近衛文麿の戦争責任



              ⇒『コミッテルンの陰謀と日本の敗戦』の抜粋へ
              ⇒『日本よ何処へ行く ソルジェニーツイン』の抜粋へ

 『近衛文麿の戦争責任』、著書の中川八洋氏は、近衛氏は優柔不断で争乱に巻き込まれた悲劇の人ではなく、確信犯だと述べています。 
 ルーズベルトは反日・親中で、内閣はコミッテルンに囲まれていた。同じく、近衛内閣もゾルゲ・尾崎を始めコミッテルンに囲まれていました。
 ルーズベルトの戦争責任は、米国の保守派が堂々と論じています。しかし、近衛は尾崎と組んで、日本を敗戦革命へと導いた確信犯だということは、本書以外では報じられていません。つまり、近衛は日本のルーズベルトだったんです。のみならず、神々が守護されてきた皇室さえも滅ぼそうとしたのです。だから、近衛内閣も、ルーズベルト内閣も、同じ共産主義政権だったのです。(⇒ルーズベルトの罪状 ⇒スターリンの米国工作 ⇒大東亜戦争と共産主義)
 満州国により、日本はソ連との緩衝地帯を得ていた。しかし、ソ連は強力な日本軍と国境を接した事で、直接の軍事的脅威を受けていた。だから、ソ連は日本と中国への工作を本格化しました。
 ドイツが独ソ条約を無視して、ソ連に侵攻した時、日本は共産主義の脅威からも北進すべきで、南進する必要はありませんでした。南進して米英蘭と事を構える事は、ソ連を助ける為でした。
 そして、米英の支援する蒋介石軍と戦争をするのも日本軍の北進を妨げ、毛沢東の共産党を支援し、加えて、日本軍の軍事力を削ぎ、経済的な苦境を増大させる為でした。これらを決めたのは、近衛内閣でした。
 尾崎と近衛は、中国と日本を共産化し、ソ連・中国・日本で、大東亜を共産化することを目的としていたんです。彼らにとっての大東亜新秩序とは、東條英機の大東亜共栄圏構想を嘲笑うかのように、皇室を滅ぼす事と同じ共産化でした。日本は共産化から救われましたが、東南アジアは共産化されてしまいました。
 同じく、ハルの原案である穏便なハルノートを書き換えたホワイトは共産主義者で、ルーズベルトと一緒に日本を戦争に巻き込む事で、ドイツを叩き、軍事的にもソ連を援護しました。そして、英国の軍事力をそいで、北欧と欧州を共産化する事を工作してました。事実、東欧諸国は、米国の資金・軍事支援を受けたソ連により軍事的に共産化されてしまいました。
 日本が「日本を取り戻す」の中には、中国を蒋介石政権に戻す事も含まれていると、中川氏は主張しています。そして、なにより、近衛内閣がコミッテルンの工作を実施した結果、米英との戦争を固く禁じられていた昭和天皇の聖断をも覆し、大東亜を共産革命へと巻き込んでしまった。だからこそ、現在の日本において、中国や南北朝鮮からの工作を見抜き、目と耳を塞ぎ、朝日・NHK・毎日などの反日・左翼団体の嘘と捏造と情報統制による日本滅亡を阻止しなければ、「日本を取り戻す」事は出来ないと思います。事実、朝日とNHKが嘘と捏造で情報統制したモリカケによる安倍内閣倒閣運動、なにより、近衛内閣時代や民主党政権時代の日本の苦しみを忘れてはならないと思います。
 最後に、昭和天皇は何よりも英米との戦争を回避すべく努力され、敗戦の御政断により、陛下を崇敬する日本人は日本民族と日本文明を共に救いました。
 軍部も、内閣も、論壇も、コミッテルンの工作に牛耳られ、これを鵜呑みにしていた日本人も多かった。しかし、昭和天皇に信義を尽くした日本人だけが正しい選択を行う事が出来た。これが天皇制の核心だと思います。つまり、君臣一体の統治とは、大司祭である陛下と日本人との信義という絆だと云う事です。(⇒大東亜戦争の真実と東條英機)

 ◇ ◇ 共産ロシアの対日「十五年戦争」

 満洲事変とは、ロシアが支配する滴洲の北半分(南半分はポーツマス条約で日本の支配城)からのロシアの追放であり、白人(西洋列強の帝国主義)からのアジアの解放でもあり、日露戦争の時に日本が能力不足でできなかった宿題を二十六年も遅れてやっと果した、「北進」の国益に沿ったものだった。
 だが、一九三七年の支那事変によるいわゆる日中戦争とは、十八世紀頃の江戸時代から伝統的なこの「北進」という日本の大戦略の一大変更であった。しかも、日中戦争はロシア勢力の南下を阻止するに何ら寄与しない戦争であった。
 このように、一九三一年の満洲事変までの日本の軍事的対外政策と一九三七年の支那事変以降のそれとは、表面上に現われた枝葉では多少の連続性はみられても、根幹においては対極的であり不連続である。「八年戦争」は実在だが、「十五年戦争」は幽霊である。公式にも、この支那事変と(英米蘭との)太平洋戦争とをあわせて「大東亜戦争」と呼称した(一九四一年十二月十二日閣議決定)。すなわち、「大東亜戦争」とは、あくまでも「八年戦争」のことを指し、それ以外ではない。
 ただ、ロシアにとってのみ、満洲事変から日本の敗戦までのその十四年間は連続している。満洲事変によってロシアは初めて日本の軍事力と陸上で自分の国境において接することになった。だから、共産ロシアは、シベリア鉄道の傍まで進出してきた日本の軍事力を太平洋に叩き落として小さな四島に封じ込めるべく、対日戦争を(非軍事の謀略を含めて)一九三一年に全面的に開始した。そして一九四五年に満洲、樺太、千島を占領したときこれに成功した。それこそは正しく「十五年戦争」であった。「十五年戦争」はあくまでも、共産ロシア(スターリン)の日本に対する「第二次日露戦争」という立場からのみ表現として妥当性をもつ。「十五年戦争」の言葉を創った鶴見俊輔(一九五六年)は、共産ロシアを祖国と考える共産主義者であった。
 共産ロシアの日本担当工作員であるリヒヤルト・ゾルゲは述べている。
「一九三一年の秋に起こつた満洲事変で、極東における日本の地位は一変した。……ソビエト連邦はこれまで国防上、とかく等閑に付しがちであった広大な辺境地方で直接日本と相対することとなった。言い換えるなら、ソ連にとって容易ならざる新事態が起こつたのであった」(『ゾルゲの獄中手記』山手書房新社、七九頁)。
 また尾崎秀実も、満洲事変以降、ゾルゲが日本軍の対ソ戦を懸念して、中国でこの情報収集に動いていたので協力したと陳述している(予審判事尋問第四回調書)。尾崎が上海から日本に帰国しスパイ網を組織し始めたのが一九三二年、そのボスであるゾルゲの日本潜入は一九三三年だった。「世紀のスパイ団」である尾崎・ゾルゲ組織とは、ロシアが対日「十五年戦争」のために日本に上陸させた超精鋭の情報戦部隊であった

 ◇ ◇ 「八年戦争=大東亜戦争」とは

 一九三七年七月七日、北京(北平)郊外の慮溝橋における、“死者ゼロ負傷者ゼロ”の小さな小さな武力衝突事件が、自然発火するように大戦争にエスカレートしたものであった。 … 日本の安全保障上の障害も存在しなかった。
 国際的には日中戦争は、日本が「戦争のための戦争」をしているとしかみえなかった。太平洋戦争とは、この日中戦争の長期化が生んだ不可避の戦争であったから、それは「拡大日中戦争」というべきものであった。
 今となっては「八年戦争」の真の解明の糸口は、この「八年戦争」について敗戦前に体系的に論じたかなりの文書を遺した共産ロシアの工作員・尾崎秀実を研究することである。
 朝日新聞社出身の尾崎秀実とは、近衛文麿総理のブレーン中のブレーンであるとともに、共産ロシアの「ゾルゲ機関(細胞)」の最高メンバーとして、その主任務たる諜報(インテリジェンス)でも十分以上の働きをするほか、日中戦争の拡大(講和阻止)、関東軍の対露開戦(シベリア侵攻)阻止、日本軍の「南進」誘導、……など「八年戦争」のすべてではないがその多くをデザインした日本随一の「戦争脚本家」であった。また、天才的な煽動家でもあった。世界史上まれな屈指の大スパイであった。
 日中戦争の最大の責任者が近衛文麿であるとすれば、何故に近衛文麿は日中戦争を欲したのか。支那事変(日中戦争)は、領土が増えるわけでもなく賠償金が入るわけでもなく、ただむやみに青年の命と国民への経済的重圧だけがその見返りだったからだ。増税につぐ増税、「失業者」の増大、マッチや砂糖すら配給(切符制)、……と全国民が一斉に「貧困者」への転落を強要された、それが日中戦争の結末であった。「ぜいたくは敵だ!」の立て看板が銀座など東京に初めて立てられたのは、一九四〇年八月一日であった。婦人のパーマネントも禁止され、ネオンサインも廃止となり、ダンスホールも閉鎖となった。
 このように、日本中が暗く貧しくなり、経済的にも破綻寸前にまでなったが、それは一九四一年十二月のパール・ハーバー奇襲に始まる超大国の米英を相手の戦争によるのではなく、貧弱な兵器や未熟な軍隊の軍事「後進国」にすぎない中国を対手とする戦争によってであった。日中戦争の不可解さは実はここにある。
 尾崎はこの小さな事件を中国との全面戦争にまでいかにして拡大させるかが自らの使命だと考えた。そう煽動すべく精力的に書きつづけた尾崎の詭弁のロジックは、蒋介石の国民党政府について、その基盤が弱体であるとか、中国国民全体に支持されておらず正統性も存在しないとか、の偽りのイメージをつくり、蒋政権を貶めることによって、日本の武力攻撃の対象にしてもよい(正統政府として交渉の対象にはならない)程度のものと、誤った認識をさせることが目的であった。要するに、中国の唯一の政権である国民党政府への中傷誹誇をなして日本全体にこれへの深い侮蔑観を形成したのである。近衛文麿と尾崎は、盧溝橋問題を拡大し、盧溝橋事変、盧溝橋事件、そして日中戦争へと拡大していった
 偶発であれ仕組まれたものであれ、生じてしまったこの小さな武力衝突の事件を戦争に拡大(エスカレート)させたのは近衛文麿のみであること、そして近衛の狙いは何かこそが最優先に論争されねばならない。にもかかわらず、意図的に、歴史の闇に消されてしまった。それ以上に、現代史としての研究は、慮溝橋事件はスターリン/毛沢東/近衛文麿の三者が通謀して仕組んだものでないか、の核心的仮説の検証であるべきだろう。(※劉少奇の「盧溝橋事件は中共軍の謀略だった」と発言している。)
 ◆近衛文麿は陛下の御意志を破壊した唯一の人物
 盧溝橋事件の和平つぶしに執念を燃やす近衛文麿は、第一段階として、閣議で和平交渉の打ち切りを決定して(一月十四日)、この三日前の御前会議の決定をくつがえした。昭和天皇のご意思でもある御前会議の決定を無視し、次に、そのつぶしを公然とやってのけたのである。
 次の第二段階として、近衛は、二日後の十六日、内外に衝撃的な発表をして国際的に既成事実にしてしまった。それが「国民政府を対手とせず」声明であった。これによって御前会議が決定した「支那事変処理根本方針」は完全に有名無実の反故となってしまった。しかも、これに加えてさらに二日後の十八日、この「対手とせず」は「蒋介石政権の否認」というより「蒋介石政権を抹殺する」ことの意味だとの解釈をわざわざこれまた政府声明として内外に発表した
 明治維新以来、戦前の日本で、御前会議の決定を数日を経ずして平然と無視してこれを反故にしたものは、近衛文麿たった一名しかいない。近衛文麿とは、天皇の御聖慮を縦横に無視した、近代日本史上ただ一人の“悪の政治家”であった。近衛文麿の実像とは「優柔不断」の逆であって、独断と暴走的な実行力をもった政治家であった。「優柔不断」は“偽情報”である。
 ヒットラーやスターリンと何一つ変らぬ独裁と強行、それが近衛外交であった。また、軍部のなかの最先鋭分子といつも結託し、軍部全体の先頭に立ち、軍部を牽引する、“魔性の機関車”政治家であった。要するに、専断的に独走する「狂った政治家」であった。
 決定されている国家の最高意思を平然と無視し、自分個人の思いつきを内外に大仰に流すことによって国家の意思におき替えてしまう、そのための手段としてマスメディアを全面的に活用する近衛文麿の(一九三八年一月の)手口には、そっくりの前科がある。

 ◇ ◇ 東アジアすべての共産化 … 尾崎秀実の策謀

 日中間の全面的かつ無期限戦争を欲した尾崎秀実の狙いは、具体的には、第一は中国の共産化であり、第二は日本の共産化もしくはその前段階の日本の社会主義体制への基盤整備であり、第三は、日本の軍事力を対中国の戦争で浪費させることによってロシアへの侵攻能力をゼロにすることであった。それだけでなく、尾崎には彼自身が「東亜新秩序」と呼んだ東アジア全域の共産化された新しい共同体づくりの全体構想もあり、中国の共産化はこのヴィジョンの一翼をなすものであった。
 尾崎は、日本についても「南方への進撃においては必ず英米の軍事勢力を一心打破しうるでありませうが、その後の持久戦においては日本の本来的な経済の弱さと、支那事変による消耗がやがて致命的なものとなつて現はれてくるであらう」と予測している。これがパール・ハーバー攻撃の成功、マニラ陥落、シンガポール陥落などで日本中が連戦連勝で浮かれている三月五日の陳述である。四月十四日の訊問では「(南方進出体制ができても)六カ月以後には却つて日本にとつての不利なる諸情勢が発展し始める」、と的確な予測をしている。現実はそのとおりだった。
 そればかりか、日本は最終的に英米との戦争で破局的な敗北を回避するために「ソ連と提携し、之が援助を…必要とする」、そのためにも「社会主義国家としての日本を確乎として築きあげること」とまで言い切っている。二年後の一九四四年にはその通りになり、陸軍を中心にこのソ連との同盟(=日本がソ連の属国となること)を模索する終戦工作が開始された。
 この親ソ派のエリート陸軍将校たちの動きを克明に知る近衛文麿は、「軍部の一部はいかなる犠牲を払ひしもソ連と手を握るべしとさへ論ずるものもあり、また延安(=中国共産党)との提携を考へ居る者もあり…」(近衛上奏文)と、指摘している。尾崎の予見通り、大東亜戦争は「共産ロシア・共産中国・共産日本」のアジア三国共産同盟という「東亜新秩序」の方向に向けて着実に進んでいたのである
 ◆日本が英米となぜ戦争したの
 日本が英米となぜ戦争したかは時勢の不可避の流れでもなかったし、「軍国主義(ファシズム)」が原因でもなかった。「軍国主義」はこの戦争への手段であって原因ではなく、対英米戦争決断の責任を転嫁するエスケープゴートである。日本が対英米戦争を決断したその理由、つまり戦争目的は、次の三つであった。
  1. 英米との戦争によって日本がソ連に開戦する選択肢を完全につぶし、「共産主義の祖国」ソ連を防衛すること。
  2. 「自由主義の国」英米をアジアから追放すること。
  3. 日本を敗戦に追いやり、(一九一七年のロシア革命と同様に)日本に共産革命の土壌をつくること。
 そして、「日本をしてソ連との戦争をさせないために、英米との戦争をする」親ソ・共産主義者グループと「英米との戦争をしたいためにソ連との戦争をさせない」海軍とが暗黙に結合して、日本政府の最終的な意思となったのである。事実、時の首相の近衛文麿は、「北進(対ソ戦)を阻むために南進を決定した」とその『日記』に本心を述懐している。近衛とは、前者のグループの筆頭であった。

 ◇ ◇ 「本土決戦」と日露共産同盟

 日本が敗戦直前に、直接に英米と接触交渉しようともせず、スウェーデンやスイスの中立国も使わず、共産ロシアに「英米との和平」の仲介を依頼しようとしたのも、外務省は別だが陸軍の主流は“英米の和平(降伏・終戦)”のためという名のもとに、実は共産ロシアに日本列島への進駐を期待して、日ソ共同の対米「本土決戦」を画策するものだった。
 つまり、尾崎秀実の、@日中戦争によって中国は共産化する、A日本は英米との戦争によってソ連との提携(=同盟)の道を選択せざるをえなくなる、またB日本自ら社会主義国への体制変革を余儀なくされていく、との予測は的中したのである。最終的には自らが理想とする「東亜新秩序」が形成されると、尾崎は考えていた
 なお、Bについて近衛上奏文も、まったく同様な指摘をしている。
「… 一億玉砕を叫ぶ声しだいに勢を加へつつあり……。かかる主張をなすものはいはゆる右翼者流なるも背後よりこれを煽動しっつあるは、これによりて国内を混乱に陥れ遂に(共産)革命の目的を達せんとする共産分子なり…」
 近衛文麿もまた、一九三八年十一月三日に「東亜新秩序」声明を出して、この声明の説明に際して、日中戦争の目的が日中間の紛争を解決するためではなく中国から英米を排除することだとポロリと本心を白状している(同年十二月一日の枢密院での答弁など)。要するに、ソ連を除く、西洋列強すべての国々を東アジアから武力を持ってしても追放した後で建設される新しい東アジア、それが近衛の云う「東亜新秩序」であった。近衛にとってソ連は同志で有り、新東亜の新秩序が完成するまで、日中戦争の講和も中断も無いとしていた。
 だから、近衛らにとって、この「東亜新秩序」が実現するためにも(英米系の国民党政権が打倒されるまで)日中戦争は継続されねばならないし、これを妨害する英米をアジアから追放するためにも英米との戦争もしなければならないのである。
 大東亜戦争(「八年戦争」)とは、尾崎秀実らがデザインした「東亜新秩序」というスローガンに秘めた、東アジア全体の共産化のための戦争であった。これが歴史の真実である。中国への日本の軍事的進出、それを、表面的に見て「侵略」だと糾弾するのであれば、毛沢東を支援し中国を共産化するこの軍事的進出の目的こそまず先に糾弾すべきであろう。つまり、真に糾弾されるべきは、アジアの共産化を考えてそれを巧妙にカムフラージュして国家と国民とを戦争に誘いこんだ特定の人物(政治家、ジャーナリスト、学者、軍人)や新聞・雑誌である。またこれらの人物に国民や官僚を煽動し洗脳する手段を提供した、『朝日新聞』や『中央公論』などのマスメディアである
 「八年戦争」を真に反省するのであれば、「八年戦争」そのものによって樹立された中共(中国共産党の政権)を倒壊させることそれ以外はない冷戦の終焉がソヴイエト帝国の倒壊によって達成されたように、「八年戦争」の終結は、中共政権の倒壊で真に初めて達成される。別な表現をすれば、中共が存続しているかぎり、「八年戦争」は終っていない
 また、日中戦争は日本に非があると日本を糾弾する立場に立脚するならば、それは中国を一九三七年の日中戦争以前に戻す責任を果たすことであり、中国を一九三七年時の国家である中華民国に戻すことを意味する。日本の支那(中国)に対する戦争責任とはこれであって、これ以外ではない。
 ◆山本五十六の犯罪
 考えてみれば、日本の主要資源の生産力は、戦争直前で、おおむね米国の七十八分の一。具体的には、鉄で七十四分の一、石油で五百二十七分の一、鋼十一分の一、であった。また商業用自動車の生産をみると、米国の六十九万台(一九四〇年)に対してその年の日本は三万三千台であり二十一分の一であった。日本では国策で優先された航空機などの主要な軍需産業力ですら、十三分の一しかなく、初めから敗北が明らかすぎることがわかっていた。米国との戦争、それは狂気なしにはできないものであった。しかも、この大修理能力を誇る真珠湾の海軍工業に対してその大規模破壊が容易であったのに、南雲中将ひきいる機動部隊は一発も撃たずに引き揚げた。
 ちなみに、ミッドウェー海戦の大敗北で、日本は空母四隻、重巡一隻、航空機二百八十五機を喪失した。空母の価値は戦艦の比ではないから、米国の空母に一隻も損傷すら与えなかった真珠湾攻撃に比して、日本のほうがその数倍の損害を蒙ったのがミッドウェー海戦であった。山本五十六司令長官の命令により、海軍はこの敗北を三年後の日本の降伏まで、国民はおろか陸軍にすら知らせることなく、さらには口封じのため残酷非道な命令まで発したのである
 「山本五十六の犯罪」とは、約五万名(第十五、第三十一、第三十三師団)の将兵を飢餓(食糧ほぼゼロ)のなかで戦闘させその八割の四万名近い餓死等の死者を出したインパール作戦を命じた牟田口陸軍中将とならんで、日本の軍人史のなかで際だつ二大汚点である。なぜなら、ミッドウェー海戦の大敗北が政府や国民に知れるのを恐れた山本五十六は、このとき生き残った最後の第一級の海軍パイロットたちを休養のための下艦すらさせることなく次から次へと新しい戦場に送り戦死させ口封じをすることを計画し、それを実行した。このミッドウェー海戦の敗北を政府全体が知っていたら早期講和が決断された可能性もあり、「山本五十六の犯罪」の害は量り知れない。
 戦後から時間が経つにつれて、対米戦争を決断した日本の真意はますます歴史の闇の、その奥へとしまわれていくようである。米国側からの最後通牒「ハル・ノート」の故に、やむなく日本は敗戦を覚悟して窮鼠猫をかむ決断を強いられた、という俗説が是正されることなく今も大手をふってまかりとおっている。「ハル・ノート」を口実にするのは、歴史の歪曲であり」少なくとも歴史の真実に対する怠慢である。
   
   
(※ハル・ノートの原案は穏健なハル自身が書いたのだが、これを共産主義者であるホワイトが書き換えてしまった。日本で対英米作戦を強いたのは近衛と尾崎秀実とマスコミ、そして日本に最後通告であるハル・ノートを突きつけたのも共産主義者だった。)
 「ハル・ノート」が共産主義者の「ソ連のスパイ」によって執筆された、動かぬ事実は、共産主義者の心底には破壊主義が強く潜んでおり、ホワイトの狙いには“ソ連の防衛”だけでなく、日米戦争による“日本の破壊”も秘められた目標であったろう。
 米国による武器貸与法でソ連は第二次世界大戦中、膨大な資源と工業製品、そして兵器を米国から供与してもらった。たとえば、ソ連側の資料によると、戦車一万一千輌、航空機一万九千機である。要するに、戦後に全ヨーロッパの支配をソ連に渡すプランを練るホワイトにとって、大英帝国が第二次世界大戦による疲弊で没落していくのをそのままに放置したかったのである。「ヨーロッパのすべてをソ連に貢ぐ」ホワイト計画にとって、英国の存在はすでに邪魔であった。ルーズヴュルトの強引な参戦とドイツつぶしの目的は、英国防衛のほうが従でソ連防衛のほうが主であったことは、大戦終結が近づくにつれ、このように次第に明らかになっていた。
 ◆ヤルタ秘密協定
 「ヤルタ秘密協定」こそがのちの中国の共産化(一九四九年)の原点となり、金日成による朝鮮戦争とホー・チ・ミンのベトナム戦争の元凶ともなつた。この二つのアジアでの戦争は、それぞれ三万四千人と五万人に及ぶ米国の青年の生命を奪った。この意味では、ホプキンズやヒスは、ルーズヴュルトとともに、米国にとっても永遠に許すことのできない「政府高官」であった。
 一九四五年二月十一日の「ヤルタ秘密協定」は、スターリンのソ連に対して、日本の固有の領土である南樺太と「クリル諸島」、ならびに満洲の旅順と東清鉄道とを貢ぐ約束をルーズヴュルト大統領がなして、自らが署名したあの大西洋憲章やカイロ宣言の精神に自ら違背した。ソ連だけを例外とする、ソ連の領土的膨張にルーズヴュルトはお墨付きを与えて協力した。とすれば、「ハル・ノート」は“ソ連を防衛する”ためであり、「ヤルタ秘密協定」は“ソ連の侵略(膨張)を支援する”ためだから、ルーズベルト共産党内閣にとっての太平洋戦争のすべては、ひとえにソ連に奉仕するためのものだったことになる。

 ◇ ◇ 日米を操作したロシアの「隠れた手」

 米国のルーズヴュルトの周辺が共産主義者で固められていたのと同じく、日中戦争の早期講和を阻み「南進」を決行する日本でもまた、近衛文麿首相の周辺も共産主義者の巣窟であった。
 近衛文麿が積極的に側近に登用した共産主義者としては、書記官長(=現在の官房長官)の風見章(親ソ系のマルキスト)、ゾルゲ事件の首謀者の一人として死刑となった尾崎秀実(ソ連のスパイ)、日中講和の阻止に暗躍した西園寺公一(中国共産党系のマルキスト)や犬養健(同上)、朝日新聞の佐々弘雄、松本重治などあげるときりがないほど多い。
 太平洋戦争に至る、日米それぞれの国家における開戦決定過程で、このようにソ連の影響や共産主義者が暗躍した事実からでも、日米戦争とは共産ロシア(ソ連)が誘導した戦争であった、との推断は誰にでもできる。実際にも、共産ロシアが日米間の戦争を欲して、「積極工作」に全力を投入した成果としての戦争、それが日米両国の死闘を尽くしての太平洋戦争の裏面である。
 太平洋戦争後のアジア・太平洋域の新しい地図は、最終的には、ソ連のみが勢力圏をのばす草刈り場となり、満洲も中国本土も「スターリンの息子」である毛沢東の共産党支配下に陥り(一九四九年)、朝鮮北部は同じく「スターリンの息子」金日成の支配するところとなり(一九四五年)、ベトナム北部も同じく「スターリンの息子」ホー・チ・ミンの支配するところとなった(一九五四年)。この余波はその後三十年間も続き、一九七五〜七九年には、ベトナム南部、カンボジア、ラオスなどインドシナ半島全域がソ連勢力の掌中におちた。
 日本の日中戦争も、「南進」に始まる対米英蘭戦争(太平洋戦争)も、この二つあわせて大東亜戦争とよばれる「八年戦争」のすべては、ただただロシアの利益に奉仕した。そして、ポスト冷戦時代に至っても、いったん共産ロシアの支配下におちたアジア諸国のなかでその共産主義から脱しえた国は、国連のPKOの協力を得ることのできたカンボジア一カ国にすぎない。共産中国、共産朝鮮、共産ベトナム、共産ラオスはともにいまも健在で、日本のなした共産ロシアに奉仕した「大東亜戦争」の後遺症は今日においても甚大である。
 単純化すれば、日本の将兵二百十万人と米国のそれ九万人余が生命を捧げた戦争の結末は、ロシアに奉仕すると同時に、「アジア共産化」 のためであった。日中戦争や太平洋戦争は、日米双方の国益に反したうえに、さらにアジアの人々に共産主義の抑圧の不幸をもたらしたのである。日本に対しても、米国に対しても、ロシアを除く全アジアに対しても、釈明のできない愚かしく、かつ有害「無益な戦争」であった。(※ホワイトは東欧諸国をソ連に渡した。つまり、ソ連に東欧とヨーロッパを引き渡し、ソ連・共産中国・共産日本で大東亜を共産化することが、コミッテルンの謀略だった。)
 一国の外交政策の決定にあたり、他国の「隠れた手」による操作を受けることは主権の侵害の容認であり放置である。あってはならない。「ハル・ノート」や「南進」の決定が、共産ロシアの「隠れた手」で操作されたとすれば、日本と米国の双方の国家にとって、これこそ「恥ずべき怠慢」であったといえる。(※現在のマスメディア、外務省、政治家は、中国や朝鮮人から支配を受け、日本は確実に内政干渉を受け続けている。それは、北朝鮮と中国からの軍事威圧、性奴隷問題、南京問題、モリカケ問題、原発問題、総連問題 … )

 ◇ ◇ 近衛文麿の正体

 近衛文麿が京都帝大卒業の翌年(一九一八年)、二十七歳のとき執筆した論文「英米本位の平和主義を排す」である。一読すれば誰しも気づくように、近衛の主張も視点も論理も、マルクス・レーニン主義の教科書、レーニンの『帝国主義』--- 資本主義国同士を戦争させて世界共産化の土壌をつくる教義 --- のとおりに述べている。余談だが、近衛文麿の孫である細川護煕が米国に対してその首脳会談で「ノー」と云って日米の包括経済協議を決裂に導いた。これは近衛文麿の「英米本位の平和主義を排す」という過激な反米・反英の煽動論文をコピーしたような行動であった。
「分配の平等」が「正義」であり、「持てる国」(ブルジョアジー)のものを「持たざる国」(プロレタリアート)が奪っても「正義」なのだ、「正義」である以上その手段として「戦争(暴力)」を選択してもよく、「平和(現状維持)」の破壊は正当化される
 もともと近衛文麿は東京帝大(哲学科)をわざわざ中退し、京都帝大(法科) へ入りなおしているが、その理由は近衛自身が述懐しているように、『貧乏物語』の著者として著名なあの当代随一の共産主義者の河上肇(京大助教授、共産党員、懲役五年の実刑)のもとで学びたかったからであった。それほどまでに近衛は共産主義に傾倒していた。
 近衛は、約一年間にわたるこの河上撃との師弟の交流によって社会主義思想のエッセンスを学び、共鳴するようになった。在学中ではあったが近衛は、共産主義者のオスカー・ワイルドの『社会主義の下の人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」の表題で二回に分けて第三次『新思潮』の一九一四年五月号と六月号に発表した。この論文のなかで近衛は、ワイルドの言葉を借りながら、「私有財産制が諸悪の根源であって、財産と貧困の害悪を断ち切るには社会主義を実現するしかない」と主張している。近衛は立派な共産主義者だった
 一九三七年六月に、四十五歳の近衛が総理大臣になつてその直後に、なんと治安維持法や刑事犯罪で服役中のあの共産党員や二・二六事件の革新将校(共産主義かぶれの青年士官)の関係者を大赦しようと奔走して、元老、重臣、その他の政府関係者はびつくりしたが、このように近衛は、社会主義(共産主義)運動であれば、殺人すら違法性はなく、「正義」であるとする純粋な共産主義者の考えを維持していた。青年期の思想が熟年になって変ることは稀で、通常はおこりえないし、近衛は自殺の直前まで日本随一のコミュニストでありつづけた
 だから、近衛文麿は総理大臣の女房役である書記官長(現在の官房長官)に風見章という親ソ一辺倒で過激な共産主義者を選んでいる。風見章は戦後すぐ、社会党左派に属しスターリンの創ったソ連NKGBのフロント組織「世界平和評議会」の評議委員となったり、親ソ団体「日ソ協会」の副会長としてソ連への滅私奉公にこれつとめた、超過数で熱烈な共産主義者であった。近衛は風見のこの共産イデオロギーに共鳴したが故に、最側近に起用したのである。
 つまり、日本には一九三七年六月、近衛内閣という、正真正銘の共産主義政権が誕生したのであるそして、支那(中国)を共産化するための日中戦争をただちに開始した
 近衛のブレーン・トラスト「昭和研究会」の一人であった三木清も、暴力革命論の(共産党系の)共産主義者であった。この「昭和研究会」には平貞蔵(法政大学教授)などの労農派系の過激な社会主義者もいた。日本の計画経済化の理論的な教科書となった『日本経済の再編成』を出版した笠信太郎もいた。ソ連の「積極工作者(スパイ)」で、処刑された元朝日の尾崎秀実らもこのメンバーであった。近衛の「昭和研究会」とは、共産主義者やソ連を「祖国」と考える知識人たちが一大参集していたのである
 近衛文麿の長男の文隆(陸軍中尉)がシベリア抑留中にKGB(一九五四年にNKGBが改組)の拷問によって、鳩山一郎による日ソ共同宣言調印の十日後、モスクワで死亡した(一九五六年十月二十九日)。ソ連を「理想国家」と心酔していた父親としての近衛文麿が、もし自殺せずに生きていたら、この悲報をどう聞いただろう。ソ連に憧れた日本共産党員・杉本良吉の恋人で、一九三八年一月にソ連に一緒に亡命した岡田嘉子(女優)が、この杉本が拷問のうえ銃殺された報を聞いたときと同じ心境なのだろうか。
 なお、一九九三年十月に来日したエリツィン(ロシア大統領)が“お土産”として、近衛文隆の抑留中の身分証明書の写真を細川首相に渡した。細川は伯父のこの写真に落涙したらしいが、エリツィンに共産ロシアの非道をなじったという話を聞いたものはいない。

 ◇ ◇ 近衛は自分の責任を東條に転嫁した

 第二次近衛内閣の組閣直前(一九四〇年七月十九日)、入閣する三閣僚−東條英機(陸軍大臣)、吉田善吾(海軍大臣)、松岡洋右(外務大臣)と私邸での夕食をともにしながら、近衛は「東亜新秩序」建設を対外政策の指針として合意させている。世にいう「荻窪会談」の申合せである。
 その具体的内容は、東アジアにある(ソ連を除く)、英国、フランス、オランダ、ポルトガルの植民地を「新秩序に包含せしめる」ために「積極的な処理」(=武力占領)をするとして、これらの西欧四カ国をアジアから武力で追放することであった。また、これら西洋列強のアジア追放に、米国が実力をもって抵抗すれば「これを排除する」として「対米開戦を辞せず」とまで申合せしている
 一九四五年二月十四日、天皇に拝謁して所信を奏上した六名の重臣の一人としての「近衛上奏文」は、日本の「八年戦争」とは「日本の共産化」を目的として共産主義者(マルクス主義者、社会主義者)たちによって遂行されてきたこと、一九四四年ごろからのスローガン「一億玉砕」はレーニンの敗戦革命論に従った、共産革命がし易い荒廃した日本社会をつくるためのものであること、陸士・陸大の秀才組の一部分がソ連軍を日本に導入しての「日本の共産化」を策謀していること、などの最も探刻な諸状況について最も正確に鋭く核心を衝く省察をなしている。
 が、同時に、この近衛の指摘は、マルクス主義とソ連崇拝にかぶれた陸士・陸大卒の「赤い軍人」たちに、近衛自身が計画し画策してきた対英米戦とその継戦の責任すべてを転嫁する狙いであるのは誰しも一読すれば理解できよう。一部を紹介する。
 「翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられてゆく……。すなわち、生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵慢心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動(共産化運動のこと、中川)……。右の内特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動……」

 ◇ ◇ 「ソ連仲介」の怪 − 日本の対ソ属国化の模索

 一九四五年三月、硫黄島が、栗林忠道中将の指揮下で世界が称讃するほどの勇敢な闘いを経て壮絶なる玉砕をもって陥落したとき、日本は直ちに米国に対して降伏(を申入れ)すべきであった。一九四二年二月のシンガポール陥落は勝者としての対英米講和の好機であったように、硫黄島陥落は敗者としての降伏の好機であった。
 しかし、日本は、「本土決戦」「一億玉砕」と絶叫する徹底抗戦と自国滅亡の道をつっ走り、和平(降伏)の選択を自らかたくなに拒否しっづけた。かくして日本は五月七日のドイツ降伏ののち、単独で英米を相手とする文字どおりの孤軍となり、世界に“包囲”されることとなった。とりわけドイツの降伏は、ヨーロッパ戦線に集中していた、巨大に膨張したソ連の軍事力が、狂暴な牙をむいて日本にふりむけられる最悪の危機の発生だから、日本の賢明な降伏としてはこの五月が最後のチャンスであった。
 もし、日本が一九四五年五月七日の直後に英米に対して降伏していれば、戦後の日本(とアジア)をさいなみつづけることになる、次の三つの禍根は生じていなかった。
  1. 戦後の日米関係にとって喉元にささった鉤となった、米国の原爆投下(米国の原爆開発成功は、一九四五年七月十六日)。
  2. 満洲、朝鮮北部、南樺太、千島列島へのソ連の侵略とそれによる大惨劇。
  3. (島民約十万人の死者を出したことよりも、戦後の日本では沖縄県のみが陸上戦闘にまきこまれてそれを回避した他の四十六県と差別的に不平等となつた)沖縄戦の悲劇(米軍上陸四月一日、首里陥落五月二十九日、牛島陸軍中将自決六月二十日、島民の被害のほとんどは六月)。
 米国のトルーマン大統領は、この五月八日、「日本の陸海軍が無条件降伏でその武器をすてるまでは……」の降伏を勧告する声明を発した。つまり、軍隊の無条件降伏であり、国家の無条件降伏ではなかった。この基本姿勢はポツダム宣言でも貫かれ、その十三項ではやはり「日本国政府が直ちに全日本軍隊の無条件降伏を宣言し……」であった国体(天皇)に関する英米との交渉の余地は充分に存在していた。和平を英米と直接交渉するのがどこからみても常道であった
 だが、この四、五月ごろから、「英米との直接交渉は国体の破壊に導く」という偽情報(デマ)が意図をもって徹底的に流布された。このデマの発生源は明瞭で、主に陸軍を専断していた共産主義者の(左翼)将校(中堅幹部)らによるもので、準コミュニストの阿南惟幾・陸軍大臣などもこの一翼を担っていた
 これが「英米との直接交渉は国体の破壊」だから英米とはデスマッチの本土決戦しかない⇒この本土決戦のために日本の背後をソ連が衝かぬようにソ連に御土産を渡す」という対ソ終戦工作の三段論法のロジックで、当時の政府と軍をこの思考の枠に閉塞させていた。(※九条の専守防衛は、本土決戦に他ならない。だから、中国や北朝鮮は損害を受ける事は無いが、日本は破壊されてしまう。これは尾崎秀実が宣言した、日本での敗戦革命への謀略である。だからこそ、左翼・反日・リベラリストは、九条を守れと大騒ぎをし、護憲だと騒ぐのです。)

 ◇ ◇ 日本共産化 − 継戦のための終戦工作の狙い

 一九四四年夏頃から浮上する対ソ終戦工作はすべて、“終戦時の、対米戦争の継続のための”それであって、あくまでも本土決戦という継戦を目的としたものだった。終戦ではなく、継戦である。ただ、たんなる日ソ中立条約の維持派から、日ソ同盟(実態においては、日本のソ連の属国化)派までであった。
 ソ連の日ソ中立条約の不延長・破棄通告(一九四五年四月五日)時、対ソ終戦工作の中核的な人物の一人で陸軍随一の共産主義者でもある種村佐孝大佐(参謀本部戦争指導班長、戦後すぐに共産党員)は、詭弁と脅しとを駆使して「ソ連との同盟」論を、次の四点から熱っぼく語っている。
  1. 米国との降伏(和平)交渉はいかに停戦の合意ができても、それは米国の「偽装」(騙し)であって、必ず次に「国体の破壊」を要求してくるからしてはならないこと。(※ソ連=共産革命では皇室破壊は間違いない。一方、英米は立憲君主制に理解がある。つまり、国体を確実に破壊するソ連に頼り、国体護持に理解のある英米を敵にするというのは、詭弁である。だから、国体護持⇒本土決戦は、敗戦革命の謀略でしかない。)
  2. 対米戦争を継続するためには「日ソ戦争を絶対に回避すべきであ」るから、日本の対ソ交渉は「ソ側の言ひ分を待つてこれに応ずるという態度」(=ソ連のいいなりになること)でなければならないこと。
  3. もちろんソ連が寝返ってソ連の干渉(「仲介もしくは洞喝」)のもとで戦争終結が余儀なくされることはありうるが、この場合は「否応なしに(このソ連の)伸介もしくは恫喝に従わざるをえない」こと。
  4. もし日本がこれに「ノー」ならば、「日ソ戦を賭するより外はな」く、日ソ戦争になること(=つまり”脅し“)。
 何のことはない、日本の終戦工作の路線の基本を定めた、この種村大佐の「今後の対ソ施策に対する意見」(一九四五年四月二十九日付)とは、@米国の主導でなくソ連の主導で第二次世界大戦を終結させる、Aこのためにはソ連と日本列島とのあいだにある日本の領土や満洲の領土を可能なかぎりことごとくソ連に貢いでソ連に無血で日本列島の線まで“南下”させるに集約されよう。
 このAについて、種村大佐は、「ソ連の言ひなり放題になつて眼をつぶ」れの前提のとおり、「満洲や遼東半島やあるいは南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨て」ろと主張している(以上の「 」内はすべて原文のままの引用)。
 日本列島の北側だけでなく日本の南側の台湾や琉球までソ連に貢げば、日本は無傷のソ連軍に“包囲”されるから、その直後には日本列島のすべてにはソ連が怒涛のごとく侵攻して日本を占領してしまい、日本は一九四五年以降の東欧と同じく共産政権の樹立を余儀なくされる。このような事態を期待してAを主張したのである。
 が、これほど極端な意見は、親ソ一辺倒の共産主義者の種村だけではなかった。当時の陸軍中枢のすでにほぼ一致した意見であった。それはポーランドの共産政権(ルプリン内閣)樹立と同じ構想であり、日本が「共産日本」となりソ連の属国となること、それが陸軍中枢部の真意であった。戦後の日本共産党や社会党左派は、この帝国陸軍の遺志をついだ、その直系ともいいうる。
 陸軍の中枢はまた、共産主義者が大半を占めていたから当り前だが、彼らは「反日」であり、自由主義の米国と戦争することを“大義”としていた。日本の国土や国民を守る気などさらさらなかった。だから、日本を焦土とする「本土決戦」とか、日本の婦女子の大量死亡を招く「一億玉砕」とかを、平然と絶叫できた。一九四五年八月の、満洲で起きたソ連軍の電撃的な大規模侵攻に、婦女子を含む百五十五万人の一般邦人を置き去りにして、関東軍がさっさと武装解除したのも(八月十九日)、関東軍の参謀部が松村知勝や瀬島龍三らのコミュニストで支配されており、日本の婦女子がロシア兵に略奪されレイプされることを計画的に実行するためだった。
 国家(民族)社会主義者のヒットラーが一九四四年頃からドイツ全体がより破壊される形での防衛戦闘を命じたのは、「ドイツ千年王国」を叫びながらその真情が「反ドイツ」「ドイツ国の廃滅」であったからだが、これに似ている。社会主義・共産主義のイデオロギーには、自分の国を愛することができなくなる薬物効果がある。また狂暴な自己破壊主義のヴィールスが潜んでいる
 これら陸軍の中枢の多くは天皇陛下に対してすら尊崇もなければ国体護持の信条などなく、日本共産党と同じく根本において廃止論に立脚していた天皇はあくまでも利用できるあいだは骨まで利用するという方針であった。だから、停戦命令(終戦の御聖断)の玉音放送録音盤の奪取を含めて昭和天皇を監禁し、逆に強要してポツダム宣言受諾拒否の詔書を行わせるという軍部クーデタを八月十四日深夜、(失敗したとはいえ)決行したのである。共産主義の赤い将校が盤踞(しっかりと根を張って動かない)していた陸軍省軍務局などが先導した。阿南陸軍大臣も、このグループの一人であった。(※昭和上皇様の日記には、殺される事を覚悟の上で発言し、行動されていたと述べられています。)
 すなわち、「国体(天皇)護持」という表向きのスローガンの下でその逆の“国体の破壊”を信条とするが故に、日本の立憲君主制を尊重する英米と戦争は継続し、立憲君主制を絶対に不可とする「人民民主主義」のソ連との同盟や、このソ連の軍事力の導入を画策したのである。それによって最終的には“国体の破壊”ができるからである。国体破壊のために国民を騙す為のスローガンが「国体護持」であった
 それ以上に、英米と「終戦」について日本側から直接交渉すれば、当り前のことだが、米国と開戦に至ったハル・ノートの受諾、それが交渉の出発点となり、そのことは日本として何ら領土を喪うこともなく滴洲も朝鮮も樺太も千島もそのままとなる可能性を含むものである。具体的には、@日独伊三国同盟の破棄A日中関係を一九三七年七月七日以前に戻すBインドシナ半島など東南アジア全域からの撤兵、それだけを基本としてあと若干の賠償等で済む。国体も維持される。日本の固有の領土はむろん維持される。灰色は、日本の「生命線」的勢力圏(満洲、内蒙古、朝鮮)や台湾などの問題だけである。
 この灰色の諸問題は中国(中華民国)への返還などで解決するだろう。とすると、ソ連が獲得するものは何もないことになる。だから、ソ連に領土を貢ぎアジア全体の共産化を考える種村大佐らにとって耐え難く、この英米との和平つぶしに暗躍したのである。
 しかも、このことを、このとおりに陸軍中枢は正しく理解していた。一九四三年三月に陸軍参謀本部第一部第十五課(戦争指導、のちの二〇班)がまとめた「帝国を中心とする世界戦争終末方策」に、そのことがずばりと明記されているからである。陸軍の戦争指導班の正体は、ここに明らかになっている。
 つまり、「ソ連の参戦防止」も「ソ連の好意的中立」も、じつは日本政府と日本国民を騙すためのスローガンであって、対ソ終戦工作の狙いは日本のソ連の属国化や日本の共産化を含む日ソ同盟であった(*皇室の滅亡をも含む!)。
 ところで、東郷茂徳による小手先の和平の模索が、(イ)英米と直接交渉する方式も、(ロ)スウェーデンやスイスあるいはヴァチカンなど中立国を通じての和平の道も閉ざすことになつた。スイスで活動していた米国のアレン・ダレス(のちのCIA長官)もスウェーデン国王も、和平仲介は日本側に立って積極的にやってくれただろうことは戦後になって判明している。この道を、ソ連と通謀する当時の軍部はきっばりと排除した。

 ◇ ◇ 近衛文麿と関東軍の「ソ連軍の熱烈歓迎」

 近衛文麿の共産主義度あらわなものだつた。二つほど紹介しよう。
 近衛文麿の対ソ交渉実は、まず、敗戦後の日本の領土については明治維新以降かちえた海外の領土すべてを放棄することにしている。そればかりか、沖縄、小笠原諸島、千島列島の放棄までなしている。これらすべてをソ連に貢ぐのである
 一方、米英華三国のポツダム宣言(第八項)とは、沖縄、小笠原諸島、千島全列島は日本の固有の領土としている。南樺太についても、その帰属はソ連が「カイロ宣言履行」で自己規制すれば日本領土となるよう表現している。ルーズヴュルト米国大紋領の(米国政府としてでなく)スターリンへの個人的な同意であるヤルタ密約では、(国後・択捉島を除くウルツプ島以北の)千島(=クリル諸島)と南樺太の放棄が入っているから、近衛案はヤルタ密約とそっくりである。いや、近衛実のほうが沖縄と小笠原諸島の対ソ貢納を考えているから、ヤルタ密約よりさらに日本に対して苛酷である
 次に、近衛案は、「賠償として一部の労力を提供することには同意す」[条件の(四)のイ項]としている満洲や樺太から「六十四万人以上」(ソ連崩壊後にKGBが公表した数字)、実際には百五万人の日本の将兵が不毛のシベリアに抑留され極寒の重労働を強いられたが、これは近衛文麿が公式にスターリンに提案する予定になっていた
 一方、ポツダム宣言は、第九項でこのようなことは絶対にしないと確約している。だから、ソ連によるシベリア抑留は“国際法違反”となつて、野蛮な違法行為として今でもロシアを糾弾できる法的根拠を、ポツダム宣言こそは日本に与えている。もし近衛文麿が訪ソしていたら、実数百五万人のシベリア拉致・抑留は“合法”となっていた。ポツダム宣言第九項は、「日本国軍隊は完全に武装解除された後、各自の家庭に復帰し平和的かつ生産的な生活を営なむ機会を与えられる」とある。
 なお、シベリアから帰国した数ははつきりしていて五十万人であるから、六十四万人が抑留されたとすれば、十四万人が殺されたことになる。百五万人であれば五十五万人が殺されたことになる(後者の百五万人が正しい数字であるのは、阿部軍治の『シベリア強制抑留の実態』(彩流社)を参照のこと)。
 ポツダム宣言のほうが、近衛文麿という自国の元首相よりも、日本の国益をはるかに守つたものとなった事実は、大東亜戦争が祖国日本に坂道する悪魔の戦争だったことがわかる。
 このことはまた、近衛文麿なる人物がなす、親英米の自由主義者ぶったり、「皇道派」の革新将校と交流してより過激左翼の「統制派」の軍人と派手な対立をしたり、陸軍中枢は共産主義者に牛耳られているとの核心の情報を吐露したり、のさまざまな演技がやはり超一流であることを如実に証明していよう。近衛文麿、それは日本共産党員であった恩師の河上肇の薫陶を忠実に守った、ソ連を祖国と考える真正の共産主義者であった。
 また、一九四五年八月九日にソ連軍が満洲を侵略したとき、あれほどの惨劇の敗北となったのは、関東軍司令部の中枢参謀たちが満洲をソ連軍に速やかに占領させる(貢ぐ)ことを意図していたからである。「奇襲であったから」「南方に戦力を割いていたから」関東軍は壊滅的な敗北となつた、という理屈は嘘である。実はまだ敗北してはいなかった。
 たとえば、原田統苦(陸軍中野学校卒)は、シベリアから関東軍に(東京の大本営に転電してほしいとの)「八月上旬侵攻」を打電したのに、関東軍司令部の内部でこの電文が握りつぶされたと、本人が戦後の調査に基づき証言している。また、一九四四年から、ドイツ敗北に伴うソ連の対日参戦を認識していた陸軍にしては(「昭和十九年末を目途とする戦争指導に関する観察」、第二〇班作成、一九四四年三月十五日)、満洲防衛の努力(興安嶺側での防御線の構築など)が意図的にまったくなされなかった。「満洲は安全」というキャンペーンすらなしている。加えて、邦人に対する攻撃があるかぎり邦人の財産と生命保護のためには、停戦命令にかかわらず軍隊は国際法に従って戦闘続行の権利と義務をもつのに、理由もなく八月十九日に関東軍は早々と武装解除している(邦人へのソ連軍の無差別殺戮は八月二十八日頃までつづいていた)。
 しかも、日本の場合は九月二日のミズーリ号の降伏調印までの約一カ月間弱(八月九日〜九月二日)継戦できればよいのであり、満洲の南部と朝鮮北部においてそれは充分可能であった。瀬島龍三など関東軍司令部の上級参謀たちが「ソ連軍の熱烈歓迎」をした疑いは濃厚である。とりわけ、米国に対しては制空権を奪われ「極東ソ連軍対関東軍」の戦力比以上に劣悪ながら婦人に竹槍までもたせて本土決戦を戦わせようとした同じ陸軍にしては、関東軍の末端の将兵たちが最後の死闘を展開しそれなりの戦果をあげているときに、司令部が「戦うな」「武器を棄てろ」と早々と命令したのは異様で異常な行動であった

 ◇ ◇ 計画経済体制への工作 … 日本を社会主義化へ

 当時、陸軍の資源局が企画庁と合体して発展した企画院(一九三七年十月設置)が「国家総動員法」案を起草し、翌十一月にはこの「国家総動員法案要綱」が一部の新聞にリークされていた。そして、その直後から、国内ではこの「国家総動員法」に反対する勢力の猛反発が展開されていた。(この為に、近衛は盧溝橋事件を、「蒋政権を相手にせず=蒋政権を抹殺する」として日中戦争にまで拡大したのだ。)
 「国家総動員法」は、明治憲法が定める議会制民主主義と「天皇の大権」のいずれをも無視する、つまり明治憲法を棚上げ無力化する恐れのある「前例のない広範な委任立法」(民政党、斎藤隆夫)であって、それはヒットラーの全権委任法(一九三三年三月)のミニ版であった。
 かくして、この一九三八年の春、日中戦争開始から毒もたたないのに、労働力・物資・価格・金融・事業を国家が統制できる「国家総動員法」と、電力の国家管理法の、二つの法律が成立したのである。これによって、日本はついに計画経済体制への道を走り出した。一九三八年末までには、「国家総動員法」は全面的に発動された。それはまた日本の社会主義化・全体主義化の道の始まりであった。
 ちなみに、国家総動員法による重要な勅令(=政令)には、一九三九年の分だけでも次のようなものがある。国民職業能力申告令(一月)、従業者雇人制限令(三月)、国民徴用令(七月)、会社職員給与臨時措置令(十月)、価格等統制令(十月)、総動員物資使用収用令(十二月) … 。(詳しくは、拙著『山本五十六の大罪』参照)

 ◇ ◇ 大政翼賛会という一党独裁への道=社会主義への道

 五・一五事件とは、マルクス・レーニン主義に立脚した「政界再編成」であった。「政党−財閥」の連携協調関係を「癒着」と誹諾しつつ、暴力的に破壊して一党独裁への基盤づくりをめざすものであった。なお、戦後の全学連、民青、三派全学連、全共闘は、この五・一五事件の青年将校の流れをくむ、その後継者たちであった。また、敗戦で陸軍のエリート将校が大挙して日本共産党に入党した
 ところで、海軍士官を中核とする五・一五事件の革新(左翼)将校と、陸軍士官からなる二・二六事件の革新(左翼)将校とは、若干のスタイルの相違はあるが、後者は前者の直接の後継者で、革新(共産革命)度がより過激になった。スタイルの相違とは、五・一五事件の「檄文」はマルクスやレーニンの用語をそのまま丸写しする幼稚なものだが、二・二六事件の「決起趣書」は、「神洲」「万世一神」など古色蒼然とした民族至上主義で神がかり的な言葉をちりばめ「右翼」風に包んでマルクス・レーニン主義を表に出していない
 だがこれは、マルクス・レーニン主義を「日本化」したためで、過激な暴力革命の常として、フランス革命時にギリシャやローマ風の模倣が流行したように、古代回帰現象を呈しているにすぎない。たとえば、マルクス・レーニン主義の描く理想社会として共産社会をもって、日本古代の理想上の、天皇を戴く「私有のない」平等で和合一致の農民中心の共産社会が存在していたと空想し理念化してこれにおき替えれば、「一君万民」の社会とその体制としての「国体」が理想郷となる(※大化の改新において、土地を国のものとし、私有財産を廃止している。中央集権化には成功したが、土地の私有化への反発から、私有化を許す事になった。古代日本こそ、人類史上最初の社会主義化を実現し、失敗している)。当時の「国体」とは、政治学上の用語である“国体”ではなく、「一君万民」の日本型共産社会体制のことをさしていた。だから、政策をめぐつて対立し競争する議会制民主主義の手段としての政党とか、私有を絶対視して初めて成立する自由主義経済(財閥はそのシンボル)は、「決起趣意書」にあるように、理想郷の「国体=共産社会」を「破壊する元凶」となる。また、実在の天皇が「一君万民」の日本型共産社会における日本型レーニンでないのは、君側の奸臣が存在するためだとなって、これを「斬除」「誅滅」することが、マルクス・レーニン主義における「正義」と同義になる。
 『ビルマの竪琴』の著者である竹山道雄も、「狂信的な軍人革命家たちは、彼らが想像(幻視)する性格の天皇に対してはきわめて忠誠だったが、(議会制民主主義を守ろうとする)現実の天皇の意思表示はほとんど無視した」と分析し、「青年将校たちがした暗殺は、イデオロギーによる直接行動だった。そして、そのイデオロギーとは、ブルジョワ(資本主義)体制を排して国家社会主義をたてようという、一九二〇年三〇年代の世界の共通の現代的なものだった」と述べている。
 戦後の日本は、左翼マスコミや左翼大学人らによる、戦争責任のすべてをかつての「共犯者」軍部に転嫁するための巨大な嘘宣伝(プロパガンダ)に洗脳されすぎて、社会主義者であるが故に当時すでに革新将校と呼ばれた彼らを、ありのままに正しく“左翼”とせず、「右翼」だと逆さにレッテル貼りする情報汚染からいまだに洗浄されていない
 天皇がレーニンのように絶対権力をもつとすれば、天皇の廃止なしには明治憲法を破棄それは不可能であった。心情的には過激な暴力革命論者だから、近衛文麿は頭のなかでは天皇をロシアの皇帝(ツァーリ)のごとくに銃殺して自らが「日本のスターリン」になることを何度も考えるのだが、そして憲法改正すらも考えるのだが、最終的に近衛はこれらの改革(=革命)を時期尚早と判断したようである。
 とすれば、一九四〇年の日本では天皇の御存在と明治憲法とが、日本が全体主義(ファシズム)の独裁政党体制に完全に陥っていくのを防いだのである。四年前の二・二六事件の軍部のクーデタをつぶして議会制民主主義を守ろうとした昭和天皇と同じ働きを明治憲法がなしたのである
 この事実をさかさまにして、明治憲法が軍国主義の元凶のごとくに中傷するのが戦後の極左政治学者・憲法学者たちである。彼らの学問とは学問ではない。共産軍命イデオロギーのための悪質な詭弁でありデマゴギーでしかない
 帝国陸軍の社会主義化・共産主義化はひどく、敗戦でそれが解体されるやこれら陸軍のエリート将校が大挙して日本共産党に入党したように、一九四〇年代に入ると、ともに日本の社会主義化/東アジアの社会主義化を理念として、帝国陸軍の中枢(主流)と日本共産党とのあいだには、差異はほとんどなくなっていた
 たとえば、二・二六事件(一九三六年)のころの陸軍の「左翼」度は、共産党の天皇制廃止とは逆に天皇に日本型レーニンの役割を担ってもらう幻想をまだ信条としていたが、終戦のころは日本共産党と同様に天皇廃止が主流となり、親英米の自由主義者であり反・社会主義者であった昭和天皇を(空襲からの安全のためという嘘をもって)満洲に追放していソ連軍に渡すことを画策したり、実際にも八月十四日深夜から十五日未明にかけての「宮城クーデタ」では、皇居に監禁しポツダム宣言受諾の破棄を脅迫することになつていた。その後は、銃殺すら検討されていた。
 本文においてすでに指摘したとおり、陸軍の「ソ連仲介」も、その真意はソ連軍を日本列島に進駐させることを視野に入れて満洲・樺太から沖縄までソ連に貢ごうとしたものである。上記の先帝陛下の玉音放送阻止の「宮城クーデタ」の第一目的は、米国への降伏によって日本が自由主義体制に逆戻りする、それを阻止してソ連軍が日本に侵攻してくるまで継戦するのが目的であった。

 ◇ ◇ 大川周明を熱烈支援した朝日新聞

 北一輝とならぶ「右翼」イデオローグと分類されている大川周明も同様で、日本社会主義研究所を設立したように、自らを(日本における社会主義者の先駆者である)幸徳秋水の後継とも考える過激な社会主義(共産主義)者であった。日本の社会主義化にレーニン的暴力革命の方法で実行することを画策しつづけた人物である。だから、「赤い軍人」と(彼らの洗脳も兼ねて)交際し、親ソ一辺倒の共産主義者の橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長、中佐)が中心の桜会と共謀しての三月事件(クーデタ未遂、一九三一年)を計画したし、一九三二年五月十五日の五・一五事件ではこれに深く関与していた(禁鋼五年)。
 大川周明の目的は、英米系自由主義の政治体制の政党政治(議会制デモクラシー)つぶしであり、市場経済システムつぶしであり、軍部そのものをロシア共産党と化して日本を一党独裁の社会主義国家に変革することであった。日本共産党との相違は、日本という国家を重視して、ロシア共産党の支配を受けることやロシア共産党に奉仕することを拒否するという点だけしかなかった。「ボーダーレスの共産主義者」でなく「ボーダーフルな共産主義者」であった。
 だが、五・一五事件から十年を経ると、「右翼」や革新軍人におけるこのボーダーフルの枠組死守の姿勢は消えて、つまり「国家主義」的な社会主義着たちは、ロシア共産党や中国共産党を“同志”と考える日本共産党に同化していくのである。
 ところで、この五・一五事件の首相殺害のテロリストたちを無罪にしろ! 法を枉げろ! 法なんかなんだ!と、“コミュニストの巣窟”朝日新聞(東京)が社をあげて連日文字どおりの一面トップの大キャンペーンを展開したことを忘れてはなるまい。革新(左翼)将校は純真で至誠の士である、などとの詭弁をもって軍法会議(軍人を裁く特別裁判所)に助命・減刑の嘆願をしようと呼びかけ、次のような大見出しで翌一九三三年の七月から九月にかけて、「世論」を煽りに煽ったのである。
「止むに止まれぬ祖国防衛権行使」(八月二十二日付)
「公益のための違法一点の私心なし」(八月二十三日付)
「浅井中尉の熱弁に被告・法廷に泣く 高須裁判長唇をかみしむ」(九月十二日付)
「犬養は死所を得た」(九月十四日付)
「眠れる我国民を揺り起したもの」(九月十五日付)
「被告等の純心具さと愛国の熱情を認む」(九月十六日付)
「求刑反対で自殺一徹な老伍長」(九月十六日付)
「退団兵も減刑歎願 裁判長へ五百通提出」(九月十六日付)
「道義日本の確立 破壊活動の真目的」(九月二十一日付)
「首をさげて検察官黙然 論告の補足をせず」(九月二十一日付)
 このように、帝国陸軍のエリート将校群の中枢は、一九四〇年代に入るや共産主義者の巣窟となりつつあったし、戦後日本の共産軍命の戦士たち(人材)を東大・京大などとともに輩出した一大供給源であった
 一九三一年から一九四五年にかけての「軍国主義」、それは陸軍主導による日本の社会主義(共産主義)化を「上からの革命」によってなしとげようとしてきた日本型「共産革命」の表象にすぎない表層の「軍国主義」現象の、その基層は、「(共産党や社会党でなく)陸軍を独裁党とする日本の共産主義」革命運動であった
 日本の「軍国主義」が、日本の「共産主義」革命運動が生んだ一現象であるならば、日本の大東亜戦争とは、社会主義(共産主義)イデオロギーが生んだ戦争でありもし大東亜戦争を非難するのであれば、その母胎となった、戦前日本の社会主義(共産主義)革命熱をまず非難すべきであろう
 戦後の日本において、「大東亜戦争=軍国主義」という公式が宣伝されたのは、共産主義を聖化して共産主義革命を大東亜戦争批判(非難)の外に避難させておくためのレトリック(詭弁)であった。“大東亜戦争=日本と東アジアの共産主義化”という歴史の真実を隠す、情報操作の一つであった



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