2018年09月分 天上界からの伝言板


                      尚、※は北川による。


2018/09/10

 今回、関東にあったとされる「日高見国」について、縄文時代の日本について『高天原は関東にあった』『日本の期限は日高見国にあった』他の資料から、検討しました。次月は、「ウガヤフキアエズ王朝の謎!?」について、検討したいと思います。それは、ムー文明の正当な後継者として、日本の縄文文明があり、プレアデス星人他の同盟星から地球の当地を受け継いだ二ビル星人の地球での文明(シュメル、イスラエル)と、縄文文明の統合の様子を知ることにより、現天上界の位置づけ、及び日本の位置づけが明確になると思われるからです。尚、ムー大陸の沈没時、地球軌道が大きくなり氷河期が訪れるので、氷河期でも火山活動が活発で温暖、しかも電磁エネルギーが豊かな日本がムー王家の移住先として選ばれても不思議ではない。
  ◆ウガヤフキアエズ王朝の謎!?
 『日本・ユダヤ封印の古代史』の中で、神武天皇の存在が、聖書と日本神話の酷似した関係から証明されています。
ヤコブ=ニニギ, ヨセフ=山幸彦, エフライム=ウガヤフキアエズ,
エフライムの四男=ウガヤフキアエズの四男
 つまり、日本の天皇家は、北イスラエルの十部族の王家であるエフライム(当時はイスラエルの正当な後継者)の血縁だということです。また、イザヤの子孫が日本に天孫降臨しておりユダ族とレビ族も日本に渡来し、エフライムとの統一王朝として大和朝廷を打ち立てた。
 一方、古史古伝の多くは、例えば、徐福(泰一族=原子キリスト教徒)が記したとされる宮下文書のなかで、ウガヤフキアエズ王朝は、51代続いたとされている。これまで、このウガヤフキアエズ王朝は、エフライムからイザヤまでの皇統なので、唐の支配下にある当時この事実を隠蔽する必要があったのだと推測していました。
 しかし、縄文文明とシュメルやイスラエル人との融合王国だったとも推測されます。つまり、大和朝廷が成立する以前、日本列島には出雲、九州王朝、東北や北海道のアイヌのアラバハキ、関東には縄文・イスラエルの統合王国が、存在していたのでしょう。
 尚、神武東征は、神武=エフライムの四男であれば、インド経由の海のシルクロードで日本に渡来する経緯を示すことになる。従って、古事記の神武東征は日本国内のことなので、ニギハヤヒの尊が高天原から東征する経緯とすり替えられたのだと思います。そうしなければ、天照大神ーヤハウエということが唐軍にバレてしまい、日本は滅ぼされかねなかった。
  ◆火星人類について
 火星人類については、聖書では火により創造されたと記述されているが、ネアンデルタール人のことだと思う。ティアマトの二ビル星との衝突時、恐竜が存続できる環境だったティアマトとフェイトンが破壊されたが、同時に、フェイトンと同じくらいに誕生した古代火星においても巨大恐竜が生存していたと推測される。地球人類の創造があるのなら、当然、その前に火星人類が創造されていたはずです。尚、シッチン氏の指摘する火星守備隊からの300人の堕天使は、ネアンデルタール人の仲間だったと思います。そして、ネアンデルタール人はクロマニョン人と混交したが、ある時から一斉に火星へ帰還したと推測されます。

 ◇ ◇ 大和朝廷は大倭と日高見国の統一王朝

 「高天原は関東にあった」は、タケミカヅチが鹿島神宮の主祭神であり、また春日大社のそれでもある。別所もある。それだけでなく、鹿島(縄文早期には島だった)、香取両神宮が、『延喜式』でも伊勢神宮と並んで三代神宮の二つであり、それらが関東にある。考えてみれば、太陽が最初に昇るのを見ることができるのは関東であって、関西ではない。これは鹿島神宮の参道が本殿に向かっているのではなく、東の太陽の上る方に向かっていることでもわかる。この神宮こそ、太陽を遥拝する最初の神宮なのだ。そしてふりかえるとここから遠く富士山、つまり天の原が見える。高天原とは、そこから不二の山が見えるところを意味しよう。
 建御雷神の鎮座年代について、『社伝』の社例伝記では《大宮柱太敷立て始り給ふ事、時に神武天皇元年辛酉の歳なり》とあり、また、古文書の応永三十二年三月の目安にも同じように神武天皇元年に宮柱を建てた旨が記される。その他の書も同様である。その住居は建御雷神が「神上られた」(死亡された)後に、そのまま社殿として残り、神武天皇が勅祭されたことになる。こうして建御雷神は鹿島を本源とされ、しかも天日隅宮の作法をもって祀られたのである。その創祀は神武天皇紀元元年と伝えられているが、日本最古の神社のひとつとなっている
 『常陸国風土記』では、鹿島神宮に崇神天皇の御代におびただしい量の弊物が奉納されたことが記されている。またす、『延書式』神名帳にあっては、伊勢の神宮に次いで「神宮」号をもっていたのは、鹿島、香取の神宮だけであった。この崇神天皇の時代に、伊勢神宮がつくられたと言われるから、それより古いことになる
 だが紀(記紀の紀=日本書紀)だけでなく、『延書式祝詞』(大祓詞)や、『旧唐書』に表れる「大倭日高見国」という言葉は、日本が大倭と日高見国の二つの国が一緒になったもの、ということを示唆しており、まさに『常陸国風土記』に登場する日高見国と一致するのである。つまり日本は、まさに大倭といわれる西半分と、日高見国といわれた東半分とが一緒になったもの、という認識をされていたことを示している。縄文時代に、東半分が、圧倒的に人口が多かったことから、まさに大倭成立以前に、この東半分が日高見国として一つの国として成立していたことが理解されるのである。それは太陽神を崇拝する祭祀国家であっただろう。後の律令国家が、唐の律令制(皇帝の下に政治があり、その一部門として神祇がある)と異なり、神祇官と太政官制度に分かれるようになったが、その神祇官により祭政政治によって統一されていた、と考えられる(*これはイスラエル王国当時からの伝統です)。

 ◇ ◇ 日本は海のシルクロードの終着点であり、文明の発信地でもあった

 日本にはシュメル人、イスラエル人(ソロモン王の時代金属製錬技術者が渡来している、イザヤのユダヤ人トレビ族、十氏族 … )、ギリシャ人、フェニキア人等、海のシルクロード経由で渡来していた。おそらく、消えたシュメル人、消えた十氏族は、日本を目指したのだと思われます。なぜなら、YAP遺伝子が縄文人と同じだからです。それゆえ、日本神話には世界中の神話がちりばめられている。つまり、エフライム族である神武天皇はデカン高原を経由して、海路で日本に渡来した。同じく、イザヤの民も海路で日本に渡来した。結論として、その渡来地が日高(日高見国)と言うことです
 ただ、世界中にある大洪水神話については、記紀には明示されていないが、天之御中主が「ノア」であることから、大洪水直後からの記述だと考えれば大洪水が前提となっていると言うことでしょう。
 レブィ・ストロースは、一九八八年に日本における講演で、次のように言っていた。
 『古事記』はより文学的であるし、『日本書紀』はより学者風です。しかしスタイルこそ違え、どちらも比類のない巧みさをもって世界の神話の重要なテーマのすべてをまとめ上げています。そしておのおのの神話が、知らず知らずのうちに歴史に溶け込んでいます。こうして、「日本は広大な大陸の末端周辺部に位置し、また長く孤立していたにもかかわらず、そのもっとも古い文献が、他の地域ではバラバラの断片になった形でしか見られないさまざまな要素の完壁な綜合を示しえたのはなぜか」という、日本文化の根本的な問題が提起されます。
 つまり、日本には現在までも、一度日本に入ってきた文化が消えずに残されていくという特徴があります。それは、ペテログラフが神社の神域として立ち入り禁止の場所に多く存在していることからも、ムー文明王家の名残も残されているのでしょう。だから、この文化を縄文式に消化し、残していくという民族意識はムー文明からの伝統だったのだと思います。逆に言えば、ペテログラフのある場所に、神社を建設して縄文文明との融合のシンボルとしたのでしょう。そこで、思い出されるのが、モーセ様と当時の学者達が記したとされる聖書の暗号について、これが天上界の命令で解き明かされるまで、ユダヤ人は一字一句違わず神の言葉である聖書を守り続けました。日本の神社に保管されているペテログラフ、日本文明の一部として残されている外来文化のありようが、神の言葉を守り続けたユダヤ人とそっくりです。両者共に、神の導きとご計画なのだと思います

 ◇ ◇ 出雲に埋められていた銅剣、銅鐸すべてに付された×印

 出雲の荒神谷遺跡の銅剣では、×印が三二五本の銅剣の根元の片面に、三本は両面に×印がある。加茂岩倉遺跡の銅鐸には人間の顔にあたる重要な部分に×印がある。これについては、埋納期に祭器として機能を停止するため、もしくは工房のマークなどの説がある。さらに悪霊を拒み、魂が逃げないように閉じ込めたという説もある。これらは荒神谷遺跡と同じマークである。当時の×印が現代の否定的な意味か、単なるマークかはわかりかねるが、しかし、325本にわざわざつけられていることは、何らかの意志的な行為である。ただし、決して美的な刻み方ではないところを見ると、これらは否定的な意味でつけられたと考えられる。つまり、武器であれ祭器であれ、もう使わない、使えないものだという意志表示である。(*×印を見ると、最初の製造時に付けられたものではなく、地中に埋める時に付けたものだと思われる。)
 ところで、「国譲り」の神話では、建御雷神(※日高見国では製鉄が行われており鉄剣を持っていた。平野には豊かに水と水田があり、砂鉄からは農具だけではなく、武器も造られ、鉄剣は出雲をしのぐものであった。)に敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き寵もって諏訪神社の祭神になったとされている。(⇒[出雲王朝で破棄された銅剣とスサノウ])
 鹿島神宮の宝物館に、茨城県唯一の国宝「直刀」がある。全長2.71メートルで、普通の刀剣の約三倍もある。制作年代は、2100~1300年前と言われ、平安時代のものと推定されている。この刀は、「師霊剣(ふつのみたまのつふぎ)」と名付けられており、建御雷神の神剣であることを示している。俗に「平国の剣」と呼ばれ、一閃すればたちどころに国が平和になる、という意味である。刀を一閃すれば、ふっと音がし、その昔で刀の霊魂が働き、すべての紛争が戦わずして解決するし、その威力が示されるという。
 布都御魂は神武天皇に下される前は鹿島神宮の主神であるタケミカヅチのものであり、布都御魂が石上神宮に安置され鹿島に戻らなかったために作られた二代目が、現在鹿島に伝わる布都御魂剣であるという。
  

黄泉・根の国とイザナミ

 話は逸れるが、イザナミは火之神を産んで、亡くなった。イザナギがこれを憎み、火之神を斬り殺すと、そこから様々な火之神や剱の神が誕生している。つまり、イザヤ一団が日本に渡来した地域には、火山があり、製鉄が起こったと云うことだろう。この地域は当然、日高見国を含む高天原と云うことになる。元々縄文文明があり、都市の中心には墓があったので、すでに死者と生者が生活していた。シュメルの黄泉の国は、代々女王が統治しており、世捨て人や隠者、犯罪者、政界から追われたものの駆け込み寺の役割もあり、二度と戻れぬ死者の国とされていた(ただし、エンリルが強姦罪で皇位を剥奪され、生きたまま黄泉の国に下ったが、彼女を妻とすることで罪が晴れた。そこで、エンリルの代わりに月神の長女が黄泉に下ることで、エンリルは生者の国に戻り、皇位を取り戻している。尚、女神イナンナの姉である月神の長女は、黄泉の女王に就任している。)。しかし、初代黄泉の国の女王は天才科学者・医療者のニンフルサグであり、そこには生者の国よりも高度な医療・科学技術が蓄積されており、生者の国を影から支援していた。つまり、イザナギがイザナミが黄泉に出向き、亡くなったイザナミを連れ戻そうとした時の黄泉の王は縄文文明の王であったことでしょう。そして、イザナギとイザナミが決別したことにより、高天原系の黄泉はイザナミの統治する国となった上に、生者と死者の役割を明らかにして、生者と死者の境を明確に別けたのです。それは、ヤハウエの決断でもあった。おそいらく、イザナミは日本に渡来する前に亡くなり、その子ら(姉=ヤハウエの巫女=太陽神の巫女=日巫女と弟二人)が日本に渡来しているので、霊体として黄泉の女王に就任したのだと推測されます。
 また、大国主命が統治を高天原に禅譲し、自らは出雲国にて黄泉の国を司るとした。この出雲系の黄泉の国は「根の国」であり、高天原系の黄泉の国とは別である。当然、根の国に集う神々も別で、それは、大国主命が統治していた時代、銅剣に×印を施し地下に埋めた氏神達であり、神議に集うメンバーです。しかし、彼ら以後の子孫の神々は高天原に属しており、根の国のメンバーではないのです。

イザナギから生れる神々

 黄泉から戻ったイザナギは、禊ぎを行うと衣類などから神々が誕生する。それは、黄泉の国から連れてきた霊体・神々とその生きた子孫を従えて、現世に帰還したと云うことだろう。この場合の黄泉はユダの神々で、皇統の一族では無く、高天原への移住を行う為の技術・医療・武闘・関連の部族のことだろう。
 そして、イザナギの肉体・両目・鼻から、肉親の後継者である三貴紳が誕生する。もちろん、イザナミの子だが、聖書にあるように聖書の皇統は男系男子であり、この伝統と同じ記述法に従っている。つまり、伊弉諾伊弉冉の結婚により、男性と女性の役割が与えられ、お互いに補い合う関係となった。そして、三貴紳の記述から、皇統は男系男子であると規定したのだ。

オオゲツヒメの死と五穀・蚕

 記紀には五穀と蚕の生成について、下記の記述がある。
 「スサノウ尊が食べ物を大気都比売神(おおげつひめ)に乞うた。そして大気都比売が、鼻や口や尻から、さまざまなおいしい物を取り出し、さまざまに調理し盛り付けて差し出した時に、 速須佐之男命は、その様子を立ちうかがって、食べ物を穢けがして差し出すのだと思い、すぐさまその大気都比売神を殺した。すると、殺された神の身体に成った物は、頭に蚕がなり、二つの目に稲種がなり、二つの耳に粟がなり、鼻に小豆がなり、陰部に麦がなり、尻に大豆がなった。そこで、神産巣日御祖命は、これらを取らせて種とした。」
 縄文時代にすでに五穀があることから、オオゲツヒメは縄文系の食料や蚕の神だったのだろう。これを剣で切ったのは、オオゲツヒメ集団を支配下に置いたという意味でしょう。そして、彼らの五穀や蚕産業を高天原から、平地の豊葦原の国に移植したと考えられる。
 話を元に戻すと、諏訪大社は「国譲り」の伝承を起源としており、この神社で名高いのは「御柱祭」(式年造営御柱大祭)である。五穀豊穣を祈念して七年に一度行われるが、建御名方のイメージにふさわしい勇壮な祭りで知られている。ここで注目されるのは、御柱祭りの柱に必ず×印が刻されるという事実ある。この木は御神木であり、本来はそのような瑕をつけることがあってはならない。しかし、大社の当事者には、ただの習慣としてしか認識されておらず、すでにその行為の意味は忘れられているようである。柱に人が乗る際の足がかりとなる刻み、ということだが、しかし、神木にわざわざ刻むということは、何らかの意味があるのだ。荒神谷遺跡の銅剣や、加茂岩倉遺跡の銅鐸と同様の印をつけるとすれば、出雲のそれらと共通の意味があると思われる(*尚、×印はシュメル文字では、数字の10であり、若しくは数字の5に近い。つまり、10の神=太陽神ウツに捧げた、主神がウツに変わったという意味ではないかと思う。2018/04/26)。すなわち、御神木に×印を刻む行為も、銅剣、鋼矛、銅鐸と同様に、「高天原」系の神々にその「権威」を譲る、という意味を持ち、御神木はその象徴といえる
 また、三五八本という数のことであるが、当然、参加した氏族たちが共同して提出したものと想定され、出雲地方の神社の総数と出土した銅剣の本数との関連があると思われる。『延書式』の「式内社」として認められた出雲の神社は一八六社あり、それはほぼ三五八の半数である。一社が二本ずつ、ということが、この数の意味を示しているのではないか。それは神社ごとの神々が古い時代の地域の神々であり、それが氏神として銅剣の供出に関係しているように思える。つまり荒神谷の三五八本という、例外的な数の多さは「葦原中国」の平定に伴い、意図的に数を多く揃えたということが出来よう。
 大国主命の謙虚さは、敗れた出雲の側が、自らの祭器である銅剣を大量に譲ろうとする観念の表れといっていい。このように『古事記』では、大国主命は天から最後に使者としてやってきた剣神の威力には対抗出来ずに、ついに長い間の抵抗をやめて、「国譲り」をするという経過をたどるのである。しかし、そのことで、大国主命が偉大な神としての力と資格を喪ったことにはなっていない。『古事記』には大国主命が「国譲り」を承知したのに続いて《また僕が子等、百八十神は、すなわち八重事代主神、神の御尾前となりて仕え奉らば、違ふ神はあらじ》と言っている。これは彼らが最初に「国譲り」を承知した事代主にあと押しされ、また先導されて奉仕することを約束したということである。ここに百八十神とあるが、三五八本の銅剣はほぼその倍にあたる。するとこの数は、出雲側の神々が二本ずつ奉ったことになる
 出雲大社で有名なのは、神在祭である。神在祭とは、全国から集まる神々(※出雲の神々のこと。高天原の神々は八百神です)をお迎えするという神迎祭ともいう。旧暦の十月十日の夜(※×は10の意味の傍証で、太陽神=ウツ神)、大国主命の「国譲り神話」の舞台であった稲佐の浜に龍蛇神に導かれてあらわれるとされる。その夜、浜では丁重にお迎えする神事がとり行われる。神々は出雲滞荏中「神議り=すなわち、高天原と同じ合議制」で縁組みをはじめ、もろもろの決め事をするのである。ここで「葦原中国」の神々は相談をしたに違いない。まさに、大国主命の「国譲り」について、出雲の神々が「神議り」をして、その意志が決定されたのである。
 尚、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治めると大国主命は宣言している。譲るのは出雲の国ではなく、「葦原中国」(*中国から近畿+越から諏訪までを指す)そのもの、すなわち倭国の支配権という意味になる。このように支配者としては最初に出雲族がおり、天孫族に譲った構図になっている。つまり、天孫族は、関東から東北に加え、「葦原中国」を併合したと言うこと。
 また『日本書紀』の第二の一書は、「国譲り」に関して独特の話を載せている。大国主命のもとに「高天原」のふたりの神(*鹿島神宮と香取神宮の神祭の二人)がきて、《あなたの国を天神に差し上げる気があるか》と尋ねると、《お前たちは私に従うために来たと思っていたのに、何を言い出すのか》と、きっぱりはねつけるのである。すると、「高天原」の高皇産霊尊は、大穴牟遅神=大国主命の言葉を受け、国を譲ってもらうための条件を示す。その一番の条件は、大国主命は、以後冥界を治めるというものである。さらに、大穴牟遅神=大国主命の宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどを条件に加える。大穴牟遅神はその条件に満足し、「根の国」に降るのである。この「根の国」とは、つまり出雲のことである
 平成十二年(2000年)、出雲大社の発掘により、出雲大社の本殿遺構の柱材として、杉の大材三本を合わせて一つの柱とする、正面中央の棟持柱にあたる大きな柱が見出された。これは鎌倉時代の1248年に遷宮されたときの本殿の柱材であったと考えられている。一本が110センチメートルもある柱が三本も束ねられており、その構造が、もともとの出雲大社の平面図として伝わる『金輪御造営差図』の表現と一致するという、かつての巨大な出雲大社が、存在した証が明らかにされた。
 ここから、もともとの出雲大社が、『記紀』に記された、大国主命が「国譲り」の代償に望んだ大きな神殿を思わせることになった。またここに「越の八口を平げだ」とあるが、「口」とは蛇を指す言葉となっている。『古事記』では、須佐之男が退治した八岐大蛇のことを「越のやまとのおろち」というが、「越の八口」というのは、まさに須佐之男の退治した越の八岐大蛇と同義語であると思われる。そうすると、八岐大蛇を退治したのは須佐之男ではなく、『出雲風土記』では大国主命ということになる
 須佐之男が八岐大蛇を退治するという偉業のあと、この怪物の尾の一つの中から、皇室の三種の神器のひとつとなる草薙の剣が発見され、それを天照大神に献上することによって、皇室が統治者となる秩序がこの国に確立する。これに、重大な寄与を果たしたのが大国主命である。となると、やはり銅剣を捧げるという行為と、統治者の決定とを関連して考えることができる。少なくとも出雲の人々は、須佐之男と大国主命考重ねて考えていた。これは、剣というものが、常に統治者のシンボルとなるべきで、それを譲るものは剣を捧げるもの、というひとつの考えがあったことを示しているのである。
 これまでくりかえし見てきたように、日本の神話には、神々のあいだで激しい対立や葛藤があっても、それが解決される過程で、対立した両者のどちらか一方の存在とか価値が、否定されることにはならないという大きな特徴がある。つまり、日本文化の中に出雲文化が残されると言うことです。それは、大国主命の国譲りの禅譲に表現されている。つまり、「和=合議制」の精神はムー文明からの踏襲であり、それゆえ、縄文時代は渡来人の国々の文明を融合させながら戦争のない平和な時代が続いたのでしょう。

 ◇ ◇ 日高見国は高木神の都

 『常陸国風土記』には《高天原より降ってこられた大神、名を香嶋天(後に、鹿島天)の大神と申される。天では名を香嶋の宮といい、地では豊香嶋の宮といった》という記述があり、鹿島が、少なくとも、高天原から降りられた神の住むところである、という認識があったことがわかる。
 八百万の神を高天原にお集めになったとき、祖先神がおっしゃったことには、「今、わが御孫の命が、お治めになろうとする豊葦原の水穂の国」とおっしゃった。高天原から下っておいでになった大神の名は香島天の大神と言う。天においては日香島の宮と名づけ、地においては、豊香嶋の宮と名づける。土地では豊葦原水穂の国を委ね申し上げようとおっしゃったときに、荒ぶる神たちや、また、石根、木立、草の片集までもが話をし、昼はうるさく、夜は怪しい火が輝く国であるこれを従わせ平定する大御神とおっしゃったので、天下りなさって(皇祖神に)お仕え申し上げたのである。(『常陸風土記』香島の郡、古賀裕訳『風土記』平凡社、2000年、三六頁)
 つまり、日高見は、天では「高見天」、地では「豊高見」と言うことが推測される。さて、『古事記』では、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神を「造化三神」と呼び、「天御中主」「高御産巣日神(たかみむすび)」、「神産巣日神(かみむすび)」である。高御産巣日神=高木神が、鹿島神宮の主祭神タケミカヅチを出雲平定に使わしている。イザナギ、イザナミのように、「キ」は男性、「ミ」は女性を意味するシュメル語ですから、「高木神」は男神で、「高見」は女神と推定される。そこで、「高見天」は地では「日高見」と呼ばれるとすれば、「日高見国」は女神「高見神」の支配する国である
 そして「高天原」の「高天」は、地での呼び名は「日高」となり、「常陸(ひた)」の事だと推測できる。他にも、「飛騨」「日田」などが当てはまる。つまり、「日高見国」は高木神が統治する「日高」にある女神国の名だと云うことです
 『続日本紀』の養老七年のところに、はじめて「鹿島」の字が出るため、その頃に香島から鹿島に改められたと考えられるが、養老年間以前は「かしま」と呼ばれていた。それが、おそらく、中央政府からの要請で、鹿島に固定された可能性がある。香島を「かぐしま」と言っていた可能性もあり、それは、鹿島と鹿児島との関係を示唆しているように見える。
(*天香山にも当てはめられ、つまり、「香」は「火」を意味しているのでしょう。一方、かぐや姫、については、天火矢=宇宙船に関連するという意味だと思います。)
 「鹿島立ち」という言葉が残っている。常陸国の防人が、鹿島神宮に集合して、鹿島から九州方面に出発したことをいう。「祭頭祭」という祭りはその「鹿島立ち」の様子を伝えている。三月九日に行われる大祭で、六尺の樫の棒を持って、祭頭歌をうたいながら、棒を組んだりほぐしたりして市中を練り歩く。これは天武天皇の時代から始まったものだと言われている。防人の出立を祝う祭りであり、この防人は、「白村江の戦い」で敗れた日本軍が、大陸からの侵攻を恐れて、九州に兵を送ったことから組織されたものである。これは、関東から九州の遠路を、彼らが果敢に船で渡っていったことを意味する。これを、御船祭と関連づけられるとすれば、さらに遡って、同じ九州に向う天孫降臨の海からの神々と「鹿島立ち」も関連づけられる。(*白村江の戦いに敗れ、唐のGHQ支配を受け入れざる得なくなった時、日本列島の危機を迎え、大和国と日高見国と九州王朝が、天武天皇の時に一つになり、この三王朝が合体して「日本」となった。)
 古事記の中の二十二もの神々が、火之迦具土神が生まれてから生まれた神々で、いわば火山活動のすさまじさを表現している。そこで、富士山は十余回の噴火記録をもっており、噴煙が耐えなかったことは歴史的な事実でもある。コノハナサクヤヒメが火中出産の説話から火之神とされ、各地の山を統括する神である父のオオヤマツミから、火山である日本一の「富士山」を譲られたということから、祀られるようになり富士山に鎮座して東日本一帯を守護することになったと云う。
 富士山を取り巻く多くの神社の名は、富士を冠するものも冠さないものもあるが、いずれも浅間神社「お浅間(せんげん)さん」と呼ばれている。富士を御神体と仰ぎ、祭神を木花咲耶姫としている。フジという名は、アイヌ語で火ノ山という意味だとされる。もし蝦夷の南下がなかったら「浅間」でなくてはならない。この最古、最大の浅間山は、関東平野からならどこからも見える名山であり、高天原に近いと考えられる常陸からも姿が見えるそう遠くない山である。
 つまり、氷河期でも暖かく、鹿島が本当の島だった時代、高天原は富士山にあった可能性が高い。というのは、温暖な縄文時代には八ヶ岳の高地(800~1000m)に縄文人が定住していたが、海が引いて寒冷化すると、より低地を定住地として移住している。そして、暖かい間は高地で生活し、寒くなると低地に移動していたそうです。同じで、富士山の中腹当たりに(縄文人+シュメル人+イスラエル人)の王国が存在し、寒冷化して、鹿島が陸続きになることには、低地の日高原=高天原の地上名(日高見国)へ移住したのかもしれません。

 ◇ ◇ 卜部氏族について

 『常陸国風土記』香島郡の条にある。《神の社の周囲は卜氏(*司祭氏族)の居む所なり》に始まるこの文章を口語訳で述べよう。いかにも、高天原と直接関連があることが分る。古事記の中で「橘」を取りに行く下り「『古事記』では垂仁天皇が多遲麻毛理に時じくの香の木の実(ときじくのかくのこのみ)を、『日本書紀』の垂仁紀では、垂仁天皇が田道間守を常世国に遣わして、「非時香菓」を求めさせたが、その間に天皇は崩御したという記述がある。「非時」は、時を定めずということから「いつでも香りを放つ木の実」を指すと解され、「今の橘なり」と言われる。」)があるが、それは「鹿島」だったのでしょう。つまり、「鹿島」=「常世国」だろう。
 そこは、地形が高く東と西は海に臨んでいて、嶺と谷が犬の牙のように村里に交わっている。山の木と野の草が生い茂り、まるで、中庭の垣根を作っているようだ。潤い流れる崖下の泉は、朝夕の汲み水になる。台地の蜂の頂きに住まいを構えれば、生い茂った松と竹とが、垣根の外を守ってくれる。谷の中腹に井戸を掘れば、生命力旺盛な蔦の葉が、井戸の壁面を覆い隠す。
 春、その村を歩けば、様々な草花が咲き乱れ、かぐわしい香りを放っている。秋、その道を過ぎ行けば、数多くの木々に、錦織りなす木の葉が美しい。ここは、まさに、神と千人が隠れ住んでいるようなところだ。奇しき力を持つ何かが生まれ出する土地だ。その佳麗な不思議さは、とても書き表すことが出来ない。
 その天の大神の社の南の郡役所があり、北に沼尾の池がある。土地の古老の話では、沼尾の池は、神代のむかしに天から流れてきた水沼だという。なるほど、池に生える蓮根は、比べる産地がないほど味わいを異にして、大変美味いとしかいいようがない。そればかりか、病に苦しむ者は、この沼の蓮を食えば、たちどころに治るという。この池には、鮒や鯉も多く生息している。この地には、以前に郡役所」が置かれた所で、たくさんの橘を植えていてその実も美味い。(『常陸国風土記』香島の郡)
 「邪馬台国」の《習俗では、行事や往来する際に、何かあれば、そのたびに骨を焼いて占トをおこなって吉凶を判断し、あらかじめその結果を伝える。そのことばは、(中国の)命亀の法と同じである。ひびを視て、兆候を占う》とあるが、この占トは、日本でも亀や魔の角で行うから共通しているといえるつまり、卑弥呼は「日高見国」=女神国の「日巫女」だったと、推測される。本名ではないので、卑弥呼神社は存在しないし、記紀にも登場しない
 イザヤの一族は、南ユダ王国の滅亡を見越して、日巫女(天照大神=ヤハウエの神妻)である長女ヘブジバと、二人の弟を伴い日本に移住する。王位を弟に譲ろうとしたが、まとまらず姉が国をまとめることになった。おそらく、女神アマテラスの伝承は、このようにして伝えられたのでしょう
 鹿島神宮の東三キロにある「高天原」と名付けられた墳円の土地には、全長八五メートルの鬼塚とよばれる古墳らしきものがある。この鹿島地方に住んだ人々が、『常陸国風土記』にあるように、中臣氏(=藤原氏⇒富士原、つまり高天原を意味する。それゆえ、藤原不比等は自らの出自を神代文字で「天照大神」と伊勢神宮に奉納したのでしょう)や卜部氏が多く、大部分は鹿島神宮関係の人々で、現在の鹿嶋市宮中の成立が、神宮の屋敷割に源を発していることからも明瞭である。尚、「高天」は、「日高」と「豊高」と変化する。「日高」は「飛騨」「日田」などの地名と関連する。そして「豊高」は「穂高」などと関連するでしょう。おそらく、「穂高」と「高千穂」がほぼ同じ意味であるのなら、高天原の地上の別地ということになります。
 『日本書紀』に、崇神天皇の時代、神聞勝命の名が出てくるが、これは、道根命であると考えられる。道根命は鹿島出身で、大和で仕事をし、大鹿島命と呼ばれている。『日本書紀』に垂仁天皇二十五年のこととして、阿部臣、和珂臣、物部連、大伴連の遠祖達とともに、中臣連の遠祖大鹿嶋が五太夫の一人として、伊勢の神宮の創建にあずかり、初代の大宮司として奉仕する記述がある。これは鹿島と、伊勢、そして奈良の関係で、大和朝廷が鹿島を重要視したことがわかる。
 鹿島にある鎌足神社は、藤原鎌足が生まれたところと伝えられ、その当時は海(霞ケ浦の北浦)に面していたと考えられる。鎌足という名は、かなり年をとつてからの名で、幼名は鎌子であり、藤原という姓は、大化改新の後、天皇より戴いたもので、前は中臣という姓である。中臣とは 神と人の中をとり持つことを意味すると同時に、数ある臣のなかでも中心的な部族を意味している。単に氏族の家柄という程度のものではないのである。その祖は津速魂神三世の孫、天児屋根命である。津速魂神は中臣系譜に見える神であって、高皇産霊神(高木神)の子と伝えられるという。天児屋根命は、天照大御神が天岩戸に篭ったとき、岩戸の前で神楽を奏し、布刀詔戸言を奏上した神である。天孫降臨に際して降臨に従っている。先に、天孫降臨が「鹿島立ち」から始まり、鹿島から鹿児島への海からの降臨であった御船祭によって象徴されると述べたが、この神もそこにも加わって、ニニギ尊を助けたと考えられる。
 天孫降臨のとき、天照大神が神勅を下されるように、大嘗祭においても、天孫、ニニギ尊が稲を作り、その新穀を食べて、稲に憑き、神霊を身に受けることにはじまっている。御一世御一度、天皇が即位のとき、稲を拝し、ご自分を拝されて天皇霊を身につけるのがこの大嘗祭である。すると、この大和武尊の東征は、東国において、天皇宣言をされるためであった、ということが出来るのではないか。(*稲は中国や朝鮮とは異なり、日本固有である。つまり、ニニギの命は稲を持って、海路で日本に渡来したのです。もしくは、すでに日高見国で稲作が行われ、この稲を持って日本列島全体に稲作を普及させた。と云うのも、寒冷化により、低地に移住せざる得なくなった縄文人や渡来人達は、縄文文明の生活様式から、低地で稲作を行う生活様式に変わっていったのでしょう。つまり、これまでの朝鮮半島からの渡来人が稲作を広めたというのは間違いで、天照大神の天孫族が稲作を広めたのです日高見国では製鉄が行われており鉄剣を持っていた。平野には豊かに水と水田があり、砂鉄からは農具だけではなく、武器も造られ、鉄剣は出雲をしのぐものであった。もしくは、前5千年頃、鹿児島沖の火山が大噴火を起こし、この地域の縄文人が稲と文明を持って、一部は中国大陸へ(長江文明⇒夏殷を建国)、一部は関東へと移住した。しかし、大陸での稲作は鹿児島からの稲よりも、別種の稲の方が生育が良く、そちらが主流になってしまった。『契丹古伝』によれば「殷もこれ倭国なり」とある。)
  ◆日本米は固有種
 縄文稲作の遺跡は岡山県だけでなく、島根県、鹿児島県など九カ所ある。縄文前期(六〇〇〇~五〇〇〇年前)以降、中期、後期と三〇〇〇年前までに、二十カ所以上に継続的に稲作の痕跡がプラントオパールの存在により確認されている。つまり青森の三内丸山の遺跡より早い段階で、稲作が行われていたことになる。それが板作造跡も菜畑遺跡まで続き、そして今日まで続いているのである。
 植原和郎氏の「日本人二重構造説」は、日本に稲作の技術をもった大きな人類集団がやって来た、という説で、受け入れられた時期もあったが、今では否定されている。佐藤氏は池上曾根遺跡や唐古・鍵遺跡から出土した弥生米のDNA分析の結果、朝鮮半島には存在しない中国固有の品種が混ざっていることから、朝鮮半島を経由しないで、米がやって来たと述べている。
 日本の温帯ジャポニカは中国や朝鮮半島に比べると、遺伝的多様性が失われており、渡来した稲は極めて少数であった。さらに佐藤氏は、中国、朝鮮、日本の水稲(温帯ジャポニカ)のSSR(SimpleSecenceReport)マーカー領域に存在するRMI-a~hの八種類のDNA多型を調査し、中国にはその八種類があり、bが多く、aがそれに続く、と言う。朝鮮半島にはbを除いた七種類が存在し、aが最も多い。つまり、中国と朝鮮半島はだいたい同じ種類だと言える。しかし日本にはa、b、cの三種類しか存在せず、bが最も多いと指摘する。さらに、aは東北を含めた全域で、bは西日本が中心であることが発見されたことから、稲が朝鮮半島を経由せず、別のところから直接日本に伝来したとし、水田稲作の温帯ジャポニカの稲が、東南アジアから日本に伝播したのではないかと推定している。氏は中国を経由して、と述べているが、それがどのような経路を取っていたかということは不明である(佐藤洋一郎『稲の日本史』)。
 この佐藤氏のDNA鑑定から、六〇〇〇年前から、中国や朝鮮半島ではないところの、同じ種類である東南アジアから直接やって来たのではないか、と推測出来る。もともと水稲は、暑い地方で作られるものであり、中国や朝鮮半島よりも、直接東南アジアから舟でやって来た人々により伝えられたと述べる方が適切である。
 この水稲のDNA鑑定調査により、弥生時代に朝鮮半島からやって来た渡来人がもたらしたとするこれまでの説は否定されることになった。稲作が縄文時代に東南アジアからやって来て、日本固有の稲作となったという新説は、天皇が行う水稲中心の「大嘗祭」が、『記紀』のアマテラスから発しているとするならば、それは縄文時代からの伝統であることと重なりあい、稲作が朝鮮経由ではない、日本固有の伝統によるものであることが認識されるのである
 天皇が即位されるときの新嘗祭を「践祚大嘗祭」と呼ぶが、それ以後毎年十一月に天皇は収穫祭として、その年の新穀を神に捧げ、自ら食する祭儀を執り行う。この天皇の中心的行事のひとつが、朝鮮半島からやって来た水稲とむすびつけられてきたが、そうではなく、縄文古来の日本特有な稲作によるものであることがはっきりしてきたのである。それは新穀である五穀、稲、麦、栗、稗、豆を天神地祇に勧め、天皇自ら食し、収穫に感謝する祭祀であった(*大嘗祭で陛下が新米を天照大神に奉納した後、日本人は新米を食べるような伝統だった)。そこに含まれる米、乗、稗、豆は、すべて縄文時代からの食物であり、日本古来のものであったのである。
 
  ◆縄文人が福建省に移住した時期について
 約7千3百年前、鹿児島沖でアカホヤの大噴火が起こっています。四国の半分くらいもある巨大な島が、まるごと吹き飛んだとされています。現在は薩摩硫黄島や薩摩竹島として、かろうじて水面の上に出ています。その時、九州の縄文は滅亡したとされています。この時、九州の縄文人は福建省へ、本州の方へと移住したのだと推測されます。
 しかも、長江文明は前5千年とも3千年とも言われており、夏王朝は前1900年頃~前1600年頃だそうで、丁度長江文明の発祥時期とアカホヤの大噴火との時期が重なっているのです。尚、中国の羅家角遺跡(長江流域)から見つかった7000年以上前の水田区画は数平方メートルで、短い水路でつなぐように配置されていた。長江流域の遺跡ですから、縄文人が渡来していた可能性があります。他にも、製鉄、漆、航海技術、木造建築及び土木技術等々も日本から伝えられたに違いありません。
 つまり、アカホヤの大噴火と、寒冷化に伴い、縄文人が大陸に移動すると同時に、日本の縄文文化が一度退化した。加えて、弥生時代に大陸からの渡来人との間に戦争が勃発し、さらに縄文文化は衰退した。そして、奈良明日香に至って、衰退した縄文文化が復活したのだと思われる。
 
  ◆東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)
 茨城県の南部と千葉県にまたがる地域に、「東国三社」と呼ばれる三社がある。ちょうど「日高見国」の中心地域であり、現在も三社参りが盛んである。この「三社」とは言うまでもなく鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の三社である。それぞれ建御雷神、経津主神、天之鳥船神が祀られているが、最初の二神はアマテラスに「高天原」から派遣されて地上に降り、出雲の大国主命に「国譲り」をせまった武神である。
 息栖神社に祀られている天之鳥船神は、武神の乗り物「天鳥舟」の神である。二柱の神と比べると地味な存在であるが、神が乗って天空を移動すると考えられた舟の神である。『古事記』ではイザナギ・イザナミが生んだ初源の神と言って良い。詳しい名は鳥之石楠船神と書かれる。鳥が天空を飛ぶように、岩なり楠木で造った船の神と言うことになる。即ち、武器を持った船ということであろう。また近くの大戸神社も「天鳥船命」を祭神としている。
 この「天鳥船神」が、アマテラスの統治する「高天原」の乗り物であることから、「日高見国」の船団の神を意味すると類推できる(もしくは、天香山や香矢のように、火を噴く乗り物だった可能性もあります)。
 九五〇〇年前、鹿児島県の上野原遺跡が三〇〇〇年続いた後、アカホヤの大噴火で破壊された。その後、住民たちが四国、紀伊半島を北上していったことは、同じ石器が各地で見出されたことによってわかる。船による人々の移動は、今日考えるより、はるかに容易だった。大海に出ず、陸伝いに進むだけなら、長距離の船の旅は可能であったからである。鳥のように長距離を船で漕ぎ出していたことは、クケミカヅチやフツヌシが「天鳥船神」と絶えず共にあったことからも推測出来るのである。
 よく知られているように、春日大社の本殿では、御祭神が四人いるが、主要な第一殿は、鹿島神宮の祭神、建御雷神であり、第二殿は香取神宮の祭神、経津主命である。この大和における最大の神社が、御祭神として東国の鹿島神宮の祭神をおいていることは、単に藤原氏の祭神だからというだけでなく、天皇の為政において、建御雷神の守護がいかに重要かを示している。

 ◇ ◇ タカミムスビ神からアマテラスの統治へ

 高天原(日高原)は、タカミムスビ神から、天照大神の統治へと移行している。
 日本の国家神は長い間、天照大神だと信じられてきた。しかし、「記紀」をみると、国家神は必ずしもアマテラスだけでなくタカミムスビという神がいることがわかる。しかし、『古事記』をよく注意して読むと『古事記』がアマテラスを天孫降臨の主神として上げているのは一カ所のみで、あとの七カ所はすべてタカミムスビの名前をアマテラスと並べて、二神をともに命令を下す主体として記している。
 このタカミムスビは高御産巣日神と書くが、同時に高・産巣・日・神と読むことが出来るのである。ここには「日高」の二字が入っている。御=見とは意味が違うので、御にしたのだろう。この高御産巣日神が、弥生時代までの「日高原」=「高天原」の統治者としてアマテラス同様にみられていたと考えられる。「ムス」は「産巣」と書くように、この出産への祈りと共に、土地が豊かで生産的だということを示唆していよう。また音から「結び」つけるという意味もあろう。
 タカミムスビはまさに「高天原」に成った最初の造化三神の一柱であって、アマテラスより古い存在である。アマテラスが弥生時代の神とすれば、このタカミムスビは縄文時代の神と言える。少なくとも神武天皇以後の時代以前に、二つの「古世」の時代があったと考えられるのである。と言うのも、『記紀』において神武天皇以前の「高天原」、すなわち天津国の時代が、ふたつの時代に分けられる。それが、縄文と弥生時代に対応する。
 大陸の戦乱を逃れた武装難民は、武器を持たない縄文日本に戦乱をもたらした。この弥生時代の混乱を鎮めたのが、「五十御神」だと銅鐸に神代文字で刻まれている。この銅鐸に刻まれた神代文字は「国建てし、五十男御神を、伊勢宮に祀る」とあり、明らかに「五十御神」は、当時の神々のランク50の「エル・ランティ様」に他ならない。伊勢では、太陽神・天照大神として、元七大天使とキリスト教の神々を従えて日本を守護されてこられた。ここに、古代シュメル、イスラエルの二氏族、ムーの縄文人の合体した文明が打立てられたのです。その証が、三種の神器に違いない。
 尚、シュメル語で、イセは神の意味です。天照大神の鎮座する伊勢神宮の意味もすっきりします。それから、シュメルは英語読みで、ラテン語読みだと「スメル」です。スメラ尊=皇尊との関連も明確になります。
 エジプトの第18王朝アメンホテプ四世(アクエンアテン)の時代から発見された文書にはサマリアがスムル(Sumur)と記されていることに基づけば、2千8百年前から、3千年前のことだったかもしれない[日本固有の文明の謎はユダヤで解ける]。
 関連して、[日本書紀と日本語のユダヤ起源]の中で、著者ヨセフ・アイデルバーグは、古代日本の伝統、宗教的儀式、俳句、民謡までもが、ヘブル語起源であり、「古代サマリヤ」との強いつながりを示していることを、記述しています。一例ですが、他にも多くの事例が掲載されています。
  「天孫民族」
    「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」[申命記 14章1]。
  「神道」
    「わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むのなら」[列王記上3章14]
    「わたしの道」=「神の道」、すなわち「神道」であり、「神道」という
    言葉は、道教用語からの借用ではないと思われる。
    つまり、祖先の行ってきた道を着実に執り行うことが神道の本質である。
    その事によって、神の守護を得ることができる。
  「神道の供え物」
    神棚に供える餅(種なしパン)、酒、初物などは、イスラエル人の供え物と
    同じ。
    イスラエル人が正月に種なしパンを食べるように、日本人も餅を食べ、休日
    を過ごす。
    「正月の十四日の夕は主の過越の祭りである。…あなたがたは七日の間は種
     入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に聖会を開かねばなら
     ない。どんな労働もしてはならない。…第七日には、また聖会を開き、ど
     のような労働もしてはならない。」[レビ記 23章5-8]
    「彼らは正月の十五日にラメセスを出立した。」[民数記 33章3]
 また、イスラエルの供え物には、必ず塩が付されたように、神道にも付される。
  「あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべての、
   あなたの供物には、塩を添えてささげなければならない。」[レビ記 2章13]
 縄文時代は一万三〇〇〇年前から三〇〇〇年程前に終わり、次に弥生時代が始まった。定常型の狩猟・採取時代から、農耕中心時代へと変遷、対応していることが知られている。鹿児島県には一万二〇〇〇年前の掃除山遺跡が見いだされ、また同じ鹿児島県の上野原遺跡では九五〇○年前から三〇〇〇年ほど続いた縄文遺跡が発見された(一九八六年)。その規模の大きさは、三内丸山と同様、大規模だということが知られている。さらに残された骨からインドネシア系の人々と似ていることが推測されている。つまり、海のシルクロード経由で日本に渡来した。同様に、日本からも海のシルクロードを経由して、世界最古と云われる縄文文明を伝搬したことも考えられる。
 三内丸山遺跡は五五〇〇年前から一五〇〇年ほど続いた遺跡で、縄文人が大きな部落をつくりクリを中心とした豊富な食料を得て生活していた。巨大な柱六本によって大規模住宅を建造し、また墓を部落の中心に造り、祖先の霊との共生を図っていた模様。すでに、神道の原型があったとも考えられる。縄文土器や縄文土偶などの同一風習や文化が鹿児島から青森、北海道まで広がっていた事は、同一の文化共同体、即ち祭る祀国家が形成されていたと考えられる。そして、ペテログラフの文字や、アイヌの神話などに縄文時代の様子が描かれているはずです。
 尚、縄文晩期の青森の亀ケ岡遺跡から赤い漆を塗った土器が発見され、それと前後して六〇〇〇~五〇〇〇年前の千葉県加茂遺跡の地層から漆の赤い塗料の塗った土器片が見つかり、その頃までに流布していたことが分かった。中国の漸江省で六二〇〇年前の漆器が発見されたが、北海道では平成十二年に垣ノ島B遣跡から約九〇〇〇年前の漆器が発見された。つまり、漆技術は日本固有であり、逆に縄文人が大陸に伝えた可能性もある。

 ◇ ◇ 縄文から弥生時代へ

 これまで、ニニギ尊はどこかの「高天原」から直接、九州の筑紫の日向の高千穂に降りたち、大山津見神の娘の木花之佐久夜毘売を見染め、海幸彦と山幸彦の兄弟が生まれたこてになっていた。しかし大山津見神の娘が富士山の祭神である木花之佐久夜毘売である。つまり彼らは東国の神々なのである。
 弥生時代までが、「高天原」の天つ神の時代であり、地上での「日高見国」の時代であったということだろう。大宣都比売神が須佐之男命に殺され、その死体の顔からは蚕が、両目からは稲種が、両耳からは粟が、鼻からは小豆が、陰部からは小麦が、尻からは大豆が生じたという。さまざまな食べ物が出てきたのもちょうど弥生時代への変遷を告げている。「高天原」の天照大神は稲を耕作し、蚕で絹を作っているのである。
 アマテラスが最初に「天孫降臨」を命じたアメノオシホミミは、タカミムスビの娘タクハタチヂヒメと結婚し、その子として生まれたのが、天孫ニニギノミコトである。つまりタカミムスビはニニギの外祖父になる。後の天皇家の祖先の一人となっている。
 また「天孫降臨」に先だって、勝手に地上に降りたアメノウカヒコを、問責するように命じられたキジノナキメ(雉の鳴女)が行くと、逆にワカヒコに矢で射たれてしまうが、その欠がタカミムスビの元まで飛んできて、それをさらに逆に射かえす。アメノワカヒコを懲罰する武力ももった神なのである。こうしてニニギが降臨し、神武天皇が東征したときも、熊野から大和に侵攻する場面で、神武天皇を助けたタカクラシタ(高倉下)の夢にもタカミムスビが登場するのだ。アマテラス以上に「天孫降臨」を導いていくのがタカミムスビなのである。
 大嘗祭について、大嘗の祭りを行う悠紀・主基の二殿の祭神は、「まさしく天照おほん神をおろし奉りて、天子みづから神食をすすめ申さること」と記しているように、アマテラスだとされているが、『令義解』や『貞観儀式』、『延書式』などの古い記録には、アマテラスだとは何も記されていない。祈年祭や月次祭には、天照大神一座として、はっきり神座が設けられているが、大嘗祭には、そうした名前は無い。この大嘗祭の主祭神は、最初はタカミムスビであったのではないだろうか。
 日本の「国家神」はアマテラスということが出来るが、『古事記』には「天孫降臨」の主神に、タカミムスビ(高御産巣日神)の名が八カ所のうち七カ所も出てくる。それもただ副神であるのではなく、二神をともに命令を下す主体として記されているのである。このタカミムスビは、「日高国=高天原」を結ぶ(統べる)役割を担ったことだろう。また娘をアマテラスの子供に嫁がせているのも、その家柄の高さを示している。何かを生み出す力として「ムスビ」を持つもの、と解釈できるが、一方で、「ムス」+「ヒ(日)」で太陽神と見ることも出来る。さらにタカミムスビの別名である「高木神」は男神であることを示している。
 縄文・弥生時代は、太陽信仰の時代であったから、タカミムスビが太陽の祭祀王として象徴的に存在した。アマテラスには当然、太陽祭祀を司る神官や巫女がいたと考えられる。後の古墳時代であるが、例えば『日本書紀』の敏達天皇六年(五七七)の条に、《詔して日祀部を置く》とあり、この「日祀部」をそうした日=太陽祭祀の神祀官集団と考えることが出来る。敏速天皇は奈良の三輪山の西麓、大神神社の西側付近である他田(奈良県桜井市)を宮都としたが、そこには天照御魂神社があって、この神社がその「日祀部」があったところと考えられる。この神社は現在、天照大神を祭神としているが、元は「天照御霊」すなわち自然神としての太陽神アマテルを祀っていたとされる。
 アマテルとは、皇祖神アマテラスが形成される以前、縄文時代の日本人にとって「御天道さま」のような存在であったであろう。したがって、天皇・宮廷に仕える「日祀部」もアマテラスではなく、もともとアマテルに対して祭祀をおこなっていた、と考えることが出来る。テラスとはテルの敬語法であり、アマテル神に特有な敬称をつけたのがアマテラス大神となる。
 もとの太陽信仰のアマテル信仰を、皇祖霊信仰に統一して展開させたのがアマテラス信仰ということになる。『記紀』神話の、アマテラスとそれ以前の時代が区分けされることになり、それが縄文時代から弥生時代への展開に関わっていると考えられる。

ニギハヤヒはアマテル信仰

 「瓊速日尊(ニギハヤヒ命)」の正式名は「天照国照彦天火明櫛みか玉瓊速日尊」と称す。「天照国照」の部分は、猿田彦と同じで、「アマテルクニテル」であり、アマテル信仰を意味していると思う。
 「アマテル」は天が光り輝き地をテラしているという意味に受け取れる。一方、「アマテラス」は天を照らしているという意味にも受け取れる。
 「天照(アマテル)」という名前が示すように、こギハヤヒ命は天照大神とは、少し意味の違う太陽神であると思う。

島津家の家紋

 島津十字は「○」と「+」から成っている。ムーのシンボルでは、「○」や「十」字は普通に用いられていた。ムーのシンボルからしてみれば、「○」がラーを、「十」字が四大原動力を意味しているので、島津十字は天帝を意味している。日本の国旗がムーの皇室を意味していたので、島津家もまた天帝の流れを汲む一族だということでしょう。だからこそ、先生の手記の中で、天上界は先生はアトランティス王家の血筋で、島津家の血統だと。そのことを、島津十字が傍証していると思います。
  
 この見方から、「高天原」があった関東で、このアマテル信仰を行っていたと考えられる。関東の鹿島、香取神宮の天照大神信仰は、もともとこのアマテル神を中心としており、それを守る建御雷神、建布津神二柱の神々を祀る神社が、神宮として長く存在していたのであろう。このアマテル信仰が伊勢神宮に移って、アマテラスとなり皇祖神信仰と結びつけられたということが出来よう。

天照大神の代替わり

 アマテルからアマテラスへの代替わりは、ムー時代のラー信仰から、天照大神[ヤハウエ=太陽神ラー=第三代ヤハウエ・マルドウク]への信仰へと移行したことを意味している。そして、天の磐戸神話は、ヤハウエの三代から四代への代替わりだと推測しています。
 イザナギとイザナミは高天原の祖神に婚姻について問い合わせします。高天原では神々が合議して、卜占いを行います。『常陸国風土記』には、神の社の周囲は卜氏や中臣氏が多く住むと書かれており、高天原で卜占を行ったことと合致しています。そして、徐福一族が高天原の神祭を執り行うようになります。その一方で、伊勢での司祭族は忌部氏で、次は泰一族=徐福一族、その次は中臣・泰の合体でした。
 尚、天照大神(第四代ヤハウエ)が天から伊勢に天下ったのは7世紀頃のことで、天武天皇が国名を日本に変えた頃でした。この場合の天は富士の高天原のことで、第四代ヤハウエが七大天使とキリスト教の神々を伴い日本に渡来した様子は、七福神が船で日本に渡来する伝承に表現されています。そして、日本での到着地点は高天原だったのだと思います。
補足
 アマテルというと、太陽が照りつけるという、受け身の意味に受け取れる。アマテラスというの太陽自身に解される。つまり、日下と日本の違いと同じだ。無論、ムー帝国皇族のシンボル及び、日本の国旗が日下ではなく、太陽そのものだから当然だと思う。ちなみに、ニギハヤヒを頂く部族が日下氏であるから、縄文からの部族だと思われる。
 さらにタカミムスビは、日高見国のとき、つまり縄文・弥生の時代に、太陽神アマテル神と人々を結ぶ役割をもつ祭祀王であった、と考えることが出来る。この祭祀王の下に日高見国が成立していた。これは「古代エジプト」で太陽神ラーを信仰し、それに仕えていたのが古代ファラオの存在であったのと似ている。
 天孫降臨するニニギノミコトの名は「天 … 天ッ日高日子番ノ瓊瓊ノ命」と書かれるが、「天にぎし」、「国にぎし」は天も国もにぎわしく豊かにする、「天ッ日高子」は、天ッとあるから天の原、「日高日子」は日高彦で、日高御産巣日ノ尊の子のこととなる。「高」だけでなく「日高」と書かれ、タカミムスビが「日高国=高天原」の神であることを示している。
 このように、タカミムスビは、アマテラスの前から存在し、天孫降臨までずっとアマテラスを導いている神であり、高天原の主導神としてふるまっていくのである。出雲の国譲りのときもこの神がいた。後にアマテラスは伊勢神宮の主神となるが、その前にタカミムスビが存在していたのである。
 この存在こそが、古墳時代に神武天皇によって統一される日本国家の成立以前の、縄文・弥生の時代の日高国の統治者、タカミムスビであり、アマテラスを神として祀り、守ったといえよう。あくまでタカミムスビの補佐のもとで、アマテラスの統治がおこなわれたと考えられる。

 ◇ ◇ 世界最古 … 縄文の日本文明

 縄文時代以前に人々がすでに定住しており、狩猟採集を中心にして、日本列島の開拓を始めていた。ここで使われた石器は、渡良瀬川や栃木、長そして二万四〇〇〇年前の鹿児島の耳取遺跡で、南からやってきた人々が暮らしを始めている。DNA鑑定ではインドネシア地方の人々と関連が強いという。縄文時代の前のこの段階で、すでに西洋の「歴史進化論」信仰者が言っている狩猟・採取時代の「定住をしないばらばらの野蛮な社会」のイメージは無い。一万六〇〇〇年前、青森で世界最古の土器が作られているが、「野蛮な」社会では、土器など作れない。ムー文明からの名残が文明として始まっていた。
 大陸と日本列島とでは、自然の生活条件が異なっていたから、違った条件のもとでは、文明や文化は当然、違った形となってあらわれる。日本は旧石器時代から、文化は大陸からもたらされたものではなく、自らつくりあげたものだ、ということである。
 かって土器のルーツといわれたメソポタミアの壷は、最古のものでも約九〇〇〇年前である。それに対し、日本列島では、およそ一万六五〇〇年前にさかのぼる土器が発見され、現在のところ世界最古とされている。日本海には暖流が流れ込んで、列島は温帯の落葉広葉樹林(ナラ・ブナなど)におおわれていた。ことに東日本は、豊かな木の実や山芋などのほかに、サケ、マスなどの川魚にも恵まれていた。カツオ、マダイ、スズキといった海の幸、イノシシ、シカ、マガモ、キジといった山の幸、それに豊富な貝類。このように比較的、食料に恵まれていたので、日本列島の住人は、すぐには大規模な農耕を開始する必要がなかった。農耕が「進歩」のメルクマールではなかったことになる。
 三内丸山遺跡が約五八〇〇~四〇〇〇年前に形成されたが、それは、世界の四大文明と同じ時期であり、インダス文明や、中国の殷が成立するより早いのである。さまざまな遺跡から、日本のこの時代の文明がいかなる内容をもっていたか、再検討しておこう。
 日本列島の東部の最西に位置する石川県のチカモリ遺跡でも、三内丸山と同じ時期に同様の樹木文化があったことがわかった。掘立柱の環状木柱列(ウッドサークル)があり、総計三四七本の巨木のクリで円を措いていたのである。直径五〇センチ以上の二十三本の柱が円形に規則ただしく並べて立てられ、円形機構、正方形機構、長方形機構のタイプが組み合わされていたのである。
 真脇遺跡は、約六〇〇〇~二〇〇〇年前まで、採集・漁を営む集落があって、同じ感情木柱列があり、長さ二.五メートルもある巨大な彫刻柱、土偶、土面などが発掘されている。この遺跡からはイルカの骨が大量に発掘され、骨には石器の銛や槍が残っており、その捕獲の方法の技術が進んでいたことがわかる。食用に供されていただけでなく、骨や油も利用されていたという。船の擢のヤチダモ材が出土しており、船を使用して各地との交流が行われていたらしい。また、東北地方からの土器や玉が出土している。このような巨木を使った建物や構築物は、巨木文化と言って良く、日本海沿岸から中央高地にも多く認められるが、三内丸山をはじめ、全国に及んでいたとみられる。
 宮城県の山王遺跡で発掘された織物は縄文晩期、前1千年を上限とするとされ、新潟県堂平遺跡で発見された織物は、縄文中期、前3千年~2千年のものではないかと。つまり、世界最古の織物は日本で作られていた。これまで、世界最古とされていたのは、殷墟で発見された前1千6百年頃とされていた。
 秋田の大場環状列石には日時計の形をした組石があり、この日時計中心部から環状列石中心部を見た方向が夏至の日に太陽が沈む方向になる。
 この環状遺跡は東北、北海道だけではなく、関東地方にも見られ、群馬県の天神原遺跡には、縄文後期の環状列石がある。また、野村遺跡にも、冬至に妙義山に太陽が落ちるように見えるように配置されている。東京都町田市の中期の田端遺跡にもやはりストーン・サークルが見られる。この遺跡の石柱を結んだ線は冬至に太陽が沈む方向に一致している。さらに静岡県富士宮市の千居遺跡は、富士の形をした配石で有名であるが、同時に環状列石がなされており、山梨県の牛石遺跡の環状列石と共に、富士周辺の祭祀遺跡として注目されている。ここにも、太陽信仰と山岳信仰との結合が見られ、縄文時代の祭祀が生活の重要な部分を占めていたことがわかる。こうした遺跡は、『記紀』が示すように、太陽信仰、自然信仰を明らかにしている。(*サタン・ダビデの霊言により、最後の審判が日本で行われることに対し、ダビデの介入を避ける為に日本神道には明示的な教義を残さなかったと、天上界はメッセージされています。)
世界最古の巨石文化遺跡
 巨石文化遺跡について同様のことがいえる。たとえば、秋田県鹿角市の大場ストーンサークル。野中堂遺跡と万座遺跡と二つあるが、いずれも巨大な立石を中心にしてびっしりと円形状に石が敷き詰められている。その直径は四十~五十メートルに達するという巨大なものである。ただいえることは、それは前々からいわれてきたことであるが、四千年前どころか、少なくとも八千~一万年前に作られた可能性もあるということだ。それは、多くの考古学者によって確認されていることである。つまり、ストーンサークル群が、一万数千年前に爆発した十和田湖火山の灰の下に埋没していたということである。
 世界で最も有名な巨石文化遺跡であるストーンヘンジ(イギリス)でさえ、前二千八百~一千百年ころにかけて数次にわたって作られたものだろうといわれている。フランスのブルターニュにあるカルナックの列石もよく知られた巨石記念物であるが、製作年代はストーンヘンジとほぼ同じころと見られている。
 それらと比較すれば、大場ストーンサークルがいかに古く、先進的な文化記念物であるか、一目瞭然であろう。一人の民間人でありながら、ストーンサークルの発見から発掘保存のために生涯を費やした諏訪富多氏(故人)がかつて、「大揚ストーンサークル一帯には、はるか古代に壮大な神殿や祭礼所が築かれ、非常に高度な文明国家が存在したのだろう」と大胆に推理したことがあった。
 その大場ストーンサークルは、縄文晩期の古代遺跡として知られる亀ケ岡文化遺跡(青森児津軽郡)と近いことから、なんらかの形で影響を与えたことも考えられる。亀ケ岡から出土した遮光券土偶と似た土器が発見されているからである。もしかすると、『東日流外三郡志』で語られているアラバキ王国に連なっていくものかもしれない。
 出土人骨の状態が確認できる国内二四二の遺跡から、成人の人骨一二七五体のデータを収集し、十三遺跡の二十三体を調べると、何らかの武器の攻撃を受けた痕跡があるものは、一.八パーセントにすぎず、子供も含めると〇.九パーセントにまで下がるという結果だった。岡山県の津雲貝塚など五遺跡、一一三体のうち、船元遺跡の一体だけ、胸部に石鏃が刺さっていたという。これは欧米などのデータを比べると五分の一以下の、一パーセント台だったと算出している。
 縄文文明には、エジプトのような文字記録、建築物はないが、だいたい同じ時期に、日本全体がひとつの縄文文明地域として存在し、三内丸山のような組織された集落が、東日本や九州南部を中心に 全国に広がってていた。エジプト文明はナイル川周辺の国、日本は海に取り囲まれた島国として、同時代に東西で存在していたということが出来るのである。後に書かれた『記紀』で、イザナギ、イザナミが国生みをしたと書かれた時、こうした縄文時代の日本が想定されていただろうし、イザナミが死に、イザナギが単独となった縄文時代には、あらたに弥生時代が生まれていくと想定されていただろう。
 この日本の縄文時代の状況から、単なる物質的な交換ネットワークだけでなく、集落と集落、地方と地方を結ぶ航海術を持ち、先祖を崇拝し儀礼に篤い、ひとつの祭祀国家が想定されるのである。それが、ムー文明を引き継いだ「日高国=高天原」の存在である。まさに西のエジプトの国と対応する、東の祭祀国として浮かび上がるのである
 繰り返し述べたように、稲作は紀元三〇〇年頃、大陸からもたらされ、弥生時代で形成するようになった、という戦後からの定説はもはや消えたのである。紀元前三三四年に楚に滅ぼされた越の人々が対馬海流に乗って九州に渡来し水田による稲作をもたらした、という推測が、かつてはもっともらしく司馬遼太郎らによって言われたが、この論はもはや否定されたのである。このことは保存された人骨からも追認されている(糸島半島の新町遺跡で大陸由来といわれた史石墓の下から出てきた人骨は、大陸系の弥生人と期待されたが、在来型の縄文人の特徴をもっていたという。
 この菜畑遺跡から稲だけではなく、粟、蕎麦、大豆、麦などの穀物類、そしてメロン、ゴボウ、粟、桃などの果実、根菜類などが栽培されていたことが判明している。中でもメロンが縄文後期に栽培されていたことから、いかにこの頃の人々が今日と似たような食生活を営んでいたかがわかる。平成元年の発掘では、数頭の豚の骨も出土し、家畜化されていたことも裏付けられた。
 また菜畑遺跡からは、炭化米とともに石包丁、クワ、鎌などの農具、甕、壷、スプーン、フォークなどの食器類が出てきている。それらが必ずしも大陸からの帰化人ではなく、土着の縄文人たちが作った可能性が強くなった。日本の学者の多くは、常に新しいものは外来から移入したとする固定観念があるが、外からの刺激はあったにせよ、自ら作り出したと考えるべきなのである。
 ところで、北九州が大陸に近いため、朝鮮半島を経由して、日本に稲作文化がやって来たという定説が崩れたのなら、一体日本の稲作はどのように形成されたのであろう。興味深いのは、鹿児島県にある二万四〇〇〇年前から存在している耳取遺跡、一万五〇〇〇年前の仁田尾遺跡から、年代不詳であるが稲のプラントオパールが発見されていることである。つまりすでに旧石器時代から、南九州にはコメが南から伝えられていた、ということである。
 たしかに、東アジアの稲は、七〇〇〇年前頃から、揚子江中、下流域で栽培されてきた。中国の河拇渡遺跡から発見された炭化米のDNA分析を行ったところ、その全てがジャポニカ種であり、そこに熱帯ジャポニカ種(陸稲)もあったという。
 しかし日本の水稲は、温帯ジャポニカである。温帯ジャポニカを栽培するのは東南アジアである。つまり中国から伝播したのではなく、人々が、東南アジアから九州南部にたどりつき、そこから日本北部に縄文時代に広まったということになる(*もしくは、前5千年頃のアカホヤの大爆発で、縄文人が稲作を伝搬しか多能性もある)。また、縄文晩期から弥生期にかけての大型遺跡である、和泉市の池上曾根遺跡や、奈良県の唐古・鍵遺跡の炭化米がb変形版の稲であり、この米も朝鮮半島からきたものではないことが判明した。
  ◆縄文時代の実情
 縄文時代は遙か遡って、一万六千年前頃から始まり、土器の使用の古さだけでなく、三内丸山を初めとする多くの村落遺跡の発掘は、近代の歴史家がもっていた欧米型「文化進化論」の考え方自体を覆す事態に立ち至ったと考えられる。
 縄文時代だけのことではない。花粉の化石の分析などから、日本では、氷河時代にも厚い氷におおわれることなく、動植物が絶滅せず繁殖し続けていたことが理解されてきている。豊かな食料を求めて、人々は大陸から渡ってきたのだった。つまり、大陸に住むことが出来ないので、日本までやって来たのである。ここにすでに、大陸より早い、歴史の展開を、日本に考えることが出来るようになった。(*ムーの王家が移住してきた)
 縄文人はおしゃれで、髪を結い上げ、アクセサリーを着け、赤や黒で彩られた衣服を着ていた。技術レベルは高く、漆器、土器、織物まで作っていた。聖なる広場を中心に計画的に造られた都市があり、人口は五〇〇人を超えたと考えられている。ヒスイや黒曜石、食糧の交換ネットワークがあり、発達した航海術によって日本海や太平洋を往還していた。その行動域は大陸にまで及んでいた。先祖を崇拝し儀礼に篤く、魂の再生を信じている。ヘビやクマなどの動物、大木、太陽、山や川や岩などの自然・精霊への信仰を持っていた
 すでに昭和四十七年(一九七二)、福井県鳥浜遺跡で貝塚が発見され、縄文時代早期から前期まで、丸木舟から、弓、石斧柄、鉢、櫛などの木製品、絶や編み物などの繊維製品といった有機質の遺物が豊富に出土していたし、見事な漆器もあった。すでに色彩豊かな美的な感覚をもって土器を造っていたのである。栽培植物ではさらにこの遺跡だけでも、リョクトウ、ヒョウタン、エゴマなどの種子も発見された。
 昭和五十五年、縄文晩期の山梨県の金生遺跡からは、下顎の犬歯が除去されたイノシシが発掘され、飼育されていたことが判明した。北九州の菜畑遺跡では豚も飼育されていたのである。
 三内丸山遺跡では、縄文時代中期を中心に、竪穴住居五八〇棟、長さが一〇メートルを超える大型竪穴住居跡十棟、掘立柱建物跡一〇〇棟、子供の墓八〇〇基、大人の墓一〇〇基などが、それぞれ空間を異にしながら、同一遺跡で発見された。つまり集会場があり、墓地があり、人々が集い、死者と共存する部落があったことになる。
 とくに一九九四年に、直径一メートルに近いクリの木の柱の穴が六つ、一間×二間の間隔で、規則正しく並んでおり、そこには高さ二〇メートルの高層建築があったことが明らかになった。現在では物見櫓のような、粗末な組み方の塔のようなものが建っているが、実際の建造物もその目的も不明である(*出雲大社のような高層建造物で、上空からのランドマークだったり、香矢の格納庫だったのかもしれない)。さらに、大麦、栗、稗、豆、キビ、瓢箪、エゴマが栽培され、酒さえ造っていたことが明らかになった。五〇〇人以上の大集落を維持するためには、狩猟・採取だけでは維持できない。漁労も盛んであったことは、多くの魚やイルカの骨まで出土していることでもわかる。
 縄文早期、九五〇〇年前の鹿児島県の上野原遺跡(竪穴式住居が四十六軒発見された)が、すでに三内丸山に迫る規模の村を形成していることから、各地でこのような地域があったのだ。火焔土器は日本の各地、とくに東日本の全域、中部、東北から発掘されている。その形態からは、火焔だけではなく、漁労・狩猟・採集の盛んな地帯として、水、渦、蛇、縄、雲などの形象に接することが多い縄文人たちから生まれたということを示しているのであろう。つまり、東日本に多いことは、まさに「日高国」の太陽信仰の祭祀国にふさわしいということを示している。

 ◇ ◇ 鹿児島の諏訪神社と隼人、熊襲たち

 岬と海をよく知ったサルタヒコによって、鹿島から鹿児島に天孫降臨した一行は、一旦、鹿児島に居住した。天孫降臨が行われた鹿児島県下には、別名南方神社といわれる諏訪神社が不思議と多い。鹿児島では諏訪神社にこれまでその意味が問われなかった。現在も一一〇社あり、県内の神社の総数、一三二社の約一〇パーセントにも及ぶ。諏訪神社がこれほど多い地域は、全国をみてもないと言って良い。鹿児島では諏訪に継ぐのは、菅原、熊野、稲荷などで全国的に最も多い八幡神社は五位以下である。
 鹿島-鹿児島の天孫降臨説で、その疑問が氷解する。
 というのも諏訪神社が祀る建御名方神は、大国主神の息子であり、まさに鹿島神宮の祭神・建御雷神、香取神宮の祭神・建布津神によって、降参させられ、諏訪まで逃げた、その神であるからである。タケミカズチに力比べで決着をつけたいと勝負を申し出て、それに敗れる神である。当然武神であり、鹿児島に「天孫降臨」した神々が、その降参させた諏訪の武神たちを引き連れて来た、という経緯を予想させるのである。すでに諏訪という東国圏に入った建御名方神は、アマテラスの神々になっていたのである。
 鹿児島県姶良郡隼人町にある「天降り川」は、ここに船団がついたことを意味しよう。そこに海人が降りたのである。隼人の人々も、関東の海人の人々であり、九州の熊襲といわれる人々も、やはり熊野神社が多いのと関係し、関東から来た縄文・弥生人の縄文的な人々が、そこに定着したことを意味する、と解釈することができる。
 天津日高彦穂々出見尊(山幸彦)が海神宮に行く際に乗った舟が鹿児山で作れたという説があるのは興味深い。山幸彦の名前の中に「天津日高」とあり、日高国の出身であり、乗った舟が鹿児山で作られた、ということも、鹿島から舟に乗ってきたことを示唆しているように思える。

 ◆日本武尊
 『日本書紀』に書かれた景行天皇二十七年二月の条にある《東夷の中、日高見国あり、その国人、男女並に椎結(髪上げ)、身を文(もとろ)げて、人となり勇み梓(たけ)し。是をすべて蝦夷と言う。また、土地沃壌(こ)えて曝(ひろ)し。撃ちて取るべし》と書かれたときと異なる時代のことである。この時代では、すでに「東夷」の中の「日高見国」と考えられ、支配の対象となっていたのである。
 それが日本武尊が東征したときの常陸国となったのである。日本武専は九州を攻め、また関東、東北を征服しょうとしたといわれる伝説の英雄である。ところが『常陸国風土記』で注目されるのは黒坂命といわれる人物である。彼は、吉備武彦と大伴武日連とともに「日高見エビス(アイヌ)」を征伐したと書かれている。これは日本武尊のようにかならずしも単独の英雄的行為によるものではない。しかし黒坂命は、陸奥のエビスを平定して常陸国の多歌(多珂)郡まで帰還したとき、角枯山というところで病死し、そこから「日高見国」まで進む霊枢車の幡は、雲の如く飛び、虹のごとく照りかがやいたと書かれている。これは『日本書紀』の景行紀において、日本武尊が都への帰還途中の伊勢国での病死し、白鳥となって遊幸するのと大変似ている。また『日本書紀』の景行紀の「日高見国」 の景観は、『常陸国風土記』の常陸国の景観とよく似ており、引き写したものとさえ言える。
 『書紀』の景行天皇が『風土記』では、倭武天皇として語り伝えられているのを見れば、『常陸国風土記』の原型をなした古伝承こそは、景行紀日高見国・同蝦夷記事の原型だということは、ほぼ間違いない。つまり『書紀』も『風土記』も、同じソースから取ってそれぞれ違うように述べたものであると言うことになる。常陸におけるヤマトタケルの物語は、黒坂命物語と同じであり、タケルは天皇として巡幸したと書かれているのは、『日本書紀』における父の天皇の役割となっているのである。黒坂命が常陸、「日高見国」を統治し、エビス討伐に成功したにも関わらず、その帰途、帰らぬ人となったという筋書きが、ヤマトタケルの行方と合致することは大変興味深い。その黒坂命が本国とするのが「日高見国」である。
 『日本書紀』の「景行紀」は、「日高見国」がいかにも陸奥国のことであるかのような書き方をしているが、これは時代が下って、「日高見国」が陸奥国方面に移ってしまった後のことであって、原型の黒坂命の伝説においては、「日高見国」は常陸国を含む毛野川(現在の鬼怒川)一帯の広域のことを指すと考えられる。
 
 ◆縄文人の方が古代から生きている
 日本人だけが持つYAP遺伝子。日本人のY遺伝子は、yap型に属する。古代イスラエル人(現イスラエル国の住民では無い)、チベット人のみが持つと云われている。そのルーツは縄文人です。
 イスラエル王国よりも、縄文王国の方が年代として古い。シュメル人より古い、ノアの方舟よりも古い。二ビル星人が地球に飛来するよりも古いのです。
 尚、yap型遺伝子は、y遺伝子の中でも古い系統の一つ。しかも、ロズウェルで収容した異星人もyap型だったとか … 。
 想像が膨らみます♪
 不思議ではないですか?
 二ビル星人の精子と地上の猿人の卵子から黒い頭の人が想像され、そのY遺伝子が縄文人と同じとは … これいかに?
 それともう一つ、人類の中で、唯一日本人だけが「海苔」を消化できる。韓国海苔とか有るがそれは加工して消化しやすくした物だそうです。
 古代イスラエル人が縄文時代の日本に渡来する時、デカン高原から、海のシルクロード経由で来たのがほぼ分っている。そうとうに苦労して縄文日本に渡来したのだろう。その過程で食料が無くて、海苔を食べていたのかも … ??
 縄文日本は食糧事情が良く、戦争も無かった。同じYapを持つイスラエル人が兄の国縄文に渡来する時、飢餓遺伝子を持ったのだとすれば、体質が違ってきます。
 飢餓遺伝子を持つ者は、少ない食料でも生き抜ける体質で、縄文人より小柄で、消費エネルギーが少なく、太りやすいと思います。顔つきも体型も変わったことでしょう。当時の縄文人の人口分布から、九州の一部、愛知の一部、一番多いのは関東東北に掛けてです。渡来イスラエル人も海のシルクロード経由で、九州や関東に来たことでしょう。シュメル人もですが …
 大陸から大量に移住してきて稲作を伝えたという弥生人は、存在しないことが分っています。稲作は縄文から始まっており、韓国や大陸とは別種の稲です。弥生時代には大陸で戦乱があり、武装難民が渡来し、大乱が起こっています。この大乱により、縄文特有のおしゃれで余裕のある風俗が、弥生のような簡素で装飾の殆ど無い風俗に変わらざる得なかった。
 さて、イスラエル人と縄文人が同じyapを持つのは、約1万年ほど前に沈没したムーやアトランティス王家と、二ビル星の王家、縄文人の血統が同じだとすれば … 。そして、縄文人のシンボルが「勾玉」、出雲王国のシンボルがスサノウ(エフライム)の「剱」、ユダと神官のシンボルが「鏡」」であり、日本の三種の神器は三王朝の合体だと云うことでしょう。つまり、造化三神は、天御中主神は「ノア」、高御産巣日神は「高日見国(中天の太陽神ミカエル)の王」、神産巣日神は「出雲系の王」だと、推測したくなります。(*話は逸れますが、先生を通じてミカエル様が大黒天がご自身だとおっしゃっていました。つまり、船に乗って日本に渡来する七福神は、七大天使がヤハウエ様「男神・天照大神」と共に日本に渡来したという意味です。)

補足:卑弥呼=ヘフジバ⇒「日高見国」へ

 卑弥呼は、日巫女のことで、名前ではありません。しかも、中国人が蔑称として漢字を当てはめているので、尚更、誰なのか不明です。従って、卑弥呼神社は存在せず、風土記にも記述が無いのも納得です。
 ところが、卑弥呼とそっくりの女王と弟の物語があるのです。
 ユダ王国が滅ぶ直前、予言者イザヤの長女ヘフジバ(=ヤハウエ=太陽神の巫女 … 当時の太陽神はアメンラー・マルドウク様)と、弟二人が、日本に出立したのだそうです。イスラエルの王位継承は日本の皇室と同じで男系男子ですから、姉は皇位を弟たちが譲ろうとしたが、結局、姉が女王=大神官として導いたそうです。この物語は、卑弥呼の物語とも、姉のアマテラス(日巫女)と弟二人の物語と共通しています。
 そして、ヘフジバ姉弟は海のシルクロードを通じて、関東の「高日見国」に渡来し移住したようなのです。
 イスラエルは約四百年もの間、エジプトに滞在していたので、母国語を忘れかけ、風習もエジプトに近くなってしまったそうです。
 エジプトの太陽神として、朝の太陽神、中天の太陽神、日没の太陽神、隠れた太陽神(アメン・ラー)に区分されています。
 「日高」は中天の太陽のことだとすれば、しかも、「草枕」「見返る」はミカエル様のことですから、「見」もおそらく中天の太陽神ミカエル様のことでしょう。
 しかも、ミカエル様を主神とする「日高見国」の前が「日見国」だとすれば、「ヒミコ」が含まれています。これらの推測から、卑弥呼の物語、ヘフジバ兄弟の物語は、縄文人とイスラエルとの合体王朝の「日高見国」に関する神話だと推測されます。
 
 ◆「倭」の語源について … Netより
 中国の歴史書に現われる他民族の名称は、原則的に、彼ら自身の言語による自称に基づくものであって、その音を漢字で表記したものである。
 従って「倭」の漢字(中国語)の意味をあれこれ詮索しても、その名称の起源を探る上では、無意味だと考えます。もちろん、中国は「文の国」ですから、民族あるいは国家を表わす漢字に、「中国人の評価」が加味される事は十分考えられます。
 例えば、匈奴との関係が友好的な時には、「恭奴」と表記が変わったり、古代モンゴル人の「柔然」が時には「蠕蠕」というおぞましい漢字で書かれたりしました。しかし、そのような場合でも、発音を変えるような変更は行われなかったワケですから、表記漢字の意味から民族名の語源を推測するという考え方が誤りであるのは明らかです。
 上に述べたような原則から、明らかに、
  1. 「倭」は wa の表音文字である。
  2. wa は、日本人の自称によるもの、つまり古代日本語であることになります。
 「倭 (wa)」とは、「我ら」を意味する、我々日本人の言葉でした。中国人がつけた、「従順な」でも「背の低い」でもない、「我ら」という古代日本語です
 「倭国」は「われわれの国」という意味です。従って、「和風」とは「わたしたちの気風・風習・あり方」であり、「和食」は「わたしたちの食べもの」という意味です。
 
 ◆『旧唐書 倭国・日本伝
 驚くべき事に、「倭」は十世紀前半に出された中国の『旧唐書 倭国・日本伝』によると、《日本国は、倭国の別種なり》《其の国、日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。 … 或はいう、日本は旧小国、倭国の地を併せんたりと》(「旧唐書 倭国・日本伝」『倭国伝』藤堂明保他全訳注、講談社学術文庫より引用)と記されている。ここでは日本が日辺、すなわち太陽が上る東の辺にあって、そこから日本という国名がついた、或いは、日本が「日高見国」という旧小国で会ったが、倭国、すなわち大和国が支配する土地を併合した、と書いているのである。これは関東・東北にあった「日高見国」が倭国を併合した、という意味で、高天原系が出雲系から国を譲らせたという国譲り神話と符合する。同時に実際の歴史の中で東国が西国を併合した、という事実があったことを、中国の日本通の歴史家が記した、と言うことになる。
 加えて、「倭国は古の倭奴国なり」という記述を見れば、前漢王朝から「漢倭奴国王」と刻まれた金印を下賜された国の子孫であることがわかる。そうなると、倭国は北九州方面に勢力を張っていた王国の子孫がつくった国ということになる。
 十一世紀半ばの『新唐書 日本伝』に、次のような記述がある。
 国、日出ずる所に近し。以て名となす。或はいう、日本は乃ち小国、倭のあわす所となる。故にその号を冒すと。
 このように十、十一世紀の中国の資料では、もともと日本は二つに分かれていたこと、「小国日本」という存在があったこと、そこと倭の地方を合わせて「日本」と呼ぶことを述べている。それが、『祝詞』の「大倭日高見国」という言葉に対応するのである。
 
 ◆中臣について
 皇室の祭儀氏族は、忌部、泰、藤原と変わってきた。もっとも、泰一族は表面からは消えて、藤原一族と合体してしまいます。
 この藤原一族が、中臣氏です。
 中臣鎌足が藤原氏の始祖です。大化の改新の中心人物で、最後まで天智天皇に尽くした人物です。そして、日本書紀の編纂は藤原不比等です。
 一説には、大化の改新はモーセの律法へ戻ったとされ、日本式律令制を打ち立てています。天皇の下に左大臣と右大臣がいて、格としては、左大臣が右大臣より上です。
 天皇は左大臣にて祭儀を執り行い、右大臣を任命して政治を任せていた。しかも、班田収授法(世界初の社会主義 … 土地はすべて皇室のもの)、豪族には官位を授けた。
 この中臣=藤原氏の出自が明確ではありません。大化の改新がモーセの律法に戻ることであれば、彼は朝鮮半島からの渡来人ではないと思います。事実、大化の改新の律法は、モーセの律法にそっくりです。
 一説には「藤原」「富士原」だとか、であれば「日高見国」の中心人物だった可能性があります。
 つまり、白村江の戦いに敗れ、日本が唐の支配下に置かれ、三種の神器の種族(出雲、日高見国、大和)が再団結しようとしたのでしょう。
 尚、記紀には記述がありませんが、九州王朝も、日高見国も存在していて、大和国、日本国の建国に役割を果たしています。
 おそらく、九州王朝の出自である天武天皇は、大和とを日本に改め、髪型風俗までをも改めた。例えば、男子はちょんまげにしましたが、それまでの軍人は埴輪にその姿が残っていますが、鎧兜の姿はちょんまげでなければなりません。つまり、白村江の戦いに敗れ、富国強兵の体制を整えたと言うことです。
 この富国強兵の体制は、明治維新にそっくりです!
 というか、明治維新は第二の大化の改新というべきでしょう。
 おそらく、この富国強兵体制の軍事は、戦闘を繰り返してきた中東などからの渡来人の集まるところである兄弟国である九州王朝や日高見国であったことでしょう。ちなみに、大分県国東半島には、日本固有のたたら製鉄跡がある。また、約3500年前、稲作と産鉄の技術を持った民がタルシシ船で渡来している。だからこそ、日高見国の王は、一旦、九州王中の地に立ち、東征をおこなったのです。



メⅣ.ラファエル大王補佐:悪魔の住む左翼団体と集団自殺(1998/01/05)

 本メッセージを要約すると「天の御意志、御計画は、罪深き者を裁き、切り捨てるのではなく、心正しき者が片手の指ほどもあれば、悠久の昔から救いを求める者に救いの手を伸べて来られた。生きたいと望む者、生かせる者は生かしてこられた。それが大宇宙、大自然から生まれた森羅万象、生きとし生けるものの、次世代に引き継ぐべき義務でもあり、責任であり、神なる天も又、その天を創出せし大宇宙に、等しくその責務を負う者であるからです。
 しかるに悪魔の住む左翼団体の操りに身を任せ、 … それは悪魔の操りに心をゆだね、思いを明け渡した、生命を持たぬ操り人形の存在でしかありません。現在の世の中、何処を見ても、そのような空虚な操り人形の世界しかなく、凡そ至高の神の御意志や御計画とは正反対の者しか見出せない
  … 即ち大宇宙、大自然の総てに連なる子孫の“不老、不死”の願いが叶わぬと諦め、別の形に姿を変えても、その意志や形態の存続を願う心が、時には神に禁じられた“自ずからを殺す”行為に転じてしまう。あろうことか、その天を仲介する千乃裕子様、レイナ・エル大王妃様を一介の人間と見做し、己れの醜い想念を知らず、一に正当化して、己が求めるままに悪魔の操りの如くに、左翼ゲリラの攻撃あれば、千乃様のみに耳目をそば立て、種々千乃様を操ろうとする。」と、言うことだと思います。
 それは、左翼・倒日メディアや団体による情報統制と、連日繰り出されるフェイクニュースにより、現政権と日本の世相と歴史を否定し、何処にも希望を見いだせなくなり、生命存続という本能が高揚してそのエネルギーの行き場が封じられてしまうと、ついには集団自殺現象として、日本国民を守ろうとしている智恵のある愛国者を攻撃してしまう。それが、お花畑の日本人による民主党政権(=左翼過激派政権)の樹立であり、安倍内閣への執拗なフェイクニュース攻撃による内閣支持率の低下として現れているのです。日本民族の存続の為には、安倍政権を潰そうとする悪魔の計略を見抜き、世に明らかにして中高年層のお花畑の人々に伝えることが必要なのです。

 ◇ ◇ ◇ ◇ 

 ここ数年“末法の世”と言われ、特にキリスト教以外の宗教関係の人々は、声を大にしてそう教え、信者を導こうとしています。
 米国などでは新興宗教の教祖として信者を集め、“世の終わりは間近”として、集団自殺する者達も、キリスト教者としては違法ながら、ヒッピーの出現、エイズ発生、一般人の道義と倫理の乱れ、エイズに羅患、などの現象の経緯と並行して現れ、世の耳目を集めました。
 “自殺”という、キリスト教信者に禁じられている行為は、マクロの世界に於て、知能を持つ生物に関しては、生命の維持、種の保存を外圧により断念せざるを得ない場合の必然の結果として現れる生命、生体エネルギーの増大と反転して自己に向う破減の行為ですが、無生物についても、同じく、宇宙誕生の時以来、ミクロの世界に於て、その構成因子である粒子--電気的な“光子”と呼ばれるものや、そうでない“中性子”と呼ばれるもの。大小の違いがあるもの--の総ての意志であり、生成、死滅をくり返しつつ、形を変えながらも存続する形態であり、無意志の意志とも見える事象の発生、反復、分岐、消滅の連鎖反応であり、永遠性であり、輪廻転生の相でもあります。
 即ち大宇宙、大自然の総てに連なる子孫の“不老、不死”の願いが叶わぬと諦め、別の形に姿を変えても、その意志や形態の存続を願う心が、時には神に禁じられた“自ずからを殺す”行為に転じてしまう事もある--という証でしょう。
 神がそれを禁じられるのは、苦しみを耐え、生きて、生き延びた者が善なる意志とエネルギーにより、悪の世界に住む者が、社会を(大宇宙、大自然を含め)真に滅し去ろうとするのを阻み、善なる者を残し、神の恵みを受ける者を増やし、世界を正しい方向へと転換を計る御計画があるからです〔天の者である私が、“神”と言うのは、宇宙を司どる至高神、エル・ランティ(ヤハウェ・エホバ)様を意味します〕。
 その聖なる御意志の実現を、例え啓蒙団体であれ、“正法”という名の下に、神の下に集い来たったあなた方が、安息日(金曜から日曜日)に“主を思わず”、悪魔の住む左翼団体の操りに身を任せ、“人の事を思い、肉の事を思う”日々を何とも思わず、あまつさえ、それが私共天の者と千乃裕子大王妃、レイナ・エル様からのものと勘違いし、あなた方の想念を自ずから制すのではなく、千乃様に打つけて、自ずからをストレスから解放するなどは言語道断、許されまじき考えであり、行ないです。
 それは悪魔の操りに心をゆだね、思いを明け渡した、生命を持たぬ操り人形の存在でしかありません。現在の世の中、何処を見ても、そのような空虚な操り人形の世界しかなく、凡そ至高の神の御意志や御計画とは正反対の者しか見出せない。情けなき限りです。
 しかし、天の御意志、御計画は、罪深き者を裁き、切り捨てるのではなく、心正しき者が片手の指ほどもあれば、悠久の昔から救いを求める者に救いの手を伸べて来られた。生きたいと望む者、生かせる者は生かしてこられた。
 幼な子と同じ知能の動物や鳥達、虫や魚達、貝類、そしてその祖や源を共有し、分かつ草花や樹木、海草や原生動物、ミトコンドリア、DNA、RNA遺伝子に至る迄、聖なる愛を以て存続の御努力を為して来られた。それが大宇宙、大自然から生まれた森羅万象、生きとし生けるものの、次世代に引き継ぐべき義務でもあり、責任であり、神なる天も又、その天を創出せし大宇宙に、等しくその責務を負う者であるからです。
 大宇宙、大自然を知り、天と神の御聖務を知る者、その大いなる愛を一たび学ぶ者は、悪魔の意志と惑わしに操られ、聖なる天とその仲介者(預言者)に背くならば、行く末は死と暗黒の世界であることは当然の帰結でしょう。正しい天を抱き、その名の下に結集する者は、一致団結し、悪の勢力の排除に励まねばならぬのに、あろうことか、その天を仲介する千乃裕子様、レイナ・エル大王妃様を一介の人間と見做し、己れの醜い想念を知らず、一に正当化して、己が求めるままに悪魔の操りの如くに、左翼ゲリラの攻撃あれば、千乃様のみに耳目をそば立て、種々千乃様を操ろうとする。
 キャラバン隊員やボランティアも含め、そこに去る年と変らず、来る年もキャラバン隊員やボランティアの大半に残されたものは、愚かの一語に尽きる、醜い人の思い、肉の思いのみです。そこには神を敬う心さえない、情なきことです。
  (一九九八年一月五日 口述筆記 千乃裕子)


メⅣ.ミカエル大王:似非正法者は天の至宝を路傍の石と蔑む(1998/01/05-06)

 左翼・倒日メディアや野党による、安倍内閣潰しの現状に、このメッセージは当てはまると思います。それは、“悪魔の勢力による悪の惑わし”は、左翼・倒日メディアや野党や学者言論界による絶え間なく垂れ流され続けているフェイクニュースです。このフェイクニュースは非殺傷兵器と同じ害を及ぼします。毎日少しずつこれを無批判に聞き続ければ、いつの間にか反安倍・倒閣へと誘導され、“罪なき者、善人や賢者を罪人とする”死に至る病に冒されてしまうのです。つまり、意識して善悪を咀嚼しなければ、悪に冒されてしまうということです。
 しかし、死に至る病に冒された者達=お花畑の人々が、路傍の石として否定し蔑むようになった善人・賢者たちを、決して天上界は見捨てられることがないこと、加えてお花畑の人々を含む悪魔の勢力に荷担する者達を厳しく裁かれることを、本メッセージは述べておられると思います。(2018/04/27 北)

 ◇ ◇ ◇ ◇

 人の愚かさや過ちについて寛容なラファエルが、いつもに似ず厳しい口調で新年の辞を述べるに終始したので、私ミカエルはもう少し判り易く、あなた方の誤てる思いと行ないについて説明しましょう。
 そして又、ラファエルの言う“悪魔の勢力による悪の惑わし”とは、現在キャラバンをこの数年来、攻撃し、迫害し続ける左翼ゲリラと、旧ソ連の残党から譲渡の、スカラー波最先端科学兵器は、幻影を生み出す、電磁波がらみの派生波であり、“時間を掛けて疾病から死に至らしめる”その攻撃に理性を失い、主に攻撃のターゲットとなる私の妻、レイナ・エル大王妃、千乃裕子をその惑わしの源と見做し、反感、反抗をくり返す、キャラバン・メンバーや、訪れる正法ボランティアの愚かさを断じて嘆いているのです。“正法者を任ずる”愚かしき彼等は、自らの情けなき思いと行為を悔やみ、天に許しと救いを求めるのではなく、私の妻と対等であり、反って私の妻が彼等の神聖なる心の領域を惑わし、汚す者、即ち実体なき、キャラバン隊員やボランティアの観念の産物でありながら、その言葉のみを心中にもてあそび、私の妻があたかも“神殿娼婦”の如き扱いをする。
 私も同じく、天王として、千乃裕子の天なる夫として、その許し難き思いを抱く、不埒で救い難き彼等の心の在り方を強く糾弾致します。
 何故ならば、総ては悪なる左翼ゲリラの想念の伝達と、その個人兵器、スカラー兵器により生じる固定観念と反復。その惑わしにより、想念に拡大する自らの持続するストレスと、肉の思いであり、私の妻に対し、彼等個人としての生命力とその存続への意志を歪める存在、危うくする存在として反発する神経症的な、非理性的な感情の暴発でもあるのです。
 このスカラー波兵器は、電磁波兵器でありながら、電子、陽子を分離させ、光子が結合して、無害になる以前の、磁性をむき出しにした状態にして、そのビームを用い、攻撃するものであり、人の想念(前頭葉)に影響を与え、大脳細胞の活動を不活性化し、次いで脳幹に伝わり、自律神経系を損なわせる効力を持ち、走行中にサブリミナルのビーム伝達による(事故を目論み)幻聴、幻覚を生じさせ、身体細胞や脊椎の造血能力を阻害し、血中ヘモグロビンの水素と酸素や金属分子の結合を阻み、低酸素血症にして生体の免疫力を低下させる。その結果、抵抗力の弱い老人や乳幼児が先ず疾病に雁思し、死に至る。次に攻撃期間の長短、生体の疲労度により、成人男女も、循環器系の障害を起こし、エイズのみならず、病原体ウイルスの活躍を許して、細胞生成、増殖時に奇形化し、ガンや白血病なども発症する。全般に健康体を病気に追いやり、甚だしい場合には死に追いやる。“非殺戮兵器”などと言いつつ、その美名に隠れての最も卑劣で陰険な攻撃手段であり、毒薬を少量ずつ飲ませて増量し、遂には毒殺すると同じ効果を持つビーム兵器なのです
 言う迄もなく、千乃裕子には集中して攻撃が行われておりますが、隊員やボランティアの個々にもビームは来るのであり、その強弱は、一に防御の度合いによるもの。それを一部の愚かな隊員やボランティアは、千乃裕子さえ牽制しておけば、ビームは阻止出来る。自分達に波及するものは千乃裕子からのもののみであり、それ以外にはない、と思い込む者多く、彼等が等しく私達天を無視し、その努力を無にして千乃裕子に屈辱的な生活を強いる結果となるのです。
 この悪質無二の犯罪を無視し、軽んじて、防御に協力するどころか、反って手抜きをして、少しでも、ビームが千乃裕子に多く届くよう計る隊員も居り、その想念を煽る左翼ゲリラ車の攻撃が、連日連夜背後に在るのです。ゲリラ車は、時には目の前を走り抜け、前後からのビーム攻撃を持続する。それも隊員の殆どが私の妻を警戒し、妻の存在しない自律神経失調が総ての原因でもあるかの如き言動に走る時、ゲリラは側を走り抜ける。陽動作戦は遠距離からの集中攻撃であり、側面から走り抜ける。あるいは一定の距離を置いて、前後いずれかからその集中波に加えて種々変化に富む攻撃を仕掛ける。総てトランシーバーの盗聴と、S波によるモニターで精神科医政治委員が指導、その部下が数人のグループでメイン・コンピューターを用い、近辺の攻撃グループに逐一伝達、正確度を維持させ得るのです。
 現在ではキャラバンの走行中には、S波の吸収・放電率を高める形状のアンテナ様工作物が、戸外アートや新規の建築物にまで拡張されており、それ等にビームを届かせて、反射角も利用し、常にパルス波のリズムを保つよう千乃裕子に届かせ、その過程で、隊員にも届くようになつて居ります。隊員やネコ達も徐々に持病が増え、慢性の疾患が治せなくなっており、キャラバン全体の防御の工夫が不可欠なのです。
 千乃裕子は無論、隊員の一部の心ない言動により、防御を強化しても、完全ではなく、常にビームを浴びて居り、週に一度はゲリラの催眠光線で車の事故を誘発され、それが又隊員や千乃裕子への増幅したビーム効果となって現れる、のくり返しで劣悪な環境を強いられております。
 そして妻は一歩も車の外に出られない。出れば集中砲火を浴び、更に隊員の妄想体系が強化されるだけですから、あえて車から出るのは避けております。妻の姿は確かに外からは見えない。見えないからといって、勝手に想像をめぐらせ、妻の一挙手一投足に干渉することは、この状況下に道義的にも、正義が天の法を貫く“千乃正法”においても、許される事ではありません。その見地から天は隊員やボランティアの非人道的な行為を裁くのです。結果が千乃裕子を苦しめるのであれば、それは隊員などの思いやりが欠けるからであり、“千乃裕子を守るキャラバンではない”からです。
  (一九九八年一月五日 口述筆記 千乃裕子)

追記
 メッセージ本文で時間の残り少なく、重要な項目を書きそびれました。
 それは前記のスカラー波兵器の特徴として挙げた中に“自律神経系を損なう”と書きましたが、それについてはグレン・レイン博士、大橋正雄氏も実験を行い、述べております。各人の症状を聞くに及んで、キャラバン隊員、ボランティア、正法者のみならず、無自覚に攻撃を受ける外部の人物にもその症状が現れ、S波攻撃を受けていることが判ります。
 只、その法則が当てはまらないのは、一人私の妻、千乃裕子のみで、自律神経失調症状を来たらせない為に、天の霊が二人で合体し、エネルギーを与えているのです。S波攻撃や防御シールドの不備などから侵入するS波ビームは確かに千乃裕子を襲い、多種の攻撃を加えます。しかし、それはあくまで外部に居る者(隊員やボランティア)に妄想を抱かせ、キャラバンから逃げ出し、正法から離反させる為の計画的な攻撃であり、妻は攻撃を知覚しますが、それによって苛立ったり、生体反応が生じたりすることはありません。防御された車がS波を出来得る限り排除し、集中攻撃を受ける場合は、一度に一種類、一ケ所の攻撃であり、大脳に加えられるサブリミナルなマインド・コントロールと強要された映像や不快な言葉の反復も同様で、“人為的なもの”であると本人さえ気付くような内容です。只、車外の防御不備であり、車内の強化も役に立たないほどであれば、マインド・コントロールや催眠光線さえ、排除に時間が掛かります。
 それを隊員や妻の車のドライバーが感知するや、“又もや妻からのリビドーである”と錯覚し(待ち構えていて、その答えに飛び付き)、早速妻を牽制しに掛かる--左翼ゲリラの攻撃が心理誘導に終始するものであるから、すぐ様隊員やボランティアは“ノイローゼの輪の中に飛び込み、己れを守ろうとします”。彼等のゲリラに誘導された妄想と千乃裕子とは何の関わりもないのにです。
 しかし、千乃裕子は天の使命を受け、天に守られているのであり、合体やエネルギーの増幅は必要不可欠です。本人の心臓症状や、持病の悪化を最小限食い止める為にも、天の合体とエネルギー量の多さは必要なのです。それをゲリラが悪用し、隊員などの攻撃に利用しているのです。
 もういい加減に千乃裕子は左翼ゲリラの攻撃とは何の関わりもないことに気付いてもらいたいものです。“先生とは関係がない。これは先生ではない”とくり返し自分に言い聞かせるしか自らを守る方法はありません。それは有宮副社長がキャラバン参加者に教えたはずであり、本誌にも書いてあったと思います。実際に直接攻撃を受けない限り、想念は身体にも影響を及ぼし得るのであり、反面自己暗示も有効なのです。
 あなた方は千乃裕子を原因祝しますが、本人がゲリラの要求通りには動かず、考えもしないのに、それを罪ありと極め付けることは論外です。ましてや千乃裕子を自分達の妄想に従って裁き、非人道的に扱うなどは、以ての外です! 共産主義者ではなく、自由人としての正法者を自認し、神の国に受け入れられることを望むならば、“千乃裕子がゲリラの設定し、演出する低劣な人格しか有していない”などと思う、その習慣をこの場限りにおいて捨てなければ、神を見ることは叶わず、反って地獄の亡者となる運命しか残されておりません。
 それが神の国に受け入れられる際の条件であり、資格となるのです
 “罪なき者を罪ありとして裁く。” それは三次元社会の法律でさえ許されてはおりません。でなければ、この国の法と秩序は無いに等しいと申しましょう。正法者を自認する人々の法も有って無きが如きもの。天もかような人々は千乃裕子の死と共に切り捨てる用意があります。
 残念な事に、この度のメッセージ筆記には一際妨害S波ビーム多く、隊員の無自覚、非協力もあって(いつもながら)中々捗らずでした。妻のすぐ後ろを走る車とそのもう一台後ろの二台が数日前に事故をし、その為の影響がひどいのです。代わりの車がまだ届けられる状態ではなく、防御用具の不足もあります。
              ミカエル大王
   (一九九八年一月六日 口述筆記 千乃裕子)



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