誰が「南京大虐殺」を捏造したか




 月刊WiLLで 2012年2月号(古荘光一著)から連載されていますが、
 これまでに無い視点から南京大虐殺の真実を暴き出しています。是非、原文をお読み頂きたいです。

 本多勝一氏は「南京大虐殺」派の象徴的な人物で、国際的にも著名な元朝日新聞のスター記者であり、アイリス・チャンの『レイプ・オブ・チャイナ』や反日左翼が「南京大虐殺」の象徴と使っていた。
 本多勝一氏は、あの橋の上を中国人老若男女が歩いていた写真を捏造写真と認めたコメントを、『週刊新潮』(2014年09月25日発売)のグラビアページに寄せています。これは、「南京大虐殺」派の象徴的な人物のコメントとして歴史的な意味があり、「南京大虐殺派」にとっても歴史的な事件なのです。そして、『週刊新潮』は、「南京問題論争」の歴史的な資料になりますので、永久保存版として所蔵する価値があります。
 これを起点に朝日新聞社の「慰安婦検証」から「南京問題検証」へのスタートにするためにも、『週刊新潮』編集部へ、南京問題の写真を継続して取り上げることをお願いしてください。
 資料の価値を一般国民に知らしめることは、同写真の背景を『ひと目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神』『再審「南京大虐殺」』で写真とともに解説していても、1万人の読者諸賢だけが覚醒していても世論になるには程遠いのが現状です。しかし、『週刊新潮』に取り上げられれば、発行部数から銀行や医院などの待合室に置かれることで数百万人が見ることになり、その影響力は絶大です。
 どうか皆様方が、『週刊新潮』を激励していただけば、朝日新聞「南京問題記事の検証」へ一気呵成に追いつめることも可能になります。尚、この記事に関して、2014年9月18日のチャンネル桜でも検証報道しましたので、ネットで視聴していただければ幸いです。

 ■本多勝一の正体
 本多勝一こと“崔泰英”が朝日新聞「中国の旅」を連載し始めた1971年は、財政破綻で苦境に立つ米国がキッシンジャ−を支那に極秘訪問させた年でもある。反日論者の彼は周恩来との秘密会談で“対日封じ込め”戦略で一致した。利にさとい伊藤忠商事は瀬島龍三専務指揮下、国交正常化を前に売国的な「周4原則」を受け入れ早くも中国室を設置している。さらに我が国では時を同じくして、この年に「日の丸・君が代」教育に反対する槙枝元文が日教組委員長に就任し、その後、我が国に対して内外ともに反日包囲網が形成されて行く年であった。
 本田が暗躍したあの時代から、米国とシナは日本封じ込め即ち日本貶めで米国は日米貿易問題で恫喝。シナは如何に賠償金に代わる日本から金をせしめるかを、キッシンジャーと共謀したとしか思えない。その後の日本へのシナの執拗な歴史戦が始まりましたね。シナと共謀者のキッシンジャーの暗躍同意が在ったのでしょう。それに乗ったのが朝日新聞が筆頭でNHKが乗ったのでしょう。
 本田の南京戦捏造プロパガンダから慰安婦植村、福島原発の嘘報道など全て売国報道でした。新聞社では無くシナ、中朝の反日工作機関が正体でした!!



 いま一つ大切なことは、なるだけ多くの外国資料を活用することだ。これは研究に客観性を与えるだけでなく、欧米の研究者の便宜を図ることにもつながる。私は欧米人の反論を期待している。幸いにも支那事変については、アメリカ人らが書き残した同時代資料が読みきれないぐらいある。また、支那人自身による回想録もある。ロシア人が書いた本も多少は日本語で読める。
 それに、アメリカ議会図書館、国立文書館、ドイツ連邦文書館、アメリカの大手新聞社などに貴重な史料が保存されている。
 これは眠れる宝の山だった。費用はかかったが、最小限必要なものは全部、手に入れた。


◆南京城内は平穏

 「南京大虐殺」をあたかも事実の記録であるかに見せかけた文献といえば、一九三八年(昭和十三年)にオーストラリア人のティンパーリがロンドンで出版した『これが戦争だ』が代表的で、戦後も欧米の出版物が「南京大虐殺」に触れるときは、これを典拠とすることが多かった。 ティンパーリは、英国の「マンチェスター・ガーディアン」の“特派員”を装い、客観的、中立的立場での報告の体裁をとっていたから、「真実」と受け止める向きが内外を問わず多かった。 ところが、ティンパーリは特派員ではなく、記事一本ごとに仕事を請け負うストリンガーにすぎず、支那国民党の宣伝処の「顧問」だったとの指摘が一九九〇年代に登場した。その後、二〇〇七年に私が、ティンパーリは中央情報部の「職員」だったことを突き止め、本誌に発表した。これによって、『これが戦争だ』は支那の一方的プロパガンダである疑いが濃厚になつた。
 この時、私は『これが戦争だ』に収載された「南京日記」の筆者が、宣教師で南京YMCAの専務理事だったジョージ・A・フィッチであることも指摘した。フィッチ自身が回顧録で、原稿をティンパーリに渡したと語っているのを発見したのだ。フィッチが支那国民党の頭目の蒋介石と親密だったことを示す写真も回顧録に掲載されている。
 その後、支那政府がアメリカで展開した「対日屑鉄輸出禁止」運動に関する文献を入手した。それによって、「南京大虐殺」をでっち上げた支那側の動機ないし直接の目的が「対日屑鉄輸出禁止」運動にあったことが判明した
 後述するが、これは無資源国の日本が鉄を人手する道を閉ざし、武器その他の製造を不可能にさせようとの思惑による運動である。この運動の効果を高めるためにでっち上げたのが、「南京大虐殺」である。フィツチがこの運動に関与していただけでなく、妻のジュラーディンは最も積極的な活動分子であったことも分かった。私はこのことも以前、本誌で報告した。
 しかし、これだけでは「支那側は事実を利用して宣伝に使っただけではないか」と念を押された場合、反論の手掛かりがない。なにしろ、日本軍が南京を占領した際、市内に居残っていた欧米人が口を揃えて「あった」と証言しているのだ。
 そこで、かれらの発言を裏付ける文献の発掘に努力した。しかし、それは出てこなかった。
 かわりに、かれらの証言の嘘を暴露する英語の資料がいくつか見つかつた。
  1. でっち上げが事前に計画されていたことを物語るポーランド人女性の書いた本。
  2. 支那人が英文で書いた「南京大虐殺」の定義。
  3. 南京市内は平穏であったことを物語るアメリカ人記者による新聞記事と写真。

 一般に、「なかった」を証明することはできない。しかし、これらの資料の発見により、欧米人も納得せざるを得ないレベルで「なかった」を主張することが可能になった。詳しくは次回以降で述べる。
 ■産経:「南京事件」嘘を世界に広めた豪人記者、台北の史料で判明。2015/04/16
 南京事件」(1973年)を世界に広め、東京裁判にも影響を与えたとされる『戦争とは何か(What War Meand)』(1938年出版)の著者、ハロルド・ティンパリーが日中戦争勃発後の39年、中国国民党宣伝機関の英国支部で責任者を務めていたことを示す史料が、台北市にある国民党の党史館で見つかった。国民党の宣伝工作に関わったティンパリーの詳しい活動実態が明らかになったのは初めて。
 確認された史料は「中央宣伝部半年中心工作計画」。39年3〜8月の党中央宣伝部の活動方針を記したもので、表紙に「秘密」の押印がある。宣伝部の下部組織、国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」のトップにティンパリーを挙げている。
 「責任者」はティンパリーを含む欧米人3人、中国人2人の計5人で工作者は「四十余人」。工作目的は、英政府と議会に対中借款の継続や抗日戦争への支援を働きかけることや、英植民地に日本製品不買運動を広げることとしている。。
 史料はティンパリーの工作内容に関して@英国政府要人と国会議員に面会し、「わが抗戦、建国の真意を伝える」A5月に英国各地で講演B6月に訪米し講演C専門書1冊を執筆−などと具体的に記している。
 これに先立つ37年、ティンパリーが国民党側から月額1千ドルの活動費を得ていたことも、産経新聞が入手した米コーネル大図書館所蔵の史料から分かった。
 国際宣伝処長の曽虚白は『戦争とは何か』に関し、「金を使って、ティンパリーに依頼して書いてもらい、発行した」と自伝で語っていた。今回明らかになった史料は「南京事件」をめぐる論争にも影響を与えそうだ。
 豪人のティンパリーは「南京事件」の当時、英紙マンチェスター・ガーディアンの上海特派員で、南京にいた欧米人の手記などをもとに、旧日本軍による南京占領を“告発”した。国際宣伝処の「顧問」を務めていたことがすでに明らかになっている。
    


◆反日日本人の群れと支那人

 しかし、これでもまだ欧米人は納得しないだろう。基本的に欧米人は、日本は侵略国だったといまも信じているからだ。 ■[村山談話]
 欧米人がそんな日で日本を見ていることを知らない村山首相(当時)が、一九九五年八月十五日に発表した談話は火に抽を注ぐものであった。
《わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました》
 欧米人は、日本の文科省が検定した教科書に「南京大虐殺」あるいは「南東事件」が記述されている事実を知れば、日本政府がそれを事実と見なしている証拠と誤解するだろう。おまけに、いくつかの裁判で南京大虐殺」はあったとの前提に立つ判決が下ったことも問題だ。
 極め付きは外務省の見解である。一九九人年(平成十年)十二月二十五日、同省の報道官が出した談話のなかに次のくだりがある。
《なお、政府としてはいわゆる「南京事件」をめぐり種々の議論があることは承知しているが、一九三七年の旧日本軍の南京入城の後、非戦闘員の殺害あるいは虐殺行為等があったことは否定できない事実であったと考えている》(同省のインターネット・サイト。洋数字を湊数字に改めた)


◆相次ぐ反宣教師暴動

 支那人は外国人をたらしこむ独特の技法を持っている。孫文の衣鉢を継ぐと自称した蒋介石も嘘の巨匠だ。蒋介石が騙した最大の集団は支那人とアメリカ人、日本人であるが、最初にたらしこんだ欧米系の外国人は、孫文が支那に招いたロシア人である。
 アメリカ人のプロテスタント派の宣教師がこれに次いだ。アメリカは十九世紀末から支那の門戸開放を謳ってきたが、実際に進出したのは、奥地の隅々まで入り込んだ企業は少なく、主な勢力は宣教師であった。
 ここに支那史の特殊性がある。かれらは超低賃金で雇った現地人召使にかしずかれ、優雅な生活を守るため、アメリカ国内を「四億の民が間もなくキリスト教徒になる」と、絶えず宣伝して回った。アメリカ国内の無数の信者は、支那人は愛すべき民族であるとのイメージを植え付けられてきた。言外に、支那人は白人に比べて劣る人種であるというのと大差なく、信者たちの優越性を満足させた。
 ところがこの間、蒋介石が反共クーデターを実行し、しかもキリスト教への改宗の意向を示したことから、宣教師の間に、蒋介石は民主主義の擁護者であるとの声が挙がった。なかには「蒋介石が進めている革命は、わが国の独立戦争に匹敵する」という者さえ現れ、所属する上部団体に手紙を書き、アメリカ国内の新聞、講演旅行、集会などを通じて支那の権利を訴えた。
 さらに、二百万人の会員を擁する宣教師派遣団体がアメリカ政府に請願書を提出するまでになつた。以後、「蒋介石は民主主義者」とするアメリカ人の固定観念が支那事変、日米戦争、戦後を通じ、長年にわたって持続する。
 これ以外にも、個人的理由から蒋介石に擦り寄った宣教師がいた。その典型が前記のフィッチ夫妻である。「屑鉄輸出禁止」キャンペーンと「南京大虐殺」のでっち上げと流布に大車輪の働きをした。
 「南京大虐殺」の流布について、日本では新開、雑誌の働きによると見る人が多いが、実際はアメリカ国内で発行されていた各宗派の機関紙類が先行していた。
 蒋介石が操ったもう一つの職業人は、アメリカ人のジャーナリストである。 これらの人物は、真相の追究に興味を見せなかった。無事の庶民が飢えや病気、匪賊の蛮行で大量に死んでゆく支那社会の現実や官僚の腐敗、蒋介石一派の悪行に日をつむり、藩介石が自由と民主主義のために日本と戦っていると書き、でっち上げの「南京大虐殺」を報道した。
 蒋介石のプロパガンダに乗せられた人物のうち、最も高い地位にいたのはアメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトだ。


◆三悪人に操られた大統領

 この連載では詳しく触れないが、すでに解明されているルーズベルトの愚行を列挙しておく。
 まず、イギリス首相のウインストン・チャーチルに騙された。チャーチルはドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーが南米経由でアメリカを攻撃するとの噂をニューヨークでばら撒き、映画まで作った。
 ルーズベルトはソ連の独裁者、スターリンにも手玉にとられた。スターリンはルーズベルトの身辺にスパイを山ほど送りこんだ。個人秘書までがスパイだったというから救いがたい。この事実は、アメリカのFBIが当時傍受していた電報などを『ヴュノナ』文書(邦訳書あり)としてインターネット上で公開したため、広く知られるようになつた。
 ルーズベルトは支那貿易に従事した祖先が母方にいたため、自ら支那通をもって任じ、最初から蒋介石に好意を寄せていた。一九三七年に支那事変がはじまると九月五日、シカゴで日本を非難する演説をぶった。
 そんなルーズベルトだったから、蒋介石にも操られた。「南京大虐殺」の捏造は、ルーズベルトを操るため、蒋介石がアメリカ国民に向けて繰り広げた一連のプロパガンダの一部である。


◆ドイツ軍事顧問団

 蒋介石がたらしこんだもう一つの小集団は、ドイツ人の軍事顧問団である。蒋介石の共産党部隊の攻撃に協力し、そのおかげで蒋介石は共産軍を絶滅寸前にまで追い込むことができた。さらに、支那事変でも重要な役割を果たし、おまけに「南京大虐殺」のでっち上げにも協力した。
 これだけ多くの外国人をたらしこんだ蒋介石とはどんな人物か。「南京大虐殺」のでっち上げを論証するには、蒋介石の人間像を見直す必要がある。



◆繰り返し日本人を大虐殺した蒋介石軍

 話は戻るが、ここで、どうしても触れておかなければならない事件がある。蒋介石軍の北伐部隊が一九二七年の春、南京、蘇州、杭州、九江、漠口などで外国人に働いた残虐行為だ。
 三月二十四日、南京では侵入した蒋介石軍がたちまち暴徒と化し、略奪、殺人、強姦をほしいままにした。このため、揚子江上をパトロールしていたイギリス、アメリカの砲艦が市内を砲撃し、騒ぎを鎮圧した。この間、欧米人が殺され、事件後、宣教師の団体が非難声明を出すなど国際問題にもなつた。
 また、各地のアメリカ人宣教師が大挙して上海、フィリピン、日本に脱出した。
 だが、一番過酷な目にあったのは日本人であった。北伐軍は百人を超す居留民が避難していた日本領事館を襲い、狼籍の限りを尽くした。
 金品を奪っただけでなく、三十数名の婦女は少女にいたるまで凌辱された。領事館外で被害を受けた日本人も多かった。これらの事件については、直後に中支被難者連合会という日本人の団体が『南京漠口事件真相揚子江流域邦人遭難実記』と超した記録を残しており、それが田中秀雄編集・解説『もうひとつの南京事件』に現代表記で覆刻されている。
 田中義一と面会後、帰国して権力の座に返り咲いた蒋介石は、北京奪取を目指して北伐を再開し、日本人の多い済南に接近した。
 日本政府は、南京などでの惨劇を繰り返さないため、用心として軍隊を派遣した。この派兵について、ドイツ人で元孫文の秘書のダスタフ・アマンが次のように述べている。
《(日本は)支那の内政的発展には干渉せず、純粋に経済的問題に向けられていた。その際日本本が自らを保護せねばならなかったのは日本の利益に対する支那人の無紀律性に対してであつた。従って、日本が支那から要求したところのものは、全世界が要求した「紀律性」以上のものではなかったのである》(現代表記に改めた)


■支那文明特有の残虐性
 蒋介石軍は、済南に整然と進駐してきた。これを見て、日本軍は支那軍と相談のうえ、日本人街に通じる道路上のバリケードを撤去した。その途端、武装した支那兵が日本人街へ殺到した。戦闘が発生し、支那兵による焼き払い、掠奪が、夜遅くまで日本人慰留地を荒れ狂った。現場に居合わせた日本の軍人、佐々木到一が書きとめている。
《予は病院において偶然その死体を実見したのであるが、酸鼻の極だった。手足を縛り、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。ある者は焼かれて半ば骸骨となつていた。焼残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である》
 日本人はもちろん、未開の首狩り放でもこんな遺体損傷はしない。
 南京での蛮行といい、済南での残虐行為といい、のちの支那事変の初期に発生する通州での日本人虐殺事件といい、いずれも偶発的に発生した事件ではない。支那文明の所産だ。それには他の文明にない特異性があり、異常な嗜虐性が一つの特色をなしている。


■対日戦争を目論む蒋介石
 同胞がこんな目に遭わされても、田中内閣は蒋介石を助ける態度に出た。北伐の最終目標である北京を占領していた満州軍閥の張作森に対し、引き揚げを勧告したのだ。張作森はこれに従い、北京を明けわたしたため、蒋介石側の部隊が無血入城し、北伐は完成した。
 それでも蒋介石は、田中義一が北伐を邪魔立てしたとの解釈は変えなかった。張群は次のようにいう。
《国民軍命軍の北上を前に、日本は済南に出兵(第一次山東山兵)、われわれの北伐を妨害する意図を明らかにしていた。その動機は東北三省(満州)と本土とを切り離し、日本の満州における特殊権益を確保するという大陸政策の遂行にあった。まず満蒙を支配して、それを足がかりに中原を目ざすというもので、すでに「田中上上奏文」(⇒[田中上奏文は偽書])によって青写真が画かれ、田中義一が参謀次長時代から、逐次実施に移されていた》
 張群の言うとおりなら、田中に北伐を邪魔されたと曲解した蒋介石は、早くもこの時から、対日戦争を目論みはじめたことになる。


■無能さらけ出す孫文、シナ側で超極秘記録
 概略下記の内容のに、本稿が続きます。
 辛亥革命は、革命ではなく明治維新に近い。というのは、清朝最後の皇帝溥儀は、政権を国中華民国譲ったからだ(⇒[紫禁城の黄昏])。銃を交えること無く権力をつかんだ袁世凱と孫文は、力関係から孫文は共和国の初代大統領をあきらめ、希望通り鉄道大臣に就任する。
 孫文は理論政治家であって、実行政治家ではない。例えば鉄道の必要性を説く、その通りである。しかし一年半過ぎても何の計画もできていたと、袁世凱はこぼしていたのだ。
 袁世凱の嘆きには裏づけがある。三十数年後のことだが、病を得て死の床についていたドナルドが孫文の鉄道大臣時代のデタラメぶりを、訪ねて来たアメリカの新聞記者にぶちまける(『ドナルド・オブ・チャイナ』)。
 それによると、孫文はドナルドを伴い、かつて西太后が使っていたお召し列車に乗り込み、西太后専用の車輌を使って執務所とし、支那地図のあちこちに路線を書き込んだ。ドナルドが「そこは地形が険しくて建設不可能だ」と諌めても開かず、次に到着した駅で思いつきを発表してしまう。むろん、実現しなかった。この列車には、いつのまにか娼婦が多数乗り込み、列車のあちこちで随員たちを相手に夜な夜な矯声を上げていたという。
 袁世凱の死の直前のこと。孫文は鉄道大臣を罷免され、亡命騒ぎを起こしたあと、一九一六年五月に山東半島の一角で反乱を企てた。今回は他人の褌で相撲を取ろうと、日本の軍人の助けを借りた。
 格好はつけていた。山東革命軍と称した部隊は、指令官が居正、参謀長が陳伸学、それぞれに佐官級の日本軍人が指導者として付き、済南駐在武官の貴志弥次郎大佐の指揮を受けていた。
 しかし、相応の準備はなかった。兵士は金で釣って駆り集めた苦力(日雇いの肉体労働者)が主体で、現地に入り込んでいた宮元利直ら日本人の“有士”や、金で雇われた若干の無職の徒も加えていた。
 革命軍は最初に淋県を攻撃したが、撃退された。また、大塊樹兵営への攻撃にも失敗した。最大の目標だった済南では攻勢をかけることができず、城内に忍び込んで戒厳令司令部や兵舎を銃撃した程度で引き揚げた。
 例外的に、革命軍は周村の一時的占領に成功した。しかし、ここで醜態をさらした。
《(兵士らは)中国銀行、交通銀行、実業銀行の現金を掠奪し、外に商民より十五万元を徴発し、尚革兵中各個にて掠奪せるものあり。或は不正邦商(日本商人)、華兵に扮し、掠奪を逢うせる等ありて、全く土匪の行為と異ならざりし》(現代表記に改めた)
 一連の騒ぎで山東地方の経済が麻痺し、現地の民衆は苦しんだ。この事件では日本も迷惑した。とくに、雇われ日本人が向鉢巻を締め、左手に日本刀、右手に銃を持ち《勇ましく乗込む》といった行為をしたので、現地人は、革命軍を日本軍と誤解し、騒動にかかわり合いのない日本人を襲う事件が起きた。
 この内情を察知したのが、当時、衰世凱の顧問をしていた日本軍の坂西利八郎大佐である。坂西は参謀本部に意向を確かめたうえで現地に向かい、貴志大佐に「革命は即刻中止、極秘に解散する」と本部の意向を伝えた。反乱は民衆に迷惑をかけただけで、雲散霧仙洞した。
 支那側の孫文に関する記録で、この事件は超極秘、または「なかった」ことになつているはずだ。


西安事件の真相
 西安事件の前月(一九三六年十一月)、日独防共協定が結ばれた。東西からソ連を挟み撃ちにする構えで、ソ連を牽制する。加えて、日本は対峠する蒋介石への武器輸出をやめさせたい。スターリンにすれば、いよいよ蒋介石を抱き込む必要を感じ取る。一方の蒋介石にすれば、ドイツの変わり身を見て不安になり、新たな提携先を模索しはじめる。のちにアメリカに助けを求めてすがりつき、いわゆる援落ルートで武器弾薬を得たり、フライング・タイガー(アメリカの自称義勇兵が中国軍機に擬装した飛行機で日本爆撃を画策)の助けを得たが、それはあとの話だ。蒋介石の不安と模索に、スターリンと張学良はつけ込んだ。
 以上の事情を踏まえて、アメリカの新聞記者フレデリック・ウィリアムスの報告を読むと面白い。彼によれば、蒋介石は窓から脱出を図って転落、泥まみれで取り押さえられる。その際、入れ歯を失った。「入れ歯がないので話せない」と談判を拒む。手分けして入れ歯を探したが見つからない。南京から夫人の宋美齢が新品の入れ歯を持って飛んで来る。腰が抜けてヘタリ込んだ夫に代わって、美齢が張学良と対峠した。傍らにロシア人が立ち会った(周恩来が同席したという説もある)。
 張学良(おそらくは周恩来)が提案する国共合作(国民党と共産党が一致して日本と戦う)に反対すれば、夫の命はない。美齢は二つの条件をつけた。一つ、共産主義は金持ちから財産を奪うが、わが財閥を除外すると約束しろ。二つ、面子が立つようにしろ。つまりは、夫が堂々と西安を出て南京に帰れるように取り計らえ。
 かくて世界に次のような報道が流される。蒋介石は威厳を保ち、堂々と無条件解放を要求して、それを貫徹した。妻の宋美齢は健気に夫を助けに飛んだ。一方、張学良は自らの非を認め、意気消沈して自殺したいと口走る。これらはロシア人の入れ智恵で、夫妻の面子を保つ演出である。世界は何も知らされない……。
 さらにフレデリック記者は、次のように書く。要約しておく。
「立ち会ったロシア人は蒋介石に、ドイツ顧問団に訓練された彼の私兵を使って、時を置かずに偶発的に日本と戦争に入れと主張した。蒋介石は同意し、肩の上に無事に首を乗せて南京に戻った。ドイツ顧問団に一部始終を話すと、ドイツ人は激怒した。あと二年待て、そうすれば日本と戦える軍隊に育つとドイツ人はいい、蒋介石もその気になつた。ところが血気の若い共産党貝らは、蒋介石が臆するなら、オレたちが日本に戦争を仕掛けてやると息巻いた・・・。」
 以後の展開はそのとおりになつた。時系列で並べてみる。
 慮溝橋事件で日本駐屯軍に銃弾が撃ち込まれ(三七年七月七日)、停戦協定が成立したが、通州事件(⇒[消される通州事件])で日本人二百四十余名が虐殺され(七月二十七日)、ついで上海で海軍大尉・大山勇夫が惨殺され(八月九日)、蒋介石が上海に空爆を伴う攻撃を加え(十三日)、これに応戦して日本海軍が渡洋爆撃を敢行(十五日)…これで全面戦争となる。
 まさにクレムリンのシナリオどおりになつた。通州事件(⇒[消される通州事件])の残虐については前に触れたから繰り返さない。これでもかとばかりの挑発で、日本国民を憤激させた。当時、日本の廟堂にも「挑発に乗るな」とする議論はあった。たとえば、蔵相・賀屋興宣は「全面戦争となれば、日本の国力では戦えない」と主張して、海相・米内光政に一喝された。
 米内は山本五十六、井上成美のトリオで日独伊三国同盟に反対した。のちに終戦内閣の海相として、首相・鈴木貫太郎と呼吸を合わせて終戦に尽力した。その米内にして激怒した。邦人二百四十余名のアトロシティ(集団殺戦)に続いて海軍大尉の惨殺とくれば、無理もない。
 しかし彼が陸戦隊を送り、爆撃に対するに爆撃で応じたのは、なにより五千人で七十五万に応戦する現地部隊を救いたかったからだ。放置すれば全滅する。通州事件を上回る集団殺戮が現出したであろう。陸軍では問に合わない。派兵を急いだ米内を、日本側でシナ事変の口火を切ったのは米内だと非難する議論を散見するが、彼の対応は決して軽挙盲動とはいえない。
 一方の賀屋は日米開戦の折にも蔵相を務め、同様の慎重論を主張したが容れられない。なのに東京裁判に引き出され、巣鴨プリズンに拘留された。この賀屋にインタビューしたことがある。テーマはさきの大戦についてで、その見識の深さ、広さに感じ入った。同時に、これほどの人物にして、時の勢いに抗し切れなかったのかという思いを深くした。




◇日中国交40周年記念行事にも影響か
 河村名古屋市長「南京大虐殺」否定発言の波紋
:2012/02/22産経WEB

 南京市は21日、姉妹都市関係を結んでいる名古屋市の河村市長が20日、旧日本軍による、いわゆる「南京事件」を否定する発言を行って住民感情が傷つけられたとして、同市との交流を当面中止すると発表した。河村市長への反発が広がれば、日中両国が今年、国交正常化40周年を記念して計画している行事や民間交流への影響も懸念される。
 南京市はミニブログ「微博」上で外事弁公室報道官の談話として、「河村市長は南京大虐殺の史実を否定して、南京人民の感情を著しく傷つけた」などと批判して、名古屋市との交流停止が事実上の報復措置であることを明らかにした。
 河村市長は先に、中国共産党南京市委員会の劉志偉常務委員らとの会談で、1937年のいわゆる南京事件に関し、「通常の戦闘行為はあったが南京事件はなかったのではないか。真実に関し討論会を開いてはどうか」と発言していた。
 これに対し中国外務省の洪磊・副報道官は20日の定例会見で、河村市長の発言に関して、「南京大虐殺には動かせない確かな証拠がある」などと反論。中国のインターネット上も、河村市長を強く非難する若者らの発言であふれている。
 両市は1978年12月に姉妹都市となっていた。
 今回の措置では当面、日本政府が3月9日から11日まで、南京市で実施を予定している「南京ジャパンウイーク」に暗雲が漂う。
 日中国交正常化40周年を迎えた今年、16日には北京市で「2012日中国民交流友好年」の開幕式が行われたばかり。開幕に合わせて東日本大震災からの復興をアピールする「元気な日本」展示会が同市で19日まで開かれたほか、上海市でも24日、同様の催しが開幕する予定となっている。


河村氏、発言撤回せず:2012/02/23産経
 河村氏は22日「友好関係は普遍で、交流を今後も継続したい。発言を確認いただければ、私の真意は分かっていただける」と市役所で述べた。
 河村市長は「真の日中友好のため、真実を明らかにしたい」と強調。そのうえで「裏で言うより、堂々と言うべきだ。僕の言うことがうそなら(討論会で)ボロボロにたたきのめしてもらえばいい」と語った。南京事件をめぐっては「目撃者がほとんどいない。いわゆる大虐殺はなかったのではないか」との姿勢を示した。
 南京事件では「非戦闘員の殺害や略奪行為があったのは否定できない」との政府見解があるが、河村市長は講演終了後、記者団に対して「虐殺の定義があいまいで、きっちりとした分析がされていない」と述べた。また、南京事件に関する持論は「しょっちゅう言っとる」とし、今回の南京市側の対応に「何でかね」と戸惑いものぞかせた。小沢一郎元代表と会談。内容は明らかにしなかった。


■「村山談話を踏襲」、官房長官:2012/02/23産経
 非戦闘員の殺害、略奪行為は否定できない。村山談話以来、政府の姿勢は変わっていないと述べた。
※マスコミは北京が日本を宣伝してくれていることばかりを取り上げていますが、それは南京大虐殺が史実であったこと、そして日本が贖罪に来朝していることを世界に宣伝することに利用されている。南京虐殺が虚構だと云うことを踏まえての友好であるべきです。また、史実が明らかになったのだから、[村山談話]を取りやめるときだと思います。(登録者)
◇北京の日中文化イベント延期:2012/03/02産経
 河村市長の発言により、南京市対外友好協会と日本総領事館が延期を決定。


「南京大虐殺は虚構」河村発言支持で有識者らが緊急国民集会:2012/03/07産経
 東京で6日、「南京大虐殺」は虚構だとして「緊急国民集会」(新しい歴史教科書をつくる会主催)を開いた。集会には、評論家の約300人が出席。藤沢忠将名古屋市議が一連の経過を報告し、河村市長からは「日中友好のため、意見交換したいのが発言の真意だ」などとするメッセージが寄せられた。今後は、署名活動などを通じて国民運動を展開していくという。
 河村市長が南京事件について討論を希望したきっかけは、昨年の夏、「三十万人南京大虐殺」のデタラメが教科書に載ることに疑問を待った河村市長と有志議員が、中国総領事と意見交換をしたことだったという。
 率直な議論をして「ノドのを抜いてこそ姉妹都市」ということで、今年二月初旬には藤沢息将民ら名古屋市議三人で南京市を訪れ、友好都市関係を深めるためにも議論したいと南京市幹部に申し入れ、同様の趣旨の河村氏の親書も手渡していた。
 これに対して中国側はその都度、「議論することはいいことだ」という返答だったという。開港の二月二十日の面談でも、河村市長の呼びかけに、やはり議論を認めるような返答をしていた。ところがその後、一方的に「許せない、名古屋との交流を停止する」と豹変したという。
 以上は、藤沢市議が緊急国民集会で明らかにしたものだが、このどこが軽率だったのか。どこが一方的だったというのか。藤沢市議は「友好都市というなら、勝手に南京大虐殺館を建てた南京こそ問題だ」というが、そのとおりだろう。
 朝日社説では「歴史認識や尖閣といった問題で、日中双方がともに満足できる魔法の杖をみつけるのは至難のことだ。そうであるならば、日中両一国は友好と安定の大局を選ぶしかあるまい」と言う。朝日新聞は、人民の粛清、虐殺にしか過ぎなかった文化大革命を「近代化への模索」と称賛したことで知られる。北朝鮮を「驀進する馬」、ソ連のスターリンを「子供好きのおじさん」と称えたのと同じである。
 文化大革命下に「中国の旅」を連載し、中国側の用意した「証人」の「証言」として「南京大虐殺のウソ」を垂れ流したのは朝日新開である。どの面下げて、河村氏に「配慮が足りない」などと言えるのか。
 朝日新聞の言うことを問いて中国との「友好と安定の大局」に走れば、その先にあるのは亡国であろう。  WiLL2012年5月号


■全人代で、南京市長が交流再開条件は「撤回と謝罪」が必要。(2012/03/09)

■南京市高官が追悼式参列、上海の日本総領事館主催:2012/03/11共同
 上海の追悼式典が行われ、河村市長の「南京大虐殺」否定発言に抗議し名古屋市との当局交流を当面中止している南京市からも同市人民対外友好協会の曹文堂副会長が参列した。否定発言の後も日本政府との交流には変わりがないとの立場を示した。
 副会長は「関係が良好な総領事館の招待を受け、南京市民を代表して震災犠牲者に追悼の意を表すために訪れた。追悼は人間としての基本だと思う」と述べた。式典には日中双方から約220人が参加した。





「南京事件」意見広告で対立 有識者「自由な議論を」:2012/05/12産経

 名古屋市の河村たかし市長の「南京事件」否定発言に対するバッシングに疑問を持った有識者らが、中日新聞に、南京事件について自由な議論を呼びかける意見広告を掲載しようとしたところ、「社論に合わない」と拒否されていた。一旦、掲載の了解を受けた有識者側は、複数の雑誌に広告代金の寄付を募る広告を掲載しており、「金銭的処理や社会的信用など大きな損害を受ける」として法的措置に訴える構えだ。
 意見広告を掲載しようとしたのは、有識者でつくる団体「河村発言を支持し『南京』の真実を究明する国民運動」(代表・渡部昇一上智大名誉教授)。
 意見広告は「私たちは河村たかし名古屋市長の『南京』発言を支持します!」「自由な議論で『南京』の真実究明を!」との見出しの下、南京事件についてさまざまな見解があることを踏まえた上で、議論が広がることを期待するという内容。呼びかけ人には石原慎太郎東京都知事や安倍晋三元首相らが名を連ね、超党派の国会議員58人の氏名を掲載する予定だった。
 同団体副代表で拓殖大学の藤岡信勝客員教授は「中日新聞の社論とは南京事件の議論自体を否定することなのか」と話している。
■掲載トラブル
 産経新聞と日本共産党の間で争われた訴訟だ。48年に産経新聞に掲載された自民党の意見広告が共産党への誹謗、中傷だとして、共産党が反論文の無料掲載を要求。最高裁は62年、「表現の自由を侵す」として請求を棄却した。
 一方、63年に長崎市内の右翼団体が「天皇に戦争責任はない」などと訴える意見広告の掲載を長崎新聞社に断られたため起こした訴訟では、福岡高裁が平成3年、「掲載を承諾するかどうかは新聞社の自由」として請求を棄却した。



◇中国有名教育家 「日本は南京を開放したのだ。
   日本軍は友軍だった!これが真実である」 中国中が騒然
           http://netouyonews.net/archives/7247176.html
 民間の教育機関、信孚教育集団を設立した信力建氏が2012年6月24日、中国版ツイッターと呼ばれる「微博」で1937年12月の日本軍による南京占領を「解放」と表現したことで、中国各地から猛烈な批判が続いた。
 南京大屠殺遭難同胞紀念館(南京大虐殺記念館)の朱成山館長は「この種の言論は大きな間違いであり、その歴史観には人を震え上がらせる」として、公開での謝罪を求めた。中国新聞社が報じた。
 信力建氏は評論家としても活動しており、広東省広州市白雲区の政治協商会議委員でもある。政治協商会議は、政府や共産党に政策上の提言を行う機関だ。信力建氏は、当時の満州国軍が南京攻略戦に加わったことを「英雄的で勇敢な軍隊が、友軍とともに南京を解放した」と表現した。「友軍」が日本軍を指すことは明らかだ。
 朱成山館長は「南京解放」との表現に激しく反発し「信力建氏が実際の行動をもって、間違った歴史観と決別することと、真摯な態度で歴史の証人―― 南京大虐殺で生き残った人と全国の人民――に公開で謝罪するよう希望する」と主張した。朱成山館長はこれまでも「南京大虐殺の歴史は国際社会で早くから、質疑を許さぬ定説になっている」と主張している。
                  2012/07/06(金)



◇誰が「南京大虐殺」を捏造したか
     〜 シナ人がシナ人を殺す戦争 〜     WiLL2012年12月号

■“同胞殺し”の凄惨

 控造に過ぎない「南京大虐殺」を史実だと主張する人は、支那事変がどんな戦争だったか実相を知らないか、知っていてもあえて無視する人々だ。「日本は迷惑をかけた。謝罪しなければならない」と主張する日本人も同様である。
 支那事変を「日中戦争」と呼び変えるのは、事実の半分を隠蔽する行為である。支那事変は表向き、日本軍と蒋介石率いる国民政府軍の間の戦争であったが、実態は支那人が支那人を虐殺した戦争であった。
 これは私の独断ではない。中華人民共和国成立後、周恩来首相の下で副首相を務める郭沫若が嘆いている。郭沫若は支那事変がはじまってのち、国民党軍事委員会政治部第三庁の長官として文化宣伝に従事し、ティンパーリの『これが戦争だ』の日本語版に序文を書いた。その郭沫若が昭和三十四年に日本で翻訳出版した『抗日戦回想録(原題『洪波曲』)で断言する。
《話だけでも胸の痛むことだ。あんなふうにわれわれは、やれ動員だ、やれ抗戦だといって、しかも毎日毎日「最後の勝利は必ずわれらのもの」などとくりかえしていたが、抗戦八年の間に、いわゆる壮丁から弱丁へ、弱丁から病丁へ、病丁から死丁へというふうにして踏みにじられた同胞の数は、戦死したり日本の侵略者に虐殺されたりしたものの少なくとも百倍以上はあっただろう。私はそういいきることができる》
 前月号までに説明してきたように、支那事変は蒋介石が約十年にわたる経略と準備の末に仕掛けてきた戦争である。その動機は、支那のためでも支那人のためでもなく、日本に対する個人的な逆恨みであった。
 最初は、寺内内閣が北京の段棋瑞政権を支援したことに腹を立て、ついで一九二七年には当時の田中義一首相と面会して「面子を潰された」と思い込み、その後の第二次北伐で田中が日本人保護のため、山東省に派兵したことを「邪魔立て」と受け取った蒋介石はこの恨みをはらすため、戦争に訴えた。
 蒋介石は、満州の独立を条件次第で認める意図を秘めていたから、領土の保全を自己の使命とは必ずしも考えていなかった。また、郭沫若が《踏みにじられた同胞の数は、戦死したり日本の侵略者に虐殺されたりしたものの少なくとも百倍以上はあっただろう》と述べたとおり、支那人の生命、財産を守ることは蒋介石の念頭になかった。それどころか、庶民を飢餓に追い込み、食うや食わずの人々から重税を取りたてた。


■飢えた人々の食糧を奪う

 蒋介石がどれほど支那の民衆、庶民を踏みつけにしたか、残酷の見本のような目撃証言例が、アメリカ人記者の回想記にいくつも出てくる。少し拾ってみる。
 慮溝橋事件から一年が過ぎた一九三八年八月である。すでに河南省の開封を占領していた日本の北支那方面軍は、一部がさらに西の平漢鉄路まで進出した。慌てた蒋介石軍は日本軍を食い止めるため、中牟県というところで黄河の堤防を破壊した。このため、濁流が東南の平原に流れ込み、周辺の村々だけでなく、安徽省、江蘇省の一部を水浸しにした
 蒋介石軍に従軍して破壊現場を目撃したアメリカ人記者のジャック・ベルデンは、《このようにしてかれは、十一の都市と四千の村とを水没させ、二百万の農民を宿なしにしたが、ともかく日本軍を停止させた》と述べている。
 日本軍は停止したが、これは軍隊の責任を無事の庶民に押し付けただけのことに過ぎなかった。住みかと生業を奪われた二百万人は、食べ物もなく、悲惨のどん底に叩きこまれたはずだ。
 ベルデンは三年後の一九四一年の夏から秋にかけて、再びこの地方を訪れて歩き回り、復興が進んでいるかどうか確かめようとした。しかし、復興どころではなかった。予想外の光景を眼にする。
 国民党は支援どころか、災害に苦しむ農民から過酷な税を取り立てようとした。ために、農民は畑を放棄して山のなかに逃げ込んだというのだ。
 この地方は呪われた土地だったのか。ベルデンが立ち去った翌年、一九四二年には大干魃が襲った。さらにその翌年、一九四三年の二月末から三月にかけて、今度はアメリカの雑誌『タイム』のセオドア・ホワイト記者ともう一人の記者がやってきた。その時の様子をホワイトは後年に出す『歴史の探求』で述べている。
 現場に来てホワイトが最初に目撃した光景の一つは、地獄絵だった。
《死体があった。洛陽を出てから一時間も経たぬうちに、雪の中に横たわる死体があった。死後一、二日だろうか。その顔は頭蓋のまわりに萎んでいた。たぶん若い女性だったにちがいない。雪はその眼の上にも降り積っていた。埋葬もされぬまま、ついには鳥や犬が骨までしゃぶるだろう。
 犬どもも道端にたむろしていたが、狼の天性に戻ったか、毛並も艶やかでよく肥えていた。われわれは、砂の山から死体を掘り出している犬どもの写真を撮ろうと馬を止めた。なかには半分食べかけのもあったが、犬ははつきりそれとわかる頭蓋骨をきれいにつっつき終わっていた》
 同じような光景はあちこちで見受けられたに違いない。
 この世のものとも思えない残酷な場面を生んだ原因は、先にベルデンが聞き知ったのと同じだった。
 「国家に民衆は不要」と言い切ったこの将校の言い草は、土地と兵隊があれば国は成り立つとする錯覚であり、蒋介石が発動した抗日戦なるものの愚かさを浮き彫りにしている。


■政府が人民を餓死させた

 ホワイトは続ける。
 ホワイトは、身の毛もよだつ恐ろしい噂を耳にした。
 ホワイトの当時の推定によると、黄河堤の破壊のあと、洪水被害を受けた四十の県には依然、八百万人が生存していると思われた。しかし、《私の最終的な計算では、五百万人が死んだか、死につつあるということになった


■蒋介石の「ホロコースト」

 蒋介石は人々をいったん安心させ、警戒心を緩めさせておいて騙し討ちにかける手を繰り返し用いた。いくつもの例が記録されているが、ここではもう一度、ベルデンの報告を開こう。
 ベルデンは、第二次世界大戦が終わったあと、蒋介石の国民党軍と毛沢東が率いる共産軍の問ではじまった国共内戦の初期にも河南を訪れ、蒋介石軍が民衆を騙し討ちにかけた事実に驚いた。
 それまで共産党は、支配下に入った地域で農民を手なずけるため、地主の土地を奪って農民に分売するなどの政策を実施していた。
 ところが、ベルデンによると、内戦がはじまり共産軍が撤退してほとんど全県を国民党に明け渡した時、住民は地元にとどまって国民党軍を歓迎した。
 蒋介石は、抗日や反共に名をかりて、ヒトラーによるユダヤ人大量虐殺さえ顔負けの皆殺し(ホロコースト)を、自国民に対して働いていたのだ。※つまり、まだ本性を隠していた共産党よりも、蒋介石軍の方が野蛮だった。どちらにしても、シナ人は哀れな民族だ。


■常軌を逸した焦土作戦

 日本に戦争を仕掛けるに当たって蒋介石が採用した戦術は、いくつかの柱″から成り立っていた。
 まず、奥地(重慶)への退却と退却に際しての焦土作戦である。蒋介石は戦後、自著でこれをためらうことなく採用したと自慢している。
 焦土作戦は侵入してきた敵に利用させないよう、味方の人家や建物、各種施設に火を放ち破壊することだ。住民は、家や生活手段を奪われ、焼け死んだり餓死したりする。自国民が最大の被害者になるが、支那では伝統的な戦法であった。
 それにしても、蒋介石の命じた焦土作戦は常軌を逸し、大抵は無意味でもあった。
 一九三八年十一月中旬、漢口を南に下った湖南省の大都市・長沙で、省長の張治中が強行したのは、無意味な放火の典型である。
 日本軍が攻め込んでくるとの噂に怯え、事前の警告もなく、兵士を市街のあちこちに派遣してガソリンをまかせ、着火させた。この時、危うく焼死を免れたのが郭沫若だ。一時、長沙に滞在し、間もなく離れる準備を整えている最中に火の海に囲まれた。郭沫若はこの時に体験し、目撃した大火の模様、逃げ惑う群衆の哀れな様子を詳しく書き残している。
 この失態の責任を取らされ、警備司令の鄭悌ら三人が銃殺された。
 最高責任者の張治中は、周恩来が蒋介石をとりなしたので死刑を免れた。周恩来も長沙に居て火に囲まれ、間一髪で脱出し、直後は腹を立てていたが、自分が国民党に潜り込ませた隠れ共産党員の張治中を殺すわけにはいかなかったのだ。


■支那兵が略奪、強姦

 藤介石は、自慢の焦土作戦を上海から南京に至るまでの戦場でも実行させた。
 最初は上海の浦東区を焼いたが、日本軍が反撃に成功しはじめると、退却路の至る所で火をつけた。しかし、支那兵は単に放火しただけではなかった。上海・南京間の全体像はあとで見ることにして、日本軍が南京の近くまで押し寄せてから占領までの模様を、南京に居残っていたミニー・ヴオートリンの記録『南京事件の日々』で読んでみる。
 以下に要点を抜き書きするが、支那兵は南京市内にも放火している。また、命じられた放火だけではなく、略奪、強姦にも精を出し、夢中になっているところを日本の衛兵に狙撃されるオソマツも演じた


■破壊と略奪の限りを尽くす



■前例なき自国文明破壊

 ヴオートリンが記録した南京とその周辺での国民党軍による野蛮行為は、蒋介石が呼号した焦土作戦のほんの一部にすぎなかった。破壊行為は単に民家や建物の放火に留まらず、農・工業生産施設、水運・海運、鉄道網などに及んだ
 具体的内容が、民国二十九年(一九四〇年)三月に南京特別市行政院宣伝局が発行した日本語の『中華民国維新政府概史』に出ている。
 それによると、蒋介石軍が南京陥落までに焦土作戦を強行した場所がわかる。主なものだけで、次の八つの郷村(鎮や県)が被害に遭った。
 これにヴオートリンが述べた南京とその周辺を含めると、被害地域は上海から南京までおよそ三百キロ、日本で言えば東京から豊橋までぐらいの区間に散在していた。
 主な事項を見ておく。現代表記に改めた。
 【農村の破壊】
今次事変によって農村もまた被害甚大であり、蒋介石軍は退却にあたって常套手段である掠奪・放火・破壊をほしいままにしたため、農家は家を焼かれたばかりか、家畜・食料・種子にいたるまで喪失してしまったのである。ただ華中においては耕地や潅漑施設のごとき生産施設が比較的損傷少なかったため、生産手段の被害は割合に回復し易く被害の甚大なのは主に流通方面であった。すなわち農産物の地方集散地である小都市または県城は、更にこれらを上海・南京・杭州等の商工業都市に輸送していたため、その取引経路は殆んど潰滅せしめられてしまった。
 【工業破壊】
(上海の)工部局の調査によれば北部及び東部の共同租界戦区における工場労働者は戦前十三万五千人と概算されたが、戦後は精々四万人内外に激減し、このうち中国人工場に復職したものは三千人内外の僅少なものである。同区域内では焼失工場九〇五、その外一千の中国人経営大小工場はどれも多少の損害を被っている。(中略)また旧上海市社会局が一昨年十一月作成した統計によれば、戦前の工場五二五五のうち被害程度は開北全滅、共同租界七〇%、浦東五〇%、南京三%で二九九八工場を失い、更に南京陥落などにより二二七二工場も全滅とみて、推定総額七億元の損失を被った。この外、無錫、常州等工業都市の被害も甚大であつた。
 【交通・通信綱などの破壊】
上海を中心とした揚子江及び沿岸航路は華中経済の動脈であったが、事変と共に全然停頓の状態に立到った。揚子江では中国および友邦(日本)所有汽船の少なからざる沈没、あるいは埠頭、倉庫の破壊さえ行われ、かつ民間汽船の党軍による徴発または香港その他外国諸港への逃亡、或は江陰沖揚子江の党軍による閉鎖等により、上海と長江沿岸各地との航行は全然不能となってしまった。貴浦江、蘇州河、その他クリークおよび運河も同様であり、舟運は一時全く停頓、復興後も党軍の敗残兵、匪賊の出没等によって著しく交通を阻害されて来ている。外洋航路においても同様に上海向外洋船入港は一 時杜絶し、欧米船は上海向貨物を香港・マニラ方面に揚陸し、香港のごときは滞貨山をなす状況であった。
 【鉄道・車両などの破壊】
鉄道施設の破壊状況においては一層甚だしく、車両はほとんど党軍に持逃げされて鉄道車両の残存使用に耐えるものは僅かに戦前の七%に過ぎず、バスは皆無、公路は破損し、橋梁は大部分破壊され、鉄道の鉄橋は六〇余か所破壊され、鉄道付属建物は七〇%以上の被害を被っている。
 【電気通信などの破壊】
電気通信も同様で、無線送受信所は勿論、各地の電信、電話ともに不通となり、上海開北では発電所および変電所が使用に耐えぬまでに破壊され、その他南市及び浦東の発電所、杭州の開口発電所もそれぞれ損害を被っている。水道施設も同様で開北、南市、浦東等の配水設備が破損を受けている。
 世界の歴史には、異民族が他民族の生活基盤を徹底的に破壊したケースはいくつもあったと思うが、自国民を主たる対象にこれほど徹底した文明破壊は、おそらく歴史に前例を見ないだろう。とても二十世紀に生きる人類の振る舞いとは思えない。


■地元民は日本軍を大歓迎

 狼籍を尽くした蒋介石軍が逃げ去ると、人々は安堵して隠れ場所から出て来て、野蛮人どもを退治した日本軍を歓迎した。南京でも同じだった。心から溢れるような笑みを浮かべた現地人が日本兵を取り囲んだ。
 日本軍の南京到着以前から、支那軍が去った地域では、地元の有力者が立ち上がり、正常な生活を取り戻すため、治安維持会や自治委員会を次々と組織した。
 類似組織は続々と生まれ、日本軍の南京入城から十日過ぎた十二月二十三日に、組織を一本化する話し合いがまとまった。翌年一月一日には、地元の南京も参加した自治委員会が発会式を挙行する。
 いつぞや本誌で、元人気アナウンサーの鈴木史朗さんが一九三八年に北京を訪れた際、地元民が親切だったという父親の体験を披露され、また河村たかし現名古屋市長も、お父さんが一九四五年に南京で「温かいもてなしを受けた」と述べられた。どちらの体験も「大虐殺」が虚構であり、日本軍の南京占領が住民にとっては解放だったからこそありえた

 ◇日本軍が南京に着いた時と一年後の光景…台湾人のツィート
明らかに住民が日本軍を歓迎し、通常の生活が戻った。日本軍による「大虐殺」はなかったのに!非道行為を行なったのは寧ろ支那兵達だった!
   


 (世界が裁く東京裁判)へ
 (TOPへ)
 (冤罪・南京大虐殺)へ