第10-11.古代中国と最高神・女神




 中国神話には、三皇五帝という偉大な人達がいました。その特徴は神話として伝えられていますが、はたして旧約聖書の誰に相当するのかについては不明のままでした。ここでは、これら偉大な三皇五帝に関して推測を交えながら、まずは紹介いたしましょう。
 尚、[物語中国の歴史][古代中国と倭族]を主とし、[読む年表 中国の歴史]を参考にし、図表を抜粋しました。([日本神道の謎 鹿島昇著]に史記「黄帝はサルゴン大王か」についての貴重な意見があるので最終行に資料として追記しました。2015/05/16)



1.古代中国始まりの三皇

 三皇については、盤古(ばんこ)・伏義(ふくぎ)・神農(しんのう)を指していると伝えられています。

◆盤古
中国神話の神で、宇宙開闢(かいびゃく)の創世神とされています。

◆伏義
 兄妹であり夫婦とされる女蟐(じょか)と同様に、蛇身人首の姿で描かれています。アヌンナキの神々では、明らかに、人類を創造したエンキとニンフルサグに対応しています。ニンフルサグは、エンキの異母妹であり、実質的には夫婦とされています。更に、彼ら二人は、DNAをシンボライズしているのですが、一つの柱に二匹の蛇が巻き付いた姿として描かれています。

◆神農は炎帝と称しています。
 百草を嘗めて効能を確かめ、諸人に医療と農耕の術を教えたといわれており、中国では“神農大帝”と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされています。神農神農は紀元前2740年頃の古代中国の王で、120歳まで生きたといわれています。



2.五帝「黄帝 蝴 尭 舜 禹

 黄帝(漢民族の祖先)・帝鬘馴梶(黄帝の孫)・帝蝴高幸(黄帝の曾孫)・尭・舜で、特に尭・舜は理想の聖君主とされ、尭・舜の世は理想的な政治が行われた時代と讃えられています。尭は舜に、舜は黄河の治水に功のあった禹(蛇の意味、父の鯀は卵の意味)に位を譲り、禹は帝位について夏王朝を創始しました。とにかく黄帝は中国文明の始祖で、他の四帝、及び夏殷周王朝の始祖もまたすべて黄帝と血縁関係にあると、司馬遷の史記は伝えています。

 この神話を読んで、治水を行った禹がノアなのかと最初は思ったのですが、ノアの大洪水直後であれば、箱船から出た人を救うのに治水は必要ありませんでした。ですから、黄帝をノアとすれば、全ての民族の始祖ですから、当然漢民族の始祖でもあるわけです。
 そこで、黄帝の即位が前2699年とされていることに、注目しました。[ヨベル書]によれば、ノアは前3059年頃に誕生し、ノアの大洪水(前2500年頃)前にはすでにジウスドラはシュメルの王ですから、年代的にはぴったり重なります。更に、黄帝の父・神農が前2740年頃の王で、ノアの父レメクは前3110年に誕生しており、これも年代的には問題在りません。今回、黄帝をノアと推断しました。

 それでは、漢民族は、ノアの子(セム・ハム・ヤペテ)のどの一族の末裔なのでしょうか。
 司馬遷によれば、帝鬘馴鰍黄帝の孫で、黄帝の次子・昌意の子です。舜は次子・昌意の七代の孫に当たりるとされています。つまり、漢民族の始祖は、ノアの次子であるハム族(悪魔崇拝のカナン人で、当然蛇を崇拝していたはず)の末裔だということが明らかになりました。中国の古代王朝が、エンキの支配するエジプトのように、宗教的な徳と才能を重要視していたこととも符合します。


 ■中原はここだった
 秦以前の国とは、城壁に囲われた都のことで、中国とは首都の意味だった。
 崋山のある陝西省~洛陽のある河南~泰山のある山東省の黄河流域の一大商業圏を、中原と呼んでいた。中華の呼び名は、崋山、華夏から派生した。陸のシルクロードと海のシルクロードが交わり、この中原に文明都市が発生した。都市住民とその周囲の住民を区別して、中国人(漢人)、四夷と呼び習わした。この中国人だが、周囲から都市に住み着いた市民のことで特定の民族のことではなかった。市民になるには税を払い、決まりを守れば良く、だれでも住民になれた。
 そのうち、血や言語のアイデンティティではなく、「漢字」の通用する範囲が中国文化圏であり、これに参加する人々が中国人であった。
 尚、ソロモンの当時、商業はカナン人の仕事として軽蔑されていた。尚、堕天使が交わったカインは、カナン人と交わり悪魔教を広めている。また、イスラエルがカナン地方を征服するまで、カナンの都市国家は「通商の王」とされており、中原と全く同じです。だから、漢=カンの語源は、カナンもしくはカインだと思われます。

 ■夏人の出自
 紀元前二千~二千五百年、長江の付近の越に青銅を行う夏人が現れた。彼らは、黄河に移動し、夏王国を建国した。夏=華で、夏の中心地を中華と呼んだ。

 ■『史記』「殷本記」
 殷の始祖の母・簡狄は、西の草原の遊牧民の娘だった。姉妹三人で水浴びをしていると、ツバメが卵を落とし、その卵を飲んだところ簡狄は妊娠して、殷の始祖である契を産んだという。おそらく、ツバメ=ジェット機型のUFOから、水浴びをしている娘に見とれてしまい、ツタンカーメン同様に、パイロットとの混血・半神半人として生まれたのでしょう。
 また、周の始祖の母・姜原は女神で、野外で巨人の足跡を見付け、よろこんでこれを踏んだところ妊娠して男の子を産んだ。この子を棄てようとすると、鳥獣が保護するので育てることにした。そのため棄と名付けられたのが周のしそである。これもまた、UFOパイロットが地上に降りたところを見付け、バラモンの神の血を貰い受けるのと同じ要領だったのだろうと推測されます。

 更に、「夏」は「商人」「商売」を、「殷」は「交易」を意味している。つまり、カイン・カナン人は青銅器をこの地で製造していたが、シルクロードの発達と共に商売・交易を行うようになった。これは、カインと交わったカナン人が、フェニキア人として交易を行い、その資産で黒い貴族から国際金融を支配する三百人委員会へとつながっていくのと、同じような変遷を辿ったのではないかと思われる。
 そして「周」も「秦」も、西方の遊牧民族(戎)であった。戎はジュと読み、周と同じ読みだ。つまり、ユダのことだ。



3.易姓革命の始まり

 五帝に関しては、自分の息子ではないが、血縁関係にある者、すなわち才能と徳のある者に、王位を禅譲してきました。ところが、殷王朝から、易姓革命が定着し、エジプトと全く異なる歴史が展開されてゆきました。

 夏王朝は以後17代、前2100年から約500年間続いたのですが、暴君桀(けつ、殷の紂とならんで暴虐な君主の代名詞。実際は非常に誇張されている)があらわれ「酒池肉林」にふけり、暴政を行ったので殷の湯王に滅ぼされたと司馬遷の「史記」には書かれています。湯王は前1600年頃、殷王朝を建てています。
 かつての禅譲に代わって、徳を失い・天命に背けば、権力も崩壊し、現実的な武力による易姓革命により、現王朝は滅ぼされ、新しい王朝に交するようになりました。

 殷王朝は祭政一致の国家で、人々は天帝の真意をうかがうべくさかんに占いを行った。天帝は宇宙の支配者であり、その意思によって未来が決定されると考えられていました。王の任務は、ほとんど大司祭につきていた。ちょうど殷の時代には、地球司令官太陽神・マルドウクにより、古バビロニアがハムラビ法典による法の支配の元で、バビロニア地方を征服していました。エジプトと同じく殷の時代、太陽崇拝が盛んに行われており、マルドウクによる支配だったと思われます。

 殷の紂王の時代になると、王が「酒池肉林」にふけり、暴政を行ったので、周により滅ぼされました。前1050年頃、周が建国され、殷の時代に乱れた秩序を回復するために、礼楽制度を整えると共に、経済の建て直しを図り、落陽に都を移しました。
 殷の制度を引き継ぎ、長子相続,宗法,封建を整えた周広は、「王朝や人間の運命は神意によって決まるのではなく、政治家や個々人が修養をつみ、道徳にのっとった行動をするならば、神意はこれを善しとし、運命を変えることができるとした。神とくに祖先神は善意に満ち、子孫が礼法に従って祭るならば、必ず感応して祝福を与えるとも考えた。また、天命を迎えるためには有徳でなければならず、それは民意をうかがうことであり、政治の目的は天命をうることにある。」[中国の物語]として、易姓革命を正当化しました。


 ■孔子誕生と諸子百家
 「儒家」は葬儀業者として出発した。
 春秋時代の六世紀半ば、魯国に生まれた孔丘(孔子)は儒家の祖とされるが、そもそも「儒」とは祈祷や葬送儀礼を職業とする「巫祝(ふくしゅく)」(シャマン)をさすことばであった。「儒」はもともと「雨がやむのを待つ」「非活動的」という意味で、祭祀や儀礼をつかさどる人を、その態度や服装から「儒」といった。のち孔子学派を批判する者が、その説を迂遠かつ非実用的であるとしてあなどり、「儒」と呼んだのである。それから百年ほどのちに孟子が自己の学説を「儒」といいはじめ、孔子学派も儒を自称するようになった。
 原始儒教の巫祝は、葬儀業者として遺族がおこなう葬礼にかかわっていた。宗教としでの儒教では、精神の主宰者「魂(こん)」と肉体の主宰者「塊(ぱく)」が一致しているのが生きている状態で、「魂」が天上に、「塊」が地下へと分離するのが死である。命日には頭蓋骨を生者の頭にかぶせて死者になぞらえ、魂塊を憑りつかせた。やがて頭蓋骨が仮面となり、身代わりの人間が木の板にかわって位牌になった。
 孔子のいう「孝」とは父母への敬愛、子孫を生むということを意味するだけでなく、祖先にたいする祭祀(招魂儀礼)を第一義とするものであった。また、孔子は音楽を重要視したが、これも儀礼には音楽がつきものであったからである。『論語』の「擁也篇」には、孔子が子夏に日く「汝、君子儒となれ、小人儒となるなかれ」とある。王朝の祭祀儀礼・古伝承の記録にかかわるのが上層の儒、つまり「君子儒」であり、祈祷や喪葬を担当するのが下層の儒、「小人儒」である。たんなる葬儀業者に甘んじることなく、一段上のレベルをめざせというのである。
 孔子は礼楽(礼節と音楽・文化)の専門家となり、「詩」と「書」を文献学的に整理統合し、行政官僚の教養を授ける塾をひらいた。その後、性善説をとなえる孟子や、性悪説を主張する筍子によっで政治思想が深められ、また、徳をもって治めるのを理想とする儒家の徳治政治にたいして、筍子の弟子であった韓非子が法家の立場から法治政治を対置するようになった。
 儀礼・葬儀を重んじる儒家にたいし、墨子(墨家)は「礼」の簡素化を主張し、音楽は「非生産的」であると批判した。また、儒家の「孝」のように親子や家族の関係を重視するのではなく、すべての人をわけへだてなく愛する、いわゆる「兼愛」を説いた。
 いつの時代の人か、その実在さえたしかではないが、老子がひらいたとされる道家は、孟子と同時代の荘子に受けつがれた。これはむしろ世俗を去って隠遁生活をすすめるものであった。
 大小あわせて二百ともいわれる多くの国が五百年以上にわたって争いをくりかえした変転きわまりない時代が、儒家、墨家、法家、道家、孫子の兵家などの「諸子(子は先生の意)百家」を生む背景であった。


 ※秦氏と孔子・儒者
 孔子の祭祀・儀礼・雅楽は、秦氏の役割とほぼ同じですが、秦氏は孝を最優先はしていません。儒教の祭祀・儀礼は葬式仏教(原始仏教に葬儀は存在しないが、葬儀を大切にするシナにおいて、仏教がキリスト教を吸収したように、葬儀を取り込んでしまった。)として、儒教の政治理念は武家へと引き継がれました。
 孔子の行き過ぎた「孝」は、十戒の「父母を敬うこと」が余りにも強調されすぎたものでしょう。その時代に必要だったのか?、むしろ孔子の心理的な要因がそのようにさせたのでしょう(おそらく、親族との離別への苦悩を経験しているのでしょう、だから理念的なのです。モーセがフロイトの魂の本体であったように、大天使ガブリエルが孔子の本体であったことがよく分かります。)。「孝」を優先する故に、親族が犯罪を犯しても、これを庇うのが当然とされ、公よりも私が優先されてしまった。十戒には「汝盗むなかれ」「汝姦淫するなかれ」「汝殺すなかれ」といった「私」よりも「律法(公)」に従う掟があったのだが、これが抜け落ちてしまっている。この歪みを正すべく、墨家、法家、道家、兵家などが現れたとも考えられるでしょう。


 ■雅言
 漢字で綴られた雅言の特徴は、名詞や動詞や性や数詞や時制の区別、接頭語も接尾語もなく、「てにをは」もない。しかも、読みは「諸子百家」でばらばらで、互いの学派でどのように読んで良いのか分からなかった。日本では漢文に返り点や「てにおは」を入れ独自の読みをしたが、現在の中国人でも論語は読めないのです。



4.楚、秦、漢、隋、唐、宋、元、明、大清王朝について

 前770頃に周の時代が崩壊し、春秋戦国時代から、前221年に秦の始皇帝が中国を統一します。
 前606年頃、長江の中流に勃興した「楚」は、周などの中原からすれば文化と民族を別にする夷狄(いてき)に当たります。楚は高床式家屋に住み、稲作を行う民族で、祖先は周と同じとされています。そして、前721年に北イスラエルが滅亡しており、個人的には、イスラエルの十氏族の末裔である楚が秦により征服される時、日本に亡命し稲作文化を伝えたのだと推測しています。同時に、前700年頃、ユダヤ人であるイザヤの民が日本に直接移住しています。

        

 秦はメディア人による王国で、儒教を弾圧しています。そして、弾圧に耐えかねて“秦一族”が日本に渡来しています。ちなみに、この秦(Chin)がインドに伝わりChinaになり、ドイツ語のChinaの語源となった支那についてもChinaを漢字音で移したものです。

 天下を統一した秦は、楚を漢の地に封じます。そして、秦が崩壊すると、周の後ろ盾により楚が挙兵し、秦を滅ぼして漢を建国します。従って、漢はイスラエル十氏族の王朝です。また、随文帝、唐の高祖は、軍人であり騎馬民族の血統です。同じく、宋の朱全忠もまた反乱軍で、賤民でした。それゆえ、彼は宦官と漢民族の貴族を皆殺しにしました。

 その後の、元はモンゴル帝国、大清はモンゴル帝国の末裔です。そして、元の後の明は、貧農の子・朱元璋により、モンゴル帝国の経営を継承し、皇帝の権限を強化しました。

 まとめると、ほとんどの王朝が漢民族ではなく、中原中心史観からすれば蛮族とされた北方の遊牧騎馬民族モンゴル・満州族、南方の楚・越・呉の方が、歴史的にはかえって活躍していることが分かります。しかも、楚が漢に封じられてはいますが、漢民族というその実態は不明のままで、後述しますが事実はほんの少数に過ぎなかったのです。


 ■秦の始皇帝の焚書令
 漢字には文法が無く、各学派で、読み方も漢字の意味も形も違っており、教団が異なれば読み書きができないような状況だった。そこで、漢字の用法、字体、発音を統一するために、医薬・占い・農業技術などの実用書を除き、民間の書物を没収して焼却し、私有を禁じた。そして宮廷学者のテキストはそのままとし、今後文字を学ぼうとする者は、公共の機関で文字を学ぶことができるようにした
 皇帝の「皇」はキラキラ輝くの意味。「帝」は大地母神の配偶者の意味で、天から雨が降って大地を潤し、そこに生命が生まれるという発想である。
※地母神=ニンフルサグ、皇帝=エンキを意味するのだろう。
 つまり最高神の女神(ポリネシアン系)と最高神の男神の結合が、皇帝思想、中華思想の根本教義だ。



5.中華王朝の盛衰は必然

 中原では、易姓革命により、大量虐殺の末に文明が滅び、賤民が勃興して新しい文明が起こりしばらくの繁栄を謳歌し、再び大量虐殺の易姓革命が繰り返されました。
 新しい王朝が始まると、封建制度の下で有力豪族や外戚と宦官、そして官僚が私腹を肥やし、皇帝一族は遊興にふけり、皇帝の権限が弱まる一方で、民は重税に苦しむようになります。何故でしょうか。
 それは、孔子式儒教は原始儒教(ユダヤ教)を模範としたが、神への愛と忠誠よりも親族への孝を最優先とし、しかも享楽については規制が全くないのです。だから、家族最優先、しかも私利私欲を最優先とし、遊興に身を委ねるのは当然なのです。孔子式儒教は易姓革命を完全否定します。それどころか、いかなる皇帝でも尽くせと教えており、残忍な皇帝支配の暗黒政治から抜け出すには、易姓革命しか手段がないのです。しかも、この易姓革命は、賤民や貧農によるもので、プロレタリア革命そのものです。しかし、儒教と中華思想には、プロレタリア革命から抜け出す方法は、与えられていません。それは、共産主義王朝においても同じで、このままであれば、易姓革命=プロレタリア革命を繰り返すだけでしかないのです。

 流浪のユダヤ人は、王国を弱体化し、ユダヤ人に住みやすいような環境を創成する手法として、サタン・ダビデによりマルクスを通じて共産主義が人類に与えられました。マルクス主義は、人民からの搾取については教えますが、分配の方法を教えていないのです。だから、皇帝・孔子式儒教と全く同じ構図で、人民から奪うだけなのです。ただ違うのは、共産主義下では、共産主義体制内でのプロレタリア革命を阻止するために、軍事を独裁し、敵を徹底的に虐殺することです。中華思想では文人が最良とされ、科学・数学・軍事は卑しいものとされたゆえ、科挙の試験から理性を養う科学が削除されてしまいました。だから支那版ルネサンスは起こりえず、神無き中華思想の決定的な欠点でもあります。

 一方、ヨーロッパの皇帝は、皇帝権限を強化するために、メシア・キリスト教を国教と定めました。それゆえ、人々は天国への切符を手にするために、地獄の苦しみから逃れるために、暗黒のキリスト教時代を堪え忍ばなければなりませんでした。
 同じく、中国皇帝は皇帝権力を強化するため、神を捨てた孔子式儒教を取り入れました。それゆえ、易姓革命を繰り返す暗黒時代が、現在でも支那人民並びに少数民族と呼ばれる人々を弾圧し続けているのです。だからこそ、支那も韓国も北朝鮮も、君民共治の日本にあこがれているのです。

 以下では、中国王朝の興亡もまた、善と悪の闘いの場であったことを述べたいと思います。



6.中原の河南民族は誰

 河南の地に夏・殷は勃興しました。夏殷=カインであり、このカイン族は堕天使と交わり、巨人族を生みます。更に、エンキに支配されたカイン族は、ノアの大洪水にて生き残ります。そして、サタン・ダビデの支配下にあったハムの子・カナン人と交わり、長子を邪神に捧げるために焼き殺してしまう悪魔教を崇拝していました。この当時、黒人種ハム族は、エジプト及びアフリカの人々であり、エンキの支配領地下にありました。
 カイン族は金属技術に優れており、エンキは河南の地で金属を精錬させていたのだと思われます。そして、このカイン族を統率するために彼の支配下にあるハム族の禹を、派遣したのだと推測されるのです。従って、禹の治水はエジプトのナイル川での大洪水だったのだと推測されるのです。

 この推測を肯定する証拠として、埋葬時の方向があります。
 夏・殷・周・楚では、死者の頭を西にして葬ります。ところが、ヤペテの末裔である北方のモンゴルなどの遊牧民族、中原東の民族、長江の楚以東の民族においては、死者の頭を東にして葬るのです。死者の頭の方向は故郷を示していると言われており、夏・殷・周・楚は、ハム族・カイン族・イスラエル族などですから、故郷は西の方角です。

 遊牧民族にはマルドウク・月神信仰、すなわち太陽神信仰がありました。これら遊牧民族は、中原を避けて、中原の東から、南へと広がっていった。だから、彼らは太陽の方向に向けて埋葬したのだと思われます。更に、長江の下流では、屈葬にて頭を北に顔の向きを東にして埋葬する風習があり、エジプトと同じです。エジプトでは、出自が北の方向で、太陽が見えるように東に顔を向けています。同じだとすれば、北方向が故郷で、顔を太陽に向けたのでしょう。他にも、頭を西に向けて埋葬する種族の遺跡からは、羊の化石が出土しますが、それ以外からはほとんど出土していないのも一つの証拠でしょう。

 従って、漢族とはカイン・カナン人の末裔のことで、これを支配するように封じられたのが楚人=イスラエルの十氏族です。まさに、神と悪魔の闘いの場だったといえるでしょう。



7.三星堆積跡の巨人像

 長江の上流にある三星堆積跡には、地元で取れる黄金、玉器、象牙などの高貴な遺物と、雲南省から取り寄せ加工した青銅器が大量に出土しています。この雲南省の銅は、三星堆積跡を通過して、殷へ運ばれていたらしいのです。

 さて、このツリ目の三星人像ですが、なんと台座を含めて2.6Mの長身で、龍の彫刻が施され、黄金が貼られていたとされています。この巨人像ですが、モアイ像やアメンホテップⅣ世像の顔に特徴が似ています。鼻口が大きく、顎が尖っています。かつ目が大きく、アメンホテップの目もかなりのツリ目です。このアメンホテップⅣ世像ですが、この象とは似ていない本人の像が別にあることから、この像は彼が崇拝するアメン神を表したものと推測されます。また、モアイ像は、古代に罪を犯した異星人UFOパイロットが帰還を願って空を見上げている巨人の姿なのですから、ツリ目で巨人である三星人像は、おそらく金属精錬を監督監視する巨人族=古代のUFOパイロット=プレアデス末期の人だったと推測されます。

 だとすれば、三星人像の目から飛び出した器具は、金属の温度を測る測定器や、仕事の進捗を監視するための器具だったのかもしれません。くわえて、巨人三星人像は、顔を別とすれば、裸足であること胴体が細いことなど、シュメルの立像に似ています。おそらくシュメル人も来ていたのかもしれません。

   


 三星堆積跡は滅ぼされ、殷は周に滅ぼされてしまいました。ところが、セム族系の周は金属精錬を得意とせず、その技術はとうてい殷には及びませんでした。似たような事例が、古代日本にもあります。それは、青銅器文明の出雲王国、鉄器文明の吉備王国、これを支配したユダヤの大和朝廷です。違うのは、大和朝廷では、出雲王国を併合した時に三代にわたって女王を迎えています。同じく、吉備王国を併合した時にも複数代に渡り女王を迎えており、統合王朝の形式を取っていることです。中国のように、滅ぼしてしまったのではありません。また、蘇我氏や藤原氏が皇后を出し、外戚として権勢を握りましたが、皇室を滅ぼそうとはしませんでした。


■古代シュメルのウバイド文明とそっくりな縄文土器
 一説には、爬虫類人の証拠だとされている子を抱く母の像が、ウバイド文明から出土している。だが、異星人とされているグレイなどは、この子を抱く母の像や河童にそっくりで、グレイはバイオロボットだというのが事実とのこと。つまり、古代シュメルの時代から、アヌンナキの神々は、「ギルガメッシュ神話」や「イナンナの冥界下り神話」に出てくる人間ではないロボットを使っていたのだから、母を抱く像は子育て用のバイオロボットだと思うのです。
 
 さて、山梨県北杜市、つまり八ヶ岳の高所から出土している縄文土器を見て下さい。顔の特徴が同じつり目で、子供こそ抱いていませんが、下段右の像はウバイドと同じ、母のイメージです。
 
 しかも、八ヶ岳の麓付近の諏訪では、ウバイド文明とほぼ同じ頃(紀元前4千年頃)、縄文時代中期(紀元前2千~3千年)の縄文土器並びに、つり目の婦人像が出土しています。おそらく、同じ文明を共有し、同族(シュメル人)だったのだと推測されます。つまり、シュメル人は忽然と歴史の舞台から消え去ったが、天浮船でこの八ヶ岳一帯に渡来して、縄文人として定着したのかも知れません。
 
 日本人の「Y染色体DNA」は「ハプログループDE=YAP=ヤップ」と呼ばれるものであり、かなり珍しいものであり、チベット人や一部のアラブ人、イスラエルに古代から住んでいや真性のユダヤ人などがもっている。日本人のルーツのひとつはイスラエル周辺の中東にある可能性(「日ユ同祖論」)も否定できなくなってきた。なお、中国人や朝鮮人、韓国人は、YAPを持っていないのです。(2015/12/31追記)


8.カイン・カナン以外、もう一つの魔族(悪の種族)

 ノアの大洪水を生き残ったのは、ノアの家族だけではありませんでした。聖典には、カイン族、心正しい巨人族の預言者も生き残ったとあります。他には、ノアの大洪水前、現在と比べ海面が低かったので、スンダランド大陸が太平洋上に顔を出していた。ノアの大洪水後、スンダランドの山々の頂上のみが顔を出して、ポリネシア諸島になり、島々に生き残った人々がいました。それは小柄で色黒のポリネシア人です。彼らの神話にも大洪水のこと、生き残ったことが伝えられています。
 推測するに、エンキはアフリカだけではなく、方々の大陸で人類を創造したのだと思います。ノアの大洪水後に生き残ったポリネシア人は、船でマレーシアに渡り、北上を続け、長江の東まで広がりました。というのは、この地域から、頭を南に向けて埋葬された人々がいるからも納得できると思います。つまり、長江の東側では、遊牧民族とポリネシア人が融合しました。ある部族は遊牧の生活様式の家を作り、もう一つは稲作に適応した高床式の生活を取り入れました

 この中国大陸の長江中流から下流、南に住む高床式・稲作民族のことが、史記では“倭”と呼ばれています。[古代中国と倭族]によれば、野生米からジャポニカ米への変化は、殷の時代に長江中流で起こったと述べています。野生米は小粒で、実ると自然落下してしまい、手で拾うしかなく、脱穀が出来ずにとても不便なのです。それが突然に、粒が大きく、自然落下しないように品種改良してしまったのです。これは、小麦やブドウなどと同じで、アヌンナキによる品種改良の賜だと思います。
 中原では小麦の畑作が中心ですが、小麦を捨て稲作の民として、湿潤なこの地域に適した生活様式を取り入れて、木造の高床式住居に住むように変わったのだと推測されます。

 ポリネシア系稲族は、万古神話を持ち、蛇を崇拝し、体に入れ墨をします。魏志倭人伝の中に、倭人は入れ墨をしていると書かれていることからも、彼らの一部は日本に渡来したのです。同時に楚人も渡来している。
 さらに、彼らの部落の入り口には二本の棒が立ち、しめ縄がはられており、日本の鳥居と同じ様式です。更に彼らの高床式建築には千木があり、千木や鳥居には二羽の鳥が置かれています。この鳥は、神様が降臨するための乗り物とされ、鳥居以外にも巨石や巨木をしめ縄でかこう習慣もあります。これらの習慣は、イスラエルの十部族である楚人と混交した故に広まったのだと思います。そしてこの生活様式に切り替えた稲族として東南アジアへ再度広がっていったのでしょう。

 ポリネシア系稲作部族の一部には、食人の信仰があることに驚かされました。以前先生は、農耕民族はタンパク質の摂取量が不足しがちなので、狩猟民族に比べ、残酷だとおっしゃいました。まさにその通りなのですが、この信仰が日本に渡来して影響を与えなかったことに感謝したいと思います。一方、中国人は人間を食料・家畜として見ており、死体の塩漬けを孔子は好んで食していたそうです。他にも、子供や妻を殺して、客人に振る舞うことを当然とし、政治的に有利な官職を手に入れる手段としています。かの劉備玄徳も人肉でもてなされ、おいしかったと感謝し、後に官職を与えて報いています。信じられない、残忍で冷酷な習慣です。
 この残忍な習慣は楚人と混交した食人信仰の稲作族が、秦の時代に漢族(カイン、カナン)と更に混交した結果なのではないかと思います。更に、三星=オリオンであれば、エジプト系種族のネアンデルタール人も混交したことでしょう。

    



9.魔族・悪魔の信仰

 北斉時代の[魏書]には稲作民族の習慣が書かれています。農耕神に捧げられた犠牲者は死して後、農耕神としての蛇に化身すると信じられ、文面には出ていませんが、鬼神とは犠牲にされた人間が化身した蛇のことです。雲南省奥地では今から1879年頃までは、播種に先立って首狩りをし、その首を竹竿の先に祀り、農耕神の蛇神「ムイッチュ」を女神としてその年の豊穣を祈願していました。特に髪や髭の多い人の首は作物の繁茂、ひいては豊作をもたらすとして好まれていたとのことです。

 「其の俗、鬼神を畏れ、尤も淫祀(いえし)を尚(とうと)ぶ。
  殺すところの人、美しく鬢(かみ)髯(ひげ)なる者は必ず面皮を剥ぎ、
  之を竹にてつつみ、燥するに及び、之をなづけて「鬼」といい、
  鼓舞してこれを祀り、もって福利を求む。」

 部族によっては、人間以外にブタや牛を殺して食する部族、人間を食する部族もあると参考文献に書かれています。この恐ろしい種族と稲族全体を区別せず、中原では蛮族として退け、秦王朝時代に一度は滅ぼしていますが、彼らは様々なところへと逃亡して生き残りました。つまり、中華王朝でも、嫌われ者だったのです。しかし、楚に混交した稲族が漢族(カナン+カイン)と混交し、その悪魔性が増大してしまいました。その末裔が本当の漢族なのですが、彼らは己の出自を隠すために、少数民族までをも漢民族としてしまっています。

 カナン人の悪魔崇拝やインカの人身供養において、人肉を食しているという記述を見たことがありません。だから、サタン・ダビデには、吸血の趣味はあるかもしれないが、食人の趣味はなかったと思われます。
 だとすれば、人類を創造した蛇、初代豊穣の女神、中国神話では伏義の妻・女蟐が、食人を好んだのだと推断されます。ここに、サタン・ダビデ以上の悪魔の存在が明確になりました。そして彼女は中国や北朝鮮に潜伏している可能性が大で、中国に現れたUFOは彼女=悪の女性宇宙司令官=ニンギジッタ夫妻に支配されているのでしょう。(追加.2014/01/10)
 尚、この悪魔は最初は、人類を創造したニンフルサグではと思いましたが、彼女は人類を愛しており、優秀な科学者でもあり、食人を好むはずがありません。
 ■冥界神ニンギシュジダ[よき樹木(真理の樹)の主人]
 冠頭の「ニン」はシュメール語で「女主人」という意味の言葉です。 しかし、ニンが付けば女神、というわけでもありません。
 植物、豊穣、復活の神。占卜、除魔を司り、のちに医療の神とも。また、天の門番。ラガシュ王グデアの個人神。ニンギジダとも呼ばれました。蛇龍の姿をした蛇神で、象徴は身を絡ませた蛇(カドゥケウス)です。神社や仏閣によく見かける、左右の柱、あるいは鳥居の柱にまきついた二頭の竜は、いうまでもなく、天宮の門衛神であり農神でもあったニンギジツダ夫妻神の日本的表現である。

 以前、悪魔の子孫としてのカイン族の風貌を先生にお伺いしたことがあります。その時、小柄で有色だとのお答えがありました。一瞬、エェ-! 声が詰まってしまいました。もしかしたら自分と同族のアジア人ではないかと思ったからです。

 まとめとして、共産中国を支持している民主党政権・官僚・政財界、特にマスコミと芸能界の人々は、利権や利益のために悪魔に魂を売り渡した者達なのです。だから、日中友好を声高に叫び出すと、その人や団体は性格が蛇のように悪くなってしまうのでしょう。たとえ彼らと交わったとしても、決して心を許してはなりません。


(余談)
 参考文献によれば、「倭」を“わ”と呼んでいたその前は、“を”と呼んでいた。中国では「越」=“を”と呼んでおり、物部一族の豪族「越智」の「越」は高床式・稲作民族のことだとすれば、彼らはしめ縄を左にするので、出雲大社のしめ縄が伊勢神宮と逆で左なのは、大社を封印するという意味ではなく、古代の習慣をそのまま残したためではないでしょうか。



10.悪魔の儀式人身供養の元は同じ

 下図は、人身供養を伴う農耕神儀式(雲南省)を表したものです。
 中央の柱には一匹の蛇が刻まれ、殺された女性がこの蛇に化身するとされています。この恐ろしい儀式が、日本の建築様式しかも、伊勢神宮にそっくりな社で執り行われているではありませんか。一歩間違えば、古代日本はニンギジッダ夫妻の悪魔教に支配されていたのかもしれません。表面的には、ほとんど変わりのない生活様式と風習を持っていても、悪魔教と天照大神の支配する日本では地獄と天国です。
 尚、一匹の蛇=“独龍”と見なせば、ポリネシア系稲作民族と同じ信仰です。

     


 的外れになるかもしれませんが、ここで龍について検討を加えてみたいと思います。
 龍の原型は、ニヌルタの随獣ムシュフシュ(詳細は[1-4.章]参照)でした。ムシュフシュはシュメル語で「恐ろしい蛇」の意味で、ムシュフシュの図像は蛇の首と鱗状の胴、ライオンの前脚そして鳥の後脚を合成した姿でした。その後、ハンムラビ王の時代には、バビロニアの最高神・マルドウク神の随獣となり、後にはマルドウクの長子であるナブー神の随獣になりました。蛇足ですが、翼の生えた蛇はトート神のシンボルです。
 上図の蛇もしくは龍である女神には翼がありません。ですから、ナブー神(サタン・ダビデ=第二代サタン)でもトート神でもありません。
 遺伝子構造を対の蛇でシンボライズした、エンキとニンフルサグですが、この女神信仰に関してはサタン・ダビデとニンギジッダ夫妻が関与していた。だから、単独の蛇として自分を表現したのだと思います。



11.何故、漢民族はロシア人より残虐なのか

 白人が何故、有色人種に対して残忍で、しかも平気で殺せるのかということをお伺いしました。それは、色素の不足とアヌンナキの記憶に加え、サタンが与えたキリスト教の残虐な側面に由来し、その残忍性が共産主義を生み出したのだとおしゃいました。
 ニビル星人であるミカエル様に対し、白人はアヌンナキの血統を濃く引き継ぐのに、何故日本に来られたのですかとの質問しました。悪魔教と共産主義をうみ、愛想を尽かしたのだと御返信されました。

 ■色素不足は感情を抑えきれないことの理由…途中 2013/06/07追加
 腸からカルシウムが摂取されるためには、ビタミンDが必要です。いくらカルシウムを食べても、ビタミンDが足りなければ、吸収効率が悪いためカルシウムはあまり吸収されません。
 人体の骨や歯の形成に必要なビタミンDは、太陽光を浴びることで紫外線がコレステロールを変化させる事でおよそ必要な分のビタミンDの半分の量をまかなっている(残り半分は食べ物から得られている)。ビタミンDが不足すると骨や歯が弱くなったり疲れやすくなったり、情緒不安定になる。
 だから、メラニン色素を持たない、白人はメラニン色素を持つ有色人種よりも、紫外線を多く浴びるので、腸からのカルシウム吸収が多くなり、自然に骨太の体型となり易い。
 さて、メラトニンは体内時計の調節を担う物質として知られ、夜間に多く分泌され、睡眠を促し体を休ませる。メラトニンは脳のほぼ真ん中にある『松果体』と呼ばれる、松かさに似た、トウモロコシ1粒くらいの大きさの器官から放出されるホルモンです。この物質がメラニン色素の量を変えることから「メラ」、そしてセロトニンから作られるから「トニン」の2つをくっつけたものです。
 メラニンを作る能力を持たないもしくは非常に低い白人は、日光の影響を体内に取り入れる事が不得手なので、体内時計の調節を行うことも不得手だと推測される。つまり、世界旅行をする場合、白人は体内時計の調節が不得手なので、有色人種に比べ睡眠薬を多用する事になる。そして、ストレスや様々な環境変化に対し、睡眠調整が有色人種に比べ不得手なので、イライラが募り感情的な爆発が起こり易いのも当然頷ける。だから、感情的な不安定は、体内のカルシウム蓄積量のより少ない、つまり骨太では無い白人の方がより大きいと思われる。
 それゆえ、天上界は、白人には感情爆発に備え、知性を、理屈っぽい文明を与え、ネクタイを常用させたのでしょう。


11-1.天上界は、色素不足の白人を導かれた

 さて、シュメル文明末期頃、地球環境の中で北欧は比較的ニビル星の生活環境に近いので、ニビル星人の血統の濃い金髪碧眼の種族が、人類から離れてこの地域に集まった。ところが、白人が混血しながらもヨーロッパ大陸に広がると、生活環境が激変し、色素不足から、情緒不安が著しくなり、暴力や虐殺が多くなった。そこで、天上界は白人に十戒や科学的な知性を与えることで、感情をコントロールすることを学ばせた。その一方で、情緒不安定を数学的な音楽や絵画で調律することを教えたのです。つまり、色素不足という欠点を、知性で補うように導かれたのです。
 産業革命後、白人がインドやアメリカ大陸に乗りだし、インド人やインディオを発見した時、アヌンナキが黒い頭の人類を使役した記憶が蘇り、彼らを奴隷として使役するのを当然とした。アヌンナキは人類を使役したが、使えないからといって無慈悲に殺すことはなかった。ところが、白人同士で働く知性がキリスト教の影響も有り、有色人種に対しては働かず、奴隷やインディオやシナ人を惨殺してしまったのではないかと推測されるのです。


11-2.漢人は人食いを美徳とした

 ここからが本題ですが、それにしても、漢人は白人以上に残忍なのは何故なのか、それについてお伺いしていました。まだ議論は続いています・・・。
 日本人と漢人は、同じモンゴロイドに区分されていますが、血統としては全く異なります。これまでの議論から、漢人の出自は間違いなくカイン・カナンの子孫です。ところが日本人はユダ族とプレアデスの子孫なのです。
 シナ大陸の中原の歴史は、堕天使と交わり悪魔教を広めたカナン人の歴史と似ています。どちらも交易の要衝で莫大な富と財宝をめがけて、周囲の異民族が武力支配しようとした。そして、正しくは漢人という遺伝的な民族は存在せず、商売をするために、皇帝に税を納めれば、漢人として認られていた。しかも、一番の交易の利権を独占していたのが皇帝でした。シナ歴代王朝が創造したとされる、皇帝制、科挙、漢詩、偉大な発明はすべて異民族がもたらしたものです。
 夏・殷はカインを意味し、交易に長けたカナン人も中原に渡来していたのでしょう。そして、アトランティスが没した後、生き残ったポリネシアンが中原に移動する時に、女神を頂点とする悪魔教がもたらされています。
 以上のような、古代中原の歴史の中で、地球史上最も残虐な歴史が繰り返されてきました。例えば、自分より高位の貴族・官僚・武人などをもてなそうとして、自分の妻子を殺し料理として提供する。また彼ら特権階級は“ご馳走になった”として、官位を与えることを、美徳とした。また、食料が不足すると、村を襲いすべての村人を塩漬けにして保存食として保管し、常食していた。さらに、生きたままサルや人を食う、罪人の内臓を取り出し、当人が見ている前で焼くなど、白人でさえ恐れをなしてしまいます。この人格破綻の残忍性は、どこから来るのだろうか。サイコパスと云うだけでは、とうてい納得できないのです。


11-3.家畜として創造された!?

 白人は有色人種を奴隷にし、使役できなくなると殺していました。当たり前ですが、食べることはしていません。人間が人間を食うのは、自然の法則に反しおり、極端な飢餓状態でなければ起こりえません。欧米社会でさえ、身内を殺したり、食べたりすることは、悪魔の傀儡とされ忌み嫌われています。しかし、中原では、妻子を料理してもてなすことは美徳とされ、人間の塩漬は高価な食材の一つとして常食されていたのです。まったく吐き気のする事実です。
 一方、日本人は違いますが、欧米人は、家畜を殺すことに罪悪感はありません。家畜は大切に取り扱い、太らせはしますが、使役はしません。そして殺して冷凍保管します。また、家畜の繁殖率は高い方が喜ばれるのですが、漢人の繁殖率も異常に高いのです。
 ここまで検討すると、欧米人の牛に対する取り扱いは、シナ人の食人習慣とまったく同じだと、気がつきました。つまり、黒い頭の人々は神々に奴隷として創造され、後に人権を与えられて、地球文明を再建築する神々のパートナーとなった。だが、一方中原では。漢人は、奴隷ではなく、家畜として創造された(自然の本能が一部欠落)。だから、家畜人間は労働せずに、食事を与えられ、神・真理・正義・契約などには全く無関心で、より美味しく沢山食べることが生きる目的だった。その最高の食材が人肉だったのだ。だから、西洋で牛の部位の味と料理法と酒のレシピが発達したように、おぞましいことですが、シナでは人間の全身の料理方法が発達したのです。
 おそらく、カイン・カナン人と家畜人が混交して、現在の漢人の始祖になったのだろう。この視点からすれば、歴代皇帝や毛沢東が人民を家畜のように殺していたこと、現在のシナでさえも、死刑囚の内臓を売り買いし、人肉饅頭が売られても平然としているのは、当然のことなのです。そこで、シナ人は世界一利己的で、彼らの唯一の信仰は腹一杯食べることなのだとの石平氏の指摘は、まさに事実そのものだったと云うことが理解されます。


11-4.憧れの日本王朝と易姓革命

 清朝を明治日本が倒した時に、シナも朝鮮も、日本文化圏に取り込まれてしまった。漢文は日本語をまねて西洋文化を取り込めるように改善され、朝鮮では日本によりハングルが統一語とされた。当時の彼らにとって、孔子が幻の三皇五帝と周王朝を理想としてあこがれたように、日本は憧れの王朝だった。しかし、易姓革命の観点からすれば、前王朝である偉大な日本を完全に抹殺することが、現在の彼らの存続理由なのです。


11-5.家畜人間の創造で、神を冒涜し、人類を抹殺しようとした

 最後に、カインは弟殺しの罪により、神により印を刻印された。では、中原のカナン人の遺伝子を操作して、共食いを禁止する遺伝子を削除もしくは不活性にし、人類を蔑視・蔑むような家畜人間を創造したのは誰なのだろうか。それは、きっと神を嫌悪・嫉妬・憎悪し、人類から神を奪い去ろうとしたのだ。つまりは、家畜人間を創造した悪魔は、自らの手で神を滅ぼし、家畜人間を使って神の子を一人残らず葬り去った後、家畜人間については共食いで自滅することを望んだのでしょう。
 ノアノ大洪水の前、堕天使と人類の娘(カイン一族)との間に巨人が生まれた。不作が続くと、人類は巨人に食料を提供できなくなってしまった。一番小さな巨人は人類を襲って食べた。次に巨人達は共食いを始めた。地上の阿鼻叫喚の叫びが、天上に聞こえ、ミカエルとラファエルが巨人を幽閉したと云う。このように飢餓状態では共食いはあるかも知れないが、平時でも共食いしているのは漢人だけだろう。もしかしたら、この共食いの突然変異の遺伝子がカイン一族の一部に発生し、それが夏・殷に引き継がれたのかも知れない。
 遺伝子操作により家畜人間を創造できる技術と知識を持つ者としては、第一に人類を創造した天王アヌ(=初代ヤハウエ)の長子で科学大臣のエンキ、アヌの娘で女司令官のニンフルサグ、エンキの生命科学を引き継ぐトート、ニンフルサグとアヌの後継者エンリルの長子で生命科学者のニヌルタ、箱船プロジェクトに協力した第四代ヤハウエ・月神が、挙げられます(⇒[ニビル星人の紹介])。
 この中で、神ヤハウエと人類をも憎悪しているのは、人類を創造したエンキとニンフルサグのカップルだと推測されます。というのは、エンキは王位を継承できず、しかも、このカップルは人類の創造者なのに人類に嫌われてしまったからです。この強烈な憎悪は、中共と朝鮮半島を支配し、天王ヤハウエに守護されてきた皇室と日本を食い尽くそうと、謀略を張り巡らしているのです。



◇下記蛇足で、色素不足についての考察です。
 ■人類は脳の発達により、体毛と尻尾を失った
 人類は動物と比べ、非常に体毛が少なく、汗腺が多いのは、何故だろう。魚類が海中から上陸すると、昼夜の寒暖の差が激しくなり、両生類からの進化に伴い皮膚は体毛に覆われていった。猿人の脳容量の増大の加速増加が始まると、エネルギー消費の増大から、熱放出の為に、体毛が減少し、汗腺が増えた。同時に、夜の耐寒に火を使うようになり、調理が頭頂部や消化器系の筋肉他の変化を促し、言葉を発するようになり、更に脳の増大をもたらした。
 完全な直立歩行を行うようになると、脳の電気容量が一挙に増大し、体毛と尻尾による静電気の蓄積とバランス(空中放電と接地)が不要となり、体毛が薄くなった。
 ■体毛の静電気が皮膚を被い、守っていた?
 海中には、たくさんのイオンが有り、動物の体に付着しています。もし、体に電気の偏りが発生すれば、海中のイオンにより偏りはすぐに解消されてしまいます。ところが、陸上に上がると、体表にイオンが存在しません。代わりに、体毛が静電気を帯びやすい物質で構成されたのでしょう。もし体毛の一部に過剰な静電気が発生しても、体毛の性質と、四つ足が接地の役割、尻尾が空中放電の役割をして、すぐに均一化してしまいます。
 ところが、火を使いだした当たりから、体毛が薄くなり、脳では電気が必要になります。また、二足歩行することで、脳が大地から高所に位置するので、電気容量が増大し、脳の活動を助けました。もし、体毛や手足や尻尾を通じて脳の電気が放電されてしまえば、脳の活動を妨げていたことでしょう。だから、尻尾は短くなり、体毛は薄くなった。しかし、電気を蓄積したい場所、頭や脇や陰部に髪が残った。
 特に額は思念波の吸放出部位であり、スムーズな思念波の吸放出の為にも、体毛が邪魔になった。
 単細胞生物では、鞭毛を持つものと繊毛を持つものがあります。両方持っているのもあります。髪の毛は鞭毛、体毛や腸や喉などは繊毛でしょう。だから、鞭毛の箇所は電気の集中する所で、繊毛は電気を均一にする所です。
 動物の縞々模様は、色素の違いにより電気的な反応が異なり、そのために異なる色素同士が反発して、模様が形成されます。おそらく、生体電気の流れに沿って、模様ができあがるのだろと推測します。
 ですから、色素不足の白人は、元々色素に相当する脳内ホルモンが不足し、且つ日光の反応に素早く適応できず、生体電場が狂い、自律神経系がおかしくなりやすいのだと推測されます。
 ■大洪水用の箱船は複数個あった
 一つは有名なノアの箱船だ。ノアノ家族以外にも、シッチン氏の本では金属技術を持つカインの末裔が生き残っていた。更に、インカ神話では箱船に乗った夫婦がクスコ近くで生き残っている。欧米人はノアの箱船だと位置づけるが、それは余りに傲慢だと思う。ポリネシアにも箱船神話がるように、世界中に大洪水と生き残る人類の神話が残されている。それに、ノアの家族とその妻だけから、白人・黒人・黄人種のすべてが生まれるはずはない。だから、箱船は複数個あったのだと思う。

以上 2011/09/30、2012/04/03, 09/07 北



◇.資料 史記「黄帝はサルゴン大王か」
   ~ 歴史もまた移動する ~   [日本神道の謎 鹿島昇著 P158~162]


 紀元前十世紀のころ、ソロモン王の夕ルシシ船はマレー半島から・バンチェンに到達したあと、南シナ海を経て日本列島にまでいたったが、洛陽郊外の金村出土の銘文によると、中国大陸に上陸したフェニキア人が、洛陽に植民していることがわかる。しかし、このような歴史ほ、なぜか、中国の史書には登場していない。
 しかし、中国史がもしオリエント史の借用であったならば、これらのことを記録にとどめておくであろうか(※皇帝思想と儒教に縛られた中国であれば、事実を記録するはずは無い。登録者)。
 『史整によると、中国歴史上の最古の帝王は黄帝である。黄帝は少典の子で姓は公孫、名ほケンエンといい、殿(前十一世紀以前といわれる)よりほるかに古い神農氏の時代だが、神農氏は天下の人望ほなく、諸侯ほおたがいに侵略しあっていた。
 そこでケンエンがたって、力をたくわえ、諸侯を治めにかかるが、蛍尤(シユウ)というものだけほ征服できなかった。
 いっぼう、神農氏の子孫も諸侯平定にたったが、ケンエンははんせんの野に戦って勝利を収めた。
 その後ついにケンエンは、タクロウの野で蛍尤と戦い、これを捕虜にして殺し、神農氏にかわって天子となり、黄帝となった(『史記・五帝本紀』)。
 この話を解析しよう。
 1.黄帝は少典の子で、姓は公孫、名ほケンエンである。
 2.神農氏の子孫の時代であったが、諸侯はたがいに侵略しあった。
 3.黄帝ほ実戦の習練をして、諸侯を征服したが、蛍尤だけは征伐できなかった。
 4.黄帝ほ神農氏の子孫とほんせんの野に戦い、勝った。
 5.黄帝ほ蛍尤を虜にして殺した。
 驚くべきことに、黄帝に関する1~5までの全項目は、すべてアッカドの王サルゴソ(前二二七六~ニニ三一)の記録と一致しているのだ。
 1.サルゴソ(黄帝)ほシュメルの都市国家キシュの祭司の妾(少典)の
   腹の子で、籠にいれられ、河口に捨てられた。
 2.シュメルの都市国家の一つラガシュ(神農氏)王ルーガルアンダ
   (前二三五三~二三四八ころ)の悪政に民衆が反乱し、ウルカギナを主
   に推戴した。これより先、ラガシュでは、エアソナトムとエソテメナが
   権力闘争にふけったために、キシュの支配を受けていたが、ウルカギナ
   はキシュの支配権を拒否することになった。
 3.前二三四〇年ころ、都市国家ウンマ王ルーガルザグギシ(蛍尤)は、ラ
   ガシュを襲撃して完全に破壊した。
 サルゴン(黄帝)は、キシュ王ウルザババを倒して王位を奪い、アヅカドを都として、領土拡張の遠征を行なった。ユーフラテス上流のトトユルとマリを占領し、タウルス山脈から地中海へ侵攻し、北部ではアッシリアを撃破した。
 前二三一五年ころ、ルーガルザグギシ(蛍尤)ほシュメール人の知事五十人をひいきて北進し、アッカド領ウグバソダでサルゴソ(黄帝)と戦った。サルゴソはルーガルザグギシを南下して、ウルク、ウル、ラガシュ、ウンマ、ニップールを征服し、ルーガルザグギシをニップールのエソリル神殿の門前にさらして殺した。
 中国史の黄帝がサルゴソと同一人であることを指摘したのは、私が契丹史を手ほどきしていただいた浜田秀男氏であるが、このように、黄帝とサルゴソの経歴は、全項目において、すべてが一致し、系図の対比も一鼓している。
 以上のような作業を綿密につづけていくと、古代中国の歴史ほ、古代オリエソトの歴史に重なっていく。
 中国史の殷といわれる時代ほシュメールのイシソ王朝と、周の歴史はアッシリアと、晋ほパピロソと、秦はペルシアと、魯はイスラエルと、というぐあいである。
 また、段以前の夏もウルク、ウルであり、その前の黄帝がサルゴソであることは前にいったとおりだが、さらに黄帝の前の女?氏が蘆(あし)の灰を集めて大洪水をとどめたという神話は、聖書のノアの大洪水に重なるのである。
 しかし、たがいの君主紀とされて残った歴史の相似性をどう読むか、となると、そうとうむずかしい。
 中国史で殷といわれる時代、メソポタミアはイシソ王国が支配しており、その水軍であるディルムン、マカソ、メルッハなどのアラビア海の海人たちは中国本土に到達しており、股文化を担っていたと思われる。漢字の原型となる甲骨文字ほ、彼らが持ち込んだラフモ・ドラヴィダ語族の象形文字であろう。殷はイシソの漢訳ではないかと考えられる。






(TOPへ)
⇒(10-12:聖母と卑弥呼へ)