昭和天皇
  戦争を終結させ国民を救った元首




 昭和天皇の事跡について、[昭和天皇]明成社から抜粋しました。原本には分かり易い注釈と、心温まる実話と写真の数々がおさめられています。是非原文の一読をお薦め致します。
 また、[昭和天皇独白録](文春文庫)についても、抜粋しました。幅の広い視野に立たれ、我が身を賭してでも、常に国民の安寧を思いやられるお心が、ひしひしと伝わってきます。しかも、優秀な参謀でもあられたことに驚きました。加えて、[昭和天皇と大東亜戦争](善本社)からも抜粋いたしました。



はじめに
 まほろば教育事業団と明成社では、『まほろばシリーズ』として、小学生・中学生向けの人物や歴史上の事件を題材とした読み物のシリーズを企画して参ります。今回はその第一弾として、「昭和天皇」をとりあげました。
 平成生まれの子供たちにとって、昭和天皇の記憶はありません。しかし、戦後の復興から現在の日本の繁栄を築いた第一人者は、昭和天皇であったといっても過言ではありません。このブックレットでは、昭和天皇の三大ご聖徳、@終戦のご聖断、Aマッカーサーとのご会見、B全国巡幸、さらに終戦時のマッカーサーにあてた国民の手紙や皇居勤労奉仕団について、子供たちにわかりやすくまとめました。
 本書をご活用いただき、子供たちに、自信と誇り、勇気や希望、感謝の心、勤勉努力などを伝えることができればと念願しております。





昭和天皇ご誕生と帝王学

 昭和天皇は明治三十四年(一九〇一)四月二十九日、大正天皇と貞明皇后の間に、第一皇子として誕生されました。御名を裕仁と申し上げます。
 父の大正天皇は生後まもなく大病を患い、その後も百日ぜきや腸チフスなどにかかり、心身の発達が遅れ、病弱でしたので、健康な皇子のご誕生は、祖父の明治天皇をはじめ、国を挙げての大きな喜びでありました。特に明治天皇は皇孫の成長に特別に期待を寄せられ、学習院進学に際しては、軍神・陸軍大将乃木希典を院長にあてられました。
 厳しい自己規律を求める同校の学風は、親王の人格形成に大きな影響を及ぼしました。親王の登下校にあたっては、乃木は必ず校門に立ち、恭しく送迎し、親王もまた乃木の敬虚な姿に接し、修養に励まれたと伝えられます。
 初等科を終えると、東宮御学問所に入り、さらに帝王学を学ばれました。
 また大正十年三月三日、軍艦香取に乗り、横浜港を出発、イギリスなど五カ国歴訪の欧州の旅に出られました。
 この旅の思い出として「英国でバッキンガム宮殿に三日間泊まって、ジョージ五世陛下に親しくお会いし、イギリスの政治について直接知ることができて参考になった」と述べておられます。
           (昭和三十六年四月二十四日・宮内記者会見)




昭和天皇と今上天皇

 かつてブラジルには多くの日本人が移民しました。そのブラジルから日系人の四世、五世の子供たちが、自らのルーツを求めて、たびたび日本に来て研修しています。子供たちは、全国各地を訪れ、さまざまな人々と会うのですが、彼らが特別にお会いしたいと希望した人がありました。誰だと思いますか。それは天皇陛下です。そこで、平成十年頃、天皇皇后両陛下は、ブラジルの日系人の子供たちを皇居へお招きになり、一人一人に声をかけて、励まされました。子供たちは、両陛下の優しいお人柄に接して感動しました。ブラジルの日系人が、日本人のルーツを求めて最後にたどり着いたのが、天皇陛下だったのです。
 そして、ブラジルの子供たちとお会いになった現在の天皇陛下(今、天皇の御位にある方を今上陛下とお呼びします)のお父様にあたられる方が、この本で学ぶ昭和天皇です。られ、励まされました。子供たちは、両陛下の優しいお人柄に接して感動しました。ブラジルの日系人が、日本人のルーツを求めて最後にたどり着いたのが、天皇陛下だったのです。
 そして、ブラジルの子供たちとお会いになった現在の天皇陛下(今、天皇の御位にある方を今上陛下とお呼びします)のお父様にあたられる方が、この本で学ぶ昭和天皇です。
     




大東亜戦争とご聖断

 昭和の時代には、大東亜戦争(太平洋戦争)がありました。今は、日本とアメリカは友好国ですが、昭和の初めの頃はいろいろな考え方の違いから対立していました。昭和天皇は、両国の平和と友好を願われ、政府も打開の道を探りましたが、日本はしだいに追いつめられ、昭和昭和十六年に日本と、アメリカを中心とする連合国(米・英・オランダ・中国、後に旧ソ連)との間で戦争が始まってしまったのです。昭和天皇はとても残念に思われました。
 戦争は、はじめのうちは日本軍が優勢でしたが、ついに日本本土もアメリカ軍の攻撃を受けるようになりました。
 昭和二十年三月十日、アメリカ軍は東京を無差別爆撃し、一夜のうちに十万人もの一般民間人を殺傷しました(東京大空襲)。続いて三月末には沖縄県にもアメリカ軍が上陸します。日本軍と沖縄県民は、激しく抵抗しましたが、二十万人あまりの死者を出して沖縄も占領されてしまいました。八月には、広島と長崎に人類史上初めて原子爆弾が投下され、それぞれ、十万人近い人々が一瞬にして殺傷されました。

■無差別爆撃
 民間人の殺傷は重大な国際法(ジュネーブ条約)違反である。

 アメリカは日本に対し降伏を迫ってきました。八月九日には、旧ソ連(現ロシア)も日本へ戦争を仕掛けてきました。
■ソ連の参戦
 旧ソ連の攻撃は、日本との間に結ばれた日ソ中立条約に違反して行われた。

 日本にはもう勝ち目がなくなってきました。しかし、連合国の示した降伏条件のポツダム宣言を受け入れるかどうか、日本政府は意見がまとまりません。
■ポツダム宣言
 アメリカ・イギリス・中国が日本への降伏条件を示した宣言。
 日本国軍隊への無条件降伏などが謳われていた。
 ただし、日本政府に対する無条件降伏ではなく、有条件降伏であった。
 [ポツダム宣言]参照。


 日本は、アメリカ軍による爆撃で散々にやられていましたが、なお約七百万人の日本軍が国の内外にいて、決戦の準備を進めていました。多くの軍人や国民は、まだ戦いを続ける気持ちでいたのです。
 とうとう天皇陛下に会議へのご出席をいただくことになりました。昭和二十年八月九日深夜、場所は宮中の防空壕の中の部屋です。
 会議では、陸軍大臣や参謀総長が、本土決戦によって相手に打撃を与えた後に名誉ある条件で戦争をやめることを訴え、外務大臣はポツダム宣言を受け入れて直ちに降伏することを主張しました。原子爆弾の投下やソ連軍の満州への侵入で、事態は緊迫しています。しかし、これまでの会議と同じで、お互いに譲らず、結論が出せません。昭和天皇は、二時間半じっと皆の意見に耳をかたむけておられます。鈴木貫太郎総理大臣は天皇陛下の前に進み、丁寧に礼をして、次のように申し上げました。
  「ただ今お聞きの通り、意見がまとまりません。
   なにとぞ思召(お考え)をお聞かせ下さいませ」

 陛下は、それに応えてお言葉を述べられました。
  「それならば自分の意見を言おう。自分の意見はポツダム宣
   言を受け入れるという外務大臣の意見に同意である」

 天皇陛下がこのような場面ではっきりとご自分の意見を述べられるのは、ほとんど例のないことでした。これまで、天皇陛下は政府の意向(考え)を尊重され、その決定にのっとって慎重にご発言してこられたのです。しかし、これ以上国民を一人たりとも死なせたくはないとのお気持ちから、お言葉を述べられたのでした。
 このお言葉が終わった瞬間、大臣たちの目からはらはらと涙が落ちました。次の瞬間それは号泣になりました。陛下は白い手袋をはめたままの指で眼鏡をぬぐつて、頬をしきりに手でぬぐわれましたが、ついに天皇陛下もお泣きになっていたのです。

 そして、陛下はしぼり出すようなお声で次のように仰せられました。
  「念のため理由を言っておく。このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか、
   自分は非常に心配である。あるいは日本民族は皆死んでしまうかもしれない。
   そうなったらどうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。
   自分の任務は祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。
   今となっては一人でも多くの日本人に生き残ってもらい、
   その人達に将来再び起ち上がってもらう外に、
   この日本を子孫に伝える方法はないと思う。
   それにこのまま戦いを続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。
   堪え難く、忍び難いことであるが、自分は明治天皇の三国干渉の時のお心持も考え、
   この戦争をやめる決心をした」

■三国干渉
 明治二十八年(一八八五)日清戦争に勝利して正式に条約を結び、日本が得た遼東半島を、独・仏・露の三国が圧力をかけて無理矢理清国へ返還させたが、その後遼東半島に関る権益をロシアなどが奪い取ってしまった事件。当時、三国を相手に戦う力のなかった日本は恥辱に耐え、富国強兵に邁進し、十年後の日露戦争で雪辱を果たした。

 この昭和天皇のご聖断によって、日本の国と国民は救われました。
 昭和二十年八月十五日、ご自身の身を捨てても国民を救いたいという陛下のご決意が、ラジオ放送で全国民に示され、中国大陸やアジア各地で戦闘中だった数百万人の日本軍はいっせいに武器を捨てました。戦争は終わったのです。

  <<爆撃に たふれゆく民の 上をおもひ いくさとめけり
    身はいかならむとも
  >>
   〔爆撃の被害で死んでいく国民のことを思って戦争を終らせた。
    自分の身はどうなってもかまわない〕

 昭和天皇がこの御製(和歌)をお詠みになったのは、昭和二十年、日本が敗戦した直後のことです。この時、陛下は御歳四十四歳でした。
■陛下のご決意
 昭和天皇のご聖断は、八月九日の深夜(八月十日未明)だけではなく、八月十四日にも下された。九日の会議の後、日本政府は国体護持を唯一の条件としてポツダム官一言受諾の意志を連合国側へ送信したが、連合国側が「天皇」は「連合軍最高司令官の従属の下に置かるる」と回答(バーンズ回答)したため、再び抗戦論が台頭した。このときも昭和天皇は、「要は国民全体の信念と覚悟の問題である」として終戦を決断される。そして、御自ら終戦の勅書を録音され、これが翌日全国にラジオ放送されたのである。なお本文の天皇のお言葉は両日のお言葉の内容を要約したものである。

 ■産経:なぜ米軍は東京大空襲を機に無差別爆撃に踏み切ったのか? 2015/03/05
 先の大戦中の東京への空襲は百回を超えるが、昭和20年3月10日の「東京大空襲」を機に、米軍は、一般市民をターゲットにした無差別爆撃に舵を切った。なぜ米軍は戦術を転換したのか−。
 20年1月20日、後に「米空軍の父」と言われる米陸軍航空軍司令官のヘンリー・アーノルド大将(後に空軍元帥)は、爆撃で成果を上げられない日本空爆の指揮官、ヘイウッド・ハンセル准将を更迭し、欧州戦線などの爆撃で成果を上げたカーチス・ルメイ少将(後に空軍大将)を任命した。
 ルメイ氏は、それまでの軍需工場への精密爆撃をやめ、一般市民を多数巻き込む無差別都市爆撃を計画した。ルメイ氏は戦後、自著で無差別爆撃を「全ての日本国民は航空機や兵器の製造に携わっている」と正当化している。
 さらにルメイ氏は、高度1万メートル近い高高度昼間爆撃から2千メートル前後の低空夜間爆撃に切り替えた。爆弾搭載量を増やすため機銃の大半は取り外させた。3月の時点で護衛戦闘機はなく、もし敵戦闘機に襲われても反撃のすべはない。B29搭乗員の多くは「死の宣告」と受け止めたという。
 ただ、無差別爆撃の責任をルメイ氏一人に押しつけるのは酷だろう。
 背景には、すでに日本陸海軍の組織的反撃は困難となり、米軍が日本本土上陸を想定するようになったことがある。無差別爆撃により日本の厭戦気分を高めるとともに、都市部を壊滅させることで速やかに占領しようと考えたようだ。
 防衛大学校の源田孝教授(軍事史)は「当時ルメイ氏は少将にすぎない。爆撃は全てアーノルド大将の命令で実行された。ルメイ氏は組織人として上官の期待に忠実に応えただけだ。無差別爆撃への転換には『米兵の死傷者を少なくしたい』という米政府の思惑がからんでいた。日本への原爆投下の正当化と同じ論理が見てとれる」と語る。
 その証拠に米国は昭和18年、ユタ州の砂漠に日本の木造長屋を再現し、焼夷弾による燃焼実験を行っている。やはり無差別爆撃は「米国の意思」だったとみるべきだろう。
 フランクリン・ルーズベルト米大統領が、昭和14年にソ連軍がフィンランドに無差別爆撃を行った際、「わが国政府並びに国民は、非武装市民への爆撃や低空からの機銃掃射、これら卑劣きわまる戦争行為を全力をもって糾弾する」と、声明を発表した。ルーズベルト氏は東京大空襲直後の昭和20年4月12日に死去したが、日本全国で繰り広げられた無差別爆撃、そして広島、長崎への原爆投下をどう抗弁するつもりだったのだろうか。
 ■産経:帝都を襲った“赤い悪魔” おぶった子の死を気付かぬ母も。2015/03/06
 昭和20年3月10日の東京大空襲で米軍B29爆撃機が主に投下したのは「M69油脂焼夷弾」だった。着地と同時に引火、1300度で燃え上がり、30メートル四方に火炎を飛散させる。この焼夷弾計38発が集束型爆弾内に収められ、投下後数秒で散解する仕組みだった。
 3月10日の大空襲で米軍は、計325機が出撃し、東京に計1600トンを投下した。東京35区の3分の1以上の41平方キロメートルが焼失した。被災家屋は26万超、罹災者は100万人超、死者数は推計10万人を超えた。多くは猛火に巻き込まれて死亡したが、焼夷弾の直撃を受けた人もいた。猛火を逃れても酸欠や一酸化炭素中毒で命を落とす人も少なくなかった。
 昭和20年3月9日。翌3月10日は陸軍記念日。巷では、この日を狙って米軍が大規模な空襲を仕掛けてくるのではないかといううわさが流れていた。
 9日午後10時半、警戒警報が発令されたが、ほどなく解除された。東京都浅草区(現台東区)に暮らす相原孝次(85)は、多くの都民と同様に、いつでも避難できるよう靴下を履いてゲートルを巻き、枕元に鉄カブトや防空頭巾を置き、眠りについた。
 10日午前0時15分。相原は父の鋭い声「空襲警報だ!」にすぐさま飛び起きた。空襲警報が発令され、すでに複数の地域で火の手が上がっていた。焼夷弾は地上に落下すると青白い閃光を発し、シューシューと燃え広がった。激しさを増す焼夷弾の雨。相原は父とともに、千葉の親族の元に行こうと逃げ回ったが、途中で炎の壁に囲まれた。
 「この炎を突き抜けるしかない。倒れたら終わりだ…」。父子は意を決して炎の中を駆け抜けた。炎でまつげが焦げ、閉じていた目がなかなか開かない。途中で強風にあおられて飛んできた何かの塊が左顔面に直撃した。それがもとで数年後に左目の視力を失った。だが、その時は命が助かったことがうれしくて親子で抱き合った。ふと振り返ると、両国の方で高さ数十メートルはあろうかという火柱が何本も立ち上っていた。
 上空を見上げると、低空を悠々と飛ぶB29の群れ。銀色のジュラルミンをむき出しにした機体は地上で燃えさかる炎を照り返し、真っ赤に染まっていた。その真っ赤な腹が開くと焼夷弾が無数にばらまかれ、さらに大きな炎を作り上げた。相原の脳裏にはなお、あの光景が焼き付いている。「あれは赤い悪魔だ…」
 東京大空襲があった昭和20年3月10日未明、5歳になったばかりだった立川国紀(75)は、空襲が始まると、8歳の姉や、3歳、1歳半の妹とともに、母に手を引かれ、東京都深川区(現江東区)の自宅を飛び出した。
 焼夷弾は至る所で猛火を起こし、熱気で体中から汗が一斉に噴き出した。逃げまどう多くの人が火の粉をかぶり、互いに消しあった。母子が向かったのは、関東大震災の際も多数の人が逃げ込んだ清澄庭園(江東区清澄)だった。すでに人であふれかえり、押し潰された人もいた。立川も転んでしまって見知らぬ人に踏みつけられ、母と姉に助けられた。庭園の中に走り込み、そのままバタリと倒れ死んでしまった人がいた。全身に大やけどを負い、髪の毛も焼けていた。体形から男性だろうと思ったが、よく分からない。若い女性が小さな赤ん坊を抱いたまま「お父ちゃんが死んじゃった」と泣いていた。
 B29の機影が去り、空襲警報が解除されたのは10日午前2時37分。2時間以上の無差別爆撃はいったん幕を閉じたが、その惨状が分かったのは夜が明けてからだった。
 上野動物園の裏手にあった防空壕に逃げ込み、一命をとりとめた平井道信(79)は、夜が明けて防空壕から出たときの光景が忘れられない。
 上野の山の西郷隆盛の銅像下から周囲を見渡すと、残っているのは上野松坂屋デパートや浅草松屋デパートの建物ぐらい。その他は全て焼き尽くされていた。人の気配や生活音は感じられない。平井はそこはかとない恐怖を感じた。
 大森区(現大田区)に嫁いでいた玉生うめ子(97)は、深川区の実家にいた母と弟の消息を尋ねて隅田川を渡り、惨状に目を覆った「町中すべてが真っ白けなんです。どこもかしこも人がゴロゴロと死んでいました」。
 国民学校に多数逃げた人がいると聞き、そこに向かった。校門左手にあったプールには肌が焼けただれた人がぎっしりと水中に入っていた。誰もが煤で真っ黒で目だけがギラギラと光っていた。講堂で横たわっている母は「橋の近くの公衆便所に逃げ込もうとしたけれど満杯で入れず、橋桁の下に隠れたのよ。公衆便所は焼け、そこに逃げた人はみんな死んでしまった…」と語った。
 堀越美恵子(80)は東京方面で焼け出され、橋を渡ってくる人々の行列を見て驚いた。誰もが髪が焼け、やけどを負った肌をさらしていた。背負った子供が亡くなったことに気付いていない母親もいたが、「子供の体が残っていればまだいい方。中には首や腕、足がなくなった子供を背負っている母親もいました。誰もが放心状態で目はうつろ。その様子は、地獄絵図でした」と、語った。



マッカーサーとの会見

 日本が降伏すると、アメリカ軍が日本に進駐してきました。敗戦の日から一ケ月あまり経った九月二十七日、昭和天皇は連合国軍最高司令官のマッカーサーと会見されました。天皇陛下のお車がマッカーサーの待つ東京のアメリカ大使館に到着しました。ところがマッカーサーは出迎えもしません。
 彼は、「天皇はどうせ命乞いをしに来たのだろう」と思い、部下たちにも「出迎えも見送りもしない」と宣言していました。マッカーサーの知っている世界の国々の国王は、戦争に負けると相手国に命乞いをして、たいてい国外に逃げ出していたので、日本の天皇もそうだと思っていたのです。
 奥の部屋に通された天皇陛下はマッカーサーに丁寧にお辞儀をなされ、次のように言われました。
「日本が戦争をしたことについての責任はすべて私にあります。
 また、軍人及び政治家の行為もすべて私の責任です。
 私をどのように扱うかはすべてあなたにお任せします」

 このお言葉を聞いて、マッカーサーは大変驚きました。命乞いどころか、天皇は国民のために自分の命を捨てる覚悟なのです。その昭和天皇のお姿を目の前に見て、マッカーサーは心の底から感動したのです。会見が終わり、陛下がお帰りの時には、マッカーサーは陛下を丁重にお見送りしました。
 昭和天皇はこの会見の中で、食糧が極度に不足し飢えに苦しむ国民を救ってほしいとマッカーサーに願われました。昭和天皇を尊敬するようになったマッカーサーは、天皇陛下が願われた通りに、本国のアメリカから大量の食料を日本に届けさせました。一千万人以上が餓死するであろうと予想されていた当時の日本国民は、これによって救われたのです。
※朝鮮戦争が始まり、マッカーサは共産主義国の恐ろしさを知りました。
 彼は米国の会議で、日本の大東亜戦争に対して、共産主義の浸透を防ぎ、
 ABCD包囲による経済封鎖(原油・鉄・ゴムを含む資源を日本に輸出しない)
 からの自尊自衛のための戦いであったと、正式に述べています。
 ([マッカーサ証言]参照) 登録者より



国民のマッカーサーへの手紙

 その頃、アメリカやオーストラリアなど連合国の間で、敗戦国の元首である天皇を処罰せよとの声が高まっていました。戦争で多くの犠牲者を出したこれらの国々では、日本に対する恨みの矛先が天皇陛下に向けられたのです。このことが日本に伝わると、千人を超える日本人が次のような手紙を書いてマッカーサ一に送りました。日本国民は、天皇が平和を願われ、国民のために尽くされていることをよく知っていたのです。そのうちの一枚を紹介します。
「今上天皇は御歴代の天皇の中で一番ご苦悩の多いご不幸な
 天皇でおいで遊されます。それを思うといつも涙が流れてま
 いります。……天皇をお守りするために、天皇の御安泰を保
 証される代りならば、ほんとうに私共の生命をよろこんで
 閣下のお国へ差し上げます」(伊藤タカ)

 この当時、絶大な権力を持つマッカーサー宛に手紙を送るのは、とても危険なことでした。連合国軍ににらまれた日本人は、次々と逮捕されていたからです。それでもこの手紙には、正々堂々と差出人の住所や本名が記してあり、“血判”が捺してありました。正に、命がけの“直訴状”だったのです。また、実際に手紙を出したのは千人あまりでしたが、日本人の大部分も同じ気持ちでした。
 マッカーサーは届いた手紙に目を通しました。国民を救うために命を捨てようとされる天皇、そして、天皇を守るために命を捧げようとする日本国民。これがマッカーサーの目に焼きついた日本の姿でした。(※尚、マッカーサーは天皇陛下を東京裁判に立たせることに反対しています。)



皇居勤労奉仕のはじまり

 戦争が終わった後も、天皇陛下のお住まいである皇居の周辺は爆撃によって荒れ果て、手入れする人が少ないため雑草が生い茂っている場所もあちらこちらにありました。
 終戦から四ケ月ほどたった十二月の初めのことです。皇居の坂下門の外に六十人ほどの青年たちがやって来て、門を警護していた皇宮護衛官に言いました。
「私たちは宮城県栗原郡の村々からまいった者です。
 二重橋の前の広場に雑草が生い茂ってたいへん荒れている
 ということを聞きましたので、
 草刈りやお掃除のお手伝いができればと思い、上京してきました」
 これを聞いた護衛官がすぐに宮内省に連絡すると、宮内省の職員がやって来て、事情を尋ねました。青年たちはアメリカの進駐軍から検挙されることも覚悟の上で上京してきたのです。これを知った宮内省は驚きましたが、青年たちの熱意を感じて次のようなお願いをしました。
「遠路はるばる、ありがたいことです。せっかく来られたのだから、二重橋の前はもちろんお願いしますが、もしできるなら、皇居の中を片付けていただけませんか。皇居の内は人手不足のため、宮殿の焼け跡にはいまだに瓦などの破片が到るところに山積して、陛下も心を痛めておられるのです」
「皇居の中ですか。もちろんですとも」

 皇居内で奉仕作業ができるとわかった青年たちの顔は、喜びの表情に満ちあふれました。
 このことはすぐに天皇皇后両陛下に伝えられました。すると昭和天皇は、仕事の始まる前にぜひ青年たちに会いたいと仰せになりました。
 作業開始の日の朝です。青年たちの方へ歩いてこられた天皇陛下はのお姿を拝した青年たちは、信じられない光景に驚き、喜びました。みんな仕事の手を止めて、陛下の元へ集まってきました。
 天皇陛下は、青年たちの方にお近づきになり、次々にお聞きになりました。
「遠いところから来てくれて、まことにありがとう」
「どうやってここまで来たか」
「郷里の米作りの具合はどうか」
「地下足袋は手に入るか。肥料の配給は 充分にあるか」
    

 十分間ほどお話があり、最後に、「何とぞ国家再建のために、たゆまず努力してもらいたい」と仰せになり、青年たちとお別れになりました。
 陛下がお帰りになろうと、数十歩お歩きになつたその時です。突如、その青年男女は、『君が代』を歌い出したのです。アメリカ軍の占領下にあった当時の日本では、国歌『君が代』を歌うことはできませんでした。しかし、この青年たちは、『君が代』で天皇陛下をお見送りせずにはおれなかったのです。その歌声に、天皇陛下は、はたと歩みを止められ、じつと聞き入っていらっしやいました。そのお姿を拝した青年たちは、万感胸にせまり、歌声はとぎれとぎれとなり鳴咽の声へと変わっていきました。
 その後、この話は全国へと伝わり、各地方から次々に皇居の勤労奉仕に人々がやってくるようになりました。そして、皇居勤労奉仕は、平成の今も続いており、奉仕した人は百万人以上にものぼっています。



全国巡幸

 昭和天皇は、マッカーサーとの会見の後、今度は、全国各地をまわり、戦争で傷ついた国民をなぐさめ、励まそうとされました。昭和天皇は、だれよりも強く日本の再建を願っておられ「この日本を再建させるために日本全国をまわって、一人でも多くの国民と会うのだ。そして一人ひとりを励ましたい」
 こうして、全国巡幸は始まりました。
 昭和天皇は、当時アメリカの軍政下におかれていた沖縄をのぞいて、全都道府県、千四百十一ケ所をおまわりになりました。

   「戦ひの禍ひ受けし国民の
       思ふ心に出て立ちて来ぬ」


■沖縄
 沖縄には、終戦後の全国巡幸でただ一県行幸がなかったが、昭和六十二年、沖縄海邦国体開催を機に、昭和天皇の行幸が決定された。天皇は、沖縄行幸を何より心待ちされていたが、急なご病気のため皇太子殿下のご名代訪問となった。行幸が正式に中止となった後、昭和天皇は、次のような御製を詠まれている。
  「思はぎる病となりぬ沖縄を
     たづねて果さむつとめありしを」

 昭和二十一年(一九四六)二月の神奈川県への行幸を皮切りに、同二十九年八月の北海道巡幸まで足かけ八年半もかかっています。当初は、爆撃で宿泊施設も破壊されたままの所が多く、天皇陛下は列車の中や学校の教室にお泊りのこともありました。
 昭和二十四年には、九州各県を行幸なさいました。五月二十四日、佐賀県基山町の因通寺に行幸された時のことです。この寺には、戦争で親を亡くした子供たちのための洗心寮という養育施設があり、四十名の子供たちが入所していました。洗心寮の各部屋に控えている一人一人の子供たちに、天皇陛下はできるだけ平易なお言葉でお声をかけていかれました。
  「どこから」
  「満州からです」
  「ああ、そう。おいくつ?」
  「七つです」
  「りつばにね。元気にね」

■ソ満国境
 ソ連と満州の国境。
 八月九日未明よりソ連軍一五八万が満州へ侵攻を開始。
 主力部隊を南方戦線へ抽出されていた関東軍(満州に駐留していた日本軍)は、戦術的に後退し、大連−新京の線に戦力を集中(後に朝鮮死守に変更)してソ連軍を迎撃する作戦を立てた。この際、避難勧告に従わなかった(もしくは知らされていなかった)在留邦人に多くの犠牲者が出た。
 なお、今日ソ連軍の攻撃に対し日本軍は無力であったとの説が信じられているが、実際は停戦命令を受領していない日本軍は徹底抗戦し、数に優るソ連軍を相手に一歩も退かなかった。停戦命令が日本軍の間に広がると、ソ連軍は大幅に占領地域を拡大、日本兵を極寒のシベリアヘ連行し、何年にもわたって過酷な労働を強いた。共産主義に賛同した者から順に日本への帰国が許されたという。
 因通寺の参道では、これら共産主義に洗脳された元日本兵らが、昭和天皇をつるしあげるべく待ち伏せしていたが、天皇から「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」とのお言葉をかけられると、一同皆が「俺が誤っておった、俺が誤っておった」と言って泣き伏したという。

■引き揚げ
 外地で生活していた者が、その生活の基盤を捨てて故国にかえること。昭和二十年の敗戦の時点で、海外に軍人・軍属、民間合計で約六百四十万人の引き揚げ者がいた。

 一番最後の部屋で、突然、天皇陛下は立ち止まられ、姿勢を正されました。陛下が見つめられた女の子は、二つの位牌を抱いていたのです。
  「お父さん、お母さん?」
と、お尋ねになりました。
  「はい。これは父と母の位牌です」
  「どこで」
  「父はソ満国境で。母は引き揚げの途中で亡くなりました」

 天皇陛下は、じつとこの子の顔をご覧になり、
  「お淋しい?」
と、それはそれは悲しそうなお顔でお言葉をかけられました。
 すると、女の子は首を横にふり、こう言ったのです。
  「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子供です。
   お父さん、お母さんに会いたいと思うとき、み仏様の前に座ります。
   そして、そっとお父さん、お母さんと呼びます。
   すると、お父さんもお母さんも、そばにやってきて、
   私をそっと抱いてくれるのです。
   淋しいことはありません。私は仏の子ども供です」

 天皇陛下は、この子の前に歩み寄られ、二回、三回と頭を撫でられ、
  「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」
とおっしゃって、はたはたと涙を流されました。

   みほとけの 教へ守りて すくすくと
     生い育つべき 子らに幸あれ

   〔仏様の尊い教えを守ってすくすくと成長するはずの
    子どもたちに、幸せがかならずおとずれてほしい〕

 この時、昭和天皇がお詠みになつた御製の碑が、今、因通寺の境内に立っています。



戦後の復興

 北は北海道から、南は九州鹿児島まで、昭和天皇をお迎えした国民の間には、いたるところで感動の渦が巻き起こりました。
 長崎医大病院で陛下をお迎えした永井隆博士は、「陛下がお歩きになると、そのあとに万葉の古い時代にあった、なごやかな愛情の一致が起って日本人が再び結びつく」と書きました。
 当時、家族を失い生活も困窮していた上に、敗戦によって自暴自棄になっている国民も多かったのですが、陛下が各地をまわられ、「日本再建のために努力して下さい」とおっしゃるたびに、人々は生きる希望や勇気を取り戻し、工場や農業の生産が増えてゆくのでした。
 こうして、日本は戦後の復興を成し遂げるのです。日本は、アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国になりました。
 しかし、そのなかでも、陛下は戦争の苦難の歴史を常に心にとどめられ、戦没者のことを偲ばれました。
 昭和六十三年(一九八八)八月十五日、昭和天皇は重いご病気にもかかわらず、全国戦没者追悼式に臨まれました。この時、側近の人はご名代(代理)として皇太子殿下のご出席を考えましたが、「どうしても自分で行かねばならない」と昭和天皇はおっしゃられ、栃木県那須でのご療養地から東京までヘリコブターでかけつけられたのです。
■全国戦没者追悼式
 昭和五十七年四月十三日の閣議決定「『戦没者を追悼し平和を祈念する日』について」に基づき、毎年八月十五日に日本武道館で開催される政府主催の式典。天皇皇后両陛下や三権の長、各国務大臣等が出席する。当日全国の国立施設には半旗が掲げられ、正午には一斉に黙祷が行われる。

 戦争による国の崩壊の危機を救い、日本の戦後復興を成し遂げた大きな力は、昭和天皇とこれを慕う国民によるものでした。それは今日の日本国の繁栄の礎となるものなのです。
 国民のご平癒(痛気が治ること)の祈りもむなしく、昭和六十四年(一九八九)一月七日、昭和天皇は崩御あそばされました。ご病床にあってもつねに、戦没者のこと、稲の作柄(生育の状況)などをご心配なさっていたそうです。御年八十七歳でした。




ローマ法王とのご会見

 昭和五十六年二月二十四日、天皇は宮殿「竹の間」でローマ法王(ヨハネ・パウロU世)と会見されました。法王がお帰りになるときお世話取りされた方が、日本の訪問の印象をお尋ねしたところ、次のように語られました。
「私はもとから日本が好きでした。ずっと日本を訪ねたいと考えていました。
 訪ねてみて本当に日本が好きになりました。その中でも特に天皇陛下にお目
 にかかって、ああ、これが日本なんだと思いました」
 他の方は欺けても、法王の目は欺けません。そんな法王が一度会っただけの天皇のお人柄に、胸を打たれたのです。

 同年九月二日の宮内記者会見で、天皇はこの時の会見の話題を次のように語っておられます。
「ローマ法王は世界各国と深い関係があるし、その機関は平和的機関ですから、
 平和に関する問題を解決するためには、この機関に連絡することが必要だと思
 いましたので、それを東條総理に話したのです」
 キリスト教は全世界に広がりを持ち、信者の数は膨大であります。その頂点の立場におられる法王が、天皇や日本国に対し、このような好意ある見識をもっていただいていることは、私たち日本人にとって大きな誇りと言えます。
(注)昭和十六年十月十八日、近衛内閣が辞任、そのあと東條陸相が組閣しま
   した。天皇は東條ならば軍部を抑え得るだろうと期待され、「内外情勢
   をさらに広く深く検討し、慎重に考慮するよう」指示されておられます。
   記者会見のご発言は、この時のお言葉と推察されます。
      

 ■靖国神社、ウィキペディアより
 1975年に真言宗醍醐派品川寺僧侶仲田順和(のち醍醐寺第百三世座主)が教皇パウロ6世に東京裁判で戦犯となったものへのミサを行うことを依頼すると、教皇はミサを約束する。パウロ6世は1978年に死亡するが、1980年5月21日、教皇ヨハネ・パウロ2世がパウロ6世の遺志を引き継ぎ、A級戦犯・BC級戦犯として処刑された人々へのミサがサン・ピエトロ大聖堂で行われ、1068柱の位牌が奉納された。なお、2011年には朝鮮系中国人によって靖国神社が放火される靖国神社・日本大使館放火事件が起き、日韓政府間の外交問題となった。

 ■産経:秋篠宮ご夫妻、法王を表敬 皇室として1993年以来。2016/05/12
 イタリアを公式訪問中の秋篠宮ご夫妻は12日、バチカンを訪れ、ローマ法王フランシスコを表敬された。宮内庁によると、皇室による法王表敬は1993年に天皇、皇后両陛下が当時の法王ヨハネ・パウロ2世と会見して以来。
    
 故ヨハネ・パウロ2世は81年、ローマ法王として初訪日し、広島と長崎の両被爆地を訪れた。天皇、皇后両陛下とは93年の会見の際に、平和を願い意見を交わした。
 昭和五十六年二月二十四日、天皇は宮殿「竹の間」でローマ法王(ヨハネ・パウロU世)と会見されました。法王がお帰りになるときお世話取りされた方が、日本の訪問の印象をお尋ねしたところ、次のように語られました。(⇒[ローマ法王との会見]参照)
「私はもとから日本が好きでした。ずっと日本を訪ねたいと考えていました。訪ねてみて本当に日本が好きになりました。その中でも特に天皇陛下にお目にかかって、ああ、これが日本なんだと思いました」
 ■ローマ法王は日本の行動を支持した
 もともと、中国の内戦に巻き込まれたかたちで、中国内部に足を踏み入れた日本軍でした。しかし踏み入れた以上、日本は、そこが共産主義国家になってしまうのを防ぐため、多大な尽力をなしました。またそこに、欧米の侵略や搾取の餌食とならない自立した民主的国家が誕生するよう、手を差し伸べたのです。
 日本は中国を「自分の領土」とするために戦っていたのではありません。日本は中国の「領土保全」をかかげ、誰からも侵略されない、中国人による中国人のための安定した国家がそこに誕生することを目指したのです。そして日本と手をたずさえて、アジアを共産主義から守る防波堤になること、そこに一大経済圏が生まれることを目指しました。
 ですから、日中戦争(支那事変)が始まった年である1937年10月に、当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ11世(在位1922-39)は、この日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけました。法王は、
 「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。
  日本は共産主義を排除するために戦っている。
  共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、
  遠慮なく日本軍に協力せよ

 といった内容の声明を出しています。
 この声明は当時の日本でも報道されました(「東京朝日新聞」夕刊、昭和一二年一〇月一六日および一七日)。新聞は、
 「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、
  知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。
  英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」
と歓迎の意を表しています。
 ローマ法王がこのように日本の行動に賛意を表してくれたことは、欧米の誤解や反日主義に悩まされてきた日本にとって、非常にうれしいことでした。けれども、そのピオ11世も、やがて一九三九年には世を去ってしまいます。そのため欧米の反日主義や、日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかったのです。
 ■ヴァチカンにまつられた英霊たち
 品川寺(東京都品川区)の住職である、醍醐寺第百三世座主 仲田順和師が、いわゆるABC戦犯と言われる方々の名誉回復をバチカン市国に懇願し、快諾され、のちにサン・ピエトロ大聖堂に英霊の位牌が奉納されました。
 順和師は昭和五十(1975)年にヴァチカンを訪れた折に、かねてより心を痛めていた「戦犯とされた人々」の鎮魂と慰霊のために、宗教の違いを超えて願い出たのである。
 順和師の父であり先代座主でもあった順海大僧正は、学徒兵や殉難者の法要を欠かさず、「七戦犯の鐘」など慰霊の鐘も護持している。 その多くはキリスト教信者であった連合国側にとって、これほどの皮肉はない。皮肉というよりは、勝者の驕りに対する「神の戒め」であるとも言えよう。
 時のローマ法王・パウロ六世に、日本人殉難者のためにミサを、と訴えたのは仏教徒の仲田順和師であった。
 先代座主の遺志をついだ真言宗醍醐寺派別格本山品川寺(ほんせんじ)の仲田順和師の願いを、パウロ六世は快く承諾した。しかし、喜んで帰国した順和師にその後届けられたのは、法王の訃報であった。その後を襲ったパウロ一世も急逝し、異教徒の願いは空しく閉ざされたと思われた。
 その順和師のもとに、ヨハネ・パウロ二世から親書が届けられたのは五年後の昭和五十五年四月、内容は「五年前の約束を果たしたい」との思いもかけぬものであった。ローマ法王庁は、異教徒の願いを忘れてはいなかったのである。
      
 パウロ六世の真心に応えようと、帰国直後から作製を依頼していた五重塔に殉難者千六十八柱の位牌を納め、ヴァチカンに奉納されたのは、同年五月のことである。醍醐寺五重塔を精巧に模した塔は、「戦犯」慰霊に共鳴した栃木県大田原市の木工芸家星野皓穂氏が、三年の歳月をかけ無料奉仕で完成させたもの。
 五月二十一日には仲田・星野両氏も参列し、法王パウロ二世のもと昭和殉難者のための荘厳なミサがヴァチカンでとり行われた。






日本国憲法と自衛権、吉田茂の無念

 現行の日本国憲法はアメリカ製であることは周知の事実です。この憲法には、現実と国際情勢の変化を無視した危険なわなが仕組まれています。この憲法の前文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するものであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意したという一節があります。 これを「平和憲法」と称し、民族の独立に不可欠な自衛権さえも否認しました。憲法第九条は、侵略を招き、日本を滅亡に導き、世界の禍乱を誘発する、危険な落とし穴でもあります。
 昭和二十一年八月、この憲法は国会で採択されました。多数の議員はこれが連合国軍総司令部(GHQ)の圧力によるものと知りながら、無念の思いで賛成票を投じました。吉田茂首相はこの時の思いを側近(村井順・秘書官)に次のように語っています。
「日本には今国を守る軍隊を作る財政的な余裕がない。
 いまは守ってもらうより方法がない。
 将来国力が回復し、軍隊を持てるようになったら持てばよい」

 しかし共産党の野坂参三議員は、次のように反対意見を述べ注目されました。しかし、いつの間にか共産党は護憲派に回ってしまいました。
「われわれはあくまで民族の独立を維持せねばならぬ。
 軍隊なき国家は独立国ではなく、自衛権を放棄すれば民族は危うい。
 故にこの憲法が可決されても、共産党は修正のため努力する権利を留保する」




昭和天皇独白録(文春文庫)より抜粋致しました。


 如何に昭和上皇様が、米英との平和を求め、死を賭して国民を守ろうとされていたのかが、分かります。その柔和なお姿からは、決して分からない苦渋に満ちた生涯の一端を垣間見ることが出来るのだと思います。このような、君主(日本の場合には、天照大神に仕える大司祭)と共にあることを幸せだと思うのは、私たち日本人だけではなく広く世界中の人々が思うところだと思います。
 丁寧な補足が付記されており、非常に分かり易く構成されています。是非、ご一読をお薦め致します。尚、終戦の詔勅については[昭和天皇開戦・終戦の詔勅]参照。
(※については、登録者の書き込みです)


■「独白録」
 昭和二十一年の三月から四月にかけて、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、寺崎英成御用掛の五人の側近が、張作霧爆死事件から終戦に至るまでの経緯を四日間計五回にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたものである。


■大東亜戦争の遠因
 この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等実は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦然りである。
 かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上つた時に、之を抑へることは容易な業ではない。
(注)
 大正八年(一九一九)、第一次大戦が終ると、平和会議が招集されて、連合国二十八カ国がパリに集まった。日本全権は西園寺公望。このとき各国の人種差別的移民政策に苦しんできた日本は、有色人種の立場から二月十三日に“人種差別撤廃”案を提出した。しかし、さまざまな外交努力にもかかわらず、日本案は一旦は賛成多数で受け入れられたが、米国大統領により全会一致でなければならないとの申し出により、四月十一日に正式に否決された。日本の世論は、この報に一致して猛反対でわき上った。
 さらに大正十三年(一九二四)五月、アメリカはいわゆる「排日移民法」を決定する。それは日本にとって「一つの軍事的挑戦」であり、「深い永続的怨恨を日本人の間に残した」ものとなった。日本の世論は憤激以外のなにものでもなくなった。「アメリカをやっつけろ」「宣戦を布告せよ」の怒号と熱気に国じゅうがうまったといっていい。日本人の反米感情はこうして決定的となった。(※つまり、日本国民は民族平等、自主独立を目指していたことが分かります。)


■張作霖爆死の件(昭和三年)
 この事件の主謀者は河本大作大佐である、田中総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾な事で、たとへ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である、と云ふ事であつた。そして田中は牧野内大臣、西園寺元老、鈴木侍従長に対してこの事件に付ては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考だと云つたそうである。
 然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、主として鉄道大臣の小川平書の主張だそうだが、日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなつて終つた。
 そこで田中は再び私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であつた。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云つた。
 こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へてゐるが、とにかくそういふ云ひ方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止めと云ふことになつたと云ふのである。(※本事件は旧ソ連による陰謀だと判明しています([張作霖事件]参照)。・・・
 例へば、かの「リットン」報告書〔昭和六年の滞洲事変のさいの国連調査団による報告書〕の場合の如き、私は報告書をそのまま鵜呑みにして終ふ積りで、牧野、西園寺に相談した処、牧野は賛成したが、西園寺は閣議が、はねつけると決定した以上、之に反対するのは面白くないと云つたので、私は自分の意思を徹することを思ひ止つたやうな訳である。
 田中に対しては、辞表を出さぬかといつたのは、「ベトー」を行つたのではなく、忠告をしたのであるけれ共、この時以来、閣議決定に対し、意見は云ふが、「ベトー」は云はぬ事にした。
(注)
 満洲事変([満州事変は侵略か]参照)は日本の侵略である、と断定はしたが、日本の滞洲における権益を認め、日中間での新しい条約を結ぶことを妥協的に勧告するそれがリットン報告書の骨子である。それを昭和天皇が「そのまま鵜呑みにして終ふ積り」であったとは、じつに興味深い発言である。
 なお「ベトー」とは、君主が大権をもって拒否または拒絶することをいう。

※もし陛下の御意志が政局に反映されたらば、英米戦争は起こらなかったでしょうに。


■上海事件(昭和七年)
 上海で戦闘地域をあの程度に喰ひ止め、事件の拡大を防いだのは、白川〔義則〕大将の功績である。三月三日に停戦したが、あれは奉勅命令に依つたのではなく、私が特に白川に事件の不拡大を命じて置いたからである。(注、参謀総長が発する奉勅命令ではなく、天皇が、上海派遣軍の司令官に命ぜられた白川大将に直接にいう、というまことに異例なことであったのである。)
 白川は之に閲し、参謀総長から非難されたが、私は白川の死后特に未亡人へ大将の功績を嘉した歌を詠んで贈つた。
 靖国神社に参拝して白川大将の三月三日午后上海にて停戦命令を発して国際連盟の衝突をさけしめたる功績を思ふ。
  をとめらの ひなまつる日に いくさをば
   とゞめしいさを おもひてにけり
 この歌は世人は知らぬ、それは侍従武官から未亡人に対し、外部に絶対に、発表せぬ様にとの注意が特に発せられたからである。


■天皇機関説と天皇現神説〔昭和十年〕
 現神の問題であるが、本庄だつたか、宇佐美〔興屋〕だつたか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だと云つた事がある。
(注)付言すると、この天皇機関説をめぐる国体論争は、その後もずっとあとをひいた。それは二・二六事件において頂点に達した。二・二六事件の重要な動機は、天皇親政・統帥権絶対の実現を期して起こったといっていい。


■二二六事件
 当時反乱軍に対して討伐命令を出したが、それに付ては町田忠治を思ひ出す。町田は大蔵大臣であつたが金融方面の悪影響を非常に心配して断然たる所置を採らねばパニックが起ると忠告してくれたので、強硬に討伐命令を出す事が出来た。・・・
 私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必ず輔弼(ホヒツ)の者の進言に逆はぬ事にしたが、この時と終戦の時との二回だけは積極的に自分の考を実行させた。
(注)
「今回のことは精神の如何を問わず不本意なり。国体の精華を傷つくるものと認む」「速かに暴徒を鎮圧せよ」「自殺するならば勝手になすべく、このごときものに勅使なぞ、以てのほかなり」
 この断乎たる討伐命令が経済への悪影響をも心配してのものとは。
「事件の経済界に与える影響、特に、海外為替が停止になったら困ると考えていた。しかし、比較的早く事件が片づき、さしたる影響もなかった。本当によかった」(『木戸日記』)

◆軍国主義は「天皇親政」による社会主義[日本の歴史 昭和編より]
 戦前の日本において、共産党はほとんど影響力を持ちえなかった。その最大の原因は、彼らの用語で言えば、「天皇制の廃止」、つまり皇室をなくすること(ロシア革命的に言えば皇室につながる人たちを皆殺しにすること)を掲げたことにあり、このスローガンが、共産主義に対する国民の恐怖感を生み、さらには治安維持法を生んだことは、すでに述べたとおりである。
 さて、こうした左翼の共産党の代わりに日本で大きく力を持ったのは、右翼の社会主義者たちの存在である。彼らは天皇という名前を使って、日本を社会主義の国家にしようと考えたのである。
 戦後の歴史教育では、彼らのことを国家革命主義者とか軍国主義者というような名前で呼んでいるが、それでは本質は分からない。彼らは、あくまでも右翼の社会主義者なのである。この右翼社会主義思想を唱えた人に北一輝がいるが、彼の主著は『国体論及び純正社会主義』というタイトルで、まさにこれは“社会主義のすすめ”である。実際、この本が出たとき、日本の左翼思想家たちは諸手を挙げて、その主張に賛成したほどである。
 昭和六年(一九三一)三月、右翼が結集して「全日本愛国者共同闘争協議会」という連合体を作った。そのときに決議された綱領を見れば、「右翼社会主義」の思想がよく分かるであろう。
 一、われらは亡国政治を覆滅し、天皇親政の実現を期す。

 彼らが言う亡国政治とは、議会政治のことを指す。腐敗・堕落した議会は日本のためにならないから、廃止して、天皇自らが政治を執るようにすべきだというのである。「天皇親政」とは聞こえがいいが、結局は、天皇の権威を借りて社会主義的独裁政治を実現すべきだということである。

 一、われらは産業大権の確立により資本主義の打倒を期す。

 「産業大権」というのは、軍事における天皇の統帥権と同じように、産業に対する統帥権を確立すべきだという意味である。つまり、「私的財産権を大幅に制限し、土地を含むすべての生産手段を国有にせよ」というのだ。これが国家社会主義的な発想であることは、今さら言うまでもない。

 一、われらは国内の階級対立を克服し、国威の世界的発揚を期す。

 左翼も右翼も同じ社会主義であることは、ここで「階級対立という概念が持ち出されていることでも分かる。資本家と労働者の問にある貧富の差をなくすることは、右翼主義社にとっても重要な政策スローガンであったのだ。

 このような右翼社会主義思想は、特に若い軍人たちにがこの思想に飛びついたのは、日本の不況、ことに農村部の窮迫があったからである。
 青年将校たちは、毎日のように農家出身の兵士たちと接している。東北の農村などで、一家を救うために娘が身売りしているというような話を聞いて彼らが感じたのは、日本の当時の社会に対する義憤であった。こうした“義憤”に駆られた将校たちが怒りを向けたのが、資本主義と政党政治であった。一部の財閥が巨利を貪っているのに、農民は飢えに苦しんでいる。政治家たちは、自分の利益だけを追い求め、国民のことを考えようとしないこうした不満が「大皇を戴く社会主義」と結びつくのは、ある怠味で自然の成り行きであった。
 そこで生まれた陸軍内のグループが、皇道派と統制派である。この二派は抗争を繰り返していたから誤解されやすいけれども、それは改マル派と中核派が対立しているのと同じで、結局はこれも“同じ穴の狢”なのである。
 彼らはともに、天皇の名によって議会を停止し、同時に私有財産を国有化して、社会主義的政策を実行することを目指していた。そうすることで、米国のホーリー・スムート法と英国が始めたブロック経済による大不況を解消し、“強い日本”を作ろうというのである。両者の間で違ったのは、日本を社会主義化するための方法論にすぎない。
 皇道派は、二・二六事件を起こしたことからも分かるように、テロ活動によって体制の転覆を狙うグループである。彼ら若手将校が唱えていた“昭和維新”とは、要は「天皇の名による、そして天皇を戴く社会主義革命」であった。
 これに対して統制派は、軍の上層部を中心に作られ、合法的に社会主義体制を実現することを目指した。理想とした政策は、ほとんど皇道派と変わらないと言っても間違いない。



■支那事変と三国同盟(昭和十二年)〔三国同盟は昭和十五年〕
 日支関係は正に一触即発の状況であつたから私は何とかして、蒋介石と妥協しようと思ひ、杉山陸軍大臣と開院官参謀総長とを呼んだ。
 若し陸軍の意見が私と同じであるならば、近衛〔文麿〕に話して、蒋介石と妥協させる考であつた。これは満洲は田舎であるから事件が起つても大した事はないが、天津北京で起ると必ず英米の干渉がひどくなり彼我衝突の恐れがあると思つたからである。
 参謀総長と陸軍大臣の将来の見透しは、天津で一撃を加へれば事件は一ケ月内に終るといふのであつた。これで暗に私の意見とは違つてゐる事が判つたので、遺憾乍ら妥協の事は云ひ出さなかつた。かかる危機に際して盧溝橋事件(※中共の謀略だった[盧溝橋事件]参照)が起つたのである。之は支那の方から、仕掛けたとは思はぬ、つまらぬ争から起つたものと思ふ。
(注)
 昭和十三年七月十一日、豆満江北岸の張鼓峰での日ソ両軍衝突のさい、天皇は明確な統帥命令を下している。
「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじき卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う。このたびはそんなようなことがあってはならんが……。今後は朕の命令なくして一兵でも動かすことはならん」(『西園寺公と政局』)

 それから之はこの場限りにし度いが、三国同盟に付て私は秩父宮と喧嘩をして終つた。秩父宮はあの頃一週三回位私の処に来て同盟の締結を勧めた。終いには私はこの問題に付ては、直接宮には答へぬと云つて突放ねて仕舞つた。
(注)
 秩父宮と昭和天皇の激論については、満洲事変後の騒然たる国内情勢を背景に、憲法をめぐつて行なわれたことが『西園寺公と政局』で明らかになっている。このとき、秩父宮の、憲法を停止し“親政”を実施してはどうか、との建議に、天皇は伝統を傷つけるものとして強く反対した。
 ※もし、この時に“親政”となれば、戦後天皇制の存続はなかったことでしょう。


■御前会議と云ふもの
 御前会議といふものは、おかしなものである。枢密院議長を除く外の出席者は全部既に閣議又は連絡会議等に於て、意見一致の上、出席してゐるので、議案に対し反対意見を開陳し得る立場の者は枢密院議長只一人であつて、多勢に無勢、如何ともなし難い。
 全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権は、ない。
(注)
 それは東京裁判において、木戸幸一、東條英機が証言したとおりなのである。
「国務大臣の輔弼によって、国家の意志ははじめて完成するので、輔弼とともに御裁可はある。そこで陛下としては、いろいろ(事前には)御注意とか御戒告とかを遊ばすが、一度政府で決して参ったものは、これを御拒否にならないというのが、明治以来の日本の天皇の態度である。これが日本憲法の実際の運用の上から成立してきたところの、いわば慣習法である」(木戸)


■三国同盟(昭和十五年)
 同盟論者の趣旨は、ソ連を抱きこんで、日独伊ソの同盟を以て英米に対抗し以て日本の対米発言権を有力ならしめんとするにあるが、一方独乙の方から云はすれば、以て米国の対独参戦を牽制防止せんとするにあったのである。日独同盟に付ては結局私は賛成したが、決して満足して賛成した訳ではない。松岡は米国は参戦せぬといふ事を信んじて居た。私は在米独系が松岡の云ふ通りに独乙側に起つとは確信出来なかつた。然し松岡の言がまさか嘘とは思へぬし半信半疑で同意したが、ソ聯の問題に付ては独ソの関係を更に深く確かめる方が良いと近衛に注意を与へた。
 三国同盟は十五年九月に成立したが、その后十六年十二月、日米開戦后出来た三国単独不講和確約は結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ。・・・
 若しこの確約なくば日本が有利な地歩を占めた機会に和平の機運を握む事が出来たかも知れぬ。
 つまり日本は自力を過小評価し独逸の国力を過大評価した為にこの確約をするに至つたので、これには大島大使の責任が大きい。
 尚この際附言するが日米戦争は油で始まり油で終つた様なものであるが、開戦前の日米交渉時代に若し日独同盟がなかつたら米国は安心して日本に油をくれたかも知れぬが、同盟がある為に日本に送つた油が独乙に廻送されはせぬかと云ふ懸念の為に交渉がまとまらなかつたとも云へるのではないかと思ふ。
(注)
 たとえば、時の首相近衛に天皇はいっている。
「この条約のため、アメリカは日本にたいして、すぐにも石油やくず鉄の輸出を停止してくるかもしれない。そうなったら日本はどうなるか。この後長年月にわたって、大変な苦境と暗黒のうちにおかれるかもしれない」
 あるいはまた、こうもいった。
「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」
 また駐日アメリカ大便グルーの日記に興味深い記事がある。
「天皇と近衛公は、二人とも三国同盟に絶対反対だった。しかし天皇が拒絶した場合、皇室が危うくなるかもしれぬと告げるものがあり、天皇は、近衛公に“死なばもろともだね”と話されたという。この話は皇族の一人から間接に伝わってきたものだ」


■南仏印進駐(昭和十六年)
 六月独がソ連に侵攻、その直後のこと、松岡はソ連との中立条約を破る事に付て私の処に云つて来た、之は明かに国際信義を無視するもので、こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷める様に云つたが、近衛は松岡の単独罷免を承知せず、七月に内閣と僚刷新を名として総辞職した。
 連絡会議で南仏印進駐の方針を決定したのは五月であつたと思ふが七月二日の御前会議では対ソ宣戦論を抑へると共にその代償の意味を含めて南仏印進駐を認めた。
 八月頃・・・東条に対し、国内の米作状況が極めて悪いから、若し南方からの米の輸入が止つたら国民は餓死するより外はない、進駐は止める様に言はせたが、東条は承知しなかつた、かくして七月二十六日に発表された日本軍の南仏印進駐は遂に恐るべき対日経済封鎖といふ結果となつたのである。日本が南仏印に進駐すれば、米国は資産を凍結するといふ事は河田〔烈〕大蔵大臣には判つてゐたが当時蔵相は連絡会議に加つてゐなかつた為、意見が云へなかつた、それに近衛は財政の事は暗いし結局私は軍部の意見しか聞く事が出来なかつた、今から考へるとこの仕組みは欠陥があつた。


■九月六日の御前会議(昭和十六年)
(注)
 「九月六日午前十時、御前会議が開かれた。席上原枢密院議長より『この案を見るに、外交よりむしろ戦争に重点がおかるる感あり。政府統帥部の趣旨を明瞭に承りたし』との質問あり。政府を代表して海軍大臣が答弁したが、統帥部からは誰も発言しなかった。しかるに、陛下は突如発言あらせられ、『只今の原枢相の質問はまことにもっともと思う。これにたいして統帥部が何等答えないのは甚だ遺憾である』とて御懐中より明治天皇の御製
  四方の海みなはらからと思ふ世に
   など波風の立ちさはぐらむ
を記したる紙片を御取出しになってこれを御読み上げになり、『余は常にこの御製を拝唱して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと努めておるものである』と仰せられた。満座粛然、しばらくは一言も発するものなし」(近衛手記)
 この昭和天皇の一言は、陸軍を震撼させた。東条陸相は「聖慮は平和にあらせられるぞ」と叫び、杉山参謀総長は蒼ざめた顔面を小刻みにけいれんさせていた。
 しかし、天皇の平和意図は具現されなかった。政府、すなわち近衛首相は原案の廃棄はおろか、改訂をすら実行しなかった。原案どおり、日本は自存自衛のために対米英戦争を準備し、外交交渉が十月上旬ごろになってもうまく解決できないときには、開戦を決意することになった。


■開戦の決定(昭和十六年)
 総理になつた東条は、九月六日の御前会議の決定を白紙に還すべく、連日連絡会議を開いて一週間、寝ずに研究したが、問題の重点は油であつた。
 及川の戦争回避実は、内地で人造石油を造るにある。その為に二〇〇万トンの鉄が入用で、之は陸海軍から提供せねばならぬ、又非常に多くの工場を使用せねばならぬ関係上、内地の産業は殆んど停止の危態に陥ることとなる、之では日本は戦はずして亡びる。
 実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追込んだものである。かくなつた以上は、戦つた方が良いといふ考が決定的になつたのは自然の勢と云はねばならぬ、若しあの時、私が主戦論を抑へたらば、陸海に多年錬磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈伏すると云ふので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタが起つたであらう。実に難しい時であつた。その内にハルのいわゆる最後通告([ハルノート][戦争を決定づけたハルノート])が来たので、外交的にも最后の段階に立至つた訳である。
 ・・・三十日、高松宮が昨日の様子をききに来た、そして「今この機会を失すると、戦争は到底抑へ切れぬ、十二月一日から海軍は戦闘展開をするが、巳にさうなつたら抑へる事は出来ない」との意見を述べた。戦争の見透に付ても話し合つたが、宮の言葉に依ると、統帥部の預想は五分五分の無勝負か、うまく行つても、六分四分で辛うじて勝てるといふ所ださうである。私は敗けはせぬかと思ふと述べた。官は、それなら今止めてはどうかと云ふから、私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、若し認めなければ、東条は辞職し、大きな「クーデタ」が起り、かえって滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであらうと思ひ、戦争を止める事に付ては、返事をしなかつた。
 十二月二日に、閣僚と統帥部との合同の御前会議が開かれ、戦争に決定した、その時は反対しても無駄だと思つたから、一言も云はなかつた。


■宣戦の詔書読み下し文はこちら
 東条は度と宣戦の詔書案を持つて来た。
 最后の案を裁可する時に、私は東条に対し明治天皇以来、英国とは親しいつきあいがあり、私も外遊の際、歓待されたことのある、その英国と袂を別つのは、実に断腸の思があると話したが、東条は後で木戸に、対英感情は斯くも違ふものかと感想を述べた相である。
(「あに朕が志ならんや」と「皇祖皇宗の神霊上に在り」との二句は上意により挿入されたるものの如く、東条首相より承りたる旨、当時内閣書記官たりし稲田より申上げたる所、その様な事を云つたかも知れぬとの仰ありたり)


■「口−マ」法皇庁に使節派遣
 ただ戦争中なので、内地から有能な者を選んで送る事が出来なかつたことと、日独同盟の関係上、「ヒトラー」と疎遠な関係にある法皇庁に対し、充分なる活動の出来なかつた事は残念な事であつた。


■敗戦の原因
 敗戦の原因は四つあると思ふ。
 第一
兵法の研究が不充分であつた事即ち孫子の、敵を知り、己を知らねば、百戦危からずといふ根本原理を体得してゐなかつたこと。
 第二
余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視した事。
 第三
陸海軍の不一致。
 第四
常識ある主脳者の存在しなかつた事。往年の山縣〔有朋〕、大山〔巌〕、山本権兵衛、と云ふ様な大人物に欠け、政戦両略の不充分の点が多く、且軍の主脳者の多くは専門家であつて部下統率の力量に欠け、所謂下剋上の状態を招いた事。
(注)
 昭和二十年九月九日付、皇太子(平成天皇)宛ての昭和天皇の手紙と、この発言を対比してみると興味深い事実が浮かび上ってくる。「敗因について一言いわしてくれ」と前置きして、つぎのように昭和天皇は記している。
  1. 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて、英米をあなどったことである。
  2. 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである。
  3. 明治天皇の時には、山縣、大山、山本等の如き名将があったが、今度の時はあたかも第一次世界大戦の独国の如く、軍人がバッコして大局を考えず、進むを知って、退くことを知らなかったからです。
 天皇のいわば不動の太平洋戦争観が、この二つの文書からはっきりとみてとれる。


■小磯の人物
 この内閣は私の予想通り、良くなかつた。改造問題にしても、側から云はれると直ぐ、ぐらつく、云ふ事が信用出来ない、その代り小磯は私が忠告すると直ぐに云ふ事をきく。それでゐて側から云はれると直ぐ、ぐらつく。つまり肝もなく自信もない。その為しばく米内を煩はせて小磯に忠告した。
(注)
「近衛、東条、鈴木、米内に付て二言すると、近衛は思想は平和的で、ひたすらそれに向かって邁進せんとしたことは事実だが、彼は自分に対する世間の人気ということを余りに考え過ぎたため、事に当って断行の勇気を欠いたことは、遂に国家を戦争という暗礁に乗り上げさして終い、次に立った東条の最後の努力をもってしてもこれを離礁せしめることが出来なかった。これに引きかえ鈴木首相と米内海相とは、政治的技術に於ては近衛に及ばなかったけれども、大勇があったのでよく終戦の大事を為し遂げた」


■講和論の台頭
 一度「レイテ」で叩いて、米がひるんだならば、妥協の余地を発見出来るのではないかと思ひ、「レイテ」決戦に賛成した。然し私の意見も続帥部に伝らず、陸軍、海軍、山下皆意見が違ふ。斯様な訳で山下も思切つて兵力を注ぎこめず、いやいや戦つてゐたし、又海軍は無謀に艦隊を出し、非科学的に戦をして失敗した。
(注)
 比島方面軍司令官の山下奉文大将はルソン島決戦を主張し、レイテ決戦への変更を「後世史家の非難を浴びることになろう」と酷評した。・・・
 また、連合艦隊の全力をあげ、オトリ艦隊までつくっての、レイテ湾なぐり込み作戦を、昭和天皇は「無謀」といい、「非科学的」と断じた。結果は、艦艇の大半を喪失し、日本海軍ほ無力そのものとなった。
 「レイテ」が失敗した時、国内には、これがが天下分け目の戦といふ言葉が流布せられ、国民の士気は消沈した。統帥部は、小磯に喰つてかかり又参謀本部は、現地の事情を知りぬいてゐる現地軍に作戦を一任せず、東京から指揮する有様であつた。
 比島戦に敗れ、沖縄決戦を迎ふるに当つても、及川軍令部総長等は非常な勝利を確信してゐた。
 私には「ニューギニア」の「スタンレー」山腹を突破されてから〔十八年九月〕勝利の見込を失つた。一度何処かで敵を叩いて速かに講和の機会を得たいと思つたが、独乙との単独不講和の確約があるので国際信義上、独乙より先きには和を議し度くない。それで早く独乙が敗れてくれればいいと思つた程である。


■鈴木内閣〜首相推薦の重臣会議〜
 東条・広田は畑を推し、平沼・近衛・岡田・若槻ほ鈴木〔貫太郎〕を推した、阿部は朝鮮総督で東京に居なかつた。東条は鈴木が首相になると、平和になりはせぬかと懸念してゐた、木戸はこの際鈴木がよいと云ふので、鈴木に大命を降下した。
 鈴木は引受け相にないと云ふ事だつたが、私がすすめたら承知した。
(注)
 鈴木貫太郎の子息鈴木一はこう回想している。「父は『陛下のご前において、自分は生来の武弁であって、政治はまったくの素人であること、老齢で耳が聞こえず、重大な過ちを犯しては申しわけないことを申し上げて、ご辞退したのであるが、陛下の“耳がきこえなくてよいからやれよ”との再度のお言葉を拝し、まったくいかんともすることができず、ついに大任をお承けしたのだ』と、その夜待ち受けていたわれわれに語ってくれた」(『鈴木貢太郎自伝』)
 ときに貫太郎七十七歳、昭和天皇は四十四歳である。
 なお鈴木は昭和四年一月から十一年末まで、侍従長として八年間も天皇の身近にあった。天皇はこの老臣の毅然たる風格を殊のほか好んでいた。戦後になって天皇は「鈴木とは苦労をともにした」とまで述懐した。


■外務大臣の任命
 私は外相には重光が残るがよいと思つたが、重臣方面に外務省方面の重光反対の空気が伝へられゐたので、東郷〔茂徳〕が留任した。


■沖縄決戦の敗因
 之は陸海作戦の不一致にあると思ふ、沖縄は本当は三ケ師団で守るべき所で、私も心配した。梅津は初めニケ師団で充分と思つてゐたが、後で兵力不足を感じ一ケ師団を増援に送り度いと思つた時には己に輸送の方法が立たぬといふ状況であつた。
 所謂特攻作戦も行つたが、天候が悪く、弾薬はなく、飛行機も良いものはなく、たとへ天候が幸ひしても、駄目だつたのではないかと思ふ。
 特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざるを得ざる処に無理があつた。
 海軍は「レテイ」で艦隊の殆んど全部を失つたので、とつておきの大和をこの際出動させた、之も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した。
 陸軍が決戦を延ばしてゐるのに、海軍では捨鉢の決戦に出動し、作戦不一致、全く馬鹿くしい戦闘であつた、詳しい事は作戦記録に譲るが、私は之が最后の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏も亦己むを得ぬと思つた。
(注)
 特攻については、昭和十九年十月二十五日のいわゆる“神風特別攻撃隊”の第一弾が実行され、その報告を聞いたときの天皇の言葉がすべてをあらわしている。
「号令台に上がって中島中佐はこの電文を読み上げた。『天皇陛下は、神風特別攻撃隊の奮戦を聞き召されて、軍令部総長にたいし次のようなお言葉をたまわった−−“そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった”−−」(『昭和史の天皇』)
   ※その後も、神風を続けて欲しいという意味ではなかったのだと思います。

■ソビエトとの交渉
 私が今迄聞いてゐた所では、海岸地方の防備が悪いといふ事であつたが、報告に依ると、海岸のみならず、決戦師団さへ、武器が満足に行き渡つてゐないと云ふ事だつた。
 敵の落した爆弾の鉄を利用して「シャベル」を作るのだと云ふ、これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した。
 木戸は米内にも東郷にも鈴木にも意見を聞いたが、皆講和したいと云ふ、然し誰も進んで云ひ出さない。
 それで私は最高指導会議の者を呼んで、速かに講和の手筈を進める様に云つた。「ソビエト」を経てやれと云つたか、どうかは記憶して居らぬ。この時鈴木その他から先づ「ソビエト」の肝を探らうと、云ひ出した、私はそれは良い事と思ふが、現状に於ては速かに事を処理する必要があると云つた。
 これですつかり講和の決意が出来て安心した、但し講和の条件に付ては、皆各と意見があつた。
 之と前后して、鈴木は詔書を出して国民を激励して頂きたいと云つて釆たが、前述の理由で、絶対に反対だと云つたら、鈴木は御尤もだと云つて帰つた。
 どうも政府も軍人も二股かける傾向があるのはよろしくない、この場合鈴木だから、隔意なく思ふ事が云へたのだ。・・・
 然しソ連は誠意ある国とは思へないので、先づ探りを入れる必要がある、それでもし石油を輸入して呉れるなら南樺太も、満洲も与へてよいといふ内容の広田「マリク」会談を進める事にした。
しかし、「スターリン」は会議から帰つた后も、返事を寄越さず、その中に、不幸にして「ソビエト」の宣戦布告となつた。こうなつては最早無条件降伏の外はない。
 空襲は日と激しくなり加ふるに八月六日には原子爆弾が出現して、国民は非常な困苦に陥り「ソビエト」は既に満洲に火蓋を切つた、之でどうしても「ポツダム」宣言を受諾せねばならぬ事となつたのである。


■八月九日深夜の最高戦争指導会議
 政府も愈と「ポツダム」宣言を受諾することに意見を極めて、八月九日閣議を開いた。
 海軍省は外務省と解釈を同うするが、陸軍省、参謀本部及軍令部は、外務省と意見を異にした。
 領土を削られることは強硬論と最も、余り問題とはしないが、国体護持、戦争犯罪人処罰、武装解除及保障占領の四点が問題となつた。軍人連は自己に最も関係ある、戦争犯罪人処罰と武装解除に付て、反対したのは、拙い事であつた。閣議も会議も議論は二つに分れた。
 会議は翌十日の午前二時過迄続いたが、議論は一致に至らない。 鈴木は決心して、会議の席上私に対して、両論何れかに決して頂き度いと希望した。・・・

 終戦后元侍従武官の坪島〔文雄〕から聞いた事だが一番防備の出来てる筈の鹿児島半島の部隊でさへ、対戦車砲がない有様で、兵は毎日塑壕掘りに使役され、満足な訓練は出来て居らぬ有様だつた相だ。
 之を聞いて私は自分の見透の間違でない事を知つた。当時私の決心は
 第一に、このままでは日本民族は亡びて終ふ、私は赤子を保護する事が出来ない。
 第二には国体護持の事で木戸も同意見であつたが、敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神官は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思つた。
(注)
 いうまでもなくこれが八月九日の第一回の“聖断”である。そしてポツダム宣言受諾を連合軍に知らせる外務大臣の原案が提出されたとき、平沼枢密院議長がその文言に反対の意を表明した。原案は、ポツダム宣言の「条件中には、日本天皇の国法上の地位を変更する要求を包含しおらぎることの了解の下に、日本政府はこれを受諾す」である。これにたいして平沼は1天皇統治の大権は国法によって生ずるものではない。天皇の統治の本体は憲法によって定まったものではなく、国家成立とともに本然としてある神聖なる大権である。それゆえに“天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求を包含しおらぎることの了解の下に”と改むべきである」と強く主張し、結局それが通ったのである。
 天皇発言に「その為に後で非常に具合の悪い事になつた」とあるのは、その結果として連合軍からの回答の中に、「天皇および日本国政府は、連合軍司令官にsubject to する」というあまりにも有名な一句が加わったことを意味する。陸軍は「隷属する」と訳し、外務省の「制限の下におかれる」という苦しまぎれの訳に猛反対、ふたたび混乱をまねき、終戦が遅れたことは改めて書くまでもないであろう。
 また、国体護持のためには三種の神器を確保せねばならない、とする天皇の考えは、二十年夏ごろにしばしば側近に洩らされている。たとえば七月二十五日、前日の伊勢神官爆撃について語ったとき。「もし本土決戦となれば、敵は空挺部隊を東京に降下させ、大本営そのものが捕虜となることも考えられる。そうなれば、皇祖皇宗よりお預りしている三種の神器も奪われることも予想される。それでは皇室も国体も護持しえないことになる。もはや難を忍んで和を講ずるよりほかはないのではないか」
 あるいは七月三十一日に、
「伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思う。…万一の場合には自分が御守りして運命をともにするほかはない」と語っているのである。

(注)
 八月十四日午前十一時からの、終戦を決定した最後の御前会議が、天皇の強い決意にもとづく“天皇命令”による召集であった。宣戦あるいは講和の権は明治憲法によって定められた天皇大権である。その天皇大権を行使して、一刻も早く終戦を急いだ。
 そのうえに驚くべきことがはじめて語られた。森近衛師団長を殺害し偽命令によって宮城を占拠、終戦を阻止しょうとしたいわゆる“録音盤奪取事件”はすでに知られている。が、その偽命令が近衛師団参謀長(水谷一生大佐)と荒畑軍事課長(正確には荒尾興功大佐)の連名で出されたと、天皇に記憶されていることは重大である。もしこれが事実なら、終戦史はもうー度調べ直さなければならなくなる。なぜなら荒尾軍事課長は阿南陸相がもっとも信頼し、終戦までのさまざまな陸軍の政軍両略の中心となった軍人でもあったからである。宮城占領計画は、もしこれが正しければ、少数の青年将校の“真夏の夢”的な叛乱ではなく、陸軍中枢が加わっていたものとも考えなくてはならなくなる。
 ※尚、終戦の詔勅はこちらへ[口語訳、終戦の詔勅]。


■結 論
 開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主としてやむを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない。
 終戦の際は、然し乍ら、之とは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のままその裁断を私に求めたのである。
 そこで私は、国家、民族の為に私が是なりと信んずる所に依て、事を裁いたのである。
 今から回顧すると、最初の私の考は正しかつた。陸海軍の兵力の極度に弱つた終戦の時に於てすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起つた位だから、若し開戦の閣議決定に対し私が「ベトー」を行つたとしたらば、一体どうなつたであらうか。
 日本が多年錬成を積んだ陸海軍の精鋭を持ち乍らいよいよとと云ふ時に許さぬとしたらば、時のたつにつれて、段々と石油は無くなつて、艦隊は動けなくなる、人造石油を作つて之に補給しよとすれば、日本の産業を殆んど、全部その犠牲とせねばならぬ、それでは国は亡びる、かくなつてから、無理注文をつけられては、それでは国が亡びる、かくなつてからは、無理注文をつけられて無条件降伏となる。
 開戦当時に於る日本の将来の見透しは、斯くの如き有様であつたのだから、私が若し開戦の決定に対して「ベトー」したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつたであらうと思ふ。





降伏文書】(ひらがな文)

 下名は玄に合衆国、中華民国及「グレート、ブリテン」国の政府の首斑が1945年7月訪日「ポツダム」に於て発し後に「ソヴィエト」社会主義共和国連邦が参加したる宣言の条項を日本国天皇、日本国政府及日本帝国大本営の命に依り且之に代り受諾す 右四国は以下之を連合国と称す

 下名は玄に日本帝国大本営が何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の指揮官に対し自身及其の支配下に在る一切の軍隊が無条件に降伏すべき旨の命令を直に発することを命ず

 下名は玄に日本帝国政府及日本帝国大本営に対し現に日本国の支配下に在る一切の連合国俘虜及被抑留者を直に解放すること並に其の保護、手当、給養及指示せられたる場所への即時輸送の為の措置を執ることを命ず

 下名は玄に日本帝国大本営並に何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏を布告す

 下名は玄に何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国臣民に対し敵対行為を直に終止すること、一切の船舶、航空機並に軍用及非軍用財産を保存し之が毀損を防止すること及連合国最高司令官又は其の指示に基き日本国政府の諸機関の課すべき一切の要求に応ずることを命ず

 下名は玄に一切の官庁、陸軍及海軍の職員に対し連合国最高司令官が本降伏実施の為適当なりと認めて自ら発し又は其の委任に基き発せしむる一切の布告、命令及指示を遵守し且之を施行することを命じ並に右職員が連合国最高司令官に依り又は其の委任に基き特に任務を解かれざる限り各自の地位に留り且引続き各自の非戦闘的任務を行ふことを命ず

 天皇及日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす

 下名は玄に「ポツダム」宣言の条項を誠実に履行すること並に右宣言を実施する為連合国最高司令官又は其の他特定の連合国代表者が要求することあるべき一切の命令を発し且斯る一切の措置を執ることを天皇、日本国政府及其の後継者の為に約す

 1945年9月2日「アイ、タイム」午前九時四分日本国東京湾上に於て署名す

 大日本帝国天皇陛下及日本国政府の命に依り且其の名に於て
                      重光英

 日本帝国大本営の命に依り且其の名に於て
                      梅津美治郎



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