国旗国歌と教育勅語を見直す



 [私たちの美しい日丸・君が代](明成社)、明治天皇御製・教育勅語(明治神宮)から抜粋しました。是非一度手にとって、読んで頂きたいと思います。原書には国旗・国歌に対する諸外国の真摯な姿勢が語られています。また、明治天皇両陛下によるたくさんの歌が掲載されており、五箇条の御誓文と教育勅語の基盤としての当時の人々の気持ちが伝わってくるように感じられます。



◇歴史や民族性を表す国旗・国歌

 現在、国連(国際連合)加盟国は一九ニケ国(平成二十二年二月現在。台湾、バチカン市国は未加盟)ありますが、どんな国にも国旗があり国歌があります。
 気をつけて見て下さい。日本にある各国の大使館は、自国の国旗を掲揚していますね。また、これらの国々は紛争や暴動が外国で勃発した時には、大使館、領事館以外の施設にも自国の国旗を掲揚し、外国にいる自国民を保護します。国旗は、その国の主権と共にあり、その主権によって国民を守ろうとするのです。
 船舶に掲げられた国旗も同様です。外国の領海や公海上を通る船舶は、必ず自国の国旗を船尾に掲げることが国際法によって定められています。もし国旗を掲げていなければ、不審な船舶と見なされて、臨検を受けたり、拿捕されたり、場合によっては攻撃されることもあります。
 もっと身近なところにも国旗はあります。日本でもよく開かれている国際会議の会場には、会議に参加する国の国旗が揚げられています。また、スポーツの国際大会では、優勝した選手の国の国旗が掲揚され、国歌が演奏されます。皆さんもテレビ等でよく目にするでしょう。
 しかも、国旗や国歌は、国を識別する単なる標識ではありません。それぞれの国の歴史や風土、宗教や民族性等を表現しています。ですから、外国では日本以上に国旗や国歌が大事にされ、国旗の掲揚、国歌の演奏(斉唱)の際には、誰もが帽子を取り、起立して姿勢を正して敬意を表すのです。
 しかし、外国へ行った日本人の中には、こうしたことに気づかずに、国旗掲揚や国歌斉唱の際に起立をしなかったり斉唱しなかったりして、その国の警察に逮捕される事件も起こつています。或いは、日本へ来ている外国の留学生に対して日本人がその留学生の国の国歌を気軽に歌ってみせ、相手の機嫌を損ねたりすることも多いようです。留学生にとって国歌は厳粛なものであり、それなりの時と場合でなければ歌わないものなのに、日本人にはそれがわからないのです。
 「国際化の時代」という掛け声がかけられて久しくなりますが、国際人として最も大事なことを、私たち日本人はわかっていないのかもしれませんね。
 では、まず外国の学校で国旗や国歌がどのように扱われているのか、見てみましょう。



◇外国の学校は国旗・国歌をどう扱っているか

■フィリピン共和国
 晴れの日は、七時半に朝礼があります。
 まず、国旗掲揚を行い、その後「フィリピン国土への愛、よき」国民として、よき家族の一員として、よき学生としての義務」を宣誓します。


■アメリカ合衆国
 アメリカの学校では教室の黒板の前にたいてい国旗がかかげられています。一日の授業がはじまるまえに、先生と生徒がそろって(国旗への忠誠)を誓います。


■トルコ共和国
 先生の号令で校庭いっぱいにならびます。校長先生がまず国旗を掲揚。生徒達はもちろん、父母達や立ち合いのおまわりさんもおしゃべりをやめて姿勢を正しました。トルコの国旗は、団結と独立を表すもので、国民はこれに敬意を払うのです。
 そのあと、教頭先生の指揮で国歌の独立のマーチをうたい、校長先生のお話をききます。
 この他の国でも、子どもたちは学校で、国旗や国歌の大切さをしっかり学んでいます。


■中華人民共和国
 朝礼では校内に国歌が流されます。国旗の掲揚から学校の一日ははじまります。
 国旗の紅地は共産主義の革命を、大きな星が共産党、四つの星が労働者・農民・知識階級・愛国的小資本家を表わします。


■メキシコ合衆国
 日本の学校のように修学旅行や体育祭、文化祭などはありませんが、独立記念日のパレードや国旗記念日のセレモニーのために、月に一回テーマをきめて、練習セレモニーをします。
 メキシコのい国旗は、サボテンにとまってへどをとらえているワシの絵をまんなかに、赤、自、緑の三色旗で、独立、宗教、統一をあらわしています。


■チベット [最終目標は天皇の処刑 P30-31]
 チベット軍は大別すると近衛隊と国境警備隊の二つに分かれていて、近衛隊は五〇年代の中国侵略以降、徐々に人民解放軍に編入されていきますが、少なくとも近衛隊の場合は、それまで「気をつけ」「直れ」という号令はそのまま日本語でかけていたそうです。
 これは、チベットが中国に侵略される直前までの、近衛隊の最後の隊長だった、ダライ・ラマ法王の義兄の、プンツォク・タクラ閣下から私が直接聞いた話です。
 単にチベット語に訳すのが面倒だったのかもしれませんが、私が想像するに矢島保治郎は自分がチベット軍に貢献したことの一つの証として、日本語をそのまま残したのではないでしょうか。
 また、チベット国旗のデザインをしたのもこの夫島保治郎、あるいは青木文教といわれています。
 チベット国旗は「雪山獅子旗」と呼ばれていて、そのデザインは雪山を背景に唐獅子に守られた観音菩薩を措き、山の頂からは赤と青の光が輝いているというものです。日本人によるデザインと聞くと、確かにどこか日本海軍の旭日旗を連想させるものです。
     



「日の丸(日章旗)」の歴史

 国旗「日の丸(日章旗)」は太陽をデザインしたものです。その歴史は古く、大宝元年(七〇一年)には、元旦の年始めのお祝いの儀式に太陽を表した日像としてかかげられたことが、『続日本紀』に記録されています。
 その後、平安時代末期から始まる武士の時代に、扇や旗に「日の丸」をデザインしたものが多く使われるようになりました。例えば、『愚管抄』には、保元元年(一一五六)の保元の乱の時、源義朝が「日の丸」の扁を使ったと記録されています。また、『源平盛衰記』によれば、有名な屋島の合戦で、源氏の武将である那須与一が、平家の差し出した扇の要を射る場面がありますが、その的となった扇も濃い紅色の日の丸であったと伝えられています。
 また、『太平記』には、今から六百年ほど前の南北朝時代に、後醍醐天皇が「日の丸」の旗を使われたことが記録されています。この旗は、貴重なことに今でも残っています。
      


■『国旗及び国歌に関する法律』
 明治新政府が、明治三年(一八七〇) に出した太政官布告第五十七号『郵船商船規則』の中には、「御国旗」の縦横の長さと丸の寸法についての説明があり、「御国旗」は明らかに「日の丸」を指しています。また、この後に制定された、明治三十二年(一八九九)の『船舶法』や昭和二十三年の『海上保安庁法』、昭和二十九年の『自衛隊法』などの法律も、「日の丸」が日本の国旗である、との前提に立っています。
 「日の丸」が国旗であることは、既に明治時代から慣習法として確立しており、これに基づいて国旗に関する他の法律が制定されたのです。
 平成十一年になると、「日の丸」が国旗であることを、よりはっきりと法律で明文化するべきだという世論が高まりました。そして八月、国旗が「日の丸」、国歌が「君が代」であることを明文化した『国旗及び国歌に関する法律』が国会で成立しました。 法案は、六月十一日に閣議決定され、七月二十二日に衆議院を、八月九日に参議院を通過し、八月十三日に公布・施行されました。衆議院では賛成四〇三、反対八六、参議院では賛成一六六、反対七一。圧倒的多数の国会議員が、この法案に賛成したのでした。
 国旗「日の丸」は、敗戦・占領という受難の時代を乗り越えたのです。敗戦によって、国旗を変えてしまう国も多い中で、これは実に意義深いことではありませんか。王朝時代から人々に親しまれてきた日の丸」の旗が今も国旗として愛され使われているのです。



◇アジア各地に残る「日の丸」「君が代」

■マバラカット町民の「君が代」斉唱
 フィリピンのマバラカットという町には、一九四四年(昭和19年)十月、初めて神風特別攻撃隊が発進した飛行場があります。フィリピンの有名な画家であるダニエル・H・デイゾン氏は、特攻隊の話に感動し、この町に特攻隊の記念碑を建立しました。
 「東洋人であることを忘れ、有害な西洋文明に毒されているフィリピン人に、特攻精神を通して祖国のために身命を捧げることを教えたい」というのが、ディゾン画伯の念願でした。
 この碑には、日本国旗である「日の丸」が大きくカラーで描かれています。
 除幕式は、一九七四年(昭和49年)五月九日には、日本からの参加者はなく、日本大使館からの参加もなかったのですが、町役場の職員全員と一般市民、近くの米軍基地に勤務する日系二世らが参列し、フィリピン国歌と日本国歌「君が代」が斉唱されたそうです。


■アジア諸国の教科書に見る「日の丸」「君が代」
 実は、フィリピンの教科書には、「君が代」が楽譜付きで載っています。フィリピンで使われている中等教育用教科書に、フィリピン語と英語で説明されているそうです。簡単に訳すと以下のような内容になります。
「われわれは一万年もの間この国で幸福な生活を送ってきた。おお天皇様、陛下の御代がいつまでも続きますように。あたかも小さな石が強くて固い岩と大きな玉石に成長し、それに苔がむすようになるまで。この苔むした礼拝地が祭壇に変るとき、民族の誇りになり、永遠の記念碑となる」
 何と格調高い説明でしょうか。

 シンガポールの教科書には、「日の丸」について、やはりとても詳しい記載があります。これも中等教育の教科書で、内容を見てみましょう。
「日本という国は、ライジング・サン、日出づる国、日の本の国と言われ、それが日本という国名になり、そしてこの赤い丸は太陽の女神を意味する。太陽の女神は日本の皇室の祖先であることはすでに学んだとおりである」
 日本の教科書よりすばらしい内容ですね。


■六本の「日の丸」が立つ高砂義、勇隊記念碑
 「日の丸」「君が代」のエピソードは台湾やパラオ共和国にもあります。
 昭和二十年(一九四五)八月、日本が敗戦するまでは、台湾や朝鮮半島や南洋群島は日本の一部でした。
 日本が明治以降に獲得した新領土の統治方法は、とても変わっていて、台湾や朝鮮半島を日本の内地と全く同じように統治しようとしたのでした。
 ヨーロッパ諸国やアメリカは、植民地の人々に苛酷な労働を強い、一方的に生産物や資源を持ち帰るだけでした。ところが日本は逆に本国の資金を使って、鉄道や道路、工場、学校や病院や下水道等をつくりました。現地の人が利用するために、本国と全く同水準の学校や病院、下水道設備をつくったのは、世界史の中で日本だけです。
 また、現地に根強く残っていた理不尽な身分制度は、日本の明治維新後の「四民平等」にならって次々と廃止され、昭和二十年には、成人男子全員が普通選挙権を持つ、日本国内と全く同じような選挙制皮を施行することが国会(帝国議会)で決まりました。
 軍隊についても同様です。日本人と同じように、台湾や朝鮮半島の人々も日本の軍隊へ入ることになったのでした。
 台湾には、高砂族(たかさごぞく)と呼ばれる先住民の人たちがいましたが、この高砂族も戦争中は高砂義勇隊という部隊に入って従軍しました。今でも人々は高砂義勇隊へ従軍したことを誇らしく語っています。
 一九九二年(平成4年)になってこの高砂義勇隊の記念碑が、高砂族の人たちによって台北県の烏来(ウーライ)につくられました。日本人として戦い、亡くなった人々のための記念碑ですから、記念碑の正面の文字は日本文で書かれ、その隣に建てられた副碑の年号は日本式に「平成四年」と刻まれています。
 また、この碑の除幕式では、「高砂挺身報国隊」と書かれた「日の丸」の小旗が参加者全員に配られました。今は既に日本人ではない高砂族の人々にとっても「日の丸」は決して忘れられない旗なのでしょう。
 記念碑の傍らには、六本のポールにそれぞれ鮮やかな「日の丸」が掲揚されていました(二〇〇六年より碑は県有地へ移転)。
    

 同じく台湾の話ですが、台南市には、アメリカの戦闘機に体当たりして撃墜した日本海軍のパイロットを、神様として祀る飛虎将軍廟があります。そこに参拝すれば、作物が豊作になり、豚や魚の養殖も順調になる、といいます。また、最近は宝くじまで当たるということで、廟を信仰する人は益々増えているそうです。 その廟であげられる祝詞が、何と日本の国歌「君が代」なのです。堂守りの台湾人が、毎日欠かさず朝と夕方に「君が代」を歌っています。昼間は、昔の日本の軍歌である「予科練の歌」を歌うこともあるそうです。

 南洋群島にも「日の丸」 の話はあります。
 南洋群島は現在四つの国となって独立していますが、その一つがパラオ共和国です。パラオ共和国のペリリユー島やアンガウル島は、第二次世界大戦のとき、日本軍と米軍が激戦を繰り広げた古戦場です。
 このパラオ共和国は、今でもとても親日的で、一九八六年(昭和61年)には昭和天皇の御在位六十年を祝って、人々が「日の丸」の小旗と提灯を持ってパレードしました。また、パラオ共和国の国旗は、「日の丸」とよく似た「月章旗」で、日本への憧れを表現しているそうです。
      



■インドネシアの独立を支えた日本兵
        http://ameblo.jp/create21/entry-10557846836.html
 インドネシアの独立記念塔の地下1階に、インドネシアの独立宣言書が奉納されています。インドネシアが独立を宣言したのは西暦1945年ですが、この独立宣言書には、05年8月17日という日付が記されています。この05年というのは、当時昭和とともに日本で使われていた皇紀、2605年の05年なのです。
 インドネシアは、数百年間、オランダに支配されていました。日本はアジア解放戦争である大東亜戦争において、昭和17年)3月1日、今村均中将率いる帝国陸軍ジャワ派遣軍第16軍が上陸し、わずか9日間でオランダ軍をインドネシアから追い出しました。インドネシア独立宣言書に書かれた皇紀は、日本への感謝の表れに他なりません(日本兵の活躍により、インドネシアは独立を果たした)。
 ◆インドネシアで敬愛される今村均中将
 今村中将は、布告第一号において、「日本人とインドネシア人は同祖同族である」「日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする」「同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する」とし、「農業改良指導」「小学校の建設と、児童教育の奨励」「オランダ語を廃止、公用語としてインドネシア語の採用」「集会の自由」「インドネシア民族運動の容認」などの善政を施しました。
 ◆インドネシア独立の為に戦った日本兵が祀られるカリバタ英雄墓地
 その後、日本は大東亜戦争に敗れましたが、アジア解放という志を持つ日本兵、約2000名がインドネシアに残り、再び侵略しようとするオランダに対し、インドネシア人と共に戦いました。その内、約1000名が戦死され、インドネシアの国立英雄墓地に祀られているのです。


■中国人が掲げた「日の丸」
 義和団は、白蓮教の流れをくむ中国の秘密結社です。彼らはキリスト教徒を殺害し、教会や鉄道等西洋伝来のものを破壊するなどして暴徒化し、一九〇〇年四月下旬には北京へ入りました。北京では列国の外交官らが襲われ、日本の公使館員にも犠牲者が出ました。日本や欧米諸国の公使館一帯は、数万人の義和団に包囲され、外交官と家族、護衛兵ら約四〇〇〇人が脱出の道を失いました。
 このため、日本や英国、米国等の列国は人力国連合軍を結成し北京へ進撃、八月には北京公使館区域を義和団の包囲から救出しました。連合軍の中心になったのは日本軍で、最も勇敢に戦ったことを当時の各国のマスコミが称賛しました。
 ロンドンタイムス社説は「公使館区域の救出は日本の力によるものと全世界は感謝している。列国が外交団の虐殺とか国旗侮辱をまぬがれたのは、ひとへに日本のお蔭である」と報じています。
 しかし、日本人は単に勇敢なだけではありませんでした。国際法を守り、捕虜や民間人を手厚く保護しました。義和団を追い払った列国の軍隊は、今度は中国人に対して略奪や放火や殺人を繰り返しましたが、日本軍のみはこれが皆無でした。
 ヂョージ・リンチ著『文明の戦争』という本によれば、「イギリスやアメリカの管轄区域はフランスやロシアの区域よりは良かった。しかし、日本軍のそれと比べると遠く及ばなかった」と書かれています。また、ウッドハウス瑛子著『北京燃ゆ』という本には、ロシア区域の残虐行為にたまりかねた北京市長がマクドナルド英国公使に、ロシア地区を日本の管轄に変えて欲しいと苦情を訴えたことが書かれています。
 このとき、天津の中国人は、「大日本順民」と書いた「日の丸」を掲げて日本軍への感謝を表しました。このように、国旗「日の丸」は、中国人によって好意的に掲揚された歴史もあるのです。
 この日本軍の規律の正しさは、義和団事件だけではなく、日清戦争、日露戦争でも各国の称賛を浴びました。また、日本と提携して、中国の将来を切り拓いてゆこうと考える中国人もたくさん現れました。



「日の丸」に敬礼した米軍将校

 米軍による日本占領当時、「日の丸」「君が代」は禁止されていました。この物語は、日本国内での「日の丸」掲揚の制限がようやく取り払われた、昭和二十四年の話です。
 十月十五日の午後、東京の後楽園球場では、米国のプロ野球チーム、サンフランシスコ・シールズ対東京・巨人軍の親善試合が行われようとしていました。
 開幕式が始まり、バックスクリーンに両国の国旗が掲揚され、両国の国歌が厳かに演奏されます。日本が占領されて以来、初めて日本の国旗「日の丸」が米国国旗「星条旗」と並んで掲揚されたのでした。
 と、その時、米国側の席にいながら「日の丸」に敬礼する一人の男がいました。顔は日本人ですが、米陸軍の軍服を着て、軍帽をかぶっています。そして、米軍の関係者数名が、その姿をにがにがしげに見つめていました。
 その男は、キヤピー原田という日系二世の米軍中尉でした。
 この日の親善試合に、「日の丸」を掲揚するようにマッカーサー元帥に申し出たのは、実はこのキャピー原田中尉だったのです。マッカーサー元帥は、原田中尉の申し出をすぐに許可しましたが、中尉は更にこう付け加えました。
「元帥、私は日系二世で、両親は日本人です。昔から血は水より濃い、といいます。私は、場合によっては、『日の丸』に敬礼するかもしれません」
 マッカーサー元帥は、「許可する」とも「しない」とも言わずに、ただ黙って微笑していました。
 キャピー原田中尉が「日の丸」へ敬礼したことは、試合後、マッカーサー元帥の副官バンカー大佐の知るところとなりました。バンカー大佐は、元帥に訴えました。
「原田はジャップ (日本人への蔑称)のスパイです。軍事裁判にかけるべきです」
 連合国軍の将校が「日の丸」に敬礼する程度の出来事は、日本が講和条約(昭和二十七年四月発効)を結んで独立した現在では、別段不思議なことではないでしょう。しかし、当時はこれが大変な問題になりかけたのでした。何故でしょうか。
 そもそも日本人の米国への移民は、明治時代の中頃より始まりました。移民たちは、身一つで苦労して、荒れた土地を開墾して自らの財産を築き上げ、米国の国籍を取得して生活していました。しかし、日本との戦争が始まると、米国政府は、法律上紛れもない米国民である日系人の財産を没収し、収容所へ入ることを命じたのです。米国政府は、「日系人たちが、日本の立場に立って、米国の戦争遂行を妨害するかもしれない」と考えたのでした。(※ところが、独・伊の移民についてはこのようなことはありませんでした。明らかに人種蔑視によるものです。この没収された財産に対しては、レーガン大統領が正式に謝罪し、補償を行っています。)
 日系人は、米国への忠誠を示す必要がありました。米国のために戦う意志を見せなければなりません。日系二世たちは、次々と米軍へ志願して入隊しました。日系人部隊は、主としてヨーロッパ戦線へ投入され勇名をはせました。442部隊は特に有名で、フランスのボーシュの森作戦では、ドイツ軍に幾重にも包囲された米軍(テキサス部隊)を万歳突撃で救出しました。その激戦地は今も「バンザイヒル(万歳の丘)」と呼ばれています。
 日系二世部隊が勇敢に戦った大きな理由の一つは、この戦いによって真の米国民になりきることでした。しかし、もう一つの理由は、米国における日系人の立場を守ることでした。それほど、当時の日系米国人の立場は弱かったのです。
 キヤピー原田中尉は、米国の国民としての忠誠を尽くすべく、米軍に入りました。しかし、両親の、また祖先の国の旗である「日の丸」へのほとばしるような愛情は、いかんともしがたかったのでしょう。
 原田中尉は、他の米国の軍人の前で堂々と「日の丸」へ敬礼しました。そして、原田中尉にはあらぬ疑い(スパイ容疑)がかけられたのでした。
 バンカー大佐は、原田中尉を軍事裁判にかけるべきだと主張しました。
 マッカーサー元帥については、今日いろいろな評価がありますが、案外懐の深い人であったのかもしれません。
 元帥は、バンカー大佐に言いました。
「原田中尉には、事前に敬礼の許可を与えておいた」
 これには、バンカー大佐も一言もありませんでした。原田中尉が処分を受けなかったことは言うまでもありません。



◆連合国軍の占領下に翻る「日の丸」の感動

 皆さんは、「日の丸」を掲げることができない時代があったのを知っていますか。
 昭和二十年八月、日本は、大東亜戦争(太平洋戦争)に敗れた後、米国をはじめとする連合国軍に約七年もの間、占領されました。占領中は、連合国軍最高司令官司令部(GHQ)によって国旗「日の丸」の掲揚が制限されたのでした。「日の丸」を掲げたくてもそれが自由にできなかったのです。
 当初GHQは「日の丸」の掲揚を全面禁止しましたが、日本側の強い働きかけによって少しずつ使用が許されるようになりました。

 日本人は、六年半にも及ぶ長い占領が終わりに近づくと、「日の丸」への思いを一層強くしました。
 昭和二十六年(一九五一)九月八日、日本の吉田茂全権はサンフランシスコで対日講和条約に署名しました。この条約は、翌二十七年四月二十八日に発効し、その日より日本が独立国家として国際社会に復帰することができるのです。
 米国からの帰路、代表団は飛行機の内で乾杯し、「日の丸」を揚げようということになったのですが、肝心の「日の丸」がありません。そこで、思いついたのが、ナプキンにスチュワーデスの口紅で「日の丸」を描くことでした。
 代用の旗で、代表団は乾杯しましたが、その感激はただならぬものがあったそうです。日本の知識人の中には敗戦のショックで、「日の丸」に対して自信を持てなくなった人も多くいたようです。
    

 元亜細亜大学学長の衛藤春吉氏も、戦争中の辛い体験から「日の丸」を嫌っていた時期がありました。しかし、あるヨーロッパでの体験が衛藤氏の考え方に大きな変化をもたらします。
 昭和二十六年頃より衛藤氏は、欧米の諸大学を視察すべく日本を出発しました。北米大陸をめぐつてヨーロッパヘ移り、オランダへ入りました。そして、アムステルダムの港を訪れたときでした。
 はる遥か遠くの船に、「日の丸」の旗が揚がっているのが見えたのです。思えば、母国を離れて九カ月余り一度も見なかった「日の丸」です。
 衛藤氏が、吸い寄せられるように近づいてみると、貨物船の船尾に「日の丸」が翻っていて、日本人らしい船員の姿が見えました。「ああ、日本の船がヨーロッパにまで来れるようになったのか」と思ったとたん、涙が湧き出てしようがなかったそうです。
 また、ノンフィクション作家の大宅壮一氏も、やはり同じ頃、パナマ運河の畔で、「日の丸」を掲げた一隻の船が航行していくのを目撃して、目頭の熱くなるのを抑えることができなかったといいます。「日の丸」に感激したのは国外にいた人ばかりではありません。

 昭和二十四年に国内での国旗掲揚の制限がほぼ取り払われ、昭和二十七年四月に講和条約の発効によって日本が独立を果たすと、人々は再び「日の丸」の使用を始めました。祝祭日に家々に掲げられ、学校では文化祭や体育祭などで掲げられ、「日の丸」は団結と祖国再建の旗印となりました。
 敗戦によって、国旗を変更した国はたくさんあります。しかし、戦争、占領の苦難の時代を乗り越え、「日の丸」は完全な復活を遂げたのでした。



「日の丸」と沖縄復帰運動

 日本政府は、米国、英国との戦争に踏み切りました。そして、昭和二十年(一九四五)四月には米軍をはじめとする連合国軍が、日本の沖縄県へと攻め込んだのでした。
 沖縄戦では、県民も日本軍に協力し勇敢に戦いました。日本本土からも、沖縄を守るために何千機もの特攻機が飛び立ち、海からは戦艦大和をはじめ、当時の日本の軍艦のほとんどが沖縄の救援に向かいました。連合国軍は大きな損害を出しましたが、沖縄へ向かった連合国軍は、日本軍の戦力の三十五倍と言われるほど強力で、日本軍は多数の死傷者を出して、沖縄全土を占領されてしまいました。
 戦争が終わって七年後の昭和二十七年四月、日本政府と連合国が講和条約を締結し、日本が独立した後も、沖縄県だけは長く米国の占領下に置かれました。沖縄は、米国が対アジア戦略を遂行する上での基地として、この上もなく重要な場所だったからです。
 そのような中で、沖縄の人々の祖国日本への思慕は募っていきました。沖縄の人々は、その思いを祖国日本の国旗「日の丸」と国歌「君が代」へと託しました。
 ひめゆり同窓会長で、婦人連合会会長等を歴任した源ユキさんは、次のように述べています。
「『日の丸』をかかげ、『君が代』を歌うことが、自分は日本人であるとの感を深くさせたのでした。昭和三十二年の頃ですか、家庭クラブというのがあり、オブザーバーで参加したのですが、久しぶりに国旗にむかって『君が代』を歌った時には生徒も私も涙が出まして、本当に感無量でした」

 また、(財)沖縄総合教育センター理事長の菊地藤吉氏は、次のような体験をしています。
「昭和三十二年頃であったかと思います。結婚式があるので八重山に行きましたところ、そこの住人が、見せたいものがあるといって押し入れを開けたのです。するとどうでしょう。押し入れの中に日章旗がかざってあるではないですか。当時は日章旗をかざることは禁止されている時代ですから、大変感動したことを覚えています。その住人が話してくれたことには、八重山の多くの家々でこうして押し入れにかざってあるとのこと。もし見つかったらと質問したら、ほしてあるのだと言い訳すればよいということでした」

 沖縄の人々は、その気持ちを本土へも訴えかけてきました。
 昭和二十七年、沖縄教職員会会長に就任した屋良朝甫氏(後の沖縄県知事)は、沖縄の教育荒廃について本土の人々の救援を得ようとして、第二回目教組大会に出席し、次のように訴えました。
「沖縄県民が『日の丸』で送りたくとも、米軍によって禁止されていた為、その代わりに、桜の小枝を打ち振る子供たちに見送られて那覇の港を出た。…一日も早い祖国復帰を」
 その訴えに、各県代表をはじめ会場を埋めつくした人々は、初めて知った沖縄の実情にあふれる涙を押さえることができなかったと記録されています。
 本土の側からは、末次一郎氏(新樹会代表幹事)らが、昭和二十八年から沖縄の学校へ国旗を送る運動を始めました。受け入れは沖縄教職員会で、沖縄中の小、中、高校へ次々と国旗が送られました。それまでは、紙に赤いクレヨンを塗って国旗の代わりにしていた学校もあったので、末次氏のもとへは、感動や感謝の手紙が子供たちや先生方から次々と届きました。
 昭和三十五年十一月になると、沖縄教職員会は、「日の丸を掲げよう運動」を強力にすすめることを、決めました。沖縄では、この頃ようやく各家庭での「日の丸」掲揚は許されていましたが、学校では高等弁務官の許可がない限り絶対に掲げることができませんでした。沖縄教職員会は、労働組合、PTA等沖縄中のあらゆる団体に呼びかけて「日の丸を掲げよう運動」を大々的に展開することとなったのです。このようにして、「日の丸」は、沖縄の祖国復帰運動のシンボルとなりました。
      
 本土側でも民間の団体を中心に猛烈な勢いで沖縄復帰促進の運動が盛り上がります。そして、ついに昭和四十七年五月、沖縄は日本へと復帰したのでした。この沖縄返還は、戦争なしに領土が戻った世界でも珍しいケースと言われているそうです。



◆日本軍戦闘機胴体の鮮やかな「日の丸」

 作家の石原慎太郎氏(東京都知事)は、「日の丸」に対して非常に印象深い思い出があるそうです。
 戦争も末期になると、日本本土も米軍をはじめとする連合国軍の空襲を受けるようになりました。サイパン島や中国の基地から、大型のB29という爆撃機が来襲し、日本のほとんどの都市は、爆撃によって廃墟と化しました。また、日本近海にまで、米国の航空母艦が接近し、小型の飛行機(艦載機)を発進させて、日本の隅々にまで攻撃を加えました。
 石原氏は、当時神奈川県湘南の旧制中学校へ通っていましたが、ある日学校から帰る途中で、米軍の艦載機に襲われたのでした。
 米軍機は機銃で攻撃してきたので、学生たちは、麦畑の中を必死に走って逃げました。そこら中に機関銃の弾が飛び、一人が撃たれて倒れます。飛行機が、頭を飛び越えてゆきました。
 石原氏は、その先の森へ向かってさらに走りました。すぐにまた新しい飛行機が後ろの方から迫ってくるのを感じたからです。しかし、不思議なことにその飛行機は全く撃ってきませんでした。
 何故だろう?石原氏が振り仰ぐと、飛行機の翼と胴体に鮮やかな「日の丸」が見えました。後ろから迫ってきていたのは日本の戦聞機だったのです。日本の戦隣機は、石原氏らを銃撃した米軍機を追いかけてゆきました。
 石原氏は言います。
「その機体はもう非常に濃い褐色に、日の丸が描いてあるわけだね。その日の丸がね。鮮やかで、震いつきたくなるような感じがたな。その感覚ってのは、オリンピックで日章旗があがるどころのものじゃないんだよ」

 戦争中に、石原氏のような体験をした人はたくさんいます。
 戦争の時代だけではなく平和の時代にも日本の国旗は「日の丸」でした。石原氏の見た戦闘機の「日の丸」も、サッカーワールドカップの応援で振られる「日の丸」も同じ日本の国旗なのです。苦しい時、嬉しい時、「日の丸」は、常に日本人と共にあったことを忘れてはならないと思います。



◆名越二荒之助先生「国旗のお話」
          http://www.youtube.com/watch?v=Iw32nVhvh_A&feature=youtu.be
 諸外国では、国旗に対する感動とか、歴史的な深い意味を繰り返し教えている。国旗国歌論争を行っているのは日本だけだ。日の丸は戦争と平和だけの旗ではない、日本の旗であり、戦時平時を関わらず一緒だった。

※名越氏は、日本軍の力を借りて印度独立に生涯をかけたチャンドラ・ボーズの不撓不屈
 (ふとうふくつ)の闘志をいつも絶賛されていた。過酷なシベリア抑留中も、共産主義
 への転向を頑なに拒み続け、それどころか死を覚悟してソ連に対する批判文を書いた信
 念の持ち主である。


 ■パラオの国旗
 青は太平洋、満月は日出る国日本に照らされて輝く。ペリリユー島やアンガウル島で、一万二千人の日本人が玉砕しているので、その恩を忘れない。パラオ共和国の国旗は、「日の丸」とよく似た「月章旗」で、日本への憧れを表現しているそうです。
 ■バングラディッシュの国旗
 青は肥沃なる大地、赤い丸は登り行く太陽で、イスラムの色でもある。バングラディッシュ大使館に問いあわせると、日本への憧れですよと云う。
 アジアで最初のノーベル文学賞受賞者のシセイタゴールは、岡倉天心の影響を受けて、軽井沢にはタゴール公園もある。パール判事記念館が、函館にある。チャンドラボーズの遺骨は日本に眠っている(インド国民軍を率い英雄。連光寺)。ベンガルの産んだ歴史的三人の偉人だと誇る。
 ■自衛隊の軍艦旗
 帝国海軍の軍艦旗でもあった。太平洋諸国にこれを持って行くと、お土産よりも喜ぶ。真珠湾奇襲が痛快でしかたがない。あっとゆうまに太平洋艦隊を撃沈した。二日後には、英国の極東艦隊を全滅させたからだ。また世界を相手にして勝てるわけはない、負け方もまた良かった。
 ■満州国の国旗
 米国では収拾策無しにイラクに突っ込むので、ブッシュに満州事変を学べと教えてやれば良い。6ヶ月後には満州国を独立させ、五族共和で隆々たる繁栄をもたらした。
 ■チベットの国旗
 日露戦争で日本が勝ったので、時のダライラマが、日本軍のような強い軍隊を望まれて、その時に日本軍人が造った連隊旗なのですが、ヒマラヤの山頂に輝く太陽です。今、中国でこれを掲げたら逮捕されます。インドに亡命中のダライラマはこれを掲げている。
 ■モンゴル国旗
 シナ事変の時に独立させたモンゴル国旗です。国王を元首にして、モンゴルの花をデザインした騎兵隊旗です。紅に白地の日の丸。
 ■フィリピン国旗
 米西戦争の直後に造った国旗で、いまだにそのまま使っている。独とかソ連とかイタリアでは、戦争に負けるごとに、国旗を変えている。日本では天皇陛下は変わらない、日本の永続性・悠久性を学校で教えなければならない。
 ■インドネシア国旗
 日本軍は、オランダ軍を9日間で征服した。今はオランダに守って貰っているが、祖国防衛義勇軍を造った時の連隊旗です。
 ■アボリジンの国旗
 キャプテンクック当たりから大虐殺の末、30万人しか居ない。黒はアボリジン、赤は血潮、太陽の心で行く。つまり、白人を恨まないと。
 ■韓国国旗
 中央は陰陽の調和、その周囲は東西南北とか環境との調和の哲学を表現している。韓国へ行くと、いつも国旗の精神でやろうと言う。それは韓国が、国旗の精神に反して、韓国だけが正しいと思って、うぬぼれているからだ。明治17年、金玉均や朴栄光が、日本に初めてやってきた。その時に国旗が必要だと云うから、明治丸で急に造った国旗で、神戸で世界で初めて掲げられた。韓国人は誰も知らない。
 ■ジェット機の旗
艦船三笠に掲げられた。



◇「君が代」の歴史

 「君が代」のもとになる歌は、『古今和歌集』(九〇五年)の第七巻の冒頭にあります。
 それは、「わが君はちよにやちよにさざれ石の巌となりて苔のむすまで」という長寿を祝う歌で、作者は「読人しらず」となっています。
 意味は、「わたしのご主人のお命がいつまでも長く続きますように、小石が寄り集まって大きな岩となり、それに苔が生えるまで末永く健やかにおわしますように」です。


■民衆の支持を受けた「君が代」
 鎌倉時代になると、祝い歌の「君が代」は、神社の祭礼や寺の行事での歌や舞いや、物語に取り入れられました。『曽我物語』(鎌倉末期)には、次のように書かれています。
 …義秀は、みんなに手をたたかせて、「君が代は千代に八千代をさざれ石の」と、声をあげて、「巌となりて苔のむすまで」と、舞を演じた…(意訳)
 また、室町時代には、「君が代」は謡曲(能楽の脚本)にも取り入れられ、民衆の幅広い支持を受けました。
 さらに、江戸時代になると、三味線を奏でながら歌われる小唄や長唄をはじめ、落語、小説である仮名草子、浄瑠璃、琴曲、琵琶歌、詩吟など、あらゆる歌謡に歌われるようになりました。
そして、各地の盆踊りにも詠み込まれています。
 「君が代」は、朝廷から武士、農民、町人を問わず、また江戸、京都などの都市から南の海の離島に至るまであらゆるところで歌い継がれてきたのです。このように、一〇世紀の始め、詠んだ人さえわからなかったほどの「君が代」が、約一〇〇〇年にわたって各地に広がり、お祝いの席の愛唱歌として親しまれてきました。この歌が、後に「国歌」として採用されたのはごく自然なことといえるでしょう。


■国歌の作曲と採択
 明治維新を経て、外国との交流がはじまり、様々な儀式で、国歌を演奏しなければならなくなり、日本には国旗とともに国歌が必要になってきました。当時、国際社会において、国旗・国歌は、独立国にはなくてはならないものでした。
 明治二年(一八六九)、イギリス公使館の軍楽長のフエントンが、薩摩藩の軍楽隊員に、日本には国歌があるか、とたずねました。それを問いた、同藩の砲兵隊長であった大山巌らは、日本にも国歌が必要と考えました。
 そして、「国歌は、新しくつくるよりも、古い歌から選ぶべきだ」、また、イギリス国歌を参考にし、大山は、ふだんから愛唱していた琵琶歌『蓬莱山』にある「君が代」を国歌として提案しました。
 この「君が代」にフエントンが曲をつけて、翌年の明治三年(一人七〇)九月に、明治天皇の前で初めて披露されたのです。その後、林広守やエッケルトによる曲の改訂を経て、現在の「君が代」の楽譜が完成しました。
 「君が代」の新しい楽譜は、その年の十一月三日、天長節(天皇陛下のお誕生日)の宴会で吹奏されました。その際、明治天皇に「君が代」を「国歌」と申し上げたということです。
 また、明治二十一年(一八八八)には、「君が代」の楽譜が諸官庁と条約国に公式通知され、「君が代」の国歌としての地位は国内的にも国際的にもほぼ確定したのでした。


■唱歌から国歌へ
 文部省では、明治二十六年(一人九三) 八月十二日、全国の小学校に「祝日大祭日儀式唱歌」を示しましたが、「君が代」はその冒頭に収められ儀式唱歌になりました。
 そして七年後の明治三十三年(一九〇〇)には、一月一日、紀元節(今の建国記念の日)、天長節の三つの祝祭日には、職員と児童は式を行い、「君が代」を歌うことが定められました。これによって、「君が代」は、全国の小学校で祝日の儀式のたびに歌われることになったのです。


■今日の「君が代」
 昭和二十年(一九四五)、日本は戦争に敗れ、連合国軍最高司令官稔司令部(GHQ)の占領下におかれました。占領中は、政治や外交面だけでなく、教育内容や教育制度も厳しい制限を受けることになります。GHQの指示によって、多数の教員も公職から追放されました。
 このため、文部省もGHQを恐れて、学校教育で「君が代」を教えることを自主規制しました。多くの日本人が「君が代」を歌わなくなりました。
 しかし、日本が独立を果たし、国際社会に出ていくようになったころから、国歌である「君が代」は、再び学校教育をはじめさまざな場で斉唱されることになりました。世論調査でも、「君が代」を「国歌としてふさわしくない」と答える人は二割にも満たず、「君が代」は常に国民の大きな支持を集めました。
 敗戦によって、国歌が変わった国は決して少なくありませんが、日本人は「君が代」を再び国歌として選び取ったのです。
 そして、平成十一年には、国民世論の圧倒的賛成によって国旗国歌法(国旗及び国歌に関する法律) が制定されたのでした。


■「君が代」の歌誌の意味
天皇陛下を日本国と日本国民統合の象徴といただく我が国が、
さざれ石(小石)が寄り集まって巌(大きな岩)となり、
それに苔が生えるまで末永く栄え、平和 でありますように

※「君が代」のヘブライ語約
 日本神道は原始キリスト教に相当する。原始キリスト教は、イエスの弟義人ヤコブに引き継がれ、イエス・キリストを人間とし、預言者の一人と見ており、人類の救世主としていない。

 尚、日本国歌「君が代は、千代に八千代にさざれ石の巌となりて、苔のむすまで」のヘブライ語訳は
   「立ち上がれ ! 神を讃えよ ! 神の選民であるシオンの民は、選民として喜べ !
    人類に救いが訪れ、神の予言が成就した。全地あまねく宣べ伝えよ ! 」

   君が代は、    「立ち上がって神を誉めよ!」
   千代に      「シオンの民」
   八千代に     「神の選民」
   さざれ石の    「人類を救う残された民として喜べ!」
   巌となりて、   「神の証」「成就した!」
   苔のむすまで   「全地に語られる」
         http://www.naritacity.com/bbs/bbs/BBSDispMessage.asp?ThreadNo=34より



◆「君が代」と皇居清掃奉仕団の再開

 昭和一一十年十二月、大東亜戦争に日本が敗れたその年の冬のことです。東京などの大きな都市はアメリカ軍からの空襲によって焼け野原となっていました。天皇陛下のお住まいである皇居も、木造の建物がほとんど焼け、宮殿の跡には瓦や石が散らばり荒れ果てていました。周りの二重橋前の広場にも雑草が生い茂っていました。 数カ月後、それを問いた宮城県栗原郡の青年男女六十二人が、皇居をきれいにしたいと、かけつけました。終戦後で東京には食料や燃料があまりない時だったので、迷惑をかけないように自分たちの食料と燃料を用意し、それに草刈りがまを一つ持って、東北のいなかを出発したのです。
 当時、日本は、戦争に勝ったアメリカを中心とする連合国軍によって占領されていて、日本人の行動は厳しく制限されていました。そんな時期に天皇陛下のために働いたら占領軍に捕らえられるかもしれません。青年たちは、死を覚悟して来たのでした。
 青年たちからその話を問いた宮内省(現在の宮内庁)の職員は大変感動しました。そして、「二重橋もそうですが、皇居の中も瓦やコンクリートの破片が散らばっているので、そちらを片付けて頂けないでしょうか」とお願いしました。青年たちは、思ってもみなかった皇居の中の清掃を頼まれたので、喜びました。毎日懸命に働き、三日後には何万個という瓦や石の破片を見事に片付けたのでした。
 その作業の初めの日、昭和天皇は是非この青年たちに会いたいとおっしゃられ、十分間ほど青年たちとお話をされました。陛下が、直接青年たちとお話になるなど、前例のないことです。
 天皇陛下は、遠いところから来てくれて本当にありがとう、とお礼を述べられ、農作の具合はどんなか、地下足袋は満足に手に入るか、何が一番不自由かなど、地方の様子をいろいろおたずねになりました。そして最後に、どうか国家再建のためにたゆまず精を出して努力してもらいたい、とおっしゃり、お戻りになろ、つとされました。
 その時です。突然、陛下の後ろの方から国歌「君が代」の斉唱がわきおこりました。占領軍の取り締まりがきびしく、誰も口にすることを遠慮していた「君が代」が、誰に相談するでもなく、青年たちの中からわき上がったのです。昭和天皇は歩みを止められ、じつと聞き入られました。
 これを見た青年たちは、驚きと感激で、胸がつまり、涙がとめどなくあふれ出てきました。「天皇陛下の歩みをお止めしては申し訳ない」「早く歌い終わらなくては」と思うのですが、歌声は涙声になり、なかなかうまく歌うことができません。青年たちが、やっとの思いで歌い終わるまで、陛下は再び歩みを進められることはありませんでした。
 この話は全国に伝わり、敗戦で元気をなくしていた多くの日本人に勇気を与えました。そして、皇居を清掃したいという申し出が殺到しました。
 これが今日まで続いている戦後の皇居清掃奉仕団の始まりです。




明治天皇

 明治天皇はたいへん学問を好まれ、ご一生を通してご熱心に講学にはげまれましたが、そのご修学は御年八オの頃より始められました。福羽美静、元田永らが広く和・漢・洋の学をご進講申し上げました。
 天皇は天性ことのほか秀でておられましたが、なお常に勉学にはげまれ、修養につとめられましたので、明治聖代発展の原動力となったのであります。
 神 祇
目に見えぬ神にむかひてはぢざるは
  人の心のまことなりけり

     

■[日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか]より抜粋
 とくに明治維新以降になると、天皇が果たした役割の大きさについて、世界で広く認識されるようになつた。明治天皇崩御時(1912年)の各国メディアの報道がそれを物語っている。
 フランス紙「ラ・ルビユー」8月15日
陛下の治世は日本史上長大の治世であるとともに、世界史上最大の治世の一つ。
 オーストリア紙「ノイエ・フライエ・プレッセ」7月30日
崩御された日本の天皇陛下は、世界における最大偉人のひとりだった。
 アメリカ紙「ニューヨーク・タイムス」7月30日
実に陛下の治世は世界史上においてほとんど比類のないものだつた。
 ロシア「オケアンスキー・ベストニク」 7月31日の追悼文
小国で世界ではあまり知られていなかった日本は、天皇の幸運な治世下で発展し、その名を世界に轟かせ、世界的一等国の間にその位置を占めるに至った。

 世界史的にも、明治国家が果たしてきた歴史貢献は実に大きかった。また、日本の天皇は世界史上きわめて高遇な国家元首であり、神代の時代からの存在としては、人類史的にも類例を見ない特別な存在なのである。
 明治維新後の日本帝国興起にともない、その精神的な支えとされる「国魂」、武士道精神は、清国留学生のなかで、維新派の梁啓超や革命派の秋瑛といった人びとを魅了し、日本に学ぶことが一大ブームとなった。



昭憲皇太后

 昭憲皇太后はご幼少の頃より御父一条忠香公のもとで執心にご修学につとめられました。ご成婚後は更に詩学にはげまれましたが、明治天皇ご同様和歌の道には特に秀でておられ、ご一生にお詠みになられたお歌は三万首を超え、いずれも品格の音同いものであります。
 明治十一年の秋、天白王が北陸地L万ご巡幸中、皇后は秋草しげる赤坂の仮皇居で初雁の飛ぶのをご覧になられて
はつかりをまつとはなしにこの秋は
 こしぢの空のながめられつつ
とお詠みになって、天皇のご苦労をしのばれ、それを天皇の宿舎に送られてお尉心めになりました。
 この絵は自立后が赤坂仮自王居のお庭をお散歩中の光景です。



◆明治神宮

 祭神 明治天皇 (第一二二代の天皇)
    昭憲皇太后(明治天皇の皇后)
 創建 大正九年十一月一日(皇紀二五八〇年 西暦一九二〇年)
 明治四十五年七月三十日に明治天皇、大正三年四月十一日には、昭憲皇太后がおかくれになりました。これを伝え聞いた国民の聞から一斉にご神霊をおまつりして、ご遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心がみのって、明治神宮のご創建となったのであります。
 面積約七十万平方メートルの境内は、その殆んどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、都心にありながら山野にある心地のするほど深い森林を形追っています。今日では、代々木の人工の森、愛の森と親しまれ、諸外国にも有名になっています。



◆まえがき

 教育勅語は、明治二十三年に国民に賜わったのでありますが、古今東西、いつの時代、いずこの国にも通用する御教えでありまして、人間が本当の人間となるための修業の基本をお示しになられたのであります(本文ほ僅かに三一五字)。
 ところが今日では、この大事な御教えを、すっかり忘れるように仕向けられています。これは大変なこ七であります。昭和二十三年からは、学校では教育勅語を教えなくなりました。然しながら、これは戦後混乱時の成り行きでありまして、世の識者間には次第に、再び教育勅語の真義を認め遵奉するようにとの動きが見えて参りました。これほ当然のことであります。だが只今のところでは、家庭や社会で伝えなければなりません。親から子へ、或は職場や諸会合の様々な場合に、教育勅語を仰ぎ戴く多くの機会を作るようにいたしましょう。
 皆さん、今や我々は最も大事な時代に当面して居ります。肇国以来の美風である皇室を中心とする一大家族国家を堅持して、祖先の御加護に答え、子孫の繁栄を祈りつつ、日本国家の隆昌、世界の平和向上のため、大いに貢献するところの我が忠良なる国民たることを期して、努力邁進いたそうでほありませんか。

※明治の時代、明治憲法が国民の心の基盤だったように思われがちですが、心の基盤は明治天皇の御名の下に明治政府が発表した「五箇条の御誓文」「教育勅語」にあったのです。これこそが、神武天皇、聖徳太子を経て、江戸時代までに確立した日本の精神の結晶でした。日本に根付いた日本式の民主主義だったのです。



五箇条の御誓文


 これより、わが国では前例のない大変革を行なおうとするにあたり、わたしはみずから諸臣の先頭に立ち、天つ神、国つ神に誓い、重大な決意のもとに国の方針を定め、国民の生活を安定させる大道を確立しようとしているところである。
 諸臣もまたこの趣旨に基づいて心を合わせ努力せよ。



教育勅語の口語文訳

 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を完うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私ほ教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
 国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく、友人は胸襟を開いて信じあい、そして自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心をささげて、国の平和と、安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然のつとめであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、更にいっそう明らかにすることでもあります。
 このような国民の歩むべき道ほ、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、このおしえは、昔も今も変らぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、まちがいのない道でありますから、私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。


■教育勅語は廃止できない [日本の歴史 戦後編]より
 もっと悲劇的なことが教育勅語に起こつている。
 明治二十三年(一八九〇)に発布された教育勅語に関して、明治政府は非常に慎重だった。教育勅語の原案は井上毅が作り、天皇側近の儒者元田と相談しながら最終案をまとめた。井上毅は特定の宗派宗教を連想させるような言葉は使わないという信念に基づいて原案を作っている。
 また、新しい宗教のようなものを日本が発布したと先進諸国に思われるのではないかとの配慮から、明治政府は当時の代表的な学者に命じて教育勅語を翻訳させた。英訳、仏訳、独訳、漢訳など何カ国語にも訳させている。しかし、どの国からも反対はなかった。進駐軍も最初は、教育勅語によくないことが書いてあるなどとは言わなかった。
 ところが、東大系の学者などが、教育勅語は軍国主義につながるなどと言ったために、何もわからない進駐軍は「そうなのか」と思ったのである。
 公職追放令の項でも触れたが、議員たちは皆、追放されるのが怖くて仕方がなかった。だから進駐軍が教育勅語を「軍国主義的と考えている」と知らされると、追放が怖くてそれに賛成するほかなかったのである。
 教育基本法ができたのは昭和二十二年(一九四七)のことだが、その頃はまだ教育勅語は廃止されていなかった。したがって、教育勅語に書いてある道徳や愛国心について、わざわざ教育基本法の中で言う必要がなかった。
 その後、教育勅語が廃止されてしまうと、「教育勅語」と「教育基本法」の両輪で完成されるはずだったものから、道徳的なことや愛国心がすっぽりと抜け落ちてしまうことになった。二輪車が一輪車になって、精神的なものに関する教育がなくなってしまったのである。
 それがずっと仇をなしてきて、安倍晋三内閣の時の教育基本法の改正でようやく取り戻すところまできた。
 教育勅語はいわゆる法律ではない。天皇陛下のお言葉という意味合いから、天皇ご自身の御名御璽だけが記され、国務大臣の名前は副署されていない。つまり、明治天皇が道徳に関する希望を述べられて、皆さん、私と同じように道徳を重んじましょうということなのだ。
 法律でもない教育勅語を廃止したということは、国会が徳目を公式に廃止したということになる。戦前のように教育勅語を全ての公立の学校で教える、または校長先生が朗読するということは難しいかもしれない。しかし、廃止してはいけないものを、また廃止できないものを廃止したのだから、国会は教育勅語廃止令を廃止する決議を行うべきである。




■アメリカ人は国旗に忠誠を誓う [日本の歴史 戦後編]より抜粋

 昭和二十一年(一九四六)三月、アメリカの教育使節団が日本にやってきた。そして「日本を民主主義国家にしなければならない」という名目で、日本に教育改革をさせた。
 これは、ポツダム宣言にも沿わない行為である。「日本国国民ノ間二於ケル民主主義的傾向ノ復活強化二対スル一切ノ障害ヲ除去スヘシ」と言っている(傍点渡部)。
 つまり、ポツダム宣言の時点においては、明治憲法の下で民主主義的傾向があったときちんと理解されていた。しかし、占領軍としてやってきたアメリカは、日本に民主主義などなかったものとして教育改革を行っていったのである。
 私は当時、すでに中学生だったので経験していないが、小生は皆、教科書を塁で塗り潰した記憶があると言う。これは、アメリカ人の偽善の極みである。
 アメリカの幼稚園、小学校で必ず毎日、胸に手を当てて唱えさせている言葉がある。
「I pledge allegiance to the flag of the United States of America and to the Republic for which it stands,One Nation under God,indivisible,With Liberty and Justiceforall.」

 直訳すれば、「私はアメリカ合衆国の旗、およびそれが代表するところの共和国、神の下における一つの国家であり、わかつことができず、全てに自由と正義を与える国家に忠誠を誓います」というような意味になる。
 アメリカの初等教育というものは大した学科の授業をしていないところもあるのだが、これだけは毎日、言わせている。
 私はシナ事変が始まった年に小学校に入学し、小学校五年生の時にアメリカとの戦争が始まり、旧制中学校の時に総力戦の時期を迎えた。全て公立の学校だ。旧制中学は軍国主義だと言われているが、アメリカのような文句を唱えたことなど一度もない。
 戦争が始まってからは毎月八日に「大詔奉戴日」というものがあり、校長先生が宣戦の大詔を読み上げた。
「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇酢ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭こ忠誠勇武ナル汝有衆二示 朕玄二米国及英国二対シテ戦ヲ宣ス朕力陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦二従事シ朕力百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕力衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ……」
 まだまだ続く。誠に長いものだ。その時、国旗掲揚をするのだが、雨が降っていれば取りやめになった。
 私たちが行ったのは月一回のこの行事くらいのものだった。しかし、アメリカでは毎日、自国に忠誠を誓う文句を唱えさせている。
そしてアメリカは、自分の国では一番重要だとしている、自国を讃え忠誠を撃っ行為を、教育改革によって徹底的に日本から排除したのである。
当時、日本の教育関係者は大勢、アメリカに行っているはずだ。彼らが何を見てきたのか知らないが、アメリカでは国旗に忠誠を誓うにもかかわらず、日本では国旗を掲揚することもできない状況について指摘した人は私の知る限りいなかった。
 アメリカ人の国旗への忠誠については、日本人駐在員の人などが実際に子供をアメリカの幼稚園や小学校に入れた経験から直接、私に話してくれただけである。アメリカを訪ねたり、アメリカに留学した教育関係者は、誰もこの重要な点に気づかなかった。




幻の国民実践要領

 昭和二十二年に教育基本法が制定された翌年、教育勅語が排除されたため、我が国の教育は道義の側面を失い、精神の頽廃を招いたと言われています(教育勅語についてはGHQは廃止する予定は無く、日本人左翼により軍国主義だとの訴えがあり、廃止された。)。
 吉田内閣の意向を受けて、時の文相天野貞祐は昭和二十六年十一月十四日に、教育勅語にかわる国民の道義の基本を「国民実践要領」(『日教組という名の十字架』善本社 小林正著)として示しました。
 しかし左翼思想が勢いを得はじめていた言論界が猛反発したため、同月二十七日に天野文相はこれを白紙撤回し、幻に終わったとされます。
 その内容は、教育勅語の理念を主権在民の戦後憲法に注意を払いながら、分かりやすい言葉で神武天皇の精神である道義国家の基本精神を言い表したもので、現在でも国内のみならず国際的にも通用する立派な内容です。下記URLより参照しました。
(http://homepage3.nifty.com/tanemura/re3_index/2K/ko_kokumin_zissen_yoryo.html)


◇国民実践要領:前文
 わが国は今や講和の締結によって、ふたたび独立国家たる資格を得、自主的な再建の道を歩み始むべき時期に際会した。しかるに国家独立の根源は国民における自主独立の精神にあり、その自主独立の精神は、国民のよって立つべき道義の確立をまって初めて発現する。道義が確立しない限り、いかなる国の国民も独立独行の気はくを欠き、その国家は必ずや内部から壊敗し衰滅する運命をもつ。
 われわれは新たに国家再建に向って出発せんとするにあたって、建設へのたゆまざる意欲を奮い起すとともに、敗戦による精神の虚脱と道義のたい廃とを克服し、心を合わせて道義の確立に努めねばならないのである。道義を確立する根本は、まずわれわれのひとりびとりが自己の自主独立である人格の尊厳にめざめ、利己心を越えて公明正大なる大道を歩み、かくして内に自らの立つところをもつ人間となることに存する。また他の人格の尊厳をたっとび、私心を脱して互に敬愛し、かくして深い和の精神に貫かれた家庭、社会、国家を形成することに存する。自主独立の精神と和の精神とは、道義の精神の両面である。
 われわれの国家も、自国だけの利害にとらわれることなく、公明正大なる精神に生きなければならない。それによって国家は、他の何ものにも依存しない独立の精神と気はくをもって、新しい建設の道を進み、世界の文化に寄与しうる価値をもった独自の文化の形成に向うことができる。また同時に、他の諸国家との和協への道を開き、世界の平和に貢献することができる。
 われわれのひとりびとりもわれわれの国家もともにかかる無私公明の精神に生きるとき、われわれが国家のためにつくすことは、世界人類のためにつくすこととなり、また国家が国民ひとりびとりの人格を尊重し、自由にして健全な生育を遂げしめることは、世界人類のために奉仕することとなるのである。無私公明の精神のみが、個人と国家と世界人類とを一筋に貫通し、それらをともに生かすものである。その精神に生きることによって、われわれは世界の平和と文化に心を向けつつ、しかも祖国を忘れることなく、われわれの国家も、犯すべからざる自主独立を保ちつつ、しかも独善に陥ることなく、天地にはじない生活にいそしむことができる。ここに道義の根本があり、われわれは心を一つにしてかかる道義の確立に力を尽さんことを念願する。この実践要領を提示する主旨も、ここに存するのである。


■第一章 個人

(1)人格の尊厳
   人の人たるゆえんは、自由なる人格たるところにある。われわれは
   自己の人格の尊厳を自覚し、それを傷つけてはならない。
   われわれは自己の人格と同様に他人の人格をたっとび、その尊厳と
   自由とを傷つけてはならない。自己の人格をたっとぶ人は必ず他人
   の人格をたっとぶ人である。
(2)自由
   われわれは真に自由な人間であらねばならない。真に自由な人間と
   は、自己の人格の尊厳を自覚することによって自ら決断し自ら責任
   を負うことのできる人間である。
     おのれをほしいままにする自由はかえっておのれを失う。おの
     れに打ちかち道に従う人にして初めて真に自由な人間である。
(3)責任
   真に自由な人は責任を重んずる人である。責任を伴わぬ自由はない。
   われわれは自己の言うところ、なすところについて自己に対し、ま
   た他人に対しひとしく責任をもつ、けだしわれわれは自己と他人の
   人格を尊重し、且つ完成せしめるように、つねに努めねばならない
   からである。無責任な人は他人に迷惑を及ぼすだけでなく自己の人
   格をもそこなう人である。
(4)愛
   われわれはあたたかい愛の心を失ってはならない。愛の心は人間性
   の中核である。
   われわれが互いに他人の欠点をもゆるし人間として生かしてゆくの
   は愛の力である。大きな愛の心は罪を憎んで人を憎まない。
(5)良心
   われわれはつねに良心の声にきき自らをいつわってはならない。た
   とえそのために不利不幸を招くとも、あくまで真実を守る正直な人
   は世の光、地の塩である。
(6)正義
   われわれはあくまでも不正不義を退け、正義につき、私心私情をす
   てて公明正大であらねばならない。
(7)勇気
   われわれは正しいことを行い邪悪なことを克服するために、どのよ
   うな妨害にも屈しない勇気をもたなければならない。
     血気の勇はかえって事を誤り、真の勇気ではない。但しその実
     行にあたっては思慮の深さがなければならない。暴勇は真の勇
     気ではない。
(8)忍耐
   われわれは困苦の間にあっても、あくまで道義を操守する忍耐をも
   たなければならない。
     人間は弱いものであり、困難や苦痛にあえば自暴自棄に陥りや
     すいけれども、その暗い逆境に耐え、愛情をもちつづけ、正義
     の道を踏むことこそ、人の世の光である。
(9)節度
   身体と精神とが健全に形成され、人間が全人格的に調和ある発展を
   なすためには、節度が必要である。
     おのれに克ち節度を失わぬところにこそ、人間の本来の強さが
     現われる。節度を破った生がいは、一見強そうにみえることも
     あるが、実は弱さのしるしである。
(10)純潔
   われわれは清らかなものにたいする感受性を失わぬよう心がけねば
   ならない。清らかなものにたいする感受性は、道徳生活の源である。
   心情は純粋に、行為は清廉に、身体は清潔に保ちたい。
(11)廉恥
   われわれは恥を知らなければならない。恥を知るということは、不
   純で汚れたものをいとうことである。恥を知る人は、偽善や厚顔無
   恥におちいることなく慎みを失わない。
(12)謙虚
   われわれは他人にたいしては謙虚な気持で接し、ごう慢に陥っては
   ならない。自らのいたらぬことを自覚し、他人の短所に対しては寛
   容であり、他人の長所を受け入れるということによってのみ、人間
   相互の交わりは正しく保たれる。
(13)思慮
   事をなすにあたっては思慮の深さが必要である。
     われわれは現実の事態を見きわめ、且つ広い視野をもたなけれ
     ばならない。一時の感情や欲望にとらわれて事態を正しく認識
     することがなければ、多く事を誤るであろう。遠きおもんばか
     りがなければ必ず近き憂いがある。但し思慮は断行する勇気を
     伴わねばならない。思慮深きことは優柔不断とは別である。
(14)自省
   われわれはつねに自己を省みるように努めねばならない。
     なんじ自身を知れという教えは道徳の根本的な要素である。自
     分自身を知ることは、自分の無知を知ることからはじまる。知
     らざるを知るはこれ知れることである。
(15)知恵
   われわれは人生について深く豊かな知恵を養わなければならない。
     知恵豊かにして深い人は、順境におごらず逆境に屈せず、人生
     を愛し、安んじて立つところをもつ。
(16)敬虔
   われわれの人格と人間性は永遠絶対なものに対する敬けんな宗教的
   心情によって一層深められる。宗教心を通じて人間は人生の最後の
   段階を自覚し、ゆるぎなき安心を与えられる。人格の自由も人間相
   互の愛もかくして初めて全くされる。古来人類の歴史において人の
   人たる道が明らかになり、良心と愛の精神が保たれてきたことは神
   を愛し、仏に帰依し、天をあがめた人達などの存在なくしては考え
   られない。


■第二章 家

(1)和合
   家庭は人生の自然に根ざした生命関係であるとともに、人格と人格
   とが結びついた人倫関係である。それゆえ、その縦の軸をなす親子
   の間柄においても、横の軸をなす夫婦の間柄においても、自然の愛
   情と人格的な尊敬がともに含まれている。
(2)夫婦
   夫と妻たるものは互に愛によって一体となり、貞節によってその愛
   を守り、尊敬によってその愛を高め、かくして互に生きがいの良き
   伴侶でありたい。
     夫婦の愛は人生の自然から咲き出た美しい花である。しかしそ
     の愛はけん怠に襲われやすい。その試練に耐え愛を永続させる
     ものは、貞節と尊敬である。
(3)親子
   われわれは親としては慈愛をもって子に対し、りっぱな人格となる
   ように育成しなければならない。また子としては敬愛をもって親に
   対し孝養をつくさなければならない。
     子は次の新しい時代を創造し且つになうべき者であるから、そ
     の若芽を健やかに伸ばすことは親の喜ばしい義務である。新し
     い時代の創造はすでになしとげられた成果を正しく継承するこ
     とによってなされるから、子は親を尊重するのが尊い義務であ
     る。
(4)兄弟姉妹
   兄弟姉妹は相むつみ、それぞれ個性ある人間になるように助け合わ
   ねばならない。
     兄弟姉妹は正しい社会の正しい人間関係の原型である。兄弟姉
     妹は生がいを通じて良き協力者とならねばならない。
(5)しつけ
   家庭は最も身近な人間教育の場所である。
     われわれが親あるいは子として、夫あるいは妻として、また兄
     弟姉妹として、それぞれの努めを愛と誠をもって果すことによ
     り、一家の和楽と秩序が生じてくる。そうすることを通じて各
     自の人格はおのずから形成され、陶冶される。それゆえ家庭の
     しつけは健全な社会生活の基礎である。
(6)家と家
   家庭は自家の利害のみを事とせず、社会への奉仕に励むべきである。
   家と家とのなごやかな交わりは社会の美しいつながりである。


■第三章 社会

(1)公徳心
   人間は社会的動物である。人間は社会を作ることによってのみ生存
   することができる。社会生活をささえる力となるものは公徳心であ
   る。われわれはこの公徳心を養い、互に助け合って他に迷惑を及ぼ
   さず、社会の規律を重んじなければならない。
(2)相互扶助
   互に助け合うことは、他人の身を思いやるあたたかい親切な心を本
   とする。
     人々がただ自己の利害のみに走り他をそこなって顧みないなら
     ば、社会は悪と不幸に陥り、そのわざわいはやがて加重して自
     己の身にも返って来る。
(3)規律
   社会生活が正しくまた楽しく営まれるためには、社会は規律を欠く
   ことはできない。
     個人が各自ほしいままにふるまい、社会の規律を乱すならば、
     社会を混乱におとしいれ、自他の生活をひとしく不安にする。
(4)たしなみと礼儀
   社会生活の品位は各自が礼儀を守り、たしなみを失わないことによ
   って高められる。それが良俗である。
     たしなみと礼儀は、もし魂を失い外形だけになれば、かえって
     虚飾や虚偽となる。しかしそれゆえにたしなみや礼儀を軽んず
     るのも正しくない。人間の共同生活が野卑に流れず、美しい調
     和を保つのは、たしなみと礼儀による。
(5)性道徳
   両性の間の関係は厳粛な事柄である。われわれはそれを清純で品位
   あるものたらしめねばならない。性道徳の乱れることは社会のたい
   廃の大きな原因である。
(6)世論
   社会の健全な進展は正しい世論の力による。
     われわれは独断に陥ることなく、世の人々の語るところにすな
     おに耳を傾けねばならない。しかし正しい世論は単なる附和雷
     同からは生まれない。われわれはそれぞれ自らの信ずるところ
     に忠実であり、世の風潮に対してみだりに迎合しない節操ある
     精神と、軽々しく追随しない批判力とをもつことが必要である。
     正しい世論は人々が和して同じないところに生まれ、世論の堕
     落は同じて和しないところに起る。
(7)共同福祉
   社会のつながりは、それぞれ異なった分野に働く者が社会全体の共
   同福祉を重んずるところに成り立つ。
     身分や階級の相違からさまざまな弊害や利害の衝突が生ずると
     しても、それらの弊害や利害の衝突は、全体としての社会の意
     志を表現するところの法に従って解決さるべきである。社会全
     体の福祉をそこない、社会自身に亀裂を生ぜしめるまでに至る
     べきではない。すべて人間生活は和をもってたっとしとする。
(8)勤勉
   われわれは勤勉を尊びその習慣を身につけ、各自の努めに勤勉であ
   ることによって、社会の物質的、精神的財を増大しなければならな
   い。
     勤勉は社会を活気あるものにする。特に資源乏しきわが国の社
     会においては、われわれが勤勉であり、節倹のうちにも物を生
     かして使い、怠惰と奢侈に陥らないように自戒する必要がある。
(9)健全なる常識
   社会が絶えず生き生きと進展するためには、古い悪習を改めること
   が必要である。しかし、またいたずらに新奇に走り軽々しく流行を
   追うべきではない。健全なる社会は健全なる常識によって保たれる。
     われわれはややもすれば旧習にとらわれて創造の意気を失うか
     さもなければ一時の風潮に幻惑されて着実な建設の努力を忘れ
     易い。伝統は創造を通してのみ正しく保たれ、革新は伝統を踏
     まえてのみ実効あるものとなる。
(10)社会の使命
   社会の使命は高い文化を実現するところにある。われわれは文化を
   尊重し、それを身につけ、力を合わせてその発展に努めねばならな
   い。
     社会の文化は人間を教養し形成する力をもつ。文化が軽んぜら
     れるとき、社会は未開へ逆行する。しかしまた文化が人間の精
     神を高める力を失って単に享楽的となるとき、社会はたい廃に
     陥る。


■第四章 国家

(1)国家
   われわれはわれわれの国家のゆるぎなき存続を保ち、その犯すべか
   らざる独立を護り、その清き繁栄高き文化の確立に寄与しなければ
   ならない。
     人間は国家生活において、同一の土地に生まれ、同一のことば
     を語り、同一の血のつながりを形成し、同一の歴史と文化の伝
     統のうちに生きているものである。国家はわれわれの存在の母
     胎であり、倫理的文化的な生活共同体である。それゆえ、もし
     国家の自由と独立が犯されれば、われわれの自由と独立も失わ
     れ、われわれの文化もその基盤を失うこととならざるをえない。
(2)国家と個人
   国家生活は個人が国家のためにつくし国家が個人のためにつくすと
   ころに成り立つ。ゆえに国家は個人の人格や幸福を軽んずべきでは
   なく、個人は国家を愛する心を失ってはならない。
     国家は個人が利益のために寄り集まってできた組織ではない。
     国家は個人のための手段とみなされてはならない。しかし国家
     は個人を没却した全体でもない。個人は国家のための手段とみ
     なされてはならない。そこに国家と個人の倫理がある。
(3)伝統と創造
   国家が健全なる発展をとげるのは、国民が強じんなる精神的結合を
   保ち、その結合からはつらつたる生命力がわき起ってくることによ
   ってである。国民の精神的結合が強固なものであるためには、われ
   われは国の歴史と文化の伝統の上に、しっかりと立脚しなければな
   らない。また国民の生命力が創造的であるためには、われわれは広
   く世界に向って目を開き、常に他の長所を取り入れねばならない。
     伝統にとらわれ独善に陥れば、かえってかっ達なる進取の気象
     をはばみ、国家の害を及ぼす。また自らを忘れて他の模倣追随
     をのみ事とすれば、自主独立の精神を弱め、ひとしく国家に害
     を及ぼす。
(4)国家の文化
   国家はその固有なる民族文化の発展を通じて、独自の価値と個性を
   発揮しなければならない。その個性は排他的な狭いものであっては
   ならず、その民族文化は世界文化の一環たるにふさわしいものでな
   ければならない。
(5)国家の道義
   国家の活動は、古今に通じ東西にわたって行われる人類不変の道義
   に基かねばならない。それによって国家は、内には自らの尊厳を保
   ち外には他への国際信義を全くする。
(6)愛国心
   国家の盛衰興亡は国民における愛国心の有無にかかる。
     われわれは祖先から国を伝え受け子孫へそれを手渡して行くも
     のとして、国を危からしめない責任をもつ。国を愛する者は、
     その責任を満たして国を盛んならしめ、且つ世界人類に貢献す
     るところ多き国家たらしめるものである。真の愛国心は人類愛
     と一致する。
(7)国家の政治
   国家は一部特定党派、身分、階級の利益のための手段とみなされて
   はならない。われわれは常に国家が国民全体のための国家であるこ
   とを忘れるべきではない。
     それぞれ特殊な立場の人は、その独立の見解にあくまで忠実で
     あるべきである。しかしその際、自己の立場も自己に対する立
     場もひとしくともに国家の全体に立脚せることを自覚し、相互
     の自由と平等を認め理解と寛容の上に立って同胞愛を失わず、
     且つ私利私見に流れることなく、公明正大に意見をたたかわす
     べきである。
(8)天皇
   われわれは独自の国柄として天皇をいただき、天皇は国民的統合の
   象徴である。それゆえわれわれは天皇を親愛し、国柄を尊ばねばな
   らない。
     世界のすべての国家はそれぞれに固有な国柄をもつ。わが国の
     国柄の特長は長き歴史を一貫して天皇をいただき来ったところ
     に存している。したがって天皇の特異な位置は専制的な政治権
     力に基かず、天皇への親愛は盲目的な信仰やしいられた隷属と
     は別である。
(9)人類の平和と文化
   われわれは世界人類の平和と文化とに貢献することをもって国家の
   使命としなければならない。
     国家や民族は単に自己の利益のみを追求したり、自分の立場の
     みを主張したりする時世界の平和を乱し人類の文化を脅かす。
     しかもまたわれわれが世界人類に寄与しうるのは自国の政治や
     文化を正しく育てることによってのみである。世界人類を思う
     の故に、国家民族の地盤から遊離したり、国家や民族を思うあ
     まり、世界人類を忘れることはともに真実の道ではない。



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