27-17.私の宇宙論:宗教と科学の一致





 これから私の宇宙論として、つまり私なりの科学的な見方を通じての「宗教と科学の一致」について、思うところを述べてみたいと思います。是非一緒に考えていただければ幸いです。

 古代日本、千年記において、男女が互いに補い合い、しかも神への崇敬と自由を満喫していた。その時代に相応しく、世界で初めての女流文学が発展し、そのすばらしさはこれからも光を放ち続けることでしょう。それは人間性の本質を鋭く描いているからに他ならないからだと思います。
 さて、ここで源氏物語の概要を説明しておきましょう。
 源氏物語では、美男子の光源氏と亡き母桐壺、桐壺にそっくりの藤壺の三人が主な登場人物です。
 時の帝は桐壺との皇子を、宮廷の喧噪から遠ざけるために臣籍降下させて源姓を与える。彼は左大臣家娘葵の上の婿となり、その美貌から光源氏と呼ばれるようになる。亡くなった桐壺にそっくりの美貌の女性の噂を聞き、帝が熱心に所望し妃(14歳)として迎える。帝は藤壺と光君を実の母子のように寵愛した。
 光君は亡き母に似た5歳違いの藤壺を慕うようになる。元服後も彼女を慕い続け、次第に理想の女性として恋するようになる。藤壺は光君が生長するに従い彼を恋する心と、慈愛に満ちた帝を慕う気持ちの狭間に揺れ動く。帝が亡くなり、光君は意を決して藤壺を訪ねる。だが、彼女は、光君への恋心を知りながらも彼女を慈しみ続けた帝へ報いたいとの思いから、光君への恋心を断ち切ろうと、尼寺に向かってしまう。彼女は夫への愛と光君へ恋の苦しみから逃れようと、自分ではどうしようも出来ない己の業を断とうとしました。
 一方、継母の藤壺への禁断の恋ゆえに、光君は理想の女性を追い求め多くの女性遍歴を繰り返すのだが、藤壺が尼になってもその思いは募るばかりで、如何に断とうとしても断つことはできなかった。そこで光君は、たとえ、地獄の業火に焼かれようと、死して後に地獄で苦しみ続けようとも、真実の愛を探し求めることを、決心するのだった。
 ここで、藤壺は夫への愛と光君への恋に苦しみ、これを断ち切ろうと仏門に救いを求めました。つまり、仏門は苦しみから逃れるための手段であり、目的ではなかった。仮に、キリスト教が彼女の苦しみを和らげるのであれば、彼女はキリスト教に救いを求めたことでしょう。
 ところが、光君は宗教に救いを求めず、地獄に落ちようとも、本当の愛を探し求めることで、己を納得させようとしました。これは、真善美を追求する芸術家と相通じる心情だと思います。おそらく光君も求道の末に、神の美と調和を見つけ出したことでしょう。
 人間は、止めようとしても、思考と感情は一瞬たりとも止むことはありません。だから、苦しみから逃れることができるのであれば、その人の性格に合った宗教であればどれでもいいのです。宗教でなくとも、芸術でも科学でも武道でも運動でもよいのです。品性は別として、極端なことを言えば、食べることでも、おしゃれをすることでも、映画を見て音楽を聞くことでも、おしゃべりをすることでも、人の迷惑とならず、国法に背かなければ何でも良いのです。この人間性という普遍の視点からすれば、これらは目的ではなく、手段でしかなのですから、宗教観の違いによる諍いはなくなるはずです。ところが、宗教や共産主義を目的とする誤った偏屈な情念は、脳幹・間脳を活性化して、前頭葉の働きを不活発にしてしまい、精神の柔軟性と思いやりを失うことで、相手との少しの違いにも妥協できなくなってしまう。それゆえ、暗黒の宗教時代や宗教戦争や残忍な共産主義革命で罪のない多くの人々までもが、如何にサタンの魔手であったとしても、無残にも踏みにじられ殺されました。


■ 物理法則と宗教

 素粒子という極小の物体は、瞬間に現れては消えてしまうを、常に繰り返している。一瞬でも留まることはありません。この宇宙空間は暗黒物質で埋め尽くされているといわれていますが、ここではエーテルと呼んでおきます。このエーテルは、常に動き波動して止むことはありません。
 素粒子には寿命の短いものを含めると、たくさんの種類が存在しています。もしエネルギーの塊が爆発して散らばろうとした場合、さまざまな種類の素粒子が生成されることでしょう。しかし、周囲の環境に適合した粒子だけが生き残り、他は形や姿を変えてしまいます。
 量子力学では、電子は波動であり、粒子でもあると説きます。有名なシュレディンガーの波動方程式では、原子核の周囲に存在している波動状態の電子が、自転公転する粒子として存在することのできる場所を雲のような領域として指定することができます。しかし、今存在していた電子が消滅し、別の場所に電子が現れたとしても、その電子は以前の電子とは別物で、常に新しい電子でなのす。電子は新しくとも、周囲の環境が同じなので、前の電子と同じ役割を果たしているというわけです。この電子の物語は、原子核を構成している陽子や中性子についても同じです。だから、私たちの物質世界は、常に生まれ変わりつつも、以前と同じように安定しているのです。刻一刻と生成と消滅を繰り返すからこそ、銀河は渦を巻き続け、生物は生長と死を繰り返し続けているのです。つまり、物理法則とは、素粒子の性質と周囲の環境との相互作用の結果でしかないのです。素粒子の性質や環境が変われば、そこに現れる現象も変わってしまう。その結果、違った物理法則が観測されるのです。
 止むことのない思考と感情という人間性と手段としての宗教・芸術・科学・武道との関係は、常に生成と消滅を繰り返すエネルギーの性質と結果としての物理法則との関係と同質の関係だということがお分かりになると思います。


■生老病死と生物の世界

 ここでは、生物の世界に目を転じてみましょう。見慣れた森というのは、昨年も同じようにそこに立っていたからです。森の中の植物には、幾種類かの亜種が存在しています。それは、環境の変化に適応し続けるためです。人間の場合には、適応するごとに、その箇所の遺伝子に亜種が発生します。亜種はたくさんあってもかまいません。そのようにして、素早く適応しようとするのです。このような活動を通じて、森は来年もそこに立っていることでしょう。しかし、一本の木に着目すれば、それは生老病死の一生で、来年も同じようにそこに立っているとは限りません。
 例えば、10年前に発芽し双葉が芽生えた木があったとしましょう。同時に老衰で死んで行く木もあったことでしょう。双葉が苗木に生長する頃には、他の双葉が芽生え、他の木が死んでいく。最後には、自分が死んで行くとこになります。つまり、個別の生命には各々生老病死が繰り返されますが、生命全体としては変わらず存続して行くものなのです。


■宇宙即我と神の一手

 素粒子の生成と消滅と結果としての物理法則、生命の生老病死と生命群の存続、人間性の発露とその道具としての宗教・芸術・科学などの活動は、一刻も止むことなく繰り返され続けています。人間の人生においても同じで、個人の生命は生老病死を繰り返し、その結果として、家族との絆を築き、社会の規律を守り、人間の総体としての国家の進歩をはかり、存続させている。だから、人間性のすべては、宇宙のどこかを探して見れば、必ず同じもの、もしくは同質のものを発見できるのです。この先生の言葉は、神秘的宗教体験とされている宇宙即我を、具体的に表現したものです。
 そして、この宇宙の存続する限り、人類が存続するようにと、人類の精神的進歩を促す目的で人類に与えられた神の一手が、じつは宗教だったのです。せんじつめれば、誰かが誰かのために何かを行うことが神の一手なのです。そして、誰かが誰かの神の一手で救われたのなら、救われた人が次の神の一手を打ち続けることで、人類は存続し続けていくことができる。また、動物界は、互いにその身を与えることで他の生命の存続を助けている。今の私には、自然界をも含めた神の一手の連続するその姿について“共存共栄”としか、言い表しようがありません。


補足.悟りについて

 悟りとは、宗教的な神秘体験のことではありません。日々の生活で体験しているのですが、悟りとは、物事を別の視点からも見ることができるようになることです。
 例えば、ニュートンの方程式がどうしても分からなかったが、先生の話を聞いて分かるようになった。デフレについて理解できなかったが、本を読んで理解できた。逆上がりが出来るようになったとか、それも悟りです。もう一つは、経験したことの無い事象にぶつかったとき、過去の経験や知識から、即座にその事象の本質をつかんでしまうことです。物事の関連性を正しく発見した一瞬のことです。
 以上のように、宇宙即我や悟りなどは、以前から神秘的な宗教体験を通じてのみ得られるとされてきたのは、以上のように明らかな誤りです。また、霊体の関与により、もしくはUFOからの操作により、様々なビジョンを見せられ、我は悟ったと思うのもまた馬鹿馬鹿しいことです。なぜなら、それはTV番組を見せられているのと同じだからです。TV番組を見て、感動したりしますが、宇宙即我を悟ったなどと思う人は居ないでしょう。
 最後に、人間は宇宙や自然も、ましてや自分達の作り出した文明も、智慧を以て管理できるだけの理性と、自己の内面を潤す感性とを豊かに持つものでなければ、人間としての価値を持つものとは見做し得ない、とそう思っているのです。(T先生)
                          2012/06/24 北


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