毛沢東の素顔
    〜 [誰も知らなかった毛沢東 下]より 〜

            ⇒[誰も知らなかった毛沢東 上]へ戻る


朝鮮戦争を始めた理由とその謀略

        1949〜53年 毛沢東55〜59歳
 ベトナムのホー・チ・ミンは北京経由でモスクワに呼び出され、一九五〇年二月一六日、スターリンはホー・チ・ミンに対して、ベトナムへの援助は中国の責任と負担でおこなうことになった、と告げた。
 毛沢東はベトナムにおける軍事活動を直々に監督するようになり、全体戦略から個々の軍事作戦にいたるまで詳しくチェックした。まず最初の目標は、ベトナムの共産主義根拠地を中国と連繋させることだった。中国共産党が一九四五年から四六年にかけてソ連と連繋しようとしたのと同じ作戦である。中国国内ではベトナム国境までの道路建設が急ピッチで進められ、一九五〇年八月に完了した。これによって、ベトナム人民軍は二カ月のあいだに「国境戦役」の名で知られる一連の重要な戦闘に勝利し、フランス軍は中越国境地域の支配権を失った。これ以降、中国はベトナムに大量の援助を注ぎ込んだ。ベトナム人民軍が二五年にわたって戦いを続け、フランスを破り、さらにアメリカに勝つことができたのは、背後に中国という安定した後方があり、兵端の補給を受けられたからである。
 まもなく、毛沢東はベトナムの「毛沢東化」を図ろうと計画し、多くの恨みを買った土地改革をベトナムにも一九五〇年に強制した。土地改革の実施にあたっては中国人顧問がベトナムまで出かけていって見せしめ裁判を主宰し、ベトナム人に死刑を言い渡した例もあった。ベトナムの「桂冠 詩人」トー・ヒユーは、毛沢東の役割をあきれるほど率直な狂詩で賛美している。
 殺せ、もっと殺せ……
 農場のため、良い米のため、迅速な徴税のため……
 毛主席を崇拝せよ、スターリンを崇拝せよ……
 1950年から、毛沢東はベトナムの軍事活動を縮小し、朝鮮半島で、もっと大規模な戦争を企てていた。当時の朝鮮半島は、北側をソ連が、南側をアメリカが占領することになった。そして、北は共産主義独裁者金日成が支配する朝鮮民主主義人民共和国になった。一九四九年、金日成はモスクワへ行き、大韓民国攻略を援助してくれるようスターリンの説得を試みた。スターリンの返事は「ノー」だった。アメリカとの対決に発展する可能性があるからだ。そこで金日成は毛沢東に乗り替えることにした。毛沢東は金日成に対して南進して米国と対決するようにけしかけ、中国からの人的支援を約束している。一方、スターリンにとって朝鮮戦争の最大のうま味は、毛沢東が中国の膨大な人的資源を使って多数のアメリカ兵を殺すか釘付けにしてくれれば軍事バランスがスターリンに有利に傾き、その結果、陰謀(*米国をこれ以上戦争できない状況に追い込み、日独という有力な資本主義国が二カ国も軍事的に動けない状態にあるから、無傷のソ連軍や中国軍の後押しにより、東南アジア諸国及び欧州を共産化すること)が実現可能になるかもしれない、ということだった。スターリンの陰謀とは、ドイツ、スペイン、イタリアをはじめとするヨーロッパ諸国を占領するのに、一〇億の中国人民を組織し、中国国外における家畜のような軍事的資産として、彼らに西側との戦いをさせることだった。世界大戦にもつながりかねないシナリオを話し合う中で、スターリンは、「われわれはこれを恐れるべきか? わたしの考えでは、そうではない……もし戦争が避けられぬものならば、数年先でなくいまやったほうがいい……」と言っている。毛沢東はこの可能性について何度もスターリンに説明し、自分の存在価値を強調しようとした。
 一九五〇年六月二五日に金日成が南へ侵攻すると、毛沢東は「アメリカは三〇ないし四〇個師団を送り込んでくるだろうが中国軍は彼らを「粉砕」してみせる。…数年かけて数十万のアメリカ人を殺しっくす」という冷酷な朝鮮戦争についての全体構想を、スターリンに伝えている。毛沢東から消耗品としての兵力提供を受けて、スターリンは朝鮮半島での戦争を積極的に望む姿勢に変わった。
 同時に、国連安全保障理事会はただちに決議を採択して韓国に支援部隊を送った。ソ連の国連大使は、台湾が依然として国連の議席を占めていることに抗議するという名目で、その年の一月から議事のボイコットを続けていた。スターリンは、西側が朝鮮半島に兵員を投入し、それを毛沢東が数の力で圧倒し粉砕する筋書きを望んでいたのです。
 毛沢東には、自分がアメリカに負けるはずはない、という確信があった。中国には何百万という兵隊を使い捨てにできるという強みがあるからだ。ちょうど厄介払いしたいと思っている国民党部隊の敗残兵があった。毛沢東は意図的に国民党の敗残兵を戦場に送り込み、万が一国連軍が始末をつけなければ、後方に特別の処刑部隊が待機して戦線から逃げ戻って来た兵士を始末した。兵隊の使い捨て競争になれば、毛沢東がスターリンを朝鮮戦争に巻き込むために説得したように、アメリカに太刀打ちできるはずがないことを、毛沢東は知っていた。毛沢東はこの使い捨ての国民党軍を「中国人民志願軍」と改称し、金日成へ派遣した。
 このようにして、1950年10月、スターリンの世界支配、毛沢東の東アジア支配(ソ連からの核兵器を含む軍事技術の導入で軍事大国になること、この為に毛沢東は朝鮮戦を徹底的に利用した。)、金日成の朝鮮半島支配の野望が重なり、中国は地獄の朝鮮戦争は始まった
 中国軍は当初勢いがあったが、寒さのために全員が死亡した部隊も多数あったという。栄養失調から多くの「志願兵」が夜盲症になった。この報告を受けた司令部からの回答は、松の葉を集めてスープを作れ、生きたオタマジャクシを食べてビタミンとたんばく質を補給せよ、というものだった。
 中国軍は唯一の強みである数の利を活かして、「人海戦術」で戦った。イギリス人俳優マイケル・ケインは朝鮮戦争に徴兵された経験があり、自分自身も貧困家庭の出身だったので朝鮮戦争に出征するまでは共産主義に共感を抱いていた、と述べた。しかし、戦場での経験から、ケインは共産主義に対して永久に消えない嫌悪を抱くようになった。中国兵は西側の弾薬が尽きるまで次から次へと波のように押し寄せてきたという。それを見て、ケインの頭に抜き難い不信が生じた。自国民の生命をなんとも思わない政権に、どうしてぼくへの配慮など期待できようか、と。
 中国は最貧国であるにもかかわらず、朝鮮戦争終結時には空軍は世界第三位の規模となり、最新鋭のミグ戦闘機を含む三〇〇〇機の航空機を持つまでになっていた。工場が次々に建設され、年間三六〇〇機の戦闘機を生産できる体制が三年ないし五年後には整うだろうと予測された(楽観的すぎる予測であったことが、のちに明らかになった)。爆撃機の製造さえ検討されはじめていた。
 朝鮮戦争が始まって一年が経過し、そのあいだに北朝鮮はアメリカの爆撃を受けてぽろぽろになった。このままでは荒廃しきった国土が残るだけ、しかもそれさえ小さくなる可能性があると見た金日成は、戦争の終結を望んだ。一九五一年六月三日、金日成はひそかに中国を訪れ、アメリカとの和平交渉開始について相談した。まだ目標達成に遠く及ばない毛沢東にとって、戦争終結などとんでもない話だった。実際、毛沢東は志願軍に対して、国連軍を北朝鮮領内にもっと深く誘いこむように指示した。
 ほとんどの問題は比較的迅速に解決したが、毛沢東とスターリンは戦争捕虜の本国送還問題で譲らず、これが交渉を難航させた。アメリカ側は、捕虜の自主的な、すなわち「強制的でない」本国送還を主張した。毛沢東は一括送還を主張した。国連軍は二万人を超える戦争捕虜を抱えており、その大半は元国民党軍の兵士たちで、ほとんどが共産主義中国への帰国を望んでいなかった。第二次世界大戦の終結時に捕虜をスターリンに返した結果、その多くが死亡することになったことへの反省から、アメリカ側は人道的・政治的理由を挙げて強制送還を拒絶した。しかし、毛沢東は「一人たりとも逃かしてはならぬ!」という冷酷な姿勢を変えなかったために、戦争は一年半も長引き、多くの朝鮮人と中国人が命を落とした。だが、毛沢東にとって捕虜の生命は問題ではなく、この問題を利用して戦争を長引かせ、スターリンからより多くの経済的軍事的援助を引き出すことが目的だった。
 金日成にしてみれば、アメリカに対して抱いた恐慌など、毛沢東とスターリンに対する恐怖に比べれば何ほどでもなかったはずだ。アメリカの爆撃は金日成の人民を多数殺害したかもしれないが、スターリンと毛沢東は北朝鮮が消滅して、金日成自身の地位あるいは生命を奪う可能性さえあった(実際に、毛沢東は後年そのようなことを企てた)。こうして、スターリンと毛沢東の野望により、朝鮮戦争は継続されることになった。
 スターリンは周恩来に「朝鮮戦争はアメリカの弱さを暴露した」「アメリカは世界を征服したいらしいが、ちっぽけな朝鮮を抑え込むことさえできない。アメリカ人は戦争の仕方を知らぬのだ」「アメリカ人は大規模な戦争をやる能力など全然ない、とくに朝鮮戦争のあとでは」と発言した。
 スターリンがこうした口をきけるのは、毛沢東のおかげだった。アメリカは軍事的な需要限度を超える数の航空機を失い、世論の受容限度を超える数の人命を失っていた。総計してみると、アメリカは朝鮮戦争のあいだに三〇〇〇機を優に上回る航空機を失い、アメリカの補充能力からすると、アジアとヨーロッパで同時に戦線を構えるには不安な状態に陥っていた。三万七〇〇〇の人命が失われたことも、民主主義国では重大な問題だった。
 一九五三年二月二日、アメリカの新大統領アイゼンハワーは一般教書演説の中で、中国に原爆を落とす可能性に言及した。毛沢東にとって、この脅しはむしろ心地よいメロディーだった。このおかげで、最も欲しかったもの、すなわち原子爆弾をスターリンに要求する口実ができたからである。
 アイゼンハワーが原爆使用の可能性を示唆した直後、毛沢東のスターリンへのメッセージは、煎じ詰めれば、「中国に原爆をください、そうすればソ連はアメリカとの核戦争に巻き込まれる心配はありませんよ」ということだった。スターリンは毛沢東に原子爆弾を持たせたくなかったが、アイゼンハワーの発言も心配だった。毛沢東からも西側からも圧力をかけられた結果、スターリンは朝鮮戦争の終結を決断したものと思われる。ソ連の最高機密文書を閲覧できるドミトリ・ヴオルコゴノフ将軍によれば、スターリンは朝鮮戦争終結を二月二八日に決断し、翌日実行に移すつもりであることを指導部に伝えていた。ところが、その夜、スターリンは心臓発作を起こして倒れ、三月五日に死去した。しかし、毛沢東はスターリンの葬儀には自ら出席せず、朝鮮戦争の継続に固執した。それは、原爆を手に入れたいからである。だが、新体制のクレムリンは、終戦を決断し、毛沢東を従わせることに成功した。
 一九五三年七月二七日、ついに休戦協定が締結された。三年にわたって何百万もの死者と無数の負傷者を出した朝鮮戦争は、ようやく終わった。中国は三〇〇万以上の兵員を朝鮮戦争に投入し、そのうち少なくとも四〇万人が死亡した。ソ連の公式文書は、中国人死者数を一〇〇万人としている。アメリカは約一〇〇万の軍人を動員した。
 中国人戦争捕虜二万一三七四人のうち、三分の二は共産主義中国へ戻ることを拒絶し、その大多数が台湾へ渡った。本土へ戻った三分の一は投降を理由に「叛徒」のレッテルを貼られ、毛沢東政権が終わるまで言語に絶する扱いを受けた。もうひとつ、毛沢東は朝鮮民族の不幸に残酷な貢献をしている。ほとんど知られていない事実であるが、毛沢東は、休戦時に北に不法に拘留されていた六万人以上の韓国人捕虜を最悪の運命に追いやる決定にも手を貸した。韓国人捕虜を手放さないよう金日成に指示したのである。韓国人捕虜は、人目を避け逃亡を防ぐために、北朝鮮の中でも最も辺邸な場所に分散して収容された。生存者がいるとしたら、いまもこうした場所に収容されているはずだ。
 ■日本共産党の平和運動の正体 [WiLL 2016年5月号]より
 戦後、共産党が戦争に反対して大々的に「平和運動」を展開したものに、朝鮮戦争がある。「朝鮮戦争反対! 米国は朝鮮から手を引け!」と全国で一大キャンペーンを繰り広げた。今日では、朝鮮戦争は北朝鮮の金日成がスターリンと毛沢東から支援の約束をとりつけて開始したことが明らかになっている
 共産党は、当時はアメリカ軍の侵略戦争だとして全国で盛んに反対運動を繰り広げたスターリンや毛沢東から指示を受けた日本共産党が日本国内で騒乱を引き起こし、朝鮮戦争の後方撹乱を企てると同時に、あわよくば「内乱」に発展させる読みであった
 スターリンや毛沢東から、自国の政府を転覆せよという指示を受け、外国(中国)に軍事基地を設けて、放送局までつくつて宣伝・煽動報道を行い、青年たちに軍事教練を施し、山岳地帯には軍事拠点(実際には大したことはしてなかったが)をつくらせ、警察や税務署を襲撃し、皇居前の広場を血に染めて交通機関を襲撃し、列車の運行を妨げた
 失敗に終わったというものの、こ支れは立派に「内乱罪」「外患罪」に該当するものであって、「平和運動」とはいえないものである
 以上のようにその歴史を見ても、日本共産党を平和の使徒、平和憲法の守護神のように考えるのは噴飯物である。
 日本共産党には、「民主集中制」という組織原則がある。これは、旧ソ連や現在の中国で行われている上意下達のシステムで、政治的決定は上から下へ下ろされるだけ、下部の党員は上の決定事項を黙って実行せよ、という原則である。
 指導部の方針と違ったことを話すと、規律違反として「査問」にかけられる。また、別の支部に所属する党員と話をしただけで、分派行動として処分される。党内で党員同士が自由に討論する権利もない。かつて『日本共産党の戦後秘史』産経新聞出版、のち新潮文庫)に書いたことだが、日本共産党に言論の自由などない
 
 ■妻を死に追いやった毛沢東は、息子も死に追いやった
 朝鮮戦争の戦死者の中に、毛沢東の長男毛岸英も含まれていた。毛岸英は一年前、一九四九年に結婚したばかりだった。妻の劉思斉は毛沢東にとって養女のような存在で、毛岸英とはしばらく前から知り合いだった。一九四八年暮れ、毛岸英が劉思斉と結婚したいと告げたところ、毛沢東は怒り狂って大声でわめきちらした。岸英は恐怖のあまり気を失い、両手が冷たくなって、熱湯を詰めた瓶を握らせても、やけどで大きな水ぶくれが二つできたにもかかわらず反応しなかったという。毛沢東の激怒には、性的な嫉妬が感じられる(美しく優雅な劉思斉は、一〇代の大半を毛沢東のそばで過ごしている)。毛沢東は結婚の許可を何カ月も先延ばししたうえに、毛沢東政権が一九四九年一〇月一日に正式に成立するまで結婚を遅らせるよう命じた。初めての結婚記念日を迎えたときには、毛岸英はすでに戦地に送られていた。規則によって、毛岸英は劉思斉に居所を知らせなかったし、思斉も尋ねなかった。
 息子の戦死を知らされたとき、毛沢東はしばらく無言だったが、やがて、「戦争では死は避けられないものだ」とつぶやいたという。毛沢東の秘書は、「主席はさほど悲嘆の表情を見せなかった」と述懐している。継子とあまり仲が良くなかった江青でさえ、少しは涙を流した。
 毛岸英が戦死してから二年半以上ものあいだ、だれも若き未亡人に事実を知らせなかった。戦争が続いているあいだは、劉思斉も夫から便りがないのを納得していた。しかし、一九五三年夏に休戦協定が成立しても依然として連絡がないので、不審に思った劉思斉は毛沢東に尋ねて夫の死を知った。それまでの二年半、劉思斉は日常的に毛沢東と顔を合わせ、週末や休暇を共に過ごしたりしていた。毛沢東は悲しい表情ひとつ見せず、不幸があったことを疑わせるような一瞬の陰りさえ見せなかった。それどころか、毛沢東はまるで岸英が生きているかのように、彼について冗談を飛ばしたりしていた。

軍事超大国への野望と虐げられる人民

        1953〜54年 毛沢東59〜60歳
 毛沢東は中国のありとあらゆる資源を超大国計画(いわゆる「総路線」)に注ぎ込もうとした。「工業化」の全過程は「一〇ないし一五年」、あるいは最大でもそれより少し長い程度の期間内で完了しなければならない、スピードがすべてだと、毛沢東は何度もくりかえし発言している。本当の目標、すなわち自分が生きているうちに中国を世界の軍事大国にする、全世界が自分の発言に耳を傾けるほどの超大国にするということだった。
 毛沢東は死ぬとき、遺書も跡継ぎも残さなかった。大多数の中国人、とくに中国の歴代皇帝とちがって、毛沢東は跡継ぎをもうけることに無関心であった。毛沢東の長男岸英は朝鮮戦争で戦死し、子供を残さなかった。妻の劉思斉が学業を終えるまで子供を持ちたくないと言ったからだ。次男の岸青は精神に障害があり、毛沢東にとって健常な息子は岸英一人しかいなかったが、毛沢東は岸英に跡継ぎを作るよう圧力をかけたことはなかった
 このあと数十年にわたり、生きているうちに軍事超大国の支配者になりたいという毛沢東の一念が、中国人民の運命を左右する唯一最大の要因となった。
 この時期の軍と軍事工業への支出は予算の六一パーセントを占めている。実際の数字はもっと大きく、しかも年ごとに増えていった
 対照的に、教育、文化、保健の支出は合計でわずか八・二パーセントしかなく、国の不足部分を補えるような民間企業もなかった。教育と医療は伝染病発生時を除いて無料で提供されたことは一度もなく、農民や都市の下層階級には手の届かないものだった。保健関係の支出を節約するために政府は衛生運動を展開し、ハエやネズミを殺すよう呼びかけた。犬猫まで殺すよう指導した地域もあった。その一方で、不思議なことに、臭くてばい菌だらけの中国のトイレには衛生運動が及ばず、毛沢東時代を通じて中国のトイレは不潔なままだった
 中国人民は、意図的に曖昧な表現によって、中国の工業化に使われているソ連製の設備は「ソ連からの援助」である、ソ連からの贈り物と聞かされていた。しかし、実際はすべては有償であり、おもに食糧で支払われていたこの事実は中国人民には厳重に秘されており、今日でもほとんど公表されていない。当時の中国には、食糧以外に売却できるものはほとんどなかった。ソ連との貿易は、「煎じ詰めれば、機械を買うために農産物を売るということだ」と、周恩来が発言している。今日の公式統計によれば、一九五〇年代を通じて、「主要な輸出品は米、大豆、食用油、豚の剛毛、ソーセージの皮、生糸、豚肉、カシミア、茶葉、卵」だった。
 中国がソ連とその衛星国に輸出していた物資は、ほとんどが自国民の生活必需品だった。なかでも大豆、食用油、卵、豚肉はすべて国民の主要な蛋白源であり、つねに極端な供給不足だったにもかかわらず、これらも輸出に回された。中国の耕地面積は世界のわずか七パーセントであるのに対して人口は世界の二二パーセントもあり、土地はきわめて貴重なため、ほとんどの地域では家畜を飼育する余裕はなかった。したがって、中国人の口に乳製品がはいることはなく、肉もほとんど食卓にのぽらなかった。中国人が主食とする穀物でさえ、国内生産高は情けないほど不足しており、中国は伝統的に穀物の大量輸入国であった。にもかかわらず、毛沢東は穀物まで輸出品リストに加えた。毛沢東は国民から食べ物を取り上げて、それを輸出に回したのである。一九五三年一〇月、「肉類のような商品については、国内市場を縮小して輸出を確保すること。果物、茶葉……のような商品は最大限輸出し、余剰が出た場合のみ国内市場に供給すべきである。」と指示も出されている。
 最大の影響を受けたのは、農民だった。政府は都市人口に対しては厳重な配給制のもとで基本口糧(必要最小限の食糧)を保証する方針を取ったため、食糧不足が避けられなくなった場合に飢えるのは農民だった。毛沢東が政権を握っていた時代には、農民として戸籍登録された者は都市に移住したり職業を変えたりすることを禁じられていた。農民は、特別の許可(結婚など)がないかぎり他の村に移ることさえ許されなかった。生まれた村に一生縛りつけられて生きるしかなかったのである。子や孫の代も、それは変わらなかった。このように徹底した移動の禁止は、中国社会がそれまで経験したことのないものだった。中国では昔から農民は地理的にも社会的にも移動が自由であり、名を上げ財を成す夢を抱くことができた−毛沢東のように。飢饉があれば、農民は都市部やよその村に逃れて新規まき直しを図ることぐらいはできた。しかし、毛沢東の支配下では、最良のときでさえ、軍隊にはいるか工場に雇われる以外には境遇の改善を望むこともできなかった。災害が起これば、生まれ育った村から出ることもできず飢えるか死ぬ以外になかった
 農村送りの恐怖は、都市住民の反抗的行動を封じる強力な抑止力となった。農民にされてしまえば、自分も家族も重労働を強いられるばかりか生活の糧を稼ぐ手段を奪われ、その不幸が子々孫々まで続くことを、人々はみな知っていた。
 あるとき、東ドイツへの大豆輸出量を増やす契約の席で、周恩来は交渉相手のドイツ人に、「民衆が飢えるとしても、それは農村の話であって、都市ではありません。おたくの国と同じことですよ」と話した。中国で人民が飢えても外からは見えない、という意味だ。
 輸出用の食糧生産を課された農民に、国からは事実上何の援助もなされなかった。この事実を裏付けるように、周恩来総理は一九五七年二月二七日、御用機関の最高国務会議において、「農業[への投資]はなし」と、コメントをしている。生産を向上させる方策については、中央政府の農業責任者が「農民の双肩と尻が頼りだ」と述べている−「双肩」は肉体労働、「尻」は人糞である。
 農民から搾り取った貴重な農産物は、ソ連や東欧から軍事品を輸入する代価として使われただけでなく、国際的影響力の拡大をもくろむ毛沢東が各国に景気よくばらまく援助としても使われた。中国が食糧を贈った相手は、北朝鮮や北ベトナムのような貧しい国々に限らなかった。とくにスターリンの死後、毛沢東を世界共産主義陣営の頭目に据えることを目指した時期には、中国よりはるかに裕福なヨーロッパの共産主義諸国にも気前よく食糧を贈与した。ルーマニアが青年大集会を開催したとき、毛沢東は三〇〇〇トンの食用油を寄贈した−それを生産している中国の農民に配給される油の量は年間約一キロで、それで食用と灯火の両方を賄わなければならなかった。ほとんどの農村では、電気は通じていなかった。中国よりはるかに裕福なハンガリーで一九五六年に暴動が起こったあと、北京はハンガリー政府に三〇〇〇万ルーブル相当の物資と三五〇万英ポンドの「借款」を供与した。しかも毛沢東は、借款は返済ご無用、と言いつづけた。
 スターリン死去から間もない一九五三年六月に東ドイツで東欧初の大規模暴動が起こったとき、毛沢東は東ドイツの独裁政権をてこ入れするため即座に五〇〇〇万ルーブル相当の食糧を提供した。ところが、東ドイツはもっと多くの食糧が必要だとして、代価として機械類を提供すると言ってきた。その機械は中国では使い途のないものだった。毛沢東が介入し、「彼らはわれわれよりはるかに苦しんでいるのだ。知らぬ顔でいるわけにはいかない」[傍点は毛自身による]というばかげた理屈を述べて東ドイツの要求を受け容れるよう命じた。東ドイツが一九五八年五月に食糧配給制度を解除できたのは、中国から提供された食糧のおかげだった。
 一般の中国人は毛沢東の大盤振る舞いに対して何も発言できなかっただけでなく、そもそも自分の国がそのように気前よく食糧をばらまいている事実自体を知らなかった。毛沢東ひとりが得意顔をしていたのである。一九五六年に東ドイツの残忍な指導者ヴァルター・ウルブリヒトが中国を訪問して毛沢東に儀礼的な賛辞を口にしたとき、毛沢東は尊大な態度で「一から十までわが国の真似をすることはありません」と応じ、偉大な庇護者気取りで教訓を垂れた。また、ウルブリヒトに反革命を十分に弾圧するよう強調した。毛沢東は、「[東ベルリンで暴動が起きた一九五三年]六月一七日以降、大量の人間を逮捕しましたか?」と尋ね、東ドイツに中国式の「手本」を提案した−それは万里の長城である。壁は「ファシスト」の侵入を防ぐのにおおいに役立つ、と、毛沢東は教えた。数年後、ベルリンに壁が出現した
 最も裕福な国々でさえ、対外援助額がGNP(国民総生産)の〇.五パーセントを超えた例はほとんどない。今世紀初頭のアメリカ合衆国の対外援助額は、GNPの〇.〇一パーセントよりはるかに少なかった。毛沢東時代、中国の対外援助額はGNPの六・九二パーセント(一九七三年)という信じがたい数字だった。世界に例を見ない数字である。
 中国の農民は世界でも最も貧しい部類にはいる−毛沢東は、そのことを十分承知していた。自分の支配下で農民たちが飢餓に苦しんでいることも、十分承知していた。超大国計画に着手する直前の一九五三年四月二一日、毛沢東は報告書で、「農業世帯の約一〇パーセントが春と夏に食糧不足に陥るものと見られる……食糧がまったく無くなる可能性もある」と指摘し、こうしたことは「毎年」起こっている、と書いている外国に対して食糧の大盤振る舞いを続ければいずれ大量の餓死者が出ることは、難しい計算をしなくてもわかっていたはずなのにだ
 毛沢東はそんなことなど気にもかけず、「食べるものが木の葉しかない? それでいいではないか」といった調子で片づけた。経済の統計や情報はすべて国家機密で、人民はいっさい何も知らされなかった
 ある時、藁葺き小屋が焼け落ちて灰になったのを見て、毛沢東は、“地上から何もかも消えてしまえばすっきりする”と、ひとりごとをつぶやいた。その背景には、毛沢東が若いころから口にしていた破壊への傾倒があった。毛沢東は最初の「憲法」草案の修正作業にとりかかった。権力の座について四年以上もたって、ようやくこうした作業を開始したのである。毛沢東が修正を求めた項目の中に、国家は「すべての公民の安全と法的権利を保護する……」と規定した部分があった。毛沢東は「すべての公民」という言葉に下線を引き、余白に「公民とは何を意味するのか?」と書き込んでいる。
 毛沢東におべっかを使う連中は、憲法を「毛沢東法典」と命名すべきだと提案した。あきらかに「ナポレオン法典」を念頭に置いた発言であるが、毛沢東はこれを却下した。毛沢東は法律そのものを嫌っており、何にも縛られたくないと望んでいた。実際、憲法草案は絶望的に不十分な内容であったにもかかわらず、破棄された
 春節(新年)を毛沢東とともに過ごすため、江青は娘のリーナーを連れて杭州へやってきた。中国の春節は、苦から家族が集う季節である。しかし、江青の春節は、泣きながら帰りの飛行機を手配させるという愁嘆場で終わった。杭州は景色だけでなく美人の産地としても知られており、これが毛沢東の女好きに拍車をかけた。毛沢東はその後、四一回もこの地を訪れている。女遊びも動機のひとつだった。毛沢東は若くて天真欄浸な娘を好んだ。毛沢東の手下たちは、毎週のダンスパーティーやその後の情事のために、毛沢東好みの女性たちを手配した。
 毛沢東の女漁りはますます遠慮がなくなっていった。江青は中南海の湖畔で泣いているところを毛沢東の医師に見られたことがある。江青は「このことは誰にも話さないように」と医師に口止めしたあと、「主席との政治闘争には誰も勝てません、スターリンだって。それに、女性をものにすることにかけても、主席に敵う人はいません」と言った。江青は時がたつにつれて気難しくヒステリックになり、怒りや欲求不満を周囲の人間にぶつけ、ことあるごとに看護師たちを「わざと意地悪をした」と非難し、殴り、処罰させた。

軍事超大国への野望…虐げられた農民を弾圧する

        1953〜56年 毛沢東59〜62歳
 一九五三年秋以降、超軍事大国計画の支払いにあてる食糧をさらに捻出するため、全国的な食糧供出制度が導入された。やり方は強制労働収容所と同じで、生きていくのに必要最小限の食糧を残してあとはすべて取り上げる、というものだった。政府は国民が生きていくのに必要最小限の食糧を穀類相当量で一人あたり年間二〇〇キロとし、これを「基本口糧」と呼んだ。
 しかし、毛沢東政権下でこの数字が守られたことはほとんどなかった。都市部の住民のほうが配給が多かったから、農民の口にはいる食糧は平均で一九〇キロよりかなり少なかったはずだ。
 毛沢東は、農民の食糧などもっと少なくてもいいと考えていた。農民には「一四〇キロしか必要ない。なかには一一〇キロしか必要のない者もいる」と言い放っている。心ある役人が農民から聴取した痛々しい言葉にはっきりと表れている。
「家族の一人として十分に食べている者はおりません」「一年間働いて、そのあげくに数ヵ月も飢えなきゃならんとは…となり近所の人たちもみな同じです」「作物の出来は悪くないが、それが何の足しになる。どれだけ収穫したところで、どっちみち十分食べられるほど残らないんだから…」「基本口糧」と言うが、「そんなに食べられる人間など一人もおりません」……。
 農民の苦境に対する毛沢東の答えは、サツマイモの葉を食べればよい、という無慈悲なものだった。サツマイモの葉は、昔から豚のエサと決まっている。「農民に食べる量を減らすよう教育せよ、もっと粥を薄く作るよう教育せよ」「国はあらゆる手を尽くして……農民の過食を防がなくてはいけない」と、毛沢東は指示した。 毛沢東政権下では、「力ずく」の食糧取り立てが日常的で人々が死ぬまで追い詰められていたが、毛沢東はこうした暴力をはっきりと容認しており、さらに過酷な「供出制度」を導入するに際して、毛沢東は政治局に対して、人民全体と「戦争」をするのだ、「これは食糧生産者との戦争である。同時に、食糧消費者との戦争でもある」と発言した。すなわち、前例のない少量の配給下に置かれる都市住民とも戦うという意味だ。農民も都市生活者も敵として扱うことを正当化した。
 一九五五年初めには、「供出制度」のせいで農民は極度の困窮状態に追い込まれていた。農民は木の皮を食べるほど飢えている、赤ん坊を捨てるほど食糧に窮している、といった無数の報告が毛沢東のもとに上げられた。毛沢東は支配を維持するために、一般大衆の反応をすくいあげる多くの情報収集ルートを持っていた。そうしたルートのひとつは、警衛団の衛士だった。その年、衛士たちが帰省するにあたり、毛沢東は、各自故郷の村のようすを報告するように、と指示した。彼らが描写した村の現実は厳しいものだった。ある者は、村では全世帯の五割が食糧不足で春には木の葉を食べなければならなかった、と書いていた。別の報告書には、人々は野草しか食べるものがなく、飢え死にしかけている、とあった。
 毛沢東は他の情報ルートからも、「社会主義のどこがそれほど良いのだ? 社会主義になったとたんに食用油ももらえなくなったじゃないか」「共産党は人民を死に追いやろうとしている!」などという民衆の声があることを知っていた。
 なかには毛沢東に陳情する勇気ある人々もいた。共産党シンパとして著名な黄炎培は、食料が少なすぎて働こうにも力が出ないと訴える手紙が農民から多数寄せられている、と、毛沢東に書き送った。毛沢東は、「人が死んだ、動物が死んだ、穀物倉庫が襲撃された、と、一万[一万は膨大な数という意味]もの報告書が届いておるそうだ、一万もの暗黒の報告書が……」と簡単に片づけただけで、何の動揺も見せなかった。陳情したシンパに対しては、「たっぷり痛めつけてやれ」と指示した。毛沢東は快活な口調で、「一年じゅう食べる物がないわけではなかろう−ほんの六カ月…あるいは四カ月程度のことだ」[原文ママ]と言った、とされている。伝統的な良心を引き合いに出してもう少し寛大な政策を懇請した高級幹部は、「良心など多く持たぬがよい。」と語っている。
 毛沢東にとって、集団化のもうひとつの大きな利点は、いったん集団化されたら、政府が分配してくれる食糧しか手にはいらなくなること。それと、農民の労働を監督するのがずっと容易になるということだった。集団化によって、農民は奴隷のように働かされることになった。これ以降、農民をどのくらい長時間どのくらい厳しく働かせるかは、国家が決めることになった。一九五六年元旦の『人民日報』論説は、農業集団化の目的は農民の労働時間を倍増させることにある、と、はっきり書いている。毛沢東は、とくに女性を標的にした。それまで野良に出ることのなかった女性たちが、農作業に駆り出された。(*これが左翼の云う女性解放の本来の姿で、奴隷の数を倍にすることだ。)
 供出制度と農業集団化に対する抵抗を押さえ込むために、毛沢東は例によって万能の解決法すなわち恐怖の力を用いた。一九五五年五月、毛沢東はもうひとつの五カ年計画を口にした。この五年計画は、人民の弾圧が目的である。「われわれは五年間で一五〇万人の反革命分子を逮捕しなければならない…わたしはもっと多く逮捕することに大賛成である…おおいに逮捕せよ、したたかに逮捕せよ、と強調しておく…」。毛沢東は、「わたしの命令に服従すべし」と付け加えている。食糧供出や農業集団化に抵抗する者や農民の抵抗に同情的な態度を見せる役人はことごとく断罪され、彼等に下された刑罰が全国で掲示された。
 国家公務員を恐怖で震えあがらせて命令どおり動かすために、毛沢東は彼らを対象とした粛清運動を開始し、一四三〇万もの男女に「自白と通報」を強要し、頻繁に公開批開会を聞かせ、肉体的虐待を伴う恐ろしい審査にかけた。職場や宿舎、体育館や大学の学生寮などが拘禁施設に転用された。毛沢東は、「反革命分子は…五パーセント前後…にのぼる」と発言した。審査対象となった男女のうち、七一万五〇〇〇人が罪を着せられ、処刑を含むさまざまな刑罰を受けることになる計算だ。実際、毛沢東は「この数字[五パーセント]を超える場合は許可を得ること」という指示を出して、もっと多くの人間を犠牲にしてもいいという考えを示している。
 国家公務員に対する弾圧と並行して、文学芸術に対する締めつけもおこなわれた。何事にも徹底的な毛沢東は、政権に就いた直後から文化に対する弾圧にも着手していた。
 マスコミに政権に批判的な考え方が暴露されて、それを証拠に処罰がおこなわれたことが大々的に報じられた。その結果、人々は用心していかなる思想も紙に書くことをしなくなった。思想を文字にすることができず、まして口にすることもできず、つねに自己検閲を強いられて、人々は自分の頭でものごとを判断する能力を失っていった
 毛沢東は、実際には、海を越えて台湾を攻め落とせる見込みはほとんどないのに、台湾を攻撃すると脅してみせた本当の狙いは、アメリカとの対立を核戦争の一歩手前まで煽ることにあった。そうなれば、毛沢東に原爆を持たせないかぎり、ソ連が中国に代わってアメリカに報復せざるをえなくなるからだ
 一九五四年九月三日、中国本土の砲兵隊は国民党軍が占領する金門島に砲撃を開始した。この砲撃によって、「第一次台湾海峡危機」が勃発した。ワシントンはこの危機をアメリカと中国の対立と受け止めたが、実際には、モスクワに圧力をかけるための毛沢東の芝居だった。
 クレムリン最高実力者の地位に就いたばかりのフルシチョフがソ連共産党幹部を引き連れて北京にやってきた。
 毛沢東はただちに交渉の主導権を取り、対米抑止力とするために中国が自国で原子爆弾を製造できるよう援助してほしい、と、フルシチョフに要請した。なぜ対米抑止力が必要なのかと尋ねられた毛沢東は、台湾海峡危機、と答えた。フルシチョフはソ連が核の傘で中国を守ると約束し、もし中国が攻撃されたらソ連が報復攻撃をおこなうと保証して、毛沢東に自前の原爆製造を思いとどまらせようとした。また、原爆製造は中国には金がかかりすぎる、と、経済面からも説得しようとした。これに対して、毛沢東は、まるで中国のプライドが傷つけられたかのように反発して見せた。フルシチョフは不快感を示したが、中国の原子炉建設への援助を検討することを不承不承に約束した。
 フルシチョフが帰っていった直後から、毛沢東は国民党軍が占領している島を次々に砲撃したり空爆したりして危機をエスカレートさせた。これに対して、アメリカのアイゼンハワー大統領は、台湾と相互防衛条約を締結することにした。毛沢東はさらに攻撃を強めた。一九五五年三月、アメリカは一定の状況では核兵器の使用もありうる、と表明した。まさに、毛沢東が狙ったとおりの展開である。アメリカとの核対決に巻き込まれたくないフルシチョフは、中国に原爆製造の技術援助を供与するという重大な決断を下した
 毛沢東は核保有国への道を着々と歩んでいた。ソ連人科学者の助言を受けて、核開発一二年計画が策定された。毛沢東は得意の絶頂にあり、最高指導部のメンバーを前に、「われわれは地球を支配しなければならない!」と、大気炎を吐いた
 核開発一二年計画に合わせて、一九五六年一月、毛沢東と腹心たちは農業の一二年計画を立案した。これは、拡大した超軍事大国計画に必要な資金を手当てするために人民からさらに多くの食糧を供出させるための計画で、農民に対して一二年後には穀物換算で年間五億トンの食糧を生産するよう命じる内容だった。五億トンとは、過去最高の年間収穫量(一九三六年)の三倍以上である。しかも、国家からの資本投下は事実上ゼロで、肥料の支給さえ受けずに、この途方もない数字を達成せよ、というのであった。
 毛沢東は基本的な数字さえ苦手だった為、経済問題を何一つ理解できなかった。だから、毛沢東にとって、統計や数字は何ら尊重すべきものではなかった
 一九五六年四月、毛沢東は中央政治局に対して削減分をもとに戻すよう指示したが、このときばかりは全員が頑として譲らなかったそのあと、周恩来は毛沢東のもとへ出向いて穀物収穫量の削減を受け入れてほしいと懇請し、きわめて異例な表現で、毛沢東の命令には自分の「良心上、同意できない」と言った。これを聞いた毛沢東はかんかんに怒ったが、削減案を止めることはできなかった。
 中央政治局のメンバーがあえて毛沢東に立ち向かったのは、彼らがいかに冷酷無情で鳴らした革命家といえども、何百万もの人民が餓死するという結果はあまりに重大だからだ。モスクワで起こったばかりのできごとも、彼らを勇気づけていた。一九五六年二月二四日、モスクワで開催されたソビエト共産党第二〇回大会において、フルシチョフがスターリンの粛清や独断専行、さらに強引な工業化計画(毛沢東の計画に比べればはるかに穏当)がもたらした代償について、批判をおこなったのである。中国共産党中央政治局のメンバーも、こうした問題について同じようにスターリン批判を始めた。
 第二次台湾海峡危機は、毛沢東が同盟国ソ連の腕をねじあげて原爆技術を供与させた第一次台湾海峡危機(一九五四年−五五年)とそっくり同じ手口で、今回は原子力潜水艦を含むハイテクの軍事ノウハウ取得が狙いだった。八月二三日、毛沢東は台湾攻撃の起点である金門島に向けて大砲による大攻撃を開始し、小さな島に三万発の砲弾(大半がソ連製)を撃ちこんだ。ワシントンは、毛沢東が本気で台湾を攻略するつもりかもしれないと受けとめた。西側諸国は、どの国も毛沢東の本心に気づいていなかった。毛沢東が狙っていたのは、アメリカに核戦争も辞さないと言わせて同盟国ソ連をおどかすこと外交史にも例を見ない奇策であった。
 毛沢東の芝居じみた言動は、フルシチョフから大きな譲歩を引き出した。ソ連に圧力をかけつづけるため、毛沢東は、「当面、中国には原子力潜水艦がないので、中国の海岸線をすべてソ連に預けてかわりに戦ってもらったほうがいいかもしれませんね」と言い、約束を遂行しなければソ連が戦争に引きずり込まれる可能性があることを強く示唆した。そして、毛沢東は中国の立場をはっきりと示した−中国が自力で戦争を戦えるようにしてくれれば、ソ連は抜けても構わない、と。ソ連の最高権力者は、中国のために「多数の原子力潜水艦を製造する……大規模工場」の建設を申し出たのである。毛沢東は国防相名で金門島への砲撃を中止する声明を書いた。これによって、第二次台湾海峡危機は終息した。
 毛沢東はフルシチョフに書簡を送り、中国はアメリカとの核戦争を単独で戦う方針に大満足である、と確認した。「われわれの最終的勝利のため、帝国主義諸国の完全撲滅のため、われわれ[すなわち中国人民−ただし、当の人民にはいっさい相談がなかった]は.初めての[アメリカによる核」攻撃に耐える覚悟である。ただ死人の川ができる程度の問題に過ぎない
 毛沢東は以前にも、これほどあからさまな表現でないにしても、同様の発言をしている。一九五五年、毛沢東はフィンランド大使に、「アメリカの原爆では中国人を一掃するには数が足りないだろう。たとえアメリカの原爆……が中国に落とされても、たとえ地球に大穴が空いても、あるいは地球が粉々に吹き飛ばされたとしても、太陽系にとっては大きなことかもしれないが、宇宙全体から見れば取るに足らぬことだろう」と述べた。


大躍進 国民の半数が死のうとも

        1958〜61年 毛沢東64〜67歳
 人民のあいだに個人崇拝を植えつけ、政治局メンバーを屈服させ、不満の声を「反右派闘争」で沈黙させておいて、毛沢東は超軍事大国計画を大幅に加速させていった。一九五三年当初には 「一〇ないし一五年」でと言っていたが、うまくいけば三年で実現するに短縮された。このプロセスを、毛沢東は「大躍進」と呼んだ。大躍進は一九五八年五月に始まった。
 中国人民は曖昧な表現によって、大躍進の目標は中国が「比較的短期間ですべての資本主義国を追い越して世界で最も豊かで先進的で強力な国家のひとつになることだ」と聞かされていた。一方で毛沢東は、少数の者たちに極秘の話として、大躍進が終了したあかつきには「太平洋を我々が支配する」と、説明していた。(*習政権下でも、沖縄と台湾を支配下に置き、東支那海では人工島に軍事基地を置き、太平洋を支配しようとしている。2016/03/22)
 これは二〇世紀最悪の飢饉、人類史上最悪の飢饉だった。毛沢東は計算ずくで何千万という人々を餓死や過労死へ追いやったのである。飢饉が最悪だった一九五八年から一九五九年にかけての二年間、穀物だけでも七〇〇万トン近くが輸出されている。これだけあれば、三八〇〇万人に一日あたり八四〇カロリー以上を与えることができる生死を分ける数字だ。しかも、これは穀物だけの数字で、食肉、食用油、卵、その他大量に輸出された食料品は含まれていない。これらが輸出に回されず、人道主義的基準に従って分配されていたら、おそらく中国は一人の餓死者も出さずにすんだはずだ。当時6億人前後だったが、大躍進により餓死と強制労働による過労だけでも、約3千3百万人が死んでいる。しかも、大躍進で得られたものは、飛べない飛行機、乗組員が危険な戦車、人民から巻き上げた鉄から作った使えないくず鉄、殆どが途中で中断されたダムを含む感慨事業(これが原因で今でも災害が続いている)、ソ連が中国に作った軍事工場の破壊、中国文明の破壊…だった。これらは、人民が手弁当(衣食住、工事用道具)で、強制労働させられた結果だった。(*現在の中国で、殺人環境汚染、人の住まない都市、経済崩壊、農業崩壊、軍事費の大増進、武装警察の大増進…と、そっくりです。)
 実際には、毛沢東はさらに多くの人間が死ぬことを計算に入れていた。大躍進のあいだ、毛沢東は意図的に大量殺人をおこなったわけではないが、結果的に大量の人間が死ぬことになってもかまわないと考えており、そのような事態が起こってもあまり驚かないように、と、幹部に伝えていた。大躍進運動の開始を決定した一九五八年五月の党大会において、毛沢東は、党が打ち出した方針(*毛沢東の方針)の結果として人々が死ぬことを恐れてはいけない、むしろ歓迎すべきである、と演説した。(*つまり、超軍事大国のための犠牲は、歓迎だという意味。)
 この軽薄かつ悪魔的な「哲理」は、下々の農村幹部にまで伝達された。安徽省鳳陽県で餓死や過労死した人々の死体を見せられたある幹部は、「人が死ななければ、地球上に人があふれてしまぅ! 生きるも死ぬも世の常だ。この世に死なない人間などいるかね〜」と、毛沢東の言葉をほぼそのまま口にしたという。ある地区では喪服を着ることも禁止され、涙を流すことさえ禁止された毛沢東が死は祝うべきことだと言ったからである
 毛沢東は大量死に実用的な利点まで見出した。一九五八年一二月九日、毛沢東は最高幹部に対して、「死はけっこうなことだ。土地が肥える」と発言している。この理屈に従って、農民は死人を埋葬した上に作物を植えるよう命じられた。これは農民に大きな精神的苦痛をもたらした。
 最近になってようやく、毛沢東がどれほど多くの人命を失ってもかまわないと考えていたかを確実に知ることができるようになった。一九五七年にモスクワを訪問した際に、毛沢東は、「われわれは世界革命に勝利するために三億の中国人を犠牲にする用意がある」と言った。当時の中国の全人口の半分である。一九五八年五月一七日の党大会でも、毛沢東は次のように発言している。「世界大戦だといって大騒ぎすることはない。せいぜい、人が死ぬだけだ……人口の半分が繊滅されるこの程度のことは、中国の歴史では何度も起こっている……人口の半分が残れば最善であり、三分の一が残れば次善である……
 大躍進に必要な資金(食糧)を、農民から取り上げるために、農村幹部はしばしば暴力に訴えた。それで効果がなければ、武装した警官が送り込まれた。一九五八年八月一九日、毛沢東は省委書記に対して、「引き渡せと命令しても引き渡さない場合には、力ずくで命令を実行せよ」と指示を出した。上からのこうした圧力を受けて、農村に国家の暴力が吹き荒れた。
 暴力による取り立てを「正当化」するため、毛沢東はくりかえし農民や農村幹部が穀物を隠匿していると非難した。一九五九年二月二七日、毛沢東は最高幹部に対して、「どこの生産小隊もみな食糧を隠匿して仲間うちで分配している。秘密の深い穴蔵に隠して、守衛や歩哨を置いているところもある……」と述べた。翌日にも、農民は「昼間はニンジンの葉を食べ、夜は米を食べている……」と述べている。つまり、農民はまともな食糧がなくなったふりをしながら実際には上等な食糧を蓄えていて、それを秘密で食べている、という非難である。毛沢東は内輪では、「農民は食糧を隠している……非常に悪い。農民の中には共産主義精神などかけらもない!農民は結局農民なのだ。それ以外に身の処し方を知らぬ連中だ……」と、農民を軽蔑している。
 農民に食糧を隠匿する余裕などないことを、毛沢東はよくよく承知していた。毛沢東は優秀な情報収集システムを持っていて、全国で毎日何が起こっているかすべて把握していた。一九五九年四月には、「大問題。一五省で二五一七万人が食糧欠乏」と、国の半分で深刻な飢餓が起こっていることを知らせる報告書を読んでいる。雲南省から届いた一九五八年一一月一八日付の報告書には、浮腫で人が次々に死んでいる、とあった。重篤な栄養失調が原因の浮腫である。このときも、毛沢東は、「この誤りは主として県級幹部の落ち度である」と言って、面倒な責任は下に押しっけた。多くの地域で人民が観音土(土と麦わらをこねた団子)を口に入れるほど飢えていることも、毛沢東は知っていた。村人全員が観音土を食べた末に腸を詰まらせて死亡した村もあった。
 こうして全国から食糧を搾り上げた結果、一九五九年の穀物輸出高は四七四万トン、九億三五〇〇万米ドル相当にのぼった。穀物以外の食糧、とくに豚肉の輸出も急増した。
 中国で「食糧があり余っている」話は、フルシチョフにも伝えられた。一九五八年夏にフルシチョフが北京を訪問したとき、毛沢東は原子力潜水艦を建造するための援助をソ連に迫った。原子力潜水艦建造には膨大な資金がかかるが中国はどうやって代金を払うつもりか、というフルシチョフの質問に対して、毛沢東は、中国には無限の食糧がある、と答えた。
 ほかにも、毛沢東は数多くのいいかげんな思いつきで農民を苦しめた。たとえば、「人海戦術を使ってすべての田畑を天地返しせよ」と、人力で耕土を五〇センチの深さまで掘り返すよう命じた。極端な密植も毛沢東の命令だった。密植栽培には肥料が必要だが、毛沢東はそのための支出は拒み、一九五八年末には「化学肥料の輸入を削減せよ」という命令まで出している。あるいはまた、「中国を豚の国にするのだ……そうすれば、糞で肥料がたくさんできる……食べきれないほどの豚肉も生産できるから、それを輸出して鉄鋼を輸入すればよい」という命令も出した。しかし、豚の飼料はどこから手当てするのかについては言及がなかった。実際には、毛沢東の指導下で、豚の頭数は一九五七年から一九六一年のあいだに四八パーセントも減っている。
 製鉄所と炭坑などの関連業種には、全力で生産のスピードアップを図るよう命令が出された。規則も常識もない。生産設備は壊れるまで酷使され、数カ月のうちに重大事故による死者だけで三万人を超えた。理を説いて暴走を諌めようとした専門家は迫害された。毛沢東は、「ブルジョワ教授の知識など犬の屈と同じと思えばよい。何の役にも立たぬ、軽視と蔑視に値するだけだ……」と発言して、合理性など信用に値しないという姿勢を示した。
 全力で操業を続けても、既存の製鉄所だけで毛沢東が掲げた目標を達成するのは無理だった。これを見て、毛沢東は一般の国民に「土法高炉」を作るよう命じた。土法高炉による製鉄の原料にするため、国民は家庭にある鉄製品を事実上すべて供出させられた。生産活動に使う道具であろうと、生活必需品であろうと、いっさい関係なしだった。農機具も、水運搬用の荷車も、調理器具も、ドアの把っ手も、女性の髪留めも、何もかも土法高炉へ運ばれて溶かされてしまった。政府は、「つるはし一本を供出することは帝国主義者一人を取り除くこと、釘一本を隠すことは反革命分子一人を隠すことである」というスローガンで鉄製品の供出を求めた。しかし、土法高炉が生産したのは、鉄鋼にはほど遠いクズ鉄がせいぜいだった。
 建材や屋根材を燃料として使うために中国全土で農家がさらに解体され、住む家のない農民が増えた。近隣の山や丘陵は、木々が一本残らず伐採されて丸坊主になった。このときの乱伐が原因で、数十年後まで洪水が続いた。
 毛沢東は、人の名前まで廃止して番号制にすることを考えた。人々は背中に番号札を付けて田畑に出た。毛沢東の狙いは、中国農民すべてから人間としての個性と尊厳を奪い、彼等を役畜同然の労働力にすることだった
 栄養不良と過労のため、まもなく何千万という農民が衰弱して働けなくなった。ある県で病気で働けない人間にも食べ物が与えられていることを知った毛沢東は、「これではだめだ。これだけの量を与えれば、連中は働くはずがない。配給量を半分にするとよい、腹が空けばもっとがんばるだろうから」と言った
 農民を労働に駆りたてたのは人民公社の幹部で、彼らは党から派遣された人間だった。いわば、公社に住み込みの奴隷監督である。監督の役割を果たさなければ、彼ら自身や家族が餓死を待つ人人の群れに落とされる。そうした立場に置かれた人間が身につけるようになった態度を、彼らの一人がいみじくも語っている。農民は「奴隷であるから殴りつけ、虐待し、食べ物を減らすと脅して働かせなければならない」と
 公社幹部のもうひとつの仕事は、農民が自ら収穫した農作物を「盗む」行為を取り締まることだった。各地で身の毛もよだつような刑罰がおこなわれた。生き埋めにされた例もあれば、ロープで絞殺された例もあり、鼻を削ぎ落とされた例もあった。ある村では、四人の幼い子供たちが食べ物を盗ったために生き埋めにされそうになったが、腰まで土に埋められたところで親たちの必死の懇願がかなって処刑が中止された。子供たちは恐怖で心に深い傷を受けた。別の村では、まだ熟していない作物を少しばかり盗ろうとした子供が指を四本切り落とされた。さらに別の村では、食べ物を盗ろうとした子供二人が耳に通した針金で壁に吊るされた。この時期、中国全土を通じて、どの報告書にもこうした残虐行為の話が登場する。
 中国全土を襲った大飢饉は一九五八年に始まり、一九六一年まで続いた。最悪だった一九六〇年には、政府の公式統計でも、国民の平均カロリー摂取量は一日あたり一五三四・八(キロ)カロリまで落ち込んでいる。きわめて毛沢東政権寄りの作家ハン・スーインでさえ、都市部の主婦の一日あたりカロリー摂取量は一九六〇年には最大で一二〇〇カロリーだった、と書いている。アウシュビッツ強制労働収容所の囚人は、一日あたり一三〇〇ないし一七〇〇カロリーの食事を与えられていた。それでも、一日に約一一時間の重労働をさせられる囚人の場合、配給以外の食糧を手に入れられない者は大半が数ヶ月以内に死亡している。
 大飢饉のあいだ、人肉を食べた者もいた。毛沢東の死後に安徽省鳳陽県に関しておこなわれた研究(ただちに中止させられた)によると、一九六〇年の春だけで六三件の人肉食が記録されている。その中には、夫婦が八歳の息子を絞め殺して食べたケースもあった。しかも、おそらく鳳陽が最悪のケースではないはずだ。住民の三分の一が死亡した甘粛省のある県でも、人肉食が横行した。ある村の幹部で妻も姉も子供も飢饉でなくした人物は、のちにジャーナリストにこう語っている。「それは多くの村人たちが人肉を食べましたよ……あそこ、公社の事務室の外でしゃがんで日向ぼっこをしている人たちが見えるでしょう? あの人たちの何人かは人肉を食べています……みんな、腹が減って頭がおかしくなってしまったのです」
 こうした地獄絵の一方で、国の穀物倉庫には食糧がたっぶりあり、軍によって守られていた。なかには倉庫内でそのまま腐ってしまう食糧さえあった。ポーランドのある学生は、一九五九年の夏から秋にかけて中国東南で果物が「トン単位で腐っていく」のを目にしたという。それでも当局は、「餓死不開倉」(人民が餓死しようとも、穀物倉庫の扉は開けるな)と命令していた。
 大躍進と大飢饉の四年間で、三八〇〇万近い人々が餓死あるいは過労死した。この数字は、ナンバー2の劉少奇によって確認されている。劉少奇は、大飢饉が終息する前の段階ですでに三〇〇〇万人が餓死したことをソ連大使ステパン・チエルボネンコに話している。
 さらに、毛沢東は既存の都市を大規模に破壊して、跡地を工業地に転用する構想を抱いていた。一九五八年、政府は北京の歴史的建造物を調査して、八〇〇〇の歴史的建造物をリストアップした。政府はそのうちわずか七八点についてしか保存を認めなかった。この計画を聞いた者は、市長以下全員が、これほどの破壊は思いとどまってほしいと懇請した。当面のあいだ、命令はそれほど徹底的には実行されなかった。ただし、毛沢東がどうしても譲らなかったため、何世紀にも及ぶ由緒ある城壁と城門はほとんどすべて取り壊され、その土で市内の美しい湖が埋め立てられた。「南京や済南などの城壁も取り壊されたと聞いて、嬉しく思っている」と、毛沢東は発言した。毛沢東は、無意味な破壊に苦衷の涙を流す文化人をからかって楽しみ、わざと知識人を取り壊し作業に従事させた。目に見える形で残っていた中国文明の遺産の多くが、こうして地上から永久に姿を消した
 一九五八年末までに、兵器生産を中心とする工業プロジェクトの着工件数は大規模なものだけで一六三九件という驚異的な数字に達した。しかし、その中で完成までこぎつけて曲がりなりにも何かを製造できたのは、わずか二八件だった。多くのプロジェクトは、鉄鋼、セメント、石炭、電力など基本的な原材料の不足が原因で完成に至らなかった。工業化の最終段階でなく最初の段階から荒廃を生んだ支配者は、毛沢東をおいて他に歴史上類がない。
 こうしたことすべてが毛沢東の夢を打ち砕く結果になった。毛沢東が異常なまでのスピードを要求したせいで品質が犠牲となり、それが後々まで尾を引いて、毛沢東時代を通じて兵器産業の足を引っ張った。結局のところ、中国が生産したものといえば、飛べない飛行機、まっすぐ走れない戦車(勝手に進路を変えて見学中のXIPに向かって突進しはじめたこともあった)、敵より乗組員のほうが危険にさらされる軍艦、といった類のものばかりだった。毛沢東がホー・チ・ミンにヘリコプターを贈ると言い出したとき、製造責任者はヘリコプターが墜落することを怖れるあまり、国境で荷物を足止めさせた。四年間の「大躍進」は、資源と労働力の途方もない無駄遣いだった。これほど大規模な浪費(人民の犠牲と自然破壊)は、世界の歴史にも例がない。

チベット動乱

 中国を征服したときから、毛沢東はチベットの武力攻略を考えていた。一九五〇年一月二二日にスターリンと会談したとき、毛沢東は、ソビエト空軍を使って「現在チベット攻撃を準備中の」中国軍に物資を輸送してもらえないだろうか、と依頼している。スターリンは、「貴国が攻撃の準備をしているのは良いことだ。チベットは鎮圧する必要がある……」と答えた。スターリンは、また、「新疆の人口のうち、漢民族はわずか五パーセントたらずであり、漢民族の割合を三〇パーセントまで引き上げるべきである……というよりも、すべての国境地域に漢民族を入植させるべきである……」と、チベットを含む国境地域に漢民族を大量に送り込む政策を助言した。その後、中国共産党は、まさにこの助言どおりの政策を実行した。
 一九五〇年から五一年にかけて、二万人の中国人民解放軍がチベットへ侵攻した。しかし、毛沢東は、これ以上の兵を送り込んでチベット全域を占領することは無理だと悟った。大軍を送り込むための道路がなく、また、中国兵が高地に慣れていなかったのに対して、チベット軍は臨戦態勢を解えていたからである。そこで毛沢東は交渉戦術に転じた
 ダライ・ラマをチベットの元首と認め、一九五四年九月、一九歳のダライ・ラマは、形ばかりの第一回全国人民代表大会に出席するため北京を訪れた。毛沢東はダライ・ラマと会談して、ダライ・ラマを懐柔し、警戒心を緩めさせることが狙いだった。一方で庇護者然とした態度で教訓を垂れ、「宗教は害毒である」という考え方を受け容れないダライ・ラマを厳しく叱りつけたりもした。
 チベット国民のためを考えて、ダライ・ラマは中国共産党に入党を申請した。しかし、これは認められなかった
 一九五六年初旬、チベットへつながる二本の幹線道路が完成すると同時に、毛沢東はチベットに隣接し五〇万人ほどのチベット人が住むカムと呼ばれる地域で宗教施設を攻撃し、武器を没収し、食糧の供出制度を開始した。カムの住民は反抗し、三月末までに五万挺以上の銃で武装した六万人超の軍事勢力を組織した。チベット族が過半数を占める他の地域でも、叛乱が野火のように広がった。毛沢東は内陸の広大な地域で相当規模の戦線を複数抱えることになり、重砲や空爆を使って対応した。
 多数のチベット人志願兵で組織された戦闘的な叛乱軍から猛烈な反撃を受けた毛沢東は、チベット本国に侵攻すればどれほどの抵抗を受けるかを実感した。九月、毛沢東はチベットの「改革」を延期した。
 二年後の一九五八年、大躍進が始まって中国全土で食糧供出量が大幅に引き上げられると、これに対してチベットおよび相当数のチベット族が住む中国西部の四つの大きな省、甘粛、青海、雲南、四川で頑強な抵抗運動が起こった。
 一九五九年三月一〇日、中国側がダライ・ラマ誘拐を企てているという噂が広まって、ラサで暴動が起こった。何千人ものチベット人が「中国は出て行け!」と叫びながらダライ・ラマの宮殿前やラサ市内を行進した。翌日、毛沢東は、ダライ・ラマの国外脱出を許すように、という命令を打電した。もしもダライ・ラマが殺害されるような事態になれば、国際世論とくに仏教国やインド(毛沢東はインドにすり寄ろうとしているところだった)の世論に火がつくだろう。三月一七日夜、ダライ・ラマはラサを出てインドへ向かった。ダライ・ラマの国外脱出を確認したあと、毛沢東は「可能な限り敵をラサから逃走させず……主力軍の到着を待って包囲繊滅せよ」と、命令を出した
 同時に、毛沢東の命令によって、チベットは恐ろしい土地であるというイメージを植えつけるための大々的なメディア・キャンペーンが始まった。チベットでは身の毛もよだつ拷問に加えて目をくり抜くような刑罰も日常茶飯である、といった宣伝がおこなわれた。昔からの偏見も手伝って、この宣伝作戦は効果を上げ、チベットは野蛮な国だというイメージが人々の頭に焼きついた。
 古代チベットの神権政治には、たしかに暗黒の側面もあった。しかし、総合的な残忍性と犠牲の大きさから見れば毛沢東政権のほうがはるかに邪悪だ。このことは、一九五九年から六一年にかけておこなわれた弾圧について、チベットでダライ・ラマに次ぐ地位にある精神的指導者パンチェン・ラマが一九六二年に周恩来にあてて書いた七万語にのぼる書簡を読むと、よくわかる。パンチエン・ラマは当初中国軍のチベット侵攻に協力的な立場を取っており、一九五九年のラサ暴動鎮圧の際にも中国共産党を擁護した人物である。そのパンチェン・ラマがこうした内容の書簡を書いたという事実が、事態の深刻さを一層如実に物語っている。しかも、周恩来自身、この手紙に書かれた内容が真実であることを認めている。
 「以前は動物の飼料に使われていたものが、いまではめったにありつけない栄養のあるごちそう」になった。人々の健康状態は極端に悪化した。「風邪のような軽い感染症……が大量死につながった。飢餓が直接の原因で死んだ人も……かなりの数にのぽった……死亡率はほんとうに恐ろしいレベルで……このような飢餓の苦しみはチベットの歴史にはこれまで一度もなかった
 パンチェン・ラマの父親や家族を含めて、多数のチベット人が暴力的な批闘会に引き出された。「人々は目、耳、口、鼻から血を流すまで殴られ、手足の骨を折られて気を失った……あるいは、その場で死亡した」と、パンチェン・ラマが書いている。チベット史上初めて、自殺が珍しくない行為になった
 成人男性の大多数がまとめて検挙され、残されたのは「女性、老人、子供、きわめて少数の青年・中年男性」だけ、という地域が多かった。毛沢東の死後、パンチェン・ラマはそれまで書簡に書くのを控えていた事実を明らかにした。それによると、驚くべきことに、チベット族全体の一五ないし二〇パーセントおそらく成人男性の半数が投獄され、人間以下の扱いを受けて、死ぬまで重労働をさせられたという。長期にわたる拘留生活を耐え抜いた勇敢なラマ僧パルデン・ギヤツォが著者に語ってくれたところによると、重い犂(すき)を引く囚人たちに針金の鞭が打ち下ろされたという
 反乱軍の平定にあたった中国軍は、残虐きわまりない行為をおこなった。パンチェン・ラマが毛沢東の死後に語ったところによると、ある場所では、「死体が山から引きずりおろされて」大きな穴に埋められたあと、遺族が呼び集められ、中国兵から「『われわれは叛匪を殲滅した、だからきょうはめでたい日だ。おまえたち、みんな、死体を埋めた穴の上で踊れ』」と言われたという。
 残虐行為と並行して、文化の抹殺も進められた。公式に「大破壊」と呼ばれる運動がおこなわれ、チベットの生活習慣全体が「後進的で不潔で無用」であるとして激しく攻撃された。毛沢東は、大多数のチベット人にとって生活の核となっている宗教を破壊しょうと決めていた。一九五四年から五五年にかけておこなわれたダライ・ラマとの会談で、毛沢東は、チベットには憎が多すぎる、これでは労働力の再生産に不都合だ、と述べた。僧と尼僧は独身主義の破戒を強いられ、結婚させられた。「経典は肥料にされ、仏画や経文の描かれた布でわざと靴を作らされた」と、パンチエン・ラマが書いている。「まさに常軌を逸した」というべき大破壊だった。僧院や尼僧院はほとんどが破壊され、「その跡は、まるで戦争で爆撃を受けたような惨状」だったという。パンチェン・ラマによれば、一九五九年以前にはチベットに二五〇〇以上あった僧院・尼僧院が、一九六一年には「わずか七〇余り」に減ってしまった。一万人以上いた僧や尼僧は、七〇〇〇人に減ってしまった(約一万人は国外へ亡命した)
 チベット人にとくに大きな精神的苦痛を与えた命令は、仏教による葬式が禁じられたことだった。
 人が亡くなったときに、その人の罪を償って煉獄から解放する儀式をしてやらないのは、死者に対する最も……むごい仕打ちである……人々は、「わたしたちは死ぬのが遅すぎた……いまでは、死んだ人間は、家の外に投げ捨てられる犬と同じようなものだ⊥と嘆いた。
 一九六〇年代初めにパンチェン・ラマが国内各地を歴訪したとき、チベットの人々は大変な危険を冒してパンチェン・ラマに会いに来て、「わたしたちを餓死させないでください! 仏教を絶やさないでください! 雪の国の人々を絶滅させないでください」と、涙を流して訴えた毛沢東はパンチェン・ラマからの書簡に「非常に立腹」し、パンチェン・ラマに対して一〇年間にわたる投獄を含めさまざまな迫害をおこなった。([チベットの焼身抗議 〜 世界に隠された真実を知らせる為に 〜]参照)
 チベットにとっても、中国全体にとっても、毛沢東の支配は前例のない大禍をもたらした。

原子爆弾

        1962〜64年 毛沢東68〜70歳
 ケネディは記者会見で、核武装した中国を「スターリン主義の国」で、「中国政府は最終的な勝利を達成する手段は戦争以外にないと考えている」と強調した。そして、「潜在的に第二次世界大戦の終結以来われわれが直面した最も危険な状況……」を作り出すものであり、「いまのうちに何らかの手を打って、そうした公算を小さくしていきたい……」と発言した。ケネディは中国の核施設に対する空爆を真剣に考えており、核攻撃が必要かもしれない、といった報告を受けていた。(米国とは別に、ソ連も中国の核実験場への核攻撃、及び毛沢東降ろしの計画があった。)
 一九六三年一一月にケネディが暗殺された(犯人は「石油王」である、と、毛沢東はアルバニアの国防相に語った)あと、大統領に昇格したリンドン・ジョンソンは、就任後まもなく、台湾の破壊活動家を潜入させて中国の核実験施設を爆破するというアイデアを考慮したこともあった。
 毛沢東の心算は、アメリカが核攻撃をしかけてきた場合の中国側の「保険として」できるだけ多くのアメリカ軍部隊をベトナムに引きつけておくことだった。彼らは……われわれの人質ということです。核施設を守るためならば北京はベトナムの意向に関係なくベトナムで行動を起こすつもりだ。もしアメリカが中国の核施設を攻撃したら、北京は「国境など無視」して「ベトナムの同意があろうとなかろうと」北ベトナムへ侵攻するつもりなので、ベトナム戦争の拡大を煽っているす。
 そして、ソ連に莫大な支払いの上で、約3600万人の人民を餓死させて原爆実験に成功した。毛沢東はこの大量破壊兵器をお祭り騒ぎで祝っている。

文革という名の大粛清

        1966〜74年 毛沢東72〜80歳
(中国の精華大学など有名大学の生徒でさえ、90年代以降に産まれた子達は、文革のことも天安門のことも知らないのだ。歴史から抹殺されているが故に、中国人民は分断され人民は一つになれず、香港の雨傘市民革命、台湾のひまわり市民運動のように共産党の独裁を拒否する力が統合されずにいるのです。…中国に対する日本の経済援助(文革も天安門虐殺)を知ることはなかったでしょう。)
 一九六六年五月末、毛沢東は文化大革命という名の大粛清を進める機関として新しく中央文化革命小組を設置した(*習近平が様々な子組を作って、党の実権を掌握し、的を失脚させようとしたのとそっくりです。)。毛沢東に代わって小組を率いるのは江青で、陳伯達が名目上の組長、迫害の専門家康生が「顧問」となった。これ以降、林彪と周恩来に加えて中央文革小組が毛沢東政権の実権を握ることになる。
 新しい体制のもとで、毛沢東崇拝はますます強力に推し進められた。『人民日報』は一面にでかでかと毛沢東の顔を印刷し、毛沢東語録を毎日掲載した。まもなく毛沢東バッジが出回りはじめた。毛沢東バッジは、全部で四八億個ほど作られた。『毛沢東選集』も、毛沢東の肖像も(一二億枚)、中国の人口よりはるかに多くの部数が印刷された。赤い小さな『毛沢東語録』が国民全員に配布されたのも、この年の夏だった。国民は公共の場では必ず『毛沢東語録』を携帯して高く掲げなくてはならず、また、内容を毎日暗唱させられた
 教師や教育関係者が最初に犠牲となった。若者たちは、毛沢東を「保衛」することこそ彼らの役割である、と教えられた。多くの学生がこの呼びかけに熱狂的に応じた。毛沢東政権下で、これまで国民は政治に参加するという行為をまったく許されなかった。他愛ない議論を交わすというような他国の社会なら当然に与えられている政治的はけ口さえ奪われて、国民のあいだでやり場のない活動意欲が爆発寸前まで高まっていた。そこへ突然、政治参加の機会が与えられたのである。政治に興味のある人間にとっては、すばらしく刺激的な状況だった。若者たちは組織を作りはじめた。
 六月二日、北京の精華大学附属中学の一部学生が、毛沢東を保衛するという意味で「紅衛兵」と壁新聞を掲示した。壁新聞には「『人情』などかなぐりすてろ!」「粗暴になれ!」「おまえたち[毛沢東の敵]など殴り倒し踏みつぶしてやる!」(高級官僚の第一世代で、習近平氏はその子孫に当たる。)といった語句が躍っていた。毛沢東は、憎悪の感情に汚染されたティーンエージャー、社会の中で最も影響を受けやすく暴力に走りやすい若者たちを野放しにして、やりたい放題の残虐行為を許した。
 ■文革も天安門も知らない中国人(1980年以降生まれ)
 知り合いの娘である上海の重点大学の大学生は、文革や天安門についてこう言った。
「私の友達の五、六人に聞いたけれど、文革があったことを知っていても、四人組の名前をすらすら言える人ほ皆無だった。天安門事件もあったことは知っているけれど、それがどんな事件だったかを説明できて、学生リーダーの名前を言える人は皆無だった。たぶん、それが普通じゃないかな。だって私もあなたから聞くまではそんなには知らなかったし」
 彼女の父親には、まさしく天安門事件世代であるが、娘には事件のことをあまり詳しく語っていなかったのである。「あの事件のことは教えなくちゃいけないと思いながらも、あまり知りすぎるのも危険で、まあ自分の子供には語りにくいんだよな」
 彼女はTOEFLという米国留学に必要な英語検定試験のトップクラスの成績を持ち、米国留学を本気で準備している学生の一人であり、心底、この反米デモをばかばかしいと嫌悪していた。だが、周りの学生たちがあまりに売国奴、売国奴というので、やはり参加した方がよいのだろうかと悩み、電話で故郷の母親に相談したのだという。そうすると彼女の母親はこう言った。「天安門事件を忘れちゃいけない。天安門事件だって、最初は政府がもっと言論を自由にしましょう、と言って呼びかけたから、みんなそれを信じていたのよ。だけど、政府は自分のことを悪く言われるようになると今度は弾圧するようになった。中国では正しいと言われていたことが突如、正しくなくなる国。そんな国で抗議デモなんて、政府や大学が正しいと言っていても、関わっちゃいけないよ」
 それで、彼女は同級生からどれだけ非難されようとデモには行くまいと決心したという。
 彼女は笑いながらこうも言った。「私のお母さん昔、紅衛兵だったのよ。自分たちの学校の先生を吊るし上げたんだって。その時はそれが正しいのだと思っていたのよ。今は後悔している。だから、お母さんが私に『生意気言うな!』って怒るとき、私は『お母さんだって昔、先生を吊るし上げたんだから、私が少し言い返すぐらいいいでしょ!』って言ってやる。そうすると黙り込むのよ」
 学生たちが乱暴狼籍に専念できるように、毛沢東は六月一三日以降学校教育の停止を命じた。「授業は中止だ」、若者たちに「食べ物を与えなさい。ものを食べれば元気が出るから、彼らは騒ぎを起こしたくなる。騒ぎを起こす以外に、やることがあるだろうか?」と、毛沢東は言った。数日のうちに、暴力事件が発生した。六月一八日、北京大学で数十人の教師や幹部が群衆の前に引き出され、顔を黒く塗られ、三角帽をかぶせられるなどの手荒い扱いを受けた。そして、群衆の前にひざまずかされ、殴られ、女性は性的汚辱を受けた。同じようなことが中国全土で起こり、自殺者が相次いだ。
 毛沢東は最初の「紅衛兵組織」に、激励を送った。壁新聞を中央委員会に回付し、政府の高級幹部に対して紅衛兵を支持するよう要請した。これら幹部の多くはいずれ粛清すべき標的だったが、当面、毛沢東は恐怖を醸成するために彼らを利用した。そのあとで、彼ら自身を恐怖に陥れたのである。子供達は、「英雄」である高級幹部の父が実は、毛沢東の本当の粛正対象だとは夢にも思わなかった
 毛沢東の指示に従って、高級幹部は子供たちに紅衛兵を組織するよう勧め、子供たちは友人にその言葉を広めた。こうして、紅衛兵組織が次々に誕生した。どの組織も高級幹部の子弟が頂点に立っていた。
 父親や友人から毛沢東が暴力を奨励していると聞かされた紅衛兵たちは、たちまち残虐行為に走った。八月五日、高幹(高級幹部)子弟が通う北京の女子校(毛沢東の二人の娘もこの学校に通った)で、初めての拷問死が起こったとされている。この学校の校長は五〇歳で四人の子を持つ母親だったが、女学生たちに蹴られ、踏みつけられ、熱湯を浴びせられ、重いレンガを運んで往復する作業を命じられた。よろめきながらレンガを運ぶ校長を、女学生たちは真鎗のバックルのついたベルトで鞭打ち、釘の出た木の棒で打ちすえた。校長はまもなく衰弱し、死亡した。事後に、学生のリーダーたちは新設された北京市の文革当局に事態を報告した。これに対して、活動を中止せよという指示はなかった。つまり、続けよということだった。
 このあとすぐ、毛沢東自身もさらに暴力を支持する姿勢を明確にした。八月一八日、一九四九年以来初めて軍服に身を包んだ毛沢東が天安門に立ち、集まった何十万という紅衛兵を接見した。これを機に紅衛兵の記事が全国紙に登場し、中国全土さらには世界に紹介された。校長殺しがあった女子校で残虐行為の先頭に立っていた女学生には、大きな名誉が与えられた。
 残虐行為は中等学校から大学へ、北京から全国へ、広がっていった。北京の紅衛兵が中国全土へ派遣されて、犠牲者を鞭打つ方法、地面に落ちた自分の血を舐めさせる方法などを指導したのである。地方の若者は北京に上り、首都で毛沢東が途方もない破壊を許した現実を学ぶよう奨励された。このプロセスに便宜をはかるため、毛沢東は、旅行とそれに伴う食費・宿泊費をすべて無料とするよう指示を出した。それから四カ月のあいだに、一一〇〇万人の若者が北京に上った。毛沢東は天安門広場に七回姿を現し、統制のとれた熱狂的紅衛兵の大集団を接見した。
 残虐行為がおこなわれなかった学校は、全国で一校もなかった。そして、犠牲になったのは教師だけではなかった。一九六六年八日二日に紅衛兵にあてた公開書簡の中で、毛沢東は、生徒を出身家庭によって分類し出身不好の生徒に「黒五類」のレッテルを貼って迫害している戦闘的な若者グループをとくに名指しで賞賛した。毛沢東はわざわざこれらの好戦的学生に「熱烈な支持」を送ると表明して、彼らの行為に無条件の承認を与えた。校長が拷問で殺された女学校では、「黒五類」の生徒たちは首にロープをつながれ、さんざん殴られ、「わたしは最低のろくでなしです、わたしなど死んだほうがいいのです」と言わされた。
 学校を恐怖の嵐に巻き込んだあと、毛沢東は紅衛兵を一般社会に向けて解き放った。この段階で標的とされたのは、文化の担い手および文化そのものだった。八月一八日、毛沢東と並んで林彪が天安門に立ち、全国の紅衛兵に「旧文化…を破壊せよ」と呼びかけた。若者たちは、まず最初に伝統的な店の看板や街路の名前を標的にした。革命の常にもれず、純粋で厳格な分子は軟弱なものや派手なものに攻撃の矛先を向けた。長い髪、スカート、少しでもかかとの高い靴で街に出れば、たちまち目をつけられ、はさみを振りまわすティーンエージャーの餌食となった。これ以降、底の平らな靴、軍服のようなだぶだぶの上着とズボン、それもいくつかの決まった色のものしか着られなくなった。
 しかし、毛沢東はもっとはるかに狂暴な事態を望んでいた。八月二三日、毛沢東は中央文革小組などに対して、「北京の混乱が足りない…北京は行儀が良すぎる」と発言した。これは全国に恐怖を拡大する号令だった。その日の午後、ティーンエージャー(女生徒も多かった)で組織された紅衛兵グループが北京作家協会の中庭に押しかけた。当時、紅衛兵は、左腕に紅い腕章、手には赤い小さな『毛沢東語録』、真鎗のバックルがついた革のベルト、という「制服」に身を固めた若者たちが、この日、中国で最も有名な作家二十数人を分厚いベノルトで打ち据えた。作家たちは屈辱的な文字の書かれた大きな木札を細い針金で首にかけられ、焼けつくような太陽の下に立たされて鞭打たれた。京劇の衣装や小道具が運び込まれ、火がつけられた。中国を代表する作家や京劇俳優など約三〇人の芸術家が焚き火の前にひざまずかされ、ふたたび殴る蹴るの暴行を受け、棒や真鎗のバックルがついたベルトで打ち据えられた。犠牲者の中には、政府から「人民芸術家」の称号を授与された六九歳の作家老舎もいた。翌日、老舎は湖に入水した。
 恐怖をさらに深く個々の家庭にまで行きわたらせるために、毛沢東は紅衛兵に市民の自宅を襲撃させ、暴力的な家捜しを実行させた。犠牲者は国が選出し、名前と住所を紅衛兵に渡した。たとえば、四川省の責任者は知名人を管轄する省の役所に命じて襲撃リストを用意させ、それを自分の息子が属する紅衛兵組織に渡させた。毛沢東の命令がなければ、独断ではぜったいにできないことだ。
 八月二四日、公安部長謝富治も、こうした情報を紅衛兵に流すよう部下に命じた。部下から「もし紅衛兵がこの人たちを殺したらどうするのですか?」といった質問が出たらしく、謝富治は、「殴り殺されるなら殴り殺されるままにしておけ、われわれの関知するところではない」「過去に決められた規則に縛られるな」「人を殴り殺したからといって彼らを拘留すれば……大きな間違いを起こすことになる」と答えている。それでも蹟躇する部下たちに、謝富治は、「これは周総理が支持しておられることだ」と請け合った。
 当局のお墨付きを得た紅衛兵は、市民の家に乱入して書物を焼き、書画を裂き、レコードや楽器を踏みつぶし、とにかく「文化」に関係するものを片っ端から破壊した。また、「貴重品」を没収し、持ち主をしこたま殴りつけた。血なまぐさい家捜しが中国全土でおこなわれ、『人民日報』はこれを「たいへんすばらしい」と賞賛した。紅衛兵の襲撃を受けた人々の多くは、自宅で残虐行為を受けて死亡した。映画館や劇場やスポーツ施設を利用した間に合わせの拷問部屋へ連行されていった人々もいた。足音も猛々しく街路を閥歩する紅衛兵、文化を焼き捨てる炎、犠牲者たちの絶叫一九六六年の夏は、こうした光景と音で人々の記憶に焼きついた。
 一方で、のちの公式統計によれば、この年の八月から九月にかけて北京だけで三万三六九五軒が紅衛兵の家捜し(例外なく暴力を伴った)を受け、一七七二人が拷問あるいは殴打を受けて殺されている。
 家捜しに乱入した紅衛兵を使ってついでに強盗をさせたのも、毛沢東の発想だった。紅衛兵たちは何トンもの金、銀、プラチナ、宝石類を没収し、何百万ドルもの現金を没収した。それらはすべて国庫に収納された。非常に高価な骨董や書画や古書も、同じく没収されて国のものになった。民間に所蔵されていた貴重な美術品は、紅衛兵に略奪され、あるいは無知な紅衛兵にその場で破壊されて、事実上すべて失われた。略奪品の中には外貨稼ぎのために輸出されたものもあった。最高指導部の一握りの者たちは、戦利品の中から好きなものを選ぶことが許された
 こうして、毛沢東は中国の家庭から文化を一掃することに成功した。家庭の外でも、毛沢東は中国の歴史を臣民の脳裏から消し去るという長年の目標を達成しつつあった。中国文明を最もわかりやすい形で残している多数の歴史的建造物は、これまでかろうじて毛沢東の憎しみを逃れてきたものの、ここに至ってついに破壊を免れえなくなった。北京では、一九五八年時点で残存していた六八四三カ所の歴史的建造物のうち、四九二二カ所があとかたもなく破壊された。
 迫害の対象から除外された著名人リストと同じく、破壊の対象から除外された歴史的建造物リストもあったが、これも短いものだった。毛沢東は、天安門のように自分が上に立って「群衆」の歓呼を受けるのに役立つ建造物は残しておいた。紫禁城を含むいくつかの史跡も保護下に置かれて閉鎖され、人々は破壊を免れた文化遺産さえ目にすることができなくなった。北京の「あらゆるところに煙突がそびえる」風景を見たいと言った毛沢東の希望を聞いて、「想像することさえ耐えがたい恐るべき光景だ」と感想を漏らした中国で最も著名な建築家梁思成は、迫害を免れなかった。
 中国文明そのものにも等しい孔子を祀った孔廟を打ち壊すよう命じたのは、毛沢東の指揮下にある中央文革小組だった。山東省にある孔廟は、歴代皇帝や芸術家がこの地を詣で、記念碑を製作させたり作品を寄贈したりしてきたため、貴重な文物を収めた博物館となっていた。地元の人々は孔廟を打ち壊すよう命令されたが、わざと作業をのろのろ進めていた。そこで、北京から紅衛兵が派遣されることになった。出発前の宣誓で、紅衛兵は中国を代表する賢人を「毛沢東思想の不倶戴天の敵」と呼んだ。事実、毛沢東は孔子を嫌っていた。孔子は「民を足らしむべし」(政治家は民の生活を安定させることを第一に考えるべきだ)と教えているからだ。毛沢東自身、「孔子は人本主義……いわば人民本位主義である」と、孔子に対する反感を口にしている
 一九六六年九月半ば、中国全土を恐怖の力で完全に抑え込んで自信をつけた毛沢東は、いよいよ本命の標的である党幹部に矛先を転じた。九月一五日、林彪は天安門広場を埋めつくした紅衛兵に向かって、今後は標的を変更して「党の内部で資本主義の道を追求する実権派に対する批判に集中せよ」と呼びかけた。いわゆる「走資派」である。林彪そして毛沢東の本当の標的は、毛沢東の極端な政策に抵抗を示した旧来の役人層だった。毛沢東はこれら党幹部をまとめて追放しょうと考え、中国全土に走資派攻撃を呼びかけた。
 この役割を果たすために、新しいグループが生まれた。彼らは紅衛兵を名乗る場合もあったが、一般には上司に反逆するところから「造反派」と呼ばれた。造反派は大多数が大人だった。ティーンエージャーで構成されていた紅衛兵組織は、崩壊に向かっていた。組織を統率していた高幹子弟の親たちが弾圧の対象にされはじめたからだ。毛沢東は社会全体を恐怖に陥れるために紅衛兵を利用しただけだった。そして、こんどは本当の敵である党幹部に狙いを定め、これを攻撃する手段として紅衛兵より年上の広い年齢層を利用しょうとしていた
 毛沢東のお墨付きを得て、造反派は大字報(壁新聞)や暴力的な集会の場で上司である党幹部をつるし上げた。数カ月かけて運動に勢いをつけたところで、一九六七年一月、毛沢東は造反派に対して党幹部からの「奪権」を呼びかけた。党幹部であれば、毛沢東に批判的な幹部であろうと、大飢饉のあいだでさえ毛沢東に百パーセントの忠誠を貫いた幹部であろうと、区別はなかった。実際、見分けようもなかったので、毛沢東はまず幹部全員を一掃し、そのあとで新しい執行体制に旧幹部を審査させようと考えたのである。民衆は、共産党は政権成立以来ずっと悪者の手に握られていたのだ、と聞かされた。「それならば、なぜ今後も共産党政権を継続させるのか?」「この一七年間、毛沢東は何をしていたのか?」といった当然の質問を口にする人間がいなかったという事実こそ、人々のあいだにどれほど恐怖が深く浸透していたかを物語っている。
 造反派の基本的役割は、党幹部を罰することだった。毛沢東が長年望んできたことである。造反派の動機はさまざまで、党の上司に対して積年の恨みを抱いていた者は復讐のチャンス到来とばかりに幹部を攻撃し、権力欲の強い者は「走資派」を容赦なく叩くことこそ自分が出世する唯一の方法と心得て攻撃に加わった。ほかにも、もともと凶悪な人間や加虐を楽しむ人間が造反派の名を語った。
 スターリンはKGBというエリート組織を使って粛清をおこない、犠牲者は刑務所や強制労働収容所や処刑場など大衆の日に触れないところへ速やかに連行されていった。対照的に、毛沢東は暴力も辱めも衆人注目の中でおこなうよう指示し、部下に直属の上司を拷問させるという方式で迫害にかかわる人間の数を大幅に増やした
 追放された幹部の代替要員は、おもに軍から補充された。一九六七年一月、毛沢東は軍人の代替幹部をすべての組織へ派遣するよう命じた。このあと数年のあいだに、総計で二八〇万人の軍人が新しく管理職に就き、このうち五万人は党の中・上級幹瓢の職を引き継いだ。新しく就任した軍人管理職の下には、従来の仕事が滞りなく処理できるよう造反派やベテランの党幹部が助手についた。新執行体制を支える人材を軍から大量に供給したため、本業の国防が犠牲になった。台湾の対岸で防衛にあたっていた部隊が内陸部の省の行政にあたるために移動を命じられたとき、司令官は周恩来に戦争が起きたらどうなるのかと尋ねた。周恩来は、「この先一〇年は戦争はないだろう」と答えた。毛沢東は、蒋介石の本土反攻はないと考えていた。
 三月になり、新しい執行体制が整って、学生たちにも学校へ戻るよう命令が出た。しかし、学校へ戻っても何もすることがなかった。昔の教科書も、教授法も、教師たちも、何もかも断罪され追放されてしまったために、何をどうすればいいのかわかる人間がいなかったのである。ほとんどの若者にとって、一〇年後に毛沢東が死ぬまで、まともな学校教育というものは存在しなかった
 幹部の顔ぶれ以外に変化したものといえば、日常生活である。人々の暮らしから娯楽もペットというものが消えた。かわりに、毛沢東の著作や『人民日報』の記事を何度もくりかえし読まされる退屈きわまりない。一方で神経の疲れる集会が延々と続いた。人々は「走資派」やその他の名指しされた敵を攻撃する暴力的な批闘会に何度となく駆り出された。公衆の面前でおこなわれる残虐行為は、日常生活の避けがたい一部分となった。どの機関にも監獄に相当する場所が設けられ、犠牲者はそこでときに死ぬまで拷問された。そのうえ、人々にはリラックスする手段がまったくなかった。何か読みたくても本も稚詰もないし、映画も芝居も京劇もない。ラジオから軽音楽が流れてくることもなかった。娯楽といえば、毛沢東の言葉を耳障りなメロディーに合わせて歌ったり赤い小さな『毛沢東語録』を振って戦闘的な「忠字舞」を踊る毛沢東思想宣伝隊しかなかった。(*だから、公開処刑や、残忍な処刑が娯楽代わりとなった。残忍で愚かな人々だ。)
 嫌疑をかけられた幹部が拷問で命を落とし、自分を支えてきた権力基盤が前例のない苦痛にさらされているときに、毛沢東は浮かれ騒いでいた。中南海ではあいかわらず若い女性を呼んでダンスパーティーが催され、女性の何人かは毛沢東の大きなベッドへ招かれた。共産党政権によってとって「ポルノ」とされ禁止された曲「遊龍戯鳳」(龍が快楽を求めて鳳凰と戯れる)のメロディーに乗って、毛沢東は踊りつづけた。日がたつにつれて、一人また一人とダンスフロアから幹部の姿が消えていった。粛清されて消えた者もいれば、浮かれ騒ぐ気になれなくて消えた者もいた。最後には、指導部でステップを踏むのは毛沢東一人になった。(毛沢東は、人民に夫婦間の交わりを禁じ、すべての文化(芸術、演劇、図書、古典…)と娯楽を奪い、飢餓状態に置いた。しかし、彼自身は、莫大な量の図書を収集し、読書に耽り、多数の遊女に耽り、娯楽を楽しんでいた。)

 その後、武漢で軍人の反乱が発生し、毛沢東は軍部に対して粛清を行おうとした。その為に、毛沢東を支持する人民達を利用しようと考え、人民に武器を渡し、紅衛兵とも手伝って粛清が始まった。しかし、人民は農村や都市部に帰って苦しい生活に戻るよりも、派閥に別れ互いに競う意合うように毛沢東に取り入ろうと反乱を繰り返した。これにより、経済が低迷し、中国は内乱状態に陥り、毛沢東は自身の危険を恐れる状態になった。毛沢東は、人民解放軍に「紅衛兵」も含め、派閥に分かれ争う人民から武器を取り上げ、これらを粛清して鎮圧させた。
 これにより、高級幹部の子弟である「紅衛兵」は大量に農村に下方され、苦しい時代を過ごすことになる。その様子は(⇒[人民解放軍の性奴隷 〜 人民解放軍こそ、女性を食い物にした最悪の軍隊 〜])を参照して下さい。
 女性知識青年が「慰安婦」「性奴隷」とされた時期は、1964〜1979年までである。この時期に1000万人の女性知識青年の何割(約6割とのデータもあるが、中共は決して発表しない)かが「強姦」「性奴隷」被害に遭遇したのは歴史的事実である。下放された知識青年たちは、都会の実家に帰りたい者は幹部に賄賂を送り、女性知識青年は「肉体賄賂」を差し出すことによって申請書に押印してもらえた。
 中国共産党が成立した1921年から、道徳というものは排除されてきた。女性強姦も犯罪にカウントしないから統計もない。「性奴隷」や「慰安婦」は、愛人として権力者が獲得した戦利品だとしか考えていない。他人の痛みなど理解しないのが中共の伝統であり、そのために下放された800万人以上の女性知識青年は被害者となったのである。
 中共政権が成立した1949年には、全国の妓楼閉鎖によって売春禁止となったが、中共幹部たちは権力を悪用して「幼女から老婆まで」を好みに応じて強姦し愛人にしたのである。中共は「売春婦」「慰安婦」とは、切り離せない国家なのである。

■「人肉宴席」こそ、階級闘争の本質

 革命委員会の主任は、部下に向かって、「いいか、結論を先に言うぞ。今回の運動では、階級散人の三分の一ないし四分の一を梶棒や石で殴って殺すことになっている」と訓示した。ただ普通に処刑するだけでは恐怖を与える方法として不十分である、というのだ。「手始めに何人か処刑するのは構わないが、人民には拳や石や梶棒を使うよう指導しなければならない。こうしないと大衆は教育できないのだ」。命令が出されたあと、一九六八年七月二六日から八月六日の一一日間に、賓陽県だけで三六八一人が殴り殺された。むごたらしい死に方をした者が多かった。これに対して、文化大革命がおこなわれた前年および前々年の賓陽県における死者は、「わずか」六八人だった。広西チワン族自治区全体では、一九六八年夏の死者は一〇万人にのぼった。
 当局は最も残酷に人を殺害する方法を人民に教えるために「殺人様板会」(殺人模範会)を開き、警察が殺害を監督指導するケースさえあった。残虐な殺し方が助長される中、自治区の各地で喫人(人肉食)がおこなわれた。最もよく知られているのは武宣県で、毛沢東の死後におこなわれた公式調査(一九八三年に実施されたが、すぐに中止させられ、結果は公表禁止となった)では犠牲者七六人の氏名が明らかにされている。喫人は、まず毛沢東政権お定まりの行事である「批闘会」から始まった。犠牲者たちは批闘会の終了直後に殺害され、極上部位,心臓,肝臓、ときにはぺニスが切り取られ(犠牲者がまだ息絶えていない場合も多かった)、その場で料理して食べられた。当時、これは「人肉宴席」と呼ばれた
 広西チワン族自治区で、この「人肉宴席」がおこなわれた。当時、元地主の息子であるという事実以外に何の罪もない少年の胸を公衆の見守る前で平然と切り開いたという八六歳になる農民の証言からは、人々が毛沢東の言葉によってこうした行為を何の迷いもなく正当化していたことがよくわかる。「ああ、わしがあの子を殺したさ」と、この老人は、のちに事情を調べに来た作家に話した。「わしが殺した人間は敵だからな……は、は、は! わしは革命をやる、わしの心臓は真っ赤だ! 毛主席がおっしゃらなかったかね? 我々が奴らを殺すか、さもなければ奴らが我々を殺す、と。むこうが死んで、こつちが生きる、これが階級闘争さ!
 文革新政権の指示にもとづく殺人は、一九六八年に中国各省で頂点に達した。この年には「清理階級隊伍」(階級隊伍の整理)と呼ばれる大規模な政治運動がおこなわれた。この運動の目的は、人民の中に存在するあらゆる「階級散人」を洗い出し、処刑を含むさまざまな処罰を科すことだった。文化大革命以前のさまざまな運動で批判された前歴のある犠牲者がふたたび引きずり出され、改めて迫害の対象となった。加えて、当局は全国の成人について過去や言動を詳細に調べあげ、未解決の疑惑を改めて追及して、新しい敵を見つけ出そうとした。公式の「階級敵人」のレッテルを貼られ迫害された人の数は何千万人にものぼったである。
前例のない規模の弾圧である。

毛沢東主義世界で躓く

        1966〜74年 毛沢東72〜80歳
 毛沢東の最終的な野望は、世界を支配することだった。一九六八年一一月、毛沢東はオーストラリアの毛沢東主義指導者ヒルに次のように語っている。
 わたしの考えでは、世界は統一する必要がある……過去には、モンゴル、ローマ……アレクサンダー大王、ナポレオン、大英帝国など、多くの者たちが世界を統一しようとした。今日では、アメリカもソ連も世界を統一したがっている。ヒトラーも世界を統一することを望んだ……しかし、彼らはことごとく失放した。わたしの見るところ、世界統一の可能性は消えたわけではない……わたしの見解では、世界は統一できると思う。
 あきらかに毛沢東は自分こそ世界統一の適任者と思っていたようで、中国の莫大な人口だけを頼りにアメリカとソ連が世界の統一者となる可能性を否定する議論を展開している。「しかしこの二国[アメリカとソ連]は人口が少なすぎて、世界に分散したら人手が足りなくなるだろう。しかも、核戦争を恐がっている。彼らは他国の人間を殺すことは平気だが、自国民を殺されることは怖がる」−世界最大の人口を擁し自国民が殲滅されることも恐れぬ支配者はこの自分である、という毛沢東の主張は、行間を読むまでもない。毛沢東は、中国の役割について次のように語っている。「あと五年すれば、わが国は……より望ましい立場に……あと五年すれば……」
(*習政権は世界中に金と武器をばらまき、資源をぶんどり、国連では追従者を従え、反日官製デモ、世界各国で内乱を拡大させながら、例えば尖閣に軍事侵略しつつ、沖縄に潜伏させた人民解放軍を使って反米テロ・沖縄独立・反日テロを繰り返し、スキを見て人工島のよううに軍事拡大し、中国のみならず世界の皇帝になろうとしている。だから、無節操で、嘘を平気でつく自己中の姿が浮き上がり、世界中から嫌われ始めたのみならず、国内では殺人公害や経済破綻の矛先を共産党から反らすために、反日・反米を煽り、世界中で軍事紛争の火種を準備している。他にも、世界革命のために世界中から人を募りテロリストを育成し、帰国させて争乱を起こさせようとしている。ウイグル人やチベット人への弾圧を正当化し強化するために、官製反日デモと同じ要領で、官製殺人テロで人民を惨殺している。これは、ISにそっくりです。習政権もISも、世界を牛耳ろうとする謀略は毛沢東と同じ手口であり、自由主義諸国が団結すれば、その行き着く先も同じようだ。)
★ミサイル実験が成功した一九六六年一〇月、ヒトラー政権でロケット開発の第一人者だったヴオルフガング・ピルツが北京で三人のドイツ人科学者と連れ立っているところを、インドの外交官に目撃されている。ピルツはこれ以前にエジプトのミサイル計画を指導監督していたが、より高額の報酬と技術的にやりがいのある条件を提示されて中国に引き抜かれた。中国はさらに他のドイツ人科学者も引き抜こうとしたが、アメリカがもっと高額の報酬を提示して引き抜いた。
 ミサイル計画は、克服困難な問題山積で行き詰まっていた。政府は「階級敵人」が破壊活動をおこなっているとして、疑わしい科学者に「自白」させるため模擬処刑を含む残虐な迫害をおこなった。非業の死をとげた者も多数にのぼった。このような状況では、毛沢東の存命中に大陸間弾道ミサイルを持つことができなかったのも当然である。中国が初めて大陸間弾道ミサイルの発射に成功したのは一九八〇年、毛沢東の死後何年もたってからだった。
 ソ連から受けた援助(一九六五年まで細々ながら続いていた)が大きかった。ソ連からの援助がなければ、原爆も水爆もこれほど早く開発することはできなかっただろう。毛沢東は核爆弾製造技術者たちにこう話している。「われわれは政治の面で世界革命の中心となるだけでなく、軍事・技術の面でも世界革命の中心にならなければいけない。彼らに中国製の武器を与えるのだ、われわれの名を刻印した中国製の武器を…われわれは彼らを公然と支持しなければいけない。われわれは世界革命の武器工場とならなければいけない」と述べ、世界百カ国以上に革命をばらまくため懸命の努力を開始した。これは「世界の人民にとって特大の慶事」であり、世界の人民にとって『毛沢東語録』は最愛の図書である、というふれこみだった。
 ビルマには、北京が当時影響力を持っていた国に対しておこなった働きかけの典型例を見ることができる北京はビルマ国内の中国系国民を対象に強引な宣伝活動をおこない、『毛沢東語録』を高く掲げて振り、毛沢東バッジをつけ、毛沢東語録の歌を歌い、毛沢東の肖像画に向かって万歳三唱するよう圧力をかけた。ビルマ政府はこうした行為を当局の権威に挑戦するものとみなし、一九六七年半ばに禁止した。北京はビルマの中国系国民に対し、禁止命令を無視して政府と対決するよう背中を押した。その結果、流血の惨事が起こり、多数の死者が出た。中国系国民には厳罰が加えられた。
 すると毛沢東は、中国に組織の存続そのものを全面的に依存しているビルマ共産党を煽って、反政府武装行動を起こさせた。一九六七年七月七日、水爆実験成功の勢いを駆った毛沢東は、「ビルマ政府がわれわれに敵対的なのは、むしろ良いことだ。むこうが中国との外交関係を断絶してくれればいい。そうすれば、もっとおおっぴらにビルマ共産党を支持することができる」と、極秘に発言している。周恩来は中国国内で訓練を受けていたビルマ共産党軍の将校を人民大会堂に集め、諸君は祖国に帰って戦争を始めることになった、と告げた。ビルマ人将校たちは中国人花嫁を連れて祖国へ帰っていった。花嫁選びはなんとも無粋で、ビルマ人将校が叫人ずつ中国人将校に付き添われて街へ出て目についた女性を選ぶ、というだけの手順だった。女性とその家族が身元検査に合格すれば、当局が女性の説得に乗り出す。喜んでビルマ人と結婚した女性もいれば、圧力に屈して結婚した女性もいた。
 反政府武装運動は、毛沢東の宣伝と抱き合わせでおこなわれた。戦いに勝利するたびに毛沢東思想宣伝隊が「忠字舞」を踊り、『毛沢東語録』を掲げて振り回し、「世界人民の偉大なる領袖毛主席万歳、万歳、万万歳!」と歌って勝利を祝った。
 毛沢東主義を世界に広めるため、中国国内に秘密の軍事訓練キャンプが作られた。そのうちのひとつは北京郊外の西山にあり、第三世界の若者が多数、そして西洋人もかなりの数が、武器や爆発物の使い方を習っていた。もちろん、軍事キャンプではつねに毛沢東思想を叩きこむ教育がおこなわれた
 文化大革命が始まり、毛沢東が世界革命の指導者にのしあがるための宣伝活動に力を入れはじめた時期、毛沢東は自分こそが香港の支配者であるということを見せつけるために、イギリスを「ひざまずかせ」各国注視の中で「無条件降伏」させたいと考えた。そのためには、イギリスに何らかの落ち度をなすりつける必要がある。つまり、中国人を大虐殺させる必要があった。
 そこで、北京は一九六七年五月の労働争議につけこみ、香港の過激派をたきつけて暴力をエスカレートさせ、とくにイギリスを刺激するような形で違法闘争をおこなうよう煽りたてた。過激派の動きに拍車を加えるため、北京政府は一九九七年の租借期限が切れる前に香港を奪回する意向を強く公然と示唆し、過激派にもその旨を伝えた。
 しかし、周恩来に「香港はそのままにしておく」とひそかに告げたように、毛沢東は本心では香港を引き続きイギリスの支配下に置いておこうと考えていた。周恩来の役割は、適度に暴力を煽ってイギリスの報復行為を誘い、それを理由にイギリスを叩頭させ謝罪させること、ただし暴力を煽りすぎて「こちらが租借期限前に香港を接収しなければならないような事態に至る」展開は避けること、であった。そんなことになれば大損害だ、と、周恩来は内輪で明言している。
 かくして香港で暴動が起こり、デモ隊の何人かが警察に殺害された。しかし、死者の数は大虐殺と呼ぶには少なすぎ、イギリスの植民地当局は謝罪を拒否した。これに対し、北京は『人民日報』に「[警官に]やられたようにやり返せ」「殺人の代償は自らの命で購え」という記事を掲載させ、香港の過激派を煽動して警察官を殺害させようとした。が、暴徒の力では警官殺害を実行できなかったので、周恩来は香港に中国軍兵士を潜入させた。兵士は民間人の服装をして七月八日にひそかに国境を越え、五人の警官を射殺した(*盧溝橋事件は、劉少奇の証言により中共の謀略だった!)。周恩来はこの結果に満足の意を表明したが、それ以上の作戦活動は、事態が拡大すれば中国側の化けの皮が剥がれるおそれがある、として中止させた。そのかわりに、北京は無差別爆弾攻撃を奨励し、このあと二カ月にわたって香港で一六〇件の爆弾事件が起こり、何人もの死者が出た。
 それでもイギリス側は報復の大虐殺には踏み切らず、夜間に粛粛と活動家を検挙する対策に徹した。イギリスを叩頭させたいという毛沢東の望みはかなわなかった。いらだった毛沢東は、自分の縄張りである中国国内でごろつきにひと暴れさせようと考えた。八月二二日、一万を超える群衆が北京のイギリス公館に火を放ち、建物内に閉じ込められた職員たちに焼死の恐怖を味わわせ、女性たちに野蛮な性的汚辱を加えた。(*官製デモは毛沢東からだ!)
 イギリス以外にも、二〇ヵ国ほどの大使館が毛沢東の怒りのとばっちりを受けた。一九六七年、ソ連大使館が激しく襲撃され、インドネシア、インド、ビルマ、モンゴルの大使館も襲撃された。こうした襲撃は当局の是認のもとでおこなわれ、外交部が群衆に対してどの公館をどのくらい痛めつけるかを指示していた。外国公館に対する「懲罰」の方式は、一〇〇万人のデモ隊が公館を取り囲んで毛沢東の巨大な肖像画を掲げ、拡声器で侮辱的な言葉をがなりたてる、といった程度のものから、群衆が敷地や建物に乱入し、自動車に放火し、外交官や配偶者を手荒にこづき回し、子供たちを脅しつけ、そのあいだじゅう「殴り殺せ! 殴り殺せ!」といったスローガンを連呼するものまで、さまざまだった。
 こうした襲撃は、北朝鮮大使館に対してもおこなわれた。金日成が毛沢東に教えを乞うことを拒んだからだ。毛沢東は何年か前から金日成政権の転覆を画策しており、一度などこの件で謝罪に追い込まれたこともあった。一九五七年一一月にモスクワで開催された共産主義国サミットの場で、毛沢東は金日成を呼び止めて関係修復を図ろうとした。他国の共産党指導者たちの前で金日成に転覆工作を暴露されたくなかったからだ。ピョンヤンでの大きな会議に回付された北朝鮮の正式報告書によると、毛沢東は「中国共産党が北朝鮮[の党]の問題に不当な干渉をおこなったことについてくりかえし[金日成に]謝罪の言葉を述べた」とされている。金日成はこの機会を捕らえていまだ北朝鮮に駐留している中国軍の全面撤退を求め、北朝鮮における毛沢東の影響力を排除しようとした。毛沢東は金日成の要求を呑まざるをえなかった。
 しかし、毛沢東はこれで諦めたわけではなかった。一九六七年一月、国外での秘密工作を担当する康生がアルバニア代表団に、「金日成を倒すべきだ、そうすれば朝鮮の状況は変わる」と語っている。しかし、金日成打倒が実現できないので、毛沢東は群衆を北朝鮮大使館に差し向けて「太った金」を馬倒させた。金日成は報復としてピョンヤンの毛沢東広場を別の名に変え、朝鮮戦争記念館の中国関係展示室を閉鎖し、ピョンヤンにあるソ連と中国の朝鮮戦争参戦記念碑の「大きさを変更」し、大幅にソ連寄りの姿勢に転じた。
 一九六七年末には、中国は公式あるいは非公式の外交関係を結んでいる四八カ国の大多数と険悪な関係になっていた。多くの国が中国に派遣する外交官の等級を下げ、なかには大使館を閉鎖した国もあった。その年の国慶節には、天安門上にはほんの少数の外国政府代表団が姿を見せただけだった(*2015年の抗日軍事パレードの失敗とそっくり!)。毛沢東はのちにこの失策を「極左勢力」のせいにしたが、実際には、中国の外交政策が毛沢東の指示を外れて暴走したことなど一度もない。
 西側の「毛沢東主義者」は大多数が夢想家か、そうでなければ金目当てのたかりで、継続的活動への意欲などさらさらなく、肉体的苦痛や危険を伴うとなればますます及び腰になった。一九六八年に西欧社会が学生運動で不穏な状況に陥ったとき、毛沢東はこれを「ヨーロッパ史における新現象」としておおいに称揚し、破壊活動訓練を施した西欧人毛沢東主義者を本国へ送り返してこの機に勢力を拡大しょうとした(*ISのテロ戦術とそっくり)。が、結局、どの国でもたいした成果には結びつかなかった。
 アフリカの過激派勢力は、ある中国人外交官の表現を借りるならば、満面の笑みで抜け目なく金だけ受け取って、毛沢東の指示は馬耳東風に聞き流した。毛沢東はザイールのモブツ大統領を転覆させようとしてかなりの金を使ったが、結局うまくいかず、何年かのちにモプツ大統領本人と会談した際には、「あなたは、本当にモグッ大統領ご本人ですか? わたしはあなたを転覆させようとしてずいぶん多くの金を使った暗殺もやらせようとした。でも、あなたはこのとおり健在だ」「こっちは金も武器も出してやったのに、連中はまったく戦いの役に立たない。とても戦って勝利できるような連中じゃない。それでは、こっちだって、どうしようもない」と、負け惜しみの軽口をたたいた。
 中東では、売り込みの成果はさらにお粗末だった。一九六七年六月にイスラエルとアラブ諸国のあいだで六日戦争が起こったとき、毛沢東は、ナセルが毛沢東の助言に従って「最後まで戦い抜く」ならば一〇〇〇万米ドル、小麦一五万トン、および「志願兵」を提供しよう、と持ちかけた。さらに、毛沢東はナセルのもとへ毛沢東式「人民戦争」の戦術指南を送り、「敵をふところ深く誘い込め」、シナイ半島まで退き、ハルツーム(スーダンの首都である)までも退け、と指図した。ナセルは、はるか東方から指図をよこす助言者に対して、シナイ半島は「砂漠であり、ここで人民解放戦争をおこなうことはできない。なぜなら、人民がいないからだ」と説明して、毛沢東路線に従えという忠告を断った。すると北京は援助の申し出を撤回し、こんどは一転してナセルの反対勢力に挺入れしようとした。しかし、結局、毛沢東は中東に信奉者を得ることはできなかった。一九七六年に周恩来と毛沢東が死去したとき、五一カ国一〇四団体。大多数はごく小さな団体ばかりから弔辞が届いたが、その中にアラブ世界からのものは一通もなかった
 失敗の主要な原因として、毛沢東が諸外国の過激派に対してソ連と対立する中国の立場に与するよう求めた点が挙げられる。これが原因で、毛沢東は多くの潜在的同調者を失った。とくに、ラテン・アメリカではそれが顕著にあらわれた。毛沢東はキューバをモスクワから引き離すために金と食糧をばらまいたが、大盤振る舞いはほとんど何の成果ももたらさなかった。一九六四年、ラテン・アメリカ九カ国の共産党はキューバの党指導者カルロス・ラファエル・ロドリゲスを団長とする代表団を中国に送り、ソ連との公開論争に終止符を打って共産党を分裂させる「派別活動」を止めるよう要請した。毛沢東は激怒し、代表団に対して、ソ連との戦いは「一万年続くだろう」と述べ、カストロを罵倒した。ウルグアイ(人口三〇〇万)の代表が口をはさもうとしたところ、毛沢東はこの代表に向かって、自分は「六億五〇〇〇万の人民を代表してものを言っているのだ」、貴下は何人を代表しているというのか、と切り返した。
 カストロは毛沢東の存命中には一度も中国を訪問せず、毛沢東のことを「クソ野郎」と呼んでいた。一九六六年一月二日、カストロは国際会議に集まった各国代表団を前に、中国はキューバをソ連から離反させるために経済圧力をかけてきた、と、中国を批判した

反共ニクソン赤に呑み込まれる

 毛沢東はニクソンから訪中の合意を取りつけたうえに、もともと毛沢東の側でもニクソン訪中を望んでいたという事実を都合よく曝すことができた。ニクソンは、訪中は自分のほうから望んだことだと思い込んでいた。そのため、一九七一年七月に大統領訪中の下準備のために北京を極秘で初訪問したキッシンジャーは、重い手土産をどっさり携えてきた。しかも、ひとつとして見返りを要求しなかった。最も意表を衝く手土産は、台湾に関する提案だった。アメリカは台湾と相互防衛条約を結んでいたが、ニクソンは旧来の同盟国台湾を袖にして、一九七五年一月までに(ニクソンが一九七二年に再選されることが前提)北京政府を承認して正式な外交関係を結ぶ、と提案してきたのである。
 キッシンジャーの秘密訪中が終わるころには、周恩来は北京政府が台湾を自国のものにして当然という口調に変わっていた。キッシンジャーは、この期に及んでようやく、「われわれは台湾問題がぜひとも平和的に解決されることを望む」と、弱々しい意思表示をした。しかし、キッシンジャーは周恩来に対して、台湾問題で武力を行使しないという確約を強いて求めることはしなかった。
 外交承認案件の一環として、ニクソンは北京政府にただちに国連の代表権を与えることを提案した。「これで、中国の席にはあなたがたが座ることになる」と、この裏取引を持ちかけた席で、キッシンジャーは周恩来に言った。
 手土産は、これ以外にもあった。アメリカは、ソ連との交渉内容を中国にすべて知らせよう、と提案した。キッシンジャーは、「とりわけ、わが国とソ連とのあいだで進行中の二国間交渉、たとぇばSALT(戦略兵器制限交渉)のような問題に関して、何でもお望みの情報を出しましょう」と言った。この数カ月後、キッシンジャーは中国に対して、「われわれはソ連との会話を貴国にお教えするが、貴国との会話をソ連に教えることはしない」とも言っている。
 こうして、最高レベルの機密情報が中国にもたらされた。アメリカ副大統領ネルソン・ロックフェラーは、「わが国が中国に提供した機密情報の多さを……聞いて、頭がぼうっとなりそうだった」と言った。機密情報の中には、中ソ国境におけるソ連軍部隊の配置まで含まれていた。
 キッシンジャーは、インドシナについても二つのきわめて重大な約束をした。ひとつは、一二カ月の期限を設定してアメリカ軍を完全撤退させること、もうひとつは、南ベトナム政府に対する支援を中止すること和平交渉がおこなわれなくてもアメリカ軍は「一方的に」撤退し、二度とインドシナに戻らない、という内容である。「和平成立後は、われわれは一万マイルも遠方に退き、[ハノイ政府]は存在しつづける、ということです」と、キッシンジャーは発言した。さらに、キッシンジャーは、「アメリカ軍部隊の全部とはいかなくとも、大部分」をニクソンの次の任期が終わるまでに朝鮮半島から撤退させる、という約束までした。しかも、毛沢東が将来ふたたび共産軍による韓国侵略を支援しないという保証を取りつけようとさえしなかった
 毛沢東にしてみれば、労なくして山のような献上品を受け取った形だ。キッシンジャーはわざわざ、中国に対ベトナム援助の中止を求めることはしない、とまで言明し、毛沢東のアメリカに対する好戦的発言を控えるよう求めることもしなかった。
 ニクソン訪中から最大の恩恵を受けたのは、毛沢東本人と毛沢東政権だった。ニクソンは、自分の再選を視野に入れて、西側世論における毛沢東の悪いイメージを払拭しようとした。帰国後にホワイトハウスのスタッフに対しておこなわれたブリーフィングで、ニクソンは毛沢東の冷笑的な側近たちがいかに「献身的」だったかを語り、キッシンジャーは彼らのことを「革命の純粋性を保持している……修行僧の一団……」と呼んだ。ニクソンの部下たちは、「毛沢東の指導のもとで中国人民の生活は大幅に向上した」と、偽りの報告をした。ニクソンお気に入りの牧師ビリー・グラハムは、英国のビジネスマンを前にしたスピーチで毛沢東の美徳を賞賛した。キッシンジャーは、毛沢東の無表情な側近たちの態度は「われわれの道徳的なあり方を問い直す」参考になろう、と述べた。こうした種々の発言の結果、毛沢東のイメージは、ひとかどの世界的人物になっただけでなく、誰もが会ってみたがる人物となった。世界じゅうの政治家が毛沢東との会見を求めて殺到した。毛沢東との会見を政治生活の誇り、人生最高の誉れ、とみなす政治家も多かった。いまだにそう思っている政治家もいる(*中国詣でをする反日政治家!)。
 毛沢東の素顔が世界中に知れていた一九九七年時点でさえ、キッシンジャーは毛沢東を「哲学者」と呼び、毛沢東の目標は「平等の追求」にあった、と主張している。
 毛沢東は、自分と会見できる幸運に感激した面持ちでやってくる客人を迎えることを喜び、死ぬまでこうした会見を続けた。サイドテーブルには、酸素吸入用のチューブが本や新聞で見えないように隠して置いてあった。毛沢東にとって、会見を求めてやってくる客人の列は世界的栄光のしるしだった。(*これは現在も代わっていない。中国人の感覚手は外国特使が謁見に来るのが皇帝の印だからだ。)
 ニクソン訪中は、毛沢東にアメリカ製核兵器入手の可能性をもたらした。長年にわたって反米の立場を取りつづけてきた中国として、この方針転換にもっともらしい理屈をつけるために、毛沢東は中ソ間の架空の軋轢を披瀝し、自分はソ連からの攻撃におびえながら生きているので何としても保護が必要なのだ、と訴えた。毛沢東は、一九七三年、軍事同盟をはっきりと口にしはじめた。
 中国が本気でアメリカとの同盟関係を求めていると思わせるために、毛沢東は、北京とワシントンには「ハノイ」という共通の敵がいる、と示唆した。キッシンジャーは、「インドシナにおいては、アメリカと中国の利害はほぼ同じ方向を向いている。共産主義政権によって統一されたベトナムがインドシナを支配する構図は、中国にとっても戦略上の悪夢である……」と思い込まされて帰ってきた。毛沢東の態度はベトナムに対する裏切りであり、さらに、何十年も生活必需品に事欠いてまで対ベトナム援助「アメリカ帝国主義」に対抗するためを支えつづけた中国人民に対しても深大な裏切りであった。
 これから数週間後の三月、ニクソンは毛沢東に秘密書簡を送り、中国の領土保全はアメリカ外交政策の「根本部分」であると述べ、もし中国が攻撃を受けた場合にはアメリカは軍事力をもって中国の防衛に駆けつけることを約束する、と示唆した。
 例えば、中ソが戦争になった場合にはアメリカの核砲弾や戦場核ミサイルを中国軍に空輸する、核兵器を搭載したアメリカの戦略爆撃機を中国へ運んで中国の飛行場から発進させてソ連軍を核攻撃する、という内容だった。このシナリオは、アメリカの核兵器が中国国内に配備される可能性を開いた。
 当時の中国製の航空機はもっばら軍用機だったが、あまりにお粗末で、できあがった航空機はほとんど使えないような代物だった。一九七二年、周恩来はアルバニアに対して、中国製のミグ19型戦闘機を飛ばさないよう警告した。六カ月後、中国が別の国に提供した軍用機が空中爆発を起こし、これ以降、海外への兵器の出荷は全面的に停止された。周恩来は第三世界の国家元首らに対して、依頼されていた中国製ヘリコプターは安全性が保証できないため納品に応じることが不可能になった、と連絡した。
 西側の技術を入手できた結果、中国の航空機産業は革命的に進歩した。ロールス・ロイス社との交渉にロケット開発責任者が深く関わっていたところを見ると、停滞ぎみだったミサイル開発計画(核兵器弾道ミサイル)も大きな恩恵を受けた可能性がある。さらに、キッシンジャーはひそかにイギリスとフランスに働きかけて、輸出が厳重に禁止されている原子炉技術を中国に売却するよう手配した
 ソ連は、毛沢東がアメリカとの関係修復に動きはじめたのを見て警戒を強めた。一九七三年、ブレジネフはニクソンとキッシンジャーに対して、「アメリカと中華人民共和国が軍事的な協定を結んだ場合には、きわめて深刻な結果が生じるだろうし、ソ連としては極端な手段に訴えることになるだろう」(キッシンジャーが中国の連絡事務所長に説明した言葉)と警告した。アメリカの国家安全保障にかかわるニクソン=ブレジネフ会談の内容は、このときホワイトハウス西館に待機していた毛沢東の特使にはただちに伝えられたが、アメリカの同盟国には伝えられなかった。アメリカ政府にさえ伝えられなかった。「その内容は、わが政府部内の誰にも明かしておりません。これは完全な機密にしなければなりません」と、キッシンジャーは毛沢東の特使(連絡事務所長)に伝えている。
 ニクソン訪中の表向きの理由のひとつは、対ソ戦争の危険を縮小させることだった。しかし、毛沢東のせいで、危険は縮小どころか拡大した。
 ところが、ニクソンがウォーターゲート事件で大統領を辞任すると同時に、毛沢東の超軍事大国計画は深刻な挫折に直面した。毛沢東自らの謀略に失敗して、ソ連からの援助を当てに出来なくなり、米国にすり寄ったのだが、結局は米国の核兵器が中国に供与されることも、米国が台湾と断交することもなくなった。

毛沢東の最後

 毛沢東の最後の妻・江青は、「わたくしがゆっくりと休み、わたくしが楽しむためならば、他人の利益を犠牲にする価値がある」「わたくしに奉仕することは人民に奉仕することである」と言ってのけるくらいの横暴な人物だった。彼女への「犠牲」の中には、献血も含まれていた。いつも美容と健康の増進を考えていた江青は、あるとき変わった健康法を耳にした。健康な若い男性の血を輸血する、という健康法である。中央警衛団の中から数十人が厳しい健康チェックにかけられ、最終的に残った四人の中から二人が選ばれた。輸血を受けたあと、江青は二人の若者を夕食に招き、江青に「献血」できることがどれほど「光栄な」行為であるか、という話を聞かせた。江青は、「自分の血液がわたくしの体内を巡っているということを……非常に誇らしく思わなくてはなりません」と付け加えたあと、他言無用の釘をさした。輸血健康法は、長くは続かなかった。興奮のあまり江青自身が毛沢東にこのことを喋り、毛沢東が健康上の配慮からやめるよう助言したのである。(*毛沢東やスターリンがサタン・ダビデに似ているとすれば、妻エル・ヘルナと江青も似ていると推測される。)
 始終不調を訴えてはいたが、江青は実際には非常に良好な健康状態だった。ただし、神経はぼろぼろに病んでいた。三服分の睡眠薬を飲まないと眠りにつけず、寝るのはだいたい朝の四時ごろだった。精神安定剤も一日二回服用していた。家の中にいるときは、毛沢東と同じく昼間でもカーテンを三重に引いて自然光をさえぎり、ランプの光で本を読んだ。ランプ・シェードには黒い布が掛けられ、幽霊でも出そうな気味の悪い雰囲気だった、と、秘書が語っている。
 江育は、音に対しても、風や温度に対しても異常に神経質(極端なノイローゼ)、極度のヒステリーで、残虐だった。しかし、毛沢東の前では借りて来た猫のように温和しかったが、毛沢東は彼女に利用価値がないとして、そばに近づけなくなった。しかし、江青は毛沢東に見放されることを極端に恐れ、毛沢東の五人の妾におべっかを使って、毛沢東のそばに近づこうとしたが、毛沢東は拒否していた。
 晩年の毛沢東は、世界的野望が達成できなかったことを痛切に悔しがる一方で、自分の無謀な欲望追求が中国人民に多大な人的・物的損害をもたらしたことにはいっさい無関心だった。自分の悪政が原因で七〇〇〇万以上(一億近いとも言われている)の人民が平時に非業の死へ追いやられたにもかかわらず、毛沢東は自分の不遇を嘆くことにしか関心を示さなかった。毛沢東は自分の過去の栄光や現在の失意を口にしては泣き、自分の政権が製作した宣伝映画を見ては涙した。側近たちは、毛沢東がしばしば「泉から涌くが如くに」とめどなく涙を流す姿を見ている。他人には憐偶のかけらも示さなかった毛沢東の最期の日々を埋めたのは、若い頃から相も変わらぬ自己憐偶の感情だった。毛沢東は、貴人が零落し、皇帝が玉座を追われ、英雄が一敗地に塗れる、といった内容の古典詩に傾倒するようになり、哀れな末路をたどった英雄や天子に自分を重ねた(*極端なナルシスト!)。
 毛沢東が失脚した支配者たちに心を寄せるようになった遠因には、毛沢東自身が昔から転覆を極度に恐れていたことがある。人生の最期に臨んで、毛沢東はますますクーデターを恐れるようになった。一九七五年、ケ小平とその盟友に対して自分の死後に江青と四人組を害してかまわないとのめかしたのも、自分自身がクーデターで倒されるのを避けるためだった
 毛沢東は、家族のほとんど全員を不幸にした。毛沢東が最後に裏切ったのは、四番目で最後の妻、江青である。毛沢東は、江育を汚い仕事にさんざん利用したあげくに、江青がどれほど憎まれているかを知りながら、自分の死後に江青を保護する措置を何ひとつ講じなかった。それどころか、自分が死ぬ少し前に台頭してきた「反対派」との取引に江青を使った。自分が生きているあいだの身の安全を保障させるのと引き換えに、自分が死んだあとは江育とその一味(甥の毛遠新を含に)を好きなように処分してよい、と約束したのである毛沢東の死から一カ月もたたないうち江青一味は全員監獄行きとなった。江青は一九九一年に自殺した
 毛沢東が後継者を任命しなかったのも、クーデタ一に対する危倶が一因だ。かつて林彪に与えた後継者の称号を、毛沢東は華国鋒には絶対に与えようとしなかった。正式な後継者に任命された者が地位の継承を急いで早まった動きに出るのを恐れたのである。だから、沢東は自分の死後に華国鋒を後継者にするとは確約しなかった。
 自分の死後に何がどうなろうと、毛沢東には関心のないことだった。実際、毛沢東は自分の「偉業」が死後も維持されるとはほとんど期待していなかった。一度だけ、死を前にして将来に言及したとき、毛沢東はごく近い者たちに対して、自分の死後には「動乱」が起きて「血の雨が降り、血なまぐさい風が吹くだろう」「君たちに何が起きるか、天のみぞ知る、だ」と言った
 毛沢東は少なくとも一年前から自分の死を予期しており、準備する時間はたっぶりあったにもかかわらず、遺書を残すことはしなかった。(*サタン・ダビデも同様だとすれば、ダビデが滅んだり負傷していれば、一枚岩だったサタン軍団は分裂してします。だから、これを地球を悪から救う好機として、EL様と七大天使は悪魔の王国であるソ連邦の解体を決断され、実行に移されたのだと思います。)
 マグニチュード七.八の巨大地震が首都を揺さぶったあと、毛沢東は「二〇二」に移された。唐山では二四万人(公式発表)ないし六〇万人(非公式推計)の死者が出た。北京など近隣の都市でも、数千万人が住む家を失った。しかし、中国政府は諸外国から寄せられた救援の申し出を断った。この決断のせいで、助かったかもしれない多くの命が失われた。メディアは救援に向かう人々に向かって、「廃嘘でケ小平を批判しょう」と呼びかけた。毛沢東政権の面目躍如である。
 毛沢東は最期まで国政の舵を取りつづけた。江青は、九月二日から北京を離れる許可を得るために毛沢東を訪ねた。毛沢東は江青をうるさがって不機嫌になり、一回目は許可を出さなかった。三日後、毛沢東はとつぜん意識を失い、江育は華国鋒率いる新執行部に旅先から呼び戻された。華国鋒らは数週間前から交代で毛沢東の枕元に詰めて寝ずの番をしており、北京に戻った江青も寝ずの番に加わった。ただし、彼女はベッドの後ろに隠れて立っていた。以前、目覚めたとき目の前に江青がいたために毛沢東が不機嫌になったことがあったからだ。毛沢東の子供たちは一人も見舞いに来なかった。(*加えて旧友の大半は、毛沢東に粛清されてしまっていた。)
 このあとまもなく、毛沢東は「とても気分が悪い。医者を呼んでくれ」と、これが最後の言葉だった。一九七六年九月九日、毛沢東は死んだ。

◇誰も愛さず、誰にも愛されなかった毛沢東

 毛沢東の近くに居る人物は、毛沢東を愛していようと、彼のために粉骨砕身努めていようと、皆が精神病になり人生を廃人として送るか、利用価値がなくなると簡単に粛清されている。
 毛沢東を本気で愛していたのは、江青との間に生まれた娘・李訥(チアンチン)だった。彼女も毛沢東を愛したが故に、廃人としての哀れな人生を送った一人である。
 毛沢東は娘が政治的利用価値のある人間に育つことを願い、そのように仕向けた。一九四七年に共産党が延安から撤退しようとしていた時期、毛沢東はわずか六歳の李訥(チアンチン)を砲撃や銃撃の音が聞こえるほど敵に近いところに置いて鍛錬するのだと言って譲らなかった。江青は涙ながらに娘を疎開させてほしいと頼んだが、毛沢東は江育に向かって、「出ていけ! この子は行かせないぞ。この子には砲撃の音を聞かせるんだ!」とどなった。
 一九六六年に文化大革命が始まると、毛沢東は李訥を自分の助手として仕込みはじめた。当時、李訥は二六歳で北京大学の現代中国史科を卒業したばかりだった。李訥自身は現代中国史がとくに好きというわけではなかったが、中国共産党がエリート家庭の子弟からできるだけ多く党公認の歴史家を出すことを望んでいたのでそれに従ったまでだ、と述べている。毛沢東は李訥に軍の主要紙『解放軍報』の仕事を与えた。李訥は特派員の一人として新聞の仕事を始め、毛沢東のために情報収集に励んだ。毛沢東の目標は李訥を『解放軍報』の編集トップに据えることであり、この目標は一九六七年に達成された。それまでの編集・経営責任者たちは、まとめて刑務所送りになった。やがて、李訥に対する個人崇拝が始まった。『解放軍報』の編集室から記者の自宅に至るまで、壁という壁が李訥を「ほめたたえる」大字報(壁新聞)で埋めつくされ、集会では、李訥に反対する者はすべて反革命分子である、というスローガンが叫ばれた。新聞社には李訥の「偉績」を展示する部屋が設けられ、李訥の使っていたマグカップや自転車が展示された。高級な陶器やリムジンを使わない李訥はまことに高潔である、という意味だ。
 この時期、李訥の言動が変化した。初めは気取らない性格だった李訥が、そのうちに年長の職員が自分の前で気をつけの姿勢を取らなかったというだけで「おまえなど射殺してやりたいわ!」と、どなり散らすようになった。そして、これからは「王道も覇道も無差別に用いる」と、あきらかに父親から教わってきたと思われる難解な言葉を使って宣言した。昔から『解放軍報』で働いていた職員のうち、六割以上が李訥に反対したという嫌疑だけでひどい迫害を受けた。その中には、李訥の個人的な友人で些細な問題について異見を述べたために拷問された人物もいた。
 ー九六八年初め、毛沢東は林彪の機嫌をとるため軍内に配置していた私的な指揮系統を閉じることにし、その一環として李訥を『解放軍報』から引き上げた。李訥が新聞に続いて与えられた仕事も、前職に劣らず重要なものだった。中央文革小組弁事組の組長である。この地位に就いていた前任者は、江青お得意の便法で追放された。スパイ容疑をでっちあげられ投獄されたのである。李訥は、一九六九年に中央文革小組が解散されるまで弁事組の責任者をつとめた。
 毛沢東は李訥をさらに高い地位に就けようとした。北京市の実権を握らせようとしたのである。しかし、一九七二年に李訥はノイローゼになり、毛沢東の死後まで何年ものあいだ精神的に不安定な状態が続いた。どうやら、両親とちがって李嗣は他人を迫害する行為に向いておらず、初めは父親の命令を実行しようとがんばったものの、次から次へと犠牲者を生み出す役割を求められることに疲れて精神に異常をきたしたものと思われる。あるとき、李訥は自分の知っている人物が粛清され自殺した経緯を記録した書類の束を手に取り、窓から外へ投げ捨てて、「こんなクズをこれ以上わたしに持ってこないで! もうさんざん、飽き飽きだわ!」と叫んだという。
 李訥は愛情を求めていた。母親の江青は李訥が幼いころには愛情をかけたが、娘が成人してからは毛沢東と同じように娘との関係を政治的分野に限定し、暖かさも慰めも与えてくれなくなった。ノイローゼになりかけ、睡眠薬の服用量がどんどん増えつづけていた時期にも、李訥には助けを求めることのできる相手がひとりもいなかった。若い娘なりに恋愛への憧れもあったが、毛沢東を父親に持ち、何よりあの江青が母親とあっては、近づいてくる男などおらず、トラブルを怖れて仲人をする人間もいなかった。一九七一年、三一歳になって、李訥はようやく自分のほうから若い服務員に声をかけた。李嗣が父親に結婚の許可を求めると、毛沢東は娘からの手紙を持ってきた人間に相手の男について基本的なことを二、三尋ね、娘からの手紙に「同意」と書きこんで、それで終わりだった。毛沢東が娘に贈った結婚祝いは、自分自身でさえ一度も読んだことのないマルクスとエンゲルスの退屈な大著のセットだった。
 毛沢東も、江青も、李訥のささやかな結婚式に出席しなかった。江青は、婿が一介の服務員であったことから娘には釣り合わないと反対し、結婚を祝福しなかった。結婚後しばらくのあいだ、李訥はたびたび風邪をひいたり高熱を出したりした。江青はそれを婿とのセックスのせいにし、婿に健康診断を受けるようにという侮辱的な命令を出した。まもなく、江青は娘婿に「スパイのように見える」と言いがかりをつけ、別の都市へ追放してしまった。結婚は崩壊し、李訥は重い鬱状態に陥った
 一九七二年五月、李訥は男の子を出産し、しばらくのあいだ人生に光明を得たかに見えた。しかし、江青は気に入らない婿の子供だという理由で李訥の息子を嫌い、一度も腕に抱かなかった。毛沢東は、他の三人の孫に関心を示さなかったのと同じく、李訥の息子にもまったく関心を示さなかった
 人生の愛情も喜びも得られぬまま、李訥はますます心を病んでいった。毛沢東の目から見れば、もはや李訥は役立たずの存在だった。毛沢東はしだいに李訥と会わなくなり、娘が精神的・肉体的にどのような状態であろうと一顧だにしなくなった
 現在では李訥は回復し、ふつうの生活を送っている。文化大革命における自分の役割については、「忘れて」しまったように見える。
 毛沢東は、もう一人の娘婿婦についても、まったく無関心だった。嬌嬌(チャオチャオ)には、政治的素質がなかった。ずっと昔、この娘がソ連から帰国した当時は、ロシア製のエキゾチックなウールのスカートに革靴をはき、ロシア式のマナーを身につけ、ロシア語を喋る一二歳のかわいらしい少女に、毛沢東はあふれるほどの愛情を注いだ。そして、嬌嬌を「わたしの小さな外人さん」と呼んで、あちこち連れ歩いた。嬌嬌も、うれしくて有頂天だった。が、娘が成長して可愛らしさを失い、政治的利用価値がないとわかると、毛沢東は嬌嬌をしだいに寄せつけなくなった。毛沢東の晩年には、嬌嬌はほんのたまにしか父親の顔を見ることはなかった。何度か中南海の門の前まで行って頼んでみても、父親は中に入れてくれなかった。嬌嬌はノイローゼになり、何年ものあいだ鬱と正常のあいだを行ったり来たりした。
 毛沢東の長男岸英は、一九五〇年に朝鮮戦争で死亡した(*毛沢東は気に入らないので、手を下さず死地に向かわせた。彼はソ連で教育を受けたが、毛沢東のやり方が余りに残忍なので精神を病んでしまった。)。ただ一人残った次男の岸育は、生まれつき精神を病んでいた。毛沢東はこの息子が不自由なく暮らせるよう手配してやったものの、面会に足を運ぶことはほとんどなく、家族の一員にも数えていなかった。毛沢東はつねづね、自分の家族は五人、自分、江青、二人の娘、そしてただ一人の甥遠新である、と言っていた
 毛遠新は、青年期の大部分を毛沢東一家とともに過ごした。文化大革命のあいだ、まだ三〇代前半だった毛遠新は瀋陽軍区の政治委員に大抜擢され、毛沢東の片腕としてソ連と国境を接する重要な中国東北の統治にあたった。この時期の毛遠新の行為の中で後々まで最もよく知られているのは、江育と大粛清(文化大革命)に公然と異を唱えた勇気ある女性党員張志新の処刑を命じたことである。銃殺刑に処せられる直前、張志新は独房の床に押さえつけられ、気管を切り裂かれた。公開処刑ではなかったが、処刑場で抗議の絶叫をさせないためである。しかし、この残酷な措置は本来必要のないものだった。いずれにせよ、処刑される人間は首に縄をかけられ、言葉を発しようとすれば首を絞められるしくみになっていたからだ。
 冷酷無情な毛遠新は、毛一族にふさわしい人間だった。毛沢東は一九七五年から七六年にかけての最後の一年間、毛遠新を政治局との連絡係に起用している。毛沢東の弟毛沢民=毛遠新の父親が殺害された原因の多くは毛沢東にあった一九四〇年代初めに新疆で毛沢民が獄につながれていたとき、毛沢東は救出作戦をおこなわないよう命じている。この事実は、毛遠新の耳にも他の誰の耳にもはいらないよう厳重に秘されていた
 毛沢東は、二番目の妻が殺害される原因も作っている。毛沢東に捨てられたあと、妻の楊開慧は一九三〇年に処刑されているが、これは毛沢東がもっぱら自分の権力を拡大する目的で当時楊開慧の住んでいた長沙に攻撃をしかけたことが原因だった。さらに、三番目の妻賀子珍がくりかえし精神を病み、最後には回復不能な状態にまで悪化したことについても、毛沢東の責任が大きかった(賀子珍は一九八四年に七五歳で死去した)。(*最初の妻は、二番目の妻を得た時から不要となり、死地に放置している。)
 毛沢東は、家族のほとんど全員を不幸にした。毛沢東が最後に裏切ったのは、四番目で最後の妻、江青である。毛沢東は、江育を汚い仕事にさんざん利用したあげくに、江青がどれほど憎まれているかを知りながら、自分の死後に江青を保護する措置を何ひとつ講じなかった。それどころか、自分が死ぬ少し前に台頭してきた「反対派」との取引に江青を使った。自分が生きているあいだの身の安全を保障させるのと引き換えに、自分が死んだあとは江育とその一味(甥の毛遠新を含に)を好きなように処分してよい、と約束したのである。毛沢東の死から一カ月もたたないうち江青一味は全員監獄行きとなった。江青は一九九一年に自殺した













(TOPへ)
(民族の危機T/[U])
(韓国軍の越大虐殺)