4−5.古代日本の有力氏族は渡来人だった



 これから、聖徳太子の出自と謎の人生について紹介する前に、有力氏族の出自についてまずは紹介したいと思います。
 当時の日本は、海と陸のシルクロードを通じて、優れた技術を持つ多くの人種と雑多な宗教が押し寄せる人種の坩堝だった。そして大和朝廷を構成する有力氏族のほとんどが渡来人であったのです。まずは、有力氏族の出自から始めましょう。
 尚、4−5〜4−10に関しての挿入図は、[シルクロードは渡来人が建国した][天武天皇と九州王朝]から取り込みました。それ以外にも一部で、“Wikipedia”を参照しています。



◇三貴神の出自

 伊邪那岐命が、左の眼を洗われると天照大神、右の眼を洗われると月読尊、鼻を洗われると須佐能尊が現れた。そして「天照大神は高天原を治めなさい。月読尊は青海原を治めなさい。須佐能尊は天下を治めなさい」と任命されました。この神話は、神道(原始キリスト教)での三位一体を表している。この三貴神はそれぞれ任期制の役職をあらわし、任期ごとに神と王朝が交代する。従って、同じ役職名・天照であっても、時代により[記紀]に記述された彼の個性が変わるのは当然なのです。
 この神話の意味するところは、伊邪那岐命に代わって初代太陽神・天照が天上界を統治し、皇太子・月神は海神として人類を守護し、須佐能尊(アブラハム)に地上を任されたという意味だと思います。
 関連して、天照大御神は実質的に天と地の神であるので、天照地照大御神というのが正式ではないのだろうかと、思っていました。しかし、この神話の示すところは、天照は天上界を統治し、天上界の方針を以て神が地上に神託と王権を与えている。だから王は神への忠誠心と共に誠実に神託を実行することを約束している。つまり、王権神授を言い表したものにほかならないのです。従って、天照は天と地の両方を直接統治するのではないので、人類日常の統治を任されたゆえに、天照大~の呼称が正しいのだと思いました。



◇蘇我氏は月氏族

 月氏族は、紀元前1475年頃、古バビロン第3王朝を築いたカッシート族(ガルズ族)とされている。クリガルズ一世の時に最盛期を向かえ、彼らは自らを「世界の王」と称した。
 紀元前1225年、カッシート王がアッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ4世(エンリルの王位後継者で長子)に敗れアッシリアに連れ去られる。やがてアダト・シュマ・ウツ(アダト、月神、日神)の下でバビロニアは再び自立したが、彼の死後もアッシリアと国境紛争が続いた。
 紀元前1160年頃、エラム王の攻撃を受けてバビロンが陥落し、バビロンに祀られていたマルドウクの神像をはじめ、ハンムラビ法典等多くの財宝がスサに持ち去られた。紀元前1157年、エンリル・ナディン・シュミが即位し、王朝復活をめざしエラムと戦うも敗れて死亡し、紀元前1155年バビロン第3王朝は滅亡した。
 このように、古バビロニアは、ガルズ(ニビル星の守護神)、マルドウク、アダト、月神、日神、エンリルなどアヌンナキの神々に守護されていた。しかし、ニヌルタとナブーが古バビロニアを滅ぼしてしまった。ニヌルタはエンリルの長子で王位継承者だったが、マルドウクの長子ナブー、アヌの長子エンキ等と同じく即位できなかった。彼ら三夫妻は死後サタンと化したのです
 古バビロニアの民は月神とマルドウクを信仰しており、彼らはバビロニア滅亡とともに、中央アジアに逃れ月神の王国という意味で「月氏国」を建国した。加えて、新バビロニアの滅亡時、月神信仰が再び盛んになり、同じ月神を信じる「月氏国」へ逃れたことでしょう。つまり「月氏国」には、タルムード・ユダヤ人、バビロン人が混在し、加えて遊牧騎馬民族と合体した。彼らの宗教は、タルムード・ユダヤ教、月神信仰に加え、後に原始キリスト教/景教/仏教/ゾロアスター教/ミトラ教/弥勒信仰までもが混交してしまった(ゾロアスター教の影響については、[10-9章.ヤハウエとゾロアスター教]を参照してください)。結局、彼らの多くはメシア仏教徒であり、ステップシルクロードを経由して日本に渡来している。
 尚、八岐大蛇物語で須佐能尊が、出雲と吉備を平定し、須賀(蘇我)の地を定めた。この須賀の地に、蘇我氏は入植して蘇我と名乗った。
 彼ら渡来人はバビロニアの神と都市神を中心とする中央集権的な社会システム、「都市神と元号・王侯・貴族・神官・工人・農民・奴隷」「ハムラビ法典」などを熟知していたとしても不思議ではない。この部民制度が飛鳥時代=蘇我王朝の基盤、即ち大和朝廷は有力豪族の連合政権として確立されたのです
 ■倭人は鉄器で武装していた
 倭人とは東夷の一派であるが、「夷」は「鉄」のことで、八岐大蛇伝説以外にも、倭人は鉄の民族だったことが分かる。日本列島には遅くとも七世紀に北九州に製鉄所があった。坂田武彦 九州大学教授は、国東半島での製鉄遺跡から前695年プラスマイナス40年の木炭を発掘し、縄文時代における製鉄文化の立証した。国東半島に2〜3万トンの鉄滓があり、古代としては世界一の規模で製鉄が行われていたと推定している。だから、製鉄の民ヒッタイト人を乗せたソロモンのタルシン船が、この地まで往来していたと推測される。[日本ユダヤ王朝の謎 P53]
 ソロモン王朝が栄えたのは、彼の母は鉄の民・ヒッタイトで、ヒッタイトの製鉄技術を最大限に利用したからだ。ヒッタイト人をタルシン船で現地に送り、そこで鉄を生成し、貴金属や特産物と交換し、ソロモン宮殿に持ち帰ってきていたのだ。

 ■あすか(明日香、飛鳥)
 明日香は、シュメル語、バビロニア語「50(イ・シュア)・風(カバラン)」→「(アス)・(カ)」に転じた。蘇我馬子の石舞台には、巨大な石に2m大の剣を持つ風神アネモス像が刻まれている。つまり、蘇我氏は北伝風神系である。風神アネモス(=風神エンリル)はクトリアからの伝来で有り、巨大な石を使うのはペルシャ人の技術でなので、拝火教の影響もあると思われる。尚、拝火教はヤハウエと七大天使が出現している。

 ■産経:巨大な「階段ピラミッド」の方墳…蘇我稲目か「都塚古墳」。2014/08/13

 奈良県明日香村にある飛鳥時代初期(6世紀後半)の都塚(みやこづか)古墳が、全体が階段ピラミッド状の東西約41メートル、南北約42メートルの国内に例がない階段ピラミッド状と判明。現場は蘇我氏の拠点地域で、古代朝廷の実力者・蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳に近いことなどから、専門家は「馬子の父で、蘇我氏の権勢の基礎を築いた蘇我稲目の墓の可能性が極めて高い」としている。
 都塚古墳は全長12メートル以上の横穴式石室を持ち、内部に凝灰岩のくり抜き式家形石棺(長さ約 2.2メートル)が収められている。これまで墳形は不明で、一辺約28メートルの方墳などと推定されていた。
 1段目は幅約6メートルのテラス状。その上に幅約1メートル、高さ約30〜60ンチの石積みの階段が4段以上続き、8段以上あったとみられる。石は拳から人頭大の川原石で、古墳の高さは7メートル以上と推定される。北側には周濠跡も見つかった。
 国内では岡山県真庭市の大谷1号墳(飛鳥時代)が5段築成の方墳として知られるが、都塚古墳とはやや異なる。高句麗の王陵「将軍塚古墳」(4〜5世紀、高さ約13メートル)は階段ピラミッド状で、百済の古墳にも似た形があることから、古代朝鮮がルーツとの見方もある。
 都塚古墳は、馬子の墓との説が強い石舞台古墳(一辺約50メートルの方墳…これもピラミッドだった可能性もある)の南東約400メートルに位置。石舞台古墳そばの島庄遺跡からは蘇我氏の邸宅跡とされる大型建物跡も見つかっており、周辺は蘇我氏の拠点とされる。日本書紀によれば、6世紀に活躍した蘇我氏の実力者は馬子の父、稲目。欽明天皇の時代に政権ナンバー2の大臣をつとめ、百済から伝えられた仏教を崇拝。自分の娘3人を天皇に嫁がせ、その後馬子、蝦夷、入鹿と3代続く蘇我氏の権勢の基礎を築いた。
 日本書紀によると、稲目は宣化元(536)年、天皇を補佐する大臣に就任。欽明天皇に再任され、吉備(現在の岡山県)に天皇の直轄領の屯倉を選定するなど31年にわたって支えた。
 その中で、稲目は堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねきみ)の2人の娘を欽明の妃に送り込む。2人が生んだ子供(皇子と皇女)は計18人で、その中から用明、崇峻、推古の3天皇が誕生。天皇家との姻戚関係はその後馬子−−入鹿と、計4代続く古代朝廷での蘇我氏の権力を揺るぎないものにした。
※蘇我氏一族は、天皇に代わり日本を支配しようとし、天帝(ヤハウエ)を祀る祭事を行ったとされています。推測として、かつてはピラミッドの最上段にある神を迎えるための社で、遠い遠い古バビロニア風のしきたりで祭事を執り行ったのでしょう。
   
   



◇出雲王国、吉備王国:北イスラエル人

 第二波:前721年アッシリアにより北イスラエル滅亡に伴い、
     十支族の正当な末裔あるエフライムが渡来。



◇物部氏:イザヤの民:ユダヤ人

 第三波:前660年神武天皇即位。
     南ユダ王国滅亡を予見し、ユダヤ人・イザヤの民が日本に渡来。



◇秦氏は弓月君の民

 弓月は三日月のことで、ペルシャ地方のことを指している。このアッシリアの原始キリスト教徒が、キリスト教から迫害を受け、「弓月君」を建国。シルクロードを通じて、秦氏として日本に渡来した。また秦氏は海人であり、宗像大社の祖神でもある。
 後には、キリスト教の迫害を受け、ユダヤ教徒や景教徒と合流する。更に、唐末期には景教が迫害を受け、日本に帰化する。

  第五波:後199年、トマスの原始キリスト教徒・弓月国「巧満王」が渡来。
  第六波:後283年、応神天皇の時、弓月国から巧満王の子等、秦氏一族が渡来。
      後538年、仏教伝来、メシア密教徒が日本に渡来。
      後651年頃、弓月国が秦により亡ぼされ、景教徒が渡来する。



◇藤原氏:流浪のユダヤ人

 キリスト教に迫害を受け、ユダヤ教徒,タルムード・ユダヤ人は、原始キリスト教徒、景教徒と共に日本に渡来する。
 天皇にとってかわろうとする蘇我氏に対し、敵の敵は味方とし、物部氏・秦氏は藤原氏を支援し、蘇我入鹿一族を滅ぼした。そして、天皇制を原始キリスト教・ユダヤ教に戻そうとして、大化の改新を断行した。

 [太古日本の王は世界を治めた!]より
  ◆ 福井県鳥浜遺跡から、エジプトテーベ朝(第十八王朝)の女王が身につけていた
   櫛とそっくりな櫛が出土している。他にも、西アフリカのナイジェリアやガーナで
   しか自生しない”ひょうたん”の種子が大量に出土している。
   また、インド原産の”緑豆”の種子もたくさん見つかっている。

  ◆ 中尊寺に祀られている奥州藤原家三代のミイラは、アイヌの秘法に従って作られ
   たが、六重の棺に遺体を納めたその葬法は、かの黄金のマスクで有名なエジプトの
   葬法とまったく同じだ。



◇天皇制と皇帝制

 日本に渡来した有力氏族は、中国を経由している。ですから、彼らはバビロニアの都市神による統治と同じ「有力豪族による連合」「部民制」をもって、中国内で様々な国を建国し、日本でも建国した。しかし最初は同じ政治基盤だったのですが、日本では天皇制に移行し、中国では皇帝制に移行した。何が違ったのだろうか。

 「部民制」から天皇制への移行は、“和の精神”/“アヌンナキ・ユダヤ式の万世一系”を取り入れ、大化の改新を断行した。一方、シナの場合、皇帝を地上の唯一の統治者とし、民の声に耳を傾けず、官僚と儒教は皇帝のみに仕えるための政治システムとして、皇帝とその一族が利用した。また、皇帝の交代については、易姓革命を正統とし、基本的に武力革命という骨肉相食む暴力によるものだ。つまり、彼らは神の叡智に救いを求めず、自らが作り出しす政治に救いを見いだそうとしたのだ。それは、軍事大国の脅威に怯えるモーセの民が、神に自分たちを保護してくれる王を求めた、その姿に似ている。その時神は、あなたたちは神よりも王を信じ従うようになるだろうと警告し、民族が神から離れ瓦解することをも伝えられていた。

 日本と共産中国の決定的な違いは、日本の場合バビロニアの制度に加え、原始キリスト教を基盤としたところにある。結局、古代シュメルからのアヌンナキの統治/古バビロニアの統治/原始キリスト教の思想が、つまり神々の導きにより渾然一体となり「君臣一体の統治」=「天皇制」=「大和魂」へと発展したのだと思います。つまり、ユダヤ人モルデカイ・モーゼが彼らの理想とした王国が日本に建国されたのです。

 中国は皇帝制から、共産主義に移行したのは残念だった。しかし、皇帝制と共産主義は、共に神が存在しないというだけではなく、非常に似ているのです。共産主義理論は奪うことだけを強制し、与え分配することをサタンが教えなかった。同じように、皇帝制には原始キリスト教が欠けていたのです。

 西洋ではメシア・キリスト教から暗黒時代を迎え、キリスト教者以外を家畜のように奴隷として平然としていた。そして君主のあまりの圧政故に、ジョン・ロックが否定した民主主義が誕生したが、キリスト教の悪魔性から抜けだせず、神の子を殺した罪悪感から悪魔教を崇拝し、共産主義を人類にもたらした。何が足りなかったのか、それは“和の精神”である。
 だから古代日本から戦前までの日本は天皇制故に、「メシア・キリスト教」と「共産主義」を排除していたのです。つまりは、善と悪の闘いの最終局面[最後の審判]もまた、必然的に日本へと移動して来たのだと思います。



◇太子時代の氏族制度は、モーセの民の職業氏族だった

 氏族制度は、土地・人民の所有組織と、職業集団である「部曲」で構成されていた。天皇直轄地には屯倉があり、耕作を担当するのが田部、屯倉の管理者が屯倉首、税を司るのが田部連、鍬丁という農業労働者を管理し、その戸籍を司るのが白猪史であった。
 部曲や品部は職業集団で血縁集団では無いが、職業を世襲とする血縁集団化する。職業や職務を有する団体、中臣部、忌部、物部・弓削部・玉造部。特別の種族や人民で構成された部、蝦夷の佐伯部、帰化人の史部と服部、海部。特定の人のための団体、御子代部、御名代部。合計十二氏族だ。
 日本人は元来姓が無かったと思われる。やがてこの職業そのものが姓になっていく。たとえば地方長官の国造・県主は和気・君・稲置・村主等の姓となり、また職業・技術・地名等も姓となった。
 次にこれを略記すれば、職業・技術=中臣(部と君との間をとりもって祭祀を行う)、忌部(清めを行う)、久米(兵士)、物部(兵器)、などでさらに水取・服部・衣縫・掃部・土師・車持・弓削・石作・玉作等々がある。
 土地の名によるもの=蒲生・葛城・高位等、また帰化人はその出身地を名とする、秦・呉・狛等。
 中央の朝廷にはこの種の部が数多くあり、その長が姓を有し、その仕事は世襲であった。日本人の姓が何によって生じたかといえば大体以上がその起源だが、その姓が今まで継承されているわけでは無い。日本では養子が自由だからだ。元来は、苗字と姓は同じでは無く、分家に対する称号で、たとえば藤原家が近衛・一条・二条・九条・鷹司等の苗字を持つようなもの、この場合、正確に言えば「姓は藤原、苗字は近衛」となるが、しだいに苗字が姓の代わりになってしまう。そして武家時代になると各人勝手に姓を名乗るようになった。
 まったく、彷徨中のモーセの民(十二氏族と司祭)と全く同じ構成なのです。ただ、彼ら十二支族は十分の一税を司祭氏族に納めていたのだが、これもまた皇室直轄の屯倉だと思えば納得できるのです。しかも、ユダヤ人も皇室同様に姓が無かった。([日本人とは何か]より抜粋)
 そして、モーセの民はイスラエル王国を建国し、彷徨の氏族製を脱却し国家を持つまでに社会制度が充実しました。これに対応するのが、大化の改新の律令制度です。さらに、イスラエル王国に対するローマ帝国が、大和国に対する元・唐に対応するように思えて仕方がありません。しかし、イスラエル王国は神よりも王を求めた結果でしたが、大和朝廷・日本国は天皇を君主とする立憲国家でした。この点が大きく異なっているのです。



■[日本式律令制=神話継承の律令制]
  〜 日本の律令制は唐の律令制と根本的に違う 〜


 大宝律令は、中国と違って、神祇官と太政官が、天皇の下にあり、しかも天皇直轄の神祇官が太政官の上位の形で並存していた。この太政官が後に武士に代わり、幕府体制となる。
 隋唐以降のシナは、神にではなく政治に救済を求めた。だから、日本の神祇官が政治の下位に来ている。
 卑弥呼(日巫女)、天照の本名はオオヒルメムチ=太陽の妻(神妻)であり、ほぼ同じ意味となる。つまり、古代日本の時から、太陽神を主神として祀ってきた。そこに救いを求めていたのだが、モーセの民がイスラエル国家を建国したように、国家としての体裁を整える必要があった。そこで、神を祀るに相応しい律令制を導入したのです。そして、神道の神を祀る国家として樹立した。
 さらに、神祇官は神道を、太政官は日本式儒教・日本式仏教・日本式景教・道教を取り入れ、護国を祈願した。その結果、神道と日本式仏教が互いに影響し合い、律令よりも貞永式目に価値を置き、政治の世界には民主主義の基本ができあがったのである。ちなみ、シナの律令制では民主主義は永久に生まれない。


    




付録.神道についての補足説明

 [神道行法の本]から神道について抜粋しながら、神道の「禊ぎ」と「祓い」について説明します。
 伊勢神宮で最も重要とされている6月の神嘗祭,12月の月次祭では、今も「生ける神」(旧約聖書に多々言及されています)に仕えるようにして、心御柱に食事を献る秘儀が行われている。また、実際に衣服を神に献じる神衣祭は、神に新しい衣を捧げ神意のあらわれを祈る。さまざまな神社で行われているが、もっとも有名なのは、旧暦4月と9月に行われる伊勢神宮の神衣祭です。この伊勢神宮の神事は、伊勢神宮をアルカディアとみなせば、先生が神々に食事と衣服を献じて居られるそのお姿と重なってしまいます。

 禊ぎは、自らの意思で海や瀬に入り身を清め、穢れを除くこと。近代の禊ぎは、大分県の宇佐に1862年に生まれた川面が、宇佐八万の奥の院で出会ったという697歳の蓮池貞澄仙人から、仏教伝来以前の日本最古の神道の禊ぎを直授されたという。この禊ぎによると、「禊ぎとは霊注ぎなり、水を注ぐが如く神の霊を我の霊に注ぎ入れるのである。『そぎ』とは祓い残りのある咎と罪を、神の霊にてそぎ去り、削り去ることを意味する」とのこと。水でパブステマを与えたヨハネと、使徒に神の霊を注いだイエス様のパブステマに酷似していると云うよりも、そのものだと思います。ただし、この神道の禊ぎについては、霊的境地に達するために行う呼吸法と作法が、重要視されています。
 罪を除くための祓え。罪や穢れを祓う行事としては、「茅の環くぐり」がある。これは、人形に息を吹きかけて、自分の体内の罪と穢れを人形に移し、身代わりとすることである。ユダヤ人が子羊を祭壇に捧げるのと同じ意味があると思います。皇室では、延喜5年(905年)から延長5年(927年)にかけて当時の法令集[延喜式]が編纂され、その中に、大嘗祭や、大解除(おおはらえ)などの重要な祝詞が収録されている。
 大解除の祭儀は、天皇や社会に穢れによる問題が起きたときのみ、不定期に行われていた。明治に入って再興され、今では年二回、千数百年前の原形をとどめている祝詞が唱えられている。この祝詞は、神話を物語にして唱えるものであるが、天津神が授けたきわめて効力の高い祓いの祝詞については、軽々に口に出してはならないので秘密にされている。
 この祝詞の本書の説明の中で、スサノオ命がイエス様そっくりの救世主として登場しているので、そのまま紹介します。「スサノオ尊は天津神の大罪を犯して高天原を追われ、その後世界各地を彷徨って浄化の道程をたどる。そして最後は大海原と根の国、底の国の支配者となった。いわば神の身のまま地獄に堕ちたということになるのだが、それは、人々の罪と穢れを一身に引き受けるという必然的な使命があったためだ。」,「[日本書紀]によれば、祓柱となって人々の罪と穢れを一身に背負ったスサノオ尊は、その罪により髪を抜かれ、手足の爪を剥がされて贖ったとある。苦難の末に贖罪を果たす須佐良比羊の姿が重なる。」と述べられています。スサノオ尊は、アブラハムなので、罪を犯して彷徨ったり、黄泉の支配者になったことはありません。このスサノオ尊の贖罪を読んで連想するのは、マルドゥクが無実の罪で彷徨い、アメン・ラーとなりエンキの支配領地「大海原と根の国、底の国」を引き継いだこと。そして、人々の罪と穢れを一身に引き受けられたイエス様です。おそらく、スサノオ=救世主を望むサタン・ダビデが、太陽神の復活としてのアメン・ラーと、人類の贖罪としてのイエス様の復活のイメージを、救世主としてのスサノオに定着させてしまったのだと思われます。これもサタン・ダビデの謀略の一つでしょう。



付録.呪詛

 具体的な呪詛が、[記紀]に下記のように記述されています。また、インドでも密教でも多く呪詛が出てきます。これは、孔雀王伝説では、魔王の兄弟で、弟が光の化身となり姉の魔王を滅ぼす物語で、拝火教の物語をねじ曲げて密教に取り入れたものだと思います。つまり、スサノオ命が姉の天照大神が支配する高天原で乱暴する物語にも似ており、光の化身がサタン・ダビデだとという意味だと思います。
「応神天皇の時、イヅツラシトメ神(女神)に求婚した兄は失敗した。兄は弟が女神への求婚に成功すれば、産物を与えると賭をした。弟は賭に勝ったが、兄は約束を守らなかった。兄弟の母親は、神の世界と人間の世界を比較して、人の世となって約束を履行しなくなったと、兄を呪詛した。」

 また、「ヒッタイトの楔形文字の一つに『ヒッタイト法典』がありますが、そのなかでは、『蛇を使って呪術を行ったものは死刑にする』と書かれています」[古代出雲と大和朝廷の謎 P220]とあり、中近東文化センターでの話しの記述があります。他にはモーセ様の銅の蛇、龍信仰など、このような蛇信仰が世界各地に残されています。
 三輪山の神もまた、蛇です。[日本書紀]の「崇神記」には、三輪山の神と結婚した百襲姫が神の姿を見たいと望んだところ、櫛の箱の中には美しい小さな蛇が入っていた。これを見て姫は驚いた。蛇は恥をかかされたと思い、姫を殺してしまう。「雄略記」には、神の姿を見たいと望んだ天皇は、三輪山から大蛇を捕まえてよこさせた。ところが、蛇の眼光があまりにも強いので、天皇は恐れ、蛇を戻したという。大物主神の正体は蛇で、出雲大社もまた古くから蛇信仰で知られているとのこと[古代出雲と大和朝廷の謎 P119]。
 大物主神は出雲神社の神であり、出雲王国を建国したニギハヤヒ命は、同じ青銅器文明を持つ殷帝国を建国したと推測されます。殷帝国の時代、甲骨文字で亡き先王が王に祟りをしたかどうか占ったことが残っています。つまり、ニギハヤヒ尊=ヤコブの兄の時代から呪いが恐れられていた。やはり、旧約聖書のノアの呪いが根本にあるのかも知れません。
 このような呪詛はサタン・ダビデが人類に与えたものだと思われますが、日本では、密教・道教の伝来と共に影響が大きくなります。
 本筋からは逸れますが、呪詛や呪術について少し説明します。神道の日本に、個人の利益を願う、利己的な現世利益と、密教の呪詛,道教の呪詛,陰陽道の呪詛などが混合されてしまいました。この結果、霊を自分に憑依させ、この霊の力により個人の利益を成就させようとする呪詛や呪術、祝詞などの言霊による呪術が生まれました。その中で、四国の物部村には陰陽道の流れをくむ血統があり、呪術で悪霊を集めるという([呪術の本]より)。また、キリスト教の教会側が冨と権力を求め、悪魔とその配下を創造し、免罪符や魔女狩りを行った時代がありました。例えば「教会は、ギリシャ神話の牧神パンを悪魔像のモデルに選んだ。上半身が人間で、ヤギの角・蹄・脚をもつパンは豊饒多産の神で、神霊といった神話の創造物が地上で仲良く暮らせるよう導く神でもあった。パンが笛を吹くと、森や牧場に魔法の音楽があふれると信じられていた。…特に紀元1000年頃から、つまり、教会が恐ろしい悪魔の肖像を公認した時期から、パンはサタン像のモデルにされ、パニックを引き起こした。」([キリスト教暗黒の裏面史 P181-182]より抜粋)。これらは、サタン・ダビデが私利私欲を願う人間の心を誘導し、利用して、死後に魔界を作り、地上に悪魔の王国を建国しようとしたのだと思います。



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