世界が語る大東亜戦争と東京裁判




 大東亜戦争が侵略戦争では無く、人種差別からの解放だったと証言している。世界中からの声をこれだけあつめているのは、読む価値があります。是非、原文のご一読をお勧めいたします。
 尚、張作霖事件は日本としているが、旧ソ連の陰謀。GHQは日本を民主化しようとしたとあるがそうではない。などにご注意下さい。⇒[戦後自虐史観]参照



◇アメリカ軍が薄氷を踏む思いで戦った大東亜戦争

 戦後、日本の左翼勢力と一部の元軍人たちによって、当時の日本は最初から負けると分かっている戦争になぜ飛び込んでいったのかという厳しい批判が行われたが、元NHKアメリカ総局長で、四十年以上にわたって日米関係を見てきた米ハドソン研究所主席研究員の日高義樹氏は、その著書で「アメリカの指導者は、太平洋戦争は薄氷を踏む思いで戦った戦争で、幸運と日本の失敗によって勝つことができたという自覚を持っている」と述べている。 実は、その「幸運」の象徴こそが昭和十七年六月のミッドウェー海戦であり、日本では、この海戦は「単なる太平洋における負け戦であると考えられているが、アメリカにとっては太平洋戦争の帰趨を決めた戦略的な大勝利であった」のである。
 この海戦の勝利によって、「ルーズベルト大統領は、後顧の憂いなくすべてのアメリカ軍をヨーロッパに送ることが可能になり」、その結果アメリカは、連合軍に第二次大戦の勝利をもたらしたからである。
 別言すれば、「ミッドウェーで日本海軍をやぶっていなければ、ルーズベルト大統領は、アメリカ軍をすべてヨーロッパに送ることなどできず、ヒットラーに敗れていただろう」
 元太平洋艦隊司令官のドーラン大将も、アナポリス海軍大学で、ミッドウェー海戦で米海軍よりも二倍の戦力を持った日本海軍に「勝てたのは幸運のおかげだった」と述べている。
 また旦尚氏は、戦後の日本人には「ミッドウェーの戦いは、パールハーバーの初戦で勝った日本海軍が自信過剰に陥り、偵察活動を十分に行なわなかったうえ、情報管理が不十分だったので敗れたとされているが、その結果、世界の歴史が大きく変わったという自覚はまったくない」とも述べている。
 だがここで、もう一つの世界史の大きな変化を述べなければならないだろう。それは、今次の大戦が戦後のアジア・アフリカに多くの独立国を生み出す契機となったことである。
 確かに、帝国海軍がミッドウェー海戦で敗れたことで、その後の大戦の帰趨を決定したかもしれないが、英国の歴史家H・G・ウェルズは、「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種の平等をもたらし、世界連邦の基礎を築いた」と、今次大戦のもう一つの世界史的な変化について述べている。
 東保英機首相は、その遺言書で「私は今回の戦争を通じて、東亜民族の生存に対する権利の主張を達したものと思っている」と述べているが、この言説は、大東亜戦争がアジア民族の生存を賭けた戦いであり、その世界史的な意義を示したものとして重要であると思う。
 だが、戦後の日本人には、当時の日本の国力を遥かに超えたアメリカの指導者をして「太平洋戦争は薄氷を踏む思いで戦った戦争で、幸運と日本の失敗によって勝つことができた」と言わしめた日本軍は、例え戦いに敗れたとはいえ、西欧の植民地支配を崩壊させて世界史の流れを大きく変えたという誇りが、全く欠けている。


◇著者おわりに

 著者が大東亜戦争と東京裁判の名言を調べるようになつた動機は平成十三年八月十三日に、小泉首相が靖国神社で「前倒し参拝」を行った後に述べた、いわゆる「村山談話」である。
 以前から大東亜戦争を請えたアジア・西欧諸国の指導者や識者の名言を知っていた著者は、この「村山談話」に大きな疑問を抱いたからである。いったい、村山元首相は、どのような根拠で大東亜戦争を「侵略戦争」と断定するのだろうかと。
 この歴史認識を覆すには、一次史料や当時の関係者の証言はもとより、被侵略国と呼ばれているアジア諸国の人々の証言を集めるしかないと思うようになったのである。
 こう思い立ってから図書館や古書店に足しげく通うようになった著者は、靖国神社の遊就館に展示してあるビルマの最高殊勲章「オンサンの旗」やインドネシアの功労勲章「ナラリア勲章」を見た時の感激を、今でも忘れない。
 元ビルマ独立義勇軍(BIA)出身のネ・ウイン大統領は昭和五十六年一月四日に、ビルマ独立に貢献した日本人七名(元商機関メンバーの機関長・鈴木敬司大佐の未亡人・鈴木節子氏、杉井満氏、水谷伊那雄氏、川島威伸氏、泉谷達郎氏、鈴木八郎氏、高橋八郎氏)を大統領官邸に招き、「オンサンの旗」を授与したが、これは国家元首として過去五回にわたって来日した彼が、そのつど元商機閲メンバーとの親交を暖めることを決して忘れなかったからである。
 本書でも触れたように、商機関が戦時中に結成したBIAから発展した現在のミャンマー国軍の将校の特徴として、元アンカレッジ総領事でビルマの日本大使館に勤務した佐久間平喜氏は、その著書で、日本軍から学んだ精神的遺産(愛国心、名誉心、自己犠牲の精神)の継承を挙げている。
 また元丸紅ヤンゴン出張所長の加藤徳道民も、その著書で日本軍の遺産を継承したミャンマー国軍の特徴について、次のように述べている。「ミャンマーの国営テレビ放送は軍艦マーチで始まる。曲に合わせて軍のパレード、演習風景などが映る。日本ではパチンコの店頭ぐらいでしか聞かれなくなった軍艦マーチだが、ミャンマーでは正式な軍歌である。ミャンマー語の歌詞もついていて、誰も日本に起源があるとは思っていないようだ。他にも日本軍歌がそのままミャンマー軍歌となっている例は多数ある。軍隊の組織からしてほぼ完全に旧日本軍を踏襲している。小隊、中隊、大隊、連隊、師団という編成とその人数は旧日本軍そのまま。士官の定員なども完全に同じであり、現にミャンマー軍には大将が二人しかいない。定員を忠実に守ればミャンマー軍の兵員数が少ないために二人しか就任できないからだ。ミャンマーの国軍はまさしく日本が基礎固めした」
 一方、インドネシアのナラリア勲章は昭和六十三年八月十七日に、インドネシアの独立と復興に尽くした六名の日本人(前田精、高杉晋一、清水斎、小笠原公留、稲嶺一郎、金子智一)に対して、スカルノ大統領より授与されたものである。
 東京・銀座四丁目には、こじんまりしたインド料理店のナイルレストランがある。この店を初めて訪れたのは、平成十六年の春ごろであった。知人から紹介された店主、G・M・ナイル氏の父親A・M・ナイル氏は昭和三年三月に、インドから来日して京都帝国大学工学部に入学し、卒業後は、インド独立運動の指導者ラシユ・ビハリー・ボース(新宿中村屋にカレーライスの作り方を伝授した人でもある)の片腕としてインド独立連盟の結成に関わった人である。
 戦後もナイル氏は帰国せずに、昭和二十五年から日本初のインド料理店を銀座四丁目で営業しながら、三度来日したパール判事を連れて全国各地へ講演旅行を行い、通訳者として活躍した。
 著者は、ナイルレストランを訪ねた時、このナイル氏の子息から「生前、父は、東候先生には本当にお世話になりましたと言っていました」とうかがった。この時、本書の中に掲載したインドの第二代大統領ラダクリシュナン、インド国民軍大尉でインド国民軍全国在郷軍人会代表のS・S・ヤダバ、そしてインド弁護士会会長グラバイ・デサイの名言にもあるように、ナイル氏もまたインド独立運動を支援した東棟英機元首相に対する恩義を忘れていないことを確信した。
 ある日、東京でアジアの青年から道を尋ねられたことがあった。どちらの国から来たのかと尋ねてみると、その青年は「インドです」と答えた。そこで、思いきって尋ねてみた。
「昔、日本軍がインド解放のために一緒に戦ったことを知っていますか?」
 すると、その青年は、こう答えた。
「知っています。日本軍は、インド解放のために一緒に戦ってくれたのです」と。
 著者が「でも、そのことを日本人は知らないんだ」と言うと、彼が不思議そうな顔をしたのを、今でも覚えている。
 また、ある晩、新宿の某レストランに食事に出かけた時、そこでミャンマーの留学生が働いていた。そこで、著者は「昔、日本軍がビルマ解放のために戦ったことを知っていますか」と尋ねてみた。
 すると、彼はインド人留学生と同じように「知っています」と答えた。
 著者が「そのことを日本人は知らないんだ。戦後、アメリカは東京裁判で日本側を一方的に裁いて日本人を骨抜きにしたから」と言うと、彼は「ミャンマーの学校では、日本軍がアジア解放のために戦ったことを教えていますし、戦後、アメリカが日本人に嘘をついたことも聞いています。ミャンマーにも、日本人留学生がたくさん来ますが、みんなそのことを知らないんです。本当に情けないですね」と言ったのである。
 こうしたミャンマー国軍やアジア留学生の姿を見た時、日本は西欧列強に敗れたとはいえ、日本軍が残した遺産が今もなおアジア諸国に生き続けていることが分かるのであるが、反対に、大東亜戦争に対する正しい歴史認識を持っているのは日本人の青年ではなく、むしろアジアの青年であり、日本ほど自国民から誤解を受けている国はないという感慨を覚えるのである。
 日本軍から軍事訓練と愛国教育を受けたアジアの青年たちは、日本の敗戦後に展開された民族解放戦争や民族独立運動で中心的な役割を果たし、戦後も国軍や政界の指導層の一員(例えば、アウンサン将軍、ネ・ウイン大統領、朴正興大統領、スハルト大統領など)となつて政治力を行使するようになっていった。そして、その子供たち(例えば、現ミャンマー国民民主連盟書記長・下院議員アウンサン・スーチー、元韓国セヌリ党代表朴模恵など)もまた、政界で活躍する者が多いと言われている。
 いつか、本書の続編として、アジアに与えた大東亜戦争の衝撃によってアジア諸国がどのように政治意識に目覚め、民族の自尊心と勇気を取り戻し、民族解放戦争や民族独立運動に立ち上がったのか、そして日本がアジアの発展に対して、どのような教育的投資を行ったのかを検証し、合わせて真の独立とは何かを詳しく考察した本を上梓したいと思っている。
 このことは、大東亜戦争が果たして侵略的動機から行われたものであったのかどうかを解明すると同時に、戦後のアジア諸国と日本の独立との差異を考察する上でも、非常に重要な意味を持っているからである。
 四年前、某私立高校で非常勤講師として世界史を担当していた際、アジア・西欧諸国の指導者と識者たちの名言集の一部を教材として使用したことがあるが、ふだん本など読まない生徒たちが、この名言を読み、大きな感銘を覚えたようである。
 著者の授業に感化された生徒の中には、国会議員になりたいとか、防衛大学に入りたいと言い出す者が現れ、実際に三名の教え子が自衛隊に入隊したし、生徒たちに将来、この名言集の出版について話すと、後から値段を聞きに職員室にやって来る者も現れたほどであったが、こうした生徒が出てくるのも、日本の自虐的教育に対する反発心があるからであろう。
 将来、日本を背負っていく若者たちに正しい歴史認識を持たせるには(別言すれば、アメリカ占領軍の仕掛けた「戦争犯罪情報計画」から青年たちを解き放つには)、戦中派の人々の体験談を集めた教材をたくさん作って、それを学校で使うしかないと思う。




◇世界の指導者と識者が語る大東亜戦争の真実


■タイ

1.ククリッド・プラモード(首相)
 日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。
 十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決意をされた日である。さらに、八月十五日は、われわれの大切なお母さんが、病の床に伏した日である。われわれは、この二つの日を忘れてはならない。

2.タナット・コーマン(副首相・外務大臣)
 あの戦争によって世界のいたるところで植民地支配が打破されました。そして、これは、日本が勇戦してくれたお蔭です。新しい独立国が、多くの火の中から不死鳥のように姿を現わしました。誰に感謝を捧げるべきかは、あまりにも明白です。

3.プラ・サラス(外務大臣)
 日本は決して滅びはしない。日本は必ず盛り返して、東南アジアにおける有力な地位を再び占めることになろう。わしは日本人の優秀さをしっているからいうが、日本人はいつまでも占領されている国民でないよ。それに東南アジアの西欧植民地を一挙に解放したこの厳然たる事実は、かりに日本が敗れても抹殺することは最早不可能なんだ。タイはあくまでも日本との仁義を重んじて、固く同盟条約を守り、戦がどう悪化し、どう終結しようとも、日本との友好は維持して行かねばならないのだ。

4.ソムアン・サラサス(タイ王国政府顧問)
 日本は、ヨーロッパにより植民地化されていた多くの国々が目覚める機会を与えました。東南アジアの国々は日本の闘いと東南アジアの独立を助けようとした日本の決意により勇気を鼓舞されました。日本の姿勢と勇敢さにより、植民地化されていたアジア諸国はプライドを持ち、そのために将来のための心構えができたのです。

5.B・アンボン(元タイ国軍最高司令部日タイ連絡所勤務・通訳官)
 大東亜共栄圏や八紘一宇など私は当時の日本の理想は正しいと思います。日本は白人を追い払った後、戦前にイギリス、フランスから奪われていた領土をタイに返してくれました。大々的にお祝いしましたよ。日本は占領して自分の国にしようという考えはなかったと思います。解放してみんなが独立して立派にやっていくようにという信念を持ってきたのでしょう、日本が犠牲になってね。
 それを日本が侵略したとか、虐殺したとか言われていますが、私のみたところではそんなことはありませんでした。みんな正しくやってくれましたよ。タイの人は日本の兵隊さんは悪かったとは言っておりません。仏領インドシナの人たちもそうですね。ただ、日本軍は厳しすぎたということばありますが。……とにかく、東洋人が白人を倒したのは日本人だけですからね。何百年も前からそんなことはなかった。それを私たちの前でやってのけたのですから大変な驚きでした。

6.カセトシリ(タマサート大学歴史学教授)
 タイと日本との関係は他の東南アジアとは違う。タイは公式的には日本のパートナーだった。
 地下の抗日運動はあったが、日本は一応同盟国として扱った。だから基本的に反日感情はタイにはない。


■マレーシア

7.マハティール・ビン・モハマド(第四代首相)
 アジア人の日本人が、とうていうち負かすことのできないと私たちが思っていた英国の植民地支配者を打ちのめした。私の心の中にアジア人としての自信が次第に芽生えてきた。マレー人だって日本人のように決心すれば、自分の意思でなんでもできるはずだと。
 ご存知のとおり、日本軍が領土を拡大した理由の一つは、欧州が日本に対する東南アジアからの原材料、とりわけ燃料の供給をストップさせる懸念があったからでした。燃料の供給を止められれば、経済活動ができなくなってしまう。事実上の包囲網を断つために、日本は太平洋戦争に突入したのです。
 日本が五十年前の戦争について謝り続けるのは理解できない。過去は教訓にすべきだが、将来に眼を向け、日本はアジアの平和と繁栄のために役割を担うべきだ。日本の国連安保理常任理事国入りを支持する。

8.ラ小ソヤー・ダト・ノンチック(上院議員・南方特別留学生)
 私たちやアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍は、永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。永い間眠っていた自分たちの祖国を自分たちの国にしよう″というこころを目覚めさせてくれたのです。
 私たちはマレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見た時に、今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育を行ってくれたのです。
 ……私たち南方特別留学生が日本で教育を受けたころの日本は、現在の日本と比べることができないほど貧しい国でした。しかも、あの当時の日本は、全身傷だらけになって、アジアを西欧植民地から解放するための大東亜戦争を戦っておりました。
 私たちはその貧しい戦時下の日本で、『日本の素晴らしさ』を与えられました。
 あの当時の日本人は、心と心とがふれあう交わりをもって、アジア諸国に偉大な遺産を遺してくれました。すなわち四百年の永きにわたった植民地体制を打破し、アジアの青年たちに民族自決(独立)を戦いとる決意と覚悟を与えてくれたのです。私たちは、日本の青年が命を捨て血を流して遺してくれた、尊い偉大な遺産を基にして、祖国の独立とアセアンの結成を成し遂げたのです。

9.ガザリー・シャフィー(外務大臣・マラヤ興亜訓練所一期生)
 日本はどんな悪い事をしたと言うのか。大東亜戦争で、マレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。わずか三ケ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが、英軍は再び取り返すことができず、マレーシアは独立したのだ。

10.ウンク・ア‥ソズ(マラヤ大学副学長)
 戦争という体験によって、我々は強くたくましくなりました。これを必要としない人もいるかも知れませんが、当時マレーシアでは、このように溌刺として強固な人間を育成するためには、非常に重要だったのです。日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方を持つこともです。おそらく今の日本では、この考えが必要ないと思われているでしょうが、我が国では、独立の為に、この精神がどうしても必要だったんです。
 日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植民地時代より悪質な独裁制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上がったのです。何千という人々がこれに反対したのです。女性でさえも、デモに参加しました。
 これは戦争の心理的インパクトです。このことがあって、我々の独立は早まりました。だから、我々は、この点を大変感謝しているのです。

13.ビン・モハマド・ナクラ(歴史研究家)
 大変感銘を受けました。我々が学んだのは、日本人の規律の良さでした。それを見た我々に意欲が湧きました。日本軍が来る前は、イギリス人、または白人は神のように高い存在で、我々は話しかけるにも躊躇しました。白人に見つめられると、恥ずかしい感じがしたものです。ところが、よく見れば白人はそんなに高くはない、神でもない。彼らはアジアの軍隊に負けたのですから……。こんな思いもあって、もうイギリスの保護を、求める必要もない、独立は、我々自らの力で要求できるのだと、確信するようになったのです。

14.ロザリー・イソハック(副知事・コタバル戦争博物館館長)
 一九九一年、私達は日本のコタバル上陸五十周年を祝いました。これが、ケランタン、つまり当時のマラヤにとって、意義ある出来事であったからです。ここコタバルは、日本軍最初の上陸地です。私は、戦争博物館の館長として記念行事を担当していましたが、多くの人がこの重要な出来事を、長く記憶に留めていただきたいと願っています。

16.サイド・フセイン・アラタス(マラヤ大学副学長)
 先の戦争にあたって、日本の皆様が私達の独立を大きく助けてくださいました。日本の皆様がしてくださった最も重要なことは、東南アジアの人々に初めて「自信」というものをもたらしたということです。

17.モハメド・ソピー(マレーシア言論界と政界の重鎮)
 僕は憲兵隊の警部だった。日本のおかげで我々は独立を早めることが出来た。日本とマレーシアには英国にはない共通点がある。八紘一宇の精神だ。


■シンガポール

19.ゴー・チョクトン(第二代首相)
 日本軍の緒戦の勝利により、欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は自分たちも欧米人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後十五年以内に、アジアの植民地は全て解放された。(一九九二年二月十一日の国立博物館戦争展の開会式にて)


■インドネシア

20.スカルノ(初代大統領)
 インドネシアと日本は一心同体である。日本軍の援助がなければ、永久にインドネシアは独立できない。

21.スハルト(第二代大統領)
 日本語の勉強を始めてまもなく署長から日本軍が組織し始めた現地人軍隊、郷土防衛軍(PETA)への入隊を勧められた。五百人の応募者の中から私ともう一人が選ばれ、訓練の施設のあるボゴールに送られた。……PETAでの訓練は想像を絶していた。朝五時半から夜遅くまで軍事教練、理論、精神教育が続き、最前線の司令官となる小団長(小隊長)には特に厳しかった。仲間の一人がたるんでいると全員が夜中まで正坐をさせられた。
 相撲もやった。五回勝つまでやめられず、きゃしゃだった私はつらい思いをした。「駆けろ、駆けろ」朝の走行訓練での指導官の掛け声は耳に残っている。私が当時を語る時の用語はいまだに日本語である。……PETAでたたき込まれた闘争精神、愛国精神抜きには、我々は再植民地化のため攻めてきたオランダを撃退できなかったと私は思う。その意味で日本軍に感謝している。

22.スシロ・パンパン・ユドヨノ(第六代大統領)
 「日本軍の侵攻がわがインドネシアの独立につながった」(自民党の山崎拓幹事長が二〇〇一年に東南アジア五カ国を訪問した際に)

23.モハマツド・ハッタ(初代副大統領)
 一九四四年九月の初め、東条に代わった小磯首相の、インドネシアは「後日必ず」独立させる、という言葉が放送された。この言葉にインドネシア全土が歓喜したと言ってよい。ジャカルタではこの声明に感謝する大会が開かれた。……小磯首相の発表と並行して、ジャワでは多くの変化があった。国歌インドネシア・ラヤを再び歌うことが許可された。紅白旗は日の丸と一緒に掲揚が許された。一九四四年十二月には、数人のインドネシア人が各部の参与になった。彼らは各部の次官と見なされた。この地位は、将来インドネシアが独立した時、大臣になるための訓練をしておくため設けられたものだ。

24.アダム・マリク(第三代副大統領)
 (オランダの降伏は)東インドにおけるオランダ帝国の終わりであった。バタビアから植民地全体を支配していた時のオランダ人は誇らしげで尊大で冷酷であったが、この同じ人間がチラチャツプのごみの中に這いつくばって日本刀の前で許しを乞うていた。これを見た私の胸中に、思い出として東インドにおけるオランダ帝国の崩壊がやきついた。
 日本軍占領当時、この書物の著者(著者注‥アフマッド・スバルジョ)の指導のもとに、予想されたあらゆる事態に対処すべく青年を鍛錬するための青年塾が育成されたが、その主たる目的は、青年たちに新しい時代、つまり独立時代の到来に備えさせることにあった。著者のこの仕事は、インドネシアの独立運動に同情し、協力をしてくれた日本人、たとえば西嶋重患氏、前田精海軍少将、故吉住留五郎氏などから、誠意ある、建設的かつ小さからぬ意味をもつ援助を得たのであり、その名前を忘れることはできない。この三人の方たちは、引き続きインドネシアの独立準備に協力し、独立宣言を迎えるにいたったのである。

25.モハメッド・ナチール(初代首相)
 大東亜戦争が起きるまで、アジアは長い植民地体制下に苦悶していました。そのため、アジアは衰えるばかりでした。アジアは愚かになるばかりでした。だから、アジアの希望は、植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は、私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。

26.アラムシャ将軍(第三副首相)
 日本軍がインドネシアに来る数年前より、、現在の国家が、東京からラジオ放送で流されました。我々は、もちろん、独立を願っていたので、日本軍がインドネシアに上陸してきた時は、熱狂的に迎えました。我々は、日本軍の協力があれば実現できると確信したからです。

35.ケマル・イドリス(陸軍中将)
 日本が敵前上陸したとき、私たちは心から喜んで日本軍を迎え入れた。日本は非常に短い時間でオランダ軍を降伏させた。私はタンゲラン青年道場に入って非常に厳しい訓練を受けた。それは酷ともいえる教育だったが、私はそれを喜んで受け入れた。しばらく訓練を受けているうちに、これはオランダと戦うのに役に立つということに気がついたからだ。今でも日本に感謝の念を持っている。

36.ズルキフリ・ルビス(陸軍大佐・参謀長代行)
 大東亜戦争が契機となって、アジアからアフリカまで独立しました。日本にだけ犠牲を払わせてすまないと思っています。そして、大東亜戦争中の日本軍政の特徴は、魂を持ってきてくれたことです。我々と苦楽をともにし、農作業や各種技術の初歩を教えてくれ、軍事訓練までほどこしてくれました。当時の日本をトータルでみれば、軍人が最も真面目熱心で、インドネシア人の心をとらえました。

37.シャリフ・アディル・サガラ(弁護士・南方特別留学生)
 「日本は植民地支配者であるオランダを追い払った、驚異のアジア人」。サガラ氏が覚えている日本人の第一印象だ。「一番好きな日本語は『徳』です。戦争中の日本人が見せた団結心。愛国心。大和魂。民族意識。私もそうなりたい、と思った」

38.ブギラン・ユスフ(南方特別留学生)
 今こそ、日本は大東亜共栄圏のリーダーになるべきです。……かつて、アジア人は助け合って発展しよう、といったではないか。今こそ、大東亜共栄圏の約束を実行してくれ。……五十年前、日本人はアジア人になろうとした。だから私たちは親日なのです。だが、戦後の日本人は西洋人になろうとしている。最近留学した若者は、みんな反日になって帰ってくる。

39.ウ オマール・トシン(モハマディア大学学長)
 私と同じ早大出身の海部首相が、大東亜戦争を理解しないのは遺憾である。あれでは戦死者は犬死になってしまう。アジアの大部分は親日なのに、なぜ少数派の反日派に迎合するのか。
 その理由を聞きたいものである(一九九一年四月末からASEAN諸国を歴訪した海部首相の謝罪演説に対して)。

40.ヤン・ヴィダル夫人(元新聞記者)
 ヨーロッパは五百年にわたってアジア・アフリカを搾取した。しかし彼らはけっして謝罪しないし、賠償金も払わない。五百年のヨーロッパが謝罪しないのに、三年半の日本が謝罪するのは、外交吉痴だ。もしこれがイギリスや中国だったら、「海部首相は利敵行為をした。彼は売国奴である」と罵倒されるに決まっている。英・蘭・仏等はなぜ謝罪も賠償金も払わないのか、研究しなさい。


■インド

47.ラダクリシュナン(第二代大統領)
 インドでは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像も出来なかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きたのだ。

■ジャワハルラール・ネルー(初代首相)
 チャンドラ・ボース[チャンドラ・ボースを守った日本人]が日本と協力してつくったインド国民軍(INA)の裁判である。イギリスはこれらのインド国民軍を脱走兵として処理しようとした。実に三十年ぶりに弁護士の法服を着て、法廷に立ったネルーは「これら立派な若者たちの主たる動機は、インド解放への愛情であった」と述べ、また、「かれらの日本との協力は、インド解放を促進するための手段であった」と弁護した。

51.S・S・ヤダバ(インド国民軍大尉・インド国民軍全国在郷軍人会代表)
 われわれインド国民軍将兵は、インドを解放するために、共に戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散聾した日本帝国陸軍将兵に対して、最も深甚なる敬意を表わします。インド国民は、大義のために生命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまで決して忘れません。われわれは、この勇士たちの霊を慰め、御冥福をお祈り申し上げます。(靖国神社への書簡より)
 私が、最も日本人が好きになったのは、シンガポールが陥落した頃、捕虜となった我々を兄弟のように扱ってくれたことでした。イギリス人は、我々を差別して、一緒に食事もしないし、同じ車にも乗りませんでした。ところが、日本人は、よろこんで我々と一緒に食事をしてくれました。このように、人種や身分といった差別を抜きにして同じ釜の飯をたべ、平等な取り扱いをうけたことが、我々、インド国民軍に大きな精神的影響を及ぼしたのです。


■ビルマ

61.バー・モウ(初代首相)
 真実のビルマ独立宣言は、一九四八年一月四日ではなく、一九四三年八月一日に行われたのであって、真実のビルマ解放者は、アトリー氏とその率いる労働党政府だけではなく、東條大将と大日本帝国政府であった。

62.ウ・ヌー(初代外務大臣・首相)
 歴史は、まさに高い理想主義と目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ、生命と財産を犠牲にした例を一つくらい見るべきだ。
 そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命付けられているかに見える。(昭和二十三年八月一日のビルマ独立式典の演説より)

63.コドマイン(ビルマ三十人志士・ビルマ独立義勇軍将校)
 私の人生で今日ほど幸せだったことはない。わが国土から英国が追放され、偉大なアジア民族が馳せつけて他のアジア民族を解放してくれた。我々に古代の遺産と国土と自由、宗教、文化を取り戻してくれた。私は死ぬ前に、この事せな日を見ることができた喜びに泣いた。


■スリランカ

70.デシャマンニィ・P・R・アントニス(スリランカ総合病院客員上級医師)
 一九五一年にアメリカのサンフランシスコにおいて行われた対日講和会議で、スリランカの代表だったJ・R・ジャヤワルダナが、「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るものである」という御釈迦様の御言葉を引用して、日本に対する損害賠償請求権を放棄し、また、占領軍によって占領されマッカーサーによって憲法が制定され、諸外国が日本の分轄統治を主張するという中において、日本は自由であるべきであり、なにものにも束縛されてはいけない、という演説をしました。
 私達スリランカは唯一、日本から賠償を求めなかった国でした。他の国々は全て賠償を求めたのでした。


■韓国

80.許国山碓(東方工商専科大学学長)
 日本は東候神社を創建すべきだ。東候首相は天皇陛下に最も忠実に、国家の命ずる所に従って全力を尽くした。私心なく清廉潔白で、汚職のけぶらいは全くなかった。日本は不幸にして敗れたが、彼は全責任を負って断頭台にのぼった。こういう人こそ顕彰すべきではないか。

81.黄文雄(作家・拓殖大学日本文化研究所客員教授)
 第二次世界大戦後の世界の大きな流れの一つとして、世界各地の植民地の解放運動がある。そのきっかけが大東亜戦争であり、東南アジアにおけるABCD(米英中蘭)の植民地は、日本軍に占領されたことで白人支配から解放され、新国家の国造りが始まった。日本が戦争に負けると、戦勝国として一時的に白人が植民地に戻ってきたものの、もはや過去と同じように支配を続けていくことはできなかった。そしてこの東南アジアの植民地独立が、新しい時代の潮流として地球上のすべての植民地に拡散していった。これが第二次世界大戦後の世界史の一大特色である。

82.鄭春河(台湾人元志願兵)
 大東亜戦争の勝利者が日本であり、敗北者が戦勝国の欧米諸国であると彼等は自認してゐる。正しくその通りだ。戦勝国は果たして何を得たか。目的を達成したか。日本は敗れても目的と理想は完全に達成してゐる。即ち、欧米諸国の東洋制覇の野望を覆し、植民地政策を崩壊させ、弱小民族の独立と今日の繁栄を斎した事実は何人と離も否定出来ない。詳しく述べれば、戦後僅か五年でインド・パキスタン・セイロンを含む東亜の諸民族は悉く独立した。地殻変動といふか、その民族解放のマグマはアラブ・アフリカに及び、更に中南米に波及して、今や国連加盟は発足当時の五十二ケ国から三倍以1になってゐる。斯様にして世界三十億の有色民族が独立解放を果たした。即ち、大東亜戦争は民族解放に世界的貞献をしたのである。


■中国

84.金文学(作家・比較文化学者・文明批評家)
 日本の起こした大東亜戦争についても、戦後六十年が過ぎた今、侵略史観とアジア解放に貢献したという解放史観とが激しく対立しています。
 大東亜戦争についての議論はさまざまですが、日本がアジアにおける白人支配覆滅に貢献したという事実は否定できないものです。インドネシアのオランダ支配、ビルマ・マレーシアのイギリス支配、インドシナのフランス支配それらから、日本が各国を解放したことはまぎれもない事実です。
 その会議(著者注:大東亜会議⇒[大東亜会議参照])では、日本の東条英機、中華民国の江兆銘、タイのワイワィタヤコン殿下、満州国の襲塁思、フィリピンのラウエル、ビルマのバー・モーなどの各国の指導者が参席し、最後は「大東亜を米国の樫橋から解放し、共存共栄の秩序を建設する」とした「大東亜共同宣言」を採択した。
 日本の敗戦で素晴らしい「大東亜共同宣言」は幻になってしまいましたが、アジア諸民族の西欧植民地からの解放につながったことは大変よいことです。日本の戦争が、東南アジア人に空前の自信を与え、白人支配と戦うことを教えただけでも計り知れない功績があるといえます。


■南アフリカ

85.ネルソン・マンデラ(第九代大統領)
 「日本軍がインド洋を越え、エジプトまで来ていたら、南アは一九五〇年ころには独立していた」と口々にいうので本当に驚いた。また「日本軍は大東亜戦争を途中で止めたからけしからん」と微笑を浮かべて力説する男がいた。
 側近は「マンデラ氏も我々と同意見である。マンデラ氏は『日露戦争の日本、大東亜戦争の日本、援助する日本、工業の日本に感動した。日本に行きたい。天皇陛下にお会いしたい』と毎日語っている」と説明してくれた。


■アメリカ

86.ハーバート・フーバー(第三十一代大統領)(⇒[ルーズベルトの罪状]参照)
 私は、ダグラス・マッカーサー大将と、(一九四六年) 五月四日の夕方に三時間、五日の夕方に三時間、五日の夕方に一時間、そして、六日の朝に一時間、サシで話した。……私が、日本との戦争の全てが、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であったと述べたところ、マッカーサーも同意して、また、一九四一年七月の金融制裁は、挑発的であったばかりでなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為になったとしても戦争をせざるを得ない状態に日本を追い込んだ。制裁は、殺我と破壊以外の全ての戦争行為を実行するものであり、いかなる国と錐も、品格を重んじる国であれば、我慢できることではなかったと述べた。
 ……ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、一九四一年七月、つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその一カ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが本】質的には戦争であった。ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三にわたって、そんな挑発をすれば遅から早かれ(日本が)報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていた。

87.ダグラス・マッカーサー陸軍元帥(連合国軍最高司令官)
 日本原産の動植物は、蚕をのぞいてはばとんどないも同然である。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫(すず)がない。ゴムがない。ほかにもないものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在していたのである。
 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万人から一千二百万人の失業者が日本で発生するであろうことを彼らは恐れた。したがって、彼らが戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要性に迫られてのことだった。

88.ハロルド・R・スターク海軍大将(海軍作戦部長)
 禁輸は日本のマレー、蘭印、フィリピンに対する攻撃を誘発し、直ちにアメリカを戦争に巻き込む結果となるだろう。

89.アルバード・C・ウエデマイヤー陸軍大将(中国戦線米軍総司令官兼蒋介石付参謀長)
 一九四一年七月二十六日、ルーズベルトは日本に対して経済的な制裁を加えたが、この制裁は、日中事変の勃発当初であったなら中国をたすけたかもしれなかったが、一九四一年七月では、もはや中国にとってなんの利益にもならなかった。いまや、こうした制裁は、中国を援助するためではなく、日本を戦争に挑発するためであり、イギリスの勢力を維持するために、どうしたらアメリカを参戦させられるかという、ルーズベルトのジレンマを解決するために使用されていた。

91.ジョージ・S・カナヘレ(ハワイ日本経済協議会事務局長)
 日本占領軍がインドネシア民族主義の為に行った種々の仕事のなかで、最も重要なものの一つは、正規軍および准軍事組織を創設して、それに訓練を与えたことであろう。この作業は、とくにジャワ、バリ、およびスマトラで推し進められた。のちにインドネシア独立軍の将校や下士官となった者たちほとんどすべて、および何万という兵士たちは、この訓練をへて軍事技術を身につけ、日本の敗戦後に戻ってきたオランダ軍を相手に独立戦争を闘ったのであった。もしこの訓練がなかったら、そして日本の降伏後、インドネシア人の手に入った日本軍の武器や軍需洛只材がなかったなら、インドネシア独立戦争の行方は違った方向に進んでいたかもしれない。こうして、日本の占領は、インドネシアの民族主義勢力を権力の戸口まで導いた。民族主義者にとって、日本占領時代は、独立への、単なる序曲以上のものであったかもしれない。

102.クリストファー・ソーン(サセックス大学教授・英国学士院特別会鼻)
 一九四一年以後の年月をバタヴィアで過ごしたあるフランス人は、次のように主張している。「日本人は一般的には敗れたといわれているが、アジアのこの一角では『戦争に勝った』のだ」。
 共産党と国民党とが相対略していた中国の状況が日本の手によって変えられてしまったように、東南アジアの多くの地においても日本の動きが影響して、革命的情勢、あるいは革命的情勢の萌芽、すなわち白人支配の安易な復帰を許さないような情勢が生まれることになったのである。
 ……太平洋戦争は東南アジア政治のなかにまったく新しい型を生み出した一九四〇年の情況に親しく接した者が、その後一九四八年まで同地を訪れることもなく、その間いろいろな報告を調べて最新の事情にふれることもなかったとしたら、おそらく自分の目を信じることができなかっただろう。この目覚しい進展は、一つには日本が直接、意識的にもたらしたものだった。しかしそれは、日本の意図をはるかに超えていた。
 一九四一年の末から四二年の初めにかけて、日本軍は劇的な圧倒的勝利をおさめました。そのとき、日本が白人の威信に与えた衝撃は、一九〇四−〇五年の日露戦争でのロロシアに対する勝利よりもずっと大きなものでした。

103.エリック・ホブスバウ(ロンドン大学教授)
 インドの独立はガンジー、ネルーが率いた国民会議による独立運動ではなく、日本軍とチャ ンドラ・ボース率いるインド国民軍(INA)が協同してインドへ進攻したインパール作戦によってもたらされた。

104.ルイス・アレン(ダーラム大学フランス語教師・ビルマ戦線情報将校)
 われわれが日本陸海軍のなかに理想主義者がいたということを無視したとすれば、それは愚かしいことであろう。日本には、そしてアジア大陸の側にも、日本がビルマに、ヴェトナムに、インドネシアに独立をもたらしたと真面目に信じている人たちが事実いるのである。


■オランダ

108.サンティン(アムステルダム市長・内務大臣)
 あなた方の日本国は、アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、アジアの諸民族に大変迷惑をかけたと、自らを蔑み、ペコペコと謝罪していますが、これは間違いです。
 あなた方こそ、自らの血を流して、アジア民族を解放し、救い出すという人類最高の良いことをしたのです。……本当に悪いのは、侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。
 日本は戦いに敗れましたが、東亜の解放は実現しました。即ち、日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わったのです。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。
 日本の功績は偉大であり、血を流して闘ったあなた方こそ、最高の功労者です。自分を蔑むことを止め、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきであります。(昭和六十年に日本傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時に行われた市長主催の親善パーティの歓迎の挨拶より)


■オーストラリア

109.ソヨン・D・レッグ(モナッシュ大学歴史学主任教授)
 インドネシアの日本による占領は、たんなる一植民地体制の他の植民地体制による交代ではなかった。それはインドネシアの社会に新しい圧力を加え、土着の政治活動のパターンを大幅に再編成し、また、インドネシアの抵抗勢力が急速に成熟していくことを可能にするまったく新しい環境を作り出した。これに劣らず重要なことは、日本侵攻の直接的心理的効果だった。……心理的に重要だったことは、敗北がオランダの威光に打撃を加えたことにある。日本の進行に直面してオランダの植民地体制が突然に崩壊したことは、これまでインドネシア人の一部の忠誠心を掌握してきた力が粉砕されたことを意味した。




◇世界の指導者と識者が語る東京裁判の正体


■インド

1.ラダピノツド・パール(東京裁判判事)
 私は一九二八年から一九四五年までの十八年の歴史を二年八ケ月かけて調べた。とても普通では求められないような各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中には、おそらく日本人も知らなかった問題もある。それを私は判決文の中で綴った。この私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることが分かるはずだ。然るに日本の多くの知識人たちは、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に「日本は罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙をあえてしたのだ」と教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分に研究していただきたい。(昭和二十七年十一月六日の広島高等裁判所での講演より)

3.マンモハン・シン(第十七代首相)
 完五二年、インドは日本との間で二国間の平和条約を調印し、日本に対するすべての戦後賠償を放棄しました。戦後、ラダピノード・パル判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています。こうした出来事は、我々の友情の探さと歴史を通じて、危機に際してお互いに助け合ってきた事実を反映するものです。(平成↑八年十二月↑四日に訪日したマンモハン・シン首相夫妻の衆議院議場歓迎の挨拶より)

7.ソンディ(ネルー大学教授)
 ……将来の展望に立ち、この東京裁判の問題を見直し、検討しようではないか、と。一方に偏った文化による、いわゆる多数派の判決、あるいは勝者の判決から抜け出し、世界が平和のために生きるために、この件を早急に取り上げる必要があります。東京裁判は正しい判決を下しませんでした。それ故に、パール判事の貢献は将来のために極めて大きいのです。

8.ヘランボ・ラル・グブタ(インド独立運動の指導者)
 極東国際軍事裁判、即ち東京裁判は、二十一世紀に入れば必ず多くのアジアの国々によって見直されるだろう。そして第二回東京裁判が実現する。その頃はアジアも世界も良識をとりもどし、すべてが公正にして真理の法の前の平等に裁かれる。その時こそ東亜積年の侵略者である欧米列強の英雄たちは、こぞって重刑に処せられ、かつて東京裁判で重罪をこうむった日本人、なかんずくA級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり神として祀られる日がくるだろう。またそのようになるべきであろう。


■中国

10.金文学(作家・比較文化学者・文明批評家)
 極東国際軍事裁判に出席したインド人の裁判官パルも、最終段階の審理終了後、東条英機ら二十五名の有罪について、長文の反対意見を発表しました。彼は全被告を無罪とすべきと強く主張しました。日本の戦争が自国のイギリス植民地統治を破壊し、アジアを白人統治下から解放してくれた功績に感謝していたからです。
 東京裁判で、敗者日本に対して、勝者アメリカが日本を「非正義」として裁くのは当然かもしれません。しかし、本質的に東京裁判は西洋世界の日本に対する「報復」以外のなにものでもありませんでした。
 その意味でアメリカによる戦後の占領統治は、新たにスタートした対日戦争であったと見ることもできます。東京裁判はこの戦争の一つにすぎないのです。日本を改造する大きな意味を持った戦争のつもりで、GHQは日本を徹底的に洗脳する独裁統治を実施したのです。……さらに中国も韓国も、戦後の対日史観は、実はこの東京裁判史観に由来しています。国の内外を問わず、この罪深い東京裁判史観を払拭していかないかぎり、中韓の対日史観も変わることはないでしょうし、「友好」なども単なる戯言にすぎないでしょう。


■韓国

11.呉善花(作家・拓殖大学国際学部教授)
 米英仏ソ四国は、戦争犯罪に関する従来の国際法の考え方を独自に拡大解釈して、しかも戦後裁判によって処罰することができるとしたのです。……裁判の内容そのものもまことに一方的なものでした。裁判手続きでは判事、検事ともに中立国から選ばれず、すべて連合国の代表でした。「勝者の正義」が第一の前提であり、原爆投下などの連合国側の行いについてはまったく問題にされませんでした。また、日本の歴代首脳の中にもさまざまな意見があり、内閣もたびたび変わっているにもかかわらず、極端な軍国主義による首脳らの一貫した共同謀議による侵略戦争という立場から判決がなされました。
 私はこうした東京裁判(極東国際軍事裁判)をめぐるさまざまな事情を知るにおよんで、こんなものはとうてい認められない、認めてはいけないと思いました。それは日本の戦争を支持するとかしないとかいう問題ではありません。そういう問題以前に、こんな一方的な裁判で赦戦国や敗戦国の人々を裁くことそれ自体が間違っているということです。


■台湾

12.鄭春河(台湾人元志願兵・台湾の事業家)
 敗戦国日本は戦勝国に戦争責任を問われ、歴代の首相や閣僚たちが根こそぎ逮捕されてしまつた。……戦勝国の手による復讐は、一方的な優越感のもとに行われた裁判であつた。戦勝国は日本の政治組織を根こそぎ解体せねば止まぬ目的を持つて戦争犯罪人を捕へたのである。そしてその人達に「戦犯」といふ新しい人称代名詞を冠し、由来「戦犯」の呼び名はこの裁判によつて独自に使はれるやうになつたのだ。……彼等は戦争は非人道的な行為だと主張しながら戦争を挑発し、法廷ではかつて日本の指導者だつた被告たちを罵倒した。そして拘置所に収容した被告たちには牛馬にも劣る非人道的な生活を押し付けたのであつた。戦犯たちは戦勝国の判事の前に屈しなければならなかつたのである。
 戦勝国は法律なき軍事裁判の法廷で、日本に侵略国の汚名を着せ、更に無知な国民にそれを宣伝出来る効果を利用したのである。それは侵略の強調こそ、白人自らの得意とした「侵略」の歴史を覆ひ隠すための方法であつた。これは米国が中国大陸の権益にありつけなかつた復讐である。


■メキシコ

13.ラフアエル・デ・ラ・コリナ(駐米メキシコ大使)
 われわれは、できることなら、(著者注‥サンフランシスコ講和条約の)本条項〔第十一条〕が連合国の戦争犯罪裁判の結果を正当化しっづけることを避けたかった。あの裁判の結果は、法の諸原則と必ずしも調和せず、特に、法なければ罪なし、法なければ罰なしという近代文明の最も重要な原則、世界の全文明諸国の刑法典に採用されている原則と調和しない、とわれわれは信じる。


■アルゼンチン

14.イポリト・ヘスス・パス(駐米アルゼンチン大使)
 この文書の条文は、大体において受諾し得るものでありますが、二、三の点に閲し、わが代表団がいかなる解釈をもって調印するかの点、及びこの事が議事録に記載される事を要求する旨を明確に述べたいのであります。……本条約第十一条に述べられた法廷〔東京裁判〕に閲しては、わが国の憲法は、何人もいえども正当な法律上の手続きをふまえずに処罰されない事を規定します。


■エジプト

15.アーメド・M・リファート(カイロ警察アカデミー講師)
 現在問題としている世界戦争〔第二次世界大戦〕が始まった期日まで、国際社会においては、いかなる戦争も犯罪″ とはならかった。正義の戦争″と不正義の戦争″との違いは、国際法学者の学説の中においてのみ存在していたのである。パリ条約は戦争の性格を変えなかったし、国際社会における戦争に関して刑事上の責任を問うことはできなかった。戦争はこれまでと同じく法の圏外に取り残されたのであり、戦争遂行のあり方のみが法的規律の下に置かれたのであって、いずれかの戦争を犯罪とするいかなる慣習も発達しなかったのである。


■アメリカ

16.ダグラス・マッカーサー陸軍元帥(連合国軍最高司令官)
 占領中に経験したことで、極東国際軍事裁判の判決を実行にうつす義務ほど私が懸念したものは、おそらく他にあるまい。私は戦争中、捕虜や被抑留者に残虐行為を加えたり、それを許したりした敵の現地司令官、その他の軍関係者に対する刑罰は、承認したことがある。しかし、戦いに敗れた国の政治的指導者に犯罪の責任を問うという考え方は、私にはきわめて不愉快であった。
 そのような行為は、裁判というものの基本的なルールを犯すことになる、というのが私の考えだった。

17.コートニー・ホイットニー陸軍准将(連合国軍GHQ民政局長)
 占領行政運営期間中、極東国際軍事裁判の判決に従って行動しなければならないという義務ほど、マッカーサーに深い懸念を与えたものはおそらくあるまい。
 ……敗戦国の政治指導者を戦争責任で有罪にするという原則は、マッカーサーにとっていやなものであった。そうすることは、刑法の最も基本的な規則に違反するものだと彼は感じていた。開戦の決定をした日本の政治指導者を有罪とするならば、真珠湾攻撃の責任追及だけに限るべきである。なぜなら、これは国際法や国際的慣習によって必要とされる事前の宣戦布告なしで行われたものであるから。そう彼は感じ、その旨勧告した。したがって、一九四六年一月四日、東京で始まった国際軍事裁判の実際の裁判手続きに関するいっさいの責任から解放されたことを彼はよろこんだ。

18.チャールズ・A・ウイロビー陸軍少将(連合国軍GHQ参謀第二部長)
 対日理事会のメンバーたちは、極東国際軍事裁判をニュールンベルグ裁判の東京版に仕立て上げようと目論んでいたが、マッカーサーはどうしてもこれに賛成しなかった。マッカーサーは、一個の歴史家として、かつてアメリカの南北戦争で敗北した南部が、戦争終了後数十年を経ても、北部に対する深い恨みを抱きつづけたことを知っていたからである。

19.エリオット・ソープ陸軍准将(連合国軍GHQ対敵情報部部長)
 敵として見た場合、トウジョウをはじめ、ただ怒り、正義その他の理由だけで、即座に射殺したい一群の連中がいたことは、たしかである。しかし、そうせずに、日本人に損害をうけて怒りにもえる偏見に満ちた連合国民の法廷で裁くのは、むしろ偽善的である。とにかく、戦争を国策の手段とした罪などは、戦後につくりだされたものであり、リンチ裁判用の事後法としか思えなかった。

20.ウィリアム・J・シーボルト(連合国軍GHQ外交局局長・対日理事会議長)
 被告たちの行動が、善悪という哲学的観念から見て、いかに嫌悪を感じさせ、また批難すべきものであったとしても、当時としては国際法に照らして犯罪ではなかったような行為のために、勝者が敗者を裁判するというような理論には、私は賛成できなかったのだ。もちろん、これと反対の意見の中にも、相当の説得力をもったものもあった。そして歴史によって、その正当性が証明されるときが来るかもしれない。しかし、この点に関しては、私の感じは非常に強かったので、この最初の演出された法廷の行事が終わるまで、私は不安な感じに襲われ、再び法廷には戻らなかった。しかし私は、恐ろしく長い裁判の進行に、それが終了するまで注意を怠らなかった。

21.ウィリアム・ダグラス判事(連邦最高裁判事)
 極東国際軍事裁判所は、裁判所の設立者から法を与えられたのであって、申立人の権利を国際法に基づいて審査しうる、自由かつ独立の裁判所ではなかった。それゆえに、パル裁判官が述べたごとく、極東国際軍事裁判所は司法的な法廷ではなかった。それは政治権力の道具に過ぎなかった。


■ドイツ

51.クヌート・イプセン教授(ルール大学学長)
 平和に対する罪に関する国際軍事裁判所の管轄権は当時効力を持っていた国際法に基づくものではなかった。また、当時すでに戦争に訴えることは禁止されていましたが、これについては、個人責任は確立されていなかった。戦争禁止の違反については刑法上の制裁も存在しなかった。その限りにおいて、条例は事後法であり、東京国際軍事裁判所自身によって「一般的な正義の原則」と明確に認められた「法律なければ犯罪なし」の格言に違反するものでありました。

53.ブルーノ・ピッテル神父(駐日ローマ教皇代表、バチカン代理公使)
 極東軍事裁判というのは、いかなる意味でも国際的とはいえない不当な裁判である。……たとえ管轄権を持つ正当な司法裁判所が設置され、現行国際法に準拠した厳正な裁判が行われたとしても、敗戦国が被告しか送ることのできない裁判は、正当な意味での厳正中立な裁判ではない。


■フランス

54.アンリ・ベルナール(東京裁判判事)
 (著者注‥極東国際軍裁判)条例は被告に弁護のために、十分な保障を与えることを許していると自分は考えるが、実際にはこの保障は被告に与えられなかったと考える。
 多くの文明国家でそれに違反すれば全手続きの無効となるような重大な諸原則と、被告に対する訴訟を却下する法廷の権利が尊重されなかった。


■オランダ

55.ベルト・フアン・A・レーリンク(東京裁判判事)
 彼(著者注‥マッカーサー)は私に、東京裁判には反対である、その理由は戦争責任に関する起訴状にある、と率直に語りました。彼は簡潔な裁判を望んでおり、真珠湾奇襲のみを扱えばよいと語りました。真珠湾の復讐は果たされるべきであり、真珠湾攻撃には凶悪犯罪、戦争法規の重大違反の熔印が押されるべきなのでした。マッカーサーはこの点に関して非常にはっきりしていました。
 ……彼(著者注‥東京裁判の終結後、離日するレーリンク判事への挨拶に訪れたウイロビー少将)は、私におごそかに言いました。「この裁判は史上最悪の偽善です」。彼は私に、こういう種類の裁判が開かれたことで、自分は息子に軍に入隊することを禁じるだろうともいいました。私は、彼にその理由を尋ねました。彼は、日本が置かれていた状況下では、日本が戦ったようにアメリカも戦ったであろうと述べました。
 ……石油輸出禁止時期の日本の石油状況を思えば、日本には二つの選択しかありませんでした。戦争をせずに、石油備蓄が底をつくのを黙認し、他国の情にすがるだけの身分に甘んじるか、あるいは戦うかです。それがウイロビーの理由でした。そんなふうに生存のための利権が脅かされれば、どんな国でも戦うだろうと彼は言いました。

56.K・V・ウォルフレン(ジャーナリスト、日本外国特派員協会会長)
 東京裁判では少々どころではない歴史の虚構化が行われた。その点について異論を唱える人 は、いまではほとんどない。裁判の窓意性と、誤った出口発理由 − つまり「平和と人道に対する罪」について、根本的な異議申し立てがあることはよく知られており、ここで改めて述べる必要はないと思われる。
 マッカーサーによる日本の過去の歪曲は、大方の人が思っている以上の害をもたらした。虚構は虚構を生む。東京裁判における姿勢を正当化し、憲法第九条を正当化するためには、膨大な虚構が必要だった。


■オーストラリア

57.ウィリアム・フラツド・ウエツブ(東京裁判裁判長)
 私は日本が九千万人の住む小さな土地で耕作できる面積は、そのうち一五%にすぎず、外部から激しい貿易制限や規制を受けていたとの弁護士の論述に多くの正論と酌量の余地を認めた。私はアメリカなり英国なりが同じ様な状況に置かれたなら、どのように反応したか、それどころか国民がどのような反応をすることを望んだかを考えてみた。アメリカも英国も日本が一九四一年のような状況に置かれれば、戦争に訴えていたかも知れないのである。
 私は、東京で裁判長席に座った三十か月の間、証人たちの皇室に対する気遣いと尊敬の念、及び自己の立場を主張する際の真面目さと誠実感とに、しばしば心を打たれた。私は、一九四一年に戦争に訴えたことに対して、日本を断罪するどんな権利があるのか、と時々自問した。

58.フレナン(高等裁判所判事)
 サー・ウィリアム(ウエッブ)は、これまで日本の残虐行為にかんする調査をおこない、その報告をオーストラリア、英国政府に提出している。そのサー・ウィリアムが、東京の第一級戦犯法廷の裁判長をつとめるわけだが、諸外国ははたしてこの事態をどう考えるであろうか? ここに、犯罪捜査を担当し、ある犯罪人の証拠集めにたずざわった刑事がいるとする。英国の法廷は、この刑事を、同類の犯罪を裁く判事に任命するであろうか?
 この問題は、必ずや提起されるであろう。そして、そのさい、サー・ウィリアム・ウエッブは不快な立場におかれ、オーストラリアはバカ者扱いされるにちがいなく……各国は、英国の法概念にたいして嘲りの指をあげるであろう。
 ゆえに、私は、このときにあたり、わが国をことさらの侮辱から救うために警告を発するものである。



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