韓国軍のベトナム大虐殺
    〜 ベトナム人慰安婦 〜


 [正論 2014年07月号 韓国のベトナム大虐殺を告発する]と[週刊文春 韓国軍にベトナム人慰安婦がいた! 2015/04/02]より、抜粋しました。予備知識として、ベトナムで韓国軍は一般民衆を大虐殺した。その残虐非道な韓国軍の連隊長が全斗煥元大統領で、大隊長が盧泰愚元大統領だったのです([中国・韓国を本気で見捨て始めた世界 P58])。そいうえば、習近平も胡錦濤もチベット人弾圧が評価され、書記長になった。中国と韓国とは、極悪人は、良心の呵責も無く、国の代表に就任する国柄だと云うことを認識して欲しいと思います。
 その前に、反「日米韓」勢力に、この韓国軍によるベトナム民間人大虐殺を利用されないように注意が必要だ。その理由を[正論 2014年07月号 真の敵「慰安婦」で蠢く反「日米韓」勢力]から、まずは説明しましょう。
 日本軍慰安婦問題の火付け役だった韓国挺身隊問題対策協議会が、ベトナム戦争における韓国軍の性犯罪を告発している。北朝鮮ともつながる勢力の自由主義陣営の分断謀略に改めて警鐘を鳴らす。
 彼女らは反日だけでなく、反米、反韓なのです。日本軍の『犯罪』だけを問題にせず、朝鮮戦争における米軍の『犯罪』をも掘り起こして糾弾し、その延長線上でベトナム戦争における韓国軍の『犯罪』糾弾をしているのです。
 その反面、挺対協ら韓国の左派は、朝鮮戦争やベトナム戦争における共産軍側の虐殺やレイプなどを一切問題にしないのです。朝鮮戦争における北朝鮮軍の虐殺行為、北朝鮮国内で今も続いている政治犯収容所でのすさまじい女性への人権侵害、金正日や金正恩が「喜び組」女性を慰みものとしていること、中国で脱北女性がセックススレーブとして人身売買されていることなどを、一切取り上げません。
 挺対協ら韓国左派のべトナム戦争観および慰安婦を政治利用する姿勢などを検証することを通じて、彼ら、彼女らが韓国社会に1980年代以降、拡散した韓国版自虐史観にとらわれ、反日を通路にして、反米、反韓に到達し、最後には北朝鮮に従属する従北勢力となつているという事実を指摘する。彼等は共産軍の戦いが正義であり、日本軍、米韓軍は侵略者であるとする、反米・反韓・反日史観に立っている。そのことにより、いま、多くの日本人が辟易している韓国の反日は、これら従北反日団体の煽動の結果、作られたものであることを明らかにして、日韓両国の愛国者にとって真の敵はだれなのかを考えつつ、以下読んで欲しい。
 尚、本記事は現地を訪問した史実を掘り出している点で、非常に評価できると思う。

■産経:英議会内でライダイハン問題集会 ノーベル平和賞のムラド氏も訴え
 ベトナム戦争に派遣された韓国軍兵士による現地女性への性的暴行などで生まれた「ライダイハン」と呼ばれる混血児の問題を追及する英民間団体「ライダイハンのための正義」は2019/01/16、英議会内で集会を開いた。イスラム教スンニ派過激組織(IS)の性暴力を告発してノーベル平和賞を受賞したクルド民族少数派ヤジド教徒、ナディア・ムラド氏は「性暴力に対して団結し、正義の実現まで行動を」と訴え、韓国の戦争性犯罪である同問題への連携した取り組みを訴えた。
 ムラド氏は「世界中の紛争下で性暴力被害を受けた全ての人たちの力になるよう支援したい。ライダイハンはベトナム社会で日陰に置かれるのが長すぎた。犠牲者と家族は、壮絶な被害があったことを認識されるべきで、正義のため共に闘いたい」と述べた。
 同団体の「国際大使」であるジャック・ストロー元英外相は「韓国人兵士の犠牲になったライダイハンが求めているのは謝罪でも賠償でもなく、韓国政府が悲惨な性暴力を起こした事実を認めることだ」とあいさつ。国連人権理事会にベトナム戦争における性暴力として徹底して調査するよう申し立てたことを明らかにした。
 

西村幸祐氏

 これが本当の戦時性暴力の被害のモニュメントだけど、朝日新聞と毎日新聞、NHKはなぜ沈黙してるの?津田大介大センセーには、次回の論壇時評で是非取上げてもらいたい。朝日は1面から社会面まで埋め尽くす大特集でもすればいいのに。(2019/08/02)
   
  ■韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)と朴政権
 挺対協は2012年まで「日本帝国主義がアジア女性10〜20万名を国家制度として企画、立案して組織的に強制連行、拉致して日本軍の性奴隷にした世界でも類例の無い残虐な犯罪だ」とまったく事実に反する主張をホームページに堂々と掲げ、政治的プロパガンダのために虚偽を拡散するという体質を示していた。
 先に指摘したとおり、河野談話以降、韓国政府は慰安婦問題を外交問題にしなかった。職業外交官らは常識をわきまゝろていた。そこで、挺対協は日本の反日勢力と組んで国連人権委月会など国際舞台で「慰安婦=セックススレーブ」キャンペーンに乗り出す。クマラスワミ報告などでそれに成功すると、在米韓国入団体を動かして米議会決議を実現させ、それをヨーロッパ各国議会などに広めていった。
 そして、2004年、反米左派の慮武鉱政権に働きかけて日韓交渉外交文書を公開させ、ついに2005年8月26日、学生運動出身の左翼である李国務総理が主催する「韓日会談文書公開後続対策関連民官共同委員会」が「韓日請求権協定は基本的に日本の植民地支配賠償を請求するためのものではなく、サンフランシスコ条約第4条に基づく韓日両国間の財政的・民事的債権債務関係を解決するためのものであった。日本軍慰安婦問題等、日本政府・軍等の国家権力が関与した反人道的不法行為については、請求権協定により解決されたものとみることはできず、日本政府の法的責任が残っている。サハリン韓国人、原爆被害者問題も韓日請求権協定の対象に含まれていない。」とする韓国政府の立場を表明するという事態になる。それでも、韓国の職業外交官らは動かなかった。
 挺対協はこの慮武鉱政権の決定を奇貨として2006年7月、慰安婦問題を韓国政府が外交問題化しないことは憲法違反だとする憲法裁判所への審判請求を行った。そして5年後の2011年8月30日、韓国政府の「不作為」は違憲であるという最終決定が下った。
 これを受けて韓国李明博政権は2011年9月、約20年ぶりに慰安婦問題での外交交渉を日本に求めた。李明博大統領は同年12月、野田総理との首脳会談で慰安婦問題への日本の対応を執拗に求め、翌年8月の突然の竹島不法訪問も慰安婦で日本が誠実に対応をしなかったからだと大統領府は解説した。李明博政権の後を継いだ朴現大統領の慰安婦問題を口実にした反日外交は多くの日本人に嫌韓感情を引き起こしている。その意味で日韓関係を悪化させるという挺対協のもくろみは今最高に成功している。
 2011年12月、挺対協はソウル日本犬使飴前の公道に慰安婦像を無許可で立て、その後、韓国内だけでなく米国などで次々と慰安婦像や慰安婦の碑を建造していることもよく知られている。
 このように見てくると、挺対協が日韓関係悪化のために20年以上、慰安婦問題を十分に「利用」して来たことが透けて見えてくる。そして挺対協はその活動期間を通して継続して北朝鮮と連繋してきた。
 挺対協の活動が本格化した、宮沢稔理の訪韓直後の1992年2月、北朝鮮は南北首相会談で慰安婦問題での南北共同行動を提案し同年8月、謀略機関である労働党統一戦線部が、挺対協のカウンターパートになる朝対委(朝鮮日本軍慰安婦および強制連行被害者補償委員会)を組織した。同年12月、東京で開催された国際公聴会で挺対協と朝対委が初めて面会し連帯を確認した。両団体は日本人弁護士らと協力して国連人権委貝会などで吉田清治証言などを使った虚偽宣伝を展開し、クワラスワミ報告などにそれを反映させることに成功した。2000年に東京で開かれた「女性国際戦犯法廷」では両団体が共同して昭和天皇を慰安婦制度の責任者として告発する「起訴状」を一緒に作成した。
 挺対協とその周辺にいる従北左派活動家の大部分は、1980年代の左翼学生運動の活動家出身である。その歴史観を李発薫ソウル大教授は以下のように要約している。
「日本の植民地時代に民族の解放のために犠牲になった独立運動家たちが建国の主体になることができず、あろうことか、日本と結託して私腹を肥やした親日勢力がアメリカと結託し国をたてたせいで、民族の正気がかすんだのだ。民族の分断も親日勢力のせいだ。解放後、行き場のない親日勢力がアメリカにすり寄り、民族の分断を煽った」(『大韓民国の物語』文蛮春秋)。この歴史観にたつから、金日成が民族の英雄となり朴大統領の父大統領は日本軍出身だとして「親日勢力」の代表として非難されるのだ。まさに反韓自虐史観だ。そして、北朝鮮は政治工作の一環としてこの歴史観を韓国に広めた。その結果、冷戦が終了した後も、韓国でだけは従北左派が圧倒的な強さを誇り、反日、反米活動をことあるごとに展開している。2012年の大統領選挙でも従北左派の代表と言える文候補がなんと48%の得票を得ている。朴候補との差はわずか3.6%だった。韓国版自虐史観に支えられた従北勢力こそが、金正日が金正恩に残した核兵器とならぶ2大遺産の一つだ。
 朴政権下においても自虐史観は拡散し続けている。2014年から高校で使用される韓国史教科書を分析した遊甲済民らの研究によると、検定を合格した8種のうち5種は完全に偏向しており、2種は左傾機会主義的で、まともな教科書は教科書改善運動の成果である教学社版だけだった。採択率を見ると偏向教科書が90%という結果だった。教学社版はなんと採択率0%、数校が当初採択を決めたが、元慰安婦らが左派活動家とともに学校を抗議訪問し、生徒や卒業生がそれに合わせて抗議活動を展開し、結局、数校もすべて他の教科書に変更されてしまった。
 従北候補に勝って大統領になつた朴大統領の歴史的使命はまさにこの自虐史観を退治し、国内の各界各層に浸透している従北勢力を追放することだ。しかし、彼女は結局、教科書正常化を放棄してしまった。挺対協と全面対決して慰安婦問題のウソを暴き日韓関係を正常化する覚悟も見られない。このままでは2017年の大統領選挙で従北勢力が政権を掘り、同じ頃、金正恩政権が米国にまで届ぐ核ミサイルを完成させた上で、韓米同盟破棄、北朝鮮との連邦制統一実現という悪夢のシナリオさえあり得る状況となつてきた。
 韓国との付き合いをやめろと日本国内でいくら叫んでも、韓半島全体が反日勢力の手におち、核を保有する反日勢力と対馬を最前線として対峠するというわが国の国益上、最悪の事態を避けることはできない。戦後の日本の朝鮮半島政策は「釜山に赤旗を翻らせない」ことが目標だった。それが失敗する危険性が眼前にある。だからこそ、韓国内で激しく戦われている大韓民国派と従北派との戦いの帰趨を前者へのモラルサポートを送りつつ注視しながら、北朝鮮と中国の共産主義勢力に対する軍事的抑止力を強化するためにできうる限りの努力をしなければならないと強く訴えたい。
 
 ■ベトナム人女性「韓国軍に2晩の間何度も強姦された」と証言
 4月上旬、韓国の市民団体「平和博物館建立推進委員会」の招聘により、ベトナム戦争被害者のグエン・タン・ランさん(64)とグエン・ティ・タンさん(55)の男女2名が初訪韓を果たした。
 だが、2人の証言を報じた韓国主要メディアは皆無に等しく、大きく紙面を割いたのは韓国のリベラル紙『ハンギョレ』のみだった。勇気ある韓国紙が報じた韓国軍の蛮行の数々を在韓ジャーナリストの藤原修平氏が解説する。
 『ハンギョレ』は2015年4月25日付の朝刊でも、韓国軍によってレイプされたベトナム人被害女性8人の証言を3ページに亘って紹介。記事は、慰安婦問題で対日強硬姿勢をとる「挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)」の現地調査を引用する形で掲載された。
 同紙に掲載されたのは、61歳から86歳の被害者8名の証言。その1人で今年80歳になるレ・ティ・ヒエウさんは「韓国人が今でも恐ろしい」と怯えた様子でこう語った。
「銃声がしたので、私は3人の子供を抱きかかえました。すると、3〜4人の韓国軍兵士が家の中になだれ込み、私を捕まえて頭に銃を突きつけたのです。子供たちは庭に放り出され、私は裏の家に連れて行かれて輪姦されました。1人ずつ、順番にです」
 また同紙は、韓国軍によるレイプが「組織的に行われていたことを示す証言も得られた」としたうえで、ビンディン省郊外に住む被害者、ファム・ティ・グォンさん(64)の話を紹介した。
「私はその日、35人余りの住民とともに捕まりました。(韓国兵は)基地に連行した私たちをまず男女に分け、次に子供がいる女性や年配の女性を別の場所に移動させました。そして、子供がいない若い女性や少女を1人ずつ塹壕の中に入れたのです。
 私は1人の兵士とともに塹壕の中に押し込められました。そして、2晩に亘って何度も何度もレイプされたのです。はっきりとは覚えていませんが、日中は2回、夜は3回ぐらいだったと思います」
 韓国軍に捕虜として捕らえられたベトコン女性もまた、レイプの標的にされた。ベトナム戦争当時、韓国軍が軍用飛行場として使用していた南部のプーカット空港に連行されたファム・ティ・ハイエンさん(64)はこう証言する。
「(浴場で)身体を洗っていると、そこに兵士が入ってきました。私は力の限り抵抗しましたが、兵士に口を塞がれどうすることもできなかった。それから2か月間の拘束期間中に3回レイプされました。すべて別々の兵士です」
 韓国兵はレイプだけでなく、拘束中のハイエンさんに電気ショックによる拷問や、殴る蹴るの暴行を日常的に加えた。ハイエンさんは拷問の後遺症により、いまでも神経系統の疾患を患っているという。※SAPIO2015年7月号


◇[中国・韓国を本気で見捨て始めた世界 P52〜60 より抜粋]

 2014年5月6日、米国のサキ報道官は「係争海域で中国が石油掘削を決めたことは挑発的であり、地域の平和と安静に稗益しない」と非難した。同日、マニラを訪問していた小坂憲治参議院議員(日比友好議員連盟会長)はアキノ大統領と会見し、「(スカボロー礁などの間題で)フィリピンが国際裁判所に提訴していることを支持し、また新米比安保条約は地域の安定に寄与する」と踏み込んだ発言をした。そうだ、フィリピンは米国と新しい安保条約を締結したが、その仮想敵は中国を想定している。
 いまから26年前に何が起きたか?
 1988年3月14日、南シナ海スプラトリー諸島で中国海軍の軍艦によってベトナムの艦船が砲撃され、64人が犠牲になった。これを中国では「赤瓜礁海戦」という。現場はベトナムが実効支配しているコリンズ礁からわずか4海里の岩礁付近だ。
 中国軍艦の砲撃と機関銃による発砲でベトナムの輸送船(HQ604)1隻が撃沈され、3隻が破損した。火力の差は大きく、中国側は1人が負傷しただけだった。ベトナムの輸送船に搭載された砲はわずか射程500メートル。中国側は射程3.6キロから5.4キロメートルだったと、4半世紀後に生き残りのベトナム兵士が証言した。
 中国は南沙諸島の数個の岩礁を奪取し、「ここは中国領だ」と主張し始めた。赤瓜礁には軍事施設を建設し、軍の常駐が見られるようになった。しかし、ベトナムは大きな声を上げず、追悼儀式も控えめだった。中国との友好を信じてきたからだ。ベトナムは中国を「大きな兄」と呼んできた。米仏と戦ったベトナム戦争では物資と武器を支援してくれた
 しかし、1974年1月15日〜20日に、中国はベトナムが実効支配してきた西沙諸島(パラセル諸島)に侵入し、ベトナムの護衛艦1隻を撃沈し、34人が死んだ。付近はほとんどが無人島であり、中国の目的は戦略的軍事拠点の確保である。
 その後、中国は永興島に2600メートルの滑走路を持つ軍事基地を建設した。当時はベトナム戦争中であり、ベトナム側は南北に政府が存在していたため突然の中国の西沙諸島占拠に対し対応できずにうやむやのまま、ベトナム統一後へと解決が持ち越された。
 中国はこの間、改革開放に転じていたが、一方でケ小平は海軍力充実を劉華清に命じ、中共中央軍事委員会が了承した。「沿岸防衛」のスローガンが「近海積極防衛」となった。劉華清は「中国海軍の父」と呼ばれた。
 南沙諸島は約18の小島で成り立つが、多くが岩礁、あるいは砂州である。軍事的橋頭堡をつくる目的が主だが、中国のもう1つの狙いはEEZ(排他的経済水域)を持つことにより海洋資源、海底油田の確保という経済的野心である。これらの海域を日本が領有していた時代にはリン鉱石を採集していた。
 1951年にサンフランシスコ条約で日本が放棄したあと、ベトナムがフォクトイ省の一部に編入した。ところが、1970年代に海底油田の存在が確認されるや、中国は領有権を主張し始めた。その当時、居留していた住民の虐殺も中国軍の手で行われたが(これを「スプラトリーの虐殺」という)、ベトナムは公表を控えてきた。当該領域はフィリピン、マレーシア、ブルネイも主権を訴えている。
 ベトナムが抗議しなかった、もう1つの重大事件がある。それが、韓国兵のベトナム人虐殺である。
 1964年からで韓国は延べ32万人の軍人を南ベトナムに派兵した。ダナンに海兵隊第2旅団(青龍部隊)、クイニョンに首都ソウル防衛師団(猛虎部隊)、ニンホアに第9師団(白馬師団)が駐屯し、ベトナム民衆に暴虐の限りを尽くした。
 白馬師団の連隊長には後に大統領となった全斗換、猛虎部隊の大隊長には慮泰愚が就任していた。戦争中、韓国軍によるベトナム民間人の虐殺被害者は9000人以上。村人65人が犠牲になったビンディン省タイピン村では韓国兵士に輪姦された女性が焼き殺された。
 北岡俊昭、北岡正敏著『韓国の大量虐殺事件を告発する』(展転社)を読むと、これら韓国兵のベトナム人虐殺に関して動かしがたい戦争犯罪の証拠が出揃ったという。これまで一部の人しか知らなかったが、韓国軍は「アメリカ軍の陰に隠れて」ベトナム全土で女性の輪姦と虐殺を繰り広げていた。その数、1万人から3万人である。
 アメリカはソンミ事件の1カ所、504人である。しかも責任者は法廷で裁かれた。しかし、韓国は、ほおかむりし、あろうことか、正義の戦争だったと公言し、その殺戮場面を韓国国内で再現し、公開している。こんなことが許されて良いはずがない。国際法に基づいて徹底的に糾明し弾劾されなければならないのである。
 1999年にこれを暴いたのが、「ハンギョレ新聞」が発行する週刊誌『ハンギョレ21』だった。ところが旧軍人らが同社に押しかけ乱暴狼籍を働いた。以後、韓国マスコミが、この話を書くことはなくなった。その代わりに登場したのが矛盾をすり替える逆宣伝、すなわち日本が悪いという悪質な政治宣伝で、強制連行、従軍慰安婦のでっち上げだった。嘘の発生源、身をかわす韓国の動機は、このベトナムにおける極悪非道の暴挙を隠蔽するためでもあったのだ。
 北原惇『戦争犯罪と歴史認識日本・中国・韓国のちがい』(花伝社)も、「戦争犯罪」を裁く「正義」とはいったい何かを追求した力作である。同書によれば、『ハンギョレ21』が列挙したベトナム戦争中の大量虐殺と婦女子強姦殺人は、以下のような戦慄すべきものだった。
「韓国軍に殺されたベトナム人の数は公式統計だけでも4万1450人」だが、「1965年12月22日に韓国軍作戦兵力2個大隊がクイニョン市に500発あまりの砲弾を撃ち込んだ。それが終了すると韓国軍は12歳以下の子供22人、22人の女性、3人の妊産婦、70歳以上の老人を含む、合計50人以上の民間人を虐殺した。この韓国軍の行動の背景にあったのは『きれいに殺して、きれいに燃やして、きれいに破壊する』というスローガン」だった。
 1966年1月23日から2月26日にかけて、タイヴィン村の15の集落で1200人の村民が虐殺された。1969年10月14日には、「パンランというベトナム南部の小さな街にあるリンソン寺での虐殺は韓国軍兵士がベトナム女性にいやがらせをしたため僧に注意された」ことを逆恨みして、銃を乱射し、「71歳の住職、69歳の僧、41歳の尼僧、15歳の修行僧、そして身分不詳の僧1人、合計5人が死亡した。兵士たちは遺体に火をつけた」。
 「1966年2月26日に韓国の猛虎部隊はゴダイ集落を襲い、380人を虐殺した」。生存者は1人も残らず、この場所にゴダイ記念館が建てられた。
 近くのアンカン村でも虐殺があり、フォンニィ・ファンニヤツト村では韓国の海兵隊の青龍師団によって69人から79人の村人が虐殺された。これはアメリカに報告され、問題となったが、「ベトコンが韓国兵の軍服を着て行った」と弁明した。1970年にアメリカの監察官は、この報告は嘘であると暴露した。
 ハミ村では135人が殺され、アンリン郡でも韓国兵による無差別の虐殺があった。
 これらの韓国兵の大量虐殺は戦争犯罪であることは明瞭だが、ベトナム政府が抗議せず、朴橿恵が訪越しての首脳会談でも議題とせず、あえて外交問題としないのは、韓国財閥によるベトナムへの投資を前にして事大主義に陥っているからである。
 そして、新しい問題がフィリピンでも起きた。
 過去2、3年の間に、韓国のビジネスマンがフィリピン女性と懇ろになって子供が生まれるとさっと逃げるケースが後を絶たず、じつに3万人の「コピノ」(韓国とフィリピンの混血。非嫡出子として扱われる) と呼ばれる父なし子がいる。
 2013年にフィリピンを訪れた観光客は470万人。じつにこのうちの4分の1が韓国からで、買春ばかりかフィリピン女性を騙して子供ができると、若干の養育費を置いていくならともかく、名前も名乗らずに逃げ帰るのだ。


◇驚くべき虐殺の数々

 筆者たちが立ち上げた「韓国軍の戦争犯罪調査チーム」が、平成二十五年九月と平成二十六年二月の二度にわたってベトナムを訪問して調査した、ベトナム戦争中の韓国軍による民間人大量虐殺の犠牲者の数である。もちろん、これは韓国軍が起こした虐殺事件の一部である。
 また、写真は、虐殺の地に建っている慰霊廟である。この慰霊廟こそが、帝国軍が犯した民間人大量虐殺の動かぬ証拠である。なぜならば、各地の慰霊廟には、韓国軍によって殺戮された犠牲者の名前がひとりひとり刻まれているからである。

   
 今回、我々が調査した慰霊廟は十九カ所であった。犠牲者数は約二千八百人であった。一部の地域を調査したフーイエン省をいれると約五千人である。ベトナム全土で、約百カ所、一万人から三万人の虐殺があったと推計している。
 問題は、これほどの民間人大量虐殺事件が、戦争犯罪として断罪されていないことである。このベトナムの民間人大量虐殺は、戦争犯罪の中の、「人道に対する罪」である。人道に対する罪には時効はない。過去も、現在も、未来も、追求される巨大な犯罪である。
 韓国による大量虐殺の事実が、世界に明らかになると、韓国の国際的地位は大暴落するだろう。国家と国民の名誉は地に落ち、国際社会を大手をふって歩けなくなる。韓国は、日本の歴史問題や慰安婦問題を非難する前に、みずからの犯した巨大な罪を反省し、ベトナムをはじめ世界に謝罪しなければならない。
 日本の戦争は、すでに清算されている。理不尽な裁判だったが、七人のA級戦犯が処刑された。アジア各地で、BC級戦犯約一千人が処刑された。しかし韓国の戦争責任は終わつていない。戦争犯罪に時効はない。ルワンダ国際戦犯法廷、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷のごとく、韓国の虐殺責任者は「韓国国際戦犯法廷」で裁かれねばならない。


◇大量虐殺の動かぬ証拠

 日本でも、アメリカでも、イギリスでも、どこの一国でもいい、国内にこんなにも多数の慰霊廟(碑)が建立されている国は、見たことも聞いたこともない。しかも、すべての慰霊廟は、韓国軍というたった一カ国の軍隊による虐殺の慰霊廟である。
 ベトナム戦争の主人公であるアメリカ軍の慰霊廟はソンミ村一ケ所だった。これはアメリカ軍が、ソンミ事件以外、虐殺事件を起こさなかったからである。これも驚くべき真実である。ベトナム戦争における大量虐殺事件のほとんどすべてが、韓国軍によるものである。韓国軍とは、軍規が弛嬢した最低最悪の軍隊だった。
 慰霊碑には、「憎悪の碑」「恨みの碑」「怒りの碑」という名が刻んであった。今回の調査では、数多くの人が、韓国に対する憎悪と恨みを語った。今もなお、現地には、韓国に対する憤怒の感情が充満していた。
 韓国軍による最大級の虐殺事件は、中部ビンディン省のビンアン大虐殺であった。ビンアン慰霊廟には、一〇〇四名を慰霊してあった。ゴーザイという丘では一時間で、三百八十名を殺戮した。これは太平洋戦争中の話ではない。戦後も戦後、一九六六年の出来事である。クアンガイ省のロンビン村の虐殺事件では、慰霊廟に四百二十二名の名前を刻んであった。今回の調査中、数十名から百名単位の慰霊碑はいたるところにあった。
 調査が十分にできなかったフーイエン省では、少人数の虐殺事件が、広範囲で数え切れないほど起きていた。この省だけで犠牲者は二〇〇〇〜三〇〇〇人と推計している。しかも、慰霊廟がほとんどない。村が全滅し、慰霊する人がいないためである。これでは虐殺されたベトナム人の霊魂は浮かばれず、さまよったままだろう。早急に慰霊碑をつくり鎮魂してあげることを日本人として強く願う。


◇韓国は戦犯法廷で裁かれねばならない

 問題は、韓国による大量虐殺事件が、国際的に表沙汰になつておらず、したがって、戦争犯罪として裁かれていないことである。閣に葬り去られる可能性すらある。韓国では、ベトナム戦争は共産主義との正義の戦いだった、という肯定意見が大勢である。これもアメリカ世論との違いである。アメリカではベトナム戦争を賛美する意見は少数である。一方、韓国の江原道には、ベトナム戦争を賛美する、四万坪の広大な施設、「ベトナム参戦勇士との出会いの場」があ、る。さらに、韓国全国に、百カ所にものぼるベトナム戦争への「参戦記念碑」がある。これらは、韓国がベトナム戦争を反省もせず、まして、大量虐殺を謝罪するつもりがさらさらないことの証明である。
 ベトナム人の大量虐殺事件は、韓国現代史の一大汚点、一大恥部である。韓国が、弁解しようと、弁護しょうと、大量虐殺は「人道に対する罪」という戦争犯罪であって、重大な国際法違反事件である。隠し通せるものではない。いずれ韓国は世界に向かって謝罪せざるをえなくなるだろう。その罪を追及する尖兵として、筆者たちは本論文を書いている。
 韓国では、自分たちの大量虐殺事件を隠すために、慰安婦問題や歴史問題を持ち出し、問題をすり替えようと工作しているフシがある。とくに、情報を知る立場にある歴代大統領は、大量虐殺事件を、意図的に隠蔽していると筆者は考える。


◇どこで何人が虐殺されたのか

 韓国軍による大量虐殺がどこで行われたか全体像を明らかにしよう。
 ベトナム全土の主な虐殺事件の場所である。フーイエン省、ビンディン省、クアンガイ省、クアンナム省に虐殺地が集中している。とくに、ビンデイン、クアンガイ、クアンナムの三省に多い。我々も、前回と今回、この三省を中心に調査した。
 図の中で、人数が書いてあるのは、虐殺された犠牲者の数である。我々が現地で確認した数字である。これらの数字には誤差がある。これは博物館で調べた数字、現地の慰霊廟に刻んだ数字、現地の人間の証言などに遠いがあるからである。
 全体として控えめな数字である。実際はこれよりもはるかに多いと推測している。
 調査のやり方は、各省の博物館を訪ね慰霊廟を探し出すことから始めた。博物館で写したデジカメ写真を、現地の人に見せながら、しらみ潰しに歩いた。
 お蔭様で、次々と大量の虐殺現場を発見した。これは犠牲となつたベトナム人の霊魂のお蔭だろうかと思ったことが何度もある。あまりの残虐非道ぶりに、怒髪天をついた。疲労困優したが、大げさな話ではなく正義のため、人道のため、ベトナムのため、という動機が、我々を突き動かした。
 今回のフィールド調査では、十六カ所の慰霊碑と三つのお墓を調査した。その中から、以下、代表的な場所を紹介し、韓国の大量虐殺の事実を明らかにし、告発したい。
ビンアン大虐殺
 @犠牲者 一〇〇四名
 A時期 一九六六年一月二十三日〜二月二十六日
 C調査訪問日 平成二十六年二月二〜三日
 韓国軍の虐殺事件の中でも、もっとも大きな虐殺事件である。ビンアン周辺、十五カ所の村々で、一〇〇四人の農民を虐殺したのである。
 ひと口に一〇〇四人の殺我というが、その悲惨さをイメージするために、太平洋戦争の空襲の例を出そう。昭和二十年七月、わが故郷徳島市が米軍の空襲受け、一晩で約千名が焼死した。六割が女性だった。徳島空襲も圧倒的な大量虐殺である。
 しかし、帝国軍による虐殺は、目の前の人間を、ひとりひとりを銃撃し、刺殺し、手相弾で殺執するのである。それが一〇〇四名である。この行為が、いかに残虐な行為であるか。身の毛もよだつとは、こういうことをいうのだろう。


◇虐殺を描いた壁画

 ビンアン慰霊廟には、虐殺を描いた壁画がある。裸の女性が火に焼かれている。韓国兵に対して怒髪天をついて怒る老人がいる。そばには死体が累々と横たわっている。韓国兵によって強姦され、悲しみにくれる一人の若い女性とその母親の絵もあった。
 この壁画は、全ベトナムにおける韓国軍の虐殺を象徴する壁画である。十九カ所の慰霊廟を回り、現地の人に取材したが、韓国兵の残虐性は、すべてこの壁画につきている。
 韓国兵は、女、子供、老人など弱者を中心に殺我している。とくに、女性と子供が圧倒的であった。女性を強姦し、妊婦は腹をさいている。
 子供は0歳児から十歳未満児が多い。首を切り、手足を切断し、火に放り込みと、考えるかぎりの残虐のかぎりをつくしている。こうなると、もはや人間のしわざではない。鬼畜か、悪鬼の所業である。
 それぞれの壁画につけた解説は工学博士であり、数学屋であり、マンガ家でもある北岡正敏教授による。じっくりと見てほしい。
ゴーザイの虐殺
 @ 犠牲者 … 一時間で三百八十名が虐殺された。
 A時期 … 一九六六年二月二十六日
 H場所 ビンディン省・ティソン県・ティビン社
 C調査訪問日 平成二十六年二月二〜三日
 ピンアン慰霊廟の敷地の中にゴーザイ慰霊碑がある。ビンアン周辺で起きた十五カ所の虐殺の一つである。ゴーザイという丘で、わずか一時間の間に三百八十名が虐殺された。どういう殺し方をしたのか。空襲よりもはるかに残虐である。なぜならば、生身の人間が生身の人間を殺すのである。機関銃か、鉄砲か、拳銃か、銃剣か、短剣か、手楷弾か、迫撃砲か、戦車の大砲か、いずれにしても、人間のすることではない。血潮が飛び、肉が飛び散り、首が飛び、足や手がちぎれる、もうこの世のものではない。地獄である。
 今回の調査を通じて、韓国兵とは人間ではなく、悪鬼か、鬼畜かと何度思ったことか。人間が、ここまで残酷になれるのか。朝鮮民族の残虐性をいやというほど見聞きした。ベトナムの住民が、今もなお、怒り、恨み、憎悪するのは当然である。
 慰霊碑の真ん中の塔には「恨みの碑」と彫ってある。旧正月だったせか、菊の花が飾られていた。これは慰霊碑であるとともに、巨大な墓碑でもある。


◇韓国兵は弱かった

 韓国軍が民間人を虐殺した理由は、韓国兵が弱兵だったからであると、戦争論を研究している筆者は推測する。精強なる軍隊は、農民と解放軍の兵士の違いを、瞬時に判断できる。現にアメリカ軍は、ソンミを除いて、村人を虐殺していない。しかし徴兵制の軍隊である韓国兵は、恐怖にかられて、無差別に殺戮したのであろう。韓国軍では、PTSD(心的ストレス症候群)にかかった兵隊や、自殺した兵隊、脱走してべトナム人となつた兵隊も多くいた。
フック家の虐殺
 @犠牲者 一家十名が虐殺された。
 A時期 一九六九年二月十二日
 H場所 ビンディン省・ティソン県・ティビン社
 C訪問日 平成二十六年二月二〜三日
 ビンアン虐殺慰霊碑から畑の中を、約三キロ歩くと小さな集落がある。その中の一軒の家の前庭に慰霊碑が建っている。これがフアン・バン・フックさんの慰霊碑である。フック家では、韓国兵によって、一族十人が殺された。フック家の事件は、数百人規模の大量虐殺ではないが、大切な家族十人の生命が奪われたという悲劇の話である。フック家の悲劇も、ビンアン大虐殺と同じような、韓国軍の残虐さを証明する事件である。
 突然の訪問にも関わらず、当主のフックさんは我々を家に迎え入れてくれた。しかも、地ビールのタイガービールを沢山もってきて、飲みなさいと言ってくれた。
 フックさんは、七十九歳で、背が高く精惇な顔をしており、威厳と風格があった。現代の日本ではお目にかかれない明治生まれの男のようだった。その上、親切で温かい人だった。家の中で四人、庭で六人殺されたと語った。
 フックさんの語る虐殺は以下の通りである。
「一九六九年二月十二日、戦車や装甲車を動員して、韓国軍が突然やってきた。大勢の武装した韓国兵が歩いてきた。解放軍と米軍の戦闘は、かならず村の外で行われた。解放軍は、村が破壊されることを心配して、村から離れた場所に拠点を構えて、米軍と何度も戦ってきた。しかし、今回はこれまでと事情がちがった。
 韓国兵が突然、家の庭の前にあらわれた。銃声がしたので、家族のうち、四人は家の中に隠れた。六人は、大急ぎで、家から裏庭まで続いているトンネルを通って防空壕の中に逃げこんだ。この防空壕は、米軍の爆撃を避けるために、庭に深く掘られていた。
 韓国兵は、無抵抗な農民や女性や子供には何もしないだろうと、村人は思っていた。しかし、韓国兵は、だれかれかまわず、村人を探し出し、殺戮を始めた。家にいた女性は暴行され、ナイフで切られ、なぶり殺しにされ、老人は射殺された。そして、家を焼き払った。防空壕の中にいた六人に対しては、韓国兵は手榴弾を何十個も投げ込んで爆破した。防空壕を徹底的に破壊した」
 結局、韓国兵は、フックさんの父母と、姉と兄弟、それに親戚の計十名を虐殺した。フックさんは農作業で外にいたため、難を逃れた。韓国軍は、農家の一軒一軒に火をつけて焼きはらつた。家畜を撃ち殺し、人間は見つけしだい、かたっばしからナイフ、刀、銃、機関銃などで殺していった。
 フック家の惨劇は、一〇〇四名のビンアン大虐殺の一つを構成する悲劇の物語である。
 他にも、同じような惨劇が多数あった。韓一国軍とはなんという無慈悲な軍隊であるかと、筆者たちは天を仰いで嘆息した。
 韓国軍が、フック氏の家を焼き払い、撤退した後、フック氏は自宅に帰った。そして、家の中の四人の遺体を見つけた。さらにトンネルと防空壕を掘り起こし、遺体を収容したが、二名の遺体は見つからなかった。現在、この防空壕のあった場所に、墓をつくり、亡くなった人達の供養をしている。
 フック家を訪問したときは、旧正月であったため、仏壇には亡くなった人を弔うための飾り付けがしてあった。その後、フックさんは結婚し、一家の長として家を再建をした。そして、前庭に、小さな墓と記念碑を建設したのである。この慰霊碑は、一九八八年十一月十六日に国の石碑として登録された。
タンザン村の虐殺
 @犠牲者 四十六名が虐殺された(博物館の資料では五十四名)。
 A時期 一九六五年十二月二十二日
 H場所 ビンディン省・トイフック県・フックホア社
 C訪問 平成二十六年二月四日
 あたりは農村地帯で田園風景が広がっている。慰霊廟は、新しく大きくて綺麗だった。門を入り、慰霊廟に近づくと、四十六名の名前が刻まれている墓碑銘が見えた。事前に訪問したビンディン省博物館の展示資料では、五十四人が虐殺されたと記録されていた。これはたぶん、死体も姓名も特定できない場合があり、人数が異なるのだろう。このように数字が異なることは、今回、多くの場所で経験した。
 通訳のチエンさんによると、刻まれている名前から、男十三人、女三十一人、0歳児二人である。どの慰霊廟をみても、例外なく女性と子供の犠牲者が圧倒的である。0歳児を殺戮する韓国兵の神経は理解不能である。
 韓国の指導者を戦争犯罪人として裁かないと、虐殺されたベトナム人の霊は浮かばれない。韓国の元大統領で、ベトナム派遣軍の指揮官だった全斗換と慮泰愚は、人道に対する罪で、国際刑事裁判所に告訴・告発されなければならない。もちろん、総指揮官だった父は死んでいないので、その娘である朴大統領は、全慰霊廟をまわり、土下座して謝罪せよと言いたい。


◇ムエンさんの証言

 慰霊廟の調査を終え、横にある家を訪ねて取材することにした。玄関で声をかけると、主人らしき人が出てきて、中に入りなさいと言った。慰霊廟は一九九六年に建立したそうだ。
 しかし、息子さんのボーさんは、取材中、一切笑わなかった。顔の表情からも、ボーさんには、韓国に対する言うに言えない怒りと恨みがあると筆者はみた。
 当時、韓国軍は、この街の橋の近くの高地に基地を設けていた。基地には戦車・装甲車・ヘリコプターなどが配備されていた。一九六五年十二月二十二日、韓国軍がやってきて四十六人を虐殺した。息子のボーさんは当時十一歳で、お母さんと一緒に逃げて助かった。このとき、逃げ遅れた親戚と友人が大勢いて、ほとんどが韓国軍に虐殺された。
 今回現地の人に話を聞いて思ったのは、ボーさんのように、子供の頃、虐殺事件に遭った人は、例外なく、韓国を憎んでいるということだ。とくに、父母や兄弟を惨殺された人の憎しみは強烈だった。
キンタイ村の虐殺
 @犠牲者 三十七名が虐殺された。
 A時期 一九六六年一月九日
 H場所 ビンディン省・アンニョン県・ニューホン社
 C坊間 平成二十六年二月四日
 このあたりは農村地帯で、広大な田園が広がっている。
 さて、キンタイ村の慰霊廟には、午後二時すぎに到着した。車を降りると、大きな慰霊廟が目に入った。慰霊廟にある真ん中の塔に書いてある文字は「恨みの碑」と刻まれている。真ん中の塔の左右には、解放軍と韓国軍の戦いを描いた彫刻だった。
フォツクビン村の虐殺
 @犠牲者 六十八名が虐殺された
 A時期一九六六年十月九日
 B場所 クアンガイ省・ソンティン県・ティンソン社
 C調査訪問 平成二十六年二月五日
 フォツクビン村の虐殺は、帝国軍の残虐性を示す典型的な虐殺事件である。七十五歳から一歳児までが殺されている。日本に帰国後、性別、年齢をまとめてみると、六十八人のうち女性が四十六人で、約六八パーセントである。もっと驚くのは、一歳から十六歳までが三十六人もいる。まさに韓国軍は女子供を殺裁している。十歳未満の子供を二十三人も殺している。これはとてもじやないが、人間のすることではない。
 十歳未満の子供と、解放軍の兵士との違いが、韓国兵に分からないはずがない。女と老人・老女と屈強な解放軍兵士との違いが見えないのか。一寸先が見えない暗闇ならいざしらず、ほとんどが昼間である。こうなると、韓国軍の言い訳はきかない。これは明らかに幼児、子供、女、老人と分かって殺教している。明々白々の民間人の大量虐殺である。韓国人は、銃剣で刺し殺す瞬間、銃撃する一瞬、国にいる自分の子供、兄弟、父、母を思わなかったのだろうか。


◇虐殺から生き残ったグンさんの証言

 そのうち、我々のことを聞きつけた近所の人が七〜八人、集まってきた。その中の一人の男性が近寄ってきたので、通訳チユンさんが聞くと、虐殺の生き残りのグンさんだった。現在五十七歳で、当時十歳だった。
 グンさんは語った。両親と兄弟の八人が惨殺された。唯一、グンさんのみが、死体の山の中に埋もれて助かったそうだ。韓国兵が立ち去った後、死体の下から這い出し逃げた。今も韓国人に対しては強い恨みがあり、絶対に許さないと言った。グンさんの表情には、両親が殺され孤児になった怒りと悲しみが出ていた。
 我が身に置き換えても、もし父母、兄弟が目の前で殺され、幼いゆえに、何もできなかったとなると、成長するとともに、後悔の念はつのり、怒りは増幅するだろう。復讐してやりたいと思うだろう。
 ベトナム全土で、どれほどのベトナム人が韓国兵の犠牲になっただろう。補償もなく、誰も復讐をしてくれない。いくら我慢強いベトナム人でも、ふつふつたる怒りはあるだろう。
 グンさんは、成長してから、この虐殺事件のことを聞かされた。そして、怒りはますます大きくなったと語った。この記念碑のある場所に、住民八十人が強制的に集められた。子供・女性・婦人・老人であった。韓国軍は、突然、小銃、機関銃、手榴弾でつぎつぎに虐殺を始めた。射撃音とともに逃げまどう人々の悲鳴の声とあたり一面は血で染まった。まさに、その場は地獄のような光景であったそうだ。
 この時、母をはじめ八人の家族全員が死んだ。父は撃たれたが、まだ息があった。右脇から弾丸が貫通して、意識不明の重傷であったが、すぐに解放軍の野戦病院に運ばれた。しかし、手術のかいもなく病院で死亡した。
 記念碑に刻まれている名前はこの場所で死亡した人だけである。グンさんの父親のように病院で死亡した人は、名前が記録されていない。グンさんが生き残れたのは、母親がグンさんを抱きかかえて、韓国軍からの射撃を一身に受け止めたためであろうと語った。
 子供・女性・老人を虐殺した韓国軍とは、歴史的にも前例のない最悪の虐殺集団である。グンさんは、われわれに強く言った 「韓国軍のやった虐殺は、子々孫々まで語りつたえていく。韓国への恨みは永遠に消えない」と。
ロンビン村の虐殺
 @犠牲者 四百ニ十名が虐殺された。
 A時期 一九六大年十二月五〜六日
 H場所 クアンガイ省・ビンソン県・ビンホア社
 C調査訪問日 平成二十六年二月六日
 ロンビン村の虐殺は、ビンアンの虐殺につぐ大量虐殺事件である。四百三十人の虐殺碑と言われているが、全部で四百二十二人の名前が刻んである。この地を含めて九地点の虐殺事件をまとめて慰霊したものである。後の八人は、別のお墓に納められているそうだ。
 実は、このロンビン村の慰霊廟の敷地内には、他にも二基の慰霊碑がある。合計、三基の慰霊碑が存在するのである。この四百三十人の碑は、近在のすべての虐殺事件をまとめて、慰霊してある中心の慰霊廟である。
三十六名・虐殺慰霊碑
 @犠牲者 爆弾の穴の中に入れられ三十六名が虐殺された
 A日時 一九六六年十二月五日
 四百三十名の慰霊廟から、二〇メートルくらい離れたところに、やや小さな慰霊碑があった。碑文には、ここで一九六六年十二月五日、三十六人が殺されたと書いてある。
 慰霊碑の後に回ると、円形の砂場があった。ここは爆弾の穴の跡である。その跡をお墓にしたのである。この穴に三十六人が入れられて、虐殺されたのである。老人、子供、女性を、爆弾の跡に追い込んで、上から手相弾を投げ入れ、銃撃して、虐殺した。とてもじやないが、人間のすることではない。韓国軍は、やることなすこと、残酷きわまりない。さらに、この慰霊碑から三〇メートルくらい離れた所に大きな慰霊碑が見えた。


◇イギリス人が建てた四百三十名の虐殺慰霊碑

 他の慰霊碑と違って、何か奇妙な怨念か、執念か、霊魂を感じるようだ。この慰霊碑に刻まれている内容も衝撃的である。犠牲者は、女性、子供、老人ばかりである。
 この碑には、女性二百六十人名、子供が八十二名、老人百九名の名が刻まれている。合計すると四百五十九名となり、四百二十二名の慰霊碑の数と合わない。しかし、このイギリス人の慰霊碑の方がはるかに古く建設されたものである。大混乱の中、虐殺された人達の身元を確認することは困難だったろうと想像している。


◇元解放軍兵士クックさんの証言

 慰霊碑の近くに住む元解放軍兵士のクックさんに取材した。八十二歳であった。三〇歳で解放軍に入隊し、三十九歳まで兵士として戦った。三十一歳の時、負傷したが、十日ほど入院したが、すぐに退院して戦ったそうだ。
 負傷は爆弾が原因である。「今も、お腹に破片が残っている」とシャツをめくつて見せてくれたお腹には、大きな傷跡があった。同時に、左足も膝から下を失ったと、立ち上がり、ズボンをめくると、膝から下が義足の足を見せてくれた。
 「韓国軍は残虐ですか」と聞くと、「大変残虐だった」と証言した。「アメリカ軍はどうですか」と聞くと、「アメリカ軍は残虐ではなかった」と証言した。これは他の場所でもみんな異口同音に語った。ベトナム戦争では、ソンミ事件があって、アメリカ軍が残虐行為を働いたというのが、世界の常識になっているが、大いなる誤解である。残虐だったのは韓国軍だった。クックさんの奥さんの親戚は十八人殺されたそうだ。
 かねがね聞きたいことがあったので、聞いてみた。すなわち「韓国軍は強かったですか」という質問である。しかし、クックさんは、瞬時に「フフン」とせせら笑った。十八人の解放軍兵士で、三百人の韓国軍を相手に戦い、百人を殺した。彼らは実戦の戦闘体験がないから弱かったと語った。
 韓国でも、日本でも、「韓国軍は強かった」と言われている。しかし、筆者は、韓国軍=強い軍隊というのは、野郎自大な韓国人だからだと、話半分に聞いていた。理由は、精強な軍隊が民間人を虐殺するはずがない。0歳児を殺すわけがない。女を強姦するはずがない。これは世界の精強軍隊の常識中の常識だからだ。
 最後に、クックさんが、「日本の援助でベトナムの犠牲者を助けてください」と言った。日本人が来たのは初めてだそうだ。韓国は学校を作ったが、すぐ壊れたと言った。ボクキンケイ大統領がベトナムにきたが、経済進出の話ばかりして、謝罪すらしていない。
フォン二村の虐殺
 @犠牲者 七十四名が虐殺された
 A時期 一九六八年二月十二日
 B場所 クアンナム省・ディエンバン県・ディエンアン社
 C調査訪問日 平成二十六年二月七日
 慰霊碑に近づくと、花輪と線香が目についた。正月なのできれいな菊の花が飾ってある。すぐに慰霊碑の墓碑銘が目に入った。七十四人という犠牲者の数は恐るべき数である。
 慰霊廟に向かって大きな菩提樹がある。この木の下に村人を集めて虐殺した。その木は、「野獣の木」というおどろおどろしい名前がついている。近づくと、かなり、大きな古い祭壇があった。線香が手向けてあった。ここが実際のお墓である。
 安らかに眠ってくださいと、しつかりと手を合せて拝んだ。同じ仏教徒としての願いである。
ハミ村の虐殺
 @犠牲者 百三十五名の虐殺
 A場所 クアンナム省・ディエンバン県・ディエンデユオン社
 B日時 一九六八年二月二十四日
 C調査訪問日 平成二十六年二月七日
 この慰霊廟は、韓国の元軍人通が建てたことを知った。入り口に鍵がかかり、誰もお参りしていなかった。あらためて他の慰霊廟とまったく違うことが分かった。
 慰霊廟に近づくと、百三十五名の名前を刻んだ墓碑銘が見えた。これが問題の壁画のフタである。この壁画の下には、韓国軍の残虐行為を歌ったベトナムの詩人の歌碑がある。
 この慰霊廟が完成した時、韓国側が、この碑文に対して文句をつけたのである。「自分たちが金を出して建設したのだから、この歌碑を削除しろ」と要求した。韓国兵の残虐行為を赤裸々に書いてあるから、けしからんということである。ベトナム政府は、韓国側の要求を受け入れ、クアンナム省と県に伝えたが、省と県はこれを拒否した。
 その後、すったもんだの未、省と県は、詩文の上にフタをしたのである。削るぐらいなら、詩文にフタをして、とりあえず見えないようにした。フタさえ開ければ、歌碑は日の目をみる。ベトナム人のあっぱれな智恵である。韓国側は、ベトナム人の百三十五名の犠牲者の霊を慰め、そして、謝罪のために慰霊廟を建設したはずある。しかし、慰霊碑ができると、馬脚をあらわし、ホンネがでたのである。慰霊は偽善である。表面的に自分たちの犯罪を糊塗するために慰霊廟を作っただけである。参戦軍人たちは、虐殺を反省するふりをしただけである。
 その結果、ベトナム人は、誰も、この慰霊廟をお参りしない。他の慰霊廟のように線香が手向けてない。線香を手向けようにも、鍵がかかり、慰霊廟の中に入れない。ベトナム人にとって、韓国人が建設した慰霊廟なんぞ、迷惑だ、こんな慰霊廟なんぞ、意地でもお参りするもんか、そう思っているのではないか。


◇国家総力戦として大量虐殺を告発する

 以上で、代表的な慰霊廟を紹介した。
 我々の今回のフィールド調査の結果については、雑誌「正論」と、「展転社」が取り上げてくれることになつた。
 大量虐殺問題は、日本の言論マスコミが、積極的に取り上げ、韓国を世界に告発していただきたい。筆者はアメリカでの翻訳出版を考えている。アメリカは主戦場である。なぜならば、アメリカでは、在米韓国人が、慰安婦像の設置など、ありとあらゆる汚い手段を使って、日本を貶める活動をやっているからである。彼らの活動を止めさせる切り札として、この大量虐殺事件をアメリカ世論に訴えるのである。
 なぜなら、韓国の大量虐殺問題は、国内問題ではなく国際間題であり、日本国の名誉と尊厳がかかっている国家総力戦でもある。マスコミ言論界は、日本と韓国の、国家対国家の総力戦・情報戦の重要な一翼を担っている。
 今回の調査の目的はただ山つ、韓国の対日侮蔑や、日本を貶める行為を、即刻、中止させるためである。国家と国民のためにやっている。だから自腹である。我々の活動に賛同してくださる読者の皆様のご支援を心よりお願いしたい。


◇韓国の国際的地位は大暴落する

 日韓の立場は逆転する。慰安婦問題などは、どこかにすっ飛んでしまうだろう。大量虐殺以上の人道問題はない。慰安婦問題など、大量虐殺事件の前には陰が薄い。日本に対する中韓包囲網から韓国を脱落させることができる。
 そうして、韓国とアメリカの慰安婦像を撤去させる。ベトナム人の犠牲者の慰霊碑を建立させる。


◇韓国との情報戦争に打ち勝たねばならない

 今、日本と韓国は情報戦争の只中にある。韓国は、世界規模で、日本に情報戦争を仕掛けている。その事例が、@慰安婦像の設置であり、A正しい歴史認識の要求であり、B安重板記念館の建設であり、C日本海の呼称を「東海」へすり替える工作である。 残念ながら、現在までのところ、日韓の情報戦争は、韓国に圧倒され、日本の敗退が続いている。なぜか。日本には情報戦略がない。戦略がないゆえに組織がない。組織がないゆえに戦術も作戦計画もない。これでは現代の情報戦を戦えるわけがない。
 筆者は、主宰する研究会の中に、「情報本部」を創設した。民間の立場として、情報作戦を立案し、実行するための組織であり、情報戦を勝ち抜くための組織である。その一環として、「韓国の戦争犯罪調査チーム」を結成し、韓国の大量虐殺事件を調査してきた。すべて自費による活動である。筆者通が、計画している作戦は以下の通りである。
 第一、韓国の大量虐殺事件を英文に翻訳してアメリカで出版する。続いて、ベトナム語、中国語、ドイツ語、フランス語など各国語に翻訳する。
 第二、韓国大使館の前に「ベトナム人虐殺の像」を設置する。アメリカ各州にも設置する。
 第三、韓国の大量虐殺を告発し、ベトナム人を慰霊する記念館「虐殺慰霊館」をつくる。
 第四、韓国の虐殺責任者を国際刑事裁判所に告発する。


◇ベトナムに残った日本兵たち

 またホー・チ・ミンのベトナム民主共和国側も日本軍に、敗戦でもはや不要となつた兵器の譲渡を求め、そして将兵を教官として迎えたいと願い出てきた。
 こうして1946年6月1日、グエン・ソン将軍を校長とする指揮官養成のための「クアンガイ陸軍中学」が設立された。このベトナム初の「士官学校」は、その教官と助教官が全員、日本陸軍の将校と下士官であった。
 全国から選抜された若いベトナム青年約400人は4個大隊に分かれ、日本人教官から戦技・戦術をはじめ指揮統制要領など日本陸軍のあらゆる実戦ノウハウを学んだのである。なるほどデンビュンフーの戦いでフランス軍を苦しめた夜襲″などは、日本陸軍の十八番戦術だった。
 ベトミン軍は、日本陸軍軍人によって育てられた「ベトナム人で構成された日本陸軍」だったのだ。実際、クアンガイ陸軍中学の4個大隊の教官とそのベトナム名(カツコ内)は次のとおりである。
 教官として谷本喜久男少尉、中原光信少尉(グエン・ミン・ゴツタ)、猪狩和正中尉(ファン・ライ)、加茂徳治中尉(ファン・フエ)/助教官:峰岸貞意兵長(チャン・クオツク・ロン)、【医務官】酒井秀雄上等兵(レ・チユン)
 谷本少尉と中原少尉は、共に日本陸軍独立混成第34旅団の情報将校であり、のちにべトミンの独立戦争に参加して戦死する井川省少佐の部下であった。また猪狩中尉と加茂中尉は、第2師団歩兵第29連隊第3大隊の中隊長だった。
《この学校(筆者注:クアンガイ陸軍中学)は一九四六年一月、北部が主戦場となったため閉鎖され、教官四人と助教官の青山浩(チン・クァン)は第五戦区主力部隊と前後して次々に北上、すでに北部に集まっていた多くの旧日本軍将兵とともに、芋と野草だけで胃袋を満たすような苦難に耐えて戦闘指導や軍幹部養成に尽力することになつた。青山は歩兵部隊の副大隊長となり、五二年にハノイ南東の農村で戦死した》(『やすくに』平成十二年四月一日号)
 その他、ナンソン村にも石井貞雄少佐らによる同様の「トイホア陸軍中学」があった。近代ベトナム軍の基礎は日本陸軍によって作られたと言っていい。
 そして多くの日本兵がベトナムの独立のためにベトナムに残って戦い続けたのである。小倉貞男著『ベトナム戦争全史』(岩波書店)によれば、ベトミンに協力した日本軍人は766人、戦病死者47人。第一次インドシナ戦争が終結して日本に帰還したのはわずか150人で、残りの約450人はベトナムにとどまり、いまも消息不明のままだという。
 恐らく彼らは、アメリカとの第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)にも身を投じたと思われる。元朝日新聞ハノイ支局長の井川一久氏は『やすくに』(同号)でこう述べている。
《これら離隊者は、公私さまざまな資料によると約八百人で、うち約六百人はベトミンの独立闘争に参加し、その少なくとも半数はベトナムの山野に望郷の思いを残して戦病死したと推測される。推測されると曖昧な言い方しかできないのは、対仏独立戦争(第一次インドシナ戦争)自体が第二次世界大戦後の旧植民地独立戦争の中で最も激烈なものだったうえ、その終結後に惨烈きわまる第二次インドシナ戦争(いわゆるベトナム戦争)が始まり、残留日本人の事跡などは調査不可能といってもよい状態になつたからである。
 ベトミンに参加した日本人は『新ベトナム人』と呼ばれていた。その墓は随所にあり、一部は各地の烈士碑(忠魂碑)を囲む 『烈士墓地』に葬られているが、いずれもベトナム名なので本名を知るすべはない。こういったことも追跡調査をむずかしくしている。
 例えば、サイゴン西北のアンフードン村には、村の守り神のように大切にされている二つの大きな墓碑がある。それらは一九五六年二月の仏軍来襲に際し、村民を逃がすために二人だけで白兵戦を試みて死んだ日本兵の墓なのだが、碑面にはグエン・バン・ビン、グエン・バン・トアットというベトナム名しかなく、村人にいくら問いても本名、出身地、旧所属部隊などは全くわからない》(『世界に開かれた昭和の戦争記念館【第四巻】』)
 ベトミンで大佐となった前出の石井貞雄少佐は、カンボジアのプノンペンで大東亜戦争終戦を迎えたが、日本への帰国を拒否し、ベトミン軍の南部稔司令部の顧問としてゲリラ戦を伝授しながらフランス軍と戦い、そして1950年5月20日、敵弾に集れた。享年31歳だった。石井少佐は、次のような言葉を残してベトナムの独立のためにその命を捧げる決意をしていた。
《敗北の帰還兵となるよりも同志と共に越南独立同盟軍に身を投じ、喜んで大東亜建設の礎石たらんとす》
 彼らの多くは祖国再建のために帰りたかったであろう。歓呼の声で送り出してくれた家族にも会いたかったであろう。しかし彼らは、私欲を捨て、尊い命を大東亜建設のために捧げたのだった。


◇ベトナムとの連携は急務だ

 ベトナムは、その地政学的見地から常に大国に翻弄され、長く戦火に明け暮れてきた。フランスの再植民地化によって引き起こされたインドシナ戦争は、ジュネーブ休戦協定で終焉するも、北緯17度線を墳にした南北分断国家を誕生させた。
 フランスを引き継いだアメリカは、自由主義陣営の旗手として共産主義のドミノ効果を防ぐという大義をかざして参戦した。しかして終わってみれば敵の北ベトナムを支援した中国と国交を正常化させ、ソ連の進出も許してしまった。インドシナはそうした大国のエゴと世界戦略の渦巻く地域であったのだ。
 ここで、ベトナム戦争中の韓国軍による民間人大虐殺と無差別強姦という極悪非道の戦争犯罪について言及しておきたい。米軍支援のため、1965年10月にべトナムにやってきた韓国軍は、彼らの作戦行動地域で、実は女性や子供を含む民間人に対して大量殺我を行っていたのだ。村の掃討作戦で化学兵器を使用し、またある地方では略奪を行った。そして多くの地域で民問人を虐殺し、強姦を繰り返したのである。
 韓国軍兵士らによって引き起こされた民間人虐殺や強姦殺人のあまりの残虐さにはアメリカ軍も頭をいため、韓国軍を前線から配置転換させることまで考えたという。こうして韓国軍によって虐殺された民問人犠牲者は少なくとも9000人、あるいは数万人に上るともいわれている。
 ところが韓国政府はこの拭いされない事実を今も明確には認めておらず、歴史教育でもこの事実はまったく教えられていない。 だが、韓国軍兵士による強姦などによって生まれた混血児「ライダイハン」の存在がベトナムでのおぞましい史実をなにより雄弁に物語っている。その数は1万人とも3万人ともいわれ、今でもベトナム社会で迫害されながら暮らしているのだが、よくぞ韓国政府は何の謝罪も補償もなく平然としていられるものだ。
 韓国は、いったいどの口で、慰安婦の強制連行″だの“性奴隷”だのと、デタラメな歴史認識を振り回して日本を糾弾できるのだろうか。
 1995年、ベトナムはASEAN加盟を果たし、「理念国家」から「地域国家」への変貌を遂げて国際社会に積極的なアプローチを開始した。一方で、パラセル諸島やスプラトリー(南沙)諸島の領有権を巡って中国と対立している。
 そうした中での米越国交回復劇は、アメリカの対中抑止戦略とベトナムの対中戦略が合致したことで実現したのだ。そしていま、中国の脅威に対抗すべく日本とベトナムが急接近を始めている。
 第2次安倍政権発足直後の平成25年1月16日、安倍晋三首相は、対東南アジア外交の先駆けとしてベトナムを訪問した。ズン首相との会談では、巨額の経済援助を約束し、安全保障分野での協力関係強化で合意している。
 ベトナムと日本は、古くは度重なるモンゴル帝国の侵略を撃退し、現代では強大なアメリカと戦い抜いた共通の経験がある。そしていま、東シナ海と南シナ海で侵略国家中国の脅威に立ち向かっているのだ。
 中越戦争(1979年)では中国軍の侵略を返り討ちにし、その後も南シナ海で衝突してきたベトナムは、中国の正体をよく知っている。そんなベトナムと日本が、イデオロギーの違いを超えて安全保障分野で連携してゆくことは、地域全体の安全保障に大きく寄与するは間違いない。邪悪な中国の野心を打ち砕くには、再び日本−ベトナムの軍事的結束が不可欠なのだ。
 また、日本の近現代史を正当に評価してくれる社会主義国家・ベトナムとの関係強化で、中国の仕掛ける歴史戦争″を返り討ちにできる。大東亜戦争の大義と中国の侵略の歴史が明らかになるのだ。
 親日国家ベトナムとの連携は急務である。その連携を誰より望んでいるのは、かつてベトナムの独立のために戦後もこの地に留まって戦い続けた日本軍将兵だろう。彼らは、黄泉の国より日越連携を見守ってくれているはずだ。




[週刊文春 韓国軍にベトナム人慰安婦がいた! 2015/04/02]


 最初に、TBSでワシントン支局長を務めている私が、なぜベトナム戦争当時の帝国軍について取材を始めたのかを記しておきたい。
 きっかけは、アメリカに赴任する直前の二〇一三年初夏、ある外交関係者から聞いた言葉だった。日韓関係に長らく関わり、野党時代、の朴撞惠氏と食事をした
こともある人物だ。
「朴大統領は就任早々、慰安婦問題で出口のない迷路に入り込んでしまった」
 その年の二月に第十八代大統領に就任した朴氏は、早くも慰安婦問題で日本に強硬な姿勢で臨む方針を明確にしていた。
 韓国では〇四年に、植民地時代に日本に協力した者を糾弾する「親日・反民族行為真相究明特別法」が成立している。植民地時代、日本軍の将校だった朴正照元大統領を父に持つ朴大統領は、この法律によって大いに苦しめられてきた。
「父の親日イメージを断ち切るかのように、日本批判を続ける事が彼女のレゾンデートルとなってしまった。そして、慰安婦問題が朴大統領自らの反日姿勢を証明するツールとなった以上、彼女が自分からこの問題を解決するという選択肢はなくなった。もはや慰安婦問題は韓国の内政問題となってしまったのだ」
 それでは、慰安婦問題を巡る日韓の軋轢に出口はないのだろうか? 私の問いに、彼はこう答えた。
「もしかしたら、あなたがこれから赴任するアメリカに解決のヒントがあるかもしれない」
 日韓両国から遠く離れたアメリカに、何があるというのか。
「実は、ベトナム戦争当時、帝国軍が南ベトナム各地で慰安所を経営していたという未確認の情報がある。これをアメリカ政府の資料等によって裏付ける事ができれば、慰安婦問題において韓国に『加害者』の側面が加わる事になる。それをきっかけに、朴大統領と韓国国民が頭を冷やし、真摯に慰安婦問題に向き合うようになれば、事態は変わるかもしれない」
 日韓関係の現状を憂うこの人物に背中を押され、ワシントン赴任早々の一三年九月から、私の全米各地に眠る公文書を探す取材が始まった。
         *
 アメリカには、国立公文書記録管理局、通称「NARA」と呼ばれる組織がある。政府の公文書や歴史的価値が高いと判断された各種資料を保管する米政府の公式機関で、全米三十三カ所に公文書管理施設を持ち、四十億枚の紙、三十万本の映像、五百万枚の地図や統計資料などを保管・公開する世界長大の公文書管理組織だ。
 ベトナム戦争についても、南北の内戦突入(一九六〇年)から米軍全面撤退(七三年)に至る、膨大な公文書や映像資料が保管されている。
 六○年代に本格化したベtナム戦争は、ソ連や中国など共産主義陣営が支援する北ベトナム側と、アメリカや台湾など自由主義陣営が支援する南ベトナム側が戦った事から「冷戦米ソの代理戦争」と呼ばれた。
 五〇年代前半の朝鮮戦争で国土が荒れ果て、世界の最貧国レベルにまで落ち込んでいた韓国。六三年に第五代大統領となった朴正照ほ、ベトナム戦争を復興に向けた千載一遇のチャンスと位置づけた。粘り強い交渉の結果、アメリカ政府から派兵規模に応じた補助金支給と、対米移民枠の設定を勝ち取り、六五年から本格的に帝国軍を投入。南側では米軍に次ぐ勢力となる延べ三十一万人の韓国兵がベトナムに渡った。
 ベトナム戦争時の帝国軍に関する公文書は全米各地に点在している。私は、ワシントン支局長としての日々の業務の合間を縫って、ワシントン市内や郊外メリーランド州の公文書館、さらに各地の東軍基地付属の図書館や資料館を訪れたり、リサーチャーを派遣したりして、関連の文書を大量にコピーし、支局に持ち帰っては読み込む作業を続けた。
 ジョン・F・ケネディ大統領(六一〜六三年)やリンドン・B・ジョンソン大統領(六三〜六九年)、ロバートマクナマラ国防長官(61〜68)など当時のキーマンの書簡から、各国の外交官や軍事関係者のメモまで、ありとあらゆる階層の様々なやり取りを記録した公文書からは、教科書や歴史書からは伝わらない、当時の生々しト息遣いが感じられた。
 最初に集中的に読み込んだのは、ホワイトハウスや国務省等の外交文書だ。そこから判明したのほ、当時のアメリカ政府がベトナムにおけを韓国兵の行状に、相当手を焼いていたという事だった
 韓国兵の蛮行の記録は、本格派兵直後の六五年から始まっでいた。戦地での市民の虐殺、強姦から、サイゴンなどの都市部での為替偽造、物資の横流し、麻薬密売に至るまで、ありとあらゆる犯罪記録が大量に残されていた
 米軍司令部は韓国軍司令部に対しで繰り返し書簡を送り、違反者の訴追と再発防止を求めたが事態は悪化の一途.をたどった。
 七〇年には、アメリカ連邦議会下院の外交委員会で帝国軍による残虐行為せ追及する特別調査チームが作られ事態にまで発展した。
 ただこれら外交文書の多くは虐殺や経済犯罪などに関するもので、韓国軍の慰安所に関するものはなかなか出てこなかつた。
 そこで、私はリサーチの目先を変えてみた。韓国兵の悪行が問題になっていたなら、犯罪や裁判の記録の中に何らかの手がかりがあるのではないかと考えて、一四年の春から、ベトナム駐留米軍の軍政部と軍警察の犯罪記録に手を伸ばし、年代順にコピーして片っ端から読み始めた。そこには、外交文書よりもさらに生々しい強姦、暴行、窃盗、傷害、軍需物資の不正取得など、移しい数の韓国兵の犯罪が様々な形で記録されていた。

◆サイゴンの「韓国軍慰安所」

 そして七月二十五日深夜。誰もいない支局の小部屋で、いつものまうに犯罪記録の公文書を一枚一枚剥ぐように読み込んでいると、一通の書簡に行き当たった。
 その書簡は、サイゴン(現ホーチミン市)のアメリカ軍司令部から、同じくサイゴンの帝国軍司令部に送られたものだった。宛先は、ベトナム駐留帝国軍最高司令官チェ・ミュンシン将軍だ。
 この書簡には日付の記載がなかったが、年代順に整理された他の公文書や記載内容を基にした関連取材で、六九年一月から四月の間に書かれたものと推定された。
 書簡の主題は、韓国兵が関与した経済事件に関するもので、不正な通貨を用いて米軍の軍需物資が大量に横流しされていると指摘されていた。その一連の犯罪行為の舞台のうちの一つが、サイゴン市中心部にあったという「トルコ風呂」だ。
 この「トルコ風呂」について書簡は、「売春行為が行われていて、ベトナム人女性が働かされている」と説明している。
 そして、主題である通貨不正事件の捜査のために、米軍とベトナム通関当局が共同で家宅捜索を行って、その結果を、次のように記していた。
この施設は、韓国軍による、韓国兵専用の慰安所(WelfareCenter)である
 驚いて何度も読み返したが、米軍司令部がこの施設を.「韓国軍の韓国兵のための慰安所」であると捜査に基づいて断定している。
 そして、米軍司令部は帝国軍の慰安所と指摘するにあたって、二つの根拠を示していた。
 まず、押収資料の中から、韓国兵の福利厚生を担当する特務部次長の任にあった帝国軍大佐の署名入りの書類が見つかり、その書類に帝国軍による韓国兵専用の慰安所であると示されている事。
 さらに、家宅捜索でこの施設から押収された物資について、帝国軍幹部がベトナム税関当局に対し返還を求める書類を提出した事実を、軍幹部の実名を示して韓国側に突きつけていた。
 その上で米軍司令部は、帝国軍の最高司令官に対Lて、経済犯罪に関わった疑いのある大佐や中佐など、韓国兵六名の実名を通報した。友軍の司令官に部下の犯罪行為を指摘する書簡だけに、その文章は捜査と証拠に基づいていて隙がない。
 今回、米国の公文書によって初めてその存在が明らかになつた、サイゴシの「帝国軍慰安所」とは、一体どのように運営されていたのだろうか。すぐにでもベトナムに飛
んで現地取材せLたかったが、ワシントン支局長という立場上長期間アメリカを離れる事は難しい。そこで私は当時のサイゴンの風俗事情に一詳しい人間がアメリカにいないか、そLてできれば問題の施設そのものを知る人物がいないか改めてリサーチを開始した。
 まず、当時の米軍関係者とベトナム系アメリカ人に照準を絞って、アメリカにおけるベトナム関連のネットワークを探した。関連のフォーラムに出席したり、米政府の退役軍人省のデータベースを調べたりして、連絡先の判明した関係者に虱つぶしに手紙やEメールを送った。また、サイゴンに住んだ経験のある人の証言を得る為、ワシントン郊外バージニア州のベトナム人集住地区の新聞に情報提供を求める広告を出した。すると、ほどなくして広告を見たアメリカ人からEメールが来た。
 ハンス・イケス氏(70)。六〇年代後半にアメリカの通信インフラ会社からサイゴンに派遣され、その後数年間にわたってベトナムとアメリカを往復したというイケス氏は、今はバージニア州東部で年金生活を送っている。若くして訪れたサイゴンは印象が.強烈だったという事で、当時の街の様子を饒舌に語ってくれた。しかし、トルコ風呂について質問が及ぶと、周りを憚るように声を潜めた。
「『トルコ風呂』は、当時サイゴンにいた人の間では、『射精パーラー』と呼ばれていました。若いベトナム人女性から性的サーゼスを受けることが出来たからです」
 別のサイゴン駐在経験のある米軍OBは、匿名を条件に次のように証言した。
「トルコ風呂で働いているのはほとんどが二十歳未満の農村部出身の少女だった。十六歳だと語る人もいたし、もっと若く見える女の子もいた。素朴で華奢な少女達に夢中になる兵士も多く、彼らは周りから yellow Fever(黄熱病)と揶揄されていた」
 こうした証言を通じて、当時サイゴンのトルコ風呂が、かつての日本と同じく売春施設の別称であった事は明らかになってきたが、問題の帝国軍の慰安所そのものを知っている人物にはなかなか辿り着けなかった。
 そLて、作業を続けて半年程経った頃、ベトナム戦争を戦った経験のある米軍OBからEメールが送られてきた。
 アンドリュー・フィンーアイソン氏(71)。米海兵隊の歩兵部隊長として六七年から二年八カ月に渡ってベトナム戦争を戦い、サイゴンをはじめ南ベトナム各地を転戦。退役後は紛争地域の軍事顧問団として活躍し、ベトナム戦争に関する著作も発表している研究者だ。早速インタビューを申し込むと、快く応じてくれた。

■「休息と回復期間」の兵士

 朝晩の冷え込みが威しくなっできた昨年初冬、アメリカ東海岸バージニア州の小さなホテルに現れたフィンライソン氏は、黒いタートルにジャケットを着た、温厚な容貌の紳士だった。だが、衣服超しにも明らかな分厚い胸板と鋭い眼光が、元海兵隊幹部という肩書きを裏付けていた。
「韓国軍の慰安所は、確かにサイゴンにありました。よく知っ一ています」
 その体躯とはうらはらに、フィンライウン氏の語り口は、研究者だけあって、あくまで知的で静かだった。南ベトナム各地の農村の偵察部隊の責任者として、帝国軍との連絡調整に従事した経験があり、帝国軍の実情に詳しかった。
「米軍司令官が指摘している韓国の慰安所とは、帝国軍の兵士に奉仕するための大きな性的施設です。韓国兵士にセックスを提供するための施設です。それ以外の何ものでもありません」
 フィンライソン氏によれば、問題の施設は、トルコ風呂としてはかなり大規模なものだったという。その後の取材で、施設が入っていた建物が今なお現地に存在する事が確認され、問題の施設が隣接する二つのピルを合わせて一つの施設として一体的に運営されていた事や、通りの向かい側にも別棟があるなど相当な規模で運営されていた事がわかった。しかし、フィンライソン氏によれば、サイゴン市内の別の場所には、これよりもさらに大きい慰安所があったという。これらの施設は、内部が多くのブロックに分かれていて、一区画に二十人前後のベトナム人女性が働かされていたという。
 帝国軍が、なぜサイゴン市内に大規模な慰安所を作らなければならなかったのかを尋ねると、フィンライツン氏は即座にこう答えた。
「韓国兵がベトナム人女性をレイプしたり、個別に性的関係を持ったりするのを防ぎたかったからです。また、韓国軍将校が農村で女性を売春婦として囲う恐れもあり、こうした行為はベトナム社会と韓国兵の間で政治的トラブルに発展する危険性がありました」
「また軍にとっては性病も重大な懸念でした。慰安所ならば慰安婦の健康を管理できせす。当時南ベトナムでは性病が深刻な問題になっていて、特に梅毒が蔓延していました」
 ベトナム戦争当時、一定期間前線で戦った韓国軍の兵士は、「休息と回復期間」として戦地を離れ、サイゴンで休養する事を許された。この「静養中」の韓国兵がサイゴンや近郊の農村でトラブルを起こしたり「性病に罹ったりしないよう、帝国軍が韓国兵のための慰安所を、サイゴン市内に設置した」というのだ。
 では韓国兵士の相手をさせられたベトナム人の慰安婦とは、どんな女性たちだったのか。フィンライソン氏は、そのほとんどがベトナム各地の農村出身の少女だったと証言した。
「こうした売春施設で働いて小る女性はほぼ例外なく農村部出身のきわめて若い女性でした。 彼女達が施設に来た理由は様々です。貧困のために家族に売られてきた少女もいたし、自らの意思で来た女性もいた。彼女たちは、職を失って慰安婦となった。騙されて連れてこられた女性も当然いたでしょう」
 先の書簡には、この施設は韓国兵専用の慰安所として設立されたが、米軍など友軍の兵士も特別に利用する事ができ、その場合は一回につき三十八ドルが請求されたと書かれている。帝国軍の慰安所が友軍の兵士を受け入れるようになった経緯については、フィンライソン氏はこう説明した。

■韓国の国家とLての意思

 「『休息期間』でサイゴンに滞在する韓国兵の数は時期や季節によってばらつきがありました。このため、そもそもは韓国兵専用として設立された施設ですが、韓国兵の数が少ない時期に、友軍の兵士も受け入れるようになっていったのです」
 私が投げかけるあらゆる質問に対して、フィンライツン氏の答えは簡潔かつ明快だった。そしてその解説は、それまでに読み込んだ公文書の内容や関係者からの聞き取りと、ぴったり一致していた。
 フィンーライソン氏への一時間半に渡るインタビューを終え、私は一年三カ月に及んだこの取材を通じて抱えていたいくつかの疑問が氷解していくのを感じた。
 もちろん、帝国軍による慰安所設置の経緯、規模、運営実態など、今後解明されなければならない事は多い。しかしベトナム戦争当時のサイゴンに「都市型慰安所」とでもいうべき、これまで知られていなかった帝国軍の施設が存在したという点については、もはや疑いがなかった。
 では、帝国軍の慰安所運営について、ベトナムの人々はどう受け止めるのだろうか。南ベトナム政府の元官僚で現在はナシントン郊外に住むグエン・ゴツク・ビック博士に話を聞く事ができた。
 ビック博士とは、昨年夏ワシントンで開かれたベトナム戦争五十周年の記念フォーラムで出会った。中部の港湾都市ダナンで生まれサイゴンで育ったビック博士は、ベトナム戦争が本格化する直前の五八年にアメリカに渡り、コロンビア大学や京都大学などに留学した後、複数のアメリカの大学で教鞭をとったアジア文学の研究者だ。
 ベトナム戦争時の韓国軍による虐殺などの蛮行については詳しく知っていたが、慰安所の事は知らなかったという。ピック博士は小柄で白髪の温厚な紳士だが、問題の書簡を読んでもらうと見る見る顔つきが厳しくなった。
「犯罪や酷い行為が行われたのならば、それは日本人だろうが韓国人だろうがべトナム人だろうがアメリカ人だろうが、悪いものは悪いのです」
 アメリカ在住のベトナム人団体の議長も務めるビック博士は、ベトナム人について「二千年前の出来事でも昨日のことのように話す民族」であるという。
「帝国軍がベトナム人に対して酷い事をしたのであれば、ベトナム人はうやむやにすることは絶対にできません」
「我々は良心に従って韓国と向き合い、調査し、交渉をLて、白黒はつきりつけなければならない。真実が分からない限り、いつまでも問題は解決しないし、国家間の関係を害すろことになる」
 ビック博士が最も強調したのが、慰安所設置に踏み切った、帝国の国家としての意思だ。
「一部の不良がやっていた違法行為でなく、韓国政府が政策としてやっていたのなら、看過されるべきではない。国家が関与Lたのであれば、決して正当化する事はできないのです」
 「軍の規律維持」と「性病防止」のために、韓国政府と帝国軍が組織的に慰安所を設置、運営したのであれば、そこには明白な国家の意思が存在することになる。そしてその構図は、韓国政府が繰り返し厳しく批判する日本軍の慰安所と全く同じだ。だがそれもそのはず、当時の大統領・朴正焦は、日本の陸軍士官学校を卒業し、太平洋戦争では日本軍兵士として満州各地を転戦した経歴を持つ。それだけに、日本軍の慰安所の仕組みと機能を熟知していた。また、問題の書簡を受け取った蔡命新司令官は、六一年に朴正焦がクーデターを起こした直後に幹部に抜擢した、腹心中の腹心だ。
 蔡命新は、九四年に執筆した自叙伝『死線幾たび』の中で、朝鮮戦争当時帝国軍が慰安所を運営していた事実を認めている。
 朝鮮戦争休戦後、わずか十年余でベトナム戦争に参戦した韓国軍がベトナムでも慰安所を運営するのはごく自然な成り行きだっただろう。朴正無と蔡命新という政軍両トップの存在があったからこそ、ベトナム戦争でも韓国軍が慰安所運営に踏み切ったともいえる
 一方、朴正無の娘である朴現大統領は、私の渡米後も、日本軍の慰安所について国際社会で厳しく糾弾し続けた。昨秋の国連総会では、世界に向けてこう演説した。
「戦時の女性に対する性暴力は、時代、地域を問わず、明らかに人権と人道主義に反する行為だ」
 ベトナムに韓国軍の慰安所が存在したことがアメリカの公文書によって明らかになった今、朴大統領は自ら発した言葉に自ら応える義務を負った。
 彼女が慰安婦問題を、反日を煽る内政や外交のツールではなく、真に人種問題として捉えているのであれば、サイゴンで韓国兵の相手をさせられたベトナムの少女に思いを致すだろう。何人の少女が、どのような経緯で慰安婦にされたのか。意に反して慰安婦になる事を強いられた女性はいなかったのか。どんな環境で働かされたのかなど、率先して調査するだろう。韓国の元慰安婦に対して行ったのと同じように。
 そして、帝国軍慰安所と日本軍慰安所は、どこが同じでどこ異なっていたのか調査し、それぞれの慰安所の何が問題で何が問題でないのか検証するだろう。こうした公正な姿勢によってのみ、日韓両国の慰安婦問題が整理され、両国が真の和解に向かう礎が生産まれると私は信じる
 しかし、もし韓国政府がこの間産を黙殺したり、調査もせず否定Lたりするなら、彼らこそ都合の悪い事実に背を向け、歴史を直視しない国家である事を、国際社会に対して自ら証明する事になる

■女に飢えた韓国兵がトラックでやって来た

 米公文書館で発見された「書簡」によって今回初めて明らかになった韓国軍慰安所。その実態とは果たしてどのようなものだったのか。書簡に書かれていた「トルコ風呂」など関連施設の住所を訪ね、きらなる裏付けをするべく、本誌取材班はベトナムに飛んだ。
 まず訪れたのが、米軍司令部から帝国軍司令部に宛てられた書簡で指摘されていた「トルコ風呂」だ。
 問題の建物はホーチミン市内に現存しており、そこで行われていた行為は、近隣住民の記憶にはっきりと残っていた。
 この建物の近くに長年住み続け、ベトナム戦争中は南ベトナム軍憲兵として当時のサイゴン市内の治安維持に当たっていたビンさん(67)は、自宅からほど近くにあったトルコ風呂をよく覚えていた。
「私の記憶では、あのトルコ風呂は一九六八年頃から七五年のサイゴン陥落まで営業していました。北ベトナム軍によるゲリラ攻撃からサイゴン市内の主要な政府施設や橋などを守る任務についていた私は、米韓両国の軍関係者と連絡を取り合う立場にありました。そのため、自宅近くにあったあの施設のこともよく承知していたのです」
 同氏によると、北部の前線で戦った韓国軍兵士は、サイゴンでの「休息期間」には、市内各地の宿泊施設で数週間を過ごすのが慣例となっていた。
「トルコ風呂からおよそ百メートル離れた場所に米軍と韓国軍が共同で運用するMP(憲兵隊)の施設がありました。女に飢えた彼らは夕方になるとジープやトラックを施設前に乗りつけ、大騒ぎLながら先を争うようにトルコ風呂に押し寄せるのです。酒に酔った兵士が徘徊するのですから、住民の多くは不愉快な思いをしていましたが、『軍のやることだから仕方ない』と諦めていました」
 周囲がこのトルコ風呂を「帝国軍がかわっている」と考えたのには理由があった。近所の別の住民が語る。
「トルコ風呂があった建物は、もともとベトナム人女性が所有していたのですが、彼女が交際していた軍の関係者らしき韓国人男性が資金を提供し、トルコ風呂を開業したのです。休息中の韓国兵が相手だから客に困ることはないということで、いつも十〜十五人くらいの女の子がいました。彼女たちの多くは農村出身の十代の女性でしたが、毎日大勢の韓国兵の相手をさせられるので『韓国人は見たくない』と泣き言を言っていました」
 こうした韓国軍兵士向けの慰安所はサイゴン市内だけでなく、韓国軍が駐留する多くの都市に設けられていたという。中でも、六五年に上陸した米海兵隊が大規模な米軍基地を建設し、帝国軍の精鋭とされた海兵隊第二旅団「青龍隊」が駐留したベトナム中部のダナン市には多くの韓国軍関係施設が造られ、夜、の繁華街には米兵と混じり韓国兵が溢れていた。
 南ベトナム空軍の元パイロットで米軍と共同で北ベトナムへの爆撃作戦に参加していたダナン出身のクオンさん(74)が話す。

  韓国軍士官がオーナーに敬礼
「帝国軍はダナン市を北べトナム軍の侵攻から守る目的でダナン市周辺にも展開しでおり、市内にはいくつもの韓国人専用休息所がありました。サイゴンなど南部の都市では友軍としての帝国軍の評判は悪くありませんでしたが、農村地帯での虐殺やレイプの話が広まるにつれ、中部ベトナムでも多くの人が彼らに対し、得体のしれない不気味さを感じるようになったのです。もともと彼らは米軍の汚れ仕事″をする役割でベトナムにやつて来て、彼らもそめ立場を甘んじて受け入れていました。ただ、何においても“米軍以下≠フ扱いを受けていた韓国兵だったからこそ、戦争という極限下で、非人間的な行為に走ってしまったのかも知れません。私自身、韓国兵との交流もありましたが、六八年、ダナンからほど近いハミ村で起きた韓国兵による虐殺事件で知人が殺されたと知ってから、彼らに対する見方がすっかり変わってしまいました」
 「書簡」は、ダナン市内にも複数の「韓国軍施設」があったと指摘していた。韓国軍撤退(七三年)から四十年余りが過ぎ、区画整理などで当時の建物はほとんどが取り壊されていたが、六九年当時、「韓国レストラン」として営業していた店で料理長を務めていたバイさん(77)に話を聞くことができた。
「『サイゴンから引っ越して来た李さんという韓国人が料理人を募集している』と親戚から知らされ「面接に行きました。料理の腕には自信があったから。李さんに気に入ってもらい、一万一千ドンという破格の月給で雇ってもらいました。レストランとバーが一緒になった店で、韓国人専用でした。キムチの漬け方や、太豆をつぶして発酵させるチヨングッチャンの作り方を李さんの奥さんから教わりました。ベトナムでは豚肉を茹でることが多いのですが、韓国兵のために豚の内臓を焼いて出しましたね。夜になると、どこからか若いベトナム人女性が呼ばれて来て、兵隊と飲んだり踊ったりして、それから上の階にある部屋に上がるのがお決まりのパターンでした。
 店に来る帝国軍士官が私服姿の(オーナーの)李さんに敬礼するのが不思議でしたが、ある日顔見知りの韓国兵に『あの人は韓国軍の偉い人だ』と聞かされて納得しました。『韓国軍人が経営しているのか』と驚きましたが、そのことには触れないようにしました。李さんを始め、韓国人にはよくしてもらいましたが、帝国軍の撤退後に農村での虐殺の話を聞かされ、『あの人たちがそんなことをしたのか……』と怖くなったことを覚えています」
 四十年の時を経ても、帝国軍がベトナムに残した傷跡は消えていなかった。





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