2019年11月分 天上界からの伝言板


                      尚、※は北川による。


2019/11/10

  ◇ ◇ 香港モデルは中華帝国の希望になるか!?
 現在、香港では自由の戦士たちが、香港のみならず、台湾や日本の将来をも見つめながら、自由と民主主義を勝ち取ろうとしています。
 そのためには、彼らが情報発信できるネットを持つこと、レーガンを尊敬するトランプ大統領と米国の支援を得ることが、必須です。

使命感

 彼等は、偽善、詭弁、諂いを脱ぎ捨て、
  裸で銃口の前に立ち上がった。
 自由と弾圧を憎む魂の炎が、足元を照らしている。
  あぁ、我が戦士たちよ
     自由の戦士たちよ。

 君たちは、催涙弾に撃たれ、暴力により大地に叩きつけられた。
  ある者は銃に撃たれた。
  残された遺書がその真実を物語っている。

 それでも彼らは仲間と共に銃口の前に立ちふさがった、
  それは自由を愛し護るための魂の叫びであり、
  隣人へのメッセージだった。

 そのメッセージは米国民の良識を奮い立たせた。
  ついに、米国民は「香港人権法案」を通過させたのだ。
 そして、彼ら自由戦士の使命感に人類愛が始まりを告げる。

「正法者の使命感について」ガブリエル様

 人類の生存について、あるいは既成の思想、宗教、道徳について、何らかの危機感を抱いて生きている人は多いでしょう。明らさまに危機だから改心せよと宣告する宗教教祖も多いでしょうし、あなた方の中にもじっとしておれぬ思いの人もおりましょう。
 ですが、まだまだあなた方のように恵まれた環境の中に於いて、危機を語るのを見ると、井の中の蛙大海を知らず、とつぶやかざるを得ません。さあ人類の危機だ、私が何とかしなければ、と立ち上る教祖、それにつづく信者を見ると、平凡な生活の中で変った刺戟を求めて集まった、実際の救済とは縁もゆかりもない現実逃避の人間達だと思います。
 実際に危機が訪れようとしているのは事実ですが、天変地異が起り、人間の獣性のみがはびこるような本物の終末が訪れたとき、まず最初にいなくなるのは、信者の上にあぐらをかいている諸教祖でしょう。
 あなた方の中に、使命感を抱いている人が恐らく沢山いるでしょう。ですが、その使命感が天から来たか、それとも自己の現実に対する逃避か、見分けることが大切です。それによって、悪霊に操られ、結果的に天に反する言動に走ることも防げるからです。
 まず終末が来そうだ、人々は怯え、互いに疑いあっている。そのときあなたはどうするか。人々の前に立ち、指導者の如く振舞おうと思いますか。自分の先行きのことより、家族や友人、知人はどうしているだろうか。彼等は大丈夫だろうかと、とっさに考えますか。
 正しい使命感の芽生えは愛が始まりを告げます。前者の如き人は諸教祖の二番煎じであるに過ぎず、後者が天から来る使命感なのです。
 天の使命というのはとても地道で、現実に即応したものであり、決して夢の如きぼんやりしたものではないのです。そして誰もが持つべきものなのです。
 世を変えてゆくのは一人の偉大な万能のメシヤではなく、「こうしたい」と望む一人一人の全人類なのです。(一九八〇年十一月吉日)
 
渡邉哲也氏
 「香港人権法」が上下院を全会一致で通過(2019/11/20)。大統領が拒否権を発動しない限り、10日間で自動成立。拒否権を発動した場合、上下院の3分の2の議決で拒否権を無効化できる。今回の場合、全会一致ですので拒否権発動の可能性は低いが、拒否権を発動しても覆る可能性が高い。
門田氏
 米下院が香港人権民主法案を再可決。19日上院が全会一致で可決しており、トランプ氏は同法案に署名する見込み。報復明言の中国と真っ向衝突だ。ペロシ下院議長は本会議場で「米国は自由を愛する香港の人たちと連帯する」と宣言。日本のバカげた“桜国会”との違いに唸らされる。
令和の春氏
 「一国二制度」の元で香港に「十分な自治権」が有るかどうか再評価する法案。最終的に中国が無視すれば、国際金融市場からの中国排除となり、ドル取引が出来なくなって輸出入が出来なくなるので、中国は必死で内政干渉だと騒いでいる。
  
 この中で、日米は「日本を取り戻す」「自国ファースト」を機軸とする「希望の同盟」を基盤として、英・印・豪・台・仏と協力しながら、欧州勢力を引き込み、中露北の暴走を抑制する必要がある。これができるのは、「日本を取り戻す」を誓う日本人に支えられた安倍首相以外には無い。
 現在、香港では大まかに、自由の戦士たちに対して、同情的な市民、積極的に手を差し伸べようとする市民、そして中華帝国に服従する市民の三派に分かれています。尚、例え、自分は老い先が短いからと、中共支配下でもハイハイと服従していれば寿命を全うできるから、大人しくしておこうという甘い考えは捨てた方が良い
 自由の戦士たちの声が大きく、中共の弾圧が重なるほど、中共は自由への弾圧を抑制することは無いでしょう。そして、香港が二派に分かれ激論と暴力が繰り返され、彼ら香港の市民たちは自らが香港人だとの自覚に目覚める時が来る。こうして、香港人と自由の戦士が合体し、香港民族が産声を上げるのです。
 香港人の自由への希求と、民族の産声は、まずはチベット人とウイグル人の共感を呼び覚まし、固い連帯の元に行動するようになるに違いありません。
 この香港人・香港民族の国造りのモデルは、中華帝国支配下の個々の民族のみならず、世界中の民族への希望となるに違いありません。
 その時、中華帝国が易姓革命で滅びると、毎回繰り返される戦乱と弾圧のカルマの軛から解放されるのかもしれません。
 結局、「自国を取り戻す」「自国ファースト」を各民族や国家が自覚し──各民族や国家ごとに役割や現状の違いがありますが、目指すところは同じで、同じ志が共鳴し合うのです──、互いに尊重し合う事で、中華帝国は生まれ変わることができるかもしれないし、皇帝支配下でないと収まらない民族も出て来るだろうが、各民族が望めば自由と民主主義を手に入れることができるようになるのだと思います。
                    2019年11月19日 北

 以上は、下記の天上界よりの御示唆により、記述いたしました。
 10本の横棒の雲でできている、全体の輪郭はレンズで、階段状の雲があった。
 しばらくすると、階段の境目が埋まり、レンズ状の雲に、10本の縞があるように見えた。しばらくすると、風のせいだろうか、雲の左辺の部分が伸び出して、10本の平行な枝になった。そして、左の端に雲が溜まり、あたかも四角形の枠の中に10本の横棒があるように見える。この状態がしばらく続くと、今度は再びレンズ状に戻りましたが、横縞はさらに薄くなってしまいました。
 一方、左隣にあった、小さめの階段状の雲は、一つになり、そして今はコンコルドのような三角翼の形になっています。
 しばらく見ていると、この二つの雲が合体し、横長の四角い雲へと変化してゆきました。つまらない形だと思いながら見ていました。
 すると、びっくりしたことに、右端と左端の縦の辺が翼のように変化します。同時に、四角の中央部分が濃くなり、首のようなものが出現しました。全体を見ると、羽ばたく白鳩のように見えます。
 さらに驚くことに、白鳩の左隣には、レンズ状の雲二つが合体しようと近づいてきます。ついには合体してしまいました。見ると、階段状だと思っていた雲は、今は大きくなりたくさんの羽根に変わっていました。
 解釈すると、最初の二個の雲は、自由の戦士と、香港政府と市民。次の二つの雲は、ウイグルとチベットだろうと、思いました。香港の自由とウイグル・チベットが合体した白鳩は祝福と希望だと思いました。
 最後に集合した巨大な雲は、一枚の羽根がたくさん集まったものなのですが、それは多くの民族がこの香港・チベット・ウイグルの自主独立に共鳴すると解釈しました。結局、各民族は「自国を取り戻す」を志せば、それは各民族が共鳴し合い、大きな希望へとつながるのだという意味だと思いました。ここに、中華帝国が繰り返す「易姓革命」からの離脱があり得るのだとも思った次第です。
 
 ■ 大紀元時報:香港理工大、200人ほど依然残る 市民10万人が救出大作戦
 香港警察に激しく攻撃された香港理工大学の学生を救出するため、市民10万人が18日夜、現場に駆けつけ「人の鎖」を作って食品や水などを学生に提供しようとした。またバイクなどを使って一部の学生の脱出を手助けした。警察側が、放水車で放水し、催涙弾やゴム弾を発射して、大学内に入ろうとする市民を阻止した。約100人の市民が警察に逮捕された。警察の阻止で物資は学生らの手に渡らなかった。19日朝大学内にはまだ200~300人がいる。
 一方、理工大に留まっている大学生はSNSで声明文を発表し、「自由がなければ死んだほうがまし」「逮捕と死を恐れていない。歴史が私たちに無罪を言い渡すだろう」と心境を吐露した。また、女子学生は「水も食べ物もなくなった」、「身の安全を守れるものは防毒マスク、ゴーグルと雨傘しかない」と訴えた。
 また、米上院のミッチ・マコネル議員は声明で、「共産党が、もし香港を21世紀の天安門広場にしてしまったら、共産党に破滅的な打撃を与えなければなりません」と警告した。
 「TVE新壹電視」の報道によると、この日、香港各地で抗議活動に参加した市民はのべ100万人に達した。https://www.epochtimes.jp/p/2019/11/49160.html
  
  
  
 
 ● 門田隆将「香港中文大学等に警察が突入し催涙弾」より。
 極めて由々しき事態、特に先週から今週にかけてかなり厳しい状況になっている。香港中文大学、昨日一昨日から香港理工大学に警察が突入し、催涙ガスを多発している。催涙弾は謎の物質を含んでいて、爛れるだけではなく、体調は悪くなるし気管支や内臓もやられる。勿論皮膚もやられるようなものすごいものを打ち込んだ後に、突入してくる。
   
   
 先週、香港中文大学の攻防があったが、狙いは大学内に設置されているHKIX巨大サーバーだと。香港に接続するネットワークの大本がで、それを奪取するために突入したわけです(※ネットを奪えば、情報発信ができなくなる。そうすれば、中共のやりたい放題となる。)。それで必死で抵抗している。朝方警察が引き上げるのですが、何で引いたかというと、学生たちが焼身自殺をするかもしれないという情報が流れたからだと(ここまで学生たちは追い詰められている)。そうすると、国際社会に対してまずいと云う訳です。だから今、北京政府vsSNSの闘いな訳です。要するに、SNSを使って、学生たちが如何に人権弾圧されているのかを、発信し続けているから、これを止めさせたいのです。ウイグルやチベットでは、SNSが封鎖されているから、北京政府の人権弾圧を世界に向けて発信できない。
 ウイグルやチベットは、もっとひどい目に合っている実態が知られていないという事。そして、北京政府に侵略されてしまえば、次に台湾や日本にも人権弾圧がやってくるという事、香港の民主活動家はこのすべてを背負って戦っている意識を持っている。(※自由の戦士!!レーガン大統領を敬愛しているトランプ大統領なら、香港の自由の戦士を支援するに違いない。)
https://twitter.com/i/status/1196262864828321792
 
 UK氏
 私の香港の大学に通っている友人が、分かりやすく最近の香港と今何が起ころうとしてるのかを訴えてくれていたので、少しでも多くの方に今世界で何が起こっているかを知ってもらえるよう貼らせていただきます。これはもうすでに他人事なんかで済む話ではないです。本当に戦争がはじまろうとしています。(11/18)
 日本のテレビ報道は真実を伝えていません!!!もうただの香港デモではありません!!!内戦です!!!
中国への忖度報道はもういい加減にして欲しいです!!
これから伝えることは拡散して欲しいです!!
 香港は独立したいわけではない。無理なのも分かっている。それでも何故香港人は反抗し続けているのか??
 この運動が行われている間の6月~9月までに、250人以上の自殺。2000人以上の原因不明の死体が発見されている。多数の全裸死体発見にもかかわらず、警察は調査どころか、全て“不審な点は無く、変死ではない”と発表!全てです!!
 何を意味しているか分かりますか?もう警察は信用できないんです!!!証拠の監視カメラや証人も全て抹殺されているのです!
 昨夜警察は大声で“天安門事件を再現してやる!”って、学生らに向かって言っていました。
 救急車や病院には警察が待ち伏せているんです!負傷した学生らは救急車も呼べない状態なんです!!
 弁護士でももう逮捕者と接触できない状態なんです!!どこで誰がどうして捕まったのかわからないです!!
 助けてくれるのはメディアしかいないのです。
 それなのに日本のテレビは中国共産党へ対しての忖度が過ぎる。忖度どころか、報道内容が間違っている!!
 今の学生支援者らは“私は絶対に自殺しません”っていう遺書を書いたり、SNSに書かないと出かけられないんです。
●香港で15歳少女が全裸の水死体で発見される デモ開始から不審死が増加 https://news.livedoor.com/article/detail/17222615/
●日本人が香港デモに無関心のままではいけない理由
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191114-00058241-jbpressz-int&p=1
  



 『世界最古の文字と日本の神話』では、古代シュメルの神々が、日本に渡来していることを、日本語や日本の地名などがシュメル語で解釈できることを示したうえで、日本に残る岩刻文字などから古代シュメルの神々を崇拝する民族が日本に渡来していることを証明しています。
 その証明の手法が、日本語を音に分解し、訛ったり、転化したりすることを勘案して、シュメル語にて翻訳しています。
 今回の『縄文の言葉』(読書中)では、縄文語がアイヌ語に近いという前提で、古代日本語をアイヌ語と、分かっている縄文時代の習俗を用いて、縄文遺跡のある集落名をアイヌ語で解釈しています。その手法は、『世界最古の文字と日本の神話』と同じです。
 日本には、ムー人、シュメル人、イスラエル人、エジプト人、フェニキア人、秦一族、徐福、などが渡来してきており、縄文語やアイヌ語や出雲神族などと合体しながら、大和言葉が成立している。
 石器時代→縄文時代→古墳時代→大和時代への変遷を考えるうえで、『世界最古の文字と日本の神話』も、『縄文の言葉 花伝社』も、『サンカ社会の研究』も非常に興味深い内容です。
 尚、サンカ文字やサンカの風俗は、縄文人やアイヌ人を踏襲しているようです。しかも、神代文字には、「サンカ文字」「アイヌ文字」「出雲文字」「縄文文字」が存在しており、非常に興味深いです。(2019年6月4日)








1.ヒトゲノムからみた日本列島
  原モンゴロイド
  縄文人の出自探しは振り出しに
  石器時代人、縄文人と、日本人の出自が不明
2.古代日本語のなかの縄文語
  縄文文化が人種的にも文化的にも単一な理由についての考察
  竪穴式住居と火炎土器は同じモチーフ
3.『縄文の言葉 花伝社』より抜粋
  縄文時代より受け継がれた考え方
  縄文呼びが、漢字二文字に変わった理由
  「あさま」と「神」
  毛野「けぬ」と「サンカ/三家/三毛」の由来
  「くま(球磨)」「くるめ(久留米)」
  富士山の神は何故「あさま」か!?
  日本武尊が「あずまはや」と嘆いた本当の理由
  関東の日高神社
4.沖縄の海底宮殿
  琉球周辺の大陸の変遷
  沖縄のロゼッタストーン
  神代文字のアナイチ文字(天名地鎮)はムーの文字か?!
  南西諸島の入れ墨に見つかった、厶-の四大原動力
  徐福と蓬莱三山


1.ヒトゲノムからみた日本列島

 約三万五〇〇〇年前に日本列島に住みつ旧石器人は、その骨がほとんど見つかっておらず、どのような特徴をもつ人々だったのか明らかになっていません。ただ旧石器文化と縄文文化には連続性が認められるので、それぞれの文化を担っていた人々は共迦する特徴をもっていたと考えることができそうです。このことを前提として話を進めることにします。
※旧石器人は、ノアの洪水前の現在より低地に住みついていたのではないでしょうか。だから、ムー大陸の沈没やノアの大洪水により、彼らの遺骨は流されてしまったのかもしれないです。だとすれば、縄文人の人骨が出土するのなら、ノアの大洪水以後か、もしくはノアの大洪水を逃げることができた人々でしょう。
 遺伝子によれば、本土人は弥生時代以降、大陸から渡来してきた東アジア人と縄文人が混血した人々です。とくに朝鮮半島の人々と近縁ですが、一方で縄文人に特徴的な遺伝的要素も色濃く認められます。琉球人はこの本土人よりも縄文的要素が高く、アイヌでは非常に高く認められます。その点てアイヌは縄文人にもっとも近い人々です。
 ただし、アイヌの遺伝子的特徴は繩文人そのままではなく、オホーツク人あるいはその末裔であるサハリン先住民のニヴフ、また本土人との混血もうかがえるといいます。
 ところで、この論文の著者の一人である人類学者の斎藤成也によれば、古代にエミシとよばれ、アイヌと関係が深かったと考えられてきた東北北部の人々は、本土人のなかではやや偏った遺伝子的特徴をみせています。ただし、それはアイヌとの関係を示すものではありません。DNA的にはむしろ本土人のなかの出雲地方の人々と似ています
 縄文人は、上下の歯が爪切りの刃のように噛みあい、彫りが深く、鼻が高いという形質的な特徴をもっていました。これはアイヌにも共通します。そのアイヌは、形質人類学では長くコーカソイド(ヨーロッパ人)に分類されてきましたが、一九六〇年代に総合調査がおこなわれ、歯冠の形などから本土人と同じモンゴロイド(アジア人)であると結論されました
 ただし先のアイヌの特徴は、一般的なモンゴロイドとは異なるものです。そのため、形質人類学者はこれに頭を悩ませ、現代モンゴロイド成立以前のモンゴロイド、すなわち原モンゴロイドという仮想的な集団(※おそらく、ムー・アトランティス・レムリア人)を設定し、アイヌをこれに帰属させたのです。従って、アイヌと縄文人は「出アフリカ」を果たした現生人類とは、別なのかもしれないのです。それに、だれもがアイヌを始めて見ると、ヨーロッパ人と本土人のハーフに見える。
 日本列島の縄文人は、北海道から沖縄まで形質的な共通性をみせています。かれらは地域性がはっきり認められず、均質な形態をもつ人々でした。つまり縄文時代の日本列島には、アイヌにうかがわれるような「モンゴロイド離れ」した人々が暮らしていたことになります。
 ハブログループとは、ミトコンドリアDNAの進化速度が高く、突然変異による多くの遺伝子の型が存在していることから、それらをいくつかのグループにまとめたもののことです。縄文人のハブログループをみると、わずか四種類にすぎず、現代本土人の二〇種類にくらべていちじるしく多様性を欠いています。この事実は、縄文人が長期にわたって周辺集団から孤立していたことを物語っているのです。
 【旧石器文化
 六万年ほど前、出アフリカを遂げた現生人類は、長い道のりを経て約三万五〇〇〇年前(※ムー沈没後)に氷河期の日本列島へやってきましたとされていますが、現在はこの説は否定されています(⇒[原モンゴロイド]参照)。大型の獣を迫って移動しながら暮らしていた、土器使用以前の文化を旧石器文化といいます。旧石器人は縄文人の直接の祖先と考えられよすが、人骨がみつかっていないためヒトとしての実態は明らかになっていません。
 【縄文文化
 一万五〇〇〇年ほど前、気候が温暖化して植生や動物相が大きく変わると、旧石器文化は縄文文化に移行しました。木の実など植物性の食糧を利用するようになり、その加工具や、これを煮炊きする土器が発達し、定住性が高まります。南千島をふくみ、先島諸島をのぞく、日本列島の全域で展開しました。(この後、シュメル人、フェニキア人、タルシン船でイスラエルの金属技師 … が渡来している。
 【続縄文文化
 三〇〇〇年ほど前、九州北部で水稲耕作をおこなう弥生文化が成立し、東北北部でも二五〇〇年ほど前には水稲耕作がおこなわれるようになりました。しかし、北海道では水稲耕作がうけいれられず、本州とは異なる道をあゆむようになります。本州の弥生・古墳文化に並行する時期の北海道の文化を「続縄文文化」とよんでいます。「続縄文」とよぶのは、縄文土器の伝統がうけつがれていたことによるものです。続縄文文化では本州から鉄製品が伝わり、石器は次第に使われなくなっていきます。(この後、イスラエルの二氏族や、出雲神族が日本に渡来している。)
 【オホーツク文化
 続縄文文化の後半(古墳時代)になると、サハリンから南下してきた人々が北海道北端からオホーツク海沿岸に進出します。かれらは一三世紀頃まで北海道にとどまりましたが、最終的に擦文人に同化されました。この人々の文化を「オホーツク文化」とよんでいます。海獣狩猟や漁撈に特化した海洋適応の生業をもち、続縄文人とは人きく異なる文化をもつ異民族的な人々です。現在サ(リン北部などに暮らす先住民二ヴフは、かれらの末裔とされています。
 【擦文文化
 奈良・平安時代に並行する時期のアイヌの文化です。北海道では七世紀後葉になると本州の農耕民の文化が強くおよび、「擦文文化」に移行します。住居は穀物調理用のカマドをもつ竪穴住居、土器は本州の土師器を模したものになります。「擦文」は、土器表面を板でなでつけた痕跡に由来する名称です。石器が本州の鉄器に完全におきかねるなど交易が活発になり、農耕も各地でおこなわれるようになりました。
「殯」の風習は、風神の葬儀を踏襲し、貴人の場合は3年の喪に付していた。
 この風習がアイヌが継承し、北海道からオホーツク、そして、ロシアや中国へと伝承された。この「殯…3年」を光子が古の風習から継承し、東アジアに広まり、日本に逆輸入されている。つまり、縄文時代高度な文化が日本列島に存在し、これがユーラシア大陸や米大陸へ伝承されている。そして、中国から日本に逆輸入されている。例えば、漢字にしても逆輸入後、明治維新時に和漢字が創造されて中国に輸出された。このように、文化は国を超えて輸出したり輸入され、くるくる循環しているのです。
 尚、殯は縄文からの風習としても、モーセの民はエジプトに四百年も住んでいたので、エジプトの埋葬方式を踏襲していたとすれば、イスラエル二部族の渡来により、「殯」に「ミイラ」の風習が合体したとしても不思議ではありません。
 ◆石器時代人、縄文人と、日本人の出自が不明です!
 石器時代の人骨は発掘されていないので、縄文人が血統を受け継いでいると仮定されています。縄文人や、縄文人の血を濃く残すアイヌにおいては、遺伝子的にモンゴロイドなのだそうですが、アフリカ起源のモンゴロイドとは違っていて、何処にも属さないので、とりあえず「原モンゴロイド」と命名されています。が、大陸や周辺アジアのモンゴロイドとは、別種族です。
 さて、日本人の三大特徴として「胴長、短足、垂れ目」があります。しかし、大陸や周辺アジアにも「胴長、短足(膝下が短い、腕が短い)」の民族はいません。加えて、「垂れ目」は日本人だけです。尚、縄文人の身長は少し低いですが、彫の深い顔立ちで、胴長短足ではありません。垂れ目だったかは不明ですが、アイヌは青い目ですから、垂れ目だとは考えられません。
通常、弥生人は縄文人と大陸系渡来人との混血とされていますが、大陸系も縄文人も「胴長、短足、垂れ目」では無いので、稲作を伝えたメインの渡来人は大陸や周辺アジアの人々では無いことになります。しかも、石器人・縄文人・「胴長、短足、垂れ目」人は、同じYAP遺伝子を持つのであれば、なおさら周辺アジア人とは別人種という事です。では、石器人、縄文人、「胴長、短足、垂れ目」人の出自は何処なのだろうか? やはり、天照大神が、稲と織物を象徴しているのはこれらの出自をも明示しているのでしょうか。
 
 ◆弥生人は大陸系ではない
 神武東征期と交わる、水稲作文化の発展。つまり、富士王朝・高天原に渡来してきたシュメル・フェニキア・ユダのY遺伝子がYAPであり、胴長・単足・垂れ目なのだと思います。出エジプト時、プレアデス・ニビル星の先祖の方々はエジプトに彼等が創成の人類を失うのを惜しみ、それを一大好機として何としてでもイスラエル人を“神の民”として取り戻したく脱出を決行されたと──。
 北九州から稲作が始まると云う定説があり、そこには弥生期の渡来系墓には縄文人用の遺骨があり、道具についても稲作以外は縄文人のそのままだという事で、渡来人主体の稲作とは考えられないし、縄文と弥生の遺骨についてのミッシングリンクが埋められていないのが現状だ。しかも、ジャポニカ米──前5戦年頃、アカホヤノ大噴火により急襲の縄文人が大陸に移住し、ジャポニカ米を持って長江文明へと経った可能性もある──は朝鮮半島を経由せず直接日本に来ていることも判明している。しかし、弥生系遺骨が多いことから、大陸からたくさんの渡来人がやってきたと、きちんと調査もせずに空想されてしまったのです。
 そもそも、北朝鮮からの木造船は、九州には漂着せず、北陸の方へ流されていく。つまり、渡来人もまた九州には殆ど着ていないと思われるのです。そこで、「神武東征と鉄の道」を参照すれば、稲作の道とも一致するのではないだろうか。
 ただし、人類を創造した二ビル星人は垂れ目ではない。だから、イスラエル人も縄文人もあ犬も大陸系渡来人も「垂れ目」ではない。つまり、富士王朝に集いった石器人・シュメル人辺りが、プレアデスの遺伝子を持つ垂れ目だったのだろう。

瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)

 天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から地上に降りたとされています。(天孫降臨)この降臨については、日向国の高千穂峰に降り吾田国(現在の南さつま市)の長屋の笠狭碕に到達したとする説が有力です。 大山祇神の娘の木花之開耶姫を娶り、子に火照海幸彦・火須勢理・火遠理山幸彦がいます。山幸彦の孫が神武天皇です。

火遠理命(オホリノミコト)

 山幸彦の名で知られています。 神武天皇の祖父。海神の娘の豊玉毘売命を妻とし、子に鵜草葺不合命がいます。高千穂宮で580年過ごして亡くなったとされています。

神武天皇(ジンム)

 庚午年1月1日~神武天皇76年3月11日(BC711年~BC585年)。
 日本神話に登場する人物で初代天皇といわれています。在位は神武天皇元年1月1日~神武天皇76年3月11日(BC660年~BC585年)。即位日が現在の暦でいえば、2月11日となるため、明治6年(1873)に2月11日が建国記念日(建国記念の日)とされました。

2.古代日本語のなかの縄文語

 「しだ」という言葉は、『万葉集』に収録された東国歌のうち七首(一首は相模国、その他は東国であるが国不詳)、防人歌のうち二首(常陸国と上野国出身の防人の歌)に出てきますが、古代中央日本語にはまったくみられない言葉です。
 古代東国日本語には、時を意味する言葉として「とき」という言葉も出てきます。しかし「しだ」は自立した名詞である「とき」とはちがい、動詞の後に続く名詞であり、用法が異なっています。
 そこでアイヌ語をみると、同じく動詞の後に続いて時を意味する「hl」という名詞があり、「ta」という助詞をともなって「hi-ta」として用いられます。これは音声的には「hida」となり、古代東国日本語の方言「しだ」はこの借用語とみられます。
 アイヌ語の「hida」は二つの言葉からなりますが、「しだ」は日本語では分析不可能です。借用の方向は「アイヌ語から古代東国日本語へ」以外ありえません
 さらにこの「しだ」は、なぜか東国から遠く離れた九州の肥前国風土記歌謡にもみられますが、古代の肥前国にみられる奇妙な言葉はこれだけではありません。
 『肥前国風土記』は、「『岸』のことをこの地方では『ひぢは』(pitipa)という」としています。これは古代や中世の日本語、さらには現代の日本語方言にもみられない言葉です。
 しかしアイヌ語では「岸」のことを「petpa」といいます。これは「pet」(川)と「pa」(縁)の二つの言葉の合成語ですが、日本語の「pitipa」は分析できません。つまりこの語も、借用の方向は「アイヌ語から古代東国日本語へ」以外ありえないのです。
 長崎県一帯の多島海世界は、朝鮮半島南端の多島海の海民と一体の関係をもちながら、水稲耕作民とは異なる海民の世界であり続けてきたようです。そしてそこには、縄文人的。な形質が弥生時代(さらには奈良時代ころ)まで、日本語にとりこまれた方言としての縄文語が奈良時代ころまで、さらにイレズミと抜歯の習俗は近代まで、それぞれ保たれてきたと考えられるのです。
 ところで、古墳時代に渡海してきた渡来人は鍛冶や製鉄、窯業、馬飼いなどの文化をたずさえ、西日本だけでなく各地に展開しました。DNAからみた現代東北人の成り立ちにも、古代における渡来系集団の関与が指摘されているのです。
 そうすると、弥生時代以降の古代の日本列島には、言語からみると縄文語と渡来人語が融合した古代日本語のはかに、縄文語=アイヌ語、縄文語と古代日本語の融合語といった、さまざまな言語が各地でみられたにちがいありません。
 このような言語の多様性をふくめて、日本列烏の文化は弥生時代以降「複数文化」に転換したといえます。しかし、この多様性に富んだ「複数文化」は、「心の文明」であった縄文の「単一文化」とは異なる、いびつな「単一文化」回収歛していきます。
縄文文化が人種的にも文化的にも単一な理由についての考察
 ムー大陸沈没後、ムー人が日本全体に渡来してきて、縄文人と呼ばれるようになった。その後、前2戦年頃、徒歩で出雲神族(カイン、後にサンカ)が、海洋民族のフェニキア人やシュメル人が渡来し、ソロモンの時代にはタルシン船で渡来した。縄文時代に、金属、楽器、薬などの技術を持つ民族が日本に渡来し、富士王朝に集結し、後に徐福一族や秦一族が合体する。
 従って、中東から日本に渡来できる海洋技術集団が日本に存在しており、彼らが日本を一つに結び付けていたのだと推測される。そして、シュメル人はアトランティス人の生き残りだと推測されるので、縄文人とDNA的にはほぼ同じだったのだと思われる。
 
 アイヌは、家計単位、血縁集団単位に山を祭った。また、山頂には山の神──血縁集団の祖霊──が住み、特定の部落を守ると伝えられている。

竪穴式住居と火炎土器は同じモチーフ

 『縄文の言葉』を読んでいて気が付いたのですが、竪穴式住居は、後の世の人々が勝手につけた名前で、住居の形状もまた想像の産物でしょう。縄文土器という呼び名も同じで、当時の人々の呼び方ではないのです。
 先端がとがった縄文土器をひっくり返すと、火炎を吹くロケットでした──弥生土器は縄文のロケットとは別主であり、別異星人=神々の関与があり、縄文と弥生の協力関係があったのでしょう。今回、縄文ロケットと竪穴式住居は基本的に同じ形だと気が付きました。アイヌ語で竪穴式住居を「神の住む場所」と言うのだそうです。それで、気が付きました。ロッケトに乗った神々の住居を、土器に写し、竪穴式住居にした。自分には納得できました。

3.『縄文の言葉 花伝社』より抜粋

 私は、比較言語学の手法には限界があると考え、【アイヌ語は縄文の言葉を受け継いだ言葉である】を作業仮説とし、この仮説を検証するという論法で書き進めます。主として関東甲信越以西にある地名山名をアイヌ語に置き換えて解釈し、地形・地象事象・古書や関連資料に書かれた記事・自ら実施した現地調査・縄文遺跡などと対応することによって解釈の裏付けや補強を行い、置き換えたアイヌ語に間違いはなかった、との筋書きになります。裏付け作業によって得られた知見の総まとめが冒頭の文章です。
※尾瀬の地は湿地帯で、夏季にはアマゾンと似た環境になり、縄文人の格好の生活の場でした。ここにも、縄文文化とアマゾン文化の共通点が見え隠れしているように思えてなりません。
 ◆古いアイヌの考え方として記されていますが、
  縄文時代より受け継がれた考え方であると思っています。P26
 古い時代のアイヌは、川を人間同様の生物と考えていた。生物だから、それは肉体を持ち、たとえば水源を「ペッ・キタイ」(川の頭)とよび、川の中流を「ベッ・ラントム」(川の胸)とよび、川の曲り角を「しットlク」(肘)とよび、幾重にも屈曲して流れている所を「かンカン」(陰部)とよぶのである。
 
 ◆縄文呼びが、漢字二文字に変わった理由
 語源探索の対象とする地名は、古地名としての歴史が明白であり複数の地名がまとまっていることを理由に、『倭名類聚鈔 地名は二十巻本』(931~937)(以後「和名抄」と略称)から選びました。
 和銅3年(713)、律令国家としての体裁を整えた大和朝廷は全国に「好字を用いて著した郡郷の名称、鉱物を含む各種の産物、土地の肥沃の状態、地名の由来、古老などに伝えられている旧聞異事を報告しなさい」という風土記編纂の詔を発します。地名は好字2字で記述するようにとの命もあり、全国の国、郡、郷名は改められました。それまで郡は評(こうり)と表現されていました。「和名抄」にはこの時に定められたとする地
名が記載されています。
 
 ◆「川口、川尻」P28
 私たちは「川は山に発して海に注ぐ」と考えますが、アイヌでは「川は海から発して山に向かう」と考えます。
 狩猟採集に出かける場合、川や沢を遡って猟場などに向かうことから、このような概念が生まれたのではないかといわれています。アイヌは川を人間同様の生物と考えていたことを説明しましたが、川は海から山に向かうとの概念も川に対する古い時代のアイヌ特有な考え方です。したがって、「おぜ」の語源探索では「オ」を「川口、川尻」と説明しましたが、これは川の出口ではなく入口の意味になります。
 私たちは支流と支流、あるいは支流と本流が合わさることを「合流する」と表現しますが、アイヌ語は上流に向かって「分岐する」との表現になります。川は上流に向かって分岐し、次第に細くなり、最後は消えてしまう。その状態を「捨て去る」と表現し、訳として「枝」としたのです。これもアイヌ特有ではなく縄文以来の考え方と思っています。
 
 ◆「あさま」と「神」
 アイヌ語で「クンネ」とは「暗い、黒い」を意味し「クルネ」が訛った言葉であること、「クル」とは今は「人」の意味だが。昔は「神」の意味を有していたこと、アイヌ語の「神」は「カムイ」だが日本語「かみ」から借用語ではないかとの説が存在する。
 浅間山の「あさま」の語源は「クルアサム」から「クル」が省略された「アサム」であって、意味は「神が隣に座っている」です。縄文の人達にとって浅間山は「神が隣に座っている」、そのような存在であり、その神の座る場所が「クルウスイ 神がいるところ」、すなわち「軽井沢」です。二つの地名で【(山は)神が隣に座っている存在であって、その山の麓には神がいる場所がある】という一つの物語を構成します。このような山の神に対する考え方が古神道の「神奈備」思想に受け継がれるのであって、縄文の人たちの宗教観を表す非常に重要な言葉であるとわかりました。
 
 ◆毛野「けぬ」と「サンカ/三家/三毛」の由来
 古事記や日本書紀や先代旧事本紀に記載された内容を全てそのまま歴史的な事実と認めるには問題がありますが、3世紀末に「けぬ」は存在し、5世紀前半に上下の二国に分かれたと考えてよさそうです。
 日本書紀は豊城命が毛野一族の祖であると記しますが、「けぬ」の意味や語源については何も語っていません。「毛野」の名称の由来については幾つかの説があります。
  1. 毛人(蝦夷)の住んだ地である。
  2. 毛野は天皇家の直轄地「御食野(みけぬ)」の地であり、食野が毛野になった。
  3. 毛は穀物や草木の意味。「毛野」は穀物や草木がよく育つ肥沃な土地を意味する。
 ◆「くま(球磨)」「くるめ(久留米)」
 「クッネ」「クルネ」の地名を有するもう一つの地域を紹介しましょう。
 熊本県の「くま(球磨)」、福岡県の「くるめ(久留米)」です。いずれも阿蘇山の麓にあります。阿蘇山は活火山であり、夏場の雷の数も群馬県に劣りません。阿蘇山の麓に住んだ縄文の人達も火山の神や雷の神を畏怖し、自分たちの土地を「神の村、神の部落」と考え、「クルネ コタン」と呼んだのです。「コタン」が省略され「クンネ」「クルネ」が集落の呼称になったところまでは群馬県の場合と全く同じです。違いは群馬県では一つの集落に「クンネ」「クルネ」さらに「グンネ⇒群馬」の呼称がありましたが、阿蘇山の麓ではそれぞれが別な集落の呼称でした。また、地方色に溢れた「グンネ」の呼称はなかった。
 ヤマト王権の支配下に入った後、中央から派遣された役人は「クンネ」を「くま」、「クルネ」を「くるめ」と報告したのです。「くま」「くるめ」に「球磨」「久留米」の漢字が当てられるのは、後年になります。(※「くま」⇒「神代 くましろ」、他にも「熊」。つまり、「熊」=「神」 … 縄文の神「クル」)
 浅間山の麓と阿蘇山の麓に同じ発想による同し縄文語地名が存在するとの結果は、「けぬ」「くるま」「ぐんま」の語源をそれぞれ「クンネ」「クルネ」「グンネ」とする結論の傍証にもなります。
 
 ◆「さぬき」「さんけ」「山内」の原意
 「san サン」は「山から浜に出る、後ろから前へ出る」の意味。「-ke ケ」は「ところ」の意味ですので「san ke サンケ」は「山から浜に出たところ」となります。
 「nu ヌ」と繋げて「nu・san ke ヌ・サンケ」とすると「豊漁は山から浜に出たところ」となり、地名語としての意味が整ってきます。また、金印の「漢委奴国王」、狗奴国などの「奴 ヌ」は、大和朝廷以前だから「豊漁」の意味でしょう。
 志賀島からは「漢委奴国王」の金印が出土しました。この金印に刻されているように志賀島を含む博多の周辺すなわち安曇族の出身地は「奴」の国でした。魏志倭人伝で「末慮(まつろ)国」「伊都国」の次に記された「奴国」です。多くの書物は「奴」に「な」と仮名を付けます。なぜ「な」なのでしょう。辞書で「奴」を引くと訓読みは「やつ」であり、音読みは「ヌ、ドウ」です。金印は漢で造られたもので奴国からの使者の発音を聴いて「奴」の漢字を当てたと考えれば、当時、志賀島周辺は「な」ではなく「ぬ」と呼ぶ国であったはずで
す。そして、「あずみ」「わたつみ」の語源が縄文に遡るのであれば、奴国の「ぬ」も縄文に遡ると考えられます。「ぬかべ」の語源「ヌ」が思い浮かびます。「豊漁」の意味です。
 志賀島周辺に住んだ縄文の人たちは、自分たちを「アトゥイ 海の民」と呼び、漁をする海すなわち玄界灘を「マタトゥイ 妻なる海」と崇め、住むところを「ヌ 豊漁」と名付けたことになります。「海の民」と「妻なる海」の間に子供「豊漁」が生まれた、との考えではないでしょうか。この名称の付け方にも、縄文の人たちの発想の豊かさ、表現の巧みさが現れています。それぞれが「安曇」「綿津見」「奴」の語源であり、これが海人族としての安曇族の原点であり、綿津見神の正体です。
 参照事例が示すように「nu・san ke ヌ・サンケ」を文として完成させると、「nu e san ke ヌエサンケ」になります。意味は「豊漁、そこは山から浜に出たところ」です。貫前神社の下方を流れる鏑(かぶら)川は「山から浜に出たところ」にあり、そこは鮭の大宝庫であって、ここに住む縄文の人達の漁場だったのです。〔ヌエサンケ⇒ヌケサケ⇒ヌキサキ〕と転訛します。すなわち、「ぬきさき」の語源は「ヌエサンケ」である、ということです。
 「san」について少し捕捉します。青森県に有名な縄文中期の「三内丸山遺跡」があります。この「山内」は「san nay」か語源で「山から浜に出る沢」の意味です。地元の人の話として、降雨時に鉄砲水のような多量の出水があることを「山から浜に出る沢」と表現したそうです。また、「yuk o-san nay(鹿が─そこへ・出て来る─沢)」の事例から、「you o-」が脱落して「San nay」だけが残り、後世に伝わったとも解釈できるのではないかと思っています。
 
 ◆「丹生」
 「丹生」の地名は日本の各地にあり「にう」とも「にゅう」とも呼ばれます。漢字辞典で「丹」を引くと、「たん」の仮名が付され「水銀と硫黄の化合物。丹砂(たんしや)といい、赤い結晶をして、地中から出る。水銀の原料、顔料、薬の材料となることあります。このことから水銀の産出地を「丹砂を生産する」との意味で「丹生」の漢字を当て、それを「にう」と読ませたことが「丹生(にう)」地名の語源である、というのが通説です。
 丹生鉱山の十数km北方に天白遺跡があります。縄文時代後期後半といいますから約3500年前の遺跡です。住居跡は見当たらず出土物から周辺集落の共同祭肥場と考えられています。ここからは丹砂の原石、それを利用した朱塗りの土器が発見され、縄文時代から丹砂が朱の原料として使用されていたことを示しています。
 朱砂(※水銀の事)の採掘地はニフ(にう)またはニホと呼ばれ、古代水銀鉱業を掌る神として(ニウツヒメ(ニホツヒメ)」が誕生した。日本語を漢字で表記する時代を迎えると、「丹生」と言う漢字表記が始まり、そこで朱砂(辰砂)の採掘に従事していた一群の民も、同じ漢字を使って姓を表示した。
 
 ◆「ウタ、ウダ、オタ、オダ(織田)」
 「ウタ、ウダ、オタ、オダ」の付く地名は沢山あり、「歌、宇田、宇多、小田」などの漢字を当てます。アイヌ語の「ota オタ」が語源で、「砂、砂浜」を意味します。北海道の小樽(おたる)はその一つであって、「ota ru オタ・ル 砂浜・道」が語源です。
 
 ◆那波(なは)
 「那非」は「神奈備」の略で「かんなび」が「なび」に、そして「なひ」になった。
 「ペッ」を「ナイ」に置き換えると先に想定した「ナイパ」となります。この「ナイパ」が「なは」に転訛したのでしょう。意味は「川岸、川辺」です。
 
 ◆「おの」「ぬかべ」
 「おの」の語源は、「o nu オヌ」です。「o」は「川口、川尻」の意味です。「nu」は「ぬかべ」「ぬきさき」の「ぬ」、「豊漁」の意味です。「オヌ」は「川尻・豊漁」が逐語訳で、遡上した鮭が川尻にたくさんいる状況を表現しています。
 川には支流の支流も多く、その合流点付近を「オ」と表現したのでしょう。北海道に「o nu us pet オヌウスペッ 川尻に豊漁ある川」があります。また「o nu us i オヌウスイ 川尻に豊漁あるところ」もあります。「おの」もかつては同様な名称で、ここから「ウスペッ」あるいは「ウスイ」が脱落し「オヌ」だけが残った言葉といえます。
 
 ◆「かるいざわ」、「ハワイ」
 これらの遺跡に住んだ縄文の人たちが旧軽井沢付近を「クルウスイ」と呼んだのでしょう。意味は「神がいるところ」で、「神」とはもちろん浅間山の「神」です。
 南海の楽園「ハワイ」の言葉の意味をご存知でしょうか。ポリネシア語で「神のおわすところ」との意味だそうです。「クルウスイ」と全く同じ意味です。(ワイ諸島も火山島であり、この島の住人は火山を畏怖畏敬し、このように呼んだのでしょう。「軽井沢」と「ハワイ」、火山を有し、観光の人気スポットという共通点があり、しかも地名の意味までも全く同じであるとは、これまた意外です。ハワイ諸島に人が住むようになったのは4~8世紀とされますので、縄文時代に比較するとはるかに新しい時代になります。
 
 ◆「富士」、「NIHON」と「NIPON」
 「ふじ」の語源について、井野辺茂雄は著書「富士の歴史」の中で、Hの古代音がPであったことから昔は「ぷじ」と発音したに相違ないとし、平田篤胤の説をはじめ五つほど紹介しています。つまり、ヘブル語の「NIHON]が、縄文系の人々だと「NIPON」と呼ぶという事です(⇒[ヘブル語の「日本 NIHON」]参照)。
 本書の「ふじ」の探索結果は「プシル 倉庫のような形をした山、三角形の様に整った山」であり、ほとんど井野辺の指摘のとおりです。「シル」の「ル」は無声の子音ですので、「プシル」は「プシ」と聞こえます。「プシ」が「ふじ」へと転訛したのです。すなわち、「ふじ」の語源は「プシル」なのです。
 
 ◆富士山の神は何故「あさま」か!?
 静岡県富士宮市に「富士山本宮浅間(せんげん)大社」(以下、「浅間大社」と略称)があります。
 由緒によると、11代垂仁天皇の3年が「浅間大社」の起源とされます。富士山の神を祀るのは浅間大社であって、全国に約1300ある浅間神社の総本宮になります。敷地は広大で、富士山八合目より上の部分も登山道と旧富士山測候所以外は境内であって、山頂にも社殿が建っています。
 主祭神は富士山を神格化した「浅間大神(あさまのおおかみ)」で、この神名は「木花之佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)」(「木花咲耶姫命」「木花開耶姫命」とも書く)の別称であって、両者は同一神とされます。「木花之佐久夜毘売命」は父神が大山祗神、姉神が磐長姫命であって、天照大神の孫であるニニギ尊の皇后になり、この夫婦神の曾孫が神武天皇になるという由緒ある姫神です。
 「木花之佐久夜毘売命」は懐妊した際、貞節を疑われたことに対し誓約を立て、火を放った産屋で無事出産して嫌疑を晴らしたとの伝説にちなみ、火の神とされますが、「浅間大社」では富士山の噴火を鎮める水の神として祀ります。その他にも、家庭円満・安産・火除け、さらには航海・漁業・農業・機織等の守護神として日本の各地で祀られるという、
 このように「木花之佐久夜毘売命」は神話の世界では著名な姫神ですが、同一神とされるもう一方の「浅間大神」に関しては、富士山を神格化した神とはするものの、詳細は何も語られません。
 社伝によると、「浅間大神」を最初に祀ったのは特定の地ではなく、富士山麓の適所を選んで噴火の神霊を鎮めるための祭祀を行い、そこを「山足(やまたり)の地」と呼びました。特定の場所に祀るようになったのは、「浅間大社」の北方約6kmにある「山宮浅間神社(やまみやせんげんじんじや)」です。12代景行天皇の皇子日本武尊が東征に向かう途中、駿河国で賊に襲われ、富士山の神である「浅間大神」を祈念して災難を免れたことに感謝し、神霊を山宮に祀ったと伝えられています。
 山宮は社殿がなく、しめ縄を張った古木と石が並んでいるだけですが、そこを通して富士山を直接お祀りする古代祭祀の原形を残す神社です。現在の山宮の祭神は「木花之佐久夜毘売」の名を残すだけです。その後、大同元年(806)に坂上田村麿が平城天皇の勅命を奉じて現在の地に社殿を造営し、山宮から「浅間大神」を遷座したのが「浅間大社」の始まりとされます。
 「浅間大社」と「山宮浅間神社」は世界文化遺産「富士山」の構成資産として登録されました。登録された「浅間神社」は全部で八つあり、他の六つの神社の由来や「浅間」の読み方、主祭神などを調べてみました。
  1. 「北口本宮富士浅間(せんげん)神社」。山梨県富士吉田市にあります。由緒によると日本武尊が東征に向かう途中、「大塚丘」から富士山を見て、山容を褒めたたえたことから「浅間大神」と日本武尊を祀り、神社の起源となりました。その後、富士山の噴火を契機に延暦7年(788)に現在の地に社殿を建立して「浅間大神」を遷座したとあります。現在、同神社のホームページに書かれている祭神は「浅間大神」が上に書かれ、下に木花開耶姫命、彦火ニニギ尊、大山祗神の三神が併記されています。
  2. 「河口浅間(あさま)神社」。河口湖北畔にあって、文化遺産として登録された浅間神社の中では「浅間」を「あさま」と読む唯一の神社です。貞観6年(867)、富士山が大噴火を起こしたときに、勅命によって浅間大神をお祀りしました。主祭神は「浅間大神(木花開耶姫命)」です。
  3. 「村山浅間(せんげん)神社」。富士宮市で「浅間大社」の近くにあって、興法寺の境内にあった浅間神社と大日堂が明治の神仏分離令によって分離独立しました。興法寺周辺や西国の富士山修験道の中心になった神社で、祭神は複数あり「木花開耶媛命」が中座に祀られています。
  4. 「冨士御室浅間(せんげん)神社」。河口湖南畔にあって武田家三代に亘って尊崇された神社です。699年に富士山二合目に神霊を祀ったのが始まりであり、大同2年(807)に坂上田村麿が蝦夷征伐のお礼として社殿を創建したとされます。祭神は「木花開耶姫命」です。
  5. 「須山浅間(せんげん)神社」。富士山南東麓の静岡県裾野市にあって杉の巨木で覆われ、須山口登山道の起点となる神社です。創祀は日本武尊に遡り、富士山の活動が活発であった九世紀頃に社殿は創建されたであろうとしますが、棟札により1524年時点での存在は確認されています。主祭神は「木花開耶姫命」です。
  6. 「冨士浅間(せんげん)神社」。「須走浅間神社」「東口本宮冨士浅間神社」ともいわれました。由緒は、延暦21年(802)の富士山噴火の際に、朝廷の役人が鎮火の祈願祭を行ったところ噴火が収まったので、その神威を畏み、大同2年(807)に鎮火祭跡地である現在の地に神をお祀りしたことが、神社の創建と伝えられます。主祭神は「木花咲耶姫命」です。
 山梨、静岡を中心にして約1300社ある「浅間神社」のうち、8神社についてのみ記しましたが、他の多くの神社も主祭神は、木花開耶姫命、夫神であるニニギ尊、父神である大山祇神、姉神である磐長姫命などです。「浅間大社」に問い合わせたところ、どの神を祀るかはそれぞれの神社の事情によって異なる、との説明でした。それでも、「浅間大神」を祭神として掲げる神社は前記した「富士山本宮浅間大社」「北口本宮冨士浅間神社」「河口浅間神社」の3社だけです。また、ほとんどの神社は「浅間」と書いて「せんげん」と読み、「あさま」と読むのは「河口浅間神社」の一社だけです。「ふじ」の漢字も「富士」「冨士」が使われています
 これらのことから、富士山の謎をもう少し具体的に整理すると次のようになります。
  1. 山名「ふじ」の言葉の意味・由来が不明であること
  2. 富士山の神が「あさま」であること
  3. 「あさま神」が「木花開耶姫命」と同一神とされること
  4. 「あさま神」と浅間山の「あさま」との関係が不明であること
  5. 「あさま神」を祀る神社でありながら「浅間」と書いて「せんげん」と読む。
     富士講の開祖とされる藤原角行(1541~1648)が苦行の結果として「不二仙元大日神」より宣託を授かったとの伝承に始まり、以来、講中では「仙元」の文字の使用を踏襲する者が多くなりました。富士講とは富士山を信仰する団体で、特に江戸を中心とした関東で流行した角行の系譜のものをいい、組織されるのは1736年であって、その後多くの講が生まれ盛んになり、「江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講。江戸に旗本八万騎、江戸に講中八万人」といわれるほどになりました。「仙元」が流布し、世間でも多くの人が「セングン」「おセングン」「セングンさま」というようになり、「あさま」より「せんげん」の方が一般には通じやすく、「せんげん神社」と称するようになったとのことです。
     「せんげん」の呼称は比較的新しく、昔からの呼称は神名、神社名ともに「あさま」なのです。
 これらの謎を解くために、「あさま」を山名とする「浅間山」から「あさま」の語源を明らかにし、「富士山」の「あさま神」との関連性を探ります。
 「あさま」の語源説は、火山を表す古いアイヌ語であって、阿蘇山の「あそ」も同様であるとする説で、火山に関係する言葉であるとの解釈はほぼ定着しています。
 しかし、火山につながるアイヌ語で「アサマ」や「アソ」に近い言葉は見当たりません。アイヌ語に「a あ(あ-)」があり、意味は「座(ってい)る」です。また、「sam サム」があり、意味は「そば(側、傍)、隣」です。「a sam アーサム」で「隣(側)に座っている」の意味になり、この「ア・サム」が「あさま」の語源であると考えています。「ア・サム」は、それだけでは「誰」があるいは「何」が「隣に座っている」のか分かりません。肝心な主語がないのです。省略してもそれと通じる語、畏れ多い語は省略する傾向がアイヌには習慣としてあります。この習慣は縄文以来ずっと受け継がれているものです。
 「軽井沢」の語源は「クルウスイ」であって意味は「神がいるところ」と説明したように、縄文の人たちは浅間山を畏怖畏敬し、そこに「クル 神」を見ています。省略された言葉はこの「クル」であると考えました。すなわち「ア・サム」の主語が省略される前の言葉は「クルアサム」であって、意味は「神が隣に座っている」となります。
 縄文の人達にとって浅間山は「神が隣に座っている」、そのような存在だったのです。「軽井沢」と「浅間」の二つの名称で「山は神が隣に座っている存在であって、その神がいるところが軽井沢」という一つの物語を構成します。ですから、この二つの地名山名は偶然に並んだのではなく、あるべくして並んでいるという確かな理由があったということになります。
 古神道では神が鎮座する山、あるいは神が隠れ住まう森を「神奈備(かんなび)」と称します。その原点となる思想が「クルアサム」「クルウスイ」の二つの言葉の中にあり、縄文の基本的な宗教観が後世の「神奈備」思想に受け継がれたと考えられます。
 「クルアサム」の「クル」が省略されて「アサム」となった言葉は、そのまま山の呼称になりました。時を経て、意味が分からなくなった「アサム」が「あさま」に転訛し、山の名称として定着したのです。「あさま」に「浅間」と訓読みの漢字を当てるのは、さらに時代が下がって漢字を自在に使えるようになってからです
 「浅間」の字を使用しない「あさま」もあります。伊勢神宮の近くにあって古くからの信仰の山「朝熊(あさま)山」もそのひとつです。「あさくま」が語源であるとして、いくつかの由来説があります。古語で川の浅瀬を「浅隈」というそうですが、この「浅隈」を語源とする説。この地を訪れた空海の前に、朝方に熊が、夕方に虚空菩薩が現れたという伝説による説。などがあります。これらの説より「クルアサム 神が隣に座っている」の方が信仰の山としては、はるかにふさわしくないでしょうか。(※熊=神ですから、「あ」=座っているなので、「神が座っている」となります)
 九州の「あそ(阿蘇)」も「あさま」の変形です。阿蘇山周辺には地名「久留米(くるめ)」「球磨(くま)」があり、それぞれの語源は「クルネ」とそれが訛った「クンネ」でした「クル」に関連した地名が並んでいるのは、「阿蘇山」が「クルアサム 神が隣に座っている」、そのような存在だったからです。「アサム」が「あそ」に転訛したのです
 浅間山の麓にはその神を祀る「浅間神社」があります。富士山の神を祀る神社も「浅間神社」であり、紛らわしいので浅間山の神社を「あさま神社」と記します。縄文の人たちは神が隣に座っている浅間山に向かい、噴火をしないよう山の平穏を祈りました。そこがこの「あさま神社」の場所と考えます。ならば「あさま神社」の祭神は「あさま神」であろうと推測して、その祭神は、浅間山大伸の左右に、羽黒山大神、前掛山大神でした。
 そもそも、この場所は祠を造るまでは木と石を組み合わせた原始的な縄文以来の祭場であり、人々はここから「神が隣に座っている」と考える山の神に向かって噴火に対する平穏を祈りました。祠を造り、すでに富士山には「浅間大神」と称する神が祀られているため、「浅間山大神」の名称を新たに創り祀ったのです。
(※つまり、アイヌの神は、火山に関係する「火の神」、太陽神=旧約のヤハウェだったと推測されます。)
 
 ◆日本武尊が「あずまはや」と嘆いた本当の理由
 日本武尊は熊襲の征伐に続く景行天皇の命に不満を抱きながらも東国遠征に出かけます。その際の行き帰りに生じた出来事に「あずま」についての一説があります。
 東北へ下向中、三浦半島から房総半島へと浦賀水道を渡ろうとした際、海が荒れ、船が難破しそうになったため、伴っていた愛妾の弟橘媛か入水し人柱となって海を鎮めます。遠征の帰途、弟橘媛を偲んで「あずまはや」と嘆くのですが、その部分を、古事記は「足柄の坂の上で「阿豆麻波夜」と嘆いたため、その国を「阿豆麻(あづま)」と云うようになった」と書き、日本書紀は「碓日嶺に登り東南を向いて「吾嬬者耶」と嘆いたため、そこより東の国を「吾嬬國(あづまのくに)」と云うようになった」書き、表現が少し異なります。
 足柄の坂とは箱根の足柄峠、碓日嶺(うすいとうげ)とは長野県と群馬県の県境にある碓氷峠です。本来ならば歌になるはずの日本武尊の心情が「あずまはや」の短い言葉だけで表現されたのは、思いが溢れて歌にならなかったと解釈されているようです。
 四阿山の「あずまや」の語源は縄文の言葉「アツパイワ」であって、的岩山と共に夫婦山である。【「あずまや」と称される「夫婦山」の存在】と【「弟橘媛」を偲んで【あずまはや」と嘆いたとする状況設定】に共通点があります。つまり「あずま」の一説は、「夫婦山」を「弟橘媛」に置換え、「あずまや」という山の名称を「あずまはや」という嘆きの言葉に置換えたのだろう。
※四阿山は吾妻山(あづまやま)ともいい、どこから見ても山の形が屋根の棟に似ているのでこの名がつけられたという。古事記によれば、日本武尊が東征から戻って、信濃に入る峠に立たれたとき、「あずまはや」と叫んで弟橘(おとたちばな)姫をしのばれたといい、嬬恋村(つまごいむら)の名もこの伝説による。
 
 ◆関東の日高神社 … 「ひた」/「飛騨、日田、肥田、氷田」
 日高遺跡は関越自動車道建設工事の事前調査によって昭和52年に発見された。侵食開削された台地の低地部を巧みに利用し、畦によって90~120㎡ほどの面積に区画された水田が並んでいます。弥生後期から古墳時代にかけて継続して使われた水田と考えられ、周辺の微高地には竪穴式住居跡や墓地や井戸も確認されています。井戸からは焦げた米粒が発見されました。
 遺跡南部の前橋台地部分に日高神社(群馬県高崎市日高町)がある。日高神社は狭い敷地に質素ではあるけれども整った小さな社殿と厳島神社に似た形の鳥居を有し、町の施設らしき建物が境内に面して建てられています。祭神は大日孁貴命(おおひるめのみこと)と豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)です。大日孁貴とは天照大神の別名とされているが、「孁」は女巫女のことであり男神・天照の神妻と言う意味で、豊宇気毘売神とは天照大神の食事担当で豊穣の女神とされ、それぞれの神は伊勢神宮の内宮と外宮の祭神です。(※おそらく、ヤハウェの神妻としてのヘフジバなり代々の御子の一人を指していると思われる。)

岩手県奥州市水沢区日高西

 この地域にはアテルイの戦いの8年後となる810年創建という日高神社があります。大和朝廷によって平定された日高見国を継承するとして創られた神社といわれ、日高西とは日高神社の西側に位置することによる地名です。
 

4.沖縄の海底宮殿

 木村政昭著『海底宮殿』から、抜粋しました。

 ◆琉球周辺の大陸の変遷 … ムー大陸の海没へのヒント

 沖縄及び周辺陸地の変遷は本書により、下記の様に示されていました。ムー大陸の海没及び、一部が海没せずに残り、その後、これらも海没してしまう様子が、沖縄及び周辺陸地の変遷と同期していると思われるからです。
 『失われたムー大陸』では、ムー大陸の所在地は、まさしく超大陸と呼ぶにふさわしい広大な海域だった。西は小笠原海域から、東はイースター島までの約8000キロ。北はハワイ北方海域から、南はフィジー島までの5000キロ。現在のミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの島々を、すっぽりとカバーする広さである。
 チャーチワードが描いたムー人陸は20万年前に太平洋中に存在し、1万2000年前に消滅したとされている。これは琉球占陸が20万年ほど前から形成されたという歴史と、不思議なほど一致する。そこでの人の歴史は、7万2000年以上あったとされているのである。
  
 沖縄では1万7000年前、王国が誕生したという神話が正史に記されている。実際にはそのころは港川人が住んでいた時代で、海没する前、現在海没している王国──沖縄には海底宮殿が発見されている──が存在していたとは、考えられないでしょうか。
 およそ1万5000年前以降から、地殻変動により段階的な古陸の水没が起きた。これが伝説に残るムー大陸の崩壊に相当しよう。そしてすでに航海術を発達させていた旧住民たちの多くが、本州や大陸へ移動した。その結果、かつての母国を楽園として懐かしむ伝説が世界各地へ広がった可能性がある。
 前5000年頃、アカホヤの大爆発があり、九州全土が住めなくなり、当時において高度な文明を持つ九州や沖縄の縄文人──ムー大陸の海没後、残った蓬莱三山 … ムーの子孫──が、ムー文明をたずさえて、一部は大陸の長江方面へ、一部は南下した。5000年前ごろまで平穏な暮らしが続いた。
 ところが、5000~3000年前ごろにかけて、火山活動を主体とした大地殻変動や気象変動が活発化した。このようにして、海のモンゴロイドの勢力圏は、長江(長江の夏人が黄河へと文明を拡大していった)メラネシアからポリネシアにまで爆発的に拡大した。
  
  
 下図は、ノアの大洪水(前2500年頃)などが考慮されていませんが、一挙に水深が増大しているはずです。
 ここに非常に不思議な一致がある。先島では、4000~3000年前に赤色土器文化が栄え、その後、石器文化に戻ってしまうという不可思議な現象が見られることである。まさに同じころ、メラネシアのラピタ文化がそれと同じ現象を示している。両地域とも、4000~3000年前に一時的に土器文化が現れ、その後、石器文化になったという共通点があるのである。
 

 ◆沖縄のロゼッタストーン … 沖縄海底宮殿からの遺跡

 本著者は、沖縄絵文字をムー文字であるとしています。水没した古琉球がムー大陸の一部だったらという視点で、チャーチワードの書の中のシンボルと突き合わせてみたそうです。
 図74の円はムー文字では宇宙を表している。つまり、全宇宙を象徴する円「ウル」である。円の中の蛇文字は印象的だ。この蛇に似た古代シナイ半島の文字が、ローマ字「n」や「N」の原型になったと、言語歴史学者の川崎真治氏は指摘している。
 この蛇は日本の場合、蛇神イコール龍神、あるいは水神も意味している。沖縄の石板では、図74の円内と外にN字があり、それを切るように斜めに短い線が入っている。
 アナイチ文字を参考にすれば、図74の「正」は、「ラム」と読める。また、「XV」や「九」は「ナ」、「カ」は「ネ」、「カの左右対称」は「ヌ」、「五」は「ラメ」 … と読めて、解読できそうです。

 「十」は「サ」、「v」は「ワ」もしくは「ヤ」と読めます。
 

 ◆神代文字のアナイチ文字(天名地鎮)はムーの文字か?!
 ムー文明を現代に紹介したチャーチワードは、不思議なことに、ムー文明を記述した文字についてその形状や、読み方などを、一切紹介していない。非常に残念です。ここでは『神々の遺産 P51』から、下記を抜粋します。というのは、ムーの文字が神代文字「アナイチ文字」に似ている証拠になるかもしれないからです。 …シュメル古拙文字がムーの文字だと思う!
 熊本県人吉市近郊では、紅取山塊のヒモロギ遺跡や人吉市高塚山、人吉城、相良村雨宮などで多くのベトログラフが発見されているが、いずれもシュメール古拙文字やフェニキア文字やセム系文字やシナイ文字などの系統。しかし池田さんが見つけた線刻のものは、シュメール古拙文字などでは該当しなかった。
 そこで、漢字渡来以前の日本の古代文字の一つとされる天名地鎮(アナイチ)文字のコード表を当てたところ、サラムウと読めた。「サラムー」とは「ムーの神」または「聖ラ・ムー」の意味。
  
 

 ◆南西諸島の入れ墨に見つかった、厶-の四大原動力

 線刻画のモチーフに似ているものには、沖縄の刺青がある。琉球列島には古くから、女性の手に刺青をする習慣がある。その模様の一部には、線刻模様とよく似たものがある。
 たとえば、奄美や沖縄本島の首里のものには、よく指に彫った入れ墨で、「↑」がある。これはムー大陸の大王の印とよく似ている。そのほか、石板に出てくる文様の中で、巴模様の王家の紋章に似ているものがある。王家の紋章は、本土にもしばしば出てくる文様である。
 入れ墨は、マレー人や日本人などにもその風習があるが、手の甲に入れ墨をする例は、南西諸島にしか見られない。台湾のマレー人は顔に入れ、昔の日本では、入れ墨をするのは男だけ、そして体の露出した部分全体であった。そういった中に、南へ連なる奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島、沖縄諸島、池間島、多良間島、八重山諸島、与那国島にいたる一連の島々の女性たちの間には、「針突(はじち)」と呼ばれる、手の甲に伝統文様を入れる特異な入れ墨の習慣があった。
 図は、右手の手首に描かれた文様で、かつて沖縄本島の婦人たちに「五ツ星」と呼ばれていた。かなりのバリエーションがあり、沖縄本島以南では1つの菱形と、それを囲む4つの三角形から基本的に構成される(1)。奄美大島や徳之島、沖永良部島の場合は、全体として正方形だ(2)。八重山では(3)、与論では(5)の形もあった。
 さて次に、左手首の文様はどうだろうか。(13)の黒い円は黙して語らないので、奄美大島(14)の例で見てみよう。
 これは花の形を思わせ、「タンポポ」「菊の花」「アマン」と呼ばれた。八重山では(15)の一文様で8つの花弁だが、与那国島では6つになる(17)。(※バビロニアでは「たんぽぽ」、日本では「菊花紋」と呼ばれている。)
 八重山の老婆たちは以前、「われわれはヤドカリから生まれた生き物なので、この形は先祖の印と教えられてきました」と語っていた。(※この「ヤドカリ」とは大洪水や大激変を生き抜くための「船」もしくは「シェルター」てきなものでしょう。)
 ヤドカリ文様は、沖永良部島では(20)(21)になり、大島の手甲部文様(23)との共通性を感じさせる。要約すると、図の(1)から(12)までの右手の文様は「十」を表し、(13)から(23)までの左手の文様は「アマム」を表している。
 「十」は、与論島では、針路を示す記号としても用いられた。(20)に見られる文様は左手首の内側に彫られ、これがないと門内に入れてもらえなかったそうだ
 このように、南島の入れ墨風習では「」と「×」の印が最も重要で、文様の中心となっていた。そして何よりも重要なことは、この印が与那国島の“遺跡ポイント”から発見された石板にも彫られていたという事実である。
 では、このような印は日本古代に存在したのだろうか。ここでは、柳田国男の論文『阿也都合考』に出てくる「阿也都古(あやっこ)」に注目しておきたい。その研究調査によれば、昔から東北地方では「×」印が「ヤスコ」と呼ばれてきた。これは一種のタブーの意味を持っており、阿也都古の斜め十文字は、草を引き結んだ形と推定している。つまり、その場所が誰かに占有されていることを示す標識だ。この印を鍋墨で描くと火の神に保護され、魔除けになるということで使われていた。
 

 ◆徐福と蓬莱三山

 チャーチワードの「ムー大陸」の海没後、それはポリネシアの島々や、三神山のあった地域、すなわち日本列島付近が残り、ムー人は生き残った。この三神山について『列子・湯問篇第五』では、こう説明している。ここで「三万里」とあるのは、漢代の標準里程を現在の数値に換算すると約1万2000キロとなり、チャーチワードのいうムー大陸とほぼ匹敵する。
 渤海の東方、幾億万里の彼方に大きな海の谷がある。その谷の中に五つの山。“岱與(たいよ)”“員喬(えんきょう)”“方壺(ほうこ)”“えい洲”“蓬莱(ほうらい)”がある。周囲は三万里もあり、山上の高殿には数え切れぬ仙聖が飛来している。
 この列子より300年後、前漢の時代、司馬遷が記した『史記・封禅書』には、次のように書かれている。この記述によれば、三神山とは、どうも水没しつつある陸地だったらしい。黄金や白銀の宮殿とあるが、これはまさしく、ムー大陸の白い神殿を想起させる。琉球列島には、かつての珊瑚礁が固まって岩石となった石灰岩が豊富にある。石灰岩でできた建造物であれば当然、白く見えよう。
 言い伝えでは三神山は渤海のなかにあり、さほど人界から離れてはいないが、目の前まで行くと風が吹いて船が遠ざけられてしまう。しかし行き着いた者もある。そこには多くの人が住み不死薬がある。鳥や獣まですべての物は純白で、黄金や白銀造りの宮殿が建っている。遠くから眺めると雲のように見えるが、近づくと水中に沈んでいる。 … 昔から諸侯たちは、この話に心ひかれ、幾度も三神山を探し求めさせた。
 ナーカル粘土板碑文から、チャーチワードはムー大陸のシンボル、「山」の字形を読みとったと述べている。このシンボルは海上に浮かぶ三つの陸地を示しており、始皇帝が“徐福”に大船団を与えて探させた三神山そのものである。そして古代中国の権力者たちが実際に追い求めた最も尊い陸地が、三神山のひとつ“蓬莱”島であった。
 “逢莱”にまつわる伝承・伝説は、日本から台湾にまで数多く残されている。確かに、チャーチワードも彼の書の中で、日本はムー文明と深い関係を持つことを指摘している。
 この“蓬莱”を、沖縄の琉球王が明記している。琉球王朝隆盛時代の1458年、時の尚泰久は青銅製の「万国津梁の鐘」を首里城内に設置した。この総重量712キロの堂々たる記念物に記された銘文に、沖縄こそ“蓬莱”にほかならないと、高らかに宣言している。
《琉球国は南海の勝地にして、三韓(朝鮮)の秀を鎮め、大明(中国)を以て輔車となし、日域を以て辰歯となす。この中間に在りて湧出する蓬莱島なり》
 徐福という人物についての最初の記述は、紀元前97年の前漢時代に司馬遷(前145~86年)がまとめた中国初の正史「史記」の「秦始皇本紀」に登場する。ただしそこには、斉人“徐市”の名前で紹介されている。「秦始皇本紀二十八年(前219年)の条」には、《童男女数千人を海に船出させ、仙人を求めさせた》とある。始皇帝が仙人を探すために、徐福を童男女数千人とともに船出させたというのである。
 また『列伝』には、《方士徐福を船出させて仙薬を求めた。多くの珍宝を持たせ、童男女3000人、五種・百工を連れて行かせた》とある。さらに『廬山記』という書物にも、1000人の童男女、五穀の種子、航海・天文・呪術・船大工・記録者・薬司官などの専門職を始皇帝が徐福に託し、500艘の船に乗せて送り出したと記されている。
 徐福の“方士”という肩書については、呪術や各種の自然科学、文芸、医学などに通じた万能学者と理解すればいい。時の権力者に、その博学知識を提供して生活を営んでいた人々である。そして各記述によれば、“仙薬”を探すための東方海上への大航海計画を始皇帝に進言し実行させたのが、徐福であった。
 “方士”である徐福は、歴代中国の道教的祭祀信仰を知り尽くした、プロの宗教家だ。また、徐福伝説のモデルとなった古代中国からの大規模な海外移住は、異なった時代や地域で何度も繰り返されたという意見も多い。つまり、のちに徐福に一本化された船団指導者が各地にいたという考え方である。
 聖徳太子の時代、大和朝廷には徐福が合流した富士王朝=高天原と合体していた。だから、太子が大王を「天皇」と呼びならわしたのは、道教を知り尽くしている徐福一族が彼のブレーンだったのに違いない。道教では、天の中心である北極星を「天皇」と呼んでいたからだ。
 『史記・淮南衡山列伝』には、徐福一行は東海の神仙国で海神に会い、不老長寿の霊薬を見せてもらうところまではこぎつけたが、始皇帝が届けた礼物が少ないという理由で譲ってもらえなかったと書かれている。そこで徐福は一度中国に帰り、《常に大鮫に苦しめられたために、目的地に着くことができませんでした。弩(連発式の弓矢)の名手をともにつけてください。もし大鮫に襲われたら連弩で射止めます》と、始皇帝に訴えた。
 9年後の紀元前210年、徐福は再び童男女3000人を連れて船出し、渡海先で平原広沢を得て王となり、二度と中国へ帰ることはなかったという。その場所はのちに、「亶洲(たんしゅう)」と言い伝えられた。
 徐福が始皇帝から与えられた船団規模に注目する必要がある。数千人の童男女と、さまざまな職業のオーソリティーたちである。それらの人々を警護する兵士まで含めると、1万人規模の大船団が編成されたかもしれない。当然ながら大量の生活物資、農作物の苗や種子なども船積みしたはずだ──米も!。童男女とは、将来的な人口増殖のために動員された未婚者たちと解釈できる。これはどう見ても、周到に準備された、まるで旧約聖書の「ノアの箱船」に描かれたような大移民プロジェクトである。
 下記の沖縄創世神話が、伊弉諾伊弉冉の国づくりにも似ているが、一度帰国し二度蓬莱へ出港して戻らなかった徐福伝説にもそっくりです。
 琉球王朝の正史「中山世鑑」第一巻「琉球開闢之事」の冒頭には、こうある。
 《昔、天城に、阿摩美久(あまみく)と云神、御座しけれ》。つまり、“阿摩美久”という創世神が、琉球の島作り国作りを手がけたという。アマミクはアーマンチューとも呼ばれる女神で、もう一柱、シニリクという男神がいた。『琉球神道記』では、アマミキョとシニリキョと呼ばれ、この二神が天界から琉球へ降りてきて、樹木を植え国造りをした後に二男一女をもうけたとある。
 1713年刊の「琉球国由来記」の中にも、重要な記述が見られる。
《かつて聖なる世界ニライカナイから、久高島に穀物の種子が入った小さな瓶が流れ着いた。しかし、―つだけシラネチャ(稲の種子)が足りなかったので、アマミキョが天に祈り鷲をニライカナイへ遣わして、それを求めさせた。すると、300日目に3本の稲穂をくわえて戻ってきたので、それをウケ水とハリ水に蒔いて育てた》
 アマミクが鷲をニライカナイへ送り、持って帰らせた籾によって、琉球では稲作が始まったのである。あるいはまた、他書によるとアマミク自身が天に昇り、五穀の種子をもらってきたともある。
 『中山世鑑』には、次のような記述もある。
《阿摩美久が天へのぼり、五穀の種子をもらってきて麦・粟・稗・黍の数種を初めて久高島にお蒔きになった。稲は、知念大川の後の玉城おけみぞにお蒔きになられた》
 そこでアマミクたちは、琉球の国造りの祖として奉られたというのである。注目したいのは、アマミクがニライカナイへ使いを出して300日日、ほぼ10ヵ月後に琉球へ戻ってきたという内容だ。これは、“徐福”が9年目にして一度始皇帝の元へ帰ったという『史記』などの記録と、符号するように見える。
 伝承では、このアマミクは、久高島から来て沖縄本島南部の浜へ上陸したとされる。これは、徐福らが南東に移動して仙薬を見たというのに符合するように見える。その上陸地点はヤハラヅカサと呼ぼれ、香炉が備えられた記念碑の写莫も残っている。

参考文献:

 『アイヌと縄文』ちくま新書 瀬川拓郎著
 『縄文の言葉』花伝社 大木紀道著
 『サンカ社会の研究』現代書館 三角寛著
 『海底宮殿』実業之日本社 木村政昭著



メ翼:天上ニュース(一)UFO艦隊の悲運 (P248~)

 新年号の印刷時に消えて了ったUFO写真全頁と新たなお写真を追加して、初夏号に掲載分に特にお伝えしなければ成らないのは、私達PW研究所メンバーと親交厚く、集いやPW内部の裏切り続出時も、常に現天上界の
一部として助力、協力頂いたヴァリアント・ソー/キングズUFO艦隊並びにサブ艦隊そのものが、平成十七年のクリスマス・新年号の原稿編集時期に全機墜落、シリウス機も墜落しました──。
 その原因は特初夏号の各プリントに逐次説明しました通り、PWが艦隊のUFO発着港としてのはっきりした自覚が無く、艦隊の方も地球の空港の発着便の様に整備は当然(燃料、食糧の補給も含む)とした友好関係、信頼関係迄発展して居りませんでした。同盟星とは言えども、極秘事項に関わる事は、“軍隊”としては当然守秘義務を要求されて居ますから──。
 更にヴァル総監の方から“不様なことに”艦隊司令部も下士官クラスも、緊急の際の(機器不全とか、機体損傷等から生じる)上官即ちこの度は地上に降りておられたヴァル総監(霊体)及び司令部、火星守備隊司令部(総て霊体と成って居られる)等の許可は不要。生存者のリーダーが指揮を取るべきであるのに、そういう艦隊メンバーの職務内容に関して無自覚に等しかった、との御発言。(※先生が昇天され、現天上界の方々が去られた後の私達も同じです!各人がその環境の中で最良の判断を下すことが求められています。)
 即ち緊急着陸要請もヴァル総監との間でやり取りする物との思い込みで、火星メンバーの多くが、既に、不服従、抗命罪によって、ヴァル総監に、異種交配による人間とは別の生物に変えられていた(編集部註--異種交配実験は、劣悪化した火星環境での生き残りを目的としたヴァル総監の研究であり、反乱隊員は厳罰に処されるところ、納得の上でその処置を第二の生として受け入れたようですが、この実験は天上界から人権無視の非人間的な処置として道義的に非難されました)──結果、火星の沙地化で亡くなられた司令部や火星の総指揮官兼任のキングズ総監(この方は既に料理担当のチャンさん共に千乃車に居られて)以外は、尉官や下士官クラスしか上空を飛ぶUFOに搭乗の者は居られなかった──。
 しかし、尉官や下士官クラスの緊急着陸要請も、此処PWには発着場が完備されて居らず、後に用意された場所は間に合わずで、艦隊機全機墜落。加えて同盟星のシリウス機三機も、調査任務を果たす前に、食糧、燃料が尽きて墜落死されて了いました。ヴァル総監によれば、山中の空港設備も無い所は、当然必要と有れば緊急着陸をすべきだ。その後の責任は政府と総監の方で解決されるべき事で、燃料不足共に空調設備も作動しなくなり、当然隊員の窒息死が生じる──とヴァル総監の御叱責でした。
 此処地球は日本国の、PW研究所員並びに正法会各集いからの参加ボランティアが、ミカエル様方天上界と霊能仲介者の千乃(及び亡くなられた艦隊メンバーや火星守備隊員全員)に、食糧調達、千乃の月刊誌発行手配などの助力をされて居りますが、過激派ゲリラが圧倒的多数で、卑劣の極みの攻撃続行。中国や北鮮の援助を得て、S波兵器供給が有り、何の不自由も無いゲリラ戦の餌食にされて了わない為に、PW関連メンバーの守備に当たつて居られる艦隊は、生命を賭けての守備で有ったという事です!! 然るに正法会各集いのメンバーは、“オンブにダッコの新人類式生活観”で、PWの千乃、他の方々への助力、協力を、マスコミや警察庁長官の独断中傷発言に“気後れして行わなかった”──相手は最先端
と自負する科学兵器を常用して居るのにです!!
 即ち、現行の正法会は集いぐるみ、元会長代行に誑かされ、背反続出。会長を見捨てて平気の“自己愛過多症”人間しか居ない。会長を悪魔の共産党系列軍団の餌食にして、“痛む良心”を持っていない。背反グループ追従メンバーしか居なかったという事でしょう。そして天と共に地球の破滅から脱出、外宇宙へ、不自由かも知れないが新天地に移住、開拓、定住の心構えが出来ていなかった。そして“UFO艦隊の悲運”に終わったのです。
 しかし希望は有ります。シリウスの方々が主に、霊体の集合体が出して下さった美しさの極致の日暈の数々!エノク書の預言が成就され、尚も救出して下さる新しい天の下に選ばれた正法会メンバーが、時期が来れば新天地に向かうのです(※この預言はまだ有効なのだと思います。──その通りです!千乃)(そして、現在行われている八人の長老との交流がその前哨なのでしょう。北 2019年6月9日)。出来得ればミカエル大王様及びレイナ・エル大王妃も共に──。(後者の存続の確率は生体、霊体共に非常に低いものですが──。)
 これは一連の夢物語では有りません。慎重に計画された天と同盟星の方々の最終の御計画なのです!!
※以前は、UFO全機墜落は、イエスが雲に乗り出現するというヨハネの黙示禄が決して実現しないことを述べられていると思っていましたが、これも含めてもっと深い意味が込められていることを知りました。 北
           (二OO五年五月二十五日記)


メ翼:天上ニュース(二) 二〇〇五年特別盛夏号(P251)

ツタンカーメンとアンケセナーメン

 二人は父を同じくする異母兄妹で、父はアクエンアテン、世界で最初の一神教を唱え、自らを神の預言者と考えて宗教改革を断行した人物とあります。又、その妻ネフェルティティ王妃は、ツタンカーメン王の義理の母に当たり、エジプトではクレオパトラと並ぶ美人と言われているとの事。夫王と共に熱心に太陽神アテンに帰依し、夫の宗教改革を推進した。只、アクエンアテンの治世第十二年目に忽然と姿を消す。遺体が残されず、胸像が有るのなら、恐らく夫以外の宗教改革に反対する勢力、若しくは人物に殺されたのかも知れない。ツタンカーメンもアンケセナーメンと共にアテン神への信仰を持ち、改革に反対する重臣アイに殺害されている。旧教保護者は断固として改革に反対、変革者を裏切り者として殺害するのは、洋の東西を問わずです!
 此処に不思議な展開が有った。即ち、父以上に熱心にアテン神を信仰し、更に太陽その物を信仰したとされるツタンカーメンは、その太陽が異星人の宇宙船であり、宇宙人をも神と崇めた。アンケセナーメンも同じく崇拝者と成り、その神の子を二人も産むが、十九才のツタンカーメンに世継ぎの誕生の記録は無く、アンケセナーメンが(神)の子を死産したが、ツタンカーメンは暗殺される。(※異母妹同士の間に生まれた長子が第一王位継承者です。つまり、優秀な遺伝子を王としようとした。)
 この死産の原因はヴァル様やドクターによれば、恐らく、地球人とニビル星人かプレアデス星人(と同盟星の方の御証言)の、DNA遺伝子の何らかの不適合が有り、産まれても育たなかった様だと言われました!
 現代の言わゆるハイ・ブリッドは、医学の進歩に伴い、体質改善の方法が施されれば、遺伝子不適合などでは死なないとドクター方の御証言でした!(⇒[古代エジプトと人類創造の異星人]参照)

○“グレイ”タイプエイリアン

 古王国時代のエジプト、カイロのサッカラ村に、プタ・ホテプという古代の賢人の墓が有り、その壁画に「グレイ」と呼ばれるエイリアンが描かれている。この生物(?)はプレアデス星人から技術提供が有り、ニビル星人が昆虫と人間の(ハイ・ブリッドを創った。どの異星人も人間の世代を越しての延命策を試みていた証拠として、先進文明の後続者(?)たるヴァリアント・ソー総監は大いに安堵されたとの事。頭の固い正法背反者グループは、前世紀の遺物である事が立証されました!
 『ムー』月刊八月号の十八頁「数億年前にすでに人類は存在していた!?」の疑問は、プレアデス星人からニビル星人の、太陽系新惑星訪問と探査の足跡を語る以外、何物でも有りません。古代地球に人類は誕生していませんでした。進化論は正しいです!
              (二〇〇五年七月八日記)

☆ついでながら、ヴァル総監は、この七月一日を以て、全地球及び新天地に於での総合人事の責任者としてエル・ランティ前王様並びにミカエル大王様から任命されました。


メ翼:雑メモ(二〇〇五年から二〇〇六年特別クリスマス・新年号)
   『自然界の進化の必然性は生体の存続と補償作用に基づく
    及び生物界の進化の法則について』
(P253)

☆人間を含め恒温動物の体温が40℃前後であるという事は、中生代三層期の頃の陸生動物が厚い雲の層の下、温暖な気候の中で繁栄した巨大爬虫類時代の名残りである事(※イカの線刻文字にも天蓋が描かれている)。その理想的な環境維持を願っての40℃前後の高温状態は、臓器の保護の為に必要であり、現行の変温動物の小型爬虫類は、後の気候変動や寒冷期並びに冬期に順応する為、冬眠等の、極度に代謝を低めて体温も低めに維持する。従って採餌の必要も減る──という環境適応の手段を取り、個体の生命維持、存続を計って来ました。
 目的には、環境の制限により摂取量が減り、個体の矮小化が始まって、同時に親は種の損失を防ぐ為に、産卵数を増やした。
 これが個体数の増量、繁殖に繋がり、生物界は自然界とのバランスを保つ手段としました。環境悪化の下では成長が妨げられ、奇形が産まれる。そして奇形は環境不適応により、死亡し、個体数が減少。ダーウィン理論の(書いたのはダーウィンでなくても、一応その名を冠しか科学者グループ)“適者生存”の法則が自然界(も一種の生物と見做す。)及び生物界を支配するのです。
 これを総称して“進化”と言います。又、環境劣悪化により、個体の損失が増える場合は、自然界、生物界は、如何なる形でも種の存続、保全を計り、例えばえんどう豆の花がピンク色ばかりで有ったり、ネコや犬なら、白黒のブチばかり等、言わゆる“雑種”が増えることに成ります。
 自然界、生物界が環境に一歩譲った形で、劣性の種による適応形態となるからでしょう。正常なものも、奇形も、総てが生体、個体の存続と、種全体の補償作用としての“進化”が起こる──。
 これは例えば、人間の場合には、不具や怪我を補う為、不自由な四肢の代わりにより健全な方を用いるのと同様の効果と目的を持つ──。左腕や左手が右腕や右手と同様に機能する。或いはそれに近い能力(形質等)を獲得するのと同様。前述の補償作用であり、“ー種の進化”とも言えます。(※脳は臓器の一つですから、その機能も同じで、補償作用があります!)
 尚、“進化”の反意語は“退行”ですが(逆進化とも言うとヴァル様から)、退行は生物の場合、一定の枠内の成長のリズムや速度が阻害され、大抵の場合は奇形として表れます

   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

☆本項目のテーマの進化論に関して、太古の巨大爬虫類存続の手段は、卵生であり、その次世代は寒冷化などの環境劣悪化が原因で、小型化する。これは親の世代が卵の胎生時期に充分な食糧を獲得出来ず、中の雛の栄養と成るべき卵黄が、多少不完全なままで産み落とさざるを得なくなるケースが多く、小型化、縮小化に繋がったのでしょう。(孵化率低下の要因)
 しかし卵生の太古の動物が、南米のガラパゴス島の様に赤道線の周辺の島嶼に多く見られるのは、熱帯や海底域の温水が陸地を恒常的に暖める故で、人類の祖先(?)としての巨大爬虫類は同様に恵まれた環境を選択して繁栄しました。

   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

☆赤道が熱帯域であるのは、地球が南北を縦軸とする、はぼ垂直の球体であり、太陽の引力に固定されて、自転の遠心力が働き、中央部分が赤道ラインに沿って膨らむ。即ち、その部分が太陽により近接した形状を維持する。それ故に南北極は凍結する寒帯であり、赤道付近は必然
的に熱帯と成ります。
 真空である空間の連続する外宇宙は絶対零度に近いとの事。それが故に回転する恒星や熱惑星、矢の様に走る彗星の熱エネルギーが宇宙を溶鉱炉の様に熱するという事態は避け得るのでしょう。
☆『ジュラシックーミステリー恐竜絶滅と重力の謎』権藤正勝著(学研)を読み、この巨大古生物について知らなかった事柄を多く学びました。
 巨大化した原生動物〔当時の超大陸パンゲアは海水が少なく、大方の巨大生物が陸上に褄み、しかも現在よりも重力が小で、中生代三畳紀の中期は(二億四五〇〇万年前人一億五〇〇万年前迄)、赤道を挟んだ大陸の内陸部の広大な半乾燥地帯が広がり、気候は大陸の大部分に
亘って温暖。沿岸部は木生シダやヤシ、イチョウ、針葉樹などの大森林に覆われていた。〕即ち、生物学的には恒温性の恐竜は、形態的に変温性の爬虫類と類似の生物ですが、構造的にも両者は似かよって居り、それぞれの血液や体液を送る血管やリンパ管の、大小の原始的な循環
器系の発達の差に関わらず、現生人類の身体構造と比べると類似点が多く、仲々興味が有ります。進化の観点から見て、恐竜が鳥類に進化したとすれば、その中間種は翼竜のはずで、それが種々の鳥類に進化した。まずは飛べない羽毛恐竜、“ディロング”のような小型化した、しかも気候の寒冷化に適応して全身に羽毛を生やした個体に成り、次いで周辺のシダ類などが不足すると、腕を動かして浮上、近隣に餌を求めて移動する。個体が卵を孵化させて、種を増やす。世代の変転は、腕の羽毛が翼に成り、上空に飛び出す。只、翼竜の体形が翼を持つ蝙蝠の如きものであるとすれば、ディロングは恐竜直系の別の種として出現し、種々の鳥類に進化したのかも知れません。(恐らくそうでしょう。現在も赤道の辺りに翼竜らしきものが生活していると報告されています。)
 進化の系統樹は近縁の者では、類人猿──〔アウストラロピテクス(猿人)〕──ヒト(原人)の系統とサル類への系統との二種の枝分かれを示します。更に、恐竜の血管やリンパ管であるバハース管などを見ると、これが人類の祖となる古代生物かと感慨を新たにします──。
☆しかし、千乃が何にせよ、原稿を書く折には、実に過激派の妨害激しく、言語を絶するほど!
 頭全体にS波の猛攻。強引な失禁の繰り返し。咳、痰、嚥下障害、催眠光線。何が目的で出版社の営業、編集、執筆の逐一の妨害を行うのか知りたいですねえ。
 千乃がボヶ老人である事を天下に証明し、正法誌を読ませない為ですか? 矢張赤化の国に住む人間の考える事ですねえ。自分達が常に言論統制を受けているから、他人にも都合の悪い事は喋らそない。自由の国で自由を満喫しながら、他人には言動を規制する。中国、朝鮮系は夜郎自大の誇大妄想型でしか無い。しかも日本人(だかハーフだか)ゲリラは、何でも御無理御尤もと四六時中ついて歩いています。嬉しそうに二コニコ、ニヤニヤして老人殺しに専念! 警察関連の職務強化、遂行をひたすらお願いしたいです!!
 事ほど左様に日本は共産主義という思想に首迄浸かっていますが、一体彼等が国益に類する事を何かしましたか? 過激派という殺人グループの支援に徹している連中は、社会党関連ぐるみ、日本国の衰退を目指して、暴力を以て日本国民を痛め付けている──。日本国の平和と安寧を願い、国威の存続を望むのであれば、政府は左系暴力団を先ず排除すべきです。
☆連日過激派の攻撃で痛め付けられる千乃の元に、皇帝ペンギンの生態を真加知以子様が贈って下さいました。リュック・ジャケ監督のドキュメンタリーのカラー印刷版です。南氷洋に囲まれたマイナス40度の南極大陸、アデリーランド附近のデュモンデュルビル基地から撮影班が出掛けて、四千から六千羽の集団が棲息する実態を一年掛けてドキュメンタリーフィルムに収め、皇帝ペンキンという珍しい種をカラーで紹介してくれています。

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ペンギンの語源 ~ウミスズメ、オオウミガラス、そしてペンギン~

 現在、地球上には十八種のペンギンが存在し、すべてが南半球に生息しています。ところが北半球には、ペンギンとそっくりのウミスズメという鳥類がいるのです。「北半球のペンギン」とも呼ばれるウミスズメは、体全体が羽毛に覆われているところも、白黒の模様も、ペンギンそっくり。歩き方までよく似ているのですが、ペンギンとはまったく別の鳥類です。ペンギンはペンギン目。ウミスズメはウミスズメ目に属しています。ペンギンの羽毛はとても短く、うろこのよう。ウミスズメの羽毛はガチョウの羽毛に似た長いものです。
 ペンギンの体長は種類により、四十~一一五センチとまちまちですが、どれも立ち歩きをするのが特徴です。鳥なのにまったく飛べません。他方ウミスズメはアヒルの大きさで、立派に飛べます。
 ペンギンの得意技は、ダイビング。水かきのついた脚を最大限に活用して、三〇〇~四〇〇メートルの深さまで、十五分間も潜り続けることができます。ウミスズメも優秀なダイバーですが、二分以上は潜れません。
 ウミスズメの仲間に、今はもう絶滅したオオウミガラスという鳥がいます。体長八十センチ、体重は五キロほど。オオウミガラスは十九世紀末まで北大西洋の沿岸に生息し、海に潜ってエサを獲っていました。その後、乱獲によって絶滅しましたが、“ペンギン”という名前はもともと、ヨーロッパの船乗りたちが、オオウミガラスにつけたものと言われています。「ベン型の羽根をもつ「pen-winged」がなまってペンギンになったという説や、オオウミガラスの頭の白い模様から、ウェールズ語で「白い頭(pen gwyn:ペンギン)」と呼ばれるようになった、という説もあります。
 英語でペンギンは[pengui]、オオウミガラスは「great auk」、といいます。
       ──『皇帝ペンギン』よりの引用文-

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☆周辺の氷と凍て付いた土地と半透明の巨大な氷丘、浮氷の浮かぶ青い南氷洋の海等を背景に、アムンゼンやスコット探検隊で有名な南極大陸、と一口に言いますが、それが氷に閉ざされた巨大な大陸だとは知らかったので、新鮮な驚きでした。曾ての南極探検がどのような物であったか、“ブリザード(雪嵐)に閉じ込められた”とはどのような状況かも目で把らえ、頭で理解する事が出来て、現代文明の科学の力を改めて嘆賞しました。この大掛かりなドキュメンタリーフィルムは歴史的な大作だと言うべきですね! さすがフランスは文化の国。シャンペンと社交で現を抜かしている所か、他国が真似られない様な冒険を成功させる高度の文明国である事が判りました。来たる地球人類滅亡の時に、このような人々は宇宙へ脱出し、それこそ新しい永住の新惑星に無事移住して欲しい。
 南極大陸の神秘のベールが開かれた後に、地球の終焉が来るのは、真に情けないですが、可愛いひよこのペンギンがグレー色の産毛に包まれ、一メートル強の親鳥に守られて育ち、親子共にヒョコヒョコと左右に揺れて歩く、他の鳥類には見られない実態も、地球の諸々の生命も、“永遠の死”が奪って了う──それは辛く悲しい事です。愛らしい自然の動物や鳥達共に、人類の九十パーセントにも、“永遠の死”が訪れ、繁栄した地球上の様々な種の進化の結実共にその息の根を断って了う──。地球ほどの理想郷に相応しい星は、この太陽系のみならず他の恒星系にも存在しない。それを様々な科学兵器で汚染し、破壊した地球人類! その惑星こそ“ティルムーン”。“理想郷”と言うに等しい、素晴らしい、神の恩恵により人類に与えられた唯一の移住の地で有ったのに──。
 数年後には、幸せな自然の生物達は、不幸にも悪魔の手先の愚かな人類に、命を断たれた者と共に、その生命を終える。そして十数年後にこの星の生命は終わる。科学文明と文化の果てる時、この星の生物が一斉に宇宙の闇に消えるのです──。
 ペンギン他南極(北極にも渡り鳥が休憩に来る)に棲む鳥達が一様に喉から腹部、脚にかけて真っ白な理由は、氷の大陸の総てが白で、保護色にする為。そして背面が黒いのは、仲間との連絡の標識(くちばしと耳の後ろにオレンジ色のポイントが有るのと同じ。種族のマーカーです!)。且つ日照による光と熱を背中で吸収して身体を暖める為。又、水面に腹這いに成ると、石か小さな小山に見えるのは、上空からの天敵を欺く為──でも集団移動なのであまり効果は無いようですが、単体で居る場合のカモフラージュとして役立つ面も有ります。ペンギンのひよこは、全身灰色の“産毛”に包まれています。これは寒気を防ぐ為と、親達とはっきり違う灰色で、やはりマーカーとして役立つ為でしょう。親鳥に識別出来る体色でも有り、ニワトリの“ひよこ”が黄色の産毛に包まれているのも同じ目的。但し南北極は白黒の単色しか無いので、その中に溶け込む保護色です。人間の住む都会のカラフルな風景や、田舎の田園にも合わせて茶や黄色を基調とする“ニワトリ”は、黄色一色の“ひよこ”。天敵の目を欺く為のもので、自然は生物や種の存続に素晴らしい保護色を与えています──。
 又、ペンギンが立つたまま生活をし、殆ど腹這いに成らない(主に歩いて、疲れた時だけ)のは、そうする事で凍てついた大地に凍結されない為。体脂肪を蓄え、保温の効率を高める。更に少しずつ集団で動いて、互いに暖め合う。極寒の地の生活はこのような形で種の保存を計る。自然の智恵は素晴らしい。又、ひなを短い両脚の間の抱卵嚢の中に入れて、保温してやる。(親もこの形で暖まり、互いを氷の地面から吹き上げる風や冷気から守れる素晴らしい種族保存の智恵です。)エサをやる時も立つたまま向き合って、ひなは仰向けに口を開け、親は首を垂れて、胃の消化液の混じったエサを落としてやる。──小鳥の様に巣も作らず、巣の中に居るひなに外から口移しでエサをやる事も出来ない、脂肪の太い筒の様な身体──これも保温効率を高め雌雄のカップルが子育てする為の必然の姿勢である事は、環境適応の素晴らしい智恵です!

☆前述のように、生物の進化の法則は、食性による種の存続であり、且つ環境の変化が一定の食性の習慣を変えざるを得ない時に、生物は種々の変態によって適応を計り、且つ増減の変化をも伴います。
 宇宙の誕生は微粒子から素粒子へ。素粒子から原子へ、原子から分子、細胞へ、細胞から物質へ。物質から生体へ。生体からグループ、そして集団へ。これは生命有る物の生成過程であり、それ等の環境を構成する大気や土壌、岩石或いは海洋等の生成は、生命体の発祥以前に原始惑星として、ガス体から燃焼する核、マグマの噴出による火山の噴火、火山岩の集積による石灰岩、岩石の生成等が有り、そして固体惑星として、海洋共に生命体の発祥の場が形成されるのです。
 生命体の発祥しない惑星は、他惑星の引力バランス、恒星からの距離等の制約により、酸素呼吸を行う生命に取り、大気、温度面に於て不完全若しくは不適で有る、という事が実証されます。
 宇宙は生命有るものであり、そして又、ギリシヤ神話によれば、“プロメテウス”の火が人間に与えられて文明が興り、ホモ・サピエンスの進化、発展が歴史を作ったと成ります。この“火”はホモ・サピエンスの原人からクロマニョン人に至る過程で、“ヒト”に利用され始めた事が人類史に記述されて居ります。
 そして生命の火が燃え続ける限り、生命体、生物体、ヒトは進化発展し、文明は進展を続けてきました!。
            (二〇〇五年九月二十五日記)

   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

☆最近PW研究所ではハエを殆ど見かけなくなり、夏期にも千乃車に一匹来たきりでした。その代わり小バエがショウジョウバエと同数位は見掛けて、昨年、一昨年と年々数が目減りしてはいますが、その時期のハエよりは少し多いかな位のものです。
 去年は世話をしてくれた人が上手で、三日に十五匹単位で生まれていましたが、病気で敗退。最近は強度の乱視の受け渡しでかなり死なせたり、今年夏には低血圧の女性がたくさんの氷を入れたトレーを、小バエが育っている観葉樹の鉢に、それも溶けて殆ど水の袋を上側の台
に取り落とし、氷水をたっぷり注ぎ込んだもので、十匹一度に溺死させたり、全く新人類は過保護世代で、何かの世話をする事が非常に苦手。中国の“一人っ子”政策よりも不毛の社会に、昭和一桁世代が付き合わされている現日本は、創造や育成の喜びの無い社会です。
 その社会で、PWは特に生物、植物不毛の地域で、総ては過激派ゲリラによるS波猛攻の領域の所為ですが、生物に与える影響が、周辺の草木が枯れる事で、卵生の昆虫は餌が無くなり、メスが栄養状態の劣悪化から卵を多く生まなく成った。勢い生まれる幼虫が減り、そして
餌を得られない事で、自然界の食性に頼る者はどんどん数が激滅。それに追い討ちを掛けて栄養が不足するメスからは、オスの幼虫が生まれる確率が高く成る。人間でも同様ですが、健康で栄養のバランスの良い母親からは女の子が生まれる。悪い者からは男の子。それと同様の事が生物界で起こっているようです。
 つまり栄養不足の昆虫からはxy栄色体を持つ者が多く生まれる──ざるを得ない。xx染色体のメスは生まれないか母体で育たない。
 結果としてオスばかり産まれると、卵を産むメスが激の逆を行く異変が起こり始めています!!
 スカラー波の被害は一人植物層のみに留まらない。生物界にも環境の劣悪状態が進行しているのです!
 エゴ新人類日本人は生物殺し民族です!
               (二OO五年十月十日記)

☆元々は恐竜は陸生の動物で有ったが、氷河期に水棲動物に成った。その理由は、陸上では得られなかった古代の魚類や珪藻を食性とした為。
 そして魚類から両生類、爬虫類や鳥類に成る者、また恒温の四足動物へと進化し、類人猿からニビル星の科学者のDNA移植により、猿人、原人へと進化、ホモ・サピエンスが誕生した。
 同盟星の異星人の方々も同様の進化を経て、人間へと伺っております
 最初から多種多様な生物が居たなら、それは“進化”とは言えず、その場合は矢張、創造神の手を経て、如何なる微小なる生物も(ミイデラゴミムシ、ヤブカ、ダニ、ミミズ、廻虫、せん虫、十二指腸虫など)創造神の創意工夫により、発明されなければならない、複雑怪奇論となる──訳です!!
       (二〇〇五年十月二十四日記)

☆“進化”の反意語は“退行”ですが(逆進化とも言うとヴァル様から)、退行は生物の場合、一定の枠内の成長のリズムや速度が阻害され、大抵の場合は奇形として表れます。それは主として環境の影響を受けるものであり、古代生物の恐竜が水中の首長竜に一部変身したのは、寒冷化した或いは氷結した陸地での餌の獲得がうまく行かず、且つ個体数の増加により、水中の珪藻を食し、後には発生増加した小魚や中魚を食べるように成った。
 水中生活が長くなると必然的に手脚が退化して、現在のひれで水中を早く移動出来る様に成る。魚類を早く捕らえる為の進化とも言えます。必要は発明の母であり、進化の母とも言えますねえ。斯様に退化した器官も有り、存続しない動物も有ります。
 これは転じて人間社会に当てはめると、新人類なる怠惰な人類は、平和な平成年代で、衣食が足り過ぎて努力せず、進歩しない。性質温和で身体は軟弱。そしてどうやら昆虫や鳥も更に自然界の衰退により、栄養不良状態に成り、オスが多産される傾向は、本文中でその理由を述べて居ります。
 従って自然の動物界は、此処の現状では絶滅に瀕していると言っても過言では有りませんり!! 他県は如何でしょうか。石川県の横暴なクマ殺しは、クマが食べる木の実のタネが落とされず、野生の雑木林やナラの木が生えずにあるのは、人間の居住地周辺の花畑や温室栽培のガラスの中の熱帯植物! 到底豊かな緑とは言えないエリアで、小鳥や野生動物の閉め出し、殺戮は、新人類の頭の中味、精神の表れに相応しく、コンクリートジャングルが広がり、冬には雪崩の多発、夏秋には台風に荒らされる県でしょうね。似た様な県も多く、動物殺しが人間殺しに繋がるというお粗末な国作りです。愛情欠如型の日本人に相応しい国でも有りますが──。
             (二〇〇五年十月二十五日記)

☆水中生物にヤゴという虫が居りますが、大きく成ると、バッタ位の大きさに成り、とびきりきれいでも無いし、小バエのように安全感が無いですね。ヤゴの方も大変臆病な虫で、餌付けが仲々難しい。体長位の触角を振り回して安心する迄周辺を警戒する。直ぐ逃げ出す。原稿や編集作業の時は先ず、ゆっくり相手をしてやれず、その故でも有るのか、六時間以上は餌を食べない。(ヤゴでは無くトビケラでした。ヤゴと間違えた所で悲劇が起こりました!)
 受け渡しの一人は虫を扱うのがうまく、手に余ると任せて了う事に成りますが、観察だけはするのは無料なので、虫の習性について大分学びましたが──。悲しいです!
 虫達は天敵から逃れてエサを食べて生きるだけなのに、一寸の虫にも五分の魂の諺通り、感情を豊かに持っています。そのトビケラの話ですが、弱い動物や、生物は種の保存の為、天敵を欺く大きい目様の斑点を目の直ぐ後ろに持っており、この虫にもそれが見られます。陸上に
上がっても水中の頃の習性を失っていない体形で、三角形の頭に口の先に、四、五本のひげ様の物が有り、それを例えばリンゴの薄切りに付けて、口と両方から汁を吸っている様に見えます。
 あれは恐らく水中ではミジンコをひげの先に付けて、吸い込むのでしょうね。これは退化なのか、進化せずに残っている器官として使っているのか不明ですが、似たの虫は、やはりその先に細く短いひげが有り、トビケラ等と同様の食べ方をしています! カトンボ(ガガンボ)は花の蜜を吸う為の管と矢張その管の先に繊維状の短いヒゲが十五本ほど付いていて、水虫の生活に適している形態です。

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