日本が戦ってくれて感謝しています





 大東亜戦争が侵略戦争では無く、人種差別からの解放だったと、中韓北以外のアジアの国々は証言している。世界中からの声がある。その実例を本書[日本が戦ってくれて感謝しています]と[日本はなぜアジアの国々から愛されるのか]を通じて教えられ、きっと日本という国家に誇りを持つことができるようになると思います。
 非常に分かり易い文体と、著者の苦難の経験が滲み出ている素晴らしい内容です。どうが原書を手に取りご覧頂くことをお勧め致します。下記抜粋です。尚、アジア諸国の国旗と日本に関連巣お話しは[⇒(国旗国歌と教育勅語)]参照です。
 尚、人類学的に見ても、日本人はDNAの構造からして漢民族や朝鮮民族とは違い、モンゴルや台湾、ベトナム、チベットの人々と近い。日本人がどこからきたかというルーツにも繋がるが、大和民族が日本を目指して渡来する際に、支那と朝鮮半島は避けたと云うことだ。



前書き

 これまで私が自分の足で歩き回って見聞してきたアジアには、日本のマスコミが声高に叫ぶ“反日”の声も、また学校で教わるような侵略の歴史も、いまもってお目にかかったことがない。
 半世紀も日本の統治下にあった台湾には、むしろ戦前の日本統治時代を懐かしむ声が溢れ、また日本の戦争の“犠牲者”とされてきたフィリピンでは、驚くべきことに神風特別攻撃隊の武勇が地元の高校生からも賞賛されている。
 そしてマレーシアをはじめ東南アジア諸国では、日本軍は“解放軍”として歓迎されていたのである。事実、マレーシア航空の機内誌『going places』(2002年8月)には、《日本のイギリスに対する勝利は、長くヨーロッパの植民地でありつづけたアジア人の意識の中にあったヨーロッパ列強の無敵神話を見事に粉砕したのである》(訳は筆者)と記されている。
 またマレー・シンガポール攻略戦に引き続いて実施されたかのインパール作戦も、インドの人々からは“インド解放戦争(インドの対英独立戦争)”として感謝の意を込めていまも高く評価されていた。さらにかつて日本の委任統治領であったパラオでは、戦前の日本が生き続け、日本軍人は尊敬を集めているではないか。
 となれば、毎年8月15日がやってくると決まってマスコミが騒ぎ立てる反日的なアジアの声″とはいったい何なのか。そこで日本軍の蛮行とやらを声高に訴える方々にお尋ねしたい。いったいどうすれば日本の侵略を恨む声に出会えるのか。
 もとより日本にすべての戦争責任をなすりつけ、日本が二度と戦えないようにしようとした対日戦の総仕上げが現行の日本国憲法の押しっけだった。その結果として日本の近現代史が歪められてしまったのである。だからこそこの現代日本の輌ともいうべき現行憲法を改正する必要がある。
 いうまでもないことだが、憲法改正やそれに伴う自衛隊の活動範囲の拡大は、あくまでも日本国民の生命と財産を守り、地域の平和と安定を守るためである。ところが現行憲法の害毒によって蔓延した「自虐史観」がその阻害要因となっている。
 最近とみに反日″の度を深める韓国も同様で、彼らのいう歴史問題″の本質は、日本との外交交渉を有利に導くための戦術であると同時に、国内問題のはけ口として、あるいは民族意識高揚の手段として都合よく利用されているに過ぎないのである。これが中国や韓国が持ち出してくる歴史問題″の本音なのだ。
 靖国神社への首相参拝問題や歴史教科書問題などは、そのいずれもが単なる「歴史認識」の問題ではないのである。
 だからこそ彼らは、ありもしない“南京大虐殺”だの“従軍慰安婦の強制連行”だのを振りかざし、日本による“侵略”という歴史を担造して執拗に謝罪を要求してくる。しかしながらそれに怯んで国防体制をおろそかにし、さらには日米同盟に亀裂を生じさせてはならない。我々は淡々と日本の国益を追求し、国防体制の拡充に努めてゆく必要がある。



第一章 インド独立戦争を共に戦ってくれて感謝しています

 当時19歳だったパール判事もまた、日露戦争における日本の勝利に感銘したインド人の一人だった。
《同じ有色人種である日本が、北方の強大なる白人帝国主義ロシアと戦ってついに勝利を得たという報道は、われわれの心をゆさぶった。私たちは、白人の目の前をわざと胸を張って歩いた。先生や同僚とともに、毎日のように旗行列や提灯行列に参加したことを記憶している。私は日本に対する憧憶と、祖国に対する自信を同時に獲得し、わななくような思いに胸がいっぱいであった。私はインドの独立について思いをいたすようになつた》(田中正明著『パール判事の日本無罪論』 小学館文庫)
 まさしくチャンドラ・ボースの不屈の魂がインドの独立を勝ち取ったのであった。元インド国民軍大尉で全インドINA事務局長S・S・ヤダヴ氏は次のようにいう。
《インドの独立には国民軍の国への忠誠心が大きな影響を与えました。しかし我々国民軍を助けてくれたのは日本軍でした。インパールの戦争で6万の日本兵士が我々のために犠牲となってくれたのです。我々インド人は子々孫々までこの日本軍の献身的行為を決して忘れてはいけないし、感謝しなければならないのです》(DVD『自由アジアの栄光』日本会議事業センター)

 ■産経:インパールの旧敵と靖国へ。2014/10/20

 元英軍兵士らが21日、日本を初めて訪れ、かつての敵である元旧日本軍兵士らと靖国神社を参拝し、双方の戦没者を慰霊する。激戦の舞台インドの映画監督ウタパルが同行し、日英印をまたいだ和解の歩みを映像として記録する。元英兵士のウェランドさんは訪日を前に、妻のルース・スミスさんを通じ「敵としてでなく日本に行けるのは幸せだ。私たちは未来の世代のために、友人になることができるのではないか」と語った。また、元英兵の訪日を実現させたマクドナルド昭子さんは「英軍人は、今回の靖国神社参拝の意味を理解している。日本と英国、インドは、教育や交流を通じて悲惨な過去を前向きで建設的な関係に発展させることができる」と強調した。※世界は、日米、日英印が、お互いの英霊を讃え合うのが常識であり、未来への平和への祈りだと信じている。だから、靖国参拝を批判し、捏造した歴史問題を持ち出し日本を批判し、賠償金をむしり取ろうとする中韓だからこそ、世界中で反中嫌韓が主流になっているのだ。


◇日本軍は“解放軍”、日本兵が守ってくれた

 現代では、補給なき無謀な作戦として常に批判にさらされてきた「インパール作戦」。昭和19年3月から開始されたこの作戦は、日本軍3個師団の合計7万8千人とインド国民軍約1万5千0人が、ビルマ(現ミャンマー)からインド東端に位置する英軍の要衝インパールの攻略を目的として戦われた一大作戦であった。
 緒戦では日本軍が快進撃し、南から師団「弓」がインパールに迫り、これに呼応して東から師団「祭」がインパールを圧迫した。そしていちばん北側に位置していた師団「烈」は、インパール北方のコヒマを占領したのである。
 もちろんインド国民軍もよく戦った。インド国民軍の各部隊は、日本軍と共に各地で勇戦敢闘し、南部のファーラムやハカの近郊では、インド国民軍だけで英軍と戦闘を繰り広げた。こうしてインド国境を越えて進撃する日本軍とインド国民軍は、インド領内各地で次々とインド国旗を打ち立て、首都デリーへの進撃を誓い合ったのである。
 インパール作戦はインドでは「インパール戦争」と呼ばれ、対英独立戦争として位置づけられている。当時の写真を見ると、インドの人々が進撃する日本兵を歓迎しており、つまり日本軍はインド独立を支援した“解放軍”として迎えられているのだ。したがってインド人は、かつて日本が“侵略戦争”をしたなどという歴史観をもっていない。
 日英両軍が死闘を繰り広げたインパールの北方18キロのマパオの村では、地元のニイヘイラ女史によって作られた実に美しいメロディーの『日本兵士を讃える歌』がいまも歌い継がれている。
父祖の時代より
今日の日まで
美しきマパオの村よ
いい知れぬ喜びと平和
永遠に忘れまじ
美しきマパオの村に
日本兵来り 戦えり
インパールの街目指して
願い果たせず
空しく去れり
日本兵 マパオの丘に来る
それは4日の火曜日
1944年のことなりき
我は忘れじ4月のあの日
罪なき民も散り散りに
西に東に追いやられ
再び神の恵み受け
集り住まん
この地マパオに
広島の悲報
勇者の胸をつらぬき
涙して去れる
日本の兵士よ
なべて無事なる帰国を
われ祈りてやまず。       (DVD 『自由アジアの栄光』)
 このように日本軍兵士はいまでも地元の人々から尊敬され、そして感謝されているのである。
 日英両軍の大激戦地の一つ、マニプール州2926高地近くのグルモハン・シン氏はこう語る。
《日本の兵隊さんは命を張って私たちを戦場から逃がし、戦ってくれました。今こうして私たちが生きていられるのも、みんな日本の兵隊さんのおかげだと思うと感謝の気持ちでいっぱいになります。一生この気持ちは忘れることはできません》
 そしてこの丘の麓のロトバナン村には、現地の人々によって建てられた日本兵の慰霊塔があり、毎年日本兵の供養が行われているという。そしてこの慰霊塔建立の推進役となったロトパチン村のモヘンドロ・シンハ村長はこう語っている。
《日本の兵隊さんは飢えの中でも実に勇敢に戦いました。そしてこの村のあちこちで壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動のすべては、みんなインド独立のための戦いだったのです。私たちはいつまでもこの壮絶な記憶を若い世代に残していこうと思っています。そのためここに兵隊さんへのお礼と供養のため慰霊塔を建て、独立インドのシンボルとしたのです》
 また別の激戦地コヒマでも同じように、日本軍は賞賛されているのだ。日本軍が去った後にコヒマに群生しはじめた紫の花が「日本兵の花」と名づけられ、そして日本軍兵士によって仕留められたイギリス軍のM3グラント戦車が「勇気のシンボル」として保存されているというから驚きだ。
 そして日本軍兵士の規律もまたインドの人々から賞賛される対象だったのである。
《現地の人々は、日本人が軍規粛正で特に婦人暴行がまったくなかったことを、常に称賛します。それは、コヒマでもインパールでも同様です。H本草を迫ってここへ来た英印軍は、略奪と婦人暴行が相当ひどかった(西田将氏談)ため、統制のとれた日本軍の姿が心に残ったのでしょう》(名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』展転社)
 独立インドの理想に燃えるインド国民軍の兵士達と勇敢な日本軍兵士は共に『チェロ・デリー』(征け征けデリーヘ)という歌を唄いながらインドを目指したのだった。インドの親日感情はこうした歴史から醸成されたものなのだ。
 インド最高裁弁護士のP・N・レキ氏は次のような言紫を残している。
《太陽の光がこの地上を照らすかぎり、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない》
 そしてある村で、日本兵の鉄兜や飯ごう、さらに武器までも大切に保存している老人に「なぜこのようなものを大切に保管されているのですか?」と訊いた。するとその老人は、「私は日本の兵隊さんを顕彰したいんです」と答えたという。
 そしてその老人は日を潤ませながら、こう話したのである。
「日本兵は戦闘が始まる前に集落の家を一軒一軒回って、『いまから戦争が始まるから皆逃げろ!』といってくれた。そのおかげで私たちは生き延びることができたんだ」
 また別の老人は、日本軍が占領していたときは、村人と日本軍兵士との交流があり、和気あいあいと家族のような付き合いをしていた、と当時を懐かしんでいたという。
 そして興奮気味にこう語ってくれた。
「とにかく多くの人々が口を揃えていっていたのが、『日本兵士は強かった。勇敢だつた』ということです。中には 『これほど高貴な軍隊は見たことがない。神のようだ』とも語っていたんです」
 そして一つわかったことは、この地域には、昔から勇敢な者を讃える習わしがあるということだった。
 1943(昭和18)年7月、シンガポールで、インド独立連盟総裁の地位をチャンドラ・ボースに移譲して同連盟の最高顧問に就任したビハリ・ボースは、かつて日本軍がシンガポールを陥落させたことを次のように綴っている。
《イギリスの勢力を印度から完全に一掃しない限り、日本の理想とする大東亜共栄圏の確立は不可能なのである。東棟首相は深くこの点に鑑みられ、去る二月十六日シンガポール陥落報告の議会演説に於て、我々印度人に対し、一日も早くイギリスの束縛を脱却し、「印度人の印度」を建設することを要望された。(中略)ここに東條首相の断乎たる印度援助の声明を聞くことを得て、実に天にも昇る悦びである。今こそアジヤの復興する時が来たのだ。今こそ印度を、三百年に亘るイギリスの暴圧から解放する時が来たのだ》(ビハリ・ボース著『印度侵略悲史』東京日日新聞社)
 東條英機首相は、大東亜戦争の緒戦からインドの独立を唱えていた。だからこそ、急進的なインド独立の闘士チャンドラ・ボースとも意気投合し、彼を高く評価していたのだ。
 昭和18年6月、東條首相は来日したチャンドラ・ボースと会見し、その翌月にシンガポールでインド国民軍を閲兵している。
 そしてこの年の11月5日、東京でアジアの独立国7カ国の代表が参集して「大東亜会議」が開かれた。当時の日本の首相は東條英機で、中華民国からは国民政府行政院長・汪兆銘、満州国からは国務総理大臣・張景恵、ビルマからバー・モウ首相、フィリピン共和国からホセ・ぺー・ラウレル大統領、タイ王国からもワンワイタヤコーン殿下(ピー・ピブン・ソンクラム元帥の名代)に加え、オブザーバーとして自由インド仮政府の首班チャンドラ・ボースが参加し、アジアの独立と共存共栄を謳った「大東亜共同宣言」が採択(11月6日)されたのだった。
 この会議でチャンドラ・ボースはインド独立の決意を訴えた。
「万が一我が同盟国(日本)が、没落することがあれば、少なくとも今後100年間は自由を得る望みがないのであります。インドにとりましてはイギリス帝国主義に対する徹底的闘争以外に道はないのであります。イギリスとの妥協はすなわち奴隷化を意味し、かかる妥協は決して行わないことを決意するものであります!」
 ちなみに「人種差別撤廃」を謳った条項を含む5カ条の大東亜共同宣言は、次の通りだ。
 ■大東亜共同宣言(現代語訳)
 世界各国がお互いに助け合って共に万国が発展し、共栄するためには、世界平和の確立がその根本に必要です。東亜の各国は連携して大束亜戦争を完遂し、東亜諸国を米英の強い束縛から解放して、その自存自衛をまっとうするために、左記の綱領に基づいて大東亜を建設し、世界の平和の確立に寄与します。
  1. 東亜諸国は協同して東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設する
  2. 東亜諸国は相互に自主独立を尊重し、互いに助けあい、東亜の親和を確立する
  3. 東亜諸国は相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、東亜の文化を高め合う
  4. 東亜諸国は互いに緊密に連携し、それぞれの経済を発展させ、東亜の繁栄を推進する
  5. 東亜諸国は世界各国との交流を深め、人種的差別を撤廃し、文化交流をすすめ、すすんで資源を開放し、世界の発展に貢献する
 2006(平成柑)年3月19日、カルカッタのチャンドラ・ボース記念館で「東條英機に感謝をする夕べ」が催された。そこには、館長であるチャンドラ・ボースの甥嫁クリシュナ・ボース氏に招待された東條英機元首相の孫娘・東條碗條由布子氏(H25年2月逝去)の姿があった。
 東條由布子氏は次のように述べた。
「60年前のアジアの情勢に思いをいたしますとき、多くのアジア諸国は数世紀に及ぶ西欧諸国による植民地政策に岬吟しておりました。貴国インドの英雄スバス・チャンドラ・ボース閣下は、祖国を、イギリスの植民地から解放する連動の支授を得るためにはるばる日本にやって来られました。閣下の独立達成の悲願と確固たる信念と真撃な人柄に感動した東條英機は、インドの植民地解放に向けて共に闘う誓いをいたしました。そしてアジア諸国の植民地からの解放という高邁な理念を掲げて開催された大東亜会議へ、インド代表としてスバス・チャンドラ・ボース閣下を招聘(しょうへい)したのです。アジア諸国から多くの指導者が参加された大東亜会議を日本で開催したことを、日本にとっても、また首相であった東條にとってもどれほど光栄に思ったかしれません。祖父の応接間の真ん中に、大東亜会議の大きな写真がいつも飾られていました。また、国会議事堂前にアジアの指導者たちが凛々しく並ばれた写真に多くの日本人が感動いたしました」
「今日のこの嬉しく晴れがましい日に、私は、祖父が一緒だったらどんなに喜んだであろうと思いながら参りました。日本人は、スバス・チャンドラ・ボース閣下と共に、東京裁判において日本人被告に無罪判決を下された、人格高潔なパール博士への尊敬の念と感謝の思いは未来永劫忘れることはないでしょう」
       
 大東亜戦争を“侵略戦争”として糾弾したいマスコミは、こうした事実を一切報道しない。しかし我々日本人はこの事実を知っておく必要がある。
 そして終戦直後の台湾で、航空機事故で亡くなったチャンドラ・ボースの遺骨は、いまも東京都杉並区の「蓮光寺」に安置されていることも添えておこう。
 一人のインド女性が「ガンジーは我々にとって神様です」という。
 こうして小さな子供から年配者までもが口々にガンジーを称え、そして感謝の誠を捧げるのだ。
 日本でも“不戦・平和”のシンボルのように語られることの多いマハトマ・ガンジーは、人々に「非暴力・不服従」を説いて回った。だがそれの意味するところは、他人への暴力の否定だけでない。支配者には「不服従」を貴くため、自分が殺されることの覚悟も含んでいるのである。そしてなによりその根底には国家建設のための「愛国心」がある。
 したがって、「戦うのも、死ぬのもいや」おまけに「愛国心は危険」「愛国心を教育の現場で強制すべきでない」と声を荒げる日本の「反戦平和主義」とはまったく異なるのだ。ところがこうした連中にかぎつてガンジーを平和・不戦のシンボルのようにいう。彼らに担ぎ上げられるガンジーは、さぞや黄み泉の国で迷惑しているに違いない。
 そして意外な事実だが、ガンジーは最下層の身分の人々を救おうとしたが、「カースト制度」そのものを否定していたわけではなかったという。



第二章 フィリピン白人への最後の抵抗と勇気を敬っています

 大東亜戦争の時代を生き抜いたフィリピン人の老人がこう証言する。
「当時、たくさんのフィリピン人がアメリカの爆弾で死んだんだよ。飛行機からも、軍艦からも、戦車からも……。あれじゃ、ネズミも生きちゃいられないよ」
 フィリピンの戦いでは、米軍は日本軍が潜む建物に徹底的な砲爆撃を加え、また無差別爆撃や艦砲射撃をためらわなかった。結果として、米軍の攻撃によっておびただしい数のフィリピン人が巻き添えになったのだ。
 つまり、こうした忌まわしい過去を消すために、そしてフィリピン人の怨讐を日本軍にすべて責任転嫁するために、サンチャゴ要塞の記念碑がことさら強調されているのではないだろうか。
 フィリピンでは、多くの民間人が米軍の攻撃の犠牲になった史実はもはや常識″であり、米軍のフィリピン奪還を“解放”とみるのではなく、“再占領”あるいは“再植民地化”と捉える人も少なくない。
 フィリピン人通訳のマリオ・ピネダ氏は、フィリピン人は白人国家間の覇権争いの犠牲者だとしてつづけた。
「米西戦争でたくさんのフィリピン人が殺されたんです。フィリピンは白色人種によって全てを奪われたんですよ。スペインが去った後、アメリカはフィリピンに英語を強要し、アメリカの植民地にしてゆきました」
「アメリカは、アジアにおける唯一の植民地フィリピンを徹底的に弾圧しました。アメリカの国旗に頭を下げない人々は皆グアム島に送られたんですよ。グアム島の人口の30%がフィリピン系である理由にはこうした歴史的背景があります」
「かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。これは日本の“教育”の成果です。ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、人々は鉛筆すら作ることができなかったのですよ。アメリカが自分達の作ったものを一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした」
 日本人の自虐史観を木っ端微塵に打ち破るそんな歴史を知る日本人は果たしてどれほどいるだろうか。日本ではマスコミや一部国会議員が懸命に日本の戦争責任″とやらを吹聴してまわるので、歴史の真実が闇に葬り去られようとしているのが残念でならない。まったく始末の悪い話である。
 写真のキャプションはこう記す。
“THE JAPANESE MEDICAL CORPS RESPONDING TO THE PEOPLES NEEDS ”
 つまり進駐した日本軍は、地元フィリピンの民衆の求めに応じて医療活動を行い、フィリピン人から歓迎されていたというのだ。
 戦後の識者や政治家達は、日本軍の南方占領地における残虐行為なるフィクションを挙(こぞ)って声高に訴えてきた。がしかし、そうした虚構もこの1枚の写真によって一蹴されることだろう。(※南京でも、日本軍医が住民を診ていた。)
 
 他面、こうした展示は、フィリピンの公正さと客観性を世に訴えるものでもある。中国や韓国による歴史の控造に比べて、フィリピンがいかに公正であるかがおわかりいただけよう。


◆バターン“死の行進″の実相

 「バターン死の行進」がジュネーブ協定違反だとの非難はでっち上げだ。2万の日本兵に7万の米兵捕虜。日本兵の食糧も不足しているのに米兵を優遇し、二倍の荷物を背負って歩いた日本兵。これは捕虜虐待ではない。フィリピンのバスガイドは欧米人観光客に「日本兵は何故投稿しなかったのか。それは捕虜の辱めを受けるくらいなら自決せよ。捕虜になるのは武士の恥だと教わり、その行動規範は欧米人と異なる。そして戦後30年もしてから、その典型の日本軍人が出た。それが小野田少尉だった」と武士道を礼賛した。

 バターン半島を制圧した日本軍将兵は、勝利の美酒に酔う暇はなかった。米比軍合わせて実に7万を超える兵士が続々と投降してきたからである。
 それはまた「バターン死の行進」という悲劇の始まりだった。
 予想だにしなかったおびただしい数の捕虜を、日本軍はバターン半島南端からサンフエルナンドまで移動させねばならなかったのだ。ところが日本軍には捕虜を護送するだけのトラックがない。したがってその移動は、徒歩以外に方法がなかったのである。むろん体力が衰え、マラリアに罹患した捕虜にとって約60キロの行軍は、つらい移動になったかもしれない。しかし、敵弾に傷つき重装備の日本兵も同じだった。
 炎天下の徒歩行進の途中に力尽きて息を引き取る者、脱走を試みるなどして銃殺される捕虜も出た。そうして1200人の米兵と1万6000人のフィリピン兵が亡くなったといわれている。
 これが世にいわれる「バターン死の行進」なのである。
 しかし日本軍は、サンフエルナンドからカバスまで米比軍捕虜を汽車で護送しており、捕虜達を虐待するために故意に歩かせたのではなかったというのだ。
「捕虜を汽車で護送した」などという事実を知らなかった私は、地元フィリピン人から聞かされたこの新事実に目を丸くし、驚きのあまり言葉を失ったのである。
 これはいったいどういうことなのか。
 なんと「バターン死の行進」の終着点といわれるサンフエルナンドには鉄道駅があった。いまは空き家となった赤レンガ造りの駅舎には、はっきり“SANFERNANDO”とあり、雑草の下には鉄路も見える。当時、鉄道は首都マニラからサンフエルナンド北方44キロに位置するカバスまで敷かれていたのだという。
 バターン半島南端のバガクとマリベスの2カ所から徒歩行進した捕虜達は、マニラ湾に面するピラルで合流し、サンフエルナンドまで歩き、そこから汽車でカバスまで護送されていたのだった。その後、収容所のあるオドネルまでの6キロを再び歩いたのである
 ところが、カバスという地名は、日本で耳にすることはほとんどない。戦後、バターン半島南端からサンフエルナンドまでの徒歩行軍だけが日本軍の蛮行として伝えられ、サンフエルナンドからカバスまでの汽車による護送の事実は抹消されてしまったのである。
 もっともフィリピンの戦跡では、いたるところに。“Death March”(バターン死の行進)の記念碑や表記があり、日本人には居心地が悪い。もちろん多くの米兵やフィリピン兵が行進の途中で倒れて亡くなったことは遺憾であり悲しい出来事であった。だが、日本軍は彼らを虐待するために歩かせたのではなかった。第14軍参謀長・和知鷹二中将は戦後次のように述懐している。
水筒一つの捕虜に比べ、護送役の日本兵は背嚢を背負い銃をかついで一緒に歩いた。できればトラックで輸送するべきであったろう。しかし次期作戦のコレヒドール島攻略準備にもトラックは事欠く実情だったのである。決して彼らを虐待したのではない。もしこれを死の行進とするならば、同じく死の行進をした護送役の日本兵にその苦労の思い出話を聞くがいい》(『産経新聞』平成9年4月6日付)
 なるほど、この砲撃戦の巻き添えを避けるためにも、バターン半島南端で投降してきた米比軍捕虜を、事前に北へ移動させなければならなかったのだろうまさしくこれこそが、本間雅暗中将の真意ではなかったか
 海外駐在経験が長く、“親米英派”などと陰口をたたかれながらもその姿勢を貰いた紳士を思えば、一層そう思えてくるのであった。
 同年5月5日、激しい砲撃戦につづいて、陸軍第4師閉・歩兵第61連隊の精鋭がコレヒドール島に敵前上陸を敢行。そこで壮烈な白兵戦が行われた。そして2日後の5月7日、在比米軍司令官ジョナサン・ウエーンライト中将は白旗を掲げ、在比米軍はついに日本軍の軍門に下ったのである。
 フィリピンにおける日米の攻防約5カ月、攻める日本軍は勇敢に戦い、守る米比軍もまた一人″を除いて立派であった。
 その一人とは誰か。その人物の名はダグラス・マッカーサー。
 日本軍との攻防戦最中の3月12日、マッカーサーは、妻子、幕僚、そしてフィリピン大統領マヌエル・ケソンら16名とともに部下を置き去りにして魚雷艇でコレヒドール島を抜け出し、ミンダナオ島から飛行機でオーストラリアへ脱出したのである。
 オーストラリアに着いたマッカーサーは新聞記者を前にこう囁いた。
《大統領は私に、日本軍の前線を突破するように命じた。私の理解するところでは、それは日本にたいするアメリカの反攻を組織するためであり、その主たる目的はフィリピンの救出である。私は危機を切りぬけてきたし、私はかならず帰る》(半藤一利著『戦士の遺書』文春文庫)
 この最後の「私はかならず帰る」が、かの有名な。“I shall return”。なのだが、彼は演説の中で、フィリピンから“敵前逃亡”してきた事について一切触れていない。『戦士の遺書』の著者である半藤一利氏は、同書の中で、次のように述べている。
《逃亡ではなく、敵の前線突破である″といいだしたところに、実にマッカーサーらしい見栄の張りようがある》
 マッカーサーの“I shall return”にはもう一つの理由があった。
 ウエストポイント(米陸軍士官学校)を首席で卒業し、フィリピンを最初の赴任地に選んで以来、マッカーサーは、フィリピンの米軍司令官(1928年)、フィリピン軍事顧問(1935年)、そして1941年にはアメリカ極東陸軍司令官としてフィリピンと関わりつづけた。
 そこまで彼をフィリピンにこだわらせたことについて、豊島哲・上智大学教授(故人)は次のように述べている。
《「アイ・シャル・リターン」と全世界に公約した手前、また金鉱山への秘密投資といった利権を持ち、マニラ・ホテルの共同経営者でもあり、ケソンらフィリピン政界人らが待つフィリピンへの早期進攻が遅れることを危倶したマッカーサーは、海軍の戦略にケチをつけた》(『歴史群像シリーズ60 朝鮮戦争(上)』学習研究社)
 つまりマッカーサーのフィリピン反攻作戦は、自己の利権のためでもあったようだ。彼は、そのためには、海軍のマリアナ諸島およびパラオ諸島への侵攻作戦にまでケチをつける始末だった。
 ではマッカーサー将軍とはいかなる人物だったのか。さまざまな書籍で「彼のいちばん顕著な性格は、勇気についで、第二にはおそらくエゴであろう」「利己的」「自惚れ」「独裁者」「倣岸不遜」と書かれ、そして「バターン死の行進″の責任の一端はマッカーサーにある」という批判まである。
 昭和20年8月30日、厚木に降り立ち、横浜のホテルニューグランドについたマッカーサーは、すぐにエリオット・ソープ准将を呼んで「東條を捕えよ、嶋田と本間もさがせ。そしてそのほかの戦犯のリストを作れ」と口頭で命令した。
 対米開戦時の東條首相および海軍大臣・嶋田繁太郎大将に加えて、かつてのライバル本間雅暗中将を捕えろとはなんたることか。
 そもそも本間雅晴は、フィリピン戦終結後の昭和17年8月31日には比島方面軍司令官を解任され、予備役に編入されていた終戦時は一民間人だったのである。それにもかかわらず、マッカーサーは自らの輝かしい軍歴に「敗北」「撤退」という泥を塗った本間雅暗中将がどうしても許せず、自らの屈辱を晴らすためには、なりふり構わなかった。このときの訴因が、かのバターン死の行進″という筋書きだったのである。
《元気な人間ならどうということない収容所までの距離を歩かせたことが「バターン死の行進」として、後々まで問題になつてゆく。この悲劇を作った原因は、マッカーサーの状況判断の甘さであった。その自らの罪を、彼は、14軍司令官本間中将を糾弾することで、うやむやにさせたかった。マッカーサーの私的裁判と言うべきマニラ軍事法廷は、どうしても本間雅晴を銃殺刑にさせなければならなかったのである》(上田信ほか著『実録 太平洋決戦 真珠湾奇襲からミッドウェー海戦』立風書房)
 対米戦反対を唱えながらも、マニラを10日余りで陥落させ、占領地マニラで善政を敷いた智将・本間雅晴将軍は、その処刑を前にこういい遺した。
《私はバターン半島事件で殺される。私が知りたいのは広島や長崎の数万もの無事の市民の死は、いったい誰の責任なのかということだ。それはマッカーサーなのか、トルーマンなのか》(『戦士の遺書』)
  かつてはマレーの虎″と恐れられた猛将・山下将軍も、この期に及んでは、もはや戦局打開の糸口は掴めず、1日でも敵の侵攻を食い止めるため持久戦を戦うほかなかった。そして終戦の後、山下将軍は山を降り、敢えて「生きて虜囚の辱め」を享けたのである。その理由はこうだった。
《私はルソンで敵味方や民衆を問わず多くの人びとを殺している。この罪の償いをしなくてはならんだろう。祖国へ帰ることなど夢にも思ってはいないが、私がひとり先にいっては、責任をとるものがなくて残ったものに迷惑をかける。だから私は生きて責任を背負うつもりである。そして一人でも多くの部下を無事に日本へ帰したい。そして祖国再建のために大いに働いてもらいたい》
 マ二ラ軍事裁判で、山下将軍の弁護人であった米国人フランク・リールはその著書『山下裁判』(下島連訳、日本教文社)で次のように書いている。
《祖国を愛するいかなるアメリカ人も消しがたく苦痛に満ちた恥ずかしさなしには、この裁判記録を読むことはできない……。われわれは不正であり、偽善的であり、復讐的であった》
 ■「バターン死の行進」の嘘 … [中国の終わりにいろいろ備え始めた世界]より
 「バターン死の行進」などという米国がでっちあげた歴史改竄のルートを実際に歩いてみた。
 周知のように「バターン死の行進」は、コレヒドールで降伏した米兵6700名とフィリピン兵が7万人。合計8万人もの大人数を約140キロ離れた捕虜収容所まで運ぶ途中、「日本兵の虐待によって数千人から2万人近くが死んだ」という偽りの「史実」が独り歩きしている。
 実際には米兵は武装解除しているので軽装備である。随行した日本兵のほうが背嚢に水筒、武装をしているから重い荷物でふらふらしていた。しんどいのは日本側だった。そのうえ途中で伽排ブレークの時間があり、行く先々ではおにぎりの手配までしていた。その証拠写真もたくさんある たとえば溝口郁二氏の『絵具と戦争』国書刊行会刊)。
 あまつさえ出発地点のマリベレスからサンフエルナンドまで83キロ。いまでは道なりに起点から何キロという道路標織がある。
 しかし一部区間はトラックで、サンフエルナンドからカバスまでの48キロは貨車で、そこから徒歩でオドンネル基地までの12キロを運んだ。日本兵は「捕虜となって辱めを受けるな」と教わっているので、簡単に降伏する敵兵にどう対応するか分からず慌てた。
 ただし行軍中にマラリア、コレラなど風土病に侵されていた米兵が500人から600人ほど死んだ事実は残る(一部の記録は2300人の米兵が死亡したとある)。
 それにしても国際法が定めた捕虜虐待には当たらない。またフィリピン兵は2万人近く途中で逃げたが、日本側は彼らの逃亡を黙認していた。
 途中、カブカベン(本間雅晴中将とジョナサン・ウエンライト米軍中将の会見地)、カポット台(代表的な激戦地)、バランガ(本間中将の司令部)、デナルピアンを経由した。
 激戦地だったコレヒドールで捕虜とした米兵らを対岸に移送し、うちおよそ88キロを行進させた「バターン死の行進」の出発地点は、マリベレスという小さな港町だった。
 記念の小さな公園に「ここから出発」という「ゼロ」の石碑が建っている。その前にフアストフードの店、公園内は近くの老人らが所在なく屯し、のどかな風景があった。隅っこには旭日旗も飾ってあった。
 サンフエルナンドという小さな町には駅舎が残り、展示パネルなどを置いて小粒な博物館となっていた。隣がカソリック教会である。われわれが駅舎を見学していると付近の住民がぞろぞろ出てきた。しかし住民らは笑顔で、少しも日本人への敵慢心がなかった。
 捕虜収容所跡地は大きな公園になっているが、ここまではさすがに訪れる人がいない。付近の町はナイトクラブで栄えたアンヘイレス、同じくクラーク基地で栄えた町はコリアンタウンに変貌し、焼き肉レストランとカラオケばかりだ。


◆白人の横暴への最後の抵抗

 この戦没者慰霊祭に参加した地元の人に話を訊いてみようと、上品な老紳士に声を掛けてみた。その老紳士は、ダニエル・H・ディゾン氏(70歳)という画伯だった。
 ディゾン画伯は語る。
「いまから35年前に私は神風特攻隊の本を読んで涙がとまらなかったのです。こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかったからです。同じアジア人としてこのような英雄がマバラカットと私の町アンヘレスで誕生したことを誇りに思っています」
 1974(昭和翌年、特攻隊のその崇高な精神に身を震わせたディゾン画伯は、当時のマバラカット市長に神風特攻隊慰霊碑の建立を進言した。そしてディゾン画伯が感銘を受けた『神風特別攻撃隊』の著者である中島正氏(元201航空隊飛行長)、猪口力平氏(元第1航空艦隊参謀)の協力を仰ぎながら、やっとの思いでマバラカット飛行場跡地に慰霊碑を建立することができたという(この慰霊碑はピナツボ火山の噴火によって喪失したが、近年再建された)。
 驚きのあまり目を丸くする私を見たディゾン画伯は「どうぞ私の自宅へお越しください。“カミカゼ博物館”を御覧に入れましょう」といった。
 なんとディゾン画伯は、フィリピン・カミカゼ記念協会の会長だったのである。そしてその自宅には、自ら描いた「敷島隊」の5人(関行男大尉・谷暢夫一飛曹・中野磐雄一飛曹・永峯肇飛長・大黒繁男上飛)の肖像画のほか当時の日本海軍の制服から航空爆弾まで、貴重な品々を数多く展示する「カミカゼ・ミュージアム」を設けていたのだ。
 私は、衝撃のあまり腰を抜かしそうだった。
 そんな私の様子を優しい眼差しで見つめるディゾン画伯は、5人の肖像画の前に立ち、「関行男大尉」を見つめて語りはじめた。
     
「私は、ヨーロッパ・アメリカ・中国・フィリピンの歴史を様々な角度から検証してみました。その結果、なぜ日本が立ちあがり、戦争に打って出たのかがよくわかったのです。そして日本が、欧米列強の植民地支配に甘んじていたアジアを叱責した理由も理解できたのです」
 向きなおった画伯は右手に挙をつくつて語気を強めた。
「当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の抵抗″だったといえましょう」
 ディゾン画伯も、また前に紹介した地元通訳のマリオ・ピネダ氏も、フィリピンの人々は皆、“白人対有色人種”という視点で近現代史を見つめていたのである。
 16世紀初頭、フィリピンに上陸したかの有名なマゼランを倒した英雄・ラブラブ王にはじまり、アメリカに抵抗して日本に助けを求めたフィリピン独立運動の父・アギナルド将軍(初代大統領)など、フィリピン人が400年もの間、白人の侵略と戦い続けてきた歴史を忘れてはならない。
 こうしたことは、1995(平成7)年のフィリピン独立記念日(6月12日)において、マニラの街角に張り出されたポスターによく表現されていた。日本海軍軍人が旭日旗を掲げ、これを見上げるアジアの各民族。ポスター上部には。東亜共栄圏の文字があるではないか。ポスターの前には日本兵に扮した地元民の姿も見える。これが“アジア諸国の感情”の真相なのだ。
 このことからも、現代の日本社会が、いかに歪んだ歴史観に汚染されているかがわかる。最後にディゾン画伯は、両手を固く結んで私にこう託すのだった。
「神風特攻隊をはじめ、先の大戦で亡くなつた多くの日本軍人をどうか敬っていただきたい。これは私から日本の若者たちへのメッセージです」

 マバラカットで神風特攻隊の慰霊祭が行われた同じ日、タルラック州パンパン村でも慰霊祭があった。簡素な造りの民家が建つ集落には、子供達が無邪気に裸足で走り回っていた。もちろんここでも、地元住民は村を挙げて我々慰霊団を歓迎してくれた。
 慰霊団が到着するや、村人が集落の裏手へと移動しはじめたので、我々もその流れに従ってバナナの林を抜けてゆくと、そこには赤い鳥居が建つ慰霊祭場があった。
 平成11(1999)年10月25日に建立された白い慰霊塔には、地元の人の手になる不慣れな日本語で、「慰霊塔」「特攻隊戦死之碑」「航空隊魂」の文字が記されていた。
 私は、式典に参加した地元サン・ロック高校の女子学生達に、神風特攻隊をどう思うかと訊いてみた。すると彼女らは声を揃えた。
「Brave!(勇敢)」
 その中の一人がつづける。
「フィリピンにも英雄はたくさんいます。ですから私達も神風特攻隊という日本の英雄をたいへん尊敬しています」
 さらに引率の男性教師は、「こうした歴史教育を通して、子供達に国を守ることの大切さを知ってほしいのです」と語ってくれた。
 私は学生達にもう一度「君達は、カミカゼのパイロットを尊敬しているのですね」と訊いた。屈託のない笑顔で皆は答えた。
「もちろんです! だってあの人達はヒーローですもの」
       
 日本人参列者は、このあまりにも衝撃的な光景に胸を詰まらせ、そして頼を濡らした。外国人の日本人観に多大な影響を与え、大東亜戦争における日本の精神的象徴ともいえる神風特攻隊は、いまもフィリピンの人々に敬われ、そして賞賛されている。その賞賛の気持ちは、特攻隊員としてフィリピンで戦死した富澤少佐(23歳)の遺書に表れている。
「父様、母様は日本一の父様母様であることを信じます。幸光の戦死の報を知つても決して泣いてはなりません。靖国で待っています。きっと来て下さるでしょうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ、父様母様が死んでしまう。否、日本国が大変な事になる。幸光は誰にも負けずにきっとやります。十九貫の体躯、今こそ必殺撃沈の機会が飛来しました。幸光は立派に大戦果をあげます」(宮崎県護国神社)
 彼らは皆“生き神様”であった。護国の鬼と化した彼らは、ただひたすら祖国の必勝を信じて敵艦隊の真っ只中へ飛び込んでいった。そして国民は戦勢挽回を期して特攻隊に望みを託した「どうかお願いします!」と。だから、彼らは決して犬死にではなかった。
 我々日本人はこうした世界の声を素直に受け止め、この現実を直視する必要があろう。そして、特定イデオロギーによって極度に歪曲された教育と報道姿勢を根本から改めなければならない。日本の将来を担う子供達や、これから世界に出てゆく若者達が国際社会で恥をかかないためにも。


◆日本軍の特攻作戦は大成功だった

 特攻隊は、決して“犬死に”などではなかったのだ。特攻隊を犬死にとしたのは、戦後のGHQによる情報操作と左翼思想家の捏造である。
 特攻作戦によって大損害を被り、日本民族の底力に恐れをなした米軍が、占領後に特攻作戦の真実を封印し、特攻作戦が“むだ死に”だったと情報操作することで、日本人が再び起ちあがらないようにしたかったのだ。いずれにせよ、日本国を根底から骨抜きにするGHQの占領政策対する恐怖心があったことは明白である。
 事実、米海軍のベイツ中佐は次のように語っている。
《日本の空軍が頑強であることは予め知っていたけれども、こんなに頑強だとは思わなかった。日本の奴らに、神風特攻攻撃がこのように多くの人々を殺し、多くの艦を撃破していることを寸時も考えさせてはならない。だから、われわれは艦が神風機の攻撃を受けても、航行できるかぎり現場に留まって、日本人にその効果を知らせてはならない》(『あゝ神風特攻隊』)
 さらに安延氏は、「このことは、いかに神風特攻攻撃の効果が大きく、その攻撃が猛烈果敢であったかを物語るものであろう。アメリカ側は国内に対しても神風特攻攻撃の影響をおそれて、神風による被害を沖縄戦の中頃まで、秘密にして発表しなかったようである」と同書に記している。つまり、日本軍の肉弾攻撃は、敵の戦意を挫くほどの大戦果を上げていたのだ。
 ところが戦後のマスコミは、この軍事的な勝利をひた隠し、ただ戦争の悲劇の代名詞として、あるいは戦争の犠牲者の象徴として特攻隊を位置付け、そしてイデオロギー闘争の手段として彼らを利用してきたのだ。
 彼らはうそぶく。
「特攻隊員は、本当は行きたくなかったのだ。皆『お母さん!』と叫んで死んでいった戦争の犠牲者なのだ」と。
 しかし特攻隊の教官を務めた田形竹尾元陸軍准尉は、こうした虚構をきっぱり否定する。
「出撃前、特攻隊員は仏様のような椅麗な顔でした。目が澄みきって頬が輝いておりました。彼等は皆、愛する祖国と愛する人々を守るために自ら進んで志願していったのです。戦後いわれるような、自分が犠牲者だと思って出撃していった者など一人としておりません。皆、『後を頼む』とだけ遺して堂々と飛び立っていったのです」
 そして特攻隊は未曾有の大戦果を上げたこれが特攻隊の真実である。
 そもそも国を守ろうという意識のない戦後の日本人に、特攻隊員の至純の愛国心などわかるはずがない。理解できるはずがないのだ。一死をもって何に報いんとした当時の立派な青年達の魂を、私利私欲をむさぼる現代人が批判する資格などどこにあろうか。
 日本の惨状をよそに、アジア諸国では神風特別攻撃隊が尊敬され、その栄光の歴史は今日も輝き続けている事実を、一人でも多くの日本人に知っていただきたい。
 平成13(2001)年8月16日にフジテレビで放送されたドキュメンタリー番組『特攻・国破れても国は滅びず』(構成・監督 水島総)の中で、フィリピン人のフエルナンド・サントス氏は、頬に伝う涙を拭うことを忘れてこう訴える。
《このような英雄的資質の武勇伝を現代の日本の若者は知るべきです。私からのメッセージは、もっと神風特別攻撃隊に関する本を読むべきだということです。日独伊枢軸国やアメリカ同盟国の英雄として認められている人でも、神風特別攻撃隊員の勇気、決断、武勇に等しい人はいません。(中略)神風特攻隊員の場合は、離陸した時点で死んで行くことを知っているのです。事実、彼らは祖国のために自分を殺します。比類のない存在ですから、尊敬されるべきであり、記憶されるべきなのです。日本国民は、受け継いだ今の日本人の本質と粘り強さの象徴として、彼らに感謝すべきです》
 そして前出のディゾン画伯も同番組の中でこう述べている。
《私たちは彼ら(神風特攻隊)の偉業を引き継いでいかなければならないと思います。戦争のためではなく、忠誠心、愛国心、祖国への愛のためです。東洋、いや全世界の人々がこの神風特攻隊の話から何か大きなことを学べると思います。神風特攻隊の隊員は、全世界そして次世代の全人類のために彼らの人生を記録として残してくれたのです。 彼らは、自らの命を生きている偉業として捧げ、人はどこまで自国を愛することができるのかを提示してくれました。そして、人はどのように自国の文化や論理へ忠誠でいられるかを実証したのです》



第三章 パラオ打電「サクラサクラ」は武勇の象徴です

 日本、バングラデシュそしてパラオの国旗を合わせて“日の丸三兄弟”と称する名越二荒之助氏はその意味するところを語ってくれた。
「大東亜戦争におけるペリリユー・アンガウル両島での激戦で日本軍将兵が勇敢に戦い玉砕していったことが、パラオの人々の胸に深く刻まれ、同国がアメリカの信託統治から独立する際の国民投票で日本の国旗をデザインした月章旗が選ばれた。」
 ところが残念なことに、ほとんどの日本人はこうしたことを知らない。
 1947年から国連の太平洋信託統治領としてアメリカの統治下にあったパラオ諸島は、1978年の国民投票によって「自立」を決定する。そして1981年にはハルオ・レメリック氏が初代大統領に選出され、自治政府を発足させた。後にパラオはアメリカとの自由連合盟約(=アメリカ合衆国が軍事施設と運営権を保有し、安全保障上の全権と責任を負うという事実上の保護国条約)を模索し、1994年になってようやく「パラオ共和国」が誕生したのである。
 日本統治時代のパラオでは、台湾や朝鮮の統治に倣って、インフラ整備をはじめ教育制度や医療施設の整備が行われ、生活水準の向上が積極的に推し進められていったのだ。
 当時、英国『ロンドン・タイムズ』の記者は、「内南洋の人々は、世界の列強植民地の中で、最も丁寧に行政されている」と報じている(『歴史群像』34 学習研究社)。
 


◆天皇の島ベリリュー

 後に米太平洋艦隊司令長官C・W・こミッツ提督は著書『ニミッツの太平洋海戦史』で回想している。
《ペリリユーの複雑極まる防備に克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約四〇パーセント)を甘受しなければならなかった。(中略)はたして、ほとんど二〇〇〇名の戦死者を含む一〇〇〇〇名の米軍の人員死傷と相殺したかどうかについては疑問の余地があるかもしれない》
     
 アメリカにとってペリリユー攻略戦の代償はあまりにも大きかった。一方、玉砕した日本軍守備隊は1万2000人であるから、数的劣勢にもかかわらず日本軍将兵がいかに勇戦敢闘したかがおわかりいただけよう。当時、日本の戦局は振るわず、連日暗いニュースが前線から届く中、このペリリユーの戦いぶりは大本営幕僚を驚かせ、そして起死回生の逆転を期待させたという。
 天皇陛下は、毎朝「ペリリユーは大丈夫か」と御下問され、守備隊に11回もの御嘉賞を下賜されたという。ゆえにこの島は「天皇の島」とも呼ばれた。むろんこれに奮起した将兵達は護国の鬼となって寄せ来る敵に敢然と立ち向かっていったのである。
 こうした最中の昭和19年10月25日、フィリピンでは神風特別攻撃隊が編成され、その先鋒・敷島隊が米護衛空母群に大損害を与えるという大戦果を上げた。まさに本方面における日本軍の反撃は、陸にそして海に米軍の心胆を寒からしめ、敵に日本の負けじ魂を思い知らせたのだった。
 されど圧倒的物量に頼る米軍の執拗な攻撃に戦力も日増しに消耗していった。
 そして弾矢も尽き果て刀折れた昭和19年11月24日午後4時、中川大佐は軍旗を奉焼した後、最期を告げる「サクラ・サクラ」を打電し、司令部壕の中で自決を遂げたのだった。
ここに精鋭・水戸第2連隊を中心とする日本軍守備隊の組織的抵抗は終焉した。米軍上陸から71日目のことであった。
 そして現在、この「サクラ・サクラ」の電文は、日本軍将兵の武勇の象徴としていまも地元の人々に語り継がれ、惜しみない尊敬を集めている。なんと、ペリリユー島にはこうした日本軍将兵の勇気と敢闘を称える『ペリリユー島の桜を讃える歌』なるものが存在するのだ。
 この歌は地元のトンミ・ウエンティー氏によって作曲され、故オキヤマ・トヨミさんが作詞を担当した。オキヤマさんは、むろん地元の女性である。
 『ペリリユー島の桜を讃える歌』
一 激しく弾丸が 降り注ぎ
  オレンジ浜を 血で染めた
  強兵(つわもの)たちは みな散つて
  ぺ島は総て 墓地となる

二 小さな異国の この島を
  死んでも守ると 誓ひつつ
  山なす敵を 迎へ撃ち
  弾射ち尽くし 食料もない

三 将兵は“桜”を  叫びつつ
  これが最期の 伝へごと
  父母よ祖国よ 妻や子よ
  別れの“桜”に 意味深し

四 日本の“桜”は 春いちど
  見事に咲いて 明日は散る
  ぺ島の“桜”は 散り散りに
  玉砕れども勲功は 永久に
 この歌は、延々と日本軍将兵の戦いぶりを賞賛して8番までつづく。ここに紹介した歌詞が何を物語っているかは十分にご理解いただけるだろう。
 米軍が上陸する直前に島民をコロール島へ退避させ、自らは玉と砕けた日本軍将兵達。この島の住民にとって彼らは英雄″だったのである
 

 ■ペリリューの遺骨を忘れないで より抜粋
                [WiLL 2012年6月号]東條由布子

 米国は、戦場に兵士を送り出す時に誓約書を交わす。
「君たちがいかなる戦場で、いかなる姿になろうとも、国家は必ず君たちを祖国に連れて帰る。安心して国のために戦ってくれ」
 米国の遺骨収容活動は歳月に関係なく、真撃に続けられている。彼らは、ペリリユー島に放置されたままおびただの移しい数の日本軍人の遺骨に惜然としたと言う。
 その誘いに私は日本人として恥じ、かつ感謝をして参加した。先導してくれる元海兵隊員たちは半袖に短パン、素手である。密林の奥深くにどんどん入ってゆく。彼らのほとんどは八十歳を超えていた。
 鬱蒼と茂るジャングルの樹の枝をかきわけ、絡みつくガジュマルの枝に足元を取られながら、必死で海兵隊員たちを追う。海兵隊員たちも命がけだ。
 熾烈な洞窟戦になったペリリユー島の切り立った山々の断崖の途中に、八百ほどの洞窟が掘られていた。
 昭和十九年十一月に玉砕したこの島は、かつて天皇の島と呼ばれ、昭和天皇陛下は十一回もの激励の電報を打たれている。激戦当時、海からの艦砲射撃と火炎放射器で焼かれた山々は一味にして禿山になり、麓から頂上まで全て見渡せたが、いまは深いジャングルのなかに静まっている。
 枯葉に埋まった洞窟の入り口を探すのは大変だ。海兵隊員の先導がなかったら、洞窟のありかさえほとんど分からない。僅かな隙間に身体を横にして滑り込む。なかの広さは様々だ。二、三人がやっと座れる程度のもあり、司令部に使った洞窟は何本もの隊道に分かれている。
 青酸カリの茶色と青色の瓶が無数に転がっている。彼らはどんな死に方を選んだのだろうか? 辛うじて、頭蓋骨の様子で亡くなり方が分かるものもある。夥しい数のコウモリが一斉に飛び出し、顔に頭にバンバン当たる。
 洞窟の奥の高い天井には「島袋」と彫られていた。船着場近くの小さな博物館には、沖縄第一中学校、第二中学校の生徒のノートや教科書が置いてあった。幼い中学生までがこの遠い戦場で戦って玉砕したのだ。一本も欠けていない真っ白い歯が並ぶ頭蓋骨を抱きしめ、在りし日の面影を偲んで泣いた。洞窟に鳴咽が広がつていく。まだ楽しい青春があっただろうにと。
 平和な日本の日常生活からは想像もつかない別世界だ。何と美味しい水よ! 英霊たちがどんなに欲しがつたか知れない水よ!一雫でも飲ませてあげたかった!
 昼間は洞窟に籠もり、夜襲をかける戦場では、谷のせせらぎの水を汲みには行けない。どんなに水が恋しかったことだろう。アメリカ軍は日本とのペリリユー戦で、上陸作戦史上、最高の損耗率を出した。米・太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督は、勇ましく戦った日本将兵を讃えて、次のような詩を残して本国に引き上げた。
 諸国から訪れる旅人たちよ
 この島を守るために日本軍人が
 いかに勇敢な愛国心で戦い
 そして玉砕したかを伝えられよ
   
 アメリカという国は、国家のために戦った軍人を心から讃え、畏敬の念を持つ国である。戦いが終わり数十年経てもなお、一機でも墜落機があるという情報が入ると、直ちに数十人の団員を引きつれて捜索にやってくる。だからこそ、アメリカの軍人たちは国家に忠誠を尽くし、戦死しても報われるのである。
 日本は残念ながら、戦前の国家・国民・軍人は悪というレッテルを占領軍によって貼られ、数十年経った現在も洗脳から解けていない。日本政府は、平和な日本の礎になられた多くの先人たちの遺訓に耳を傾けることもなく、真撃な慰霊も行わない。
 
 ■米国でひるがえる旭日旗
 テキサス州ヒューストンで2013年10月最後の週末に、航空ショーが開催されました。
 ラジコン飛行機デモストレーションや様々な飛行機の展示の中に、大日本帝国海軍飛行機のレプリカがありました。その飛行機の上にはためく旭日旗は、とても美しいです。そして、旭日旗を飛行機と共に展示してくれたことを嬉しく思います。
 日本を貶めようとする勢力との戦いで、行き場のない怒りで心がいっぱいになったり、やりたい事が沢山あっても時間がなかったり、イライラストレスだらけの毎日に流されそうになってしまいがちです。そんな中、日本を命に代えて守って下さった英霊達の想いに触れると、汚れがすべて洗い流され原点に戻った気持ちになります。(米国からのメールより)


◆ナカムラ大統領の誇り

 パラオ共和国の国家元首・クニオ・ナカムラ大統領(任期は1993年1月−2001年1月)
は語ってくれた。
「私にとって日本は親愛なる国なのです。もし、パラオ以外の国を選ぶとしたら“日本”です。私の父は純粋な日本人であり、私の身体にも日本人の血が流れています。それは誰にも変えることはできません。私はそのように生まれたことを幸せに思っています。
 私は、世界で一番素晴らしい国、世界でも最も先進国である日本と、世界で最も平和で開発途上の国パラオに属しています。私のこの小さな目を見てください、これは日本人の目でしょ?」といって笑みをこぼした。」
 私は「大統領は日本人の血が流れていることに誇りをお持ちなのですね」と、大統領に尋ねた。ナカムラ大統領は私がいい終わらぬうちに「イエス」と放った。
 大統領は、日本人の父親とペリリユー出身の母親の間に生まれた8人兄弟の7番目。大統領は家族を紹介してくれた。面白いことにナカムラ大統領の名前が「クニオ」で、すぐ上の兄の名前が「マモル」というそうである。つまり、二人合わせて「国を守る」なのである。



第四章 台湾「大和魂を持っていた」と胸を張っています

 二・二八事件、それは、中国大陸における中国共産党との内戦に敗れ、国家まる抱えで台湾に逃げ込んできた国民党政府が引き起こした前代未聞の大虐殺事件のことである。ここにはじめて「台湾が中国の一部ではない」ことを認識する。この事件を知れば、「二つの中国、一つの台湾」という実態が見えてくる。
 1945(昭和20)年8月15日、大東亜戦争は日本の敗戦で幕を閉じた。そして日本領であった台湾が中華民国に接収されることが決定するや、台湾人は中国国民党が流布した宣伝文句を疑いもせず額面通りに受け取った。いわゆる台湾の祖国復帰≠ナある。だがそれは、台湾人が日本統治に恨みを抱いていたからではない。「還我河山」「台湾光復」という耳に聞こえのよい標語に台湾の民衆は酔わされたのだった。無理もない、それを受け入れるだけでみじめな「敗戦国民」から「戦勝国民」へと立場をかえることができたのだから。そして人々は、「祖国」の軍隊をいまかいまかと待ちわびた。
 10月17日、台湾北部の基隆港に上陸し、首都・台北へと進軍してきた約1万2000人の中華民国軍先遣隊を目の当たりにした人々は大きな衝撃を受けた。
 それまでの台湾人にとって「軍隊」とは、一糸乱れぬ行進で沿道の人々を魅了したかつての威風堂々たる「日本軍」の姿だった。ところが台湾接収のために大陸からやってきたのは、天秤棒に鍋釜を下げ、みすぼらしい綿入り服に身を包み、唐傘をしょつた草牲履きの“祖国”の兵士達だった。中華民国の青天白日旗を打ち振って出迎えた沿道の民衆は絶句し、その歓声は次第に静まり返っていったという。
 そして見た目のとおり、大陸からやって来た国民党の兵士達は、略奪、凌辱、殺人とあらん限りの悪事をはたらき、台湾人の衣服を奪うために人殺しまでやるていたらくな兵士もいたというから恐ろしい。
 先遣隊に遅れること1週間、台湾省行政長官兼台湾警備総司令・陳儀が台北に舞い降りた。そして10月25日には日本軍の降伏式が行われ、陳儀は、この日をもって台湾が中華民国に“復帰≠オた旨を台湾民衆に宣言した。だがそれは台湾人にとって悲劇″の幕開けだった。
 その後の台湾は、日本統治時代とはうってかわって汚職がはびこり、人々の道徳は乱れに乱れた。大陸からやってきた中国人=「外省人」による台湾人=「本省人」への差別・迫害はひどいものであった。中国国民党の独裁時代、多くの台湾人が無実の罪で捕らえられ、そして筆舌に尽くしがたい残酷な方法で処刑されていったのである。これが戦後の台湾に吹き荒れた国民党独裁政権による白色テロの実態なのだ。
「シナ人は、無実の人達を麻袋に入れ8番線(針金)で縛って海に捨てるんだ! 生きたままですよ!」
「大陸からやって来た中国人は、爪の間に針や爪楊枝を差し込み、またあるときは複数の人の手のひらに8番線を通して海に突き落としたりと、想像を絶する方法で無事の市民を次々と殺害していったのである。」
 そこで人々は口々に「犬(日本人)が去って豚(中国人)来たり」と吐いた。犬はうるさいが守ってくれる、しかし豚はただむさぼるだけという例えだが、どうやらこれは日本時代に流行った漫画『のらくろ』のキャラクターをそのまま当てはめたものであるらしい。
 外省人に職を追われた本省人が街に溢れ、人々は「こんなはずではなかったのに……」と日本時代を懐かしんだ。
 そこへ未曾有のインフレが生活苦に追い討ちをかけた。
 そんな突先の1947年2月27日、中国人官憲によるヤミ煙草の摘発で取り押さえられた台湾人女性が彼等に暴行を受け、ヤミ煙草と売上金を巻き上げられた。さらに中国人官憲達は、売上金だけでも返してほしいと懇願する女性の頭部を銃床でたたきつけ重傷を負わせたのだった。要するに「法治」を建て前とした「かつあげ」に過ぎなかったのだ。
 これを見ていた民衆は中国人官憲達を取り囲んで抗議の罵声を浴びせ始めた。こうした騒動の最中、官憲の放った銃弾によって群衆の一人が落命する。群衆はたちまち膨れ上がり、当局の建物を包囲するまでに至ったのである。
 民衆の中国人に対する怒りは頂点に達していたので、事件の噂は一夜にして広まった。 翌2月28日、中国人の非道横暴に我慢してきた台湾人はついに立ち上がった。ところがこれに対し、憲兵隊は丸腰の民衆に向かって機銃掃射で応えたのだった。
 そして事件はまたたく問に全島に広がり、本省人と呼ばれた台湾人と外省人である中国人の対立は尖鋭化していった。この事件によって本省人は「台湾人」というアイデンティティーをより一層強め、またそれは幻の祖国「中華民国」への決別を決定的なものにしていったのである。
 このとき、まだ大陸で国共内戦を戦っていた蒋介石のもとに台湾の陳儀から民衆反乱の報告が舞い込んできた。
 蒋介石はためらわなかった。彼は「格殺勿論、100人の無事を殺しても一人の共匪を逃すな!」と打電していたのである。
 国民党政府はこの事件の後、「清郷工作」を実行する。
 こうして全島が「白色テロ」の恐怖に包まれたのだ。医師、弁護士、学者、教師など台湾人の知識層が何の理由もなく次々と逮捕され、虫けらのように処刑されていったのである。この白色テロの犠牲になつた台湾人は3万とも5万人ともいわれているが、その実態はいまも解明されていない。
 この二・二八事件のあらましを語り終えた察さんは『幌馬車の歌』を口ずさんだ。
「逮捕された人達が突然名前を呼ばれる。処刑なんです。そのとき、名前を呼ばれなかった人達がこの日本の唄を歌ったんです。お別れの曲なんです」
 察さんの喉が奏でる悲しいメロディーは、私の心に届いた。いまにも泣き出しそうな曇天を仰いで歌う察さんの表情がいまも私の脳裏を離れない。

 ■台湾の歴史を簡単に振り返ると
 台湾の運命の分かれ道には常に学生たちがいた。日本が第二次大戦で徹底的な敗北を喫し、統治領であった台湾の主権が回復されたのち、中華民国政府が連合軍の委託を受けて、台湾行政を引き継ぐのだが、民国政府は台湾地元民に参政権を与えず、外来の民国人(外省人)と台湾人(本省人)の対立が先鋭化した。一九四七年二月二八日に起きた、ヤミタバコ売りの台湾人婦人への官憲の暴行がきっかけで、民国政府に対する抵抗運動が広がったが、民国政府は話し合いを持つふりをしながら大陸から援軍を呼び寄せ、武力による台湾人の徹底弾圧を行った。いわゆる二万八〇〇〇人の犠牲をだした「二・二八白色テロ(「大和魂を持っていたと胸を張っています。」)」である。このとき敷かれた戒厳令は一九八七年まで続いた。世界でこれはど長い戒厳令を経験した国は台湾だけだ。
 この「二・二八白色テロ」で真っ先に犠牲になったのは、日本統治時代に高等教育を受けた学生たちだった。それは彼らが抵抗運動の主力だったからだ。学生たちは抵抗運動のとき「君が代」を歌ったのだという。中国から来た外省人は「君が代」が歌えないが、日本の高等教育を受けた学生たちは「君が代」を歌える。日本の国歌を歌うことが、このころの台湾人の証であった。台湾アイデンティティの根っこが今も日本と切り離せないのはこうした歴史とも関係がある
 戒厳令下で学生運動は厳しく取り締まられた。迫害された学生たちは身の安全のために、馴染んだ日本語の使える東京などに留学、亡命した者も多く、その一人、王育徳が一九六〇年に創った台湾青年社が、日本における台湾独立を目指す学生運動の拠点となった。ここに集った日本に留学していた優秀な台湾学生たちの中には、後に台湾独立連盟主席となった黄昭堂(故人)や、元台北駐日経済文化代表処代表(駐日大使)となった許世楷や、テレビ言論人として活躍している金美齢、評論家の黄文雄といった名の知られた人物もそろっていた。林飛帆は自分の学生運動を「日本の安保闘争に学んだ」とも語っていたが、当時の台湾青年社に集っていた台湾留学生の学生運動も、六〇年安保の刺激を大いに受け、ブントとの交流を持っていた。
 一九七九年に「美麗島事件」が起きる。党外運動活動家たちによる政論月刊誌「美麗島」が主催するデモが警官隊と衝突し、主催者らが投獄された事件で、この事件の関係者がのちに民進党の幹部となり、弁護にあたった弁護士・陳水扁が後の民進党政権の初代総統となる。美麗島の創刊者、黄信介も学生運動あがりの民主活動家だ。
 美麗島事件がきっかけに台湾の民主化運動はピークを迎える。こうした運動の結果、蒋経国政権は政党結成を容認し戒厳令を解除する。そして、その翌年、蒋経国の急死によって副総統の李登輝が総統代行、そして国民党政権の総統の座を引き継ぐ。
 この政治の構造的転換期に起きたのが野百合学生運動だ。一九九〇年三月に一週間続いた戒厳令後初の学生運動だった。約六〇〇〇人の学生が中正記念堂広場に座り込み、「国民大会解散」、「臨時条款廃止」、「国是会議開催」、「政治経済改革タイムテーブル提出」を訴え、本格的な民主政治への転換を要求。李登輝政権は学生たちの要求を受け入れる形で、台湾の民主化に舵を切った。そして二〇〇八年に、林飛帆が学生運動に傾倒するきっかけとなる野いちご学運が続く。これはデモを許可制から報告制に変更するよう集会規制法の改正を求めた運動だが一カ月運動が続いたのち、大きなムーブメントになりえず、中途半端な形で妥協して解散した。だがこの野いちご学運でできた学生たちのネットワークが、親中企業家のサイエンメイが、二〇〇九年の中華時報グループ買収に続いて反中色の強いメディア・頻果日報グループを買収する、と二〇一二年一一月末に発表したことに抵抗する反メディア独占デモや二〇一三年の徴兵青年虐待死抗議デモといった近年の学生運動、そしてひまわり学運につながった。
 こうした台湾の学生運動の成功の歴史のおかげで、学生運動についてセクト化し、内ゲバを起こして空中分解するという不幸な思い出しかない日本人と違い、台湾人は学生運動に対して非常にポジティブな期待をもともと寄せやすいのだった。


◆日本人の先生と台湾人の弟子

 師範学校卒の陳さんは、日本の教育が台湾の識字率を高めたばかりか、今日の台湾発展の基礎を築いたのだと熱く語ってくれた。
「面白い話があります。戦前の台湾では日本人の先生から勉強を教わりました。日本人の先生と台湾人の生徒の間にはものすごく強い師弟関係があって、戦後も台湾からその生徒達が恩師を訪ねて日本に行ったり……そりや日本から恩師が来るとなればたいへんなことですよ。教え子が島中から集まって来るんです。いまでもですよ。ところが、戦後、大陸から来た中国人の先生と台湾人の生徒にはそんな関係は一切ありません。面白いでしょ」
 1895(明治28)年、日清戦争に勝利した日本は下関講和条約によって台湾を領有する。
 台湾の帰属が決定するや、当時文部省学務部長心得であった伊沢修二は「教育」をあらゆる統治政策に優先させることを進言し、7人の優秀な人材を引き連れて渡台した。そして士林の芝山厳に学堂が開設されたのである。
 なんと台湾にはいまも教育勅語を掲げる学校がある。台湾南部・高雄の東方工商専科学校では、同校を訪れる外国人に各国語に翻訳された教育勅語が謹呈されているというから驚きだ。そればかりではない、台湾で販売部数ナンバー・ワンを誇る新聞社「自由時報」を訪ねたとき、呉阿明会長に“秘蔵の品”を見せてもらったこともある。なんとそれは文部省発行の児童用「尋常小学修身書」であった。呉会長はこの「修身」の教科書を絶賛し、いまも大切に保存しているのだと語ってくれた。さらに、日本兵を鎮魂する「鎮安堂」では「君が代」が祝詞で、「海ゆかば」がおごそかに奏上されている。
 ところが、悲しいかな日本では「教育勅語」も「修身」も戦後の偏向教育によって「軍国主義的」といわれのないレッテルを貼られ、教育の現場から追放されてしまった。その後、日本社会は道徳的荒廃の一途を辿っている事実は、皮肉としかいいようがない。


高砂(たかさご)義勇隊

 中村輝夫は、横井庄一、小野田寛郎さんの後に出てきた最後の日本軍人です。本名はスニヨン。高砂族(アミ族)なんです。
 横井・小野田両氏は有名だが、「中村輝夫」は初めて耳にする読者も多いことだろう(佐藤愛子著『スニヨンの一生』)。さてスニヨン・中村輝夫一等兵は、昭和18年に高砂義勇隊として陸軍に志願。入隊後はフィリピンに送られて各地を転戦し、遊撃戦で活躍した。そして終戦。しかし終戦の報は、当時モロタイ島の奥地にいた中村一等兵には届かなかった。
 その後、昭和49年に発見されるまでの29年間、密林の中で最後の皇軍兵士として任務遂行に努めたのである。そしてその間、中村輝夫一等兵≠ヘ、宮城遥拝(ようはい)、体操を欠かさず、銃の手入れも怠らなかったという。
「高砂の人達はたいへん勇猛な戦士だったんです。何千人もが軍の募集に志願して、中には血判番を持ってやって来る者も多かったといいます。これには軍の方がびっくりしたぐらいです」
「高砂の兵隊は、忠誠心が強かった。ジャングルの生活に慣れた彼らは食糧調達もやったんだよね。彼らは日本の兵隊に食べさせるために必死で食糧を探したんです。そしてこの食糧調達の途中で高砂の兵隊が餓死したことがありました。それも両手に食程を抱えたままネ。高砂の兵隊はそれを食べれば死なずにすんだのに食べなかった。日本の戦友に食べさせるものだから自分は手を付けずに餓死を選んだんですよ。戦友愛。それは立派でした」
 “高砂族”とは、タイヤル族、アミ族など台湾先住民11部族の戦前の総称である。司馬遼太郎氏はその由来について触れている。ちなみに、言葉が異なる高砂族の共通語(公用語)は日本語である。
《台湾の日本時代、清朝の言い方を踏襲して熟蕃(じゆくぼん)・生蕃(せいばん)とよんでいたが、やがて高砂族とよぶようになつた。古い日本語では、台湾のことを高砂国(ときに高山国)とよんでいたからである》
 鳥来とはタイヤル語で「温泉」を意味する。全長82メートルの白糸ノ滝が見る者を魅了し、その景観は郷愁を誘う。そこには、「高砂挺身報国隊」「台湾総督・海軍大将長谷川晴」と、墨入りの日章旗が等間隔で並んでいる。そればかりか桜の花までもが咲き誇っているではないか!
 たくさんの日章旗が山颪(やまおろし)にはためき、李登輝総統の手になる鎮魂の筆が高砂義勇隊紀念碑に大きく「霊安故郷」と刻まれていた。そして台座にはかの本間雅晴中将の遺詠が刻まれている。そこには高砂義勇隊への熱い想いが込められていた。
「かくありて許さるべきや 密林のかなたに消えし 戦友をおもへば」
      
 今日、靖国神社には高砂族青年を含め2万7000余柱の台湾人英霊が祀られている。そしてその英霊の中の一人が、レイテで戦死した海軍機関上等兵・日本名「岩里武則」氏である。何を隠そう岩里武則氏とは、李登輝氏の実兄なのだ。
 大東亜戦争における高砂義勇隊の活躍は、深い感謝の意を込めて現代に語り継がれている。
 当時の高砂族総人口15万人中、実に6000人が志願して大束亜戦争に参加。そしてその約半数が散華した。大東亜戦争開戦努頭のフィリピン・バターン攻略戦も、それに引きつづくコレヒドール攻略戦もこれら高砂義勇隊の働きがその勝利に大きく貢献し、日本軍将兵は皆一様に「彼らがいたからこそ」という深い感銘を受けたという。
 連合軍と死闘が繰り広げられたニューギニア戦線・ブナの戦闘でも高砂義勇隊の活躍には目を見張るものがあり、この地で散華した陸軍大佐・山本垂省は、高砂義勇隊の忠誠と勇気を称えた遺書を残したほどである。
 ニューギニア戦線で第5回高砂義勇隊500人と共に戦った第18軍参謀・堀江正夫陸軍少佐はこう回想する。
「高砂義勇隊の兵士らは、素直で純真、そして責任感がありました。ジャングルでは方向感覚に優れ、音を聞き分ける能力もあり、そしてなにより夜目が利くんです。だから潜入攻撃なんかはずば抜けていましたよ。そのほか食糧調達にも抜群の才覚がありましたね。とにかく彼らの飢えに耐えながらのあの武勲を忘れることはできません」
 このようにニューギニア戦線で戦った将兵の話には、高砂義勇隊に対する感謝の言葉が溢れている。ジャングルで生きる智恵を高砂の兵士に学び、食糧調達から戦闘行動まで、高砂義勇隊なしではなにもできなかったというのだからその活躍の程がうかがえる。
 マラリアや飢えで体力がなくなった日本兵を支え、物資輸送を一手に引き受けた高砂義勇兵は、まさに最高の助っ人であり生命の恩人だった。「この部隊には高砂義勇隊がいる」というだけで安心感が湧き、日本兵はおおいに勇気付けられたという。
 当時、世界最強といわれた日本軍人をして、そういわしめるのだから、高砂義勇隊の精強さがおわかりいただけよう。
 これまで私が取材してきた台湾の人々は異口同音に、「立派な日本人になろうと一生懸命がんばったんだ!」と過去を振り返る。そして「日本は、いつになったら台湾の存続について関心を寄せてくれるのか!」「中共が攻めてきたら日本は助けてくれるのか!」と日本に期待し、さらに「日本と台湾は兄弟の国なんだ」といってはばからない人々がいまも台湾に暮らしていることを忘れてはならない。
 彼らは皆、日本は「大陸」なんかに土下座ばかりしないで、むしろかつて同じ国民として生きた台湾人に、どうか「ご苦労様でした」と労いの言葉だけでもかけて欲しいと願っている。毎度「謝罪」を強要し、揚げ句は当然のように金をせしめる“大国”と、「せめて労いの言葉だけでも」と望む“かつての同胞”。なんともやりきれない気持ちにさせられるのは、決して私一人ではないだろう。
 ■明石台湾総督
 明石総督は、大正8年1月に「台湾教育令」を発布し、台湾人の人的資源開発、つまり教育の普及に全力を尽くしている。これによって台北師範学校、台南師範学校等、実に多くの学校が開校されてゆき、その結実として、初等教育などは昭和18年までに90%を超える就学率を誇るまでになった。これが台湾の知的基盤となり、現在の磐石な経済力を作り上げていったのである。
 このように日本の植民地経営は、欧米列強のそれとは根本的に違っていた。
 欧米列強の植民地経営は、愚民化政策の下に一方的な搾取を行うばかりで、現地民の民度向上など論外だった。当然、植民地での「教育」など考えの及ばぬところであったろう。しかし日本の統治は違った。「同化政策」の下に、外地も内地と同じように教育機関が整備され、その民度を向上させるべく諸制度の改革などあらゆる努力が払われたのである。
 明石総督の偉業としていまも台湾の人々に称えられているのは「教育」だけではない。
 台湾電力株式会社を創設し、日月滞の水力電力事業に取り組んだことは明石総督時代最大の偉業としてあげられる。またこのほかに、司法制度の改革、縦貫道路(北端の基隆〜南端の高雄まで)の着工、鉄道など交通機関の整備推進……数え上げれば枚挙に暇がない。
 そしてなにより、「余は死して護国の鬼となり、自民の鎮護たらざるべからず」と遺して台湾の土となった明石元二郎は、永遠に人々の心に生きつづけることだろう。
 台湾を愛し、死んだら台湾に『埋めてくれ』と遭ってくれた明石閣下と、死んでも大陸へ帰してほしいといって死んだ蒋介石の違い我々台湾人は忘れません。大きな違いでしょう。どちらも台湾を統治した最高権力者の言葉です。
 ■靖国神社での再開 H14年
 一行は、大東亜戦争で日本軍に従軍した元軍属や遺族ら33人のタイヤル族の人々だった。皆は、戦後半世紀以上を経た現在も日本に格別の感情を抱き、靖国神社に祀られる戦友や肉親に会うために、その支援組織となる「あけぼの会」の招きによって、はるばる台湾からやって来たのである。
 17歳で志願し、海軍軍需部の守衛として従軍した荘進利氏は拳を振り上げていう。
「僕らは、男として皆進んで志願しました。そして日本が勝つために本当に頑張りました!」
 高砂義勇隊員として武勲を上げた御主人を2年前に亡くした察専蛾さんも当時を振り返ってこういう。
「男と生まれて戦争に行かないのは男ではないといって、主人は志願していったんですよ」
「私たちは、日本軍と共にあの戦争を戦い抜きました。残念ながら戦争には負けましたが、私たちは今でも“大和魂”を持っているんですよ!」
 そのすべてが大東亜戦争への従軍を誇りに思う声だった。
     

 1999年5月22日、台湾で「後藤新平・新渡戸稲造の業績を称える国際事績国際研討会(シンポジウム)」が開催された。
 そしてこのシンポジウムで許文龍氏は見事な歴史観を披露したのである。
「台湾の今日の経済発展は、日本時代のインフラ整備と教育の賜物です。当時、搾取に専念したオランダやイギリスの植民地と違い、日本のそれは良心的な植民地政策だったのです。(中略)戦前の日本の台湾統治に対し謝罪する必要などありません。戦後の日本政府は、深い絆を持ちながら世界で一番の親日国家である台湾を見捨てました。謝罪すべきはむしろ戦後の日本の外交姿勢です
 戦後、「謝罪」を対アジア外交の主軸・慣例としてきた日本の偏狭な自虐史観の罪はあまりにも重い。現代の日本人は、この「台湾の声」に素直に耳を傾け、そして自らの無知蒙昧さを反省すべきである。
「最後に一言、私も日本人として生まれ、学徒兵として動員されました。大東亜戦争はいまでも間違っていないと思っているんです。唯一の間違いは戦争に敗けたことです……。私はかつて日本人であったことを誇りに持っていますが、逆に日本の方々は誇りを持っていないんですね、どうか皆さん、過去に対して正当な評価と自信を持ってください」
 我々が歴史を読む時は公平で客観的な立場で批評すべきで、決して教科書通りの「日本人は台湾人を搾取した」と単方向的思考法であってはならない。台湾の基礎は殆ど日本統治時代に建設したもので、我々はその上に追加建設したと言ってもよい。当時の日本人に感謝し、彼等を公平に認識すべきである。台湾の「二・二八事件」の死者の名誉回復をする如く、日本統治時代の様々な施政についても頭から日本が悪いと否定するのではなく、改めて正しい評価をすべきと思う。


◆NHK『JAPANデビュー』への抗議

 日本のマスコミは、そんな台湾の声をまったく取り上げようとはしない。むしろその声をねじ曲げてまで日本の近現代史を定めようと躍起になっている。
 台湾の日本統治時代を取り上げたNHKの番組『1APANデビュー』第1回「アジアの“一等国”」(平成21年4月5日放送)などは、台湾の人びとの日本統治時代への思い出話を見事に歪曲したテレビ史上最悪の控造番組だった。このNHKの番組は、日本統治時代を高く評価する大多数の意見を完全に封殺した上で、インタヴューした年配者の声を都合よく歪曲編集し、また歴史を控造して、まるで日本統治時代が差別と弾圧の暗黒時代であったかのように描いたのだ。だがその結果、この番組でインタヴューを受けた台湾の人びとをはじめ、番組を観て憤慨した日本人視聴者合わせて1万人以上がNHKを相手取って集団訴訟を起こす事態に発展したのである。これは、台湾人の対日感情を、中国人や韓国人のそれと同じだろうと思い込んだNHKの大きな誤算であった。
 日本にとって最初で最長の統治を受けた台湾の声は他の近隣諸国のそれよりはるかに重い。かつて半世紀もの間歴史を共有し、いまも強い心の杵で結ばれた台湾が国際社会に登場するとき、日本の現代史に明るい陽の光が差し込むことだろう。
 日本に期待し、そしてラブコールを送りつづけてくれる台湾″、世界一の親日国家なのだ。
 ⇒([NHK一万人訴訟で原告敗訴―不可解な東京地裁判決!])



第五章 マレーシアアジアは英米と対等だと奮い立たせてくれました

 日本軍の暗号はアメリカにことごとく解読されており、また開戦前日の12月7日にはマレー半島沖で英軍機が撃墜されたのだから、ハワイおよびフィリピンの米軍基地は厳重警戒態勢を敷いてしかるべきであった。にもかかわらず、米軍は各方面に注意喚起を行っていないのだから、日本軍による“奇襲”の成功を助けたという見方もできる。
 いずれにしても、ABCD包囲網によってあらゆる工業資源を断たれた日本は、資源確保のために自ら行動するほかなく、自存自衛のためには「戦争」という究極の選択しか残されていなかったのだ。
 そして見逃してはならないのが、政治家をはじめ全国民が座して滅亡を待つことを許さなかったという当時の日本の世論である。とにかく当時の国民は挙って軍部に期待していたのであり、軍部が独走して戦争を企図したなどというのは、軍部にすべての責任をなすりつけようとする卑劣な責任転嫁でしかない。
 日本は、国家の存亡を賭けて戦争に踏み切ったのである。否、そうするしか手段がなかったのだ。
 後に陸上自衛隊の陸将となった第25軍作戦参謀・囲武輝人少佐はこう回想している。
《南方作戦の目的は、石油を中心とする諸資源を南方地域で確保し、日本の経済的生存を維持するためにある。このためには、南方の中心地シンガポールを速やかにわが手に入れなければならない。したがって、マレー作戦が南方各地の作戦のなかで最重点と考えられた》(『丸』エクストラ「戦史と旅」8、潮書房)
「この戦いに参加された落合軍医は、制圧した真っ暗なト英国のーチカ内で負傷兵を手当てされましたが、負傷兵は『敵に見つかるから灯りを点けないでほしい』と自らの治療よりも戦友の安全を優先させたのだと話しておられました。また、将兵らは息をひきとる前には 『天皇陛下万歳!』を叫んで亡くなっていったということです。このとき落合軍医は、『ああ、日露戦争での話は本当だったんだ』と認識をあらたにしたと語っておられました。」(田中恒夫防大助教授)


◆日本軍が上陸して歓迎された理由

 コタバルの市内にはいまも日本軍の上陸を記念したモニュメントが建立されている。参列したケランタン州知事のヤコブ氏は次のように挨拶した。
《日本軍の上陸とその後の占領は、我々にとって厳しいものであったが、それによって我々に民族精神を振起させ、1957年に独立を達成するきっかけになった。(中略)この時計塔が、コタバル上陸部隊戦友会と当地ケランタンの人々との問に意義深いシンボルとなることを祈念し、私はここに慈悲深い神の名において、この平和公園と時計塔をオープンすることを宣言する》(『教育正論』31、教科書正常化国民会議)
 そもそもマレー半島東部には、イスラム教徒が圧倒的に多く、一方、中国系住民は少ない。したがって“親日度”も高い。
 大東亜戦争時、マレー系の人々は、長く圧政を敷いてきたイギリスを駆逐してくれた日本軍を“解放者”として歓迎した。一方、母国の中国が日本と交戦状態にあった中国系の人々にとって、日本軍は敵≠ニしか映らず、抗日ゲリラを組織するなどして抵抗をつづけた。いまでも当時の対日感情が今日のそれに大きく影響しており、民族によって対日感情が違うのだ。それにつけこんだ日本のマスコミは、わずか30%に足らない中国系住民の対日感情をマレーシアの総意であるかのように報じてきたのである。
 現在のマレーシアは、総人口約3000万人、約67%がマレー系、19世紀末に錫の採掘のために連れてこられた中国系は約25%、さらにゴムやコーヒーなどのプランテーションの労働力として動員されたインド系が約7%という人口比率(その他少数民族等)で構成される多民族国家である。なかでも支配者であったイギリス人の手下となつてマレー人を酷使した中国系とマレー系の折り合いは悪く、戦前・戦後にわたって反目し合っていることを知っておかねばならない。
 実はこのことがマレーシアを知り、そして大東亜戦争時の日本軍を知る手がかりとなるのだ。
 当時ケランタン州副知事で、コタバル戦争博物館の館長であったロザリー・イソハック氏は、ビデオ『独立アジアの光』(日本会議)の中で次のように述べている。
《1991年、私たちは日本のコタバル上陸50周年を祝いました。これがケランタン、つまり当時のマラヤによって意義ある出来事であったからです。ここコタバルは、日本軍最初の上陸地です。私は戦争博物館の館長として記念行事を担当しましたが、多くの人がこの重要な出来事を長く記憶に留めていただきたいと願っています》
 また、コタバルの近代史研究家・ビン・モハマッド・ナラク氏も、上陸してきた日本軍をこう称える。
《たいへん感銘を受けました。我々が学んだのは日本人の規律の良さでした。それを見た我々も独立の意欲が沸きました。日本軍が来るまでは、イギリス人または白人は神のように高い存在で、我々は話し掛けるのにも躊蹄しました。(中略)ところがよく見れば白人はそんなに高くはない、神でもない。彼らはアジアの軍隊に負けたのですから。こんな思いもあって、もうイギリスの保護を求める必要もない、独立は我々自らの力で要求できるのだと確信するようになったのです》(同前)
 極端な偏向教育によって洗脳された戦後の日本人は、どうぞマレーシアの人々の生の声に耳を傾けていただきたい。かつてそんな控造を信じてあるいは意図的に過去に対する謝罪″を押し付けたが、逆にマハティール首相にたしなめられた独善的な大物政治家(村山富市と土井たか子)がいたことも記憶にそう遠くない。
「平成6(1994)年、マレーシアを訪れた当時の村山富市首相と土井たか子衆議院議長が過去の戦争での謝罪を口にしたところ、マハティール首相から、「なぜ日本が50年前に起きた戦争のことをいまだに謝り続けるのか理解できない」と返されたことはあまりにも有名な話である。」
 余談となるが、日本人はこうした史実を知らないために、かつてイラクで人道復興支援に汗を流す陸上自衛隊がイラクの人々から大歓迎されている事実を素直に理解できなかったのである。
 第1次イラク復興支援群長・番匠幸一郎一等陸佐は隊員にこう訓示した。
「国家の再建と復興に懸命に取り組んでおられるイラク国民の方々に、夢と希望をもって頂けるよう、各国と協力しながら、日本人らしく誠実に心を込めて、また、武士道の国の自衛官らしく規律正しく堂々と、与えられた任務の完遂に全力を尽くしたいと考えております」
 “武士道”と“規律”、またしてもこれが地元の人々に歓迎されていたのだ。陸上自衛隊は、常にイラクの人々と同じ目線で接し、そして厳しい規律の下に任務の完遂に務めていたのである。番匠一任は次のように述べている。
《規律違反や現地で非難されることも一度もありませんでした。特に各国軍人は、我々の宿営地を訪問するたびに「信じられない整然さだ」を連発していたものです。テントや車輪を一列に並べる際には、誤差範囲 2.5〜3cmを徹底させました。砂嵐で、他国軍の宿営地ではゴミが宙に舞う光景をたびたび見かけましたが、部下たちは命じられるまでもなく、気がつくとゴミを拾っていました。
 銭湯でさえ湯船は汚れるものですが、宿営地のは簡易浴槽にもかかわらずまったく汚れていなかった。誰もが期せずして、体を洗ってから入浴するエチケットを身につけていたからです。水も貴重であることを皆が意識していたため、日本での演習よりはるかに少ない消費量で済みました》(産経新聞イラク取材班著『武士道の固から来た自衛隊』産経新聞社)
 かつての日本軍、そして現在の自衛隊、いずれも「規律正しい日本の軍隊」は常に世界の人々から賞賛されそして歓迎されているのである。


◆日本軍上陸を歓迎してくれた

 仏印からタイ国内を進撃した近衛師団の近衛歩兵第5連隊の連隊長・岩畔豪雄大佐は、戦後に、以下のように回想している。
《車窓からの眺めは、タイ国特有の情緒を繰りひろげてくれたし、沿道の住民が、日の丸の旗を振りながら見送ってくれるという、われわれが予想もしなかったことがあったりして、不快の念をいっぺんに吹き飛ばす情景にも恵まれたりしたのである》(岩畔豪雄著『シンガポール総攻撃』光人社NF文庫)
 日本が英米に対して宣戦布告するや、日本とタイ王国は、平和進駐協定を締結、これにょって日本軍は合法的にタイ国内を通過できたのである。
 戦後教育やマスコミはこうした事実を隠蔽し、タイ進駐も日本軍による侵略″であったというがそれは歴史の控造である。当時、タイ王国が日本の同盟国だったことはもはや否定しようのない歴史的事実なのである。
 協定締結の2週間後の12月21日、「日本・タイ同盟」が締結されており、後に日本から一式戦闘機「隼」なども供与され、当時のタイの国籍マーク「象」をあしらった機体が存在している。
 日本軍の九五式軽戦車などは、戦後も長くタイ陸軍で使われ、退役した1両がバンコクの士官学校前に展示されている。余談だが、タイ陸軍は、いまも可動状態にある九五式軽戦車を保有しているというからいかに長く使われていたかがおわかりいただけよう。
 こうした歴史的背景があるからこそ、タイはマレーシアに優るとも劣らない親日国家であり続けているのだ。
 戦時中のタイ駐屯軍司令官であった中村明人中将が、戦後の昭和30年に国賓待遇でタイ王国に招待され、群衆から大歓迎をうけた事実は、戦時中のタイの親日感情をなにより雄弁に物語っている。
 このとき、後のタイ王国首相ククリット・プラモードは、当時自らが主幹を務めたオピニオン紙『サイヤム・ラット』に、次のように書き記している。これは戦後10年を経た昭和30年の話である。
《日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日束南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。われわれはこの臼をわすれてはならない》(名越二荒之助編『世 界に開かれた昭和の戦争記念館 第4巻』展転社)
 ククリット・プラモード首相がいう「この日」とはいうまでもない、昭和16年12月8日のことである。


◆アジアを勇気づけたマレー沖海戦の大勝利

 イギリスの首相ウインストン・チャーチルは、戦後、その著書『第二次世界大戦回顧録』(中公文庫)で「私は独りであることに感謝した。戦争の全期間を通じて、これほどの強い衝撃を受けたことはなかった」と、マレー沖海戦の大敗北をそう回想している。
 昭和16(1941)年12月10日、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」および「レバルス」は、マレー半島東岸のクワンタン沖で、日本の海軍航空隊によって撃沈され、英東洋艦隊は開戦3日目にして壊滅した。激闘およそ2時間、大英帝国のアジア支配の象徴ともいうべき「プリンス・オブ・ウェールズ」は、僚艦「レバルス」と共に、空からの爆・雷撃を受けて波間に消えていったのである。
 高速航行中の戦艦を航空機だけで撃沈するという快挙は、世界史上初めての出来事であり、それゆえに世界は驚愕した。とりわけ、主として海軍力をもって日本軍と対決しなければならなかったアメリカは、その2日前に自ら体験した真珠湾の悪夢が単なる偶然や奇跡でないことを思い知らされ、あらためて日本の航空戦力に震え上がったのだった。
 1941年当時、まさしく日本の航空戦力は世界一だったのである。
 この日本軍による英束洋艦隊蛾滅という超特人ニュースは、瞬く間に世界中を駆け巡った。ところが、世界はこの衝撃的なニュースをすぐに信じることはできなかった。というよりむしろ、信じたくなかったのかもしれない。
 それもそのはず、その36年前には世界最強のロシア・パルチック艦隊を、そしてつい2日前には米太平洋艦隊を一挙に葬った新興の日本海軍が、こともあろうに今度は、これまで七つの海を制覇してきた大英帝国海軍の誇る東洋艦隊をわずか2時間で壊滅させたのだから、それも無理からぬことだろう。
 欧米列強にとってこの不敗の日本海軍はモンスター≠ニして映った。
 またこの大戦果は、これまで大英帝国の植民統治に苦しんできたアジアの人々を狂喜乱舞させたことはいうまでもない。誰もが暗雲から射し込む光を見た。アジア全域に欧米列強からの独立の気運が生まれ、そしてアジアの人々を奮い立たせた。
 当時、第5師団の兵士としてマレー電撃作戦に参加していたASEANセンター理事の中島慎三郎氏(故人)は次のように回想している。
《プリンス・オブ・ウェールズとレバルスという世界第一級の新鋭戦艦を轟沈し、われわれ日本人も感激しましたが、この朗報にマレイ人、タイ人、インドネシア人、インド人、そして親日中国人が飛びあがって喜ぶ姿を、われわれはあっけにとられて見ていたものです。そのとき、われわれ兵隊は「ああ良かった、いい戦争をしたんだ、生けるしるしあり」と、ほんとにそう思いましたよ》(ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』展転社)


◆武士道と騎士道の戦い

 日英両軍が死力を尽くして戦ったマレー沖海戦。この世紀の一戦には知られざる美談があった。
 日本軍の猛攻を受け、洋上の松明と化した「レパルス」に、駆逐艦「バンパイア」と「エレクトラ」が生存者救出のために急行した。アメリカ軍ならば、この駆逐艦をも攻撃対象として血祭りに上げるところだが、日本軍はそうではなかった。
 日本機は二隻の駆逐艦に“ワレノ任務ハ完了セリ。救助活動ヲ続行サレタシ!”と打電した。
 そして次なる標的となった「プリンス・オブ・ウェールズ」が炎に包まれ、駆逐艦「エクスプレス」が生存者救助のため横付けするや、日本機はまた攻撃を止めてその救助活動を助けたのだった。
 日本軍人が苛烈な戦場で見せた武士道″であった。
 食うか食われるか、殺るか殺られるかの戦場にあって、武士の情をかけた日本軍人は立派であった。むろん日本軍人のこの正々堂々たる姿勢は、さぞやイギリス海軍将兵を感動させたことだろう。一方、イギリス軍人も騎士道を貫いた。


◆F機関と印度独立運動

 シンガポールの占領後、藤原少佐はファラ・パーク競技場でイギリス軍より接収した4万5000人のインド兵俘虜を前にこう呼びかけた。
「日本の戦争目的は、一に東亜民族の解放にあり、日本はインドの独立達成を願望し、誠意ある援助を行う。ただし、日本はいっさいの野心ないことを誓う。インド国民軍、インド独立連盟の活動に敬意を表し、日本はインド兵を友愛の念をもって過する。もし国民軍に参加したい者があれば、日本軍は俘虜の取り扱いを停止し、運動の自由を認め、いっさいの援助を行う」
 これを聞いた数万のインド兵は大歓声を上げて乱舞した。かくしてインド兵4万5000人がこの日をもって日本軍の友軍″となったのである。
 そして藤原少佐は次の任務のために転出し、加えてモン・シン大尉がインド国民軍の最高司令官の職位を罷免されるなど不測の事態もあったが、亡命先のドイツから戻ってきたかのチャンドラ・ボースがインド国民軍を率いることになった。ドイツで同様の組織を作ろうとしたチャンドラ・ボースは国塚中尉に聞いた。
「どうか教えてほしい。私がドイツでできなかったことを、どうして君たち日本人がいとも簡単にできたのか」
 国塚中尉はこう答えた。
「我々は同じアジア人です。我々は共通の文化を持つ上に、藤原少佐が真心を持ってインド兵捕虜に接したからです。今度も、日本軍は真心を持ってインド国民軍と協力すれば、必ずやインドの独立は勝ち取れます」
 ここに“インパール作戦”の準備は整った。
 インド国民軍は日本軍とともにマレー半島を北上し、アラカン山脈を越えてビルマからインドを目指したのである。
 現代では、補給なき日本軍の愚かな作戦として常に批判にさらされ、その作戦の本質はなぜか語られることのないインパール作戦。
 テレビなどでは、ろくに軍事の造詣もない解説者が、この作戦の失敗の原因を得意満面であげつらい、戦争の悲惨さをことさら強調する。しかしこのインパール作戦の本質は、日本軍約7万8000人とインド国民軍約2万人の「日印合同軍」による“対英インド独立戦争”であり、この戦闘が後のインド独立に大きな影響を与えたという視点が著しく欠落しているのである。
 その意味において、F機関長・藤原岩市少佐のマレー作戦における工作活動は、まさしく“アジア解放”という大東亜戦争の大義であり、たとえ戦争に負けたとはいえ、結果としてインド独立という目的を達成し、そしてアジアにおける大英帝国の支配を終焉させることに成功したのである。
 F機関長・藤原岩市少佐、彼は、アラビアのロレンス以上の謀略戦のエキスパートであった。ちなみにF機関長・藤原岩市少佐は戦後の陸上自衛隊で第1師団長を務め、戦後の日本陸軍のために尽くされたことを添えておこう。

 ■ジョヨヨポの予言
 ある者はバナナの葉につつんだナシ・ゴレン(マレイ風焼飯)とココナツ・ヤシの果水を差し出し、ある者は南方のさまざまな果物を大きな籠に盛ってささげ、若者たちは先を争うようにして日本軍の弾薬箱を担ぎ運び、泥道で走行不能となったトラックを押し、ジャングルけものみちの獣道をたどる近道を先頭になって案内をひきうけた。
 日本軍将兵はとまどい驚いたが、やがてマレイ人の歓迎と協力の実勢な態度を知り、戦塵で荒んでいた気分をなごませ、感動し感激した》(『神本利男とマレーのハリマオ』)
 先にも触れたが、マレー人の日本軍に対する協力は並大抵のものではなかった。
 もちろんその理由として、日本の力を借りて大英帝国の過酷な統治から解放されたいという願いがもっとも大きかったが、この地には古くから伝わる「ジョヨヨボの予言」なる神話があり、これが多大な影響を及ぼしていた事実を紹介しておく必要があろう。
 ではそのジョヨヨボの予言とは−−。
《北方の黄色い人たちが、いつかこの地へかならず来て、悪魔にもひとしい白い支配者を追い払い、ジャゴン(とうもろこし)の花が散って実が育つ短い期間、この地を白い悪魔にかわって支配する。だが、やがて黄色い人たちは北へ帰り、とうもろこしの実が枯れるころ、正義の女神に祝福される平和な繁栄の世の中が完成する……》(同前)
 なるほど、この神話は、黄色い=人日本人、白い支配者=英国人とすれば、見事に大東亜戦争を予言している。


◆「日本軍はマレー人を一人も殺していません」

 彼女がたしかめたかった“華僑粛清”なる事件。戦後のサヨクが絶叫するマレーシアの戦争被害とは、およそ抗日華僑の戦死者およびその粛清の犠牲者のことである。
 大東亜戦争時、マレー半島に暮らす華僑の母国である中国は、日本と戦っていた。したがって彼らは日本を敵国視していたのであった。マレー人にとってみれば解放軍であった日本軍も、華僑にとってみれば敵軍でしかなかったのだ。
 そこで在馬華僑は、支那事変が拡大してゆく中、国民党政府の求めに応じて3000人を超えるトラック運転手を中国本土に送るなど熱心に母国支授を行った。彼らは「南僑機工隊」と呼ばれ、ビルマから援落ルートを北上して中国本土に物資を運ぶ輸送任務を引き受けるなど、国民党軍の継戦能力向上に貢献していたのである。
 また華僑は「華僑義勇軍」を組織して日本軍に戦いを挑み、シンガポールが占領された後もゲリラ活動をつづけたという。そのゲリラ組織には、中国国民党とイギリスの支援を受けた「136部隊」とマラヤ共産党の「マラヤ人民抗H軍」があった。もっともマラヤ人民抗日軍というものの、そのほとんどが華僑だったという。むろん彼らは日本軍に不正規戦闘を仕掛けたのだから、その代償としての死も止むを得まい。
 では日本軍による粛清″は本当にあったのか。
《マレー作戦に参加した兵隊たちは、白人からアジアを解放する″という気持で戦っていましたから、白人の手先となつている華僑を知って表現のできない憤りを感じましたし、軍の参謀たちは“ここで華僑に対し断固たる姿勢を示さなければ、これからの軍政は相当の妨害が予想される”と考えたとしても当然です。このような背景があり、日本軍は華僑粛清を実行したのです。確かに当時から「華僑を粛清する必要があったのか」という見方もありましたが、このことは日本軍にとって掃討作戦であり、純然たる軍事作戦であったのです》(『世界から見た大東亜戦争』第3部「アジアに生きる遺産」 マレーシア・シンガポール、阿羅健一)
 在馬華僑の抗日戦争とは、マレーシアのためではなく中国のためだったのだ。しかし、そんな華僑の記憶を手がかりに、日本軍による“虐殺”をなんとしても探し出そうとする愚かな日本人もいる。ところが皮肉にも、彼らのストーカー顔負けの執拗な追及に、実はマレーシア人もうんざりなのだ。
 元上院議員のラジャー・ダト・ノンチック氏は次のように述べている。
《先日、この国に来られた日本のある学校の教師は、「日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べに来たのだ」と言っていました。私は驚きました。「日本軍はマレー人を一人も殺していません」と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。そして日本の将兵も血を流しました。
 どうしてこのように今の日本人は、自分たちの父や兄たちが遺した正しい遺産を見ようとしないで、悪いことばかりしていたような先入観を持つようになってしまったのでしょう。これは本当に残念なことです》(土生良樹著『日本人よありがとう』日本教育新聞社)
 かつて平成6(1994)年、マレーシアを訪れた当時の村山富市首相と土井たか子衆議院議長が過去の戦争での謝罪を口にしたところ、マハティール首相から、「なぜ日本が50年前に起きた戦争のことをいまだに謝り続けるのか理解できない」と返されたことはあまりにも有名な話である。
 先のラジャー・ダト・ノンチック元マレーシア上院議員の言葉にあるように、これは「本当に残念なこと」であり、むしろその偽善的行為は外国人に疎んじられている事実を彼らはまったく理解していない。むろん反日日本人達の“悪趣味”を止めさせねばならないが、同時に海外で間違った歴史認識を耳にしたときは直ちに反論して、日本の正義を堂々と主張しておくことも必要だ。これは、我々の後世のためである。





⇒(スターリンの謀略)へ
 (TOPへ)
⇒(GHQの教育基本法)へ
⇒(大東亜戦争の真実)へ
⇒(アジアは日本を愛している)へ