第10−10.ヤペテ帝国、モンゴルと日本




 中東ではイエスの時代から現在までも宗教戦争が続いており、いつ終わるのかは誰にも分かりません。ところが、キリスト教、景教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンズー教が共存し、しかも多言語多人種の国家が、13〜14世紀にかけて人類史上最大の帝国として存在していました。また、古代日本においても、宗教の共存、多人種が共存しておりました。この人類史上最大の帝国と古代日本には、共通して懐の深いところがあったのです。

 ノアの箱船には、ノア夫妻の子、セム・ハム・ヤペテ夫妻が乗船していました。
 旧約聖書には、ノアは大洪水後に最初にできたぶどう酒を飲んで酔ってしまい、天幕の中で裸になって寝てしまいました。カナンの父ハムはノアの裸を見てしまう。これに対し、ノアはカナンの子孫に対して、兄弟の奴隷になるように呪います。ノアの呪いと呼ばれています(当時の習慣では裸を見られることが最も恥ずべきことだったのです)。

  「カナンは呪われるがよい。兄弟たちに侍る奴隷となるがよい。
   …セムの神、主はほむべきかな。カナンは彼の奴隷となれ。
   主がヤペテに広々とした場所をそなえ、主がセムのすまいにすまわれよ、
   カナンは彼の奴隷となるように。」[創世記 9章]

 また、[創世記 10章]以降から、ノアの子(セム、ハム、ヤペテ)は、数が増え、各々が部族を形成してゆきます。そして、アヌ・エンリル・エンキが統治領域を籤で決めたように、籤を引き各部族の領地を定めました。つまり、日本神話と同じで、全知全能の神は存在しないということですね。
 預言通り、セムは主・エンリルの統治するシュメル(バビロニア)地方に定住し、ハムは黒人種でエンキの統治するアフリカに定住しました。それでは、ヤペテは何処に行ってしまったのでしょうか。
 預言には“主がヤペテに広々とした場所“とあり、この広々とした場所とは何処なのでしょうか。エンキのアフリカでも、エンリルの中東でも、ヨーロッパでも無いとすれば、ユーラシア大陸しか残っていません(尚、米国にはカイン一族が渡来しています)。

 かつてロシア中東を包含した人類史上最大で最初の世界連邦・モンゴル帝国が、遊牧民族により建国されていました。彼らこそが、ヤペテの子孫だったのです。そのモンゴル帝国は、約二世紀の間世界を支配し、その後、ロシア帝国、大清帝国、オスマン帝国、ティムール・ムガル帝国へと分かれてしまいました。神聖ローマ帝国を除いて、これら帝国群はモンゴル帝国の末裔だったのです。
 そしてモンゴル帝国が形成されていく過程と、その統治方式が、武士が台頭して江戸体制が完成する過程に似ています。更に、世界に対する役割もまた似ているのです。これから紹介するモンゴル帝国については、主に[モンゴル帝国と長いその後]を参照しています。


 ◆ロシア帝国
 ロシア人の祖先は、ノルマン人で、九世紀にスウェーデンからバルト海を渡って東ヨーロッパに渡来した。
 モンゴル帝国は当時統一されていず、貧しいロシア地方にはあまり興味は無かった。モンゴルへの税収の係として、モスクワが名乗りを上げ、モンゴルの傀儡として間接統治を行った。
 物人金の交流が増えてくると、それまで統一されていなかったロシア地方が、モスクワを中心に統一されるようになった。そして、モスクワはモンゴルの血統を取り込み、ロシアの正当な後継者だとした。
 モスクワ大公イワン四世が1576年、チンギス・カーンの子孫から皇位を譲渡され、全ロシアの「ツァーリ」と称した。「ツァーリ(皇帝)」とは、モンゴル語の「ハン」のスラブ語訳である。

 ◆大清帝国
 モンゴル帝国としては、第一に東西に広がるユーラシア大陸での覇権を求めていた。だから、中原に関しては当初あまり興味が無かった。ところが、モンゴル帝国の崩壊が近づくと、蒙満族の血統を取り込み、ホンタイジはチンギス・カーンの正当な末裔だとした。モンゴル王侯の大会議で、モンゴル語で「聖なる賢明なカアン。漢訳は神武英明皇帝」なる尊号を与えられ、みずからの新帝国を大元帝国(モンゴル帝国のこと)になぞらえて国号を「ダイチン・グルン」=「大清」とした。
 つまり、大清帝国は大元帝国の正当な後継である。

 ◆モンゴル帝国の末裔とモンゴル帝国の図版

   

   

   


(資料)[太古日本の王は世界を治めた!]から抜粋
 ◆ 福井県鳥浜遺跡から、エジプトテーベ朝(第十八王朝)の女王が身につけていた
  櫛とそっくりな櫛が出土している。他にも、西アフリカのナイジェリアやガーナで
  しか自生しない”ひょうたん”の種子が大量に出土している。また、インド原産の
  ”緑豆”の種子もたくさん見つかっている。

 ◆ 中尊寺に祀られている奥州藤原家三代のミイラは、アイヌの秘法に従って作られ
  たが、六重の棺に遺体を納めたその葬法は、かの黄金のマスクで有名なエジプトの
  葬法とまったく同じだ。

 ◆ インドのタミル語については、日本語と文法や言葉が一つ一つ法則的に対応する
  ことが、すでに学習院大学の大野名誉教授(国語学・言語学)によってほぼ完全な
  かたちで証明されている。つまり、大和民族の一部、おそらく神武天皇はインド経
  由で渡来した。



1.遊牧民族の風習と風俗

 アブラハムを始祖とするイスラエル人は遊牧民族とされています。つまり、乾燥した大地の草原にヒツジなどの家畜を放牧しながら、季節と共に移動する民のことです。固定した国境を持たず、草を求めて国から国へと移動する民族は、オアシスなどの周囲で農業を営む部族や国を渡り歩き、家畜と食料を交換したり、ある時には村々を襲って食料を略奪していました。そのような小集団がばらばらに、ユーラシア大陸にも散らばっていたのです。

 騎馬遊牧民の元祖は、黒海からカスピ海の北の草原に勢力を誇ったスキタイ・サカ族です。かれらは、一部族では無く、多くの部族を束ねた連合体でした。彼らは、カッシート王国を築き、前千年頃にはバビロニアを征服しており、しかもシルクロード・草原の道を通じての交易で繁栄していました。その後、月氏国を建国しています。
 スキタイ・サカ族は、シルクロードを通じてユーラシア大陸の遊牧民に影響を与えます。例えば、明王朝を恐れさせた騎馬遊牧民の大連合・匈奴です。

 スキタイについてはヘロドトス、匈奴については司馬遷に記述があります。そして両者の記述から、モンゴル高原の匈奴と黒海北方のスキタイが、シルクロードを通じて、均質な文化を保持していたということが分かります。モンゴル帝国時代、情報ハイウェイが完備され、モンゴル帝国が一から建設した北京〜フランスまで約四ヶ月で情報が伝達されていました。ですから、イスラエル人,ユダヤ人が日本に渡来することも、シルクロードの遊牧民族を道案内にすれば案外たやすいことだったのです。そして、スキタイ・サカ・匈奴は、イスラエル人同様に、バビロニアのマルドウクと月神を祀る民族なのです。

「匈奴は、…家畜を放牧しつつ転々と移動した。…水と草を追って移動し、城郭とか定まった住居はなく、耕作に従事することもなかった。しかしそれぞれの領地に分けられていた。…子どもは羊に乗ることができるころから、弓を引きしぼって鳥や鼠を射た。少し大きくなると、狐や兎を射、それを食事とした。士卒は弓を引く力があれば、戦争の際にはすべて甲冑をつけた騎兵となった。…形勢有利と見れば進撃し、不利と見れば退却し、平気で逃走した。」司馬遷『史記列伝』
「…スキュティア民族は…彼らを攻撃する者は一人として逃れ帰ることができず、また彼らが敵に発見されまいとすれば、誰も彼らを捕捉することができないようにする方法を編み出したことである。それも当然で、町も城塞も築いておらず、その一人残らずが家を運んでは移動してゆく騎馬の弓使いで、生活は農耕によらず家畜に頼り、住む家は獣に曳かせる車である──そのような民族にどうして戦って勝つことはもとより、接触だにすることができよう。…スキュティアの国土は牧草に富み水も豊かな平原で…」ヘロドトス『歴史 中』



2.モンゴル帝国の影響

 騎馬遊牧民族は、家畜を放牧しながらの移動で、山賊や他部族からの襲撃に備えなければならなりませんでした。そのため、部族内の結束と規律は固く、男は兵士として育てられました。つまり、民族の移動とは、軍・食料・家族・財産などの全ての移動であり、常に臨戦態勢の国家が移動しているのだと思えばただしく理解されると思います。
 この遊牧軍事体制において、スキタイを引き継ぐ匈奴は、君主を中央にして、左翼と右翼に軍を分け、整然と遊牧を進めていた。この君主・左翼・右翼の三極体制、そして十進法による軍事・社会組織を二大特徴とする国家システムが、ユーラシア遊牧系国家の基本システムとなりました。

 バビロニアや中東の戦乱を逃れ、ユーラシア大陸に移動してきた民族は、イスラエル族も含め、騎馬遊牧民族と融合しながら、シルクロードのオアシスなどに国家を建国してゆきます。騎馬遊牧民族からの防衛のために、国家では騎馬遊牧民族を傭兵として雇い、国防を任せていました。そしてこの国家間を、騎馬遊牧民族が情報や物を交換しながら移動していたのです。
 この様子は丁度日本で武士の勃興に似ています。室町幕府が国軍を廃止し、各国ごとに防衛のために武士(騎馬遊牧民族)を雇います。この武士が互いに連絡し合い、国を超えて、源頼朝(チンギス・カーン)を総大将とし幕府(モンゴル帝国)を開きます。織田信長は日本を、女性の一人旅でも安全な国に作り替え、楽市楽座で商業を発展させました。おそらく、騎馬遊牧民族を従えたイスラエル10部族やユダヤ人は、家畜と馬を捨て日本に渡来しました。その時、ユダヤ人に同化した騎馬遊牧民族は、家畜と馬を捨て日本に渡来し、その末裔が忍者や武士階級、松尾芭蕉のような転々と移動する人々だったのでしょう。
 まとめると、騎馬遊牧民族の軍事力を全面に、多人種、多言語、多宗教を容認する柔軟な政治システムにて、ユーラシア大陸の各国々を取り込んだ形になったのです。ですから、国から国への移動に関しては、道や馬や海路が整備され、しかも安全が確保されました。そのため、モンゴル帝国時代には、西洋を含め洋の東西で人物金と文化の交流が一挙に進みました。
 当時のフランク王国は聖地イスラエルの奪還のために、十字軍を送り出していましたが、結局は決着がつかない状況で、十字軍は打ち切られました。例えば、当時のモンゴル帝国の地図にはユーラシアと西洋、及びインドを経由した海図までが書き込まれていました。ところが西洋の世界地図はキリスト教の暗黒時代でもあり、○に十字架程度でしかなかったのです。それゆえ、キリスト教世界に大打撃を与え、科学的合理的に物事を見る起点になったのでした。
 モンゴル帝国が衰微していく中で、その末裔であるロシア帝国、ムガル帝国、大清帝国、オスマン帝国の時代へと移行してゆきます。そして、キリスト教圏では、暗黒のキリスト教時代を抜け出し、ルネッサンスを経て大航海時代へと大きく移行して行くのです。
 結局、日本が大東亜戦争にて、東亜の国々を西洋の(くびき)から解放したように、モンゴル帝国は宗教の軛から解放したのでした。つまり、マルドウクと月神(天照大神)による人類の救済でもありました。



3.モンゴル帝国の基盤と大和民族

 さて、モンゴル帝国の正史[集史]他から、彼らの宗教と風俗について列挙してみました。これを読まれれば、どこか古代日本=大和時代にそっくりではないかと思われることでしょう。
 モンゴル帝国の宗教は、日月星を中心とする、マルドウク・月神信仰が根底にあり、中心と六名の合計七名の支配体制は天界の七大天使の構成そのものです。しかも、各大天使には四名の天使が付き添っており、この四方向を天とする思想は古バビロニアに由来しています。加えて、男子男系の皇統も同じです。遊牧の厳しい生活では、軍規・規律が常に求められ、その組織は天界を体現し、何事も合議制で決めています。このような生活自体が無意識のうちに、天界への信仰を表しているのです。固定した土地を持たないが故に、一緒に行動する人を「仲間」とみなし、宗教・言語・文化にこだわらないのが、特徴です。それが故に、人類史上最大の大帝国を築き上げ、メシア・キリスト教の暗黒時代に終止符を打ったのです

 一方、日本に渡来した大和時代の有力氏族と遊牧民族との間に、多言語・多宗教・多文化をまとめる聖徳太子の“和の精神”と“冠位十二階”と“合議の精神”が共通していることに驚かされました。また、この序列をつけない合議は、中世武士団でもしばしば見られました。そして、江戸時代には、政教分離・幕藩体制を中心として、各宗教・宗派が共存していました。
 皇室と同じように、モンゴル王家は血統と血筋を非常に大切にしており、後継者は男子男系です。ですから、ロシア帝国と大清帝国は、モンゴル王家から嫁をもらい婿として血縁関係を深め、統治の正当性としたのです。しかし、男子男系では無いために、ウルスを名乗ることはできませんでした。これは天上界も同じで、ヤハウエを名乗るのは、男子男系の血統なのです。


◆「チュルク」
 ユーラシアの内陸部に大きく広がる人々を、一括して「チュルク」だと述べている。
 つまり、ロシアから中国まで、モンゴル帝国内に点在する遊牧民族は全て同じ民族だ
 ということ。


◆「チュルク」の始祖は「ヤペテ
 預言者ノアの子・アブルジュ・ハン(ヤペテ)は、四人の子に二人を加え六名を、東西(左右)へと遣わした。四人の子の一人であるカラ・ハンの子・オグズが一神教徒となった。
 オグズには六人の息子がおり、オグズを中心にして、左翼と右翼に三人ずつ配置した。六人の息子にはそれぞれ四人の子がおり、左翼に十二人、右翼に十二人の合計二四名がオグズ族の国家を形成している。
 右翼の三人「日・月・星」は、年下の左翼の三人「天・山・湖」より、上位とされている。
◆「モンゴル」とは一つの種族では無く、多言語・多人種・多文化の人々のこと。


◆「仲間」
 敵方の人間・部族・国などを吸収する時、「仲間」になるかを選択させた。
 「仲間」なにれば、言語・人種・文化に関係なく、彼らの一員として認められた。遊牧民は固定した土地を持たず、一緒に集団で行動する人達を「仲間」とし、その「仲間」の総体を国と見なしていた。モンゴル帝国には人種差別はほとんど無く、能力、実力、知恵、技術、才能など、人に勝る能力があれば、どんどん用いられていた。
 だから、信じられないことに、モンゴル帝国には、キリスト教集団、景教集団、イスラム教集団、仏教集団、ユダヤ教集団、ヒンズー教集団が、共存していた。このようにして、各地域の遊牧民を取り込みながら、国々を帰属させていった。

◆チンギス・カーン(本名テムジン)、匈奴共に、中央・左翼・右翼の遊牧軍事体制を踏
 襲している。チンギス・カーンは長身・大柄で、額は広く髭が垂れ、猫のような目をし
 ている。
 推測ですが、チンギス・カーンの身体的な特徴は、白髪、猫の目、大柄なのですが、
 白髪、金色の目のアヌンナキにそっくりです。つまり、ノアと同じでアヌンナキの血
 統を濃く持つ者だったのだと推測されます。


◆モンゴル遊牧民は、純朴にして勇敢、命令・規律によく従う。


◆チンギス・カーンは周到な計画性を持つ戦略家である。
自軍に対しては、徹底した準備と意思統一、敵方に対しては二年ほどかけて徹底した調査と調略工作を行った。できれば、戦う前に敵が崩れるか、降伏するように仕向けたのです。つまり、大量虐殺や無敵軍団のイメージは、戦略であり事実では無かった。

◆モンゴルの支配は、信教の自由をはじめ、基本的にどの地域でもゆるやかで、
 徴税も他の時代よりも低率だった(十分の一税)



◆モンゴル帝国では、遊牧軍事体制を国権の中心に据え、
 財務・行政にユダヤ・イラン人などの多人種の官僚組織、
 各宗教・宗派ごとの聖職者組織を国家・社会の柱とした。


◆円座による合議制
強烈な一族の結束に基づき、部族単位の社会をとりまとめる長老達の会議は、円座しながら合議制で決定・判断される。円座する理由は、会議に集う者には上下の関係は無く、皆対等だということを意味している。そして、部族を超えた大会議では、色服により区別された。また、円座に飲食が加われば、宴会の意味にもなる。

   
  この三つのシルクロードとモンゴル帝国は完全に重なる。

  



4.まとめ

 ノアの子は、セム、ハム、ヤペテです。セムはバビロニア他、旧約聖書の主人公です。ハムはアフリカの黒人種で、エジプトの歴史に登場します。最後にヤペテですが、モンゴル帝国の始祖がなんと、ヤペテでした。
 彼らは遊牧民族で、国土を持たず、軍隊を含む国家が移動しているようなものだった。
 騎馬遊牧民特有の、信仰の自由、寛容な支配、多人種、多国籍、多文明を基本とする国家として、モンゴル帝国を建国した。そこでは、キリスト教、景教、仏教、ユダヤ教、イスラム教が共存し、行動規範を共にすれば、能力と才能のある者がどんどん取り立てられる社会システムでした。
 モンゴル帝国の血統の末裔として、ロシア帝国、大清帝国、オスマン帝国、ティムール・ムガル帝国へと分裂する。モンゴル帝国からすれば、寒冷で貧しいロシアも,中国の中原も重要では無かった。単なる一地方でしかなかった。
 ロシアはモンゴルの傀儡政権として誕生、北京はモンゴルにより建国され、文明化に関しては非常な恩恵を受けている。
 キリスト教の暗黒時代の神聖ローマ帝国時代、十字軍を繰り返しイスラム共に消耗していた。そこに、ヨーロッパと北京を4ヶ月で結ぶ情報ハイウエイと交通網が整備され、宗教の共存、多人種、多言語国家で、活気あふれるモンゴル帝国が圧倒的な強さで出現した。
 暗黒時代のヨーロッパは、モンゴルと比較にならないほど非科学的だった。日本で言えば黒船到来と同じで、この暗黒時代の転換期をもたらし、キリスト教の軛を断ち切り、ルネッサンスへと向かわせたのが、モンゴル帝国でした。
 さらに、モンゴル帝国の神話からマルドウク、月神=エルランティ様に導かれているのは明らかです。丁度、モンゴル帝国の拡大は、信長が日本を統一したのに酷似している。さらに、モンゴル帝国が諸国にもたらしたインパクトは、大日本帝国が東亜の国々から西洋支配を断ち切らせたのと似ている。
 また、大和国の有力氏族は渡来人達で、彼らはシルクロードを通じて、ユーラシア大陸を横断するのに騎馬民族の軍事力と道案内を借りなければなりませんでした。ですから、イスラエル、ユダヤ、バビロニア、等々と騎馬民族文化とはシルクロードで融合していたのです。
 そして、馬と家畜を捨て日本に渡来した大和民族の始祖の面々、加えて同時に騎馬民族が武士階級として家畜と馬を捨て渡来しているのです。

 ◆追記:史記の記述はフェイク歴史だった! … 「契丹古伝」より
 ノアの洪水以後、その時代から中国に住み始めた西方の人々(漢民族)が中国の歴史と帝王の系図を偽造したこと、そして契丹人と日本人の共通の祖先が禹(ノア)であることが述べられている。

◇ ◇ 

 その昔、地球は大異変に見舞われ、恐るべき洪水が発生して、海と陸の形はすっかり変わってしまった。
 この異変で地軸が傾いた結果、大地は中国の北西部で縮んで盛り上がり(ヒマラヤの隆起)、南東部で引き裂かれて水没した(フィリピン海溝の形成)……。
 尭・舜(ぎょう・しゅん)の時代に地球全土は戦火に包まれ、南は洪水の後始末に追われた。ところが、このような戦争と異変の混乱に乗じて、人身牛首の神をまつる者、蛇身人首の鬼をまつる者が西から東へ次々と来たり、われらの地に住みついた。
 そして彼らは、自らをわれら東大古族の神の子孫と偽ったばかりでなく、伏犠や神農、黄帝、少コウなる人物をわれらの王の祖先に仕立てあげて、その系図に自分たちの祖先をつなげ、……これら偽りの神と王に対する崇拝をわれらに強制して、自らを聖帝の子孫なりと誇らしげに語っている。
 けれども彼らは、自らの祖先と思っていた尭と舜が、彼らの思惑に反して東大古族の王であり、われらの祖先であったことをはたして知っているのだろうか。
 西から中国の地に移住して帰化した人々がわれらの王に仕えたのは、尭・舜のときではなく、その後久しく続いた夏王朝の創始者たる禹のとき以来のことである。
 彼らは、われらの王である禹をあたかも彼ら中国人の王であり、中国大陸だけを治めた王であったかのように記しているが、これはとんでもない間違いである。
 というのも、『史記』に記された南は、大洪水を生きのびてテイルムンの楽園に住んだシュルツパタの王ウトナピシュティム(日本の天御中主、ノア)を指しており、彼の治めた地域は、息子ギルガメシュ(日本の高皇産霊)が活躍したメソポタミアのウルク(夏)だけでなく、全世界に及んでいたからだ。われら東大神族の王である禹は、中国だけの王ではない。(追記 2018/02/03)

(余談)

  夏殷=カイン王朝
  周=ジュ=ユダヤ王朝
  秦=中東民族の王朝
  漢=カイン王朝の再現
  唐=遊牧民との妥協王朝(今後の検討必要)
  元=モンゴル帝国
  明=遊牧民を取り入れた王朝
  清=モンゴル帝国の再来
  共産中国=カイン王朝の再来
                   以上 2011/09/21 北
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