東京裁判日本の弁明:弁護側資料



 [東京裁判 幻の弁護側資料](筑摩書房 小堀桂一郎著)から抜粋しました。連合国は、南京虐殺という嘘八百を東京裁判を通じて、日本と世界を洗脳してしまいました。当時は、GHQにより事前検閲が行われ、東京裁判他に対する批判は一切出来なかった。だから、嘘八百だと分かっていても、日本人は一切批判できず、東京裁判での嘘が全国に垂れ流されてしまいました。
 その他にも、衝撃的な事実が地層のように積み重ねられています。どうか、原書を立ち読みでも何でも良いので、是非手に取って頂き、日本のために戦った人々の気概を感じることができると思います。
 多くの日本側証言が却下された様々な事件時ついて、米ソの情報公開により、日本軍の仕業ではなく、共産主義者中ソ、米による策略だったことが判明しています。下記の事件他については、[戦後の自虐史観の始まり]参照。
  ◇張作森爆殺事件はコミンテルンの謀略だった
  ◇「田中上奏文」はソ連が作った偽書だった
  ◇「近衛上奏文」による日本共産化の危機
  ◇満州事変、溥儀については、「紫禁城の黄昏」参照。




◆東京裁判所ではマッカーサー元帥の意志が法理に優先(P22)
 検察側の立証に入る前に、昭和二十一年五月六日、清瀬弁護人から、裁判長その他個々の裁判官に対し、裁判官としてこの法廷に立つ資格を欠く者との理由で忌避申立がなされる。ウエツブ裁判長の場合、同氏が既にオーストラリア政府の命令でニューギニアに於ける日本軍の戦時国際法規違反事例を調査し、報告書を提出しているという前歴があった。ウエツブ氏は同じ事件について検察官と裁判官の二役を務めていることになる。この忌避申立は従って法律的には極めて当然のものなのだが、この裁判所では「条例」制定命令権者マッカーサー元帥の意志の力が一般的法理に優先するとの理由でこの動議は却下され、その他の裁判官に向けての忌避も具体的な名前が出ないうちに却下された形になる。


◆五月十四日、ブレイクニ弁護人の「爆弾発言」(p23〜)
 広島・長崎への原爆投下という空前の残虐(これこそ起訴状に謂う「人道に対する罪」)を犯した国の人間にはこの法廷の被告を裁く資格はない、というものだ。
 この発言の衝撃的により、「条例」に定めてあるはずの法廷に於ける日本語への同時通訳が故意に停止され、最後まで復活しなかった。日本語に通訳されればそれは日本語の法廷速記録に留められて後世に伝わるであろうし、第一法廷の日本人傍聴者の耳に入り、その噂は忽ち巷間に広がってゆくであろう。そしてその発言にひそむ道理の力は、反転してかかる非人道的行為を敢えてしたアメリカという国の国威と、欺瞞に満ちたこの裁判所の威信を決定的に傷つけ、原爆の被害を受けた日本人の憤激の情を新たに著しく刺激するだろう。そこで同時通訳は瞬時に停止、早口の英語の弁論を理解する用意のない日本人傍聴者には、現在そこで何が生じているのか見当がつかぬ、という仕儀となつた。一般に人々がその弁論の内容を知ったのは、実にそれから三十六年余を過ぎた昭和五十七年の九月、講談社の企画・製作に係る長編記録映画『東京裁判』が公開上映された時に、その字幕を通じてのことである。
 戦争は犯罪ではない。戦争法規があることが戦争の合法性を示す証拠である。戦争の開始、通告、戦闘の方法、終結を決める法規も戦争自体が非合法ならまったく無意味である。国際法は、国家利益追求の為に行う戦争をこれまでに非合法と見倣したことばない。
 歴史を振り返ってみても、戦争の計画、遂行が法廷において犯罪として裁かれた例はない。我々は、この裁判で新しい法律を打ち立てようとする検察側の抱負を承知している。しかし、そういう試みこそが新しくより高い法の実現を妨げるのではないか。『平和に対する罪』と名づけられた訴因は、故に当法廷より却下されねばならない。
 国家の行為である戦争の個人責任を間ふ事は法律的に誤りである。なぜならば、国際法は国家に対して適用されるのであつて個人に対してではない。個人による戦争行為といふ新しい犯罪をこの法廷が裁くのは誤りである。
 戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない。戦争は合法的だからです。つまり合法的な人殺しなのです。殺人行為の正当化です。たとひ嫌悪すべき行為でも、犯罪としての責任は間はれなかったのです。
(次からの発言は、同時通訳が停止し、日本語の速記録にも「以下、通訳なし」としか記載されていません。連合国側にとって非常に都合の悪いことなので、意図的に記録を残さないようにしたと思われます)
 キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪になるならば、我々は広島に原爆を投下した者の名を挙げる事ができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も我々は承知している。彼等は殺人罪を意識していたか。してはいまい。我々もさう思ふ。それは彼等の戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。
 何の罪科で、いかなる証拠で、戦争による殺人が違反なのか。原爆を投下した者がいる! この投下を計画し、その実行を命じこれを黙認した者がいる! その者達が裁いているのだ!
 この件りは英文の速記録には載せられてある。だがそうした人は専門的研究者以外には極く少数だったであろう。だから特筆すべきこの挿話も、言論統制下の日本だったので、昭和五十七年までは一般には知られることのないままに歴史の行間に埋没していた。

 原子爆弾と共産主義の脅威は法廷の二つの禁忌として話題になるのを避けていたが、ブレイクニ弁護人は二十二年三月三日弁護側の反駁立証の段階で再びこれを法廷に持ち出した。原子爆弾投下はへーグ条約第四条への明白な違反であり、それは日本軍による同条約違反を相殺する性格のものであるが、裁判長は、この法廷は日本を裁く法廷であって連合国を裁く場ではない、との十八番の論理を以て、ブレイクニが証拠として提出した「スチムソン陸軍長官の原子爆弾使用決定」を報ずる新聞記事を却下し、証拠として受理することを拒否した。(P55)
 加えて、Youtubeに[東京裁判で戦犯とされる者を弁護する米国弁護士…]と題するVTRがアップされています。是非ご覧下さい。


◆「南京問題」の嘘八百(P27〜)
         〜連合国により、エスケープゴートにされた日本〜

 当時の南京の状況については[日中問題]参照。満州事変については[満州事変・シナ事変]参照。

 これは全ての日本国民にとって寝耳に水の衝撃だった。南京問題の証言に法廷に呼び出された検察側証人達は、簡単に言えばそこで思う存分に法螺を吹きまくり、見て来た様な嘘をつき放題に言い散らす。新聞報道を通じて唯一方的にその虚構を耳に吹きこまれる一般の市民、法廷内で直接それを聞かされる弁護人、記者、傍聴人達、いずれも遺憾ながらそれに反駁する力も手段も持ち合せていない。凡そ或る事実が「あった」という証明は証拠さえあれば誰にもできるが、「なかった」という証明は極めて困難である。占領軍が意図的に作り出したものであって、強制される情報に対してのこの無抵抗状能を作り出す手段が、新聞・放送及び一切の情報・言論論機関に加えられた悪名高き「検閲」であった。
 占領軍により日本の報道機関全般に向けての検閲は、占領の開始と殆ど同時に発足した。当然(極東国際軍事裁判に対する一切の一般的批判)が、削除又は掲載・発行・放送の禁止の対象として掲げられていた。従って東京裁判法廷に於ける南京問題の検察側証言が、全て如何に悪質な捏造と誇張の所産であるか、たとえ報道機関が感知したとしても、それを報ずることはできなかった。
 南京問題の弁護側の反駁立証は昭和二十二年五月上旬のことである。すでに十箇月の月日が経過している。この間南京では日本軍による「大虐殺事件」が発生したのだという虚構の認識は普く日本国民の間に広まり、動かし難い史実と思われて定着してしまった。
 何分事件全体が虚構なのであるから、事件の不存在を直接証明する形の証拠資料もあり得ないわけで、弁護側の提出した南京問題に関係する反証は、その様な事が起り得るはずがない、そんな事実を見た人はいない、といった形の消極的なものばかりで、且つ点数も少い。従って却下されたり未提出に終ったものも点数からいえば僅少であり、本書原本の資料集も、その点では別段の新しい論拠を提出するものとはなっていない。
 検察側の立証が終ったところで、一月二十七日に弁護側から公訴棄却の動議申立がある。これは、検察側は被告の有罪の立証に失敗している故、これを以て公訴棄却の手続が取られるべきだという、弁護の戦術の一手である。もちろんこの申立が認められるはずはなく、二月三日付で動議は却下される。


◆東京裁判の虚構(P29〜)
         〜拒否された日本側証拠と冒頭陳述〜

 二十二年二月二十四日に弁護側の反駁立証が始まり、十箇月半続く。その口火を切ったのが高名な清瀬一郎氏の「冒頭陳述」で、同氏の『秘録京裁判』に収録されてる。清瀬の陳述を筆頭として、日本は「検閲」を主要手段とする占領軍の厳しい情報管理体制下に置かれ、マッカーサー憲法(現日本国憲法)の白々しい謳い文句とは裏腹に、言論・報道の自由という権利は日本国民になかった。皮肉なことに、日本国内で唯一、この自由を表向き保証されていた空間が東京裁判法廷であった。清瀬氏初め、鵜沢稔明(弁護団長)、高柳賢三、岡本敏男といった有力弁護人が、当時の法廷外の社会ではとても公表できない様な堂々たる祖国弁護、連合国糾弾の議論を展開した。
 但しこの段階に於いて「日本の言分」の正当性を裏付ける証拠資料が、裁判所によって法廷証としての受理、採用を拒否され、却下の憂目に遭うという事例が大量に発生した。この事例こそが、本書の原本をなす全八巻の資料集の編纂・刊行が企図されざるを得なかった経緯の抑々の発端である。
 清瀬弁護人の冒頭陳述に於いてさえ、法廷での朗読を禁止され、結局同氏の『秘録・東京裁判』でも復元されなかった部分があったのだし、後にふれる高柳賢三弁護人の大弁論とても、初め清瀬氏のそれに続く冒頭陳述第二弾として提出されてあったのが、二十二年二月段階では朗読を認められず、一年後の二十三年三月の弁護側最終弁論の段階に至ってやっと法廷での朗読を認められたのだが、時既に遅しであり、それは実際上の効果としては却下扱いを受けたままであるのと同じことであった。



東京裁判で却下された弁護側資料

 裁判所自身に、弁護側提出の証拠はその(大部分)を却下した、との認識があった。この事態を弁護団側から眺めるとどの様に映ったか。
 このような事情のもとで弁護団側が準備し提出せんとした証拠のうち、その約三分の二は証明力なし、関連性なし、重要性なし等の訴訟指揮により却下される運命となり、一方では検察団側には木戸日記、原田・西園寺回顧録など多数の伝聞証拠の提出を許容し、弁護団側には最良証拠提出を要求して、このような証拠は却下するという事態にもなつたのである。弁護団はこの困難な事態にたいし、なかばあきらめつつも、その間隙をぬつて日本の立場と行動の実体を開明すべく努めたのであつた。
 日本人弁護団の副団長であった清瀬一郎氏は「日本週報」(昭和三十二年四月五日発行・第三五九号)が催した「極東裁判の五大秘密」と題する座談会の中で、(却下された証拠書類は相当の量になりますか)との司会者の質問に答えてこう語っている。
 それは膨大なものです。なかでも日本政府の声明、これはセルフ・サービング、つまり自分で自分を弁明するものだといつて初めから却下されてしまうのです。中国との戦争、これは日本では事変と言っているが、あの時分の蒋介石政府なり江兆銘政府との間の合意によつてできた声明、これも歴史上の記録ですが、みな却下です。おそらく弁護団側の出した証拠は十通のうち八通まで却下されたと思うのです。
 当時の日本政府の公的声明が全て却下というのは、この法廷が「日本の言分」には当初から耳を貸す姿勢がなかったことを物語る事実の証言として興味深い。「被告に対する審理の公正」を特に謳っている「条例」の下での審理の実態がこれであった。


■日本人弁護団の辛苦

 日本人弁護団の基本方針は、国家弁護の線を優先し、個人弁護は二の次にする、ということである。中でも天皇を証人として法廷に招請するという様な事態を絶対に避ける、という点では合意に達していた。
 当時日本人弁護人達が置かれていた生活上職務上の悪条件は、米国人の検察官・裁判官・弁護人連のそれと比べて筆舌に尽くし難いものであった。例えば代表的人物たる清瀬一郎氏自身が空襲の被災者であり、自宅焼跡近くの寮に仮住いを求め、焼跡にドラム缶をおいて風呂とし、南瓜を栽えて食糧を自給するといった生活であり、資料の蒐集・整理に助手として働いてくれる人達に日当を払いたくとも資金がなく、自らのポケットマネーで賄い得る限り遣り繰りし、企業を廻って資金援助を懇請して歩いたりした。
 それは当時の日本国として、昭和三年から二十年までの日本の政治・外交・戦争史についての日本側の言分の凝縮された集大成と評するに足るものであった。
 国内の機関と個人のみならず、米国人弁護人の努力によって集められた国際的広がりを有する情報の価値も大きい。それらは現在の視点から見れば現今の日本人研究者にも努力次第で蒐集可能な範囲のもの、と言えるかもしれないが、当時の日本人には到底入手不可能と思われた貴重な資料である。そしてその多くが、正・負いずれの方向に於いてにせよ直接被告達の行動の説明に役立つわけではないとの、「関連性稀薄」の理由を以て却下の扱いを受け、判決に影響を与え得る力とはならなかった。


■第二次上海事変

 第二次上海事変についても、その発端をなす大山海軍中尉惨殺事件、無差別誤爆靖に関する弁護側の証拠が多く却下されたのか理解に苦しむ。これは通州に於ける、酸鼻を極めた日本人居留民大量虐殺事件に関しての日本側の証拠が七割方却下されているのと同じ事例であって、結局、この裁判は日本軍の戦争犯罪を裁く場であって、連合国側のそれを問題にしているのではない、という裁判所の発想に起因するものであったろう。殺し合いを本質とする戦争である以上、「お互い様」ということもあるではないか、といった発想は封殺された。そうなると、もし仮に日本軍将兵の心理に、これまでに同胞が受けた残虐行為に対する復讐心の幾分かが混入していたとしても、それは一切情状酌量の対象とはならず、連合国側の人道に対する罪は一切不問に付し、唯日本人にのみ、神か仏に対してでもなければあり得ないほどの人道主義的完壁性を求め、その尺度を以て裁いたのがこの裁判であった。(P49)


■タブーだった共産主義批判

 この段階で審理の対象となったのは、防共協定、張鼓峰・ノモンハンの武力衝突事件、日本の対ソ軍備、日ソ中立条約の諸項目であるが、この法廷の基本的空気である共産主義批判への遠慮が、弁護側提出の書証の採否を大きく左右していた。裁判長は、欧洲の共産主義活動は東洋の問題には関係がない、との前提を公言しており、我々は全世界の共産主義理念に対して裁決を与える権利或いは義務があると考えてはいないという様な表現もした。そういうわけで、防共協定に関して弁護側が提出した二十一通の証拠文書のうち十三通はこの前提的規定に合致しない、即ち共産主義思想そのものの批判に当るからとの理由で却下された。
 ヤルタ秘密協定の暴露を含むブレイクニ弁護人の大活躍が、ノモンハン事件、日ソ中立条約に関わる審理を通じて、ソ連検察官団に対する不信の念を法廷全体に喚起するといった効果もあった。ただこのことが、共産主義の脅威とその犯罪性の黙過・曲庇といったこの裁判の最大の欠陥の一端が、辛うじて法廷に自覚された一契機であったことは注目に催するであろう。

 共産主義運動と中国共産党の脅威に関する証拠は大部分が却下扱いになった。それはソ連の検察官・判事、後に中共に走ることになる中華民国の判事が必ずこれに異議を申し立て、裁判長が又ソ連判事・検察官に迎合し、気を遭うこと甚しくこの法廷では共産主義批判が禁忌として支配する様な空気があったからである。


■却下されたハルノート

 弁護団側の提出証拠却下の問題よりも、かの最大の挑発的最後通牒文書たるハル・ノートが裁きの対象にならなかったことの方が、むしろ勝者の裁きとしての東京裁判の歪んだ性格を語るのだと言ってよいであろう。徳富蘇峰の筆になる供述書、日本の自衛戦争論も証拠資料としては却下され、今回この資料集で半世紀ぶりに陽の目を見ることになつた次第である。
 ブレイクニ弁護人の「日米交渉」の末節からハル・ノートに閲し後世甚だ有名になつた次の一旬を引用しておこう。(P59-60)
 即ち十一月二十六日此の覚書を手交すると共にハル長官は問題を「陸海軍」の手に移したのである。之は長官其の人の言葉である。翌二十七日長官は「会談は殆ど再開の見込なき状態に於て打切られた」旨明らかにして居る。米国の自由ある新聞もハル・ノートに就て同じ見解を示した。特別記者会見に於てハル長官は交渉に於て両政府の取つて来た方針を打捨て其の全貌を公表した。而して米国新聞はノートを受諾するや戦争に訴ふるやは日本に懸つて居る旨報道したのである。之を日本側から見ればホブソンの撰択即ち撰択の余地がなかつたのである。日本は即時降伏するか又は勝目なくとも戦に訴ふるかの何れか一を撰ばされたのである。ハル・ノートは今や歴史となつた。されば之を現代史家の語に委ねよう。
「本次戦争に就ていへば真珠湾の前夜国務省が日本政府に送つた様な覚書を受け取ればモナコやルクセンブルグでも米国に対し武器を取つて立つたであらう」
■1941年11月26日、ハルノート([大東亜戦争の真実 P143]より)
  1. 日本陸海軍はいうに及ばず警察隊も支那全土(満州含む)および仏印より無条件に撤兵すること。
  2. 満州政府の否認
  3. 南京国民政府の否認
  4. 三国同盟条約の死文化(※米国との交渉を有利にすること、防共協定が目的で、独の参戦要望に対して日本は拒否している。) 



■公平を欠く東京裁判

 二つの側面がある。
 その一つは清瀬一郎氏の回想として引用しておいた如く、日本の政府(内閣情報局)、外務省、軍部等の公式の声明や新聞を通じての見解表明の類が、元来宣伝と自己弁護の性格を有するものとして初めから却下の枠内に入っていた、ということである。又グルー大便、クレーギー卿、ジョンストン、パウエル等の著書からの引用も、それらは或る事件についての「個人の意見」を述べたにすぎないとの理由で多くが却下されている。しかし個人の意見はその時代の見方の一斑を代表して語っているものであり、検察側の立証に於いては個人の日記や回想録や見聞の証言が重要な、時には決定的な判定資料として参考されていた事実と対比してみても著しく公正を欠く。
 二言にして言えばこの様にして「日本側の言分」は大部分が封殺され、法廷はそれに耳を籍そうとはしなかった。裁判所は「日本側の言分」を除外して、事実として顕出し記録せられた証跡のみを以てして客観的判定を下し得ると考えていた。それは如何にも「客観的」公正を装った如くであるが、被告・弁護団側の言分を掛酌せず、検察側の申立は結果として大幅に承認しているという点に於いて、明らかに公正を欠いた審理だった。

 第二の側面はパル判決書で第十の内容分類に挙げられている、中国における共産主義の運動に対する日本側の対処を根拠づける証拠である。共産主義の運動が日本に与えた脅威については、パル判決書はリットン報告書を精密に分析することにより、極めて適切な見解を提出している。それは端的に、日本人弁護団側の提出した証拠は考慮さるべき範囲内に入っていたという、検察側に向けての反駁である。それを排除してしまった以上、中国に於ける共産主義運動に関して検察側論告が述べていることは一方的な言分になつてしまい、論理的に成立を容認できないものになった、と言う。中国における共産主義の運動とその脅威については、これに対応する日本の動きが、防衛的なものであったのか、(共同謀議による)侵略的な性格のものであったのかを判定する上で重要な争点であり、従ってこれに関する弁護側提出証拠が関連性稀薄どころではない重要な判定資料であることは、法廷でローガン弁護人が力説したところであった。しかしそれらの証拠は要するに無視された。その背景にソ連裁判官・検察官に対する裁判所の極めて政治的な気兼ねがあった。
 大きく捉えてこの二つの側面を中心に、原本の資料集及びその抄本たる本書が東京裁判の「勝者による報復的私刑」たるの性格を改めて明らかにし、その根本的修正を迫る思想戦の武器として役立つことは確実であり、又この線に沿って活用されるであろうことは編者が心から期待する所である。




清瀬一郎弁護人 冒頭陳述


 冒頭陳述は検察側の立証の構成順序に合わせ、下記の五部構成で検察側へ反論を提示してゆく。
 陳述以前に清瀬氏が提出した「管轄権動議」は、本裁判所はポツダム宣言及び現時の国際法に照らして、A級被告として出廷している二十八人を裁判する権限を持っては居ないとの異議申立ては、実際に法理の上からは正しいのであって、この動議がまともに取上げられて審議にかけられた場合、その時から東京裁判そのものが成立しなくなつてしまう可能性が多分にある。そこで裁判所は、その理由は将来述べる機会があろう、との理由にならぬ理由を以てこの動議を却下した。従ってこの冒頭陳述中、ポツダム宣言と一九四五年迄の国際法の解釈を述べて裁判所の法的不備を衝いている部分は、既に法廷が却下している動議のむし返しとして朗読をさし止められた。(※本書ではこの部分も含め紹介されている。) ⇒ [清瀬弁護士冒頭陳述抜粋へ




高柳弁護人 冒頭陳述
  〜検察側の国際法論に対する徹底した反論により、
     皇軍軍人と世界の良識を弁護し、
       ひいては未来の平和を守ろうとした〜



 全面朗読禁止措置を受けており、このことが如何に東京裁判の不正を暴いた陳述だったのかお分かりになると思います。事実この裁判は裁判とは名ばかりであり、究極的には復讐と私刑の儀式以上のものではなかったからである。
 国際法は戦争のやり方と、戦後の国家倍賞や領土轄除をある程度規定するが、個人の犯罪に対しては捕虜の取り扱いなどについて若干規定されているだけです。そして、個人の犯罪に対しては国内法で対処するのが通例でした。かつ事後法は適用しないというものです。
 ところが、米英ソ国主導の国際法(過去の国際法とは全く別物)により、事後法である「平和に対する罪」「共同謀議に対する罪」「道徳に対する罪」を適用することで、日本の国内法に優先して日本の指導者達を処刑することを目論み、実施した。勝者政府が、これまでの国際法に代わり、敗者の全てを赴くままに処罰できるように法制化したものでしかない。もし、日本側弁護団・皇軍軍人が東京裁判を断固否定しなければ、良心や知性や英知はゴミ箱に捨て去られ、軍事力が世界を支配していたことでしょう。そして、米ソは互いに聖戦だと相手をなじり合い、第三次世界大戦の悲劇に至っていたのではないでしょうか。


 ○法廷での陳述(予定)
  第一回 昭和二十二年二月二十四日、第一六六回公判。
   結果 − 全文却下(全面朗読禁止
  第二回 (弁護側最終弁論段階)昭和二十三年三月三〜四日、第三八甲三人五回公判
   結果 − 全文朗読   ⇒ [高柳弁護士冒頭陳述抜粋へ

 高柳陳述は本文に見る通り二部に分れ、第一部は首席検察官キーナン検事が二十一年六月四日に論じた検察側冒頭陳述中の法律論に対して反駁した部分であり、即ち弁護側冒頭陳述として述べる予定だったもの。
 もう一つ、「侵略戦争」の定義をめぐつて、高柳論文が結果として一九二八年の所謂パリ不戦条約の国際法的側面の徹底的研究となっていることも重要な点である。パリ不戦条約は「事後法」による裁判であるとの弱点を自覚した裁判所がせめてもの法的論拠として大いにたよりとした条約である。戦後の日本の史家の中にもこの条約の法的効果はともかくもその道徳的な目標理念に高い評価を与え、翻って、この条約に違反した(とされる)日本帝国の行動の弾劾にとかく力が入る、といった向も少からずある。だが高柳論文が入念に解析している如く、これは法的にも道徳的にもそれほど高い評価を与え得る様な条約では到底なかった。




ローガン弁護人:冒頭陳述


 高柳冒頭陳述が全面却下となったため、弁護側反証段階での冒頭陳述第二陣はウィリアム・ローガン弁護人のそれであるという形になった。本篇は以下の本文頁で罫線に囲まれた部分が却下扱いとなっているが、それはソ連のフィンランド、バルト諸国、満洲国侵略、及びソ連とイギリスのイラン占領について証拠提出の上で論断すると述べた部分である。条約侵犯を冒している国家に、いったいこの被告を裁く資格があるのか。とかくこの種の問題のつきまとうソ連邦の検察官に対しては裁判所としては、多分に「気を遣う」ことが必要だった。そこで同じ様にソ連に対して著しいマイナスをもたらすと映ずるこの種の発言が法廷で朗読されるという事態は是非とも回避したかった。而してこの冒頭陳述はしきりに(…立証致します)(…証拠を提出致します)という表現を採って後日の書証提出を予告しているが、その陳述の裏付けとなるべき証拠が多くは却下の裁定を下されて法廷証としての取扱いを拒否されるという事態になる。これは東京裁判に於ける弁護側陳述にとって一般に広く生じた事態であり、東京裁判の法的公正を根底から疑わしめる契機でもあり、又本書原本の如き資料集が刊行されざるを得ない所以でもあった。
 なおローガン弁護人が陳述第四部で、西洋諸列強が経済的に日本を包囲し封じ込めたことが如何に日本の国民経済にとって大きな打撃であったかを論じ、日本の開戦を以て(即ち日本は純然たる必要に迫られてをりました)との説明でその節を結んでいることは、本書巻末に収録したマッカーサーの一九五一年五月米国上院での「日本自衛戦争証言」を先取りしたものとして、興味深い見解である。  ⇒ 「ローガン弁護人冒頭陳述へ




マッカーサ証言:米上院軍事外交合同委員会


 昭和二十六年(一九五一年)五月三日、アメリカ合衆国議会上院の軍事外交合同委員会で行われた、米国の極東政策をめぐつてのマッカーサー証言のことは今では日本でも世人の広く知るところであろう。それは彼がその証言の一節に於いて、日本が戦争に突入したのは自らの安全保障のためであり、つまりは大東亜戦争は自存自衛のための戦いであったという趣旨を陳述しているということが早くから知られていたからである。停戦五十周年という節目の時期が近づくにつれて、日本の国内では今更ながらに半世紀前の過去のことになった昭和の動乱の歴史的意義が再検証の俎上に上り、その意味を問い直す論議が一際活発化した。そうした風潮の中で、これも思えば遠い過去のものとなつていた、上院でのこのマッカーサー証言の有する意味も新たに想い起され、問い返されるという遭遇になったのであるが、この期に及んで、人々は問題のマッカーサー証言のその部分が、原語ではいったいどの様な表現であったのか、又如何なる文脈に於いて発言されたものであるのかを、これに論及する全ての人が正確に把握しているわけではない、ということに気付いた。
 本書の原本である資料集の収録するその部分の原文は、この間題をめぐつて議論を展開するであろう現代史研究者達のために、伝訳の日本語表現が含む不明確さから生ずるであろう不毛の論争を省く目的で、東京裁判とは直接の関係があるわけではないのにも拘らず敢えて附録として掲げることにしたものである。 ⇒ 「マッカーサ証言




東條英機宣誓供述書:[大東亜戦争の真実]より

 本供述書の中で、東條は国家自尊自衛の戦争であったこと、天皇に戦争責任は無いこと縷々述べている。自尊自衛の戦争であったことに関しては、マッカーサ証言と全く同一である。
 そして、「共同謀議」「平和に対する罪」「戦争犯罪」、世界支配を画策していないと断定している。
 ⇒ 「大東戦争の真実:東条英機宣誓供述書
   (大東戦争の真実を読んで



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