ルーズベルトの罪状:日米戦争を起こしたのは誰か
『日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず』『日本は誰と戦ったのか コミンテルンの秘密工作を追求するアメリカ』から、抜粋しました。是非、本書を一読され、日米共に共産主義者に操られていた被害者だと云うことを理解し、私たち日本人は自虐史観、精神的な鎖国から自からを解放して、日米の[希望の同盟]を基軸として、日本及び世界の安全と法治(自由と人権を守る)のために、一歩を踏み出していきたいと思いました。尚、アンダーラインは登録者による。尚、米国側から見たスターリンの陰謀については『
アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』、日本から見たスターリンの陰謀については『
大東亜戦争と共産主義』、中国から見た毛沢東とスターリンの陰謀については『
マオ 毛沢東の素顔(上)』『
マオ 毛沢東の素顔(下)』を参照下さい。また、現代の戦いについては、『
国際主義者と共産主義者とは同根』参照。
『日本は誰と戦ったのか』あとがきより
本書を読んで「やはりルーズベルト大統領とスターリンが悪かったんだ。日本は悪くなかったんだ」というような誤読はしないでいただきたいということです。国際政治の世界では、騙された方が悪いのです。そして先の大戦で日本はインテリジェンスの戦いで「敗北」したのです。自戒を込めて申し上げるのですが、その痛苦な反省に基づいて必死に学ぼうとすることが、日本にインテリジェンスの戦いの勝利をもたらすことになるのです。(※残念なことに、日本にはインテリジェンスが存在しておらず、米英他のインテリジェンスと対等に渡り合える実力が無いのです。)
本書は、第三二代アメリカ合衆国大統領(1929-1933)であるハーバート・フーバーの大著『裏切られた自由』のエッセンスを日本の読者に伝えようとするものである(※三三代大統領がフランクリン・ルーズベルト)。『裏切られた自由』は日本語に訳されておらず、また九〇〇項を越える大著である。一般の日本人には近づきにくい。
しかし本書は、日本人の歴史観に大きな衝撃を与えるものであり、第二次大戦について論ずる全ての人の必読の書である。そこで、この様な形式の本で、フーバーの大著のエッセンスを紹介しょうとするものである。
- 日米戦争は、時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが、日本に向けて仕掛けたものであり、日本の侵略が原因ではない。日米戦争は、日本と米国の保守派(例えば、陸海軍のトップ … )が必死で阻止しようとしていたのだが、この努力を踏みにじり、日米戦争へと追い込むうえで、日米両国に入り込んだソ連の工作員が大きな役割を果たしていた。(※共産主義者ルーズベルトは、米ソによる世界支配を企てた。結果、日英米を分断し、大英帝国を潰し、超大国日本を潰し、米ソを二大超大国とした。この計略をスターリンを利用し、中国を共産化したのみならず、ゾルゲ等を通じて朝日と政界を支配しつつ超大国日本に敗戦革命を起こし、米国を共産主義で浸食しようと企んでいた。)
- 一九四一(昭和一六)年の日米交渉では、ルーズベルトは日本側の妥協を受け入れる意図は、初めから全くなかった。日本側の誠実な和平への努力は実らなかった。
- アメリカは一九四五(昭和二〇)年に、原爆を投下せずに日本を降伏させることが出来た。原爆投下の罪は、重くアメリカ国民の上にのしかかっている。(※結局、ルーズベルトは、日本帝国のみならず、自国民である米国民をも欺き続けた。日本が自虐史観に、米国人が英雄史観に、英国人が日本同様自虐史観にとらわれ、中韓は弱者利権で潤い、ソ連は世界の半分を手に入れた。)
フーバーはこの大著で、次のような主張をきわめて実証的に展開している。何と驚くべき、歴史の真相ではないだろうか。彼は東京裁判史観を真っ向から否定しているのである。フーバーとマッカーサーの対談は、フーバーが食糧問題で日本に来て、昭和21年5月4〜6日に行われた。その時、マッカーサーは食料を至急援助してくれと頼んでいる。尚、ポツダム宣言の二週間後、昭和20年8月15日、マッカーサーが厚木基地に来日した。昭和20年9月27日、昭和天皇とマッカーサーの初会談が行われている。
(1941年7月の経済制裁は)日本に対する宣戦布告なき戦争であった。
アメリカを戦争へ誘導していったのは他ならぬルーズベルト(大統領)その人であった。それは、これまで明らかにされた冷静な歴史の光に照らしながら、1938年から1941年の期間を客観的に観察すれば、自ずと明らかである。
「日本との戦争の全ては、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であった」と私(フーパー)がいうとマッカーサーは同意した。私(フーバー)は更に続けて次のように言った。「1941年7月の(日本への)経済制裁は、単に挑発的であったばかりではない。それは、例え自殺行為であると分っていても、日本に戦争を余儀なくさせるものであった。なぜなら、この経済制裁は、殺人と破壊を除く、あらゆる戦争の悲惨さを(日本に)強制するものであり、誇りのある国ならとても忍耐できるものではないからだ」。この私の発言にもマッカーサーは同意した。
◇ ルーズベルト外交が米国を「孤独な世界の警察官」にした
ルーズベルト外交によって、ソビエト共産主義の東西への拡散を防いでいた二つの強国、日本とドイツは崩壊した。その結果が、堰を切ったような共産主義の拡散だった。それを抑え込む軍事力を持つ国はアメリカしか残っていなかった。共産主義者との戦いはアメリカ一国で進めざるを得ず、再びアメリカの若者に死を覚悟させなくてはならなくなった。アメリカは「孤独な世界の警察官」となってしまった。
そうしたなかで、第二次世界大戦の若者の犠牲は“犬死”(※ベトナム戦争と同じく、共産主義の拡散をせき止める聖戦でした!)だった、ルーズベルトがあの大戦に干渉しなければ世界はより平和だったはずだ、という歴史観はアメリカの為政者にとってタブーとなった。正しいとか間違っているとかの問題を超えて、議論さえも封じる空気が出来上がった。それほどに戦後アメリカは追い込まれたのである。
アメリカの指導者は御用学者(釈明史観主義者)を使って、ルーズベルト外交批判を徹底的に抑え込んだ。「日本とドイツは問答無用の悪の国」であり、「世界制覇を目論む危険な国だった」、「アメリカが叩き潰さなければ、世界は全体主義に覆われ自由を失っていた」とする歴史書で学校数育や言論界を埋め尽くさせた。それに異議を唱える学者や評論家には「歴史修正主義者」のレッテルを貼り、彼らの評判を放めた。(※GHQが日本全体を洗脳した内容の裏返し。)
◇ フーバーとヒトラーの会談 … 1938年
ヒトラーがフーバーを招待したのは、第一次世界大戦時の食糧支援に対する感謝の意を伝えたかったからだった。この会見でフーバーは、ヒトラーを狂信者であり、お飾りだけの愚か者だとする欧米の報道が間違っていることを確信した。だった。ドイツ国民は、第一次世界大戦の敗北の原因が、ソビエトの工作活動に沿ったドイツ国内の共産主義者たちの行動(ドイツ革命)にあったと信じていた。ヒトラーはソビエトロシアを文字どおり毛嫌いしていた。
この頃のフーバーのヒトラー理解は、先に書いたイギリス保守派の考え(※ドイツの経済を復興させ、失望の中にいたドイツ人に希望をもたらした英雄。この頃はまだユダヤ人を虐殺していない。)と同じであった。
「私は彼の演説、行動、あるいは書いたものを通じて、ヒトラーには三つの固い信念があることに気づいていた。第一はベルサイユ条約でばらばらになったドイツを再統一すること、第二は資源確保のためにロシアあるいはバルカン半島方面に領土を拡張すること、第三はロシアの共産主義者を根絶やしにすることである。第二の狙いは「生存圏」の概念として知られている。
三つの目標はヒトラーのエゴイズムの集大成とも言える。彼の考えはドイツ国民にも支持されていた。ドイツ国民は第一次大戦の敗北がもたらした屈辱を晴らしたかった。国をばらばらにされ、非武装化された。降伏後も港湾封鎖は解かれず、その結果多くの国民が餓死した。」
この会談の三週間後に、英国首相チェンバレンと会談して、ヒットラーに対する見解の一致をみた。結果、ヒットラーは祖国の統一を目指し、必ず東に向かうと読んでいた。そして、行き着く先はスターリンとの壮絶な戦いであると予想している。
フーバーのルーズベルト批判の要点は以下の通り。
ルーズベルトは、参戦はしないという言葉とは裏腹に、現実には参戦に向けた外交に邁進していた。そのことに気づいたフーバーは、不干渉こそがアメリカの取るべき立場だと国民に繰り返し訴えた。それがよく理解できるのが以下のスピーチである。ナチスドイツのポーランド侵攻の日(一九三九年九月一日)の夜に、国民に訴えたラジオ放送の言葉だが、フーバーの思想の核心を示している。
「(ナチス体制を嫌うアメリカ国民は、民主主義国に同情するだろうが)アメリカはヨーロッパの問題を解決できないことを肝に銘ずるべきだ。我が国ができることは、あくまで局外にいて、アメリカの活力と軍事力を温存することである。その力を、必ずや訪れるはずの和平の時期に使うべきである。それこそが我が国の世界への貢献のあり方である」
理想主義に燃えたウッドロー・ウィルソンは第一次世界大戦に参戦した。しかしヨーロッパの宗教問題も民族間題も何一つ解決されなかった。その苦い経験を踏まえたうえでの言葉だった。アメリカ国民はフーバーのこの言葉を理解していた。フーバーと同じようにアメリカのヨーロッパ問題不介入を訴えるアメリカ第一主義委員会の主張も国民の耳に届いていた。アメリカ国民の八〇パーセント以上が、ヨーロッパ問題不干渉の立場を取り続けた。
日本の真珠湾攻撃さえなければアメリカは参戦できなかった。参戦を目論むルーズベルトの作戦が見事なほどにはまった事件が真珠湾攻撃であった。経済制裁で壁際に追い詰められた日本の止むにやまれぬ反撃だったとはいえ、戦略的には愚かな戦いだった。真珠湾攻撃さえなければ、アメリカ国民が願っていたように、アメリカは国力を温存したままでヨ一号パや中国の戦いを終わらせるために、真の意味での仲介役の機能を果たす可能性が残っていた。
ハルノートや日米交渉の経緯について、米国国民には知らされていなかった。しかも、ヤルタ密約の存在とその内容が明らかになったのは終戦の翌年のことです。
第二次世界大戦で、アメリカは軍事的には勝ちました。ヨーロッパではナチス・ドイツを降伏させ、アジアでは大日本帝国を倒しました。しかし、ヨーロッパの半分はソ連の勢力圏になり、アジアでは共産主義の嵐が吹き荒れて、平和を取り戻すどころか朝鮮戦争とベトナム戦争でさんざん苦戦させられる羽目になっていたのです。
朝鮮戦争もベトナム戦争も、第二次世界大戦の結果、満洲・中国・北朝鮮がそっくりソ連のスターリンの手に落ちたからこそ起きた戦争です。(ソ連を東西で抑えていた日独の勢力が消えるということだからこそ、アメリカの「ストロング・ジャパン派」は、日本との戦争に反対していたのです。)
前述したように、アメリカのアジア政策は、強い日本がアジアを安定させるとする「ストロングジャパン派」と、日本を抑え込み、弱らせることでアジアが平和になるとする「ウィークジャパン派」が対立していました。ルーズベルトは「日本を押さえつけて弱くすればアジアは平和になる」ウィークジャパン政策を押し進めました。徹底した対日強硬策で日本に圧力を加え、ついには戦争で降伏させました。この政策が正しかったのならアジアは平和になったはずですが、実際にはアジアでは共産主義の圧政が広がり、戦争も続発したのですから、「ルーズベルトの外交政策は誤っていた」と批判されるのは当然でしょう。
第四に、ルーズベルトトが作り出したニューディール連合という政治勢力による、言論の自由や学問の自由の圧殺と歴史の捻じ曲げです。
ルーズベルトの長期政権の問に、リベラル派官僚が強大な権限を持つようになり、労働組合員の数が急増しました。これらの勢力とリベラル派のマスコミが結びついた巨大な政治勢力を「ニューディール連合」と言います。
このニューディール連合が、ルーズベルト政権以来、戦後に至るまで、アメリカの政治・アカデミズム・マスメディアを牛耳っていて、ルーズベルトへの批判をタブー視してきたの 日本の大学やメディアが左傾化しているとよく言われますが、アメリカの学界とメディアの左傾化は日本より激しいと言えます。また、テレビも同様の偏向ぶりで、たとえばCNNは保守派からは「コミュニスト・ニュース・ネットワーク(共産主義者のニュース・ネットワーク)」と揶揄れています。
ところが、一九九五年、アメリカ政府が公開したヴェノナ文書によって、ルーズベルト政権内部にソ連のスパイたちがいたことが「事実」であると判明しました。
ヴエノナ文書とは、第二次世界大戦前後に、アメリカ国内のソ連の工作員たちがモスクワとやり取りした通信を、アメリカ陸軍情報部がイギリス情報部と連携し、秘密裏に傍受して解読した記録です。 アメリカのサヨク・マスコミから全否定されていた、チェンバーズやベントレーの証言は大筋で事実だったことが立証されただけでなく、ソ連の工作がそれまでに考えられていたよりはるかに計画的・体系的で強力なものであったことが明らかになったのです。マッカーシー上院議員の告発も、内容自体はほぼ正しかったことが現在では判明しています。その結果、アメリカでは、一九九一年のソ連崩壊後、エリツィン大統領がソ連時代のコミンテルン・KGB文書の一部(リソツキドニー文書と呼ばれる)を西側研究者に公開したこともあいまって、ルーズヴエルト政権やその後継のトルーマン政権の実態解明が進み、当時に関する歴史観の見直しも急速に進んでいます。
この太平洋問題調査会は戦前、ルーズヴュルト政権と連携して日本の中国「侵略」宣伝を繰り広げたシンクタンクとして有名ですが、その研究員の多くがソ連と中国共産党のスパイであったことがヴュノナ文書によって明らかになっています。
「ルーズベルト大統領が国際的な政治家としての資格を失墜した最初の重要な事例である世界経済会議は、英国のマクドナルド総理大臣と当時の大統領の私が準備した会議で、一九三三年一月に開催を予定していたが、ルーズベルトが破壊した。ルーズベルトが選挙に勝って、六月に開催を延期した。その時丁度世界は、不況から経済の回復基調にあったが、一方で通貨戦争があり、貿易障壁を増加させる戦争があった。準備作業が専門家の手によって進められ、ワシントンに一〇人の総理大臣が集まって、国際決済に金標準を用いることに合意した。それにもかかわらず、会議の最中にルーズベルトは翻意して、金本位制の導入にひびを入れたために、会議は不調となり、達成する結論がなく死んでしまった。ルーズベルトの国務長官であったハルは、この会議の失敗が第二次世界大戦の根っこにあるとして、ルーズベルトのとった行動をハッキリと非難している」[抄訳]
ルーズベルトの第二の失策が、共産ロシアを一九三三年十一月に承認したことである。四人の大統領と、五人の国務長官にわたって、共和党か民主党かを問わずに、そのような承認行為を、(国際共産主義運動の目的と手法の全体を知った上で)ずっと拒否してきた。
共産主義者は、宗教の信仰、人間の自由と民族や国家の独立をぷちこわすようなばい菌を運び、アメリカに浸透してくる(※米国は日本と同じように、米国の国体を守ろうとしていた。)ことを、彼ら(四人の大統領と五人の国務長官)は知っていたからである。彼らは、米国が共産ロシアを承認すれば、ソ連の威信と国力が高まることを知っていた。ルーズベルトが(スターリンと)結んだ愚かな合意、つまり共産主義者は、米国の国境の内側では活動しないという約束は、四八時間後には公然と反故にされた。
共産主義の機関車と、それに乗った共産主義の乗客が、政府の高いレベルに入り込み、第五列の活動が全国にひろがり、フランクリン・ルーズベルトが大統領であった十二年間に亘って、国家反逆者の行為が長く続く事になった。[抄訳]
- ◇ あるべきだったアメリカの大戦略
- アメリカの愛国者=保守派の立場からして、いかなる大戦略こそ理想的であったのか。ナチス・ドイツと共産主義ソ連という二つの全体主義国家の共倒れを狙い、イギリスに対しては武器援助はしても、あくまでヨーロッパの大戦に介入すべきではなかった、というのがウェデマイヤーの主張である。そしてそれこそ初代大統領ワシントン以来のアメリカの正統的戦略思想の応用でもあった。
アメリカはモンロー主義を守り、独・伊がアメリカ大陸を侵略してこない限り、局外中立を保つべきであった。一九四一年六月二二日、ヒトラーは大きな戦略的錯誤を犯し、ソ連へ侵攻した。ドイツはやってはならない二正面作戦を開始した。これだけでも、米英両国には有利な状況が出現したのである。ドイツがイギリスを完全に屈服させることは難しくなった。
1941年6月22日、独ソ両国が不可侵関係を破棄し戦争を開始してから、独ソが互いに死闘を繰り返している間は、∃−ロッパ諸国は事情の許す限りこれを静観すべきである、と私はたびたび意見を発表していた。こうして、独ソが共倒れになるまで待っていると、やがてイギリスとおそらくはアメリカも、その時乗り出していって、ヨーロッパの勢力の均衡を確立するという歴史的役割りを果たすことができたであろう。そして∃−ロッパを共産主義者やファシストが支配するのを防止することも可能であったはずである。
ウェデマイヤーは、ドイツの生活圏獲得政策を同情の目をもって見つめていた。ナチズムはその初期から、ソ連共産主義と対決し、生活圏を東方へ拡大することにドイツの使命を見出していた。米英はドイツの本来の敵ではなかった。
さらにドイツの生活圏獲得政策は、モスクワを中心とする世界的規模の共産主義の陰謀ほどには西側社会に脅威を与えるものではなかった、と私は確信している。ドイツの東方進出は(生活圏)を求めるため、すなわち、原料の供給源と市場を求めるための国民運動であった。(中略)
しかし、アメリカ・インディアン、スペイン人、メキシコ人たちからアメリカ大陸の半分近くも強奪した北米移住者の子孫であるアメリカ人や、あるいは(太陽の没することなき帝国)を築いたイギリス人には、ドイツ人の民族目標である当方進出は、避難すべき物に思えたのかもしれない。
- ◇ スターリン、ルーズベルト大統領に乾杯!
- フーバーは、ソビエトが対米赤化工作を止めることなど全く考えていなかったことを論証している。当時のソ連外相・リトヴィノフは、自身のなした米国との約束に反発したアメリカ共産党幹部に対して、「心配無用だ。あんな調印文書は紙切れ同然だ。ソビエトとアメリカの外交関係の現実の中ですぐに忘れられる(※米国の内政に干渉しない、赤化工作しない等々)」(同前)と語っていたのである。
アメリカと国交を結ぶことに成功したスターリンの喜びようは尋常ではなかった。初代駐ソ大使ウィリアム・ブリットがモスクワに現われると、スターリンは次のように言って歓迎した(一九三三年十二月)。
「ルーズベルト大統領に乾杯−・フィッシュ (ハミルトン・フィッシュ)などのうるさい連中の声を黙らせ、ソビエト連邦を承認してくれた大統領に乾杯!」
アメリカがソビエトを承認したことで、各国がそれに追随した。アメリカ国内にもソビエト政府の公的機関や民間組織が次々に設立された。それがアメリカ国内でのスパイ活動の温床となった。
フーバーが『裏切られた自由』の冒頭の部分でルーズベルトの「ソビエト承認事件」を取り上げたのは、アメリカがこの事件をきっかけに大きく左傾化していったからである。アメリカの左傾化は、ソビエトが国家承認をきっかけにダミーの工作機関を多数設立したことが要因ではあるが、アメリカ国内の知識人の多くが、それ以前に共産主義思想にかぶれていた事実もフーバーは見逃していない。
だから、ルーズベルトは日独伊を痛烈に批判し続けるが、共産主義革命を他国にへ伝搬させているソ連については、まったく批判していない。
- ◇スターリン、三方面の秘密工作
- このレーニンの世界戦略を受け継いで具体的に秘密工作を仕掛けたのが、スターリンでした。エヴァンズ(米国の下ソ連エージェント)らは、スターリンが日米を開戦に追い込むために、複数の情報機関を使って日本、アメリカ、中国(蒋介石政権)の三方面で同時並行的に三つの大掛かりな工作を行ったと指摘しています。
- 【対日工作】ゾルゲ機関による政治工作。
赤軍情報部の工作員リヒヤルト・ゾルゲが指揮する組織が、軍略上の日本の国策を「対ソ警戒の北進論」ではなく、「英米と対立する南進論」に誘導した。
スターリンが送り込んだドイツ人のリヒヤルト・ゾルゲが、近衛内閣に大きな影響力を持つ朝日新聞記者の尾崎秀実(革命家としての尾崎秀実)を使い、日本の国策を南進論に誘導した。その結果、スターリンは独ソ戦のモスクワ防衛のために極東ソ連軍の師団を振り向けることができ、これが独ソ戦の勝利につながった。※また、官邸及び文壇をもソ連の支持寄りに誘導した。
- 【対米工作】情報機関NKVD(内務人民委員部の略称。KGBの前身)による「雪」作戦。
NKVDの幹部ヴィタリー・パブロフの指示により、アメリカの財務次官補ハリー・デクスター・ホワイトが日米の和解を徹底的に妨害した。
アメリカ国内では、NKVDのアメリカ担当部門のリーダー、ヴイタリー.パブロフの指示によって、アメリカ財務省のハリー・デクスター・ホワイトが日米戦争を回避する目的でハル国務長官の手で作成された日米暫定協定を潰し、代って強硬なハル・ノートを日本政府に突きつけることで、日本を対米開戦へと追い込んだ。
- 【対中・対米工作】
ソ連の工作員ラフリン・カリ一により蒋介石の顧問として送り込まれたオーウエン・ラティモアが日米交渉を妨害した。
ホワイトハウスに潜入していたソ連工作員のラフリン・カリー大統領補佐官が、重慶国民党政府に蒋介石の顧問としてオーウエン・ラティモアを送った。ラティモアは日米和平交渉が成立する寸前、蒋介石のメッセージとして暫定協定案絶対反対の公電を送った。この公電を読んだハル国務長官は暫定協定構想を放棄し、代ってソ連の工作員であったハリー・デクスター・ホワイトがソ連の指示通りに書いた文案に従ってハル・ノートを作成し、日本に手交した。ハル・ノートによって日本は対米交渉に望みを失い、対米戦争に踏み切った。
エヴァンズらによると、これらの工作には二つの特徴があります。
ひとつは国際的な連携です日米を開戦に追い込むために、日米中の各拠点でのスターリンの秘密工作が協調して動いていました。これまでの冷戦史研究では、ソ連の秘密工作の国際的な側面が軽視されてきたために、敵対的な外国勢力が国内に与える影響力の認識が甘かったのです(ちなみに日本では今なお、マスコミや言論人に対する外国勢力の影響力工作について関心が低いと言わざるを得ません)。
もう一つの特徴は、これらの工作が機密を盗むむスパイ活動ではなく、日米両国政府の政策を、ソ連に有利になるように影響力を行使する政治工作であったということです。政治工作は、政府、議会に加え、世論に大きな影響力を持つマスメディアなどに工作員を浸透させることによって行なわれます。しかも摘発しにくいのです。たとえば、兵器開発についての機密が盗まれるのと、政府が自国の防衛を骨抜きにする政策を進めるよう誘導されるのとではどちらが恐ろしいか、比べるまでもありません。
ヒトラーとスターリンという二つのモンスターが戦ってつぶし合いになることが不可避の状況にあったのに、政治家道を失った者は、そのつぶし合いを止めることに努力したのである。[抄訳]
- ◇ミュンヘン融和
- チェコスロバキアのズデーデン地方を割譲を要求するナチスドイツに対し、一九三八年九月、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ各首脳がミュンヘンで会談、ドイツの要求を受け入れた。この融和政策のことを指す。それ以降、ナチスドイツに対してイギリスなどは融和的な外交政策を取った。融和政策がナチスドイツの領土拡大・第二次大戦の引き金となったという歴史観がある一方で、それを批判する見方もある。
第四の計り知れぬ程に愚かな失敗は、イギリスとフランスとが、ポーランドとルーマニアの独立を一九三九年の三月末に保証したことである。その時点で、これまで、ヒトラーとスターリンとが戦うことが避けられない状況で在って、その際ヨーロッパの民主国家は介入しない方針をとっていたのであるが、その方針が変わったのである。
これは、ヨーロッパ外交史のなかでも、力関係の外交を見た場合に、歴史上最大の失策であった可能性が高い。イギリスもフランスも、ポーランドを侵略行為から救い出す力がなかったのにもかかわらず、この保証によって、ヒトラーとスターリンの間に、民主国家の存在を投げ出すことになった。
これはスターリンをヒトラーから守ることになったばかりか、スターリンは自らの影響力を、一番高く買った者に売ることができるようになったのである。
スターリンは、バルト海諸国と東ポーランドを併合した。スターリンは、ヒトラーから獲物をうばったのである。ヒトラーは、南東∃−ロッパに拡張して、モスクワの共産党の本山を破壊することを放棄したわけではなかったので、まず、前進するためには、西側の民主国家の中立化をなしとげる必要があった。第二次世界大戦という長い恐怖の列車がこの、ポーランドの(独立)保証という過ちから、発車することになった。ルーズベルトが係わったことは確かであるが、どの程度の関与であったかを確定するには、資料が不完全である。チャーチルは、政権をとっていなかったが、ミュンヘンでヒトラーと妥協した後のチェンバレンがめちゃくちゃな行動に出るように駆り立てていた。
第五の誤りは、
四一年の冬にルーズベルト大統領が、米国がドイツと日本に対して、宣戦をしないで戦争を始めた事である。これは、数週間前の大統領選の公約に全面的に違反するものであった。[抄訳](「一九四一年の冬」は、「一九四〇年の冬」の間違いであろう。というのも「数週間前の大統領選挙の公約Lをしたのは一九四〇年の秋十一月の大統領選挙の時だったからである。「大統領選から数週間後」といえば一九四〇年の冬である。一九四一年の冬(一ニ月)には日米戦が開始され、アメリカは宣戦布告をしている)
※当時の日本は、原油と鉄のほとんどを米国からの輸入に頼り、輸出の50%が米国向けだった。パリ不戦条約批准の時、ケロッグ米国務長官は「経済封鎖は戦争行為である」と議会で述べている。にもかかわらず、1941年7月には、日本の在米資産の凍結、石油と屑鉄の禁輸を行った。1940年には通商条約を破棄した。これは、武器を使わない、立派な宣戦布告である。
ルーズベルト大統領は、ヒトラーがロシアを攻撃することを知っていて、ロシアに情報を提供もしていた。ドイツに対する宣戦布告無き戦争を回避するべきであった。貸与法に関しても、イギリスに対しては金融支援のみに限り、その資金でイギリスが独自に、軍需品、糧食や船舶を購入できるようにすべきだった。これならば国際法の許す範囲内であった。政治の大道からすれば、あの緊急事態の中で、注意深くじっくり待つ政策ををとることが要であった。[抄訳]
第八番目の、ルーズベルトが犯した巨大な誤りは、一九四一年七月、つまり、
スターリンとの隠然たる同盟関係となったその一ケ月後に、
日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。その
経済制裁は、弾こそ撃ってなかったが本質的には戦争であった。ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三に亘って、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていた。[抄訳]
ルーズベルトが近衛総理大臣の和平の提案を受け入れ拒否したこと。この和平の提案が受け入れられることを、日本に駐在するアメリカの大使もイギリスの大使も積極的に働きかけたし、又祈る様な気持で見守っていた。近衛が提案した条件は、満州の返還を除く全てのアメリカの目的を達成するものであった(※日本は最後の最後まで、戦争を避け、和平を望んでいた。)。しかも、満州の返還ですら、議論する余地を残していた。皮肉に考える人は、ルーズベルトは、この満州問題をきっかけにして自分の側でもっと大きな戦争を引き起こしたいと思い、しかも満州を共産ロシアに与えようとしたのではないかと考えることになるだろう。[抄訳]
- ◇ハ−バート・ノーマン
- 長野県軽井沢町生まれ。カナダの外交官、GHQ幹部。第二次大戦後、冷戦下の赤狩りで共産主義者・ソ連のスパイという疑いをかけられ、駐エジプト大便として赴任していたカイロで飛び降り自殺を遂げた。※旧ソ連の工作員だった。日本国憲法を作らせた本人。
ウェデマイヤーからすれば、ルーズベルトは彼のイギリス好き、ソ連への好意、ドイツ嫌い、日本嫌いのゆえに、客観的なアメリカの国益を全く見失ってしまったのである。アメリカ国民は一九四〇年代の大統領選挙でルーズベルトの三選を支持したが、それはルーズベルトがすでにヨーロッパで始まっていた戦争にアメリカを介入させないと国民に公約していたからである。アメリカ国民は単に孤立主義的であった訳ではない。彼らはワシントンの遺訓に忠実であり、また国益についても冷静に考えていた。
アメリカ国民がワシントンの遺訓を守ろうとしていたことは明らかであった。それはアメリカ国民が、ルーズベルトの選挙公約を支持していたこと、アメリカ軍の∃ーロッパ派遣によって生ずる悲惨な結果を警告していたチャールズ・リンドバーグ大佐などの意見を支持していたこと、この二点から考えても明瞭であった。
一九四一年の日本国が、米国民の中におけるこの賢明な中立主義を十分に理解せず、また利用もできなかったことは誠に千載に侮を残す結果となった。日本側に知恵があれば、日米戦争の回避は十分に可能であったのだ。(※つまり、外務省が米国の事情を日本に伝え、日本政府は米国民一人一人に戦争回避の趣旨を訴えれば良かったのだ。今も昔も、外務省は役立たずだ!!駐米日本大使館が、パール・ハーバー攻撃を、きちんと米国に伝達していれば、つまり飲み会を優先せずに本国からの宣戦布告を通達していれば、「リメンバーパールハーバー」として、米国民からこれほど憎まれることも無かった!!)
おそらく今日の世界で、一九四一年の日本人の立場にいるのが、イスラム教徒である。彼らはアメリカの表に出た外交政策のみを見て、平均的アメリカ人がテロに反対しても、イスラム教国と十字軍的戦争など望んでいないことを知らない。
- ■宣戦布告の遅延
- 検察官は我国の開戦意思の通告に欠くるところがあるがため犯罪を構成するといふ意見を立てゝ居ります。
重要なる通告交付の時間を指定した電報が大使館に到着して居ります。その時間は同日午後一時であります。そこで野村大使は右交付のために国務長官コーデル・ハル氏に午後一時に面会するの約束をしたのでありました。この約束通りに此の通告が一九四一年十二月七日午後一時に交付されて居りましたならば、此の交付はワシントン時間に換算して午後一時二十五分に始まつた真珠湾其他の攻撃よりも前になるのでありました。
しかし大使館に於ける電報の解読と印字に時間をとりまして、検事立証の如くに実際は野村大使は二時に国務省に到着したのであります。二時二十分に通告書を交付したのであります。野村大使が国務省到着後直ちに通告書を交付し得たならば、真珠湾攻撃後三十五分となります。二十分待たされたがためこれが五十五分の遅延を生じました。
※本文では、米国は日本側電文を傍受しており、日本側の宣戦布告を傍受の自転で既に知っていたこと。加えて、ハルノートを突きつけた時点で、ハル氏から軍に指導権が移されたことを指摘し、宣戦布告について米国は明らかに承知していたことを指摘している。
我々は十二月七日の午前七時五十五分(ハワイ時間)に於ける真珠湾攻撃がサプライズ・アタクではなかつた事を証明するため、小型潜水艦撃沈の事実を引用するのであります。
昭和一六年の十一月に、天皇陛下が三ケ月間のスタンドスティル、すなわち冷却期間をおこうとの提案を、駐日の米国大使を通じてされたが、ルーズベルトは是を拒否した。米国の軍高官も、冷却期間の提案を受け入れるべきであるとルーズベルト大統領に促した。当時、日本はロシアが、同盟関係にあったヒトラーを打倒する可能性を警戒していたのである。九十日の冷却期間があって、独ソの戦端開始を知れば、日本から全ての戦意を喪失させて、太平洋で戦争する必要を無くしたに違いない。
ステイムソンの日記が明らかにしたように、
ルーズベルトとその幕僚は、日本側から目立った行動が取られるように挑発する方法を探していたのだ。だから、ハルは、馬鹿げた最後通牒(※通称ハルノート)を発出して、そして我々は真珠湾で負けたのだ(※当時、米国の開戦を望んでいたのは、チャーチル・スターリン・蒋介石だった。)。損害がどんどん発生して、(東)南アジアで日本が勝利し占領することは、予想できなかったのだ。更には、アメリカは制海権を失って、ヒトラーと東条は、米国の海岸が見えるところで、アメリカの船舶を破壊することができるようになったのである。[抄訳】
徳富蘇峰は、昭和一七年三月八日東京日日新聞に「日本が七重の膝を八重に折って、提携を迫るも、昨年(昭和一六年)八月近衛首相が直接協商の為に洋上にて出会せんことを促しても、まじめに返事さへ呉れない程であった。而して米国、英国・蒋介石・蘭印など、いわゆるABCDの包囲陣を作って蜘株が網を張って蝶を絞殺するが如き態度を執った。而して、彼等の頑迷不霊の結果、遂に我をして己むに己まれずして立つに至らしめたのだ」と書いているが、ようやく、フーバー大統領の回想録が、七〇年の時間が経って、徳富蘇峰のその言論がアメリカ側からも裏付けたことになる。
一九四一年一一月二五日ルーズベルトは側近を集め「日本は来週月曜までにアメリカを攻撃するものと思う」と述べ、翌十一月二六日にはいわゆるハル・ノート(⇒[清瀬弁護人の冒頭陳述]参照)が日本側に手交されている。戦後設立された米国議会の上下両院合同の真珠湾事件調査委員会での多くの証言は、ルーズベルトが日本軍の奇襲を待ちかねていたことを充分に立証していて、一点の疑いの余地もない。
事実、真珠湾査問会の公聴会の席上、ホーマー・ファーグソン上院議員に喚問された一人の青年海軍将校は、次の事実を証言している。すなわち、二一月六日(日本時間の七日)夜、ホワイト・ハウスにおいて、彼の面前で、ルーズベルトとホプキンズ大統領顧問は、日本の戦争電報を読んだ。ホプキンズが予防措置をとるよぅに主張したとき、ルーズベルトは「その要なし」と答え、「民主主義のためにはりつばな記録を残すよう事態の進展を待たねばならない」と語ったというのである。
パール・ハーバを最も喜んでいたチャーチルは「これで救われたと感じ、感謝の気持ちで、その夜はぐっすり眠った」と、述べている。
例えば、ガダルカナルが攻撃されて、それを阻止するために行われた第一次ソロモン海海戦。その海戦で三上艦隊はほとんど完勝。重巡四隻撃沈、重巡一隻大破、駆逐艦二隻撃破。対してこちらの被害は、重巡一隻小破。ところが、肝心のガダルカナルヘ物資を積み込もうとする相手の輸送船を攻撃しないで帰ってきた。目的はそれなのに、危険を冒して商船を沈めても、点数が低いから。結局、ガダルカナルヘ米軍の武器弾薬食料が補給されて戦力が強化された。ラバウルで陸軍の二見一七軍参謀長がそれを聞いて、「なんだ、ミカン取りに行って皮だけ取って帰ってきたのか」と言ったという。海軍というのは非常識な考えを持っていたみたいです。
艦隊決戦やるのが海軍の存荏意義みたいに勘違いしてる。海軍の主目的は、自国の海上交通路(シーレーン)の確保と、敵国の海上交通路の被壊です。
第十一番目の
ルーズベルトの壮大な過ちは、一九四三年一月のカサブランカにおいて、枢軸国の無条件降伏を要求したことである(※米国は南北戦争で、無条件降伏を要求したが故に、大変悲惨な思いをしている。だから、無条件降伏が相手の誇りを踏みにじるが故に、敵味方共に悲惨な結果を招くことを知っている。)。ルーズベルトは、米軍の助言も、チャーチルの助言も聞き入れずに、新聞の一面の見出しを狙った。無条件降伏の要求は、敵国の軍国主義者や扇動者に利用され、ドイツ、日本、イタリアとの戦争を長引かせた。ところが、実際の戦争の終わりには、日本とイタリアには、譲歩したのである。ドイツに関しては、ナチスをなくさない限り、平和は有り得ないから、無条件降伏の要求はドイツの和平への希望を失わせただけであった。戦争の終結の仕方が余りたも酷かった為、ドイツを再建する基礎となるものが失われてしまった。[抄訳]
カサブランカ会議においてルーズベルトは「無条件降伏」という事を言い始めます。アメリカの南北戦争のときに出てくる言葉です。これにこだわったので戦争がより残酷になり、長引いたということを軍事の専門家は大体指摘している。このとき、スターリンは、「始めは有条件降伏で屈服させたあとに、無条件降伏にしたらいいんだ」と。まさに日本はそれをやられた。
ポツダム宣言の一三項目をミズーリ号上でサインして、日本軍隊が無条件降伏し軍が武装解除したら、軍隊だけに適用される無条件降伏が、軍以外にも及んだわけです。
ポツダム宣言は、軍事的には無条件降伏で、政治的には条件を残したはずだったのに……。「国民自身が政権を決める」とか「言論の自由を保証する」とか、ポツダム 宣言は、よく読めばかなり甘い条件です。
ルーズベルトは記者会見の時に、アメリカの参謀や米軍やチャーチルの助言を聞き入れず、幹部にも何も相談せず、無条件降伏と言った。マスコミも国民もそういう強硬なことを喜ぶものだから、国務省も軍もそれに合わせて、無条件降伏論が定着していく。
第十二番目の過ちは、一九四三年一〇月のモスクワでの外務大臣会合で、自由とか民主政治といった用語が飛び交うなかで、ロシアが、バルト海諸国、東ポーランド、東フィンランド、ベツサラビア、とブコビナを併合(これはヒトラーが合意していた)する事に抗議の声が上がらなかったことである。この沈黙は、大西洋憲章とルーズベルトが約束した「四つの自由」を最終的に放棄するものであった。[抄訳]
二〇〇五年、ブッシュ・ジュニアがヤルタ批判の演説をやった時、アメリカは欧州の西半分を解放しながら、東半分をソ連の全体主義に任せてしまった、あれは完全に間違いだったと言った。ほとんどルーズベルト批判です。さすが現役大統領だから、過去の大統領のことを直接批判はしなかったけれども、第二次大戦の大義がインチキだったということですよ。
スターリンの秘密工作員たちによって日米両国を戦争に追い込む「開戦工作」が行われてきましたが、その秘密工作はその後も続き、日本の終戦にも大きな影響を与えました。「終戦工作」は主として二段階ありました。
第一段階は、ソ連に有利な、つまりアジア共産化をもたらす戦後国際秩序構想(いわゆるヤルタ密約)を、ルーズヴュルト大統領に呑ませる工作です。
第二段階が、ソ連の有利な国際秩序構想を具体化するため、ソ連による対日参戦を実現する工作です。これは、主としてソ連の対日参戦が実現するまで日本を降伏させない、というものでした。
もちろん日本政府も一九四三年十一月にアジア各国の指導者を集めて大東亜会議を開催するなど、「戦闘」終了後のアジア秩序のことを懸命に考え、手を打っていましたが、残念ながら孤軍奮闘状態でした。 一九四五年二月、ヤルタ会談開催時には、ドイツと日本の敗北は目前でした。もはや英米ソ三国の優位は圧倒的であり、この三国だけで戦後の世界秩序を思うままにできる状況でした。これらの会談におけるチャーチル・ルーズベルト・スターリンの決定がその後の全世界の人々の運命を決定し、その影響はいまだに続いています。ルーズベルトらは、日独ら枢軸国との戦争を「民主主義を守る戦いだ」と訴えていましたが、ヤルタ会談の結果は、英米が戦争目的として掲げた「民主主義や正義の回復」を自ら裏切るものでもあります。例えば、ポーランド人の意思に反して、ポーランドをソ連に売り渡したのは不正義の極みでした。
そもそも英米は一九四一年に公表した大西洋憲章で、こう宣言していたのです。
「両国は、関係する人民の自由に表明された願望に合致しない、いかなる領土の変更も欲しない」「両国はすべての人民が、彼らがそのもとで生活する政体を選択する権利を尊重する。両国は、主権及び自治を強奪された者にそれらが回復されることを希望する」 チャーチルは河出書房『第二次世界大戦』で、ナチスを倒しても別の専制的独裁者の手に欧州を渡すだけであり、自分たちが克服した危機よりもっと悪い危機に陥るだろうと述べています。そして、ソ連の膨張に備えるよう西側諸国に呼びかけ、一九四九年にはNATOを結成して、ヨーロッパにおける対ソ警戒体制を実現しています。
一方、アメリカのルーズベルト民主党政権はソ連の台頭を予見しつつ、むしろそれを歓迎しました。ルーズベルトは最初からソ連に大盤振る舞いする姿勢でヤルタ会談に臨み、ソ連に世界の半分を進呈したわけです。その結果、アメリカと国際社会は五十年という長期の冷戦に苦しむことになったのです。
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スターリンが善人だというルーズベルトの思い込み──ルーズベルトはスターリンを実像とかけ離れた善人だと信じ込んでいた。「スターリンは“リスト教徒的紳士”」「権力や社会的地位を持つ者の義務として、どこの国も合しょうとせず、世界の民主主義と平和のために働くだろう」「スターリンは帝国正義者ではない」⇒([スターリンの実像])
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ルーズベルトの健康問題──政権末期の約二年間は健康状態が悪化して職務遂行能力が損なわれ続けていった。精神的安定や判断力も失われていた。
鬱血性心臓疾患が徐々に悪化していたのは確実で、極度の高血圧になっていた。悪性の皮膚癌が脳や消火器に転移していたという説もある。ヤルタ会談の十一カ月前の記者との会談で「大統領の目はどんよりと曇っていて、口は半開きだつた。突然、口が開いたまま話が中断した。そして彼はそのまま私を凝視していたのである。(およそ一時間の会話だったが)脈絡のない話が続き、そしてそれが突然やんで、大統領は私をぼんやりと見つめた。(『ルーズベルトの死の秘密』)」と、記者は述べている。
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ソ連の浸透工作──ルーズベルト政権内部に多数の工作員が潜入し、中から政策を牛耳っていた。
一九四一年十二月、アメリカが第二次世界大戦に参戦すると、世界最大の共産主義国であるソ連は今や我々の同盟国なのだから、軍や政府の公職から共産主義者を排除するべきではないという理屈で、むしろ積極的に共産主義者を公務員として雇うようになりました。それまでは公務員を採用する際に、共産党員であるかどうかだけでなく、さまざまな共産党のフロント団体に加入しているかどうかもチェックしていたのですが、就職希望者に「あなたは共産党員ですか」フロント団体の名前を挙げて「あなたはそこのメンバーですか」という質問をすること自体してはいけないことになりました。要するにノーチェツクで共産主義者が入り放題になったのです。
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その結果としての、ヤルタ会談での工作員の暗躍!アルジャー・ヒスというソ連の工作員が事実上ヤルタ会談を仕切っていた。
国務長官付スタッフ会議で、国務長官は、ビッグスリーの会談(ヤルタ会談)で議論する予定の議題に関する大統領のためのすべての覚書をアルジャー・ヒスに提出するよう、国務長官が指示した。
結局、大統領直属の指名でソ連工作員のヒスが国務長官と一緒に会談に同行した。ルーズベルトは職務能力が無く、国務長官は無能だったので、実質的に取り仕切ったのは、ヒスであった。
また、KGBは「国務省にあんな情報源を持っていたら、他には誰もいらないぐらいだ」と、ヒスを抱えていたGRUを羨んだと云います。
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アメリカの憲法体制を破壊したルーズベルトの密室外交──議会の承認を得ず、また、国務省も通さずにヤルタ密約を結んでしまった。(⇒[ヤルタ密約文書]参照)
『アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』で指摘したように、このOSS(後にCIA)の日本部門が、いわゆる東京裁判、神道を弾圧する神道指令、憲法改正、教育制度の改悪、在日朝鮮人と部落解放同盟による国内対立の扇動といった戦後の対日占領政策を作っています。その責任者がダンカン・リーでした。CIAが、もともとソ連の工作員の巣であったことは覚えておくべきでしょう。
ルーズベルトとチャーチルがふらついて一番混乱した例のひとつであるが、一九四三年十二月のテヘランでの会議である。ここで、第十二番目の、ロシアによるバルト諸国などの併合が確認され、スターリンが、友好的な国境の諸国と名付けた、傀儡政権の七カ国を承認したことである。国際的な道義と彼ら自身(ルーズベルトとチャーチル)の諸国への独立の約束と、自由な人間への忠誠に則り、ルーズベルトとチャーチルはスターリンに対して反対すべきであった。それまで、こうした併合に対する合意や、黙認と妥協をスターリンと行うことが必要であるほどの、軍事的な危険は存在しなかったのである。[抄訳]
ルーズベルトとチャーチルは、致命的な間違いを一九四五年二月のヤルタで犯した。スターリンが十二の国々の独立に対して干渉を加えることを追認しただけではなく、数世代に亘って国際関係に危険をもたらす、悪しき勢力の動きを助長するような秘密の協定が多数結ばれた。
スターリンが傀儡の国家を七つ作ったことを知りながら、「自由で妨害されない」とか、「全ての自由な人士の参加」とか、言葉を繕って、スターリンの暴虐に水を差さないで隠蔽した。テヘランに於いて、軍事上の妥協を最も強力に主張した向きも、ヤルタでは、そうした主張をもうしなかった。[抄訳]
一九四五年の五月、六月、七月と、
日本は白旗を掲げて和平を求めていたが、トルーマンはこれを拒否した。トルーマンは、ルーズベルトの無条件降伏という愚かな条件に従う義務は無かったのだが。ヨーロッパにおける米国の軍事指導者達は無条件降伏にこだわる事に反対していたのだ。日本との和平はただひとつの譲歩で達成できた。それは天皇の地位の保全である。日本の天皇は世俗国家の元首であるばかりでなく、国民の精神的権威でもある。天皇の地位は信仰と伝統に基づくものなのだ。米国側が、最終的にこの条件を受け入れたのは、数十万の人命が犠牲になった後であった。[抄訳]
ポツダムにおけるトルーマンの過ちが、第十六番目の過ちである。民主国家では、経験の無い人物(トルーマン大統領)に政権が渡され、共産主義者が、重要な場所に進出して来た。ポツダムでの合意の全てが、スターリンに対して降参したことを追認したり、拡大することであった。共産主義者による併合と傀儡政権が、スターリンとの繋がりを強化されたばかりではなく、ドイツとオーストリアの一部がスターリンの懐に入ってしまうような政府に関する条項が決定された。賠償の政策の結果は、米国の納税者の数十億ドルもの金が、職を失ったドイツ人の救援の為に使われ、かえってドイツだけではなく、∃−ロッパの再興を遅らせた。
戦争捕虜が奴隷のようになり、自らの土地から民族追放が行われることが承認され、ヤルタでのそうした愚策が拡大された。これに加えて、指導者の人々の忠告に反して、日本に無条件降伏の最後通牒が出されたことである。
アメリカの経験ある多くの専門家が勧告した、天皇(みかど)を維持することを許す救済条項を入れないで、無条件降伏を要求したのである。日本側は、回答として、この条件のみを求めたが、原子爆弾が投下された。そして、最後になって、この条件が受け入れられた。[抄訳]
スターリンはポツダムに来たが、日ソ中立条約で、七月二六日には日本とまだ戦っていないから、ポツダム宣言にはもちろん参加していない。ポツダム宣言は英・米・中華民国の指導者が日本に向けて出したもので、スターリンの名前は入ってない。
ポツダム宣言は日本を武装解除し、兵隊を平和な家庭生活に戻す、と言ったんです。ところがスターリンは六〇万人の日本兵をシベリアに連れていった。シベリア抑留です。これはソ連による国際法違反の拉致事件であり、ポツダム宣言違反です。
この「戦争捕虜が奴隷のように」というところは、本当に大事なところですね。シベリア抑留者の約一〇%が殺されました。
- ◇シベリア抑留
- 第二次大戦後に投降した日本兵捕虜約六〇万人を、ソ連がシベリアヘ強制移送し、強制労働を伴う抑留生活を強いたことを称する。捕虜を日本に復帰させるというポツダム宣言に背く処置であった。抑留中の日本人死者は約五万三〇〇〇人に上るとみられている。
第十七番目のアメリカの政治の大道からの逸脱は、トルーマンが日本人の上に原子爆弾を落とすという非道徳的な命令を下したことである。日本は繰り返して平和を求めていたにもかかわらず。これはアメリカの全ての歴史のなかで、他に比較するもののない残忍な行為であった。これはアメリカの良心に対して、永久に重くのしかかるであろう。[抄訳]
■ポツダム宣言の前日に発せられた原爆投下指令
昭和二十年(一九四五年)七月二十六日、日本の降伏を求めるポツダム宣言が発表されました。その後、八月六日の広島、九日の長崎と、二発の原爆が落とされたのは、時の鈴木貫太郎首相が、七月二十八日に「ポツダム宣言を黙殺する」と記者会見で述べたからだ、と強く非難されてきました。
しかし、鈴木首相は「黙殺」という首葉は使っておらず、アメリカ側も鈴木首相の記者会見がポツダム宣言の拒否を意味しない、「ノーコメント程度の意味」に過ぎないことを正確に理解していました。それでも原爆が投下されたのは、ポツダム宣言の発表前日、トルーマン米大統領が原爆投下を決定し、軍首脳から投下部隊に準備が整い次第何時でも原爆を投下せよという命令が発せられていたからです。しかもそこには、日本がポツダム宣言を受諾した場合は投下を中止するといった条件付きの指示は何もありませんでした。
また、トルーマンは、ポツダム宣言に、草案段階ではあった天皇制の保証(当時の日本の言葉では「国体護持」)という日本が最も求めていた条件を敢えて盛り込まずに発表し、日本がポツダム宣言を直ちには受け入れないように画策したのです。アメリカは、日本が降伏する前に原爆を落とし、原爆の威力によって日本が降伏したというシナリオを作りたかったのです。全てはポツダム宣言発表前に仕組まれていたことでした。
トルーマン、マーシャルとアチソン(トルーマン大統領の下で国務長官)が中国に関して、政治の大道を見失ったのが第十八番目の誤ちである。ルーズベルトは、
蒋介石が共産党と協力することにこだわって、中国に関する裏切りの秘密協定がヤルタでできた。その
結果モンゴルと、事実上満州をロシアに手渡すことになった。トルーマンは全中国を共産主義者の手に重ねてしまった。それはトルーマンの左翼の側近の根強い影響の為である。彼らはマーシャル将軍を特使に任命させ、マーシャルを通じて彼らの意志を代行させたのだった。そしてとどのつまりは、四億五〇〇〇万ものアジアの人々を、モスクワ傘下の共産主義の傀儡政権の手に重ねる事になってしまった。
トルーマンは、政治の大道を踏みはずし、巨大な誤ちを犯したのだった。[抄訳]
モスクワ会議、テヘラン会議、ヤルタ会議、ポツダム会議そして誤れる対中政策を通じて、第三次世界大戦を引き起こす危険のある竜の歯が、世界中の至る所にばらまかれた。その結果何年もの「冷戦」が続き、おぞましい朝鮮戦争が勃発し、北大西洋同盟(NATO)が弱々しく成立したが、アメリカが再び敗北する危険は常に付きまとっていた。[抄訳]
- チャーチルは、三〇〇年以上の伝統を持つイギリスの外交ドクトリンを無視した。その外交ドクトリンとは「イギリスはヨーロッパ大陸内部には直接関与せず、大陸内部の勢力均衡を謀り、イギリスの安全と繁栄を保持する」というものである。チャーチルはナチス・ドイツに個人的に異常な敵意を抱き、それゆえドイツと戦争を開始し、更には無条件降伏を要求した。
しかしそのために、ドイツは被壊したが、結局ソ連にヨーロッパの東半分を支配させる結果となってしまった。ヒトラーは元来、第三帝国を東方へ拡大する方針であったのだから、イギリスもアメリカ同様に、ドイツとソ連の二つの全体主義帝国が共倒れになるのを傍観する策をとるべきであった。
- チャーチルはイギリスを戦勝国に導くことには成功した。しかしその代償は余りに大きかった。イギリスは帝国を失ったのである。勝利の代価が帝国の崩壊であったとすれば、いったいその勝利の意味とは何なのか。イギリス首相であるチャーチルにとつて、最大至高の課題は、「大英帝国の保全」であった筈である。何たる「英雄」であることか。しかも彼は、自分の過ちすら認めていない。
大英帝国崩壊に最も力があったのは、日本である。第二次大戦中の日本の軍事行動はアジア諸国に独立の気運と機会をあたえ、ついに大戦後も、イギリスは植民地を維持することができなくなった。大日本帝国は、抱き合い心中のような形で、大英帝国を亡ぼしてしまったのだ。日本がなぜそんな立場に立ったかといえば、チャーチルとルーズベルトが(スターリンや蒋介石の後押しを受けながら)日本を経済封鎖で追い込み開戦させたからである。
アメリカは、ソ連との冷戦というやっかいな問題を抱えることにはなったが、第二次大戦に勝利することにより、イギリスを上回る世界一の超大国になった。代償は大きかったが、勝利にはそれなりの意義があった、との考え方もできる。
アメリカは確かに戦勝国になった。しかし、そこで手に入れたものは恒久的な平和ではなく、共産主義の脅威であった。ドイツと日本という共産主義への防波堤を力尽くでつぶしてしまい、ソ連を同盟国卜して過してきた当然の結果であった。そこには、エルベ川から鴨線江に到る巨大な共産主義帝国が出現していた。そして四年後には、シナ大陸もまた共産主義国家の支配する所となった。アメリカは一度は不倶戴天の敵と思ったドイツ(西ドイツ)と日本を再建して、共産主義の脅威に立ち向かわねばならなくなった。何という運命の皮肉であろう。チャーチルもルーズベルトも、スターリンの戦略には遠く及ばなかった。スターリンは、資本主義国同士を戦わせ、漁夫の利を得、戦後は疲弊した国々で社会主義革命を起こすという明確な戦略を立てていたのだ。
アメリカは一九三三年にソ連を承認し、これと外交関係を樹立することによって、この無法国家の成長をうながした。ソ連の約束、紳士協定、外交交渉など、どれ一つとしてこれまで約束どおり実行されたことはない。
一九四五年二月のヤルタ会談におけるアメリカの失敗は決定的であった。ルーズベルトは、東ヨーロッパとバルト三国をソ連に売り渡したのみならず、満州をソ連の勢力圏として承認してしまった。
アメリカは更に誤ちを犯す。トルーマン政権は、国民党と共産党の連立政権をシナに樹立するという幻想にとらわれ、これを不服とする蒋介石に圧力をかけ、国民党への援助を停止してしまう。このときの米大統領特使が、彼の元の上司のマーシャル将軍であった。ウェデマイヤーはマーシャルに国共連立政権が不可能である旨を訴え、米政府にも国民党を支持し続けるよう警鐘を乱打したが、結果は虚しかった。一九四九年シナに共産政権が成立する。
ウェデマイヤーは、使節団を率いてシナに渡り、一九四七年九月に米大統領宛報告書を提出している。もしこのレポートの勧告が採用されていたならば、シナ共産党の支配は長江の線で食い止めることができた筈であり、長江以南には国民党政権が成立し得たはずである。「そうすれば、朝鮮戦争もベトナム戦争も起きていなかったものと思われる」とは岡本寧次大将が、昭和四〇(一九六五)年ウェデマイヤー大将と東京で会見した時に漏らされた感想である。
アメリカがいかに多くの過ちを犯したか、そして日本側から見れば、いかにすれば日米戦の悲劇を避け得たかを教えてくれているのが、クエデマイヤー回想録である。
ケント・ギルバート著[GHQ検閲にいまだに呪縛されるマスコミ]に、[日米戦争を起こしたのは誰か](⇒[
ルーズベルトの罪状])及び[抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪めたもの](⇒[
GHQ検閲[1]][
GHQ検閲[2]][
GHQ検閲[3]][
GHQと教育基本法])の要点を非常に要領よくまとめてありました。下記抜粋で、是非手にとって読んでいただきたい書籍です。
参議院選挙の期間中、共産党の藤野保史衆院議員が「防衛費は人を殺すための予算」と発言して、批判を浴び、謝罪、撤回する騒ぎがありました。共産党は参院選で野党統一の要となつたことで舞い上がり、理性を失ってしまったのでしょうか。はっきり言っておきますが、防衛費は人を助けるための予算です。人殺しの予算だと言いたいなら、同志″の中国に対して主張すればいいと思います。
アメリカ人は、日本人は残虐で、軍国主義に染まった危険な民族だと思っていました。日本軍があまりに強すぎたから、日本人を恐れていたのです。そのため、とにかく徹底的に民主主義を叩き込み、日本の強さと残虐性を削がなければならないと考えました。そしてウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)のもと、GHQが憲法をつくり、軍事力を取り上げ、アメリカの影響下におく政策を推し進めました。
そして、日本の暴走″を押さえるための存在として共産党を残したのです。しかし、実は日本人は平和を望む従順な民族だった。だから共産党を残す必要はなかったし、公職追放もやりすぎでした。
GHQによる占領は七年におよびました。そのあいだWGIPというマインドコントロールによって、日本人を徹底的に洗脳し、武士道や滅私奉公の精神、皇室への誇りなどを破壊しました。一九四五年十二月、NHKラジオで「真相はかうだ」という番組が始まりました。その台本はGHQが書きました。この中で「南京大虐殺」がはじめて登場します。それこそアメリカのでっち上げです。それを検証するドキュメンタリー番組を今作ったらいいかもしれない。でも今のマスコミはそんなことはしないでしょう。なぜだと思いますか。それは日本のマスコミがGHQによる「プレス・コード(日本に与うる新聞遵則)」にいまだに縛られているからです。禁止事項として「連合国への批判」「アメリカ、ソ連、イギリス、中国、朝鮮人への批判」「戦争犯罪人の正当化および擁護」など三十項目にわたって細かく定められた報道規制です。これにマスコミだけでなく政治家も教育者もみな従いました。
日米韓の合同軍事演習で、海上自衛隊の船が韓国の済州島に寄港することが出来なかったことがあります。韓国が旭日旗掲揚に難癖を付けて拒否したのです。これについて、マスコミは全然報道しなかった。なぜか。それは韓国に遠慮しているんです。これもプレス・コードの呪縛です。
舛添さんを擁護するつもりはまったくありませんが、重箱の隅をつつくような報道ばかりでした。それよりも沖縄を中国に引き渡そうとするかのような翁長沖縄県知事の動向をなぜ追及しないのでしょうか。マスコミの怠慢以外の何物でもない。これも中国に遠慮しているからです。
最近、中国は南シナ海、東シナ海で怪しい動きをしていますが、マスコミは安倍さんに「安保法制は中国の脅威のために必要」と言わせようとして、失敗しました。安倍さんが見事にその誘導に乗らなかった。するとマスコミは「政府の説明が足りない」という論調を展開する。これは論点のすり替えです。目の前に迫っている脅威が問題なのであって、安倍さんが言う言わないはこの際関係ない。とにかく安倍さんを批判して、その座から引きずり降ろそうとしているだけです。それはマスコミの仕事ではないはずです。プレス・コードに抵触するから、中国の脅威には触れない? そんなことはあり得ない。ちゃんと自分たちで取材して、堂々と事実を報道すべきです。
マスコミの役割は「国民の知る権利を守る」ことです。そのためには国民に様々な情報や真実を伝えなければいけません。国民をある方向に誘導するような権力″になつてはダメです。事実を公平に伝えて、国民が考える手助けをするのがマスコミの正しい在り方です。プレス・コードには「虚偽の報道の禁止」の規定がありますが、これだけにはなぜか縛られていないようです。
もしもですが、アメリカ参戦を決めたルーズベルトが、死なずに戦後も生きていたら、今の日本はなかったかもしれません。なぜならルーズベルトはスターリンと手を組んで、戦争終結後はアメリカとソ連で世界を二分潮統治しようと計画していたからです。
ルーズベルトが死ななかったら、日本も二分割されて、アメリカとソ連の統治になっていたかもしれません。現にドイツは二人の密約どおり東と西に二分割されました。ルーズベルトの後に大統領に就任したトルーマンは、もうヨーロッパ戦線の決着がついていたので、日本の分割統治には興味がなかったのだと思います。もしソ連の企んだ計画が実行されていたら、皇室制度もどうなったかわかりません。 …
なにかもが織り込み済みでした。なぜルーズベルトがそんなに参戦したかったのかというと、アメリカの発展のためです。一九二九年の大恐慌の後、停滞した経済を建て直すため、彼はニューディール政策を推進しました。当時のアメリカは「モンロー主義」を元にした「孤立主義」を採用しており、アメリカ国民の大半は第二次世界大戦への参戦に反対していました。しかし、アメリカ経済を劇的に回復、発展させるには、石油や鉱物、食糧など様々な物資を大量に消費してくれる戦争が必要だったのです。(※中国主導のAIIBとそっくり。そして、ソ連を超大国にする謀略だったのでしょう。)
地政学的な観点からみても、日本はアメリカの防衛戦略上、中国やロシアから自国を守るために欠かせない大事な破衝地帯です。当時の日本は台湾と朝鮮を併合し、パラオ、西沙・南沙諸島、清洲、さらには仏印(インドシナ半島)まで進出していましたが、これ以上日本の勢力が拡大してしまうと、アメリカは太平洋の覇権を失ってしまいます。大西洋には同様にドイツが進出していました。つまり、アメリカが日本とドイツに包囲されてしまうわけです。ルーズベルトは、地政学的に重要な緩衝地帯を失わないために、どうしても打って出るしかなかった。
- ■「アメリカの鏡・日本」と「菊と刀」 … 歴史通 2016年9月号
- 「菊と刀」は文化人類学的学術書の装いを施してはいますが、米政府の対日文化戦略を担うきわめて政治的なプロパガンダでもありました。つまりはアメリカの占領政策に寄り添ったものであり、GHQのお墨付きを得ていた著作だったわけです。
他方ミアーズの著作「アメリカの鏡・日本」は一九四八年に刊行された年に著者から寄贈された日本人翻訳家の翻訳出版許可願いに対して、GHQ最高司令官マッカーサーから下記のように、死者を引き合いに出してまで非難を加え、禁止している。
「占領が終わらなければ、日本人は、この本を日本語で読むことはできない」ダグラス・マッカーサー(ラベル・トンプソン宛、一九四九年八月六日付書簡)
「ソビエトの情報から得た宣伝とは言わないが、偏向、虚説、そして歴史記録の歪曲の手法を、この本は駆使している。日本の過去の侵略の記録を正当化し、合衆国の歴史記録を中傷することを目的として、このような歪曲され誤った言及をしたならば、日本人の心に自己正当化の感情を喚起するだけであり、その結果、占領軍の安全に対する脅威となり、占領政策遂行の妨害となる」
「大多数の日本人に混乱と狼狽をもたらすことにより、我が国に対する潜在的敵対感を助長することになる。そうなるとこの本が述べている。まさに同じ正義を防衛するために、太平洋で命を犠牲にした英雄的な死を遂げた人たちに対する裏切りになろう」
ミアーズは一九三五年に日本に一年間滞在して、その時日本人の生活習慣から神道までを綿密にフィールドワークしました。そしてその研究成果で日本専門家として注目され、占領期にGHQ労働諮問委員会のメンバーに選ばれて訪日、さらに実地調査を重ねました。本書はそうした実体験に裏打ちされた研究書となっているわけです。一度も日本を訪れたことがなく書かれた『菊と刀』とは、大きな違いです。
結局ミアーズは日本に対しても、アメリカに対しても冷静な目で批判をし、日本に対しても美化することなく、反省すべきは反省しないといけないと指摘しています。
「日本民族は生まれつき侵略的であると考えるものにとって、日本史の事実はきわめて都合が悪い。戦争中の宣伝担当者たちは、それらしい実例をあげるのに、実にどぎつい言葉でばかばかしい話をつくり出さねばならなかった」
「この『生まれつきの』軍国主義なるものを、日本人の過去に求めるとすれば、十六世紀、朝鮮に攻め入った孤独な将軍の失敗の記録ぐらいのものだ。しかし、この遠征をとらえて日本民族を生まれつきの軍国主義者と決めつけるなら、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ、フランス、ロシア、そして私たち自身のことはどう性格づけしたらいいのだろう。これら諸国の将軍、提督、艦長、民間人は十五世紀から、まさしく『世界征服』を目指して続々と海を渡ったではないか」
「私たちは日本人の『本性に根差す伝統的軍国主義』を告発した。しかし、告発はブーメランなのだ」
さらに彼女は「日本が少なくとも三カ月間にわたって、降伏への道を模索してきたことを知りながら、なぜ決断までに十一日しか待ってやれなかったのか」と、問いかけます。
この疑問に対する答は、アメリカと日本の関係ではなく、アメリカとソ連との駆け引きにあった、というのが彼女の解でした。
「もし日本が即時無条件で降伏してしまったら、ソ連は参戦しようがすまいが、日本に侵入してくるとみていたから、日本がソ連に和平条約を提示することを望んでいなかった。(中略)私たちが日本人に対してつかった原子爆弾は、日本に対してつかったのではない。なぜなら、日本はすでに完全に敗北していたからだ。原爆はソ連との政治戦争に使用された」
こうした見解は現在のアメリカでは、ほとんどみることが出来ないものです。
私は今、アメリカに行くたびに高校生にヒアリングをしていますが、そのなかで聞く答が「多くのアメリカ兵を救うためには、原爆投下は当然だった」、「しかたがなかった」ではなく「当然のことであった」というふうに、生徒たちは授業でも必ず教えられているのだそうです。それはなぜかというと、要するにパールハーバーでした。「最初にあなた方が卑怯な攻撃をした。あれは911と同じだ」と教えられているそうです。
彼女は、「アメリカ側のさまざまな公式声明から考えるならば、『卑劣な攻撃』『屈辱の日』は違う言葉で考えなおす必要があるようだ」として、これが世界征服をたくらむ日本の一方的な裏切りの攻撃だったか、それとも圧倒的に強い国・アメリカとのカのゲームに引きずり込まれた日本が経済封鎖に対して挑んだ攻撃だったのかという二つの解釈に至る。
そして「どうやらパールハーバーは戦争の原因ではなく、アメリカと日本がすでに始めていた戦争の一行動にすぎない」と看破します。
- ■戦後米国の心理状況の理解へ
- 米国は広島長崎についての真実を語らない、その代わりに、米国人の生命を助け早期に終戦するためだと信じています。そして、パールハーバーの仕返しとして、広島長崎を当然としています。そうして、日本を極悪非道として、米国が日本を平和な民主主義国家に変革し、世界に平和をもたらしたとして、正義は我に有りとしています。だから、米国の歴史の悲しい事実を突きつけても、彼らは怒り出すだけなんです。その一方で、韓国などの被害者意識の強い民族が、助けてくれと懇願すれば、これが正しいのか間違っているのかは問題ではなく、アメリカが正義を施すのだという視点から、韓国を支援してしまうのです。
つまり、日本は自虐史観にとらわれ、米国人は正しい歴史を教えられずに、我に正義有りの自負に執着してしまっています。この米国人の気質についての理解のために、下記紹介します。
◇ ◇ ◇ ◇
事物の総合的な判断の必要性とその能力は、政治家や経営者のみならず、一般社会人にも当然要求されるものであり、仏教的には、八正道の正見と正思にもつながります。
総合的な判断力は、原点に帰れば善我と偽我の問題であり、少しでも自分を庇おうとする偽我(エゴイズムや過度のナルシズム)が存在すると、それはすぐ偏見として表われ、正しい総合的な判断の妨げになります。
例えば、ほんの少しでも上司の叱責を避けたいという思いがあれば、自分の立場を良くする為(自分への過小評価を良しとせず)、小さなウソを吐くでしょうし、それによって責任回避をする。また、一方で完全な人格として人前に表われる為に、同様の事をするでしょう。裏返せば、本当に困っている他人の擁護は出来なくなります。
それの延長が次には、他への真の思いやりに欠けた行動となり、人格者と見える言葉で自分を飾ることが習慣となり、偽我が性格全体を彩ることになります。自己修正できなくなれば、一種の性格破綻となるのです。これが幼時の心象に裏打ちされていると(父親などの厳しい叱責を避けるための小さなウソという防波堤)、中々治りにくく、本人も意識せずに偽我を抱えたままの偽の人格者としての生涯を終えることになるでしょう。
勿論、交流する人々には容易に見抜けず、神のみぞ知る性格的な欠陥となります。本人も抑圧されたものであれば気が付かないでしょう。
仏教的に云えば、八正道は形ではなく、心であり、礼儀や形式ではなく、真の人間愛(自然や動物への愛も同じ)なのです。(1991/07)
[アメリカの鏡・日本 完全版]角川ソフィア文庫を、三分の一ほど読みました。米国の良識人の視点から見た日本と米国について、非常に興味深い内容です。
大東亜戦争の原因を、日本側は「経済封鎖」による自衛だと宣戦布告し、米国側は世界侵略を企てる日本は戦争が大好きな民族で、神道による「天皇を世界の天皇にする」というマインドコントロール下にあると述べています。
著者は、米国人として中立的な立場に立ち、日本の宣戦布告を論証しつつ、米国政府が報じる日本に対するイメージと、米兵の感じる日本兵との間に大きな隔たりがあると述べています。
例えば、当時の軍事費は、米国の方が日本の10倍を超えている。もし日本が世界侵略に乗り出したというのなら、兵器の材料や石油を、米英仏などから、外貨で購入しなければならない。このことから、
日本の世界征服は、最初から本物ではなかったと、主張している。そして、米国と諸外国の工業生産量を比較すると、何故、米国人は日本軍を異常なほど脅威に思っていたのか分からなくなる。米国は精神鑑定が必要かもしれないと、述べている。
日本軍は補給を絶てば、たちまち機能不全に陥った。そして、平時の基本生産さえ維持できなかったのだ。日本を破るのに本土爆撃など必要なかった。従って、本土爆撃のための発進基地などを奪う必要も無かった。
スチムソン元陸軍長官によれば、一九四五年七月の時点で、すでに日本の海・空軍兵力は「事実上存在しない。残っているのは、進攻艦隊にこうるさく抵抗する程度の戦力」だった。陸軍はばらばらに分断され孤立していた。補給源を断たれて飢えと病気に喘ぐゲリラと成り果て、軍隊としての機能を完全に失っていた。産業はほとんど麻痺していた。国民は戦意を喪失し、数百万人が家を失い餓死寸前だった。では、なぜ日本の指導部は降伏しなかったのか。彼らは降伏しようとしていたというのが、その答えだろう。
日本政府は少なくとも一九四五年五月に降伏の打診をしているが、この打診は米政府によって公式に無視、あるいは拒否された。同報告によれは、事実、一九四四年二月には日本指導部の多くが、この戦争には勝てないと判断し、妥協による和平努力を主張している。しかも、この「妥協による和平」は日本の戦前の地位を引き上げようというものではなかった。むしろ、日本は朝鮮と台湾の放棄を前提にして交渉すべきであると主張していたのだ。
一九四五年三月には日本政府が和平交渉の可能性を模索していたことは事実だ。交渉は中国を仲介者とし、一九三一年以前の国境線を基礎にするものだった。そして、同年五月までに駐ソ連日本大使は「結果がいかなるものであれ、『戦前の条件より後退したものであっても』」、それを前提に可能な和平提案を協議するよう訓令を受けている。これほど早い時期に日本政府内部で降伏を唱える人々が影響力をもち始めていたことを、米戦略爆撃調査報告は確認しているのだ。同報告によれば「
天皇、枢密院議長、首相、外相、海相は一九四五年五月に、連合国の条件による敗戦を受け入れることになっても、戦争は終結させなければならないとの結論に達していた」。
そして、奪った領土(※合法的な物ばかりだが、米国側から見れば奪った)と戦争中に占領した全領土の放棄を求めたカイロ宣言を、本土は占領しないという条件で受け入れるというものだった。が、国務省当局は公式提案は何も受け取っていないと答えていた。
スチムソン元陸軍長官は一九四七年二月のハーバーズ・マガジンに「原子爆弾使用の決定」を正当化する記事を寄稿した。すなわち、一九四五年七月、日本がソ連を「交渉による和平」の仲介者とする「試案」を同国に示したことは事実だが、この「曖昧な提案」は「日本が主要な占領地域をそのまま保持する」ことを考えているもので、受け入れることはできなかった、というのだ。しかし、スチムソンはこの説明を裏づける証拠資料を出していないし、「占領地域」が具体的にどこをさしているかも語っていない。
ソ連の仲介を求める日本の要請に対して、ソ連は明確な回答を避けていたが、これにはアメリカの承諾があったようだ。
そして七月、
連合国首脳はポツダムに集まり、日本の運命を決めることになるが、そのさい近衛公が同地におもむいて和平案を提出することも許されなかったのだ。
ポツダム宣言(1945年7月26日)は、日本国民を決起させ降伏を早めるための解放戦略として受け止められていた。しかし、日本での効果はまったく逆だった。ポツダム宣言の内容は、よくいえば「厳しく、贖罪的」、悪くいえば、経済条項はきわめて漠然としていたし、特定されない戦争犯罪人の追及があまりに広範で唆昧だったから、それが指導部と全国民に対してもつ意味を理解できるものには、ただちには受け入れがたいものだったのも当然である。しかし、その過酷な条件にもかかわらず、ビッグ・シックスのうち三人は即時受諾に賛成していたのだ。
しかし、私たちは和平支持派に反対勢力を説得する時間的余裕を与えなかった。私たちはたった11日間待っただけで、
いきなり一発の原子爆弾(1945年8月9日に長崎)を、そして二日後にはさらにもう一発を、戦艦の上でもない、軍隊の上でもない、軍事施設の上でもない、頑迷な軍指導部の上でもない、二つの都市の約二十万の市民の上に投下(※正しくは核攻撃した)した。しかも、
犠牲者の半数以上が女子供だった。
広島と長崎の原子爆弾が日本を敗北させたのではない。戦争を終結させた敵指導部が証言するように、原爆は日本に無条件降伏の受諾を強いるものでもなかった。
同調査の総括報告によれば、原爆はポツダム宣言の受諾を「早める」よう「さらにせかせた」だけだった。しかし、同報告は、原子爆弾が投下されなくても、あるいはソ連が参戦しなくても、また上陸作戦が計画ないし検討されなくても、日本は一九四五年十二月三十一日以前、「あらゆる可能性を考えに入れても一九四五年十一月一日までに」無条件降伏をしていただろうという意見を付けている。
もし
私たちがポツダム会議で日本の意向を聴取していたら、ポツダム宣言も、原子爆弾も、本土上陸作戦も必要なく、降伏を準備できたように思われる。
私たちの戦争・平和政策と計画が日本の将来にとって重要であるなら、アメリカの将来にとっても、計り知れないほど重要である。私たちは計画立案の指導者を自任してきた。私たちはまた道義の指導者を自任してきた。しかし、緊張に押し潰されて犯した罪を、それだけでなく、危機が去ったあとに重ねた罪を認めて償うことができなかったために、私たちの道義は厳しく問われているのだ。
日本政府の頑迷派に圧力をかけるためなら、女子供の命を蒸発させることも「優れて適切な」手段であるというスチムソソ元陸軍長官の言明が、戦争の熱いさなかだけでなく、日本の降伏から一年半も経ったというのに、いまだに記事になり、広く容認されている。私たちは他国民の罪だけを告発し、自分たちが民主主義の名のもとに犯した罪は自動的に免責されると思っているのだろうか。
社会「改革」の任務を背負う国民にとっては、これほ重大な問題である。昔から権力は自ずと腐敗するといわれてきた。ここにいたってもなお、原爆使用の正当性に固執するのは、私たち自身の価値観を否定するものだ。私たちがいつまでも倫理の二重基準にしがみっいているならば、私たちより力の弱い、私たちのように安全が保障されていない国の人々に向かって、私たち以上に良心的になれとはいえないのである。
つまり、
私には、ルーズベルトが米国民を騙しつつ、米ソによる世界支配を目指していたことへの証拠だと思われます。
日本側だけではなく、米国側から見た事実を知ることで、幅の広い見方が出来るようになると思います。良書ですので、是非一読をお勧めいたします。
- ■当時の日本は欧米の鏡
- アメリカも戦争の後ろ盾に国民を統合するため、伝統を利用したのだが、とかくそれが忘れられがちだ。私たちは民主主義とキリスト教の名のもとに戦った。「天皇制」と神道が本来、戦争を内包しているのに対して、民主主義とキリスト教は本来、平和であると私たちは主張する。日本の学童が天皇の肖像に最敬礼をしたのは、アメリカの学童が「国旗に忠誠を誓う」のと同じ国民的儀礼だが、私たちはそれを見ようとしない。
天皇は「われわれ天皇と国民…の結びつきは単に伝説と神話によるものではない」(※俗に云う人間宣言)と宣言したが、日本人の立場からすれば、ごく当たり前のことをいったにすぎない。日本人が天皇を尊敬するのは、天皇が超自然的、超人間的存在であるからではない。長い歴史と伝統文化の表象としての制度を崇拝しているからである。日本の天皇は、アメリカの星条旗、あるいはアンクル・サムのようなシンボルなのだ。
私たちの国旗は軍事的象徴ではない。それと同じように、戦争がなければ、日本人にとって天皇は軍事的象徴ではなかった。
「天皇制」と「国家神道」は、私たちが民主的と呼ぶ世界のどの国でも、国の特性に応じてさまざまに現われる現象である。神話は日本人にとって民族主義の象徴にすぎないのだが、私たちはその事実に目を閉じてきた。心情的国家意識は戦争の大きな要因であると同時に、戦争遂行に必ずかかわってくるものである。それを問題にするなら、連合国も私たちも無罪とはいえない。私たちアメリカ人には統合の心情的象徴となる皇室はないが、私たちの民主主義同盟であるイギリスは王室をもっている。
第二次世界大戦前、イギリスの王族がイギリス外交への支持を求めて訪米したとき、アメリカの新聞、雑誌、政府指導者は彼らのことを、日本の天皇に対していったように、「恐るべき病根」とはいわなかった。第二次世界大戦中、英王室が南アフリカを訪問し、戦略的に重要なこの地域に対する外交政策への国民感情の結束を図ったとき、私たちはそこに天皇崇拝や国家神道の示威をみなかったし、帝国の権威、あるいは帝国への連帯感を高めるために、英外務省が王室を利用しているとも思わなかった。
国家神道を考えるうえで、ここに注目すべき発言がある。これは日本人が日本の神道について語ったのではない。オーストラリアの出版界を代表するキース・マードック卿が一九四四年、ロンドンで開かれた大英帝国首相会議の帰途、アメリカで語ったものである。
「五月、ロンドンで開かれた大英帝国首相会議は、帝国の象徴であり、イギリスの血、イギリスの文化、伝統を信奉するわれわれの最高聖職者である国王に対する国民の忠誠心を示すものとなった」
もちろん、イギリス人は、国王、帝国、イギリスの血と文化に対する忠誠心を「国家神道」といいはしない。しかし、神話を別にすれば、日本人にとって「国家神道」が神社、英雄、日本国と帝国を表わすシンボルに対する国民的、心情的崇拝であるのと、現実には同じなのである。
日本とイギリスの「国家神道」の違いは、日本人が天皇の地位を神話に求めているところにあるのではない。もし天皇が英王室のように外国の政府や国民に自国政府の親書を運んでいくようなことをしたら、少なくとも占領以前の日本人には心底ショックだったろう。そこに、大きな違いがある。つまり、つい最近まで日本の神道はあくまで民族内部の信仰だったのだ。
国家神道とは組織化された民族主義であり、教会と国家が民族文化、理想、「国益」の栄光のために、たがいに補完し合う体制であるといい換えることができる。この体制を、社会的病根であるとか、日本特有のものであるとかいって否定する前に、民主主義国家イギリスが数多くの国家行事を荘厳に執り行なう体制的教会をもっていることを考えてみる必要がある。
国民の九〇パーセントがカトリック信者であるイタリアが、ムッソリーニ主義を受け入れ、アビシニア爆撃を許したのは、いったいどういうことなのか、思い起こすのもいいだろう。アメリカでさえ、戦争中は多くの教会が祭壇の後ろに星条旗を掲げ、礼拝の中で国歌を歌っていたのである。
私たちアメリカ人は、平時には、愛国心を当然のものとして表に出さない。アメリカの歴史や国家に命を捧げた人に対する尊崇の念を表わす七月四日(独立記念日)とか戦没者追悼記念日以外は、愛国心を表に出して騒ぐ国民ではないが、戦争中は、私たちも国家神道を絶えず感情的に表現していたのである。日本人を教育して心情的国家意識を捨てさせたいと思うなら、まず私たちの心情的国家意識を捨てるべきである。
国際関係の問題を正しく理解しようとする人なら、日本に対する最初の教育(※明治維新下から日露戦争頃 … 列強による治外法権下にあった半植民地状態の日本の事。)が問題を見事に解明してくれることに気づくだろう。今日私たちは「法と秩序」「条約の尊重」「国家の平等」「領土保全」「個々の人間に対する人道的配慮」といった、誰も否定できない原則に立って日本を非難している。しかし、最初の教育で日本は、そうした原則は文字に書かれた教典ではなく、力の強い国が特権を拡大するための国際システムのテクニックであることを、欧米列強の行動から学んだのだ。
日本の指導者たちは、先進国の行動に合わせながら、経験を積んでいった。そして彼らは、帝国を建設してきた欧米列強の歴史の全体を丹念に勉強した。その結果、彼らが理解したこと、あるいは理解したと思ったことは、西洋の原則というものは、国際法のうえであれ、人類の幸せを考える人道主義のうえであれ、現実には強い国々が弱い国を犠牲にして、自分たちの利益の増大を図るための術策にすぎないということだった。
領土の併合、あるいは力による経済的優位の獲得も、超大国がつくり出したルールに従って、「合法的にやりさえすれば」正当な行為とみなされる。日本が列強の行動からみてとったのは、そういうことだったろう。日本には合法的術策というものがはっきり見えてきたようだ。つまり、力を行使できる強い国は、「合法的」要求(外交ないしは通商関係の)を通すために「後れた」地域に力をつかう。ひとたび、要求が通れば、条約に書き込む。この手続きによってすべての行為が「合法」化されるだけでなく、弱小国は半永久的に「条約で決められた誓約を尊重」しなければならない。弱小国(あるいは後進地域の住民)が平等の関係を望むなら、強大国のために責献して新たな地位を得るか、要求を出せるだけの力をもつことだ。
日本人が実践で学んだ国際ルールによれば、力の立場を確立した国は、力の弱い国において特権的地位が得られるのだ。大国は必要とあれば力で「防衛」できる「誓約関係」をもつことが認められている。大国が力の弱い近接地域に「権益」をもつのは「合法」的である。そして、これらの「権益」(通常は経済的意味をもつものだが、もちろん、戦略的意味ももっている)によって、大国は現地政府の「法と秩序を維持する」法的権限を与えられる。
大国が近接の、あるいは遠隔の地域に「友好的」政府を求めるのは「法的に」正しい。そして、情勢が「国民を守る」あるいは「治安を維持する」ことを必要とした場合には、経済的圧力、または、できれば外交的手段で、「防衛上絶対に必要」なら武力によって、そのような友好的政府の樹立を助けるのは、合法的行為なのだ。
今日、私たちが日本を非難しているのは、日本が「国際的誓約」を破ったからである。しかし、最初の教育で日本が学んだときは、列強が極東で実践している国際ルールは、カのあるものには柔軟であるはずだった。ルールは大国の利益に役立つかぎり「合法」とされた。大国は自分たちの利益に必要であると思えば、必ず「事実の論理的帰結として」ルールを変えた。
日本が学んだのは、大国として認められたいなら、ルールを適用される側ではなく、ルールをつくる側にまわれ、ということだった。日本はまた、「後れた」国でも運よく本物の大国と同盟できれば、名誉ある大国の地位を得ることができる、ということを学んだ。
私たちは、日本人ほ「凶暴で食欲」であると非難する。しかし、最初の教育で日本は、人道主義、機会均等、人種の平等なるものは、国際法のルール同様、「法的擬制」にすぎないことに気づいたのだ。植民地住民は、日本より前に、ルールの理想論的内容と植民地の現実を比較して、それを知っていた。
欧米列強は「平等」を口にする。しかし、実際には人種差別を行ない、人種と力と「条約上の権利」を盾に特権を要求している。彼らは「自由競争」と「自由経済」を口にする。しかし、彼らは後進地域で独占支配を強め、経済的圧力あるいは武力で高価な権益を獲得し、特権として関税(自国だけでなく、支配地域の関税も)も管理している。彼らは「主権上の平等」という言葉をつかう。しかし、彼らほ現地政府を経済的圧力と武力で動かし、自国の法律に守られて居住している。
国際関係のルールとは、実は、暴力と食欲を合法化したようなものだ。基本原則の中で大国がきちんと守っているのは唯一、各国の政策立案グループが設定した「国益」だけではないのか。日本人が学んだのは、そういうことだった。以後、日本はそれをしっかり実践していく。
(※つまり、日本は当時の欧米の鏡であった。だから、欧米が日本を裁くのなら、自らも裁かれるべきだったのです。)
- ■欧米列強の正義・公正とは、利権の確保のこと
- 満州事変は複雑で混沌とした中国情勢の所産である。そして、こうした情勢をつくり出した責任は、すべての欧米列強が分担しなければならない。欧米の進出は日本と韓国に大きな変革をもたらした。同じように中国でも複雑な革命状況を生んだが、ここでは情勢はよくなるより、むしろ悪くなった。
日本では、「進歩的」親欧勢力がすみやかに状況を抑え、安定した中央政府のもとに国家統一を成し遂げた。新政府は所有権、通貨の統一と安定、銀行制度、国内法制の改革、貿易の管理など欧米列強が求める改革を実現した。しかし、中国はあまりにも広すぎて、仮に国民がその価値を認めたにしても、近代化計画はそうそう早く達成できるものではなかった。だから、欧米列強は自分たちの「利益」を守るために、主要都市における租借権あるいは割譲地を確保し、治外法権の保護のもとに自主行政権を行使し、これによって取引相手の中国人を規制したのである。
居留外国人が享受しうる広範な特権が条約に明記された。中国に半植民地的地位を押しつけたことから、「不平等条約」という名前で呼ばれた条約である。一八四四年以降この条約で保護された外国人社会は、共同して治外法権をより有利な特権的制度へと発展させていく。
外国の租界と割譲地では、外国人は完全に中国の法律の外にいた。彼らが輸入する製品には、条約で決められた低率の関税しかかからなかった。外国人は税金を払わず、罪を犯しても中国の裁判所で裁かれず、同国人の中から任命された判事によって裁かれた。各国はそれぞれ自国の銀行と郵便制度をもち、中国国内に自国の軍隊を駐留させ、中国の河川や港に自国の軍艦を配備して、自国民の生命、財産を守っていた。(※日本も同じような立場だった。)
中国の金融活動ほほとんど外国人に握られていた。対外貿易と国内の産業開発も、外国人が握っていた。今日でも、中国人の八〇パーセントは農民だが、中国の産業の成長速度がゆるかったのは、中国資本が外国資本と十分競争できなかったこと、関税が外国に管理されていたために、民族産業を保護できなかったことに大きな原因がある。外国資本と企業が支配体制を固め、拡大していったことも原因である。中国資本は外国と腐びつくことが多く、外国に押さえられている東部沿岸の背後に広大な中国が広がっていることを見ようとしなかった。
一九三年当時、中国の産業資本の四分の三は、中国の低賃金水準を利用する外国人に握られていた。わずかな鉄道も外国人が建設したもので、中国人のためではなく、外国人の特殊権益のために敷かれたものだった。外国人(実際にはイギリス人)
が関税と塩税を管理していた。そして、その収入(西洋列強が承認した「中央政府」の主要収入源)のほとんどが対外債務の利子返済に充てられ、政府の行政運営、近代化、福祉にはつかわれなかった。イギリスの税務管理は、行政規律に問題はなかったが、やがてイギリスと日本の関係を紛糾させる大きな要因になっていく。そして中国を内部崩壊させる力として働くのである。
イギリスは、「中央政府」との関係で特権的地位を握っていた。これが日本にとっては大きな不満だった。そのうえ、関税と塩税を担保にするイギリスの借款には利子が支払われているというのに、日本は膨大な額の債権を焦げつかせることになる。
外国勢力はまた、中国の政治をかなりのところまで動かしていた。一九一一年の辛亥革命で満州王朝が倒れ、中華民国の成立が宣言された。しかし、新しい共和国はすぐ、北京の保守政権、南部の革命政権、独自の軍隊と通貨をもち地方権力を握る軍閥小君主などの対立政権に分裂した。西洋列強はそのうちの一つ、一九二八年まで北京を本拠としていた政権だけを「中央政府」として承認したが、それでいながら、競って「地方軍閥」に金を貸し与え弾薬を与え、特権を得ようとしていた。
小君主たちは西洋列強の歓心をかおうと競っていた。彼らはいつも「認知」という勲章をつけた北京と、中央政府に入ってくる利益を争っていたのだ。西洋列強は、厳重に守られた租界の中で、自分たちだけは安泰だったが、中国の安定にはほとんど責献していなかった。
日本は大戦を利用して、条約の下で中国での権益を求めていった。それ以上に極東の「安定」を揺さぶったのは、共産主義革命という形をとって再び出現したロシアである。中国に権益をもち、アジアとその周辺地域に植民地をもつ大国にとって、共産主義ロシアは帝政ロシアよりずっと危険な対抗勢力だった。ツアーのロシアは「合法的に」ゲームをしていたが、ソ連は「帝国主義」を否定し、帝政時代の「不平等条約」を認めず、西洋列強が特権 を享受しているシステムの基盤そのものを直撃してきたのである。(※欧米が共産主義に対してこの認識に立てば、ルーズベルトのスターリンへの利益供与は、世界を共産主義の支配下とする確信犯だったことになる。)
中国にいわせれば、満州事変に対するアメリカの姿勢は「中国の側に」立っているようだが、フォーミュラが適切ではないのだ。中国の独立のためであるはずの行動が、実際には独立を侵している。スチムソン国務長官はアメリカの政策を「公正無私」という言葉で説明する。しかし、中国からみれば、アメリカの態度は中国に対して「公正無私」なのではなく、日本を含む列強との関係で公正無私であるにすぎない。もしアメリカが対中国関係で本当に公正無私なら、アメリカは中国にもっていた特殊権益を放棄していたはずである。だいたい、主権国家たるものはこのような権利を外国に与えほしないのだ。私たちほどこの国の軍艦であろうとミシシッピー川に入るのを許さない。そうであるなら、私たちには揚子江に軍艦を配備する権利はないのである。
アメリカが常々、中国の主権を守るためだ、といってきた門戸開放政策も、実際の行動では中国の主権を否定するものだった。一八九九年にジョン・ヘイが初めてこの政策を提唱したとき、中国は何も知らされなかったし、相談にもあずからなかった。ここでの問題は、中国が主権国家として西洋列強と交渉できるかどうか、ではない。西洋列強(日本も含む)が、おたがいにどこまで進んだら、中国を排他的植民地にして貿易と投資を独占することになるのか、その線をおたがいの合意で決めることができるか、という問題にすきない。
本当の敵は日本ではなかった。敵は、日本に満州での「合法的」権利を与えている不平等条約体制だった。このような体制がなければ、日本は満州事変を起こせなかったのである。それでも、私たちは満州事変非難のすべての根拠を、中国と日本が条約体制を危機に陥れたことに置いていた。
- ■連合国のアジア開放について
- 「解放された」台湾は、台湾人民の意思を測る何らの試みもなされないまま、内戦で二つに割れた一方の勢力に引き渡された。この「解放」方式の結果はかんばしくない。「解放された」台湾人民が日本の「奴隷化」時代にノスタルジアを覚えるかもしれないのだ。(※著者は日本が朝鮮や台湾への莫大な投資について、国内と同様の取り扱いについて何も知らない。)
アメリカとソ連が「解放された」朝鮮から去る前に、韓国国民が同じような感情に浸ることもあるかもしれない。「解放された」インドシナとインドネシアの人々は、「平和愛好」民主主義国のフランスとオランダによって、再び奴隷状態に置かれようとしている。そして、現地住民に対する残酷な扱いは、私たちが日本人だけの特性といってきたものだ。
解放された植民地におけるフランスとオランダの残虐行為にくらべれば、アメリカの実績はむしろ完壁といえるかもしれない。しかし、アメリカの国務省あるいは陸・海軍両省に、日本から「解放した」どの島においても、現地民の意思を問う住民投票の計画がなかったことは注目に値する。国民の間にも住民投票をすべきだという意見はなかった。アメリカは国連を通して「合法的」に太平洋諸島の支配権を得た。それも、「どっち道いただく」方式で取得したのだ。とにかく、「平和愛好」諸国の機関には「原住民」代表がいないのである。
米国政府は「平和愛好」民主主義国のフランスとオランダの「暴力と貪欲」を批判していない。「解放された」植民地住民を保護し、再解放するために軍隊を送っていない。これも注目すべきことだ。「平和愛好」民主主義国のイギリスも、彼らの同盟国、あるいは彼ら自身の「暴力と貪欲」を見ようとしない。イギリスはどこであれ自分たちの植民地にしがみつき、放棄を迫られれば、時間を稼いでいる。
ソ連は不当なカイロでの米英との密約において、樺太、千島列島、満州を平然と占領し、すべての大国と同じように国家利益を主張している。極東における「暴力と貪欲」は、日本の罪を問うときだけあからさまになる。
民主主義諸国が「凶暴で貪欲な」ときは、「後れた地域に秩序と文明」をもたらそうとしているか、「共産主義の脅威」を排除しようとしているときなのである。
日本は彼らの行動について、われわれが満州と中国に軍隊と行政官と資金を送ったのは、われわれの「条約上の権利」を強化し、「共産主義の脅威」を抑え、混乱状態に秩序をもたらし、国家の存立を保全し、外国勢力と国内の軍閥支配からこの地域を解放し、極東の平和と秩序を促進するためである、といっていた。
この主張は、私たちが朝鮮占領と対中国政策を説明するときの論理とまったく同じである。
蒋介石政権に対する巨額な借款、政治的支援、「顧問」の提供、蒋介石軍の増強と内戦中の兵員輸送の援助などの目的は、かつて日本が掲げていた目的と同じである。この政策が日本に関して間違っているなら(私たちはそれを罰している)、私たちに関しても間違いだ。
国際関係に対する私たちの行動がいかにばかげているか、これもニューヨーク・タイムズを読めば明らかだ。バージニア選出のハリー・F・バード上院議員の発言を扱ったワシントン発の記事(一九四六年一月三十一日付)はこういう。
ハリー・F・バード上院議員は本日、ソ連が千島列島を完全に支配しているのに、アメリカが占領した島を国連の信託統治下に置くというのは「愚かなことである」と述べた。同議員はかねてから、太平洋の重要な米軍基地は米国独自の支配下に置くべきであるという意見を、率先して唱えている。
今日私たちがいっているように、ソ連が「世界の脅威」であり、日本を支援したかつての米英両国の政策担当者が正しかったとすれば、ソ連を抑止し、「混乱した」地域に秩序をもたらし、中国における「共産主義の脅威」と戦う行動拠点を確保するために、満州を緩衝国家にしようとした日本を支援しなかった一九三一年以降の米英両国の政策担当者は、犯罪的に無能だったことになる。そして、対日関係をパールハーバーとシンガポールまで悪化させ、その結果、私たちの生命と財産ばかりでなく、極東の同盟国を失ってしまった政策担当者の無能ぶりは、犯罪をはるかに超えたものであるというはかない。(※これが、ルーズベルトが共産主義による世界支配を画策した結果だ。)
私たちの政策担当者は、パールハーバー以前の政策と現在の政策をどう整合させようとしているのか。何百万の生命と何十億ドルに相当する物量と人力をかけて、私たち自身の民主主義をぶち壊してしまう前に、政策担当者は「脅威」の実体について、もっと透徹した思索をめぐらし、揺るぎない決断を下すべきなのだ。
- ■英米は、反共の日本を潰し、ソ連・中共の脅威を拡大させた。
- 国際関係は歴史と同様複雑である。事実をめぐつていつも解釈が対立する。イギリスの安全保障システム(今日ではアメリカの「防衛」システムだが)は、多くの権威によって正当化され、褒めそやされている。しかし、私たちが掲げる平和と人類の幸福という目的に即してこのシステムを見ると、明らかに不利となる事実を三つ指摘することができる。
第一は、日本はイギリスとアメリカの全面的協力がなければ、軍事大国になることができなかったということである。
第二はソ連に関する事実である。イギリスのパワー・ポリティクスの絶えざる刺激がなかったら、ソ連はどうだったろうか。はっきりしているのは、平和を維持し、ソ連を抑止する目的でデザインされたイギリスのシステムは、そのいずれの目的も果たせなかったということである。パワー・ポリティクスは、日本とソ連では明らかに逆噴射したのだ。
第三は中国に関する事実である。蒋介石を投げ捨て、ソ連の傀儡である毛沢東を支援し、中国を共産化させた。
以上は、マッカーサー証言と同質で有り、上記に概要を述べた[日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず]の主張と同じである。
スターリンの実像は、ナチス・ドイツのヒトラー(毛沢東、金王朝)と同類の殺人鬼です。スターリンが実権を握ってからの大きな殺戮だけでも、一九三二年から一九三三年の大飢饉、一九三六年から一九三八年をピークとする大粛清があります。
『共産主義黒書 ソ連篇』によれば、大飢饉では人工的な飢餓発生によって六百万人が死亡し、約四千万人が飢餓もしくは食糧不足を経験しています。共産党の地区委員が農村の各戸から、将来の収穫のための種籾や農民が必要とする自家用食糧まで強制的に取り上げ、徴発に応じない農民を拷問にかけました。(※毛沢東と同じです)
『静かなドン』の中で、農民たちに拷問をかけていたことについて、こう述べています(「……」は原文のまま、引用者による省略は(中略)とする)。
寒気法:コルホーズ(共同農場)員の衣服を取って真っ裸で納屋の中の「寒気」にさらす。しばしば班ごとに全コルホーズ員を「寒気」にさらす。
熱気法:女性コルホーズ員の足とスカートのへりに石油をかけて、火をつける。それから火を消す。これを繰り返す … 。
(中略)わたしはこのたぐいの例をいくらでもあげることができます。これはけっして職権「濫用」ではなくて、小麦を徴収するための流行の方法なのです … 。(『共産主義 黒書』)
大粛清で一九三七年から一九三八年の間だけでも六十八万一千六百九十二人が処刑された。少数民族や、敵対階級とみなされた人びと、農業の集団化に抵抗したウクライナやタンボフ(ロシア西部の州)やサマーラ(ヴオルガ河流城の州)などで大勢が犠牲になっています。
また、政権幹部やスターリンの側近もスターリンの偏執的な猜疑心を免れることはありませんでした。『共産主義黒書 ソ連篇』はフルシチョフの秘密報告に基づき、「スターリンの腹心の政治局の五人のメンバー、一三九人の中央委員のうち九十八人、第十七回党大会(一九三四年)の一九六八人の代議員中一一〇八人が粛清された」と述べています。誰一人として頭を高くして眠れない恐怖政治です。
ところが、ルーズヴュルトはスターリンの人間像を完全に思い違いしていただけでなく、なぜか、自分はスターリンに好意を持たれていると信じ込んでいました。
ソ連は八月九日に日ソ中立条約を破棄して南樺太への侵略を始め、日本がポツダム宣言承諾後も一般市民を対象にした無差別攻撃を繰り返し、停戦協定が結ばれた八月二十二日までに千島列島と北方領土も不法占拠し、現在に至るまで不法占拠を続けています。
つまり、北方領土問題は、ヤルタ密約に端を発しているのですが、なぜか、こうした極めて重要な文書について、日本ではほとんど語られることはありません。
ソ連の対日参戦自体は、ヤルタ会談の前の三大国首脳会談であるテヘラン会談(一九四三年十一月二十八日から十二月一日)で議題に上り、その後何度も軍事的課題として議論が重ねられてきました。
ヤルタ密約文案を作成したのはソ連だった
スターリンの要求を受けて二月十日、ヤルタ密約の文案を作成し、決定するための会合が行われました。これも極めて異例な形で、ハリマンだけを介して交渉が行われています。文案はソ連側によって作られ、アメリカ側はろくに修正をしていません。ソ連側が常に優位に立ち続けた、非常に偏った交渉でした。
ヤルタ会談の期間中にも、米英ソの軍幹部や外交官が対日共同作戦の軍事的側面について何度も会議を開いています。しかし、対日参戦の政治的条件は、ヤルタ会談中にルーズベルトとスターリンだけで極秘で決められ、署名されました。
ヤルタ密約の署名文書はホワイトハウスの金庫にしまわれ、一九四六年二月に発見されます。それまでこの密約は議会の承認を得ることもなく、アメリカ国民はその存在を一切知らされませんでした。
日本国民から見ると、ヤルタ密約は、日露戦争後のポーツマス条約で正当に獲得した南樺太の領土や満洲の権益を「背信的攻撃で奪った」という言いがかりで奪われ、千島列島も奪われることになった根拠規定であり、到底、容認することはできません。
またアメリカ国民にとっても、ヤルタ密約はアメリカの国益を大きく損なうものなのでした。戦略的に重要な南樺太と千島列島をソ連に押さえられただけでなく、滴洲を実質的に支配されたことで中国大陸の共産化が進み、アメリカはその後ずっと、現在に至るまで冷戦に苦しむことになりました。
中国の共産化、北朝鮮の共産化、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、カンボジアのボルボト支配と、一連の冷戦の泥沼は、このヤルタ密約の落とし子でした。
ルーズベルト大統領とアルジャー・ヒスによる「アメリカ合衆国憲法違反」の秘密外交によって、第二次大戦後も、朝鮮半島とベトナムにおいてアメリカの多くの青年たちが命を落とし、多くの家族を悲嘆の淵に追い込みました。
アメリカ憲法に違反し、連邦議会の承認を得なかった「ヤルタ密約」がその後、どうなったのか。日本と深い関係があるので述べておきたいと思います。早稲田大学の有馬哲夫教授は、その経緯を次のように紹介しています。
時は流れて連合軍による日本の占領が終わろうとしているとき、ヤルタ極東密約はもう一度ライトアップされる。五二年三月二〇日に、
アメリカ上院でサンフランシスコ平和条約の批准が可決されたとき、
次のようなヤルタ極東密約についての附帯決議がなされていた。
上院の助言と決議として、上院はこの条約(サンフランシスコ平和条約)のなかには、日本と条約に定める連合国が南樺太やその周辺の島々、千島列島、歯舞、色丹、その他日本が一九四一年三月七日までに領有していた領土に関する権利や名称や利益をソ連に有利に思われるように減少させたり、誤解させたり、権利や名称がソ連のものであることに合意したとみなされるものはまったくないことを明言する。また、この条約やそれについての上院の助言と同意には、一九四五年二月一一日付の日本に関するいわゆるヤルタ合意に含まれるソ連に有利な条項をアメリカ合衆国が承認したと示唆するものはなにもない。
これはローズベルトとスターリンが合意し、チャーチルが署名したヤルタ極東密約を批准するかどうかをアメリカ議会が審議した最初の機会だった。そして、引用文でも明らかなように、議会は明確に批准を拒否した。
アメリカでは、大統領が他国の元首と結んだ協定や約束は、議会の承認が得られなければ無効となる。ヤルタ密約は密約のまま反故にされたのだ。(有馬哲夫『歴史とプロパガンダ』PHP研究所、二〇一五年。九〇〜九一頁)
ルーズベルト大統領の死後、ソ連に警戒心を抱くトルーマン民主党政権下で、政権内部に入り込んだ「ソ連の工作員たち」は次々とあぶり出され、アメリカ外交を壟断(利益・権利をひとりじめにすること)していたことが明らかになりました。
戦後、東欧とアジアが共産化したことに危機感を抱いた連邦議会も公聴会を開催し、政権内部で暗躍していた「ソ連の工作員たち」の活動を徹底的に追及しました。その結果、「ヤルタ密約」は全否定されることになったのです。
ところが、
こうした経緯は日本ではほとんど語られることはありません。
特に日本の歴史学会では未だに
スターリンとルーズベルト政権内部で暗躍した「ソ連の工作員たち」の活動は、タブー扱いされてきています。結果的に日本の知識人階層の多く、それも国会議員たちの大半が未だに、同盟国アメリカの議会がソ連の工作員たちの「秘密工作」を徹底的に追及し、
スターリンの戦争犯罪を非難していることを知らずにいるのです。これでまともな外交をアメリカやソ連・ロシアを相手にできると思いますか。北方領土返還交渉が遅々として進まない背景には、こうした日本のアカデミズムの隠蔽体質と、政治家たちの無知があるのです。
もっとも日本政府はと言えば、さすがに北方領土問題と関係しているので、かろうじてアメリカの上院と同じ認識を打ち出しています。加えて、ブッシュ大統領がヤルタ密約を批判しています[
ブッシュ大統領、ヤルタの屈辱を晴らす]。そして、ブッシュ大統領は小泉首相と一緒に靖国を参拝しようと誘っていたのです[
ブッシュ大統領の靖国参拝]。しかし、情けないことに、戦後自虐史観に染まっていた小泉首相が逃げ出してしまいました。
小泉純一郎政権当時、平成十八年二月十七日付で閣議決定された「衆議院議員鈴木宗男君提出ヤルタ協定に関する質問に対する答弁書」には次のように記されています。
御指摘の「ヤルタ協定」は、当時の連合国の首脳者の間で戦後の処理方針を述べたものであり、関係連合国の間で領土問題の最終的処理につき決定したものではない。また、我が国は、御指摘の「ヤルタ協定」には参加しておらず、いかなる意味においてもこれに拘束されることはない。この我が国の認識については、アメリカ合衆国(以下「米国」という。)、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(以下「英国」という。)並びにソビエト社会主義共和国連邦(以下「ソ連邦」という。)及びこれを承継したロシア連邦の各政府に対して、累次にわたって伝達してきているが、いつ、どのような形で初めて伝達したかについて確認することは困難である。
米国政府は、御指摘の「ヤルタ協定」について、単にその当事国の当時の首脳者が共通の目標を陳述した文書に過ぎないものであり、その当事国による何らの最終的決定をなすものでなく、また、領土移転のいかなる法律的効果を持つものでないという見解を表明している。英国政府の見解は、英国政府との関係もあり、お答えを差し控えたいが、右に述べた我が国の認識を否定するものではない。
ソ連邦政府は、御指摘の「ヤルタ協定」により、「択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島を含むクリル諸島のソ連邦への引渡しの法的確認が得られた」との立場をとっていた。また、ロシア連邦政府については、例えば、プーチン大統領の二〇〇六年一月三十一日の記者会見における「我々は共に、ヤルタ、ポツダム及びサンフランシスコにおける国際約束を害することなく、日本側にとっても、ロシア側にとっても受入れ可能な問題の解決の道筋を探し始めた。」との発言がロシア連邦大統領公式ホームページに掲載されている。
IPR(太平洋問題調査会)は、エドワード・カーター事務総長のもと、一九三〇年代には事実上コミンテルンのフロント組織となり、アメリカのアジア政策に対する積極工作とプロパガンダの道具として使われていました。その方向性は一貫して親ソ親中反日でした。IPRの中心的イデオローグであり、IPRの機関誌『パシフィック・アフェアーズ』の編集長でもあったオーウエン・ラティモアには、『アジアにおける解決』という著書があり、天皇に対する強い憎悪がにじみ出ています。
日本人が天皇なしでやって行こうと決意するのであれば、それはまことに結構なことだ。さもなくば、我々は、今や軍国主義は徹底的に打倒され、今更勝者たる我々は天皇を利用する必要などないということを示すべきである。我々は天皇およびその後継者となりうるすべての皇族男子を監禁すべきである。場所は中国がよいだろう。そして我々の連帯責任を強調するために、連合国委員会の監視下に置くとよい。(同、一三五頁)
日本の天皇制問題を解決しうるのは革命のみである。問題は制度であり、個々の天皇の性格や性向など重要でない。日本が改革によって「民主的君主制」を実現しうるなどという考えは誤りである。(中略)英国が王をもちつつ民主的でありうるのは、英国民がかつて英国王の首を刎ねたという事実によるのである。日本国民が同様に進歩的なことをするまでは(何が現在この首刎ねに相当するかは別に考えるとして)、日本は世界における不快の根源であり続けるであろう。(同、一二一頁より引用、( )内は原文のまま)
一方、同じ公聴会で、他の証人たちから、ラティモアが私的対話の中で「中国人は彼らをどう扱うべきか知っているだろう」と語り、
中国人による「皇族」虐殺を期待していたという証言や、皇族絶滅を唱えたという証言が出ています(『アメリカ知識人と極東』二五七頁)。
下記「日本・ファシズム国家論」こそ、典型的なコミンテルンのプロパガンダでした。コミンテルンは敵対勢力や敵対する人物を厳密な概念規定もないまま「ファシズム」「ファシスト」とレッテル貼りし、非難していたのです。こうしたソ連のプロパガンダに基づいてラティモアは、「天皇制」廃止と革命を強制することで日本を「民主化」しようと提唱したのです。ラティモアにとって、日本がソ連や中国のような人民共和国になることが、あるべき日本の「改革」であり「民主化」でした。
日本社会は本質的にファシスト的性格をもっている。(中略)日本はドイツの真似をしているだけだとして、日本ファシズムは外見上のものに過ぎないとかドイツの二番煎じだとかいう者もあるが、誤りである。実際は、日本ファシズムの方が、ドイツ・ファシズムより根が深い。日本社会は中世の頭脳が二〇世紀の手を動かす崎形児であり、「近代化」は人びとの中世的心性を温存しつつ、その手に近代的技術を習得させた。ここに日本社会の根源的・本質的なファシズム的性格がある。(同、一二二頁)
ラティモアの賠償徴収案が示す日本の未来図は、中国の絶えざる監視の下で常に経済的に収奪されながら、生き延びるためだけに頭を下げ続ける共産圏の弱小国家です。あるいは国家ですらなく自治区かもしれません。
日本が共産圏に飲み込まれて独立を失ったとしても、ラティモアの価値観では、日本の人民が中国共産党の「真の民主主義」に魅了されて自主的に傘下に入ったことにされるのが落ちでしょう。
ラティモアにとって、アメリカ的民主主義は民主主義そのものではなく、真に民主的なのはソ連であり中国共産党なのです。隣接する諸民族にとってソ連は「軍事的保障、経済的繁栄、技術的進歩、奇跡のような医薬、無償の教育、機会の平等、そして民主主義」(『アジアにおける解決』)そのものであり、共産圏に組み込まれる国々はあくまでも自発的にソ連を慕ってそうなったというのが、ラティモアの見方でした。
このような考えの持ち主がルーズベルト民主党政権の対日政策に多大な影響を与えたIPRの機関誌の編集長であったのです。
IPRや共産系マスコミのようなソ連の代弁者である「過酷な和平派」と熾烈に戦ったのが、アメリカ国務省幹部のジョゼフ・グルーら「
穏健な和平派」でした。
日米開戦前、グルーは駐日大使として、
日本の中で対米開戦を避けようとする政治家や有識者たちとの連携に努めていました。その基本的な考え方は、日米開戦によってアメリカに帰国してからも変わりませんでした。
一九四二年八月二十八日、平和組織研究会後援のラジオ放送で、
グルーは、皇室の存続の必要性を暗に訴えました。
「古い大樹を根から掘り返せば再生しない。しかし健全な根幹を残せば、注意深く枝葉を再生させることができる。腐った枝は容赦なく切り払い、日本という国家の中の健全部分を残さねばならぬ」(『アメリカ知識人と極東』、一三九頁)。
「天皇を含む日本最高の政治家たちの多くが、対米英開戦を避けるために、軍国主義者を抑制するため実勢な努力を傾けたが空しかった」「神道は天皇崇拝を一教義としている、……日本が軍国主義者の支配を脱した平和愛好的統治者の保護下に立つことになれば、神道のこの側面もまた日本再建の負債でなく資産となろう」という部分が問題になつたのです(同、一四一頁)。
『ニューヨーク・タイムズ』は社説で、グルーを「専制的神権政治のスポンサーになろうとしている」と批判しました。結果一旦は解雇されました。
一九四四年十二月、グルーは国務次官に昇進しました。対日政策や村中政策だけでなく、外交政策全般に責任を持つことになり、また、国務長官が不在の際の代行もグルーの任務になりました。
一九四五年六月、
IPRと極めて密接な関係のある『アメレジア』という雑誌の編集部に大量の政府の機密書類が漏洩していた事件で、FBIが『アメレジア』編集長のフィリップ・ジャツフエや海軍情報部のアンドリュー・ロス、バリバリの親中派外交官で中国から帰国したばかりのジョン・サーヴィスらを含む六名を逮捕しました。六名の中に、サーヴィスを含めて、国務省官僚が二名いました。
ポーランドなどを侵略しているソ連を真の民主主義勢力と見なしている時点で、このアメリカ共産党の見解は極めておかしいのですが、当時ソ連は実質的にアメリカの同盟国だったこともあって、こうした見解に賛同する官僚がルーズべルト政権内部に多数存在していたのです。
実際に「アメレジア事件」でのロスやサーヴィスらの逮捕からニケ月後に、グルーは国務次官を辞職することになるのですが、「過酷な和平派」とのこのような対立の一方で、グルーはソ連への警戒を強めていました。
ヨーロッパでのソ連の膨張政策とそれがもたらす世界情勢を危ぶみ、ソ連が対日参戦すれば、アジアでも同じことが起きるだろうと危倶したグルーは、早期終戦に向けて動き始めます。
一九四五年五月二十八日、
グルーは、ルーズベルト大統領の死去に伴って大統領に就任したトルーマンを訪問して、無条件降伏方針を修正した対日和平案構想を提案、その了承を得ました。グルーの原案の第十二条は、次のようなものでした。
日本政府が降伏を渋っていたのは、天皇の安全が保障されていなかったからです。
前記諸目的が達成せられ且日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立せらるるに於いては連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収せらるべし、この政府には現皇統下の立憲君主制を含む(『アメリカ知識人と極東』一五二頁、傍点原文のまま)
そこでグルーは、天皇の安全の保証を示した対日講和案を作成したのです。国務省のディーン・アチソンとマクリーシュ国務次官補が強力に反対しましたが、グルーはなおもこの原案採択を政府内で働き掛け続けました。
しかし七月一日、ステティニアスに代わって就任したばかりのバーンズ国務長官がハル元国務長官に意見を質し、
ハル(ソ連の工作員)の反対意見に従って、グルー原案の十二条後半の「この政府は現皇統下の立憲君主制を含む」の一節は削除されます。(※これにより、ソ連参戦、原爆投下という悲劇が、ソ連の工作員により実現してしまいました。以後、ヤルタ密談によりソ連帝国が拡大していくのです。)
- 日本は「白人打倒」という人種主義的スローガンでアジア人連合の盟主となって、復活しようというのです。
- ドイツにおいてはナチはドイツ国内にしか潜伏しませんが、日本の地下組織はアジア全体に潜伏する可能性があります。またドイツと同様、日本は西側とロシアを対立させようと画策するでしょう。この点でも鍵を握るのは中国です。
- 日本はまたロシアの脅威を口実として、英米を「反革命的」な日本の大企業に対し「柔い」態度に導こうとし、日本の大企業が軍国主義者以上に軍国主義的であることに対し、見て見ぬふりをしてくれることを望んでいます。
七月二十六日、十二条後半抜きのポツダム宣言が発表されましたが、日本政府としては、「皇室」存続の保障が明示されていなかったため、受諾できませんでした。
かくして
八月六日、広島に原爆投下、八月八日にソ連参戦、八月十四日、日本政府から対応について意見を求められた昭和天皇が「自分の生命はどうなってもいいから国民の生命を助けたい」として降伏を決断、日本政府はポツダム宣言を受諾しました。
明確なことは、日本は早期停戦を望んでいたし、アメリカの軍の幹部たちも国務省の「穏健な和平派」も、早期停戦を懸命に模索していました。
ところが、
その早期停戦をルーズベルト政権内部にいて懸命に妨害していたのが、「ウィーク・ジャパン派」、「過酷な和平派」と言われるオーウエン・ラティモアらであったのです。
彼らは、「無条件降伏」「皇室維持を認めない」という対日強硬案を提示することで、早期停戦を潰し、結果的に、二個の原爆攻撃、ソ連は対日参戦に踏み切り、満洲や千島列島などがヤルタ密約の通り、ソ連の支配下に落ちることになりました。
※その後、東欧諸国はソ連に、中国は共産主義に乗っ取られ、朝鮮戦争が起こり、ベトナム・カンボジアの悲劇。チベット・ウイグルの悲劇が、ドノ倒しのように起こりました。
開戦についても、米国のトッブ軍人他は、ソ連の脅威を認識しており、反対していました。それを潰したのが、ルーズベルト政権内のソ連エージェントでした。日本では、ゾルゲ-尾崎-近衛文麿などでした。
日米戦争とソ連との関係に関わる事実の解明が戦後すぐアメリカの連邦議会の各種委員会で始まり、アメリカの保守系の学者たちによって研究されてきたのです。にもかかわらず、こうしたアメリカの動向は、日本ではほとんど紹介されてきませんでした。
このため、『アメリカ知識人と極東』を読んだ読者の多くは、ラティモアこそ正義の士であり、日本人の真の味方であり、ラティモアが戦後、アメリカの「保守反動」によって弾圧されなければ、日本の民主化はもっと進んだはずなのだという読後感を持ったはずです。
ルーズベルト民主党政権の対日政策に強い影響を与えたIPRの功−タ一事務総長とラティモア編集長でしたが、連邦議会の公聴会の記録から浮かび上がってくるのは、彼らが「正義の士」などではなく、単なる「ソ連」の「使い走り」であったという実態でした。
『アメリカ知識人と極東』が刊行された一九八五年から二〇〇〇年までの間に、ヴェノナ文書が公開され、アンドリュー・ロスやトーマス・ピッソン、ラティモアを蒋介石顧問として推薦したラフリン・カリーらがソ連工作員であることが物証とともに明らかになりつつあります。それを受けて、長尾教授は『アメリカ知識人と極東』を改題し、再刊された『オーウエン・ラティモア伝』に附録「十五年後に」と「再版あとがき」をつけています。それらの加筆部分でも、ラティモア、ロス、ピッソンらこそ正義であり、彼らのスパイ行為を告発したマッカーシー上院議員は悪である、という構図をいささかも変えていないのです。(※果たして、日米を開戦に追い込んだだけでなく、早期停戦を妨害し、結果的にソ連の対日参戦を実現させたラティモアやIPRを「正義の士」として描くのは妥当ではなく、ソ連のエージェントで日本の敵だと記述すべきです。)
ソ連の国益に従ったラティモアたちを「アメリカ的正義」だと主張しているのですが、正確に言えば「ソ連の正義の代弁者」と表現すべきでしょう。
彼らの秘密工作の結果、わが国は日米戦争に追い込まれただけでなく、早期和平も妨害され、原爆、南樺太と千島列島への侵略、シベリア抑留という形で多大の被害を受けたとも言えるのです。しかも
ヤルタ密約と対日ソ連参戦によって中国大陸には共産主義国家が誕生し、朝鮮半島の北半分もー党独裁政権に牛耳られ、今なお人民は圧制と貧困に喘いでいます。(※こうした現実に心が痛まないのでしょう。神を殺してしまった共産主義者は!)
総じてわが国の日米関係史研究では、戦前・戦中、アメリカの「中国派」、私の表現を使えば
「ウィーク・ジャパン派」の背後にソ連の秘密工作があったことに触れてきませんでした。
アメリカでも学界やメディアが、アメリカを裏切った者たちを、あたかも無実の被害者であるかのようにかばい、むしろ英雄視してきました。そのような状況は今でも続いています。
その結果、アメリカと自由世界を敵に売った裏切り者たちのほとんどが、その責任を問われることなく、大手を振って自由を満喫し続けました。エヴァンズらが批判するように、
ルーズベルト民主党政権とその支持者たちは、ルーズベルトの失策と、アメリカ国内で行われたスターリンの秘密工作を懸命に隠蔽してきました。
ルーズベルト政権やトルーマン政権の責を負うべき高官たちは、自分たちの仕事ぶりについてすべての真実が世間に公表されていたら、大きな代償を払わなければならなかったことだろう。だから彼らは事実を隠蔽する強い動機があったのだ。また、実際に隠蔽できる立場にいることも多かった。『スターリンの秘密工作員』
もともと
ルーズベルト大統領は自らの反日親ソ外交を正当化するため、一九四三年十月の時点で、ドイツや日本に対して「侵略国家」というレッテルを貼る戦犯裁判を計画していました。
この計画を引き継いだトルーマン民主党政権とルーズベルトを支持する「ウィーク・ジャパン派」(その大半がソ連や中国共産党に親近感を持つサヨク・リベラル派)も、「卑劣なだまし討ちを仕掛け、侵略戦争を行った日本を叩きのめすためには、ソ連と同盟関係を結ばざるを得なかったのだ」という宣伝工作を実施しました。
その象徴が一九四六年五月三日に開廷した極東国際軍事裁判所、いわゆる東京裁判です。
「日本悪玉論」を前面に打ち出すことで、スターリンの秘密工作に振り回されたルーズベルト民主党政権の失策を隠蔽しようとしたのです。
しかもその隠蔽工作に、日本の多くの学者やマスコミ、官僚たちも協力してきたと言わざるを得ません。
その一方、本書で紹介したように第二次世界大戦直後から、
アメリカの連邦議会は、ルーズベルト民主党政権とその内部で暗躍したスターリンの秘密工作員の責任を徹底的に追及してきました。その議論に基づいてアメリカの反共保守派の学者たちも、東欧とアジアの共産化と東西冷戦という悲劇をもたらしたソ連とルーズベルト民主党政権の問題点を必死に解明しようとしてきました。ところが、そうしたアメリカの反共保守派の苦闘は、日本ではほとんど紹介されてきませんでした。
日米両国の「ウィーク・ジャパン派」によって、ラティモアこそが「正義の士」であり、日本が軍事的に弱いことを望む
「ウイーク・ジャパン派」だけがアメリカであるかのように、われわれは「誤解」させられてきたのです。アメリカには、軍事的に強い日本を支持する「ストロング・ジャパン派」が存在することに気付かないよう巧妙に操られてきたのです。スターリンの秘密工作員の後継者たちとその協力者たちは戦後も、アメリカと日本で隠蔽工作を続けてきたわけです。(※中国がこれを継いでいる)
アメリカは一枚岩ではなく、ルーズヴュルトとスターリンの責任を追及する反共保守派がアメリカに存在しているこの厳然たる事実を私が明確に理解したのは、二〇〇五年のことでした。
二〇〇五年五月七日、
ブッシュ大統領はラトビアの首都リガで演説し、一九四五年二月のヤルタ会談での米英ソ三カ国合意について、「安定のため小国の自由を犠牲にした試みは反対に欧州を分断し不安定化をもたらす結果を招いた」と言明し、「史上最大の過ちの一つ」だと強く非難したのです。
米ソ主導の戦後の国際秩序を定めた「ヤルタ会談」をこともあろうに、アメリカ大統領自身が、批判するとはどういうことなのだろうか。アメリカ最大の保守系オピニオン・サイト「タウン・ホール」に、「草の根保守」のリーダー、フィリス・シュラーフリー女史が二〇〇五年五月十六日付で「ブッシュ大続領、ヤルタの屈辱を晴らすと題して次のような論説を書いていたことを知った。シュラーフリー女史は一九五〇年代から長年にわたってアメリカの保守主義運動を牽引した活動家であり、冷戦を終わらせた共和党のロナルド・レーガン大統領の盟友であり、全米でその名を知らない人はいないというほど有名な作家でした(二〇一六年に死去)。
ジョージ・W・ブッシュ大統領、ありがとう。時期がだいぶ遅れたとはいえ、誤った歴史を見直して、フランクリン・D・ルーズヴュルト大統領の悲劇的な間違いのひとつを指摘し、よくぞ謝罪の意を表明してくれました。
去る五月七日、ラトビアにおいて演説したブッシュ大統領は、大国同士の談合によって、多くの小国の自由を売り飛ばしたヤルタ協定は誤りだったと言明しました。ブッシュ大統領は「中央ヨーロッパと東ヨーロッパの数百万人を囚われの身」に貶めたヤルタ協定を的確に非難し、「歴史上、最も大きな誤りのうちの一つとして記憶されるであろう」と述べました。
この発言がなされるまで五十年の歳月が経過しましたが、ブッシュの発言は、「ヤルタ協定の負の遺産が最終的に今後永遠に葬り去られた」ことを確認したことになります。(『コミンテルンとルーズヴュルトの時限爆弾』一五〇頁)
続いて、ヤルタ密約の背後に、ソ連のスパイであるとして告発された国務省幹部アルジャー・ヒスの暗躍があったことを指摘しています。
ヤルタ会談のニュース写真は、共産主義スパイだったアルジャー・ヒスの存在を浮かび上がらせます。エドワード・ステティニアス国務長官への首席顧問として、ヒスはほとんど全てのヤルタ会談の会合に出席し、ルーズベルトが一番の電話を使い、ステティニアス国務長官が二番の電話を使い、彼は三番の電話を使える位置にいました。
ヒスは、ヤルタ会談の十九日前に、アメリカの立場に関する全ての最高機密ファイルと文書を与えられました。ウィリアム・ノーランド上院議員(カリフォルニア州選出・共和党)は、これではルーズベルトは「背中に鏡を置いたままポーカーの試合をする」状況に置かれたようなものだと言っています。
共和党員と、デイビッド・ローレンスやジョン・T・フリンのような誠実な作家たちはヤルタ会談での裏切りを非難しましたが、ルーズベルト大紋領のシンパであるメディアはヤルタ会談の成果を称賛しました。タイム誌はヤルタを「偉業」と呼び、ライフ誌はそれを「成功」と呼びました。そして、ニューヨーク・タイムズ紙はそれを「勝利と平和への道しるべ」と呼びました。
しかし真実は、最終的にうそと隠蔽を覆します。
ヤルタ協定は一九三八年に英独間で結ばれたミュンヘン協定や、ヨーロッパを分断し、数百万人もの人々を囚われの身としたヒトラー・スターリン協定などの「正義に反する先例」を引いている、と非難したことによって、ブッシュ大統領はヤルタ協定に関する歴史的事実の誤りを正したのです。(同、一五一〜一五二頁)