天皇陛下の祈り



 [日本の子供達に伝えたい 天皇陛下のお話](監修 加瀬英明)を読み、抜粋しました。是非お子様に全文を読んで聞かせてあげて頂きたいと思います。



◇歴代の天皇陛下(四代前まで)

今上陛下(きんじょうへいか)
 今上天皇陛下。この本では、「天皇陛下」と善かれています。初代の神武天皇から数えて一二六代目にあたります。
 皇太子さまは2019/05/01、第126代天皇に即位された。30年余り続いた「平成」が終わり、「令和」に同日改元された。平成時代の天皇陛下は4月30日で譲位し、上皇となられた。天皇の譲位は江戸時代の光格天皇以来202年ぶりで、憲政史上初めて。天皇陛下は59歳で、戦後生まれの初の天皇となられた。陛下は5月1日、皇居・宮殿で皇位継承に伴う国事行為「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」と「即位後朝見(ちょうけん)の儀」に臨まれる。
 皇太子妃雅子さまと皇后さまは、それぞれ皇后、上皇后となられた。秋篠宮さまは皇位継承順位1位の皇嗣(こうし)として、皇太子の役割を担われる。長男の悠仁さまが継承順位2位となられた。85歳の上皇さまは、これまで担ってきたほぼすべての公務を陛下に引き継がれた。
 即位後朝見の儀における天皇陛下のお言葉全文
 日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。
 この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。
 顧みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御(み)心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
 ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽(さん)に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。

平成天皇
 天皇陛下のお父さま。平成の時代には、経済恐慌、東北沖大地震他があり、この震災を通じて、日本国民は天皇を中心に団結していました。

昭和天皇
 昭和の時国を守るための戦争がありましたが、戦後、昭和天皇を中心に国民の努力で今日の繁栄を築き上げました。昭和の時代を通じて、日本国民は天皇を中心に団結していました。

大正天皇
 昭和天皇のお父さま。天皇が御位につかれた期間は短く十五年でしたが、大正デモクラシーが起こりました。

明治天皇
 大正天皇のお父さま。この時代に日本は、伝統に基づく新たな国づくりをしました(明治椎新)。憲法や教育の制度を整え、外国との条約などでも西洋諸国と対等につき合うことができるようになりました。

孝明天皇
 明治天皇のお父さま。この時代(江戸時代の末)、西洋諸国が日本の安全をおびやかしました。しかし、孝明天皇の国の安全を願われるお気持ちに、武士などが立ち上がり、明治維新へとつながりました。


◇「支えてくれた国民に、心から感謝」陛下、退位の礼で
 今日(こんにち)をもち、天皇としての務めを終えることになりました。
 ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。
 即位から三十年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。
 明日(あす … 2019/05/01)から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。
   


◇喜びも悲しみも国民と共に

 阪神大震災、311大震災の時、被災者の身辺を案じられ、天皇陛下は皇后陛下とともに、被災地を訪問されています。そして、悲しみで沈みきった人々に、膝をついて言葉をかけられ、手を握って励まし続けられたのです。(311陛下と自衛隊参照
 人々からは口々に「天皇さま、皇后さま、ありがとうございます。」と感謝の声があがりました。人々は“両陛下が自分たちの悲しみをご存知でいらっしゃる”と思うと胸が熱くなりました。
 「子供たちも悲しい思いをしている時に、両陛下から『希望を持って生きてください』と言われうれしかった。これからの生活に励みが出てきました。」(三十代の女性教諭)
 「皇后さまが手を握ってくださって、あたたかいお手やった。」(神戸市長田区の被災者)
 このように、天皇・皇后両陛下は、喜びも悲しみも常に国民とともにされています。そのお心は、被災した人々にとって明日への希望と生きる力になっているのです。

 天皇・皇后両陛下は、平成五年九月、ドイツの障害者福祉施設「ベーテル」を訪問されました。
 そこで天皇陛下は、かんなで木を削っていた目の見えない人に、「つるつるに削れていますね。」と静かに声をかけられました。また、車椅子の女性が皇后陛下に贈り物を差し出しました。皇后陛下は、わぎわぎひざを折られ、その女性と同じ目の高さになってその贈り物を受け取られました。両陛下にとってはいつも通りのごく自然なふるまいでしたが、この様子を見守っていた人たちは、その優しさに大変感激しました。
 両陛下は、どんな人々にも心を寄せられ、全国の老人ホームなどの施設へのご訪問も多く、行く先々で人々の心を深く汲み取られ、真心をもってお接しになりますので、その優しいお心に人々は大きな感銘を覚えるのです。
 天皇陛下は、平成六年六月、「全国重症心身障害児《者》を守る会」の創立三十周年を記念した大会で、次のようなお言葉を述べられました。
「重い心身障害を持つ多くの人たちが、障害にもめげずに懸命に生きる姿に接するとともに、施設の関係者の献身的努力に深い感銘を覚えます。重い心身障害を持つ人々の命の尊さが理解され、その人格が尊重され、重い心身障害を持つ人々が 常に人々の視野の中に入る社会でありたいものと思います。」
 天皇陛下はこのように国民の幸福を祈るあたたかいお心で、常に私たち国民を見守っておられるのです。



◇あたたかい思いやり

 今から五十年以上前、日本とアメリカ(米国)・イギリス(英国)との間に戦争(大東亜戦争。戦後は「太平洋戦争」と呼ばれています)があり、多くの国民が傷つき亡くなりました。
 昭和二十年、戦争が終わり、生き残った人々の懸命な努力によって私たちの国は復興し、米英両国との間にも友好関係が築かれてきました。
 しかし、今なお戦争の傷あとがいやされない人々も数多くいます。天皇陛下は米英両国を訪問された時にも、戦傷者や遺族の方々に心を尽くして接してこられました。
 天皇・皇后両陛下は、終戦五十年にあたる平成六年、アメリカを訪問されましたが、それに先立ち、東京都の硫貴島をご訪問になりました。硫黄島は、先の大戦で日米両国民が、それぞれの国のために激しく戦い、あわせて二万七〇〇〇人が亡くなった所です。しかも、今だに一万二〇〇〇柱の遺骨が残っています。天皇陛下は、アメリカ訪問の前にまず、祖国のために戦って亡くなられた両国民の霊を慰められたのです。
 また、平成十年のイギリスご訪問の時、両陛下はイギリスのために戦って亡くなった方々を慰霊する「無名戦士の墓」に花輪を捧げられました。さらに、この行事に招待されていた元捕虜の孫たち一人一人に声をかけられたのです。突然のことにその孫の青年たちは驚き、なかには涙をこぼす少女もいました。
 陛下は、外国との交際についてのお考えを次のように述べておられます。

   《それぞれの国が複雑な過去の重荷に耐え、
    その中でなお、自分の国を愛し、より望ま
    しい姿で未来に向かって努力することが、
    どれほど大切であるかを感じさせられます。
    それぞれの国にあって、自国を思い、他国
    との間の平和を求めて努力している人々と
    出会い、共に生きる感覚を失うことがない
    よう心掛けて行きたいと思っております。》

 このようなお言葉の中に、敵味方の区別ない、陛下の広いお心をうかがうことができます。



◇両陛下のお人柄

◆皇后陛下
 皇后陛下は、民間から皇室に嫁がれ、当時の皇太子殿下のお妃となられました。天皇陛下と皇后陛下との間には、三人のお子さまが誕生されました。ご長男の浩宮さまが、皇太子殿下です。 国の母としても、私たち国民に対して温かな愛情をそそがれています。
 また皇后陛下は、皇居の中で、絹糸のもとになる蚕を飼われ、(御養蚕所)で自らお世話しておられます。
 神話では天照大神は神聖な機織り御殿をつくって、蚕の繭をつむいでお祭りに使っておられたと言われています。ですから、青から美しい絹を作る蚕のことを“お蚕さま”と呼んで大切に育ててきました。そうして、養蚕は日本の大きな産業にまでなりました。その伝統を皇后陛下は受け継がれ、毎年多くの蚕を育てておられます。その繭からとった綿糸で織った織物は、外国からのお客様へのお土産とされ、そのことを通じて日本の美しい文化を外国に紹介しておられるのです。
 皇后陛下は、母として皇后として、お会いになるすべての人をあたたかいお心で包んでくださり、大切な伝統を自ら守り継がれています。
                  
◆天皇陛下
 私たちの祖先が残してくださった神話によれば、天皇のご祖先と言われる天照大神も、自ら米作りをされていた、と言われています。神話では、「天上界の田で育った稲を地上に植えて、この国を天上界のような実り豊かで平安な国にしなさい」とい述べられています。
 天皇陛下は、稲作を国作りの基とされた皇室のご先祖のお言葉に従って米作りにたずさわられ、毎年豊かに実った稲を神様に捧げておられます。そして、私たち国民のくらしの豊かさと平安をひたすらお祈りくださっているのです。

 ◆天皇と国民の共治で国体は存続する …『日本人の原点が分かる「国体」の授業』より
 もし将来女性天皇が成立したら、それこそ女性の人権を侵害するものではないでしょうか。天皇のお役割と皇后のお役割の両方を一人の女性が一身に担うことは、実際には不可能です。
 何故なら、皇室に生まれた女性には、特有の役割があります。それは、伊勢の神宮の祭主を担うことです。現在、天皇陛下のお姉様であられる、池田厚子様が祭主を担っていらっしやるほか、天皇陛下のご長女であられる黒田清子様が臨時祭主になられました。次の世代では、おそらく敬宮愛子内親王殿下が将来の神宮祭主をお引き継ぎになることと思われます。
 皇族男子には皇位継承順位が与えられますが、皇族女子にはそれとはまた別のお役割があるのです。
 このように、男女による役割分担の話をすると、男女平等や女性の権利を理由に女性天皇の正当性を主張する人がいます。皆さんの世代で女性天皇を容認するとしたら、この理由を挙げる人が多いかもしれません。ところが皇族には、そもそも民間人に保障されている人権はほとんどありません皇族には選挙権も被選挙権もありません。旅行の自由もなければ、住居移転の自由、職業選択の自由、宗教の自由もありません学問の自由、表現の自由、結婚の自由なども著しく制限されています。人権のほとんどない世界に、女性の権利といった別の人権を持ち込むことに、一体どれほどの意味があるのでしょうか。
 歌舞伎や相撲は女人禁制の世界です。歌舞伎は男が女を舞う様式文化として認識されていますから、もし女性が歌舞伎を演じたら、それは歌舞伎ではなくなつてしまいます。宝塚の舞台に男が立ったら、それはもう宝塚ではなくなるのと同じことです。舞台に男が出てきたら「金返せ!」ということになるでしょう。相撲にしても元々神事ですから、宗教的な理由から女性が土俵に立ち入ることが禁じられているのです。
 二千年に及ぶ男系継承の伝統に対して「女性の権利」などを主張しても、何の意味もありません。また、結論だけ先に言っておきますが、男系継承の原理は女性蔑視には当たりません
 そもそも天皇になるのは「義務」であって「権利」ではないのです。「女性だから天皇になれないのはかわいそう」と言う人がいますが、それは天皇が何かの利権であるかのような言いぐさですね。天皇に即位すると甘い汁が吸えるとでも思っているのでしょうか。天皇について何も知らない人の言うことです。皇族に人権がないことは述べましたが、天皇は皇族よりもさらに自由が制限されます。天皇に即位するということは、出家するようなものです。
 天皇は、その星に生まれた者が宿命を背負って、粛々とその位に就くものですから、「なれないのはかわいそう」というものではありません
 ただし、天皇と皇族さえ残れば、日本の国体が護持されるかというと、そうではありません。天皇が存在するだけでなく、ある状態を維持しなければ、天皇は最後まで守るべき国体ではなくなってしまいます。そのある状態とは、一体どのようなものでしょうか。
 第一条の続きを見てください。天皇が象徴しているものとして、条文には二っ書かれています。一つは「日本国」、もう一つは「日本国民の統合」です。
 ということは、私たちは天皇のお姿を拝見することによって、「日本国」だけでなく「日本国民の統合」をも見ているのです。そこに、神武天皇の建国の詔にある日本建国の精神があるのです。


◇即位の儀式

 昭和六十四年一月七日、天皇陛下のお父さまである昭和天皇が亡くなられました。当時の皇太子殿下が、すぐに天皇の御位につかれ、現在の天皇陛下となられました。
 年号も、「昭和」から「平成」に改まりました。新しく御位につかれた天皇陛下は、一年間の喪(なくなった方を追悼すること)に服されました。その後、平成二年十一月十二日、「即位の礼」という儀式を行われ、さらに十一月二十二、二十三日に「大嘗祭」という祭りをなさいました。この儀式とお祭りには、どのような意味があるのでしょうか。

◆即位の礼
 天皇陛下が天皇の地位につかれたことを、広く国内や海外に知らせる意味を持っています。この即位の礼には、諸外国から一五八カ国もの代表が参列し、皇居宮殿の中の正殿で、古式ゆかしくおごそかに執り行われました。
◆大嘗祭
 即位の礼がすむと、今度は大嘗祭が、「大嘗宮」という新たに作られたお宮で行われました。大嘗祭では、皇室のご祖先である天照大神に、天皇陛下がその年に獲れた穀物(新穀)を自ら捧げられ、神様と共にお召し上がりになります。
 大嘗祭で神様に捧げる新穀には、全国から選ばれた東西二カ所の田んぼから獲れたお米が使われます。服などの捧げ物も、そのほか、海産物や衣服も、みな地方の国民が謹んで作ったものです。このように大嘗祭というお祭りは、皇室ばかりではなく、国民のまごころによって支えられているのです。

 こうして天皇陛下は、天照大神の時代からずっと私たちの国に続いてきた伝統を受け継いで、新たに天皇におなりになるのです。

    



◇憲法で決められたお仕事

 憲法は国にとって最も基本的で大切な法律です。日本の憲法は、全部で一〇三条ありますが、最初の第一条から第八条までが天皇について書かれています。
 第一条では、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と書かれています。この意味は、「天皇陛下は日本国と日本国民を代表されるお方であり、それは国民総ての思いに基づいている」 ということです。

◆国事行為
 第六条と第七粂には、天皇陛下のお仕事について善かれています。
  @.国会が指名した総理大臣の任命
  A.内閣が指名した最高裁判所長官の任命
  B.憲法改正、法律、政令、条約の公布
  C.国会の招集
  D.衆議院の解散
  E.国会議員の総選挙を行なうことの公示
など全部で十二の天皇陛下のお仕事があります。こうしたお仕事を「国事行為」と言います。またこれらは、内閣の助言と承認により行なう、と憲法に書かれており、国会や内閣で先に決めたことを、国や国民の象徴である天皇陛下が、国の内外に宣言されるのです。
◆公的行為
 天皇陛下は、憲法で定められたお仕事(国事行為)のほかにも、国民的行事にお出かけになったり、国際親善のために外国をご訪間になることがあります。こうしたお仕事を「公的行為」と言います。例えば、全国植樹祭や国民休育大会、戦争で亡くなられた方々を慰霊する八月十五日の全国戦没者追悼式へのご出席などがあります。また日本で行われるオリンピックで開会宣言をされたり、外国から大統領などのお客様をもてなされたりします。

 このようなお仕事のはかにも、天皇陛下は国民の目にふれないところで、国のため、国民のため、そして世界平和のために毎日たくさんのお仕事をしておられるのです。



◇慰霊の旅

 終戦五十年目にあたる平成七年、天皇陛下は、政府の要請による外国への親善訪間を一切取りやめ、戦没者の方々の慰霊に心を尽くされました。陛下は、戦争の被害が特にひどかった長崎、広島、沖縄、東京を訪問され、亡くなった方々の霊と遺族の心を慰められたのです。陛下の慰霊のお心は、次の御製によく示されています。(⇒[沖縄の真実U 2012年 天皇陛下奉迎 大提灯パレード])

  戦後五十年遺族の上を思ひてよめる
  国がためあまた逝きしを悼みつつ
  そらけきせを額ひあゆまむ
       ※あまた……たくさんの

 天皇陛下は、戦争中アメリカによる原爆の犠牲となった広島と長崎に心を寄せられ、次の御製を詠まれました。

  原子爆弾投下されて五十年経ちて
  原爆のまがを患ふ人今の
  五十年の日々いかにありけむ
        ※まが……わぎわい

 八月には、沖縄をご訪問になりました。沖縄は、戦争末期に激しい戦闘が行われ、県民を含む十七万人が亡くなりました。終戦後もアメリカの占領下にあり、長く苦しみを味わった所です。陛下は、皇太子時代から沖縄に深く心を寄せられ、度々訪問されています。平成七年の時にも、平和祈念堂で出迎えた遺族一人一人に声をかけられました。次いで、犠牲者すべての名を刻む「平和の礎」にも拝礼されました。
 さらに、沖縄訪問から帰京された翌日、陛下はアメリカによる東京大空襲の犠牲者を祀る墨田区の東京都慰霊堂を訪問されました。三百人の遺族が見守る中、陛下はまごころをこめて花を献げられたのです。
 日本は今日、世界第二の経済大国となり私たちは、平和と繁栄をあたり前のように思って豊かに暮らしています。しかし、この豊かな暮らしも、戦争で祖国・日本を守るために捧げられた戦没者の尊い命の礎があってこそ築かれたものです。
 天皇陛下は、そのことを片時も忘れることなく、日本の平和と繁栄を祈られているのです。



◇一年を通じての祈

 皇室では、一年の間に数多くの祭祀(お祭り)が執り行われます。中でも大切なお祭りを三つ紹介します。この他のすべてのお祭りにも、天皇陛下は真心をこめて取り組まれています。

◆四方拝(一月一日)
 新年最初の祭祀として、元旦の午前五時半から天皇陛下お一人で行われます。
 神嘉殿(宮中三殿の西北に建てられた建物)の前庭で、伊勢神宮や四方(東西南北)の神々に、その年の穀物の豊かな実りと国の平和、国民の幸福を祈られるのです。
◆神嘗祭[かんなめさい](十月十六、十七日)
 伊勢神宮に祀られる天照大神に、その年の新穀をお供えになる大切なお祭りです。天皇陛下は、賢所でのお祭りに先立って神嘉殿より伊勢神宮に向かって拝礼されます。
◆新嘗祭[にいなめさい](十一月二十三、二十四日)
 その年初めてとれたお米を、天照大神にお供えして、天皇陛下も神様とともに召し上がる、皇室で最も重要なお祭りです。夕方と明け方の二回、天皇陛下がご自身で盛りつけて捧げられるのです。

 紀宮清子内親王さま(陛下の長女)にこんなお言葉があります。
  《皇后さまがおっしゃっておいででした。
   『皇室は祈りでありたい』という言葉をよく
   思い出します。これはある事柄や事態に対し
   て、それがどのように解かれていくのが最も
   良いかと言うことを決めるのは、国民の英知
   であって、皇室はひたすらそのことに関して
   善かれ、と祈り続ける役目を負うということ
   を表しております。》

 また、昭和天皇には次の御製があります。

  ・・・ 声(昭和四十一年)・・・
   日日のこのわがゆく道を正さむと
   かくれたる人の声をもとむる

 このように、国を良くするのは、国民の英知の結果であり、陛下はそれがあらわれることをお祭りを通じてひたすら祈られている。



◇歴代天皇の祈り

 歴代の天皇陛下は、国民の幸せを祈ることを大切に受け継いでこられています。
 今から一、七〇〇年以上前、仁徳天皇はある時、高い丘の上から村を見渡されました。村は食事時というのに料理を作るときの湯気や煙が立ち上る様子がありません。
「ああ、みんなが食事もできないほど貧しさに苦しんでいる」と仁徳天皇は思われ、国民が国におさめる税を、それから三年間も免除されました。そのため、仁徳天皇のお住まいは雨風で衣服や布団がぬれ、屋根の破れた所から星が見えるほど荒れ放題となりました。
 三年ほど豊作が続き、仁徳天皇が再び丘の上から村をご覧になると、あちこちから盛んに湯気や煙が立ち上っていました。仁徳天皇は、国民が豊かになったことを、たいそうお喜びになりました。

 また十三世紀後半、日本が大きな危機を迎えた鎌倉時代の頃のことです。当時の超大国「元」(今の中国)が、西はハンガリー東は朝鮮まで攻め入り、一気に日本をも侵略しようとしたのです。これは「文永の役」と呼ばれ、元の三万の軍勢が対馬・壱岐へ攻め入り、九州に上陸しました。博多付近は、戦禍により一夜にして荒野となり果ててしまいました。
 当時十五歳の後宇多天皇と御父・亀山上皇は、私たちの国を守るため、寝食を忘れて神仏に祈り続けられました。そのお心に応えた国民は、心をひとつにして元の軍と勇敢に戦いました。元の軍は、二度日本へ攻め入りましたが、二度とも台風が吹き荒れたこともあり、敵軍はほとんど全滅し、ようやく元は日本への侵略を諦めました。(この時の台風は後に「神風」と呼ばれました)
 このように私たちの国は、天皇の祈りと、そのお心に応えた国民の力で、国の平和と国民の生活を守ってきたのです。



◇皇室と日本神話

 日本の天皇・皇室はどのようにして生まれたのでしょう。日本の天皇・皇室のご先祖は、大昔にさかのぽります。そのことは、日本の神話『古事記』『日本青紀』に書かれています。
 神話があるということは、神話がない国に比べ、その国の起源がとても古く、長い歴史と深みのある伝統文化を持っているということなのです。そして神話の中に、その国の人々の考え方や理想が物語として描かれているのです。
 では、日本の神話にはどのようなことが描かれているのでしょう。そこには、天地創造、国産み(日本列島の艇生)、そして日本建国の理想が描かれています。

◆日本列島の誕生
 高天原(天上界)に天之御中主神(宇宙の大本の神)をはじめ、いろいろな働きをなさる神々がいらっしゃいました。
その中に伊邪那岐命(男神)と伊邪那美命(女神)という神様がおられました。その二柱の神様は、高天原の端にある浮橋に立たれ、長い矛を海の中に降ろされ、大きくゆっくりかき回し、引き上げられました。
 その矛の先から滴が垂れ落ちて積もり固まり、丸くなって自転島(おのろこしま)が生まれました。そして、その二柱の神様は自転島に降りてこられ、協力しあって八つの島(大八洲)を生み出されました。最初は淡路島、つづいて四国、隠岐島、九州、壱岐、対馬、佐渡島、そして最後に本州をお生みになりました。これが日本列島の誕生です。
 その後、伊邪那美命は、黄泉の国へ行かれました。悲しまれた伊邪那岐命は、黄泉の国の伊邪那美命に会いに行かれましたが、失望され、黄泉の国から戻ってこられました。
 すぐに伊邪那岐命は、日向のあはぎが原で禊ぎ(汚れを払い清める行事)をなさいました。その時にお生まれになったのが、「「天照大神」(高天原を治める神)、「月読命」(夜の世界を治める神)、「須佐之男命」(地上界を治める神)です。

◆天孫降臨
 高天原を治められるようになった天照大神は、やがて孫のニニギ命に次のように伝えられました。
  豊葦原瑞穂の国(日本のこと)は、私の子
  孫が中心となって治めるべき国です。
  あなたは天の神の御心を地上に実現する貴い
  使命があるのです。
  天の神の子孫としての誇りをもって、この国
  を素晴らしい国にしなさい。

 この時、八咫鏡、天叢雲剣(草薙剣)、八尺曲玉の三つの宝を授けられました。こうしてニニギ命は、お供の神々と高天原を出発され、日向(宮崎県)の高千穂の峰に降り立たれました。(天孫降臨)
 ニニギ命には、火照命(海幸彦)、火須勢理命、火遠理命(山幸彦)の三人が生まれました。その火遠理命の孫の一人が、「神倭彦」で、後に「神武天皇」(最初の天皇)と呼ばれる方です。
八咫鏡(伊勢神宮のご神体)
 天の岩戸開きの時に、天照大神を写す鏡として使われた。

天の叢雲の剣(草薙の剣)(熱田神社のご神体)
 須佐之男命が八岐大蛇を退治し、から出てきた剣と伝えられている。

八尺曲玉(「神璽」ともいう)
 天の岩戸開きの時、神様方が天照大神に捧げた曲玉と伝えられている。

◆神武天皇
 神倭彦は、兄の五瀬の命と日向の高千穂の宮で天下を治めておられましたが、その地は西に寄りすぎていたため、遠くの土地には正しい政治の力が届かず、小さな部族が互いに争い合う状態が続いていました。そこで神倭彦は、日本全休をもっと平和で住み良い国にするにはどうすればよいか考えておられました。そんな時、塩土の神(住吉大神)がお教えくださいました。
 東の方角に、青い山々に囲まれた美しい所があります。「大和の国」(今の奈良県)といって、天照大神の日継ぎの御子が治めるのにふさわしい場所です。
 その教えに従い、神倭彦と五瀬の命一行は、大和の国をめぎして出発されました。神倭彦は、天照大神の助けを得ながら様様な苦難を乗り越え、大和の国に入られました。そして、そこの部族の長髄彦との戦いになりましたが、なかなか勝負がつきません。その時、一羽の金色の鳶が飛んできて、神倭彦の弓矢の先に止まり、稲光のような鋭い光を発しました。その部族の軍は、眼がくらみ戦う気力を失ってしまいました。
(※天使がソドムの地に住むロトを訪ねたときに使った武器と同じで、一時的に視力を失わせる護身用のものでした。M様より)
 こうして、神倭彦は大和を平定し、橿原の地に都を定め、わが国最初の天皇の御位につかれました。この日は昔の暦では一月一日でした。これを現在の暦(太陽暦)に直すと二月十一日となり、「建国記念日」として祝われています。
 ■八咫烏
 古代のシュメル人やバビロニア人は、太陽の中にある黒点を観察し、その黒点を「黒い鳥・鴉(カラス)」と解釈していた。更に、七枝樹二神の男神側に三枝があるのは、男性性器の表現で有り、太陽神の使い八咫烏の三本足は天照大~が男神であることを表現している。加えて、三本足は古事記の基点である三柱のみ柱や、三種の神器を意味しており、八咫烏が太陽神・天照大~の使いであることを意味している。(⇒[世界最古の文字と日本の神々])。
 
 ■金色の鳶
 日本では、金色の鳶ですが、人に飼われた鳶や鷲を「鷹」と呼んでいます。イラクのフセイン大統領は、十六菊花門の腕輪をして記者会見に臨み、「この紋章は、我が国の祖先が世界最古の文明を築いたシュメル王朝時代に用いていた、王家の紋章だ」と述べています。尚、フセイン大統領は自分は古代バビロニア帝国の皇帝ネブカドネザルの生まれ変わりだと信じていたそうだ。ネブカドネザルの意味は、ネボ=水星のことで、ベル神(マルドウク)の子(ナブー=死後サタン・ダビデ)を指し、「ネボよ、我が国を守り給え」となる。つまり、フセインは自らを神の子と言っているのである。
 加えて、当時のUFO艦隊は、鷹や鳶の二枚羽をシンボルとしていました。UFO艦隊の長官は、エンリルの長子・月神から、その長子・太陽神へと指揮権が交替しています。この月神(紀元前50年頃、第四代ヤハウエに就任)で、古代シュメルの太陽神(父の後を継ぎ、ミカエル様が大天使長に就任)です。
 月神の義父・マルドウクは、エジプトの太陽神・ラー(もしくはアメン・ラー)で、前1900年頃の神々の核戦争直後に、地球司令官(=大天使長)に就任します。その後、天王(=ヤハウエ)に就任すると、長子・ダビデが地球司令官となり、父を退位に追い込み、天王=ヤハウエの座を奪おうとしました。
 そこで、マルドウクは月神をBC500年頃に養子とされ、大天使長とされました。
 当時から、人類に王権を授けるのは月神によるとされ、二枚の羽を持つ有翼円盤をそのシンボルとしていました。長くなりましたが、金色の鳶は、天照大~(=太陽神を禅譲された月神)の使いで、王権を神武天皇に授けることを意味しています。

◆建国の理想
 ところで、神武天皇はどういうお気持ちで建国されたのでしょうか。【日本書紀】には次のように書かれています。

  今、私はこの橿原の山林を開いて宮を造り、
  つつしんで天皇の位につく。これからこの
  国の民が心安らかに住める、平和な世の中
  にしたいと思う。この国が、神の住まいに
  ふさわしい清らかな所となり、さらに他の
  国もそうなったならば、世界もー軒の家の
  ように仲むつまじく平和な世界となるだろ
  う。それは、何と素晴らしいことではない
  か。


 この建国の理想は途絶えることなく、第一二五代にあたる今上陛下にも受け継がれているのです。



◇皇室と国民

 昭和二十年の終戦直後、皇居は、アメリカ軍の空襲によって木造の建物がほとんど焼け、宮殿の跡には瓦や石が散乱して、痛ましい様子でした。それを聞いた宮城県の青年男女六十二人が、皇居の清掃奉仕にかけつけました。東北の田舎から自分たちの食物と燃料と草刈り鎌を一挺ずつ携えて、草刈りや清掃の手伝いに来たのです。
 当時は、アメリカを中心とする連合国軍によって占領されており、日本人の行動はきびしく規制されていました。そのため青年たちは、死を覚悟で来ていました。青年たちは、連日精力的に活動しました。そして三日後には、何万個という瓦や石の破片が見事に片づけられたのでした。
 作業の途中、昭和天皇がお出ましになり、十分間ほど青年たちにお話がありました。どうか国家再建のためにたゆまず精を出して努力してもらいたい。そうお言葉をかけられ、帰ろうとされた昭和天皇の後ろから、突如わき起こったのが国歌「君が代」の斉唱でした。
 占領軍の取り締まりのため、誰も口にすることを遠慮していた「君が代」が、誰に相談するでもなく、青年たちの中からわき上がりました。この「君が代」の歌声に、昭和天皇は歩みを止められ、じつと聞き入られました。青年たちは、驚きと感激と、陛下の歩みをお止めしては申し訳ないとの思いに胸がつまり、涙がとめどなくあふれで出てきました。
 やむにやまれぬ思いから皇居にかけつけた青年たちのまごころは、他の多くの人々のまごころを呼び、国民から皇居清掃の奉仕の申し出が殺到しました。こうした皇室と国民との深い粋が、日本を復興させる原動力となっていったのです。
 そして、国民による皇居清掃の奉仕は、現在も続けられています。
       


◆医療と福祉に取り組まれる皇后陛下

 今から一二〇〇年以上前のことです。「光明皇后」(第四五代聖武天皇の后)は、ご自身の衣食を節約して、身寄りのない子どもたちを預かる「悲田院」を作り、不幸な境遇にいる子どもたちを救われました。さらに、「施薬院」を作り、薬草を病人のために施されました。そして、ご自分で貧しい病人の垢を洗い、皮膚の病にかかった患者のウミを吸いとるなど、国民の幸福を念じつつ、愛と献身に一生を捧げられたのです。
 皇后の医療と福祉への取り組みは、時代を経て、明治・大正・昭和の皇后へ、そして平成の皇后陛下へと受け継がれています。
 皇后陛下が、日本赤十字社の名誉総裁となっておられるのも、このような伝統を受けつ継がれているからなのです。

◆平和の願い、国際親善
 天皇陛下は外国をご訪問になるときの如気持ちを次のように述べておられます。

  《国と国との友好関係の増進には、それぞ如
   の国民がお互いに理解を深め、広く信頼開成
   を確立していくことが大切と患います。
   また、それぞれの国の誇りとしている文化な
   どに理解を深めることも心掛けています。

 天皇陛下は 即位されてより、すでにアバア、ヨーロッパ、アメリカなど十四カ国も訪問されています。それらの国々では、田賓(国にとって大事なお客様)として大変歓迎されています。
 また、外国からも国賓をお迎えし、日本の素晴らしい伝統や文化をご紹介になってお互いの国の友好と親善に大きな影響を与
えておられます。
 天皇陛下は、常に日本国の繁栄と国民の幸せを願い続けておられるのみならず、外国ご訪問などの国際親善の活動を通して、世界の平和に尽くしておられます。日本国の象徴として、このような素晴らしい天皇陛下が存在されることは、日本および日本人の誇りなのです。



◇天皇皇后両陛下、英国ご訪問
        エリザベス女王御在位60年餐会にご出席

 天皇皇后両陛下には、5月16日から20日にかけて、エリザベス女王御在位60年に際し、英国を公式ご訪問になった。18日、ウィンザー城で行われた午餐会には、ベルギーやノルウェー、など約25カ国の国王、王族らが招待されたが、そのなかで、60年前の戴冠式にも出席されていたのは、天皇陛下とベルギー国王のお二人のみ。天皇陛下は、サンフランシスゴ平和条約発効の翌年、昭和28年、昭和天患のご名代として戴冠式に参列なさつた。
 19日に、在留邦人代表とお会いになった陛下は、「ほぼ冶60年前英国の対日感情が決して良好とは言えなかった時代に昭和天皇の名代として戴冠式に参列した私には、今日の日英間に結ばれてきた強い絆に深い感慨を覚えます」とお述べになっている。
 また、これらに先立つ17日には、東日本表震災で、被災地を直接間接に支援してくれた英国の人々の代表約百人に感謝の思いをお伝えになった。[日本の息吹 H24年 7月号より]抜粋

      
   





◇外国から見た皇室

■アルベルト・アインシュタイン博士
 ドイツの物理学者で、「相対性理論」を発表した有名な科学者です。ノーベル賞を受賞する前の大正十一年に日本に立ち寄り、次のような詩をのこ残しました。

 「日 本」

近代日本の発達ほど世界を驚かしたものはない。
世界の未来は進むだけ進み
その間 幾度か争いは繰り返されて
最後に戦いに 疲れるときがくる。
そのとき、人類はまことの平和を求めて
世界的な盟主をあげねばならない。
この世界の盟主になるものは
武力や金力ではなく
あらゆる国の歴史を抜き越えた
最も古く
また尊い家柄でなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る
それはアジアの高峰である日本に立ち戻らねばならない。
われわれは神に感謝する
われわれに日本という尊い国を
作っておいてくれたことを。

 これは、博士の直感力がとらえた日本の姿だと思います。


■アーノルド・トインビー博士
 彼は、有名なイギリスの歴史学者です。三重県伊勢市にある伊勢神宮(祀られているのは、皇室のご祖先天照大神)を参拝した時、記帳簿に次のような言葉を書き残しました。
(ここ伊勢神宮の神聖な場所に、私は世界の
 全ての宗 教の大本があるように感じます。)

 この博士の言葉は、神道や皇室の良さを間接的に示しているように思われます。


■ダグラス・マッカーサー
 彼は、日本の敗戦後の昭和二十年八月三十日、日本を占領統治するために、連合国総司令部(GHQ)の最高司令官として来日したアメリカ軍人です。彼が昭和天皇と会見した時の様子が、彼の回顧録に善かれています。

 《……天皇はご自身の命乞いに来られるかと
  思っていたが、天皇は 「私の身はどうなって
  もかまわないから、国民を救って下さい。」と
  言われた。私はその尊厳と慈悲に大変驚いた。
  天皇は世界最高の紳士だと思った。》

 このような昭和天皇の無私の心(自分を捨て、他人のために全力を尽くす心)は、歴代の天皇も持たれてきており、今上陛下もお持ちになっています。


■オリビエ・ジェルマントマ
 彼は作家で、フランス国営文化放送プロデューサーとして活躍している。日本には七回来日し、日本の美点をフランスに紹介しています。次に紹介するのは、天皇陛下の御即位十年をお祝いする記念講演(平成十年十一月二十八日。東京国際フォーラムホール)の一部です。

 《天皇のご存在あればこそ、日本民族は、
  一直線に、連綿として絶えることなく、そ
  の最も遠い歴史の淵源(みなもと)と今な
  お結び合わされているのであります。
  世界広しといえども、このような国は、
  たった一つ、日本しかないのであります。
  日本国民の統一と安泰を守るために、日
  夜、天皇がお心を砕き、民族の偉大性を
  も不幸をも一身に持しておられることを、
  私共はよく存じあげております。貴国(日
  本)の長い歴史にわたって天皇は、武人と
  歌人と神官と、貴賤(身分の高い人と低い
  人)を問わず民草(国民)の頂点に立って
  こられました。最も貧しい百姓といえども、
  遠つ世(ずっと昔)においては、この大い
  なる血筋の末裔(子孫)であることを誇り
  とする、そのような国柄だったのでありま
  す。
  そして、何よりも、天皇を通して日本の皆
  さんは、『古事記』『日本書紀』の物語る
  神話に結ばれ、また神道に結ばれて来まし
  た。
  神道なくして日本の存在はありません。》

 このように、心ある外国人は日本の皇室を世界にまたとない素晴らしい存在と認めています。

                           以上 2011/11/22 北



◇知られざる昭和天皇、今上天皇
                      [WiLL2013年2号]高森明勅

■言語道断の李明博発言

 平成二十四年八月十四日、韓国の李明博大統領(当時)は、忠清北道清原都の韓国教育大学で行われた教育者研修会で次のように述べたという。
「日王(天皇)は韓国民に心から土下座したいのなら来い。重罪人に相応しく、手足を縛って、頭を踏みつけて、地面に擦りつけて謝らせてやる。重罪人が土下座もしない。言葉で謝るならふざけた話講だ。そんな馬鹿な話は通用しない、それなら入国は許さない」と。
 まさに暴言。言語道断だ。
 そもそも一国の国家元首が、わが国の天皇陛下を「日王」呼ばわりするような非礼は、他国にまったく類例を見ない。
 この発言は、李氏の竹島上陸以上にわが国の国民を憤激させた。韓国の日本への経済依存度の高さを考えれば、日韓の友好関係を決定的に悪化させた李氏の暴言は、韓国民にとっても、国益を大きく損なう愚劣この上ない振る舞いだったはずだ。
 だが、ここでは同発言について細かな論評をするつもりはない。ただ一点、李氏は次の事実を知ったうえでこのような暴言を吐いたのかどうか。
 平成十七年六月二十七日から翌二十八日にかけて、天皇・皇后両陛下は先の大戦中、おびただしい犠牲者を出したサイパン島(米自治領)を訪れられた。言うまでもなく、戦死者の慰霊のためだ。
 その時、両陛下は同島にある韓国出身戦没者の慰霊塔「太平洋韓国人追念平和塔」にわざわざお立ち寄りになつて、心を込めた拝礼を行われている。このことは、事前に公表されたスケジュールには入っていない。だが、ご出発前からの天皇陛下の強いお気持ちで実施されたという。
 現地の韓国系住民でつくる「サイパン韓入会」のキム・スンベ会長は、陛下のご拝礼について「予想外のこと。本当に嬉しい」と話していた。住民らを代表した素直な感想だろう。
 李氏はこうした事実を知らなかったのか。もし知らなかったとしたら、一一国の最高指導者としてあまりにも無知というほかあるまい。


■昭和天皇の靖国ご親拝

 ここまで紹介したのは、今上陛下が戦没者たちにお示しになった「慰霊と鎮魂」のごく一端に過ぎない。このほかにも陛下は毎年、終戦記念日に行われる政府主催の「全国戦没者追悼式」に臨御いただいているほか、春秋の靖国神社の例大祭への勅使のご差遣も欠かさず続けておられる。また、地方の護国神社へのご親拝も見落とせない(平成五年、埼玉県護国神社。同人年、栃木県護国神社)。
 そうした戦没者へのお気持ちは、明らかに先帝、昭和天皇から受け継いだものだろう。
 昭和天皇は、靖国神社に繰り返しご親拝されている。その回数は、戦前戦中に二十回、戦後に八回、合計二十八回にも及ぶ。いかに深く戦没者に思いを寄せておられたかが偲ばれる。
 昭和五十年十一月のご親拝が最後になった。これは同年八月十五日、当時の三木首相の靖国神社参拝が、はじめて憲法の「政教分離」原則に違反するのではないかとして政治問題化したためだろう。現憲法下でそれまで三十回も歴代首相の参拝が繰り返され、何ら問題となつていなかったのに、この時にわかに問題視されることになったのである。奇妙な話だった。
 当時、この問題が国会で議論となり、天皇陛下のご親拝にまで「飛び火」してしまった。これにより、天皇陛下のご親拝が困難な政治状況が生まれたのだ(現在では最高裁の判決により、首相の靖国参拝が憲法違反にあたらないことは確定したと言える)。…
 結局、国内の「違憲」騒ぎと、合祀後、七年も経って中国や韓国が「出し遅れの証文」的に外圧をかける事態になつたことが、昭和天皇の靖国神社へのご親拝を不可能にしてしまったと見るほかあるまい。まことに無念なことだった。

 ■陛下の靖国参拝実現を!
 昭和天皇は、靖国神社に、戦前戦中に20回、戦後に8回参拝されている。三木内閣当時、中韓の外圧により、靖国参拝を取り止めにされた。その後、現在まで、春秋の靖国神社の例大祭への勅使を派遣されている。尚、政教分離を争った最高裁判決では、首相の靖国参拝は憲法違反にあたらないとされている。



◆「日本を取り戻す」を社会常識へ!  (2014/05/08〜10)
 天皇、皇后両陛下は8日午後(日本時間同)、羽田空港発のチャーター機でパラオ国際空港に到着された。戦後70年の戦没者慰霊と友好親善を目的とした訪問で、空港ではレメンゲサウ大統領夫妻が出迎えた。
 
 

    ※両陛下、並びに支えて頂きました昭和上皇様に感謝申し上げます。
     たくさんの英霊達が帰国の途につき、靖国へ向かいました。
 ■大統領「パラオ人にとって宝物に」
 パラオのレメンゲサウ大統領は、天皇皇后両陛下を見送った直後、NHKのインタビューに応じ、「天皇陛下は訪問している間、ずっと『パラオで戦死された方々への追悼の気持ちでいっぱいだ』とおっしゃっていました。
 また、『これからも日本とパラオ両国の関係が固く強くなるよう願っています』と語られていました」と振り返りました。そして、「今回、パラオ側も国を挙げて歓迎し、パラオ人にとって宝物となるようなすばらしい思い出になりました。
 両国には戦争という暗い過去もありますが、過去を学びつつ、明るい未来に向けてこれから進んでいこうという意義深いご訪問だったと思います。今後も両国の協力関係がますます深まることが私たちの願いです」と話しました。(4月9日 17時11分 NHK)
 ■産経:天皇陛下の晩餐会でのご答辞。2015/04/08
 戦後七十年に当たる本年、皇后と共に、パラオ共和国を訪問できましたことは、誠に感慨深く、ここにレメンゲサウ大統領閣下のこの度の御招待に対し、深く感謝の意を表します。今夕は、私どものために晩餐会を催してくださり、大統領閣下から丁重な歓迎の言葉を頂き、ありがとうございました。また、この訪問に合わせ、モリ・ミクロネシア連邦大統領御夫妻、ロヤック・マーシャル諸島共和国大統領御夫妻がここパラオ国を御訪問になり、今日、明日と続き、私どもと行動を共にしてくださることも誠にうれしく、心より感謝いたします。
 なお、この度の訪問を前にして、ミクロネシア連邦を襲った台風の被害を耳にいたしました。ここに犠牲になられた方々を悼み、御遺族へのお悔やみをお伝えするとともに、被害を受けた大勢の方々に心よりお見舞い申し上げます。地域の復興の一日も早いことを念願しております。
 ミクロネシア地域は第一次世界大戦後、国際連盟の下で、日本の委任統治領になりました。パラオには、南洋庁が設置され、多くの日本人が移住してきました。移住した日本人はパラオの人々と交流を深め、協力して地域の発展に力を尽くしたと聞いております。クニオ・ナカムラ元大統領始め、今日貴国で活躍しておられる方々に日本語の名を持つ方が多いことも、長く深い交流の歴史を思い起こさせるものであり、私どもに親しみを感じさせます。
 しかしながら、先の戦争においては、貴国を含むこの地域において日米の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、多くの人命が失われました。日本軍は貴国民に、安全な場所への疎開を勧める等、貴国民の安全に配慮したと言われておりますが、空襲や食糧難、疫病による犠牲者が生じたのは痛ましいことでした。ここパラオの地において、私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います。
 また、私どもは、この機会に、この地域の人々が、厳しい戦禍を体験したにもかかわらず、戦後に慰霊碑や墓地の管理、清掃、遺骨の収集などに尽力されたことに対して心から謝意を表します。
 ミクロネシア三国と日本との外交関係が樹立されてから二十年以上がたちました。今日、日本とこの地域との間では漁業や観光の分野を中心として関係が深まってきていることは誠に喜ばしいことです。今後それぞれの国との間で一層交流が盛んになることを願ってやみません。
 ここに杯を挙げて、パラオ共和国大統領閣下、令夫人、ミクロネシア連邦大統領閣下、令夫人、及び、マーシャル諸島共和国大統領閣下、令夫人の御健勝とそれぞれの国の国民の幸せを祈ります。…全文終わり
 14歳でパラオに移住し、アンガウル島守備隊に現地召集され重傷を負って生還した倉田洋二さん(88)は、「移住した日本人はパラオの人々と交流を深め」とのお言葉を重く受け止めた。「現地の人々と青春をともにし、戦争がなければ一生住みたいと思っていた私には本当に印象深い。戦友にも、陛下のお声が届くはず」と語った。
 ペリリュー島守備隊の村井権治郎陸軍少将の四男、正巳さん(79)は「『遺族の歩んできた苦難』と言及していただいた。父も含め、パラオで戦ったすべての人々にとって感慨深い」と語った。
 遺骨収集に尽力している影山幸雄さん(70)は「心強い。遺族が生きているうちに最後のお一人まで収容したい」。影山さんに代々協力して慰霊碑も管理してきたペリリュー酋長、イサオ・シゲオさん(76)は「日本名を持つ亡き両親も喜んでいる。ご訪問を機に、ご遺骨収集の進展を望む」と語った。
 ■産経:天皇陛下はパラオ共和国訪問にあたり、羽田空港でのお言葉全文。05/08
 本年は戦後七十年に当たります。先の戦争では、太平洋の各地においても激しい戦闘が行われ、数知れぬ人命が失われました。祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことが深く偲ばれます。
 私どもはこの節目の年に当たり、戦陣に倒れた幾多の人々の上を思いつつ、パラオ共和国を訪問いたします。
 パラオ共和国は、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国と共に、第一次世界大戦まではドイツの植民地でしたが、戦後、ヴェルサイユ条約及び国際連盟の決定により、我が国の委任統治の下に置かれました。そしてパラオには南洋庁が置かれ、我が国から多くの人々が移住し、昭和十年頃には、島民の数より多い五万人を超える人々が、これらの島々に住むようになりました。
 終戦の前年には、これらの地域で激しい戦闘が行われ、幾つもの島で日本軍が玉砕しました。この度訪れるペリリュー島もその一つで、この戦いにおいて日本軍は約一万人、米軍は約千七百人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います。
 この度のパラオ共和国訪問が、両国間にこれまで築かれてきた友好協力関係の、更なる発展に寄与することを念願しています。私どもは、この機会に、この地域で亡くなった日米の死者を追悼するとともに、パラオの国の人々が、厳しい戦禍を体験したにもかかわらず、戦後に、慰霊碑や墓地の清掃、遺骨の収集などに尽力されてきたことに対し、大統領閣下始めパラオ国民に、心から謝意を表したいと思っております。
 この訪問に際し、ミクロネシア連邦及びマーシャル諸島共和国の大統領御夫妻が私どものパラオ国訪問に合わせて御来島になり、パラオ国大統領御夫妻と共に、ペリリュー島にも同行してくださることを深く感謝しております。
 終わりに、この訪問の実現に向け、関係者の尽力を得たことに対し、深く感謝の意を表します。
 
 
 



◆両陛下 平成27年5月16日〜17日
 
 


[今生陛下のビデオメッセージ]全文

 戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます。
 私も80を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。
 本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います
 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。(※皇室は日本の誇りです。仁愛にあふれた皇室は、人類史上唯一だと思います。日本人として生まれ、生き、死んでいく幸せを感じます。)
 そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に80を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。
 私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。(※人徳の方だと、深く頭を垂れる者です。))
 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉(しゅうえん)に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2カ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることはできないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。
 始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました(※愛子皇太子待望論から、皇室の破壊、日本の共産化へと進むことでしょう。)
 国民の理解を得られることを、切に願っています。
              (天皇陛下ビデオメッセージ全文 2016/08/08)
 ■浩宮さまが即位したら、「皇太子」がいなくなる。 2014/11/28 現代ビジネス
 秋篠宮も愛子さまも悠仁さまも、皇太子にはなれない。(※だから、誰が今後皇太子の職務を、引き継いでいくのかの論議が巻き起こり、愛子=皇太子論が息を吹き返さないように見守らねばなっりません。)
 皇室典範が定める皇太子の定義にはこうある。
〈第八条?皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という〉
 ここに出てくる「皇子」とは、天皇の息子を意味する。だから現在、皇太子の地位には、今上天皇の長子である浩宮がついている。
 現皇太子が即位した時点で、皇位第一継承者は弟宮の秋篠宮文仁親王になります。ただ、秋篠宮は『皇嗣たる皇子』ではないから、皇太子にはなりません。歴史上の表記でいえば、皇太弟≠ニいうことになる。悠仁親王はどうか。たとえば、父である秋篠宮が兄の天皇より先に亡くなった場合、悠仁親王が皇位第一継承者になるわけですが、悠仁親王は皇太孫ではなく、天皇の甥なので、やはり皇太子にはなりません。
 歴代の天皇家において、皇太子が空位だったことは決して珍しいことではありません。皇室典範が穴だらけなのはそのとおりですが、むしろそれによって皇位継承は、昔から融通無碍におこなわれてきた。世継ぎの方に対して、皇太子という呼び方を絶対にしなければいけないという決まり自体がないのです。もし、浩宮在位中に悠仁親王が皇位継承第一位になった場合は、『皇太甥』とするのが、一番自然ということになるでしょう。
 天皇および内廷皇族に支出される「内廷費」は、平成26年度は年額3億2400万円。現在の状態のまま天皇が代替わりすると仮定すれば、内廷皇族は美智子皇太后、雅子皇后、愛子内親王の3方。天皇を加えて4方の世帯ということになる。仮に愛子内親王が結婚して皇籍を離脱し、3方になったとしても、金額は同じだ。
 他方、宮家皇族に支出される「皇族費」は、親王で3050万円、親王妃がその半額というように、頭数ごとに皇室経済法で定められているが、内廷費と比べると極端に少ない。
 秋篠宮、あるいは悠仁親王が、事実上、皇太子の役割を担う場合も、現行法では内廷費の対象にはならないので、すべて皇族費でやりくりしなければならないという事態になるのだ。
 
 ■むしろ生前退位のシナリオを誘導しているのはマスゴミ!
 天皇陛下は、生前退位したいとか仕事が大変だからとか、今の皇太子様にお仕事を譲られるとか、一言も仰ってはいない。むしろ生前退位のシナリオを誘導しているのはマスゴミや、皇室内の反天皇派?いるのか分からないですが。安倍総理が何か、言葉に詰まられて、涙ぐまれておられるように感じました。
 これからもある、天皇の立場にある者が高齢者になってきたとき、どのようにしていくのが、国にとり、国民にとり、家族にとり、何が一番良いのか、考えて欲しいということなのかなとも思いました、これからも安定的に天皇家が存続できるように。単に御自身がご公務が大変とかいう事だけでメッセージを発せられたわけではない、そう思いました。理由は、浩宮さまが即位されると、皇太子が居なくなるからだ!!愛子皇太子の待望論が皇室を破壊する!
 ■生前退位報道は謀略に利用され易いる … 読者より
 しばらく様子を見ていましたが、皇室典範に対する姿勢は、西村慎悟氏の考え方でよく、明治の皇室典範のあり方に戻すべきだと思います。皇室典範はそれまでの皇室のあり方をまとめあげたもので、憲法には馴染まないし、皇室のあり方は皇室一族で決めるべきものだからです。明治憲法と皇室典範は別でしたが、皇室を衰退させ滅ぼそうとするGHQが、皇室典範を憲法の配下においてしまったのです。
 今回の「生前退位の報道」については、皇統派の青山氏は概略「古来の天皇の即位に戻そうとされている」と、前向きにとらえています。朝日も毎日などマスコミ各社も、両陛下の心労を労って、好意的に報じています。しかし、これは日本人の両陛下を気遣う気持ちを利用して皇室を滅ぼそうとする共産党系の謀略に利用されていると云って、間違いないと思います。
 その理由を私なりに考えると、これまで皇室」が謀略に巻き込まれずに存続したのは、終身天皇制だったからです。だから、天皇を退位させるには、暗殺するしかなく、また皇統の順位が明確なので、暗殺しても都合良く行かなかった。
 ところが、古代日本において、皇統を巡り、皇太子の暗殺やすり替え、皇位継承者を仏門に入れたり、天皇を上皇にしたりと、常に謀略の渦中でした。
 確か、退位はあるが、復位は無かったと思います。退位があるのに、復位の検討が無い。つまり、一度退位してしまったら、後継者が居なくなったときに、天皇が絶えてしまう。王朝交代になるんです。人類最後のエンペラーの消失です。
 例えば、現皇太子が即位し、マスコミが大々的に批判して退位を迫る。結果、秋篠宮が即位し、これも退位して、長子が即位する。長子を暗殺すれば、現皇太子兄弟が生きていても、皇統は絶えてしまいます。
 そこで、愛子皇太子待望論→女性宮宅創設→女系天皇が現実味を帯びてくるわけです。もし、退位を容認するのなら、その前提として、復位と旧宮宅の復活が必須です。


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