向けて発信した例として、第一次世界大戦の戦後処理を話し合ったパリ講和会議を取り上げます。わが国は新設されることになった国際連盟規約に人種差別撤廃条項を挿入すべしと強く主張しました。わが国は世界で最初に人種差別撤廃を唱えた国なのです。この日本の主張は会議で過半数の支持を得たのですが、英豪の強い拒絶の影響を受けて、アメリカのウイルソン大統領が全会一致が必要なとと執拗に妨害したため実現に至りませんでした。
 このわが国の人種平等の精神は、その後第二次大戦期に発生したナチスドイツのユダヤ人迫害問題に対しても発揮されました。一九三八年一二月に策定された「ユダヤ人対策要綱」は、ユダヤ人迫害は日本の長年の主張である人種平等精神に悖ること、ユダヤ人を他国人同様公平に取り扱うぺきことを謳っています。この綱領に従い、わが国は多くのユダヤ避難民を救済したのです。当時の同盟国ドイツに対しても、日本は国是たる人種平等政策を堂々と貫いたのです。私たちは、この正義に基づく人種平等政策を誇りに思うぺきです
 また、日本の支援の下に成立した満州国建国の理念は、五族協和でした。五族とは、当時満州に在住していた満州人、日本人、朝鮮人、漢人、蒙古人のことで、この五民族の共存と調和を謳ったものです。さらに、大東亜戦争中に公表された大東亜共栄圏構想もアジア諸国の大調和を目指したものでした。(※日本は敗戦間際に苦し紛れに、自己正当化の為に、人種差別撤廃や五族共和や大東亜共栄圏などを打ち出したという批判がありますが、それは間違いです。)
 
 ◆意外に自由だった江戸の封建社会
 江戸時代というと、封建社会で、士農工商の身分、階級が定まっていて、大名、代官、大地主たちが町民や農民を苦しめ、それに耐えかねて人々はしばしば一揆を起こした、こんなふうに述べている歴史書もたくさんあります。しかし、最近は研究が進み、士農工商を縦の関係ではなく横の関係として捉えて、江戸は役割分担社会だったとする見方が出てきました。そこから人々は意外に自由で、身分に縛られて経済的に苦しめられるような立場ではなかったという江戸時代の姿が明らかになってきています
 考えてみれば、もし人々が不自由で苦しい生活を強いられていたのならば、豊かな庶民文化が花開くはずはないのです。戦争がない平和な時代ですから、武士があまり威張るわけにもいかないのです。農民と町人の間にも上下の関係はありませんでした。
 江戸市中は武家屋敷と寺社屋敷が大半を占めていましたが、町人の住居区もしっかりと残されていました。町人は商人を中心として重要な産業を促進する役割を演じました。商業が発展するのは各地の物産が江戸に集まり、交流したという証でもありました。
 近代以前の封建的な暗黒の時代。そういう観念が江戸時代の暗いイメージをつくり上げているのでしょう。歴史を観念で見てはなりません。イデオロギーで思い込んではなりません。
 将軍や大名は決して大土地所有者ではないのです。領内から徴税して、それでもって行政に当たる、そういう立場でした土地を所有していたのは町人や農民でした。その土地を自由に売買することができました。土地を売ってその代金を資金にし、たとえば酒造や織物の仕事をすることもできました。人々は農奴のように身分を固定されていたわけではなく、資本家として活動することもできたのです。
 代官は、農事改良を指導したり、村民教化に努めたりして、生産を上げ、徴税を滞りなく行う地方公務員といったところが代官の役割だったのです。
 幕府の政治も将軍の独裁などではなく、評定(会議)によって行われました。「百姓は大御たから宝」という農民重視の思想が根底にあって、さまざまな施策がとられました。租税は、作柄を検分して相応の年貢を定める検見制、実績にもとづいて一定の年貢を定める定免制など、無理のない額に定められていました
 農民は副業を営むことができ、それは課税されませんでした。だから、幕末の寛永のころには、農民が納める年貢率は全収入の一剖、多くて三割になつていました。その年貢は主に、人々の暮らしをよくするための公共施設の基盤整備に使われました。大河川の氾濫に備えた堤防の構築や、物資輸送のための道路整備や港湾施設の拡充などです
 武士の特権に「斬り捨て御免」というのがありました。しかし、これも中期以降は不可能になります。武士に非があれば、奉行所が処分しました
 農村では百姓一揆が多発したといわれます。しかし、この一揆は幕府や藩を転覆させようとする暴力的な抵抗運動ではありません。農民たちが自分たちの要求を幕府や藩主に突き付ける運動でした。あくまで日本人のお互いの理解力、信頼関係の中で行われたことです。
 ですから、百姓一揆が起こつても、それが一方的に抑えられ、処断されるようなことはありませんでした。事情やいきさつがくわしく調べられ、原因をつくつた責任者は罷免や没収などの改易に処せられました。一揆を起こした側も、首謀者以外は無罪放免になるのがほとんどでした
 士農工商は当初、社会安定のために設けられました。しかし、実際は流動化していきました。人々はそれぞれにさまざまな生き方をしているのですから、そうなつていくのは当然です。
 石田梅岩は農民の出です。しかし彼は、京の商人の家に奉公に行きました。そこで勉強し、商人や農民が武士に劣るものでないことを知って、上下関係を重んじる朱子学を中心に、仏教や老荘を取り入れ、それぞれに社会的職分があって、その役割には隔てがないことを説き、心学の祖といわれるようになりました。
 長岡藩では藩士が支配を商人に委ね、農村復興に効果を上げました。
 農民でも名主になり、帯刀を認められることがありましたし、姓を公称することもできました。武士である御家人の子が町家に養子に入ったり、武家と富農が婚姻関係を結ぶこともよくありました。庶民がお金で武士の身分を写っこともありました。学問、武芸、技術に秀でていれば、士分に取り立てられることもあったのです。農民出身で武士になつた問宮林蔵や徳がその例です。身分は絶対的なものではなかったのです。
 
 ◇ ◇ 明治維新の最大のポイントは律令制の復活にあった
 『日本国史 田中英道著』より抜粋しました。神仏混交や親鸞・法然などに対する評価は個人的には異なりますが、日高見国以外の部分においては、渡部昇一氏と共通する記述であるのに驚かされます。GHQにより、戦勝国により、「国史」を奪われた日本にとって重要な第一ステップではないでしょうか。
 明治維新の王政復古からはじまる天皇親政の実態は奈良時代の律令制の復活です。明治新政府は近代化した西洋の憲法を模倣し、政治システムそのものも西洋の模倣といわれますが、基本は大宝律令制に倣っています。
 奈良時代までの日本は天皇を中心とした中央集権の形をとりました。それが平安時代以降、地方分権の方向に進みましたが、明治維新の版籍奉還と廃藩置県で土地をすべて天皇に返すことになり、再び中央集権という形になつたのです。それに合わせて改めて中央集権国家としての法律、機構をつくる必要が生じました。そのときに律令制が用いられたのです。
 それは明治初期の行政機構を見れば明らかです。太政官、神祇官といった律令制の二宮入省を模して、二官六省制が発足しました。最近まで大蔵省という役所がありましたが、大蔵省は律令制にある言葉です。文部省もそうです。省とつけるのは律令制の二官八省の名残りです。
 明治二(一八六九)年につくられた主な組織は、輔相・議定・参与といったものです。組織に役職の名前が付いているのも律令制とよく似ています。輔相となったのは三条実美です。この人は貴族で天皇家の一員です。議定は岩倉具視、徳大寺実則、鍋島直正。参与が東久世、木戸孝允、大久保利通、後藤象二郎、副島種臣、板垣退助と薩長勢力がここに入ってきます。
 明治四(一八七一)年に、太政官は正院、左院、右院の三院に分けられ、その下に八省を置きました。新しい状況に合わせて、民部省から公部省が分離され、刑部省が司法省へ改組されるなどの改変がありました。
 明治八(一八七五)年になると、左院は元老院となって立法を、右院は大審院となつて司法を司ることになりました。ここに三権分立のおおよその形が出来上がりました。府県長官による地方官会議も設置されて、新しい国づくりの形が整いました。
 律令制を真似してはじまったこの新しい行政機構が、自由民権運動や憲法制定などにうまく適応していきました。明治維新というと日本の近代化が強訴されますが、実は律令制が復活していたのです。これがもっとも重要なポイントです
 ダーウィンの進化論にマルクス主義が結びついて西洋で生まれた進歩史観という歴史の見方があります。これは時代が新しくなるにしたがって人間も進歩するという考え方をします。だから現代が一番発達していると考えるわけですが、これは錯覚にすぎません。少なくとも日本ではそういう考え方はしません
 日本は自然とともに生きてきた歴史をもつ国です。人間のあり方は自然と同じだからそう簡単には変わらないという見方をします。人間とは自然的存在であり、本来変わらないものなのです。変わらないけれど、自然と折り合いつつ改良していくことができると考えます。それゆえ明治維新のときも、古いものを残しながら、その上に新しいものを適用していくという動きになつたのです。
 新政府と律令制とのかかわりを象徴的に示しているのが高札です。高札とは法令を板に書いて往来などに掲示して民衆に周知させる方法で、律令制が取り入れられた古代から明治初期まで続いていました。明治の最初の法律は、この高札という形で出されました。
 このように、大政奉還とは日本型律令制の復活だったのです。それ以前の長い期間、権力を中心とした政治が続いていましたが、今後は権威を中心として新たに歩もうと決めたというのが大政奉還だったのです