◆コンクリートの外側は鋼鉄の壁で被われていますが、鋼は1600度前後で溶け始めます。でも、溶けた核燃料の温度は二千数百度にもなるので、核燃料がコンクリートの床も突き抜けて、鋼も溶かして地下に流れ出ている可能性も考えられます。京都大学・小出助教授

311 陛下と自衛隊
福島上空に現れたUFO編隊。     地震直前、地平線上の奇光。
http://npn.co.jp/article/detail/53715487/  UFOと共によく現れるレンズ雲。
◆東京電力福島第一原子力発電所1〜3号機で、
 原子炉内の核燃料の大半が溶融し、高熱で圧力
 容器底部が損傷していた。
 東電は、直径数センチ程度の穴に相当する損傷
 部から水が漏れていると発表した。
 メルトスルー起こり、レベル7の2倍以上の放
 射能が漏れていた事が発覚。
 溶融した燃料は圧力容器の底部にたまっている
 と見られ、この状態が、核燃料の「メルトダウ
 ン(炉心溶融)」、損傷から燃料が漏れるのが
 メルトスルーである。
◆左図 2012/03/27の産経朝刊より。
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 天皇陛下は16日午後、テレビを通じた異例の被災者向けメッセージで、「一人でも多くの人の無事が確認されることを願っている」とのお言葉を述べられた。


--- 陛下の全文 ----

 このたびの東北地方太平洋沖地震は、マグニチュード9.0という例を見ない規模の巨大地震であり、被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し、犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。
 また、現在、原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ、関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。
 現在、国を挙げての救援活動が進められていますが、厳しい寒さの中で、多くの人々が、食料、飲料水、燃料などの不足により、極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより、被災者の情況が少しでも好転し、人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずに入られません。 そして何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。
 自衛隊、警察、消防、海上保安庁をはじめとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のために来日した人々、国内の様々な救援組織に属する人々が余震の続く危険な状況の中で日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います。
 今回、世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き、その多くに各国国民の気持ちが被災者と共にあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。
 海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示している事に触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。
 被災者のこれからの苦難の日々を、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。
 被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。




皇后さまの誕生日(10月20日)のお言葉

 この度の大震災をどのように受け止めたか?との質問ですが、こうした不条理は決してたやすく受け止められるものではなく、当初は、ともすれば希望を失い、無力感にとらわれがちになる自分と戦うところから始めねばなりませんでした。東北三県の御見舞に陛下と御一緒に参りました時にも、このような自分に、果たして人々を見舞うことができるのか、不安でなりませんでした。震災発生直後、一時味わった深い絶望感から、少しずつでも私を立ち直らせたものがあったとすれば、それはあの日以来、次第に誰の目にも見えて来た、人々の健気で沈着な振る舞いでした。非常時にあたり、あのように多くの日本人が、皆静かに現実を受け止め、助け合い、譲り合いつつ、事態に対処したと知ったことは、私にとり何にも勝る慰めとなり、気持ちの支えとなりました。被災地の人々の気丈な姿も、私を勇気づけてくれました。」

  さらに皇后さまはこうお答えになっている。

「この時期、自分の持ち場で精一杯自分を役立てようとしている人、仮に被災現場と離れた所に居ても、その場その場で自分の務めを心を込めて果たすことで、被災者との連帯を感じていたと思われる人々が実に多くあり、こうした目に見えぬ絆が人々を結び、社会を支えている私達の国の実相を、誇らしく感じました。災害時における救援を始め、あらゆる支援にあたられた内外に人々、厳しい環境下、原発の現場で働かれる作業員を始めとし、今も様々な形で被災地の復旧、復興に力を付くしておられる人々に深く感謝いたします。



天皇陛下お誕生日に際し(平成23年)

 天皇陛下のご感想

 先月マイコプラズマによる感染症を患い,入院を余儀なくされたことから,多くの人々に心配を掛けました。私の健康を気遣ってくれた人々の気持ちに対し,謝意を表します。退院から日もたち,皇太子に委任していた国事行為も再開することができるようになり,体調も今では発病前の状態と変わらないように感じています。今後とも健康に十分気を付けながら新年にかけての行事を務めていきたいと思っています。

 3月11日に起こった東日本大震災は,今から88年前の大正12年,10万人以上の死者を出した関東大震災以来の大きな災害で,死者,行方不明者数は2万人近くに上りました。更に後日この地震に誘発された地震が長野県の栄村を始めとして各地で起こり,犠牲者が出たところもありました。家族や親しい人を亡くした人々の悲しみはいかばかりかと察しています。また住まいや生活の場を失った人々,原発の事故で住んでいた地域に住めなくなった人々のことが深く案じられます。震災発生以後,皇后と共に被災地や各地に設けられた被災者のための避難所を訪れ,被災者を見舞ってきましたが,これらの訪問を通して,被災者が様々な悲しみや苦しみを抱えつつも,決して取り乱すことなく,強い連帯感を持ち,互いに助け合って困難を乗り越えようとしていることが感じられ,そのことを非常に心強く思いました。また日本各地で,人々が被災者のために支援活動を始めたり,何らかの形でこれに携わろうとしていることも心強いことでした。

 厳しい環境の下,我が身の危険も顧みず,専心救援活動に当たった自衛隊,警察,消防,海上保安庁を始めとする国や地方自治体関係者,また原発事故の対応に当たった,東京電力及びその関係者の献身的努力に深く感謝しています。

 諸外国からも救援の人々が来日し,日本の救援活動を助けてくれました。また駐日外国大使等日本に住んでいる外国人を始め,災害発生後日本を訪れた多くの外国人も,被災地を訪れ被災者を励まされていることに感謝しています。震災に際して頂いた外国元首からのお見舞いの電報の多くに,自分たちは被災者と共にある,という言葉が添えられていたことが思い起こされます。

 歴史を振り返ると,我が国は,今回の地震津波災害とほぼ同じ犠牲者数を記録した明治29年の「三陸地震」を始めとし,これまでにも幾度となく地震や津波による災害をこうむってきました。しかし,時の経過と共に,次第にその記憶や認識が薄れてきてしまっていたように思います。私が津波の恐ろしさに接したのは,平成5年「北海道南西沖地震」のお見舞いに皇后と共に奥尻島を訪れたときのことです。島は地震と津波で大きな被害を受けており,200人以上の死者,行方不明者が生じていました。少しの地形の違いでも,津波の高さは場所によりかなり違うこと,自動車で逃げようとした人が渋滞で助からず,歩いて高台に上がった人が助かった等と聞いたことが記憶に残っています。記録には津波の高さは青苗の市街地で10メートルを超えた所があると書かれていますから,もしこの度の被災地域の人が,奥尻島の津波災害の状況を更につまびらかに知っていたならば,一刻も早く避難することにもっと力を注ぎ,より多くの人が助かっていたのではないかと残念に思われてなりません。この度の津波災害においても,避難訓練と津波教育が十分行われていたところほど被害者が少なかったと聞き,施設面の充実と共に,今後も避難訓練と津波教育が十分に行われ,災害に当たり少しでも多くの人が危険から守られるよう願っています。

 私どもの住む日本は,四方に海を持ち,山や川も多く,風光に恵まれた島国です。一方,我が国はいくつものプレートが重なり合う所に位置し,地震が多く,火山や急しゅんな山川,日頃は人々に幸を与えてくれる海も,時に荒れ,多大な被害をもたらします。この厳しい現実を認識し,災害時における人々の悲しみを記憶から消すことなく,常に工夫と訓練を重ね,将来起こるべきことに備えていかなければならないと思います。

 今,被災地には再び厳しい寒さが訪れようとしています。住環境が十分でない所に住む被災者,殊に高齢者の健康が心配です。寒い冬を皆が少しでも健康に過ごすことができるよう願っています。

 今年は豪雨による災害も,7月には新潟県と福島県で,9月には和歌山県,奈良県他で起こりました。9月に和歌山県等で起こった台風12号による豪雨災害では,森林に覆われた斜面がえぐり取られる深層崩壊というこれまで耳にしたことのない恐ろしい現象が起こりました。こうした災害により100人以上の生命が失われたことは本当に残念なことでした。ただ注目したいのは,7月に新潟県を襲った豪雨災害では,7年前に同地域が受けた豪雨災害時の雨量より更に多くの降雨量があったにもかかわらず,前回に比べ犠牲者の数が少なかったことです。これは前回の災害を教訓として治水や住民の避難に対し,様々な対策が講じられた成果であり,防災に力を注ぐことがいかに生命を守ることになるかを教えてくれます。

 水害はタイ王国でも起こりました。国王陛下は長らく御入院中で,この水害にお心を痛めていらっしゃることとお案じしています。タイの水害は日本の産業にも影響を与え,タイにおいて日系企業が行っていた操業が不能となり,生産に携わっていたタイ人の少なからぬ人数を日本に呼び,生産を再開することになりました。言葉や生活習慣の異なるタイ人が日本での生活をつつがなく過ごすことができるよう願っています。この度の日本における災害及びタイの水害は,改めて今日の世界が様々な国の人々と共に生きる社会であることを感じさせるものでした。

 今年は先の戦争が始まって70年になります。この戦争における死者はおびただしい数に上り,戦後,こうした戦争の惨禍を再び繰り返すことのないよう,日本の人々は,真摯に過去を学びつつ,戦後の厳しい困難に耐え,営々と国づくりに励み,今日の日本を築き上げました。戦争の記憶が薄れようとしている今日,皆が日本がたどった歴史を繰り返し学び,平和に思いを致すことは極めて重要なことと思います。

 振り返ると,今年は災害に明け暮れた心の重い年でした。しかし,被災地の人々が,厳しい避難生活の中で,我慢強く耐え,多くの人々がボランティアとして被災者を支援したことは本当に心強いことでした。日本人全体がこの震災に向き合い,被災者のために何かの役に立とうとしていることを感じています。本年もあと僅かになりました。新しい年も被災者に心を寄せつつ過ごしていきたいと思っています。来る年が少しでも良い年となるよう願っています。




天皇陛下、新年のご感想全文

 昨年は春には東日本大震災が起こり、夏から秋にかけては各地で大雨による災害が起こり、多くの人命が失われ、実に痛ましいことでした。また、原発事故によってもたらされた放射能汚染のために、これまで生活していた地域から離れて暮さなければならない人々の無念の気持ちも深く察せられます。昨年は誠に心の重い年でした。そのような状況の中で、皆が互いに助け合い、また多くの人々が被災者の支援に力を尽くしていることを心強く思っています。
 今年は、復興に向けて様々な計画を立て、将来への指針を選択していく年であるとともに、がれきの処理を始めとする多くの困難な業務に取り組まなければならない年になると予想されます。人々の英知が結集されるよう、また業務に携わる人々の作業が安全に行われるよう、願ってやみません。
 日本は大震災の影響等により現在厳しい状況にありますが、皆が被災者に心を寄せつつ、力を合わせ、明日の社会を築くために忍耐強く力を尽くしていくことを期待しています。
 この年の我が国及び世界の人々の安寧と幸せを祈ります。


【天皇陛下】(5首)

 《東日本大震災の津波の映像を見て》
  黒き水うねり広がり進み行く仙台平野をいたみつつ見る

 《東日本大震災の被災者を見舞ひて》
  大いなるまがのいたみに耐へて生くる人の言葉に心打たるる

 《東日本大震災後相馬市を訪れて》
  津波寄すと雄々しくも沖に出でし船もどりきてもやふ姿うれしき

 《共に喜寿を迎へて》
  五(い)十(そ)余(よ)年(とせ)吾(あ)を支へ来し
  我が妹(いも)も七十七(ななとせなな)の歳迎へたり

 《仮設住宅の人々を思ひて》
  被災地に寒き日のまた巡り来ぬ心にかかる仮住まひの人


【皇后さま】(3首)

 《手紙》
 「生きてるといいねママお元気ですか」文(ふみ)に項(うな)傾(かぶ)し幼な児眠る

 《海》
  何事もあらざりしごと海のあり かの大波は何にてありし

 《この年の春》
  草むらに白き十字の花咲きて罪なく人の死にし春逝(ゆ)く




陛下手術終了、2週間後の退院目指す:2012/02/19朝刊

 宮内庁関係者によると17日の入院から同行した皇后さまはそのまま付き添い、18日朝に訪れた長女黒田清子さんとともに手術が終わるのを待った。皇太子ご夫妻は東宮御所で待機した。
 麻酔科の医師から「手術が無事終わりました。ご気分はいかがですか」と聞かれると、かすれた声で「いい」と答えたという。
 陛下は手術前と手術後の2度、皇后さまと医師団に「ありがとう」と口にされた。手術を終えて目覚めた際は集中治療室で、様子を案じ、両脇に立って手をさする皇后さまと清子さんに「気持ちいい」と優しく言葉を返した。見守っていた医師たちもその様子に思わずほほえんだという。
 医師団から術後の報告を受けた皇后さまは、とても喜んだ様子で感謝の言葉を口にしたという。皇后さまはICUを退出する際、「明日また参ります。お体を大事にしてください」と話し、陛下は「ありがとう」と述べた。また、病院から出て行く際には、入院患者ら約40人が出入り口に集まり、皇后さまは何度も会釈し、「お大事に」と声を掛けられると、笑顔で応えていた。
 午後6時過ぎから会見した医師団は、緊張が解けた面持ちで、手術後の両陛下の様子に「本当にほのぼのとした姿を見せていただいたと感じた」と感想を述べた。

     ◇ ◇ ◇
 手術が行われた東京大学医学部付属病院でも喜びの声が上がった。
 病院に来ていた都内在住の自営業、宮崎ふさこさん(59)は「先生を信じるしかないと思い、必ず成功すると祈っていました」。都内に住む会社役員の犬塚宏さん(64)も笑顔で「報道を見て心配していました。本当によかった。ご高齢にもかかわらず何度も被災地に足を運ばれ、人々を励まされてきた。そのお姿は本当に頭が下がる。これからも元気でいてほしい」と語った。
 緊張が続く宮内庁の幹部は「無事終了と聞きまずはほっとした。一日も早いご回復を祈っている」と胸をなで下ろした。

     ◇ ◇ ◇
 手術当日の18日、計1万3048人が記帳に訪れ、手術無事終了の知らせに、喜びの声があった。
「心配で心配で仕方なかった。手術が無事終わったと聞き、ほっとした」
「また国民の前に元気なお姿を見せて欲しい」
「体調がお戻りになったら、またこちらにも来ていただきたい」
「震災後に陛下が被災地入りされ、大変勇気づけられた。
  感謝の気持ちをお伝えしたかった」
「皇室の方々をテレビで拝見すると、いつも心が和む。
  一日も早い回復と今後の健康を願っています」
「とても心配していたので大変幸せ。これからも長生きされると思う」
「震災では被災地へ何度も足を運んでお見舞いされていた。
  年齢的なものもあり、皇太子さまとご公務を分担することを考えても
  いいのかなと思う。・・・またあの穏やかな笑顔をお見せしてほしい」

     ◇ ◇ ◇
 厳しい避難生活の中で励まされた被災者からは「今度は陛下が元気になって」との願いとともに、「無理だけはなさらないで」と気遣う声が相次いだ。被災直後に陛下からお声をかけられた菅野セツ子さんは「無事終わって何よりです。お元気に成られることを願うだけです」と祈るように語った。宮城県南三陸町の歌津中学校避難所で昨年4月、天皇陛下から声をかけられたという同町立伊里前小学校の菊田新一教諭(52)は「心配していたが、良かった」。担当するクラスに津波で親を亡くした児童がおり、菊田教諭自身も両親を亡くしているが、「子供たちのために頑張ってください」という陛下の言葉を思い出しながら指導にあたってきたという。「また元気なお姿を見て、あの時のお礼を申し上げたい」
 仮設住宅に住む方からも「嬉しいの一言です」「陛下には早くお元気になっていただきたい。天皇、皇后両陛下が互いに支え合うお姿には心が温まり、勇気づけられます」「夫も狭心症の手術をして退院したばかり。また元気なお姿を見たいけれど、まだ寒いので無理はしないでください」と安堵の表情。
 被災地からも陛下を気遣う様々な声があった。
 「陛下は国民は被災地を忘れないという思いを体現してくださっていた。
  今度はわれわれが陛下に寄り添っていかなければ」
 「公務でお忙しいとは思いますが、くれぐれもお体を大事にされてください」
 「ご無事で良かった」
 「原発事故が深刻な時期に福島に来てくださり、頑張っていこうと思えた。
  しっかり休養をとられて、また元気な姿を国民に見せてください」

     ◇ ◇ ◇
 管野さんによると、握手されたときの天皇陛下の柔らかい手は、避難所で凍えていたはずの自分よりも冷たかったという。「足取りはしっかりされていたんですが…」と振り返る。 避難所内のブースを別々に慰問されていた天皇陛下を、常に目配せしながら確認されていた皇后さまの姿も印象に残っているという。「いつも天皇陛下をお気にかけているように見えた。皇后さまが一番心配されていたのでは」と話した。
 釜石市の松田さん親子が避難した中学校には昨年5月、両陛下が慰問に訪れた。自宅兼理容店は津波で全壊。陛下は松田さんに「今後はどうされますか」と優しい声で尋ねたという。「もう年だから」と店に立つのをあきらめていたが、同じ70代で慰問を続ける両陛下の姿を見て、仮店舗での営業を再開後、またハサミを握るようになった。「私たちも頑張っています。一日も早く回復され、復興を見届けていただきたい」

     ◇ ◇ ◇
 岡田副総理は18日、陛下の手術が無事終了したことについて、「本当に国民の1人として喜ばしく、うれしい。早く退院され、日常の生活に戻られることを心から祈念したい」と述べた。また、野田佳彦首相は前日、皇居でお見舞いの記帳を済ませた。

     ◇ ◇ ◇
世界が「成功」を速報、ただ韓国は…:2012/02/19産経
 天皇陛下の心臓手術について18日、欧米の通信社が「日本の78歳のエンペラーの心臓バイパス手術が成功裏に終了した」などと速報で伝えた。中国の国営新華社通信も「順調であれば約2週間後に退院」などと速報、海外の関心の高さをうかがわせた。
 日本の皇室と関係の深い王室をもつ国々は、手術について詳報。英BBC放送は電子版で「(陛下は)最近、健康が優れなかった中でも重い公務をこなし、多くの日本人の深い尊敬を受けていた」と伝えた。タイの英字紙バンコク・ポストも電子版で詳報した。
 このほか、ロシアのイタル・タス通信は、多くの人が皇居に記帳に訪れたことに触れ「国民は固唾をのんで結果を待った」と報道。韓国ではニュース専門テレビが短く報じたものの、通信社の速報はなかった。

     ◇ ◇ ◇
◇国内12箇所で合計9万7899人分の記帳は、 2012/03/06宮内庁
 御所に運ばれ、陛下がご覧になっているという。



天皇陛下 哀悼のお言葉=全文:2012/03/11 読売

 東日本大震災から1周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。
 1年前の今日、思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。その中には消防団員を始め、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。
 この度の大震災に当たっては、国や地方公共団体の関係者や、多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、被災者のために様々な支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で、避難者の心を和ませ、未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、また、原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を、深くねぎらいたく思います。
 また、諸外国の救助隊を始め、多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。
 被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。
 今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。


 (太陽フレアと気象・地震へ)


<解説>「トモダチ作戦」について

   http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2011/2011/html/nct60000.html
 米軍による「トモダチ作戦」は、これまで50年間培ってきた日米同盟の絆の証左とも言えるものです。本コラムでは、本文で紹介しきれなかった「トモダチ作戦」に関するエピソードを紹介します。



○心のこもった支援

 宮城県気仙沼大島は、震災と津波の影響により旅客船やフェリー用の大きな港が使用不能となり、孤立していました。支援のため大島に上陸した米海兵隊は、大きな港の清掃だけではなく、同様に使用不能となっている小さな漁港の清掃を行うことを申し出ました。大きな港の復旧には時間がかかるが、小さな漁港が使えるようになれば、島の住民が自衛隊や米軍に頼らず自らの手で人員や物資を輸送できるようになり、肩身の狭い思いをすることもなくなるだろう、との認識によるものです。
 「自立」を尊重するアメリカ人としては自然な発想なのかもしれませんが、被災者の将来を見すえた「トモダチ」らしい心のこもった支援だったと言えます。


○力強く一体となった支援

 各地で瓦礫の除去などに活躍した米軍ですが、米軍人の力強さに驚かされる場面もありました。たとえば、米海兵隊が瓦礫除去を行った小学校では、海兵隊員が素手でどんどん瓦礫を運び出し、トラックに積んでいましたが、その様子を見て、自衛隊やボランティアの高校生達も素手で瓦礫除去を行いました。また、工業高校での支援活動においては、生徒などと一体となって泥の除去や備品の搬出を行いました。このような力強く一体となった支援は「トモダチ作戦」の特徴の一つです。


○「トモダチ」の心

 仙台空港の復旧に携わった米空軍のある将校は、「我々を迎え入れてくれた友人であり隣人の日本の人々を支援できたのは我々にとって名誉だ」と述べています。加えて、使用可能となった仙台空港周辺を飛行中に、津波でなぎ倒された松の木を使ってかたどられた「ARIGATO」の文字を砂浜で見つけたことにふれ、「我々の支援など日本の人々の労力に比べたら、何でもない。」「日本の皆さん、ARIGATOにはおよびません。」とも述べています。
 北澤防衛大臣は、米空母ロナルド・レーガンの艦上で乗組員から直接話を聞き、「本当に『日本を救おう』とする気持ちが強いということが感じられた。今ほど米国が同盟国であったことを誇りに思ったときはない。」と述べました。これを受けて、「トモダチ作戦」を指揮するウォルシュ米太平洋艦隊司令官からは、「自衛隊の活動は大変勇敢で、世界中の軍人の尊敬を集めており、自衛隊と仕事をし、皆さんを『トモダチ』と呼べることを大変光栄に思っています。」といった趣旨の激励がありました。「トモダチ作戦」における米軍の支援活動は、このような思いを持って行われていたのです。

                    (TOPへ)   (被曝と食事へ)⇒



桜林美佐『日本に自衛隊がいてよかった』(産経新聞出版)より


    黙々と冷静に災害被災者の救助に立ち向かった自衛隊に、涙なくして読めない。
    マスコミが書かなかった真実の物語です。

  ◆ ◆
 東日本大震災における我が自衛隊の英雄的活躍はだれ一人知らない人はないと思います。ここでは、特に感動したいくつかの文章をほんの短く紹介させていただきます。

 原発の支援に赴いた多用途支援艦に乗っていた女性自衛官は、被曝の危険性から艦を降りるよう命じられたが、彼女たちは「自分たちも行く」と泣きじゃくったという。他方、同じく派遣された陸自からは「もっとキツいことをやらせてください」という声も絶えなかった。

 ある学校を通りかかった小隊が、先生から「どうしても金庫に閉まった成績表を引き上げたいんです」と頼まれた。子供が行方不明のままの親御さんに、せめてもの形見にしてあげたいという。泥沼の中から金庫を取り出すのは至難の業だったが、小隊全員でなんとか地上へ。そこに視察中の上官が通りかかった。小隊長が慌てて、「すみませんでした。今後は捜索に集中しますので、今回だけは見逃してください」と懇願したところ、「素晴らしいことだ」と逆に褒められたという。
   ◆
 「俺、自衛隊に入る」ポツリと小学生が言った。なぜ? と聞くと、次のようなことだった。津波にのまれた父親が帰って来るのではないかと毎日、ずっと海を見つめていたところ、若い自衛官に声を掛けられた。理由を話すと、その自衛官は何も言わずに肩に手を置いて、しばらくの間、一緒に海を見てくれたのだという。
   ◆
 「ウルトラマン…」持っていた水筒の水をかけると、姿が現れた。「息子が、大事にしていたんです」受け取った母親は、そう言って丁寧に泥を拭き取り、何度も何度も頭を下げた。
   ◆
 「何で、父ちゃんなの?」ある陸曹は泣きじゃくる5歳の息子に言った。「父ちゃん、やりたいんだ。今まで役立たずだったので、やらせてくれ。たまには、いい格好をさせてくれよ」「今まで自衛隊で飯を食べてきたのは、この時のため。長い自衛官生活、一度くらいはお役に立ちたいんです!」
   ◆
 今浦勇紀陸将補を乗せた車両が双葉町にさしかかると、全員が避難して誰もないはずの集落に、70代くらいだろうか、夫婦らしき姿を確認した。聞けば、避難バスに乗り遅れ、自家用車のガソリンもないという。車両は人と荷物が満載されていたが、「荷物は捨てよう」と、大半をその場に置き、2人を救って避難所まで送り届けていたことが、夫婦からの礼状で明らかになった。
   ◆
 通常、消防車は3人で乗り込むが、いざ突っ込むことになったとき、被曝量を最小限にするために2人で突入することになったのだ。「オレが行く」という班長に、あとの若い2人が語気を強めて言った。「独身者の自分たちが行きます。何かあったら奥さんに合わせる顔がありません!」新婚の班長に対し、初めて意見具申した。
   ◆
「台風が来たら、普通のお父さんは帰ってきますが、自衛隊のお父さんは出ていくんですよ」
   ◆
 ある島では、掃海艇を見て、自衛艦らしからぬ小さな船が近付いてきたと、「どこぞの不審船では?」と案じた島の漁師が、木刀を持って待ち構えていて隊員を驚かせたという。自分たちの生きる土地を愛する思いは、自衛官の人後に落ちない。
   ◆
 「もうすぐ卒業式があるのですが、まともにはできそうにありません」群司令は島民がこぼした一言が気になっていた。「そうだ!」と思いついたのは、「艦上卒業式」。ひそかに準備が進められ、迎えた当日、隊員手作りの「祝!卒業」と書かれたリボンと垂れ幕が掲げられた。誰が命じるわけでもないが、隊員が夜遅くまで作業したに違いない。
   ◆
 「連隊長は毎日現場に来てわれわれを激励してくれます。夜は市役所に入って遅くまで対策会議です。そのまま泊まり込む生活を、もう70日以上続けているんです。1日も休んでいません」
   ◆
 食糧は全て被災者に配り、自分たちはそれから毎日カンパンでしのいだ。ずぶぬれになった人に私服のジャージーを差し出す隊員もいた。相手がどうしてほしいのか常に考えている、整備など後方隊員のスピリッツが生きた。

 被災し、孤立した宮城県気仙沼市大島では、毎朝夕、(米軍)海兵隊員による行軍があった。宿泊所から作業現場の徒歩30分の道のりを、島の人が車を使ってくれと言ったが、「ガソリンがもったいない」と丁重に辞退したのだ。

 ある隊員が、つかの間の戦力回復で自宅に帰り、被災地に戻る前日のこと。妻と娘がかしこまって待っていた。「これ持っていって」手渡されたのは千羽鶴だった。わずか3日で作ったという。「ありがとう…」−力が湧いてくるのが分かった。自己完結。しかし、誰かと手を携えて、自衛隊は成り立っている
   ◆
 3月11日、たまたま東京に出張で来ていたあるフェリー会社の担当部長は、ホテルで一晩中、対応に追われることになった。震災直後の大津波警報により、北海道付近を航行していたフェリーは全て沖合に避難。安全が確保できた後に、人と車を降ろす措置がとられた。そして、次に取り掛かったのは、災害派遣にいかに役立つかだった。「私たちも国のために貢献させてください!」防衛省に赴き、そう申し出たのは12日の早朝だった。 

 「自衛官に憧れて、一生懸命に頑張って難関だった試験に合格しました。あと少しで、夢が叶うところだったのに…」単身赴任中だった父は、娘の晴れ姿を見ることを心待ちにしていた。「せめて遺影だけでも入隊式に出させてやりたい」という父の希望を受け、地本が各所と調整をして実現した「天国からの入隊式」だった。
   ◆
 3歳の男の子のご遺体を発見したときのことだ。母親が探していたのを知っていたので、連絡して確認してもらうことにした。変わり果てた姿だったが、母は服装でわが子と分かったようだった。どうしても最後に抱っこをしたいという。「収納袋のままでした。お母さんはその子を抱きしめると『よかったね。自衛隊さんたちが助けてくれたよ。お前も今度生まれ変わって、大きくなったら自衛隊に入れてもらおうね』と泣いていました」
                     (評 浅野正美)


  

  



◆もう「ありがとう」しか出てこない

 大震災後に津波に遭い、園児たちと共に護衛艦「たかなみ」に救出された宮城県石巻市の幼稚園教諭。睡眠をとり、食事や入浴の出来ることに感謝すると共に、他の被害者に申し訳ない気持ちにもなった。
 それに、「たかなみ」の乗組員たちは、捜索活動や救助された人々のケアで働きづめのようだ。ちゃんと休んでいるのだろうか?という思いもよぎる。乗組員にも家族がいて、聞けば、連絡も取れていないのだという。
 震災が発生した直後、休暇を取っていたものも皆、自分の艦に急行し、取るものも取あえず出航したため実際、彼らは家族の安否も確認できていなかった。それなのに、そんな事情は一切、口に出さず、あの恐ろしい海の中で助けてくれた。子供たちが不安にならないように、ずっと励ましてくれた。年の頃も若い自衛官ばかり、年下なのかも知れないが、どれだけ心強かったか分からない。
 避難所の人々のために、彼らが懸命におにぎりを握っているのが見えた。「私達も手伝います!」疲労もあったが、何かをしたいという思いが込み上げてきたのだ。陸に戻ったら、園児達を家族の元に、無事に戻さなければならない。これからのこと、そして自分の家族のこと、艦を降りたら辛い現実と向き合わなければならないだろう。そして、乗組員たちにとっても救援活動は、まだまだ始まったばかり。これから、長い活動が続くのだ。     あらゆる思いが去来するが、こうして生きていて、一緒に、誰かのためにおにぎりを握っている自分が、無性に幸せだと感じた。
 「先生、どうして、朝から『おはよう』とか『こんにちは』じゃなくて、『ありがとう』ばかり言っているの?」園児があどけない顔で言う。「だって・・・・・『ありがとう』しか出てこないよ」
 海上自衛隊という名前は知っていたものの、どんな人たちなのか、ほとんど知らなかった。しかし、今度は違う。子供たちが帽子をかぶったり、敬礼している姿を見て、将来は、海上自衛官のような、優しくて強い大人になって欲しいと密かに思っている。
 艦を降りるとき、隊員たちに、心の底から感謝の言葉とメッセージを残した。
 「私達は絶対負けません!強く生きていきます。一人じゃない。助け合って、支え合って生きていきます」




被災地に生きる雄々しき日本人

 平成二十三年三月十一日、この日、いったい何が起こつたのか。テレビを通して伝えられる映像や写真はまるで恐怖映画を見ているかのようで信じがたい光景ばかりだった。
 地震直後の津波により、高い場所に逃げた多くの人々は建物の中に閉じ込められていた。
SOSの文字が屋上などに書かれ、飢えと寒さに苦しむ人々は必死に助けを求めていた。
 石巻市の大街道小学校では、約六〇〇人が避難していた。そのうち子供は四〇〇人。備蓄食糧はなかった。差し入れや買出しで調達したわずかな食糧は、皆で分け合い、まず子供たちを優先した。十二日には水が止まった。住民らはスティックタイプの砂糖を舐めて飢えをしのいだ。当時を知る北村教頭(49)は、「先生方や大人は二、三日間、ほとんど食べるものがない状態。我慢するしかなかった」と話す。(登録者:中国人とは違います!)

 また、海沿いを走行中に地震に襲われた列車もあった。宮城県東松島市の野蒜駅を出発した下り列車は、地震直後、緊急停車した。停車した場所は、幸いにも十数メートルの高台。最初、乗務員は客を外へ誘導しようとしたが、地元に住む年配の男性がそれを止め、最も高い位置にある三両目で待機することになった。その判断が正しく、高台は津波を免れた。しかし、濁流にのみこまれる建物や車が窓越しに見えた。乗客の男性たちは流された家の屋根に乗って漂流していた七十代の男性を救助。震えるお年寄りを座席に寝かせ体をさすって温め続けた。
 皆は持っていたお弁当や菓子、惣菜、水などを分け合い、飢えをしのいだ。夜は長く寒かった。乗客は詰めて座り、互いの体温で温めあったという。その後、無事に救助された乗客の一人は「一人一人ができることをやった。みん身の力で乗り越えられた」と語った。



子供達の活躍。「ファイト新聞」「肩もみ隊」

 宮城県気仙沼市にある小学校では避難生活を送る子供たちが毎朝、手作りの新聞を発行している。その名も「ファイト新聞」。カラフルな色使いとかわいいイラストは読者の心を和ませ、安らぎを与えている。四月十一日の朝刊には「みなさん、ひなんじょの生活にはもうなれましたか。この一カ月かん、いろ×2なことがありました!これからもがんばりましょう」との明るい言葉が並ぶ。きっかけは、避難所でうつむいてばかりいる大人たちを元気づけるためだったという。編集長の小山里子さん(9)は「一日のうちで楽しかったことだけを選んで、書く事を決める。明るくいこうよって伝えたいから」と語る。

 また、津波によって壊滅的な被害をうけた岩手県山田町でも子供たちが活躍している。避難先の体育館では、児童一〇人ほどの「かたもみ隊」が避難住民のマッサージを行っている。「もうちょっと強くしますか?」「体調はいいですか?」などのあたたかい言葉をかけながら一生懸命に扁を揉む。
 肩もみ隊の佐々木奏乃さん(9)は「力の入れ方にこつがいります。おじいさん、おばあさんに喜んでほしいです」と話した。
 マッサージを受けた八十八歳の女性は「気持ちがいい。温かいものが食べれるだけでありがたいのにこんなによくしてもらって」とぽろぽろと涙をこぼした。

 




命の限りに避難を呼びかけた女性職員

 呼び掛け続け津波にのまれて殉職した女性職員がいた。町役場の防災放送の担当職員、遠藤未希さん(24)である。
 「六メートルの津波が来ます。避難してください」

 押し寄せる津波を前に、呼び掛けは何度も何度も繰り返された。高台に避難した町の人々は、「防災無線がなかったら逃げていなかった」「あの声ははっきり覚えている。あれがなかったらもっとたくさんの人が亡くなっていた」「自分の命と引きかえに町民を助けた。天使の声だと思っています」と口々に語る。
 遠藤さんは勤続五年目で、昨年四月に危機管理課に配属された。専門学校で介護士の資格をとっていたが、地元に残ってほしいという両親の希望で町役場に勤めた。遠藤さんは、昨年七月に婚姻届を出したばかり。今年九月には披露宴を控えていた。景勝地・松島のホテルを早々と予約し、昨年十二月に初めて衣装合わせをした。「三月にはドレスの試着に一緒に行こうね」と母、美恵子さんと約束していた。

 最後まで持ち場を離れず防災業務を行っていたのは遠藤さんだけではない。遠藤さんの隣にも、その隣にも、そのまた隣にも女性職員が残っていたという。課長補佐の三浦毅さん(望も、遠藤さんたちと最後まで防災無線で避難を呼び掛け続けた。庁舎に残った職員約三〇人のうち、助かったのは僅か一〇人。津波にのまれた三階建ての防災対策庁舎は、今も赤い鉄筋だけが無残に立ち尽くしている。




◇「国民の自衛隊 特別版」感謝のメッセージ:2011/11/27産経


■小野寺敬子さん=気仙沼市
 永遠の別れになると思わなかったあの日。父が私たちの元に姿を見せたのは、5月。娘の誕生日の日でした。毎日の捜索の中、冷たい水の中から引き揚げ、私たち家族の元へ連れてきていただき、ありがとうございました。避難所での温かいご飯と給水。震災を体験しなければありえなかっただろう自衛官の皆さんとの出会い。すれ違いざまに頭を下げるしか表せない感謝でした。陰から支え、守っていただきありがとうございました。

■古沢律子さん=仙台市
 福島市民センターにいるとき、自衛隊さんの運んでくるみそ汁が何よりも一番おいしかったです。いつも最後に行って大盛りくださいとお代わりしていました。今も何時に起きて作ってくれたんだろうと思い出す時があります。7月の初め、自衛隊の災害支援車が止まっていたので、信号が青になって通り過ぎるまで心の中でありがとうと立ち止まって見送りました。お体くれぐれも気を付けてください。本当に感謝しています。

■すづ江さん=気仙沼市
 小雨降るあの3月11日から暑さ厳しい8月まで、私たち気仙沼のため一生懸命働いていただき心から感謝しております。隊員の皆さまの姿からいっぱいの勇気をいただきました。生きる力をいただきました。本当に本当にありがとうございます。

■後藤栄一さん=多賀城市
 あの日、私たちの住んでいた地区は大きな地震のあと大津波に襲われました。 道から2b方近くまで水につかり、自力での避難ができなくなりました。2階が何とか残ったので、家にいた家族3人で救助を待っていました。 翌3月12日、陸上自衛隊多賀城駐屯地の自衛官の方が、ゴムボートで救出してくださいました。3月とはいえ小雪が舞っている中、ただ途方に暮れていた私たちを、危険を顧みず救っていただき本当にありがとうございました。多くの被災者は、自衛隊の方々に生きる希望をたくさんいただきました。

■本田幸子さん=郡山市
 初めは何が起こったのか、自分が震災の真っただ中にいることが理解できずにいました。電気も消えさらに続く余震。情報が入るにつれ尋常ではない災害が起きていることが伝わってきました。
 繰り返す大きな余震。異常な毎日の中、北へ向かって自衛隊機やヘリコプターが引きも切らず飛行していました。不安の中、もっと恐ろしい被害にあっている人々がいると思うと空をゆく航空機に手を合わせる気持ちで無事な活躍を祈らずにはいられませんでした。
 東京電力福島原発の放射能汚染の恐怖に運搬車両が福島県を忌避する中、自衛隊車両が救済活動のため走る姿に胸が熱くなり、力づけられました。

■佐藤亜紀さん(9)=気仙沼市
 しんさいの時、わたしとお母さんでひなん所に行き、じえいたいさん、ボランティアの人たちにたきだしやきゅう水をしてもらいました。
 2カ月ぐらい後、じえいたいさんが帰る時うちの前をとおると聞き「じえいたいさんありがとう」と書いた紙をもってまちました。50台ぐらい車があり、みんなでありがとうと言ったら手をふってくれました。
 じえいたいさんありがとうございました。

■佐藤茂喜さん=いわき市
 その節はお世話になりました。被災地、いわき市有磯地区。地震と津波で集落は消えました。数日後、家内の実家跡に立ったとき、脇を通る自衛隊の車を見て、なぜか涙が流れました。黙々と業務を遂行する姿に勇気をもらった涙でしょうか。何回も何回もお辞儀をしました。一生忘れません。あの時、義母と義弟を亡くし、3カ月後葬式をあげることができました。その自衛隊、災害派遣と国家の安全保障に支障がなかったことをたたえます。

■鈴木美由紀さん=いわき市
 震災の原発事故の不安から故郷いわきを離れて避難した。私たちが南下してきた道を自衛隊の車両やヘリが北上していく…。頭が上がらなかった。道路に向かって深々と頭を下げた。気付いた助手席の自衛隊員がこちらに向かって軽くうなずいた。『任せてください』と言っているようでした。この国を守る自衛隊員の活躍に心から感謝します!

■宇佐見君枝さん=郡山市
 寒かったですね。夜の空気は身がちぢまる思いでした。その中避難した郡山も断水とのことでトイレに行くのに体育館から校舎にむかうと、その渡り廊下でバケツに水を用意して手渡してくださる。その温かさを、どうしようもない気持ちでいた私はうれしく思いました。久しぶりに見上げた空には星が出ていました。その後テレビの画面から放映される活動には「明日も生きて行こうよね!」と言っているように思っています。ありがとうございました。

■津野寿美子さん=清瀬市
 東京に避難してくる前は福島の郡山のビッグパレットで練馬の自衛隊の方のお風呂に2カ月問お世話になりました。雨の日や風の強い日でも風呂の外で「こんにちは」と挨拶していただき、曇りがちの気持ちもシヤキッとなりました。自分の子供くらいの年齢だと思いますが、本当に親切にしていただきありがとうございました。

■大久保靖男さん=宮古市
 4月18日やっとお墓参りに行けた。ロウソク、線香、もちろんお供えなんて無い。海を望む丘の上の墓地。後ろで見ていた北の街の隊員さんが、ポケットからチョコレートを出し「お供えに‥‥」と。1秒先の事すら見えない世界にあり、誰かの事を思える。守れる。優しさは強さ。優しい風をありがとう。

■本田美彩さん=湯浅町
 わたしのお父さんはじえいかんです。金曜日にじしんとつなみがあったので家にかえってきません。でも、みんなをたすけるためにがんばっているのでさみしくありません。早くたくさんの人をたすけて家にかえってきてあそんでほしいです。(※3月の終わり頃の日記に書いていました。お父さんの仕事をテレビを通して子供なりに感じていたんだと思い涙がでました。家で待っている家族の思いを知っていただけたらと思い送らせてもらいました)







◇震災遺児1206世帯で2005人、あしなが育英会の調査:2012/03/08産経

 平均年齢は12.1歳で、小学生以下は全体の583(42.6%)人だった。同育英会は「成人するまでの期間が長く、長期的な支援が必要になる」と指摘している。遺児がいる1206世帯のうち母子世帯が569、父子世帯432、両親がいない世帯も205あった。
 また、7割を超える860世帯が家屋の被害を受け、全壊も703世帯に上った。被災後に住居を移った遺児は半数以上の1021人。中でも福島県で移転があった遺児の割合は78・9%と他県に比べ突出しているという。
 移転を伴うと、財政的に苦しくなるほか、援助の情報も入りづらくなる恐れがあり、同育英会は「重点的に調査する必要がある」としている。

   

◇米大統領「日本人の不屈の精神に感銘」 震災1年で:2012/3/10日経
 震災で犠牲になった人たちへ哀悼の意を示すとともに「我々は想像を絶する喪失に不屈の精神で立ち向かう日本人に今でも感銘を受けている。復興への決意と回復力は我々すべてにとっての手本となるものだ」と称賛した。大統領は米軍による復興・人道支援のため「トモダチ作戦」が2国間での史上最大の軍事作戦だったと指摘し「1年たっても日本人を支える決意は変わらない」と表明した。また、EU大統領も哀悼の意を表明し「逆境に直面する中で示した力」を讃えたいと述べた。


◇「トモダチ作戦」指揮のウィラード司令官退任:2012/03/10産経
 式典で、トモダチ作戦をめぐり「昨年訪日した際、日本の人々から感謝の言葉を聞いた」と述べ「素晴らしい指揮官の下、太平洋軍は日本を強力に支援した。米国民は誇りに思う」と称賛した。


◇トモダチ作戦の印象、「成果を上げた」が79.2%:2012/03/11産経


◇最悪を想定=最大の障壁は情報欠如−トモダチ作戦指揮官:2012/03/04時事
 前米太平洋艦隊司令官は、福島原発が制御困難になり、壊滅的被害が出る「最悪のシナリオ」を想定していたことを明らかにした。日本の周辺有事と同じ態勢を敷いたことも事実上認めた。
 「われわれが見たこともない事態を目撃している現実に、重苦しさを感じた」。震災後相次いだ福島原発の水素爆発が米側に与えた当時の衝撃をこう表現した。
 放射能汚染対策を講じながら空前の支援活動を展開する複雑な作戦は横田基地の在日米軍司令部の能力を超えていた。上部組織の太平洋軍は朝鮮半島有事などに対処する「JTF519」と呼ばれる統合任務部隊の司令部をハワイから横田基地に移動することを決定。同氏とスタッフ90人を同基地に送り、トモダチ作戦を支援したという。
 「原子炉が制御困難になる懸念があった。指揮官として、最悪のシナリオを知っておく必要性があった」と指摘。想定については、「必ずしも正確ではない」と前置きした上で、核分裂の連鎖反応を制御できず原子炉が爆発し、大量の「致死性の放射線による壊滅的な被害が出ることだった」と明かした。
 放射線検知や防護能力を持つ海兵隊の特殊兵器対処部隊「CBIRF」を日本に派遣した経緯については、「福島原発がどのような事態になるか予測できない段階で派遣を決断した。米国が放射線対策で最高の能力を持つ部隊を送るという日本へのメッセージの意味合いもあった」と述べた。


◇自衛隊の災害派遣97.7%が評価、「良い印象」過去最高の91.7%:2012/03/11産経
 災害派遣活動については「大いに評価」が79.8%、「ある程度評価」は17.9%。「全く評価しない」の回答は皆無だった。
 自衛隊の存在目的を尋ねた複数回答の項目では、「災害派遣」(82.9%)が前回同様トップ、次点の「国の安全の確保(外国からの侵略防止)」が78.6%(前回比8.6ポイント増)に急増。
 背景には北朝鮮や中国の軍事的脅威を挙げる回答が増加し、72.3%が日本が戦争に巻き込まれる危険性を感じていることがある。このため、防衛力を「増強した方がよい」との回答も24.8%(前回比10.7ポイント増)となり、過去最高を更新した。
 内閣府の「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」は1月5〜22日まで全国の成人男女3000人を対象に個別面接方式で実施。有効回収率は63.1%で、昭和44年から3年ごとに行われている。


◇追悼式で台湾冷遇、指名献花から除外 首相が陳謝:2012/03/13産経
 政府が11日に主催した311の一周年追悼式典で、台湾代表として出席した台北駐日経済文化代表処の羅坤燦副代表が指名献花から外されるなど冷遇されたことが分かった。12日の参院予算委員会で世耕弘成氏(自民)が明らかにした。
 野田佳彦首相は「台湾の皆さまに温かい支援をいただいた。その気持ちを傷つけるようなことがあったら本当に申し訳ない。深く反省したい」と陳謝した。藤村修官房長官は「十分にマネジメントできていなかったことについてはおわびしたい」と述べた。
 世耕氏によると、政府は約160の国と国際機関の代表に会場1階に来賓席を用意したが、羅氏は「民間機関代表」と位置付け、2階の企業関係者などの一般席に案内。指名献花からも外し、羅氏は一般参加者と献花したという。
 世耕氏は「台湾の友情に応えるべきではないか。一人の日本人として台湾の皆さまにおわびしたい」と政府の対応を強く批判した。台湾は、大震災の際、世界最大規模の約200億円の義援金を寄せた。政府は昭和47年の日中国交正常化後、台湾を国として承認していないが、代表処は事実上の大使館にあたる。

■台湾への忘恩行為 WiLL2012年5月
 日本政府が東京で開いた東日本大震災一周年の追悼式典に台湾の代表を招かなかった。
 日本政府は二百三の国と国際機関に招待状を送付したそうだが、このなかには日本が国家として承認していないバレ一スチナやOECD(経済協力開発機構)などの国際機関も入っていた。ところが、台湾は排除されたのである。このため、各国代表らが一般参加者に先立って行った献花も、台湾代表には許されなかった。
 台湾の人口は二千三百万人に過ぎない。その台湾人が子供からお年寄りまで、「日本加油!(日本頑張れ)日台友好!」と叫んで集めた浄財がこの義援金である。私のところにも台湾から、「日本加油」と叫ぶ小学生の動画が送られてきたが、涙なくしては見ることができなかった。
 台湾の仏教団体が岩手県、宮城県で現金を数万円ずつ配って回っていると、被災地入りしたボランティアから連絡を受けたこともある。日赤の義援金が配布されずにヤキモキしていたときに、どれだけ現地で感謝されたか分からない。
 これに対して、人口十三億人の中国の主な支援は、救助隊十五人、義援金七千二百万円、ガソリン等燃料二万トン、それに三億六千万円相当の援助物資である。が、燃料を金額換算しても、台湾にはるかに及ばない。韓国もせいぜい十数億円だろう。
 それなのに、日本政府はパレスチナを招いても台湾は招かなかったのだ。「忘恩」とはこのことだろう。


◇台湾行政院長、首相は「非常に遺憾」:2012/03/15産経
 外相は「野田首相の新聞寄稿などで日本の謝意は伝わっている。義援金は思いやりの結果であり、謝意を得る目的ではない。日台間系は花束一つで揺るがない」と答弁。
◇平沼氏、台北の博物館見学。2012/03/19産経
日台議員懇談会で「台湾から義援金200億円も頂いたのに、大変無礼なことをした」と指名献花問題を謝罪した。

◇日本の感謝広告、台湾の中学公民教科書に: 2013/03/09産経
 震災後、民主党政権は各国の主要新聞に感謝広告を掲載したが、台湾が対象外だったことに批判の声が上がり、民間有志が募金で台湾の新聞に感謝広告を掲載、テレビで放映した。
 東日本大震災で巨額の義援金を寄せた台湾に対し、日本の対台湾窓口機関、交流協会台北事務所(大使館に相当)が昨年3月、台湾の新聞などで展開した「感謝広告」が、来年2月以降の台湾の教科書に掲載されることになった。採用された広告は、宮城県石巻市の中学生らが、古タイヤを利用した手製の太鼓を打っている場面に、「元気です。ありがとう台湾」「台湾の力強い支援のおかげで、私たちはくじけなかった」と書かれている。台湾の教科書出版大手の中学3年生用「公民」の「世界公民の基本素養」の項で、国際社会への関心の重要性を紹介する部分に資料として掲載される。
         

◇台湾から異例、叙勲賞4人受賞:2012/04/29産経
 東日本大震災の被災地に個人で10億円もの義援金を送った張栄発・長栄集団(エバーグリーングループ)総裁(84)ら2人が旭日重光章を受章。5月8日、皇居での勲章伝達式に日台断交以来初めて台湾から出席する見通し。
 旭日重光章は張氏とコレンショウ・台日商務交流協進会理事長(78)。台湾は最多の米国(11人)に次ぐ人数で、東日本大震災発生以降、手厚い対日支援をした台湾への政府の配慮をうかがわせた。


◇日本の絆は色あせたのか:2012/03/17産経
 東日本大震災から1年を迎え各地で追悼式典が開催された。復興のために出動した自衛官・消防士・警察官等は延べ1千万人を超える。ボランティアを含め、これらの公のために尽力された人々に改めて心から感謝したい。
 ゼミ合宿で交流した台湾の大学から東日本大震災に寄せた和歌集が送られてきたが、高さ12メートルの津波が到達するまで、防災無線で避難を呼びかけ続けて亡くなった女性や原発に身を顧みず立ち向かった男性を思う歌が目立った。
○ 荒れ狂ふ津波に退避報道す大和女の勲雄々しき
○ 大津波「退避」を叫ぶ報道の大和をみなに妻涙ぐむ
○ 福島の身を顧みず原発に去りし技師には妻もあるらん
○ 原子炉の修理に赴く男の子らの「後を頼む」に涙止まらず
○ 核廠を自己の命も惜しみ無く守り続ける日本精神
○ 原発にいざ立ち向かう武士たちよどうかご無事に生きて下され
 台湾大地震の際に世界最大規模の緊急救助隊を派遣した日本の恩義を台湾は忘れない、と李登輝元総統は『文芸春秋』昨年5月号に書いた。震災で台湾からは200億円を超える義援金が寄せられた。にもかかわらず、政府主催の一周年追悼式典で台湾代表を指名献花から外す暴挙が行われた。「日本精神」をたたえた台湾の人々はどう受けとめただろうか。



◇守護聖人パトリック、芸舞妓が震災支援に感謝:2012/03/19共同
 ロンドンで18日、アイルランドの守護聖人パトリックを記念して行われたパレードに、日本の伝統文化を通じて東日本大震災への支援に感謝の意を示そうと、日本から芸舞妓や尺八の演奏者らが参加し、着物姿で行進した。日本人の参加者約20人は「ARIGATO(ありがとう)」との横断幕を先頭に掲げた。アイルランドのシンボルカラーである緑を基調とした優美な姿に、沿道に詰め掛けた見物客から歓声。
     


◇ベルリン物語 「原発」だけではない:2012/03/27産経
 東日本大震災発生から1年が過ぎた3月16日、ベルリンの日本大使館で、追悼・復興式典が開かれた。「私たちが決して忘れないことがある。震災直後から日本に対し、世界各国から寄せられた数え切れないほどの善意の支援だ」。中根猛大使は会場に集まったドイツ国会議員ら関係者に謝意を表した。
 大使館前には震災発生当時、多くの人が花やろうそくを添え、犠牲者を悼んだ。震災半年後には20〜72歳の幅広い年齢層の16人が被災地の岩手県を訪問し、がれき除去などボランティア活動に従事した。「被災者の苦しみを思えば、私の痛みは小さな問題」。
 活動中に指を切断する大けがを負ったメンバーはこう語ったという。「この困難を克服することを願っています」。式典ではドイツの子供が代表であいさつし、日本人の代表の子供と復興を祈念するだるまに片目を入れた。「絆」はここにもある。



◇東日本大震災から1年3ヶ月:全員家族のもとに還したい
  行方不明者1200人以上を捜索する岩手県警の月命日
   ⇒[岩手県警月命日]へ



■産経:台湾の教科書に日本からの感謝広告を掲載。2014/03/08
 311に巨額の義援金を寄せた台湾で、日本からの「感謝広告」を掲載した中学三年用社会科(公民)教科書が出版された。感謝広告の中で、石巻市立雄勝中学校の生徒達の感謝文を添えた広告を「国際社会への関心」の項に掲載した。今年9月以降この教科書で学ぶ。



◇福島原発1・2号機、推移4M以下、
 燃料見えず。 2012/01/20北国