日本の再生:英国教育改革
  〜英米に学ぶ国家再生の真実〜


 [国家再生の哲学](モラロジー研究所 八木秀次著)、[教育基本改正から始まったイギリス教育改革](日本会議 糀島有三著)を抜粋しました。

 英米がその道徳と教育の荒廃について、当時の日本をお手本にしてどのように改革したのか、サッチャー改革とレーガン改革を通じて、日本本来の姿に立ち戻ろうとの主張をご紹介させて頂きます。その中で、国家を過去現在未来に永続させるための五つの要点を述べておられます。是非、原書の一読をお薦め致します。

 旧ソ連から「鉄の女」と賞賛されたサッチャー英首相が、87歳、脳梗塞で亡くなった。心からのご冥福をお祈り致します。彼女は、「ゆりかごから墓場まで」の過剰福祉の下で蔓延した英国病を克服し、英国に自信と誇りを取り戻したのみならず、当時のレーガン大統領と中曽根首相と共に、ベルリンの壁を打ち倒して、ゴルバチョフ大統領自ら旧ソ連を崩壊させた。当時の英国は、白人は有色人種に極悪非道なことをし続けてきたと、現在の日本以上の自虐史観を公教育で行っていた。英米共に教育の荒廃からの脱出を掲げ、日本の教育制度を取り入れ、教育の再生をもたらした。



◇イギリスでも問題になった偏向自虐歴史教科書

  一九八二年(昭和五十七年)七月、文部省が歴史教科書の記述を「侵略」から「進出」へと書き直させたとする「教科書誤報事件」が発生しました。
 実際は書き直しの事実はなかったのですが、この事件に対する中韓両国の激しい非難に屈した時の鈴木内閣は、教科書用図書検定基準に「近隣のアジア諸国との問の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という近隣諸国条項を盛り込んでしまいました。
 以後、この条項によって文部省(現・文部科学省)は検定を通じて教科書内容の中立性を保つことができなくなり、「南京大虐殺」(史実はこちら)や「侵略戦争」「従軍慰安婦」などが強調された歴史教科書が学校現場で使われるようになりました。
 かくして今日に至るまで日本では、偏向歴史教科書の横行を是正することのできない状態が続いているのです。実は、こうした偏向歴史教科書問題に苦しんだのは日本だけではありませんでした。

 一九八五年(昭和六十年)、イギリスでは、インナー・ロンドン教育当局が管轄する中学校(十一歳〜十四歳)で使用されていた一冊の自虐歴史教科書が保守党の政治家たちによって問題視され、大きな波紋を投げかけていました。
 「人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか」と題するその教科書は、イギリス植民地支配の残虐性とその犠牲となった有色人種(アジア、アフリカ、中南米の人々)の悲劇をグロテスクなイラストで強調する一方、イギリスを「人種差別に満ちた侵略国家」と非難し、イギリスのアイデンティティに深く関わる国旗、キリスト教、君主制に対する激しい憎悪を煽るものでした。 なぜイギリスでこのような自虐歴史教科書が横行したのでしょうか。
 その背後には、次に説明するように、イギリスの戦後教育の枠組みを決定した一九四四年教育法が深く関係していました。



◇労働党主導で作成された一九四四年教育法

 一九四四年教育法は、一九四四年(昭和十九年)八月三日、チャーチル首相率いる保守党・労働党連立内閣の下で作成されました。当時は、国家存亡を賭けた第二次世界大戦の最中であり、チャーチル首相は国内政策の大半を労働党に委ねていました。このため、「チャーチルが率いる保守党が、戦争遂行のための緊急課題に専心するあまり、国内政策のかなりの部分、とりわけ平和のための課題の作成を連立政権内の社会主義者に任せてしまったことも事実だ」とサッチャー首相がのちに嘆いているように、イギリスの戦後教育を決定したこの法律は、労働党主導で作成されたのです。
 そのため、労働党の教育政策が色濃く反映されることになりました。その教育政策は次のようなものでした。
※もし、自民党が大震災対策に乗り出していれば、内政については左翼民主党に完全に牛耳られ、日本の政治経済は破綻し、日米同盟の無効化、外国人参政権と沖縄自治区の誕生により、日本は第二のチベット化していたに違い有りません。 登録者


■第一に、「児童の権利を尊重する人権教育の推進」でした。
 労働党の教育政策に大きな影響を与えた教職員組合の一つ、「教師労働者連盟」のレッドグローブ委員長は一九二五年(大正十四年)、「学校で教える内容のリストの第一に市民権が挙げられなければならない。子供は自分の権利と特権について理解し、共同社会が自分に何を期待しているかを理解しなければならない。そのことは、社会主義の諸原理を理解することを含意している」と述べ、資本主義国家に対抗するための「市民の権利」を子供たちに教える人権教育の重視を強調していました。

■第二に「イギリス帝国主義批判の歴史教育の推進」です。
 前述した「教師労働者連盟」が掟案し、一九二六年(大正十五年)の労働党大会で採択された方針には次のように記されています。
 「本大会は、学校の中に広くみられる反動的で帝国主義的教育を批判する。とくに、帝国記念日の行事と、反労働階級的な偏向をもった歴史その他のテキストの使用が問題である。それゆえに、労働運動の教育組織、労働党支持の学校管理者や地方教育当局のメンバーは、帝国記念日の祝賀行事をやめ、反労働階級的見地から善かれた教科書を排除するために目下使用中の教科書を調査するための措置を講じるよう呼びかける。」
 つまり、イギリスによる植民地支配を正当化するような歴史教科書の記述を改めるべきだと主張しているのです。

■第三に「教師の自主性を尊重する教育行政の確立」です。
 つまり、「人権教育」や「反帝国主義の歴史教育」を行うために、労働党は一九四四年教育法の制定過程において、「何を教えるかは本来教師の問題である」という原則を教育行政に確立するよう強調しました。こうした労働党の戦略は功を奏します。



◇一九四四年教育法は「条件整備法」

一九四四年教育法は全部で百二十二条ありますが、教育の内容、教授方法についての基本的な規定条文はありません。教育内容は教師の自主性に委ねるべきであって、国家は関わるべきではないという労働党の戦略を踏まえた法律となつているのです。
 では、実際に学校を管轄するのはどこか。一九四四年教育法の第一条には、「文部(教育)大臣の任命及び教育省の設置…「大臣」の任務は、…教育的サービスを提供するための国家的政策を、その監督および指揮の下に、地方当局に効果的に実施させることである」と規定されており、学校の管轄は地方教育当局に任され、国は直接学校現場に対して指揮・監督をしないという行政システムになつていました。国が担当するのは予算策定などの「条件整備」に限るという趣旨であり、一九四四年教育法は「条件整備法」とも呼ばれていました。
 それでは、学校現場で教えるべき教育内容は誰が決めるのでしょうか。
 法律上は、地方教育当局ですが、実際は、教師に委ねられることになりました。イギリスの教育史家のブライアン・サイモン教授は、「英国の中央政府は学校で教えられるカリキュラムをコントロールしていません。各学校は教えたいことを自ら決定し教えることができます。また、政府は、どのように教師は教えるべきかについてもコントロールしていません。教師自らが教育方法を決めているのです」と述べています。
 以上のように、一九四四年教育法の基本原則は、教育内容を教師の自主性に委ねた「条件整備法」であったのです。そのため、その後、労働党と、労働党と連携した教職員組合は「教師の自主性」の名の下に、自らの思想を学校現場に浸透させていくことになつたのです。



◇「反人種差別教育」の横行

 労働党、特に社会主義イデオロギー色の強い労働党左派は、地方教育当局を活動拠点として、イギリスの歴史や伝統を否定する教育政策を推し進めていきました。一九六〇年代以降、旧植民地諸国が相次いで独立する中、独立戦争中にイギリスに味方をした人々が中南米、アフリカ、インド等から移民としてイギリスに流入、人種間題が深刻化しました。学校も例外ではなく、英語を話せず、キリスト教以外の宗教を信仰する生徒の増大にいかに対応するかが教育関係者の大きな関心事となりました。
 組合教師たちは、移民の子供たちに配慮し、移民たちの生活スタイル(信仰、衣服、食習慣)を尊重した学校運営を目指すようになります。例えば、イギリスの公立学校でありながら、「国語(つまり英語)」の時間を削って、インドや中南米の言葉を教えたり、イギリス史ではなく、中南米の歴史を教えたりするようになつたのです。イギリスの公立学校では、毎日の授業は集団礼拝で始めることが義務付けられていましたが、キリスト教徒以外の生徒に配慮して、集団礼拝を取り止める学校も増えていきます。
 この傾向は、一九七〇年代、労働党左派が提唱した急進的な「反人種差別教育」の登場とともにさらに顕著になっていきます。彼等が唱えた「反人種差別教育」とは、「白人は本来人種差別的な思想を持っており、それは英語、キリスト教、君主制と密接不可分な関係にあるため、それら白人の伝統的価値観を解体しないことには人種差別はなくならない」という考え方で、イギリスの伝統的価値に基づいた制度や思想をすべて否定することが正しいとする教育政策でした。
 それは、伝統的価値観に支えられた保守党の支持基盤を、学校教育を通じて解体するとともに、有色人種の移民たちに迎合することでその支持を拡大しようという労働党の政治権力闘争の一環であったのです。そして、この「反人種差別教育」の教材、はっきり言えば、政治闘争の武器として作られたのが、問題の教科書「人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか」であったわけです。
 その意味するところは、自らが誇りとしてきた国語(英語)、国旗(ユニオン・ジャック)、君主制、世界中を支配してきた大英帝国の歴史は、すべて植民地支配を受けた人々の犠牲の上に成り立っているのであり、我々イギリス人はアジア・アフリカの人々に購罪意識を抱くべきであるという考えを子供たちに教えよう、ということです。
 この「反人種差別教育」は、労働党が牛耳る地区の地方教育当局によって積極的に推進され、「歴史」の時間にインド史や中南米史ばかりが教えられることに疑問を抱いた教師、更に移民の子供たちにしっかりと「国語(英語)」を教えるべきだという教師は「人種差別主義者」というレッテルを貼られ、最悪の場合、教師を辞めさせられるという事態が生まれるようになったのです。
 しかも、こうした偏向教育を取り締まるべき教育省は、事態を傍観するばかりか、積極的に追認するようになります。一九八五年(昭和六十年)、教育省の諮問機関である「少数民族グループ出身の子どもの教育に関する調査委員会」は、「スワン報告書−−すべての子供たちのための教育」を発表。「伝統的価値観に教育の基礎を置く」という保守派の考え方を明確に否定し、「イギリス社会における深刻な人種差別の責任は、社会において多大な支配権を有する白人にある」と批判した。つまり、植民地支配や奴隷貿易などを題材に、国旗、君主制、キリスト教などイギリスのアイデンティティに関わるものを批判する「反人種差別教育」の実施を事実上容認したのです。



◇一九八八年教育改革法1サッチャー教育改革の集大成

 労働組合の専横と長期にわたる経済不振、満足に自分の名前も書けないまま中学校を卒業する子供たち、イギリス国民としての誇りを持てずに自信を失う若者たち、これら「イギリス病」の深刻化は、誰の目にも明らかでした。加えて、移民の急激な増大と、自虐歴史教育や反キリスト教教育といった「反人種差別教育」の横行が、このままではイギリスはキリスト教を基盤にした白人の国ではなくなるという危機感を一般の国民たちに抱かせました。
 そのような危機感を背景に、一九七九年(昭和五十四年)、「イギリス病」克服を掲げて登場したサッチャー保守党政権は、経済再建と共に、イギリス国民としての誇りの回復、道徳の重要性を訴え続けました。
 ですから一九八五年(昭和六十年)、自虐歴史教科書「人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか」が発行されると、サッチャー政権は直ちにその内容を問題にしました。そして一九八七年(昭和六十二年)、インナー・ロンドン教育当局下の中学校でその教科書が使用されていることが判明すると、その使用を中止させようとします。しかし、一九四四年教育法においては、いかなる教材を使うかは地方教育当局と学校長の権限であり、政府に介入する権限があるかどうかは明確ではなかったのです。
 次代を担うイギリスの子供たちが、満足に自国の歴史も教えられないまま、自国への自虐意識だけを植え付けられるという事態を放置していていいのか。
 サッチャー首相はこう語っています。
「私は、かつての教師に比べて能力が劣る教師やイデオロギー色の強い教師が多すぎると思っていた。「子供中心」の新しい教授法、事実の取得よりも想像的な取り組みに重点を置くやり方、別々の教科なのにその境界をぼかして「人文科学」といったような漠然としたものに組み入れてしまう昨今の傾向を信用していなかった。それに、親たちや雇用者、生徒たちに直接接して知ったのは、読み書き計算という基本的な知識を身に付けないまま学校を卒業する者があまりに多いという事実だった。だが、学校のありようを改善するのは決して容易な問題ではない。
 一つの選択肢として、中央集権化をさらに進めるという通が、理論上考えられた。実際私は、少なくとも中心教科についてはカリキュラムにある程度一貫性をもたせるべきだという結論を得ていた。国は子供たちが学ぶ内容をなおざりにするわけにはいかない。何といっても彼らは将来の公民なのであり、われわれは彼らに義務を負っている。それに、ある地域の学校からよその学校に転校した子供たちが、これまでなじんできたものとはまったく違う教育課程に出合った場合、そこに混乱が生じる。また、全国統一カリキュラムをつくるとなると、これと相まって、子供の学業のさまざまな段階に応じた試験制度が必要となる。この試験制度は全国的に認知され、倍頼性の高い監督を受けるものでなければならず、これによって親、教師、地方当局、中央政府はうまくいっている点と不都合な点を知ることができ、必要なら救済措置を講じることができる。」

 以上のように、サッチャー首相は、戦後イギリスの学校数育を規定していた一九四四年教育法の原則、つまり教育内容は教師の自主性に委ねるという考え方を抜本的に改め、「教育内容は国家が責任をとるべきだ」という基本原則を打ち出すことで、偏向教育の問題を解決しようと考えたのです。

 当然のことながら、野党の労働党も教員組合もマスコミも、そして教育省官僚たちまでも、「国家が教育内容を決定する。そして、その内容は伝統的価値観の継承を基本とする」という基本方針に対して、「国家による教育の統制反対」、「自国中心主義で、排外的だ」といった声を挙げました。
 しかし、国民の多くは、このサッチャー改革を圧倒的に支持したのです。かくして一九八八年、「第一条 すべての公費維持学校への教育権は教育大臣にある」で始まる教育改革法が成立しました。これはサッチャー保守党政権の教育政策を集大成する教育法でした。
 この教育改革法の特徴は、学校数育に対する国家の責任と権限を明確にしたことです。

■第一に、何を教えるのかを国が決定しました。
 「国語(英語)」「数学」「科学」を中心教科に、「歴史」「地理」「技術」「音楽」「美術」「体育」「外国語(中学校から)」を基礎教科と定め、組合教師たちが自らのイデオロギーを教えるための隠れ蓑としていた「総合学習」といった科目は排除しました。

■第二に、国定カリキュラムの導入
 これら中心教科と基礎教科をどのように教えるのかというカリキュラムを、国が決定することにしました。

■第三に、学力達成度の調査
 国定カリキュラムの内容が学校現場できちんと実行されているかどうかをチェックする国の権限を規定しました。具体的には、義務教育の期間中に、四回の全国共通試験を実施し、児童・生徒の学力達成度を測ることにしましました。学力達成目標に到達しない児童・生徒を受け持つ教師及び学校は、その責任を追及される仕組みを設定したのです。当然のことながら、国定カリキュラムに違反して偏向歴史教育を行ったり、組合活動を理由に授業を放棄したりする教師は、厳しい取り締まりの対象となりました。

■第四に、「キリスト虚」を必修
 イギリスの宗教的伝統がキリスト教に基づくことを踏まえて、「キリスト教」教育を必修としました。イギリス国民である以上、イスラム教徒であろうと、ヒンズー教徒であろうと、キリスト教を理解しなければならないとしたわけです。


 この一九八八年教育改革法の制定で、イギリスの学校教育の様相は劇的に変わっていくことになります。



◇劇的に改善された学校教育
  〜歴史教科書はいかに改善されたのかーイギリス暗黒史からイギリス繁栄史へ〜

 最も劇的な変化は、歴史教科書に見ることができます。
 本書表紙で紹介しているように、一九四四年教育法の下では、「人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか」といった教科書がロンドンの中学校で使用されていましたが、二〇〇四年(平成十六年)現在、実際に使われている中学校用歴史教科書の一つ、拡張の時代一七五〇年〜一九一四年」では、交通機関の発達や女性参政権運動など「イギリスが近現代においていかに繁栄してきたのか」というテーマで、イギリスの近代史が記述されています。
 イギリスでは、教科書は自由発行ですので、中学校用の歴史教科書は多数ありますが、入手した中学校用歴史教科書数冊を見る限り、基本的に「繁栄の歴史」の基調は変わりません。なぜ、歴史教科書がこのように変わったのでしょうか。ポイントは、一九八八年教育改革法で「国の権限」とされた国定カリキュラムの存在です。

 一九四四年教育法の下での歴史教育の偏向ぶりは、大別して二点ありました。
■第一に、イギリスの通史の軽視
 つまり移民の子供たちへの配慮や社会主義イデオロギーといった影響から、歴史の授業の時間配分が、インド史や中南米史、アジア・アフリカの植民地支配史、イギリスの労働運動史などに偏っていたのです。

■第二に、自虐的
 つまりイギリスの植民地支配や奴隷貿易など、負の側面ばかりに焦点をあて、イギリス国民であることに誇りを持てないような内容になつていたという問題です。

 前者の時間配分については、国定カリキュラムにおいて、歴史の授業時間の半分はイギリスの通史にあてることが決められました。
 後者の問題については、国家への帰属意識を育むのが歴史教育の目的だとする考え方に基づいて、光の部分を積極的に取り1げる国定カリキュラムを作成することによって解決しょうとしています。
 まず、「植民地支配」に関する記述ですが、国定カリキュラムにおいて、「南アジアやアフリカにおける植民地貿易がもたらしたイギリスの繁栄、アメリカ独立戦争−イギリス軍とフランスの支援を受けたアメリカ反乱軍との戦い、ナポレオン戦争におけるネルソン、ウェリントンが果した功溝、歴史に残る重要人物の人生−例えば、世界探索を果したD・リビングストーン」などをきちんと教えるように規定されています。こうすることで、植民地支配の光の部分に焦点をあてた教え方が求められることになつたのです。
 「奴隷貿易」についても、「南アジアやアフリカにおける奴隷貿易がもたらしたイギリスの繁栄、イギリスが世界に先駆けて実現させた奴隷貿易の廃止(一人〇七年)」などを特記するよう規定されています。そうすることで、奴隷貿易の負の部分は当然触れるにしても、同時に、イギリスが奴隷貿易廃止に真っ先に立ち上がったという光も知ることになるわけです。
 最後に「君主制」、特にビクトリア朝(一人三七〜一九〇二竿)に関する記述についてです。
 ビクトリア朝は資本主義が高度に発達した時代であり、インド支配を完成させるなどイギリス帝国主義の最盛期であったのですが、そのもとでイギリスの労働者階級は貧困と環境破壊に苦しみましたし、アジアの諸民族にとっては悪夢の時代でした。しかし、国定カリキュラムでは、あくまで光の側面に焦点をあてています。
 一九八八年教育改革法によって生じた歴史教育論争の最中、サッチャー首相は一九八九年(平成元年)九月、ベルギーで演説し、「ヨーロッパ人がいかにこの世界の多くの土地を探検し、植民地化し、そして私はなんら釈明することなく申しあげますと、文明開化したかはまことにすばらしい勇気と才覚の物語でありました」と言い放ちました。歴史教育を政治的に利用する勢力に対抗するためには、首相として明確に対応するしかない、という覚悟のほどが伝わってきます。
 もちろん、国定カリキュラムがこう規定されたとしても、教科書出版会社はその規定に従う法的義務はありません。一九八八年教育改革法の下でも、教科書は引き続き自由発行であり、教科書検定制度も導入されませんでした。そのため、国定カリキュラムに基づかない歴史教科書も存在します。
 しかし、国定カリキュラムの内容を理解させる義務が教師の側に課せられ、その結果は、七歳から十六歳までの四回の全国共通試験において数字で示されることになりました。もし成績が悪ければ、教師の責任が追及されることになります。
 そのため、教科書を採用する教師たちが、国定カリキュラムの趣旨に基づいた教科書を求めるようになつたのです。教科書出版会社も採用されなければ意味がありませんから、必然的に国定カリキュラムに添った内容の教科書を作らざるを待なくなつたのです。日本の教科書検定制度が入り口によるチェックだとすると、イギリスのやり方は出口によるチェックと言えましょう。



◇宗教教育はいかに改善されたのか

 宗教教育もまた、大きく変わりました。
 宗教教育は一九四四年教育法の下でも必修とされていました。 しかし、第二次世界大戦後、宗教に対して反感を抱く社会主義イデオロギーをもった組合教師たちの出現や、キリスト教以外の宗教を信じる移民の子供たちへの配慮、そして「価値観の押しっけは良くない」というアメリカの教育学者のデューイが提唱した「児童中心主義」という教育方法の広がりなど、さまざまな要因から、学校における宗教教育は形骸化されていきました。そして、宗教教育が行われなくとも、国も地方教育当局も、必ずしも注意をしませんでしたし、学校現場で宗教教育がどのように行われているか、チェックも徹底していませんでした。
 しかも一九八〇年代に入ると、「反人種差別教育」の横行とともに、国教たるキリスト教の教育は、二つの側面から攻撃されることになります。


■第一は、デューズベリ事件
 一九四四年教育法では「宗教教育の必修」は謳われていましたが、その「宗教」とは「キリスト教」とは限らないという条文解釈に基づいて、有色移民の子供が多い公立学校においては、イスラム教やヒンズー教だけが教えられるという傾向がありました。 その象徴的事件がデューズベリ事件です。
 一九八七年八月から九月にかけて、デューズベリ市で、二十六人の白人生徒(七〜八歳)の父母たちが、予定されていた公立小学校への入学を拒絶し、別の小学校への入学を希望したものの地方教育当局によって拒否される事件が起こりました。父母たちが入学を拒絶した小学校は、アジア系生徒が八十五%を占め、「授業を英語で行わない」「クリスマスを祝わない」「キリスト教教育を軽視している」などと言われていました。
 そこで、父母たちは、白人生徒が九十%以上を占める別の小学校への入学を希望したのです。「なぜ、自分の娘はイギリス(の公立小学校)で他の文化を学ばなければならないのか」という白人の父母の訴えは、同様の問題に苦慮していた人々の同情と共感を呼び、大きな社会問題になりました。事件は一年近い混乱の後、一九八八年、地方教育当局が父母たちの希望する小学校への入学を許可したことでようやく終息しました。


■第二に、キリスト教非難
 問題の歴史教科書F人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか」に象徴されるように、「人種差別を正当化するキリスト教」といったキリスト教非難が学校で繰り広げられていました。 神に近い順番に白人支配者、アフリカ人と中国人奴隷、絶滅するその他の民族という形で三つの階級に分けて描き、白人が支配者として他の民族の上に君臨する階級制度を正当化しているのがキリスト教だと非難しているわけです。
 キリスト教教育の形骸化と、キリスト教を攻撃する偏向教育の横行は、イギリス国民の規範意識を確実に麻薄させていくことになりました。実は、イギリスも日本と同じく、いじめや校内暴力、犯罪の増大といった青少年の心の荒廃に苦しんでいました。この心の荒廃を救うものこそ、キリスト教を中心とする宗教教育だと考えたのが、サッチャー首相でした。
「…現在の問題(犯罪、福祉依存、家族の崩壊) の解決が要求する実際的な方法で、社会を再道徳化するのに必要な徳目を、西欧社会の大多数の人間に示すものが、キリスト教以外に何かあるとは想像しがたい。キリスト教の借着は保守主義者でなければならないという見方には同調しないように私自身は努めてきたのであるが、私が望ましいと思う経済政策とキリスト教の識見との間には、深遠で神の摂理による調和があるという確信を失ったことはない。」

 このような社会哲学を背景に、サッチャー首相は国民の支持を得て、一九八八年教育改革法に、「第八粂 教育課程で要求される宗教教育 第三項 教育改革法後のアグリード・シラバス(協定指導細旦は、大英帝国の宗教的伝統は主としてキリスト教であるという事実を反映しなければならない。と同時に他の主要宗教についても考慮すること」という規定を盛り込みました。
 前述したとおり、一九四四年教育法の下での「宗教」教育は「キリスト教」教育を指すという明文規定がなかったため、他の宗教が教えられるようになり、キリスト教教育は相対化、形骸化されてしまいました。そこで、一九八八年教育改革法第八条に明文規定を入れることで、キリスト教教育の位置が定まったのです。

 そして、国定カリキュラムに基づいて教育現場をチェックする専門機関「教育水準局」を設置し、教育困難校と認定された場合には閉校となる(1998年までに、教育困難校173のうち、31校が閉校となった)。加えて、「教員養成委員会」を設置し、教員への賞罰実施し、子供達に教えることの出来る教師こそ素晴らしい教師だとして、教員の質の向上を図っている。最後に、教育に対する親の権限と責任(罰金を含む)を確立した。

     



◇国家への忠誠心を育むイギリスの学校教育

 かくして次々に教育が改革されたことで、ブレア労働党政権は二〇〇一年三月、「イギリス病克服宣言」を発しました。そしてその年の十二月、さらなる教育改革を始めます。
 ブレア政権のデービッド・ブランケット内務大臣の諮問委員会「社会秩序調査チーム」が人種間邁に関する報告書「社会の結束」を発表し、「特に教育政策において、イギリス国民とは何かの概念の確立が必要である。その概念とは、その国の歴史を通じ、すべての文化が国家の発展に貢献することを理解し、その国に対しはっきりと忠誠心を誓うことである」として、イギリス国民としてのアイデンティティと国家への忠誠心を養うことを学校教育の目的とすべきだと提案したのです。
 通称「キヤントル・レポート」と呼ばれるこの報告書を受け取ったブランケット内務大臣は、「民主主義においては、すべての国民は帰属する国家に対し基本的な権利と義務を持たなければならない。イギリス国民であることは、異なつた文化や信仰と我々が守り継いできた基本的価値に共通の基盤を見つけることを意味する」と演説し、二〇〇二年から「国家への帰属意識を高める」目的で中学校に「公民」教科を新設しました。
 日本の教育基本法改正論議の焦点の一に「愛国心」の文言を入れるかどうかがありますが、イギリスでは「国家への忠誠心」を誓う教育の導入が始まっているのです。しかも、この政策が保守党ではなく、あの「反人種差別教育」を推進していた労働党によって提案・実施されているのですから、驚きです。
 一九八八年教育改革法という法律による一種の「教育革命」が断行されたことによって、歴史教科書が変わり、宗教教育が変わり、家庭が変わり、青少年の意識が変わり、国民意識が変わり、労働党もまた大きく変わったのです。教育基本法の改正がいかに大きな影響を与えたかを実感させます。

 このイギリスの教育改革に私たちは何を学ぶべきでしょうか。 サッチャー首相は、教育荒廃や偏向教育の横行の原因を、社会情勢の変化や教員組合だけに求めませんでした。イギリスにも日教組のような存在はあります。それは当時、大きな問題でした。しかし、それのみにサッチャー首相は原因を求めませんでした。問題は、偏向教育ではなく、国家の責任において偏向教育を是正できない体制にあると総括したのです。つまり1944年教育法に規定された原則、すなわち「教育内容は教師の自主性に委ねる」という原則が、国から地方、地方から学校、学校から教師へという形で責任の拡散を生み、結局、教育に対する無責任体制を招いたと総括したわけです。
 その「総括」に基づいて、「教育に対する国家の責任と権限の確立」を掲げた一九八八年教育改革法を制定し、自国への帰属意識を育む歴史教育やキリスト教中心の宗教教育を実施すべく国定カリキュラムの策定に踏み切りました。
 更に国定カリキュラムに基づいて学校教育が実際に行われているかどうか、学校現場を直接チェックし、問題校を改善するシステムを確立しました。そしてそのことを通して教師の明確な目的が定まったのです。最後に「青少年非行の抑止には家庭の教育力の強化が必要である」として、子供の教育に対する親の権限と責任を明確にしました。
 以上のような対策の相乗効果によって、実際に、歴史教科書も宗教教育も学力水準も改善されました。そのすべての出発は、教育荒廃の原因を一九四四年教育法にあると総括した上で、「次代のイギリスを担う国民の育成」という観点から、一九八八年教育改革法を制定したことにあります。
 日本はいま新しい教育基本法を制定する途上にあります。日本の教育荒廃の原因はどこにあるのか、その原因を分析して、いかなる解決策を見い出すのか、イギリスの改革は一つの指針を示していると思います。


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