4−2.古代日本と流浪のユダヤ人



 古代日本には、陸と海のシルクロードを通じて、中東、アッシリア、インドなどから多くの民が迫害を逃れ渡来している。多くの民族を束ねるために、個別の宗教の神よりも“和を持って貴しとする”精神により、天皇制を通じて一つにまとまった。神社を守る二頭の狛犬ですが、一頭は一角獣でエフライムを、もう一頭はライオンでユダ族を表しており、日本はイスラエルの正統な末裔であること、神ヤハウエの民=大和民族であることを表しています。ユダヤ人の渡来の様子は下記のとおりです。尚、画像及び景教については[聖書の国日本]を参照しています。

  第一波:アヌンナキの神々の民が移住してきた。
  第二波:前721年、アッシリアにより北イスラエル滅亡に伴い、
      十支族の正当な後裔あるエフライムが渡来。
  第三波:前660年、神武天皇即位。
      南ユダ王国滅亡を予見し、ユダヤ人・イザヤの民が日本に渡来。
  第四波:前612年、新バビロン建国。
      前587年、南ユダ王国滅亡。ユダヤ人のバビロン捕囚。
      前515年、ユダヤ人捕囚を解かれる。
  第五波:後199年、トマスの原始キリスト教徒・弓月国「巧満王」が渡来。
  第六波:後283年、弓月国から巧満王の子等、秦氏一族が渡来。
      後538年、仏教伝来、メシア密教徒が日本に渡来。
      後651年頃、弓月国は秦により亡ぼされる。

 トマスの原始キリスト教はアッシリアにて広まり、現在アッシリアの人の殆どが景教徒でもあることから、まずはアッシリアについて概略の説明をします。
 アッシリアの最高神・アッシュール神は、エンリルの長子で正統な王位継承者・ニヌルタとエンリルの末子・アダトによる新しい展開で、有翼円盤をシンボルとした(ニビル星人の紹介)。この有翼円盤は、アクエンアテンのアテン神信仰、ペルシャのゾロアスター教へと引き継がれます。
 アッシリアは、サルゴン二世(在位前721〜705年)の時に、イスラエル王国を属州とし、彼らの捕囚とします。その後、エサルハンド王(在位前680〜669年)の時に、古代オリエントの二大中心地、エジプトとバビロニアを統一し、これを大まかにアッシリア地方と呼ぶことにします。そして、新バビロニアのネブカドネザル二世に滅ぼされますが、アッシリア人の強制移住もあったでしょうが、アッシリア地方にそのまま定住することになります。新バビロニアの捕囚とされたユダヤ人は、そこでタルムードを編纂しますが、その中に悪魔教の基盤となる「カナンの遺言」が記載されており、このことからもユダヤ人とカナン族が交わっている事は明らかです。以後、ユダヤ人になりすましたカナン人が、裏十戒を記述し、共産主義を人類に与え、二度の世界大戦へと導くのです。

 イエスの死後、二年目には使徒トマスがアッシリアで伝道を行っている。アッシリア東方教会では伝統的に、トマスを初代の大主教と呼んでいる。その後、マリアを神として崇拝することを認めないネトリウスが431年のエフェソ公会議で異端とされ、これをアッシリア東方教会が受け入れて景教が成立するが、同時にキリスト教による迫害が始まる。尚、1997年、ヨハネ・パウロ二世と景教は互いに許しあうことで和解している。しかし、マリア崇拝については、未だに意見が異なっているのが実情です。聖書のアダムの物語以来、キリスト教には過度の女性蔑視の伝統があり、これに反発して左翼革命と混交しウーマンリブが台頭し、ジェンダーフリー、男女共同参画、人間性無視の男女平等へと突き進めば、自由の国アメリカは共産主義と化してしまうことでしょう。

 トマスの原始キリスト教徒であるアッシリアのクン・ユエ一族が、199年に弓月国から日本に渡来します。弓月国の王「功満」が、仲哀天皇の6年に日本の朝廷を公式訪問したと[新撰姓氏録]に記してあります。この「弓月」は日本語では「ゆづき」とよみますが、中国では「クン・ユエ」と発音される。更に、第十五代応神天皇の第十四年、283年に、功満の子が大集団を率いて日本に渡来した。そして、5世紀後半の雄略天皇の時代に、18670人の人口があったと[新撰姓氏録]に記してあります。
 弓月の子孫は苗字を「秦」とし、彼らの大半は養蚕と絹織物に従事し、シルクロードにおける絹の交易はユダヤ人とキリスト教徒が独占していました。おそらく、秦氏の中にも流浪のユダヤ人が混ざっており、高度な医療技術、土木技術、他を備えた技術集団だった。
     
     
 唐の時代、景教の教会は「大秦寺」と呼ばれていた。この大秦は、ローマ帝国のアッシリア地方のことで、景教徒は異端視されて以降、キリスト教からの迫害を逃れて、流浪のユダヤ人と共にシルクロード経由で日本に渡来していると考えられる。というのは、サタン・ダビデ(エンリルの長子マルドウクの正当な長子で王位継承者。ナブーのことです。エジプトでもナブやナブの神名を持つファラオを支配しました。新バビロニアは父マルドウクを追い出し、ナブーが支配する王国です。)は聖書の中においても自己以外の神々を認めず、イスラエル人には他の神々を偶像として破棄させている。同じく、自己の支配するイエスを人類の救世主とするカソリック以外は、すべて滅ぼしてしまおうとしたのです。キリスト教徒は、おうおうにして独善的で狭量、神には従順だが、キリスト教徒以外に対して横柄なのは、サタン・ナブーの性格そのものを反映しているからでしょう。

 秦氏が建てた日本の大酒神社には、「太秦明神」を祀っている。大酒はダビデのことで、「太秦」は秦一族のメシアのことですから、イエスもしくはダビデのことです。ところが、明神とは日本古来の神々ではなく、人間として民に尽くし崇められたがゆえに神として祀られた者達を意味しており、当時の秦氏にはイエスは人間の子として認識されていたことを物語っており、原始キリスト教徒だったと結論できる。
 京都・太秦の「元糺の森」には、「蚕の社」または「木島坐天照御霊神社」があり、元糺の池には三柱鳥居が立ち、昔は年に一度、秦氏をはじめ山背の人々は、ここに来て禊を行ったという。おそらく、太子一族もでしょう。秦氏一族の活動の中心は京都の山城(旧名・山背、平安移行は山城)だった。賀茂氏は秦氏一族で、皇室の祭儀に雅楽を担当し、秦氏一族から代々巫女を出している。
 原始仏教には、葬儀、病気平癒などの加持祈祷は存在しない。これは、インドや唐において仏教が景教やキリスト教を取り込んでしまったからなのです。内容は、薬師如来をイエスとし、観音菩薩を母マリアとするメシア化されてしまった景教・仏教で、これを密教といいます。日本式仏教の元祖です。

 秦河勝は聖徳太子の有能なブレーンで、秦一族全体が太子を支えていたと伝えられています。聖徳太子は、仏教派として、神道派の物部氏と戦ったとされています。その時の戦勝祈願はアロンの杖に生じた芽の物語にそっくりなのです。更に、太子と山背王の一族は残らず、同じ仏教派の蘇我氏により殺されている。そして、怨霊である聖徳太子を封印するために、イエスの生誕にそっくりな出生に加え、「日本仏教の教主」「仏教の聖人」として祀られている。どうしても、聖徳太子が当時の仏教=メシア景教・密教徒だとは納得できないのです。
 旧約の民・ユダヤ教国だった大和朝廷に、イエスを人間と見るトマスの原始キリスト教が秦氏一族により日本にもたらされた。その後、日本国内で大きな勢力を持つようになった技術者集団・秦氏の血統として聖徳太子が誕生したのではないでしょうか。その結果、物部氏に代わり秦氏一族が皇室の祭儀を取り仕切るようになった。
 その後、景教と密教が伝来し、イエスを救世主と祭り上げ、蘇我氏が、原始キリスト教一族、つまり太子と山背王一族を永遠に権力から追い出した。これはメシア仏教が原始キリスト教を異端視したことによる争いだと推測される。だからナブーは聖徳太子一族を根絶やしにしたのだ。また蘇我氏の「大化の改新」以降に、「秦」の姓を次々に変えていることが、政治的な状況を物語っている。つまり、秦氏一族は藤原一族に合流し、白村江の戦いで唐に敗れたヤマト国を守ろうとした。当時、唐は太宰府を拠点として、日本に漢字化、仏教化を強制した。加えて、仏教以外の外来宗教に徹底した弾圧を加えていた事もあり、[記紀]において、男神・天照大~を日本固有の女神とし、聖徳太子一族が滅びたと記述して日本の歴史を漢字で書いて唐に示しました。国名を日本と改め唐の迫害から日本を護ろうとしたのですが、直後唐は内乱から滅んでしまい、日本は解放されます。
  ※アラム語、ヘブライ語の意味
   「奈良」→「川」、「飛鳥」→「御住居」、「丸」→「閣下、殿様」

 その後、怨霊信仰を封じる目的で、メシア仏教が日本国内で盛んになる。
 ところが、善である聖徳太子を滅ぼした蘇我氏を悪とし、中臣氏(後の藤原氏)が実質的に政権を簒奪する。新羅からの渡来人と云われている中臣氏は、日本における自己の正当性を説明するために、古事記と日本書紀を改竄し、藤原一族の政治基盤を強固にした。イザヤの民の日本渡来を隠蔽、天照を女神とし、大国主命と神武天皇を敵対関係にし、聖徳太子を仏教の英雄に祀り上げた。そうしなければ、唐の進駐軍から迫害を受けていた。それ故、神道=ユダヤ教・原始キリスト教という認識が時代を経るに従い廃れていった。
 それでは、我が世の春を謳歌した藤原氏は、何故に天皇に取ってかわろうとしなかったのだろうか。皇室に娘を嫁がせ、荘園で私服を肥やし、まるで皇室に寄生する寄生虫のような存在だった。おそらく彼らは、居留地である日本に居心地よく居留出来ればよかったのだ。天皇に取って変われば、自らの存在が公になり、もしかしたら迫害され新羅まで逃げたように、日本でも迫害される可能性があったのではないか。彼らのやり方は、ワイマール憲法下のドイツに巣食っていた流浪のユダヤ人にそっくりなのです。おそらく、中臣氏は流浪のユダヤ人だったのだと推測されます。そして任那の日本府は、原始キリスト教もしくは景教徒の国だったのでしょう。

 その後、藤原氏の栄華のもとで神道が廃れ、これを復活させたのが、聖武天皇と光明皇后だったのだが、ところが国分寺は戸籍と檀家の事務所と化してしまい形骸化してしまう。その後、空海は「景教」を持ち帰り、最澄は「旧約聖書」を持ち帰ったといわれている。
 [続日本書紀]によれば、736年景教の牧師と医師が日本に渡来。聖武天皇より位を授けられている。聖武天皇による「国分寺建立の詔」(741年)の一節に「あまねく景福を求め・・・」と有り、さらに国分寺を「法華滅罪」の寺と呼んでいる。つまり、景教の景福により、滅罪を行うという意味であり、光明皇后のマザーテレサ的な活躍からも景教の影響が大きかったことが伺われる。つまり、古代日本は怨霊信仰と密教、景教、ユダヤ教・原始キリスト教の三つ巴として理解されると思います。

 ザビエルにより日本にキリスト教が伝えられたが、当時の日本国内では各宗派が争うことなく共存しており、政治的治安を乱すことは殆ど無かった。ところが、唯一絶対神を崇めるキリスト教は、他の宗教を認めずその頑迷さ故に政治的な不安を生じ、個人的な宗教を禁じたのでは無く、国益を守るためにキリスト教禁止令が出された。その後、隠れキリシタンとなった人々により、景教の礼拝や儀式と悟られないように仏教のように見せかけてしまった。それ故、メシア密教から、景教的な要素が削除され、現在の日本式仏教=葬式仏教として生き残った。このように日本式仏教は、国内では単に仏教と呼ばれていますが、実は甚だ大きな変遷を受けているのです。
       
 古代日本において、ローマをキリスト教国化し暗黒の中世に至ったように、日本にメシア・キリスト教を持ち込み、聖徳太子信仰から日本を一挙にキリスト教国にしようと画策したのでしょうが、皇室を崇敬する信長・秀吉により阻止されました。次に、共産主義革命を日本に持ち込もうとしたが、日清日露戦争により阻止された。しかし、大東亜戦争後、GHQによりキリスト教も共産主義思想までもが日本に広まり、日本国憲法を強要されてしまったのです。それは、唐の日本支配により、日本固有の文字と宗教が禁止されたのと同じでした。(追記 2015/11/16 北)



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