4-27.ニビル星と地球は永遠の双子(2)



  ⇒[備忘録:(和語忘備録目次).ニビル星と地球は永遠の双子]へ

  1. 日高見国と縄文時代
    ウガヤフキアエズ王朝の謎!?
    火星人類について
  2. 大和朝廷は大倭と日高見国の統一王朝
    日本の三種の神器
    日本は海のシルクロードの終着点であり、文明の発信地でもあった
  3. 出雲の銅剣銅鐸と×印
    諏訪大社の御頭祭
    剣山と「×」印
    応神天皇 イザサワケ と 鼻に傷のあるイルカ
    黄泉・根の国とイザナミ
    オオゲツヒメの死と五穀・蚕
    イザナギから生れる神々
    出雲王朝で破棄された銅剣とスサノウ
  4. 日高見国は高木神の都
    神武天皇の系譜に見る日高国
    卜部氏族について
    常世国
    女王の都する邪馬台国はここにある
    考古資料が明かす。黥面文身・習俗
    なぜ媛踏鞴五十鈴媛を正妃に迎えたか
  5. 日本米は固有種
  6. 縄文人が福建省に移住した時期について
    約7千3百年前、鹿児島沖でアカホヤの大噴火
    東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)
  7. タカミムスビ神からアマテラスの統治へ
    弥生の大乱を鎮めた「五十男」
  8. 縄文から弥生時代へ
    ニギハヤヒはアマテル信仰
    島津家の家紋の意味
    天照大神の代替わり
  9. 世界最古 … 縄文の日本文明
    世界最古の巨石文化遺跡
    縄文時代の実情
  10. 鹿児島の諏訪神社と隼人、熊襲たち
  11. 縄文人の方が古代から生きている
    資料:YAP遺伝子について
    YAP遺伝子のE系統は陸のシルクロード経由で日本を目指して渡来した
  12. 補足:卑弥呼=ヘフジバ⇒「日高見国」へ
    「倭」の語源について
    『旧唐書 倭国・日本伝』
    三王朝の三種類の「やまと=神の民」 … 三王朝を経て「日本」
    ヘブル語の「日本 NIHON」
    ノアの呪いと自衛隊・専守防衛
    「富士」、「NIHON」と「NIPON」
    中臣氏の出自について
    「最後の審判」 … 「最期の審判」を超えて
    正法会と虹暈について--エノクの虹
    統一朝鮮は「最後の審判」の再来? … 筆者の危惧
  13. シュメル人の出自について
    シュメール人とドラヴィダ人はマレー半島を経由して日本へ
    古拙シュメル文字と神代文字は似ている … 源流は先代文明
    シュメルの医師と薬と占い師
  14. 「エヌマ・エリシユ」神話と洪水伝説
    シュメール人はどこに消えたのか?
    皇室に残る亀甲占い
    神農のルーツもシュメールにあった?
  15. 異星人が残したペトログラフ
    神代文字存在の証拠
  16. 神代文字を抹殺した黒い勢力
    ヒエタノアレモコロサレキ - 知りすぎた男の悲劇
    ベールに覆われた日本人の祖先の歴史
    “闇の封印”の外にある『契丹舌伝』
    契丹古伝:紀元前の中国史を書き替えた〝西から来た人″とは何か?
  17. 〝日本解体″を目にした天武天皇の憤慨
    唐の日本占領GHQは太宰府に置かれていた
  18. 稗田阿礼は神代文字の通訳だった
  19. サンカ文字と豊国文字と縄文文字
  20. 『最古の文字なのか』から抜粋
                            「2018/06/22 北」

1.日高見国と縄文時代

 今回、関東にあったとされる「日高見国」について、縄文時代の日本について『高天原は関東にあった』『日本の期限は日高見国にあった』他の資料から、検討しました。次月は、「ウガヤフキアエズ王朝の謎!?」について、検討したいと思います。それは、ムー文明の正当な後継者として、日本の縄文文明があり、プレアデス星人他の同盟星から地球の当地を受け継いだ二ビル星人の地球での文明(シュメル、イスラエル)と、縄文文明の統合の様子を知ることにより、現天上界の位置づけ、及び日本の位置づけが明確になると思われるからです。尚、ムー大陸の沈没時、地球軌道が大きくなり氷河期が訪れるので、氷河期でも火山活動が活発で温暖、しかも電磁エネルギーが豊かな日本がムー王家の移住先として選ばれても不思議ではない。
 ウガヤフキアエズ王朝の謎!?
 『日本・ユダヤ封印の古代史』の中で、神武天皇の存在が、聖書と日本神話の酷似した関係から証明されています。
ヤコブ=ニニギ, ヨセフ=山幸彦, エフライム=ウガヤフキアエズ,
エフライムの四男=ウガヤフキアエズの四男(神武天皇)
  
 つまり、日本の天皇家は、北イスラエルの十部族の王家であるエフライム(当時はイスラエルの正当な後継者)の血縁だということです。また、イザヤの子孫が日本に天孫降臨しておりユダ族とレビ族も日本に渡来し、エフライムとの統一王朝として大和朝廷を打ち立てた。
 一方、古史古伝の多くは、例えば、徐福(泰一族=原子キリスト教徒)が記したとされる宮下文書のなかで、ウガヤフキアエズ王朝は、51代続いたとされている。これまで、このウガヤフキアエズ王朝は、エフライムからイザヤまでの皇統なので、唐の支配下にある当時この事実を隠蔽する必要があったのだと推測していました。(⇒[ウガヤフキアエズ51代]参照)
 しかし、縄文文明とシュメルやイスラエル人との融合王国だったとも推測されます。つまり、大和朝廷が成立する以前、日本列島には出雲、九州王朝、東北や北海道のアイヌのアラバハキ、関東には縄文・イスラエルの統合王国が、存在していたのでしょう。
 尚、神武東征は、神武=エフライムの四男であれば、インド経由の海のシルクロードで日本に渡来する経緯を示すことになる。従って、古事記の神武東征は日本国内のことなので、ニギハヤヒの尊が高天原から東征する経緯とすり替えられたのだと思います。そうしなければ、天照大神ーヤハウエということが唐軍にバレてしまい、日本は滅ぼされかねなかった。
 
 火星人類について
 火星人類については、聖書では火により創造されたと記述されているが、ネアンデルタール人のことだと思う。ティアマトの二ビル星との衝突時、恐竜が存続できる環境だったティアマトとフェイトンが破壊されたが、同時に、フェイトンと同じくらいに誕生した古代火星においても巨大恐竜が生存していたと推測される。地球人類の創造があるのなら、当然、その前に火星人類が創造されていたはずです。尚、シッチン氏の指摘する火星守備隊からの300人の堕天使は、ネアンデルタール人の仲間だったと思います。そして、ネアンデルタール人はクロマニョン人と混交したが、ある時から一斉に火星へ帰還したと推測されます。

2.大和朝廷は大倭と日高見国の統一王朝

 「高天原は関東にあった」は、タケミカヅチが鹿島神宮の主祭神であり、また春日大社のそれでもある。別所もある。それだけでなく、鹿島(縄文早期には島だった)、香取両神宮が、『延喜式』でも伊勢神宮と並んで三代神宮の二つであり、それらが関東にある。考えてみれば、太陽が最初に昇るのを見ることができるのは関東であって、関西ではない。これは鹿島神宮の参道が本殿に向かっているのではなく、東の太陽の上る方に向かっていることでもわかる。この神宮こそ、太陽を遥拝する最初の神宮なのだ。そしてふりかえるとここから遠く富士山、つまり天の原が見える。高天原とは、そこから不二の山が見えるところを意味しよう。
 建御雷神の鎮座年代について、『社伝』の社例伝記では《大宮柱太敷立て始り給ふ事、時に神武天皇元年辛酉の歳なり》とあり、また、古文書の応永三十二年三月の目安にも同じように神武天皇元年に宮柱を建てた旨が記される。その他の書も同様である。その住居は建御雷神が「神上られた」(死亡された)後に、そのまま社殿として残り、神武天皇が勅祭されたことになる。こうして建御雷神は鹿島を本源とされ、しかも天日隅宮の作法をもって祀られたのである。その創祀は神武天皇紀元元年と伝えられているが、日本最古の神社のひとつとなっている
 『常陸国風土記』では、鹿島神宮に崇神天皇の御代におびただしい量の弊物が奉納されたことが記されている。またす、『延書式』神名帳にあっては、伊勢の神宮に次いで「神宮」号をもっていたのは、鹿島、香取の神宮だけであった。この崇神天皇の時代に、伊勢神宮がつくられたと言われるから、それより古いことになる
 だが紀(記紀の紀=日本書紀)だけでなく、『延書式祝詞』(大祓詞)や、『旧唐書』に表れる「大倭日高見国」という言葉は、日本が大倭と日高見国の二つの国が一緒になったもの、ということを示唆しており、まさに『常陸国風土記』に登場する日高見国と一致するのである。つまり日本は、まさに大倭といわれる西半分と、日高見国といわれた東半分とが一緒になったもの、という認識をされていたことを示している。縄文時代に、東半分が、圧倒的に人口が多かったことから、まさに大倭成立以前に、この東半分が日高見国として一つの国として成立していたことが理解されるのである。それは太陽神を崇拝する祭祀国家であっただろう。後の律令国家が、唐の律令制(皇帝の下に政治があり、その一部門として神祇がある)と異なり、神祇官と太政官制度に分かれるようになったが、その神祇官により祭政政治によって統一されていた、と考えられる(*これはイスラエル王国当時からの伝統です)。

 ☆ ☆ ☆ 日本の三種の神器について ☆ ☆ ☆ ☆ 

 「高天原」は不思議なことに「タカ・マガ・ハラ」と呼びます。「天」の呼び方として、「テン」「アメ」の他に「マガ」があるわけです。
 天照大神がニニギノミコトが天孫するときに、三種の神器「鏡」「剣」「玉」を授けられました。これが、日本の三種の神器です ── イスラエルの三種の神器とは別です。

 「八咫鏡」は大きな鏡とされています。

 「八咫烏」にも「八咫」が付いていますが、烏は古来太陽神の使いを意味し照ります。「八咫」を八寸とすると、意味が通じません。そこで、大きな烏というこじつけになったのかもしれません。しかも、八咫烏の足は三本なので、これまた意味不明に陥ってしまいます。
 我流ですが「ヤタ」を「ヤ田」とすれば「ヤハウェ国」という意味になるので、「八咫烏」は太陽神ヤハウェの使いと素直に読めてしまいます。しかも、天孫降臨は神武天皇即位以前なので、第三代ヤハウェ様の時代に相当するので、これを明示するために三本足なのだと推測されます。エジプトや漢時代の中国にも、三本足のカラスが描かれているし、アポロンの神話にも出現しています。つまり、太陽神アメン・ラーの使者ということを暗示しています。
 だから「八咫鏡」は「ヤハウェ国の鏡」という意味だろう。
 ここで、「鏡」をヘブライ語と、日本語で分解してみると、無理やりです … 。
 「かがみ」はWiKiでは「mar'á」で、m・アラ⇒男・太陽神 もしくは「マラ」は「男性」を意味している。一方。「かがみ」を「カ・神」と分解すれば、「火神/日神」とも意訳できる。明らかに、太陽の属性を意味する第四代ヤハウェを指し示しているのだと思います。結局「八咫鏡」は「第四大ヤハウェ … ユダヤ王権・原始キリスト教」を象徴していることになります。

 次に、勾玉です。

 勾玉は二個で一つの玉になります。あたかも、太極図(宇宙の原理 … ムー文明・プレアデスが発祥でしょう)そのものです。例えば、縄文時代は夫婦の契りの証として、男女で半欠けを一つずつ持っていました。これは、日本神話に出てくるイザナギ・イザナミの「男女和合」/「男女の相補正」を、表現しています。
 この勾玉を「まが玉」として、高天原の「まが」の使い方を当てはめると「天玉」となります。つまり、縄文人(プレアデスの直系ムー文明)との同盟の証なのだと思います。そして、「天」を「まが」と呼ぶのは、縄文時代からの習わしなのでしょう。
 最後に、「天」を「あま」と呼ぶのは、「天照大神」から、「高天原」「ヤハウェ国」「富士王朝」系の呼び習わしだと思います。結局、大和朝廷は、「富士王朝」「出雲神族」「縄文人」の融合した王国だということだと思います。(2020/06/13)

 最後に「天叢雲」or「草薙剣」 … イザナギ

 『ウエツフミ』によれば、サノオの命が出雲の国でヤマタノオロチを退治したときに、その体内から出てきたものです。スサノオは、「この剣を持って戦うと、いつも天空に群れ雲が発生する珍しい太刀なので、私のような者が持つべきではない」と、これを天照大神に献上します。
 スサノオの時代、サンカによれば、鞴があり鉄剣を作っていました。つまり、スサノウの鉄剣に「天」を付けて、出雲王国との同盟の証としたのでしょう。「天」を「あめ」と呼ぶのは、出雲神族の習わしなのでしょう。
 さて、「天叢雲」は出雲の王権の印なのだと思います。それを天照大神に献上するということは、王権を一つにする「エフライムの杖にユダ王権を重ねる」という意味でしょう。その証拠に、スサノウが王権を禅定した時、出雲王国のたくさんの国主が王権の印である銅剣に「☓」印を施して、土に埋めていた。銅剣の数は325本ですから、オオクニヌシは325の国からなっていたのでしょう。
 勾玉もまた縄文の王権の印であったのでしょう。
 まとめると、日本の三種の神器は、第四大ヤハウェの王権(ユダ族)・縄文の王権・第三大ヤハウェの王権(エフライム族)が合体したことの象徴だと考えられます。(2020/06/15 北)
 約2000年前に書かれた「契丹古伝」によれば、「漢字以前の文字を天字といい、天字以前を卜字、卜字というのは殷字であり、殷は元これ倭国(日本)」だと。 
 たとえば「イザヤ」は「ヤハウエの救い」という意味、「エレミヤ」は「ヤハウエは高くしたまわんことを」の意味だが、いずれもその人名に神の御名の3文字が入っている。その3文字が、「ニホン」を表すへブル語の5文字の真ん中に入っている。
 残りの2文字、すなわち「ニホン」の両端の文字は、両方ともへブル語アルファベットの「ヌン 」である(「」はその語尾形。英語のNに相当する)。ヘブル語アルファベットには、それ自体に意味があって、ヌンには「忠実」「忠実な相続者」の意味がある。(※大倭=日本にて、出雲系と高天原系の合体が成立し、旧約の予言通り、エフライムとユダが一つの杖「王権」で結ばれたのだから、正当な神の国の後継者である。)
 すなわち「ニホン」という呼び名には、ヤハウエを中心とし、そのまわりを忠実な者たちが取り囲むという国家理想が込められている。「われわれはヤハウエを中心とする国」の意味が入っているのだ。まさに古代日本にきたイスラエル人のメッセージが、そこから聞こえてくるようだ。また、NIHONは、縄文呼びでは「NIPON」。(「富士」、「NIHON」と「NIPON」)

 ◇ ◇ 日本は海のシルクロードの終着点であり、文明の発信地でもあった

 日本にはシュメル人、イスラエル人(ソロモン王の時代金属製錬技術者が渡来している、イザヤのユダヤ人トレビ族、十氏族 … )、ギリシャ人、フェニキア人等、海のシルクロード経由で渡来していた。おそらく、消えたシュメル人、消えた十氏族は、日本を目指したのだと思われます。なぜなら、YAP遺伝子が縄文人と同じだからです。それゆえ、日本神話には世界中の神話がちりばめられている。つまり、エフライム族である神武天皇はデカン高原を経由して、海路で日本に渡来した。同じく、イザヤの民も海路で日本に渡来した。結論として、その渡来地が日高(日高見国)と言うことです
 ただ、世界中にある大洪水神話については、記紀には明示されていないが、天之御中主が「ノア」であることから、大洪水直後からの記述だと考えれば大洪水が前提となっていると言うことでしょう。
 レブィ・ストロースは、一九八八年に日本における講演で、次のように言っていた。
 『古事記』はより文学的であるし、『日本書紀』はより学者風です。しかしスタイルこそ違え、どちらも比類のない巧みさをもって世界の神話の重要なテーマのすべてをまとめ上げています。そしておのおのの神話が、知らず知らずのうちに歴史に溶け込んでいます。こうして、「日本は広大な大陸の末端周辺部に位置し、また長く孤立していたにもかかわらず、そのもっとも古い文献が、他の地域ではバラバラの断片になった形でしか見られないさまざまな要素の完壁な綜合を示しえたのはなぜか」という、日本文化の根本的な問題が提起されます。
 つまり、日本には現在までも、一度日本に入ってきた文化が消えずに残されていくという特徴があります。それは、ペテログラフが神社の神域として立ち入り禁止の場所に多く存在していることからも、ムー文明王家の名残も残されているのでしょう。だから、この文化を縄文式に消化し、残していくという民族意識はムー文明からの伝統だったのだと思います。逆に言えば、ペテログラフのある場所に、神社を建設して縄文文明との融合のシンボルとしたのでしょう。そこで、思い出されるのが、モーセ様と当時の学者達が記したとされる聖書の暗号について、これが天上界の命令で解き明かされるまで、ユダヤ人は一字一句違わず神の言葉である聖書を守り続けました。日本の神社に保管されているペテログラフ、日本文明の一部として残されている外来文化のありようが、神の言葉を守り続けたユダヤ人とそっくりです。両者共に、神の導きとご計画なのだと思います


3.出雲に埋められていた銅剣、銅鐸すべてに付された×印

 出雲の荒神谷遺跡の銅剣では、×印が三二五本の銅剣の根元の片面に、三本は両面に×印がある。加茂岩倉遺跡の銅鐸には人間の顔にあたる重要な部分に×印がある。これについては、埋納期に祭器として機能を停止するため、もしくは工房のマークなどの説がある。さらに悪霊を拒み、魂が逃げないように閉じ込めたという説もある。これらは荒神谷遺跡と同じマークである。当時の×印が現代の否定的な意味か、単なるマークかはわかりかねるが、しかし、325本にわざわざつけられていることは、何らかの意志的な行為である。ただし、決して美的な刻み方ではないところを見ると、これらは否定的な意味でつけられたと考えられる。つまり、武器であれ祭器であれ、もう使わない、使えないものだという意志表示である。(*×印を見ると、最初の製造時に付けられたものではなく、地中に埋める時に付けたものだと思われる。)
 ところで、「国譲り」の神話では、建御雷神(※日高見国では製鉄が行われており鉄剣を持っていた。平野には豊かに水と水田があり、砂鉄からは農具だけではなく、武器も造られ、鉄剣は出雲をしのぐものであった。)に敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き寵もって諏訪神社の祭神になったとされている。

❑.✕の意味:新しい命の発生 … 『出雲と蘇我王国(大元出版)』より

 ✕印の意味は、剣の交差による交戦でなはい。古代には、新しい命が発生する尊い印だとされていた。また、☓印はクナト大神・男女の交わりを示し、再生を意味している。日本以外の古墳の岩にも、この生命の再生や発生の印として✕印が描かれている。(2022/6/11)


 ◇ ◇ 出雲王朝で破棄された銅剣とスサノウ ◇ ◇

 不思議なことに、弥生文化の分布と青銅器の分布は必ずしも一致しない。青銅器文化は九州北部から中国、四国、近故に集中している。それに日本の青銅器は銅剣・銅矛・銅鐸などほとんどが武器なのに対し、初期の鉄器は農具や工具が中心である。また、海人族の拠点である関東の鹿島・香取地域の事象を記した『常陸国風土記』には、この地方で古代から鉄が製造されていたことを物語る記述がある。弥生と青銅を直接的に結びつけるには、どう考えても無理が出てくる。
 そうなると考えられるのは、鉄器を運んだ日高見族とは別の外来民族が青銅器文化を持って、紀元前三〇〇年ごろ日本に渡ってきた、ということである。それこそが大陸から渡来した「銅鐸部族」であり、その部族が古代出雲王朝を打ち立てて西日本の一大勢力となったと推測する。
 この銅鐸部族のルートについては、中細形銅剣からも辿ることができる。これらの銅剣がすべて中細形鋼剣だった。
 昭和五十九年(一九八四)、島根県斐川町の荒神谷遺跡から、三百五十八本もの銅剣が見つかり、翌昭和六十年には谷の奥七メートルの斜面から銅矛十六本と銅鐸六個が出土している。さらに平成八年(一九九六)には、荒神谷からわずか三・四キロの加茂岩倉遺跡から史上最多の三十九個の銅鐸が発見された。これは出雲に青銅器文化を持った部族が存在していたというなによりの証拠である。これらの銅剣は土に埋められ、「×」印が施されていた(⇒[出雲に埋められていた銅剣、銅鐸すべてに付された×印])。(*×印はシュメル文字では、数字の10であり、若しくは数字の5に近い。つまり、10の神=太陽神ウツに捧げた、主神がウツに変わったという意味ではないかと思う。2018/04/26)
 中細形銅剣は、大陸では南朝鮮をはじめ中国の山東省から雲南省を越え、インドシナ半島にまで広く分布している戦闘用のクリス形銅剣とまったく同じものなのである。
 中国大陸で精巧な青銅器や目を見張るような玉製品が現われるのは、殷王朝の興った紀元前一六〇〇年ごろのことだ。これまで、殷墟をはじめ各遺跡から発掘された代表的な青銅器というと、宗廟に供えられた祭器類ばかりが注目を集めているが、同時に大量の武器も発見されている。
 とくに戦闘用の馬車や甲冑(鎧と兜)と銅剣などの存在は、殷・周時代の国家組織を知るうえからもきわめて重要である。なぜならそれら大量の武器は、両王朝が騎馬部族集団であったことを如実に物語っているからである。
 これまでに入手した資料によると、朝鮮半島では青銅製の鎧と兜は見つかっていないが、中細形銅剣は類似のものが見つかっている。なお、日本では出雲だけではなく、吉野ヶ里遺跡を初めとして九州北部からも見つかっている(*海流から、朝鮮→日本ではない。逆もあり得る)。

 鹿島神宮の宝物館に、茨城県唯一の国宝「直刀」がある。全長2.71メートルで、普通の刀剣の約三倍もある。制作年代は、2100~1300年前と言われ、平安時代のものと推定されている。この刀は、「師霊剣(ふつのみたまのつふぎ)」と名付けられており、建御雷神の神剣であることを示している。俗に「平国の剣」と呼ばれ、一閃すればたちどころに国が平和になる、という意味である。刀を一閃すれば、ふっと音がし、その昔で刀の霊魂が働き、すべての紛争が戦わずして解決するし、その威力が示されるという。
 布都御魂は神武天皇に下される前は鹿島神宮の主神であるタケミカヅチのものであり、布都御魂が石上神宮に安置され鹿島に戻らなかったために作られた二代目が、現在鹿島に伝わる布都御魂剣であるという。
  
 

応神天皇 イザサワケ と 鼻に傷のあるイルカ

 福井県の気比大社のイザサワケが、ホムタワケの夢に現れ、名を換えようと申し出た。そうしたら、鼻の頭に傷のあるイルカが大量に集まってきた。つまり、海神を意味するイルカの鼻の頭、つまりスサノウに傷があるというのだから、銅剣に×印と同じ意味だと思う。スサノウを封じたという事だ。(2019/02/21)
 

黄泉・根の国とイザナミ

 話は逸れるが、イザナミは火之神を産んで、亡くなった。イザナギがこれを憎み、火之神を斬り殺すと、そこから様々な火之神や剱の神が誕生している。つまり、イザヤ一団が日本に渡来した地域には、火山があり、製鉄が起こったと云うことだろう。この地域は当然、日高見国を含む高天原と云うことになる。元々縄文文明があり、都市の中心には墓があったので、すでに死者と生者が生活していた。シュメルの黄泉の国は、代々女王が統治しており、世捨て人や隠者、犯罪者、政界から追われたものの駆け込み寺の役割もあり、二度と戻れぬ死者の国とされていた(ただし、エンリルが強姦罪で皇位を剥奪され、生きたまま黄泉の国に下ったが、彼女を妻とすることで罪が晴れた。そこで、エンリルの代わりに月神の長女が黄泉に下ることで、エンリルは生者の国に戻り、皇位を取り戻している。尚、女神イナンナの姉である月神の長女は、黄泉の女王に就任している。)。しかし、初代黄泉の国の女王は天才科学者・医療者のニンフルサグであり、そこには生者の国よりも高度な医療・科学技術が蓄積されており、生者の国を影から支援していた。つまり、イザナギがイザナミが黄泉に出向き、亡くなったイザナミを連れ戻そうとした時の黄泉の王は縄文文明の王であったことでしょう。そして、イザナギとイザナミが決別したことにより、高天原系の黄泉はイザナミの統治する国となった上に、生者と死者の役割を明らかにして、生者と死者の境を明確に別けたのです。それは、ヤハウエの決断でもあった。おそらく、イザナミは日本に渡来する前に亡くなり、その子ら(姉=ヤハウエの巫女=太陽神の巫女=日巫女と弟二人)が日本に渡来しているので、霊体として黄泉の女王に就任したのだと推測されます。
 また、大国主命が統治を高天原に禅譲し、自らは出雲国にて黄泉の国を司るとした。この出雲系の黄泉の国は「根の国」であり、高天原系の黄泉の国とは別である。当然、根の国に集う神々も別で、それは、大国主命が統治していた時代、銅剣に×印を施し地下に埋めた氏神達であり、神議に集うメンバーです。しかし、彼ら以後の子孫の神々は高天原に属しており、根の国のメンバーではないのです。

イザナギから生れる神々

 黄泉から戻ったイザナギは、禊ぎを行うと衣類などから神々が誕生する。それは、黄泉の国から連れてきた霊体・神々とその生きた子孫を従えて、現世に帰還したと云うことだろう。この場合の黄泉はユダの神々で、皇統の一族では無く、高天原への移住を行う為の技術・医療・武闘・関連の部族のことだろう。
 そして、イザナギの肉体・両目・鼻から、肉親の後継者である三貴紳が誕生する。もちろん、イザナミの子だが、聖書にあるように聖書の皇統は男系男子であり、この伝統と同じ記述法に従っている。つまり、伊弉諾伊弉冉の結婚により、男性と女性の役割が与えられ、お互いに補い合う関係となった。そして、三貴紳の記述から、皇統は男系男子であると規定したのだ。

オオゲツヒメの死と五穀・蚕

 記紀には五穀と蚕の生成について、下記の記述がある。
 「スサノウ尊が食べ物を大気都比売神(おおげつひめ)に乞うた。そして大気都比売が、鼻や口や尻から、さまざまなおいしい物を取り出し、さまざまに調理し盛り付けて差し出した時に、 速須佐之男命は、その様子を立ちうかがって、食べ物を穢けがして差し出すのだと思い、すぐさまその大気都比売神を殺した。すると、殺された神の身体に成った物は、頭に蚕がなり、二つの目に稲種がなり、二つの耳に粟がなり、鼻に小豆がなり、陰部に麦がなり、尻に大豆がなった。そこで、神産巣日御祖命は、これらを取らせて種とした。」
 縄文時代にすでに五穀があることから、オオゲツヒメは縄文系の食料や蚕の神だったのだろう。これを剣で切ったのは、オオゲツヒメ集団を支配下に置いたという意味でしょう。そして、彼らの五穀や蚕産業を高天原から、平地の豊葦原の国に移植したと考えられる
 
 話を元に戻すと、諏訪大社は「国譲り」の伝承を起源としており、この神社で名高いのは「御柱祭」(式年造営御柱大祭)である。五穀豊穣を祈念して七年に一度行われるが、建御名方のイメージにふさわしい勇壮な祭りで知られている。ここで注目されるのは、御柱祭りの柱に必ず×印が刻されるという事実ある。この木は御神木であり、本来はそのような瑕をつけることがあってはならない。しかし、大社の当事者には、ただの習慣としてしか認識されておらず、すでにその行為の意味は忘れられているようである。柱に人が乗る際の足がかりとなる刻み、ということだが、しかし、神木にわざわざ刻むということは、何らかの意味があるのだ。荒神谷遺跡の銅剣や、加茂岩倉遺跡の銅鐸と同様の印をつけるとすれば、出雲のそれらと共通の意味があると思われる(*尚、×印はシュメル文字では、数字の10であり、若しくは数字の5に近い。つまり、10の神=太陽神ウツに捧げた、主神がウツに変わったという意味ではないかと思う。2018/04/26)。すなわち、御神木に×印を刻む行為も、銅剣、鋼矛、銅鐸と同様に、「高天原」系の神々にその「権威」を譲る、という意味を持ち、御神木はその象徴といえる
 また、三五八本という数のことであるが、当然、参加した氏族たちが共同して提出したものと想定され、出雲地方の神社の総数と出土した銅剣の本数との関連があると思われる。『延書式』の「式内社」として認められた出雲の神社は一八六社あり、それはほぼ三五八の半数である。一社が二本ずつ、ということが、この数の意味を示しているのではないか。それは神社ごとの神々が古い時代の地域の神々であり、それが氏神として銅剣の供出に関係しているように思える。つまり荒神谷の三五八本という、例外的な数の多さは「葦原中国」の平定に伴い、意図的に数を多く揃えたということが出来よう。
 大国主命の謙虚さは、敗れた出雲の側が、自らの祭器である銅剣を大量に譲ろうとする観念の表れといっていい。このように『古事記』では、大国主命は天から最後に使者としてやってきた剣神の威力には対抗出来ずに、ついに長い間の抵抗をやめて、「国譲り」をするという経過をたどるのである。しかし、そのことで、大国主命が偉大な神としての力と資格を喪ったことにはなっていない。『古事記』には大国主命が「国譲り」を承知したのに続いて《また僕が子等、百八十神は、すなわち八重事代主神、神の御尾前となりて仕え奉らば、違ふ神はあらじ》と言っている。これは彼らが最初に「国譲り」を承知した事代主にあと押しされ、また先導されて奉仕することを約束したということである。ここに百八十神とあるが、三五八本の銅剣はほぼその倍にあたる。するとこの数は、出雲側の神々が二本ずつ奉ったことになる
 出雲大社で有名なのは、神在祭である。神在祭とは、全国から集まる神々(※出雲の神々のこと。高天原の神々は八百神です)をお迎えするという神迎祭ともいう。旧暦の十月十日の夜(※×は10の意味の傍証で、太陽神=ウツ神)、大国主命の「国譲り神話」の舞台であった稲佐の浜に龍蛇神に導かれてあらわれるとされる。その夜、浜では丁重にお迎えする神事がとり行われる。神々は出雲滞荏中「神議り=すなわち、高天原と同じ合議制」で縁組みをはじめ、もろもろの決め事をするのである。ここで「葦原中国」の神々は相談をしたに違いない。まさに、大国主命の「国譲り」について、出雲の神々が「神議り」をして、その意志が決定されたのである。
 尚、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治めると大国主命は宣言している。譲るのは出雲の国ではなく、「葦原中国」(*中国から近畿+越から諏訪までを指す)そのもの、すなわち倭国の支配権という意味になる。このように支配者としては最初に出雲族がおり、天孫族に譲った構図になっている。つまり、天孫族は、関東から東北に加え、「葦原中国」を併合したと言うこと。
 また『日本書紀』の第二の一書は、「国譲り」に関して独特の話を載せている。大国主命のもとに「高天原」のふたりの神(*鹿島神宮と香取神宮の神祭の二人)がきて、《あなたの国を天神に差し上げる気があるか》と尋ねると、《お前たちは私に従うために来たと思っていたのに、何を言い出すのか》と、きっぱりはねつけるのである。すると、「高天原」の高皇産霊尊は、大穴牟遅神=大国主命の言葉を受け、国を譲ってもらうための条件を示す。その一番の条件は、大国主命は、以後冥界を治めるというものである。さらに、大穴牟遅神=大国主命の宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどを条件に加える。大穴牟遅神はその条件に満足し、「根の国」に降るのである。この「根の国」とは、つまり出雲のことである
 平成十二年(2000年)、出雲大社の発掘により、出雲大社の本殿遺構の柱材として、杉の大材三本を合わせて一つの柱とする、正面中央の棟持柱にあたる大きな柱が見出された。これは鎌倉時代の1248年に遷宮されたときの本殿の柱材であったと考えられている。一本が110センチメートルもある柱が三本も束ねられており、その構造が、もともとの出雲大社の平面図として伝わる『金輪御造営差図』の表現と一致するという、かつての巨大な出雲大社が、存在した証が明らかにされた。
 ここから、もともとの出雲大社が、『記紀』に記された、大国主命が「国譲り」の代償に望んだ大きな神殿を思わせることになった。またここに「越の八口を平げだ」とあるが、「口」とは蛇を指す言葉となっている。『古事記』では、須佐之男が退治した八岐大蛇のことを「越のやまとのおろち」というが、「越の八口」というのは、まさに須佐之男の退治した越の八岐大蛇と同義語であると思われる。そうすると、八岐大蛇を退治したのは須佐之男ではなく、『出雲風土記』では大国主命ということになる
 須佐之男が八岐大蛇を退治するという偉業のあと、この怪物の尾の一つの中から、皇室の三種の神器のひとつとなる草薙の剣が発見され、それを天照大神に献上することによって、皇室が統治者となる秩序がこの国に確立する。これに、重大な寄与を果たしたのが大国主命である。となると、やはり銅剣を捧げるという行為と、統治者の決定とを関連して考えることができる。少なくとも出雲の人々は、須佐之男と大国主命考重ねて考えていた。これは、剣というものが、常に統治者のシンボルとなるべきで、それを譲るものは剣を捧げるもの、というひとつの考えがあったことを示しているのである。
 これまでくりかえし見てきたように、日本の神話には、神々のあいだで激しい対立や葛藤があっても、それが解決される過程で、対立した両者のどちらか一方の存在とか価値が、否定されることにはならないという大きな特徴がある。つまり、日本文化の中に出雲文化が残されると言うことです。それは、大国主命の国譲りの禅譲に表現されている。つまり、「和=合議制」の精神はムー文明からの踏襲であり、それゆえ、縄文時代は渡来人の国々の文明を融合させながら戦争のない平和な時代が続いたのでしょう。

4.日高見国は高木神の都

 『常陸国風土記』には《高天原より降ってこられた大神、名を香嶋天(後に、鹿島天)の大神と申される。天では名を香嶋の宮といい、地では豊香嶋の宮といった》という記述があり、鹿島が、少なくとも、高天原から降りられた神の住むところである、という認識があったことがわかる。
 八百万の神を高天原にお集めになったとき、祖先神がおっしゃったことには、「今、わが御孫の命が、お治めになろうとする豊葦原の水穂の国」とおっしゃった。高天原から下っておいでになった大神の名は香島天の大神と言う。天においては日香島の宮と名づけ、地においては、豊香嶋の宮と名づける。土地では豊葦原水穂の国を委ね申し上げようとおっしゃったときに、荒ぶる神たちや、また、石根、木立、草の片集までもが話をし、昼はうるさく、夜は怪しい火が輝く国であるこれを従わせ平定する大御神とおっしゃったので、天下りなさって(皇祖神に)お仕え申し上げたのである。(『常陸風土記』香島の郡、古賀裕訳『風土記』平凡社、2000年、三六頁)
 つまり、日高見は、天では「高見天」、地では「豊高見」と言うことが推測される。さて、『古事記』では、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神を「造化三神」と呼び、「天御中主」「高御産巣日神(たかみむすび)」、「神産巣日神(かみむすび)」である。高御産巣日神=高木神が、鹿島神宮の主祭神タケミカヅチを出雲平定に使わしている。イザナギ、イザナミのように、「キ」は男性、「ミ」は女性を意味するシュメル語ですから、「高木神」は男神で、「高見」は女神と推定される。そこで、「高見天」は地では「日高見」と呼ばれるとすれば、「日高見国」は女神「高見神」の支配する国である
 そして「高天原」の「高天」は、地での呼び名は「日高」となり、「常陸(ひた)」の事だと推測できる。他にも、「飛騨」「日田」などが当てはまる。つまり、「日高見国」は高木神が統治する「日高」にある女神国の名だと云うことです
 『続日本紀』の養老七年のところに、はじめて「鹿島」の字が出るため、その頃に香島から鹿島に改められたと考えられるが、養老年間以前は「かしま」と呼ばれていた。それが、おそらく、中央政府からの要請で、鹿島に固定された可能性がある。香島を「かぐしま」と言っていた可能性もあり、それは、鹿島と鹿児島との関係を示唆しているように見える。
(*天香山にも当てはめられ、つまり、「香」は「火」を意味しているのでしょう。一方、かぐや姫、については、天火矢=宇宙船に関連するという意味だと思います。)
 「鹿島立ち」という言葉が残っている。常陸国の防人が、鹿島神宮に集合して、鹿島から九州方面に出発したことをいう。「祭頭祭」という祭りはその「鹿島立ち」の様子を伝えている。三月九日に行われる大祭で、六尺の樫の棒を持って、祭頭歌をうたいながら、棒を組んだりほぐしたりして市中を練り歩く。これは天武天皇の時代から始まったものだと言われている。防人の出立を祝う祭りであり、この防人は、「白村江の戦い」で敗れた日本軍が、大陸からの侵攻を恐れて、九州に兵を送ったことから組織されたものである。これは、関東から九州の遠路を、彼らが果敢に船で渡っていったことを意味する。これを、御船祭と関連づけられるとすれば、さらに遡って、同じ九州に向う天孫降臨の海からの神々と「鹿島立ち」も関連づけられる。(*白村江の戦いに敗れ、唐のGHQ支配を受け入れざる得なくなった時、日本列島の危機を迎え、大和国と日高見国と九州王朝が、天武天皇の時に一つになり、この三王朝が合体して「日本」となった。)
 古事記の中の二十二もの神々が、火之迦具土神が生まれてから生まれた神々で、いわば火山活動のすさまじさを表現している。そこで、富士山は十余回の噴火記録をもっており、噴煙が耐えなかったことは歴史的な事実でもある。コノハナサクヤヒメが火中出産の説話から火之神とされ、各地の山を統括する神である父のオオヤマツミから、火山である日本一の「富士山」を譲られたということから、祀られるようになり富士山に鎮座して東日本一帯を守護することになったと云う。
 富士山を取り巻く多くの神社の名は、富士を冠するものも冠さないものもあるが、いずれも浅間神社「お浅間(せんげん)さん」と呼ばれている。富士を御神体と仰ぎ、祭神を木花咲耶姫としている。フジという名は、アイヌ語で火ノ山という意味だとされる。もし蝦夷の南下がなかったら「浅間」でなくてはならない。この最古、最大の浅間山は、関東平野からならどこからも見える名山であり、高天原に近いと考えられる常陸からも姿が見えるそう遠くない山である。
 つまり、氷河期でも暖かく、鹿島が本当の島だった時代、高天原は富士山にあった可能性が高い。というのは、温暖な縄文時代には八ヶ岳の高地(800~1000m)に縄文人が定住していたが、海が引いて寒冷化すると、より低地を定住地として移住している。そして、暖かい間は高地で生活し、寒くなると低地に移動していたそうです。同じで、富士山の中腹当たりに(縄文人+シュメル人+イスラエル人)の王国が存在し、寒冷化して、鹿島が陸続きになることには、低地の日高原=高天原の地上名(日高見国)へ移住したのかもしれません。

 ◇ ◇ 神武天皇の系譜に見る日高国

 下図を見てください。「タカミムスビ」の母系二代目が瓊瓊杵尊で、「天津」系と「日高」系の両王族の合体だと分かる。尚、「日高見」では無いことに注目。
 加えて、女神天照(太陽神の神妻)と、スサノウが結婚しているが、系図的には兄弟となっているが、現実には兄弟氏族(ユダとエフライム)である。この系図だとスサノウと異母妹(女神天照)との長子が王位継承者であり、スサノウと正妻との長子は、出雲の王位を継承している。
  

 ◇ ◇ 卜部氏族について

 『常陸国風土記』香島郡の条にある。《神の社の周囲は卜氏(*司祭氏族)の居む所なり》に始まるこの文章を口語訳で述べよう。いかにも、高天原と直接関連があることが分る。古事記の中で「橘」を取りに行く下り「『古事記』では垂仁天皇が多遲麻毛理に時じくの香の木の実(ときじくのかくのこのみ)を、『日本書紀』の垂仁紀では、垂仁天皇が田道間守を常世国に遣わして、「非時香菓」を求めさせたが、その間に天皇は崩御したという記述がある。「非時」は、時を定めずということから「いつでも香りを放つ木の実」を指すと解され、「今の橘なり」と言われるが、それは「鹿島」だったのでしょう。つまり、「鹿島」=「常世国」だろう。
 そこは、地形が高く東と西は海に臨んでいて、嶺と谷が犬の牙のように村里に交わっている。山の木と野の草が生い茂り、まるで、中庭の垣根を作っているようだ。潤い流れる崖下の泉は、朝夕の汲み水になる。台地の蜂の頂きに住まいを構えれば、生い茂った松と竹とが、垣根の外を守ってくれる。谷の中腹に井戸を掘れば、生命力旺盛な蔦の葉が、井戸の壁面を覆い隠す。
 春、その村を歩けば、様々な草花が咲き乱れ、かぐわしい香りを放っている。秋、その道を過ぎ行けば、数多くの木々に、錦織りなす木の葉が美しい。ここは、まさに、神と千人が隠れ住んでいるようなところだ。奇しき力を持つ何かが生まれ出する土地だ。その佳麗な不思議さは、とても書き表すことが出来ない。
 その天の大神の社の南の郡役所があり、北に沼尾の池がある。土地の古老の話では、沼尾の池は、神代のむかしに天から流れてきた水沼だという。なるほど、池に生える蓮根は、比べる産地がないほど味わいを異にして、大変美味いとしかいいようがない。そればかりか、病に苦しむ者は、この沼の蓮を食えば、たちどころに治るという。この池には、鮒や鯉も多く生息している。この地には、以前に郡役所」が置かれた所で、たくさんの橘を植えていてその実も美味い。(『常陸国風土記』香島の郡)
 「邪馬台国」の《習俗では、行事や往来する際に、何かあれば、そのたびに骨を焼いて占トをおこなって吉凶を判断し、あらかじめその結果を伝える。そのことばは、(中国の)命亀の法と同じである。ひびを視て、兆候を占う》とあるが、この占トは、日本でも亀や魔の角で行うから共通しているといえるつまり、卑弥呼は「日高見国」=女神国の「日巫女」だったと、推測される。本名ではないので、卑弥呼神社は存在しないし、記紀にも登場しない。(⇒[卑弥呼神社]参照)
 イザヤの一族は、南ユダ王国の滅亡を見越して、日巫女(天照大神=ヤハウエの神妻)である長女ヘブジバと、二人の弟を伴い日本に移住する。王位を弟に譲ろうとしたが、まとまらず姉が国をまとめることになった。おそらく、女神アマテラスの伝承は、このようにして伝えられたのでしょう
 鹿島神宮の東三キロにある「高天原」と名付けられた墳円の土地には、全長八五メートルの鬼塚とよばれる古墳らしきものがある。この鹿島地方に住んだ人々が、『常陸国風土記』にあるように、中臣氏(=藤原氏⇒富士原、つまり高天原を意味する。それゆえ、藤原不比等は自らの出自を神代文字で「天照大神」と伊勢神宮に奉納したのでしょう … [中臣氏の出自について]参照)や卜部氏が多く、大部分は鹿島神宮関係の人々で、現在の鹿嶋市宮中の成立が、神宮の屋敷割に源を発していることからも明瞭である。尚、「高天」は、「日高」と「豊高」と変化する。「日高」は「飛騨」「日田」などの地名と関連する。そして「豊高」は「穂高」などと関連するでしょう。おそらく、「穂高」と「高千穂」がほぼ同じ意味であるのなら、高天原の地上の別地ということになります。
 『日本書紀』に、崇神天皇の時代、神聞勝命の名が出てくるが、これは、道根命であると考えられる。道根命は鹿島出身で、大和で仕事をし、大鹿島命と呼ばれている。『日本書紀』に垂仁天皇二十五年のこととして、阿部臣、和珂臣、物部連、大伴連の遠祖達とともに、中臣連の遠祖大鹿嶋が五太夫の一人として、伊勢の神宮の創建にあずかり、初代の大宮司として奉仕する記述がある。これは鹿島と、伊勢、そして奈良の関係で、大和朝廷が鹿島を重要視したことがわかる。
 鹿島にある鎌足神社は、藤原鎌足が生まれたところと伝えられ、その当時は海(霞ケ浦の北浦)に面していたと考えられる。鎌足という名は、かなり年をとつてからの名で、幼名は鎌子であり、藤原という姓は、大化改新の後、天皇より戴いたもので、前は中臣という姓である。中臣とは 神と人の中をとり持つことを意味すると同時に、数ある臣のなかでも中心的な部族を意味している。単に氏族の家柄という程度のものではないのである。その祖は津速魂神三世の孫、天児屋根命である。津速魂神は中臣系譜に見える神であって、高皇産霊神(高木神)の子と伝えられるという。天児屋根命は、天照大御神が天岩戸に篭ったとき、岩戸の前で神楽を奏し、布刀詔戸言を奏上した神である。天孫降臨に際して降臨に従っている。先に、天孫降臨が「鹿島立ち」から始まり、鹿島から鹿児島への海からの降臨であった御船祭によって象徴されると述べたが、この神もそこにも加わって、ニニギ尊を助けたと考えられる。
 天孫降臨のとき、天照大神が神勅を下されるように、大嘗祭においても、天孫、ニニギ尊が稲を作り、その新穀を食べて、稲に憑き、神霊を身に受けることにはじまっている。御一世御一度、天皇が即位のとき、稲を拝し、ご自分を拝されて天皇霊を身につけるのがこの大嘗祭である。すると、この大和武尊の東征は、東国において、天皇宣言をされるためであった、ということが出来るのではないか。(*稲は中国や朝鮮とは異なり、日本固有である。つまり、ニニギの命は稲を持って、海路で日本に渡来したのです。もしくは、すでに日高見国で稲作が行われ、この稲を持って日本列島全体に稲作を普及させた。と云うのも、寒冷化により、低地に移住せざる得なくなった縄文人や渡来人達は、縄文文明の生活様式から、低地で稲作を行う生活様式に変わっていったのでしょう。つまり、これまでの朝鮮半島からの渡来人が稲作を広めたというのは間違いで、天照大神の天孫族が稲作を広めたのです日高見国では製鉄が行われており鉄剣を持っていた。平野には豊かに水と水田があり、砂鉄からは農具だけではなく、武器も造られ、鉄剣は出雲をしのぐものであった。もしくは、前5千年頃、鹿児島沖の火山が大噴火を起こし、この地域の縄文人が稲と文明を持って、一部は中国大陸へ(長江文明⇒夏殷を建国)、一部は関東へと移住した。しかし、大陸での稲作は鹿児島からの稲よりも、別種の稲の方が生育が良く、そちらが主流になってしまった。『契丹古伝』によれば「殷もこれ倭国なり」とある。)

 ◇ ◇ 女王の都する邪馬台国はここにある … 『日本の誕生 長浜浩明著』

 魏志倭人伝に大和朝廷についての記述が無いのは、魏と大和朝廷との外交関係はなかったからです。今も昔も交流のない国の内情は〈参問〉するしかありません。魏志倭人伝を素直に読めば、女王国は北部九州となるのです
 では、女王の都する邪馬台国はどこにあったのか。それは新井白石に始まり様々な歴史家が比定した場所なのですが、旧地番で福岡県山門郡瀬高町と推定しています。具体像としては、現在のみやま市瀬高町女山(ぞやま)(旧名:女王山)の西の高台、女山神護(こうごう)石周辺に卑弥呼の宮があったのではないかということです。
 そこからは二本の中広銅矛や秀麗な首飾りが出土しています。
 また、女山山頂から西を眺めると現在のみやま市から筑後平野一帯が見渡せるのですが、そこが女王の都する邪馬台国の範囲と推定できます。すると「女王の都する所、七万余戸ばかり」なる魏志倭人伝の記述も納得がいくのです。
 町の観光パンフレットには、高さ五m、周囲約一四〇mの円墳・権現塚が卑弥呼の墓として紹介されています。さらに、塚原巨石群には戦前「卑弥呼神社」があったとのことです。
 何れにしても、これらの話は、ここが女王の住む都であった傍証として無視出来ないと私は考えています。
 では、なぜ邪馬台国と魏の交易に有明海ルートを使わなかったのか。それは、おそらく伊都国に帯方郡の使者が常に留まる所かおり、次いで五島列島近海や、敵対関係にあった狗奴国の沿岸部を通過する危険を避けるため、と思われます。
  

 ◇ ◇ 考古資料が明かす。黥面文身・習俗

 実は、倭人伝にある“黥面文身”を裏付ける考古資料が日本各地から出土しており、設楽博己氏は次のように記していました。
「当時の中国ではイレズミは刑罰の一種だったので、黥面文身を倭人の習俗のトップに持って来たのは『三国志』の編者である陳寿にとってそれなりの驚きがあってのことだろう。(中略)
 このことから、倭人伝における倭人の習俗については、実際のことを記しているのか、疑問がもたれるとする意見もある。倭人にイレズミはなかったのだろうか。同時代の考古資料で、このことを確かめていきたい」(『三国志がみた倭人たち』77)
 設楽氏の結論は、倭人の黥面習俗は“考古学の観点から見て正しい”であり、注目すべきは。邪馬台国の平行期、二~四世紀、日本には黥面習俗を持つ地域と持たない地域があった”という指摘です。
※私には、UFOの飛翔や、UFOパイロットを見てそのまま描いた火炎土偶や縄文土偶の文様を、そのまま「黥面(げいめん)」として人体に描いたと思うのです。
  

 ◇ ◇ なぜ媛踏鞴五十鈴媛を正妃に迎えたか

 媛踏鞴五十鈴媛という名は、“踏鞴 たたら”と“五十鈴”という語彙からなっています。“踏鞴”は製鉄を行う大型の送風装置、“ふいご”のことであり、“五十鈴”とは葦の根に作られる鈴石で、鈴石とは製鉄原料となる褐鉄鋼のことです。
 そして、三輪山をご神体とする大物主神の。物とは“精霊”を意味し、その本質は雷神であり、雷神は鍛冶職や製鉄業者からの信仰を集め、大和の守護神として畏敬されていました。また三輪山とは、中央構造線の断層から噴き出た砂鉄がとれる山でした。
 今は忘れ去られていますが、かつては山砂から砂鉄をとっていたのです。天孫族がこの技術を取得したのは想像を絶するくらい昔のことで、古事記の天照大神の「天の石屋戸」隠れの話にも製鉄の話が出てきます。
   「天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて……」
 そして、そのときに何を作ったかは『古語拾遺』に書いてあります。
   「天目一筒神をして雑の刀・斧及び鉄の鐸をつくらしむ」
 天目一筒神とは、溶鉱炉の温度を知るために火窪(ほど)を見続け、遂には片目になってしまった熟練製鉄技術者への尊称です。鐸とは銅鐸の前の時代につくられた鉄鐸を意味します。
 何れにしても、神武天皇は媛蹈鞴五十鈴媛を正妃に迎えることで、大和から摂津の豪族のみならず、大物主神を信仰する日本中の鍛冶・製鉄集団とも親縁関係を築いたことになります。

5.日本米は固有種

 縄文稲作の遺跡は岡山県だけでなく、島根県、鹿児島県など九カ所ある。縄文前期(六〇〇〇~五〇〇〇年前)以降、中期、後期と三〇〇〇年前までに、二十カ所以上に継続的に稲作の痕跡がプラントオパールの存在により確認されている。つまり青森の三内丸山の遺跡より早い段階で、稲作が行われていたことになる。それが板作造跡も菜畑遺跡まで続き、そして今日まで続いているのである。
 植原和郎氏の「日本人二重構造説」は、日本に稲作の技術をもった大きな人類集団がやって来た、という説で、受け入れられた時期もあったが、今では否定されている。佐藤氏は池上曾根遺跡や唐古・鍵遺跡から出土した弥生米のDNA分析の結果、朝鮮半島には存在しない中国固有の品種が混ざっていることから、朝鮮半島を経由しないで、米がやって来たと述べている。
 日本の温帯ジャポニカは中国や朝鮮半島に比べると、遺伝的多様性が失われており、渡来した稲は極めて少数であった。さらに佐藤氏は、中国、朝鮮、日本の水稲(温帯ジャポニカ)のSSR(SimpleSecenceReport)マーカー領域に存在するRMI-a~hの八種類のDNA多型を調査し、中国にはその八種類があり、bが多く、aがそれに続く、と言う。朝鮮半島にはbを除いた七種類が存在し、aが最も多い。つまり、中国と朝鮮半島はだいたい同じ種類だと言える。しかし日本にはa、b、cの三種類しか存在せず、bが最も多いと指摘する。さらに、aは東北を含めた全域で、bは西日本が中心であることが発見されたことから、稲が朝鮮半島を経由せず、別のところから直接日本に伝来したとし、水田稲作の温帯ジャポニカの稲が、東南アジアから日本に伝播したのではないかと推定している。氏は中国を経由して、と述べているが、それがどのような経路を取っていたかということは不明である(佐藤洋一郎『稲の日本史』)。
 この佐藤氏のDNA鑑定から、六〇〇〇年前から、中国や朝鮮半島ではないところの、同じ種類である東南アジアから直接やって来たのではないか、と推測出来る。もともと水稲は、暑い地方で作られるものであり、中国や朝鮮半島よりも、直接東南アジアから舟でやって来た人々により伝えられたと述べる方が適切である。
 この水稲のDNA鑑定調査により、弥生時代に朝鮮半島からやって来た渡来人がもたらしたとするこれまでの説は否定されることになった。稲作が縄文時代に東南アジアからやって来て、日本固有の稲作となったという新説は、天皇が行う水稲中心の「大嘗祭」が、『記紀』のアマテラスから発しているとするならば、それは縄文時代からの伝統であることと重なりあい、稲作が朝鮮経由ではない、日本固有の伝統によるものであることが認識されるのである
 天皇が即位されるときの新嘗祭を「践祚大嘗祭」と呼ぶが、それ以後毎年十一月に天皇は収穫祭として、その年の新穀を神に捧げ、自ら食する祭儀を執り行う。この天皇の中心的行事のひとつが、朝鮮半島からやって来た水稲とむすびつけられてきたが、そうではなく、縄文古来の日本特有な稲作によるものであることがはっきりしてきたのである。それは新穀である五穀、稲、麦、栗、稗、豆を天神地祇に勧め、天皇自ら食し、収穫に感謝する祭祀であった(*大嘗祭で陛下が新米を天照大神に奉納した後、日本人は新米を食べるような伝統だった)。そこに含まれる米、乗、稗、豆は、すべて縄文時代からの食物であり、日本古来のものであったのである。
 

6.縄文人が福建省に移住した時期について

 約7千3百年前、鹿児島沖でアカホヤの大噴火が起こっています。四国の半分くらいもある巨大な島が、まるごと吹き飛んだとされています。現在は薩摩硫黄島や薩摩竹島として、かろうじて水面の上に出ています。その時、九州の縄文は滅亡したとされています。この時、九州の縄文人は福建省へ、本州の方へと移住したのだと推測されます。
 しかも、長江文明は前5千年とも3千年とも言われており、夏王朝は前1900年頃~前1600年頃だそうで、丁度長江文明の発祥時期とアカホヤの大噴火との時期が重なっているのです。尚、中国の羅家角遺跡(長江流域)から見つかった7000年以上前の水田区画は数平方メートルで、短い水路でつなぐように配置されていた。長江流域の遺跡ですから、縄文人が渡来していた可能性があります。他にも、製鉄、漆、航海技術、木造建築及び土木技術等々も日本から伝えられたに違いありません。
 つまり、アカホヤの大噴火と、寒冷化に伴い、縄文人が大陸に移動すると同時に、日本の縄文文化が一度退化した。加えて、弥生時代に大陸からの渡来人との間に戦争が勃発し、さらに縄文文化は衰退した。そして、奈良明日香に至って、衰退した縄文文化が復活したのだと思われる。
 縄文時代は、1万2000年前から始まるとされている。ただし、最近の年代校正の結果からは、1万6000年前以降ともいわれる。世界最古級といわれる1万年代前の土器は、九州で出土している。ごく最近、富士山麓に位置する静岡県大鹿窪で、A遺跡という国内最古の集落跡が発見されたことが報じられた。約一万1000年前の住居6軒の住居跡と見られる竪穴状遺構や、約2万点に及ぶ土器や石器が見つかった。日本列島における、旧石器時代の移動生活から定住生活への移行を示す貴重な発見といえよう。鹿児島県でも、土器類から9500年前の定住生活が確認されている。
 一方ヽ縄文土器に似たものは、5000年ほど前のものがポリネシアや南米でも認められている。縄文人はポリネシア方面にも、拡散して行ったかもしれない。“遺跡ポイント”は、縄文以前からの住人や、南方から来た人々によって形成された可能性が強いと推定されるが、縄文人によって作られた可能性についても、検討が必要です。
 
  ◆東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)
 茨城県の南部と千葉県にまたがる地域に、「東国三社」と呼ばれる三社がある。ちょうど「日高見国」の中心地域であり、現在も三社参りが盛んである。この「三社」とは言うまでもなく鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の三社である。それぞれ建御雷神、経津主神、天之鳥船神が祀られているが、最初の二神はアマテラスに「高天原」から派遣されて地上に降り、出雲の大国主命に「国譲り」をせまった武神である
 息栖神社に祀られている天之鳥船神は、武神の乗り物「天鳥舟」の神である。二柱の神と比べると地味な存在であるが、神が乗って天空を移動すると考えられた舟の神である。『古事記』ではイザナギ・イザナミが生んだ初源の神と言って良い。詳しい名は鳥之石楠船神と書かれる。鳥が天空を飛ぶように、岩なり楠木で造った船の神と言うことになる。即ち、武器を持った船ということであろう。また近くの大戸神社も「天鳥船命」を祭神としている。
 この「天鳥船神」が、アマテラスの統治する「高天原」の乗り物であることから、「日高見国」の船団の神を意味すると類推できる(もしくは、天香山や香矢のように、火を噴く乗り物だった可能性もあります)。
 九五〇〇年前、鹿児島県の上野原遺跡が三〇〇〇年続いた後、アカホヤの大噴火で破壊された。その後、住民たちが四国、紀伊半島を北上していったことは、同じ石器が各地で見出されたことによってわかる。船による人々の移動は、今日考えるより、はるかに容易だった。大海に出ず、陸伝いに進むだけなら、長距離の船の旅は可能であったからである。鳥のように長距離を船で漕ぎ出していたことは、クケミカヅチやフツヌシが「天鳥船神」と絶えず共にあったことからも推測出来るのである。
 よく知られているように、春日大社の本殿では、御祭神が四人いるが、主要な第一殿は、鹿島神宮の祭神、建御雷神であり、第二殿は香取神宮の祭神、経津主命である。この大和における最大の神社が、御祭神として東国の鹿島神宮の祭神をおいていることは、単に藤原氏の祭神だからというだけでなく、天皇の為政において、建御雷神の守護がいかに重要かを示している。
 ◆ 『神武天皇「以前」』より抜粋

縄文土器は日本原産

 北海道においては草創期の土器文化がほとんど見つからないことである。これほど発掘調査が行われているにもかかわらず、草創期の土器が見つからない、しかも最古級の事例が見つからないということは、土器が北回りルートで伝播してきたことに対して否定的にならざるをえない。また、同様に朝鮮半島においても一万六千年をさかのぼる土器文化は見つかっていない。朝鮮半島域で最古の事例は、済州島の高山里遺跡出土例でおよそ一万年前であり、中国南部からの西回りルートによる日本列島域への伝播を考えることは今のところむずかしい。となると、縄文土器は日本列島域内で誕生した可能性がきわめて高くなる。※縄文人もです。

『万葉集』

 新元号「令和」が『万葉集』から選ばれたため、『万葉集』が喧しきブームとなった。万葉の故郷である大和路、飛鳥には観光客が押し寄せている。目抜き通りは日本人より外国人が多かった。しかし橿原神宮に行くと、外国人が少なく、神武天皇陵には日本人さえいない。なんという矛盾だろう?
 元号の議論を振り返っても、大化の改新から元号が開始されてきた歴史は盛んに論じられたが、神武以来の歴代天皇記には触れようとしない。天皇陛下は、御譲位の奉告のため伊勢神宮より先に、神武天皇陵と橿原神宮に御親拝されたのである。メディアの議論は、この事実経過をちっとも重視していない。

稲作は縄文時代から

 多くの歴史書は「稲作の開始」を弥生時代の幕開けとして縄文と弥生とを区別してきた。ところが近年の水田遺跡の発見は、稲作の開始を三千二百年前にまで押し上げた。
 二九七八年、福岡市板付遺跡で、弥生時代前期初め(板付I式)の水田跡の四十センチ下から、さらに古い縄文時代晩期末(夜臼式)の水田跡が発見された。その水田は集落が営まれた低台地の縁辺にそって掘られた用水路に、水を止めて別の水路へ流すための知影を備えた高度な技術をもつものだった。杭で補強された畔の間隔から、水田の一区画が四百平方メートルに及ぶこともわかった」(寺沢薫『王権誕生』、講談社学術文庫)。
 そのうえ近代的な農耕機具も発見された。
 一九八一年には唐津市菜畑遺跡で、それ以前の水田が発見され、紀元前五世紀に、つまり縄文後期には、稲作が本格的に開始されていたことを意味する。

縄文時代に日本全国への交通網があった

 奴奈川姫は祭祀に使われた「翡翠」をあやつる巫女の王と言われ、神話によれば大国主命(出雲大社の祭神)と結ばれた。
 五千年前の縄文中期、糸魚川で生産と加工が始まり、各地に「輸出」されていたのだ。勾玉はこの翡翠からも作られ、アクセサリー、副葬品、祭器用具、大きなものは展示用の宝物となった。
 糸魚川市街地の南に拓ける美山公園にフォッサマグナミュージアムがあって、翡翠に関するすべての展示があり、近くには長者ケ原遺跡が広かっている。
 この縄文遺跡は四千五百年前のものとされた。すでに縄文時代に翡翠を加工する工房があったという驚くべき先進性を縄文人がもっていた事実が確認された。なぜなら北海道から九州までの縄文遺跡から出土した翡翠は、ほぼすべてが糸魚川産だったからである。※尚、日本の翡翠は硬質性翡翠で、非常に硬く、これを研磨し、穴を開けるには専門職人が必要で、当時すでに職業分業が確立されていた。

「地球温暖化」という怪しげな主張

 シロクマの数が減ったとゴア(米国元副大統領)やら左翼メディアやハリウッドの有名俳優らが主張した。ところがシロクマは増えていた。そのうえシロクマの体重も増えていた。だからゴアたちは、シロクマを例に用いるとまずいことが分かり、語らなくなった。地球温暖化を煽動する人たちは、かれらにとって不都合な真実を伝えないか無視するという戦術を駆使する。つまり、プロパガンダなのだ。
 マーク・モラノ著・渡辺正訳『「地球温暖化」の不都合な真実』(日本評論社)では、気候変動による地球温暖化は虚偽のキャンペーンであり、心配することはない。「温暖化が地球を滅ばす」などという悪質なアジに騙されるな、と反論している。とくに干ばつ、洪水、豪雨、山火事と温暖化を牽強付会(自分の都合のいいように、強引に理屈をこじつけること。▽「牽強」「付会」はともに、道理に合わないことを無理にこじつけること。)につなぎ合わせる非科学的な作文が墟であり、偽善であることは科学者たちが実証的データで反証している。C02はむしろ「作物の増収を助け、地球の緑化をすすめて砂漠を減らす」(ウィリアムーハパー、プリンストン大学名誉教授)。
 「地球を救うという甘い言葉が、科学と経済と政治をどれだけ歪め腐敗させたか。(中略)パリ協定やEPA規制に、季候や海水面を変える力は何一つない」(マーク・レヴィン、作家)。
 アイゼンハワー元大統領は退任演説で次のように言った。「雇用や資源予算配分を通じて政府が学術界に君臨する可能性には、くれぐれも警戒したい」と。※以上については、武田教授も同様な主張を科学者の視点から、その著書で述べられています。

7.タカミムスビ神からアマテラスの統治へ

 高天原(日高原)は、タカミムスビ神から、天照大神の統治へと移行している。
 日本の国家神は長い間、天照大神だと信じられてきた。しかし、「記紀」をみると、国家神は必ずしもアマテラスだけでなくタカミムスビという神がいることがわかる。しかし、『古事記』をよく注意して読むと『古事記』がアマテラスを天孫降臨の主神として上げているのは一カ所のみで、あとの七カ所はすべてタカミムスビの名前をアマテラスと並べて、二神をともに命令を下す主体として記している。
 このタカミムスビは高御産巣日神と書くが、同時に高・産巣・日・神と読むことが出来るのである。ここには「日高」の二字が入っている。御=見とは意味が違うので、御にしたのだろう。この高御産巣日神が、弥生時代までの「日高原」=「高天原」の統治者としてアマテラス同様にみられていたと考えられる。「ムス」は「産巣」と書くように、この出産への祈りと共に、土地が豊かで生産的だということを示唆していよう。また音から「結び」つけるという意味もあろう。
 タカミムスビはまさに「高天原」に成った最初の造化三神の一柱であって、アマテラスより古い存在である。アマテラスが弥生時代の神とすれば、このタカミムスビは縄文時代の神と言える。少なくとも神武天皇以後の時代以前に、二つの「古世」の時代があったと考えられるのである。と言うのも、『記紀』において神武天皇以前の「高天原」、すなわち天津国の時代が、ふたつの時代に分けられる。それが、縄文と弥生時代に対応する。

弥生の大乱を鎮めた「五十男」

 大陸の戦乱を逃れた武装難民は、武器を持たない縄文日本に戦乱(倭の大乱)をもたらした。この弥生時代の大乱を鎮めたのが、「五十御神」だと銅鐸に神代文字で刻まれている。この銅鐸に刻まれた神代文字は「国建てし、五十男御神を、伊勢宮に祀る」とあり、明らかに「五十御神」は、当時の神々のランク50の「エル・ランティ様」に他ならない。伊勢では、太陽神・天照大神として、元七大天使とキリスト教の神々を従えて日本を守護されてこられた。ここに、古代シュメル、イスラエルの二氏族、ムーの縄文人の合体した文明が打立てられたのです。その証が、三種の神器に違いない。
 尚、シュメル語で、イセは神の意味です。天照大神の鎮座する伊勢神宮の意味もすっきりします。それから、シュメルは英語読みで、ラテン語読みだと「スメル」です。スメラ尊=皇尊との関連も明確になります。確かに、アブラハムの父テラは、シュメルの地、ウルの都の神官・王族でしたから、アブラハムもまたシュメルの王族の血統なのです。
 エジプトの第18王朝アメンホテプ四世(アクエンアテン)の時代から発見された文書にはサマリアがスムル(Sumur)と記されていることに基づけば、2千8百年前から、3千年前のことだったかもしれない『日本固有の文明の謎はユダヤで解ける』。
 関連して、『日本書紀と日本語のユダヤ起源』の中で、著者ヨセフ・アイデルバーグは、古代日本の伝統、宗教的儀式、俳句、民謡までもが、ヘブル語起源であり、「古代サマリヤ」との強いつながりを示していることを、記述しています。一例ですが、他にも多くの事例が掲載されています。

 「天孫民族」
   「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」[申命記 14章1]
 「神道」
   「わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩む」[列王記上3章14]
   「わたしの道」=「神の道」、すなわち「神道」であり、「神道」という
   言葉は、道教用語からの借用ではないと思われる。
   つまり、祖先の行ってきた道を着実に執り行うことが神道の本質である。
   その事によって、神の守護を得ることができる。
 「神道の供え物」
   神棚に供える餅(種なしパン)、酒、初物などは、イスラエル人の供え
   物と同じ。
   イスラエル人が正月に種なしパンを食べるように、日本人も餅を食べ、
   休日を過ごす。
   「正月の十四日の夕は主の過越の祭りである。…あなたがたは七日の間
   は種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に聖会を開かね
   ばならない。どんな労働もしてはならない。…第七日には、また聖会を
   開き、どような労働もしてはならない。」[レビ記 23章5-8]
   「彼らは正月の十五日にラメセスを出立した。」[民数記 33章3]
 また、イスラエルの供え物には必ず塩が付されたように、神道にも付される。
  「あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべての、
   あなたの供物には、塩を添えてささげなければならない。」[レビ記 2章13]

 縄文時代は一万三〇〇〇年前から三〇〇〇年程前に終わり、次に弥生時代が始まった。定住型の狩猟・採取時代から、農耕中心時代へと変遷、対応していることが知られている。鹿児島県には一万二〇〇〇年前の掃除山遺跡が見いだされ、また同じ鹿児島県の上野原遺跡では九五〇○年前から三〇〇〇年ほど続いた縄文遺跡が発見された(一九八六年)。その規模の大きさは、三内丸山と同様、大規模だということが知られている。さらに残された骨からインドネシア系の人々と似ていることが推測されている。つまり、海のシルクロード経由で日本に渡来した。同様に、日本からも海のシルクロードを経由して、世界最古と云われる縄文文明を伝搬したことも考えられる。
 三内丸山遺跡は五五〇〇年前から一五〇〇年ほど続いた遺跡で、縄文人が大きな部落をつくりクリを中心とした豊富な食料を得て生活していた。巨大な柱六本によって大規模住宅を建造し、また墓を部落の中心に造り、祖先の霊との共生を図っていた模様。すでに、神道の原型があったとも考えられる。縄文土器や縄文土偶などの同一風習や文化が鹿児島から青森、北海道まで広がっていた事は、同一の文化共同体、即ち祭る祀国家が形成されていたと考えられる。そして、ペテログラフの文字や、アイヌの神話などに縄文時代の様子が描かれているはずです。
 尚、縄文晩期の青森の亀ケ岡遺跡から赤い漆を塗った土器が発見され、それと前後して六〇〇〇~五〇〇〇年前の千葉県加茂遺跡の地層から漆の赤い塗料の塗った土器片が見つかり、その頃までに流布していたことが分かった。中国の漸江省で六二〇〇年前の漆器が発見されたが、北海道では平成十二年に垣ノ島B遣跡から約九〇〇〇年前の漆器が発見された。つまり、漆技術は日本固有であり、逆に縄文人が大陸に伝えた可能性もある

8.縄文から弥生時代へ

 これまで、ニニギ尊はどこかの「高天原」から直接、九州の筑紫の日向の高千穂に降りたち、大山津見神の娘の木花之佐久夜毘売を見染め、海幸彦と山幸彦の兄弟が生まれたこてになっていた。しかし大山津見神の娘が富士山の祭神である木花之佐久夜毘売である。つまり彼らは東国の神々なのである。
 弥生時代までが、「高天原」の天つ神の時代であり、地上での「日高見国」の時代であったということだろう。大宣都比売神が須佐之男命に殺され、その死体の顔からは蚕が、両目からは稲種が、両耳からは粟が、鼻からは小豆が、陰部からは小麦が、尻からは大豆が生じたという。さまざまな食べ物が出てきたのもちょうど弥生時代への変遷を告げている。「高天原」の天照大神は稲を耕作し、蚕で絹を作っているのである。
 アマテラスが最初に「天孫降臨」を命じたアメノオシホミミは、タカミムスビの娘タクハタチヂヒメと結婚し、その子として生まれたのが、天孫ニニギノミコトである。つまりタカミムスビはニニギの外祖父になる。後の天皇家の祖先の一人となっている。
 また「天孫降臨」に先だって、勝手に地上に降りたアメノウカヒコを、問責するように命じられたキジノナキメ(雉の鳴女)が行くと、逆にワカヒコに矢で射たれてしまうが、その欠がタカミムスビの元まで飛んできて、それをさらに逆に射かえす。アメノワカヒコを懲罰する武力ももった神なのである。こうしてニニギが降臨し、神武天皇が東征したときも、熊野から大和に侵攻する場面で、神武天皇を助けたタカクラシタ(高倉下)の夢にもタカミムスビが登場するのだ。アマテラス以上に「天孫降臨」を導いていくのがタカミムスビなのである。
 大嘗祭について、大嘗の祭りを行う悠紀・主基の二殿の祭神は、「まさしく天照おほん神をおろし奉りて、天子みづから神食をすすめ申さること」と記しているように、アマテラスだとされているが、『令義解』や『貞観儀式』、『延書式』などの古い記録には、アマテラスだとは何も記されていない。祈年祭や月次祭には、天照大神一座として、はっきり神座が設けられているが、大嘗祭には、そうした名前は無い。この大嘗祭の主祭神は、最初はタカミムスビであったのではないだろうか。
 日本の「国家神」はアマテラスということが出来るが、『古事記』には「天孫降臨」の主神に、タカミムスビ(高御産巣日神)の名が八カ所のうち七カ所も出てくる。それもただ副神であるのではなく、二神をともに命令を下す主体として記されているのである。このタカミムスビは、「日高国=高天原」を結ぶ(統べる)役割を担ったことだろう。また娘をアマテラスの子供に嫁がせているのも、その家柄の高さを示している。何かを生み出す力として「ムスビ」を持つもの、と解釈できるが、一方で、「ムス」+「ヒ(日)」で太陽神と見ることも出来る。さらにタカミムスビの別名である「高木神」は男神であることを示している。
 縄文・弥生時代は、太陽信仰の時代であったから、タカミムスビが太陽の祭祀王として象徴的に存在した。アマテラスには当然、太陽祭祀を司る神官や巫女がいたと考えられる。後の古墳時代であるが、例えば『日本書紀』の敏達天皇六年(五七七)の条に、《詔して日祀部を置く》とあり、この「日祀部」をそうした日=太陽祭祀の神祀官集団と考えることが出来る。敏速天皇は奈良の三輪山の西麓、大神神社の西側付近である他田(奈良県桜井市)を宮都としたが、そこには天照御魂神社があって、この神社がその「日祀部」があったところと考えられる。この神社は現在、天照大神を祭神としているが、元は「天照御霊」すなわち自然神としての太陽神アマテルを祀っていたとされる。
 アマテルとは、皇祖神アマテラスが形成される以前、縄文時代の日本人にとって「御天道さま」のような存在であったであろう。したがって、天皇・宮廷に仕える「日祀部」もアマテラスではなく、もともとアマテルに対して祭祀をおこなっていた、と考えることが出来る。テラスとはテルの敬語法であり、アマテル神に特有な敬称をつけたのがアマテラス大神となる。
 もとの太陽信仰のアマテル信仰を、皇祖霊信仰に統一して展開させたのがアマテラス信仰ということになる。『記紀』神話の、アマテラスとそれ以前の時代が区分けされることになり、それが縄文時代から弥生時代への展開に関わっていると考えられる。

ニギハヤヒはアマテル信仰

 「瓊速日尊(ニギハヤヒ命)」の正式名は「天照国照彦天火明櫛玉瓊速日尊」と称す。「天照国照」の部分は、猿田彦と同じで、「アマテルクニテル」であり、アマテル信仰を意味していると思う。
 「アマテル」は天が光り輝き地をテラしているという意味に受け取れる。一方、「アマテラス」は天を照らしているという意味にも受け取れる。「天照(アマテル)」という名前が示すように、こギハヤヒ命は天照大神とは、少し意味の違う太陽神であると思う。

島津家の家紋の意味

 島津十字は「○」と「+」から成っている。ムーのシンボルでは、「○」や「十」字は普通に用いられていた。ムーのシンボルからしてみれば、「○」がラーを、「十」字が四大原動力を意味しているので、島津十字は天帝を意味している。日本の国旗がムーの皇室を意味していたので、島津家もまた天帝の流れを汲む一族だということでしょう。だからこそ、先生の手記の中で、天上界は先生はアトランティス王家の血筋で、島津家の血統だと。そのことを、島津十字が傍証していると思います。
  
 この見方から、「高天原」があった関東で、このアマテル信仰を行っていたと考えられる。関東の鹿島、香取神宮の天照大神信仰は、もともとこのアマテル神を中心としており、それを守る建御雷神、建布津神二柱の神々を祀る神社が、神宮として長く存在していたのであろう。このアマテル信仰が伊勢神宮に移って、アマテラスとなり皇祖神信仰と結びつけられたということが出来よう。

天照大神の代替わり

 アマテルからアマテラスへの代替わりは、ムー時代のラー信仰から、天照大神[ヤハウエ=太陽神ラー=第三代ヤハウエ・マルドウク]への信仰へと移行したことを意味している。そして、天の磐戸神話は、ヤハウエの三代から四代への代替わりだと推測しています。
 イザナギとイザナミは高天原の祖神に婚姻について問い合わせします。高天原では神々が合議して、卜占いを行います。『常陸国風土記』には、神の社の周囲は卜氏や中臣氏が多く住むと書かれており、高天原で卜占を行ったことと合致しています。そして、徐福一族が高天原の神祭を執り行うようになります。その一方で、伊勢での司祭族は忌部氏で、次は泰一族=徐福一族、その次は中臣・泰の合体でした。
 尚、天照大神(第四代ヤハウエ)が天から伊勢に天下ったのは7世紀頃のことで、天武天皇が国名を日本に変えた頃でした。この場合の天は富士の高天原のことで、第四代ヤハウエが七大天使とキリスト教の神々を伴い日本に渡来した様子は、七福神が船で日本に渡来する伝承に表現されています。そして、日本での到着地点は高天原だったのだと思います。
補足
 アマテルというと、太陽が照りつけるという、受け身の意味に受け取れる。アマテラスというの太陽自身に解される。つまり、日下と日本の違いと同じだ。無論、ムー帝国皇族のシンボル及び、日本の国旗が日下ではなく、太陽そのものだから当然だと思う。ちなみに、ニギハヤヒを頂く部族が日下氏であるから、縄文からの部族だと思われる。
 さらにタカミムスビは、日高見国のとき、つまり縄文・弥生の時代に、太陽神アマテル神と人々を結ぶ役割をもつ祭祀王であった、と考えることが出来る。この祭祀王の下に日高見国が成立していた。これは「古代エジプト」で太陽神ラーを信仰し、それに仕えていたのが古代ファラオの存在であったのと似ている。
 天孫降臨するニニギノミコトの名は「天 … 天ッ日高日子番ノ瓊瓊ノ命」と書かれるが、「天にぎし」、「国にぎし」は天も国もにぎわしく豊かにする、「天ッ日高子」は、天ッとあるから天の原、「日高日子」は日高彦で、日高御産巣日ノ尊の子のこととなる。「高」だけでなく「日高」と書かれ、タカミムスビが「日高国=高天原」の神であることを示している。
 このように、タカミムスビは、アマテラスの前から存在し、天孫降臨までずっとアマテラスを導いている神であり、高天原の主導神としてふるまっていくのである。出雲の国譲りのときもこの神がいた。後にアマテラスは伊勢神宮の主神となるが、その前にタカミムスビが存在していたのである。
 この存在こそが、古墳時代に神武天皇によって統一される日本国家の成立以前の、縄文・弥生の時代の日高国の統治者、タカミムスビであり、アマテラスを神として祀り、守ったといえよう。あくまでタカミムスビの補佐のもとで、アマテラスの統治がおこなわれたと考えられる。

9.世界最古 … 縄文の日本文明

 縄文時代以前に人々がすでに定住しており、狩猟採集を中心にして、日本列島の開拓を始めていた。ここで使われた石器は、渡良瀬川や栃木、長そして二万四〇〇〇年前の鹿児島の耳取遺跡で、南からやってきた人々が暮らしを始めている。DNA鑑定ではインドネシア地方の人々と関連が強いという。縄文時代の前のこの段階で、すでに西洋の「歴史進化論」信仰者が言っている狩猟・採取時代の「定住をしないばらばらの野蛮な社会」のイメージは無い。一万六〇〇〇年前、青森で世界最古の土器が作られているが、「野蛮な」社会では、土器など作れない。ムー文明からの名残が文明として始まっていた。
 大陸と日本列島とでは、自然の生活条件が異なっていたから、違った条件のもとでは、文明や文化は当然、違った形となってあらわれる。日本は旧石器時代から、文化は大陸からもたらされたものではなく、自らつくりあげたものだ、ということである。
 かって土器のルーツといわれたメソポタミアの壷は、最古のものでも約九〇〇〇年前である。それに対し、日本列島では、およそ一万六五〇〇年前にさかのぼる土器が発見され、現在のところ世界最古とされている。日本海には暖流が流れ込んで、列島は温帯の落葉広葉樹林(ナラ・ブナなど)におおわれていた。ことに東日本は、豊かな木の実や山芋などのほかに、サケ、マスなどの川魚にも恵まれていた。カツオ、マダイ、スズキといった海の幸、イノシシ、シカ、マガモ、キジといった山の幸、それに豊富な貝類。このように比較的、食料に恵まれていたので、日本列島の住人は、すぐには大規模な農耕を開始する必要がなかった。農耕が「進歩」のメルクマールではなかったことになる。
 三内丸山遺跡が約五八〇〇~四〇〇〇年前に形成されたが、それは、世界の四大文明と同じ時期であり、インダス文明や、中国の殷が成立するより早いのである。さまざまな遺跡から、日本のこの時代の文明がいかなる内容をもっていたか、再検討しておこう。
 日本列島の東部の最西に位置する石川県のチカモリ遺跡でも、三内丸山と同じ時期に同様の樹木文化があったことがわかった。掘立柱の環状木柱列(ウッドサークル)があり、総計三四七本の巨木のクリで円を措いていたのである。直径五〇センチ以上の二十三本の柱が円形に規則ただしく並べて立てられ、円形機構、正方形機構、長方形機構のタイプが組み合わされていたのである。
 真脇遺跡は、約六〇〇〇~二〇〇〇年前まで、採集・漁を営む集落があって、同じ感情木柱列があり、長さ二.五メートルもある巨大な彫刻柱、土偶、土面などが発掘されている。この遺跡からはイルカの骨が大量に発掘され、骨には石器の銛や槍が残っており、その捕獲の方法の技術が進んでいたことがわかる。食用に供されていただけでなく、骨や油も利用されていたという。船の擢のヤチダモ材が出土しており、船を使用して各地との交流が行われていたらしい。また、東北地方からの土器や玉が出土している。このような巨木を使った建物や構築物は、巨木文化と言って良く、日本海沿岸から中央高地にも多く認められるが、三内丸山をはじめ、全国に及んでいたとみられる。
 宮城県の山王遺跡で発掘された織物は縄文晩期、前1千年を上限とするとされ、新潟県堂平遺跡で発見された織物は、縄文中期、前3千年~2千年のものではないかと。つまり、世界最古の織物は日本で作られていた。これまで、世界最古とされていたのは、殷墟で発見された前1千6百年頃とされていた。
 秋田の大場環状列石には日時計の形をした組石があり、この日時計中心部から環状列石中心部を見た方向が夏至の日に太陽が沈む方向になる。
 この環状遺跡は東北、北海道だけではなく、関東地方にも見られ、群馬県の天神原遺跡には、縄文後期の環状列石がある。また、野村遺跡にも、冬至に妙義山に太陽が落ちるように見えるように配置されている。東京都町田市の中期の田端遺跡にもやはりストーン・サークルが見られる。この遺跡の石柱を結んだ線は冬至に太陽が沈む方向に一致している。さらに静岡県富士宮市の千居遺跡は、富士の形をした配石で有名であるが、同時に環状列石がなされており、山梨県の牛石遺跡の環状列石と共に、富士周辺の祭祀遺跡として注目されている。ここにも、太陽信仰と山岳信仰との結合が見られ、縄文時代の祭祀が生活の重要な部分を占めていたことがわかる。こうした遺跡は、『記紀』が示すように、太陽信仰、自然信仰を明らかにしている。(*サタン・ダビデの霊言により、最後の審判が日本で行われることに対し、ダビデの介入を避ける為に日本神道には明示的な教義を残さなかったと、天上界はメッセージされています。)

世界最古の巨石文化遺跡
 巨石文化遺跡について同様のことがいえる。たとえば、秋田県鹿角市の大場ストーンサークル。野中堂遺跡と万座遺跡と二つあるが、いずれも巨大な立石を中心にしてびっしりと円形状に石が敷き詰められている。その直径は四十~五十メートルに達するという巨大なものである。ただいえることは、それは前々からいわれてきたことであるが、四千年前どころか、少なくとも八千~一万年前に作られた可能性もあるということだ。それは、多くの考古学者によって確認されていることである。つまり、ストーンサークル群が、一万数千年前に爆発した十和田湖火山の灰の下に埋没していたということである。
 世界で最も有名な巨石文化遺跡であるストーンヘンジ(イギリス)でさえ、前二千八百~一千百年ころにかけて数次にわたって作られたものだろうといわれている。フランスのブルターニュにあるカルナックの列石もよく知られた巨石記念物であるが、製作年代はストーンヘンジとほぼ同じころと見られている。
 それらと比較すれば、大場ストーンサークルがいかに古く、先進的な文化記念物であるか、一目瞭然であろう。一人の民間人でありながら、ストーンサークルの発見から発掘保存のために生涯を費やした諏訪富多氏(故人)がかつて、「大揚ストーンサークル一帯には、はるか古代に壮大な神殿や祭礼所が築かれ、非常に高度な文明国家が存在したのだろう」と大胆に推理したことがあった。
 その大場ストーンサークルは、縄文晩期の古代遺跡として知られる亀ケ岡文化遺跡(青森児津軽郡)と近いことから、なんらかの形で影響を与えたことも考えられる。亀ケ岡から出土した遮光券土偶と似た土器が発見されているからである。もしかすると、『東日流外三郡志』で語られているアラバキ王国に連なっていくものかもしれない。
 出土人骨の状態が確認できる国内二四二の遺跡から、成人の人骨一二七五体のデータを収集し、十三遺跡の二十三体を調べると、何らかの武器の攻撃を受けた痕跡があるものは、一.八パーセントにすぎず、子供も含めると〇.九パーセントにまで下がるという結果だった。岡山県の津雲貝塚など五遺跡、一一三体のうち、船元遺跡の一体だけ、胸部に石鏃が刺さっていたという。これは欧米などのデータを比べると五分の一以下の、一パーセント台だったと算出している。
 縄文文明には、エジプトのような文字記録、建築物はないが、だいたい同じ時期に、日本全体がひとつの縄文文明地域として存在し、三内丸山のような組織された集落が、東日本や九州南部を中心に 全国に広がってていた。エジプト文明はナイル川周辺の国、日本は海に取り囲まれた島国として、同時代に東西で存在していたということが出来るのである。後に書かれた『記紀』で、イザナギ、イザナミが国生みをしたと書かれた時、こうした縄文時代の日本が想定されていただろうし、イザナミが死に、イザナギが単独となった縄文時代には、あらたに弥生時代が生まれていくと想定されていただろう。
 この日本の縄文時代の状況から、単なる物質的な交換ネットワークだけでなく、集落と集落、地方と地方を結ぶ航海術を持ち、先祖を崇拝し儀礼に篤い、ひとつの祭祀国家が想定されるのである。それが、ムー文明を引き継いだ「日高国=高天原」の存在である。まさに西のエジプトの国と対応する、東の祭祀国として浮かび上がるのである
 繰り返し述べたように、稲作は紀元三〇〇年頃、大陸からもたらされ、弥生時代で形成するようになった、という戦後からの定説はもはや消えたのである。紀元前三三四年に楚に滅ぼされた越の人々が対馬海流に乗って九州に渡来し水田による稲作をもたらした、という推測が、かつてはもっともらしく司馬遼太郎らによって言われたが、この論はもはや否定されたのである。このことは保存された人骨からも追認されている(糸島半島の新町遺跡で大陸由来といわれた史石墓の下から出てきた人骨は、大陸系の弥生人と期待されたが、在来型の縄文人の特徴をもっていたという。
 この菜畑遺跡から稲だけではなく、粟、蕎麦、大豆、麦などの穀物類、そしてメロン、ゴボウ、粟、桃などの果実、根菜類などが栽培されていたことが判明している。中でもメロンが縄文後期に栽培されていたことから、いかにこの頃の人々が今日と似たような食生活を営んでいたかがわかる。平成元年の発掘では、数頭の豚の骨も出土し、家畜化されていたことも裏付けられた。
 また菜畑遺跡からは、炭化米とともに石包丁、クワ、鎌などの農具、甕、壷、スプーン、フォークなどの食器類が出てきている。それらが必ずしも大陸からの帰化人ではなく、土着の縄文人たちが作った可能性が強くなった。日本の学者の多くは、常に新しいものは外来から移入したとする固定観念があるが、外からの刺激はあったにせよ、自ら作り出したと考えるべきなのである。
 ところで、北九州が大陸に近いため、朝鮮半島を経由して、日本に稲作文化がやって来たという定説が崩れたのなら、一体日本の稲作はどのように形成されたのであろう。興味深いのは、鹿児島県にある二万四〇〇〇年前から存在している耳取遺跡、一万五〇〇〇年前の仁田尾遺跡から、年代不詳であるが稲のプラントオパールが発見されていることである。つまりすでに旧石器時代から、南九州にはコメが南から伝えられていた、ということである。
 たしかに、東アジアの稲は、七〇〇〇年前頃から、揚子江中、下流域で栽培されてきた。中国の河拇渡遺跡から発見された炭化米のDNA分析を行ったところ、その全てがジャポニカ種であり、そこに熱帯ジャポニカ種(陸稲)もあったという。
 しかし日本の水稲は、温帯ジャポニカである。温帯ジャポニカを栽培するのは東南アジアである。つまり中国から伝播したのではなく、人々が、東南アジアから九州南部にたどりつき、そこから日本北部に縄文時代に広まったということになる(*もしくは、前5千年頃のアカホヤの大爆発で、縄文人が稲作を伝搬しか多能性もある)。また、縄文晩期から弥生期にかけての大型遺跡である、和泉市の池上曾根遺跡や、奈良県の唐古・鍵遺跡の炭化米がb変形版の稲であり、この米も朝鮮半島からきたものではないことが判明した。
  ◆縄文時代の実情
 縄文時代は遙か遡って、一万六千年前頃から始まり、土器の使用の古さだけでなく、三内丸山を初めとする多くの村落遺跡の発掘は、近代の歴史家がもっていた欧米型「文化進化論」の考え方自体を覆す事態に立ち至ったと考えられる。
 縄文時代だけのことではない。花粉の化石の分析などから、日本では、氷河時代にも厚い氷におおわれることなく、動植物が絶滅せず繁殖し続けていたことが理解されてきている。豊かな食料を求めて、人々は大陸から渡ってきたのだった。つまり、大陸に住むことが出来ないので、日本までやって来たのである。ここにすでに、大陸より早い、歴史の展開を、日本に考えることが出来るようになった。(*ムーの王家が移住してきた)
 縄文人はおしゃれで、髪を結い上げ、アクセサリーを着け、赤や黒で彩られた衣服を着ていた。技術レベルは高く、漆器、土器、織物まで作っていた。聖なる広場を中心に計画的に造られた都市があり、人口は五〇〇人を超えたと考えられている。ヒスイや黒曜石、食糧の交換ネットワークがあり、発達した航海術によって日本海や太平洋を往還していた。その行動域は大陸にまで及んでいた。先祖を崇拝し儀礼に篤く、魂の再生を信じている。ヘビやクマなどの動物、大木、太陽、山や川や岩などの自然・精霊への信仰を持っていた
 すでに昭和四十七年(一九七二)、福井県鳥浜遺跡で貝塚が発見され、縄文時代早期から前期まで、丸木舟から、弓、石斧柄、鉢、櫛などの木製品、絶や編み物などの繊維製品といった有機質の遺物が豊富に出土していたし、見事な漆器もあった。すでに色彩豊かな美的な感覚をもって土器を造っていたのである。栽培植物ではさらにこの遺跡だけでも、リョクトウ、ヒョウタン、エゴマなどの種子も発見された。
 昭和五十五年、縄文晩期の山梨県の金生遺跡からは、下顎の犬歯が除去されたイノシシが発掘され、飼育されていたことが判明した。北九州の菜畑遺跡では豚も飼育されていたのである。
 三内丸山遺跡では、縄文時代中期を中心に、竪穴住居五八〇棟、長さが一〇メートルを超える大型竪穴住居跡十棟、掘立柱建物跡一〇〇棟、子供の墓八〇〇基、大人の墓一〇〇基などが、それぞれ空間を異にしながら、同一遺跡で発見された。つまり集会場があり、墓地があり、人々が集い、死者と共存する部落があったことになる。
 とくに一九九四年に、直径一メートルに近いクリの木の柱の穴が六つ、一間×二間の間隔で、規則正しく並んでおり、そこには高さ二〇メートルの高層建築があったことが明らかになった。現在では物見櫓のような、粗末な組み方の塔のようなものが建っているが、実際の建造物もその目的も不明である(*出雲大社のような高層建造物で、上空からのランドマークだったり、香矢の格納庫だったのかもしれない)。さらに、大麦、栗、稗、豆、キビ、瓢箪、エゴマが栽培され、酒さえ造っていたことが明らかになった。五〇〇人以上の大集落を維持するためには、狩猟・採取だけでは維持できない。漁労も盛んであったことは、多くの魚やイルカの骨まで出土していることでもわかる。
 縄文早期、九五〇〇年前の鹿児島県の上野原遺跡(竪穴式住居が四十六軒発見された)が、すでに三内丸山に迫る規模の村を形成していることから、各地でこのような地域があったのだ。火焔土器は日本の各地、とくに東日本の全域、中部、東北から発掘されている。その形態からは、火焔だけではなく、漁労・狩猟・採集の盛んな地帯として、水、渦、蛇、縄、雲などの形象に接することが多い縄文人たちから生まれたということを示しているのであろう。つまり、東日本に多いことは、まさに「日高国」の太陽信仰の祭祀国にふさわしいということを示している。

10.鹿児島の諏訪神社と隼人、熊襲たち

 岬と海をよく知ったサルタヒコによって、鹿島から鹿児島に天孫降臨した一行は、一旦、鹿児島に居住した。天孫降臨が行われた鹿児島県下には、別名南方神社といわれる諏訪神社が不思議と多い。鹿児島では諏訪神社にこれまでその意味が問われなかった。現在も一一〇社あり、県内の神社の総数、一三二社の約一〇パーセントにも及ぶ。諏訪神社がこれほど多い地域は、全国をみてもないと言って良い。鹿児島では諏訪に継ぐのは、菅原、熊野、稲荷などで全国的に最も多い八幡神社は五位以下である。
 鹿島-鹿児島の天孫降臨説で、その疑問が氷解する。
 というのも諏訪神社が祀る建御名方神は、大国主神の息子であり、まさに鹿島神宮の祭神・建御雷神、香取神宮の祭神・建布津神によって、降参させられ、諏訪まで逃げた、その神であるからである。タケミカズチに力比べで決着をつけたいと勝負を申し出て、それに敗れる神である。当然武神であり、鹿児島に「天孫降臨」した神々が、その降参させた諏訪の武神たちを引き連れて来た、という経緯を予想させるのである。すでに諏訪という東国圏に入った建御名方神は、アマテラスの神々になっていたのである。
 鹿児島県姶良郡隼人町にある「天降り川」は、ここに船団がついたことを意味しよう。そこに海人が降りたのである。隼人の人々も、関東の海人の人々であり、九州の熊襲といわれる人々も、やはり熊野神社が多いのと関係し、関東から来た縄文・弥生人の縄文的な人々が、そこに定着したことを意味する、と解釈することができる。
 天津日高彦穂々出見尊(山幸彦)が海神宮に行く際に乗った舟が鹿児山で作れたという説があるのは興味深い。山幸彦の名前の中に「天津日高」とあり、日高国の出身であり、乗った舟が鹿児山で作られた、ということも、鹿島から舟に乗ってきたことを示唆しているように思える。

 ◆日本武尊
 『日本書紀』に書かれた景行天皇二十七年二月の条にある《東夷の中、日高見国あり、その国人、男女並に椎結(髪上げ)、身を文(もとろ)げて、人となり勇み梓(たけ)し。是をすべて蝦夷と言う。また、土地沃壌(こ)えて曝(ひろ)し。撃ちて取るべし》と書かれたときと異なる時代のことである。この時代では、すでに「東夷」の中の「日高見国」と考えられ、支配の対象となっていたのである。
 それが日本武尊が東征したときの常陸国となったのである。日本武専は九州を攻め、また関東、東北を征服しょうとしたといわれる伝説の英雄である。ところが『常陸国風土記』で注目されるのは黒坂命といわれる人物である。彼は、吉備武彦と大伴武日連とともに「日高見エビス(アイヌ)」を征伐したと書かれている。これは日本武尊のようにかならずしも単独の英雄的行為によるものではない。しかし黒坂命は、陸奥のエビスを平定して常陸国の多歌(多珂)郡まで帰還したとき、角枯山というところで病死し、そこから「日高見国」まで進む霊枢車の幡は、雲の如く飛び、虹のごとく照りかがやいたと書かれている。これは『日本書紀』の景行紀において、日本武尊が都への帰還途中の伊勢国での病死し、白鳥となって遊幸するのと大変似ている。また『日本書紀』の景行紀の「日高見国」の景観は、『常陸国風土記』の常陸国の景観とよく似ており、引き写したものとさえ言える。
 『書紀』の景行天皇が『風土記』では、倭武天皇として語り伝えられているのを見れば、『常陸国風土記』の原型をなした古伝承こそは、景行紀日高見国・同蝦夷記事の原型だということは、ほぼ間違いない。つまり『書紀』も『風土記』も、同じソースから取ってそれぞれ違うように述べたものであると言うことになる。常陸におけるヤマトタケルの物語は、黒坂命物語と同じであり、タケルは天皇として巡幸したと書かれているのは、『日本書紀』における父の天皇の役割となっているのである。黒坂命が常陸、「日高見国」を統治し、エビス討伐に成功したにも関わらず、その帰途、帰らぬ人となったという筋書きが、ヤマトタケルの行方と合致することは大変興味深い。その黒坂命が本国とするのが「日高見国」である。
 『日本書紀』の「景行紀」は、「日高見国」がいかにも陸奥国のことであるかのような書き方をしているが、これは時代が下って、「日高見国」が陸奥国方面に移ってしまった後のことであって、原型の黒坂命の伝説においては、「日高見国」は常陸国を含む毛野川(現在の鬼怒川)一帯の広域のことを指すと考えられる。
 

11.縄文人の方が古代から生きている

 日本人だけが持つYAP遺伝子。日本人のY遺伝子は、YAP型に属する。古代イスラエル人(現イスラエル国の住民では無い)、チベット人のみが持つと云われている。そのルーツは縄文人です。
 イスラエル王国よりも、縄文王国の方が年代として古い。シュメル人より古い、ノアの方舟よりも古い。二ビル星人が地球に飛来するよりも古いのです。
 尚、YAP型遺伝子は、y遺伝子の中でも古い系統の一つ。しかも、ロズウェルで収容した異星人もYAP型だったとか … 。
 想像が膨らみます♪
 不思議ではないですか?
 二ビル星人の精子と地上の猿人の卵子から黒い頭の人が想像され、そのY遺伝子が縄文人と同じとは … これいかに?
 それともう一つ、人類の中で、唯一日本人だけが「海苔」を消化できる。韓国海苔とか有るがそれは加工して消化しやすくした物だそうです。
 古代イスラエル人が縄文時代の日本に渡来する時、デカン高原から、海のシルクロード経由で来たのがほぼ分っている。そうとうに苦労して縄文日本に渡来したのだろう。その過程で食料が無くて、海苔を食べていたのかも … ??
 縄文日本は食糧事情が良く、戦争も無かった。同じYAPを持つイスラエル人が兄の国縄文に渡来する時、飢餓遺伝子を持ったのだとすれば、体質が違ってきます。
 飢餓遺伝子を持つ者は、少ない食料でも生き抜ける体質で、縄文人より小柄で、消費エネルギーが少なく、太りやすいと思います。顔つきも体型も変わったことでしょう。当時の縄文人の人口分布から、九州の一部、愛知の一部、一番多いのは関東東北に掛けてです。渡来イスラエル人も海のシルクロード経由で、九州や関東に来たことでしょう。シュメル人もですが …。スサノウはアッシリア捕囚時の新バビロニアの首都スサの王の意味。そして、スメラ尊は、シュメルの王族の意味だから、同じYAPを持つ縄文人と再合流したのです。尚、テラはシュメルの地ウルの神官・王族でした。
 大陸から大量に移住してきて稲作を伝えたという弥生人は、存在しないことが分っています。稲作は縄文から始まっており、韓国や大陸とは別種の稲です。弥生時代には大陸で戦乱があり、武装難民が渡来し、大乱が起こっています。この大乱により、縄文特有のおしゃれで余裕のある風俗が、弥生のような簡素で装飾の殆ど無い風俗に変わらざる得なかった。
 さて、イスラエル人と縄文人が同じYAPを持つのは、約1万年ほど前に沈没したムーやアトランティス王家と、二ビル星の王家、縄文人の血統が同じだとすれば … 。そして、縄文人のシンボルが「勾玉」、出雲王国のシンボルがスサノウ(エフライム)の「剱」、ユダと神官のシンボルが「鏡」」であり、日本の三種の神器は三王朝の合体だと云うことでしょう。つまり、造化三神は、天御中主神は「ノア」、高御産巣日神は「高日見国(中天の太陽神ミカエル)の王」、神産巣日神は「出雲系の王」だと、推測したくなります。(*話は逸れますが、先生を通じてミカエル様が大黒天がご自身だとおっしゃっていました。つまり、船に乗って日本に渡来する七福神は、七大天使がヤハウエ様「男神・天照大神」と共に日本に渡来したという意味です。)

資料:YAP遺伝子について

 Y遺伝子には下記の分類がある。その中でも、D型とE型にのみYAP遺伝子が含まれており、それゆえイスラエル人(ユダヤ・司祭族も十氏族も含む)と縄文大和民族は元は同じ種族だと分かっている。そして、DとEが分かれたのは、分子進化時計によれば、5~6万年前とされている。つまり、ムーやアトランティス時代に枝分かれしたという事だ。尚、日本人はⅮ型の中でもD2であり、これは世界中で日本人だけにしか存在していない。結局、二ビル星人はバビロニアにおいては、アトランティス人=シュメル人を神官や官僚とし、エンキとニンフルサグが創造した黒頭の人々(イギギ)を労働者として使役した。一方、日本にはムー王族が渡来、出雲神族やアイヌやサンカとしてした生き残って縄文人と呼ばれ、シュメル人やフェニキア人やイスラエルの二氏族も渡来指定が、神の導きだと思うが同じYAPを有している。だから、大和民族は、民族的に違っているだけではなく、文化的にも精神的にも中国人・朝鮮人(夏・殷=カイン)とは全く違っている。尚、日本人はⅮ型の中でもD2であり、これは世界中で日本人だけにしか存在していない。
(※アダムとイブの子、カインとアベルは二ビル星人の子供です。そして、地球の猿人の卵子と二ビル星人の精子による受精卵を、二ビル星人の女性に人工授精して、人類・黒い頭の人々が創造されました。しかし、長命の遺伝子は与えられず、生殖本能をエンキとニンフルサグ与えられ人類でしたが、しばらくすると退化しているのではないかと、エンキが危惧した。そこで、エンキは人類の中で美しい娘を選んで、子を産ませた。この子がノアでした。だから、カインとアベルの系列は二ビル星人の系列であり、人類の始祖と呼べるのはノアなのです。自らの父王(エンキ)への忠誠心を認めてもらえなかったニビル星人・カインが、兄の二ビル星人・アベルを殺し、そのカインと一族が大洪水の後、マヤに住み着き、領土とした … マヤに住み着いた時にはすでに、神殿が残されていた。加えて、中国・朝鮮人も、マヤ人も髭が生えない。つまり、同種族なのです。夏・殷=カインがその傍証です。2019年2月23日)
  
  

YAP遺伝子のE系統は陸のシルクロード経由で日本を目指して渡来した

 日本人はまた、チベットとだけでなく、中央アジア方面とも深いつながりを持つ。遺伝子的に日本人は、中国や朝鮮半島よりもむしろ、それらを飛び越えて、チベットや中央アジア方面とのつながりが基本となっているのである。つまり、中東からチベット経由のシルクロードを経由して、最終目的地である日本に渡来した。結局、中国と朝鮮は只の経由地でしかなかった。
 現在の日本人のY染色体は、多い順にいってO系統が約50%、D系統が約40%、残りがC系統とその他(N、Q系統など)である。O系統は中国人や韓国人などによく見られるものだ。中国人や韓国人はほとんどがO系統である。しかし、日本人でも約50%を占めるO系統は、弥生時代以降に日本に入ったものなのだ。
 縄文時代(約二千年以上前まで)にはまだ日本にO系統は入っていなかった。DNA学者によれば、当時ははとんどがD系統とC系統だったのである大雑把にいうと、縄文人はD系統とC系統、弥生人はO系統である。そして、縄文時代に日本にすでに住んでいたアイヌの人々も、ほとんどがD系統だった(88%)
 C系統は、おもに中央アジアや北アジア方面に広く見られる。モンゴルの覇者ジンギス・カーンの子孫を調べた結果では、ジンギス・カーンもC系統だったという。C系統は、古い時代の日本列島にもきて、日本文化をになった人々だった。最近、ロシア南部のバイカル湖付近やモンゴル、中国に住むブリヤート人と日本の縄文人のDNAが一致することが報告されているが、ブリヤート人もC系統を多く持つ。
 尚、ミトコンドリアDNAは、変異しやすく配列の変化が激しいので、遠いrootsを辿るのには適していない。それでも、日本人には中東方面からの渡来系も多く含まれていることが明らかになっている。『日本とユダヤ運命の遺伝子』より。
 

12.要約:卑弥呼=ヘフジバ⇒「日高見国」へ⇒スサノウと婚姻

 卑弥呼は、日巫女のことで、個人を特定する名前ではありません。しかも、中国人が蔑称として漢字を当てはめているので、尚更、誰なのか不明です。従って、卑弥呼神社は存在せず、風土記にも記述が無いのも納得です。
日巫女を女王と間違えた理由の推測
 欧米人が天皇(=君民一体の共同統治)の存在を理解できないので、蒋介石夫婦のプロパガンダに騙され、中国の皇帝と同じものだとみなしてしまった。唯一神を信じる欧米人からすれば、日本人は神を偽称する独裁者天皇に騙され、その元で狂信的に戦争を強いられたと考えた。だから、彼らは悪魔教である天皇制を滅ぼし、日本をキリスト教化した民主制へ移行して、助けてあげようという気持もあった。同じく、皇帝制の中国には、太陽神の神妻=日巫女を中心とした神権国家の理念を理解できなかったから、卑弥呼=日巫女を女王と間違えたのだと思います。
 

※スサノウと卑弥呼=日巫女の婚姻 『サンカ社会の研究』P195

 このことについてはセブリに詳細な伝承がのこってゐる。日向日女天皇が、第二回目の御治世のとき、摂政スサノヲノミコトが出雲で、勅令をもって穴居の人民を地上に出されて家を建てさせられた。このことの勅命を受けたのが、大山見命であった。命は、この大業を、草木根国(攝津・和泉・紀伊)からはじめて、一柱国(壹岐)を最後に一年で途行した。
 

※スサノウとサンカ、氷川神社 『サンカ社会の研究』P196
/『秀真伝』須佐之男の八岐大蛇退治に対して、天照(あまてる)は彼に氷川神の称号を与えた。

 上記の伝承は穴居民が、いつごろ地上に出て生活したかを、考察するには得がたい素材である。
 かくして、地上に天幕生活をはじめ、農村をめぐつて歩く箕作は、当時出雲で、農耕に精勤されてゐたスサノヲノミコトのねんごろな撫育を受けた。今でも日本全国に祭られてゐる氷川神社の秋の祭典を、大鳥さまと呼び、箕の市が立つ。俗に百姓祭ともいふが、関東では特に農家の尊信するところである。祭神はスサノヲノミコトである。
 オゲツエビラは、蠶(かいこ)を飼育する蠶床のことで、これを箔(えびら)といふ。オゲツは、蠶をはじめて日向日女天皇に献じた豊日国の中津のオホゲツヒメノミコト(大食作姫命)であるこの姫は蠶の卵と一緒に、十四種の穀物を献上した。これから養蠶が天下に及ぼされることになる。また、一切の穀物をトヨタナツモノと呼ばれる語源も、十四(とよ)の十四種から起きた呼称だといふ
 ところが、卑弥呼とそっくりの女王と弟の物語があるのです。
 ユダ王国が滅ぶ直前、予言者イザヤの長女ヘフジバ(=ヤハウエ=太陽神の巫女 … 当時の太陽神はアメンラー・マルドウク様)と、弟二人が、日本に出立したのだそうです。イスラエルの王位継承は日本の皇室と同じで男系男子ですから、姉は皇位を弟たちが譲ろうとしたが、結局、姉が女王=大神官として導いたそうです。この物語は、卑弥呼の物語とも、姉のアマテラス(日巫女)と弟二人の物語と共通しています。
 そして、ヘフジバ姉弟は海のシルクロードを通じて、関東の「高日見国」に渡来し移住したようなのです。
 イスラエルは約四百年もの間、エジプトに滞在していたので、母国語を忘れかけ、風習もエジプトに近くなってしまったそうです。
 エジプトの太陽神として、朝の太陽神、中天の太陽神、日没の太陽神、隠れた太陽神(アメン・ラー)に区分されています。
 「日高」は中天の太陽のことだとすれば、しかも、「草枕」「見返る」はミカエル様のことですから、「見」もおそらく中天の太陽神ミカエル様のことでしょう。
 しかも、ミカエル様を主神とする「日高見国」の前が「日見国」だとすれば、「ヒミコ」が含まれています。これらの推測から、卑弥呼の物語、ヘフジバ兄弟の物語は、縄文人とイスラエルとの合体王朝の「日高見国」に関する神話だと推測されます。
 そして、太陽神の巫女であるヘフジバは、出雲神族を平和裏に併合したスサノウ(最初の捕囚地である新バビロニアの首都スサの王 … エフライム族)と、結婚した。イスラエルの十二氏族の観点からすれば、ヘフジバはユダ族、スサノウはエフライム族で、兄弟関係にある。つまり、出雲神族+エフライム+ユダの合体であり、これが記紀の深層であり、大和である。
 
 ◆「倭」の語源について … Netより
 中国の歴史書に現われる他民族の名称は、原則的に、彼ら自身の言語による自称に基づくものであって、その音を漢字で表記したものである。
 従って「倭」の漢字(中国語)の意味をあれこれ詮索しても、その名称の起源を探る上では、無意味だと考えます。もちろん、中国は「文の国」ですから、民族あるいは国家を表わす漢字に、「中国人の評価」が加味される事は十分考えられます。
 例えば、匈奴との関係が友好的な時には、「恭奴」と表記が変わったり、古代モンゴル人の「柔然」が時には「蠕蠕」というおぞましい漢字で書かれたりしました。しかし、そのような場合でも、発音を変えるような変更は行われなかったワケですから、表記漢字の意味から民族名の語源を推測するという考え方が誤りであるのは明らかです。
 上に述べたような原則から、明らかに、
  1. 「倭」は wa の表音文字である。
  2. wa は、日本人の自称によるもの、つまり古代日本語であることになります。
 「倭 (wa)」とは、「我ら」を意味する、我々日本人の言葉でした。中国人がつけた、「従順な」でも「背の低い」でもない、「我ら」という古代日本語です
 「倭国」は「われわれの国」という意味です。従って、「和風」とは「わたしたちの気風・風習・あり方」であり、「和食」は「わたしたちの食べもの」という意味です。
 
 ◆旧唐書 倭国・日本伝
 驚くべき事に、「倭」は十世紀前半に出された中国の『旧唐書 倭国・日本伝』には下記の記述がある。
 日本国は倭国の別種なり。その国、日辺にあるをもって、ゆえに日本をもって名となす。あるいはいう、倭国みずからその名の雅ならざるを悪み、あらためて日本となすと。あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと(「旧唐書 倭国・日本伝」『倭国伝』藤堂明保他全訳注、講談社学術文庫より引用)
 ここでは日本が日辺、すなわち太陽が上る東の辺にあって、そこから日本という国名がついた、或いは、日本が「日高見国」という旧小国であったが、倭国、すなわち大和国が支配する土地を併合した、と書いているのである。これは関東・東北にあった「日高見国」が倭国を併合した、という意味で、高天原系が出雲系から国を譲らせたという国譲り神話と符合する。同時に実際の歴史の中で東国が西国を併合した、という事実があったことを、中国の日本通の歴史家が記した、と言うことになる。
 加えて、「倭国は古の倭奴国なり」という記述を見れば、前漢王朝から「漢倭奴国王」と刻まれた金印を下賜された国の子孫であることがわかる。そうなると、倭国は北九州方面に勢力を張っていた王国の子孫がつくった国ということになる
 十一世紀半ばの『新唐書 日本伝』に、次のような記述がある。
 国、日出ずる所に近し。以て名となす。或はいう、日本は乃ち小国、倭のあわす所となる。故にその号を冒すと。
 このように十、十一世紀の中国の資料では、もともと日本は二つに分かれていたこと、「小国日本」という存在があったこと、そこと倭の地方を合わせて「日本」と呼ぶことを述べている。それが、『祝詞』の「大倭日高見国」という言葉に対応するのである
 
 ◆三王朝の三種類の「やまと=神の民」 … 三王朝を経て「日本」へ
 ヘブライ語で「やまと」は「神の民」のことだ。だから、出雲神族とスサノウのエフライム系は自民族の事を「やまと」と呼び、「大倭」と当て字した。尚、やまと言葉で「わ」は「我々」のことで、シナ側は「日巫女」を「卑弥呼」と蔑称したように、「わ」を「倭」と蔑称したのです。
 出雲と高天原の合流による大和朝廷は、「やまと」を「大和」と当て字した。
 そして、大化の改新時に、「日高見」と大和王朝との合流時には、「やまと」を「日本」と当て字し、「やまと」民族による国家として「日本=NIHON」としたのです。ヘブル語で「NIHON]は、忠実な相続者と云う意味ですから、「やまと=神の民=ヤハウェの民=エフライムとユダを一つにした王権」による「イスラエル王国の正当な相続者」という事になります。
 上記の事を、『崇仁天皇と三王朝交代の謎』 神一行著を抜粋しながら以下説明します。
 『旧唐書 (945年)』は、次のように伝えている。
「日本国は倭国の別種なり。その国、日辺にあるをもって、ゆえに日本をもって名となす。あるいはいう、倭国みずからその名の雅ならざるを悪み、あらためて日本となすと。あるいはいう、日本は旧小国(※日辺にあるのだから、日高見国のこと。大和朝廷建国時に日高見国の主要部族は大和へ移住して、小国となっていた)、倭国(大和)の地を併せたりと」
 これに対して、『新唐書 (1060年)』は、遣唐使の河内直鯨が来たことにふれている。
「倭の名を悪み、あらためて日本と号す。使者みずからいう。国、日の出ずる所に近し、ゆえに名となすと。あるいはいう、日本はすなわち小国、倭の併すところとなる。ゆえにその号を冒せりと」
 そして、『旧唐書』と『新唐書』は「倭国は、その名が上品でないので日本国に改めた」と、ここまでは一緒だが、最後の部分はまったく逆のいい方になっているが、『新唐書』で間違いをただしたのだろう。事実、日高見国が大和に合流している。おそらく、大化の改新は、大和朝廷のモーセの律法に戻る大改革だった。その改革=神に帰るために、日高見国・小国日本から人材とモーセの秘宝を取り入れたのだと思います。そして、唐のGHQにより大和が解体されていくのを、神々が憂えて、天智天皇・中臣鎌足をして大化の改新(⇒[大化の改新は大和(ヤハウエの民)の復活だった])を断行させ、天武天皇をして国名を「「日本」に変え風俗も一掃したのです。
  『旧唐書』:日本は旧小国であったが、倭国の地を併合した。
  『新唐書』:日本は小国なので、倭の併すところとなり、号をとってしまった。
 また、十種の神宝とは、スサノオ一族(出雲王族 … エフライム系イスラエルの十氏族)の王位継承の印で、やがてそれはニギハヤヒから長男のウマシマヂ(物部の祖先)に受け継がれ、入り婿となった日向御子に献上されて、神武天皇が誕生した。これが史実であることは、現在、この〝十種の神宝″と〝布都御魂(スサノウがヤマタノオロチを退治した剣)″が、物部一族の氏神社といわれる「石上神宮(いそがみ)」に国宝として納められていることからもわかる(⇒[神武天皇を即位させた物部一族])。彼らは「やまと」を「倭」「大倭」と書いている。尚、物部はシュメル語で「武人集団」の意味なので、「いそがみ」は「50神」と解釈出来て、シュメルの神・エンリル様に導かれていたのだろう … 精霊の意味もある。加えて、ウマシマジの子・重代主神の娘・媛多々良五十鈴媛(たたらいすずひめ … 神武天皇と結婚⇒なぜ媛踏鞴五十鈴媛を正妃に迎えたか)にも50が出現しており、関連が深いことを示唆しています。というのも、神々の核戦争直後、神の民としてウル(エンリルの長子・月神の都)の神官・王であるテラを選んだのがエンリル様だったからです。
 さらに、神武天皇の和風諡号は「神日本磐余彦命」で、読みが“かむやまといわれひこ”です。また、「日本武尊」も「やまとたける」です。この時代では、「日本」を「やまと」と読み習わしていることから、まだ「NIHON」国以前に諡が命名されたのだと分かります。そして、神武天皇は高天原=日高見国系の御子だという事も示しているのです。
 
 ◆ヘブル語「日本 NIHON」
 日本人は神の民である。ヤマト=ヤー・ウマトウ、つまりへブル語で「ヤハウェの民」なのである。日本人は大きな使命を負っている。
 失われたイスラエル十支族の内でエフライムを中心とした王家の氏族、及びユダヤを中心とした二氏族が、日本にやってきた。天武天皇により、聖徳太子の「日出国」の習いとして日本と命名された。
 さらにニホンという音にも、じつは秘儀がある。以前エルサレムのヘブライ大学で東アジア学を教えるベン・アミ・シロニー教授が、「ニホン(NIHON)をへブル語で書くと、「」となりますが、真ん中の三文字に神の御名が入っているのですよ」と、教えてくれた。(ヘブル語、アラビア語は右から左に読む)
 神の御名ヤハウェは、正式にはへブル語で「」と書き、4文字である。その短縮形で最初の2文字も、よく使われる。しかし、人名や何かの名のなかに神の御名を含めるときは、最初の3文字「」がよく使われる
 たとえば「イザヤ」は「ヤハウェの救い」という意味、「エレミヤ」は「ヤハウェは高くしたまわんことを」の意味だが、いずれもその人名に神の御名の3文字が入っている。その3文字が、「ニホン」を表すへブル語の5文字の真ん中に入っている。
 残りの2文字、すなわち「ニホン」の両端の文字は、両方ともへブル語アルファベットの「ヌン 」である(「」はその語尾形。英語のNに相当する)。ヘブル語アルファベットには、それ自体に意味があって、ヌンには「忠実」「忠実な相続者」の意味がある。
 すなわち「ニホン」という呼び名には、ヤハウェを中心とし、そのまわりを忠実な者たちが取り囲むという国家理想が込められている。「われわれはヤハウェを中心とする国」の意味が入っているのだ。まさに古代日本にきたイスラエル人のメッセージが、そこから聞こえてくるようだ。
 ニホンは「神ヤハウェの国」?(※これは、天皇制国家として実現されてきた。アインシュタインがユダ王国の理想を日本に見出したように … )
 日本人のアイデンティティはそこにある。遺伝子もそれを示している。日本人が今日荒廃しつつあるとすれば、(※戦後自虐史観により)それはこのアイデンティティを見失っているからである。日本人の本来の姿の復興のためには、このアイデンティティ(※「神道」「日本神話」「神武天皇の建国の詔」「十七条憲法」「教育勅語」「五カ条のご誓文」)の自覚が不可欠である。(※ただし、科学時代にふさわしい形式で!) … 『日本とユダヤ 運命の遺伝子 久保有政著』より抜粋
 葛城9代には、神民族(モーセの民に対して、大和民族「神の民」)から、神の民の独立国家建国(イスラエル王国に対して、大倭=日本)までの歴史が刻まれている。日本において、「出雲系と高天原系」が合体したのは、旧約の予言通り、エフライムとユダが一つの杖「王権」で結ばれるが成就したのです。たから、日本は「正当な神の国の後継者」(⇒[古代日本とユダ族]参照)に他ならない。結局、葛城9代の実績を神武天皇の所に記述し、他は大和民族の出自を残すために「モーセ/ヨシュア/サウル王/ダビデ王/ソロモン王」を暗喩したのだと思います。それだからこそ、日本は「最後の審判」に備えられるべき宿命でもあったのでしょう(記 2019/02/27)。
 ⇒([縄文人の方が古代から生きている][葛城王朝9代の謎])参照。
 
 ◆ノアの呪いと自衛隊・専守防衛
 ノアの大洪水の後、ノアは最初のぶどうの取り入れから出来たぶどう酒を飲み、酔ってしまい、天幕の中で裸になって寝てしまう。カナンの父ハムはノアの裸を見てしまう(一般に旧約聖書の中で「裸を見る」という表現は性的関係をあらわすものとして使われている。つまり、男色を意味しているのでしょう。)。これに対し、ノアはカナンの子孫に対して、兄弟の奴隷になるように呪います。ノアの呪いと呼ばれています。
※セムの天幕とは、ユダとエフライムの後裔である大和民族(神の民)の国、つまり日本(神の国)は国軍を持たず、戦後において、ヤペテである米軍に保護され続けている。(⇒[ヘブル語の「日本 NIHON」]参照)
 しかし、カナン・カインである中国大陸や朝鮮半島を支配する漢民族は、日米に従属する存在のはずなのに、「共産主義」「今だけ金だけ自分だけ」により、日米を転覆させようとしている。
   「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟達に仕える。
       ・・・
    セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。
    神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。
    カナンはそのしもべとなれ。」[創世記 9章]
 
 ◆「富士」、「NIHON」と「NIPON」
 「ふじ」の語源について、井野辺茂雄は著書「富士の歴史」の中で、Hの古代音がPであったことから昔は「ぷじ」と発音したに相違ないとし、平田篤胤の説をはじめ五つほど紹介しています。つまり、ヘブル語の「NIHON]が、縄文系の人々だと「NIPON」と呼ぶという事です(⇒[ヘブル語の「日本 NIHON」]参照)。
 本書の「ふじ」の探索結果は「プシル 倉庫のような形をした山、三角形の様に整った山」であり、ほとんど井野辺の指摘のとおりです。「シル」の「ル」は無声の子音ですので、「プシル」は「プシ」と聞こえます。「プシ」が「ふじ」へと転訛したのです。すなわち、「ふじ」の語源は「プシル」なのです。
 
 ◆中臣氏の出自について
 皇室の祭儀氏族は、忌部、泰、藤原と変わってきた。もっとも、泰一族は表面からは消えて、藤原一族と合体してしまいます。
 この藤原一族が、中臣氏です。
 中臣鎌足が藤原氏の始祖です。大化の改新の中心人物で、最後まで天智天皇に尽くした人物です。そして、日本書紀の編纂は藤原不比等です。
 一説には、大化の改新はモーセの律法へ戻ったとされ、日本式律令制を打ち立てています。天皇の下に左大臣と右大臣がいて、格としては、左大臣が右大臣より上です。
 天皇は左大臣にて祭儀を執り行い、右大臣を任命して政治を任せていた。しかも、班田収授法(世界初の社会主義 … 土地はすべて皇室のもの)、豪族には官位を授けた。
 この中臣=藤原氏の出自が明確ではありません。大化の改新がモーセの律法に戻ることであれば、彼は朝鮮半島からの渡来人ではないと思います。事実、大化の改新の律法は、モーセの律法にそっくりです。
 一説には「藤原」は「富士原」だとか、であれば「日高見国」の中心人物だった可能性があります。
 つまり、白村江の戦いに敗れ、日本が唐の支配下に置かれ、三種の神器の種族(出雲、日高見国、大和)が再団結しようとしたのでしょう。
 尚、記紀には記述がありませんが、九州王朝も、日高見国も存在していて、大和国、日本国の建国に役割を果たしています。
 おそらく、九州王朝の出自である天武天皇は、大和を富士王朝の後継である日本に改め、髪型風俗までをも改めた。例えば、男子はちょんまげにしましたが、それまでの軍人は埴輪にその姿が残っていますが、鎧兜の姿はちょんまげでなければなりません。つまり、白村江の戦いに敗れ、富国強兵の体制を整えたと言うことです。
 この富国強兵の体制は、明治維新にそっくりです!
 というか、明治維新は第二の大化の改新というべきでしょう
 おそらく、この富国強兵体制の軍事は、戦闘を繰り返してきた中東などからの渡来人の集まるところである兄弟国である九州王朝や日高見国であったことでしょう。ちなみに、大分県国東半島には、日本固有のたたら製鉄跡がある。また、約3500年前、稲作と産鉄の技術を持った民がタルシシ船で渡来している。だからこそ、日高見国の王は、一旦、九州王の地に立ち寄り、武器を整えて、東征をおこなったのです。
 
 ◆「最後の審判」 … 「最期の審判」を超えて
 結局、葛城9代の実績を神武天皇の所に記述し、他は大和民族の出自を残すために「モーセ/ヨシュア/サウル王/ダビデ王/ソロモン王」を暗喩している。それだからこそ、日本は「最後の審判」に備えられるべき宿命でもあったのでしょう。(その通りです。ダビデは「最後の審判」を通じて、全地球人類を支配下に置こうと企んだのです。それは、ダビデの霊言「聖書の予言」と日本の皇室を利用し、まずは日本をそして全世界を騒乱に巻き込み、地球人類を彼の支配下に置こうとしたのです。だから、天上界はこの「最後の審判」から地球人類を救うべく、ダビデを含め「最期の審判」を通じて、地球の未来に希望を齎そうと、千乃様の出現も必然だったのですと、概略、ミカエル大王様より。ダビデ王・ソロモン王・イエス母子の悲劇を繰り返さないためにも …  記 2019年2月27日)
 以下、推測です。
 『古代日本と七大天使』の著者である西沢氏は、当時、「日本」をヘブライ語訳すると、自分たちの出自を忘れた、つまり、イスラエルの二氏族だという事、主神がヤハウエだという事を忘れた民だと、述べていました。これを聞いて、とても悲しい思いをしましたが、現日本人と「神道」を見ると事実なのだと思わざる得ませんでした。
 しかし、その後のメッセージから、明確な教義が残らなかったのは、ダビデによる四度の仏教革命(蘇我氏、聖徳太子、親鸞・法然、天津教)、唐と連合国によるGHQ支配により、日本民族の滅亡を守るためだったのではないかと思いました。それは、明確な教義を残すと、大和民族の出自が明らかになり、聖徳太子の様に完全に滅ぼされてしまう事を避けようとされたのだとも、メッセージについて読めてしまいます。
 2006年頃でしょうか、千乃先生を通じて、ミカエル大王様は「十戒を納めた契約の聖櫃は絶対に出現させない」という趣旨を述べられました。また、在り処はご存知だとも。何故なのか不思議でなりませんでした。
「神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、エフライムの杖(王権)と、それにつくイスラエルの諸部族とを取り、それらをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、私の手の中で一つとする」[エゼキエル書 37章]
 日本の敗戦直後、米国のユダヤ人などから、モーセの秘宝を返せと脅されたり、禁則の地である仁徳天皇陵などをGHQは日本政府を脅して発掘したとか。それだけ、彼らは自らをヤハウェの選民として任じることを、切望しているのです。
 日本において「一本の杖」の予言が成就しており、その証拠として「契約の聖櫃」を公開した場合、キリスト教国連合・米・英は、ヤハウェの国・ヤハウェの民に対して、二個の原爆を含め悪魔の傀儡のような虐殺を行ったのみならず、ヤハウェの意志である「日本精神」の破壊をもGHQを通じて行ってしまった。それは、あたかも神の子であるイエスをユダが裏切り、パリサイ人がイエスを十字架に付けて虐殺したのと同じことだ。だから、マルクスが、神を切望し、そして神に失望し、神を憎み、そしてダビデの傀儡として人類を滅ぼす共産主義理論を書き記したのと同じで、自らを神の使途と任じていたキリスト教国連合は日本を破壊し尽くそうとし、この旧約の予言を信じる民族や国々との、人類滅亡をかけた大戦が勃発することでしょう。どちらが勝っても、地球は悪魔の王国と化している思います。この手法は共産主義の「敗戦革命」による、共産主義化=悪魔の王国と同じ道のりです。
 何故なら、ヤハウェを裏切ったキリスト教連合国が勝てば、自らの手で神を殺したことになり、人類の希望は失われ、共産主義体制のような絶望だけが残されるでしょう。
 もし、天皇連合軍が勝てば、下記[エゼキエル書 37章]の予言の後半部の様に、天皇=サタン・ダビデの傀儡としての王国が建国されてしまうからです。
 だから、“日本人が今日荒廃しつつあるとすれば、(※戦後自虐史観により)それはこのアイデンティティを見失っているからである。日本人の本来の姿の復興のためには、このアイデンティティ(※「神道」「日本神話」「神武天皇の建国の詔」「十七条憲法」「教育勅語」「五カ条のご誓文」)の自覚が不可欠である”の、成就が待たれるのです。
 [エゼキエル書 37章
 次のような主のことばが私にあった。
 「人の子よ。一本の杖を取り、その上に、『ユダと、それにつくイスラエル人のために。』と書きしるせ。もう一本の杖を取り、その上に、『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために。』と書きしるせ。
 その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれを一つとせよ。あなたの民の者たちがあなたに向かって、『これはどういう意味か、私たちに説明してくれませんか。』と言うとき、彼らに言え。神である主はこう仰せられる。
見よ。わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族とを取り、それらをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする。(※日本において成就している)
 あなたが書きしるした杖を、彼らの見ている前であなたの手に取り、彼らに言え。神である主はこう仰せられる。
見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。
(※イスラエルの二氏族他が日本に集められた。イスラエル民族は、日本を最終目的地とし、他は通過地点に過ぎなかったことと、符合します。)
わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。
(※スサノウ系と高天原系が一つになり、つまり女神アマテラスとスサノウが結婚して、天皇を大王とする日本を建国。それは、二ビル星で南北の王朝が、王と王妃を選出し結婚し一つになり、統一王国を建国したように。)
彼らは二度と、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない。わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
(※神道や日本神話には偶像などが無い。しかし、天皇家は明治までは男子全員が、以後は皇太子だけが、割礼をしているとか。つまり、皇室は自らの出自を秘儀として知っているので、日本人は大司祭である天皇を通じて、今もヤハウェに祈りを捧げ続けている。古代日本において天皇は大王であったが、大化の改新を通じて大司祭に位置付けられ、天皇は右大臣を任命するだけで、政治は右大臣が取り仕切ることになった。加えて、聖徳太子が天皇に即位しなかったことも含めて、ダビデの計略はここで後退した。)
わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。
(※つまり、天皇をして、サタン・ダビデの傀儡とすることを意味する。だから、このダビデの霊言で、「最後の審判」を日本で行う事を述べているのです。
 もし、聖徳太子が、昭和天皇が、イエス母子の様にダビデの傀儡に堕していれば、以後のダビデの霊言は成就していたかもしれません。日本神話にもダビデの跳梁の痕跡が多々あり、例えば仲哀天皇はダビデにより殺されたとのメッセージがあります。皇室は常にダビデの脅威の下にあるのですから、その中で大司祭として天を信仰し続けるのだから、皇室の位階として「菩薩界 … 自分より他を優先する。他にも、悪魔の被害者などが保護されている」だと証言されているのも、納得できます。尚、賢人天皇は如来界だそうです。)
彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。
(※今後も含め、天皇がダビデの傀儡となり、契約の聖櫃を公表して、イスラエルとユダの王権が成就していることを、表明したとすれば、当然、日本人も含め離散している全イスラエル人がイスラエルに帰還し、天皇をダビデ王の再来と祭り上げることでしょう。だからこそ、このダビデの霊言を絶対に成就させないために、ミカエル大王様は「契約の聖櫃は絶対に出現させない」とおっしゃったのだと思います。それに、「契約の聖櫃」が日本で出現すれば、皇室は我こそはダビデ王の再来だと逆に、ダビデの手中に嵌る恐れもあるのかもしれません。
わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。
わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。
(※新イスラエル王国にて、全人類を支配するという意味。その方法の一つが、ダビデの霊言である「千年王国とヨハネの黙示禄」です。昭和天皇の時代だけではなく、イエスの再臨としての聖徳太子の時代にも、三国一の国でしたから、ペルシャ・インド、唐などとの交流があり、船でイスラエルに帰還することが可能でした。)

統一朝鮮は「最後の審判」の再来? … 筆者の危惧

 ダビデの地球を悪の王国にする計略「エゼキエル 37章」「ヨハネの黙示禄」は、何度も繰り返されてきたが、天上界によりそのたびに阻止されてきた。
 蘇我氏の皇室を滅ぼしてとってかわる計略は、天智天皇と中臣鎌足により天誅が下され、大化の改新により天皇は大王から大司祭へと、本来の職務に戻された。
 聖徳太子をイエスの再臨とする「聖徳太子革命」は、太子を天皇に即位させなかったことにより、阻止されている。
 仏教革命、及びメシア・キリスト教革命は、日本では戦国武将により阻止された。しかし、大和っ民族と同じ遺伝子を持つチベットでは密教革命が実現していたり、イスラム教革命が実現している民族もある。
 大東亜戦争~昭和において、神の導きに従われたの昭和天皇と、ヨハネパウロⅡ世様は、大戦を通じた敗戦革命と世界の共産化から悪の王国への謀略を、神の叡智により阻止された。そして、ノストラダムス「1999年恐怖の大王の降臨」にて、恐怖の大王=イエス(ダビデにより磔にされ、霊体は暗殺されているので、このイエスはダビデの化身である)が雲に乗り出現し、ヨハネの黙示禄を遂行する手はずだったが、千乃先生・現天上界とこれに集われた昭和上皇様(如来界)と聖パウロ二世様(天使界)、及び火星UFO艦隊様方により、二度のハルマゲドンを通じて阻止された。
 そして2019年現在、日本の皇室が滅ぼされて日本が中国の一自治区になったり、何らかの大災害により日本が住めなくなったり、日本が中国・統合朝鮮とのに戦乱に巻き込まれたりなど、日本民族が大量に移住しなければならなくなる状況が出現した場合、円が紙切れとなり、日本民族の富は一瞬にして失われれば、優秀な人・安価で従順な労働力以外の受け入れ国は殆ど見つからないだろう。そこで、日本民族は、DNA的にも、イスラエルの後裔であると発表すれば、ユダヤ人及びイスラエルは「エゼキエル 37章」の実現として、喜んで受け入れてくれるだろ。これも、ダビデの残党による計略の一つだろう。(2019年2月28日)
 

正法会と虹暈について--エノクの虹

 天国シリーズの虹暈に次いで、ここ福井県五太子町は、虹暈の連日出現に村民は初めは驚き、今では慣れっこ。“あ、又出てるぞ”“そうか”位なものです。
 しかしこれは総て現天上界とヴァル様のUFO艦隊やシリウス艦隊メンバーによる現出で、最後の審判時の天のしるしとして出されたものです(LR 2004年特別秋号)。今迄に無い美しくも壮大なスケールで、連日福井にのみ出されるという事は、自然の物では無く、天の介在する奇蹟の虹である証拠です。
 
 マスコミは自然の物と最初書いて居りましたが、連日の虹暈にその声は消えました! 特定の期間、特定の地域にのみ出るのは自然現象では有りません。しかも北海道や東北の寒冷地方に出るべきなのに、福井県五太子町に限定されているのですから──。
 そして雲の合い間に、虹暈の周辺に上下する霊体の流れは、亡くなられたUFO艦隊の方々が霊体の集合体として出された事を証明します。近眼の方はそのまま目を近づけて、遠視の方は天眼鏡などで確認して頂けます。
 今回はデジタルカメラの物も有り、普通のカメラより一層美しく撮れているのが判ります。エノク書(小賀科学班長解説)に預言された通りの天の虹です!!
エノクの虹 … 「新しき天智の創造」『LR 2004年特別秋号』
 聖書によれば新しい天が開け、千年王国が到来すると記述されています。これに関連して、雲に乗り飛来される救世主は、ヴァリアント大天使長様とUFO艦隊の方
々だと教えていただきました。
 この新しい天とは一体何を意味しているのでしょうか。漠然と読んでいると、地球崩壊後の新天地=新しい惑星もしくは、大災害後の荒廃した地上に飛来する巨大UFOかもしれないと推測することも可能かも知れません。
 そこで、「エチオピアのエノク晝」の“終末の黙示”(「審判の日」二見書房より)から、左記抜粋です──つまり「最後の審判」には「義の審判」「永遠の審判」に分かれて行われる。
私は第一週の七日目に生まれた。その頃はまだ公平と義が保たれていた。
だが私の後から、第二週に大きな悪が始まるだろう。
また、偽りが突如として現われ
最初の終末がおとずれる
その時一人の人が救われるであろう。
それが終わると不義がはびこり
罪人のための律法がっくられる。
  (中略)
そののち、第九週に全世界に対する義の審判が示される。
不審者の業はことごとく地から消し去られ
この世は破滅へと定められる。
このことがあってのち、第十週の七節目に
大いなる永遠の審判がくる。
その審判において主は天使たちのうちに報復を行ない
最初の天は去って
新しい天が現れ
天のあらゆる軍勢が七重の光を放つ。
 現在、地球文明と人類は、地球の大災害もあり、岐路に立たされています。高度な文明と正義の心を持つ宇宙人達は、友好の内に地球に共存を求めており、人類は大災害を独力で回避することはできません。正義の宇宙人との共存共栄は、人類存続の第一ステップだと思います。
 現天上界に、元は同一種族だとしてもヴァリアント大天使長様とUFO艦隊の方々(加えて、同盟星の方々)が合流され、さらに地球に飛来してきている宇宙人を呼び集められています。この現天上界(太陽系霊団)と正義の宇宙人達の合体した新しい天が、この新しい天と反目する集団との戦いが済んだ後、地球と人類を存続させ、銀河に平和をもたらす事を、預言しているのではないでしょうか。
 だとすれば、今この時が新しい天の創造の時であり、私達は幸運にもこの事実を目の当たりにしているのかも知れません。



 以下、主な参考文献は『消えたシュメル王朝と古代日本の謎』です。
           ⇒[シュメル神話][シュメル律法][ハムラビ法典

13.シュメル人の出自について

 シュメール王国(ウルク王朝、アッカド王朝、ウル王朝)のあったチグリス、ユーフラテス河畔は〝肥沃なる三日月地帯″と呼ばれ、農耕だけでなく、漁業にも適していた。それだけに外敵から狙われ、ナラム・シン王 (在位紀元前二二五四~二二一八年)の時には、ザクロス山岳地帯に住んでいた破壊的なグティ人が、続いて四方からセム系のアムル人、東からはエラム人が侵入を開始した。そして、ウル王朝第五代のイビ・シン王(在位紀元前二〇二八~二〇〇四年)がエラム人の捕虜となり、東方山中に連れ去られると、シュメール人の時代が終りをつげる。
 もっとも、楔横形文字の変化の過程をみると、その後もシュメール人はメソポタミアに居住していたものと思われる。彼等を完全に駆逐したのは、セム系遊牧民族のアッシリア人である。その性は残酷で征服地を徹底的に破壊した。住民を強制的に移住させ、反乱を起こす者は酷刑に処した(*当時の敗者は強制移住せられる民族は多かった)。
 アッシリアが古バビロニアを征服して、オリエントを統一したのは紀元前六七〇年だが、これも同六一二年に滅亡。続く新バビロニア、エジプト、リディア、メディアの四国もペルシア(紀元前五二五年に全オリエントを統一)に下り、ペルシアもまたギリシア戦争の後、アレクサンダー大王の東征によって亡びた。時に紀元前三三〇年。こうして楔形文字も世界から消え去った。
 シュメール人がどういう種族であったのか明らかでないが、古バビロニア人と共に農耕、漁業を盛んに営んでいたことは、粘土版に書かれた文書から知ることができる。ビールとブドウ酒を愛し、イカ、タコ、キュウリの酢の物なども食べていたらしい。馬にひかせる戦車には乗ったが、騎馬の習慣はなかった。どちらかといえば、海洋的な性格の強い民族だった。
 さて、メソポタミアはギリシャ人が命名しており、ティグリスとユーフラティスの両大河に挟まれた土地を意味する。今から、約7千年前、メソポタミアの南部に文明が花開いた。その原動力が、海から出現した部族シュメルである(シュメルは=SUMERは英語読みで、ラテン語では「スメル」)。
 一説には、「イラク人にはシュメルの血が入っているが、シュメル人はアラビア人ではない。彼らは中央アジアから海を伝ってイラク南部に入り、人類最初の文明を築いた。そして、メソポタミアから忽然と消えていった。まさに謎の民族である」、シュメル人についての最も古い伝承は「太古に七人の賢者が海から現れて、人々に知識を教えた。その一人がウルに現れた海士である」(*二ビル星人はアヌンナキと呼ばれ、天から降りてきた人と呼ばれているので二ビル星人とは、別人類である)と、している。シッチン氏のシュメル神話によれば、人類は二ビル星人により黒い頭の人として創造されている。では、海から現れた7賢人とはいったい誰なのだろうか。二ビル星人が地球に飛来する前の地球人類に他ならないとすれば、沈没したムーやアトランティスやレムリアの生き残りの人々だと云うことになる。だとすれば、ムー文明の正当な後裔である縄文文明とも関連があるに違いない。インドにはチャーチワードが発見したムー文明の碑文が残されていたのですから、インドから海を経由してメソポタミアに到着したとも考えられる。確かに、兄弟殺しの罪に問われたカインはエルデンの園を追放される。その時、エルデンの園の外には二ビル星人が創造した人類は存在しないはずなのに、カインが殺されないように神は印を付けている。つまり、先人類が沢山生息していたのです。
 日本では、天皇を「スメラ・ミコト(王族)」と云う。神社の祝詞では「スメ(尊い)・カムタチ(神々)」とも云う。スもしくは、「スム・スメ」は、スメル語でも「尊い、崇高なるもの」を意味している。シュメル語で「シュメル」のラテン語読みは「スメラ」ですから、「スメラ尊」はシュメルの王族を意味します。
 現在のイラク南部、ティグリス、ユーフラテスの両大河に囲まれたメソポタミアの地に最初に住み着いたのは、今日「ハラフ人」と呼ばれる人々だった。時代は紀元前五〇〇〇年ごろ今から七千年も昔のことである。彼らはのちに、シュメール人の都市名の名づけ親となる、いわばシュメール文明の準備者とでもいうべき存在だった。
 やがて紀元前四〇〇〇年紀後半になると、この地にはウバイド人の集落が形成されはじめる。彼らはいずれも内陸部から高温乾燥気候の低湿地帯・メソポタミアへと移住してきた人々だった。ところがそこに、反対側のアラビア湾から、まったく別の民族がやってきたのだ。
 彼らがどこからやってきたのか、正確なところはわかっていない。インドの北岸地域、さらにはその奥のヒマラヤ方面だという説が有力だが、いずれにせよ紀元前四〇〇〇年という太古の時代に、彼らは大船団を率いて海を渡り、メソポタミアヘ上陸したのだ(*ムーやアトランティスやレムリアの人々)。
 まもなく彼らはここに定住し、先住民たちに新たな知識を与えていった。
 大規模な港漑設備をつくり、食糧生産能力を向上させ、大河流域の広大な土地に杭を打ちこんで測量をはじめた。水面下の土地は干拓によって水を抜き、あまった水は貯水池として備えた。さらに、運河を引き、神殿を建て、あらゆる文化を生み、ついには人類最初の都市をつくりだしたと云われているが、縄文文明と比較するとまるで文明の内容が異なっている。縄文文明は樹木と山の文明で、シュメル文明は平地と農業と石の文明だからです。つまり、二ビル星人が地球に飛来し金の掘削地としての植民地とみなしていた時には、先史人類とは交わらなかった。しかし、二ビル星人の都市が大きくなるに従い、二ビル星人が先代文明の人々へも影響を及ぼし始めたのだと思います。かくして彼らは先住民族から「シュメル人(文明をもたらした者)」と呼ばれるようになった。尚、古代のシュメル人達は自らの部族を「キ・エン・ギ(葦の主の地)」と呼んでいた。それだけ、シュメルの地は湿地帯で葦が生い茂っていたのです。もし、シュメル人が二ビル星人が創造したのであれば、自らの出自に関して「天孫族」「天子族」「天神の子供」と呼ぶに違いない。だとすれば、シュメル人は二ビル星人が飛来する前の土着民族ではなかろうか。
 シュメール人とドラヴィダ人はマレー半島を経由して日本へ
 シュメール人とドラヴィダ人は、牛をトーテムとするウル人やアーリア系のインド・イラン人に追われた。一部は残留したが、多くは山中に隠れたり、南方の海上に逃れたりした。台湾のヤァミ族は典型的な竜蛇族で、蛇のトーテム・ポールや楯を作り、蛇の入墨をする。紋章の流れをみると、彼等はインドネシア方面から流れ着いたらしい。高砂族の研究家として知られる国立台湾大学大学院長の陳奇縁氏にお尋ねすると「マレー半島あたりから渡来したと考えて、間違いありません。言語もほとんど同じです」と答えた。
 稲荷山鉄剣文の解読などで有名な大野晋学習院大教授は、インド南部に住むドラヴィダ人の一方言であるタミール語に、日本の古語と対応する単語を続々と発見、〝日本語のルーツはタミール語だ!″という説を打ち出してている。ドラヴィダ人は、竜蛇神を信奉するシュメール人の一支族である。
 ◆古拙シュメル文字と神代文字は似ている … 源流は先代文明!!
 古代日本にシュメル人が渡来している。彼らの古拙シュメル文字(シュメル文字の最初で、内容は絵文字です)で書かれたペテログラフが残されています。さて、古拙シュメル語は、シュメル人による発案なのでしょうか?それとも、世界で一番古い縄文人の発案を真似たものなのでしょうか?
 黄河流域には、水と富を求めて、言語の異なる多民族が集まってきた。そこで、絵文字による商取引が始まったそうです。民族により絵文字の呼び方はばらばらですが、指し示す物品と価格については互いにわかり合えた。これが漢字の始まりだそうです。
 約2000年前に書かれた「契丹古伝」によれば、「漢字以前の文字を天字といい、天字以前を卜字、卜字というのは殷字であり、殷は元これ倭国(日本)」だと。 
 では、古代シュメルの地にあったエデンの園から、兄弟殺しの罪でカインが追放されます。その時、外の世界には人々が居て、殺されないようにと神はカインに印を付けます。ということは、二ビル星人の人類創造以前に、地球には先住民が沢山居たと、聖書は証言しています。であれば、二ビル星人が創造した人類と先住民との交易は、古拙シュメル文字で行われていたのでしょう。この古拙シュメル文字は先住民が利用していた文字だとすれば、それはムーやアトランティスやレムリア文明の生き残りの人々が使っていた文字だったに違いありません。
 ムーの正式の後裔である縄文も、この古拙シュメル文字を使っていたことでしょう。加えて、シュメル言語と日本語は、構造が似ていることも一つの傍証だと思いますこの古拙シュメル文字が縄文時代から古代日本に掛けて神代文字へと分化していったとすれば、古拙シュメル文字と神代文字は似ていても当たり前だと思うのです
 シュメル語も日本語も「てにおは」を使った膠着言語で、単語にも似たものがある。また、母音は日本語が「あいうえお」の5音、シュメル語は「あいうえ」の4音、英語が12音、ドイツ語が15音、フランス語が16音で、日本語とシュメル語は似ている。また、外来語を柔軟に取り込める構造となっている。
バビロニア
 シュメル地方と北部のアッシリアを合わせた地域のこと。
バビロンの十六菊花紋   … ⇒(皇室とフセイン大統領、十六菊花紋の由来)
 バビロンのイシュタルの門は、前600年頃のカルデア王朝、ネブカドネザル二世が築いたと云われる。カルデア人とは「シュメル地方の人々」の意味。イシュタル門の通路の側壁には、ライオン像が多数描かれ、その周囲を「王家の紋章」といわれる十六菊花紋が取り囲んでいる。ちなみに、二頭のライオンはギルガメッシュ王を、ライオンはユダ族のシンボルである。
ウルク
 聖書ではエレクのこと。

 ◇ ◇ シュメルの医師と薬と占い師

 古代シュメルの時代から、白魔術や黒魔術が盛んで、言霊の考え方もシュメルが発祥の地です。
 アブ・シャフレーン伝説のなかに、古代に七人の聖者がメソポタミアの地に現れ、土地の人々に知識を与えたという話があるということは前章で触れたが、そのうちのひとりは医師だった。実は当時、医師には二種類のタイプがいた。第一は「アスー」と呼ばれる医者で一般的なもの、第二が「アーシプ」と呼ばれる医者で「占い師」、あるいは「まじない師」と呼ばれていたものである。メソポタミアの遺跡から発掘された医学のテキストは、「もし人が病気になって次のような兆候があった場合は」という書きだしでさまざまな具体例を挙げ、薬の名称、処方の仕方や使用法などを記述し、最後に「その病人はこれでよくなるだろう」と結んである。
 こうした治療を行った医者が、開業医のアスーである。また使用された薬草は、板・茎・葉・実などを括りつぶしたり、煮たり乾燥させたりして患者に投与された。またときには、薬草をビール、酢、ハチミツや動物の脂などで溶いて飲み薬や座薬として使用した。なお、これらの薬草がすべて、メソポタミアで採取されたものであることも興味深い。
 次にアーシブであるが、アスーと異なる最大のポイントは、第一に患者の痛状を客観的に判断するために、体温測定や脈拍を調べたことである。といっても、その結果に対応して投薬を与えたりはしない。最大の目的は、その患者が「生死の境」のどのあたりにいるかを判断することであった。そのうえで呪術と知恵の神「エンキ」に祈りを捧げ、悪霊を追い払うための特別の「まじない」を行うのである。つまり、海から現れた医師とは無関係です。彼らがムー文明の後継者であれば、ムー文明の「聖なる書 … 9割が科学」を伝承したことでしょう。
 記録からはメソポタミアの人々が、シュメールの神官やアーシブが行う加持祈藤を信じ、アスーが行う治療より重きをなしていた様子がうかがえる。
 メソポタミアの地においては、エヌマ・エリシュ神話(天地創造神話)やギルガメシュ叙事詩(世界長初の物語)に書き残されているように、「八百万の神々」が人間に生きる力、すなわち「霊智」を与え、常に神と人間との問で眼に見えぬ魂の交流があると信じられてきた。「病は気から」といわれるように、現代社会においても人間自身が持っている神から与えられた「霊智」を呼び起こすためのさまざまな祈念や呪法が残されているが、その起源は遠い昔のメソポタミアにあったのである。
 おそらく、すべての物質や生命に神聖が宿り、これを聖なるものとする思想はムーやアトランティス文明からの伝承だと思います。二ビル星人による多神教は、生きた二ビル星人が都市神として王座にあり、かれらの区別する為に、風、川、空気、 … とイメージやシンボルで表現していました。二ビル星人が地球に増えるに従い、そのシンボルは増えていったので、一見自然の中の精霊信仰に似ていますが、実は全く相容れない思想です。従って、両者の信仰が混交していたとすれば、シュメル文明は二ビル星人と先地球文明が混交していたと思われる。そこには、二ビル星を追い出され、穏やかな善の世界を壊した大サタンの影響もあったことでしょう。推測として、この大サタンはプレアデス星人の霊体で、二ビル星の南北に分かれた永遠とも思われる争乱をも企てた張本人だったのかもしれません。そのその大サタンが一万年以上前に地球に飛来していたのでしょう。

14.「エヌマ・エリシユ」神話と洪水伝説

 メソポタミア南部を「スメルの地」、北部地方を「アッカド」と呼ぶようになったのは、およそ紀元前二五〇〇年ごろのことだ。
 そのスメルとアッカドには、太古から伝えられた神話が数多く残されている。このうちのひとつが、「エヌマ・エリシュ」という書きだしで始まる天地創造の物語である。
 神々がどのようにして生まれたのか。その神々によって人や大地や生き物が、どのようにつくられたのか。人々の日々の営みと、天空の神、大地の神、天と地を結ぶ神との結びつきそれらがどのように関わり合っているのか。具体的に七枚の粘土板に横形文字でどのように書かれているのか、その内容を紹介しよう。[⇒太陽系創造神話]

    *

 エヌマ(上で)エリシユ(そのとき)、上なる空が、まだ人の口にさえのぼらず、下なる大地の名が、まだ思いつかれもしなかったときに、原初の川の水の神、アブスーと、海の水の神、ティアマトが交じり合って、雲の水の神ムンムが生まれた
 これらの三神が融け合った混沌のなかから、最初に天の神アン(父神)が生まれた。
 次に地の神キ(母神)が生まれた。
 アンとキは、天と地を結ぶ紐帯の神エンリルを生んだ。
 エンリルは力をつけ、アンとキを引き離した。
 エンリルは風と嵐の神となり、空の闇を照らす月神シン(ナンナル)を生んだ。
 シンは昼を照らす太陽神シャマシユ(ウトウ)を生んだ。

    *

 次の一書には、付加的な物語が書かれている。これらはメソポタミア各地の遺跡から発掘された粘土板を、世界の言語学者が苦労して欠落した部分を補完したり、修正したりして完成したものである。

    *

 混沌のなかから、巨大な蛇の化身ラームウ(男神)とラハウム(女神)が生まれた。
 ラームウとラハウムは、激しく絡み合って交合し、聖なる夫婦神、アンシャルとキシャルを産んだ。アンシャルとキシャルは、合体して天空の神アンを生んだ。
 アンは、大地の主エンキを生んだ。
 アンシャルは、総領のアンを自分の姿に似せてつくった。
 アンも、自分の姿に似せてエンキをつくった。
 エンキは、彼の父祖の神々のなかで、ひときわ優れていた。
 エンキは広く開いた両耳を持ち、賢く、たくましく、
 祖父神のアンシャルよりも力強かった。
 仲間の神々のなかでも、エンキに並ぶ者はなかった。

    *

 次に、縦三十七センチ、横二十二センチの粘土板文書を紹介しよう。その表と裏のそれぞれの面は大きく三つの部分に分けられている。中央の部分には、スメル語の整った文字が書かれており、右側の欄には読みやすく翻訳されたアッカド語の文章が書かれている。ここには、神々が人間をつくる話が書かれているのである。
 また面白いことに、幅三センチほどの左欄には、「アアアア……、ククルル……」とか、「マッシュマッシュマッシュ……」といった詠唱のための語韻が善かれてもいる。

    *

 天と地という不動の双生児が完成されたとき、母神が女神たちを産んで、大地が基礎づけられ、構築されたとき、天地のさまざまな計画が決定されたとき、堀割と運河とを、整然と秩序づけるために、チグリス川とユーフラテス川の堤防をつくったとき、アン、エンリル、ウトウ(シャマシユ)、エンキの大神たちと、運命を定めるアヌンナキの大神たちとは、聖堂に集まり、座を占め、それぞれの神がいう。
 エンリルが問う。
「天地のさまざまな計画が決定され、掘割と運河とを、整然と秩序づけるために、チグリス川とユーフラテス川の堤防がつくられたからには、そなたたちはいったい、何をつくろうというのか、何を変えようというのかね」
 運命を定めるアヌンナキの大神たち、そのなかのふたりがエンリルに答えていう。
「ドゥル・アン・キ(天と地をつなぐ紐)にあるウズ・ム・ア(肉を生むところ)において、私たちは、ふたりのラムガ(木工の神)を殺して、彼らの血で人間をつくるのです。今まで神々が担ってきた仕事は、今や人間の仕事でありますように」
「運河の境界を永久に地割りするように、整然とした堀割を確保するように、鋤や籠を彼らの手のなかに置くように、神々の家を聖殿にふさわしくするように、畑をほかの畑から仕切るように、境界の土台を確固とするように、四方に広大な神殿を建て、神々の家を豊かに充たすように、スメルの国土に豊かさを増すように、神々の祭りを申し分なく執り行うように、冷たい水を注ぐように、アヌンナキたちの畑を肥沃にするように、倉を豊かにするように」
「聖堂にふさわしい神々の住まいで、あなた方は、最初の男アンウレガルラ、最初の女アンネガルラと、名前を呼ぶのです」
「牛、羊、野獣、魚、鳥類などの、国土における産出を増加させるように、
エンリルの父の神エンウル神と、エンリルの母の神ニンウル神の、
浄らかな言葉を引き受けるように」
「また主権者たるにふさわしい女神アルルは、賢者という賢者、愚者という愚者を、
大麦のごとく自生的に、大地の土のなかから萌えださせるように、
大計画を立てるでしょう」
「女神アルルは自ら大計画を立てるでしょう、
不変なる天の星のごとく永遠に、昼も夜も神々の祭りを、
申し分なく人間が執行するように(*人類を教育する)」
 アン、エンリル、エンキと母神ニンマフの大神たちは、人間がつくられたその場所に、穀物と書記術と学問の女神ニダバ(ニサバ)を配した。

    *

 シュメール人は、こうしてエヌマ・エリシュ神話のなかで多くの神々を創出したのである。そして、これらの神々のもうひとつの特徴は、必ず各都市の氏神となっていることである。
 まず、天の神・宇宙の神アンである。次が、天と大地の間を支配するエンリルの神で、ともにニップールの主神となる。第三が、大地と水の神であるエンキでエリドゥの主神となる。そして第四が、月神のナンナル(シン)で、ウルの主神。第五が、太陽神のウトウ(シャマシユ)で、バビロンの主神となる。第六が、暁の明星といわれる金星神の女神イナンナ(イシュタル)で、ウルタの主神となり、これにニンフルサグという女神が続き、これら七神をもって運命を定める七神神話が完成する。この、最初の3神、運命を決める7神の創造については、日本神話にも引き継がれている。

 ◇ ◇ シュメール人はどこに消えたのか?

 紀元前二〇〇四年、最後のウル王朝が滅びると、彼らは忽然として消え去ってしまう。その後の行方は杳(よう)として知れず、さらに彼らの建造物が日乾しレンガでできていたこともあいまって、シュメール文明の存在さえ文字通り砂漠の砂に埋もれてしまった。
 いや、彼らはもともと「海を伝ってイラク南東部に入った」のだ。ならば去るときも、海を利用するはずである。そしてなによりも、彼らは根っからの海洋民族であった。船をつくり、自在に操り、外洋さえもわがものとしていたのだ。
 『消えたシュメル王朝と古代日本の謎』の中で、著者の岩田明氏は、シュメル時代の外洋型船を建造し、インドから沖縄までの航海に成功している。他にも、ペテログラフにはシュメル語が刻まれている岩があり、確かに、海の民であるシュメル人は日本に渡来している。彼らは、徐福や呉人を日本に運んだ海部族(安曇、住吉神社)とは別の民族である
 興味深いことに最近、インダス文明とオーストラリアの間で交易が行われていたことが明らかになっている。というのも、オーストラリア型の人骨がインダス川流域の遺跡から発見されている。また、オーストラリア南東部の文明が紀元前三〇〇〇年以降、急激な発展を見せているのも、インダスとの交流の可能性を示唆しているといえるだろう。
 紀元前三〇〇〇年といえば、シュメール文明の最盛期でもあった。だとすれば、すでにこのころ、シュメール人の大航海はインド南部を経由して、オーストラリアまで達していたとも考えられる。
 しかも、そこまでくれば、海流に乗って北に進むだけで倭国──すなわち日本列島に到達することも可能なのだ。これこそ「海のシルクロード」を切り開いた、千年を超えるシュメール人の大航海の軌跡であると考えている
 ところで、現在の所判明しているシュメル人の身体的特徴は、目鼻が大きく、西洋人に比べると身長は余り高くないが、肩幅は広く頑丈な骨格をしている、瞳も髪も黒、家族主義で一夫一婦制、自然への信仰心が篤いと云うことぐらい。しかも、イラク南部人には、蒙古斑がある
 岩田氏は、シュメル人の故郷として中央アジアのスメル山(=仏教界の「須弥山」)の麓ではないかと推測している。ムー・アトランティス・レムリアが沈没した時、この地に避難したと云うことかもしれない。その理由として下記のように推測されています。
 シュメル人がメソポタミアを訪れる前に住んでいたと思われる古代インドでは、「須弥世界説」のスメル山北に住んでいた民族を「崑崙族」、別名「クメル族」と呼んでいた。
 そしてこの部族全体を統括した部族を「スメル族」-「崇高なるメル族」と呼んでいたのである。
 つまり「スメル(シュメル)」も「タメル」も同じ「メル」族なのだ。そしてメル族の「メル」とは「黒」を意味する言葉なので、それはメル族の特徴である黒い髪と黒い瞳(まさにアジア人とシュメール人に共通の特徴である)を指したものと考えられる。
 また、かつてインドシナ半島には、モン族とクメル族という部族が栄えていた。モン語は今日のミャンマーの南部テナセリム地方に住むモン族の言葉であり、タメル語は現在のカンボジア語である。
 このふたつの言語を合わせたものがモンクメル語である。ちなみに「モン」は、「メル」が「メン」と変化し「モン」と転じたものであろう。また「ク・キ」は「地」の意味で、クメル族とは「地上のメル族」を意味する。
 シュメールの像では、いずれも向かって右に王が、左に王妃がいる。また、王の左手は中央でしっかりと王妃の右手を握り、王の右手は王妃の右肩に乗っている。そして日本の道祖神のモチーフも、これとまったく同じものだ。他にも、相撲にそっくりな像が残されていたり、言語体系が類似、スメルの音楽と伝統雅楽が似ていたりしていることも見逃せない。そして、縄文土偶の座る人の顔立ちにもそっくりです。思うには、イカの線刻文字に刻まれたイカ人にも似ているように思うのです。
  
  

 ◇ ◇ 皇室に残る亀甲占い

 この占いは「亀ト」と呼ばれ、東シナ海に多く棲息する青海亀の甲羅を用いると、厳しく決められている。古代においては、この大嘗祭の執行をもって正式な皇位継承の証とされていたほど、重要な意味を持つ儀式である。
 占いの方法は、青海亀の甲羅を火鑚(きり)具という道具を使って点けた火に、桜の枝をくべて焼き、甲羅に入ったひび割れによって方角を決定するというものだ。この亀の甲羅を使った占トは、古代中国の殷王朝時代(紀元前一六〇〇~同一〇二四年)でも行われていた、甲骨占いに酷似している。尚、殷は元々「商 前1600年頃」と呼ばれていた
 殷の甲骨占いは、甲骨の裏面に火を当てて、表面に生じた兆(きざし)=ひび割れにより吉凶を占うというものだった。中国各地の遺跡からは、猪や鹿の骨を用いて吉凶を占ったものも発見されているが、殷の都跡である殷墟から発見された甲骨は、青海亀と水牛の二種類に限られている。それも青海亀の腹部と背中の甲羅が圧倒的に多く、それ以外には水牛の肩胛骨が少し発見されているだけである。
 当時の記録は、数多くの甲骨文に詳細に残されている。このほかにも四季折々の農事に関するものや、生活に密着したものも多い。とにかく何でも占いに頼っているのだ。
 これは殷人の心のなかに、「占いによってすべてを決定することは、神の意志に従うものである」という絶対信仰に近いものが存在していたことを表している。またこうした占いに対する考え方は、甲骨文から判断しても支配者階級に限ったものではなく、一般民衆の生活概念として受け入れられていたと考えられる。
 古代中国の天文学は黄道に沿って天を四つの宮に分け、東に蒼卑北に忍軋、西に白虎、南に朱雀の四神を配座した。この四宮はさらに七分割され、全部で二十八の星座が定められた。これを「二十八宿」という。
 北に配された玄武は水の神とされ、その姿は一般的に亀と蛇の合体形で表されるが、単独に亀だけで表されることもある。水は中国古代思想における五元素(木・火・土・金・水)のなかで、宇宙空間に最初に生成されたものと信じられた。宇宙の根元で万物の始めをなす水を支配するのが「へつ=青海亀」なのだから、神の意志を聞くにはこれ以上適した素材はない、というわけだ。
 中国古代の天文学は、これまでは独自に発展したものと考えられていたが、水を万物の根元とし、日月を重要視するところはシュメルと非常に良く似ているいる。とくに、神の意志を聞くのに、月の化身ともいうべき青海亀を用いるところなどは、月神=シンを深く敬愛したシュメール人とほぼ同じといっていい。また、古代甲骨文字と古代楔形文字は似ていて、古代楔形文字を知る一団が移住先で独自に発展させたとも考えられる。

 ◇ ◇ 神農のルーツもシュメールにあった?

 神農は、古代中国の伝説に最初の帝として登場する庖義(伏義)と、女神・女媧との問に生まれた。父の庖義は、顔は人間だが牛の首に蛇の身体と虎の尾を持ち、母の女媧は、首は人で身体は蛇であったという。その子である神農は、人間の身体を持ちながら首は牛で、頭には二本の牛の角が生えていた。
 伝説によれば神農の出生地は湖北省の烈山である。烈山は上海を河口とする揚子江(長江) の上流約千キロの地点にあり、さらに五百キロほど遡行すると、四川省の中心部に当たる四川盆地が開けてくる。この四川盆地一帯に伝わる神が、なんと牛の角を持つ牛頭明王なのである。すでに何度も述べているように、牛の角とはすなわち、神農と素箋鳴に共通する特徴なのだ。
 さて、その神農は姓を「姜」というが、姜の字は羊と女の組み合わせであり、『後漢書』の「西姜伝」によると、「姜は、三苗から出た」と書かれている。三苗とはチベット族を表し、姜は羊を意味している。シンノウの姓である「姜」も西ら移動してきたことをを指すものと考えることができる。
 神農の故郷がチベット高原のさらなる西にあったとなると、それはペルシアの西南部に位置するエラム山脈を根拠地とする、エラム人だったのではないかとも考えられる。エラム人が紀元前三〇〇〇年ごろ、すでに青銅器文化を持っていたことはわかっている。こう考えると、殷王朝で高度な技術を必要とする青銅器が大量につくられた理由も簡単に説明がつく。
 エラム族の首都は「スーサ」と呼ばれる町であった。このスーサという呼び名はのちにギリシア人がつけたもので、もともとは「スーシアン」と呼ばれていた。このスーシアンあるいはスーサというエラム人の首都の名こそ、実は「スサの王=神農」、あるいは「スサノオ」の語源になつたのかもしれない
 「日本史の真実」は、海人族(高天原族)の藤原氏の台頭とともに、やはり記紀神話の成立過程において伝えられなかった部分もあるのことだろう。日本書紀において、膨大な出雲王朝=銅鐸部族の記録は、ほとんど記録されていない。



14.異星人が残したペテログラフ


 『日本のペテログラフ P86~89』に「撮影された黄金の壺の不思議」の記事が記述されています。山口県下関市の杉田丘陵に巨石がある。そこに、シュメル古拙文字でペテログラフが刻印されている。この大岩には目では見えないが写真には「黄金色の壺」が写るのだそうです。この大岩を囲う人々の全員の写真に写ったというのですから、三次元のフォログラムのような工夫が施されているに違いありません。電源に相当するエネルギー源は、大岩に仕組まれた圧磁効果や圧電効果だろう
 つまり、「黄金の壺」を見ることが出来るのは上空からのUFOに違いない。UFOに知らせたいからこのフォログラム装置を作ったのなら、壺をひっくり返った宇宙船とすれば、一種のSOS信号のだろう。そして、フォログラムを大岩に刻んで輻射できるのなら、音楽でも言葉でも、設計図でも、送信できるに違いないのです。それこそIC装置でも、医療装置でも、教育装置でも設置が出来るだろう。なにも、ピラミッドのような巨大装置は必要ないのです。そして、霊能者や超能力者には検知検知できるに違いありません。もしくは、救難信号を発している異星人が霊能者に助けを求めることもあるでしょう。
 従って、圧磁効果を持つS波を固めてエネルギー源にして、念波の回路を接続すれば、目には見えないが様々な機能を持つ装置を作ることが出来るように思います。つまり、圧磁圧縮されたスカラー波の塊が電池で、念波が電子回路に相当し、外部からのスカラー波により充電されていたというわけです。これが、先生と天上界を襲撃し、三次元の人間をマイコンしていた技術の正体だと思います。

 そして、フリーエネルギーの知識と技術を人類から遠ざけ続けると同時に、この原理の本質を教えずに、人の執念や恨みを助長する手段として、白魔術や黒魔術として、悪魔教として、陰陽師の使うお札などを人に教えたのは、人類を科学的思考から離脱させ、恨みや執着の大釜に陥れ滅亡させようとするサタン・ダビデの謀略だったのだと思います。(2018/02/22 北)

15.神代文字を抹殺した恐るべき“黒い勢力”がある

 奈良時代以前の日本に文字があったことは、文献にもはっきり書かれているし、遺物にもはっきり刻まれている。したがって、文献と遺物の両方から、日本に古代文字があったことはすでに立証済みである。
 ◆神代文字存在の証拠
 伊勢神宮の奉納文①~④を、神代文字で読むと、下記のように解読できる。つまり、神代文字は存在していると云うことです。尚、神代文字での奉納文は99文有るそうです。
 ①はアマテラスオホミカミ  フシハラフヒラ(アヒルクサ文字で解読)
   天照大御神       藤原不比等
 ②はヒツキミコト      ミナモトヨリトモ(アヒルクサ文字で解読)
   日継尊         源頼朝
 ③はアマノウスメノミコト  フシハラタタフミ(イズモ文字で解読)
   天宇受売命       藤原忠文
 ④はアマツコヤネノミコト(イズモ文字で解読)
   天津児屋根命
 
 にもかかわらず、そのことがこれまで周知の事実とならなかったのはなぜだろうか。古代史の権威が口をそろえて神代文字を否定したり、日本の古代文字を無視してきたのはいったいなぜなのか。
 ここには私たち日本人のすべてが、いまだにその真相をつかんでいない歴史上の大きなトリックがあるように思われる。そこには、これまでの権威すらも呑みこんでしまう歴史上のブラック・ホールのようなもの、つまり〝漢字の呪縛″ともいうべき恐るべき力が日本の古代文字資料を抹殺して奈良時代以前の歴史を封印してきた背景があるように思われるのだ。
 その恐るべき力の正体とは何か。
 一つだけはっきりしていることは、その勢力が今から千三百五十年ほど前の大化改新(六四五年)と白村江の戦い(六六三年)の時代に、日本海周辺のほぼ全域に台頭し、それまでの日本にあった固有の文字と文化、王家と有力氏族の記憶をほとんど消し去ってしまった、ということである。
 私たちはこれまでの教育のなかで、日本は滅亡に瀕した百済の請いを受けて唐・新羅の連合軍と白村江で戦い、手痛い敗北を喫したあとは〝連合軍〟の侵攻を恐れて都を近江に遷したとしか教わっていない。いわんやその戦いに敗れたときに、そのまま日本が唐の軍隊に占領されたこと、そして、この時代以後につくられた日本の都城や古墳の設計単位が、それまでの高麗尺(唐によって滅ばされた高句魔の尺度)から、唐尺に全面的に改めさせられたことなどは一度も教わっていない。
 したがって、この時期に中国東北部と朝鮮半島、日本を占領した中国の軍隊が、この地域に伝わる固有の文字資料をことごとく抹殺し、漢字で書かれたもの以外は絶対に後世に伝えないようにした、などということは考えたことすらなかったはずである。

16.〝日本解体″を目にした天武天皇の憤慨

 これまで日本人は、中国の漢字文化を受け入れることによって、原始の日本が開明化したかのように教えこまれてきた。が、それははたして本当だろうか。実際は逆ではなかったか。
 中国の日本占領支配の実態は、目にあまるものがあったように思われる。壬申の乱に勝利して、唐が自滅して滅ぼされると、唐の日本占領支配に一応の終止符が打たれたが、天武天皇も、国内の中国人に対し、憤慨してこう述べている(『日本書紀』天武六(六七七)年の条)。
「汝らのやからは、もとより七つのあしきことを犯せり、……常に汝らは謀りごとをもって事となす」
 つまり、中国人がいつも陰謀を企て、国家の解体をはかってきたことを天武天皇は糾弾しているのである。こうしたことはおよそ、戦争に敗れた国が占領軍に対して種々感ずることであろう。通常の日本人が、史上初の被占領体験と考えている第二次大戦後の約十年間にも、同様のことをアメリカに対して抱いたと聞く。
 いや、それ以上のものだったろう。被占領時にその国の歴史に根ざす貴重な遺産ともいえる言葉や文字を剥奪された例はたくさんあるし、戦勝国の文字を押しつけられた国は古今東西を問わず多くの実例で確かめることができる。
 しかし、まさか私たちの国にもこのような屈辱的な歴史があったとは、読者は夢にも思わなかったであろう。そう、日本は白村江の戦いに敗れて唐に占領され、漢字使用を押しつけられるなかで神代文字を喪失したのだ

◇ ◇ 唐の日本占領GHQは太宰府に置かれていた

 けれども、古代の日本が六六三年の白村江の戦いに敗れたあと、中国の占領支配を受けたことは、『日本書紀』の天智天皇の条のなかにそれとなく記されている。
 すなわち、天智四(六六五)年の記事では、この年、日本へやってきた唐の使節団の人数が二百五十四人であったのが、同八年と九年には二千人にふくれあがっている。
 敗戦後の日本へ二千人という大量の使者が続々とやってきたのは異常といわなければならない。このことは、唐の使者がただの使者ではなく、占領軍司令部の要員であったことを暗示しているのだ。
 また、天智六(六六七)年の記事によれば、この年には、すでに九州の太宰府が「筑紫都督府」という呼び名に変わっているが、この〝都督府″という表現は、唐の軍隊が高殿と百済の都をそれぞれ占領したときに「平壌都督府」「熊津都督府」と称した例をみてもわかるように、唐の占領軍司令部が置かれた外国の都をさしている。したがって、九州の太宰府が六六七年以降、中国による日本占領支配の拠点となっていたことは明らかである。(※666を暗示しています!つまり、ダビデは「最期の審判」=「ヨハネの黙示録」を日本にて実現しようとした。)
 いってみれば太宰府が、第二次大戦後に皇居前の第一生命ビルに置かれたマッカーサーの占領軍司令部(GHQ)と同じようになっていたのである。そして、戦後の日本が英語使用を強要されたのと同じく、いやそれ以上に、白村江の敗戦後の日本は、全面的な漢字使用を強制されたのだ。(※GHQは日本語を廃止し、英語を公用語としようとした。また、日本語を止めローマ字のみにしようとした日本人議員も居た。が、日本人の識字率の高さに驚いたマッカーサーは日本語を存続させるように方針を転換した。)
 天智天皇はこの年の春、近江京に遷都し「漢字使用令」を出した。こうした近江京の文化が漢字文化そのものであったこと、そして、天智天皇と天武天皇に代表される勢力が六七二年の壬申の乱で激しい死闘を演じたことなどは、これまで、この時期の中国による日本占領支配とのかかわりのなかで論じられたことはなかった。
 この間題については、ごく少数の学者が天智天皇は百済系で天武天皇は新羅系または高句策系であったということを述べる程度にとどまり、白村江の敗戦以後、日本と朝鮮、中国東北部にまたがるかっての高句麗王国が解体したことや、その後、壬申の乱を機に高句麗の旧領に渤海・新羅・日本の三国が、唐の承認を必要とするかたちで成立したことなどは論じられていない。
 しかし、この時期の唐帝国の周辺を見渡せばわかることだが、この頃からインドと日本を結ぶ南海ルートの影が薄くなっていく。つまり、私流にいえば、インド以東のアジアには漢字以外の文字文化が、それ以前にはなかったような印象が強くなる。
 七世紀の初めに隋の煬帝が率いる百万の大軍と戦ってこれを退け、ついに隋を滅ぼす糸口をつくつた高句麗は、六六八年に唐によって滅ぼされるまで、七百年以上もの歴史を誇っていた古い国であるが、このような国にさえ固有の文字で書かれた記録はなかったことになっている。
 秦・漢帝国以来の中国諸王朝が、周辺諸国にみずからの漢字文化を押しつけ、中国の宗主権を認めない国を侵略して、その国の文字文化を破壊したことは、中国の史書に王家の記録を投収した記事がたびたび登場することをみても確かだ。
 このような中国の支配者による歴史抹殺の手口、すなわち漢字以外の文字で書かれた他民族の記録を抹殺し、そのことによって他民族を中華帝国に従属させていくやり方の最も顕著な例が、秦の始皇帝による焚書坑儒だ。(※チベット、ウイグル、内モンゴルでは、人種と文化抹殺は現在も続いている。日本人が中国に諂う限り、沖縄のみならず、いずれは日本全土が二の舞になることを覚悟しておくべきだ。尚、焚書坑儒にて、日本の真実の歴史が失われるのを怖れ、神代文字で書かれた歴史書が焚書される前に、神代文字で書かれた歴史書を稗田阿礼に記憶させた。そして、漢文が得意な太安万侶に読み聞かせて古事記を記そうとした。しかし、稗田阿礼も殺され神代文字文献は焚書されてしまった。)
 中国における漢字の成り立ちを調べてみても、漢字のなかには、それ以前に大陸の各地で使われていた日本の古代文字を並べ替え、それによって元の意味を消し去る手法で新たにつくられた例がいくつかあることが確認できる。(※甲骨文字はアヒルクサ文字と本質的には同じ。しかし、神代文字の方が古い。というのは、九州での大爆発時、九州の縄文人が福建省や長江流域で文明を伝え、長江人が黄河流域に至り、夏・殷を建国した。)

17.稗田阿礼は神代文字の“通訳”だった
 /稗田阿礼は猿田彦夫妻の子孫、アメノウズメは神楽の祖

 天武天皇は、二度目の被占領時の首相・吉田茂にたとえられるかもしれない。完全な再独立こそできなかったにしても、主権の回復はなしえたことと思われる。その一端が『古事記』の成立である。また、天武の即位後しばらくして「筑紫都督府」の呼称も消えている。
 ちなみに、さきにもふれた壬申の乱だが、通常、天智と天武は兄弟であり、この内乱は皇位継承をめぐって天智の子・大友皇子との間で戦われたとされている。
 しかし、そうした考えからは天智と天武の政策の違いがまったく説明できない。そこに“歴史の閣の封印〟が介在していることは明らかだろう。
 前述した系統の違いはその意味でも注目される。そして、これを詳述するには紙面に限りがあるため、ここでは皇室の菩提寺(京都の泉涌寺)に天武天皇の墓がないことだけをいっておこう。(※天武天皇は弟とされているが、天智天皇より年上である。天智天皇とは血統の異なる九州王家である。唐の支配から日本を救う為、壬申の乱を装った。)
 さて、稗田阿礼が〝誦み″、それを太安万侶が漢字で書きとめてつくられたといわれる『古事記』だが、神代文字喪失による日本の解体を憂慮した天武天皇の意思と、唐の漢字化強制の意思が相乗されて撰録されたと考えられる。
 その証拠に、『古事記』には、稗田阿礼が神代文字で書かれた記録を〝読んだ〟ものを、安万侶が漢字に改めていったという意味合いのことがはっきり書かれている。たとえば、安万侶自身が『古事記』序文でこう述べている。
 そこで天皇(天武天皇のこと)は阿礼に命じて、帝皇の日継及び先代旧辞を諦み習わせたリ……。
 ここに天皇(持統天皇のこと)は、帝紀及び旧辞の違いを正そうとして、臣、安万侶に命じて、阿礼が諦むところの先帝(天武天皇)の御命令になられた旧辞の類を撰録して差し出すようにと仰せられた……。
 つまり、安万侶は「阿礼が諦む(=読む)ところの帝紀・旧辞」を手がかりとして、『古事記』を編纂したのである。もし帝紀や旧辞が漢字で書かれたものであるなら、漢文の達人だった安万侶がそれを自分で読めばすむことで、わざわざ阿礼の口を借りる必要はないはずだ。
 これはどういうことを意味するのか。そうだ、『古事記』の元になった『帝紀』や『旧辞』は、阿礼には読めても安万侶には読めない文字、つまり日本の古代文字で書かれていたのだ。そして、阿礼は神代文字で書かれた記録と漢文の橋渡し役、いわば通訳として安万侶のために働いた、ということではないか。
 記憶力バッグンといわれた阿礼は、「読み習ったもの」を記憶した。しかしそれは、(※焚書に備えて、)神代文字で書かれていたものを読んで、それを記憶にとどめたということなのだ。
 正史編纂という国家の重大事業にあたって、おそらく阿礼は、神代文字で書かれた『帝紀』や『旧辞』を暗誦するくらい念入りに読み、それをていねいに安万侶に読んで聞かせたものと思われる。

◇ ◇ ヒエタノアレモコロサレキ - 知りすぎた男の悲劇

 こうして日本人は、八世紀の初めに『古事記』と『日本書紀』というかたちで、漢字に置き替えられた日本の歴史書をもったが、その元になった『帝紀』や『旧辞』などの書物、あるいは日本に古くから伝わる固有の文字で書かれた由緒正しい歴史の記録を失うことによって、本来の日本人がもっていた自由な精神や創造的な見方、国体を維持してきた聖戦の歴史さえも失ってしまったのではないか。
 私がこのことを痛感するのは、ほかでもない。宮崎県の高千穂で見つかったという碑文(郷土誌『すみのえ』一〇四号所収)を私なりに解読した結果、そこに以下のような恐るべき一文が刻まれていたことを確認したからである。
「ヒエタノアレモコロサレキ」(稗田阿礼も殺されき)
 この短いが驚くべき一文について、説明は要すまい。稗田阿礼は『古事記』の完成した七一二年以後のある日、突然、何者かの手によって暗殺されたことを、この高千穂碑文は物語っているのである。
 もしこのことが事実であるとしたら、彼の死は、日本の古代文字資料に記されていた真実の歴史が、闇の力によって葬られたことを意味するのである。
 そして、このことはまた、そのような力がつい最近まで、すべての日本人の無意識に働きかけ、私たちの歴史解明の努力を歪めてきたことをも意味している。
 『古事記』と『日本書紀』が日本の古代文字で書かれず、漢字を使って書かれた背景には何があったのか。日本人の言葉と歴史が漢字に置き替えられたとき、そこにはどんなトリックが用意されていたのか。稗田阿礼は、その秘密をあまりにも知りすぎたために消されてしまったのではないだろうか
 おそらく阿礼と同じ運命にあった者は一人や二人ではなかったろう。「稗田阿礼も……」という記述からそれを察することができる

◇ ◇ ベールに覆われた日本人の祖先の歴史

 時の権力者、この場合は唐の日本占領軍の指令によって、日本古来の文字を使うことが禁止され、占領国の文字(漢字)を使用することが強制されたのである。
 とはいうものの日本は古い国である。古代の「残存遺物」は多く残されているし、「古史古伝」と呼ばれる「記紀(『古事記』と『日本書紀』)以前の書」にも伝えられている。
 これらの文書は、もちろん日本の古代文字で書かれていたにちがいないが、古代文字の使用が禁止されたあとは、漢字を当てはめて書き写され、伝えられてきた。
 古史古伝が偽作、偽書とされる理由は、その内容が記紀と異なる部分が多いことにある。しかし記紀の記述が一〇〇パーセント正しいという証明はなされていない。『魏志倭人伝』に記述されている邪馬台国や、その女王の卑弥呼について、記紀は一言もふれていないではないか。逆にいえば、『魏志倭人伝』を中心にみるなら、記紀こそ偽作、あるいは偽書だという疑いすら出てくる。

◇ ◇ “闇の封印”の外にある『契丹舌伝』

 このような視点に立って、読者とともに古史古伝を読みながら本書を進めていこうと思うのだが、まず最初にあげられるものは『契丹古伝』であろう。
 『契丹古伝』は九四二年に編纂された遼(契丹)王家の史書である。遼は、文献史上では五世紀に内モンゴルのシラムレン河流域に現われた遊牧狩猟民族・契丹(キタイ)が十世紀に打ち立てた王朝で、モンゴルから中国東北地方と華北の一部にまたがる地域を支配していた。宋から燕雲十六州を奪うなど、いわば中国(漢人<漢民族>)と対抗していたといっていい。しかも『契丹古伝』は一九〇五年に現在の中国・吉林省で発見されるまで長い間王家の人々によって守られてきたため、漢民族の“闇の封印”にあっていない。
 そしてこの、『契丹古伝』の編纂目的は、建国まもない遼(九一六~一一二五)の王家がみずからの歴史的背景と正統性を明らかにしながら、漢民族の中原支配に抵抗する周辺民族の団結をリードし、鼓舞するところにあった。
 たとえば『契丹古伝』は、紀元前の中国大陸の主人公はあとからやって来た漢民族ではなく、もともとそこに住んでいた日本人の祖先だった、と記す。
 中国の歴史の記録は、前漢の武帝が司馬遷に命じて編纂した『史記』に始まる。この『史記』の記録に基づいて、これまで紀元前の中国には、夏とか段、周(西周)という王朝があったとされ、やがて秦という強大な王朝が台頭して中国全土を統一した、ということになっている。
 しかし、このように教えられてきた中国の歴史がはたして真実だったのかどうか、日本の場合と同様、考え直してみる必要がありそうだ。
 その好例として、中国の西安郊外に碑林(碑文の林)というところがある。その碑林に、漢字の発明者といわれる蒼頡という人物が残した碑文がある。
 漢字を発明したのがほんとうに中国人であるとしたら、この蒼頡碑文はとっくに中国の学者が読み解いていていいはずだが、いまだに中国では謎の碑文として、未解読のままなのである。
 しかし、そこに書かれている文字は、日本に伝わっている北海道異体文字(アイヌ文字)とそっくりである。また一部、トヨクニ文字に似ているものもある。そこで疑問となるのは、なぜ古代の中国に日本の神代文字で書かれた碑文があるのか、ということだ。もしかしたら漢字の発明者と伝えられる蒼頴という人物は、中国人ではなく、古代の日本人ではなかったか。こんな途方もない想像さえ生まれてくる。

◇ ◇ 契丹古伝:紀元前の中国史を書き替えた〝西から来た人″とは何か?

 私はその正体を追ってみた。その結果私が得た結論は、さきの『契丹古伝』に記されたとおりだった。『契丹古伝』が語るところを引用してみよう。
 その昔、地球は大異変に見舞われ、恐るべき洪水が発生して、海と陸の形はすっかり変わってしまった。
 この異変で地軸が傾いた結果、大地は中国の北西部で縮んで盛り上がり(ヒマラヤの隆起)、南東部で引き裂かれて沈没した(フィリピン海溝の形成)……。
 尭・舜の時代に地球の全土は戦火に包まれ、南は洪水の後始末に追われた。
 ところが、このような戦争と異変の混乱に乗じて、人身牛首の神を祀るもの、蛇身人首の鬼を祀るものが、西から東へ次々とやって来て、我らの地に住みついた……。
 前述したように、『契丹古伝』はここで、紀元前の中国大陸のもともとの主人公は今の中国人ではなかった、と述べている。現在では漢民族が最初から中国五千年の歴史の主人公であったかのように説かれているが、それは事実ではないらしい。紀元前の中国の歴史は、西から来た人々によって書き換えられてしまった、というのである。その先をもうすこしみてみよう。
 彼らはみずからを我ら東大古族の神の子孫と偽ったばかりでなく、伏犠や神農、黄帝、少昊(ショウコウ)なる人物を、我らの王の祖先に仕立てあげ、その系図に自分たちの祖先をつなげて、これら偽りの神と王に対する崇拝を我らに強制して、みずからを聖帝の子孫なりと誇らしげに語っている。
 ここに書いてあることは非常に重大である。私たち日本人と契丹人は“東大古族”といわれていたが、西から侵入してきた人たちが、自分たちこそ東大古族の神の子孫であると偽り、系図や歴史まで自分たちのものとしてでっちあげたというのである。さらに先がある。
 けれども彼らは、みずからの祖先と思っていた堯と舜が、彼らの思惑に反して、東大古族の王であったことをはたして知っているのだろうか。
 西から中国の地に移住して帰化した人々が、我らの王に仕えたのは、堯・舜のときではなく、その後久しく続いた夏王朝の創始者たる禹のとき以来のことである。彼らは禹を、あたかも彼ら中国人の王であり、中国大陸だけを治めた王であったかのように記しているが、これはとんでもない間違いだ。
 これらのことがもしも事実だとすると、これはゆゆしきことである。つまり、中国大陸のもともとの主人公は、いまの中国人の祖先ではなく、東大古族といわれていた日本人と契丹人の共通の祖先だった、ということになるからだ。さらに『契丹古伝』はこう語る。
 『史記』に記された禹は、大洪水を生きのびてテイルムンの楽園に住んだシュルツパクの王、ウトナピシュティム(ノア)をさしている。
 ここに「西族の伝承」と記されているのは、中国大陸に西から侵入したアッシリヤ人が今のイラクあたりに残した粘土板文書に登場するシュメール伝説をさしている。
 しかし私たちは、そのシュメール伝説のテイルムンの王がはたして我々日本人とどんな関係があるか調べてみなければ、ここに書いてあることをにわかに信じるわけにはいかない。



18.サンカ文字と豊国文字と縄文文字

 古史古伝のひとつである上記(ウエツフミ)は古事記、日本書紀以前の伝書(ツタヘフミ)であり、 神話、伝承の他に、民俗、習俗、度量衞、地理、言語、暦制、天文、教育、医薬、医学など多岐にわたり記されており、古代の百科事典ともいえる文献である。そして、それらは豊国文字という古代和字によって記されていたとされています。鎌倉幕府を開いた征夷大将軍源頼朝の子で豊後の国守大友能直が、学識のある家臣達を諸国に派遣し古代資料を集めさせたものに、領内の老人から古代伝承を聴きとらせたものを加えて上記を編纂したとされています。また、サンカに伝わる伝承として、豊後の大友能直には、仲間を1600人も殺され、神代からの書物一切を奪われてしまい、その後、自分達の文字は一切秘密となり、仲間以外には見せなくなったとあります。(※つまり後世に対しては、自部族以外には暗号として使った) … … Netより。
  
 



19.『最古の文字なのか』から抜粋

 著者(カナダ・ビクトリア大学人類学 博士課程)は、氷河期の欧州にある洞窟に残された壁画の中から、共通の模様を抽出して、32の記号を選びました。
 その記号を見ていると、ペテログラフとほぼ同じだと思いました。
 氷河期の洞窟では、ほぼ赤い染料で描かれており、水浸しの洞窟ばかりで、床や側面の壁画は消えている可能性が大で、洞窟上部のもののみ残っている状態です。本来はもっと沢山の記号が記されていたのだと思うと、当時の洞窟は水浸しではなかった。氷河期後の大洪水により、水浸しになってしまったのでしょう。
 32個の記号の中には、手の形や矢印や盃状穴があります。
 世界中にあるペトログラフにおいて、この3つは基本です。なぜかというと、移住してきた民族は、新天地に到着した印として、足や手の形を岩に刻みます。そして、どの方向から来てどの方向へ移住したのかを、矢印で刻みます。そして、盃状穴を彫り、油を入れて灯明としたり、薬を造ったりと、部族により使途が異なります。そして、自部族を示すシンボル=記号を刻むのが通例のようです。
 ですから、32個の記号の中にも部族のシンボルもあり得ることでしょう。そして、神代文字と同じ形の記号ばかりです。神代文字は多種多様な文字=記号があるので、同じものがあっても不思議ではないと思います。
 つまり、欧州洞窟の赤色壁画を、染料ではなくて岩を刻んでいれば、本質的にはペテログラフと同質だと思います。

  

(TOPへ)
⇒(二ビル星と地球は永遠の双子(1)) ⇒(サタン・ナブーと共産主義)
⇒(二ビル星と地球は永遠の双子(3))