虚構「南京大虐殺」:世界に訴える日本の冤罪




 南京虐殺は虚言だと言うことは、使われている写真の殆どが偽物だという新聞記事を読んで知っていました。本書[再審「南京大虐殺」](明成社 竹本・大原著)では、中国側の証拠を告発人、日本を被告として、真実を明らかにしています。読んでいて、中国側の余りの虚言に呆れるばかりです。それ以上に、中国側証拠を完膚無きまでに否定しているのは痛快でさえある。そんな中国と、互恵関係をいくら結んでも、ODA、世銀を通じた中国への税金の垂れ流し、領海侵犯だけではなく、尖閣及び沖縄占領をも掲げ、核兵器が日本をにらんでいるのが現実です。
 文庫本で[松井石根]の本も出版されていますが、日中和平を優先した人でした。結局冤罪で死刑となりました。この本が日本軍(皇軍)の冤罪を晴らすものであることに、感謝いたします。どうか一度手に取り、ご自身で確認して頂ければ、皇軍は無実だったんだと納得されると思います。
 更に、2013年4月10日に、中山成彬議員が、資料を出して南京事件は存在しなかったことを、初めて国会で証言しました。加えて[「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉]を最後に追加しました。

 ■【南京の真実】 Twitterより 2014/03/10
 日本軍が南京に入城したのは 昭和12年12月13日。しかしその5日〜6日前の朝日新聞の記事によると南京は支那自らの焦土政策で廃墟となり略奪が横行し、断末魔の形相だった。
 
 

 ■【本多勝一氏が、南京虐殺写真を捏造だと告白した
 本多勝一氏は「南京大虐殺」派の象徴的な人物で、国際的にも著名な元朝日新聞のスター記者であり、アイリス・チャンの『レイプ・オブ・チャイナ』や反日左翼が「南京大虐殺」の象徴と使っていた。
 本多勝一氏は、あの橋の上を中国人老若男女が歩いていた写真を捏造写真と認めたコメントを、『週刊新潮』(2014年09月25日発売)のグラビアページに寄せています。これは、「南京大虐殺」派の象徴的な人物のコメントとして歴史的な意味があり、「南京大虐殺派」にとっても歴史的な事件なのです。そして、『週刊新潮』は、「南京問題論争」の歴史的な資料になりますので、永久保存版として所蔵する価値があります。
 これを起点に朝日新聞社の「慰安婦検証」から「南京問題検証」へのスタートにするためにも、『週刊新潮』編集部へ、南京問題の写真を継続して取り上げることをお願いしてください。
 資料の価値を一般国民に知らしめることは、同写真の背景を『ひと目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神』『再審「南京大虐殺」』で写真とともに解説していても、1万人の読者諸賢だけが覚醒していても世論になるには程遠いのが現状です。しかし、『週刊新潮』に取り上げられれば、発行部数から銀行や医院などの待合室に置かれることで数百万人が見ることになり、その影響力は絶大です。
 どうか皆様方が、『週刊新潮』を激励していただけば、朝日新聞「南京問題記事の検証」へ一気呵成に追いつめることも可能になります。尚、この記事に関して、2014年9月18日のチャンネル桜でも検証報道しましたので、ネットで視聴していただければ幸いです。
 本多勝一の正体
 本多勝一こと“崔泰英”が朝日新聞「中国の旅」を連載し始めた1971年は、財政破綻で苦境に立つ米国がキッシンジャ−を支那に極秘訪問させた年でもある。反日論者の彼は周恩来との秘密会談で“対日封じ込め”戦略で一致した。利にさとい伊藤忠商事は瀬島龍三専務指揮下、国交正常化を前に売国的な「周4原則」を受け入れ早くも中国室を設置している。さらに我が国では時を同じくして、この年に「日の丸・君が代」教育に反対する槙枝元文が日教組委員長に就任し、その後、我が国に対して内外ともに反日包囲網が形成されて行く年であった。
 本田が暗躍したあの時代から、米国とシナは日本封じ込め即ち日本貶めで米国は日米貿易問題で恫喝。シナは如何に賠償金に代わる日本から金をせしめるかを、キッシンジャーと共謀したとしか思えない。その後の日本へのシナの執拗な歴史戦が始まりましたね。シナと共謀者のキッシンジャーの暗躍同意が在ったのでしょう。それに乗ったのが朝日新聞が筆頭でNHKが乗ったのでしょう。
 本田の南京戦捏造プロパガンダから慰安婦植村、福島原発の嘘報道など全て売国報道でした。新聞社では無くシナ、中朝の反日工作機関が正体でした!!



序言より抜粋


 南京大虐殺とは、南京攻略戦が終わった後、一九三七年(昭和十二)十二月十三日から約六週間にわたつて、南京市内および郊外において、日本軍が組織的・計画的に三十万人以上の捕虜や民間人を虐殺するとともに、大量掠奪や八万件に達する強姦を重ねた。その狂気的殺我の代表的事例が二人の少尉による『百人斬り競争」である。
 アイリス・チャンの本には、「虐殺三十万、レイプ二万」と称しているのだから、人権尊重とフェアプレー精神をモットーとする米国国民の間に「日本憎し、厳罰を加えよ」との声が挙がったところで、無理からぬところであったろう。しかし、冷静に考えるならば、事態はこう問われてしかるべきなのである。すべてこれは、(南京大虐殺)が間違いなく存在したということをもつて不可欠の前提としているが、はたしてそれは正しく立証された事実なのであろうか、と。
 たとえば、次のような疑問を抱かなかっただろうか。
「わずか六週間で市民三十万人が殺され、死体の多くが石油で焼かれたなどというが、そのためにはアウシュヴィッツ並みの大火葬場が何十箇所も必要であろう。いったい誰があの密閉された城壁空間内(35KM平米)でそんなものを見たのか」
「加えて、『レイプ二万から八万』という。ソ連兵のベルリン攻略の後は大変な“ベビーブーム”だったと伝えられるが、南京戦後、同市内に日中混血児があふれたなどと誰が事実を記したか」
 良識ある読者なら、こうした疑問は際限もあるまい。そこで、仮に(南京大虐殺)をある特定の殺人事件としてみよう。すると、いったい、死体は幾つあるのか、被害者は誰か、目撃者はあったのか、犯人の動機は何か等々の基本的な疑問について、当然のことながら、適正な刑事訴訟の手続を通じて厳密に立証されなければならない道理となるであろう。
 なるほど、(南京大虐殺)を告発する側では、一応は死体の数も特定され、目撃者の証言、また、犯人の動機らしいものもあると言い張っている。だが、実はそれは、およそ文明国の法廷において証拠能力も証明力も全く認められ得ない、お粗末きわまりない類のものばかりだったのである。そして、まことに驚くべきことに、こうした実情がほとんど欧米世界で知られることなく、ただただ、世にもおぞましい(南京大虐殺)があったという吹聴、プロパガンダのみが、これら反日運動家の主張のままに米国内に定着しつつあるありさまなのだ。
 本書では、「大虐殺がなかった」ことを論証するのが目的なのではなく、「大虐殺があった」との立証が全然なされていないという事実を明示しよう、それで一切を明白にするうえに十分であると思料する立場をとった。
 ただし、我々の批判の村象とした「告発者」は、右に言及したアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』ではなく、中国政府の(南京大虐殺)論である。その理由は、前者が中国政府の主張に依拠していることと、日本の加害責任を追及する国際反日包囲網の発信源は現在の中国政府にある、との我が方の明確なる認識に基づいている。
     



告発の主張を検証する


◇中国側からの(起訴状)の全体像

 下記の全体像からも判るように、いわゆる〈南京大虐殺〉の最大の争点は、「犠牲者が三十万人以上なのかどうか」ということと、「虐殺は日本軍が組織的計画的に行ったものかどうか」ということである。そこで我々弁護側としては、この二つの争点に力点を置きつつ、告発側が提示した証拠を検証していくことにする。

 一、犠牲者数三十万人は真実か
   @日本軍占領後、南京の人口が三十万人以上減少したか
   A「戦後の中国側調査」に(証拠能力)ならびに(証明力)はあるか
    イ、十九万人殺人を証言する中国側の十一件の証言
    ロ、崇善堂と紅卍字会による十五万体の死体埋葬
   B欧米人たちは(大虐殺)を目撃したか
   C当時の日本軍高官も(大虐殺)を認識していたか
 二、組織的計画的大量殺人だったのか
   D日本軍は組織的殺人を計画していたか
   E敗残兵掃蕩作戦は組織的殺人だったのか
   F日本軍は捕虜殺害の方針だったのか
 三、組織的大規模掠奪・強姦はあったのか
   G日本軍は組織的に掠奪を行ったか
   H日本軍は組織的に強姦事件を起こしたか
 四、狂気的殺戦はあったのか
   R日本軍将校は「百人斬り競争」をしたか



◇犠牲者三〇万人は真実か

 大量殺人事件の場合、最も重大な争点は犠牲者数だが、この点について、告発側は、南京戦前後の南京市の人口の変動に着目して、少なくとも三〇万人以上が虐殺されたと主張している。
 まず、南京の人口を検証するに当たっては次の三点に留意する必要がある。
  1. 一九三七年十一月十六日、蒋介石は南京放棄を決定、「三日以内に政府機関は撤退準備を完了せよ」と命じた。このため八月から脱出を始めていた富裕階級に続いて、政府関係者も南京から脱出し、残ったのは、中国軍兵士と貧民だけであった。
  2. 十二月七日、中国軍は、南京城外の半径十六キロ以内の数百の村落、建物を焼き払った(「清野作戦」)。日本軍に宿舎や陣地として使用されないようにするためである。近郊の住民は中国軍によって住居を焼き払らわれ、住む所がなくなった。
  3. 十二月八日、中国軍の唐生智司令長官が、城内のすべての非戦闘員に対し「難民区」に集結するよう布告、市民は身の安全を求めて「難民区」に殺到した。よって城内も、安全区の外は無人地帯となつた。安全区委員会も十二月十七日の「第九号文書」で「十三日に貴軍(日本軍)が入城した時にわれわれは安全区内に一般市民のほとんど全体を集めました」と記している。
 では、安全区の人口はどのくらいだったのか。
 安全区委員会委員長ジョンーH・D・ラーベは、南京戦が始まった十二月十日付日記に「二十万」と記している。その後、日本軍による市内制圧・占領と続くが、安全区委員会の認識は、十二月十七日付文書以降一貫して「二十万人」であった。こと人口に関する限り、安全区委員会の認識は確かだった。何故なら難民たちの食糧問題に頚を悩ました安全区委員会にとって、安全区の人口を正確に把握することはどうしても必要だったからだ。
 南京には中国軍兵士も存在した。その数について東京裁判の判決文には「中国軍はこの市を防衛するために、約五万の兵を残して撤退した」とある。以上から、戦闘開始時の南京城内の総数は、中国人兵士を含め二十五万人と言うことになる。

 二月上旬に安全区が解散された後、金陵大学教授ルイス・S・C・スマイスは多数の中国人を動員して人口調査を行い、三月下旬の南京の人口を「二十五万ないし二十七万」と推定している。同じく三月二十八日に発足した南京維新政府南京市政公暑が登録した住民の数は「二十七万七千人」であった。(尚、金陵大学は、南京城内にある大学。)
 以上のことから、安全区委員会の記録等で見る限り、南京戦終結時の人口ほ「二十五万」であり、その後、人口はむしろ増加している。「三十万人以上も人口が減った」とする(起訴状)には何の根拠もない。
      



◇【争点A】「戦後の中国側調査」に
  
(証拠能力)ならびに(証明力)はあるか


 中国側はいかなる証拠をもって「三十万人殺害説」を立証しようとしているのか。次のように主張している。
 戦後の中国側の調査によると、大虐殺がほほ終わった後、当地の慈善機関が各所で収容し、埋葬した遺体は十九万体に上り、集団虐殺が行われた場所で掘り出された遺骨ほ十五万体と推定され、さらに揚子江に投げ込まれた大量の死体は統計に入っていない。そのうち少数の戦死者を除き、その他は全戦闘終了後に虐殺されたものである。
 つまり「三十万人殺害説」の有力な根拠は、戦後の中国側の調査なのである。この調査の史料集の前文には「集団虐殺に遭い、死体を焼かれて痕跡をとどめなかった者は十九万以上に達し、また個別分散的に虐殺され、死体が慈善団体の手で埋葬された者は十五万以上」とあり、十九万と十五万という数字をそれぞれ立証する二つの証拠群が掲載されている。
  @十九万人殺人を証言する中国側の十一件の証言
  A慈善団体である崇善堂と紅卍字会が計十五万体の死体埋葬


■集まらなかった中国側証言

 まず、十九万殺人を証言する中国側の十一件の証言から検証するが、これらの証言の収集経緯を辿ると、興味深い事実が浮かび上がってくる。
 東京裁判に提出された「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」によれば、第二次大戦後、日本の「戦争犯罪」を裁くため連合国が開廷した「東京裁判」に備え、中国国民政府は一九四五年十一月七日「南京敵人罪行調査委員会」を設置し、中国人に南京における日本軍の犯罪を申告するよう呼びかけた。
 ところが、日本軍の残虐行為を申告する者が「甚だ少き」ばかりか、聞き取り調査を行うと唖然として「口をつぐみて語らざる者」や虐殺を「否認する者」までいたという。やむなく中国政府は暫定的な報告を一九四六年二月二十日、東京裁判に提出したが、「日本軍による大量虐殺」の証拠は埋葬記録を除けば、魯建という人物の「目撃証言」ただ一件であつた。
 その後も調査を進め、ようやく「五百件の調査事実」を発掘したが、「資料を獲得する毎々一々これを審査」した結果、新規に採用できたのは僅か四件であった。ともかく「魯延」証言と、慈善団体である「崇善堂」と「紅卍字会」の二つの埋葬表と新規四件の証拠、計七件の証拠に基づいて「被殺害者確数三十四万人」という結論を出し、一九望ハ年二月に東京裁判所へ提出した(速記録第五十八号)。
 しかし“七件”の犠牲者数を単純に積算しても“二十二万八千人”にしかならず、結論の“三十四万”と大きく食い違っている。そこで、その二ヶ月後から五ヶ月間かかって再調査し、その結果、二つの埋葬と、十一の証言により、ようやく犠牲者総数が三十四万となった。


■(反対尋問)に耐えられない証言ばかり

 以上のように、中国政府は、ようやく集めた十一件の証言によって「十九万人が集団殺戦された」と主張している。しかし、その計算は杜撰極まりない。どこそこでAという中国人が、日本軍が何万もの中国人を集団殺害しているのを目撃したというような“十一件”の証言の犠牲者数を単純に合計して十九万人という数字を主張しているに過ぎないのである。
 しかも、この十九万に関しては「集団殺教に会い、死体を焼かれて痕跡をとどめなかった者は十九万以上に達」したと主張し、死体なき殺人事件だと言い張るのである。数名ならともかく、十九万人もの死体が跡形もなく消えたと言われて、誰が信じることができるだろうか。
 実はこれら十一件の証言は、事件から八年も経った後に集められたものであり、反対尋問も受けていない。その内容も合理性を著しく欠く。
 何故なら、これらの証言を信じれば、陥落直後の十二月十四日から十八日までのたった五日間に、一日平均三万八千人もの中国人が、約千六百人の日本軍歩兵第七連隊第一、第二大隊(その多くは治安維持や警備を担当していた)の手によって安全区及びその付近において殺害され、十九万もの死体はすべて石油などで焼かれて痕跡をとどめなかったことになるからである。
 大量殺害施設として名高いナチスのアウシユヴツツでさえ、殺害数は一日平均七百十人であった。一目平均三万八千人も殺害するためには、アウシユヴツツ並の施設が五十三箇所も必要となる。もちろんそんな施設はなかった。では十一件の証言はどのようなものか。その内の一件、「魯甦」の証言に基づいて次のように書かれている。
 日本軍は十二月十八日、南京城北の草鞋峡で捕虜と老若男女の避難民を含めた五万七千余人を一カ所に集めて、まず機関銃で掃射し、さらに生きている人を銃剣で刺殺し、その上にガソリンをまいて焼いた。おなじような大規模な虐殺は南京陥落後の一週間のうち数伴おこなわれた。
 東京裁判にも証言を提出した「魯甦」によると、日本軍は、近郊の村に包囲・拘禁していた五七四一八名もの難民と兵士を十二月十六日夜、ワイヤーロープで二人ずつ括り、四列に並べて下関・草鞋峡まで追い立て、機関銃で掃射しっくした後、さらに銃剣でやたらめったら突き刺し、最後に石油をかけ、火をつけて焼き、残った人骨をことごとく揚子江の中に投げ入れた。この一部始終を、南京城内の「市街戦」に際して「砲弾」を受け「腿」に負傷し上元門大茅洞に避難した証言者が「目の前で」目撃したという。
 この(証人)が法廷に出廷していたならば当然、次のような〈反対尋問〉を受けただろう。
  1. 証人は闇夜の中でいったいどうやって五七、四一人名もの犠牲者を一桁まで正確に数えることができたのか。
  2. 日本兵が要所を固めている城内から城外の下関までの道を、証人はどのようにして通って、殺害現場を目撃できる場所に行けたのか。
  3. 六万人近い中国人をワイヤーロープで縛り上げるのに日本兵は何人くらいおり、どれくらいの時間を要したか。中国人たちはおとなしく縛られたのか。
  4. 六万人もの中国人を殺害現場まで押送するのに、警護の日本兵は何人いたのか。
  5. 六万体もの死体が骨になるまでにどのくらいの時間がかかったのか。また六万体もの人骨を揚子江に流すために、どのくらいの日本兵がどのくらいの時間をかけたのか。
 更に、数時間にわたる機銃掃射の音が夜間に下関で鳴り響けば、安全区にいた安全区委員会のメンバーなど誰かが気づいたはずだが、他に傍証は存在するのか。この疑問に、本(証人)を採用した告発側は、答えねばならない(安全区委員会の記録には、この時期に日本軍によって殺された中国人の数は十四人と記録されている)。
 こうした(反対尋問)を想定すれば、この証言に証拠としての立証能力を認めるのはほとんど不可能だ。中国側が懸命に集めて、ようやく採用した証言でさえ、かくもいい加減なのである。ほかも推して知るべしであろう。「十九万人殺害」 の根拠たる中国側証言に(証明力)はもとより(証拠能力)すらない。


■崇善堂は埋葬作業に従事したか

 三十四万のうち、残りの十五万は「個別分散的に虐殺され、死体が慈善団体の手で埋葬された者」だという。
 この埋葬十五万体についての証拠は、東京裁判にも書証として提出された二つの「埋葬表」である。その「埋葬表」によれば、一九三七年十二月から翌年秋にかけて崇善堂という慈善団体が十一万体、紅卍字会という慈善団体が四万体それぞれ埋葬したという。しかし、本当に十五万もの死体を埋葬したのだろうか。
 経費も人手もかかる埋葬事業には、当然のことながら南京を占領していた日本軍が関わっていた。その経緯は、民心の安定などを担当していた南京特務機関の丸山進氏(元南満州鉄道株式会社社員として南京特務機関に所属。現存)によれば、おおよそ次のようなものであった。
 南京攻防戦では、中国軍も果敢に戦い、日中双方に多数の戦死者が出た。日本側の戦死体はすぐに茶毘に付されたが、中国側の戦死体は戦場となつた南京城外に遺棄されたままであった。当時は真冬であり、死体も凍っていたが、放置しておけばやがて春となり、死体が腐って衛生上非常に悪い影響が出る。
 そこで一月中旬、「春になるまでに死体を片付けよう」ということになった。特務機関が、南京市の行政を担当する自治委員会と相談し、同委員会委員長の陶錫山が分会長をつとめている紅卍字会に埋葬事業を委託することになつた。その経費は日本軍の特務機関が自治委員会に渡して、自治委員会の方から紅卍字会に渡した。つまり表面上は自治委員会が自発的にやるという形をとったのである。その経費は出来高払いで、一体埋葬する毎に三十銭(白米言口相当)支払った。
 このように埋葬事業を請け負ったのは紅卍字会であった。その事実は、特務機関の記録でも南京での埋葬作業に触れた日本の新聞報道でも確認できるのだが、紅卍字会の倍以上の埋葬を行ったはずの崇尊堂の名はどの記録にも出てこない。ベイツがまとめた『南京救済安全区委員会報告書』(一九三九年)にも、南京で埋葬活動をしたと記録されているのは紅卍字会だけであった。
 そもそも崇善堂の活動内容は「衣料給与・寡婦の救済・保育」であり「埋葬」は含まれていなかった。しかも市来義道編『南京』(一九四一年、南京日本商工会議所発行)によれば、崇善堂は南京陥落の一九三七年十二月から翌年八月まで活動を停止していた。崇善堂が当時、埋葬作業に従事したとする証拠は存在しないのだ。そもそも崇善堂の埋葬表は、事件から九年経った後の一九四六年に作成されたものであって、一九三八年当時作成されたものではなかった。いくら探しても、崇善堂が埋葬事業を請け負ったことを立証できる当時の記録がないのである。崇善堂の「埋葬十一万体」という数は証拠として採用できない。



◇【争点B】欧米人たちは(大虐殺)を目撃したか

 中国側は、南京に残留した欧米人たちも(大虐殺)を目撃しているとして、次のように指摘している。
 日本軍による大虐殺に閲し、南京駐在の百人による欧米諸国の外交官や記者、宣教師の大半は直接目撃し、国際的にも大量に報道された。
 例えば、英国の『マンチェスター・ガーディアン』記者H・J・ティンパーリーの書いた『外人の目撃した日本軍の暴行』という記事は当時全世界をゆるがした。もっとも信憑性のある証拠はドイツ外交機関が集めたものであった。
 当時ドイツと日本は同盟国であり、南京城内のドイツ人はハーケンクロイツ(カギ十字)の腕章をつければ自由に行動でき、日本軍の状況についてもっともよく把握した。戦争中に連合軍によってろ獲されたドイツ外交文書によると、在南京ドイツ大使館から本国への報告書の中で「犯罪をおかしたのはこの日本人あるいはあの日本人ではなく、日本皇軍そのものである。……彼らはまさに一台の野獣のマシーンであった」と述べている。
 これを読むと、あたかも欧米人たちも三十万人虐殺を証言しているかのように錯覚してしまうだろう。しかし、この(起訴状)は、ある決定的な事実を隠蔽している。その事実とは、欧米人たちが主張する犠牲者数は、最大でも安全区の責任者・ドイツ人・ラーベの「六万人」であり、南京に残留した欧米人たちのなかに三十万人説を主張した人はいないということである。
 そもそも南京陥落から日本軍による占領に至る期間に南京にいた欧米人たちは、安全区委員会のメンバーを中心とする二十数名に過ぎなかった。外交官やジャーナリストらはほとんど南京から離れていた。このため、彼らが残した大量の報告書や記事は、ほぼ同一の情報源に基づいているのである。
 例えば、ティンパーリー著『外人の目撃した日本軍の暴行』の中身は、安全区委員会メンバーからの手紙、安全区委員会から日本当局に当てた文書などである。中国国民党の政治宣伝を担当する部門である中央宣伝部の顧問であったティンパーリー自身は当時南京にいなかった。
 中国側が引用している「在南京ドイツ大使館の文書」とは、東京裁判において検察側が提出した、トラウトマン駐華独大使よりベルリン外務省に送られた「一九三七年十二月八日より一九三八年一月十三日に至る南京で起きた事件に関する一ドイツ人の秘密見聞記の写」及び「一九二八年一月十四日付のジョン・ラーベより上海総領事宛の手紙」等を指すと思われる。この「秘密見聞記」には、犠牲者数について「日本軍は少なくとも五千人を射殺した」と書いている。また、ラーベの「手紙」には「(日本軍は)数千の無筆の市民(その中には発電所の四十三名の従業員を含む)を残虐な方法によって殺害した」と書いている。
 南京陥落後も現場に残っていた欧米の記者は、僅か五名に過ぎなかった。結局、欧米人の報道や米独の公文書のもとを辿れば、南京陥落から翌年一月まで南京にいた特定の欧米人たち、つまり十数名の「安全区委員会」メンバーの情報に行き着くのである。
 では、安全区委員会のメンバーはどのくらいの殺人現場を目撃したのか。
 ラーベが委員長を務めた安全区委員会は、南京陥落直前の一九三七年十二月十二日から翌年二月七日にわたって安全区委員会が知り得た「日本軍による暴行」を逐一記録している。中国国民政府外交顧問の徐淑希編『南京安全区の記録』に収録された、それら日本当局に送付した四百件余りの「被害届」を集計すると、殺人事件は全部で“二十五件”(被害者四十九人)である。しかも、委員会メンバーが目撃した事件に至っては僅か“二件”に過ぎない)。
 その内の一件は、東京裁判でマギーが証言した事件で、十二月十七日、警備中の日本兵が街路を歩く中国人を呼び止めたところ、逃げ出したので後ろから撃ったというケースで、戦地においては正当と判断されるものである。
 もう一件は、クレーガーとハッツが目撃した事件で、「一月九日朝、安全区内の池で日本軍将校一名と兵士一名が哀れな市民服姿の兵士を処刑しているのを見た」というものであった。この事件について安全区委員会は聞き取り調査をした結果、「日本軍の行う合法的な処刑について、我々に抗議する権利などない」と記されている。安全区委員は事件を調査した結果、「市民服姿の兵士」が便衣兵であり、便衣兵の処刑は「合法」であることを認めたのである。欧米人が目撃した二件の事件は、ともに違法とは言えない。
 日本兵による非合法殺人を、安全区委員会のメンバーが全く目撃していないことは、東京裁判における彼等の証言からも明らかである。東京裁判で多くの残虐事件を証言したO・ウィルソン医師は、証言はすべて伝聞であることを認めている。ベイツと一緒に住み、同じ安全区委員会の仕事をしたマギーも「実際に目撃したのは(前述した)一件に過ぎない」と証言した。
 つまり、ハーケンクロイツ(ナチス)の腕章をつければ自由に動き回れたはずのラーベを始めとする欧米の安全区委員会メンバーは誰も、約六週間の間に日本軍兵士が実際に非合法殺人を行った現場を目撃していないのである。


ティンパーリーが国民党政府の宣伝担当だった証拠:[2012年正論5月号]

 日本軍に追われるように南京から漢口に逃れた国民党政府で対外宣伝を担ったのは、中央宣伝部の国際宣伝処であった。立命館大学の北村稔教授は、当時、国際宣伝処長だった曾虚白の自伝(一九八八年に台湾で出版)の以下の記述から、『戦争とは何か』の発行が国民党の巧妙な宣伝工作だったことを明らかにした(北村稔著『「南京事件」の探求』文春新書)。
 我々は目下の国際宣伝においては、中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際的友人を捜して我々の代弁者となってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的な人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷し発行することを決定した。(中略)
このあとティンパーリーはそのとおりにやり、(中略)
二つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した。
 「二冊の本」とは、『戦争とは何か』と後述する『スマイス報告』である。自身は表面に出ることなく背後に隠れたまま、外国人に日本軍を非難させてアメリカを味方につけるというこの方針は、漢口の国際宣伝処が一九三七年十二月一日から翌年十月二十四日の間に開いた三百回に及ぶ記者会見で、ただの一度も「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と発表していない
ことでも裏付けられている。
 会見には、「南京大虐殺」の“第一報”を一九三七年十二月十八日の記事で伝えたニューヨークタイムズのダーディンら外国人記者、外国公館職員が平均して毎回約三十五人、延べ一万人以上が参加していた。ティンパーリーを使った「大虐殺」宣伝を裏で画策しながら、会見でまったく触れなかったのは、「外国人に宣伝させる」という方針が徹底されていたことに加え、国民党の息のて、事件など無かったことが暴露されることを恐れたと考えざるを得ないのである。

 ◆産経:「南京事件」嘘を世界に広めた豪人記者、台北の史料で判明。2015/04/16
 南京事件」(1973年)を世界に広め、東京裁判にも影響を与えたとされる『戦争とは何か(What War Meand)』(1938年出版)の著者、ハロルド・ティンパリーが日中戦争勃発後の39年、中国国民党宣伝機関の英国支部で責任者を務めていたことを示す史料が、台北市にある国民党の党史館で見つかった。国民党の宣伝工作に関わったティンパリーの詳しい活動実態が明らかになったのは初めて。
 確認された史料は「中央宣伝部半年中心工作計画」。39年3〜8月の党中央宣伝部の活動方針を記したもので、表紙に「秘密」の押印がある。宣伝部の下部組織、国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」のトップにティンパリーを挙げている。
 「責任者」はティンパリーを含む欧米人3人、中国人2人の計5人で工作者は「四十余人」。工作目的は、英政府と議会に対中借款の継続や抗日戦争への支援を働きかけることや、英植民地に日本製品不買運動を広げることとしている。(※加えて、米国の日本への「くず鉄輸出禁止」を利用し、日本が武器その他の製造をできなくなるように運動を盛り上げる目的として、「南京虐殺」をでっち上げたとされている。)。
 史料はティンパリーの工作内容に関して@英国政府要人と国会議員に面会し、「わが抗戦、建国の真意を伝える」A5月に英国各地で講演B6月に訪米し講演C専門書1冊を執筆−などと具体的に記している。
 これに先立つ37年、ティンパリーが国民党側から月額1千ドルの活動費を得ていたことも、産経新聞が入手した米コーネル大図書館所蔵の史料から分かった。
 国際宣伝処長の曽虚白は『戦争とは何か』に関し、「金を使って、ティンパリーに依頼して書いてもらい、発行した」と自伝で語っていた。今回明らかになった史料は「南京事件」をめぐる論争にも影響を与えそうだ。
 豪人のティンパリーは「南京事件」の当時、英紙マンチェスター・ガーディアンの上海特派員で、南京にいた欧米人の手記などをもとに、旧日本軍による南京占領を“告発”した。国際宣伝処の「顧問」を務めていたことがすでに明らかになっている。

■南京の死体の死因は十七通り存在する

 たしかに欧米人たちは、殺人現場を目撃していないかも知れないが、「南京市内で多くの死体を見た」と証言しているではないか。こう反間する人もいるだろう。「日本軍の下関門の占領は、防衛軍兵士の集団殺戦を伴った。彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、高さ六フィートの小山を築いていた。水曜日(十五日)遅くなっても日本軍は死骸を片付けず、さらには、その後の二日間、軍の輸送車が、人間や犬や馬の死骸も踏み潰しながら、その上を頻繁に行き来した。」
 この凄惨な光景は、日本の歴史教科書にも(南京大虐殺)を象徴する光景として紹介されている。下関門つまり掘江門の中国兵士の死体は、日本軍によって殺されたものとこの報告をした記者ダーディンは信じたようだが、実際は違っていた。
 中国軍第八七師二六一族長はその著『南京衛戊戦』(一九八七年、中国文史出版社)に、十二月十二日夕刻以後の情景をこう記している。
「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、拒江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、推江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニック状態になり、拒江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しようとした第三六師二一二団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、把江門内は大惨事となった。」

 中国軍には戦闘に際して兵士を先頭に立たせ、後退する兵士がおれば背後から射殺する任務を帯びた「督戦隊」という独特の組織がある。花江門の中国兵の死体は、この「督戦隊」によって殺されたものであった。
 実は日本軍が南京に入る前から市内には多数の死体が存在していた。十一月二十九日の様子を、ドイツのリリー・アベック記者はこう記している。
「もはやどこに行っても、規律の解体と無秩序が支配していた。南京駅に二千人の負傷者を乗せた汽車が到着したが、誰も見向きもしなかった。看護兵も付き添っていなかった。負傷兵たちは二日間も放置された後、その二日間に死んだ者と一緒に降ろされ、駅のホームに並べられた。死骸が空気を汚染し、悪臭を放った。」

 十二月七日、中国軍は南京周辺を徹底的に焼き払い、焼け出された市民が難民となって城内に流入、商品流通が麻痔し食料難が加速、一部では暴動が起こつた。中国軍は治安維持のため少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺した。
 十日頃には完全な無政府状態に陥り、統制を失った中国兵たちによる掠奪が横行した。在南京アメリカ大使館のエスビー副領事は、陥落直前の南京の様子を漢口のアメリカ大使館にこう報告している。
「日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって市民と財産に対する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件をたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った。」

 つまり、戦い前に、南京にはたくさんの死体があった。それも平服の死体があった。しかし、その死因は加害者が中国人であることも含め論理的には最大限“十七通り”の可能性が考えられる。南京に死体があったからと言って、すべてが日本軍の大規模な非合法殺人にょるものではないのだ。



◇【争点C】当時の日本側高官も(大虐殺)を認識していたか

 中国側は、当時、日本軍高官も南京で日本軍が大虐警行った事実を知っていたではないかとして、次のように主張する。
 戦争が終わった後の一九四八年、極東軍事裁判所は南京大虐殺に関して当時の中支那方面軍司令官松井石根に死刑を宣告した。その松井本人はそのとき、「南京事件に関してはお恥ずかしい限りです」と語り、さらに「十二月十七日南京入城直後、いたるところで暴行のあったことを知って、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。折角皇威を輝かしたのにあの暴行によって一挙にしてそれを失墜してしまった」と話した。これはできるだけ自分の罪を軽減するための言い逃れであったが、日本軍の犯した罪を認めるものでもあった。・・・
 松井司令官が残した『陣中日誌』によると、彼は十二月十七日の南京入城式にあわせて南京に入り、二十二日に南京から船で上海に戻っている。この間、二十日の日記に次のように記している。「尚聞く所、城内残留内外人は一時不少恐怖の情なりしか、我軍の漸次落付くと共に漸く安堵し来れり、一時我将兵により少数の奪掠行為(主として家具等なり)強姦等もありし如く、多少は己むなき実情なり」
 松井司令官が「聞く所」と書いているように、安全区委員会から送付された「被害届」を読んだ誰かから報告を聞いたのである。この点を踏まえてであろう、十八日に慰霊祭を行った際に、松井司令官は各軍の師団参謀長の前で「軍紀の徹底」を指示した。たとえ少数でも掠奪や強姦事件を起こしたことは軍規厳正を求めていた松井司令官にとっては耐え難いことであったのである。その後、軍法会議が開かれ、掠奪や強姦の罪で日本兵十数名が処罰を受けた。これは後述するように「掠奪や強姦は厳罰に処する」との当時の松井司令官の方針を踏まえたものであった。
 なお、東京裁判の判決を受けて松井司令官が「恥ずかしい限りです」と述べたのは、掠奪や強姦といった日本軍兵士としてあるまじき行動をとった兵士が十数名でもいたことを反省したのであって、日本軍が(大虐殺)を行ったことについては東京裁判でも最後まで否定し続けた。結局、 (南京大虐殺)を当時認識していた日本側高官など存在しないのである。
(※存在しないものを認識のしようが無い。
 独のユダヤ人虐殺、連合軍の東京大空襲のような無差別虐殺、原子爆弾による大量虐殺に対する非難をそらすために、東京裁判時にでっち上げられた「南京虐殺」であった。それゆえ、弁護側はたいした証拠も出さずじまいだった。)
 ■日本人の大虐殺
  • 米軍主体の連合国軍:東京大空襲 死者10万人(他日本全土)
  • 広島原爆:死者14万人
  • 長崎原爆:死者7万人



◇【争点D】日本軍は組織的殺人を計画していたか

 殺人事件の場合、明確な犯罪意思、すなわち故意の存在が重要なポイントになる。中国側は次のように、日本軍は故意、つまり組織的計画的に〈南京大虐殺〉を行ったのだと非難する。
 たしかに、三十万人も殺害しようとするならば、組織的計画的に実施しなければできない。当然、動員計画から作戦命令まで数多くの公文書があるはずだが、その主張を裏付ける「証拠」は現在に至るまで何ら提示されていない。「日本政府が中国に宣戦布告をしなかったのは、中国に対し戦時国際法を通用しないためであった」からだといって、「いかなる残虐手段を取ってもよく、いかなる交戦国間の国際法も無視し、交戦国の住民と捕虜に対する慣行規則も守る必要はない」ということにはならない。
 ただし「事変」において、戦時国際法をいかに適用すべきかについては、当時の日本政府もかなり神経を使った。国際法上、戦時か平時かでその適用内容は全く異なっていたからである。そして日本軍(中支那方面軍)は国際法学者との協議の上、十二月七日、南京城攻略にあたり全軍に「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を示達した。その内容は、事変が国際法上の「戦争状態」にあることを認めた上で、「不法行為の厳禁」「外国権益の保護」「失火注意」などを命じている。事変であっても戦時国際法は遵守すべしというのが、日本軍の公式方針であった。このような現存する命令書について触れないのはフェアではない。
     
 ナチスはユダヤ人絶滅製作が動機だったが、日本には「中国人絶滅政策」などなかった。動機について告発側は 「中国人民を洞喝するため」と説明する。しかしそのことを裏付ける証拠は何も示されていない。
 逆に日本には、不法行為発生を避けなければならない動機ならば存在した。
 資源の少ない日本は当時、輸入の六十五%は英米圏からであり、武器や燃料の多くを英米圏に依存していた。満洲事変では対日禁輸を検討したうえで見送ったアメリカ政府は、支那事変が勃発してからは本格的な村日経済制裁を検討し始めていた。もし日本軍が南京で国際法に違反して、市民や捕虜に対する残虐行為を繰り返し、南京に残留した欧米人たちから指弾されるようなことになれば、英米から経済制裁を受けることになりかねず、致命的な打撃を受ける。こうした状況を熟知していた日本政府にとって、首都南京での無用の不法行為は絶対に避ける必要があったのである。



◇【争点E】敗残兵掃蕩作戦は組織的殺人だったのか

 日本軍は十三日から十六日までの四日間、南京城の内外で戦闘の一環として組織的に掃蕩作戦を実施し、民間人を装って潜伏した中国兵を多数摘発、その一部を処刑している。これらの作戦は民間人を殺害する目的ではなかったが、民間人を装った中国兵を逮捕したため、あたかも日本軍が民間人を組織的に殺害したかのような誤解を、南京城内に残留した欧米人たちに与えたようである。
 国際法上適法だとは言え、日本軍はなぜ誤解されるような掃蕩作戦を敢えて実施したのか。その理由は主として三つある。
 第一は中国側が停戦に応ぜず、敢えて南京を戦場にしたことである。
日本軍は十二月九日正午に、無用な犠牲者が出ることを避けるため飛行機で「投降勧告文」を投下した。中国国民政府側が日本軍の勧告を受け入れ開城すれば南京戦は避けられたが、中国側は勧告を無視した。降伏勧告を拒否して防衛軍が立て寵もれば国際法上の「防守都市」となり、無差別攻撃を受けても文句は言えない。残留市民にまで戦火が及ぶことを知りながら、降伏を拒んだ蒋介石の責任がまず問われるべきである。
 第二の理由
南京防衛軍の最高指揮官・唐生智が陥落直前の十二日午後八時、「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」という無責任な命令を下して幕僚と共に南京から脱出してしまったことである。最高指揮官を失った中国軍は、日本軍によって包囲された南京に取り残され、ある部隊は組織的戦闘を続行し、またある部隊はパニックに陥って逃走、掠奪に走った。日本軍としては正式な降伏意志が示されない以上、戦闘行動を続けざるを得ない。そして中国軍は掃蕩作戦を開始した十三日の時点でも戦闘を続けていた。現に南京郊外の湯水鎮で十三日、上海派遣軍司令部は、中国軍に襲撃されている。もし仮に中国軍の最高指揮官が明確に降伏意思を伝え、日中両軍の間で停戦が合意され、日本軍の指揮下で南京城内に立て寵もつた中国軍が整然と武装解除に応じていれば、掃蕩作戦を展開する必要はなかっただろう。
 第三の理由
これら「降伏しなかった中国兵たち」の多くが民間人の服装に着替えて「便衣兵」となり、こともあろうに二十万人近い民間人が避難していた安全区に潜伏したことである。中には、指揮官の命令で組織的に武器を所有したまま潜伏した部隊もあった。明らかにゲリラ活動の準備を安全区で進めていたのである。この非戦闘員を装う「便衣兵」は、一九〇七年に締結された「陸戦の法規慣例に関する条約」(第四ハーグ条約)附属規則第二十三条の「背信行為」に該当し、国際法違反であった。日本軍が掃蕩作戦を実施して便衣兵を逮捕・監禁したことはあくまで合法的行動であった。
 では、日本軍は掃蕩作戦をどのような方針で行ったのか。中国側が指摘しているように、虐殺や掠奪を指示または容認したのか。
 上海派遣軍第九師団歩兵第六旅団は十三日、作戦実施に当たって「外国権益保護」「勝手な行動厳禁」「敵意のない市民は保護せよ」「掠奪禁止」等を命じている)。注目すべきは、中国兵を直ちに「殺害せよ」とは命じていないことである。あくまで「逮捕・監禁」 であった。ただし「青壮年はすべて敗残兵または便衣兵とみなし、すべてこれを逮捕監禁せよ」としているが、これは中国兵が民間人を装って潜伏したため、平服を着ていても青壮年は総て疑わなければならなかったからである。(※帰還兵の方の証言では、井戸や食べ物に毒を入れたりで、日本兵が殺されたとのこと。)
 本来非武装であるべき安全区は、なんの防備もない中立地帯などではなかった。中国兵が潜伏し大量の武器が隠されていた危険地帯だったのである。掃蕩戦を通じて日本軍は多くの中国兵を逮捕した上、城内の南京刑務所などに収容した。収容された捕虜は約一万人ほどで、その半数は十二月末に労務者として上海に送られ、残りも、一九四〇年に発足した江兆銘の南京政府軍に編入された。処刑されたわけではない。
 民間人を保護する方針を掲げつつも兵士との疑いのある青壮年の民間人も逮捕・監禁したのは事実だが、これらの責任の多くは「中立区」と言いながら多数の中国兵を匿った安全区委員会及び、二十万以上の難民がいる南京を敢えて戦火に巻き込み、国際法違反の便衣隊を使用した中国側に問われるべきである。



◇【争点F】日本軍は捕虜殺害の方針だったのか

 中国側は、「日本軍は初めから捕虜を殺害するつもりだった」として次のように批判する。
 南京戦の四カ月前の八月五日、陸軍次官は「交戦法規ノ適用二関スル件」という通牒を出し、戦闘の惨害を軽減するためにも「交戦規則(国際法)を努めて尊重し降伏を申し出てきた敵兵を殺害するな」と命じている。この通牒を踏まえて上海派遣軍第十三師団司令部は十月九日、「戦闘に関する教示」という訓令を出し、「多数の俘虜が出た場合は射殺せずに集結監視した上、司令部に報告すること。一方、捕虜が少数ならば適宜処置すること」を命じた。
 この訓令を出した日、上海派遣軍の飯沼参謀長は各師団の参謀長を集めて「彼等(中国政府)は日本軍に捕われば殺されると宣伝しあり、之を是正する」よう命じている。つまり、この「訓令」の目的は 「日本軍に捕らわれれば殺される」という中国軍の宣伝を是正することにあった。是正するためにも「日本軍に捕まっても殺されない」という事実を中国兵に知らせる必要がある。
 「捕虜をすべて殺害せよ」とする公式文書は存在しない上、公式文書にそれとは逆のことを明示している以上、「日本軍は初めから捕虜を殺害する方針だった」との非難は全く成り立たない。



◇【争点G】日本軍は組織的に掠奪を行ったか

 掠奪について中国側は、日本軍が大量殺害の一環として“組織的”に行ったと非難している。この掠奪に関する日本軍の方針はどうだったのか。
 日本軍の松井司令官は攻略に当たって全軍に「注意事項」を布告し、「日本軍が外国の首都に入城するのは有史以来のことで世界が注目する大事件なので」「掠奪行為や不注意による失火は厳罰に処する」と厳命した。その方針に基づき、掃蕩作戦を担当した先の歩兵第六旅団は十二月十三日午前十時頃、「掃蕩実施に関する注意事項」を下達し、「外国権益への立入り禁止」「掠奪禁止」「軍紀厳正」等を命じた。翌十四日、安全区の掃蕩を担当した歩兵第六旅団第七連隊長も「捕虜、外国権益に対する注意」を下命、「安全区への他の部隊の立ち入りは禁止」「外国人との間に無用の誤解を生まないように」と細かい注意を与えている)。
 これらの方針がいかに徹底していたか。第九師団第三十六連隊長の脇坂次郎・陸軍大佐は東京裁判に提出した宣誓口供書の中で、ある主計中尉が道端に落ちていた中国の婦人靴片足を持ち帰っただけで軍法会議にかけられたことを紹介している。主要貿易相手国である米英との摩擦を避けるためにも、日本軍は南京で日本兵が不法行為を起こさないよう細心の注意を払い、たとえ靴一足でも軍法会議にかけたのである。
 日本軍占領下の南京に初めて外部から外国人が入ってきたのは、一九三人年一月六日朝、アメリカ大使館のジェームス・エスビー副領事とジョン・アリソン三等書記官であった。アリソンは、直ちにアメリカ関係の被害状況を確認した。すると、ダーディン記者によればアメリカ大使公邸も日本軍の掠奪の対象となったはずなのに、アリソンは一月八日、ワシントンの国務長官宛に「いわゆる『安全区』内にあるアメリカ人財産は、気まぐれな略奪やコソドロがあったことを除けば、一般に被害は少なかった。」と電報を打っている。
 これらの報告を裏付けるように、大掠奪があったとされる十二月十二日から十八日までに安全区委員会が記録した「日本軍の掠奪による被害」は次の通りである。「自動車五両、自転車六両、オートバイ数両、牡牛二頭、ブタ一頭、小馬数頭、米三袋、フトン五百枚、手袋二、牛乳一ビン、砂糖ひとつかみ、鍋一個、ゴミ箱一、万年筆六本、灯油半缶、ローソク若干」であり、これでは大規模な略奪があったとはとても言えまい。


■掠奪事件の真相

 被害届に載った百七十九件の掠奪事件でさえ、すべて日本軍の仕業とは限らない。三つのケースが考えられる。
 第一は、伊太利大使館に潜伏していた中国軍隊長は、難民の掠奪を以下のように証言している。
「一般に生計が苦しく度胸がある難民たちは、昼は隠れて夜活動するというねずみのような生活をしていた。夜の間は獣兵(註。日本兵のこと)は難民区の内外を問わず、活動する勇気がなく、兵隊の居住する地区を守る衛兵がいるだけで、このときが活動の機会となった。人々は難民区外の大企業、大店舗、大きな邸宅を好きなだけ物色した。当時、食品会社には食べ物が、妙機会社には日用品が、絹織物問屋には絹織物があった。だから一晩働くと翌日には手に入らない物はなく、色々なものがすべて揃った。」
 第二は、安全区に潜伏した便衣兵が撹乱工作の一環として日本軍兵士が掠奪や強姦をしたかのように偽装したケースである。一九三八年のニューヨーク・タイムズに次のような記事が載っている。
「避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで二番目に権力のある地位につけていたのである。
 この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから法学院の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはず
した機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
 この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人や他の外国人たちのいる前で自白した。」
 第三は、日本軍の行動を、欧米側が誤認したケースである。
 入城した日本軍はまず宿舎の確保に苦労し、宿舎に充てた建物の設備補充のため、将校の指示のもとに無人となつた建物から家具やフトン等を持ち出した。それらを徴発した際には、代償を支払う旨の証明書を添付したが、そうした事情を遠巻きに見ていた外国人や中国人は理解せず、日本軍が組織的に掠奪をしていると誤認した可能性がある。



◇【争点H】日本軍は組織的に強姦事件を起こしたか

 中国側は、日本軍は占領中に組織的に強姦事件を起こしたとして、こう非難する。
 日本軍の南京でのもう一つの犯罪は大勢の婦女を強姦したことだ。東京裁判で確認された資料によれば、日本軍が南京を占領したのちに発生した強姦事件は二万件に達し、「全域の女性の大半が少女と老婦をとわず強姦されたとされている。欧米人が開設した「国際安全区」あるいは外国領事館に逃げ込んだ若い女性も、のきなみ乱入した日本軍に連れさられ強姦された。強姦された女性の大部分は日本軍に殺された。戦後中国の国民政府が発表した南京裁判所の「敵の犯行調査報告」は「当時、本市においてこのようような侮辱を受けた女性は八万人を下らない。その上強姦したあと多くは乳房を割き、腹を切り開くなど残酷な行為が施された」と述べている。従って南京大虐殺は南京強姦事件とも云われている。
 東京裁判に提出された証拠の中で強姦事件二万件について触れているものはない。強姦の被害者二万人についてならば、「日本軍当局はその部隊に対して明らかに命令権を失った如く、部隊は占領後数週間に亘り市街を掠奪し、約二万の婦女子を犯した」とするラーベの「一月十四日付上海総領事宛電報」が存在する。もっとも同じ東京裁判で証言台に立ったベイツは自分自身が強姦事件を目撃したことはないと証言しつつ、このラーベ説を否定し、「安全地帯の委員会の報告のみによりまして、強姦事件は八千」と述べた。
 ベイツが唱えた“八千人強姦説”の根拠とは「安全区委員会の報告」であった。
 では、安全区委員会が記録した「被害届」に記された強姦事件(未遂を含む)は何件か。集計すると合計で三百六十一件である。しかも誰が事件の目撃者であったのか、誰が誰に聞いて記録したのか、記録者のある事例は僅かに六十一件であった。この内、日本兵がやったという確証があり、真相究明ないしは逮捕のために日本軍に通報された件数は僅かに七件であった。どうすれば、これらの強姦事件報告からベイツは八千人強姦説を導き出せるのか、理解に苦しむ。
 なお、日本軍に通報があった七件については、「シカゴ・デイリーニューズ」(一九三人年二月九日)に報道されているとおり、日本軍は犯人を厳しく罰している。処罰は厳しく、部隊から不満の声が漏れたほどであった。
 告発側が第二の証拠として挙げた「南京地方法院検察処散人罪行調査報告」にはどう書いているか。犠牲者数は明記されていないが、強姦された後殺された数は「二、三十人」とある。中国側は「強姦された女性の大部分は日本軍によって殺された」と書いてある。ということは、被害者は僅かに「二、三十人」ということになり、“八万人強姦説”は中国側資料によって否定されることになる。
 そもそも、当時の南京には安全区にしか女性はいなかった。そして日本軍司令部は、安全区に集中している外国権益を保護し、安全区委員会メンバーとの無用の摩擦を避けるため、また、多数の中国軍兵士が潜伏していて危険であるとの判断から、日本軍兵士に村し安全区への立ち入りを禁止した上、要所に見張りまで立てた。このため日本兵は勝手に安全区には入れなかったし、危険を侵してまで入ろうとする兵士もいなかった。
 実際、城門と城壁の警備、対空監視哨の配置その他諸任務に追われた兵士たちに宿営地を抜け出す時間などあろうはずもなかった。唯一安全区内部に侵入するチャンスがあったのは安全区警備担当の第九師団第七連隊だが、総勢でも千六百名ほどだった。大量の強姦事件など起こりようがなかったのである。また、犯行が発覚すれば陸軍刑法で七年以上の懲役に処せられるという、強姦を抑制する大きな理由があったことも指摘しておく。
 日本軍内部には、勝ち戦である南京戦が終われば早期に日本に帰還できるだろうとの楽観的な予測が広がっており、又、当時の日本経済は好調で、帰国すれば良い仕事に就くことができる状況にあることを彼らは知っていた。大きな危険を冒してまで不法行為をおこす動機は極めて乏しかった。


■強姦事件の真相

 安全区委員会が記録した三百六十一件の強姦事件は誰が起こしたのか。実は、強姦についても多くの誤解が存在している。(※、強調は登録者による)

 誤解の第一のケースは、売春婦募集を強姦と見なしたケースである。
 例えば『南京安全区の記録』には、次のような強姦事件が記されている。
「一月十七日 日本兵は再びやってきた。トラック二台と、クルマ二台に、将校二名を連れて来た。そして、養蚕の建物から男性数名と女性七名を獲得した。ベイツ博士がそこにいて一部始終を目撃した。男や女たちが完全に自由意志で行こうとしているのが分かった。一人の女は若かったが、喜んで行った。」
 果たしてこれは強姦事件だろうか。
 むしろ日本側の了解のもと中国人が安全区にある金陵女子文理学院に設けられた避難所に売春婦を募集しに行ったところ、女性たちは「喜んで」その募集に応じた情景とみるべきである。ベイツらは、合意のもとでの売春婦募集を日本軍による組織的強姦だと誤認したのである。

 誤認の第二は、日本兵と中国人を混同しているケースである。 ベイツは、アメリカ大使館のアリソン宛に一月十四日付で次のような手紙を出している。
「昨夜四人の日本人が金陵大学付属中学校の教室へ入ってきました。彼らの行動の詳細は十分には分かりません。というのはしかるべき目撃者が脅えきっているためです。とにかく彼らは一人の少女を連れ去りました。それらの日本人たちは憲兵で、少なくともその一部は、中学校の門に配備された衛兵たちでした。彼らは中国人の布靴を履き、一部に中国服を着ていました。」
 ベイツは「詳細はわからない」と言いながら、また自ら目撃したわけでもないのに、犯人は中国人に変装した日本兵、それも憲兵だと断定している。目撃したと称する中国人の証言を何の疑いもなく受け入れているのだ。しかし何のために日本兵が中国人に変装しなければならないのか、合理性を欠くと言わざるを得ない。
 なお、安全区に設けられた十九箇所の難民収容所の責任者は、婦女子ばかり四千名を収容した金陵女子文理学院をミニ・ヴオートリン女史が務めたほかはすべて中国人であった。当然のことながら、この難民収容所の治安維持は中国人たちが担当したが、その責任者を何と市民に偽装した中国軍将校が担当しているケースもあった。そして強姦事件の多くは、安全区委員会が設置した「難民収容所」で起こつており、「難民収容所」が解散した一九三八年二月以降、そうした強姦事件は起こつていない
 難民収容所の責任者たちが主張した「日本軍兵士の犯罪」を額面通り受け取ることは極めて危険だと言えよう。

 第三のケースは、「掠奪」の項目でも取り上げたように、「安全区」に潜伏していた中国兵が撹乱工作の一環として、日本軍兵士が掠奪や強姦をしたかのように偽装していたケースである。
 このように中国人たちが主張した「強姦事件」にも三つのケースがあり、実は安全区委員会が記録した「三百六十一件」でさえ、すべてを日本兵の犯行と断言することはできない。



◇【争点I】日本軍将校は「百人斬り競争」をしたか

 南京市に建つ侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館には、ひときわ目立つところに軍刀をもった二人の軍人の写真パネルが展示されている。二人の日本軍将校が上海から南京へ至る戦闘中に、どちらが早く百人の中国兵を日本刀で斬ることができるか競争したとされる、いわゆる「百人斬り競争」の展示である。この事件について中国側は次のように触れている。
 青壮年を組織的に殺害した他に、多くの日本軍将兵は狂気じみた心理からいたるところで平和な住民をなぐさみに殺戦した。富岡と野田という二人の少尉は、軍刀でどれだけ中国人を切れるかという「人斬り競争」まで行った。一九三七年一二月の東京「日日新聞」は「片桐部隊」(第十六師団)からの「百人斬り競争」というショッキングなニュースを報道した。

 一九三七年十二月十三日付「東京日日新聞」に、十二日に紫金山麓にて浅海一男記者の取材に応じた向井敏明少尉が、南京戦に至る戦闘中に野田毅少尉と共に、白兵戦でどちらが多くの中国兵を日本刀で殺すことができるかを競争しているという趣旨の話をした記事が掲載されていることは確かである。
 この記事は英訳され、日本で発行されていた英文紙「ジャパン・アドバタイザー」十二月十四日付に転載された。
 その記事を、上海にいたティンパーリーが発見し『戦争とは何か』に再転載してしまったことから問題は複雑になった。というのも、ティンパーリーは、この記事に「南京の殺人競争(The NANKING “MURDER” RACE)」という見出しをつけたからである。
 ウェブスター大辞典によれば、murderとは「非合法な殺人行為、特に故意または計画的または重大な犯罪中に起った殺人」を意味する。ティンパーリーの見出しによって「戦争中の中国兵相手の戦闘行動」の話が、「意図的な非合法殺人競争」へと変えられてしまったのである。かくして、この英訳記事で「百人斬り」の話を知った中国国民政府は一九四七年十二月四日に、向井、野田両名を南京軍事法廷で起訴し、僅か四日後の十二月八日に死刑を宣告、処刑したのである。
 では、「東京日日新開」の報道は事実だったのか。
 鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』によれば、南京軍事法廷で向井・野田両名の弁護をした中国人弁護士の崔培均は次のように反論し、記事が浅海記者の「創作」だったことを明らかにしている。
  1. 記事を書いた浅海記者から一九四七年十二月十日に送付された証明書には、「この記事は、記者が実際に目撃したものではない」と明言されている。
  2. 被告等が所属した部隊は(記事の舞台となった)紫金山付近では行動していない。つまり被告野田は紫金山には行っていない。
 更に崔弁護士は控訴趣意書において、次のように主張した。
  1. 唯一の証拠として挙げられているのは日本の新聞だけである。そして「新聞記事を証拠とはできない」ことは、中国の最高法院の判例で明らかである。
  2. 被告人が、殺人競争を行ったことを証明する直接、間接の証拠は裁判では全く提出されなかった。
  3. 多数の白骨が紫金山の埋葬地点から掘り出されたことも証拠であると判決書に書かれているが、被告たちが行ったこともない場所で、たとえ幾千の白骨が現出しても、これを被告等の殺害の結果であると断定できない。
 つまり、「百人斬り競争」を目撃した中国人は全くいなかったので、法廷は新聞記事を唯一の証拠として向井らを死刑に処したのである。こんなデタラメな裁判が、証拠裁判主義に照らして許されるだろうか。
 そもそも、軍隊の仕組みが分かる人ならばすぐに理解できるだろうが、向井少尉は歩兵砲の指揮官、野田少尉も大隊の副官であり、共に第一線の白兵戦に参加するはずがない。サムライ映画では、日本刀で次々と人を斬る場面がよく出てくるが、人一人斬れば血糊の中に含まれる脂肪分によって斬れにくくなるし、日本刀の性能から見て刃こぼれが生じたり、刀身が曲がったりすることは当時の専門家の見解でも明らかである。刀自身の重さが加わって切断力が増す中国の青龍刀とは違う。
 南京戦における日本軍の狂気的殺教の代表例として扱われ、二人の日本軍将校が死刑となった「百人斬り競争」。しかし、その処刑は限りなくシロに近い不当な断罪なのである。




中国側の主張と矛盾する「証拠」の数々


◇南京の秩序回復を物語る写真・映像・証言

■日本人特派員が撮った写真が示す「南京」

 「東京日日新聞」の特派員であった佐藤坂寄氏は、昭和十二年十二月十五日と十六日にわたって、南京城内の安全区付近で中国人が露店を開いている様子を撮影している。そのなかには、難民が食べ物の露店を開き、食事をする日本兵を難民たち(女性と子供を含む)が取り囲んでいるという場面がある。また、別の写真では野菜や古着を売る露店などがいくつも開かれている。また、当時の「朝日新聞」にも、ほぼ同時期に撮影された一連の写真が掲載されており、十七日に河村特派員によって撮影された写真のなかには銑を持たない日本兵が街路を散歩したり、露店の床屋が営業しているカットすら見られる。
 さらに、安全区のなかで多数の中国人が「良民証」の交付を受けるために日本軍が設置した交付所に殺到している様子が東宝文化映画部制作の映画『南京』に記録されている。これは十二月二十四日から翌十三年一月五日までの間に行われた、「兵民分離」の一コマであるが、殺到する多数の中国人には日本兵を恐れる様子は全く見られない。
 ところで、これらの写真が撮影された十二月十五日から十七日頃と言えば、中国側の主張する「大規模的集体屠殺期」(十二月十二日〜十八日)の最中であり、また記録映画が撮影された時期はその後の「普遍的屠殺期」にあたり、大規模な強姦や略奪が行われていたとされる時期でもある。
 しかし、一連の映像には明らかに秩序が回復された南京市内の様子が記録されており、そこには中国人が日本兵を恐れているという様子もうかがえない。こうした映像は南京のごく一部を記録したに過ぎないし、(南京大虐殺)を直接否定し得るものではないという反論も可能であろうが、こうした平和な情景のすぐそばで大量虐殺、大規模な強姦・略奪が行われていたとは少しでも合理的思考をたしなむ者ならば、とても考えられないであろう。
   

 それとは逆の「映像資料」を一つ紹介しておく。一九三〇年代の米国を代表する映画監督の一人であるF・キャブラによって監督され、一九四四年に劇場公開された『ザ・バトル・オブ・チャイナ』という戦時宣伝映画がある(その中国版が『中国之怒吼』である)。その中に十秒ほどの(南京大虐殺)シーンがあるが、次のような理由で到底「実写」とは考えられない。
  1. 婦人を力ずくで連行しょうとしている軍人の肩章は日本軍の将校のそれとは全く異なるし、胸に勲章らしきものをつけているが、そんなデザインの勲章は日本にはない。
  2. その人物は腰に弾帯を巻いているが、当時の日本軍が使用していた挙銃は回転式ではないので、弾帯は必要ないし、帯刀している刀は軍刀ではなく、刃のついていない指揮刀である。戦場に指揮刀を持って行くことはありえない。
  3. 厳寒の南京に半袖の市民の姿が見える。
  4. 生き埋めにされようとしている婦人の胸の上に「三民主義」と善かれた紙片が載せられているが、こんな発想は日本人にはない。
 まさに全体が“やらせ映像”であって、先記した東宝映画『南京』とは信憑性において雲泥の差があると言わねばならない。
   


■出所不明のニセ写真ばかり

 同様の例を紹介しよう。(南京大虐殺)を裏付ける証拠として提出されているもののなかに、「写真資料」がある。これらの写真は、大虐殺を否定する証拠としてあげた日本人記者が撮影した写真とは違い、撮影の日時や場所、撮影者が明記されたものは存在しない。つまり、一枚として厳密な検証を経た(大虐殺)写真はないと断言しうる。
 逆に、全く別の写真に虚偽の写真説明を付けて日本軍の暴虐の証拠写真としたり、あるいは出所不明の死体写真に日本軍の暴虐によるものと説明文をつけているケースがほとんどである。
 その中から二つの例を紹介したい。
 下図の写真1は、南京の 「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」に展示され、また『ザ・レイプ・オブ・南京』にも掲載されている写真である。『ザ・レイプ・オブ・南京』では「日本軍は、何千という女たちを家畜のように追い立てた。彼女たちの多くは、集団強姦されるか、軍用売春を強制された。(軍事委員会政治部、台北)」という説明が付いている。
 しかし、この写真は、集団強姦とも、軍用売春ともまったく無関係であることが判明している。なぜなら、実はこの写真は南京事件の約一カ月前に発行された日本の写真週刊誌『アサヒグラフ』(昭和十二年十一月十日号)に掲載されたものだからである。本来は四枚組の写真で、問題の写真はその一枚であり、そこには「硝煙下の桃源郷、江南の『日の丸部落』」というタイトルが付けられ、この写真そのものには「我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群(十月十四日、熊崎特派員撮影)」という説明文が付けられている。敗残中国兵による掠奪が常態であった中、この部落は日本軍によって保護され、安全に農作業が行われているという写真だったのである。また、撮影場所は上海近郊の宝山県盛家橋部落と明記されている。
   
    
 ■週刊新潮で、捏造を認めた本多氏

 笑顔の日本兵と一緒に、少年少女、防空頭巾を被った女性もまた笑顔で橋を渡る。
上記[グラビアアサヒ]のキャプションには“我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ”とある。朝日新聞社が発行していた「アサヒグラフ」(1937年11月10号)に掲載させていた一枚である。
 そして、同じ写真が72年発行の『中国の日本軍』という書籍に使われている。著者は、当時、朝日新聞が誇るスター記者だった本多勝一氏(82)。だが、そのキャプションには、“婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵たち。強姦や輪姦は七、八歳の幼女から、七十歳を超えた老女にまで及んだ”とあるのだ。
 南京事件に取り組んできたジャーナリストの水間正憲氏は、“南京大虐殺派が虐殺の証拠として使う写真ですが、なぜ朝日の記者だった本多氏が、自社の写真を使ったのか不明です”と、そこで本多氏に問いあわせると文書で回答が寄せられた。
 “『中国の日本軍』の写真説明は、同所の凡例に明記してあるとおり、「すべて中国側の調査・証言にもとづく」ものです。ただ、中国側に問題点があることは、俺が司会を務めた南京事件の座談会(「週刊金曜日」99年11月05号)で、吉田さんが次のように指摘しているとおりだと思います。「中国側の対応で問題があるのは写真の使い方ですね。いつ、誰が、どこで撮ったのかという根拠を確認しないままに、政治的なキャンペーンの中で勝手に写真を使っている。日本の市民運動側もそれを無批判に受け入れてしまうような一面があ反対派につけこまれている」。「アサヒグラフ」の別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです。確かに誤用のようです。
 伝説の記者が誤用を認めた。
 慰安婦報道同様、相手の言うがまま無批判に載せてしまう朝日のDNAそのものだ。
 なお本多氏は「ご指摘の写真の『誤用』によって南京事件自体が否定されたことにならない」とも主張している。流石は、南京虐殺記念館から特別功労賞を贈られただけのことはある。中国は今年、従軍慰安婦に関する資料と南京大虐殺の記録を「世界記憶遺産」としてユネスコに登録申請している。
 また、写真2(本書P100)は南京大屠殺資料編集委員会などが出版している写真集『侵華日軍南京大屠殺暴行照片集』に(大虐殺)のシンボルとして掲げられている写真である。この写真集の表紙写真として使われ、さらに三一頁に再度掲げられ、「日本軍は殺害した南京軍民の死体を長江に捨てた」との説明が付けられている。さらに、同じ写真が『ザ・レイプ・オブ・南京』にも掲載されており、「南京市民の死体は、揚子江岸に引きずってこられ、川に投げ捨てられた(モリヤサ ムラセ)」という写真説明が付けられている。
 実は、この写真の出所もはつきり分かっていて、南京戦に参加した村瀬守保という兵士が撮影した写真である(モリヤサは間違い)。しかも、藤岡信勝・東中野修道著『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』によって、撮影場所がほぼ特定され、その結果、これらの死体が虐殺されたものではないことが明確になっている。
 事情を簡単に紹介すれば、十二月十三日早朝、撤退しようと南下する中国軍と北上する日本軍とが、南京城の西側(南京城と揚水江との間)で衝突した。なかでも、最も揚子江に近い新河鎮では日本軍一個中隊(歩兵第四十五連隊第十一中隊)が中国兵数千と遭遇して激戦となった。この戦闘によって中国軍は大損害を受けたが、一部の中国兵は附近にあった材木などで筏を作って揚子江上に脱出をはかったため、日本軍が河岸からこれを攻撃し、揚子江上でも多数の戦死者が出た。
 つまり、この写真に写っている死体は、南京の市民でもなく、また不法に殺害された中国兵でもなく、戦闘によって戦死した中国兵の戦死体なのである。
 たしかに、中国兵らしき死体が川辺に折り重なった惨たらしい写真ではあるのだが、しかし、これも(南京大虐殺)を証明するものではない。


■(大虐殺)を否定する日本人記者たち

 中国側が(大虐殺)の行われたとされる南京陥落時から約六週間の間に、南京には多数の軍人と、のべ百人を越える日本人記者が入っているが、彼らは(大虐殺)なるものを見たことはないし、その当時、開いたこともない、と証言している。
 まず、新聞記者などの証言を見てみよう。
 たとえば、山本治氏(当時「大阪朝日新聞」上海支局員)は、南京での虐殺について「全然見たことも聞いたこともありません。夜は皆集まりますが、そんな話は一度も聞いたことはありません。誰もそういうことをいったことがありません。朝日新聞では話題になったこともありません」と証言している。
 また、同盟通信の特派員であった前田雄二氏は、当時、占領後の安全区内で大規模の掠奪、暴行、放火があったとの外電を開き、「私たちはキツネにつままれたような思いをした」。同盟通信の記者たちは「市内をマメにまわっている写真や映画の誰一人、治安回復後の暴虐について知らなかった。もしこうした無法行為があったすれば、ひとり同盟だけではない、各社百名の報道陣の耳目に入らぬはずはなかった」と証言している(前田雄二『戦争の流れの中に』)。
 ジャーナリストたちは、南京陥落後は、南京城内を自由に見て歩くことができた。軍人への取材や報道には規制が加えられていたが、彼らが南京城内やその周辺を歩き見ることに対しては、ほとんど規制はなされていなかった。そのジャーナリストたちのほとんどが、戦後になっても(大虐殺)なるものを見たことはないと証言している−−この事実は重大である。

 ■シナの新聞:日本軍が平和を取り戻した … 西村幸祐氏のツィートより
 日本軍が南京攻略戦で、国民党軍のシナ人虐殺やシナ人への残虐行為を防ぎ、南京陥落後に平和を取り戻したことを伝えるシナの新聞。やはり、どこを探しても南京虐殺の証拠は出て来ません。
    

■スマイス教授の綿密な現地調査

 もう一つの資料をあげておこう。それはスマイス調査(『南京地区における戦争被害・一九三七年十二月〜一九三人年三月』)といい、金陵大学社会学教授ルイス・C・スマイスと助手による南京市付近の戦争被害調査である。
 この調査では、市街地では五〇戸に一戸、農村部では約二五〇世帯に一世帯を抽出して面接調査し、人的被害、住居・建物や農業などの被害を調査しているが、加害者が日本軍なのか誰なのかを特定せず、また、人的被害の分布が日本軍の作戦行動と一致しないなどの矛盾もあるのだが、混乱した当時の情勢を考えれば、唯一の学術的な被害調査と言ってよかろう。
 さて、このスマイス調査によれば、南京市街地での、民間人の人的被害は、暴行による死者二四〇〇、拉致四二〇〇(拉致されたものはほとんど死亡したものとしている)、さらに南京周辺部(江寧県)での暴行による死者は九一六〇で、合計一五七六〇人が一般市民の被害ということになる。これをどう解釈するかは別として、これでは少なくとも(三十万大虐殺)説は成り立たない。
 しかも、この数字は「犯人」を特定しない数字であり、当然、このなかには、戦闘員としての戦死、戦闘行為の巻き添えによる死亡、中国軍の「堅壁清野作戦」などによる被害、退却中国兵の不法行為による死亡なども含まれる。また、拉致のなかには、後に帰還したもの、また中国軍による強制的な民兵・軍夫の徴用も含まれる。
 従って、日本軍による被害はこの数字よりもかなり少なくなると言わざるを得ない。従って、どのようにみてもスマイス調査は、(大虐殺)を示す証拠とはなり得ないばかりか、(大虐殺)説とは矛盾する資料というべきであろう。
 ちなみに、一九四六年(昭和二十一年)六月、南京にいたスマイスは東京裁判のための宣誓口供書を書いているが、調査結果を変更しようとはしていない。この時期には、既に三十万大虐殺説が南京地方法院によって提出されている。その当時も南京に在住し、(三十万大虐殺)説を知っていたはずのスマイスが八年前の調査結果に変更の必要を認めなかったということは、南京法院の調査よりも自らの調査の方が正しいと考えていたと推測できる。


■「南京事件」は原爆投下を正当化するために占領軍によって創作された
 マーシャル陸軍参謀総長が、1945年9月1日、陸軍長官宛に提出した2年次報告書のなかで、日本に原爆を落とした理由を述べている。[外務省の罪を問う P136-137]
 原文はつぎのとおりである。
  
 マーシャルのこの報告書は、日本でも占領軍民間情報教育局(CIA)の支援を受けて翻訳され、昭和21(1946)年8月15日、訳者は不明だが、『勝利の記録』と題されてマンニチ社という出版祉から出版された。そこで上記英文はつぎのように訳されていた。
《八月六日の週間は、紛争の連発する中で第一弾を放ち、遂に第二次世界大戦へと進展せしめた国民にとって余りにも唐突な異変の週間であった。日本は奉天、上海、真珠湾、バタアンにおける悪逆に対し充分なる償ひをさせられているのであった。≫
 ところが、この本は同年11月30日堅山利忠の訳で『欧・亜戦の戦闘報告』と題されて東京勤労社から再度出版された。そしてそこでは、前記2つの文の第2文がつぎのように訳されていた。
日本は南京、奉天、上海、真珠湾及びバタアンにおける反逆に充分なる代償を払はせられつつあった。≫
 注目していただきたいのは、2番目のこの本では、ゴシックで示されているように原爆を落とした理由として、原文にはなかった「南京」が追加されていることだ。
 以上の経緯は、2つの重要なことを示唆している。
 一つは、マーシャルが第二次世界大戦を回顧して原爆を落とした理由を述べるとき、「南京事件」は念頭になかったということを明らかにしていることだ。このことは、「南京事件」は、占領下で占領軍によって創作されたものである、ということを傍証している。
 他の一つだが、日本で、「南京事件」が初めて日本国民に知らされたのは、昭和20(1945)年12月9日より始まった「真相はこうだ」というラジオ放送であった。だがこのとき日本人のだれもがこんな事件があることを信じなかった。しかしその後、いわゆる東京裁判で糾弾され、マンニチ社の翻訳本の出た昭和21(1946)年8月15日は、ちょうど「南京事件」の審理が行われているときだった。そこで、同年11月30日に出た堅山利忠の訳では、マーシャルの原文にはなかった「南京」が追加されて訳されたのだ。つまり、原爆投下を正当化するために占領下で「南京事件」は創作されたのだということがよく分かる。
 つまり、「南京事件」というのは、日米開戦にさきだって、ワシントンの日本大使館で事務失態があり、そのために「最後通告」手交遅延が起こり、そのために日本海軍の真珠湾攻撃が「騙し討ち」となり、それに対するアメリカ国民の憤激から原爆投下が起こり、そしてその原爆投下を正当化するために、原爆の惨劇に匹敵する惨劇として、占領軍によって創作されたものなのだ、ということが分かる。
 斎藤邦彦駐米大使は、「南京事件」を糾弾するアイリス・チャンに表立って反論をしなかったのであるが、じつは、「南京事件」はもともと外務省の事務失態から発していたのである。斎藤は、そのような経緯、因果関係はまったく認知していなかったであろうが、外務省は真珠湾の「騙し討ち」に関する責任を隠しきって、それがあまりにも成功しすぎて、現在では、外務省自身も隠したことを忘れてしまっているのだと分かる。
 上記、マーシャルの報告書の翻訳で、原爆を落とした理由のなかに、原文にはなかった「南京」がつけ加えられたという大切な事実は、「南京問題」研究家の溝口郁夫氏によって発見された。




結語より抜粋

 そればかりではない。南京戦当時の日本はドイツと防共協定を結んで友好関係にあったが、ドイツのユダヤ人迫害政策については、断固として拒否していたという重大な事実があることを知らねばならない。南京戦からほぼ一年たった昭和十三年(一九三人)十二月、日本政府は「多年主張シ来レル人種平等ノ精神」に基づいて「猶太人ニこ対シテハ他国人卜同様公正ニ取扱ヒ之ヲ特別ニ排斥スルカ如キ処置二出ツルコトナシ」との方針を決定した。この決定があったからこそ、あの“和製シンドラー”杉原千畝の精力的な活動も可能になり、多くのユダヤ人が救われたのである。日本人が極端な人種差別から生み出されたナチス・ドイツのホロコーストとは縁遠い存在であることはこの史実からも窺われよう。
 ■中国のシンドラーだって? [WiLL 5月号より抜粋]
 りトアニア駐在の外交官・杉原千畝が、特別ビザを発給して六人をナチスの迫害から救った話は、「日本のシンドラー」としてよく知られている。
 くらべて、杉原よりも二年前(一九三八年)、満州に逃れて来たユダヤ難民に「命のビザ」を与えて救った軍人・樋口季一郎(ハルビン特務機関長)の業績はもうーつ知られていない。
 樋口はこの救済を独断専行した。日独防共協定を結ぶナチスからの抗議で、樋口に出頭命令が下る。樋口は東條英機(関東軍参謀長)に言う。「ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめをしていいのか」と。東條の承諾を得た樋口は松岡洋右(満鉄総裁)を動かし、ユダヤ難民を上海へ輸送する。この「ヒグチ・ルート」は後々まで続き、これによって救われたユダヤ人は杉原のそれに匹敵する。
 この一件から九カ月後、度重なるナチスの抗謙に、廟堂は五相会議(首相、蔵相、外相、陸相、海相)を開いて協議。結果、「ユダヤ人を公正に扱い、排斥してはならぬ」とする国策(ユダヤ人対策要綱)を決定した。五相会議に先立ち、上海から逃れて神戸に結成されたユダヤ人コミュニティに事情聴取した。
 ユダヤの古老が言う。
「我々ユダヤ人はアジア人。日本人もアジア人。ヒトラーは我々の次に日本人を迫害するでしょう」
 のちに樋口は北方軍司令官に転じ、キスカ撤退作戦(五千人の将兵を救出)や占守島の戦いを指揮する。終戦から二日後の八月十七日、ソ連軍は占守島に攻め寄せる。樋口は「断固、反撃」を命じ、ソ連軍は日本側を上回る死傷者を出した。占守島の敢闘がなければ、ソ連は北海道に上陸、日本は分断国家になっていた。
 戦後、ソ連は樋口を戦犯として引き渡せと要求した。これを阻止したのは、かつて樋口に救われたユダヤ人らの画策による。杉原が「命のビザ」を発給したとき(一九四〇年)、すでに日本は「ユダヤ人救済」を国策として決定していた。その国策に沿って杉原はビザを発給した。くらべて樋口の場合は独断専行、自己の一存で「ユダヤ人救済」を始めた。
 なのに、樋口の「ユダヤ人救済」はあまり知られていない。樋口を顕彰すれば、東條英機や松岡洋右にも及ぶ。それが嫌だから樋口の業績は伏せられているフシがある。
 樋口の業練や人物については、早坂隆著『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎」に詳しい。
 さて、本稿のキモはここからだ。
 昨年十月、中国が申請した「南京虐殺」に関する資料がユネスコの「記憶遺産」に登録されて大問題となった。中国は新たに「上海ユダヤ難民資料」の登録申請を準備していると報じられている。
 これは樋口や杉原の功績を、中国が掠め取ろうというトンデモナイ話だ。中国には「上海ユダヤ人難民記念館」があって、杉原を「日本のシンドラー」として紹介するコーナーもあった。ところが昨年九月、「抗日戦争勝利記念日」を機に、杉原に関する展示は大半が撤去された。代わりに、日本が上海北部の日本人居留地に設置した「無国籍難民隔離区」において、「日本軍がユダヤ難民に残虐行為をおこなった」とする展示内容にした。
 むろん、これは虚構・悪質な宣伝でしかない。この「隔離区」は、一九四二年にドイツが「最終解決」と称してユダヤ難民の虐殺を迫って来た際、日本軍がこれを拒否し、その翌年に設けたもので、日本軍はここでユダヤ難民を保護した。
 中国は日本を貶めるだけでなく、何鳳山という人物を「中国のシンドラI」と称して宣伝している。何鳳山は戦時中、国民党政権のウィーン総領事で、共産党政権とは何の関係もない。そもそも当時の上海に流入したユダヤ難民に対して、最も多くのビザを発給したのは日本だ。なかにはヒグチ・ビザやスギハラ・ビザを手にして辿り着いた難民が多い。
 それを中国の手柄のように宣伝されるのは黙っていられない。杉原や樋口の功績が掠め取られるような歴史戦のなかに、いま日本は置かれている。反論すべき点は反論しないといけない……。
 またぞろ始めた中国の捏造を、外務省は知っているのか。まずは「隔離区」を設けた日本人居留他の生き残りや家族を探せ。何鳳山なる人物がユダヤ人に何枚のビザを書いたか、何人が国境を越えたか、ウィーンで取材せよ。
 例によって愚図愚図していると、南京、慰安婦の二の舞なる。国費を頂戴する身なら、少しは国のために働け
 そもそも日本人がそのような、「ホロコースト」などと呼ばれる体系的残虐をやる民族かどうか、日本文化の片鱗を知る西欧人なら、夙に周知のはずであろうに。ナチス・ドイツと戦ったレジスタンス戦士としてフランスのド・ゴール大統領からあらゆる顕彰を受けたアルフレッド・スムラーは、その一人だった。アウシュヴィッツからブツヘンヴアルトに至る強制収容所に送られ、拷問に耐えて生還した、この偉大なるフランスのヒーローは、その回想録『アウシュヴィッツ186416号日本に死す』においてこう書いたのである。
「第二次大戦とレジスタンスは何よりも反ファシズム闘争であり、従って日本とヒットラー・ドイツは同日に見るべしとの妄論がますます幅をきかせているのには、とうてい我慢ならない。これは、為にするイデオロギー的プロパガンダ以外の何物でもない……」

 二千年余の文化的伝統に誇りを持つ我々日本人が、謂れなきこれほどの国辱に到底よく耐え得ざることは、同じく星条旗の歴史に誇りを持つ米国国民なら十分に理解するところであろう。
 翻って、ナチス・ドイツの犯したこの非人道的犯罪に類するものと言えば、ロシア革命以来、共産主義が世界各地で惹き起こしてきた数々の民族虐待・大量殺教ではないか。冷戦の終焉を契機として、二十世紀の人類社会に大きな災厄と惨害をもたらした共産主義に対する総括が本格的になされつつあるが、その一つ、S・クルトワの『共産主義異音』によれば、共産主義の「犯罪」による犠牲者は少なく見積もっても一億人に達するという。死者二〇〇〇万人を出したとされる本家のソ連では一九九一年に共産主義政権が崩壊したが、六五〇〇万人という飛び抜けた数の人々が犠牲となったと推定される中国では、なお、共産党の一党独裁政権が存続しており、さまざまな人権弾圧や少数民族の迫害が後を絶たない。
 とりわけ、一九五五年の不当な併合以来、人口のほぼ二割に相当する一二〇万人以上の人民が虐殺され、現在も民族虐待や文化破壊が続けられているチベットの悲惨な状況は、ボスニア・ヘルツエゴヴイナやコソボ以上に残酷な“民族浄化”として知られ、米国人の間でも強い関心を持たれていることは、「セブン・イヤーズ・イン・チベット」や「クンドゥン」などの映画のヒットによっても明らかである。これを「人道に対する罪」たるホロコーストと言わずして何であろうか。その中国がチベット問題は内政問題であるとして外国からの抗議を静ねつける一方、その存在すら極めて不確かな六十余年前の(南京大虐殺)を声高に非難し続けているのだから、身勝手と言えば身勝手、滑稽と言えばこれほど滑稽な光景はあるまい。
 その滑稽さの極致と言っていいものが、中国共産党政府の強力な支援の下に、製作中の『ラーベ日記』の映画化である。もちろん、「虐殺三十万」を非難するキャンペーン映画である。『ラーベ日記』については既に詳しく言及したので、これ以上繰り返さないが、少なくともラーベ自身は「虐殺三十万」とは言っていなかったことを想起すれば、この映画が二重の意味で虚構であることは明白であろう。
 中国共産党政府がしばしば(南京大虐殺)を引き合いにしつつ、日本に対し執拗に過去への「反省と謝罪」を求めるのは、米国議会調査局も分析しているように、「狙いは援助や譲歩を引き出すこと」にあることは間違いないが、もう一方には、冷戦終焉後の東アジアに覇権を確保するために、その障害となる日米同盟に楔を打ち込む一つの手投として、旧連合国同士で共感を抱きやすい旧敵国日本の「悪行」の記憶を呼び起こそうとする意図があると見てよい。『ザ・レイプ・オブ・南京』の拡販活動の背後に中国系米国人や在米華僑団体を通して中国共産党政府の影が垣間見えるのもこのことを端的に物語っている。
 一九三〇年代から四〇年代にかけて日米両国が激しく対立し、遂には不幸にも戦端を開くまでに至った背景には、日米の離間に全力を傾注した中国などの巧妙な宣伝工作があったことは紛れもない事実である。我々は二度とこの過ちを繰り返してはならないと考える。
 (南京大虐殺)の存否をめぐる我々の主張は、いわれなき「冤罪」によってもたらされた日本の汚名を雪ぐということにとどまらず、二十一世紀に向けて日米の成熟した友好関係の形成と強化を視野に入れたものであることを強調しておきたい。

           国学院大学教授
           大原 康男


    WiLL 2012年2月号より


◇WiLL 2012年5月号より抜粋

 

  

 


■シナ側資料に、日本軍が家畜を奪い、軍が行くところ犬も鶏も居なくなったと題する
 下図左写真がある。これは、朝日シナ事変画報がS12/12/05に伝えた写真だったもので、
 日本軍は代価を払って家畜を購入していた(もっとも、日本人は犬は食べない)。
     



◇中山成彬、南京事件と教科書検定

 下記は、[Will 2013年6月号]、⇒([中山成彬、南京事件と教科書検定:H23/4/10衆議院予算委員会]) から抜粋しました。
 H22年の自由社版の歴史教科書に対し、文科省担当者は「南京事件はあった」とストーカ的に圧力を加えた。支那が虐殺したと主張する期間に、日本軍に批判的な欧米人の手記から、人口は増えていた! この手記は、南京城の避難地区を管理していた欧米人が、日本軍に食料を求めたときの資料で、当時の現実を反映した資料である。
   

   

 ■産経:南京:「城内空っぽ。誰もいなかった」「虐殺あるはずない…」2015/02/15
  南京攻略戦に参加し、昭和12年12月13日の陥落後に南京城に中華門から入城した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣(じょうこうせん)(98)の目の前には、無人の市街地が広がっていた。「無抵抗の民間人を殺すのが虐殺。だが、人がおらん以上、虐殺があるはずがなか」と城は断言する。
 中華民国トップの蒋介石は11月中旬、内陸にある重慶への遷都を決断し、12月7日に南京を脱出。南京市長ら要人の脱出が続く中、日本軍は降伏を勧告したが、拒否してきたため12月10日、総攻撃を開始した。
 戦後、東京裁判は「南京占領直後から最初の2、3日間で少なくとも1万2千人の男女子供を殺害、1カ月で2万の強姦事件を起こし、6週間で20万人以上を虐殺、暴行や略奪の限りを尽くした」と、断定した。その後、中国側は「30万人が虐殺された」と主張するようになったが、城は首を横に振る「城内では遺体も見とらんです」「そりゃ、敵と交戦しながら進むけん。こっちもあっちにも遺体はありましたが、女や子供、年寄りの遺体は見たことはなかです」
 77年たった今も脳裏に浮かぶのは仲間の姿だ。南京城壁から狙い撃ちされ、敵弾に次々と倒れていった。「それでも日本の兵隊は強かですばい。弾がどんどん降る中でも前進していく。国のため国民のため突っ込んでいくんですけんね」
 戦後、獣医師として働き子供4人、孫とひ孫計22人に恵まれたが、当時を語り合える戦友は誰もいなくなった。「30万人も虐殺したというのはでっち上げですたい。貶められるのは我慢ならんです」と、憤りを隠せない。中国は「30万人虐殺」を喧伝するが、南京で将兵らが見た実像は大きく異なる。
 
 ■産経:南京:「誠に和やかに尽きる…」 城内に露店建ち並ぶ「平和な進駐」
 旧日本軍が昭和12年12月、中国・南京を攻略した後の一時期を、城内で過ごした元海軍第12航空隊の3等航空兵曹の原田要(98)は、当時の雰囲気をこう振り返る。
 「とても戦争中とは思えなかった。南京は誠に和やかに尽きる、という印象でした」
 陥落後に城内の飛行場に降り立った原田の印象に残るのは、日常生活を営む住民らの姿だった。露店が立ち、住民らは日本兵を相手に商売を始めていた。原田も豚を1匹買った。「足をひとくくりに縛った子豚で、仲間と一緒に食べました」
 攻略戦のさなか、城内に残った住民らは、欧米人らで作る国際委員会が設けた非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んだが、日がたつにつれ、平穏さを取り戻していった−。原田らの目には、そう映った。
 中国側が主張する「30万人大虐殺」が本当だとするならば、城内の至るところで凄惨な殺戮が行われていたはずだが、「住民が平和に商売をしている一方で、毎日たくさんの人が虐殺されているというようなことは全く考えられません」。
 原田は「便衣兵はゲリラ。接近してきて日本軍がやられる恐れがあった」と感じていた。原田は便衣兵を処刑する場面に出くわした。陸軍兵士らがトラックに乗せてきた中国人の男10人ほどを銃剣で突いたりした。
 東京裁判は兵役年齢の男性約2万人を機関銃と銃剣で殺害した、と認定したが、原田は首をかしげる。処刑の場面を目撃したのは、この一度きりなのだ。
 東京裁判に出廷した元将校の証言によると、城内で捕虜にした残存兵は4千人に上り、半数を収容所に送り、残り半数を後に釈放した。武器を持って潜んでいた便衣兵を軍法会議にかけて処刑することはあるにはあったが、国際法に従って対応していた。
 
 ■産経:南京:占領地で復興に尽力した堀内大佐 中国人から転勤延期の嘆願書も。
 盧溝橋事件(⇒[盧溝橋事件は中共軍の謀略だった])を発端に昭和12年7月に始まった日中戦争は、局地紛争にとどめようとした日本政府の思惑と裏腹に中国全土に飛び火し、抗日運動を活発化させた。そんな中、南京事件から約5カ月後の13年5月のことだった。14年11月から堀内豊秋少佐(明治33年、熊本県生まれ。終戦後、オランダ政府よりB級戦犯容疑で起訴され、裁判では「部下の罪」をかぶって同年9月、47歳で銃殺刑。)は住民と交流を深め、荒廃した地域を復興させた。公正な裁判を実施し、治安を回復させ住民の信望を集めた。これに感謝した中国人が留任を求めた日本軍指揮官もいた。(産経 2015/02/16)
 黄季通ほか103人の連名、押印の昭和15付嘆願書にはこう書かれていた。
  • 「蒋介石政権が無理に抗日を唱えて民衆を扇動したことから禍が始まった。彼らは強制的に壮年男子を徴兵し、献金を強要するなど区民は痛ましい不幸に遭遇した。事変(日中戦争)が起こって住民は離散し、豊かな土地は廃虚と化し、田畑は荒れて家々は傾き、見る影もなくなった」
  • 「堀内部隊が本島(厦門)に駐留して以来、利を起こして弊害を取り除き、信賞必罰を徹底して教育を普及し、農業を振興して橋や道路を造り、廃れていた衛生設備を直し、短期間に荒廃の区を良くさかえる域に戻した。海外に出ていた多くの華僑も(中略)善政のもとに復興しつつあることを知って、島に帰って(中略)昨年1年間に復帰定住した人の数は10年来の記録となった」
  • 「堀内部隊長らを長期にわたって駐留させて頂ければ、島民を幸福に導き、種々の業務がさらに復興すると考える(中略)。全島の住民が安住して生活を楽しみ、東亜和平の人民となろう。謹んで衷心から転勤延期を切望するものである」
 
 ■産経:南京:婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていた」憲兵。2015/02/17
 昭和12年12月の南京攻略戦をめぐる東京裁判は、元将兵にとって「身に覚えのない蛮行」の数々を断罪、弁護側の反論は一切聞き入れられず、旧日本軍が残虐の限りを尽くしたと断定した。これが真実ならば、規律と統制を失った集団の、見るに堪えない不法行為の数々である。だが、元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長の橋本光治(99)は、身に覚えのない「私だけでなく戦友や日本軍の名誉にもかかわる。悔しい思いをしました」「虐殺者」の汚名を着せられたことに、今も怒りを禁じ得ない。 
 橋本は昭和12年12月13日に南京入りし、23日まで城内外の敗残兵の掃討に参加した。翌月下旬に南京を離れるまで、1度だけ長江(揚子江)河畔の下関という場所で、捕虜となった中国人の男が使役されているのを目撃したが、一般住民の姿は見かけていない。
「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていたし、夜間外出は禁止され、任務以外に自由な時間はありませんでした」「戦争中も軍紀は守られていた。そんな残虐行為ができるわけがない」
 南京戦に参加した元将兵らが集まり平成19年に東京で開かれた「南京陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る『南京事件』の真実」で、元第9師団歩兵第7連隊伍長、喜多留治=当時(89歳)は「安全区の掃討には厳重な命令がありました」と話した。
 安全区では、軍服を脱ぎ捨てて民間人になりすました便衣兵の掃討が、南京城陥落直後の昭和12年12月14日から始まり、喜多はこれに参加。安全区の警備も担当した。住民に十分配慮することや、掃討では将校の指揮に必ず従うことを命じられたという。
 掃討は同じ師団の金沢と富山の連隊が担当し、他部隊が安全区に入らないよう「金沢」「富山」という合言葉まで使っていた。喜多は略奪や強姦は「ありえないことです」と語った。
 
 ■産経:南京:「虐殺は終戦後、米軍放送で知った」 絞首刑の松井石根(いわね)。
 南京攻略戦で旧日本軍を率いた司令官・松井石根大将にとって「南京大虐殺」は寝耳に水だった。戦後、東京裁判で松井は「大虐殺は公的な報告を受けたことがなく、終戦後米軍の放送で初めて知った」と、証言している。
 戦勝国による追及が始まる中で現れた「南京大虐殺説」。その責任者として松井は昭和23年11月12日、戦犯として死刑判決を受け、12月23日に絞首刑に処せられた。70歳だった。
 元陸軍第36師団歩兵第224連隊の少尉、内貴直次(93)は戦後、松井の元私設秘書、田中正明から幾度となく聞かされた。田中は11年に松井に随行し中国を訪れた。戦後は近現代史の研究者として活動、平成18年に94歳で亡くなるまで虐殺説に反論した。
 昭和18年夏ごろ、南京に約1カ月間滞在した経験のある内貴自身もこう言う。
「南京に入ったのは攻略戦から6年後。街は商店や人であふれ、平和な様子だった。もし、大虐殺があれば、住民の恨みを買い、われわれは平穏に駐留できなかったはずだ」
 昭和12年7月、日中戦争が勃発すると、予備役だった松井は上海派遣軍司令官に就任。上海、南京攻略戦で軍を率いた。南京攻略を控え、松井は部下に「注意事項」を示し、何度も軍紀・風紀の徹底を図り、捕虜を正しく扱うことや、住民に公正な態度を取ることを指示。顧問として法学者を南京に帯同しており、国際法に注意を払っていたこともうかがえる
 12年12月17日に南京に入城した松井は、当時の様子をつづった日記を基にした供述書で「巡視の際、約20人の中国兵の戦死体を見たが、市内の秩序はおおむね回復した」といった内容を述べている。一方で入城後に一部の兵による軍律違反の報告を受けており、法廷で「南京入城後、非行が行われたと憲兵隊長から聞き、各部隊に調査と処罰をさせた」とも証言した。
 非行件数はどの程度なのか。松井の部下は裁判前の尋問で「10か20の事件だった」と述べている。だが、判決はこう断罪した。
「自分の軍隊に行動を厳正にせよと命令を出したが、何の効果ももたらさなかった。自分の軍隊を統制し、南京市民を保護する義務と権限をもっていたが、履行を怠った」
 また、南京攻略後に松井が帰国したことをめぐり、検察側は日本が南京での多数の不法行為の責任を問い、司令官の職を解き召還したという構図を持ち出した。松井は「それは理由にはならない。自分の仕事は南京で終了したと考え、制服を脱いだ」と明確に否定したものの、反論は一切聞き入れられなかった。
 「南京で2万の強姦、20万人以上の殺害があった」と断定した東京裁判だが、松井に対する判決では「南京陥落から6、7週間に何千という婦人が強姦され、10万人以上が殺害」とそれぞれ数を引き下げた。
 もともと松井は、孫文が唱えた「大アジア主義」に共感し、志願して中国の駐在武官を務めたほどだった。中華民国トップの蒋介石とも親交があり、蒋が日本で暮らした際には生活の支援をした。その蒋が喧伝した「大虐殺説」によって松井は命を落とした。
 松井は昭和15年、上海と南京の土を使い、静岡県熱海市に興亜観音像を建立。日中両軍の戦死者を弔い続けた。戦後、傷みだした建物などを保護しようと、陸軍士官学校58期の元将校らが「守る会」(平成23年解散)を設立、田中が会長を務めた。
 58期の元少尉の和田泰一(89)は、「普通は敵兵の慰霊はしない。だからこそ、松井大将の思いを残さなければと皆が感じていた」と語り、こう続けた。
「当時の記録を読めば事実は別にあることは明らかなのに大虐殺説を許してきた私たちの責任も大きい」
 戦前・戦中を全否定するような風潮の中で大虐殺説は日本人にも「定説」としてすり込まれていった。昭和21年春、松井は収監前夜、親しい人を集めた席で次のような言葉を残した。
「願わくば、興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々では浮かばれない」
 (2015/02/18産経)
 
 ■硫黄島での安倍総理 … Netより
 安倍総理が硫黄島の滑走路下に眠る英霊達に土下座したり、中韓以外の各国の空軍トップと一同に会したり、天皇陛下と年一回会食されたり、年に何回も東北の被災地を訪れている事をマスコミはほとんど報じない。我々が真実を拡散しましょう。尚、同島での遺骨収容は戦没者約2万2千人のうち半数にとどまっている。首相は「いまだに約半数の方々のご遺骨は眠ったままで、遺骨帰還事業を着実に進めていきたい」と強調。
   

「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉
 「月刊中国」主幹、鳴霞氏による貴重な証言。
 私は小さい頃に、外祖父が抗日戦場から何故逃げ出したのか分からなかった。逃げたことは秘密で、外祖父が死去する前年に、よく雑談の中で何時間も話すようになっていた。外祖父は、妻が早く死去したということだったが、それが逃げた理由ではないだろう。私はある日、やつと外祖父から真相を聞き出した。
 彼は四川省の貧農の出身で、小さい頃から武術で鍛えていた。
 1928年に四川で国民党に捕らえられて兵士にさせられ、 1937年の南京大虐殺前夜に少尉にさせられて、日本軍の猛烈な攻撃を、首都を守れ・国父を守れというスローガンで防衛するよう命じられた。しかし日本軍の進政を食い止めることなど出来ないので、南京城から撤退した。
 部隊は列車を何両か手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。その時に周囲から、一般の民衆が老人や子供の手を引きながら列車に乗り込んできた。
 大勢が列車の屋根にも乗っていた。日本軍は、すぐ近くまで迫っている。このままでは、国民党の兵士たちは逃げることが出来ない。誰かが、日本軍が来たぞと叫び、国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に列車から降りろと怒鳴った。
 誰も従わないので、指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに顔を見合わせていた。指揮官は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだと言って、一斉射撃を命じた。あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まったと言う。ここで約1千人の南京市民は、国民党の兵士たちから銃弾を浴びて死んで行った。
 国民党の部隊が必死で逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、それは日本軍の残虐行為として転嫁された。外祖父は、こんな部隊に残りたくないので、撤退途中に九江で夜陰に紛れて脱走し、長江を渡り武漢で列車を乗り換え、南の小さな山村に逃げ込んだ。
 外祖父の記憶では、他の部隊も同様のことをしてきたという。全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。外祖父は貧農の出身だが、国民党が貧乏人を虫けらのように扱うことに抵抗があつたという。
 外祖父は、国民党の軍隊に残っていれば、出世したかもしれない。また抗日戦争で戦死していれば、抗日戦闘英雄烈士との美名で呼ばれたかもしれない。しかし、逃亡する道を選んだ。そして裏切り者という悪名で呼ばれて、経歴を隠し通して逃げ回った。その過去の真実を、外祖父は死ぬ前になって初めて語ったのである。
 南京大虐殺は自分自身が犯した罪である。外祖父は恥ずかしくてたまらなかっただろう。
 私は反日・反米の青年であり、ネットによく論評を発表していた。だが、そんな単純な反日・反米の青年たちは利用されているだけなのだ。天国にいる外祖父よ、私を許して下さい。


「南京事件」世界記憶遺産登録の大失態

          [Voice 2015年12月号]

◇「南京事件」の証明には使えない資料

 去る(2015年)十月九日、ユネスコは中国が世界記憶遺産として登録申請をしていた「南京大虐殺」関係資料を登録した。もともと「南京事件」は存在せず、したがってその証拠となる資料はありえないのである。それをあるとして登録申請した資料は当然のことであるが、直接には「南京事件」の存在を実証するものではない。
 たとえば、東京裁判で「南京事件」があったとして証言したアメリカ人牧師ジョン・マギーが撮影したとされるいわゆる「マギー・フィルム」は病院内でけがの治療を受けている人などを写したもので、日本軍が中国市民を虐殺しているシーンはない。二〇万人も三〇万人も虐殺されていてこのように病院が機能しているはずはない。このフィルムは「南京事件」があったというよりも、なかったということを示しているフィルムといえよう。だから東京裁判では、マギーは「南京事件」は存在したものとして証言しながら、このフィルムを証拠としては提出しなかった。
 今回、登録された資料の中にこれまであまりいわれてきていなかった程瑞芳の日記がある。阿羅健一氏によれば、これは安全区で難民収容所になった金陵女子文理学院の舎監であった程瑞芳の書いた日記を指すが、これには殺戮を暗示するような噂話は記載されているものの、程自身が目撃した殺人は一件もない。強姦と掠奪が九件起きたと記述されているだけである。二〇万人や三〇万人が殺されたとすれば、その傍でこのように記述されるような情景はありえない。この日記も、「南京事件」はなかったという証明には使えるが、あったという証明には使えない。
 また今回登録された資料の中には、終戦後の昭和二十一(一九四六)年、中国国民党による南京軍事法廷で裁かれた第六師団長の谷寿夫中将の裁判資料が含まれている。第六師団は南京城内に五〇〇mしか入っていないことが明らかなのに、この部隊が計画的に虐殺を行なったとして、谷師団長は死刑を言い渡され処刑されたのだが、その判決文が記憶遺産として登録された。冤罪であることが明確であるにもかかわらず、その冤罪事件の判決文が「南京大虐殺」の証拠資料として登録されたのである。
 その他、一六枚の写真が登録されているが、これらはすべて、平成十二(2000)年に設立された「日本『南京』学会」(東中野修道会長)のその後の八年間の研究ですべて捏造写真であることが証明されている。

◇ユネスコ憲章の精神に反する

 もともと「南京事件」はなかったのであるから証拠資料というものは存在しない。したがって登録申請された資料はいずれもまがまがしいものであり、それをユネスコが受理、登録するということは、それ自体いかにいかがわしいかよくわかるというものであるが、このような受理、登録は、ユネスコの本来の目的、理念に反するということも重要である。
 ユネスコ憲章の前文には、有名な「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とある。このような歴史的に根拠のない資料を中国の一方的要求に基づいて登録を認めるとは、明らかにこのユネスコ憲章の精神に反している。
 それだけではない。中国政府は申請資料の一部しか公開していないのだ。これでは、資料に真実性があるかどうか、客観的検証ができない。明らかに不当な申請のやり方である。つまり、公正な手続きを取っていないのだ
 ユネスコの理念にも反し、しかも手続き的にも公正さの欠けるままに登録決定がなされたのである
 そこで外務省は十月十日未明、報道官談話として「中国の一方的な主張に基づき申請されたものであり、文書は完全性や真実性に問題のあることは明らかである」と指摘し、「日本政府が随時申し入れを行なってきたにもかかわらず、記憶遺産として登録されたことは、中立・公平であるべき国際機関として問題であり、きわめて遺憾である」と批判した。
 当然である。よく批判した。と、言いたいところであるが、じつはとんでもない問題なのだ。
 ユネスコの理念にも反し、手続き的にも公正さを欠き、そしてありもしないことが十分に実証されている「南京事件」について、誰でも信憑性に問題のあることが容易にわかるまがいものの資料が世界の記憶遺産として登録されるのを阻止できなかった日本の外務省は何なのかという問題である
 中国政府によるこの資料の登録申請は昨年(2014年)の三月である。そのときに外務省はなぜ騒がなかったのか。上記談話の内容はまさにこの時点で出すべき談話であり、なぜ日本国民の怒りを基盤にして、ユネスコや中国政府に抗議の嵐を起こさなかったのか。なぜ、このとき何も騒がず静かにしていたのか。このような不当な申請を目の当たりにして怒りを感じなかったのか
 この、ユネスコで「南京大虐殺」の資料が記憶遺産として登録されたことは、いかに日本の外務省に問題があるかということなのだ。

◇日本外務省の失態

 別件の深刻な問題を見てみよう。今回、中国は、中国の「慰安婦」に関する資料も記憶遺産に登録を申請していた。このほうは登録を却下されたのであるが、目下、世界には、韓国の慰安婦像が建てられ続けている。これはいわずと知れたことであるが、昭和五十七(1982)年、『朝日新聞』に、吉田清治という詐話師がありもしない朝鮮人慰安婦の強制連行の作り話を載せた。これに端を発し、平成五(1993)年にほ事実上「強制連行」を認めたいわゆる「河野談話」なる官房長官談話が出た。そして、今日のように世界を巡って慰安婦像は立てられるようになった。しかし吉田清治の話が偽りであることは、それ以前にも早くから知られていた。
 少なくとも前年の平成四(一九九二)年『正論』で秦郁彦氏が自らの調査で吉田清治の話は作り話であることを完膚なきまでに明らかにしていた。つまりは「従軍慰安婦」の「強制連行」につき、正しい真実が見つかり次第、外務省が日本の名誉の問題として正しい事実に関する情報を世界に発信していたら、「河野談話」を発すること自体が必要ではなくなっていたはずである。
 それだけではない。平成八(一九九六)年、国連人権委員会で慰安婦を「性奴隷」とするいわゆるクマラスワ報告が出されたとき、外務省は反論書を用意しながらも、「反論するとかえって議論を起こしかねない」として、提出した反論書を撤回してしまった。これだけ日本の名誉が傷つけられる報告が国連の機関で正規に行なわれているとき、何ゆえに反論を差し控えなければならないのか、まったく理解できない
 外務省の職員は愛国心を失っているのである。国益とは何かという判断能力を失っているのである。

◇教育に関する国家主権の放棄

 私は、この十月二十四日まで、中学校の歴史・公民教科書をつくる「新しい歴史教科書をつくる会」の会長を務めていた。「つくる会」とは歴史・公民教科書があまりにも自虐的なので、日本を取り戻すため正常な歴史・公民教科書をつくり、中学生に手渡したいという運動団体である。
 そのような運動団体の会長をしている立場から見て外務省はいかに問題があるか。昭和五十七年、文部省(当時)の教科書検定で、「侵略」を「進出」に書き換えさせたという誤報事件があった。これは文部省の手で間もなく誤報であるということがわかるのであるが、中国、韓国が真実の報道だと思い込んで抗議をしてきた。
 このとき外務省は、誤報であるということを知りながら、「政府の責任において是正する」と、いわゆる「宮沢談話」なる官房長官談話を出させた。そしてその結果、文部省の検定規則にいわゆる近隣諸国条項なるものが付加され、教科書に自虐的な記述があっても中国や韓国に遠慮して検定意見を付すことができなくなり、一時はすべての歴史教科書に日本の「侵略」という記述が載るようになった。これは外務省による、教育に関する国家主権の放棄ではないか。
 こんなことをして外務省はその後、失敗の意味がわかり、青くなっているのかと想像していたら、昭和六十一(一九八六)年、保守の立場からの正常な高校教科書『新編日本史』の検定に関して、文部省がいったん合格させたものに中国政府の意向を踏まえて具体的に訂正文を示しながら介入してきたのである。
 さらには、「つくる会」が直接受けた事件がある。「つくる会」は平成八年、中学校のすべての歴史教科書に「従軍慰安婦」の「強制連行」が載ったのに激昂した国民が平成九年に結成したのである。その「つくる会」が検定に出していた歴史教科書を平成十二年、外務省は検定途次で不合格にしようと画策したのである。これは特定の人物が窓意的にしたのではない。外務省の内部で公式にそのような画策が行なわれたのである。

◇歴史教科書が「南京事件」をあったとする理由。

 「つくる会」は今年四月、中学校の歴史教科書の検定合格を得た。その教科書では、近時初めて、「南京事件」は存在しなかったとして「南京事件」を書かなかった。今春、検定合格した中学校歴史教科書は他に七社あるのであるが、他社のものはすべて「南京事件」はあったとして「南京事件」について記述している。だから嘘を書いているのであるが、これが検定に合格するのは、外務省がそのホームページに「南京事件」はあったと書いているからである。
 外務省のホームページでは、南京事について、「日本政府としては、日本軍の南京城入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等がありたことは否定できないと考えているが、被害者の具体的人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難である」と記述している。これは平成十八(二〇〇六)年、現在名古屋市長を務めている河村たかし氏が衆議院議員のとき政府に質問し、そのときの政府答弁と軌を一にするものである。しかし「南京事件」については平成十二(二〇〇〇)年に前記の「日本『南京』学会」が発足し、その後の八年間の研究で「南京事件」は存在しなかったことが完全証明されるに至った。
 このような流れで、平成二十(二〇〇八)年には民間有志(加瀬英明代表)が中国の胡錦溝国家主席に公開質問をして「南京事件」はなかったと主張した。そのなかには毛沢東が「日本は南京を落としながら人の殺し方が少なく戦争の仕方が下手だ」という趣旨のことを著書に書いていることも示した。もちろん中国政府は答えることはできず、回答はしてこなかった
 さらには平成二十四(二〇一二)年、名古屋市長になっていた河村氏は、姉妹都市の南京市の親善訪問団に「南京戦はあったけれども南京事件はなかった」と発言して、外交問題にもなった。が結局、河村氏はこの発言を撤回せず、そのままでよいことになった
 だから、「南京事件」は存在しなかったことは政治レベルでも明々白々となっているのであって、それにもかかわらず、「南京事件」はあったと読める記述をホームぺージに載せているのはそれ自体、愛国心に悖る、国益とは何かを考えない外務省の明らかな怠慢である。
 「南京大虐殺」とは軍の組織的計画的な大量の不法殺害を指していなければならず、そのようなことは南京戦においてはなかったことがはっきりしているのであるから、そのことをはっきりさせるべきである。

◇公立中学校で嘘が教えられることに

 ところで前記のように、われわれ「つくる会」の歴史教科書は「南京事件」を書かなかったが、他の全教科書はすべて「南京事件」はあったとして「南京事件」について記述している、という問題がある。しかるにその正しい歴史教科書が全国のすべての教育委員会によって歯牙にもかけられず、公立学校では一校も採択されなかった。ということは、来年四月からすべての公立中学校では「南京事件」はあったとして嘘を教えられることになる。これは由々しき問題である。これを発行する自由社という出版社は、教科書会社としては倒産する以外にはない客観状況に陥っている。
 われわれのこの教科書がいかに意義をもっているか。もしこの教科書も「南京事件」はあったとして書いていたら、日本の中学校の歴史教科書ではすべてが「南京事件」はあったとしていることになる。そういう状態で、中国の「南京事件」資料の登鐘への抗議はどうしてできるのか。外務省のホームページにはあったとして書いてあり、中学校のすべての歴史教科書に「南京事件」はあったとして書いてあれば、どうやって、抗議できるというのか。ともあれ、日本国民に訴えたい。この教科書を発行している自由社が倒産しないように「つくる会」を支援していただきたいのだ。

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