大東亜戦争とスターリンの謀略



             ⇒(ルーズベルトの罪状)へ


 大東亜戦争が侵略戦争では無く、人種差別からの解放だったと、中韓北以外のアジアの国々は証言している(⇒[日本はなぜアジアの国々から愛されるのか])。
 この本[大東亜戦争とスターリンの謀略]は、昭和25年にGHQによって発売禁止なって、昭和62年に復刻されました。最初に手に取ったときには半信半疑でしたが、読んでいくうちに善と悪との闘いだったと思い知らされ、[近衛上奏文]にしたためた近衛内閣の苦悩を納得しました。また、どうして望まぬ戦争に突き進んで行ったのかをこの本で知った岸信介元首相([岸元首相の後書き]参照)は、戦後、新日米安保を自然締結し、解散しますが、第二次岸内閣で憲法改正を行おうとしていました。2013年8月現在、安倍首相(岸信介の娘婿・安倍晋太郎の御子息)は“自由と民主主義、複数政党・市場経済社会をガッチリ守る国々と連携し、岸内閣の果たせなかった夢を実現することも可能なのかも知れません、それは、私たち国民の覚悟次第なのです。
 さて、ルーズベルトの側近に共産主義者が多数潜り込んでいたことは周知の事実です。ルーズベルトは不戦の誓いを宣誓して大統領に就任しています。その彼を太平洋戦争に駆り立てたのは、共産主義者達でした。一方で、当然昭和天皇のご意志([昭和天皇〜戦争を終結させ国民を救った元首〜]参照)は常に英米との和睦でした。また近衛内閣もまた、ルーズベルト同様に戦争の不拡大と太平洋戦争を行わないを明言していたにもかかわらず、多くの共産主義者が暗躍して、戦争に突入してしまったのです。
 しかし、昭和天皇の子等は神の軍隊として戦い抜き、共産主義者の云う民族解放から大東亜共産化、ひいては世界統一政府への陰謀を打ち砕くことになる。つまり、皇軍はアジア諸国を植民地としてではなく、自国民同様に教育とインフラを整備して独立精神に火を点し、しかも敗戦後の日本を共産革命から救ったのです(⇒[東條英機宣誓供述書])。
 そして、戦後の皇室と靖国を守ったのは、昭和天皇に感化された東條英機(東條英機は、国策の決定に対し、陛下は拒否されることは無いことを以て、陛下に戦争責任無しと断言しております。)とマッカーサーだった。連合軍が靖国を遊園地に代えようとする所を救ったのは、ローマ教皇の「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して敬意を払う権利と義務があると言える。それは戦勝国か敗戦国かを問わず平等の真理でなければならない」だった。1980年5月21日には、国際法では完全に違法行為と言われる東京裁判において、不当に裁かれ処刑されたA級戦犯、BC級戦犯、1068柱の英霊に対するミサが、サンビュトロ大聖堂において行われた。国のために命を捧げた英霊に感謝の心を持つのは、どこの国であろうとも当たり前のことである。
 ■陛下のマッカーサー会談
 天皇陛下はマッカーサーに丁寧にお辞儀をなされ、次のように言われました。
 「日本が戦争をしたことについての責任はすべて私にあります。
  また、軍人及び政治家の行為もすべて私の責任です。
  私をどのように扱うかはすべてあなたにお任せします」
 このお言葉を聞いて、マッカーサーは大変驚きました。命乞いどころか、天皇は国民のために自分の命を捨てる覚悟なのです。その昭和天皇のお姿を目の前に見て、マッカーサーは心の底から感動したのです。会見が終わり、陛下がお帰りの時には、マッカーサーは陛下を丁重にお見送りしました。
 ■マルクスの亡霊に操られる人権派 … 読者より
 吉田清治は詐欺師であり、共産党から立候補した事もある。だが、誰に乗せられたのかというと、彼は人権屋に乗せられたと云って死んだ。
 一方、自称慰安婦婆さんを探しにアジアにでかけたのは、左翼の人権派連中です。
 さて、戦前、ゾルゲは朝日を支配し、言論界や政界に影響を与えていた。戦後、牢獄の左翼が放出され、高官や大学総長などに着いた。彼らが人権派だ。歴史問題が日本を屈服させる武器になると教えたのは、人権派=戦後利得者=ソ連由来の共産主義者です。そして、今彼らは、中韓をも利用して、日本を皇室を滅ぼそうとしている。
 つまり、旧ソ連は滅びたが、日本に巣くうマルクスとスターリンとゾルゲとルーズベルトの亡霊を崇拝する連中に、日本は滅ぼされようとしている。真の敵が誰なのかを知らないと戦えないと思う。

 つまり、敗戦革命を企てる共産主義者に操作された軍と企画院より戦争に介入していく日本と、昭和天皇の下で国民を守ろうと必死の和平工作を続けるというちぐはぐの姿が、実は善と悪の闘いそのものだったと知りました。そして、日本と世界を救ったのは、立憲君主国としての日本ではなく、日本以外では古代に失われてしまった神権国家としての天皇と日本国民の大和魂だった。もし日本が、欧米流の君主国家であれば、敗戦後の皇室は国民の手により追放もしくは処刑されていたに違いありません。世界中がそれを当然としていたのです。しかし、昭和天皇が国民を励まそうと五箇条の御誓文を再度示され、日本中を行幸されたとき、日本国民の大多数が陛下を大歓迎し、復興の第一歩としたのです。人類史上に類のない昭和天皇と大和民族の偉大さを感じるのです。同じ事が、311当時の福島でした。彼らは“神様が先だ!”を掛け声に、復興の第一歩を歩み出したのです。
 共産主義は庶民の不満を増長して、階級闘争をもたらす。その掛け声は、自由平等、大企業・資本家の粉砕である。本来、理想的な社会を求めるのは人間として当然ですが、現状の社会への不満から社会と伝統を完全否定し、手段を選ばす破壊する思想は、未熟な人類の誤りである。そのことは、ロシア共産革命と中国共産党革命とカンボジアやベトナムでの自国民への残虐胸虐殺、現在も続いているチベット・ウイグル・内モンゴルへの民族浄化と称する民族そのものの抹殺を見ても明らかです(⇒[民族の危機T/民族の危機U])。
 理想社会に向けて、現状の社会をどのように改造していくのか、それを粘り強く、一歩一歩進めて行きながら、加えて自分自身を振り返るように、理想社会の姿の間違いをも正していくことが、世間で言われる保守の姿勢だと思います。しかし、旧ソ連崩壊と共に共産革命の危機は過ぎ去った過去の物語ではなく、日本においては共産主義者の多くが形を変え「民主党政権」として日本を危機のどん底に陥れ、現在も尚彼ら反日・左翼集団は皇室と大和魂を徹底的に滅ぼそうと画策しているのです(⇒[目標は天皇の処刑])。だから私たち太陽神の子等は、左翼思想を自分の心から徹底的に排除しないと、近衛内閣の二の舞、即ち反日民主党の二の舞を何度でも繰り返すことになるでしょう。
 本書[大と亜戦争とスターリンの謀略]において、日本国民の良心を操作利用して、敗戦による共産革命を実現しようとしたのか、そして[昭和天皇独白記]を読み比べて頂き、昭和上皇様がこれら悪魔の計略の楔を御聖断を持って断ち切ってこられたのか、それを感じ取って頂きたいと思います。これこそが即ち、人類創世から現在まで続いている「善と悪の闘い」の姿なのだからです。
 尚、米国側から見たスターリンの陰謀については『アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』、中国から見た毛沢東とスターリンの陰謀については『マオ 毛沢東の素顔(上)』『マオ 毛沢東の素顔(下)』を参照下さい。現代の戦いについては、『国際主義者と共産主義者とは同根』参照。


  1. まえがき
     陛下の御聖断で敗戦革命から救われた日本
     日本の革命をいかにして実践するか
     論理の魔術
     リットン調査団を受け入れようとされた陛下
  2. コミンテルンの究極目的と敗戦革命
     帝国主義戦争を敗戦革命へ:レーニンの敗戦革命論
     二二六事件と陛下の御聖断
  3. 日華事変を太平洋戦争に追い込み、日本を敗戦自滅に導いた共産主義者の活動について
     敗戦革命へ:コミンテルンに直結した秘密指導部
     朝日新聞は報道機関ではないのではないか
     マスコミの横暴と傲慢
     スターリン、ルーズベルト大統領に乾杯!
     スターリン、三方面の秘密工作
     革命家としての尾崎秀実
       陸軍政治幕僚との握手
       政府最上層部へ
       官庁フラクション(企画院)
       昭和研究会
       言論界
       協力者、同伴者、ロボット
       何故成功したか
     転向者の役割
     蒋政権の否認と長期戦への突入
     長期全面戦争への政治攻勢
     三国同盟について陛下のお考え
     近衛新体制から太平洋戦争へ:何の為の新体制か
     独ソ開戦とシペリヤ傾斜論:ゾルゲの使命
  4. 太平洋戦争より敗戦革命へ
     敗戦コースヘ邁進
       言論結社禁止法の制定
       敗戦経済と企画院事件
  5. かくして敗戦へ  …敗戦の責任は我にあり(東條英機宣誓)も参照
     民主人民戦線の結成
     岸信介元首相のあとがき
     昭和上皇様の苦悩



まえがき


 悪夢の十五年、満州事変から敗戦まで、われわれの日本は、まるで熱病にでもつかれたごとく、軍国調一色に塗りつぶされてきた。
 恩へば、軍歌と、日の丸の旗と、万歳の声で埋めつくされた戦争狂燥曲の連鎖であつたが、この熱病の根源は果して何であつたらうか、そしてまた戦争狂燥曲の作者は誰であつただらうか。
 今日の一般常識は、軍部だ、軍閥だといふことになつてゐる。重点の軍事裁判で明かにされた通り、此の軍部、軍閥の戦争責任については私も異論がない。
 しかしながら、この軍閥の演じた戦争劇は、果して、真実彼等の自作自演であつただらうか。熱病の疾患部は、たしかに軍部であつたし、戦争狂燥曲のタクトを振り「無謀な戦争劇」を実演したものもたしかに軍部であつたが、その病原菌は何んであつたか、また作詩、作曲者は誰か、脚本を書いたのは誰か、といふ問題になると、いまだ何人も権威ある結論を出してゐない。これは極めて重大な問題だ。
 私は、昭和三年六月から同七年まで、内務省警保局に勤務し、三・一五事件以来、日本の思想界を「赤一色」に塗りつぶし、思想国難の叫ばれた時代の約四ケ年間、社会主義運動取締の立場から、共産主義の理論と実践活動を精密に調査研究する事務に携つて来た。
 次で、同七年から十年まで、拓務省管理局に勤務し、再び朝鮮、満州、中国を舞台とした国際共産党の活動に閲し、表裏両面の調査研究に没頭してきたが、この頃は、満州事変後の政治的激動期で、国際的には第二次世界大戦の危機が叫ばれ、国内的には軍部の政治的進出が甚しく積極化し、その裏面では、コミンテルンの極東攻勢が著しく前進態勢を取つて来た時代であつた。
 次で私は、同十一年の衆議院議員総選挙に立候補し、十ケ年間、今度は逆に憲兵と特高警察から追ひ廻はされる立場に立ち、反政府、反軍部的政治闘争に専念し、遂に捕へられて巣鴨まで行つてきたのであるが、この政治運動に身を投じてからの最大関心事は、激変する国際情報と第二次世界戦の嵐の申で、モスクワを本拠とする共産主義運動が、いかなる戦略戦術を展開して行くか、更に軍閥の独善的戦争推進の背後にあつて、世界革命への謀略コースをいかにして押し進めて行くかを怠りなく注視し研究することであつた。
 最も率福な人薪社会には、うそとごまかしがあつてはならない。正しい民主主義社会においては、思想と行動にうら、おもてがあつてはならない。私は自分の過去の思想行動に関して如何なる批判をも甘受する覚悟で、本書の筆を執つたのであるが、たゞ一点遺憾なことは、現在の私は、今日の政治を論評する自由を持たないが故に、戦時中の政治責任と終戦後の政治責任の連帯性を論じ得ない不徹底さのあることだ。
 ■陛下の御聖断で敗戦革命から救われた日本
 敗戦革命を目論み、本土決戦を主張する共産主義者とその傀儡の圧力に対し、鈴木貫太郎総理大臣は天皇陛下の前に進み、丁寧に礼をして、次のように申し上げました。
  「ただ今お聞きの通り、意見がまとまりません。
   なにとぞ思召(お考え)をお聞かせ下さいませ」
 陛下は、それに応えてお言葉を述べられました。
  「それならば自分の意見を言おう。自分の意見はポツダム宣
   言を受け入れるという外務大臣の意見に同意である」
 そして、陛下はしぼり出すようなお声で次のように仰せられました。
  「念のため理由を言っておく。このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか、
   自分は非常に心配である。あるいは日本民族は皆死んでしまうかもしれない。
   そうなったらどうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。
   自分の任務は祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。
   今となっては一人でも多くの日本人に生き残ってもらい、
   その人達に将来再び起ち上がってもらう外に、
   この日本を子孫に伝える方法はないと思う。
   それにこのまま戦いを続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。
   堪え難く、忍び難いことであるが、自分は明治天皇の三国干渉の時のお心持も考え、
   この戦争をやめる決心をした」


2.日本の革命をいかにして実践するか

 日本の共産主義運動は二七年テーゼ以来コミンテルンの指令通り非合法闘争一本槍できた。三二年テーゼでコミンテルンが二段革命戦術を採用したから、先づブルジョア民主主義革命を行つて封建的権力組織を破壊し、次でプロレタリア革命に突入する方針でやつて来たが、天皇制廃止を中心スローガンとした革命闘争は、官憲の弾圧峻烈をきわめ、犠牲のみ多くして党の実勢力は、再建、壊滅をくり返すのみだ。
 さらに加へて満州事変の勃発で、愛国主義、軍国主義が急速に高まり、非合法的な反国家的共産主義運動など、どこにも切り込んで行く余地が無くなつた。このやうな情勢下で、天皇制打倒、戦争反対などの公式論をふり廻して、監獄に叩き込まれるのは愚劣だ。知恵のないことだ。のみならず、日本に、あの強力な陸海軍と天皇制が厳存する限り、ブルジョア民事王義革命すら到底実現の見込みが立たない。そこで、先づいかにして此の強大な天皇制で、こちこちの軍部をつぶすかを考へねばならない。
 ところが、面白いことには、日本の軍部殊に陸軍は特異な存在だ。この日本の陸軍は、殆んど大部分が貧農と小市民、勤労階級の子弟によつて構成されてゐる。将校も大多数が中産階級以下の出身者だ、従つてその社会環境と思想傾向は、皮ブルジョア的だ。だからこの陸軍を背景とした国家革新運動は反資本主義的だ。ただ彼等は、国体問題に関するかぎりコチコチの天皇主義者だから、この点をうまくごまかせば、此の日本の陸軍は充分利用し得る価値がある。真実のコムミニストなら、此の点に着目しなければ嘘だ。
 コミンテルンは流石に賢明だ。三五年の人民戦線戦術で、各国の特殊性を認めた。合法場面の活用も認めた。それなら思ひ切つた戦術転換をやらう。天皇制廃止をやめて、天皇制と社会主義は両立するといふ理論で行こう。天皇と国民との間に介在するブルジョア支配階級、搾取階級を取り除いて、天皇を戴いた強力な社会主義国家を建設するのだといふ理論で行こう。戦争反対など言はずに、戦争ずきの軍部をおだてゝ全面戦争に追ひ込み、この貧弱な国力を徹底的に消耗きせ、敗戦−自滅の方向に誘導することが最も賢明だ。次に来るべきものはわれわれの注文通りの敗戦革命ではないか。


論理の魔術

 右の謀略コースを軌道に乗せるために、次の如き巧妙な論理の魔術、即ちわれわれの謂うロジックのマジックを展開する。
  1. 先づ満州事変から日華事変に発展した大陸進出政策の合理性と進歩性を歴史的に理論づける。
  2. 現状維持と現状打破。旧秩序と新秩序の対立を世界史的に理論づけ、国際社会と国内社会に共通の理念として展開する。米英的旧秩序の打倒、資本主義的現状維持の打倒。
  3. 新しい戦争理論の創造。侵略戦争の理念的裏づけ1即ち帝国主義の揚棄、非賠償、非併合、新秩序建設、植民地解放戦争の理念的裏づけ。
  4. 戦争に勝つためにを至上命令として押し出し、一切の不平不満を押へる。
  5. 自由主義、個人主義、営利主義の否定。犠牲的愛国心の強制。
 右の各条項を、忠実に、巧妙に、大胆に、しかして最も精力的に実践すること、これが真実のコムミニストの任務だ。
 私のこの見解は、終戦後まとめたものではない。その証拠として、私はこの見解にもとづき、昭和十六年二月と同十八年二月の二回に亘り、国会の委員会で、具体的な事例を挙げて政府に警告しておいた事実を附記しておく。
 リットン調査団を受け入れようとされた陛下
 満洲事変([満州事変は侵略か]参照)は日本の侵略である、と断定はしたが、日本の滞洲における権益を認め、日中間での新しい条約を結ぶことを妥協的に勧告するそれがリットン報告書の骨子である。それを昭和天皇が「そのまま鵜呑みにして終ふ積り」であったとは、じつに興味深い発言である。もし陛下の御意志が政局に反映されたらば、英米戦争は起こらなかったでしょう。もし、英米日で旧ソ連とヒットラーを封じ込めていれば、世界は共産革命の悲劇から救われていたことでしょう。



二、コミンテルンの究極目的と敗戦革命
     〜 世界革命への謀略活動について 〜

 共産主義者は「われわれは断乎戦争に反対した」「軍閥に反対したのは共産党だけだ」と言ひ、共産主義者以外のものは、全部戦争の協力者であつたやうな言ひ方をする。だが、このロジックは少々おかしい。のみならず筆者はこの主張と全く反対の事実を知つてゐる。
 共産主義者の絶対信条はマルクス・レーニン主義だ。と、ともにレーニンの創設したコミンテルンの綱領である。マルクス・レーニン主義とコミンテルンの綱領を離れた共産主義者も共産主義運動もあり得ない。これはいづれの国の共産主義運動にも例外のない鉄則だ。そしてそのマルクス・レーニン主義とコミンテルンの究極目的は公知の通り全世界の共産主義革命である。即ち全世界の資本主義国家を崩壊せしめ、共産党独裁政権を樹立して資本主義制度をねこそぎ無くすることである。
 レーニンは、コミンテルン綱領ならびに彼の書いた多数の文書及演説の中で、共産主義者の第一目標は、資本主義国家の政治権力を倒して共産党独裁政府を樹立することであり、このプロレタリア独裁(共産党独裁)政治を通じてのみ共産主義社会の実現は可能だと言ふことを繰返し教へてゐる。
 レーニンのこの教義を日華事変と太平洋戦争に当てはめてみると、共産主義者の態度は明瞭となる。即ち、日華事変は、日本帝国主義と蒋介石軍閥政権の噛み合ひ戦争であり、太平洋戦争は、日本帝国主義と、アメリカ帝国主義及イギリス帝国主義の噛み合ひ戦争と見ることが、レーニン主義の立場であり共産主義者の認識論である。したがつて、日華事変及太平洋戦争に反対することは非レーニン主義的で共産主義者の取るペき態度ではないと言ふことになる。事実日本の忠実なるマルクス・レーニン主義者は、日華事変にも太平洋戦争にも反対してゐない。のみならず、実に巧妙にこの両戦争を推進して、レーニンの教への通り日本政府及軍部をして敗戦自滅へのコースを驀進せしめたのである。この見解は筆者の独断ではない。以下順次その根拠を明かにしよう。


帝国主義戦争を敗戦革命へ:レーニンの敗戦革命論

 第一次世界大戦勃発直後の一九一四、五年頃レーニンは頻りに敗戦主義を説き、同じポルシェヴイキ(ロシア共産党)の同志をすら驚かせたが、彼の最も軽蔑したのは、いい加減で、戦争を終らせ、革命の有望な前途をプチ壊す平和論者と良心的な反戦主義者であつた。
「ロシアの労働者階級ならびに勤労大衆の見地から言へば、ツアー君主制の敗北が望ましいことは一点の疑ひも容れない」
 レーニンのこの敗戦革命論は遂に十月革命の勝利を得、彼はその年来の宿志たる世界革命を実行に移すために、一九一九年三月第三インターナショナル(コミンテルン)を結成し全世界の革命闘争を指導し始めたが、一九二〇年十一月、モスクア共産党細胞書記長会議で、「全世界における社会主義の終局的勝利に至るまでの間、長期間にわたつてわれわれの基本的原則となるペき規則がある。その規則とは、資本主義国家間の矛盾対立を利用して、これらの諸国を互にかみ合すことである。われわれが全世界を征服せず、かつ資本主義諸国よりも劣勢である間は、帝国主義国家間の矛盾対立を巧妙に利用するという規則を厳守しなければならぬ。現在われわれは敵国に包囲されている。もし敵国を打倒することができないとすれば、敵国が相互にかみ合うよう自分の力を巧妙に配置しなければならない。そして、われわれが資本主義諸国を打倒し得る程強固となり次第、直ちにその襟首をつかまなければならない」と、述べてゐる。
 コミンテルン第六回大会の決議、このレーニンの「帝国主義戦争から敗戦革命へ」の戦略的、戦術的展開を一九二八年(昭和三年)のコミンテルン第六回大会に於て採択された決議「帝国主義戦争と各国共産党の任務に関するテーゼ」からその要点を抜き出してみよう。

 帝国主義戦争が勃発した場合に於ける共産主義者の政治綱領は、下記である。
  (1)自国政府の敗北を助成すること。
  (2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
  (3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能なるが故に、
    戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること


 筆者は以上、必要以上に軍閥政治への道を永々と回顧して来た。その意図するものは、軍閥政治への思想的、行動的基盤をなしたものが青年将校であり、その青年将校の上に立ちて政治的野望を遂げんとした者が軍閥、政治軍人であり、然してこの青年将校の現状打破、革新への思想行動を巧みに利用して、敗戦革命への方向に切り変へたのがコミンテルンの戦略論によるコミムニストの謀略であつたことを立証せんが為である。
 陸軍は遂に強力な政党と化してしまつた。農民と、小市民の家庭につながる数百万の軍人を、強固な組織体とした一国一党的な政党的存在たり得る基礎的条件をことごとく備へた。この軍部を駆使して日本の政治権力を握り、政治革命の野望を達成せんと夢みた和製ヒットラー、レーニン、スターリンは果して誰であつたか。


■二二六事件と陛下の御聖断
 当時反乱軍に対して討伐命令を出したが、金融方面の悪影響を非常に心配して断然たる所置を採らねばパニックが起ると忠告してくれたので、強硬に討伐命令を出す事が出来た。・・・
 私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必ず輔弼(ホヒツ)の者の進言に逆はぬ事にしたが、この時と終戦の時との二回だけは積極的に自分の考を実行させた。
(注)
「今回のことは精神の如何を問わず不本意なり。国体の精華を傷つくるものと認む」「速かに暴徒を鎮圧せよ」「自殺するならば勝手になすべく、このごときものに勅使なぞ、以てのほかなり」
 この断乎たる討伐命令が経済への悪影響をも心配してのものとは。
「事件の経済界に与える影響、特に、海外為替が停止になったら困ると考えていた。しかし、比較的早く事件が片づき、さしたる影響もなかった。本当によかった」(『木戸日記』)
※尚、ロシアから国際条約により正式に譲渡された満州鉄道の権益について、和平を望まれていた故、それを返上している。



第三編.日華事変を太平洋戦争に追い込み、
    日本を敗戦自滅に導いた共産主義者の活動について


敗戦革命へ:コミンテルンに直結した秘密指導部

 さて日華事変を如何にして長期戦に追込み、そして太平洋戦争に発展せしめ、敗戦自滅へのコースを進めてきたかを具体的に立証する前に、もう一度思想戦謀略の面からこれ迄の歴史的歩みを分析して見る必要がある。
 前編で明らかにした如く、日本の変革史は昭和二年、即ち一九二七年にスタートして居るが、この変革へのスタートは、ファッシズム革命への道と、ポルシェヴィキ革命への道と、左右、二つの道が同時に発足して居る所に極めて興味深いものがある。然してこの二つは、二つ乍ら何れも全体主義的性格を持ち、左右からみ合つて戦争への道を邁進し、敗戦自滅への道を歩み来つたのである。
 ファッシズム革命への道は、前編で述べた如く、昭和二年の東方会議に始り、翌三年の張作霖爆死事件で実行の第一歩を踏み出し、四年、五年は表面一応雌伏時代かに見えたが、仙台教導学校の「兵火」に見る如く、裏面では着々準備されてゐたのである。それが六年に入り三月事件となり、九・一八満州事変となり、十月事件のクーデター計画となり、国家の権力的支柱であり、また国民の下層階級を組織的基礎となし、規律と訓練の上に行動する軍隊を中核として、政治の表面に現れて来た。即ち、この青年将校を中心としたファッシズム革命運動に組織的機動性が持たれ、国家と一体となつた形で政治の表面に現はれたのである。
 こゝで左翼の革命コースが如何なる形で進められて来たかを明らかにしなければならない。
 昭和二年の二七年テーゼでスタートした日本共産党の革命闘争は、四、五、六年と満州事変勃発直前迄、猛烈な非合法闘争を展開して来たが、満州事変を契機として、合法、非合法何れの面からの流れとなった。これは弾圧によって指導者が殆んど全部逮捕、投獄されてしまつたことの他に、もう一つ裏面に重要なる理由がある。即ち昭和三年(一九二八年)のコミンテルン第六回大会に於て採択された、「帝国主義戦争を敗戦革命へ」の決議は戦略的にも、戦術的にも、真実の優れた共産主義者に深くあじわうペきものを与えたと見る必要がある。
 筆者はこゝで、尾崎秀実の存在を想起する。彼は既に明らかにした如く、大正十四年より共産主義を信奉しており、政治感覚の最も鋭いコムミニストであった。その尾崎が上海に渡つたのは昭和三年十一月である。当時コミンテルンの重要な指令は、上海のコミンテルン極東ビューローを通じて日本に来ておつたが、上海に渡つた尾崎がまもなく、中共の上部組織とも連絡をもち、コミンテルン本部とも組織的な繋りを以て、何を考へたかは想像するに難くない。第一編で明らかにした第二次世界戦争より世界共産主義革命への彼の構想は、恐らくこの上海時代に既に措かれてゐた戦略コースであつたに違ひない。
 歴史は偶然とはいひ難い興味ある符節を示すものである。北一輝が青年将校のバイブルと言はれた「日本改造法案大綱(大正12年)」を書き上げたのも上海であつた。北は中国第一国民革命の嵐と興奮の中に、ファツシズム革命綱領の源流を描き、尾崎秀実は同じ上海で、蒋介石の北伐に始つた第二国民革命の血の興奮の中で、コミンテルンの綱領を政治的に吸収咀嚼したアジア共産主義革命の構想を描き出したのである。然して、このコミンテルンの第二次大戦に対する態度と方針は、やがて日本共産党に対しても指令して来た。即ち、満州事変の勃発により、戦争への道を臍み出した日本に対し、共産主義革命への改治綱領として与へられたものが、昭和七年の三二年テーゼである。この三二年テーゼに於ては、二七年テーゼの単一労農革命戦術を改め、二段革命戦術を採つた。即ち、満州事変によつて帝国主義戦争への第一歩を踏み出した日本資本主義の現段階を、ブルジョア民主主義革命の段階にありと規定し、この戦争を通じて内乱敗戦に導き、この戦争の過程に於てブルジョア民主主義革命を完成し、そのブルジョア民主主義革命の進行過程に於て、プロレタリア共産革命への、客観的、主体的諸条件を獲得し、その条件成熟と同時に一挙にプロレタリア共産革命に移行する戦術をとつたのである。それは第一次大戦の際行はれたロシア革命のケレンスキー三月革命と、ポルシェヴィキ十月革命の方式を採用したものである。この新しい綱領を理解し得た日本の共産主義者は、戦争反対闘争から、戦争を敗戦革命への方向に戦術転換したことはいふまでもない。
 然して此のコミンテルンの戦略指導はやがて一九三五年(昭和十年)の第七回大会に於ける人民戦線戦術となり、合法場面の広範なる活用と、来るべき革命への政治的、思想的、組織的配置を進めて行つた。これはやがて企画院事件、昭和研究会の理論的指導となつて現れて来るが、更に重要な点は昭和九年春尾崎、ゾルゲの握手によつて開始された秘密謀略活動である。尾崎は、昭和七年二月上海を引揚げ、朝日新聞大阪本社の外報部に居たが九年春、コミンテルン本部から直接派遣されたゾルゲとの連絡を回復し、更にアメリカ共産党員でコミンテルンの指令に依つて日本に派遣された宮城輿徳と協力し、こゝにもつとも巧妙にして、大胆なる秘密謀略活動が開始されたのである。
 尾崎は同年十月、東京朝日に転じ、東亜問題調査会に勤務していたが、丁度この頃は軍部の政治攻勢がいよく積極化して来た時代であり、敗戦革命への構想を胸中深く秘めた尾崎と、陸軍の政治幕僚との連繋握手が出来上つたものと見られる。かくて尾崎の中央に於ける、大胆にして精緻なる政治謀略活動が開始されたのだ。


 ◆「朝日新聞は報道機関ではないのではないか ZakZak 2014/09/18」
 本論評に、思わず目から鱗、納得してしまいました。著者は、元空将・軍事評論家佐藤守氏で、是非原文を参照して頂きたいです。
 朝日新聞を「報道機関」と見るから腹が立つのである。今回の慰安婦問題や、福島原発の吉田所長の証言をまとめた「吉田調書」の大誤報をめぐる対応や、同社の過去を振り返って、私は「実は、朝日は報道機関ではないのではないか」と思わざるを得なくなった。
 保守派言論人の中には「朝日は終戦後、変身した」という人がいる。確かに、朝日は戦争中、「海鷲の忠烈、万世に燦たり」などと軍を賛美し、「鬼畜米英」と国民の反米意識をかき立てた。従軍記者の報道を大々的に報じて大きく部数を伸ばした。
 だが、開戦(1941年12月)の3カ月前に発覚した「ゾルゲ事件」を忘れてはならない。
 同事件では、朝日記者だった尾崎秀実が首謀者の1人として逮捕された。尾崎は近衛文麿政権のブレーンとして、政界や言論界に影響力を持っていたが、実際は共産主義者で、コミンテルンの指示で諜報活動や、日本軍の北進(ソ連侵攻)を阻止する工作活動を行っていた。
 尾崎は「対中国強硬論」「対米開戦論」を声高に主張していた。ソ連を日本から守る一方、日米両国を戦わせて双方を自滅させ、戦後の世界をソ連が支配するために狂奔していたのである。朝日報道などの後押しも受け、日本は対中、対米戦争を戦い、敗戦した。
 日本人は諜報・工作活動に疎い。古今東西、「報道の自由」を旗印に情報活動ができる新聞記者はスパイに近い職業だが、政治家や高官は「新聞記者」なる肩書に、つい気を許してしまう。<br>
 1963年に統合幕僚会議事務局に勝手に入り込んだ新聞記者が「演習秘文書」を持ち出し、社会党議員に渡して国会で大問題になる「三矢事件」が起きた。この時の“窃盗犯”は出世したようだが、“被害者”である自衛官は処罰され、日本で有事研究はタブーとなった。
 私が空幕広報室長時代(当時・一佐)、庁内を闊歩する朝日の記者が、公務中の私の机上の文書に勝手に手を伸ばすので注意した。すると、記者は「一佐なんか飛ばしてやる!」と暴言を吐いた。われわれは、彼らをジャーナリストとして扱わざるを得なかったが、その正体は「インテリやくざ」に他ならなかった。
 朝日の慰安婦や「吉田調書」報道の“恩恵”にあずかってきたのは、世界各国で日本を貶める活動を続けている韓国や中国だろう。その大誤報について、朝日の木村伊量社長は先週11日(2014/09/11)夜、やっと記者会見を開き、謝罪したが、他国の誤解を解くための真剣な努力をしているようには見えない。これでは、真実を伝える報道機関ではなく、他国のために動く「工作機関」といわれても仕方がないのではないか。
 
 ■マスコミの横暴と傲慢 … [JAPANISM 26]より抜粋
 1993年の第40回衆議院総選挙でした。解散の原因は小渕、橋本、梶山のグループと小沢、羽田、渡辺の竹下派の内部分裂により衆議院が解散されました。
 当時テレビ朝日の取締役報道局長の、椿貞良が「何でもいいから、反自民の連立政権を成立させる手助けをしよう」と日本民間放送連盟の会合で発言したのです。民放は一斉に自民を悪代官、反自民を穏やかなキャラクターで比較する放送をしました。
 このことに対し衆議院が、椿貞良を証人喚問し、椿貞艮は偏向報道を行った事実を認めました。結果的にはテレビ朝日への行政指導で済みましが、放送免許の取り上げも検討されました。その後もテレビ朝日と自民党とは.対立を繰り返し、安倍総理や故中川氏が数度テレ朝に抗議しています。
 マスメディアの政治的中立は放送法により厳しく制限されているにも問わらず、偏向報道により、国民をだまし、世論誘導を行う典型的な事件でした。
 朝日新聞には、南京事件でっち上げの在日記者である「本田勝一」、沖縄サンゴ礁に自ら傷をつけた「本田嘉郎」、NHKに安倍・中川両氏が介入したとでっち上げの「本田雅和」がいます。この三人は、朝日新聞の三馬鹿ホンダで有名です。
 朝日筆頭に続く毎日・東京そしてその系列は、いつ頃からこのような反日体質そして中韓の手先とも思えるメディアに成り下がったのでしょうか? そもそも朝日新聞が、反日の筆頭そして売国とまで言われるようになった原因はどこにあるのでしょうか。(※戦前はゾルゲ事件でも明らかなように、朝日と言論界が彼に洗脳されていた。戦後はGHQと旧ソ連の配下になり、旧ソ連崩壊後はソ連が中国に代わった。⇒[GHQが日本史を歪めた]参照)
 あくまで一般的に言われていることですが、それは日中国交回復二年前のことです。何とかマスコミとして中共に食い込みたいと訪中団の一員として、当時の朝日新聞広岡知男社長がいました。帰国後も広岡社長は、文化大革命の礼賛記事を掲載しました。昭和45年4月のことです。その半年後の10月21日には、新聞協会主催研究会で中共政府の意向に沿った記事を書くことを公言しました。これにより文化大革命のときも、朝日新聞社だけが中共に支局を置けたのです。つまり朝日新聞は、毛沢東中共政府のスポークスマンであると言うことを内外に宣言したと受け止められました。
 文化大革命礼賛報道を垂れ流し、林彪失脚事件を最後まで否定しつづけて全マスコミ界の失笑を買ったことで有名な秋岡駐在員は、後に人民日報紙の日本における販売責任者を勤めています。同じく昭和56年〜59年北京特派員、その後論説委員になった横掘克巳氏は、定年退職後中共共産党の対外プロパガンダ出版物である日本版雑誌「人民中国」の編集者になっています。朝日新聞は人民日報と提携しています。人民日報とは、中共共産党中央委員会の機関紙です。中共共産党の「国営プロパガンダ機関」である「新華社」の日本支局は、朝日新聞東京本社の社屋内にありました。東亜日報は朝日新聞と同じ住所です。朝日新聞の秋岡家栄氏は、「人民日報」海外版の日本代理人にも就任しています。
 マスメディアの採用、特に朝日新聞から見て検証します。マスコミ特に朝日、公立学校の教師、自治労等公務員に何故左翼が多いのかというのには理由があります。
 さらに朝日・毎日そして山都のメディアには、在日採用枠の他に、中共・南朝群人採用枠もあります。中韓等の現地で採用しておいて日本に転勤してきます。それがテレ朝・TBS等のテレビ局にも移動します。朝日新聞、系列地方局も入れると朝日系列には、アバウトですが全体で三割近くの中共人や南朝鮮人(在日含む)がいると言われます。ですから偏向報道は当たり前なので
 朝日新聞の特徴を言うと、国益を大きく損なう反日・売国的な捏造・偏向報道が日常茶飯事です。控造が暴かれても開き直ります。在日朝鮮人の犯罪は通名報道をして本名を隠します。庶民を恐喝して新聞購読させようとする新聞勧誘配達員がいます。元社長の息子が犯罪者であり、朝日新聞社グループには大量の犯罪者がいます。
 自社の不祥事は無視あるいは小さくしか扱わないのに、他社・他人の不祥事は徹底的に叩きます。時々「保守」「反中共」であるかのような報道を少しだけしてごまかし、民主党を必死に応援します。
 1950年代には明らかにソ連寄り、共産主義国寄りで、朝鮮戦争も南から北への侵略と書いていました。朝日新聞は戦前・戦後通じて反英米派で親大陸派でした。
 戦前は、欧米列強からのアジア解放という名目での大陸重視をしていました。戦後は日米同盟重視の政策批判としての大陸重視ということが編集方針として存在しているのではないでしょうか。
 南朝鮮国内で、朝日新聞は日本で一番格調が高い新聞メディアだと認識されている面があります。植村隆南朝鮮特派員時代の平成3年8月11日の朝日新聞にて初めて慰安婦に関する記事を掲載してから、特に評価されています。
 ですからマスコミが事実だけを報道すると思ったら大間適いです。東日本大震災のときの東電によるお詫びコマーシャルがありました。各テレビ局は他のCMが無いときだけにとても助かりました。報道するにも東電に遠慮するのが当然です。東電の推薦の学者を使うのも当然なことなのです。
 皆さん、マスコミ報道をそのまま信用せず、様々な情報を集めて真実を見極めましょう。落ち着いて、常識で判断すれば必ず見えます。
 そんなマスメディアが扇動し、野党特に共産党は組織を挙げて安保関連法案つぶしに必死になっています。戦争法案なる言葉は福島みずほが言い出し、朝日・毎日が好んで使い、いかにも戦争するための法案だと国民を編そうとしています。民主党は直ぐにも徴兵制などと子供偏しの主張です。いまどきにわか集めの兵隊に戦争など無理です。無人機を使い爆弾攻撃そしてミサイル、地上戦などまず有り得ません。
 そんな単純な話に騙され日当を貰い集まってくるのが、SEALDsSなる組織です。どうも第二の民青(共産党の青年組織である民主青年同盟)ではないかとネットで暴かれています。6月末のSEALDsの渋谷デモを先導し指揮したのは民青の田中悠委員長でした。SEALDs設立メンバーの一人は特定秘密保護法反対の学生組織SASPLのメンバーでもある奥田愛基です。在日とも言われており、このデモに参加し共産党池内さおりとのツーショットはチマチョゴリ着る伊勢桃李でした。
 動員された若者が集まり安保法制反対の声を挙げていますが、主張は自己中心そのものの共産主義で、日本国のことなんか微塵も考えていません。組織増やしてもメンバー変わらない左翼の限界です。
 この若者を集める日当制は、べ平連が原点といわれています。夕方からの集会に参加すると1000円(約半世紀近く前のことです)、さらにアンパンとテトラパックの牛乳が付きました。この食事つきの集会をデートにしていたのがいとこ同士である菅直人夫妻の結婚前の姿です。赤軍派では女性の役割は革命成功のため男性の性処理が任務でした。まだ朝鮮人売春婦の方が報酬あるだけましです。
 日当と食事と性の捌け口がそろい、なんとなく体制に逆らうことがかっこいいと錯覚し、それに酔う若者を集めて抗議活動させています。ですからその中身は自己中そのもの、赤色への洗脳が簡単に進みます。共産党始め、極左の中核や草マルの「集客」手段です。
 戦争なんか行きたくないだろう?と問いかけられれば、そして餌もついてくれば当然嫌だとなります。男女交際の出会いの場という誘いをすることもあります。
 こんな活動をメディアは、二百人程度を主催者発表として数千人に膨らまし、いかにも多くの若者の意見のように取り上げ、敢えて戦争法案といいながら中共に恭順しているのです。
 のりこえネットだとかしばき隊、SEALDS等の組織には外国人つまり在日がメンバーにいます。外国人の日本の政治的判断に影響を及ばすような政治活動は、昭和53年10月4日の最高裁判決の「マクリーン事件」により禁じられており、判決で確定しています。このような在日の活動に閲し法務大臣は、在留更新不許可処分を行うことができます。そして当然このような活動は、公安警察の監視対象です。メンバー一人一人が把握され、ほとんどのメンバーの顔写真も振られています。
 昭和の30年代40年代の学生運動のように、左翼活動に参加した学生なりが一般企業に就職できることはまず有り得ません。最近は公務員人気も高まり、日教組という弊害の観点から、公務員についても思想調査が行われるようになってきています。こうした活動に参加すると、一生フリーターという将来が待っていることになります。日本で絶対に革命など起きませんし、絶対に起こさせません。それだけの諜報インテリジェンスがあります。
 
 スターリン、ルーズベルト大統領に乾杯!
 フーバーは、ソビエトが対米赤化工作を止めることなど全く考えていなかったことを論証している。当時のソ連外相・リトヴィノフは、自身のなした米国との約束に反発したアメリカ共産党幹部に対して、「心配無用だ。あんな調印文書は紙切れ同然だ。ソビエトとアメリカの外交関係の現実の中ですぐに忘れられる(※米国の内政に干渉しない、赤化工作しない等々)」(同前)と語っていたのである。
 アメリカと国交を結ぶことに成功したスターリンの喜びようは尋常ではなかった。初代駐ソ大使ウィリアム・ブリットがモスクワに現われると、スターリンは次のように言って歓迎した(一九三三年十二月)。
「ルーズベルト大統領に乾杯−・フィッシュ (ハミルトン・フィッシュ)などのうるさい連中の声を黙らせ、ソビエト連邦を承認してくれた大統領に乾杯!」
 アメリカがソビエトを承認したことで、各国がそれに追随したアメリカ国内にもソビエト政府の公的機関や民間組織が次々に設立された。それがアメリカ国内でのスパイ活動の温床となった
 フーバーが『裏切られた自由』の冒頭の部分でルーズベルトの「ソビエト承認事件」を取り上げたのは、アメリカがこの事件をきっかけに大きく左傾化していったからである。アメリカの左傾化は、ソビエトが国家承認をきっかけにダミーの工作機関を多数設立したことが要因ではあるが、アメリカ国内の知識人の多くが、それ以前に共産主義思想にかぶれていた事実もフーバーは見逃していない
 だから、ルーズベルトは日独伊を痛烈に批判し続けるが、共産主義革命を他国にへ伝搬させているソ連については、まったく批判していない。
 
  スターリン、三方面の秘密工作
 このレーニンの世界戦略を受け継いで具体的に秘密工作を仕掛けたのが、スターリンでした。エヴァンズ(米国の下ソ連エージェント)らは、スターリンが日米を開戦に追い込むために、複数の情報機関を使って日本、アメリカ、中国(蒋介石政権)の三方面で同時並行的に三つの大掛かりな工作を行ったと指摘しています。
  1. 【対日工作】ゾルゲ機関による政治工作。
     赤軍情報部の工作員リヒヤルト・ゾルゲが指揮する組織が、軍略上の日本の国策を「対ソ警戒の北進論」ではなく、「英米と対立する南進論」に誘導した。
     スターリンが送り込んだドイツ人のリヒヤルト・ゾルゲが、近衛内閣に大きな影響力を持つ朝日新聞記者の尾崎秀実を使い、日本の国策を南進論に誘導した。その結果、スターリンは独ソ戦のモスクワ防衛のために極東ソ連軍の師団を振り向けることができ、これが独ソ戦の勝利につながった。※また、官邸及び文壇をもソ連の支持寄りに誘導した。
  2. 【対米工作】情報機関NKVD(内務人民委員部の略称。KGBの前身)による「雪」作戦。
     NKVDの幹部ヴィタリー・パブロフの指示により、アメリカの財務次官補ハリー・デクスター・ホワイトが日米の和解を徹底的に妨害した。
     アメリカ国内では、NKVDのアメリカ担当部門のリーダー、ヴイタリー.パブロフの指示によって、アメリカ財務省のハリー・デクスター・ホワイトが日米戦争を回避する目的でハル国務長官の手で作成された日米暫定協定を潰し、代って強硬なハル・ノートを日本政府に突きつけることで、日本を対米開戦へと追い込んだ
  3. 【対中・対米工作】
     ソ連の工作員ラフリン・カリ一により蒋介石の顧問として送り込まれたオーウエン・ラティモアが日米交渉を妨害した。
     ホワイトハウスに潜入していたソ連工作員のラフリン・カリー大統領補佐官が、重慶国民党政府に蒋介石の顧問としてオーウエン・ラティモアを送った。ラティモアは日米和平交渉が成立する寸前、蒋介石のメッセージとして暫定協定案絶対反対の公電を送った。この公電を読んだハル国務長官は暫定協定構想を放棄し、代ってソ連の工作員であったハリー・デクスター・ホワイトがソ連の指示通りに書いた文案に従ってハル・ノートを作成し、日本に手交したハル・ノートによって日本は対米交渉に望みを失い、対米戦争に踏み切った
     
 エヴァンズらによると、これらの工作には二つの特徴があります。
 ひとつは国際的な連携です日米を開戦に追い込むために日米中の各拠点でのスターリンの秘密工作が協調して動いていました。これまでの冷戦史研究では、ソ連の秘密工作の国際的な側面が軽視されてきたために、敵対的な外国勢力が国内に与える影響力の認識が甘かったのです(ちなみに日本では今なお、マスコミや言論人に対する外国勢力の影響力工作について関心が低いと言わざるを得ません)。
 もう一つの特徴は、これらの工作が機密を盗むむスパイ活動ではなく、日米両国政府の政策を、ソ連に有利になるように影響力を行使する政治工作であったということです。政治工作は、政府、議会に加え、世論に大きな影響力を持つマスメディアなどに工作員を浸透させることによって行なわれます。しかも摘発しにくいのです。たとえば、兵器開発についての機密が盗まれるのと、政府が自国の防衛を骨抜きにする政策を進めるよう誘導されるのとではどちらが恐ろしいか、比べるまでもありません。


革命家としての尾崎秀実

 共産主義者で而も新しい政治感覚を持ち、客観状勢を歴史的に分析して、何をなすペきかを正確に判断し、大胆に精密に革命への戦略戦術を押し進めていつた尾崎秀実の智能とその才腕は、別の意味から言へば、レーニン以上の革命家であつたかも知れない。この尾崎の革命家としての存在を再び彼自身の言葉を借りて説明してみよう。

 筆者はコムミニストとしての尾崎秀実は、一人の思想家の独断で、八千万の同胞が八年間戦争の惨苦に泣き、数百万の人命を失ふことになった。革命家レーニンは、公然と敗戦革命を説き、暴力革命を宣言して闘つてゐる。尾崎はその思想と信念によし高く強烈なものをもつていたとしても、十幾年間その妻にすら語らず、これを深くその胸中に秘めて、何も知らぬ善良なる大衆を狩り立て、その善意にして自覚なき大衆の血と涙の中で、革命への謀略を推進して来たのだ。正義と人道の名に於て許し難き憤りと悲しみを感ぜざるを得ない。
 然らばこの革命家尾崎秀実が、その企画する敗戦革命の為に如何なる日本敗戦への謀略活動を行ったのかを解説しよう。


陸軍政治幕僚との握手

 先づ戦争の推進力たる軍部、就中、陸軍との関係であるが、満州事変以来陸軍の指導権を握って来た政治幕僚と、尾崎秀実との連繋握手が何時頃から出来てゐたかは断言し得ないが、第一次近衛内閣成立直後、即ち日華事変発生の前後から、軍務局の中心部と直接の関係を持つてゐたことは確である。第一次近衛内閣成立にあたり、風見章を書記官長に推したのは、当時の次官梅津の意を体した柴山軍務課長であり、その風見と尾崎とは、昭和研究会設立当時より親しい間柄であり、又、軍部と特別な関係を持つてゐた犬養健、更に犬養と影佐禎昭の関係、又其の後の尾崎、影佐、武藤章の関係に徴しても明らかである。


政府最上層部へ

 日華事変より太平洋戦争への最高政治指導部を構成して来た近衛内閣は、その成立と同時に彼のブレーントラストによつて、政治幕僚会議とも称すべき「朝飯会」をつくり、この会で政治情勢の分析判断、政策の討議などをやつて来たが、この幕僚会議のメンバーは、鳩山政道、平貞、佐々弘雄、笠信太郎、渡遽佐平、西園寺公一、尾崎秀実であり、後に松本重治、犬養健を加えて構成されてゐた。しかしてこの顔ぶれは尾崎が牛場、岸両秘書官と協議して選定したものだと尾崎自身が言つて居り、その思想的なヘゲモニーは尾崎秀実の手に握られてゐたものと見られる。右の他に第二次近衛内閣になつてから富田書記官長を中心とし、尾崎秀実、帆足計、和田耕作、犬養健、笠信太郎、松本重治などにより別の「朝飯会」を持ち、この二つの会合は並行して太平洋戦争開始直前迄続けられて居る。


官庁フラクション

 官庁フラクションとして最も注目すべきものは企画院グループであるが、この企画院グループは昭和十年五月、内閣調査局時代から始つており、そのメンバーは和田博雄、奥山貞二郎、正木千冬、八木澤幸次、勝間田清一、井口東輔、更に十二年五月から和田耕作、稲葉秀三、佐多忠隆、小澤正元、柴寛、大原豊、澤井武保、玉城肇、岡倉古志郎、川崎巳三郎、直井武夫等であり、殆んど共産党関係事件の思想前歴者で、尾崎と密接な関係を以ていたと見られる。和田耕作、小澤正元は尾崎の推薦によつて採用されたものであり、このグループ・メンバーが尾崎を招聘(しょうへい)して、その講演を聞く等一連の関係を持つていたことは事実である。


昭和研究会

 この昭和研究会には、蝋山政道、佐々弘雄、平貞蔵、風見章とともに、創立直後から関係しており、その主要メンバーは右の四名の他、尾崎秀実、和田耕作、大西、堀江邑一、橘、大山岩雄、溝口岩夫、増田豊彦、牛場友彦などのほか別に、企画院グループから勝間田清一、正木千冬、稲葉秀三、奥山貞二郎、佐多忠隆、和田耕作、小澤正元等が参加してゐた。


言論界

 別に述べる如く、日華事変より太平洋戦争への理論的指導をなして来た言論陣営の力は、頗る注目すべきものがあるが、その中心メンバーは尾崎秀実、細川嘉六、蝋山政道、堀江邑一、平貞、三木清、中西功、堀眞琴、八木澤善次、西園寺公一など尾崎を中心としたメンバーである。此等の人々が日華事変以来『中央公論』『改造』など言論機関の権威を中心として殆んど毎号執筆し、同一方向に同一傾向の思想と理論を展開して来た影響力は、日本のジャーナリズムの方向を決定したものと断じても過言ではない。


協力者、同伴者、ロボット

 ここで筆者は、以上の如きメンバーが、尾崎の意図する敗戦謀略活動に如何なる役割を演じたかに就き一言しなければならない。尾崎が真実のコムミニストであり、彼の意図する敗戦革命への謀略活動を知つてゐたものは同志であり、協力者であるが、たゞかれの優れた政治見識と、その進歩的理論に共鳴し、彼の真実の正体を知らずして同調した、同伴者的存在も多数あつたであらう。更に亦、全くのロボットとして利用された者もあつたであらう。


転向者の役割

 ここでもうーつ問題とすべきものに転向者の果した役割がある。昭和六年頃から一度検挙された共産党関係者で、その思想の転向者と見られる人物については、司法省に於ても、或は警視庁の特高部に於ても熱心に就職の斡旋をしたものである。そして、それらの連中は、官庁関係では嘱託名義で、調査部、研究室に就職し、民間の調査研究団体にも多数の転向者が就職してゐた筈である。更に又、軍部にも同様にその調査事務には相当数の転向者が入つていた。そこで問題となるのは、この転向者の思想傾向であるが、司法省、内務省で転向者として扱つたその「転向」の判定は天皇制の問題に重点がおかれており、天皇制否定の主張を訂正したものは転向者とみたのである。従って転向者の大部分が、実はその頭の中はマルクス主義であり、亦彼等は、秀才型が多く、進歩的分子を以て自認し、此等の人々が戦時国策の名に於てなした役割は軽視すべからざるものがある


何故成功したか

 謀略配置の問題に関連して、斯くの如き謀略が何故成功したかに付き一言しなければならない。
 その第一は、思想犯事件の内容を総て秘密にして来たことである。前編で述べた三月事件、十月事件を始め、共産党関係の事件にしても政府、軍部又は官憲の立場から発表することを好まない事件内容は、一切これを極秘扱ひとして来たのである。そこに認識に対する無智と、空白があり、意識せずして謀略に乗ぜられた条件があつた。
 第二は、政治家の無智であり、事件内容を秘密にして来たことと関連して、政治家は殆んど思想事件に無智であつた。といふよりもむしろ、無関心であつた。従つて自分の身辺間近まで、或は自分の腹中にその謀略の手が延びて来ても気付かなかつたのである。
 第三は役人の政治認識欠除であり、長い特高警察の経験を持つた者でも、政治経験を持たないが故に、取締りの立場からのみ見て、政治的な角度から指向きれる謀略活動に気が付かなかつた。又、事件として検挙された場合でも、その事件が共産党関係のものならば治安椎持法のケースにあてはめ、罪になるかならぬかにのみ捜査の重点を置き、又、尾崎・ゾルゲ事件の如くスパイ関係の事犯に対しては、国防保安法といふ法律の適用面からのみ、これを見る習慣があつたのである。
 なほ尾崎事件の場合は、東條と近衛との特殊関係から、司法部の検察活動にも特別の考慮が払はれたことを一言しておく必要がある。別に添付した資料に就て見ても、その謀略活動の面は極めて僅かしか出てこないが、これには特別な事情がある。即ち、尾崎が検挙されたのは第三次近衛内閣末期の十月十五日(十六年)であつたが、尾崎と特別の関係にあつた陸軍軍務局関係は、尾崎のこの事件の検挙に反対であり、とくに独逸大使館員であつたゾルゲとの関係において、陸軍は捜査打切りを要求したが、越えて十六日近衛内閣が総辞職し、東條内閣の出現となり、尾崎の取調べによつて近衛との密接なる関係が捜査線上に浮び出て来たことを知つた東條は、この事件によつて一挙に近衛を抹殺することを考へ、逆に徹底的な捜査を命じたのである。然し乍ら時は太平洋戦争開始直後であり、日本政治最上層部の責任者として重要な立場にあつた近衛及びその周辺の人物をこの事件によつて葬り去ることの如何に影響の大なるかを考へた検察当局は、その捜査の限界を、国防保安法の線のみに限定し、その謀略活動の面は、出来得る限り避けるペく苦心した事実を筆者は承知してゐる。(登録者:尚、陸軍はゾルゲ事件に関連していたが、組織改革などまったく行っていない。つまり、陸軍上層部は尾崎の路線を間違っているとは思っていなかったのだ。)
 既にかくの如く、軍部の中心部深く、左翼の政治謀略は喰ひ込んでゐたものと見ることが可能であり、したがつて、表面の政治的処理如何にかかはらず、軍部政治幕僚につぎ込まれた侵略戦争の理念的裏付けは、外部における輿論指導と呼応して東亜新秩序の建設、大東亜共栄圏確立へと発展して行つたのだ。


蒋政権の否認と長期戦への突入

 日華事変における、近衛内閣の不拡大、局地解決方針もついに、一片の声明として終り、翌十三年一月十六日、帝国政府の国民政府否認声明となり、かの有名な蒋介石政府相手とせずの方針となつた。この政府の方針は、日本歴史の上に極めて重要な意義を持つものであることはいふ迄もないが、この政府声明に呼応し、同月十九日付読売新聞夕刊一日一題欄に「長期戦の覚悟」と屈する三木清の論文があらはれたことは注目に値する。三木清が共産主義思想の把持者で、その為に彼は昭和十七年治安稚持法違反として検挙され、獄中死している。…
 茅野老と松本蔵次氏は居正天人との交渉で、日華和平の条件を取り付け、すぐ船の手配をして六月二十八日東京に着いた。着京と同時に茅野老は先づ板垣陸相に会つて、日華和平交渉の結果を報告し、日本側の態度決定を要求した。ところが板垣陸相の態度は前と全然変つており、板垣は「中国側に全然戦意なし、このままで押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で手を挙げる。日本側から停戦の声明を出したり、撤兵を約束する必要はなくなつた」といふ。そこで茅野老は「それはとんでもない話である。国民政府には七段構への長期抗戦の用意が出来てゐる。中国側に戦意なし、無条件で手を挙げるなどの情報は一体どこから出たのだ」とひらきなおつたところ、板垣は、「実は君の留守中に、松本重治が国民政府の高宗武をつれて来た。これは高宗武から直接聞いた意見で、中国側には全然戦意がなくなつた。無条件和平論が高まつており、この無条件和平の中心人 物は、元老汪兆銘だといふ話をして行つた。軍の幕僚遵もこの情報を借じてゐるから、君のとりきめた話は、折角だが、とりあげることは出来ない」といふのだ。
 この板垣の意見に憤慨し、且失望した茅野老は、早速近衛首相に会つて談判したところ、近衛も板垣と同様、松本重治と高宗武の情報を借用し、亦、軍の態度がそうなつた以上仕方がないといひ出した。
 丁度その頃、松本減次氏は大川周明、白鳥敏夫、後藤隆之助など近衛及陸軍と連絡ある連中に会つて話してみたが、何れも板垣、近衛と同様の意見で固つており、日本の政府及陸軍の、この強硬方針はどうにもならぬところへ来てしまつたことがわかつた。そこで松本城次氏は茅野老を東京に残したまゝ先発し、七月始め長崎から上海に船で行き、十日か十一日の夜、賈存得に会つて板垣、近衛の意見を率直に話し、東京の空気が一変したことを伝へた。すると賈は非常に驚いて、直ちに上海国民銀行六階に設けられてゐた秘密連絡所から、漢口政府に電報でこの旨を連絡した。すると漠口政府からすぐ返電して来たが、それによると、高宗武が東京から溝口政府に対し全く正反対に、日本側に戦意なし、中国が飽迄抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵するといふ秘密電報が入つていることがわかつた。つまり高宗武は日華双方に全く正反対の情報を送つて、切角ここまで進んで来た和平交渉を打ち壊してしまつたのである。高宗武が何故こんなことをやつたのか、彼自身の真意は不明であるが、後で述べるごとく、松本重治氏が同道して上京し、板垣、近衛に会はしてゐること、又この松本重治氏と尾崎秀実とは年来最も親しい間柄であつたこと(この点は彼の手記にも出てゐる)、更に同じブレーンのメンバーとして尾崎の思想的影響下にあつた西園寺公一、犬養健及江兆銘新政府のたて役者として登場する統制派幕僚の一人、影佐禎昭らとの連絡関係を掘り下げて分析してみるならば、この高宗武の背後に容易ならぬ遠謀深慮が潜んでいたことを窺ひ知ることが出来る。
 高宗武のこの奇怪なる行動を知つた漢口政府は直ちに彼の逮捕命令を発したが、ここから高宗武、松本重治、尾崎秀実、犬養健、西園寺公一、影佐禎昭一派の旺兆銘引出し工作に転じて行くのである。


長期全面戦争への政治攻勢

 ここで一度政界に眼を転じ、軍部の全面的長期戦体制が、政治の面に如何に現はれて来たかをながめてみよう。
 第一に、最も重要な意義をもつものは、昭和十三年春の議会に提案された国家総動員法と、電力国家管理法である。当時政界では日華事変の勃発を中心にして、大体二つの潮流があつた。一つは、自由主義的な立場から、感情的に軍の政治干渉に反対する一派と、一つは、この事変によつてかもし出きれた革新への動向に同調する一派とである。
 国家総動員法は戦争目的のために、国家の総力を動員するための体系的組織法であつて、それは長期全面戦争への準備体制であることは言ふまでもない。電力国家管理法もその部分の一つをなすもので、重要産業の基幹であり且戦時施設と密接な関係を持つ電力事業を先づ、軍部官僚の管理下におかんとしたものであるが、この二法案は軍部の政治力を背景とし、革新国策と銘打つて押し出された所に、筆者の言ふ論理の魔術性が含まれていたのである。この頃から企画院を中心とした商工、大蔵、農林、鉄道などの所謂革新官僚がはばをきかせ、資本と経営の分離などの理論がしきりに展開されだした。いわゆる民有国営論である
 筆者は、国家総動員法の特別委員として、直接その審議に参画した一員であるが、当時、陸軍の推進力によつて強引におしきられたこの総動員体制に反対したのは僅か、政友会の一部である自由主義者のグループと称された鳩山系の一派その他極めて少数のものであつたことを記憶してゐる。この法案が委員会で可決され、本会議に上提された時、討論に立つた牧野良三君は、本法は全権委任法であり、憲法の精神に反し、大権の干犯だと断じたが、このときから鳩山一郎の一派は自由主義者として軍部からにらまれるようになつたのだ。…
 東方会が電力管理案に反対すると、軍部の奴等は、中野正剛は電力費本家の代弁者だ。買収されて反対したといふに違ひないが、何と言はれてもかまわんから反対せよ、この電力管理案を出発点として、日本の政治も経済も、軍と官僚の手に握られ日本は大変なことになつてしまふ。絶対に反対せよといつた。
 ところが扱て議会に臨んでみると、革新国策と銘打たれ、当時のジャーナリズムもこれを進歩的国策の最初のこゝろみとして支持しており、社会大衆覚を始めとする革新陣営は全部賛成の立場をとつており、この法案に反対することが、あたかも反動的な立場にあるが如き雰囲気であつたため、我々もこの両法案に賛成したのである。今にして恩へばまことに不見識な話で慚愧に堪えない次第である。
 かくして、国家総動員法と電力管理法は成立し、政治の実権を軍部と官僚の手に握られてしまつた。政治家は西尾除名の実物教育の前におぢけ立ち、議会と政党の権威は急速度に失はれて行つた。
 尾崎秀実によれば「日本は社会体制の転換を以て、ソ連、支部と結び、別な角度から英米に対抗する体勢をとるペきであると考へました。この意味において日本は戦争の始めから、米英に抑圧されつつある南方諸民族の開放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考へたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己開放か、東亜新秩序創建の絶対要件であるといふことをしきりに主張しておりましたのは、かゝるふくみをこめてのことであります(ソ連への脅威を無くし、日本を米英戦へと導く)。この点は日本の国粋的南進主義者とも殆んど矛盾することなく主張されるのであります」といつている。
 又彼は、「日、ソ、支、三民族国家の緊密有効なる提携を中核として、更に、英、米、仏、蘭等から開放された印度、ビルマ、泰、蘭印、仏印、フィリッピン等の諸民族を各々一個の民族共同体として、前述の三中核と、政治的、経済的、文化的に緊密なる提携に入るのであります。この場合各々の民族共同体が、最初から共産主義国家を形成することは必ずしも条件でなく、過渡的には、その民族の独立と、東亜的互助連環に最も都合よき政治形態を一応自ら選び得るのであります、尚この東亜新秩序社会に於ては、前記の東亜民族の他に、蒙古民族共同体、回教民族共同体、朝鮮民族共同体、満州民族共同体等が参加することが考へられるのであります
 申す迄もなく、東亜新秩序社会は当然世界新秩序の一環をなすものでありますから、世界新秩序完成の方向と、東亜新秩序の形態とが相矛盾するものであつてはならないことは当然であります」と言つている。
 要するに、尾崎の東亜新秩序とは、アジア共産主義社会の実現を意味し、世界共産主義社会完成の方向と矛盾してはならないのである。この目的達成の為には、日本や独逸が簡単に敗れ去ることは好ましいことでなく、亦日本と蒋政権と和平して、日華事変に終止符をうつことも困ることであり、日本帝国主義と蒋介石軍閥政権と更にアメリカ帝国主義、イギリス帝国主義が徹底的に長期全面戦争を戦ひ抜かねば都合が惑いのである。この尾崎の構想をもつて日華事変の通行を判断すれば、日本政府と重慶政府との和平を成立せしめないために何等かの手を打つことが必要であり、その為の手段として考へられたものが江兆銘の新政権樹立工作と見るぺきである。即ち日本政府及軍部と一体不可分の関係に立ち、新政権を作り上げることにより、旺兆銘を敵国通謀者とし、反逆者として逮捕命令を発した重慶政府との和平交渉を永久に速断する楔を打ち込んだものであり、日本政府と旺兆銘政権が、共同防共を闘争目標として掲げたことは、国共合作の上に立つ重慶政府を対照とした苦肉の策と見るべきである。この尾崎をよき相談相手としてその意見を徹し、彼の構想の上に作られた南京政府が如何なる性質のものであるかは説明を要しないであろう
 この謀略の犠牲となつた江兆銘は、昭和十九年十一月十日、名古屋帝大病院で淋しく死んで行つた。彼もまた近衛と同じように見えざる影の糸にあやつられて悲劇の主役を演じたロボットだつたのである。
 こゝで興味深いことは、同じ十二月号の『日本評論』に、当時陸軍省報道部長の地位にあつた佐藤賢了大佐が、同じ「東亜協同体の結成」なる表題を用ひて一文を寄せてゐることである。その要旨は蒋介石政権を相手とせず、新興政権の成立発展を助けて、更生支部建設に協力することが今次事変解決の終局の目的であるといひ、その更生新支那とは、現在の支那から欧米依存、容共抗日の思想を除して、日満支三国が真に提携共助し得る支那の姿である。その為には久しい間支那に加へられて来た西洋の政治的経済的侵略、圧迫、搾取をとり除いて、東亜協同体を結成することが必要であるといひ、そしてそのためには、政治、経済、行政の各部門に亘つて大改革が必要であり、総動員法の全面的発動が必然であると述べてゐる。
 尾崎秀実のこの論文は十二月二十二日の近衛声明を引用して、この声明こそ新秩序がおびる最高の政治的宣言が示されたもので、それは正しく東亜協同体的相観を示したものだといひ、東亜協同体の理念が事変に対処すべき日本の根本方策の不可欠の重点となつたと主張し、「一身をなげうつて国家の犠牲となつた人々は絶対に何等かの代償を要求して、尊い血を流したのではないと確信する。東亜に終局的平和をもたらすペき、東亜に於る新秩序の人柱となることは、この人々の望むところであるに違ひない」と断じてゐる。更に彼は、この事変処理方式を推進する為には、政治的には全国民的統一の政治形態と、経済組織の再編成が不可欠の条件だと論じてゐる。加えて、東亜の客観的立場から南進政策の必然性を論じ、東亜協同体組織の歴史的意義を述べ、結局東亜政局は極東に於ける英、米、仏自由主義国と、日、独、伊反共国家群との衝突によつて新しい展開が予想されるといつている。
 以上近衛新秩序声明以来、近衛の最高政治幕僚と見倣されたメンバーの面々が、筆をそろへて論陣を張り、東亜新秩序の歴史的意義を強調し、東亜協同体の理論体系を展開し、汪兆銘新政権樹立に最大の期待をかけ、日本ジャーナリズムを総動員して輿論と国民の目を此の方向に指導し来たつたことは大きな力である。然も此等の諸論文を深くあじわつて読む時、尾崎がその手記において明らかにした東亜共産主義社会実現への構想と思想的に相通ずるもののあることを見逃すことが出来ない。
 ※三国同盟について陛下のお考え(昭和十五年)
 たとえば、時の首相近衛に天皇はいっている。
「この条約のため、アメリカは日本にたいして、すぐにも石油やくず鉄の輸出を停止してくるかもしれない。そうなったら日本はどうなるか。この後長年月にわたって、大変な苦境と暗黒のうちにおかれるかもしれない」
 あるいはまた、こうもいった。
「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」
 また駐日アメリカ大便グルーの日記に興味深い記事がある。
「天皇と近衛公は、二人とも三国同盟に絶対反対だった。しかし天皇が拒絶した場合、皇室が危うくなるかもしれぬと告げるものがあり、天皇は、近衛公に“死なばもろともだね”と話されたという。この話は皇族の一人から間接に伝わってきたものだ」


近衛新体制から太平洋戦争へ:何の為の新体制か

 近衛を引張り出して、日華事変から全面戦争への主役を演ぜしめることが、軍閥政治軍人の秘かに計画した最も重要なテーマであつたことは既に述べた。この点は尾崎の構想する共産主義革命への謀略コースの中にも同じ近衛が最も利用し易い、亦最も利用価値の高い人物として措かれたに違ひない。政治軍人の謀略的立場から言へば、近衛は、当代第一の声望家で、然も宮中方面に絶大な信用があり、彼を表面におしたてることにより政界、財界、官界、言論界何れも思ふままになることを計算したであろうし、左翼の革命謀略の立場から言えば、近衛の進歩的な時代感覚と左翼思想への同情と理解が見逃し難い魅力であつたに違ひない。この点に閲し、近衛の政治幕僚の一員であった風見章氏は、『文芸春秋』二十四年十方「近衛文麿氏をめぐりて」の回想録の中で、「左翼思想への同情」といふ一項をもうけ、「近衛氏は、左翼思想にはその運動にも深い理解と同情をもつてゐた。それの弾圧には、こころよしとしてゐなかつた。第一次内閣で馬場氏が内務大臣をしてゐた当時である。人民戦線弾圧の噂が伝へ出した頃、確か私が使にたつたように記憶するが、近衛氏の意向として馬場氏に、みだりに弾圧しないで欲しい。ことに人民戦線派なるものは、弾圧する程のこともないようだから、それを問題にするのはやめた方がよかろうと云ひに行つたことがある」と言つてゐる。
 後に至つて(昭和十八年の春)筆者が近衛に会つた時、何故新党計画を変更して、あのような翼賛会を作つたのかと言ふ話を持ち出したところ、近衛は「何故あんなことになつてしまつたのか自分でもよくわからない。たゞ自分が枢密院議長を辞めて、裸のままで予定通り新党組織に乗り出していたら別な政党が出来ていただらうと思ふが、枢密院を辞めて、新党工作を始めたとたん、また否応なしに内閣に引つ張り出され、内閣を作つてみると、野にある場合と立場が違ひ、誰はいかぬ、彼は嫌ひだといふことも出来ず、結局何時の間にか皆でよつてたかつてあんなことにしてしまつた。又実際権力を握つている陸軍や、内務省が、こうするのだといつて、ちやんと案を作つて来た場合、誰もそれはいかぬと抑へるだけの勇気と力を持つている者がなく、結局何時の間にかあんなことになつてしまつた。この軍部と、官僚に実権を握られた翼賛会を何とかする道はないものか」といつたことがある。
 近衛は聡明で、ものわかりがよく、話は聞き上手で、誰の詰もよく聞いたが、その話や意見の背後に何がひそんでいたかを結局見破ることが出来なかつたのであろう(⇒[近衛上奏文]参照)。


独ソ開戦とシペリヤ傾斜論ゾルゲの使命

 日本の陸軍は元来大陸作戦をもつて建軍の本義として居り、日露戦争以来その戦略配置は対ソ戦に重点を置き、殊に満州事変以来は関東軍が軍略、政略雷で陸軍の根幹をなして居つた。その陸軍が本来の作戦基地を捨ててなぜ南方に行つたか、これは重要な問題である。
 松岡外相が日独伊同盟締結の余勢をかつて独伊を訪れ、帰途モスクワに立寄つて、日ソ中立条約を締結した真意は遂に永久に不明である。しかしながら、歴史の客観的現実は、ソ連に後方の憂ひを無からしめ、対独戦の勝利に貢献したことだけは、厳然たる事実である。その政治的価値は小さいであらうが、尾崎秀実と最も親しかつた西園寺公一が、松岡外相就任と同時にその政務嘱託となり、訪欧の旅に同行したことも何等かの意義なしとしない。
「独ソ戦の勃発は我々の立場からは極めて遺憾なことであります」
「私達は世界大同を目指すものでありまして、国家的対立を解消して世界共産主義社会の実現を目指してゐるのであります。従つて我々がソ連を尊謁するのは以上の如き世界革命実現の現実過程に於て、ソ連の占めてゐる地位を意義あるものとしての前進の一里塚として、少くとも此の陣地を死守しようと考へてゐるのであります。」と言つてゐる尾崎秀実は、この独ソ戦の開始に当つていかなる態度を取つたであらうか。この間題は極めて重要であるが、遺憾ながら筆者は正確な資料を持たない。たゞ彼が、日本がソ連の背後を突く危険を感じ、軍部、政府の要路に対して頻りに説いたシベリヤ傾斜論なるものがある。この間題について、彼は検事調書の中で、下記の3点を挙げて、ソ連に対する攻撃の無意味なることを強調したのであります。
  1. 元来シベリヤは独立して立ち得る地域ではない。欧露に依つてのみ支配さるぺきもので、従つて日本がシペリヤを領有して見ても欧露に強い政権が出来れば、シベリヤはその政権に支配されるであらうこと。
  2. 資源の関係から見ても日本が現在必要とする石油、ゴムの如きはシベリヤには無く、此の点からすれば日本に取つては寧ろ南方進出こそ意味があること。
  3. 現在の日本としてはソ連の内部的崩壊が到来すれば、極東ソ領は武力を用ひずして支配下に収め得るので殊更武力を用ふるの必要を認めないこと。
 このシベリヤ傾斜論が果して軍部及政府をして南進断行を決意せしめる動機になつたか否かは立証する途がない。しかしながら、日本の政府及軍部がいよいよ南進を決定し廟議またこれを裁定したとき、尾崎からこの報告を受けたゾルゲは、モスクワのコミンテルン本部に対し「日本に於ける任務は終つたから帰国しようと思うが如何」という電報を打つたと言うことを筆者は聞いてゐる。日本を対米英戦に追い込めば、たしかに任務は終つたのだ



四、太平洋戦争より敗戦革命へ

 対米英戦争は遂に開始された。軍部と政府は一切の組織と機関を総動員して、聖戦完遂、世界新秩序への戦争を飽く迄戦ひ抜けと叫び続け、ジャーナリズムは又、最大限の表現を用ひて戦争への昂奮をあほり続けた。だが然し、その裏面に何があつたか、この間題は既に屡々述べて来たが、筆者は敗戦への筋書を更に明らかにする為に、もう一度尾崎秀実の前掲『改造』十一月所載の論文と、彼の手記によつて、この戦争の表と裏を検討してみよう。
 先づ彼が、今次の大戦は「世界史的転換期の戦ひ」だといつたのは、世界資本主義体制から世界共産主義社会への転換の為の戦ひだといふ意味である。だから彼は「この戦争は世界旧秩序即ち米英資本主義体制に逆戻りする可能性はない」と言ふのであり「戦争はやがて軍事的段階から社会、経済的段階に移行する」といふのは、敗戦、内乱、資本主義の自己崩壊から、共産主義革命へ、そして社会主義経済体制建設闘争に移行するという意味であり、「支那問題は、世最争の最終的解決の日までかたつき得ない性質のものだ」といふのは、武力戦争の段階が、社会、経済革命の段階に入り、アジア共産主義革命が具体的に日程にのぼるまではそのままだといふことである。そして彼がこの戦争は「世界最終撃だといつたのは、この戦争で世界の資本主義制度が総決算となり、レーニンの言つた如く、資本主義そのものがなくなるから、従つて戦争も、この戦争が最終の戦争となると言う意味である。([スターリンの実像][ヤルタ密約文書 と 無効])
 そこで、この尾崎が、未だ対米英戦争が始つてゐない十月に書いた『改造』の論文は、その含蓄するところ、手記の内容とピッタリ合ふのであるが、問題は「この戦争は必ず負ける」ことを承知の上で対米英戦争に追込み、日本の政治指導者は国民を率ひて第二次世界戦を戦ひ切れ、勝ち抜けるといふ大きな目標に沿つて動揺するなかれ、日米外交交渉もこの対米英戦に勝ち抜けるといふ確信を以て、その戦略的な一経過として役立たしめよ、「この戦争を戦ひ抜く為に、国民を領導することが戦国政治家の任務だ」と言う全く表裏、正反対の意味を持つ惨酷な主張を何と解釈するかの点であるが此の点は、彼の徹底せる革命家の本質を如実に示したもので、彼のプログラムから言へば、革命への結論の出るまで戦争をやめるなといふことであり、それはレーニンの言ふ「有望な革命の前途を打ち壊すやうな中途半端な平和や、戦争打切りは革命の為に最も有害だ」といふことである。


敗戦コースヘ邁進

 かくして、敗戦革命への謀略は完全にレールに乗つた。その後に為すペきことはこのレールから脱線せしめないこと、即ち戦争を中途半端で中止させないこと、「政治指導者は日本国民を率いて第二次世界戦を戦ひ切る」ことであり「勝ち抜けるという大きな目標に沿つて動揺することなからんこと」であり「この最終戦を戦ひ抜くために国民を領導することこそ今日以後の戦国政治家の任務」となつたのだ。
 そのために選ばれた軍閥のチャンピオン東條内閣はどんな手を打つて行つたであらうか。国民は骨身にこたへて承知してゐるから表面の出来ごとは多く説明を要しないであらう。以下、対米英戦開始以後、この戦争を中途半端で止めないために、戦国政治家が打ち込んで行つた戦争政治の楔のみをあげてみよう。
 言論結社禁止法の制定
太平洋戦争開始値後に開かれた臨時議会(十六年十二月)に、先づ「言論出版集会結社等臨時取締法」なるものを提案し一夜のうちに成立せしめた。この法律は、築会、結社を全部政府の許可制とし軍部、政府、官僚に都合の惑い演説会や、結社(政党、思想団体)は一切許可しないこととした。また「人心惑乱罪」といふ罪の規定を設けて、政府の政策や方針を攻撃したり批判したり、軍部や官僚の悪口を冨つた場合は厳重に処分きれることとした。つまり戦争反対や政府攻撃の出来ない建前となし、戦時中不平不満を述べることは非国民であり、国賊だと言うことになる。
 翼賛選挙−東條ワンマン政党の出現
 十七年四月の衆議院議員総選挙に、翼賛選挙と称する官製推薦選挙を行ひ、その結果「翼賛政治会」と称する政警つくつた。そして、前に述べた言論結社禁止法で、この翼賛政治会以外の政党は全部解散させてしまつた。かくて議会は完全に東條内閣の御用機関となり、議会の中でも政府攻撃や戦争批判をなす政党を無くしてしまつた。
 戦時刑法改正−東條幕府法
 十八年二月の国会で戦時刑事特別法を改正して内閣を倒す計画や運動をしたものは厳罰に処することとした。また軍部や政府の攻撃をすると「国政変乱罪」といふ罪で罰せられる規定姦けた。これで東條内閣は「法律の防弾チョッキ」を着たわけで完全に独裁制の幕府政治がやれることになつた。
 これで、おしまいである。尾崎の立てたプログラム通り、日本の戦国政治家は、此の世界史転換の大戦争を勝ち抜けると確信? して国民を率い、戦ひ抜いた。そして彼のプログラム通り敗戦コースを驀進したのである。筆者は、言論結社法にも推薦選挙にも、戦刑法にも反対し、弾圧覚悟で東條内閣打倒運動をやつた一人であるが、五人や十人の力ではどうにもならず、結局捕へられて巣鴨に送られただけであつた。そして、東條の強敵中野正剛も遂に憲兵隊に捕へられ腹を切つてしまつた。
 敗戦経済と企画院事件
 敗戦革命のプログラムに関連して更に一言触れておきたいことは、戦争経済と企画院事件の思想的背壊である。
 この間題についても、既にしばしば触れたから多くの説明を要しないが、企画院事件の記録を調べてみると、昭和十年五月内閣調査局設立当時「民間有能な人材」として採用された高等官職員(今の二級官)の中に既に共産主義思想の前歴者があり、昭和十二年企画庁、企画院に改組された際、更に多数の共産主義分子が流入して「高等官グループ」「判任官グループ」などの組織をつくり、満州事変以来朝野に昂つて来た「国家の革新」「現状打破」「戦時体制の確立」などの時代的風潮に乗じ、コミンテルン第七回大会の決議「人民戦線戦術」に戦術的基礎を置き、「官吏たる身分を利用し重要なる国家事務を通じて共産主義の実現を図るペく相協力して活動し、従来極左的非合法運動に終始せる我国共産主義運動を現実の情勢に即した合法場面の運動に戦術的転換をなしたもの」で、その特質は、「日本共産党を中軸とする下からの革命運動との関連において、当面の国家的要請を利用する『上からの変革』即ち国家の要請する革新に名を籍りて、共産主義社会の実現に必要なる社会主義的社会体制の基礎を確立すべき諸方策を先づ国策の上に実現せしめ、もつて国家の自己崩壊を促進すべく企図したもの」となつてゐる。(資料篇企画院事件記録参照)
 そして、このグループの中心人物は和田博雄、正木千冬、勝間田清一、稲葉秀三、小澤正元等であつたが、ここに注目すべきことは、立派な学歴を持ち、優れた才能を有する人物が、判任官又は判任官待遇の地位に甘んじて企画院に入つてゐたことである。
 尚ほ企画院には、このグループの外に、もう一つの「革新官僚のグループ」があつた。これは陸軍の武藤章、池田純久、秋永月三、沼田他稼蔵に直結するもので、先に述べた「戦争五十年計画」をその年度割に従つて時の政府の政策として実施せしめた一派で、迫水久常(大蔵系)、美濃部洋二(商工系)、奥村(逓信系)、相原兵太郎(鉄道系)を中心とし、商工、大蔵、逓信、内務などの官僚と密接に繋つてゐたものである。
 昭和十五年七月第二次近衛内閣の出現により政治新体制、経済新体制問題が政府の重要政策として取上げられた頃、筆者は、これらの革新官僚としばく席を同じうし所謂経済新体制問題を論議したことがある。その際筆者は重要なことを発見した。
「このような官僚独善の統制経済を強行すれば、経済機構の根本がくずれて生産力は逆に減退する。生産拡充の目的と反対の結果を生ずるのではないか!」
「現在のような資本主義経済組織では絶対に駄目だ、長期戦に備へるためには、資本主義的な営利経済機構を根本的に改めて、本格的な戦時計画経済体制をつくる必要がある!」
「経済機構の根本的改変によつて、時間的に空間的に「生産力減退」と言ふ空白が出来るじゃないか!」
「それはやむを得ん……戦争は長期戦だ、百年戦争になるかも知れない!」
「戦争はいまやつてゐるのだ、現在の生産力が減退することは、現在の戦争に敗ける結果となるじやないか……」
「戦争の将来は長い……一年や二年の時間的空白は止むを得ない犠牲だ!」
 およそ、このような問答を幾度もしたことがある。そこで筆者は昭和十六年二月十五日衆議院の治安維持法改正委員会で「結果の認識と目的罪の成立」と言う刑法学上のテーマを取上げ、戦時経済の実権を撞つてゐる革新官僚が、この統制経済(計画経済)を実施すれば、少くとも一時的には経済機構の混乱を来し戦時生産力の面に時間的に空間的に空自の生ずることを認識し、而してこれを強行することは、その生産力減退による敗戦の結果をも認識するものであり、治安維持法に「国体変革」の目的罪が成立することとなると言う論理を持ち出し司法省政府委員と論議したことがある。
 また別の「革新官僚のグループ」が主観的にどんな風想を持つてゐたかをたしかめる途がないが、資料に加へた「国防国家の綱領」から見ても、ナチ的なファッシズム的表現形式は取つてゐるが、理念的な裏づけにはマルキシズム経済理論の思想体系が流れ込んでゐることは否定し得ない。
 更にもう一点つけ加へたいことは、戦時中これらの「進歩的革新官僚」によつて頻りに唱へられた「営利主義、自由主義の否定」である。
「この戦時下に、自由主義的な営利主義を考へたり、個人主義的な自由経済を考へるものは国賊だ。一切を挙げて国家に奉仕せよ、戦場の将兵を恩へ……」と言つた調子のお説教である。そして遂に「産業奉還論」まで飛び出した。我が忠勇なる将兵は、戦場で国家に生命を捧げてゐる。資本家財閥はその生産梅を国家に奉還せよと言ふのだ。

かくして敗戦へ

 以上述べて来たごとく日本の敗戦は最初からプログラムの中に書き入れてあつたのだ。だがこの正確な筋書を知つてゐたものは極めて少数の、おそらくは数名乃至十数名のものに限られてゐたであらう。同じ日本の革命乃至改造を目的としてゐたとしても、青年将校の中から生れた革命思想は飽くまでもファッシズム革命で、それは天皇の下に国家至上主義と一君万民の平等主義に立脚した倫理的正義観に発足したものであつた。したがつて一部の論者が言う如く、軍閥政治軍人が客観的には容共派であつたとしても、主観的には敗戦主義を肯定してゐたのではなく、飽くまでも「戦争に勝つこと」「勝てること」を信じてゐたものと見るべきである。さうでなければ、敗戦革命の筋書を書く場合、この政治軍人を謀略の対象とすることは危険なのである。「勝てる」と信じ「天皇革命」が可能だと信じてゐるところに利用価値があつたのだ。したがつて彼等は敗戦革命への協力者であつたが同志ではない。また近衛周辺の所謂進歩的理論家が敗戦謀略の同志だつたとも思はれない。彼等もまた政治軍人と同様にその進歩的思想家、学者の自意識のために、意識せずして敗戦革命への巧妙なる謀略戦術に利用された「意識せざる」協力的同伴者となつたものであらう。企画院の革新官僚、人民戦線フラクション、昭和研究会の進歩的理論家にしても同様なことが言へるであらう。だが、しかし、歴史的現実の客観は、飽くまでも共同の責任である。知らなかつたとか、そんなつもりではなかつたとかの言葉で済まされるような生やさしい問題ではない。八千万国民の苦痛だけではなく、東亜全民衆に、更に米、英その他善意なる世界の人類にも過害を及ぼした世界史的な重大問題である。
 後段の共産主義革命実現への新しい幕が開かれたのであるが、最初のプログラムと現実の進行過程に二つの大きな変更が加えられたことを一言しておかなければならない。
 第一の点は、革命の時期である。最初のプログラムは、大体十九年の暮頃か、二十年の春頃ソ連及中共と連繋、協力を得て敗戦の泥沼にあえぐ前線の兵士をプロレタリア同盟軍の武装に置き換へ、国内プロレタリアートと結合せしめて敵前転回を敢行し、−九−七年三月−十月の革命に持つて行く計画であつたにちがいない。そして若し客観的主体的条件がそれを可能ならしめないときは最後まで戦争を追ひ込み、敗戦の混乱に乗じて毎に先づブルジョア民主革命を断行する。即ちブルジョア封建政府を打ち壊して民主主義革命をやる。そして共産主義革命に移る計画−であつたであらう。
 ところが、この筋書の作者兼噴出者が十六年十月捕へられて巣鴨に行つてしまつた。
 次に第二の点は、プログラムに無かつた米英軍が日本本土に上陸して釆たことだ。
 右の如き二つの重要な点に変更が加へられた。さて、しからばどうするか。
 第一、ブルジョア民主主義革命が現実の日程に上つたのだから、この民主主義革命の過程に於て、プロレタリア共産主義革命即ちプロレタリア独裁政権樹立への障害物を出来るだけ速かに取除く、即ち(一)ブルジョア政府の権力的支柱の打倒、(二)政界、財界、官界などから革命の防波堤となり得る一切の条件と勢力の一掃、(三)労農革命への主体的条件の整備、即ち共産党を主体勢力とした


民主人民戦線の結成

 第二、革命への客観的、主体的条件成熟と同時に一挙にプロレタリア革命に突入する。ただし、これは必ずしも武装蜂起の暴力革命のみを意味しない。客観条件の正確なる分析判断に従つて戦術的に決定する
 新しい歴史への日、八月十五日 ── この日を以て此の闇黒時代への回顧をおわる。
 国民は人民は1プログラムの後段の途を選ぶか、れた来たくらやみの途に憤激し、覚醒して、別の新しい、それとも、二十年間眼かくしされて歩かさ明るい、自由な道を選ぶか、それは、自由な人間に与へられた基本的権利だ


 ■岸信介元首相のあとがき
「シナ事変を長期化させ、日支和平の目を潰し、日本をして対ソ戦略から、対米英仏欄の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を惹き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルン(国際共産主義者)であり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者尾崎秀実(※独大使ゾルゲと米国人共産主義者)であった。近衛文麿、東條英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、シナ事変から大東亜戦争を指導した我々は、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。
 私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人は、スターリンでなければならない。然るに、このスターリンの部下が、東京裁判の検事となり、判事を務めたのだから、誠に茶番という他ない。
 共産主義が如何に右翼・軍部を自家薬籠中のものにしたかがよく判る。なぜそれが出来たのか、誰しも疑問に思うところであろう。しかし、考えてみれば、本来この両者(右翼も左翼も)はともに全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当時、戦争遂行のために軍部が執った政治は、将に一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法→生産統制→配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制と類似している。ここに、先述の疑問を解く鍵があるように思われる。
 国際共産主義の目的は、大東亜戦争終結以降は筋書き通りに行かず、日本の共産化は実らなかったものの、国際共産主義の世界赤化戦略だけは、戦前から今日まで一貫して、絶え間なく続いていることを知らねばならない。
 これを食い止めるには、自由主義体制を執るすべての国家が連帯して、自由と民主主義をガッチリと守り、敵の一党独裁・計画経済に対するに、複数政党・市場経済社会を死守することである。私は、私自身の反省を込めて、以上のことを強調したい。またこのショッキングな本が、もっともっと多くの人々に読まれることを心から望む次第である。」



昭和上皇様の苦悩

 今から回顧すると、最初の私の考は正しかつた。陸海軍の兵力の極度に弱つた終戦の時に於てすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起つた位だから、若し開戦の閣議決定に対し私が「ベトー(君主が大権をもって拒否または拒絶すること)」を行つたとしたらば、一体どうなつたであらうか。
 日本が多年錬成を積んだ陸海軍の精鋭を持ち乍らいよいよとと云ふ時に許さぬとしたらば、時のたつにつれて、段々と石油は無くなつて、艦隊は動けなくなる、人造石油を作つて之に補給しよとすれば、日本の産業を殆んど、全部その犠牲とせねばならぬ、それでは国は亡びる、かくなつてから、無理注文をつけられては、それでは国が亡びる、かくなつてからは、無理注文をつけられて無条件降伏となる。
 開戦当時に於る日本の将来の見透しは、斯くの如き有様であつたのだから、私が若し開戦の決定に対して「ベトー」したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつたであらうと思ふ。(昭和天皇の独白録より)



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