大東亜戦争の正体
  〜アメリカとソ連・中国共産党の侵略戦争だった〜


 
 [大東亜戦争の正体]から抜粋しました。
 明治維新から大東亜戦争までの、世界的視野に立った人類の価値について、堂々と述べておられ、また非情に分かり易く平易に説明されています。是非、一読をお勧め致します。
 一番興味深かったのは、米国が非を認めていることです。しかも、自虐史観から救おうと、[ブッシュ大統領が小泉首相と一緒に靖国参拝を申し出ていた]!! これが実現していれば、東京裁判史観=自虐史観は誤りだったことを世界に宣言できたのだ。これからは、日本は自力でこれと戦い跳ね返さねばならないと思いました。


まえがきより抜粋

 戦後日本の常識は、ことごとく世界の非常識と言われて久しい。それは世界史の常識をすべてアペコベに認識するよう、白人侵略者の常套手段である偏しのテクニックに乗せられて、そのことに日本人がまったく気がつかずにきたからだ。
 「一国を亡ぼすのに刃物はいらない、その民族の記憶(歴史)を消し、その上に新しい歴史を捏造、発明して押し付ければ足りる」という蔵言がある。アメリカとソ連・中国は巧みにこの手を使った。日本側の大東亜戦争史観(八紘一宇、大東亜共栄圏実現の理想)が否定され、デッチ上げ、押し付けた太平洋戦争史観(侵略、植民地支配、残虐性を日本の三悪と規定、マッカーサ憲法)が正当とされ、これが戦後の日本を縛り上げた東京裁判史観、自虐史観の基本になってしまった。反省と謝罪を国是とする卑屈な戦後体制が構築されてしまった。(ハルノート参照]、[大東亜の理念参照]、[大東亜会議参照])
 連合軍は占領期間に七年もかけて、このアベコベ侵略戦争史観を、日本人の骨の髄までたたき込んだ。広島、長崎の原爆は一回限りで終わったが、この「魂の原爆」は、その後長く、戦後の日本を暗く覆うことになった。
 その結果、太平洋戦争は侵略戦争だったとの誤った信念は、上は首相から、下は偏向教科書で学ぶ小学生にまで及んでしまったのである。
 また国を愛する心の 「愛国心」 という文字を入れると、先の悪い戦争につながるからと、これを「国を大切にする心」に変えよと公明党委員は要求している始末である。「愛国心」に不安を感ずるのは議論の参加者すべてが、先の戦争を侵略争争だと意識しているからである。だか「国を愛す」と「国を大切にする」とは、まったく異なる概念である。生徒に「ゴム消しを大切に使え」とは言っても、「ゴム消しを愛せよ」とは言わない。(※米国人は”I Love Sushi”など良く口にする。最初はいろいろなものにLoveを使うことに戸惑い、外国人と日本人の違いと思っていましたが、この説明を読んで一面では納得しました。登録者より)
 戦前を悪と考える立場で憲法や教育基本法を改正する論議に参加することは、危険な結果が生まれるはずだ。真の改正には、「戦前善」の立場でなければ、真の日本の憲法も基本法も生まれないと知るべきである。
 戦後アメリカは、自らの日本への侵略を反省する事実や談話を次々発表して、日本を目覚めさせようと努力している。帰国後のマッカーサー発言、「東京裁判は誤りだった、日本が戦争に立ち上がったのはセキュリティ(自存自衛)のためのものだった(裏を返せばアメリカこそが侵略者であったということ)」からもそれが見て取れるし、フルブライトも同様の趣旨の発言をしている。インドのパール判事の日本無罪論もよく知られるところである。また戦勝国が、日本に賠償金を要求しなかったことは、なによりもその間の事情を、雄弁に物語っている。



ルーズベルトとスターリンの
     
野望に挟み撃ちされた日本


 当時日本の直接の仮想敵国は、東側の太平洋からはルーズベルトのアメリカ、西側からは陸の侵略者スターリンのソ連であった。この覇権主義の好戦者二人が日本征服を虎視眈々と狙っている限り、戦争は絶対避けられない時代で、その中にあって日本は、強力な富国強兵で対抗する以外になかった。その意味からも大東亜戦争は、日本の軍国主義、軍部の暴走が戦争を起こしたのでは絶対にないといえる。
 スターリンは、日露戦争の仇を討つべく、一貫して孫子の兵法を画策していた。っまり、敵同士を戦わせるため、中共をそそのかし、蒋介石と日本を戦わせ、また、日本と米国を鉢合わせさせて、漁夫の利を得る。このとおりを実行して、ソ連がひとり勝ちしたのが大東亜戦争であった。この点からみると、支那の蒋介石も、米のルーズベルトも、日本の東条も、スターリンの掌の上で踊らされたことになるのである。
 以上のような当時の国際情勢、米ソが日本を戦争に巻き込み、侵略征服する意図がある限り、日本側の努力だけでは絶対に大東亜戦争は避けられない状況だった。



大東亜戦争史観

 オーストラリアの先住民アボリジニー族やアメリカ・インディアンは白人の狩猟の対象となり、またたくまに絶滅近くにまで、追い込まれてしまった。近世白人の世界制覇植民地化、人身売買奴隷化は人類史上、人道上の最大の犯罪である。にもかかわらず現在まで世界を我が物顔で闘歩している白人は、この大犯罪を反省することもなければ、謝罪する気配もまったくない。
 日本でも早くから西洋野蛮論を唱えた達人がいた。それは明治維新の元勲の一人西郷隆盛である。明治維新で人は世を挙げて文明開化に酔い痴れている中で、西郷は、西洋文明の影と闇の部分に気がついた唯一人の日本人であった。『西郷南洲遺訓』には、次のようにある。
「予かつて或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢやと云いしかば、否な文明ぞと争ふ。否な野蛮ぢやと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを刺するは野蛮ぢやと申せしかば、その人口をつぼめて言無かりきとて笑はれける」
 戦争は正義が勝つとは限らない。正義は常に勝者が一方的に創るものである。日米戦争は東京裁判で、アメリカの立場で日本を侵略国と断定したが、これはまったく逆で、日本の立場からすると明らかに英米のはうが日本への侵略戦争を仕掛けてきたのである。
 次に日本人の多くは、あの戦争は無謀な負けいくさだったと認識しているが、世界的、長期的にみると勝ちいくさだったのである。
 戦争の勝敗は個々の戦闘にあるのでなく、目的を果たしたかどうかで決まるものだと、ドイツの哲学者で軍事評論家のクラウゼウィッツは『戦争論』で明言している。この点からみると、この戦争で白人たちは植民地をすべて失い、西洋の古巣に帰り、アジア・アフリカの植民地はすべて解放され、人種差別なき世界地図が実現した。正に日本
にとっては 「負けるが勝ち」の結果に終わったのである。
 かくて大東亜戦争を大観すると、日本は戦闘(戦術・手段) には敗れたが、その戦略(目的)では勝った。昭和時代とは暗い戦争の時代ではなく、日本民族が人類解放のため独り「天に代わりて不義を討ち」、大勝利した誇るべき明るい「勝和」の時代だったのである。
 東大名誉教授の小堀桂一郎氏は、「日米戦争の目的達成度」という論説の中で、米国はこの戦争で何ら得るところがなかったのに、日本のはうは開戦の目的である、アジアの解放と帝国の自存を達成したことで、はるかに目的を達しているではないかと断言しておられる。




明治の国難を支えた精神は、どこで培われたか

 明治維新を担った偉人たちは、明治生まれではない。すべて江戸末期に出生した人たちだ。西郷隆盛、大久保利通、勝海舟らをはじめ、吉田松陰、門下の志士高杉晋作、木戸孝允、久坂玄瑞、伊藤博文、乃木希典、山県有朋、福沢諭吉、新渡戸稲造、内村鑑三、森鴎外など、明治の精神を創った文化人たちも江戸末期の生まれである。
 明治維新は、江戸期に育まれた道徳、教養、武士道精神や大和魂が見事に花開き、明治に結実したものと見ることができる。
 徳川家康によって開かれた江戸時代は、幕府の絶妙な政策(武家諸法度・参勤交代制度・五街道の整備・厳格な身分制度・鎖国政策[※拡張ではなく鎖国したことは、古来日本人には侵攻の気質はない])によって三〇〇年近くも戦乱のない、世界史に珍しい平和安定の時代を作り上げた。士農工商の身分の最上位にある武士階級は、戦乱がないので、武芸は武道として心身修養の道となった。そのゆとりが儒学や国学、蘭学などの学問的教養を積ませ、日本独得の「もののふの道」とかサムライの道とか言われる武士道精神が洒養されたのである。
 本居宣長が『古事記伝』を著わし、国学を大成させた。水戸光囲は『大日本史』を編纂し、勤王思想を鼓舞した。この日本学を水戸学といって、多くの維新の志士を水戸に集めた。水戸学に最も影響を受けた人々を挙げると、吉田松陰とその門下生の久坂玄瑞、桂小五郎、伊藤博文、坂本龍馬、頼山陽、高山彦九郎、佐久間象山、西郷南洲、平野国臣、橋本左内など、幕末から明治維新にかけて日本国を揺さぶった志士たちだった。彼らは水戸学を知ることによって、天朝の尊厳性を崇め、鼓舞し、奮い立ったのである。
 また、商業や交通が発達して、多くの都市が繁栄した。十八世紀の初めには江戸はロンドンを超えて一〇〇万人の世界一の大都市に、大坂は「天下の台所」といわれ商業の町として栄えた。町人階級が生まれ、歌舞伎、人形浄瑠璃、俳譜、浮世絵、友禅染といった日本独自の芸能・工芸も、この時代に生まれたものである。
 武士は藩校で学び、農民、町民の一般庶民にも寺子屋が普及し、読み、書き、そろばんができ、当時すでに日本は世界一識字率の高い国になっていた。
 武士や浪人は寺子屋の先生として、国民の教養を高めるのに貢献した。サムライという「侍」 の字が 「人」と「寺」 によって構成されているのでも分かる。明治維新になって寺子屋は尋常小学校に発展し、近代国家日本の基礎となっていったのである。
 幕末になって白人植民地帝国主義の侵略の波がアジアに、そして日本の岸辺に押し寄せること必至とみた先覚者や武士たちは、挙国一致、この国難に当たるには、今の幕藩体制ではだめだと直観した。特に阿片戦争(一八四〇−四二年)による支那の惨憺たる敗北の事実に驚愕、次は日本が襲われるはずだと危機感を募らせた。
 その後一〇年にして米国艦隊のペリーの黒船が江戸湾口の浦賀に来航(一八五三年)た。国内はあわてぶりを露呈し、緊急対応を迫られた。それから明治元年(一八六八年)を迎えるまでの一五年間、尊皇摸夷派、開港派、佐幕派など入り乱れての幕末大動乱期が続くことになった。
 この生みの苦しみを蒐服して、国家を統一し、大政奉還と王政復古の見事な明治維新を迎えられたのは、江戸時代に培ってきた国学・日本学による勤王思想と、武士道精神、大和魂がもたらした愛国・憂国の情の結果といって間違いない。このように明治維新のバックボーンは、江戸時代に生まれたのである。

 明治天皇は明治元年に「五箇条の御誓文」を発布し、新生民主国家・日本の進むべき目標を示された。続く明治二十三年の帝国憲法も、教育勅語も、その精神を具体化したもので、戦前日本の精神と行動は、すべてこれによって貫かれたのである。(※明治天皇を見習い、[昭和天皇の新日本建国に関する詔書]は神武天皇の精神に戻った。)
 明治、大正、昭和一ケタ生まれまでの日本人は、この誓文と教育勅語をお経のように諳んじていた。この思想は、民主政治を天皇自ら示したもので、デモクラシーの考え方と実践は、明治維新にすでに始まっていたのである。


■日本の生命線、朝鮮の独立を勝ちとった日清戦争

 日清、日露戦争の大勝利は、明治維新の成果が見事に花開いたもので、極東の小国日本の存在を世界に印象づけた世界史上の大事件であった。国内的には、国民の自信と誇りを高め、国際的には非白人植民地民族を感奮興起させ、白人らには「黄禍論」の不安を与えた。この戦争が世界史の流れを変える出発点となったことは言うまでもないことである。
 清国は阿片戦争に敗れ(一八四二年)、西洋列強の分割に屈した。それを弱い朝鮮で取り戻そうと企てた。清は朝鮮を属国と心得、朝鮮の内乱につけ込んで軍を進め、支配を強化した。
 日本にとって朝鮮は一番近い隣国で、生命線であった。朝鮮の独立を守るために日清戦争が勃発した(一八九四年)。戦争は予想外の日本の連勝で、半年足らずで終わった。下関で講和条約が結ばれ(一八九五年)、下記が締結された。
一、清は朝鮮の独立を認める。
二、遼東半島、台湾、膨湖島を日本に譲った。
三、賠償金三億円余を支払うことを認めた。
 しかし、その六日後に、満州進出の野望を持つロシアは、ドイツ、フランスと組んでいわゆる三国干渉を行ない、遼東半島を清に返還させた。その後でロシアは、遼東半島を清から譲り受け、旅順に大要塞を築いた。かつては「眠れる獅子」と恐れられていた清国だが、中国は列強にずたずたに分割されてしまった。
 このような列強の侵略は中国国民の民権運動を刺激して「扶清滅洋」を掲げる義和団運動が起こった(一九〇〇年)。そこで列強は居留民を守るため軍隊を派遣し、北清事変となった。
 ところが事変が鎮圧されたのに、ロシア軍は満州に居座り、続く朝鮮まで勢力を伸ばしてきた。日本はロシアに対抗するため日英同盟(一九〇二年)を結び、日本の生命線の朝鮮半島を救うためロシアに宣戦布告した(一九〇四年)。


■最大の国難、日露戦争に勝利した原因とは

 陸軍はただちに満州に出兵し、ロシアの極東の大要塞、難攻不落を誇った旅順の二百三高地を、乃木大将は六万人もの死傷者を出しながら陥落させた。続く奉天大会戦にも勝利した(この三月十日を記念して陸軍記念日として祝った)。
 さてロシアは陸軍の劣勢を挽回すべく、ロシア海軍の主力、バルチック艦隊を極東に回航させることを決めた。ここに日本の国運を賭した日本海海戦の幕が切って落とされたのである。
 なお参謀秋山が「本日天気晴朗なれども波高し」を加えて打電したのはなぜか。これは波こそが日本を完全勝利に導く神風であることを、彼は悟っていたからだ。敵艦は長い航海で疲れ果て、その間砲撃の訓練もしていない。加えて不慣れな海で波が高くては、まず照準が定まらないことは明らかだ。一方、味方は勝手知った海で、猛訓練の成果を発揮するには、荒れた海はもってこいである。秋山は、これこそ待ちに待った神風だと直感したのであった。
 日本大勝利の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させた。ちょうどその一〇〇年前、英国のネルソン提督がフランス・スペイン軍を破ったトラファルガー沖海戦(一八〇五年十月)以上に、世界海戦史上に名声を留める完勝となった。日本国内では三日三晩の提灯行列と万歳、万歳の喜びの声が津々浦々に鳴りひびいた。
 世界の国々で、このニュースを聞いて最も喜んだのは、それまでロシアに占領されたり、圧迫されていたフィンランド、ポーランド、トルコなどの国々であった。この勝利をわがことのように喜び、日本国と東郷平八郎を称賛した。
 トルコのイスタンブールには「東郷通り」があり、さらに「乃木通り」、さらには陸軍大将で満州軍総参謀長だった児玉源太郎にあやかった「児玉通り」もある。ポーランドでは、トーゴーやノギが人名になっているなどだ。フィンランドには「アドミラル・トーゴー」と銘打った東郷ビールが発売されていた
 日露戦争は有色人種が白色人種に勝った初めての戦争で、当時の列強の植民地にされていた世界中の被抑圧民族を感動させ、独立の夢へと駆り立てた。この戦いこそ、人類解放の出発点であり、その終結点が大東亜戦争であったのである。
 ところが戦後の日本の歴史教科書では、東郷平八郎の名も乃木希典や名参謀・児玉源太郎などの名も挙げず、日露戦争の事実をわざと軽く扱っている。中国の中学校用歴史教科書では、日露戦争があった事実にも触れていない。あの時、日本がロシアを極東から追い出さねば、今の中国はないというのに。


■乃木大将が敵将に示した武士道精神

 日本の戦争における勝利は、その背後に武士道精神か深く根を下ろしていた。その典型的な例証が、旅順攻略で勝ったあと、乃木大将が敵将ステッセルとの終戦交渉に臨んだ「水師営の会見」である。戦闘が終われば、勝敗に関係なく「昨日の敵は今日の友」である。外国記者がステッセルの写真撮影を望んだのに、乃木は「あとあとまで恥辱が残るような写真を撮らせることは、日本の武士道が許さない」と断わって外国の特派員を感動させた。
 後日ステッセル将軍は、ロシアの軍法会議で死刑が宣告された。これを知った乃木は将軍の戦い振りを称え、死刑の取り消しを求める歎願書をヨーロッパの諸国に送った。その結果、ステッセルは死刑を免れた。
 その後ステッセルは宗教者になって世捨て人同然の生活を送っていたが、のちに乃木将軍が明治天皇の崩御を知って殉死したことが伝わると、ロシアの無名の僧から金一封と弔辞が送られてきたとのことである。
 これに反して、大東亜戦争終結後、敵将マッカーサーは、東候大将以下日本の将軍の多くを裁判にかけて絞首刑に処した。白人の野蛮性をはっきり示した事例である。
 なお東郷元帥も、日本海海戦後、敵将ロジェストウエンスキー将軍が負傷して佐世保の病院に入院中であったところを見舞っている。また松山では捕虜になった将兵を手厚くもてなし、不幸にも収容所で死んだ兵をねんごろに葬り、今日でも松山郊外の来迎寺のロシア人墓地は、市民が毎日清掃して、これを守っている。日本の武士道精神は世界のカガミである。




大東亜戦争へ


 昭和二十年八月、日本のポツダム宣言受諾を知ったニューヨーク・タイムズは「太平洋の覇権をわが手に」という大見出しの下に「われわれは初めて、ペリー以来の野望を達した。もはや太平洋には邪魔者はいない。これでアジア大陸の市場と覇権は、我が物になったのだ」との記事を載せた。これはアメリカは長年の願望が叶えられたことに対する偽らざる喜びの声であった。


■米国の西進

 星条旗の星の数が当初の一三からあっと言う間に五〇に増えたのは、侵略の歴史があったからである。日本に仕掛けた大東亜戦争もその一つにすぎない。
 米の侵略史の第一ページは先住民の殺致・征服である。アメリカ・インディアンはアメリカ大陸に一万年以上の歴史を持つ先住民族で、当時約二〇〇万人から五〇〇万人と推定されたが、奸計を以て殺致を繰り返し、一八九〇年(明治二十三年)には、先住民の人口は二〇万人にまで減少した。この残虐な行為をアメリカ史では、アメリカ人の勇敢な開拓者精神、パイオニア精神の発揮と誇っている。
 この西部侵略が東から西へと向かい太平洋岸に達した時、今度はその矛先を太平洋に向け、ハワイ、グアム、フィリピンと進み、ついに日本列島に達したのが大東亜戦争であった。
 今度はメキシコと戦端を開くに当たって、有名な「アラモのとりで砦を忘れるな」の合言葉を以て戦意昂揚を図った。これは後の「真珠湾を忘れるな」に通ずる、アメリカ侵略戦争開始の常套手段となっていった。
 一八三六年、アメリカは当時まだメキシコ領だったテキサスのサンアントニオに、独立運動の象徴アラモの砦を築かせた。これはメキシコ軍が襲ってくるのを見越した上のことだったが、案の定、龍城した二〇〇人の人々はたちまちメキシコ軍の攻撃を受けて全滅してしまった。アメリカはこの事件を「リメンバー・アラモの砦」という合言葉で、国民の戦意を鼓舞し、戦争を正当化して侵略戦争を起こした。この戦争の勝利で、米国はニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア州など当時のメキシコ領の半分にあたる広大な領土を併合し。
 メキシコ戦に味をしめた米国は、一入九八年(明治三十一年)、同じ手口でスペインと戦端を開くことになった。今度は「メーン号を忘れるな」であった。米国はキューバのハバナを表敬訪問中の戦艦メーン号を自ら爆沈させ、二六〇名はどの犠牲者を出した上で、これを敵の仕業だと因縁をつけ、スペインに戦線布告した。これによってカリブ海のスペイン領プエルトリコなどを占領し、カリブ海だけでなく、太平洋、極東において、アメリカがスペインを押さえてアジア、太平洋の覇権を握る一大契機となった。


■太平洋を越えた征服事業の数々

 米艦隊は極東のスペイン領のフィリピンを侵略するに当たって、フィリピン民族独立軍のアギナルド将軍に対し、スペイン撃退後のフィリピン独立を約束し、その協力をとりつけた。ところが、スペインが敗退降伏すると、アメリカは約束を反故にし、フィリピン併合を宣言し、それどころかアギナルド軍を攻撃し、将軍を処刑してしまった。明らかに裏切りである。
 アギナルドは米軍との戦いに先立ち、その援助を日本に求めてきた。彼は日本亡命中の孫文を介して日本の志士たちと接触し、犬養毅などによって、武器弾薬の支援もあったが、一九〇二年(明治三十五年)鎮圧されてしまったのである。
 この結果スペインは、「パリ条約」でキューバを放棄、プエルトリコ、グアム、ミッドウェー、ウニーク、フィリピンをアメリカに割譲させられた。
 ハワイはアメリカの手のこんだ謀略工作でカメハメハ王朝が崩壌し、一八九八年に併合されてしまった。当時ハワイでは、日本人が人口の半分(二万二〇〇〇人)を占めていたので、女王は明治天皇に援助を依頼してきたが、当時の日本には米国と戦う力はなく、みすみす事態を見過ごすしかなかった。


■対日侵略戦争の布石

 アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトも日露戦争では日本を応援し、ポーツマス講和会議を仲介してくれたが、一方心の底では日本のアジアでの発展は、米の太平洋やアジア覇権には必ず障害になると考え、日本を仮想敵国に位置づけることになった。ここに早くもオレンジ計画という日本打倒の国策が打ちたてられた。これは米国の日本に対する黄禍論である。
 第一次世界大戦の終結で、パリ講和会議(一九一九年)が開かれた。戦勝国側の日本は、この会議で存在感を示そうと人種差別撤廃を強く提案した。人種平等の理想論には表向き反対できないので、投票の結果、過半数の賛成を得られた (委員一九名中、一一名賛成)。ところが議長のアメリカ大統領ウィルソンは、英国と組んで、このような重要な決定は、全員一致でなくてはならないと難癖をつけ、可決したはずの提案を否決してしまった。植民地を多く持つ白人列強に都合が悪いからであった。日本に対するあからさまな挑戦であった。
 日本の提案の成功を心待ちにしていた、世界中の多くの植民地民族は、否決と聞いて、改めて白人の横暴を非難し、日本に同情し、解放の時を目指して決意を新たにした。
 日米戦を予想していた米国は、その戦力を日本より優位にしておく必要から、ワシントンでの軍縮会議を提唱してきた(一九二一年、大正十年)。日米戦は海軍力の競争になるとの予想から、海軍主力艦の日英米比率が三・五・五に決められた。日本側、特に海軍は猛反対だったが、当時の政府は財政上、軍縮計画を歓迎した。次に、アメリカは補助艦艇についても制限しておく必要から、ロンドン会議で海軍軍縮条約を提案した(一九三〇年)。平和を望む日本政府は、財政上も軍備縮小を歓迎した。かくて英米対日本の争力は一〇対六・九七に抑えられた。こうしておけば、英米はいつ日本と開戦しても負けるはずがないものと安心した。
 日露戦争後、日本を仮想敵国とする戦略を明確にしていたアメリカは、日英同盟の廃案を両国に迫った。日本政府は反対したが、英国はすでにその使命が終わったとして、米国の提案に賛成した。


■シナ事変で、日本と国民党を戦わせた

  支那事変の発端となった慮溝橋事件は、スターリンが後ろで糸を引き、中国共産軍に仕掛けさせた罠であった。目的は蒋介石軍と日本軍を無理欠理戦わすことにあった。日本側がいくら隠忍自重、不拡大方針を採っても、中共軍は日本人虐殺の通州事件(⇒[通州事件][蒋介石軍])、上海事件といったテロ事件を次々起こし、日本軍を大陸のドロ沼に誘い込んでいった。日本軍は完全にはめられたのである。
 これは、米国の真珠湾と同じく、ソ連、中共によって作られた計画的な謀略戦争であったのだ。
 次に米国は、やがて始めようとする日本戦に備えて蒋介石軍に肩入れし、大量の援薄物資を送って、日本軍を疲れ果てさせようとした。直接的には、アメリカの正規軍である「フライング・タイガー」と名乗る三〇〇人の空軍兵士を送り、戦闘にも参加させているのである。この段階ですでにアメリカは、対日戦争に突入していたのである。
 日本政府はこの望まざる戦闘行為を北支事変といっていたが、逆に全支に拡大されて、これを支那事変といわざるをえなくなった。だから日本にとっては正式な国家の対支宣戦布告もなく、事件として処理しょうとしているのに、支那側はこれを日本の中国侵略の「日中戦争」に格上げして内外に宣伝していった。


■ルーズベルトの執念

 彼は生まれながら、叔父のセオドア・ルーズベルトによる日本打倒のオレンジ計画を信奉して、着々とその策略を実行していったのである。当時ホワイトハウスには、ルーズベルトの外に陸軍長官ヘンリー・スチムソンがいた。
 彼らは「欧米人は人類の支配者」という独善的信条を持つがゆえに、日本は決して対等の相手ではありえず、協調、共存を拒絶し、日本に屈従と隷属のみを求めたのである。
 アメリカの日本叩き政策の第一弾が、一九二四年(大正十三年)の排日移民法の制定である。元来移民歓迎を国是とする移民受け入れ大国が、日本移民だけを締め出したのである。さらに日本の在米資産を凍結する挙に出た。後に昭和天皇は後日談の中で、この移民法の制定が大東亜戦争の第一の遠因であると述懐されておられるほどである。
 ルーズベルトは何とか日本を戦争におびき出すため、今度は石油と屑鉄の日本への輸出禁止である。石油の大半をアメリカに依存していた日本の打撃は致命的であった。
 日本は生きるために、東南アジアの石油資源に頼らざるをえず、南方進出はやむをえない措置だった(※国内の共産主義者も南進を進めた。)。さらに米国は英中蘭の三国をそそのかして、いわゆるABCDラインという経済封鎖を敷いて、日本を封じ込めた。
 日本はこの危機を脱するため、誠意をもって日米交渉を進めた。野村駐米大使とハル国務長官の日米交渉は昭和十六年三月八日から十一月二十六日まで、九カ月にも及んだ。もとよりアメリカに交渉をまとめる意図はさらさらなく、戦争を準備する時間稼ぎにすぎなかったのである。米側は日本側が到底呑めないことを承知で、次々難題を突きつけ、開戦せざるをえないように挑発しっづけた。
 そして十一月二十六日、最後通牒としてハルノートを突きつけてきた。これは明らかに一方的な宣戦布告であった。日本よ大陸から出ていけ、日本よ死ねと迫ったのである。
 一方当時ヨーロッパ西部戦線では、英国がヒットラーの攻撃を受けて苦戦中であって、チャーチルは一刻も早い米国の参戦をルーズベルトに懇願していたのである。
 ルーズベルトは国民に対し、「私は二度でも三度でも繰り返して言いたい。皆さんの息子さんたちを、決して外国の戦争に引き出すことはない」と言いつづけ、国民を偏して大統領に当選した。この言をくつがえして国民を戦争に立ち上がらせるためには、日本がパールハーバーを攻撃するよう挑発し、自国の兵士を二〇〇〇人余り見殺しにした。こうして彼は米国民と日本国民の両方を偏して、まんまと念願の戦争に突入できたのである。
 以上によって、今次日米戦争は、アメリカが計画的に日本に侵略戦争を仕掛けてきたものであることが明らかである。戦後マッカーサーの捏造した東京裁判史観の、日本の軍国主義者が共同謀議して、中国大陸に対する侵略戦争を起こしたという歴史認識も誤りであることが分かる。


■世界中のどこの国にも歓迎された日本の真珠湾攻撃

 戦後、日米戦がルーズベルトが巧妙に仕掛けた謀略であることを告発した書物は、数多く出版されている。その中でも第一級の資料は、ルーズベルトの長女の夫であるカーチス・B・ドールが身内から告発した書で、『操られたルーズベルト』(馬野周二訳)である。真珠湾攻撃の前日、家族との朝食の席で大統領は「私は決して宣戦はしない、私は戦争を造るのだ。明日戦争か起こる」と話していたという。
 実は、日本の真珠湾奇襲の成功は、世界中を感動させこそすれ、悲しんだり、困ったりした国は一つもなかったのだ。チャーチル、仏・蘭などの連合国側も米国同様に歓迎した。スターリンも敵同士の開戦を大歓迎し、枢軸国のヒットラーもムッソリーニも、仲間が立ち上がったことを喜んだ。
 奇襲成功による日本国民の感動はもちろんだが、アジア・アフリカの被抑圧植民地の民は、有色人種の代表日本が白人を攻撃して、大成功したニュースを聞いて、植民地解放近しと奮い立ったのは当然であった。
 タイの元首相プラモート氏は、「これはアジアの忠臣蔵だ。十二月八日の昭和天皇の決断を忘れてはならない。アジアの独立国を生んでくれるお母さんの日本に感謝しょう」と叫んでいた




非を認め謝罪しているアメリカ

 判事ではオランダのレーリンクも、仏のベルナールも、東京裁判自体の不当性を強く訴えている。ウェッブ裁判長も、当時鬼の検事と言われたキーナン検事も、揃って、あれは行き過ぎだったと反省している。
 当のマッカーサー自身も帰国後、二回にわたって公の席で日本の過去の戦争はすべて自衛のための戦いで、自分が実行させた東京裁判は間違っていたと述懐している。日本の戦争が自衛のための戦いだったということは、裏を返せぼ、アメリカが侵略戦争を仕掛けたことを腕曲に認めていることになるのである。
 さらにアメリカが日本に悪い戦争を仕掛けてしまったという反省、謝罪の事実は、米国上院議員のフルブライトが創設した対日留学生制度にもみられる。彼は原爆投下など日本に与えた残虐行為に対する慨悔の印としてこの制度を始めたと、はっきり明言しているのである。この制度の下で、竹村健一氏ら多くのリーダーが育てられた功績は大きい。フルブライトの気持ちは、米国の多くの識者に共通の心情であろう。
 また、終戦後連合軍が暗に謝罪の意志を間接的に示していたことを示す事実は、サンフランシスコでの講和条約で、不思議にも日本に賠償金を要求しなかったことである。当の米英も中(蒋介石の中華民国)も蘭も放棄している。悪いのは自分たちであることを知っていたからである。
 ところが日本と直接戦争をしていない共産党の中国と韓国が、しきりに賠償や戦争責任を取れと日本に迫るのはナンセンスである。それは日本が意味なく謝罪しっづけるから、これ幸いと脅し、たかりの外交カードに使いつづけられるからである。

 ■世界的な歴史学者、英国のアーノルド・トインビー
伊勢神宮に参拝し、感動して次の言葉を毛筆で記帳していかれた。「この聖なる地域(伊勢神宮)で、私はすべての宗教の根源的な統一を感じた」と。神道こそ、人類が求める真の世界宗教だと達感したのである。
 ■元フランス駐日大使のポール・クローデル
「私が決して亡ぼされないように願う一つの民族がある。それが日本民族だ」と言い残して日本を去っている。
 ■米国のウエスト法学博士
「絶海の孤島の漁師でもいい。山間僻地の百姓でもいい。私は日本人になって、天皇陛下にお仕えしたい」と。これほどまで日本国と天皇を恋慕している外国の文化人がいることを、われわれは知らねばならない。
 ■東京裁判のオーストラリアのウェッブ裁判長
「日本の天皇は神だ。あれだけの試練を受けても、帝位を維持しているのは、神でなければできない」と述懐している。
 ■英国の政治学者のラスキ
「王冠は敗戦を生き延びることはできない。ただ一つの例外、それが『昭和天皇』である」と述べ、彼も日本は「天皇を戴く神の国だ」と認めているのである。
 ■マッカーサ証言
マッカーサ証言]参照



ブッシュ大統領の靖国神社参拝は、なぜ実現しなかったか

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝についても、文句を言うのは中国と韓国の二カ国だけである。実際に戦った英米は一切これを問題にしないのに。
 米国は、米国にとって最大の友好国の日本が、米国が押し付けた憲法や東京裁判史観を忠実に守って、絶えず近隣の中韓に侵略の歴史を忘れたかといじめられているのを見て、何とか助けてやろうと考えていたそれには米国大統領自身が直接靖国神社をお参りすることだと考えた
 二〇〇二年二月、ブッシュ米大統領が訪日した。訪日に当たって大統領が要望していたのは、小泉首相と連れ立っての靖国参拝だっただが打診された外務省も官邸も、近隣諸国との悶着を起こしたくないとの事なかれ主義で、これを拒絶し、明治神官に変更された。
 ブッシュは明治神官でも小泉首相と一緒に並んで参拝したいと思っていたのに、鳥居の前まできて、首相は私は車で待っているから、どうぞ大統領お一人で参拝なさって下さいと、申し入れを蹴ってしまった。

 天皇陛下や日本の首相、大臣が訪米すると国際儀礼として真っ先にアーリントン墓地を訪れる。諸外国を訪問すれば、慰霊塔や無名戦士の墓に献花し、祈りを捧げるのは通例である。
 ところが日本のみ、訪日した国家元首や国王が靖国神社に参拝したいと望んでも、外務省は中韓に気兼ねしてこれを拒否してきた。国家のために尊い命を捧げた英霊に対して、天皇のご親拝はもちろん、首相の参拝もままならない。そんな国はどこにもない。
 ブッシュ大統領の申し出は、このおかしな状況を一気に打開する絶好のチャンスだった。近隣諸国が公人の靖国参拝を非難する根拠は、東京裁判でA級戦犯とされた英霊か祀られているからだ。それを、東京裁判の主導的役割を果たしたアメリカ合衆国の大統領が直接参拝すれば、その根拠はまったく吹っ飛んでしまう。アメリカ自身が戦犯を否定したことになるからだ。
 ブッシュはこのことを知って、小泉首相への「手みやげ」のつもりで、首相と一緒の靖国参拝を断行して、これを内外のマスコミに伝えたかったのであろう
 この強いブッシュの配慮が実現していれば、戦後半世紀、日本人を蝕んできた自虐史観も払拭される契機となったであろう。ところがこの千載一遇のチャンスを外務省も官邸も見過ごしてしまった。最終的な決定権は小泉首相自身にあったのだ。
 日本を代表する総理大臣の歴史認識が、終戦直後に作為された日本侵略の太平洋戦争史観、自虐史観に洗脳されたままだったからである。その実例は次の発言で証明された。
 二〇〇一年六月、首相訪米で、招かれたキャンプデービットの大統領山荘で、打ちとけた気分になった小泉首相は本音を語った。それは「戦争に負けて日本国民は米国の奴隷になると考えていた。しかし米国が寛大に接し、食糧も提供してくれたため、米国が日本を旧日本軍から解放してくれて有難かった」と。首相はあの戦争は日本の軍国主義者が始めた侵略戦争で、それを米軍がやっと救い出してくれた。アメリカ占領軍は解放軍だと心底、思い込んでいるからである。
 小泉首相のこの時のコメントは、ワシントンポスト紙や朝日新聞、産経新聞でも報道され、心ある国民を失望させた。
 だが、2013/10/03米国の両国防長官が千鳥ケ淵戦没者墓苑に献花してくれた。これは、米国が日本に対して「自虐史観=東京裁判史観」から回復してくれとのメッセージに他ならない。中韓の反日史観を毅然と否定し、真実を語るときだ!
 ■米の国務、国防両長官が千鳥ケ淵墓苑に献花 2013/10/03産経Web
 来日中のケリー米国務長官とヘーゲル米国防長官は3日午前、東京都内の千鳥ケ淵戦没者墓苑を献花のため訪れた。外務省は米の閣僚による同墓苑の訪問は「聞いたことがない」としており、外務、防衛担当閣僚がそろって献花するのは極めて異例の対応という。
 同墓苑は、第2次世界大戦中に海外で死亡した戦没者のうち、身元が分からない「無名戦士」や民間人の遺骨を納めた国の施設。2閣僚の訪問は、日本との同盟強化に取り組む米国の姿勢を示す狙いがありそうだ。尚、第2次大戦のA級戦犯を含む軍人、軍属らが合祀されている靖国神社の訪問は予定していない。
 日本の首相や防衛相が訪米する際は、戦死した米軍人らを追悼するワシントン近郊のアーリントン国立墓地を訪れて献花するのが恒例になっている。
  

 ■安倍・オバマの広島献花

 日米両政府は2016年5月10日、オバマ大統領が27日、安倍首相と共に広島を訪問すると発表しました。核兵器の廃絶でノーベル平和賞を受賞した大統領の英断だと思います。というのは、安倍首相の「希望の同盟」に続き「慰安婦問題の後退しない解決」、次に「G7外相の広島への献花」、そして「オバマ大統領の広島での献花」へと繋がる一連の歴史的な流れは、私達の目の前で戦勝国による戦後体制が解体し、新しい世界秩序の序曲が訪れたことを意味しているからです。そして、G7首脳が共同で行った伊勢神宮の植樹が、世界の平和と繁栄の印になることを願ってやみません。(尚、「二拝二拍手一拝」の作法は求めず、あくまで自由に拝礼してもらう形を採った。また、明治38年5月27日、当時世界最強のバルチック艦隊に勝利した日で、大東亜戦争後米国に祝う事を禁止された海軍記念日でもあります。)
    
    
   
 「平和」を希求する国々が、同じ価値基準「法治」「自由と人権と民主制」の下に終結し、新しい国際的な秩序と同盟を育もうとしている。その主軸が「希望の同盟」であり、EUとNATOを加えた国際体制なのだと思います。そして、安倍内閣の役割は非常に大きい。
 だからこそ、世界中がオバマ大統領の英断を歓迎しているにも関わらず、11日の朝日は「オバマさんへ私の注文 原爆被害見て・核廃絶進めて…」のタイトルで、如何にも大統領を凡庸化して、内容は如何にも朝日らしい反米一辺倒で、やはりヤラセ記事だと思う。毎日も「世界最大の核保有国である米国の大統領が被爆地を訪問することは意義深い。」と報じ、朝日同様、日本に核ミサイルを向けている中国と北朝鮮とロシアへの批判はまったく無い。反米一辺倒で、ヤラセだとバレバレなのですが、結局、両紙と中国の目的は、日本人の広島長崎への恨みを助長し、反米気運と反自民党を盛り上げて、打倒「安倍内閣・安保法制・九条改正」を睨んでいるのだ。その行き着く先は、共産党主導の野党連合が政権を盗ることであり、決して騙されては成りません。
 12日の産経「原爆投下、謝罪や賠償求める必要なし 決めるのは米国」では、安倍首相の「希望の同盟」に対する米国議員達の真摯な姿勢を思い出そうと述べている。
 安倍晋三首相は10日夜、オバマ氏の広島訪問決定について記者団に意義を述べた。そこには安倍首相の日本に対する、世界に対する熱い思いが込められている。
「唯一の戦争被爆国の首相である私とともに、世界で唯一核兵器を使用した国の指導者が共に犠牲者に対して哀悼の誠をささげる。このことが正に被爆の犠牲となった方々、そして今も苦しむ人々の思いに応えるものだと私は信じている」「今回の訪問をすべての犠牲者を日米で共に追悼する機会としたい。」
 安倍首相は昨年4月の米議会演説では、第二次大戦メモリアルを訪ねた際の思いをこう語っている。
「私は米国の若者の、失われた夢、未来を思いました。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。私は深い悔悟を胸に、しばしその場に立って、黙祷をささげました」
 そこにことさら「謝罪」の言葉はなかったが、米議会は大きな拍手で歓迎した。日米同盟関係の成熟の一つの表れだと感じた。
 加えて、オバマ大統領の広島訪問での、中国・朝日・毎日の反日・反米攻勢に関連し、かつて安倍首相が記者から「憲法改正の議論には、韓国や中国の反対が予想されますが?」との反日質問を受けて、「これは日本の憲法ですよ?  彼らが何を言ってこようと関係ありません。彼らにいちいち説明する気もありません。」と、毅然とした姿勢を見せたことを思い出します。これこそ日本が自虐史観から脱し、広島献花により米欧が戦後体制から脱し、価値観を共有する日米欧と諸国が、新たな国際秩序を築こうとする第一歩なのだと思います。これを阻止して、世界を混迷のままに放置し、人類の文明と精神を退化させて獣性を引き出し、戦火の中からISのように共産主義革命を野火のように広げようとしているのです。
 ■産経:G7首脳が伊勢神宮を称賛「素晴らしい経験をした」「悠久の歴史に感動」
 G7首脳らは2016/05/26日、三重県伊勢市の伊勢神宮訪問について、安倍首相に「素晴らしい教訓と経験を与えてくれた」「聖なる場所に行くことができて感動した」などの感想を寄せた。日本政府が明らかにした。
 ほかにも「日本文化を学べた」「伝統の継続性と悠久の歴史を感じた」「感動を伴うものだった」「精神的によい経験をさせてもらった」との声が相次いだ。
 サミットが行われている三重県志摩市・賢島や会場のホテルについても「素晴らしい会場に感謝している」「景色、自然が非常に最高である」「おもてなしが日本の特徴だと知っていたが、それを証明するおもてなしだった」との評価だったという。
 *大和の皇祖神に感謝です。また、誇りに思う!

 尚、安倍総理夫人は、26日、ドイツ首相夫君,カナダ首相夫人,欧州理事会議長夫人と共に伊勢神宮を訪問しています。その後、三重県鳥羽市のミキモト真珠島で地元住民と交流した。海女との対話もあり、夫人らは「海で働く皆さんの勇気を心に留めて帰国したい」と話した。
 
 
 
 広島の原爆資料館、オバマ米大統領は、自身も4羽の折り鶴を資料館に寄贈した。大統領が自ら折ったもので、小中学生に手渡したという。
   
 スターリンが、毛沢東が、その支配下にあったゾルゲと尾崎秀実が、日本に敗戦共産主義革命を実現しようとした。そして、スターリンをしてGHQは日本の共産革命を進めましたが、その野望が、「オバマ大統領と安倍首相の広島献花」により、やっと打ち砕かれたと思います。
 当時、スターリンは中国共産党を生き残らせる為に、日本と蒋介石の戦いを望んだ。毛沢東は、スターリンに媚びを売りつつ、スターリンは毛沢東を駒として、世界地図を広げながら国際共産化の一端として、大陸視点でゾルゲを使って日本工作を行い、尾崎秀実が朝日を根城に、内閣と論壇に強い影響力を与えていた。尾崎秀実は逮捕後、日本の共産化は間違いないと豪語して、死んでいった。

 ◆「東京裁判」史観の崩壊

 トランプが道筋をつけて、米朝関係が正常化すれば、日朝関係も正常化します。安倍首相も、「日朝平壌宣言に基づき、拉致や核・ミサイルの問題を解決した上で国交正常化を目指す日本の方針は一貫している」と訪問先のイスラエルでの記者会見(2018年5月)で明言しています。
 アメリカが拉敢闘題を黙認したのは、日本と北朝鮮を対立させるためです。韓国の反日も同じライン上にあります。韓国人に、民族的DNAとして反日の土壌はあったのはもちろんですが、そこに輪を掛けて反日教育をやらせたのはアメリカです。韓国を使ったり、北朝鮮を使ったり、中国を使ったり、場合によってはソ連(ロシア)を使って、アメリカのジャパンハンドラーたちは、「日本封じ込め」という戦後の東アジアレジームを維持してきました。
ヨーロッパ諸国が植民地を失うという「世界史の大転換」をやってのけたのが、実は日本の大東亜戦争だったことがわかれば、その日本を叩いたアメリカは、帝国主義的な植民地主義を守ろうとしたことになります。
 また、アメリカは国際法違反をたくさんやっていました。原爆の投下もそうだし、東京大空襲もそうです。アメリカとしては自らの悪事がばれないように、どうしても日本を抑えつけておかなければならない。だから、衛生部隊に過ぎない七三一部隊が生体実験部隊とされたり、慰安婦強制連行や南京大虐殺の嘘がまかり通った。日本が事実を提示したところで、背後にいるアメリカがまともに取り合わない以上、駄目だったのです。
 アメリカを初めとする「戦勝国」はそういう「間違った歴史」をつくつてきました。しかし、これから「正しい歴史」がだんだん明らかになつていくと思います。そうなれば、どんなことが起きるか?
 一年前には考えられなかった史上初の米朝会談の実現に驚く暇もなく、日本と最後まで死闘を演じたアメリカの大統領(トランプ)が、安倍首相と共に靖国神社に参拝する秋もやってくるかもしれません。その時、再び「世界史の大転換」となり、「東京裁判」史観は崩壊するでしょう。

 ◆トランプが靖国参拝して九条改正を

 南北朝鮮が往来ゴツコをするなら、トランプ大統領は、安倍首相とともに靖囲神社を参拝せよと安倍首相に掟言するといい。そうすれば「日本封じ込め」は終わり、これからは「中国封じ込め」の時代だから、日本のためになることをアメリカもやるべきだ。
 以前プッシュ(ジュニア)大統領が二〇〇二年に来日した際、湾岸戦争のお礼として、靖国神社を参拝したいと言ったら、自虐史観の小泉首相は逃げ出し、明治神宮に変更してもらったという話がある。あの時、ブッシュさんが帰国したあと、横田基地から28人の米将校・下士官・兵士が靖国神社を訪れ社頭参拝しています。
 これは上の許可を得ての参拝です。つまり、プッシュ大統領の「代理」としての参拝だったと思います。ロシアだって、エリツィンが靖国神社の社頭参拝を1990年にしています。
 昭和天皇も今上陛下もアーリントンやウエストミンスター寺院(英国)の無名戦士の墓に行かれ献花しています。ただ、戦勝国の「元首」「首相」が靖国を参拝するというのは確かに意味のあることだけど、やはり、日本の首相が春・夏の例大祭に参拝し、その上で、陛下御親拝を仰ぎ、そしてトランプさんが来るなら来てもらうというのが筋論です。アメリカ大統領もヒロシマだけではなく、靖国にも来るべきです。
  
  ■ 日本は「戦闘」に負け「政治」で勝った
 クラウゼヴィツツの言葉(「戦争とは別の手段をもってする政治の継続」)を引き当てれば、日本は大東亜戦争という「戦闘」には負けたけど、戦争という手段を使って行なつた「政治」で、欧米諸国の植民地統治の世界を完全に引っ繰り返した。その意味で政治的に勝利した戦争だった。
 英国の歴史学者クリストファー・ソーンは、日本軍のアジア侵攻で「住民たちの目に映る白人種の威信は計り知れないほど低下した」「十五世紀未のパスコ・ダ・ガマの到来を西欧のアジア支配の出発点ととれば、日本は一九四五年に降伏したとはいえ、日本はすでに勝利したといえる。日本の緒戦の勝利は冷酷に、ある意味では慈悲深く、欧米の植民地の存続期間を大きく短縮した」(『米英にとっての太平洋戦争』草思社)と述べている。つまり、日米戦争で、日本は実に「いい政治」(植民地解放)を実現し、アメリカは、欧州諸国にとっては「悪い政治」(植民地喪失)を行なったことになる。

■アムステルダム市長による日本擁護論

 平成三年、日本の傷痍軍人会代表団か、大東亜戦争の対戦国であったオランダを訪問した折、同国の傷痍軍人代表とともに、首都アムステルダム市長主催の親善パーティに招待された。その時、同市のサンティン市長は歓迎の挨拶で、実に良心的に大東亜戦争の真実を語った。思いもよらぬ話に、日本の代表団は感激した。
「あなた方日本は、先の大戦で負けて、私どもオランダは勝ったのに、大敗しました。
 今、日本は世界一、二位を争う経済大国になりました。私たちオランダは、その間屈辱の連続でした。すなわち、勝ったはずなのに、貧乏国になりました。戦前はアジアに本国の三六倍もの面積の植民地インドネシアがあり、石油等の資源産物で、本国は栄耀栄華を極めていました。
 今のオランダは、日本の九州と同じ広さの本国だけになりました。あなた方日本は、アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分を蔑み、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。
 あなた方こそ、自ら血を況して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。なぜなら、あなたの国の人々は過去の歴史の真実を目隠しされて、今次大戦の目先のことのみ取り上げ、あるいは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史を振り返って、真相を見つめる必要があるでしょう。
 本当は私たち白人が悪いのです。一〇〇年も二〇〇年も前から、競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。植民地や属領にされて、永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大にして崇高な理想を掲げて、大東亜共栄圏という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。
 本当に悪いのは、侵略して、権力を振るっていた西欧人のはうです。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現しました。すなわち日本軍は戦勝国のすべてを、東亜から追放して終わりました。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。
 日本の功績は偉大です。血を流して戦ったあなた方こそ、最高の功労者です。自分を蔑むのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです」
 参加者全員、思いがけない市長の発言に感動したのは言うまでもない。この市長のように、ヨーロッパの文化人や識者は、あの戦争は日本のはうが勝ち、攻めた白人たちのはうが負けて、虎の子の植民地から追い出され、西洋の古巣に戻されてしまったことを知っているからである。
 世界史的に大観すると、大東亜戦争はアジアが西洋に勝ったいくさであり、それはこの戦いをリードした唯一のアジア独立国・日本の功績にはかならない。「日本は負けて勝った」のである。アムステルダム市長のサンティン氏のように、ヨーロッパ人は東洋の日本に、謝罪し、反省し、感謝しなければならない。このような良心的な正論を吐く市長だから、彼はやがて、全国民に推されてオランダの国務大臣に選ばれたのである。




■毛沢東、周恩来、劉少云可の証言

@劉少奇の「盧溝橋事件は中共軍の謀略だった」という発言
 当時中国共産党の副主席であった劉少奇が、戦後になって「慮溝橋事件の仕掛人は中国共産党で、現地の責任者はこの俺だ」と証拠を示して西側記者団に発表した。
 この発表が契機となって、当時戦犯として巣鴨プリズンに拘置中の河辺大将(当時師団長)、牟田口中将(当時北京市に本部のあった歩兵第一連隊長)は理由も告げられずに釈放された。
 東京裁判で、慮溝橋事件を起こした罪を、日本軍に負わせるため現地の日本軍指揮官を処罰しょうとしていたところへ、事件を起こした真犯人は中共軍だと発表され、あわてて右のような処置に出たのである。劉少奇の発表を聞いた時、東京裁判の主席検事だったキーナンはあわてふためき、顔面蒼白になったそうである。


A周恩来の「中共軍が日本軍と国民党軍の両方に鉄砲を撃ち込み、相戦わせた」という発言
 周恩釆首相は昭和二十四年(一九四九年) の中華人民共和国樹立宣言の際、「われわれ中共軍が日本軍と蒋介

B毛沢東の「日本軍のお陰で、中華人民共和国をつくることができた」という日本に対する感謝発言
 右の周恩釆や劉少奇の言と同じように、毛沢東も日本軍と蒋介石軍を相討ちさせたお陰で、中華人民共和国をつくることができたと認めている。昭和三十九年(一九六四年)七月十日、毛沢東は当時の日本社会党の委員長だった佐々木更三氏と、会見した時の対話の中で、はっきりと、こう述べている。その時の対話は次のような内容だった。

佐々木
 今日は毛沢東主席の非常に度量の大きい話を聞かせていただきました。過去において、日本軍国主義が中国を侵略し、皆さんに多大の損害をもたらしました。われわれは皆、非常に申し訳なく思っております。
毛 
 何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。皆さんの皇軍なしにわれわれが権力を奪取することは不可能だったのです。この点、皆さんと私は意見を異にしており、われわれ両者の間には矛盾がありますね(皆が笑って会場が盛り上がった)。
佐々木:ありがとうございます。
毛 
 過去のああいうことは話さないようにしましょう。過去のああいうことはよいことであり、われわれの助けになったとも言えるのです。ごらんなさい。中国人民は権力を奪取しました。同時に皆さんの独占資本と軍国主義はわれわれを助けたのです。
 要するに毛沢東は「われわれは日本軍のお陰で権力を奪うことができ、中華人民共和国をつくることができた。この点でわれわれは日本軍に感謝している。だから日本人は中国に謝ることはありません」と言っているわけである。

歴史から消された通州事件
 シナ事変が日本の一方的な“侵略”ではないことを示す、最も象徴的な出来事が「通州事件」である。この恐るべき虐殺事件は、慮溝橋の事件の約三週間後に起こつた。
 この通州事件については、戦後、ほとんど語られなくなった。なぜなら、この事件のことを言い出すと、「中国は善玉、日本は悪玉」という構図が崩壊してしまうからである。ところが、岩波書店の『近代日本総合年表』には、昭和十二年の項に通州事件のことは一行も書れていない。また同年十二月十四日に、キトウ政府(北シナに成立した政府)が殺された人の弔慰金百二十万円を払ったことにも一行の記述もない。
 昭和十二年(一九三七)七月二十九日、北京の東方にあった通州で、シナ人の保安隊(キトウ防共自治政府軍)による大規模な日本人虐殺事件が起こった。殺されたのは、通州の日本軍守備隊、日本人居留民(多数のコリア人も含む)の二百数十名であり、中国兵は婦女子に至るまで、およそ人間とは思えぬような方法で日本人を惨殺した。
 東京裁判において弁護団は、通州事件について外務省の公式声明を証拠として提出しようとしたが、ウエツブ裁判長によって却下された。この事件に触れると、シナ事変は日本ばかりが悪いと言えなくなってしまうという判断があったのは、言うまでもない。
 ただ、通州事件の目撃者三人の宣誓口供書だけは受理された。あまりに残虐な内容であるけれども、その一つ、元陸軍少佐の証言をあえて引用したいと思う。
「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、十四、五歳以上の婦人は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、七、八名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部に等を押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合せて、それに八番線を通し、一家六名数珠つなぎにして引廻した形跡歴然たる死体が浮かんで居り、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛の如く針金を通された子供、片腕を切られた老婆腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこここの塵箱の中やら塀の蔭から出て来た」(朝日新聞社 法廷記者団『東京裁判』東京裁判刊行会・中巻。読者の便を考え、読点を増やした)
 これが人間のやることだろうか。シナの史書には、生きたまま人の皮を剥ぐとか、あるいは手足を切り落とすというようなことが多数、書いてある。日本人からすれば、とうてい信じがたい話であるが、この証言を読むと「あの記述はやはり真実であったのか」と思わざるをえない。
   
   
 ■産経:「通州事件」ユネスコ記憶遺産に申請へ つくる会「世界に知ってほしい」
 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産に中国の「南京大虐殺文書」が登録された問題で、「新しい歴史教科書をつくる会」(高池勝彦会長)は2015/12/11、2017年の記憶遺産登録を目指し、 日中戦争の発端となった盧溝橋事件直後に200人以上の日本人が中国側に殺害された「通州事件」の資料をユネスコに申請すると発表した。
 通州事件は1937年7月29日、北京東方の通州で日本人が中国人部隊に襲われた事件。申請する資料は、東京裁判に提出された証言や外務省の抗議声明などの公的文書のほか、当時の新聞の号外なども予定している。同会は「通州事件が忘れられている現状を意識的に変えなければならない。広く世界に知ってほしい」と訴えている。
 ■シナ人の残虐性
 戦前、シナ人は残虐で、捕虜になれば、死よりも酷い苦痛を受け殺害されるので、死を選んだ方が良いと訓示していた。耳と鼻を削ぎ、目をくり抜き、陰茎を切り落とし、口に差し込んで殺す。連行する時は針金で生身を突き刺す。通州事件では強姦された日本女性の鼻に針金を通し処刑する。手足の指をすべて切り落とした児童の顔を針金で貫いて、局部に箒を突き刺されて殺された母親に縛り付けてあった。その十年後、満州で日本人三千人が虐殺された通化事件でも、針金を脛に通して歩かせた。
 ■産経:悲劇の満州在留邦人 婦女子の列にソ連軍戦車が突っ込んだ!2018/05/13

葛根廟事件

 昭和20年8月14日、事件は、満州西北部の興安総省葛根廟(現内モンゴル自治区)で起きた。省都の興安が8月10日にソ連軍機の無差別爆撃を受けたため、約4千人の在留邦人は3班に分かれて北方へ避難を開始した。このうち、約40キロ離れた葛根廟に向かって移動中の約1300人が、14日午前11時40分、草原の中でソ連軍の戦車部隊と遭遇した。
 興安総省旗公署参事官の浅野良三に率いられた在留邦人の大多数は、婦女子と老人だった。約80人の男たちの一部が警戒のため小銃を携行していたが、民間人が避難しているのは誰の目にも明らかだ。しかしソ連軍は、この避難民に向けて、一斉に銃弾を浴びせた。
 生存者らの証言によると、殺戮は凄惨を極めた。
 ソ連軍は最初、無抵抗の姿勢を示した浅野を機関銃で射殺(※1)。続いて戦車14両が避難民の列に突っ込み、婦女子らを轢き殺していった。戦車は列を通り過ぎてから反転し、再び列に突っ込む。キャタピラに轢き回された死体が空中に飛んだ。戦車の攻撃が終わると、歩兵部隊が逃げ惑う避難民をところどころに包囲し、自動小銃で掃射した。殺戮は、一時間以上にわたって続いたという。
 当時、興安に居住し辛くも難を逃れた元日銀副総裁の藤原作弥氏が、生存者の手記や体験談を著書に掲載している。
「やがて戦車の群れは止まり、中から何人ものソ連兵がおりてきて、倒れている人や逃げまどう人々を片はしから撃ち殺していきました。一人の兵隊は、私たち子供の馬車までやってきて、病気で寝ていたおじいさんを引きずり出し、自動小銃で頭を撃ち抜きました」(在満国民学校で当時1年生だった男性)
「壕の先の方で女の人が三十人ぐらい集まり、子供たちを真中にして、泣きわめいていました。それを見つけた(ソ連軍の)女兵士は、何人かの男の兵隊を呼んできて、一緒にダダダダ…と続けざまに撃ちました。一人残らず倒れるまで撃ちました」(当時2年生だった女性)
「戦車が、撃ち殺された母をまた轢いて、押しつぶしていきました。あの恐ろしい場面を私は昨日のように覚えています。あの気の遠くなるような広い広い草原を、妹とただ二人。淋しさと恐しさと飢餓の中で、はいずりまわったのでした。…(あとはもうお許しください。書けません)」(匿名の手記)
 地獄は、ソ連軍が去っても終わらなかった。
 旧厚生省引揚援護局の調査によると、この事件の推定死者数は約1000人。だが、このうちソ連軍による殺戮は約600人で、残りの約400人は集団自決などの犠牲者だとされる。
 敵に囲まれた草原で、孤立無援の在留邦人が味わった恐怖、絶望はどれほどだったか。生存者の一人はこうつづっている。
「ソ連兵の殺戮(さつりく)に続いて、生存者がこの世を儚(はかな)み自殺する者が続出しました。お互いに刃物を握り、一、二の三と叫んで刺し違えて倒れていく姿には鬼気迫るものがあり、残酷でこの世の出来事とはとても思えませんでした。(中略)親が子供の首に紐をかけて殺しているのが目に映りましたが、子供の手は虚空を掴(つか)み、足をばたつかせて動かなくなっていきました」……
 夜になると、今度は近在の農民らが、暴民となって生存者を襲った。
「ふっと気が付くと、何時の間に近づいて来たのか、麻袋を担ぎ大きな丸太ん棒を持った満人がいきなり雅ちゃんの着ていた外套を奪おうとしていました。私が必死で抵抗しますと、持っている丸太ん棒で私を叩くのです。どうする事もできません。為すがままです。一人が去ったかと思うと、又別のが来ます。(中略)その麻袋はどれもこれも大きく膨れています。死人の着物だけでなく、生きている人の着物もみんな剥ぎ取ってしまったのでしょう。私達は全裸にはなりませんでしたが、中には全裸にされ、コーリャンの葉っぱで覆っていた人も居たそうです」……
 一方で、親を失ってさまよう子供たちを救い、わが子同然に養育した中国人が多数いたことも、忘れてはならない。
 ところでこの間、在留邦人を守るはずの関東軍は何をしていたのか。
 ソ連軍侵攻前、省都の興安は3個師団を有する第44軍に守られていた。しかし8月10日、関東軍総司令部は、興安の邦人を残して第44軍を首都新京や奉天に後退させる命令を下す。同軍はこれを邦人に知らせぬまま、秘密裏に移動を開始した。事件当時、興安周辺は無防備状態だったのだ。(*関東軍は共産主義者に操作され、日本人を生け贄にした。)
 関東軍の方針は、在留邦人を犠牲にしてでも全軍を後退させ、長期持久戦に持ち込むというものだった。このため在留邦人の逃避行は悲惨を極め、葛根廟と類似の事件が各地で起きた(※2)。
 防衛庁編集の公刊戦史が、悔恨を込めて書く。
「最後の対ソ防衛戦における在満居留民の動態は、我が国の歴史上類例のない大悲劇であり、それはまた統帥との相関性についても大きな問題として残されている……」
 地上戦に巻き込まれ、文字通りの“地獄”に突き落とされた満州の在留邦人。凄惨な被害が刻一刻と拡大する中、東京では、最後の御前会議が始まろうとしていた−−。
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)邦人避難のリーダー役だった浅野良三参事官はソ連軍に射殺される直前、馬上で刀を抜いたとする説もある
(※2)葛根廟事件のほか終戦前後に起きた虐殺事件では、1945(昭和20)年8月13日に南満州鉄道(満鉄)の避難列車が満州・吉林省の小山克で暴民に襲撃され、多数の邦人婦女子が強姦、虐殺されたうえ、100人以上が集団自殺に追い込まれた小山克事件。戦後の1946(昭和21)年2月に旧満州・通化市で、民間の邦人約2千人が中国共産党の八路軍と朝鮮人民義勇軍に虐殺された通化事件などがある。
 
 ◆フランス人従軍記者が目撃した日本軍 … Youtubeより
 仏のフィガロ紙の従軍記者カレスコート・イチュスト、ラジオン紙の記者ラロ、両氏の『日本軍戦闘観戦記』によれば、「日本軍対は世界に対して誇るに足る名誉を有する。吾らは日本軍の如き慈愛心の富める軍隊を、この地球上広大といえども、他に発見し得るか怪しむなり」と、絶賛し、中国軍の蛮行については次のように記している。
「ひるがえって中国軍を見よ。日本兵のひとたび彼らの手に落ちるや、あらゆる残虐の刑罰をもってこれを苦しめる。その残虐非道なる行為は、正に野蛮人にあらざればなし得ざるもの。然るに日本軍は、これあるにもかかわらず、暴に報いるに徳をもってす。さすがに東洋の君主国に愧(はじ)じずというべし。」
※この従軍記は日清戦争(1894年〜1895年(明治28年))について書かれたもの。また、北清事変(義和団事件)において、当時従軍した日本軍の軍紀が欧米列強の評判となり、称賛されている。その事実の証として次のようなことがあった。
 天津落城の際に天津市民は、「大日本順民」と書いて日章旗を揚げて日本軍に感謝の意を表明した。
 さらに、フランスの国際法学者フォーシューは、日本軍を讃えて次のように語っている。「日中戦争で日本軍は、敵が国際法を無視したにも拘わらず、自らはこれを守り、日本軍人であることに誇りを持っていた。中国兵は卑怯にして残虐極まりない軍隊で、例えば中国軍の捕虜になると、四肢を斬り分けられ、生きながらに火炙りにされたり、磔にされたりしたのである。更に日本兵の屍に対しても、酸鼻を極めた蛮行を行っている。即ち使者の首を切り落とし面皮を剥ぎ取り、或いは男根を切り落とし、胸部を切り開いて石を詰め込み、首は両耳を穿(うが、穴を開けて通す)って紐や針金を通し、さながら魚を串刺しにしたように口から喉に紐を通して持ち運びする等々、それが中国軍の戦争様式であり、日本軍には絶対に見ることのできないシナの戦争文化である」と。

[通州事件 目撃者の証言]自由者ブックレット

 一部を抜粋しました。あまりに凄惨な事件なので、日本人としては吐き気がするほどの内容です。しかし、これが中国人に虐殺された日本人の無念なのです。是非、手に取って一読していただければと思います。

    ◇ ◇ 通州事件の蛮行を目撃した日本人女性の証言記録 ◇ ◇

 戦後の日本では、通州事件は長い間隠蔽され、忘れ去られた出来事となってきた。だが、最近は、中国こそが日本人に対して残虐な仕打ちをしたのであり、「南京大虐殺」はつくられた戦時プロパガンダに過ぎなかったという、ことの真相が次第に明らかになってきた。
 そうした中で、通州事件は教科書にも登場するようになった。
【北贅の通州には親日政権がつくられていたが、[1937年]7月29日、日本の駐屯軍不在の間に、その政権の中国人部隊は、日本人居住区を襲い、日本人居留民385人のうち、223人が惨殺された(通州事件)】(自由社『新しい歴史教科書』)
 しかし、その「惨殺」がどのように行われたのか、詳細な事実は殆ど知らされてこなかった。ところが、ここに一人の日本人女性がいて、支那人の男性と結婚し、中国人を装って通州に暮らしていた。そして、丁度通州事件がおこつたとき、彼女は支那人の群衆に紛れて、支那人として夫の肩越しに、そこで展開された蛮行の一部始終を見ていたのである。
 一人の老婆は「かたきをとって」と言い、「なんまんだぶ」と一声、念仏をとなえて息をひきとった。老婆のいまわの念仏が心から離れなかった女性は、帰国後、西本願寺の別府別院に通い、そこで佐賀県因通寺の住職、故調寛雅師と出会った。そして、五十年間秘密にしてきた体験を語り出した。本書は、その目撃証言の全文である。

    ◇ ◇ 父娘に対する暴虐無残 ◇ ◇

 七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いとき、テンさんは突然、夫の沈さんに烈しく起こされました。町には一杯人が出ていて、日本軍兵舎の方から猛烈な銃撃戦の書が聞こえてきます。八時過ぎになると、「日本軍が負けた。日本軍は皆殺しだ」と騒ぐ声が聞こえてきました。テンさんは飛んで行って日本の兵隊さんと一緒に戦い死んでやろうという気持ちになるのですが、沈さんに止められてしまいます。止められたから命が助かったのでした。
 九時過ぎ、誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫びました。女や子どもが殺されているというのです。沈さんの手を引いて日本人居留区に走ると、血の匂いがしてきます。沢山の支那人の中で、黒服の学生達(蒋介石が育てた教導総隊という名の、学生からなる精鋭部隊のこと)と保安隊の兵隊とが一体となっていました。その先に起こつたことを、佐々木テンさんは次のように証言しています。底本から直接引用します。
《そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。その娘さんを引き出して来たのは学生でした。そして隠れていたのを見っけてここに引き出したと申しております。その娘さんは恐怖のために顔がひきつっております。体はぶるぶると震えておりました。その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。(八行省略)学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。そして下着を取ってしまいました。娘さんは「助けてー」と叫びました。とそのときです。一人の日本人の男性がパァッと飛び出して来ました。そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。何かグシャツというような音が聞こえたように思います。頭が割られたのです》(一三六−七ページ)
 その後、父親の体を何度も何度も突き刺し、屍体を蹴転がした兵隊と学生達は、気を失っていると思われる娘さんのところへ再びやってきます。
《この娘さんは既に全裸になされております。そして恐怖のために動くことが出来ないのです。その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。そして陵辱をはじめようとするのです。支那人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。どうしても陵辱がうまく行かないのです。すると三人ほどの学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。(五行省略)するとギヤーツという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。私は思わずびっくりして目を開きました。するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を抉(えぐり)挟り取っているのです。(二行省略)ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。それから剣で首を切り落としたのです。その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです》(一三八−九ページ)
 あまりの酷い仕打ちに、読んでいて怒髪天を突く思いです。これが通州で、支那人が日本人に対してやったことなのです。
 保安隊と学生の部隊は、思いつきで日本人の家に押し入ったのではありません。保安隊は事前に居留区の全戸の日本人家庭を人口調査し、家族構成まで把握していたのです。
 通州には日本人だけを集めた日本人居住区といったものは設定されていませんでした。日本人の住んでいる家と支那人が住んでいる家とは混在していました。そこで、保安隊は、日本人の家の前には、それと分かるようにチョークで印をつけておいたのです。まさに日本人皆殺しを実行しようとしたのです。このことから、支那人によるこれらの犯行は日本人に対する政治暴力として、初めから計画されていたことがわかります。

    ◇ ◇ 佐々木テン証言の意義 ◇ ◇

 佐々木テンさんの証言は、こうしたいくつかの場面から成り立っています。それらの場面を列挙してみます。(※この残虐性は二度の蒙古襲来時、対馬の日本人への虐殺と同じです。つまり、彼らの異常な残忍性は、古代からのものです。)
 これらの出来事を、テンさんは中国人の夫の肩越しに、日本人と気取られないかという恐怖にもおびえつつ、震えながら目撃していたのです。テンさんの証言は、蛮行が行われる現場で、目の前で繰り広げられたことをつぶさに目撃し、詳細に語っている点で、最も資料価値の高い証言であると言えます。

    ◇ ◇ 漫画『裸足のゲン』の倒錯 ◇ ◇

 ここで、私は、日本中の殆どの学校に備え付けられている中沢啓治著『はだしのゲン』という漫画の中から、四つのコマを引用したいと思います。
 この漫画では、日本兵が中国人の女性に対し、このような行為を行ったと描かれています。それを受けて、この漫画では主人公の中学生に、「その数千万人の人間の命を平気でとることを許した天皇をわしゃ許さんわい」などと吠えさせています。
   
 冗談ではありません。この漫画に描かれていること、とりわけ下二つのコマで描かれている、妊婦の腹を切りさいて中の赤ん坊を引っ張り出すこと、女性の性器を銃剣で突き刺したり、異物を突っ込んだりすることは、通州事件で支那人が日本人に対してやったことなのであり、それだけでなく、済南事件などでも行われ、中国人の猟奇的性格を示す、有名な悪行の一つとなっているのです。
 それを日本人の所業になすりつけて糾弾するとは、作者中沢啓治氏は正常な思考ができたのか、無知故に単に騙されたのか明らかにすべきであり、関係者、出版社も責任を取るべきです。いずれにしても全国の学校からこんなインチキなトンデモ作品は撤収するのが当然です。
 日本人にはこのようなことはできません。このような行為は、支那人の残虐文化の特性で、日本人には関係のないものです。自分たちが幾度となくやってきた蛮行を、これと最も無縁な民族である日本人になすりつけるとは、これはどの卑劣な行為はありません。

    ◇ ◇ 東京裁判での証言 ◇ ◇

 当時天津歩兵隊長、又支那駐屯歩兵第二連隊長であった萱島高氏は東京裁判のとき、次のような証言を行っているのです。
旭軒(飲食店)では四十才から十七才十八才までぐらいの女性が皆強姦されていました。それは裸体で陰部を露出したまま射殺されておりました。特にその中の四、五名の女性は陰部を銃剣で突き刺されていました。商館や役所に残された日本男子の屍体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血糊は壁に散布し、言語に絶したものでありました。
 特に通州救護の第二歩兵隊長代理をつとめた桂鎮雄氏は、旅館近水楼での惨劇について次のような供述をしているのです。
 
 近水楼の入り口で女性らしい人の屍体を見ました。足は入り口に向けられておりました。顔には新聞紙がかけられておりました。その屍体の格好から見ると本人は相当に抵抗したらしく、着物は押し倒されたままで剥がされたらしく、上半身も下半身もむき出しになっておりました。そのむき出しになった裸身を五ケ所も六ヶ所も銃剣で突き刺してありました。そして陰部は刃物でえぐられたので形は残っていませんでしたが、その周辺には血痕が散乱しておりました。
 帳場や配膳室は、もう足の踏み場もないように散乱していて、略奪のすざましさを物語っておりました。そして女中部屋に行きますと、日本の女性らしい人が四人屍体となって転がされていました。その四人の日本女性たちは最後まで抵抗したらしく、その模様が伺われました。そして殺される直前には大変もがいたようであり、最後には四人が折り重なるようにして殺されたのでしょうか、その中の一名だけは上向きにさせられ、その女性の陰部はえぐり取られていました。帳場と配膳室には男一人女二人の屍体があったが、三人とも相当に戦ったようでありました。抵抗がひどかったからでありましょう。この三人の屍体に対する惨虐さは又格別で、男の人は頭が叩き割られ、目玉をくり抜き、その上半身は蜂の巣のようになっておりました。女性の方は背部から銃剣で刺されたものでしたが、何回も何回も刺したと思われる傷跡がありました。
 更に一階の座敷(客室)に女の屍体が二つありました。二人とも素っ裸で殺されていました。そしてこの二人の女性も強姦された跡は歴然でした。陰部は二人とも切り取られてあり、胸や腹部に銃剣で刺した跡が何カ所もありました。
 この近水棲の近くにあるカフェーに行ってみると、縄で絞殺されて素っ裸にされた女性数名の屍体があり、それはそこらあたりを縄で引きづり屍体を引きづった跡がはっきり残っており、残酷という言葉も通用しない世界を知らされました。このカフェーの裏側に日本人の家がありましたが、親子二人が惨殺されていました。子供は手の指を揃えて切断されておりました。
 南城門近くの日本人商店では、主人らしい人の屍体が路上に放置してありましたが、胸部の骨が露出し内蔵が散乱しておりました。
 更には七月三十日通州に救護に赴いた部隊の小隊長であった桜井文雄氏は、次のように述べております。
 守備隊が東門を出ると、殆ど数間間隔に日本人居留民男女の惨殺屍体が横たわっており、救護に駆けつけた一同は何とも言うことの出来ない悲憤の情がこみ上げ、そのおもいは到底消し去ることの出来るものではありませんでした。
 “日本人はいないか”と連呼しながら各戸毎に調査をして行くと、牛のように鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の屍体がそこここのゴミ箱の中や壕の中から次々に出て来ました。或る飲食店では一家ことごとく首と両手を切断されて捨てられている屍体が無惨でした。女性という女性は十四、五才以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかったのです。旭軒では七、八名の女性は全部裸体にされて強姦刺殺されており、陰部に等を押し込んであるもの、口中に土砂をつめてあるもの、腹を縦に断ち割ってあるものなど、全く見るに耐えなかったのです。東門近くの池には首を縄で縛り、両手を合わせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六名を数珠繋ぎにして引き回された形跡歴然たる屍体がありました。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃しました。
 何とむごたらしい悪業でしょう。これは悪鬼も目をそむけずにはいられない状況です。こうした供述の中にも酷たらしい淫虐の情景がはっきりして来るのですが、こうしたことばまさに悪魔も及ばない極悪無道のことであると申さればなりません。(以上に述べた通州事件についての文章は中村粂氏著の大東亜戦争への道によるところが多々あります)
 ■ベトナム日刊紙、ベトナム戦での韓国軍民間人虐殺を異例の報道
 ベトナムの日刊紙「トゥオイチェー」は2016/09/11〜17日、ベトナム戦争当時軍の民間人虐殺の生存者らの証言と活動の様子を計7回にわたり連続で報じた。ベトナムの有力日刊紙が民間人虐殺の生存者らの話を直接報道したのは異例のことだ。トゥオイチェーは、ベトナムで最も多く発行される日刊紙であり、1999年に時事週刊誌「ハンギョレ21」で民間人虐殺問題を扱った後、この内容をベトナムで初めて報道した現地新聞でもある。(⇒[韓国軍によるベトナムでの大虐殺]参照)
 トゥオイチェーは11日に報道した「虐殺以降の生存? 1部:生涯死ぬほど苦痛を抱えて」を皮切りに5回まで主に虐殺の生存者たちの証言を扱った。「最後の任務:話すために生きる」というタイトルの第6回では、昨年4月に虐殺の生存者として初めて訪韓したグエン・タン・ラン氏(65・ビンアン虐殺の生存者)のエピソードを伝えた。
 新聞のインタビューでラン氏は「昨年7月、ビンディン省の人民議会の代表らと会った席で、ベトナム政府が韓国政府に対して計1004人が犠牲になったビンアン虐殺事件に関して3つの事項を要求するよう公式に提案した」と明らかにした。ラン氏が提案した内容は、韓国政府にベトナムで犯したことに対する謝罪を要求すること、生存している被害者らに対する責任を要求すること、民間人虐殺による被害者家族らに対する責任を問うことなどだ。これは「韓国軍の虐殺を認めれば良い」という既存の被害者たちの立場から一歩進んだ要求だ。
 虐殺の生存者たちが高齢化し、生存者たちの証言を残すための官レベルの努力も始まっている。いずれも18件の民間人虐殺と約1500人の被害が発生したクアンガイ省のグエン・タン・プ文化通信観光庁長は「ベトナムの全ての省が1次的に生存者に関する情報を総合すれば、虐殺50周年になる今年中に生存者の会合を組織できるだろう」と明らかにした。韓国軍の民間人虐殺をハンギョレ21を通じて初めて報道した韓ベ平和財団のク・スジョン理事は「韓国の慰安婦問題も証言できる生存者たちが亡くなっていくという危機感があるときに運動が大きくなった。ベトナムも同じようだ」とし、「生存者の間で、世代を超えると問題を解決できないという危機意識が強く生じている」と伝えた。
 1960年から15年間続いたベトナム戦争が終わった後、ベトナム政府は民族統合と和合を最優先課題とし「過去を閉じ、未来を開こう」というスローガンを掲げた。韓国軍の民間人虐殺も「閉じなければならない過去」になった。ところが、政府の統制が強いベトナムでトゥオイチェーの今回の連続報道は事実上政府の黙認のもとで行われたと見られ、雰囲気が変わったことを感じられる。



■『紫禁城の黄昏』が明らかにした真実(満州事変)

 渡部氏の監修の言葉に「『紫禁城の黄昏』が、極東軍事裁判に証拠書類として採用されていたら、あのような裁判は成立しなかったであろう。もちろん、東京裁判所は、本書を証拠資料として採用せず、却下した」と。
 この本を書いたレジナルド・ジョンストンは、当代一流のシナ学者で、宣統帝薄儀の家庭教師となった人である。この本は、満州事変後のアメリカ・イギリスの対日政策が根本から間違っているということを、動かしがたい証拠を以て言及しているの。
 この書が決定的に主張していることを二言でいえば、「満州は絶対シナではない」という点である。ジョンストンの、「シナには近代欧米的な意味での国家は、かつて存在したことがなく、いろいろな王朝があっただけである」という指摘に驚かされる。考えてみれば周王朝と唐王朝では人種がほとんど別になっているといわれているし、元王朝は蒙古民族の王朝であり、清王朝は満州民族の王朝であり、決していわゆるシナ人の王朝ではなかった。これが満州問題を理解する鍵であったのだ。
 そのシナで「滅満興漢」が叫ばれ革命が起こり、満州族最後の皇帝薄儀は紫禁城から追い払われた。皇帝は家庭教師のジョンストンとともに日本公使館に逃れた。次に父祖の地である満州に戻って、そこで皇帝になりたいと思っていた。その薄儀の夢を支援したのが日本であったのだ。
 とすると満州というのは日本が侵略してつくったわけではない。満州国は塊偏政権だと言われるが、満州人の正統な皇帝が、先祖が「清」を建国した場所に戻って、大臣も満州人か清朝の家来で構成された。
 東京裁判のさい、梅津美治郎の弁護人だったブレイクニー少佐はこの本を提出したが却下されてしまった。これを証拠として認めると、先に渡部昇一氏の言としても紹介したように、東京裁判の戦犯は誰もいなくなってしまうからである
 ジョンストンのこの本には、薄儀が喜んで序文を寄せている。しかし薄儀は東京裁判の当時ソ連軍に捕まっており、脅かされていたので、序文は自分が書いたものではないと供述した。もし序文は自ら筆を執ったと彼自身が認めれば、彼は日本政府に拉致されて皇帝になったのでなく、自ら望んで日本に助けてもらって皇帝になったということを認めることになる。そうすると東京裁判自体が成り立たなくなるのである。だから、この本は証拠として採用されなかったのだ。
 ジョンストンは次のように書いている。二十世紀初頭の満州は実質的に、完全にロシアに占領されていた。清朝はロシアを追い払うために何もしなかった。ところが日本は日露戦争でロシアを打ち破った。それがなければ遼東半島ばかりか、満州全体がロシア領のマンチェリアスタンになっていたことが明白であった。
 日本はロシアの植民地になりかけていた満州を助けた。そこへ清朝から皇帝が帰ってきた。それを日本が助けて、一体何が悪いかと。
 この論理が成り立たなければ、日本は中国を侵略したという汚名から逃れることができなくなる。だが、この論理はきわめてまっとうなもので、日本が満州を侵略したと言い募るほうが無理だということに、そろそろ気がつくべきである。
 だとすると、柳条湖事件にも、日本は肩身の狭い思いをする必要はまったくない。この事件は満州国をつくるために侵略者で匪賊の頭領である張学良を追い払っただけのことである。
 何度も言うが、満州はシナではないのだ。シナ人にとっては万里の長城の外の化外の地にはかならないのである。

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