「予かつて或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢやと云いしかば、否な文明ぞと争ふ。否な野蛮ぢやと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを刺するは野蛮ぢやと申せしかば、その人口をつぼめて言無かりきとて笑はれける」戦争は正義が勝つとは限らない。正義は常に勝者が一方的に創るものである。日米戦争は東京裁判で、アメリカの立場で日本を侵略国と断定したが、これはまったく逆で、日本の立場からすると明らかに英米のはうが日本への侵略戦争を仕掛けてきたのである。
明治、大正、昭和一ケタ生まれまでの日本人は、この誓文と教育勅語をお経のように諳んじていた。この思想は、民主政治を天皇自ら示したもので、デモクラシーの考え方と実践は、明治維新にすでに始まっていたのである。
- 広く会議を興し、万機公論に決すべし
- 上下心を一にして、盛に経綸を行うべし
- 官武一途庶民に至る迄、各其の志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
- 旧来の晒習を破り、天地の公道に基くべし
- 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし
一、清は朝鮮の独立を認める。しかし、その六日後に、満州進出の野望を持つロシアは、ドイツ、フランスと組んでいわゆる三国干渉を行ない、遼東半島を清に返還させた。その後でロシアは、遼東半島を清から譲り受け、旅順に大要塞を築いた。かつては「眠れる獅子」と恐れられていた清国だが、中国は列強にずたずたに分割されてしまった。
二、遼東半島、台湾、膨湖島を日本に譲った。
三、賠償金三億円余を支払うことを認めた。



「あなた方日本は、先の大戦で負けて、私どもオランダは勝ったのに、大敗しました。参加者全員、思いがけない市長の発言に感動したのは言うまでもない。この市長のように、ヨーロッパの文化人や識者は、あの戦争は日本のはうが勝ち、攻めた白人たちのはうが負けて、虎の子の植民地から追い出され、西洋の古巣に戻されてしまったことを知っているからである。
今、日本は世界一、二位を争う経済大国になりました。私たちオランダは、その間屈辱の連続でした。すなわち、勝ったはずなのに、貧乏国になりました。戦前はアジアに本国の三六倍もの面積の植民地インドネシアがあり、石油等の資源産物で、本国は栄耀栄華を極めていました。
今のオランダは、日本の九州と同じ広さの本国だけになりました。あなた方日本は、アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分を蔑み、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。
あなた方こそ、自ら血を況して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。なぜなら、あなたの国の人々は過去の歴史の真実を目隠しされて、今次大戦の目先のことのみ取り上げ、あるいは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史を振り返って、真相を見つめる必要があるでしょう。
本当は私たち白人が悪いのです。一〇〇年も二〇〇年も前から、競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。植民地や属領にされて、永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大にして崇高な理想を掲げて、大東亜共栄圏という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。
本当に悪いのは、侵略して、権力を振るっていた西欧人のはうです。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現しました。すなわち日本軍は戦勝国のすべてを、東亜から追放して終わりました。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。
日本の功績は偉大です。血を流して戦ったあなた方こそ、最高の功労者です。自分を蔑むのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです」
佐々木:要するに毛沢東は「われわれは日本軍のお陰で権力を奪うことができ、中華人民共和国をつくることができた。この点でわれわれは日本軍に感謝している。だから日本人は中国に謝ることはありません」と言っているわけである。
今日は毛沢東主席の非常に度量の大きい話を聞かせていただきました。過去において、日本軍国主義が中国を侵略し、皆さんに多大の損害をもたらしました。われわれは皆、非常に申し訳なく思っております。
毛 :
何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。皆さんの皇軍なしにわれわれが権力を奪取することは不可能だったのです。この点、皆さんと私は意見を異にしており、われわれ両者の間には矛盾がありますね(皆が笑って会場が盛り上がった)。
佐々木:ありがとうございます。
毛 :
過去のああいうことは話さないようにしましょう。過去のああいうことはよいことであり、われわれの助けになったとも言えるのです。ごらんなさい。中国人民は権力を奪取しました。同時に皆さんの独占資本と軍国主義はわれわれを助けたのです。
■歴史から消された通州事件
シナ事変が日本の一方的な“侵略”ではないことを示す、最も象徴的な出来事が「通州事件」である。この恐るべき虐殺事件は、慮溝橋の事件の約三週間後に起こつた。
この通州事件については、戦後、ほとんど語られなくなった。なぜなら、この事件のことを言い出すと、「中国は善玉、日本は悪玉」という構図が崩壊してしまうからである。ところが、岩波書店の『近代日本総合年表』には、昭和十二年の項に通州事件のことは一行も書れていない。また同年十二月十四日に、キトウ政府(北シナに成立した政府)が殺された人の弔慰金百二十万円を払ったことにも一行の記述もない。
昭和十二年(一九三七)七月二十九日、北京の東方にあった通州で、シナ人の保安隊(キトウ防共自治政府軍)による大規模な日本人虐殺事件が起こった。殺されたのは、通州の日本軍守備隊、日本人居留民(多数のコリア人も含む)の二百数十名であり、中国兵は婦女子に至るまで、およそ人間とは思えぬような方法で日本人を惨殺した。
東京裁判において弁護団は、通州事件について外務省の公式声明を証拠として提出しようとしたが、ウエツブ裁判長によって却下された。この事件に触れると、シナ事変は日本ばかりが悪いと言えなくなってしまうという判断があったのは、言うまでもない。
ただ、通州事件の目撃者三人の宣誓口供書だけは受理された。あまりに残虐な内容であるけれども、その一つ、元陸軍少佐の証言をあえて引用したいと思う。
「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、十四、五歳以上の婦人は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、七、八名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部に等を押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合せて、それに八番線を通し、一家六名数珠つなぎにして引廻した形跡歴然たる死体が浮かんで居り、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛の如く針金を通された子供、片腕を切られた老婆腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこここの塵箱の中やら塀の蔭から出て来た」(朝日新聞社 法廷記者団『東京裁判』東京裁判刊行会・中巻。読者の便を考え、読点を増やした)
これが人間のやることだろうか。シナの史書には、生きたまま人の皮を剥ぐとか、あるいは手足を切り落とすというようなことが多数、書いてある。日本人からすれば、とうてい信じがたい話であるが、この証言を読むと「あの記述はやはり真実であったのか」と思わざるをえない。
「やがて戦車の群れは止まり、中から何人ものソ連兵がおりてきて、倒れている人や逃げまどう人々を片はしから撃ち殺していきました。一人の兵隊は、私たち子供の馬車までやってきて、病気で寝ていたおじいさんを引きずり出し、自動小銃で頭を撃ち抜きました」(在満国民学校で当時1年生だった男性)
「壕の先の方で女の人が三十人ぐらい集まり、子供たちを真中にして、泣きわめいていました。それを見つけた(ソ連軍の)女兵士は、何人かの男の兵隊を呼んできて、一緒にダダダダ…と続けざまに撃ちました。一人残らず倒れるまで撃ちました」(当時2年生だった女性)
「戦車が、撃ち殺された母をまた轢いて、押しつぶしていきました。あの恐ろしい場面を私は昨日のように覚えています。あの気の遠くなるような広い広い草原を、妹とただ二人。淋しさと恐しさと飢餓の中で、はいずりまわったのでした。…(あとはもうお許しください。書けません)」(匿名の手記)地獄は、ソ連軍が去っても終わらなかった。
「ソ連兵の殺戮(さつりく)に続いて、生存者がこの世を儚(はかな)み自殺する者が続出しました。お互いに刃物を握り、一、二の三と叫んで刺し違えて倒れていく姿には鬼気迫るものがあり、残酷でこの世の出来事とはとても思えませんでした。(中略)親が子供の首に紐をかけて殺しているのが目に映りましたが、子供の手は虚空を掴(つか)み、足をばたつかせて動かなくなっていきました」……夜になると、今度は近在の農民らが、暴民となって生存者を襲った。
「ふっと気が付くと、何時の間に近づいて来たのか、麻袋を担ぎ大きな丸太ん棒を持った満人がいきなり雅ちゃんの着ていた外套を奪おうとしていました。私が必死で抵抗しますと、持っている丸太ん棒で私を叩くのです。どうする事もできません。為すがままです。一人が去ったかと思うと、又別のが来ます。(中略)その麻袋はどれもこれも大きく膨れています。死人の着物だけでなく、生きている人の着物もみんな剥ぎ取ってしまったのでしょう。私達は全裸にはなりませんでしたが、中には全裸にされ、コーリャンの葉っぱで覆っていた人も居たそうです」……一方で、親を失ってさまよう子供たちを救い、わが子同然に養育した中国人が多数いたことも、忘れてはならない。
「最後の対ソ防衛戦における在満居留民の動態は、我が国の歴史上類例のない大悲劇であり、それはまた統帥との相関性についても大きな問題として残されている……」地上戦に巻き込まれ、文字通りの“地獄”に突き落とされた満州の在留邦人。凄惨な被害が刻一刻と拡大する中、東京では、最後の御前会議が始まろうとしていた−−。
【北贅の通州には親日政権がつくられていたが、[1937年]7月29日、日本の駐屯軍不在の間に、その政権の中国人部隊は、日本人居住区を襲い、日本人居留民385人のうち、223人が惨殺された(通州事件)】(自由社『新しい歴史教科書』)しかし、その「惨殺」がどのように行われたのか、詳細な事実は殆ど知らされてこなかった。ところが、ここに一人の日本人女性がいて、支那人の男性と結婚し、中国人を装って通州に暮らしていた。そして、丁度通州事件がおこつたとき、彼女は支那人の群衆に紛れて、支那人として夫の肩越しに、そこで展開された蛮行の一部始終を見ていたのである。
《そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。その娘さんを引き出して来たのは学生でした。そして隠れていたのを見っけてここに引き出したと申しております。その娘さんは恐怖のために顔がひきつっております。体はぶるぶると震えておりました。その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。(八行省略)学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。そして下着を取ってしまいました。娘さんは「助けてー」と叫びました。とそのときです。一人の日本人の男性がパァッと飛び出して来ました。そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。何かグシャツというような音が聞こえたように思います。頭が割られたのです》(一三六−七ページ)その後、父親の体を何度も何度も突き刺し、屍体を蹴転がした兵隊と学生達は、気を失っていると思われる娘さんのところへ再びやってきます。
《この娘さんは既に全裸になされております。そして恐怖のために動くことが出来ないのです。その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。そして陵辱をはじめようとするのです。支那人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。どうしても陵辱がうまく行かないのです。すると三人ほどの学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。(五行省略)するとギヤーツという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。私は思わずびっくりして目を開きました。するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を抉(えぐり)挟り取っているのです。(二行省略)ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。それから剣で首を切り落としたのです。その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです》(一三八−九ページ)あまりの酷い仕打ちに、読んでいて怒髪天を突く思いです。これが通州で、支那人が日本人に対してやったことなのです。

旭軒(飲食店)では四十才から十七才十八才までぐらいの女性が皆強姦されていました。それは裸体で陰部を露出したまま射殺されておりました。特にその中の四、五名の女性は陰部を銃剣で突き刺されていました。商館や役所に残された日本男子の屍体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血糊は壁に散布し、言語に絶したものでありました。特に通州救護の第二歩兵隊長代理をつとめた桂鎮雄氏は、旅館近水楼での惨劇について次のような供述をしているのです。
近水楼の入り口で女性らしい人の屍体を見ました。足は入り口に向けられておりました。顔には新聞紙がかけられておりました。その屍体の格好から見ると本人は相当に抵抗したらしく、着物は押し倒されたままで剥がされたらしく、上半身も下半身もむき出しになっておりました。そのむき出しになった裸身を五ケ所も六ヶ所も銃剣で突き刺してありました。そして陰部は刃物でえぐられたので形は残っていませんでしたが、その周辺には血痕が散乱しておりました。更には七月三十日通州に救護に赴いた部隊の小隊長であった桜井文雄氏は、次のように述べております。
帳場や配膳室は、もう足の踏み場もないように散乱していて、略奪のすざましさを物語っておりました。そして女中部屋に行きますと、日本の女性らしい人が四人屍体となって転がされていました。その四人の日本女性たちは最後まで抵抗したらしく、その模様が伺われました。そして殺される直前には大変もがいたようであり、最後には四人が折り重なるようにして殺されたのでしょうか、その中の一名だけは上向きにさせられ、その女性の陰部はえぐり取られていました。帳場と配膳室には男一人女二人の屍体があったが、三人とも相当に戦ったようでありました。抵抗がひどかったからでありましょう。この三人の屍体に対する惨虐さは又格別で、男の人は頭が叩き割られ、目玉をくり抜き、その上半身は蜂の巣のようになっておりました。女性の方は背部から銃剣で刺されたものでしたが、何回も何回も刺したと思われる傷跡がありました。
更に一階の座敷(客室)に女の屍体が二つありました。二人とも素っ裸で殺されていました。そしてこの二人の女性も強姦された跡は歴然でした。陰部は二人とも切り取られてあり、胸や腹部に銃剣で刺した跡が何カ所もありました。
この近水棲の近くにあるカフェーに行ってみると、縄で絞殺されて素っ裸にされた女性数名の屍体があり、それはそこらあたりを縄で引きづり屍体を引きづった跡がはっきり残っており、残酷という言葉も通用しない世界を知らされました。このカフェーの裏側に日本人の家がありましたが、親子二人が惨殺されていました。子供は手の指を揃えて切断されておりました。
南城門近くの日本人商店では、主人らしい人の屍体が路上に放置してありましたが、胸部の骨が露出し内蔵が散乱しておりました。
守備隊が東門を出ると、殆ど数間間隔に日本人居留民男女の惨殺屍体が横たわっており、救護に駆けつけた一同は何とも言うことの出来ない悲憤の情がこみ上げ、そのおもいは到底消し去ることの出来るものではありませんでした。何とむごたらしい悪業でしょう。これは悪鬼も目をそむけずにはいられない状況です。こうした供述の中にも酷たらしい淫虐の情景がはっきりして来るのですが、こうしたことばまさに悪魔も及ばない極悪無道のことであると申さればなりません。(以上に述べた通州事件についての文章は中村粂氏著の大東亜戦争への道によるところが多々あります)
“日本人はいないか”と連呼しながら各戸毎に調査をして行くと、牛のように鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の屍体がそこここのゴミ箱の中や壕の中から次々に出て来ました。或る飲食店では一家ことごとく首と両手を切断されて捨てられている屍体が無惨でした。女性という女性は十四、五才以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかったのです。旭軒では七、八名の女性は全部裸体にされて強姦刺殺されており、陰部に等を押し込んであるもの、口中に土砂をつめてあるもの、腹を縦に断ち割ってあるものなど、全く見るに耐えなかったのです。東門近くの池には首を縄で縛り、両手を合わせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六名を数珠繋ぎにして引き回された形跡歴然たる屍体がありました。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃しました。