日本はなぜアジアの国々から愛されるのか





 大東亜戦争が侵略戦争では無く、人種差別からの解放だったと、中韓北以外のアジアの国々は証言している。世界中からの声がある。その実例を本書[日本はなぜアジアの国々から愛されるのか]と[日本が戦ってくれて感謝しています]を通じて教えられ、きっと日本という国家に誇りを持つことができるようになると思います。
 非常に分かり易い文体と、著者の苦難の経験が滲み出ている素晴らしい内容です。どうが原書を手に取りご覧頂くことをお勧め致します。下記抜粋です。尚、アジア諸国の国旗と日本に関連巣お話しは[⇒(国旗国歌と教育勅語)]参照です。



あとがき

 沖縄に生まれ育つ中で、いつの間にか自分自身が日本国に対して不信感を持ち、日本人であることに誇りを持てなくなっていた。「自分は日本人なのか沖縄人なのか」とアイデンティティの確立さえできなくなり、若い頃はずいぶん苦しんだものだ。「日本は侵略戦争を行い、多くのアジアの人々を苦しめた」「日本人は嫌われて当然、憎まれて当たり前」だと思うようになっていた。
 そんな自分を救ってくれたのは天皇皇后両陛下だった。
 昭和50(1975)年7月17日、今上陛下が皇太子の頃に初めて沖縄県に来られた時、「ひめゆりの塔」事件が起きる。聖地であるひめゆりの塔壕内に隠れ潜んでいた本土の過激派と沖縄の青年が、火炎瓶を皇太子同妃両殿下へ投げつけた。両殿下は直ちに警察官に守られ退避。その時両殿下は、説明係であるひめゆり女子学徒隊生存者の安否を必死になって気遣われていた。
 この出来事は大事件だったので、私は両殿下のその彼の日程は全てキャンセルされるものとばかり思っていた。ところが両殿下は、真夏のギラギラ照りつける太陽の下、汗だくになられながらも計画されたスケジュール通り、戦没者が祀られる霊地を廻り、祈ってくださった。
 後に皇太子同妃両殿下は、「何があっても受け入れる」と覚悟を決めての来沖だと知った。本土からの学生運動家や県民の一部による「皇太子来沖阻止のために暴力をも辞さず」との過激な情報もあり、そのような中での来島だったのだと。
 もちろん沖縄県民のほとんどは両殿下の来沖を心から歓迎していたのだが、私は両殿下のありがたい思いとその美しい姿に感動し、涙が溢れてきた。「これまで教えられた天皇家とは違う」「何か変だ」と疑問を持つようになった。
 以後、自分自身で日本の歴史や沖縄の歴史を勉強するようになった。特に江戸時代末期、幕末、明治維新から第二次世界大戦、敗戦、そして現在までの近現代史を、自分なりに学んできた。
 1990年頃から国際協力活動を始めたが、アジア各国でさまざまな現地の人々と話すなかで、いかに「日本が信頼され、愛されている」か、体験を通して分かった。「白人帝国主義の植民地政策」が、いかに残虐で悲惨なものであったのかも知った。「今まで教えられてきたことは一体、何だったんだ?」と大きな疑問も湧いてきた。そんな想いを持ちながらも、誰かに語ることなく、自分の胸の中だけに納めていた。
 平成23(2011)年3月11日に発生した東日本大震災が、私を変えた。
 震災後すぐに現地に飛び、支援活動を開始したが、その時の日本人の姿に心から感動した。大きな苦しみと悲しみを抱えながらも、被災者のみなさんは誰も和を乱さず平然と列をなす。子供たちも、ぐずったり泣き出したりする子もいない。その姿は美しいとしか言いようがなかった。
 被災地支援は現在も続けているが、当初、最も苦労したのが、「何かをすること」だった。避難所を訪ね、「何かできることはありませんか?」と尋ねても、ほとんどの人が、「私たちよりもっと苦しんでいる方が、あちらにいます」と誰かのことを気遣うからだ。
 10年以上前にカンボジア暴動に巻き込まれた時に、凄まじい暴力と破壊を目の前で体験しただけに、日本人の素晴らしさがよく分かった。外国で東日本大震災のような災害が起きると、確実に暴動、略奪、放火、婦女暴行と恐ろしい事件が多発するが、日本ではそのようなことはほとんど起きない。逆にお互いが助け合う。日本人は誇り高き民族だと心から感動した。
 私は、「日本の素晴らしさ」や「日本人として誇りを持つ」ことの大切さを伝えたいと真剣に考えるようになった。
 アジア途上国の貧困の中で懸命に生きる子供たちの状況を伝える講演を、私は2800件近く行ってきた(平成25年7月現在)。その内、学校での講演は1000件を超える。50万人近くの日本の児童生徒と触れ合う中で、多くの子供たち(特に中高生)が、「日本は悪いことをしたから、日本人としての誇りを持てない」と胸を痛めているのを知った。自分の少年期から青年期までとソツクリだと思った。
 私自身、日本人の誇りを持たず生きていた頃と今とでは大きく変わった。日本を愛し、日本人の誇りを持つことで、自分の中に凄とした基盤が形成され、その後の人生を真剣に生きていこうと自分に約束することができた。
 だからこそ伝えなくては!「日本は素晴らしい国」「日本人はアジアから愛され、世界から尊敬されている」と子供だけではなく、全ての日本人に知って欲しいと願うようになった。



第一章.カンボジア

 私は、これまでカンボジアで多くの人々と会ってきたが、反日的な行為を経験したことがない。
 故シアヌーク前国王は、日本の敗戦後、完全に落ち込んでいる時に、昭和天皇を励ましに来てくださった初めての国王だ。シアヌーク国王は日本への戦後賠償請求を放棄し、日本を支えた。カンボジア国民も親日的で、日本に対する信頼は厚い。独立の意志を貫いたシアヌーク国王は、日本軍を「解放者」と讃える映画も制作している。
 長い内乱を経て、1975年からポル・ポトが実権を握ったわずか3年半で、約800万人の国民のうち200万人ともいわれる人々が虐殺され、国土は荒れ果て、崩壊した。
 その時、国際援助で駆けつけてきたのは日本の自衛隊だ。地雷撤去や道路整備など、自衛隊は大きな成果を挙げる。カンボジアの人々は、同じように戦争ですべてを失うも世界で有数の経済大国になつた日本を尊敬し、「日本が私たちの見本であり希望である」と口々に語る。
 以前と比べて、平和で治安良好の状況ではあるが、日本で言う「万がこの備えが、カンボジア等では「万が千」だと思えばよい。日本の治安の良さは世界でもピカイチ。暗いい夜道を女の子が一人で歩くなど、世界から見ると奇跡である。
 外国人が日本にやってきて驚くのが、この自動販売機なのだ。
 「道に金庫が落ちている」「誰も盗もうとしない。信じられない」「日本はすごい」と感動する。


■お札になつた日本橋

 カンボジアの1000リエル紙幣の裏側には、「日本カンボジア友好橋」工事の図柄が印刷されている。
 トンレサップ河に架けられたこの橋は、1966年に日本の援助によって架けられたのだが、カンボジア内戦時代にポル・ポトによって破壊され、20年近くも無惨な姿をさらけ出していた。
 やっと平和の兆しが訪れた頃、シアヌーク前国王が橋の修復を日本政府に要請。日本側は即座に応じ、無償援助によって工事が始まった。橋は1994年に完成し、国王によって「日本カンボジア友好橋」と命名された。そして、われわれは「日本カンボジア友好橋」建設の陰に、日本人技術者たちの「命を懸けた闘い」があったことを忘れてはならない。地雷や不発弾との闘い、ポル・ポト残党ゲリラからの爆破や日本人殺害予告にも、彼らは決して逃げなかった
 彼らは、カンボジアの平和と発展を願い、命を懸けて橋を完成させた。心から敬意を大したい。
   


■北九州市の水道施設援助

 「水があるから水に困らない」のではない。川や湖、地下水が豊富でも、その水を人間が飲めるように浄化する力、家庭に水道を引き込む行政の資金力がなければ、人々は苦しむ。
 東南アジア諸国の首都で、ただ一カ国だけ水道水を飲料として使えるのが、カンボジアのプノンペン。その水質管理、水道施設を援助しているのが北九州市。その功績は世界に知れ渡っている。北九州市の偉業は見事。地方の一行政が一国の首都の水を支える。まさしく日本の誠実さ、優しさ、力の表れである。北九州市に敬意を表します。


■「今でも日本を憎んでいますか?」

 私は教育において、「日本はアジアに侵略し人々を苦しめた。アジアは日本を憎んでいる。カンボジアの大衆も日本嫌いだ」と教えられた。
 カンボジアのみなさんと食事会を行い、気心が通じ合った時、恐る恐る聞いてみた。
「日本が戦争に負けた頃、カンボジア人は日本を恨んでいたのですか。今でも日本を憎んでいるのですか」
 全員がキョトンとした。
「なぜ日本人が、そんなことを言うのですか?」と逆に聞かれる。「日本を恨んでいる人は誰もいません。全く反対です。白人たちを追っ払い、アジアのために戦った。多くの日本人が命を失った。徹底的に破壊された日本。日本がかわいそうだと思っていた」と年長者が言った。すると全員がうなずいた。
 別の会合では、一見、ひ弱そうな若者が、
「カンボジアも日本と同じように戦争ですべてを失った。日本は手本です。日本人が、私たちもやればできると勇気を与えてくれる」と熱く語る。
 カンボジアの人々は、日本が「大好き」なのである。


■対日賠償請求権を放棄したカンボジアの優しさ

 カンボジアの日本に対する優しさに、いつも感謝の思いでいっぱいだ。
 カンボジア政府は1954年に在カンボジア日本公使館に対して、大東亜戦争(太平洋戦争)における日本軍駐留により受けた被害に対する対日賠償請求権を放棄すると伝えてきた。
 日本側も、カンボジアの愛ある行為に感動し、「貴国の善意に報いるために経済、技術面での協力を提供する用意がある」とエールを返した。
 一方、ちょうど同じ頃、日独伊三国同盟により共に枢軸国として戦ったイタリアは、日本敗戦一ヶ月前に逆に対日宣戦を行い、実際には日本との戦いはなかったにもかかわらず、戦後、賠償請求をしてきた。
 当時の日本は貧しく、人々はボロボロの状態が続いていたが、理不尽を承知のうえで金を支払った。ただし日本はイタリアの請求権を認めず、あくまでも「賠償や補償ではなく、一括見舞金である」との立場を今も崩していない。「イタリアよ、恥を知れー」と声を大にして言いたい。
 カンボジアの人々は親日の方がほとんどで、戦後の日本の苦難の歴史を知っている方もおり、「日本人は素晴らしい。日本人は戦争で叩き潰されたが、それでも起き上がってきた」と褒められた経験も何度かある。


■TOKYOちゃん

 カンボジアのノロドム・シハモニ国王の写真は、公的施設などには必ず飾られ、多くの国民が敬愛する。
 日本が大東亜戦争に敗れ、ボロボロの状況が続いていた1953年5月14日、最初に昭和天皇と日本国民を激励のために駆けつけてくれた国王は、父親のシアヌーク殿下(当時)だった。昭和天皇は非常にお喜びになられ、皇居でお茶会を開き、殿下を招いた。
 シアヌーク殿下がプノンペンに戻られたその日にシハモニ国王が生まれた。それ故に愛称を、「TOKYOちゃん」と付けられた。
 日本人が知るべきことがある。
 多くの戦勝国が、徹底的に破壊された日本に対して外道ともいえる法外な賠償を求めた。しかし、カンボジアは日本への戦後賠償請求権を即座に放棄したのだ。
 「TOKYOちゃん」は日本が大好き。カンボジア国民も王室も、日本が大好きである。カンボジアよ、ありがとう!



第二章.日本を救ってくれたスリランカ


 日本を救うために1951年のサンフランシスコ講和会議において感動深き演説を行ったのは、後にスリランカ初代大統領になったJ・R・ジャヤワルダナ代表だった。
 スリランカは当時、セイロンという国名だったが、その代表として参加したジャヤワルダナ氏は、「憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む(hatred ceases by hatred, but by love)」という仏陀の言葉を引用し、対日賠償請求権を放棄する演説を行った。
 そして、日本を国際社会の一員として受け入れるよう訴えた。
「なぜ、アジアの諸国民は日本が自由であるべきだと切望しているのでしょうか。それはわれわれと日本との永年にわたる関わり合いの故であり、またアジア諸国民が日本に対して持っていた深い尊敬の放であり、日本がアジア諸国民の中で、ただ一人、強く自由であった時、われわれは日本を保護者として友として仰いでいた、深い尊敬の故でもあります。この前の戦争の最中に起きたことですが、アジアのための共存共栄のスローガンが今、問題になっている諸国民にアピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちが、そうすることによって自分たちが愛している国が解放されるという希望から日本の仲間入りをしたという出来事が思い出されます」(解りにくい文章ですが、ほぼ原文通りに表現しました)
 と白人から植民地支配を受けていた人々の想いを代弁した。“ただ一人、白人たちに戦いを挑んだ”日本に対する尊敬の念を持つ演説だった。
 この演説は、当時日本に対し厳しい制裁処置を求めていた一部の戦勝国をも動かしたとも言われ、その後の日本の国際社会復帰への道につながる一つの象徴的出来事だった。
 ジャヤワルダナ元大統領は1996年に亡くなった。彼の遺志に基づき角膜が提供される。片目はスリランカ人、もう一つの目は日本人に。心の底から日本を愛していた。
 私はジャヤワルダナ元大統領を知り、「スリランカの人々に対しての恩返しをしなければ」と真剣に考えた。そこから私のスリランカ支接が始まった。


■民族対立

 スリランカの歴史は悲しく1505年にポルトガル、次にオランダ、そしてイギリスと、何と500年近くにわたり白人の植民地となり搾取されていた。
 独立したのは1948年。独立後も元々の民族であるシンハラ人とインド南部からやってきたタミル人との内戦が続き、双方が凄まじい殺し合いを繰り広げる。その責任はイギリスにあると言ってもいい。
 人口の15%程度がタミル人。イギリスはタミル人に高等教育と銃を与え、シンハラ人を支配させた。しかし、イギリスの植民地政策の基本パターンである少数民族で、その国の主民族を統治させるやり方が遺恨を残し、民族対立が現在まで続いている。
 貧困に喘ぐタミル人集落に対する生活改善援助を続けている中、初老のシンハラ人から、「池間さん、あまりタミルに対する支援をしないでください。彼らを憎んでいるシンハラ人もいるから襲撃される恐れがある」
 と注意をされる。タミル人と戦ってきた元兵士は、「あいつらを殺すためだったら、いつでも戦場に戻る」と憎悪の目を光らせた。
 シンハラ人もタミル人も、「みんな良き人々」です。ところが民族間の対立が出ると、憎しみが増幅され悲しみが続く。平和で豊かな世界で暮らす日本人には理解できないかもしれない。
 スリランカの現状はシンハラ人、タミル人、互いが憎しみを抑えて平和を保つ。再び内戦にならぬようにと心から願う。


■日本を尊敬するスリランカ建国の父

 中国や韓国が日本を批判する時よく使うのが、「アジアが嫌がっている。アジアを不安に陥れる」という発言だ。まるでアジア全体が「日本を嫌っている」ような表現をする。
 しかしこれは、「ふざけるな」とアジアの中心で叫びたいほどの大間違い。
 アジア各国の指導者や聖職者などが、いかに日本を尊敬していたかをよく耳にする。スリランカの建国の父であり、イギリスの植民地支配で苦しみ喘ぐ人々を救い、仏教の復興を成し遂げた偉人がアナガーリカ・ダルマパーラ。彼は生涯、日本に対して尊敬と信頼、期待の念を持っていた。
 なぜなら日本は世界で唯一、欧米キリスト教白人列強に対し毅然と対峙する有色人種でありアジアの仏教国だったからである。キリスト教支配の隷従民として屈辱の中で生きてきたダルマパーラは、「偉大なる仏陀の教え」こそ祖国を救うと信じていた。
 「白人たちのアジア人に対する差別的偏見をなくし、植民地支配という悲劇の中にあるアジアを救うことこそ日本の役目なのだ」とスリランカの国父も語っている。


■子供たちの夢を奪った植民地政策

 白人たちが行ってきた植民地政策により、現在でも苦しみを与え続けられている子供たちがいた。
 私の活動地域である中部地方で驚くのは自然破壊。お茶、ゴムなどの農場が麓から山のテッペンまで広がり、雑木林などは一切ない。統治国の利益だけを考えた農業政策が徹底されていた。
 スリランカの人々から土地を取り上げ、低賃金で労働に従事させ、白人たちは莫大な収益を挙げて豊かさを食い尽くす。お決まりの白人の植民地政策。暴力と略奪の構図である。
 広大なゴム畑の中にある、農場労働者が暮らすタミル人の村に入る。200年以上も前に建てられた長屋に住んでいるのだが、その環境は最悪で、トイレも水道もなく、特に女性たちが苦しんでいた。生活環境改善支援事業として、私たちは公共トイレと井戸の建設を行っている。
 夢を語れない子供たちもいる。先祖代々、500年近くも白人マスターの下僕として生きざるをえなかったことが、子供たちから夢を奪った。お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、そのまた先の、おじいちゃんもズツと農場労働者。長期的な白人支配により、「自分たちも農場労働者になるのが当たり前」だと刷り込まれてしまった。子供たちの明るい笑顔の向こうに深い悲しみを見る思いだった。



第三章.それでも日本を愛していますパラオ


 1885年、パラオはスペインの植民地となり、圧政と虐殺、天然痘などで、6万人いた人口は6000人に激減。実に90%もの人々が亡くなった。いかにひどい植民地政策だったかが分かる。1899年にはドイツに売却されたが、同じくドイツも搾取と略奪を続ける。
 第一次世界大戦終了後、パリ講和会議で日本の委託統治領と決定。
 帝国主義の白い蛮人たちはパラオの人々を人間とは思っていなかった。教育も与えず、インフラ整備も一切行わない。いかに搾取するかだけを考えた統治だった。
 しかし、日本は違った。学校、病院、電気、道路などのインフラ整備を行い、住民の生活向上に力を入れる。特に教育に関しては、日本本土とまったく同じ人種差別なき政策を実行。優秀な子供たちが続出し、「パラオ人も、やればできる」と彼らに大きな自信を与えた。
 日本敗戦後、パラオはアメリカ統治となった。アメリカは俄烈な日本叩き教育を行う。浸透していた日本文化の徹底的な破壊。二宮尊徳像をぶち壊し、神社を破壊。「日本は残虐」「日本は悪魔」「日本はパラオ人を虐殺した」と長期にわたり学校教育を行う。
 ところがパラオ人は、誰も信用しなかった。特に日本統治時代を経験した年長者たちが、「何を言いやがる。日本は素晴らしい。日本統治時代が一番良かった」と激怒した。
 パラオは世界有数の親日国である。にもかかわらずパラオの歴史を多くの日本人は知らない。これでいいのだろうか。反日国を大事にし、親日国を粗末にするのは間違いだと思う。
 パラオなどの南洋諸島の国々は大の親日国。日本の統治下に置かれ、激戦地となり、多くの現地住民が犠牲になったにもかかわらず、ほとんどの人は日本が大好きである。人口の少ない小国家ばかりだが、「国連加盟国」として、いつも日本に味方してくれる。国連議決などでは常に日本を応援し、「貴重な一票」を投じてくれる。
 「チチバンド=ブラジャー」「シコーキ=飛行機」などなど、パラオでは日本語がそのままパラオ語となった単語が600近くもある。それほど、愛している。


■ペリリユー島

 気温は35度近くはあるだろう。湿気が高く、立っているだけで汗だくになってしまい、Gパン、Tシャツ、カメラマンベストはグッショリ濡れてしまう。
 2012年、大型台風がこの島を直撃し、風が吹き荒れ、家屋が倒れ、木々はへし折られてしまった。役所の屋根は吹き飛び、現在でも荒れた状態で使用している。以前から「日本人が造った建物は頑丈だから、台風が来たらその中に避難しろ」と教えられていた。80年ほど前に建てられた日本軍総司令部・発電所・倉庫などだが、最大瞬間風速70メートルでもびくともしなかった。
 人口わずか600人の島民の力だけでは補修工事を行うのは難しいかもしれない。平均月収が300ドル程度の人々が資金をつくるのは大変なのだ。
 ペリリユー島と日本との関係は、涙なくしては語ることができないほど深い。島の人々も、かつての日本軍人を愛していると以前から聞いていた。兵数、物量とも圧倒的優位なアメリカ軍と死闘を行い、全滅した日本兵。多くの日本人の命が、この島で散った。「サクラ、サクラ」と打電をして死んでいった。
 ペリリユーの人々は「日本兵」 の墓、石碑などを大事にしていた。完壁とは言えぬまでも、しつかりと清掃を行い、守り通してくれていた。右や左の思想に関係なく、「日本のために死んでいった人々」「日本がお世話になり、日本を大事にしてくれる人々」に対して感謝の念を持つのは当たり前だと思う。ありがとう!


■それでも日本軍は戦った

 こんな美しい島で、これほど小さな島で、日米両軍の死闘が行われたのかと胸が痛む。 「絶対に負ける。必ず命を落とす」と覚悟を決めた日本兵たちが圧倒的兵力、物量を持つアメリカ軍と戦う。「一日でも長く、日本に生き延びてほしい。故郷の家族、仲間たちに生きてほしい」との願いで、若者たちが死んでいった。
 ペリリユー島での日米両軍の戦いは、ボクシングで例えれば小学生のアマチュアボクサーと世界ヘビー級チャンピオンが戦うぐらいの差があった。それでも戦った。
 写真はアメリカ軍に破壊された日本軍の95式戦車。ベラベラの鉄板でできた車体。バズーカ砲で貫通してしまう。この粗末な戦車が、たった16両。アメリカ軍は、当時最高峰の性能を誇る分厚い鉄板で装甲されたM4シャーマン戦車が117両。日本兵の小銃は旧式のおもちゃのような鉄砲。アメリカ兵は自動小銃や機関銃。海からは艦砲射撃、空からは徹底した爆撃。実質的には、まるで勝負にならない戦いだった。
     
 日本軍の状況を的確に把握していたアメリカ軍は、「子供を相手にするような戦闘」だと完全に舐めきっていた。アメリカ第一海兵師団長のウイリアム・H・リユバータス少将は、こんな小さな島に閉じこもる弱小日本軍との戦いは2、3日で片づくと見ていた。アメリカ兵に対して、「諸君に頼みがある。私への土産に日本軍守備隊長のサムライサーベルを持ち帰ってもらいたい」と豪語。アメリカ兵の中にも、「この戦闘は午前中で終えて、昼からは浜辺でバーベキュー大会をやろうぜ!」と笑顔で話す者もいたほどだった。
 ところが日本兵は強かった。圧倒的な兵士と物量の差をものともせずに戦い抜いた。「日本を守る。愛する家族を守る」との壮絶な思いで、命を捨てて戦い続け、アメリカ軍第一海兵師団自体が全滅判定(損失60%超)を受けるほどの損失を与える。「サムライサーベルをプレゼントしろ」と言っていたリエバ一夕ス師団長は、あまりのぶざまな戦いぶりを糾弾され解任。そして心労から心臓病を発病するほどだった。
 戦争は良くない。当然のことである。でも圧倒的な戦力を有するアメリカ軍に、当時の日本兵は、どのような思いで戦いを挑んだのであろうか。なぜ、ここまで命を捨てて戦ったのであろうか。


■「土人」は愛の言葉

 日本兵とペリリユー島の人々は共に語り、唄い、手をつなぐ。固い友情が育まれ、「島民は日本軍人を愛してやまなかった」と言う。
 戦争末期、いよいよアメリカ軍が押し寄せてくる。実質戦闘員約15倍、兵器物量約600倍の圧倒的にアメリカ軍有利な戦局。日本軍玉砕は確実だった。
 島民は「愛する日本兵と共に戦い、自分たちも死んでいく」と覚悟を決め、中川州男守(くにお)備隊長へ、「自分たちも戦わせてください」と申し入れる。
 日頃、温厚な隊長は、その言葉を聞いた瞬間、激高し、「帝国軍人が貴様らごとき土人と一緒に戦えるか!」と大声で怒鳴りつけた。「土人?」「一緒に肩を組み、歌を唄った日本兵たちの思いは見せかけだったのか?」「やはり、こいつらは自分たちを見下げていたのだ」と人々は怒りと悲しみで拳を震わせた。
 島からの避難船に島民は乗り込む。日本兵は誰一人として見送る者はいない。日本人への怒りと憎しみの思いがあふれる。船が避難先へ向かうため、島を離れた瞬間、日本兵全員が真っ白な砂浜に現れた。死を覚悟した日本兵たちが笑顔で手を振り、「達者で暮らせよー」と声をかける。一緒に唄つた日本の歌を大声で唄っている。涙で顔を濡らす兵士もいる。そして、その先頭には「土人」と自分たちを侮辱した中川隊長の姿があった。
 ペリリユーの人々は悟った。「土人」、あの言葉は自分たちを救うため、自分たちを戦闘に巻き込まないためだったと。島民の目からは、止めどもなく涙があふれた。


■サクラ、サクラ!

 圧倒的兵数と数百倍もの兵器、火力を有するアメリカ軍との戦いは、長くても3日だと言われていた。しかし、守備隊長の中川大佐率いる日本軍は、何と73日間も持ちこたえた。
 27隻の戦艦、駆逐艦からの艦砲射撃と高性能焼夷弾でジャングルを焼き払われ、ペリリユー島は丸裸に。日本軍は通常の戦闘では歯が立たぬと、500有余の洞窟に立てこもり、ゲリラ戦を展開する。
 昭和19(1944)年9月15日午前8時、オレンジビーチよりアメリカ軍上陸。一進一退の日米両軍の肉弾戦が行われるも、圧倒的兵力火力を有するアメリカ軍は徐々に日本軍を追い詰める。
 補給を一切断たれた日本兵は、粗末な武器を手にし、水と食料もなくなり、喉の渇きと飢えに苦しみフラフラになりながらも戦い続けた。
 11月24日、兵力弾薬は底を突いた。司令部は玉砕を決定。中川大佐、村井少将、飯田中佐は自決。「サクラ、サクラ」の電文と共に玉砕。11月27日、生き残った兵士55名の万歳攻撃が行われ、日本軍の組織的抵抗は終わった。
 なぜ日本兵は命は惜しまず戦ったか?
 なぜ鬼畜米英と言ったのか?
 それは、白人植民地政策を知らずして語ることはできない。
 当時は有色人種国家のほとんどは白人の植民地。その政策は残虐そのものに尽きる。人間を家畜のごとくこき使い、婦女子を犯し、子供であろうとも虐殺する。そのことを日本兵はL知っていた。彼らの残虐さを。
「一日でも長く日本を守りたかった。一日でも長く、愛する故郷、愛する女房子供、お父さん、お母さんを守りたかった」
 その思いに尽きると私は思う。
 日本兵の勇猛なる戦いがあったからこそ、敗戦後の日本の国体を守ることができた。今、私たちが日本人であること、平和で豊かな社会で暮らしていけるのは、先人の尊い命 の犠牲があったからだと信じている。
 愛する人を守るために命を投げ出した英霊のみなさんに心から感謝している。合掌!


■動物園政策(ズー・セオリー)

 パラオを調査し、アメリカの「動物園政策」によって補助金付けにされ、人々の勤労意欲とチャレンジ精神は弱体化してしまっていると感じた。
 戦争終結後、アメリカは統治下に置いた太平洋諸島信託続治領において、教育や福祉関係には援助を行うが、産業開発、自立育成開発にはほとんど投資を行わない、「檻に囲い餌を与える動物園政策」を採った。
 パラオももちろん、その支配下に入る。英語教育によりイングリッシュはベラベラとなり、高等教育も受けることができるようになった反面、経済はアメリカからの援助に依存。
 肉体労働や農業を嫌がるようになり、食料はアメリカからの輸入に頼る。高タンパク、高カロリーの食生活が定着し、伝統的な魚介類を中心とした食事は壊滅していった。パラオの人々の肥満度は異常に高い。人参、タマネギ、ジャガイモなどの自給可能な野菜、根菜類を自力で育てることもなくなった。
 そして、市民権を得るためにアメリカ軍へと志願し、入隊する青年たちも増えてきた。アフガンでの最前線に送られ、命を落としたパラオの若者も出てきた。
 深く考えさせられた。祖国、日本もどこか似ている。「経済だけ頑張ればいい。自国防衛など、考える必要はない」とアメリカにしてやられた日本。自国防衛を放棄し、アメリカに頼れば大丈夫と考える日本人。戦後、70年近くもアメリカの囲い者となる生き方を選んできた日本も、「アメリカに飼い馴らされた動物」だと私は思う。
 未来の子供たちのためにも、「自分の国は自分で守る」国家になる覚悟を持つ時期に来ている。一番考えないといけないのは、「アメリカと中国が手を握る可能性も高い」ということ。


■日本人のバイタリティがパラオを支えた

 1947年から50年近く、日本に代わりアメリカの信託統治下に置かれたパラオでは、徹底的に日本破壊が行われ、「日本の悪」のみが教えられた。それでもパラオの人々は「日本嫌い」にはならなかった。
 村山内閣が誕生した平成7(1995)年10月1日に、パラオ独立1周年記念式典が盛大に行われる。多くの固から要人が参列し、色とりどりの国旗が飾られた。
 しかし、その中に日の丸はなかった。日本政府代表もいなければ、祝電さえも届かなかつた。
 クニオ・ナカムラ大統領は挙を震わせ、悲しみと屈辱に耐えていた。パラオは中華人民共和国を拒絶し、中華民国(台湾)と国交を結んでいるが、それが理由なのだろうか?
 それは私には分からないが、それにしてもひどすぎる。
 第7代、第9代大統領を務めたトミー・レメンゲサウ氏の言葉を紹介する。
「日本は第二次世界大戦から今日にいたるまでの年月で、敗戦から見事に立ち上がり、それどころか、産業、経済、文化などさまざまな分野において世界のリーダーとして活躍されています。そんな日本のみなさまのバイタリティが、実は私たちの国パラオを造ったという事実をごぞんじでしょうか。終戦までの日本は、数万人におよぶ日本人入植者を送り込み、南洋庁をつくり、私たちパラオ人のためにさまざまな教育や産業を伝えました。それは後に、パラオ独立のための貴重な原動力となりました。そして現在でもパラオの長老たちは、日本のことを“内地”と呼び、世界で最も親日感情が高い国と言っても過言ではないのです」
 多くの日本人は、パラオをスキューバ・ダイビングのできるリゾート地としか思っていないような気がする。それではいけないと思う。日本の子供たちにも、パラオの人々が「日本を愛している」と伝えていきたい。


■日本パラオ友好の橋

 パラオの旧首都コロールからバベルダオブ島へ、日本統治時代のパイン工場、発電所などの調査のために向かう。コロールからバベルダオブ島に架けられた橋は、「日本パラオ友好の橋」と名づけられている。
 この橋が建設されるまでにはいろいろな出来事があった。
 日本建設の橋ができる以前には、別の橋が架けられていた。
 1977年に韓国建設会社(SOCIO)が日本の鹿島建設の半額で入札し、工事を請け負い、完成させた。しかし、完成直後から中央部が凹み、崩落の可能性が高かった。
 日本のJICA(国際協力機構)やイギリスの調査会社が、「このままでは陥没が進行する」と結論したため、補修、補強などが行われたが、基本的な手抜き建設ではどうしようもなかった。
 そして1996年9月26日に、橋は真っ二つに折れて崩壊した。
 空港へ向かう唯一の道路であり、橋に電気、水道、電話などのライフラインも設置埋設されていたため、崩壊とともにすべてが切断された。
 コロールの町の機能は完全に麻痔し、当時のクニオ・ナカムラ大統領は国家非常事態宣言を発令。「暗黒の9月事件」と言われるほど、深刻な状態に陥った。
 補償を求めようにも、韓国企業はすでに解散している。困り果てた大統領は、韓国政府に救いを求めるも、「関係ない」と突き放される。パラオでは再建築の費用を捻出するのは不可能だった。
 そこへ手を差し伸べたのが日本。1997年、日本の無償援助で鹿島建設が請け負い、工事が始まった。低品質コンクリートが使われていた旧橋の残存土台などは一切使わずに工事が始まる。
 2002年1月完成。「日本パラオ友好の橋」と命名され、日の丸と、パラオの美しい月の国旗が描かれた。パラオの人々は「日本に助けられた。日本に感謝している」と口々に言う。日本人としてこんな嬉しいことはない。(下画像はウィキペディアより)
   


■産経:「日本人になりたかった」パラオ人 2015/01/03

 〈君が代は 千代に八千代に さざれ石の〜…〉
 明快な日本語で「君が代」を歌い上げた94歳になる老女は、続けて「海行かば」を口ずさみ始めた。
 〈海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍〜〉
 歌詞の意味は理解しているという。ロース・テロイさん。「テルコ」という日本人名も持ち、「日本人になれるものならなりたかった」と言った。
 「緑の島のお墓」を作詞したアントニア・ウエンティさん(85)は「蛍の光」と「仰げば尊し」を歌って涙を浮かべ、童謡の「浦島太郎」を歌って、「この歌は、『両親がしてはいけないということはやってはいけない。罰が当たるよ』という意味を含んでいる」と言った。
 テロイさんのいとこにイナボ・イナボさん(故人)という男性がいた。元パラオ共和国政府顧問で、生前は、「日本軍と一緒に戦いたかった」と何度も口にしていたという。
 イナボさんは平成7年8月15日、靖国神社での戦没者追悼中央国民集会に参加した際、雑誌のインタビューにこう話している。
 日本には大切なものが4つあります。天皇陛下と靖国神社と富士山と桜の花です。アメリカ人から『日本は小さな国だけどもルーツ、根っこがあるから強い。それは天皇陛下と富士山と桜だ。それはアメリカにはない』と聞きました。
 日本人の戦いぶりはアジアの人々は皆知っているんですよね。それで日本を尊敬しているわけです。皇室と神社がある限り日本は倒れない。日本人が安心していられるのは、天皇陛下がおられるからですよ。天皇陛下がおられて、靖国神社があるからこそ日本は尊く、外国からも尊敬され、強い国となっています。
 イナボさんの日本への思い、そして歌詞の意味を確かめるように一言一言を丁寧に歌ったテロイさんとウエンティさん。2人の心に去来するものは何か。
 天皇、皇后両陛下のパラオご訪問が検討されていることに話が触れると、「最初、いらっしゃると聞いたときはだれも信じられなかった。まさかという気持ちで驚いた。天皇陛下にお目にかかれることを非常に楽しみにしている」と興奮気味に話した。


■産経:時を超える「誇り」集団疎開で、島民を守った日本兵。2015/01/03
 ペリリュー島は「忘れられた島」とも呼ばれてきた。多大な損害を受けた米軍が口をつぐみ、日本側も生還者が少なく、証言に限りがあったからだ。だが、島民たちは、70年前に起きたことを忘れてはいなかった。
 平成21年から25年まで駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)は言う。
「日本軍は、ペリリューの島民を全員、疎開させることで保護してくれた。だから島民に死傷者は出なかった。日本軍への感謝は何年たっても忘れない」
 昭和18年6月現在でペリリューには899人の島民が住んでいた。島民によると、日本軍と一緒に戦う決意をしていた島民もいたという。だが、守備部隊はそれを認めず、非戦闘員の島民を戦闘に巻き込まないため、19年3月から8月にかけて、全員をパラオ本島などに疎開させた。
 当時9歳だったアマレイ・ニルゲサンさん(79)は、夜間を利用して両親らとバベルダオブ島に疎開したといい、こう記憶をたどった。
「日本の兵隊がダイハツ(上陸艇)で連れて行ってくれた。バベルダオブに着いた後も、憲兵が2日かけてジャングルの中をエスコートしてくれた。なぜ自分たちの島から避難しないといけないのか分からなかった。2年半ほどして島に戻り、草木がなく石だけの島を見て、もし、残っていたら死んでいたと思った。家族で日本軍に感謝した」
 ペリリューに一つの逸話が伝わっているという。
〈ある島民が一緒に戦いたいと申し出ると、守備部隊の中川州男(くにお)隊長に「帝国軍人が貴様らと一緒に戦えるか」と拒否された。日本人は仲間だと思っていた島民は、裏切られたと思い、悔し涙を流した。しかし、船が島を離れる瞬間、日本兵が全員、浜に走り出て、一緒に歌った歌を歌いながら手を振って島民を見送った。その瞬間、この島民は、あの言葉は島民を救うためのものだった−と悟った〉
 逸話の真偽は分からない。だが、ニルゲサンさんは「自分は見ていないので分からないが、両親からそんな話を聞いたことがある」といい、ウエキさんも「逸話は今でも語り継がれている」と話す。生還者の永井敬司さん(93)がいう「日本人の誇り」は、島民疎開という形でも発揮されたのかもしれない。

 ◇「島が兵士のお墓」

 1947(昭和22)年8月15日、住民は島に戻る。
 島民が日本兵の被害状況を知るのは、昭和40年代に入ってからだ。日本人を父親に持ち、クルールクルベッド集落で民宿を経営するマユミ・シノズカさん(77)は「日本の兵隊さんが何人亡くなったかを知ったのは、日本から慰霊団が来るようになってから」という。シノズカさんはこの頃から、弟のウィリー・ウィラードさん(53)らと50年近くにわたり、慰霊団の食事の世話や島の中央部に立つ日本兵の墓地「みたま」の清掃などを続けている。遺骨収容に参加したこともある。
 シノズカさんは言う。
 「ペリリューそのものが日本兵のお墓。ご遺族に代わり、遠く離れた島に眠っている日本兵の冥福を祈る気持ちです。島に眠る日本兵は私たちが守ります」
 アントニア・ウエンティさん(85)も遺骨収容に関わった一人だ。戦後、ペリリューに移り住んだ彼女は島民とジャングルに入り、遺骨収容を始めたという。ある軍医の遺骨については自宅に持ち帰って供養した。軍医の妻には「だんな様と一緒に住んでいるから安心して下さい」と手紙を書いたという。
 ウエンティさんは「緑の島のお墓」という日本語の歌を作っている。
〈遠い故郷から はるばると/お墓を参りに ありがとう/みどりのお墓の お守りは/ペ島にまかせよ/いつまでも〉〈海の中にも 山の中/ジャングルの中にも 土の中/英霊よ よろこべ 安らかに/一緒に暮らそよ とこしえに〉
〈ペ島の願いは 唯1つ/日本とペリリューは 親善の友/かよわい力 よく合わせ/知らせておくれよ 祖国まで〉〈伝えておくれよ 祖国まで/父母兄弟 妻や子に/僕らはみどりの 島暮らし/涙をおさえて さようなら/涙をおさえて さようなら〉

 ◇遺骨収容し慰霊

 「大山」と呼ばれる山の中腹にペリリュー神社が鎮座する。昭和57年、島民が見守る中、再建された。由来記によると、祭神は天照大神と戦死した日本軍守備部隊の一万余人の英霊。「護国の英霊に対し、心からなる感謝と慰霊鎮魂の誠を捧げましょう」とあり、島民が草むしりや掃除を続けているという。
 日本兵の慰霊にこだわるのは、シノズカさんやウエンティさんだけではない。ウエキさんは「多くの島民が慰霊碑の建設や遺骨収容などに協力している」という。これほどまで日本兵の慰霊にこだわるのはなぜか。
 ペリリュー州のシュムール州知事の母親、メンロムス・エテペキさん(89)は「なぜ、日本軍と米軍が自分の島で戦ったのか、という憤りはあった」と、一瞬、表情をこわばらせたが、すぐに「今は悪感情はない」と、笑顔で続けた。
 彼女は、自分の名前をカタカナで書きながら、「31年にわたる統治時代を通し、日本に対して特別な感情が育まれていた。日本への思いは深い」と話した。


■産経:島民に投降勧めた日本兵「道連れにできない」。2015/01/04
 昭和19年9月15日、米軍がパラオ・ペリリュー島に上陸を試み、多くの死傷者を出したオレンジビーチ。真っ赤な夕日に包まれた浜辺を歩くと、70年前に米軍の艦船が大挙して島を取り囲み、倒れた日米両軍の兵士が幾重にも重なり合う光景が目に浮かぶ。
 そのオレンジビーチの南側海上に平らな島が浮かんでいる。アンガウル島だ。ペリリューから南へ約11キロ。南北4キロ、東西3キロ、面積8平方キロと、ペリリューの半分以下しかない小さな島だ。かつては燐鉱石の採掘で知られたが、今も残る採掘跡は鬱蒼(うっそう)としたジャングルに呑み込まれてしまっていた。
 島の西側にあるアラブルックル・タオ(アンガウル港)の波止場の入り口には、日本軍が取り付け、破損した鉄製のバリケードが残されている。採掘した燐鉱石を船まで運ぶトロッコ用のレールが海に向かって延びている。傍のアンガウル州事務所前には「本巣市消防団」と書かれた消防車が1台駐車しているが、壊れていて動きそうにない。
 18年6月時点で、日本人1325人、島民も754人住んでいたが、ガイドのトリーシャさんによると、現在の人口は約170人になった。
 トリーシャさんが準備してくれた軽トラックの荷台に乗り、出発する。1分もすると、ジャングルだ。木々にツタなどが絡み合い、まるで緑の洋服で着飾っているようにも見える。
  ようやく1台が通れるだけの細い道を進む。アンガウル神社や宇都宮部隊59連隊の慰霊碑、米軍が上陸した北東部のレッドビーチと東部のブルービーチ、2100メートルの滑走路…。島は3、4時間で一周できるが、島全体が密林に覆われ、人の気配がない。
 米軍の第81師団がアンガウル島に上陸したのは44年(昭和19年)9月17日。東北港と東港に上陸した。
 米軍の約2万1100人に対し、日本軍は1200人にすぎなかった。
 アンガウル島には当時、日本人が2600人、島民は750人ほど住んでいたが、日本人と島民の老人と婦女子はパラオ本島に移され、健康な男子島民186人が、弾薬や食料などの運搬を手伝うため、軍夫として残っていた。
 米軍の波状攻撃に守備部隊は上陸2日目に、半数を失う。最終的に日本軍は約50人が生還したが、約1150人が戦死。米軍も260人が戦死し、1354人が戦傷した。
 米軍は9月24日以降、投降を呼びかけたが、日本軍将兵は応じず、鍾乳洞に避難していた島民約186人は投降した。日本軍や日本人が「島民を道連れにはできない」と投降を勧めたのだという。


■産経:日本の教育や経済発展 「我々は昔に戻るべきだ」。2015/01/04
 1914年、第1次世界大戦でコロール島を占領した日本は、ベルサイユ平和条約でパラオ共和国を20年に委任統治下に置き、2年後、南洋庁を設置した。小学校や実業学校、病院、郵便局などを設置したほか、インフラ整備も進め道路や港湾、飛行場などを建設した。法律は原則、日本の法律が適用された。
 日本政府による統治は45(昭和20)年までの31年間続いた。パラオは日本の小都市のような発展を遂げ、日本人も23年に657人だったのが38年には1万5669人を数え、パラオの総人口の7割を占めた。44年時点では、パラオ人約6500人に対して約2万5千人の日本人(軍人をのぞく)が住んでいた。
 元駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)は「どんどん日本人が移住してきて、コロールの中心街は日本政府の出先機関やショッピングセンター、飲食業、娯楽施設が軒を連ね、『第2の東京』とさえ呼ばれた。農業や漁業などの産業も発展し、稲作やパイナップルなどの生産を促し、余剰作物は輸出に回した」と話す。
 この間、日本政府はパラオ人に対する日本語教育にも力を入れ、3年間の義務教育課程である「本科」と2年間の「補習科」で構成される公学校が6カ所建設された。
 日本政府の対パラオ政策の恩恵はペリリュー島にも及んだ。
 ロース・テロイさん(94)によると、当時、ペリリュー島には病院が1軒あり、日本人の医者2人が常駐。日本人が経営する「シホ」という雑貨屋があり、50円で何でも買えたという。日本の会社も多く、島民は働き場所を得ていたという。
 公学校は「中山」と呼ばれた山の麓にあった。戦後70年となる今、ジャングルに覆われ、わずかに門柱が残るだけだが、鉄筋コンクリート作りで、高さは5メートル近い。敷地内には畑があり、野菜を作っておいたといい、いかに立派な校舎だったか想像できる。
 テロイさんのクラスメートは男女合わせて20人で、3クラスあった。パラオ人の先生も1人がいたが、日本語や日本の歌はハシモト先生に教わったという。
 「夫婦で先生をしていて、奥さんは着物のときもありました。『親を大切にしよう』『ありがとうございました。どういたしましてと言おう』と教えられました。先生の2人のこどもと一緒に歌ったこともあります。正月に日本人と一緒に遊んだことが今でも思い出されます」と、テロイさんは楽しそうに笑顔を見せた。
 マルタンサン・ジラムさん(83)は公学校跡地の門柱の前を通ると、毎朝「おはようございます」とヒラマツ先生にあいさつしていたのを思い出すという。公学校の2年生まで日本語の勉強をしたが、3年生の時、空襲で学校がなくなり、疎開した。
 ジラムさんは当時を懐かしむように、「桃太郎」を歌ってくれた。「ヒラマツ先生に会いたい。優しくていい先生だった。『お父さん、お母さんを大事にしなさい』『家のことを手伝いなさい』『ありがとうと言いなさい』『困っている人がいれば手伝いなさい』と教えられた」
 悪いことをすると叱られたという。「だから、私も子供が悪いことをすると謝るまで手を上げた。ヒラマツ先生に教えられたことは5人の息子に伝えてきたし、息子には子供ができたら同じように伝えなさい、と話している」と語った。
 アマレイ・ニルゲサンさん(79)によれば、「半ズボン」「便所」「草履」「熊手」「大丈夫?」「先生」「大統領」「飛行場」「バカ野郎」「ごめんなさい」「よろしく」「面白い」「飲んべえ」「ビール」「野球」「勤労奉仕」「炊き出し」など、多くの日本語がパラオ語として定着しているという。
 イサオ・シンゲオ・ペリリュー酋長(しゅうちょう)は「戦争は良くない。だが、日本は新しい生活様式を伝えてくれた。われわれの生活スタイルが近代化し、生活が向上したのは日本のお陰だと感謝している」と笑顔を見せた。ウエキさんも「統治時代の教育や経済発展を通して、パラオ人は日本人として育てられた。パラオ人は日本に感謝している。今は日本語を話すのは少なくなったが、われわれは日本に戻るべきだと考えている」といい、「天皇陛下がいらっしゃるのがうれしい」と何度も繰り返した。
 イナボさんは雑誌のインタビューに「(日本人から)勉強、行儀、修身、男であること、責任を持つこと、約束を守ることを教えられた。男とは自分に与えられた義務を成し遂げる、任務を果たすことなんです。パラオは昔の日本と近い」とも語っている。
 パラオの人たちの心のどこかに、日本を“親”“身内”のような存在ととらえているのではないだろうか。そして、パラオには日本以上に日本の心が生きているではないか−。そんな印象を抱いた。



第四章.「必ず日本へ留学させる」ミャンマー


 ミャンマーも大の親日だ。
 政府高官、ジャーナリスト、教師などの知識人から、「イギリスの残虐な圧政から逃れたのは日本のおかげもあります」と聞いた。
 先の大戦末期に、日本を裏切り、連合国側に寝返ったのは、国の存続のために仕方がなかったのだと言う。私自身も国家存続の決断だったと理解できる。
 学校教育では、「ミャンマー(当時はビルマ)がイギリスに支配され苦しんだ事実と、日本がミャンマーのために戦ってくれた史実」を教えている。ミャンマー独立のために独立運動家たちへ軍事教練を行った、「南機関」の鈴木敬司陸軍大佐は、今でもビルマ人の英雄だ。
 この国は某国から莫大な資金援肋などを受けていたが、邪な野望と共にに歩む未来への絶望から、赤い大国との関係に急ブレーキをかけ、現在は日本やアメリカとの関係を深める路線に変えた。この国の未来は明るい。日本からの投資も増えるのは間違いない。
 ただ、慎重さが必要。軍事政権下の国は、政府の法的整備がまだまだだからだ。


■チビ助、日本人

 日本軍が駐屯していたミャンマーの田舎村で聞いた話。
 当時の日本人はビルマ人に比べてかなり小柄で、「チビ肋、日本人」と言われていたそうだ。
 大東亜戦争で戦った日本兵の平均身長は157センチ、平均体重は52キロ少々。何と華奢な体なのだろうか。こんな小さな体であのデッカイ白人たちと戦ったのかと思うと、泣けてくる。
 アジア各国を支援で飛び回るなかで、現地の人々から、
「日本兵は体は小さいが恐ろしいほどの勇気があり、戦闘能力はすごかった」
「同じアジア人が大きな白人を追い払う姿に驚いた」
との言葉も聞いた。
 現在、日本人男子(20歳)の平均身長は172センチ、体重は67キロ。同じく女子は158センチ、体重は52キロ。ずいぶん大きくなったものである。


■「自分の子供たちは、必ず日本へ留学させる」

 日本に8年間滞在していた40代半ばのビルマ人男性が「自分の子供たちは必ずあなたの国へ留学させる」語る。「どうして、それほどまでに日本留学にこだわるのか」と私が聞くと、彼は答えた。
「語学、知識、技術を身につけるのも大事。それ以上に重要なことがある。日本人と一緒にバイトでもいいから仕事をして、真面目さ真剣さ、おもてなしなどを学んでほしいと願っている」
 男は苦労人で、一言の日本語も分からずに東京へやってきて、居酒屋などでバイトをしながら学んだ。現在はヤンゴンで海運会社など複数の事業を営む成功者で、「自分は日本人と共に仕事をしたからこそ今がある。日本人の仕事のやり方は世界一。わが子を日本の厳しくとも真剣な社会で学ばせます」と断言した。
 これほどまでに日本を尊敬する人々がいる。わが身を律せねばと改めて心に誓う。アジアの人々から嫌われているという自虐史観は、もうやめよう。日本人として誇りを持って生きていこう!


■「ここからは日本だよ」

 開発途上国においては外国からのODA(政府開発援助)によるさまざまな社会基盤整備が行われるのだが、その中でも道路工事の援助は多い。
 何度も言われたことがある。「ここからは日本だよ」と。
 外国ではアスファルトで敷き詰められた道路を車で走っていても、日本のようにタイヤと路面が密着した感じはしない。アメリカの高速道路さえも常に微妙に揺れる。援助によって整備された途上国の道路もガタガタと音をたてて車は走る。
 ところが、ある一線から「ス〜ツ」と流れるように走り出す。現地の方が、「さっきまでは某国の援助、ここからは日本のODAで造ったから道がきれいなんだ。日本人が工事をすると実に見事な道路ができ上がり、なかなか壊れない」と真顔で語る。
 日本人の仕事に対する想い、決して手を抜かない姿勢、技術力の高さは、多くの国の人々から評価され尊敬されている。
 日本に暮らしていたミャンマー人が、しみじみと「日本はスゴイ。どんな田舎の道路でも整備されている」と首を上下に振りながら感心して言った。


■「日本で勉強したい!」

 2011年に生命保険会社が資金提供し建設した小学校を、翌年訪ねると、たくさんの児童が歓迎のため待っていた。
 型通りの式典が行われた後、子供たちにインタビューをすると、口々に、素直な表現が続く。とっても嬉しい言葉をいただいた。
「日本のみなさん、ありがとう」
「日本人は優しいから好きだ」
「日本人は真面目で働き者」
「いっぱい勉強します」
 13歳の少女たちが、「アウンサン将軍は日本で勉強したから立派な人物になつた」「私たちも将来、日本で学んでミャンマーのリーダーになりたい」と真剣な眼差しで語った。
 小学校5年生の教科書にはアウンサン将軍(ミャンマー建国の父、アウンサンスーチ一女史の父親)をはじめ、この国をつくる礎となつた30名のリーダーたちが日本で学んだと書かれている。
 戦前、戦後と、「日本が素晴らしい」と教え続ける。日本は子供たちの憧れ。ただ残念ながら日本人はミャンマーをあまり知らない。これほどの親日国。大事にしたい。
 ハンセン病施設に食料援助を開始して10年近くになるのだが、その変化は劇的でさえあった。それこそ明るくなった。「日本のみなさんが助けてくれるから、安心して生きていける」と泣いた方が多かった。支援する側としては、長期的な食料援助は半端ではなく、大変。ク人の命を預かる責任は山のごとく大きい。そして“お金がないからやめる”は通らない。黙々とマネジメントに取り組むしかない。責任の重さを深く知っているからこそ、「応援してくれる日本のみなさん」に毎日、手を合わせている。感謝のみ!



第5章.ネパール
 〜「日本人のように頑張れば、必ず豊かになれると信じている」



 これまで多くのアジアの国々を廻り、人々と触れ合い、語り合ってきたのだが、日本を嫌いな人と会ったことがない。
 ネパール人に、「なぜ日本が好きなのですか?戦争で迷惑をかけたから本当は日本が嫌いなのでは」と素直に問いかけた。ネパール人は答えた。
「日本とネパールは戦ったことはありません。逆にグルカ兵が日本兵を虐殺したのを知っています。あれはイギリスに雇われたグルカがやったこと。ネパールがやったのではありません」と、少し申し訳なさそうに言った。
 ネパールの対日感情は非常に良い。どこに行っても、「日本人は素晴らしい」と言ってくれる。
 日本に出稼ぎ経験のある男性から、こんなことを言われた。
「ネパールも日本も資源のない国。石油も出なけりや鉱物も埋もれていない。ネパールがぁるのはサガルマータ(エベレストの現地名称)だけ。都会のカトマンズでさえも毎日16時間の停電。仕事がないから男も女も海外に出稼ぎに、愛するわが子を置いて外国で働く。家族と離れて暮らすのは、涙が出るほど辛い。でも日本は違う。何もなくても懸命に学び、働き、世界で最も豊かな国になつた。すごいとしか言いようがない」と。
 確かにその通り。ネパールの人々の暮らしは辛い。都会でさえ断水が続き、停電は当たり前。経済はインドに支配される。町には、インド、中国製品があふれ、自国の商品はほとんどない。
 さらにマオイスト(毛沢東主義者)の台頭により、王室は廃止され、政治は大混乱。経済状況も最悪で、人々の暮らしは苦しくなるばかり。治安悪化も深刻となっている。
「日本は私たちの希望の国。資源もなく、戦争であれだけ叩き潰されても起き上がってきた日本人。ネパール人も日本人のように頑張れば、必ず豊かになれると信じている」と男性は言った。
 日本の存在は日本人が思っているよりも遥かに大きい。資源のないアジア人の国家が、白人国家を凌駕する大国として存在していることは、多くの有色人種国家、資源のない国の希望の星となっている。
 親日国ネパールを微力ながらも支えるのは大事だと考えている。


■グルカ兵の涙

 ネパールと日本の悲しい歴史もある。勇猛果敢なネパールのグルカ兵と日本軍の戦いが、インド北東部のインパールで行われた。壮絶な死闘は1週間にもわたり、さすがのグルカ兵も半分が戦死した。
 イギリス・インド軍に傭兵として雇われたグルカ兵と日本軍との戦いは不眠不休で続き、イギリス・インド軍はやっとの思いで日本軍を陥落させた。
 全滅した日本軍を見て彼らは驚いた。
 手にした銃は旧式で、当時、最新式のグルカの武器に比べるとオモチャのよう。日本兵の遺体は痩せ衰えガリガリだった。食料もほとんどない飢餓状態で戦闘を行っていたのである。
 あまりの壮絶な日本兵の遺体を見て、戦友が死んだ時にも泣かないグルカ兵が、敵である死んだ日本兵を見て、「これほどまでに国を思い故郷のために戦う兵士たちがいるのか」と泣いたという。


■暴動も暗殺も起きない民主主義国家になりたい

 ネパールは近年、マオイスト(毛沢東主義者)が台頭し、中国の影響力が絶大となってきた。この国の政治は不安定そのもの。人々の暮らしは厳しくなる一方。日本留学や日本で出稼ぎ経験のあるネパール人は口々に、「日本のようになりたい。豊かさや平和は当然だが、暴動も暗殺も起きない民主主義国家、日本を目指したい」と語る。
 「日本が道路を造ってくれた。あのバスも日本が、あの病院も日本人が」と、わが国がネパールを応援してきた事実もよく知られている。
 故橋本龍太郎元首相が大のネパール好きだったのも現地の仲間たちは意外にもよく知っていた。「ハシモトは剣道の達人だった。ハシモトがネパールを助けてくれた。ハシモトはネパールの親友だ」と懐かしそうに語る中年男性もいた。
 資源のない国、日本。戦争ですべてが破壊された日本。それでも起き上がってきた日本は尊敬されている。
 ありがたい。これからも親日国、ネパールを大切にしていきます。



第8章.なぜ日本人はアジアから嫌われていると思うのか


 私はアジアの国々に200回近く足を運び、現地の人々と話して「日本はアジアから愛され、尊敬されている」と解った。
 中韓は別として、日本はアジアの人々から愛されている。日本人は、「日本がアジアを侵略したから、アジアの人々に嫌われ、憎まれている」と教えられてきた。日本はアジアの国々と戦った?
 違う。アジアを侵略した白人と白人に雇われた現地兵たちと戦ったのだ。
 当時は日本とタイを除いたほとんどの国が、欧米の植民地だった。アジアの人々から幾度も「いかに白人たちが残虐だった」かを教えられる。
 20年ほど前、ベトナムの老人から、「アイツらは自分たちを人間とは思っていなかった」と直接、聞いたこともある。
 戦争は確かに悪である。多くの人々が亡くなったことに対して心からの反省と謝罪は当然。だが、日本だけが悪だという理論は個人的に疑問である。日本の敗戦後、アジアから白人たちの植民地はなくなった。アジア上層部の日本擁護の言葉も数多く残る。いま一度、日本人は自分たちの誇りを取り戻す必要があるのではなかろうか。


■世界で初めて「すべての人問は平等である」と宣言した日本

 世界で初めて、「すべての人間は平等である」と宣言した日本に、私は大きな誇りを持つている。
 世は人種差別の真っ只中。有色人種は人間ではないと言われていた時代に、「毅然として立ち向かった」国家が私たちの日本である。
 大正8(1919)年4月11日、フランスのパリ講和会議国際連盟委員会において、「すべての人間は平等である」との「人種差別撤廃提案」を日本が世界で初めて出した。白人至上主義がまかり通り、アフリカ、アジアを植民地とする。差別が当たり前、有色人種は家畜だと考え、奴隷状態におき搾取する。それが当然だと思っていた当時の世界情勢から見ると、大変な決意と度胸だったと思われる。有色人種国家の人々は驚惜し、「日本は何てすごいんだ」と賞賛の声が広がる。
 会議においていよいよ提案に対する「採決」が行われる。イタリア、ギリシャなど賛成11票、アメリカ、イギリスなど反対5票。賛成多数で可決されるかと思われた。
 ところが議長のアメリカ代表ウィルソン大統領は「全会一致」じゃないと決定できないと否決。これまではすべて多数決で決めていたのだが、日本の出した人種差別撤廃提案だけは「全会一致」でなければならぬと、突っぱねた。
 このニュースが広まると多くの有色人種国家から抗議の嵐が吹き荒れる。特にアメリカでは黒人暴動がいたる所で発生し、死者の数は100名を超えるほどであった。
 どちらが理不尽か。誰でも分かる。
 なぜ、このような素晴らしいわが国の歴史を子供たちに教えないのだろうか。なぜ、「日本が悪いことをした」とばかり教えるのだろうか?
 世界の有色人種に一筋の希望の光を照らしたのは日本である。欧米列強に対して人間として当たり前のことを発信し、堂々と渡り合った日本。先人による世界初の「人種差別撤廃提案」を日本人は誇りに思ってほしいと願う。


■国史を学ぼう

 わが国の歴史の教科は「日本史」と呼ばれているが、本当は「国史」ではなかろうかと個人的に真剣に悩んでいる。
 日本の子供たちは、「日本人の誇り」などと考えることはほとんどなかろう。世界中どこの国へ行っても、子供たちは「国史(ザ・ヒストリー・オブ・ネイション)」を真剣に学ぶ。小学校から、その国の建国〜現在までの歴史を教えられる。教師たちも「自分の国に誇りを持て」と懸命になって指導する。
 故に、たとえ小国であろうとも、子供たちは自分の国に誇りを持っている。これが本来の「国梓教育」だと思う。


■墨塗り教科書

 70代中頃の先輩方と話していると、「墨塗り教科書」の話題がよく出てくる。墨で真っ黒に汚された教科書で勉強したと。
 GHQに指示命令され、日本の神道に関わること、天皇を中心とした歴史、日本軍人の偉大さ、日本文化の高貴さなど、教科書の中で「日本の素晴らしさ」を書いた箇所が墨で黒く塗り潰された。アメリカ、ヨーロッパ、中国に対する批判的な内容は徹底的に墨汁で隠蔽された。
 敗戦直後の国民学校(小学校、中学校)の子供たちは、そんな教科書で学んでいた。当時、小学校高学年だった仰の良い先輩が、「墨で塗り潰された教科書を見た時に、本当に日本は戦争に負けたんだ」と涙が出てきたと語った。
 戦意高揚事項を塗り潰すのはまだ理解ができる。だが日本文化や神道に関することまで消し去るのは正しいのであろうか。日本人から「日本の誇り」を奪い去った蛮行は、許されるべきではないと私は考える。
 敗戦後、70年近く経過した今でも自虐史観的な教育がなされ、「神武天皇から始まる建国の歴史」も教えない、大戦当時の世界情勢も考えず「日本が侵略した」とばかり教える教育は正しいのだろうか。日本の未来の子供たちのためにも、日本人は今こそ立ち止まり、日本の素晴らしさ、日本の誇りを考える時期に来ていると思う。
 


■消し去られた歴史

 戦勝国が敗我国に対して、「自分たちに都合の悪いもの」「負けた国の歴史、文化を抹殺する」ために書物や資料を焼却、処分するのを「焚書」と言う。
 自由と民主主義を高らかに唱えながら「進駐軍」がやったのは、日本の素晴らしさを抹殺することだった。言論の自由、出版の自由を推し進める裏で、言論と歴史の破壊を平然と行った。文化、歴史、経済、軍事、英語やドイツ語の翻訳文献など、資源論から精神論までの貴重な書物7000点以上を処分し、日本の歴史の一部を消し去った。
 戦勝国によって新しい歴史が作られていく。「何か変だな?」と感じっつも判断、比較材料を奪われた日本国民は調べる術がない。控造、歪曲された歴史が本当の歴史だと思うようになるまで、それほどの時間を要することはなかった。戦後、70年近く経過した今でも、「進駐軍が押し付けた歴史」を見事なまでに信じ込む日本人は多い。
 焚書された書物の中には、白人帝国主義の連中が行った植民地政策、奴隷売買、人種差別における鬼畜の所行が書かれた本も、もちろん入っていた。「自分たちに都合の悪い本」は、すぐに消去した。
 敗戦直後の日本人には購罪意識はほとんどなかったという。「戦争に敗れた悔しさ」を胸に秘めて奮闘していた。「ふぬけ」にされた現在の状況をしっかりと見つめ、「日本人の誇り」を取り戻す時期に来ていると思う。日本の未来のためにも。


■「道」を消された日本

 戦後、マッカーサーをトップとするGHQは日本の「道」を破壊した。
 誇り高く勇気ある日本人を恐れたアメリカは、剣道、柔道、弓道、書道などの「道」がつく日本の素晴らしい文化を禁止した。日の丸、君が代、歌舞伎、落語なども禁止。神社へ集団でお参りすることまで禁止。漢字、ひらがな、カタカナをローマ字表記にしようと試みた。
 アメリカが禁止した内容を見ると、いかに彼らが日本を恐れたかが分かる。同じ敗戦国、ドイツ、イタリアには一切、このような破廉恥政策は採っていない。
 しかし、武道家、書道家などは「道」の復活のために命懸けで戦い続け、なんとか「道」を取り戻した。なぜ、一番大事な「子供たちに対する教育」を取り戻す戦いは、やってこなかったのだろうか?


■誰が戦争をしかけたのか?

 日本人は、先の大戦はわが国が真珠湾攻撃を行い始まったと信じ込まされてしまった。本当は誰が戦争をしかけたのだろう?「アメリカに決まってるだろう!」と声を大にして叫びたい。
 日本は、「戦争はしたくない」と土下座とも言える外交を続けた。しかし、アメリカは屈辱的な「ハルノート」を突きつけた。これは日本にアメリカの奴隷となるか、誇りを懸けて戦うかの選択を迫るに等しい内容だった。
 アメリカは不思議な国である。彼らが利益のために戦争をしたいと思うと突然、おかしなことが起きる。「リメンバー・アラモ」と言ってメキシコを襲い、「リメンバー・メイン」と言ってスペインを攻撃、「リメンバー・パールハーバー」と叫び日本を破壊した。
 資源のない日本に経済封鎖を行い、石油の一滴も入らないようにしたアメリカ。しかも、真珠湾攻撃の遥か以前から、「フライングタイガース」なる戦闘機で日本を攻撃していた。日本が卑怯な手段でアメリカを攻撃したから戦争が始まったのではない!


■アジアの人々は原爆の真実を知っている

 広島と長崎に原爆が落とされたことをアジアの人々は知っている。ある程度の教育を受けた方だとよく分かっている。「アメリカが原爆を落として日本人を虐殺した」との認識が、意外に多いのに驚く。
 ミャンマーの50代の男性は、「アメリカはひどいよな。実験のために、わざわざ2種類の原爆を落としたのだから」と怒りを込めて話した。「ドイツとイタリアには落とさなかった。日本人がアジア人だからやったのだ」と言うスリランカ人もいた。「日本は戦争でアメリカに徹底的に叩き潰され、原爆まで落とされた。それでも日本人は懸命に頑張って世界の経済大国になつた。日本はスゴイ国です。みなさんは私たちの希望です」よと日本人にとってありがたい言葉を何度もいただいた。
 一方、アメリカのジャーナリストや科学者などに対して、「20世紀最大の出来事は」というアンケートを取ると、「広島、長崎、原爆投下」が断トツで第1位を続けているという。
 残念ながら、日本人に残虐な行為をしたという反省の意味ではない。「太陽の光を地上に再現した白人の叡智」(トルーマン大統領)で、邪悪な猿(日本人)をやっつけたというのが、アメリカをはじめとする白人たちの基本的な考えである。もちろん残虐な行為だと反省する白い人々もいるが(※多くの米国人が、戦後日本人の米国留学や日本への食料技術援助を贖罪として惜しまなかったという事実がある。)。
 原爆を投下したユノラ・ゲイ(B・空をスミソニアン国立航空宇宙博物館に誇らしげに展示する精神構造。ボロボロになり和平交渉を打診する日本に対して、一点の罪の意識もなく実験で原爆を落とす。罪なき人々が焼き殺されることを知りながら。
 私は現実的な平和主義者ゆえに反米感情はない。日米同盟の大切さも理解している。日米同盟なしでは現在の日本は成り立たない。だからこそアメリカがやったことを知る必要があるのではと私は思っています。
 なぜ、これほどまでに残虐な仕打ちをアメリカは日本に行ったのか、と怒りと憎しみを感じる。女、子供、年寄りしかいない200以上もの都市に爆弾を投下。街を焼き尽くし、多くの日本人を殺害。「落とす爆弾が品切れしたから都市空襲は終了」とアメリカはのたまう。
 原爆投下後、すぐにアメリカ軍医療班が広島、長崎に入る。人命救助や被爆者治療ではない。「視察」のためだった。どのように日本人が焼き殺されたかを見学していたのだ。戦後、私たちはアメリカ軍は自由と正義の軍隊、日本軍は残虐な悪の軍隊と教えられたが、果たしてそうだろうか?
 いま一度、日本人は先の大戦と真実の日本近代史を学び直さなければと強く思う。


■国井善弥−剣道復活−・昭和の宮本武蔵

 戦後、剣道復活に奔走する国会議員・笹森順造に対して、GHQは条件を突きつけた。米海兵隊最強の銃剣術の使い手に勝てたら復活を許すと。アメリカ兵は本物の剣を付けた銃剣。日本人は古武道剣術の稽古用袋竹刀(四ツ割りの竹を牛皮の良革で包んで作った竹刀)。最初から日本武士殺害を目的とした条件だった。
 そのような不利な条件でも瓢々(ひょうひょう)と二つ返事で受けた日本の侍は、福島県出身で鹿島神流の使い手、国井善弥。あらゆる武道家から受けた挑戦にすべて勝利した「昭和の武蔵」だ。
 試合は始まった。大柄なアメリカ海兵隊の銃剣術の教官は銃剣を突き刺し、その流れで銃底を横に払い、国井の側頭部を破壊する動作。
 一瞬に勝負は決まった。
 昭和の武蔵は銃剣の突きをかわし、銃底の横からの攻撃を避け、竹刀でアメリカ兵の首根っこを押さえ、ねじ伏せた。アメリカ兵は一切の動きが取れなくなった。
 アメリカは日本武道の素晴らしさに驚嘆した。剣道復活が認められた瞬間だった。
 国井善弥先生が負けていたら剣道の復活はいつ実現したか分からなかった。まさしく昭和の巌流島の決闘を制した侍のお陰である。


■国のために殉じた人に感謝するのは世界の常識
 〜靖国神社を救ったローマ教皇庁〜

 戦後、日本の占領統治をしたGHQは靖国神社を焼き払い、その敷地にドッグレース場を建設する計画を立てていた。いかにもアメリカ人らしい発想である。
「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して敬意を払う権利と義務があると言える。それは戦勝国か敗戦国かを問わず平等の真理でなければならない」
 と敢然と立ちはだかったのが、ローマ教皇庁代表であり上智大学の学長でもあったブルーノ・ピッテル神父と、メリノール宣教会のパトリック・バーン神父。この二人の神父の進言により靖国神社は救われた。「よくぞ言ってくれた」と感謝の思いがあふれる。
 1980年5月21日には、国際法では完全に違法行為と言われる東京裁判において、不当に裁かれ処刑されたA級戦犯、BC級戦犯、1068柱の英霊に対するミサが、サンビュトロ大聖堂において行われた。
 ありがたい。国のために命を捧げた英霊に感謝の心を持つのは、どこの国であろうとも当たり前のことである。


■なぜ天皇陛下は靖国参拝をされないのか?

 昭和50(1975)年11月21日を最後に、昭和天皇は靖国参拝は行わなくなり、今上天皇も現在まで参拝していない。「なぜなんだろう?」と素朴な疑問が湧いてくる。
 「戦犯を合祀したからだ」と言う方がいる。確かに昭和53年にA級戦犯が合祀されて以来、参拝していないのは事実だが、それが原因だとは思っていない。なぜなら昭和34(1959)年のBC級戦犯の合祀以降も昭和天皇は参拝されているからだ。
 故三木武夫元首相が昭和50年の終戦記念日に、戦後の首相として初めて参拝したが、この時、政教分離の原則に反するのではないかとの指摘に、「私的参拝である」と言い切り、私的参拝4原則なるものを掲げた。
  1. 公用車を使用しない
  2. 玉串料は私費
  3. 記帳する際には肩書を書かな
  4. 公職者を随行しない
 最後の昭和天皇皇后両陛下の靖国参拝後、国会で私的参拝か公的参拝かで議論となるようになつた。4原則で見ると、天皇陛下の皇居外でなさる行事はすべて公式行事。天皇陛下が参拝をすることはなくなった。
 「世間を騒がせてはいけない」との思いがあるのではなかろうか。大御宝(国民)を思う大御心だと私は考える。正直言って「悲しいこと」である。


■専守防衛で子供、孫を守れるのか?

 日本に近隣の野蛮国家(※支那と北朝鮮)からミサイル攻撃の予兆があり、防衛の必要があっても、先制攻撃をしてはいけない。自国の領域に入ってからしか撃退することはできない。でも、それでは間に合わない。
 野蛮国のミサイル数百発が日本の主要都市に狙いを定め、セットされている。常識はずれなハレンチ国家はすぐ近くにあり、日本の国土は南北に長く幅が狭い。仮に弾道ミサイル、爆撃機を用いた攻撃を受けると、守るには無理がある。専守防衛では、自衛隊が日本国民の生命財産を守ることはできないのが現実。
 戦争はないほうがいいに決まっている。戦を望む人間はいない(一部のアホはいる)。誰しもが平和を望む。わが子を戦場に送りたい親がいるはずもない。
 だからこそ現実を見つめるべきだ。隣国の野蛮人たちは平和を尊ぶ日本人に対して、敵意むき出しで攻撃体制を構築している。みなさんも専守防衛について考えてみてください。自分の子供、孫、日本の未来のために。


■日本よ、強くなつてくれ!

 以前から、自己の現地体験で知った「日本はアジアの国々(某3か国を除く)から、信頼され尊敬されている」ことを伝えてきた。
 以前、フィリピン外相が英国有力新聞のインタビューを受けて、「日本は反省や謝罪はもういい。日本の軍備強化を歓迎する」と表明した。他国侵略を続ける某国に対して脅威を感じ、「日本と手を取り対処しよう」との意思表示。
 私自身もいろいろな国で、「日本よ強くなつてくれ。日本だと信頼できる」との声を聞いた。インドやベトナムなども同じ思い。
 何が言いたいのか?
 軍備拡大云々は議論が必要だが、少なくともマスコミや教育で植え付けられた「日本人は悪いことをしたから、アジアの人々に嫌われ憎まれている」という自虐史観に、「さらば」と言ってくれ! 「日本はアジアの人々から、信頼され尊敬されている」と、日本人が自信を持ってほしい。
 それにしても、外国では大きく取り上げられたフィリピン外相のインタビュー記事。日本のマスコミは取り上げないか、取り上げられても小さな記事だった。これこそが日本人に喜びと勇気を与えると思うのだが、なぜなんだろう?



第十章.仁義ある戦い


 「神様が先じゃー」(戦後も皇居の清掃から復興は始まった。⇒[天皇陛下の祈り]参照)
 戦争に負けた日本に対して連合国軍総司令部(GHQ)は「神道指令」を出し、日本人と神道の分断政策を行う。神社と日本人を切り離すために公民館を村々に造ったのもGHQ戦略。日本の精神文化はズタズタにされたかと思っていた。しかし、そうではなかった。
 日本人の精神文化の高さを、被災者のみなさんから教えられた。震災後しばらくして、人々の心はやや落ち着きを取り戻したものの、荒れ果てた町や村を見て呆然とする。破壊されたわが家を見てガツクリと肩を落とす。何とか踏ん張り、復興に向けての一歩が始まつた。
 それは、「自分の家、持ち物」を直すことから始まったのではないと言う。多くの日本人が、「神様が先じゃ〜」と言って神社の鳥居を直し、境内の瓦礫撤去、清掃を行っていた。「自己を捨て、公から始めた」のだ。絶望的な悲しみの中でも、誰かを思いやる心に頭が下がる。感動のあまり涙した。(※この「神様が先じゃ〜」こそが君民共治の大和魂の根源で、最高で最良の公共の福祉だと思う。天照大~に感謝する!)
 震災から2年半近く経過した今もなお、横倒しになったお地蔵さんや歴史的に貴重な石碑などが破壊されたまま。私たちは、その修復作業支援を行うことを決定した。
 みなさん、「日本人ってすごい。優しい」と思いませんか。「日本人としての誇り」が新たに芽生えた。


■キリンビールの「粋」

 東日本大震災から2年半近く経ち、日本企業の支授のあり方が如実に現れている。
 漁業組合の牡蠣保存所およびセリ市場の建物は、震災で完全に破壊されてしまい、関係者は呆然としていた。
 そこへ、「キリンビール」がポ〜ンと5億円以上出して、立派な建物と施設が完成した。「コリヤまた立派な施設ができたものだ」と感心した。
 キリンのコマーシャルで、ビールを飲みながら牡蠣を頬張るシーンがあるとのこと。ただ、それだけの縁で援助をしたと聞いた。もちろん海の男たちがキリンビールを呑んでいるせいもあるだろうが。「キリンビールは粋だね」と思ったのが、建物の周りをグルッと見てみたところ、「キリンからの援助」の文字が一切なかったことだ。「スゲーな」と頭が下がる。


■台湾の善意と、中国、韓国の振る舞い

 最も日本を愛する台湾の人々が、何と200億円以上の義援金を震災の時、すぐに送ってくれた。大事な隣国である。ところが平成24年の政府主催犠牲者追悼式典では、時の政権は各国代表を来賓として待遇したにもかかわらず、台湾代表を一般参加扱いし、侮辱した。平成25年の追悼式典は新政権となり、日本政府は台湾代表を正式な来賓として迎えた。「良かった」と日本国民のほとんどは思っただろう。
 それに対して、「台湾と仲良くしたらイヤだ〜」と、まるで駄々っ子のように不満をあらわにし、中国、韓国の参加はなかった。韓国にいたっては無断欠席。ひねくれちゃったのかな〜? これは日本人には理解できない精神構造だ。
 震災で亡くなった方々の霊を慰め、今なお苦しむ人々に心を痛め、尽力されたみなさま、応援してくれた外国の方々へ感謝の意を表する式典に対して、このような行動をとることは信じられない。残念である。


■「最初に駆けつけてくれたのは自衛隊じゃった」

 震災から2年半近く経った今でも、被災者のみなさんは自衛隊に対して心から感謝の念を持つ。
 「最初に駆けつけてくれたのは自衛隊じゃった」と手を合わせながら話す男性がいた。道は寸断され、通信手段もない。不安と恐怖におびえながら耐えていた。食い物もない。寒さで凍りつく。「誰も助けには来てくれない」と深い絶望感へと落ちていく。
 「大丈夫ですか〜」と若い男の声。迷彩服に身を固めた若者だった。目の前に自衛官が立っていた。「助かった……」と涙があふれてきた。「私は生涯、自衛隊に感謝しながら生きていきます」とその男性は笑顔で語った。


■高貴な自己犠牲の精神

 東日本大震災時に出動した自衛隊は、一人でも多くの被災者のみなさんに元気になつてもらおうと、温かい「みそ汁」「ご飯」「おかず」の炊き出しを行った。
 自衛官たちは温かい食事に手を出す者は、誰一人いなかった。あくまで被災者優先。湯気のたつ食事を口にしても、文句を言われることはない。それでも野戦食の缶詰だけを口にしていた。
 缶詰オンリーの食事の結果がすぐに出た。多くの隊員が、ひどい「口内炎」に冒された。極度のビタミン不足で、口の中はひどい状態。さらに便秘にも苦しむ。それでも塩味の強い野戦食の缶詰だけを食べ続け、任務を遂行。自衛官たちは日増しに無口になる。「口内炎」の激痛に耐え激務をこなす。ある司令官は、あまりのひどさで言葉を発することもできなくなつた。
 なぜ、これほどまでに日本国民を思うのか。なぜ、ここまでの高貴な自己犠牲の精神が育成されるのか。
 そして、なぜこれほどまでに立派な軍人たちを批判する日本人がいたのだろうか。
 ちょつと前までは、自衛隊に関する報道は、事故を起こしたとか、隊員の犯罪とか、左翼運動家たちが自衛官に対して罵倒する姿などがほとんどだつた。
 東日本大震災以降、変わつた。
 被災者を懸命に救助する自衛官の姿、泥だらけになつて遺体捜索をする姿、子供たちと戯れる姿など、日本国民のために命懸けで職務を全うする彼らの姿が、数多く報道される。その美しい姿に、多くの日本国民が感動した。
 昭和初期の宰相、吉田茂は、「自衛隊員は一生、日陰者でいてくれ」と言った。そんなことは、もう捨て去ろう。体を張って日本国民を守る自衛官にこそ、眼も眩むぐらいの光を当てるべきだ。


■仁義ある戦い!

 2004年、当時イラク大統領だったヤワール氏はシーアイランドサミットにおいて、「イラク国民が最も歓迎しているのは日本の自衛隊だ」と絶賛した。番匠郡長率いる第一次イラク復興支援部隊が引き揚げる時、イラクの人々は泣きながら別れを惜しんだという。
 イラク人の気質は、「昔の日本人とソツクリだと感じた」番匠郡長は、GNN(義理、人情、浪花節)で対応した。復興支援の流れの事前説明を行い、「仁義を切り」、現地の人々から安心と信頼を得て、人情と浪花節的人間関係を構築していったのである。まさしく武士道精神に基づく優しさを持つ作戦だ。
 2004年1月、小銃一丁で自衛官たちはイラクのサマーワへ派遣された。自衛官たちはイラク復興支援で治安を維持するとともに、道路や水道の補修を懸命に行っていた。
 しかしながら12月にロケット弾が野営地に打たれる。すると多くのイラク人がテントを訪ねてきて、「自衛隊のみなさん、済まなかった。ロケットは国民の意思ではない、一部の馬鹿がやったんだ」と謝ったという。
 イラク任務を終了し、自衛隊が撤収を始めると、多くのイラク人が集まり緊張感が走る。
 そこで前代未聞の不思議なデモが発生。イラク人たちは挙を振り上げ叫ぶ。しかしその内容は、「自衛隊よ帰らないでくれ。もっとイラクにいてくれ」だった。プラカードには、「自衛隊、ありがとう」と書かれていた。
 アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアなどの軍隊は、このデモに驚いた。常に占領軍としてイラク国民から憎しみの対象でしかなかった異国の軍隊は、「なぜ自衛隊は、これほど愛されるのか」と驚愕した。
 日本のマスコミはミサイル攻撃を大々的に取り上げたが、サマーワの人々に愛された真実は報道しなかった。
 戦争に敗れながらも不死鳥のごとく経済大国として蘇った「日本に対する尊敬の念」もイラク国民に定着している中、現地との交流を大切にした自衛隊の支援のあり方が絶賛されるのは当然かもしれない。
 多くのイラク国民は、異国の軍隊に対して深い憎しみと嫌悪感を持っていた。その中で信頼と尊敬を勝ち得てきた「日本の自衛隊」を日本人として誇りに思う。



第11章.日本国民の為に−天皇


 終戦後アメリカ世論の70%は「天皇を処罰せよ」と叫び、連合国軍も、どうやって天皇を戦犯として裁くかを考えていた。
 昭和20(1945)年9月27日。昭和天皇は旧アメリカ大使館に連合国軍最高司令官マッカーサーを訪ねた。直立不動で国際儀礼の挨拶をするも、戦勝国最高責任者は無礼千万なる態度で天皇を迎えた。マッカーサーは天皇が、戦犯として起訴されないために命乞いに来たのかと思った。
 ところが天皇は、
「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」
と言われ、さらに、「この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」と願われた。
 マッカーサーは態度を改め、
「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい」
と答えた。
 後にマッカーサーは回顧録で、「明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の目の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとった」と書いている。
 自らの命を差し出し、国民の衣食住を懇願する国家元首がどの国にあろうか。私は天皇を尊敬し、日本人に生まれたことを誇りに思い、日本国を心から愛している。


■世界を驚かせた昭和天皇の巡幸

 終戦後間もない昭和21(1946)年2月から約8年間かけて、昭和天皇は国民を励ますために日本国中を巡幸された。
 天皇を迎える日本国民の姿に、世界中のインテリが驚いた。「君主制は敗戦に耐えられない」のが世界の歴史と常識。敗戦国の君主は、国民に殺害されるか国外逃亡が当然だった。
 天皇が巡幸を始められた当時は、戦争が終わった直後で、銃などの武器はいたる所に残り、警備もほとんどない。敗北した国の治世者が、こんなにも危険な状況に身をさらした前例はない。
 世界は、天皇は殴られ、刺され、銃で撃たれ、命を奪われるのは間違いないと確信していた。
 ところがそこには、驚くべき日本国民の姿があった。どこに行っても天皇は群衆に歓迎され、もみくちゃにされる。涙を流して、「天皇陛下、万歳−」と歓迎を受けるその姿に、世界中が驚いた。それほどまでに日本国民は天皇を愛し、尊敬していた。
 日本人と天皇との結びつきは神話の時代から脈々と続く。私自身も天皇を心から愛し、尊敬している。


■天皇陛下のご覚悟

 今上陛下(平成天皇)が11歳の時、疎開先で善かれた日記には、驚くべき覚悟がしたためられていた。
 11歳というと小学校5年生。戦争に敗れ、父である昭和天皇殺害のみならず、当時皇太子だつた天皇陛下も抹殺される可能性が充分にある時期、陛下は日光へ疎開されていた。
その地で書かれた日記には少年が書いたとは思えない深い覚悟が善かれていた。今度の大戦で、陸、海の軍人はよく戦つた。国民も一生懸命に戦った。でも敗れた。日本は、これからドン底になるだろう。ドン底から立ち直らせていくのは自分の責任だ。自分がしっかり、その困難に耐えていかねばならん」
 という固い決意の内容が書かれていたという。
 自分が小学校5年生の頃は、海で遊んでばかりいた。「国を背負う」覚悟は想像を絶するほどのものであったと思われる。
 天皇陛下は、11歳にしてこれほどの深い想いを持っていたのかと驚く。


■天皇皇后両陛下が沖縄に来てくれた!

 平成24年11月17〜20日に、天皇皇后両陛下が「第32回全国豊かな海づくり大会」への出席のため沖縄を訪問された。
 行く先々で多くの沖縄県民が両陛下を歓迎。道路は日の丸の旗で埋め尽くされ、人々は笑顔と敬意をもって両陛下を迎えた。
 特に18日には天皇皇后両陛下奉迎提灯パレードが、国際通りから護国神社まで行われ、7000人以上の県民が、「天皇陛下万歳」と声を上げながらパレードを行った。(⇒[沖縄の真実U]参照)
 沖縄の新聞が、「天皇皇后両陛下奉迎提灯パレード」を取り上げることはほとんどなかった。歓迎を示す横断幕も一夜でなくなることもあった。なぜなんだろうか?
 日本全体が、「沖縄県民は反対運動ばかりの左巻き」だと思わされてきている。これはとんでもないことで、「沖縄県民の多くは日本を心から愛している」と断言してもいい。
 私自身も日本を愛し、日本人としての誇りを強く持つ。そして天皇陛下を心から尊敬している。天皇皇后両陛下、今回の沖縄行幸啓、「ありがとうございました!」




マハティール元首相と娘による日本の評価


 マレーシアのマハティール元首相は日本を高く評価しており、ルックイースト政策を掲げ、勤労倫理と集団主義を日本に学ぼうということです。1992年年10月14日の香港におけるスピーチでは、日本に関してこのようなことを述べています。
 東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、自分たちも他の世界各国も驚くような成功を遂げた。東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、実際にそれを証明してみせた。
 もし、日本なかりせば、世界はまったく違う様相を呈していたであろう。富める国はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。北側のヨーロッパは、永遠に世界を支配したことだろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、スズを掘り、それを富める工業国の言い値で売り続けていたであろう。

 また元首相の娘のマリナ  マハティール氏は2013年6月6日のスター紙で日本に関して次のような事を書いています。以下転載です。

 マレーシアのトイレが汚いのは、習慣によるもので、非難されるべきなのは自分たちであり、政府ではない。
 日本のハイテクトイレについて書いたところ、マレーシアの汚いトイレは政府の責任だと言う意見が来た。しかし、非難されるべきはトイレを汚く使う、自分たちであり政府の責任であると言うのは筋違いだ。日本を訪れる外国人は、日本人の公共での気遣いに気づくだろう。
 電車の中で電話をしない。喫煙は非喫煙者に迷惑をかけるという注意書きが喫煙ルームにもある。ごみのポイ捨てはない。トイレには音消し装置がある。
 レストランや店でのサービスの良さ。
 物を置き忘れても、店の方が保管しておいてくれ、連絡すると直ぐに見つかる。ホテルの従業員が近くのレ ストランまで案内してくれた。質問には詳細に答えてくれ、誤解も混乱もなかった。店の従業員は、小額の買い物でも、ドアのところで挨拶して見送ってくれる。歩道には目の不自由な人のために点字ブロックが敷いてある。安全で清潔。電車やバスは時間に正確。それゆえ、日本を訪れた人は、必ずまた来たいと思う。
 問題は言葉だ。日本語がわからなかったら、いろいろな事を逃してしまう。しかし、私が日本にいた27年前に比べて、英語を解する人が増えている。道に迷ったら、完璧な英語を話す人がきっと助けてくれる。
 もう一つの問題はコストだ。経済がうまくいってなくても、日本は物価の高い国だ。日本人の物価レベルで、安く済ますことはできる。でも、私たち の物価レベルではない。
 それでも訪れる価値のある国だ。何が日本をそのような国にしているか?
 もし、腐敗した政治家がいないとすれば、日本では公平な分配が行われてるという事だ。
 諸外国から観る日本人の良さとして、勤労意識や企業倫理の素晴らしさを賞賛している。それは先人達から受け継いだ習慣や美意識であり、特別なことではないと思います。もしかすれば、他国の人は一生懸けても体得できない精神性を、私達日本人はこの伝統という形で受け継いでいことを、私達自身が自覚しなければなりません。(登録者)


⇒(スターリンの謀略)へ
 (TOPへ)
⇒(GHQの教育基本法)へ
⇒(大東亜戦争の真実)へ
⇒(日本が戦ってくれて感謝してます)へ