ルバング島:小野田寛郎




 [ルバング島 戦後30年の戦いと靖国神社への思い](明成社 小野田著)を読み抜粋しました。是非、是非、本書を手に取り、懇切丁寧な説明に目を通されながら、ご一読をお薦め致します。

 尚、遺骨収集の実態を述べておられる東條由布子氏の「ペリリューの遺骨を忘れないで」を、文末に抜粋しました。




始めに:教師・保護者の皆様へ


 本書の著者である小野田寛郎氏は、大東亜戦争に従軍し、戦争が終結した後もそのことを知らされず、約三十年にも亘ってフィリピン・ルパング島のジャングルで戦いを続けてこられた方です。
 その間、日本は、米占領軍の教育、宣伝によって、戦前、戦中とは全く違った価値観を持つ国に作り変えられてしまいました。しかし、ジャングルで戦闘を継続してきた小野田氏は、米占領軍によるプロパガンダの影響を全く受けることがありませんでした。このため、小野田氏の言葉には、戦時中の日本人の祖国に対する純粋な気持ちがそっくりそのまま残っています。本書を読まれる方には、是非この点に注意していただきたいと思います。
 小野田氏は、日本政府の対応に、戦後日本の軽佻な雰囲気に憤りました。そしてこの小野田氏の憤りは、一人小野田氏だけのものではなく、戦争で亡くなった大多数の日本人の戦後日本への憤りでもあるのです。
 本書によって、国のために戦うことの意味、そして戦いに(たお)れた方々の思いを一人でも多くの人に伝えることができればと強く願っております。

 ■元陸軍少尉の小野田寛郎さん死去
 小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが、平成26年1月16日午後4時29分、肺炎のため都内の病院で死去。91歳でした。日本のためにありがとうございました。心よりご冥福をお祈りすると共に、死後も尚、我が日本国を見守ってくださいますようにお願い申し上げます。
 ■失われた「誇り」喚起 米紙が小野田さんの評伝
 米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は17日、日本時間の16日に死去した元陸軍少尉、小野田寛郎さんの評伝を掲載した。小野田さんが任務への忠誠心と忍耐力を体現し、「戦後の繁栄と物質主義の広がりの中で、多くの日本人が失われたと感じていた誇りを呼び覚ました」「彼の孤独な苦境は、世界の多くの人々にとって意味のないものだったかも知れないが、
 日本人には義務と忍耐の尊さについて知らしめた」としている。
 小野田さんの出征前の日本は「紙と木からなる牧歌的な地」だったのに対し、フィリピン・ルバング島での約30年の山中生活に終止符を打って帰国した1970年代には、高層ビルが林立し、テレビなどがあふれる「未来型の世界」に変わっていたと指摘。
 その上で、小野田さんのジャングルでの体験が日本で連日、大々的に報道され「戦後の豊かさの中に、より深い意味を探し求めていた人々は過去を振り返り、物思いにふけった」とも評した。(共同)
 ■「戦前の美徳を体現」=小野田さん訃報、大きく掲載―米紙
 米紙ワシントン・ポスト(電子版)は17日、日本時間16日に死去した元陸軍少尉の小野田寛郎さんの評伝を大きく掲載し、フィリピン・ルバング島に戦中戦後の30年間潜伏してジャングル生活をした小野田さんについて「多くの日本人にとって忍耐、忠誠、犠牲といった戦前の美徳を体現する存在だった」「小野田さんがフィリピンのマルコス大統領に1974年3月、投降の印として軍刀を渡したとき、多くの者にとっては格式ある、古いサムライのようだった」「小野田さんは任務に忠実でありつづけたがゆえに(多くの人々の)心を揺さぶった」と好意的に伝えた。(時事通信)


◇本文を読まれる前に

 この本に書かれている話の時代背景を簡単に説明します。
 話は、今から一〇〇年以上も昔、日本では江戸時代が終わり、明治維新が成し遂げられた頃に遡ります。
 当時の世界は弱肉強食、弱い国はたちまち強国の侵略を受けて植民地として支配されていました。明治の日本も幾度もそのような危機に直面しましたが、国民が一致努力し、これを乗り越えてきました。
 中でも深刻な危機は、明治三十八年(一九〇四)の日露戦争です。世界最強の陸軍国ロシアが、満州と朝鮮半島を侵略する構えを示したため、日本はこれと激しく戦い、多くの犠牲者を出しながらも辛うじて勝つことができたのです。そして、その講和条約では、ロシアから満州の鉄道などの権益を日本が譲り受けることが決められたのでした。
 このロシア権益の日本への譲渡は清国の正式な同意も得たものでした。小さな島国である日本は、多くの若者の戦死と引き換えに権益を手に入れた満州の開発に国を挙げて取り組みました。
 しかし、中国で革命が起こり、清朝に代わって新たに中華民国が成立する頃になると情況が大きく変化します。中国の新政府は、反日運動を扇動し、日本の権益を強引に回収しようとしてきました。反日暴動が頻発し、中国で生活していた日本人に次々と死傷者が出るようになります。
 また、かねてから満州への進出を狙っていたアメリカは、中国を強く後押ししました。
 中国と日本の間に武力衝突が起こると、アメリカは中国へ武器を援助し、日本に対しては経済封鎖を実施しました。資源のない日本の工業は、アメリカからの石油や鉄屑などの輸入が停止されると経済も全ての産業は破滅してしまいます。
 昭和十六年(一九四一)十二月、日本は遂にアメリカとの戦いに踏み切りました。大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争)の勃発です。
 日本軍はアメリカ軍と四年間にわたって太平洋の各地で激戦を繰り広げました。戦争の前半では、日本軍が優勢でしたが、後半になると、工業が盛んで、天然資源や人口も多いアメリカが次第に逆転してきました。そして昭和二十年(一九四五)八月、日本は遂にアメリカに降伏してしまうのです。
 日本の決定的な敗戦は、この国の歴史が始まって以来誰も体験したことのない事件でした。日本人の誰もが日本が負けるとは信じていませんでした。
 この本の著者である小野田寛郎少尉も同じです。小野田少尉は、戦争が終ったことを知らぬままフィリピンのジャングルにて任務を遂行されていました。

■フィリピン
 フィリピンは十六世紀以降、スペインに支配され、一八九八年、アメリカが米西戦争でスペインを破ってからはアメリカの植民地となった。同年、リカルテ将軍らが独立を宣言(第一共和国・アギナルド大統領)するが、アメリカ軍に武力で鎮圧された。
 一九四一年、日本軍がフィリピンに上陸しアメリカ軍を破ってマニラを占領すると、アギナルドやリカルテは日本軍に協力し、一九四三年にはフィリピン共和国(第二共和国・ラウエル大統領)が成立した。
 しかし、一九四四年になるとアメリカ軍が再びフィリピンに上陸、リカルテ将軍らは日本軍と共にこれを迎え撃ったが敗れ、フィリピンの独立は喪われた。
 一九四六年、アメリカはフィリピンの独立を許し、ロハス大統領による親米政権(第三共和国)を樹立した。




◇終戦を知らずに戦い続けた三十年

 私は戦争が終った後も、フィリピンのルパング島のジャングルの中で、約三十年間戦い続けました。
 当時の私は特殊な任務を与えられており、敵と戦って玉砕(戦死)することを禁止されていました。私の任務は、やがて日本軍が反攻に転じ、フィリピン奪還作戦を実施するときに備え、敵の後方撹乱と情報収集を行うことでした。
 私は、戦いながら日本軍の反攻を三十年間待ち続けた後に、初めて日本の終戦を知り、敵の軍事基地に投降しました。自らの任務のためとはいえ、戦いで多くのフィリピン軍人を傷つけていたので、処刑を覚悟した上で降伏でした。
 ところが、フィリピンのマルコス大統領は、私のことを「軍人の亀鑑(模範のこと)である」、と言って無罪放免にしました。私は、生きて日本に帰ることができ、「私の命は、私のものであって私のものではない」という考えが、その後の私の一番の根本になりました。
 ルパング島から私が帰るまでの二十九年三カ月の間、私は既に死んだものと思われていたので、戦死公報が出され、靖国神社に十五年間御祭神としてお祀りしていただいていました。神様(英霊といわれた)ですから、小野田寛郎命です。ところが、私が生きていることがわかったので、靖国神社から出していただいたわけです。故陸軍 中尉小野田寛郎命は、再びただの小野田寛郎に戻りました。



「心ならずも戦死された」は英霊に対する侮辱

 靖国の英霊に対して「心ならずも戦死された(本当は戦争に行きたくなかったのに戦争で死んでしまった)」と言う人がいます。しかし、これほど英霊を侮辱した言葉はありません
 読者の皆さんの中には特攻隊の方々の遺書をご覧になった方がいらっしゃるでしょうか。特攻隊の遺書には、「心ならずも(本当は行きたくなかったのに)」なんて書いてありません。私も当時、特攻隊の方々とほとん同年齢でありました。私がもし当時戦死していて、「心ならずも死んだ」と言われたら、侮辱されていると思って怒ります。
 当時の私たちは、死ということに拘泥しない、深く考えない、死んだら神さまだと、そういう考え方をしていました。何故かと言いますと、戦争には若い者が先頭に立たなければ国の将来がないということをはつきり考えていたからです。お国のために命をかけて働いているので、兵隊は普通の人の半額で映画館に入ることができました。それで、「映画半額、命も半額、死んだら神さまだ」などと笑いながら話していました。これが当時の私たちの戦死に対する考え方だったのです。
 当時は徴兵令で、満二十歳になると身体に異常のない男子はみんな兵役につかなければなりませんでした。だから「心ならずも」と言うのかもしれませんが、それは当時の私たちの気持ちを表した言葉ではありません。好きで兵隊になったわけではなくとも、多くの人間は国のために死ぬ覚悟を持っていました。戦争に負けた後、戦後の教育で洗脳され、本当の日本人の気持ちを理解できなくなつた人が、そういうことを言うのだと思います。
       



◇「死んだら会おう」と約束した場所は靖国神社以外にはない

 また、私たち兵隊同士には強い連帯感がありました。私は一年間中支(中国の南昌付近)の先頭部隊にいたことがあり、戦闘にも二度ばかり出ております。そのときに私の中隊の将校(軍隊の幹部)が亡くなり、そのお通夜で仲間の将校が「惜しい奴を殺したな」と言いました。別にその人を仲間の将校が殺したわけではありません。敵を威圧し彼を助けるだけの努力が、自分たちに足りなかったから、戦死者が出てしまった。自分たちがもっとしっかりしていれば、死ななくてもすんだという感慨をみんな抱いていました。前線で戦う兵士たちの間には、それほど連帯感があったということです。
 そういう私たちが、「死んだら神さまになつて会おう」と約束した場所は靖囲神社です。戦前の靖国神社は国家によって運営されていましたが、戦後は民間の有志の方が奉賛会という団体をつくつて支えるようになりました。私はこのことを聞いて非常に心を痛めていました。私が日本に帰ってきたとき、田中角栄総理をはじめ大勢の方々にお見舞いのお金をいただきましたので、私は、そのお金を全部靖国神社に奉納しました。すると、一部の人から「小野田は軍国主義復活に加担した」と散々に批判されました。この時は、戦争で亡くなった人を祀る靖囲神社のことを、まるで軍国主義の象徴のように言う人がいたのです
 なぜ、靖国神社にお金をお納めして悪く言われなければならないのか。そのとき、私はもう日本に住みたくないと思いました。それで、次の自分の生活の場をブラジルに求めたわけです。
 とにかく、私たちが「死んだら神さまになつて会おう」と約束した場所が靖国神社であり、戦後その靖国神社を国家が守らないことに対して、納得できない人は多いと思います。国は私たちが死んだら靖国神社に祀ると約束しておいて、戦争に負けてしまったら、靖国神社など知らないというのは余りにも身勝手です。国による直接の運営が難しければ、せめて政府を代表して内閣総理大臣に八月十五日の終戦の日に堂々とお参りしてほしいものです
 最近は、靖国神社とは全く別の追悼施設をつくる、という詰まで持ち上がっていますが、これは、死んだ人間に対する裏切りであります。靖国神社とは別の追悼施設がつくられるのであれば、私は死んでも死に切れません。

 私の仲間で十六時間の心臓の手術を受けた者がいるのですが、その仲間からちょつと面白い話を聞きました。手術で眠っている間に、死んだら自分が行くことになつているお寺の夢を見たと言うのです。そのお寺に行ってみると、金ピカに光っていて気に入らない。「この生臭坊主め」と思って、靖国神社に行ってみた。すると、知っている仲間が出て来て、「何しに来た。お前の来るところじゃない」と突っぱねられた。一緒に戦場で戦ったのに冷たいことを言うなあと思ってよく考えてみると、自分は生きて帰ってきたのだからもう靖国神社には入れてもらえないんだ(戦争で公の任務中に亡くなつた人でなければ靖国神社に祀られない)、ああそうか、と思ったところで目が覚めた。

      

 このように、ここに安らいでいる英霊と自分たちの間には本当に切っても切れない絆があって、それは、ふと自分たちもここへ入れるのではないかと思ってしまっほど染み付いているのです。私たち当時戦った人間の靖国神社に対する気持ちはそのようなものであるということを、皆さんにご理解していただきたいと思うわけです。



◇独身で亡くなった者は誰が祀るのか

 アメリカ軍が上陸する前のルパング島には戦闘部隊はほとんどいませんでした。航空隊の監視兵とか海軍の飛行機の整備兵といった人たちがほとんどで、合計二百名ほどでした。そこへ、敵の大部隊が戦車を先頭に上陸してきました。日本軍は、敵の兵舎に斬り込みをかけたりして反撃しましたが、何分多勢に無勢、島はたちまち占領されてしまいました。
 戦いが始まる前に、結婚して家族も持っている三十を過ぎた召集兵を見て、「奥さんや子どもを残してこの島で死ななければいけないのか」「かわいそうにな」と気の毒に思いました。若い独身の私たちは、その点心配ありませんでした。だから、みんな明るく「命は半額」などと簡単に考えていたわけです。
 ところが、今になって考えてみますと、確かに残された奥さんや子どもさんは大変お気の毒だったと思いますが、亡くなった本人は家でお祀りしてくれる人がいるのだな、とつくづく思います。お子さん、お孫さんと代々家でお祀りしてくれる人がおられるのです。
 では、独身で亡くなった私たちの仲間は、親兄弟が亡くなった後は誰がお祀りしてくれるのでしょうか。「死んだら神さまだ」と言いながら散華(戦死)していった独身の人たちをお祀りしてあげられるのは、やはり靖囲神社しかないのです。皆さんがそのことに気づいてお祀りしてくれる他に、独身で亡くなった霊を慰める道がないわけです。



◇「一生き続ける」という任務

 ルパング島での三十年間、私はどういう思いで生きてきたかと言いますと、これは言うまでもなく「命令」であります。私は、諜報員として、特殊な任務を持っていました。当時、日本国内の私たちの仲間は、日本の本土にアメリカ軍が攻めてきて、本土が全面占領された場合に備えて、ゲリラ活動をする準備をしていました。そして、私はマニラに近いルパング島にとどまり、敵の後方撹乱と将来日本軍が反撃する際の情報収集の任務を与えられました。私は、そういう大きな戦略のために働くよう命じられたわけですから、とても名誉に思いました。また、同時に任務を遂行できなくて笑い者になってはいけないという自分のプライドもありました。私たちは、死は何とも思っていませんでした。しかし、私に対する命令は「生き続けて敵の後方を撹乱し、味方が反撃する時の手引きをすること」でした。あくまで生き続けることに自分の命を賭けていったということです。
 昭和二十年八月、戦争は終わりましたが、私たちはそのことを知りませんでした。戦争が終わったとき、本当ならば日本の連絡将校が、日本の降伏のことを伝えに来なければならないのですが、アメリカ軍が飛行機でビラを撒いて投降を呼びかけました。しかも、私たちの島にまかれたビラは石版刷りの立派な紙で、私たち宛ての命令文ではない上に、文字や文法も間違えていました。予想通りと言いますか、最悪の状況で日本軍が本土決戦に失敗して敵に上陸されたな、だからアメリカ軍が「戦争は終わった」と言って、日本兵をおびき出そうとしているんだ、と思っていました。私たちは、当初の命令通り、日本軍が反撃を開始するまで、ゲリラ活動を続けようと益々決意を固めました。
 それ以降、アメリカ軍の行動をよく見ていますと、五年後にまた動きが非常に盛んになりました。これは、「敵に上陸されても三〜五年後でなければ反撃はできない」と上官から説明されていた時期とちょうど符合していましたので、いよいよ反撃が始まったと思いました。実際は朝鮮戦争が始まり、アメリカ軍が北朝鮮軍や中国軍と戦闘を開始していたわけです。それに続いて今度はアメリカはベトナム戦争を始めました。私たちは、アメリカの戦略爆撃機が毎日五十機もルパング島の上空を往復しているのを見ていたので、「日本軍の反撃が始まった」「いよいよもうあとひと踏ん取りだ」と思って頑張っていたわけです。
 ですから、日本が占領されたと判断していましたが、戦争が終わったとは全く考えていませんでした。
 私は、当初三名の仲間と常に行動を共にしていましたが、そのうち一名が私たちから離れて、昭和二十五年にフィリピン軍に投降しました。このため、私たちの生存を日本政府が知ることとなり、私たちの戦死公報は取り消されました。
 また、昭和二十九年にフィリピン軍と遭遇して撃ちあいになった際には、仲間の一人が撃たれて死にました。仲間の死は私にとって、取り返しのつかない痛恨事です。「一名戦死、一名負傷、一名が介護して逃げた」という比島軍の発表で、日本からも捜索隊が来て大規模な捜索が行われました。しかし、私たちの痕跡をまったく発見できなかったので、「おそらく諦めて自決したのだろう」ということで、昭和三十五年に二度目の戦死公報が出されました。それから昭和四十九年に日本へ帰るまで、私は靖囲神社にお祀りしていただいていたわけです。



◇「隊長、早く死んだ奴の方が楽だったですね」

 さて、私は三十年間の孤独な戦いを通して何を得たかと言いますと、一番はっきり分かったことは、人間の弱さと強さであります。人間は肉体的にも精神的にも、自分の目的意識を失うと本当に弱いものです。虫に食われたり雨に打たれたりして肉体的に苦痛を与えられると、「ああもうだめだ」、「こんなことをいつまでやらなければいけないのか」、「この辺でおしまいにしよう」と、すぐこういう考えになるわけです。
 あるとき、私ともう一人の仲間と一一人のときでした。ルパング島というのは淡路島の半分ぐらいの小さな島で、全島知らないところはないという自信を持っておりました。ところが、ふと島の一番奥の谷にはまだ足を踏み入れたことがないことを思い出しました。そこで調査のために、三日分の食程を持って朝から谷へ出発しました。午後三時ごろに着いて調査をし、ついでにそのまわりの地形も調べ始めたのですが、そのとき少し離れたところで一体の頭蓋骨を見つけました。これは、十五年前上陸したアメリカ軍に追い詰められて亡くなった、日本兵の遺骨に間違いありません。私たちは、かわいそうに、仲間もいただろうに、埋めてやるだけの体力もなかったのか、と小さな器具で穴を掘って埋め、片手拝みに拝みました。私たちは、敵の襲撃に備えて銃を手放せませんでしたから両手は合わせられません。片手拝みに拝んで、夜寝る場所を探すために移動を始めました。
 しばらくすると、後ろから「隊長」と声をかけられました。私は本当に驚いて振り返りました。私たちは自分たちの行動を秘匿しているので、日中はほとんど声を出さないのが定めでしたから。振り向くと彼は、「隊長、早く死んだ奴の方が楽だったですね」、と言いました。なるほど、考えてみるとそうなんですね。私たちには、何年何月までそこで戦えば任務が完了する、という保証はどこにもない。日本が占領された後の戦いだ、反攻に転じても上手くいかなければ五年、十年の戦いになるかもしれない、とにかくアメリカが戦争に飽きてやめると言い出すまで戦い続けるんだ、と言われてその島に行ったわけですから。
 十五年も経っているのに、まだ情勢がはつきり見えない。確かに、十年前からアメリカ軍の動きに変化が見え、その後ますます動きが活発になつていっているが、いつまでという保証は何もない。私たちが、ジャングルの中で獣のような生活を続けられるのは六十歳までだろう。それが肉体的限界だ。そのときには、持っている弾を全部敵に撃ち尽くして、敵の前に仁王立ちになって最期を遂げよう。そう覚悟を決めていました。
 それ程の覚悟で戦っていたにもかかわらず、そういうところで遺骨を見ると、「早く死んだ奴の方が楽だった」という感覚が生まれるわけです。薄暗く気温も低くて湿っぽい、健康にはあまりよくない環境で、つい人間の弱さが出てしまったのです。私もそう思っていたのですが、まさか「うん」とも言えません。六十歳まで戦うために、大切に保存している弾もありました。「まだ弾があるしな」と私が答えると、彼は「やってみなければ分からないでしょう、隊長。まだ元気ですしね」と言ってくれました。その仲間の言葉は、本当に涙が出るほど嬉しく感じました。
 これで、いかに私たちが自分の健康、元気さに左右されるかということが、よく分かっていただけたかと思います。まず、健康でなければ私たちは生きていけなかった。真っ当な判断ができない、積極的な知恵が出なくなる。それで、六十歳が自分たちが戦いを続けられる限界だと覚悟していたわけであります。



◇自然の中で感じた人間の弱さと社会の恩恵

 先ほど、人間の弱さと強さということをお話しましたが、その次に皆さんにお伝えしたいことは、「国」というものをどう考えていくか、「自由」や「人権」ということだけでは私たちは生きていけないという自分の体験であります。
 ルパング島で敵の中で生き残ることが私に下された命令でしたが、いよいよ私の側に二人しかいなくなりました。そのうちの一人が毎朝竹を削ったもので火を起こしていたのですが、それがまた大変なんですね。それでその仲間が「誰かマッチぐらい代えてくれてもいいのに」とつぶやいたことがありました。
 私たちは、放牧されている牛を射殺して乾燥させた肉をたくさん持っていました。後で振り返ってみますと、年に六、七頭ですから、年間一人当り二百七〜八十キロという大量の肉を食べていたことになります。その肉とマッチを、島の住人の誰かが交換してくれないかな、と考えたのです。しかし、それは絶対にできない相談です。もし私たちにマッチをくれたことが分かったらその住民はアメリカ軍やフィリピン軍からどんな日に遭うか。
 私は、「貴様がここの住民だったら、われわれにマッチを渡すだけの勇気があるか」と叱りました。そして、「それより後ろの山を見てみろ。大きな木があって敵から姿を隠してくれる。いたるところに水があって水さえあれば三日ぐらいは行動できる。それ以上何が欲しいのか。自然を味方にしろ」と励ましました。
 私たちには自然しか味方がありませんでした。全く社会と嫁が切れてしまって自然しか利用できないとなれば、いかにわれわれ文明人が弱いものか、本当に痛感しました。裸で雨に濡れるのがどれほど寒いかということは、夏山で遭難しても雨に濡れて死ぬ人がいることでよくわかります。われわれ文明人は肉体的には本当に弱くなつています。人間は、自分のつくつたものと人のつくつたものとを交換する、あるいは自分が見つけたことや考えたことを人に教えてあげる。そのようにして、進歩した社会をつくつて生活しているわけです。さら自分一人では生きられないんですね。



◇目的のために全力を尽くせば道は開ける

 苦しい中で生きていくためには、何故自分が生きなければならないのかという、はっきりした目的意識を持っていないとすぐ崩れてしまいます。一晩中雨に降られてガタガタ震えながら過ごしたこともありました。夜が明けてもまわりがかすんで見えるほど苦しいとき、いつになつたら任務終了になるのかわからないし、自分たちが生きて帰るという何の保証もないのですから、「もうだめだ」、「もうおしまいだ」と考えるのが当たり前です。これが人間の弱さです。
 しかし、私たちは常識的に考えると、「もうだめだ」という中を何回も乗り越えてきました。負傷して傷から毒が入った戦友が高温を発したときも、何とか知恵を出して治しました。冷やしながら、パイナップルやゆずなどのジュースばかりを飲ませたりして、四十日も看病しました。そういうときには知恵が出てくるんですね。何としても生きよう、何としても仲間を助けようという気持ちがあるから、知恵が湧いてくるんです。目的のために命がけで生きようとすれば、そこに自然に生きる道が開けてくる。「信じる者は救われる」「天は自ら助くるもののみを助く」という昔からの教えにあるように、何とか自分一人で切り抜けよう、命がけで自分の全力を尽くそうとするところに知恵が湧いてくるのです。
 そして、その知恵は、自分のご先祖さまから譲られた 潜在意識、潜在能力というものが働いて湧いてくるものです。ですから、生半可に考えて、ただ神さま仏さまに手を合わせるだけで、「誰か助けてくれないかな」、「何とかならないかな」というのではだめです。神さま仏さまにお願いするのはいい。お願いして、自分の気持ちを落ち着けて努力すれば、いい知恵も湧いてくる。神さまはただ何となく知恵を貸してくれるわけではありません。自分が一所懸命努力するときに潜在意識、潜在能力を起らせる助けをしてくださるものだと私は考えています。
 皆さんに私が今お伝えしたいのは、靖国に祀られた方々が、先ほどお話したように、決して「心ならずも」戦場に駆り出されて亡くなったのではないということ。そしてまた、皆さんはこの国をずっと守ってきた先祖さまの孫であり、ひ孫であるということです。戦に負けたからといって戦前の日本を悪者扱いにすることは、自分はその悪者、馬鹿の子孫だと認めることです。戦後の日本人は外国にすぐぺこぺこ謝りますが、そういう自信のない人間に決してなってほしくないということです。
 皆さんには、明治以降の日本の正しい歴史を知っていただきたいと思っています。そこからさらに進めて、古代からの日本の歴史というものを学んでいただければ、われわれの祖先がいかに優秀であったか、また、どれほど努力してこの国を守ってきたか、ということがもっとはっきり分かると思います。そうすれば、自分に自信が持てるようになります。
 先ほど、目的がなければ生きられないと言いましたが、自信がなくても人は生きられません。自信というものは、小さい自信の積み重ねであります。自分がやろうと思ったことができた、だから次にはこういうことがやってみたい、それは必ずできるはずだと自分で思い込むことです。「できるかな」、「できないかな」、とそんなあやふやなことではできません。「今までできたのだからこの次も必ずできる」、「今まで勝ってきたのだからこの次も必ず勝てる」、そういう信念で対処していくことです。
 私は三十年間の戦いの中で、自然の法則について否応なしに覚えることができました。日本に帰ってきて、自然を利用すれば必ず牧場をつくることができると思いました。
 私は、日本に帰って牧場を始めるためにブラジルに渡りました。そして、九年間ほとんど毎日四時間未満の睡眠時問で頑張り、予定通り十年目に軌道に乗せることができました。目的のために全力を尽くせば必ず道は拓けるのです。



◇小野田寛郎さんの言葉を拾いました



◇(国家観念を忘れた日本人)

 こうして今日また8月15日を迎えた。戦争に参加した我々としては感銘深いものがございます。私は今日皆さんに私個人の、あるいは亡くなった仲間の気持ちをお訴えするためにお話をさせて頂きたいと思います。・・・略・・・戦争に参加した者達は、「この次に会う時は靖国神社の庭だ」ということが合言葉であり、また一般的に申しますと、明治以来、国に命を捧げた多くの先輩達に感謝を申し上げ、そして慰霊の気持ちを申し上げる場所でもありました。終戦後66年、私も後一年で90歳という歳になろうとしております。ことあるごとに私は、占領時代の憲法の改正もせず、そのままずるずると経済のみで走って来た日本人を憂いて来ました。そのどん詰まりが現在であります。靖国神社にお参りしないと宣言 するような人を総理に選ぶ。そしてそれらに国の政治を任せた我々に責任がないとは言い切れないのであります。一口に申しますと、占領政策の成果と申せましょう。日本人の多くに国家観念がなくなったということです。・・・略・・・
 帰国した日本は私の目には、余りにも無残であり、悲しい現実でありました。私はある本に「敵には降伏しなかったが日本には降伏した」と書きました。自由であるべき日本にはなぜ私の自由はないのか。私の言うことは、全てマスコミの攻撃の対象になったわけです。それから30年が経ちました。いつ立ち直るか、と思っていましたが、それは益々高じて現在のように靖国神社にお参りしないという風潮が出て来たのであります。
 マルコス(当時のフィリピン大統領)の言ったように、我々は共に戦ったが、戦争が終われば、敵も味方も無く、国の為に命を捧げた人々に誠意を表するのは、人間普遍の考え方であります。それが失われているのが現在の為政者であり、私はこれ以上追及する気持ちは最早薄れました。「てめえなんか相手になんないから勝手にしろ」と。だけど、ここに居られる大勢の方がたは、私のように後何年かというような年齢の方ではありません。
 これから何十年も生きて頂かなければならない。あるいはこの大八島、日本の国のお米を食べ、水を飲み して生きて来た者の子孫である。あくまで国を守る。国を守らない限り、個人の自由などありません。よく人権、人権といいますが、アフリカの砂漠に行って、ライオンの前で「人権」と胸を張って言って見ろ!考えなくても結果は分かるだろう。ライオンには人権は通りません。人権というのはお互いに相手を尊重するという了解の下、そういう社会、あるいはそういう国の中において初めて言えることであり、また保護されることであります。国家がない限り、人権と言っても何の効果もありません。国という大きな集団で、外国に対し、あるいは外敵に対して自分達が独立しているから、その社会の中で人権が保障されているわけです。決して一人一人が勝手に生きているわけではないわけです。
 国の為に犠牲になられた大勢の方々をお祭りする靖国神社の前で、改めて国とは如何なるものか。我々が生きているのは何処に守る根拠があって、生かされているのか、そういうことをよく考えて頂きたい、と思います。今日は皆さんの前で普通のことを申し上げたわけでありまして、未だにその(憲法)前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」私達の生存を他人に任せてしまった日本の憲法。これをよく66年も放置して来た。そのことを大いに反省して欲しい。ここで心を入れ替えて、そういう政治家に政権を任さないようにして頂きたい。靖国神社は、一つの踏み絵です。日本人か、それとも似非日本人か、それを判断するには、靖国神社への姿勢を見れば分かります。ありがとうござい ました。




ペリリューの遺骨を忘れないで より抜粋
                [WiLL 2012年6月号]東條由布子


 米国は、戦場に兵士を送り出す時に誓約書を交わす。
「君たちがいかなる戦場で、いかなる姿になろうとも、国家は必ず君たちを祖国に連れて帰る。安心して国のために戦ってくれ」
 米国の遺骨収容活動は歳月に関係なく、真撃に続けられている。彼らは、ペリリユー島に放置されたままおびただの移しい数の日本軍人の遺骨に惜然としたと言う。
 その誘いに私は日本人として恥じ、かつ感謝をして参加した。先導してくれる元海兵隊員たちは半袖に短パン、素手である。密林の奥深くにどんどん入ってゆく。彼らのほとんどは八十歳を超えていた。
 鬱蒼と茂るジャングルの樹の枝をかきわけ、絡みつくガジュマルの枝に足元を取られながら、必死で海兵隊員たちを追う。海兵隊員たちも命がけだ。
 熾烈な洞窟戦になったペリリユー島の切り立った山々の断崖の途中に、八百ほどの洞窟が掘られていた。
 昭和十九年十一月に玉砕したこの島は、かつて天皇の島と呼ばれ、昭和天皇陛下は十一回もの激励の電報を打たれている。激戦当時、海からの艦砲射撃と火炎放射器で焼かれた山々は一味にして禿山になり、麓から頂上まで全て見渡せたが、いまは深いジャングルのなかに静まっている。
 枯葉に埋まった洞窟の入り口を探すのは大変だ。海兵隊員の先導がなかったら、洞窟のありかさえほとんど分からない。僅かな隙間に身体を横にして滑り込む。なかの広さは様々だ。二、三人がやっと座れる程度のもあり、司令部に使った洞窟は何本もの隊道に分かれている。
 青酸カリの茶色と青色の瓶が無数に転がっている。彼らはどんな死に方を選んだのだろうか? 辛うじて、頭蓋骨の様子で亡くなり方が分かるものもある。夥しい数のコウモリが一斉に飛び出し、顔に頭にバンバン当たる。
 洞窟の奥の高い天井には「島袋」と彫られていた。船着場近くの小さな博物館には、沖縄第一中学校、第二中学校の生徒のノートや教科書が置いてあった。幼い中学生までがこの遠い戦場で戦って玉砕したのだ。一本も欠けていない真っ白い歯が並ぶ頭蓋骨を抱きしめ、在りし日の面影を偲んで泣いた。洞窟に鳴咽が広がつていく。まだ楽しい青春があっただろうにと。
 平和な日本の日常生活からは想像もつかない別世界だ。何と美味しい水よ! 英霊たちがどんなに欲しがつたか知れない水よ!一雫でも飲ませてあげたかった!
 昼間は洞窟に籠もり、夜襲をかける戦場では、谷のせせらぎの水を汲みには行けない。どんなに水が恋しかったことだろう。アメリカ軍は日本とのペリリユー戦で、上陸作戦史上、最高の損耗率を出した。米・太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督は、勇ましく戦った日本将兵を讃えて、次のような詩を残して本国に引き上げた。
 諸国から訪れる旅人たちよ
 この島を守るために日本軍人が
 いかに勇敢な愛国心で戦い
 そして玉砕したかを伝えられよ
   
 アメリカという国は、国家のために戦った軍人を心から讃え、畏敬の念を持つ国である。戦いが終わり数十年経てもなお、一機でも墜落機があるという情報が入ると、直ちに数十人の団員を引きつれて捜索にやってくる。だからこそ、アメリカの軍人たちは国家に忠誠を尽くし、戦死しても報われるのである。
 日本は残念ながら、戦前の国家・国民・軍人は悪というレッテルを占領軍によって貼られ、数十年経った現在も洗脳から解けていない。日本政府は、平和な日本の礎になられた多くの先人たちの遺訓に耳を傾けることもなく、真撃な慰霊も行わない。


■厚労省への怒り

 最近、遺骨収容を巡って驚くべき事件が、フィリピンを舞台に起きた。平成十八年にできたばかりのNPO法人が、何と手数料を払って日本軍人の遺骨を集めていたのだ。何という悲しい出来事だろう! この団体は四十余名の国会議員を顧問に迎え、有名人を使って募金活動をし、遺族からも莫大な浄財を譲られ、国からも七千万円を越える支援を受けての結果だ。
 厚労省は入札の結果と発表したが、彼等より十数年前から同じ活動をしている私のNPO法人には何ら入札の知らせもないし、国家から遺骨収容活動にただの一度も支援を受けたこともない。
 厚労省職員の心ない応答や考え方に、民間団体はどんなに泣かされてきたかしれない。
 いま、厚労省の事務室の続きの部屋には、日本将兵の遺骨として売り買いされて遠い異国の日本に連れて来られたフィリピン人の女性、子供も含む数千体の遺骨が、麻袋に入ったまま山積みされているという。
 フィリピンの遺児の一人が、数珠を持って時おり読経に行っている。
 私は過去に、厚労大臣に二度、直訴状を出したが梨の礫(つぶて)だった。日米合同遺骨収容活動の報告と今後の課題を詳細に報告書に書いたが、返事も来なかった。そんな体質の厚労省に、遺族たちは諦めとも怒りともつかない思いを抱き続けてきた。
  ・・・
 まさか盗んだ骨を埋めて、骨を見付けたと連絡してきていたとは。莫大な報酬を情報提供者に払い、現場の案内料や船の費用、密林を走るバスや乗用車の賃貸料を吊り上げる結果になっていたのだ。

 安倍首相が、硫黄島視察。2013/04/14産経
 首相は、遺骨収集事業の強化を示している。遺族は「最後までやり遂げて欲しい」と強い想いを寄せている。


◇東京裁判は、マッカーサーが自らを「極東の統治者」
     だと印象づけるための政治ショーだった

      〜敗戦から79年。なぜ我が国は繁栄しているのか?〜

 雨が降っていた。正確な日時は覚えていない。旧制湘南中学校の学生だった石原慎太郎(元東京都知事)は、隣に住む大学生に連れられて東京裁判の傍聴に行った。父、潔がどこからか傍聴券を手に入れてくれたからだった。
 法廷があったのは、大戦中は大本営陸軍部が置かれた東京都新宿区の陸軍士官学校(現市ケ谷記念館)。2階の傍聴席につながる大理石の階段を上がると踊り場で進駐軍の憲兵(MP)に肩をつかまれた。
 「キッド(小僧)!」
 大声で怒鳴られたが、何を言っているのか分からない。大学生が「『うるさいから下駄(げた)を脱げ』と言ってるぞ」と耳打ちした。仕方なしに下駄を脱ぐと、MPは下駄をけり払った。石原ははいつくばって下駄を拾い、胸に抱いてはだしでぬれた階段を上った。
 傍聴席から下を見下ろすと、被告席にA級戦犯として起訴された被告がずらりと並んでいた。元首相の東條英機の顔も見えた。
 英語なので何の審理をしているのか、さっぱり分からなかったが、戦勝国が「支配者」として一方的に敗戦国を裁こうとしていることだけは伝わった。
 あの屈辱感は今も忘れない。
 東京裁判の法廷は、ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判の法廷を模してつくられた。
 かつて天皇の玉座だった講堂の正面部分は無残に破壊されて通訳席となり、判事席と被告席が対面するよう配置された。
 1946年5月3日から48年11月12日まで続いた東京裁判は、連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーが、自らを「極東の統治者」として演出するための政治ショーでもあった。被告席は傍聴席から見やすいよう配置され、被告の顔が記録フィルムにくっきり写るよう照明は増設された。
 45年8月30日、愛機バターン号で厚木飛行場に到着したマッカーサーは、その日のうちに米陸軍対敵諜報部隊長(准将)、エリオット・ソープにこう命じた。
 「戦争犯罪人の逮捕者リストを作れ。そしてまずトージョーを逮捕しろ」
 指令を受けたソープは当惑した。リストを作成しようにも戦争遂行に関与した人物どころか、日本政府の指導体制や大戦の経緯など基礎知識がほとんどなかったからだ。もちろん東條の自宅さえ知らなかった。
 作業が遅々として進まぬことにいらだったマッカーサーは9月8日にソープを呼び出し、怒鳴りつけた。
 「私の命令が10日間も実行されないのは前代未聞だ。48時間以内にリストを提出しろ!」
 追い詰められたソープはふと思いついた。
 「そうだ。マッカーサーはトージョーと言っているのだから、とりあえず真珠湾攻撃を仕掛けたトージョー内閣の閣僚を中心にリストを作ればよいのだ…」
 こうしてソープは翌9日に40人近いリストを作成した。日本軍に協力した元フィリピン大統領やビルマ独立義勇軍のアウン・サン(少将)まで含まれるずさん極まりないリストだったが、これを基に戦犯容疑者の一斉拘束が始まった。
 「居所が分からない」とされた東條は東京・世田谷の自宅にいた。AP通信記者からこの情報を聞いた連合国軍総司令部(GHQ)は、9月11日にMPを拘束に向かわせたが、東條は直前に短銃自殺を図った。何とか一命を取り留めたが、その後もGHQの失態は続き、キーマンとなる人物が相次いで自殺した。
 近衛文麿はその象徴だといえる。37年7月の日中戦争開戦時の首相で、41年の日米開戦直前まで首相を務めた近衛は、日本の戦争責任を追及する上で最重要人物だったが、どうやらGHQは気づいていなかった。
 その証拠に、近衛は終戦後の東久邇宮内閣に国務大臣として入閣し、45年10月4日にはマッカーサーが直接会って憲法改正を指示している。この時点では、GHQは従順な近衛に占領政策の一翼を担わせる考えだったのではないか。
 近衛は戦犯リスト入りをひそかにおびえていたが、GHQが相次いで発表する追加リストにその名はなかった。11月9日には米戦略爆撃調査団から日中戦争の経緯などを3時間も追及されたが、19日発表のリストにも名前がなかった。
 そこで近衛はようやく安堵したようだが、12月6日に突如としてリストに名を連ねた。近衛は出頭期限の16日、東京・荻窪の自宅で「戦争犯罪人として米国の法廷で裁判を受けることは耐え難い」と書き残して青酸カリで服毒自殺した。
 近衛のリスト掲載が遅れたのは、中国が南京の軍事法廷への引き渡しを要求したこともあるが、GHQが大戦の経緯を理解していなかったことが大きい。
 近衛の自殺により、「軍人だけでなく文官も戦争犯罪人として処罰する」というマッカーサーの構想はもろくも崩れ、戦争への関与が極めて薄い元首相、広田弘毅が代わりに処刑されることになった。
 東京裁判のずさんさは数え上げれば切りがない。検事団も判事団も戦勝国のみ。A級戦犯の「平和に対する罪」は終戦近くになって編み出された概念にすぎない。戦勝国に不都合な被告側の証言は通訳を停止し、記録に残さなかった
 しかも被告の選定には、戦勝国の利害が露骨にからんだ。
 1946年4月10日、GHQはA級戦犯26人を確定した。ところが、遅れて来日したソ連検事団が、日ソ間の協定で解決済みの張鼓峰事件(38年)とノモンハン事件(39年)を蒸し返し、元駐ソ大使の重光葵と元関東軍司令官の梅津美治郎の追加をねじ込んだ。
 重光が禁錮7年の刑となったことには首席検事のジョセフ・キーナンにも自責の念があったようだ。後に重光の弁護人に「重光が無罪になることを期待する十分な理由があり、有罪となって非常に困惑した」と手紙で吐露している
 そんな戦勝国の一方的な裁判に正面から異を唱えたのが東條だった。
 キーナンによる東條への尋問は47年12月31日から48年1月6日まで続いた。
 キーナン「米国は日本に軍事的脅威を与えたのか?」
 東條「私はそう感じた。日本もそう感じた」
 東條はこう語り、米国にハル・ノートを突きつけられ日米開戦が避けられない状況だったことを縷々説明し、キーナンの「対米侵略戦争論」をはね返した
 東條は尋問直前に提出した口述書でも「この戦争は自衛戦であり、国際法には違反せぬ。(略)勝者より訴追せられ、敗戦国が国際法の違反者として糾弾されるとは考えたこととてない」と主張。その上で「敗戦の責任は総理大臣たる私の責任である。この責任は衷心より進んで受諾する」と結んだ
 自らも認めた通り、東條が大戦時の指導者として多くの兵や国民を死なせた責任は大きい。陸相時代の41年1月に、「生きて虜囚の辱を受けず」の一節を含む戦陣訓を示したことも非難されても仕方がない。逮捕時に自殺を図ったことも不評を買った。
 東條の指導力や先見性にも疑問符がつくが、GHQが貼った「日本のヒトラー」というレッテルはあまりに酷だろう。少なくとも東條が昭和天皇を守る盾になる一心で東京裁判に臨んだことは論をまたない。
 「日本=侵略国、米国=正義」というGHQの世論操作もあり、東條の遺族に対する戦後日本社会の風当たりはすさまじかった
 東條の長男、英隆は父親と反りが合わず軍人ではなかったが、戦後は就職できず、長く妻の内職で生計を立てた。その長男(東條の孫)の英勝は、小学校では誰も担任を引き受けたがらず、友達もいない。よく登り棒の上から教室をのぞいて過ごした。自殺を図ったこともあったという。就職にも苦労したが、「一切語るなかれ」という家訓を死ぬまで守り続けた。
 1972年生まれの東條のひ孫、英利も幼い頃から大人の冷たい視線を感じて育った。小学校の担任教諭は何かにつけて「東條英機のひ孫の…」と接頭語をつけた。
 小学4年の時、母親に連れられてドキュメンタリー映画「東京裁判」を見に行った。被告席で東條が国家主義者の大川周明に頭をポカリと殴られたシーンを見ていると、母から「あれがひいおじいちゃまよ」と耳打ちされた。
 57年に東條英機の妻、かつ子が91歳で死去。玄関に飾られた曽祖父の軍服姿の写真を見て、何となく自分の家族の置かれた状況が分かるようになった。高校では、社会科で世界史を選択した。授業中に教諭に東條英機の話を振られるのが嫌だったからだ。
「私も多少不快な思いをしたけれど父の代に比べればかわいいものです。父に『これだけは誇りを持て』と言われたのが、GHQがいろいろと探したのに不法な金品財宝が一切なかったこと。おかげで貧乏暮らしでしたが、今は曽祖父に感謝しています」
 こう語る英利は、自分の息子の名にも「英」をつけた。重い歴史を背負う東條家の意地だといえる。(2016/04/29 産経)




◇[正論]日本に生まれて私は幸運だった
                     2012/08/06曾野綾子

 我が家では、毎年8月15日の早朝、夫婦で靖国神社に参拝する。靖国に参るのは、軍国主義だなどという人は、全く当時の人間の心を知らない人だ。


■戦死した友への負い目今も

 もう20年も前になるが、私は早朝から総理官邸で行われていた審議会で、隣席に座った方と親しくなった。その方は比較的終戦まぢかに学徒動員で軍務に就いた人だが、都心に出る度に、必ず靖国神社に立ち寄って来るという。
 「僕が生き残って、友達が死んでしまったということに、負い目がありますからね。
  せめてあそこに寄って、数分間、戦死した友達と喋ってくるんですよ」

 戦争の酷さを知って靖国に参る人たちが、ほんとうに筋金入りで戦争を嫌っているのである。  我が家も同じだ。夫は終戦直前、2カ月だけ二等兵であった。それ迄に学校の同級生があちこちで戦死した。一人は小学校の同級生で、夫は彼の家にお線香を上げに行った。すると死んだ友達の母は、彼を家に入れず、玄関に立ったまま言った。
 「あなたが生きていてね、うちの子が死んでしまったってことがどうしても
  納得できないんですよ」

 その言葉は夫の胸に突き刺さった。そして再びその母を悲しませないために、自分がその家を訪ねるのは止めようと思った。
 もう一人の友は飛行隊にいてアンダマン諸島の上空で散った。恐らく遺骨も帰らなかっただろう。
 もちろん戦後、私たちは、何度かインドへ行くためにアンダマン諸島の上を飛ぶ夜行便に乗った。その近くの海域を通る度に、不思議と夫は目覚めるとい一つ。夫はこの人の実家にも行ったことがなかった。だから戦後、家族を訪ねることもできない。夫が彼の魂と出会える場所は、靖国だけなのであった。


■遺骨帰らぬ台湾人のために

 1945年の本土の空襲で、東京も焼け野が原になった。上野の西郷さんの銅像と、銀座4丁目の角、それに渋谷の忠犬ハチ公の銅像くらいが、目印としては生き残ったが、後の町は戦後の区画整理もあって、かつての古い町の面影は留めなくなっていた。
 戦死を予期しながら若い青年たちは、死などという重大なことにどう触れていいかわからなかっただろう。彼らはお互いにこれがこの世で会う最後かと思いつつ、「また会おうな」と曖昧な言葉を言い交わして別れた。その時、お互いの心には、再会の場所として靖国神社があった、と戦前の人は言う。あそこなら、お互いに「迷わずに会える」と思ったのだ。
 まだ青春の初めに生を終えた人と、戦後の繁栄を見られた生き残り組である人との運命の差は、あまりに速いすぎる。ここにも深い負い目が戦争の忌避に繋がっていた。
 私は一人の台湾人のために毎年靖国に参る。その方は、当時日本人としてフィリピンで戦い、日本人として戦死し、その遺体さえついに待ちわびる父母の元に帰らなかった。その父は、最期まで長男の死を認めず、葬式も出さず墓も作らなかった。
 この人生が「安心して暮らせる」場などではなく、常に潜在的にこうした深い矛盾と悲しみに満ちた所だという認識を、なぜ現代の日本人たちは持ち得ないのだろう。生活はたらふく食べられて当たり前の所ではなく、原型は常に飢えの恐れと闘う場なのだということを、私は毎年アフリカへ行く度に教えられている。すべて比較の問題だが、日本ほど整えられて個人の生活が守られている国家というものは他に見たことがない。通俗的に言えば、日本に生まれてほんとうに私は幸運だったのである。


■靖国の社前で何を語るか

 だから私は感謝を示すために、少しは国家のために働こうと思うつ。税金を払うのも当然だし、後期高齢者医療保険もできるだけ使わずに、私よりもっと体の弱い人に廻そうと思っている。
 日本をいい国家だと認めないのも自由だ。しかしそれなら、日本国籍を離れて、その人が日本よりもっといいと思っている国に移住したらどうか。移住する許可を出さない国家さえあるのに、日本はその点も全く自由なのである。
 1945年の終戦以前に亡くなった人たちに、私は今日の日本国家の繁栄を報告したい。しかし現在の日本人の若者の多くは、日本語さえまともに書けず喋れず読書もしない。最近の若い人たちは、もはやコンピューターを内蔵した着ぐるみのように、教えられたマニュアル語しか喋らない。
 或いは、これは高齢者にもいるが、自分が得になることには目の色を変えるが、自分自身は他者のために金も出さず危険も冒す気もない日本人が増えた。敗戦前に死んだ人たちにはかぐざしい、毅然とした魂を持つ人が多かった。
 今年、私は靖国の社前で何を語るだろうか。



◇旧日本兵、ミャンマー辺境で数年前まで生存か:2013/01/29 読売

 ミャンマーの少数民族勢力地域での旧日本兵の遺骨調査に関し、戦後も帰国しなかった旧日本兵が数年前まで生存していたという情報も2件寄せられたという。









◇遺骨収集に担当相:秋提出へ自民が新法検討 2013/06/09北国

 太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島や沖縄、フィリピンなどでの戦没者遺骨収容の加速に向け、新たな法案を策定する検討に入った。遺骨収容にかかわる省庁の連携を強化するための特命担当相の新設や、予算や人員を増やす集中実施期間を設けることが柱となる。
     






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