日本の歴史:読む年表より その3



 渡部昇一氏の名著[日本の歴史]から個人の好みで抜粋しました。学校で習った日本史が如何につまらないものだったのか、思い知らされました。GHQにより、奪われた日本の歴史について多くを語っています。是非、山本七平[日本人とは]とあわせ原文をお読み下さいますよう。
 GHQが抹殺した日本史の真実については[GHQ検閲T][GHQ検閲U][GHQ検閲V]を参照下さい。大東亜戦争については[これだけは知っておきたい大東亜戦争]に丁寧にまとめられています。
 尚本書は、211年6月に出版されている。




ミッドウェー海戦 1942年(昭和17年)

 第二次大戦全体の分水嶺となった日米機動部隊の激突。
 日本軍と互角に戦える敵はアメリカだけであった。イギリスもフランスも、オーストラリアもオランダも、問題にならなかった。日本はまさに破竹の勢いで勝ちまくっていたのである。
 その日本軍の命運を分けたのがミッドウェー海戦(昭和十七年六月五日〜七日)であった。当時、十隻以上もの航空母艦をもって機動部隊を編成できたのは日本とアメリカだけだった。この海戦は、二国のいわば一騎討ちであった。
 普通に考えれば日本は圧倒的に有利であった。日本の主力空母は四隻、アメリカは三隻。しかも一カ月前の珊瑚海海戦のときは第二級の機動部隊が米空母を撃沈している。にもかかわらず、日本はミッドウェーで惨敗した。それは日本が油断しきっでいたからである。
 無敵を誇っていた零戦の活躍は、このときもまさに鬼神のごときものであった。三十六機の零戦はアメリカの戦闘機約五十機を叩き落として完全に制空権を握り、敵空母から襲ってきた雷撃機約七十機もほとんどすべで撃墜しで、わが方の零戦は、なんと一機も失われなかった。
 悲劇は、その直後に雲を利用して来襲した艦上爆撃機による急降下爆撃によって起こつた。航空母艦の上に護衛の戦闘機を一機も配置しなかったのは、まさに油断としか言いようがない。米雷撃機隊は零戦に撃ち落とされることがわかっていながら、その後の急降下爆撃を成功させるため、進んで囮となったのであった。日本の空母は炎上沈没し、日本海軍は完敗した。
 俗に「運命の五分間」と言われる。「米空母の気配なし」と判断した南雲忠一司令長官は、ミッドゥエー島の陸上基地攻撃に作戦を変更、攻撃機の艦船攻撃用魚雷を陸上攻撃用の爆弾に換装するよう命じた。その作業がまさに終わろうとするころ、「敵空母艦隊発見」の報が入ったのである。南雲司令長官は魚雷から爆弾への再換装を命令した。その間に空母は急降下爆撃を受けて、わが軍の攻撃機が次々に誘爆し、手のほどこしようがなくなっでしまったのである。あと五分敵艦発見が早ければ、再換装があと五分早く終わっていれば……というわけである。
 敵艦隊発見の報を受けたとき、空母『飛龍』に座乗していた山口多聞少将は、再換装などせず、陸上爆弾搭載のまま攻撃機を発進させるよう進言したが、南雲長官に却下されてしまった。しかし、これは山口少将の一言うように、魚雷でなくてもかまわないから、とにかく飛行機を発進させて敵空母の攻撃に向かうべきであったろう。攻撃機は狭い甲板と格納庫で身動きがとれないまま、いたずらに爆発していったのである。
 山口少将は、他の三空母がもはや沈没寸前なのをみて、ただ一隻となってしまった空母『飛龍』で敢然と米機動部隊に向かって反撃を開始し、敵主力空母『ヨークタウン』を大破させる(後に潜水艦伊168号が撃沈)。だが、奮戦むなしく『飛龍』も戦闘能力を奪われると、山口少将は「総員退艦」を命じ、加来止男艦長(大佐)とともに、自ら艦と運命をともにした。(⇒[闘将−山口多聞中将])
 昭和十九年六月十九日のマリアナ神海戦では、日本側が一方的にやられるだけであった。アメリカは優れた電波探知機と新型の対空用砲弾を開発していた。さらに、ほとんど無傷で不時着した零戦を手に入れ、これを徹底的に研究して零戦に対抗できる新鋭戦闘機グラマン・ヘルキャットを投入した。しかも日本にはすでに熟練の飛行士がほとんどいなかった。零戦の優位性は失われ、零戦を撃ち落とすのをアメリカでは「マリアナの七面鳥撃ち」と称した。あの恐ろしい零戦は、もはや七面鳥なみになった。日本はまっしぐらに敗戦に向かっていく。
 もし日本がミッドウェーで勝っていたら、米陸軍は西海岸に集結せざるを得ず、イギリスを援護するどころではなくなっていた。となればドイツがヨーロッパの覇者となっていたであろう。ミッドウェー海戦はまさに第二次大戦全体の分水嶺となったのである。



沖縄決戦と「大和」の最期 1945年(昭和20年)

 国と沖縄を救うために必死の攻撃を行った神風特攻隊。
 昭和十九年七月七日、サイパン島の日本軍は玉砕し、多くの民間人が自決した。サイパンからは米大型爆撃機の行動範囲に東京が入る。まともなリーダーシップがある国ならば降伏するところだが、日本にはそれができず、東條内閣が総辞職しただけであった。
 同年十月、フィリピンにおけるレイテ湾での戦闘で、初めて神風特別攻撃隊が出現した。それまでも決死隊″というのはあったが、“必死隊”という概念は、日本軍にもなかった。だが、すでに日本軍が必ず敵を斃すためにはこれしかなかったのである。続いて硫黄島、次は沖縄であった。多数の民間人の住むところが近代戦の戦場になるということを、日本人は初めて体験した。沖縄戦では、大量の神風特攻隊が出撃した。そのパイロットの多くは空中戦をできるほどの練度をまだ持たない若者たちであった。
 アメリカ側が戦後に発表したものに基づく「カミカゼ」の実態は、伊藤正徳『大海軍を想う』によると、日本軍が沖縄戦の期間中「カミカゼ」で失った飛行機は約二千八百機、それによって被害を受けた米海軍の軍艦は戦艦十隻、空母九隻、重巡洋艦三隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦百十人隻、その他四十隻の百八十二隻である。そのうち沈没したのは十三隻であった。アメリカ艦隊司令官のスブルーアンス捷督の座乗艦もカミカゼの攻撃を受け、二度も別の艦に移らなければならなかった。
 沖縄のアメリカ海軍は物質的にも精神的にも打撃を受け、「なお数日、カミカゼの攻撃が衰えない場合は一時退却して、再挙の方法を考えるべし」という説に傾いたという。
 特攻攻撃は空中に限らず、水中では魚雷を操縦する「回天」が特攻を行った。そして昭和二十年四月、世界最大、そして史上最大の戦艦「大和」に沖縄への特攻命令が下った。大和と連合艦隊の残存部隊九隻は航空機の援護もなく、帰還用の重油も持たずに米艦隊に包囲されている沖縄に向かった(大和は沖縄の海岸に乗り上げて艦砲射撃する予定だったというほうが正しいだろう)。そして、翌四月七日、鹿児島県南方の東シナ海で、米軍機のべ三百五十機の猛攻を受けて大爆発を起こし、沈没した。
 カミカゼも戦艦大和も沖縄を救うことはできなかった。しかし、救うために必死の攻撃を繰り返したことはたしかである。日本の最後の戦艦「大和」も三千機に近い特攻機も、沖縄のために出撃したのであり、沖縄の犠牲になったのだ。本土においても戦禍が実にひどかったことは、東京をはじめとする大都市無差別爆撃や原爆でも知られよう。沖縄だけがひどい目にあって、本土は無事だったということはない。一般住民の死傷は沖縄を超えていた。そのことは沖縄の人たちにも無視してもらいたくないと思う。
   (⇒特攻隊教官[後に続くを信ず])
   (⇒[沖縄集団自決の真実][昭和天皇独白:沖縄戦])



東京大空襲・原爆投下 1945年(昭和20年)

 民間人を空から組織的に虐殺することを考えついた英米の非道。
 結局のところ、東京裁判で突如として「南京大虐殺」の話が出てきたのは、日本も残虐行為を行ったという事実を連合国が欲していたからとしか思えない。もう一方の敗者であるドイツは、アウシュビッツのユダヤ人強制収容所などでユダヤ人虐殺を行っていたから、ドイツとの“バランス”をとるためにありもしない大虐殺をつくりあげたというのが真相であろう。
 しかし、本当に残虐であったのは、日本・ドイツと連合国のどちらであっただろうか。
 アメリカは昭和二十年、原爆を広島(八月六日)と長崎(同九日)に落とした。前者はウラニウム爆弾、後者はプルトニウム爆弾である。二度も落としたのは実験のためであったろうとも言われている。広島では十一万以上が死に、長崎では七万以上の人が死んだ(後遺症のためになくなられた方はさらに多い)。もちろんアメリカは主として一般人が被害にあうことを分かってやったのである。日本が降伏寸前であることも知っていた。にもかかわらず、あえて原爆を落としたのは虐殺のための虐殺であり、人体における原爆の威力を実際に試してみたいという欲求の実現にほかならない。
「戦争を早く終結して犠牲を少なくするために原爆を用いた」とアメリカは自己正当化しているが、それなら初めから毒ガスを使ってもよかったはずだ。この間いに対してアメリカは沈黙しているが、毒ガスを用いなかったのは、日本も報復手段としての毒ガスの準備を進めていたからである。
 また、アメリカ軍は新兵器と言ってもよいほど大型の戦略爆撃機B29を用いて日本の各都市を無差別爆撃した。昭和二十年三月十日の東京大空襲だけでも十万の一般人が一晩で殺された。アウシュビッツでも十万人殺すには何カ月もかかったのではないか。
 戦略爆撃というのも新思想であって、初めから軍事目的を限定せず、意図的に市民を大がかりな爆撃の対象にしたのは第二次大戦中のイギリスとアメリカが初めでである。日本はハワイなどを空襲したが、それは厳密に軍艦と軍事施設に限られていた。日本には市民を意図的に大量に殺すという思想がなかったのである。ヒトラーも、はじめはロンドン市街地空襲を禁じでいたぐらいである。
 英空軍は、一九四二年(昭和十七年)三月、単にドイツ人の戦意を失わせるという目的だけで、無防備の歴史的文化都市リューベックを空襲して焼き払った(ヒトラーはもちろん報復した)。さらに、一九四五年二月十三日にはアメリカ・イギリス両空軍がドレスデンを空襲し、おそらく世界で最も素晴らしいバロック建築の残っていたこの都市を徹底的に破壊した。イギリスは第一波が二百数十機、第二波が五百数十機で市街地を爆撃し、さらにアメリカの四百五十機のB29が、六十五万個といわれる焼夷弾を落とし、そのうえ戦闘機が機銃掃射を行った。これによって十三万五千人の死者が出たという。
 イタリアでも、ベネディクト会修道会発生の地であるモンテカッシノ修道院が英空軍のために破壊しっくされ、修道士と避難民数百人が死んだ。モンテカッシノの丘にいたドイツ軍の司令官はドイツ兵には修道院の周辺に近寄ることを許さなかった。そして空襲の際は修道院の貴重な文献を守って疎開させている。ドイツ軍が修道院を陣地にするのは廃墟にされてからのことである。どちら側の軍隊が文明的であったか。この一例をもってしても明らかであろう。
 イギリスの歴史家アーノルド・トインビーは、戦後この地を訪れた時、自分の国の飛行機が西欧文明の母とも言うべきこの大修道院を破壊し、多くの修道士らを殺したことを知っで、ショックを受けたと書き記している。
 ユダヤ人大虐殺の思想がヒトラーの発明であるとすれば、一般市民大虐殺の思想はイギリスとアメリカの発明である。プロペラ四基の重爆撃機をアメリカとイギリスだけが開発したのは、都市爆撃の思想の有無と関係があったと思われる。この両国は、空から民間人を大量に、組織的に殺すことを考えつき、それを実行したのである。
 健康な男の多くは出征していて、町に残っているのは主として老人・女・子供であることは分かっていたにもかかわらず、東京に対する絨毯爆撃にはじまり広島・長崎への原爆投下に至る空襲の思想は、一般市民、とくに日本人のなかの弱者をも殺しつくすことであった。



ポツダム宣言受諾 1945年(昭和20年)

 日本の敗戦は「無条件降伏」ではなかった。(⇒[ポツダム宣言])
 日本の戦後はポツダム宣言の受諾によって始まった。
 昭和二十年八月十五日、日本は、米・英・中華民国(あとからソ連も加わった)による対日共同宣言「ポツダム宣言」を受諾、天皇陛下の終戦の詔がラジオで放送された。
 日本が「無条件降伏した」と誤解している人がいるが、そうではない。ポツダム宣言は「我らの条件以下の如し」という提案である。日本政府に対しての「日本の陸海軍に無条件降伏させよ」という条件をも含むオファーであって、日本は「有条件」の下で降伏したのである。
 アメリカでは、日本をドイツと同じように無条件降伏させようという意見が強かった。しかし日本とドイツは違う。ヒトラーも死に、政府もなく、交渉相手がなくなったドイツとは異なり、日本は交渉相手としての政府が残っていた。だから、ステイムソン米陸軍長官は、日本に無条件降伏を強制したならば、日本はどこまでも戦い抜き、硫黄島や沖縄のように米軍にも多大な損害が出るかもしれないから、「軍隊だけの無条件降伏にすべきだ」と言ったのである。
 さらに、日本側の問い合わせに対し、「天皇家は存続させる。究極的な政治形態を決める権利は日本人にある」という答えを得たからこそ、日本はポツダム宣言を受諾したのである。
 もっとも陸軍上層部は「負けたのは海軍であって、陸軍はまだ戦える」と主張し、強硬に反対した。こういう状況のもとで最終的な決断を下したのは天皇であった。それまで憲法上沈黙を守らざるを得なかった天皇陛下がついに口を開かれたのである。それが、残虐な無差別爆撃を行った米軍を非難しつつ、日本人と世界全体に探く思いを致して発せられた「終戦の詔書」であらた。(⇒[口語訳、終戦の詔勅])
 昭和二十年九月二日、東京湾に停泊するミズーリ号上でポツダム宣言受諾の調印式が行われた。これは「宣言」を「条約」にする儀式である。この段階では、まだ戦争は終わっていない。戦争は講和条約の発効で終わるのだから、休戦状態ということである。にもかかわらず、連合国側は降伏ということに重きを置いた。
 そして九月六日にトルーマン米大統領から占領軍(連合国軍)最高司令官マッカーサーに「連合国と日本とは契約的基礎の上に立つものではなく、無条件降伏を基礎とするものであって、日本はマッカーサーの命令を遵守するものとする」という内容の通達があった。
 つまり、トルーマンはポツダム宣言の契約に違反したのである。これに対して日本は一切の責任はない。アメリカ側が勝手に破ったのだ。
 こうしてマッカーサー元帥はまるで日本が無条件降伏したかのような占領政策を行い、「国民の主権」は空虚な大義名分と化したのである。
   (⇒[昭和天皇独白:敗戦の原因])



GHQの日本占領 1945年(昭和20年)

 日本人から誇りと歴史を奪おうとした占領政策。
 昭和二十年八月、度重なる空襲と原爆とで疲弊しきった日本に、マッカーサー率いる占領軍(進駐軍)がやって来た。連合国軍総司令部、すなわちGHQである。彼ら占領軍は、戦勝国になったからといって第一次大戦までの文明国が決して行わなかったような政策をとった。
 まず、苛酷な言論統制である。戦前の日本にも検閲はあったが、×や○印で伏字にされたので消したことがわかる。しかしGHQは検閲があったことがわからないように書き換えさせ、刷り直させた。紙の入手が困難な時代だから、新聞社や出版社にしてみれば大損害だし、反抗したら新聞や雑誌が発行できなくなるので、自己規制せざるを得なくなった。そこから生まれたのが、何事についても「そんなこと言ってもいいんですか」という戦後の日本人の卑屈さだ。
 戦前の日本人には皇室に対する以外、そんなメンタリティはなかった。これは現在まで続いている問題である。北朝鮮の核の脅威に対しても、朝日新聞が「核の議論をすることすらいけない」と言うのがその一例である。新聞が「議論」をしてはいけないという発想は、メディアの自殺にほかならない。占領下に生まれた日本のマスコミの悪癖である。
 そして連合国軍総司令部は、天然資源もない日本がなぜ近代戦を戦えたのかと考え、それが「日本精神」のゆえであると気づくと、「神道指令」と「教育改革」によって「日本精神」を排除しょうとした。「神道指令」では国家神道を廃止し、神社を極限まで抑え込んだ。これはあってはならないことだ。神社は長い歴史のなかで日本人の精神の根本を形づくっできた。いわば日本人の心のよりどころと言ってよい。現在のアメリカが、たとえばイラクに対して「イスラム指令」など出すだろうかと考えてみればよい。 さらに、「日本を民主主義国家にしなければならない」という建前の「教育改革」によって、アメリカが自国では最も重要視する、国をたたえ国に忠誠を誓う行為を禁止した。つまり、日の丸を掲揚させず、君が代を歌わせなかった。いまだに日の丸・君が代を「軍国主義の象徴」とし、「悪」とする反日教育思想にとらわれたまま教壇や法廷に立っている日本人も多い。彼らはマッカーサーの子分であり続けているのだ。
 また、「戦争協力者を公職から排除する」という名目による「公職追放令」で、二十万六千人以上もの人々の職を奪い、メディアに出る口も封じた。これで筋の通った有能な人材が各界から追われ、戦前戦中は日陰の身だった共産主義者たちやその共鳴者たち、亜流の左翼言論人が息を吹き返して教育界・大学・マスコミに入り込み、日本が何でも悪いという「自虐史観」を日本に蔓延させることになった。
 GHQと彼らがめざしたのは日本人を骨抜きにし、日本の歴史を奪うことだったのである。



東京裁判が始まる 1946年(昭和21年)

 国際法を無視した勝者によるリンチ。
 「東京裁判」とは儀式化した復讐劇であると言ってもいい。この裁判は戦争の勝者が既存の法律によらずに敗者を裁いた一方的なものであって、その正当性からして疑わしい。だいたい裁判官が戦勝当事国からしか出ていないというのはおかしな話であろう。本来は中立国からだけ出せばいい。それが無理なら戦勝国と同数の裁判官を敗戦国から出して裁くべきである。
 そんななかで毅然として日本国の弁護をした清瀬一郎弁護人は、裁判の管轄権の法的根拠を問題にした。この指摘にクェッブ裁判長は最後まで答えられなかった。さらに清瀬弁護人は、ウエツブ裁判長がニューギニアの戦犯問題で検事役を兼務していたことを指摘し、裁判長としての資格を問うて裁判官忌避を行ったが、連合国軍最高司令官マッカーサーの命令で任命されたのだから認められないということになった。法的に自分の地位を守ることすらできず、マッカーサーの命令でのみ動いた裁判だったのである。(⇒[マッカーサ証言][清瀬弁護人][ブレークニー])
 アメリカ人の弁護人であるファーネス、ブレークニーらも、「国際法上合法である戦争で人を殺しても罪になるはずがない」「公正を期すために中立国の判事を入れよ」などと東京裁判の問題点を指摘した。ブレークニーは「原爆を投下したものが裁く側にいる。長崎、広島に投下された原爆の残虐性は誰が裁くのか」という主旨の発言をしている(アメリカ人弁護人の一人は「被告の無罪を確信し、裁判自体が不法であると思うようになった」と公開の場で述べている)。判事の中でただ一人の国際法学者だったインドのパル判事も、日本の無罪を主張した。しかし、こうした弁論の同時通訳はただちに中断され、日本の新聞に載ることもなかった。
 要するに、連合国側には真実を明らかにする意図などなく、その日的は日本をおとしめることのみであった。採用された資料のほとんどは連合国側のもので、日本側が提出した通州事件(⇒[通州事件][蒋介石軍])の目撃者の口述書や、満洲国建国の正当性を示すレジナルド・ジョンストンの著書『紫禁城の黄昏』などの資料はにべもなく却下された。日本側の言い分は「自己弁護」として黙殺され、「南京大虐殺」というありもしない事件がでっち上げられた。
 だが結局、この裁判のメインテーマだった「侵略戦争の共同謀議」は証明されなかった。そのような事実はないのだから当然である。しかし、判決では二十五人がA級戦犯とされ、東候英機など七人が死刑となった。東京裁判は戦争を始めた国家指導者などのA級を裁くものであったが、この判決はシナや東南アジア各地で行われた日本人の戦犯裁判に飛び火し、捕虜虐待などを命じた戦場の指揮官(B級)、それを実行した兵隊C(級)などが戦犯として処刑された。そのほとんどは誤解に基づく悲劇であった。(⇒世界が批判する東京裁判[山下裁判])
 このような悪妹きわまる裁判が生み出した「東京裁判史観」に蝕まれた日本人はいまも多い。


■英霊への待遇、慰霊欠かさぬ諸外国
         野口裕之の安全保障読本 ・・・2012/02/20産経より
 英王室王子の結婚式(2011年春)が羨ましかった。国家に殉じた戦士に畏敬の念を体現なされたからだ。
 英国の花嫁の多くは式後、参列した独身女性にブーケを投げ入れる。受け取った女性に次の結婚の番が回るとされる風習だ。王室では、式場でもあるウェストミンスター寺院に在る無名戦士の墓に捧げる。墓は第一次大戦の身元不明兵士一人が埋葬された後、全英軍戦死者を悼む場となった。エリザベス女王の母君=皇太后が1923年に結婚された際、大戦で亡くなった兄君追悼の為、墓にブーケを手向けた事から王室の伝統として残った。
 「普通の国」は英霊の慰霊を欠かさぬ。米国はアーリントン国立墓地、フランスでは凱旋門の無名戦士の墓、韓国でもソウル国立墓地に、大統領が詣でる。
 これに比し、わが国の英霊に対する仕打ちは無礼に過ぎる。野田佳彦首相はこう明言したにもかかわらず、参拝を封印した。
 「靖国にはA級戦犯が合祀されているから首相は参拝してはならないという論理は破綻している」「サンフランシスコ講和条約や国会決議で全ての戦犯の名誉は法的に回復された」
 これを変節と呼ぶ。
 A級戦争犯罪は、侵略戦争遂行など「平和に対する罪」で裁かれた。しかし、実行時には適法だった行為を、後の法律で刑事責任を問う「事後法」という、近代刑法の禁じ手を使っており、不法性は明白。しかも、夢一次大戦終結まで、戦争は国際法で容認されていた。従って、敗者は勝者に領土割譲し、賠償金を払い、講和条約を結び、一件落着と相成った。
 小欄は、大東亜戦争は侵略戦争に非ずとの立場。「侵略戦争」という、日本で流通している誤解に反発してもいるからだ。国際法上の「侵略戦争=Aggrssive War」は先制攻撃という開戦時の戦法を示した用語で、当初は負の要素のかけらもなかった。
 「先制攻撃≠≒戦争犯罪」なる構図の提案は44年の連合国戦争犯罪委員会が初。ドイツに国内のユダヤ人を収容所送りされたチェコスロバキアの亡命政権が提案した。ただし、全先制攻撃が対象ではない。人種差別から他国民を大量虐殺し、文明破壊を謀ったドイツによるチェコ・ポーランド戦に限り、国際法が認める戦争とは異なる「犯罪的戦争」だと位置付けたのだ。
 背景には、この定義を活用すれば膨大な証拠集めを伴う裁判準備を避けられ、ナチスの犯罪を一括して大網にかけられるとのよみがあった。
 もっとも、大多数の国は支持しなかった。外交の最終手段=先制攻撃まで放棄する道理となるからだ。
 ところが、独敗北で強制収容所の実態が明らかになるや連合国側の心が動いた。斯くして45年、米英仏とソ連から成るロンドン会議で「先制攻撃は戦争犯罪で、平和に対する罪を構成する」との軍事法廷の骨組みが決まってしまった。
 ニュルンベルク裁判では、この骨格にパリ不戦条約(28年成立)で薄汚い味付けをした。戦争に際し、国家が国際法に基づき犯罪として処罰可能な範囲を広げただけの不戦条約を持ち出したのだ。事後法ではないと強調する隠蔽工作だ。条約が先制攻撃を始めた国家にも権利がある−−とも保障している点を無視したこじつけだった。
 ニュルンベルク裁判で死刑宣告されたナチスの戦争指導者らはこの「平和に対する罪=A級戦犯」と、大量虐殺など「人道に対する罪=C級戦犯」のダブルで処刑された。
 一方、東京裁判では本来、立件しやすい「人道に対する罪」は採用できなかった。「五族協和」を掲げ、ユダヤ人を積極的に保護した国に適用できるはずもない。その代わり、犯罪構成要件と成り得るかも怪しげな「平和に対する罪」だけで裁判を押し切った。
 ところで、戦争犯罪委員会において「先制攻撃≠戦争犯罪」の構図に賛成したのは中国と豪州だけ。そういえば、常軌を逸した復讐劇・東京裁判強行の中心人物は、豪州人裁判長ウィリアム・ウェブであった。時は流れ昨秋、豪州人ドン・キブラー氏が天皇、皇后両陛下に拝謁した。氏は大東亜戦争中に起きた、日本人将兵による捕虜収容所脱走事件などにおける犠牲者を悼む墓地と、隣接の慰霊日本庭園創設を、私財を投じ奔走した親日家である。
 当然ながら、豪州人が全てウェブのように悪辣とは限らない。日本人全てが、野田首相のような変節漢だとは限らぬように。


日本国−憲法公布 1946年(昭和21年)

 主権のない時代に押しっけられた国際法違反の“憲法”。(⇒[明治憲法との比較])
 新憲法(日本国憲法)は、日本の新しい出発と平和の象徴として扱われできた。とくに第九条を宗教のように信奉している日本人さえいる。
 だが、新憲法が昭和二十一年十一月三日に公布され、翌年五月五日に施行された時点でも、占領下の日本には主権がなかった。そのことを最もわかりやすく示した例は、新憲法が発令された後でも、日本の刑法によらずに日本国内で死刑が執行された(東京裁判)ことである。
「主権のない時代に主権の発動たる憲法ができるわけがないではないか」というのがまっとうな憲法に対する考え方であろう。つまり、「日本国憲法」とは占領軍が植民地″日本の統治を都合よく行うための「占領政策基本法」だったのである(独は「占領政策基本法」と呼んていた)。言い換えれば、日本国憲法は条約憲法で、ふつうの憲法ではない。「日本国民の総意に基づいて」などいないことは明白である。
 ■ハーグ「陸戦の法規慣例に関する規則」
占領者は、可能な限り占領地の現行法を尊重し、公共の秩序と生活を確保しなければならない。
 条約憲法だから、条約の終結時、つまり独立回復時に日本国憲法を失効させ、主権の発動たる憲法、つまり普通の憲法を新たに制定すべきであった。現在、日本国憲法を改正しょうという議論があるが、主権のない時代に作られた憲法を改正したりしたら、その憲法に正統性を与えたことになる。だから、内容は同じでもいいが、いまの憲法は一度失効させねばならない。
 GHQは憲法の草案をわずか十日あまりでつくって日本に押しっけた。日本人による「憲法草案委員会」の仕事の九十九パーセントは占領軍の原案を翻訳することだった。これは明らかに国際法違反である。近代戦時国際法の基本を定めた「ハーグ陸戦規定」に、「勝者が敗者の主権を無視して恒久的な立法を行ってはならない」と明確に定められているからである。
 日本国憲法前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しょうと決意した」と記されているが、国民を生かすも殺すも他国に委ねるというこの部分だけを読んでも、「これは憲法ではありません」と言っているに等しい。
 しかも我々の周囲には、わが国の領土を侵そうとしているロシア、中国、韓国、それに日本人を拉致して恥じない北朝鮮が取り巻いているのである。そういう国々に日本人が自分の安全と生命を信頼してあずけようというのだろうか。とても一主権国家の憲法とは言えない。
 日本が終戦以来、六十年以上にわたって平和であったのは第九条のおかげだと言う人たちがいるが、日米同盟があるからソ連が手を出さなかっただけなのである。こんなわかりきったことに目をつぶって、第九条があったから平和なのだと言う人は正気なのかと問いたい。
 憲法を直訳すれば「体質」という意味だ。つまり憲法は国の体質であって、昔、「国体」と訳していたのが正しい。国の体質が変われば、どこの国でも憲法を時代に合わせて変えでいる。それが本来の姿なのだ。



サンフランシスコ講和条約 1951年(昭和26年)

 アメリカがあわてて結んだ講和条約によって日本は国際社会に復帰した。
 東京裁判が終わってから二年後の昭和二十五年、米ソの対立を背景として朝鮮半島で自由主義国と社会主義国の武力衝突(朝鮮戦争)が起こった。日本の敗戦後、あっという間に、シナもモンゴルも満洲もシベリアも東アジア全大陸が共産主義になっていたのである。
 日本が東京裁判で主張した「共産主義の脅威」が正しかったことを知ったアメリカは、日本を独立させて自分たちの陣営に引き込むため、あわててサンフランシスコ講和条約を結び(昭和二十六年九月八日)、賠償金もとらなかった。それまでの「日本は悪」という彼らの思い込みは、現実の「共産主義の脅威」の前にすっかり吹き飛んでしまったのである。
 戦艦大和や零戦を作ったほどの力を持つ日本が講和条約を結び、西側につくことをソ連は恐れた。日本の左翼的知識人は血眼になって講和条約に反対し、朝日新聞や岩波書店、時の南原繁東大総長もソ連ほかを含む「全面講和論」を主張した。日本が四十数カ国と講和条約を結ぶのに反対するソ連とその衛星国わずか二、三カ国を除いて講和条約を結ぶことを「単独講和」だと言って反対したのである。これは実におかしな話だ。元慶応義塾の塾長・小泉倍三は、「全面講和するためにはアメリカとソ連の話がつかなければならないが、その見込みはない。全面講和を待っていると日本はずっと占領されたままになる。それでもいいのか」と喝破した。
 日本の全権代表であった吉田茂首相はすべての党をあげて講和条約にサインをしたかったが、共産党、社会党は最後まで反対した。それほどスターリンの命令は重かったのだ。
 中曽根康弘内閣の昭和六十年(一九八五)以来、日本政府は「日本は東京裁判を受諾して国際社会に復帰したのであるから、その判決に沿った外交をしなければならない」と公然と言い出した。これは講和条約第十一条の「日本政府が東京裁判などの諸判決を受諾し……」とあるくだりの「諸判決」を「裁判」と誤訳したためのとんでもない間違いである。日本は「裁判」を受諾したのではなく、個々の「諸判決」を受け入れたのである。だから「A級戦犯で終身禁固刑などの判決を受けた者たちを釈放する場合は第十一条後半の手続きを経て行え」ということになった。それで「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が与野党一致で可決され、日本政府と議会の手続を踏んで全員を釈放し無罪とした。これで日本には戦犯はいないことになり、「戦犯」の問題は終わったのだ。かくして日本はサンフランシスコ講和条約を締結して国際社会に復帰したのである。ただ、A級戦犯として死刑になった七人は帰ってこない。
 東京裁判自体は、日本国を裁いたものでも、日本人全体を裁いたものでもない。
 つけ加えれば、サンフランシスコ講和条約の翌年に結ばれた中華民国政府との平和条約では、この第十一条は除外された。つまり、戦犯についてはいっさい問題とならなかったのである。
(⇒詳細は[世界が裁く東京裁判]参照)



日米安保条約調印/新安保条約成立 1951年、1960年

 戦後の平和と繁栄をもたらした“米安保”の新たな形。
 戦後、日本の平和が保たれたのは、戦後教育が教えてきたような「憲法第九条のおかげ」ではなく、日米安全保障条約、通称日米安保″があったからである。
 日米安保には旧安保と新安保がある。旧安保は昭和二十六年のサンフランシスコ講和条約調印と同時に吉田茂首相が署名したものだ。日本は非武装国となったから、もしも米軍が日本から撤退すると言い出したら、事実上軍隊もなく愛国心も奪われた日本が独立を回復したところで丸裸状態である。吉田首相は日本の独立を望みながらも、やむをえずアメリカに日本の防衛を頼み込むような形をとった。したがって、この旧安保条約はアメリカの言い分が主である。
 「日本を防衛するのは義務ではないが、アメリカは日本に基地を置き、ほぼ自由に使用できる。それゆえに日本の安全も保障される」というような内容が柱になっていた。
 だが、日本が見事に復興を遂げると、岸信介首相は占領・被占領の関係ではなく、平等な立場での軍事同盟を結ぶという立場をとり、昭和三十五年(一九六〇)一月に改定安保条約、つまり新安保条約を調印、五月十九日の強行採決の後、六月に成立した。
 その夜、東大の女子学生樺美智子さんは双方の衝突で死亡した。デモ隊の勢いは激しく、総理官邸、岸総理私邸の周りは、「岸を倒せ」の怒号の繰り返しであった。猛烈に反対した社会党・共産党などは日本の独立回復のためのサンフランシスコ講和条約にも猛反対したことを思い出してほしい。最後には安保阻止国民会議を中心にした三十万人の国会デモがあり、一万人弱の学生が国会に突入する大騒動となった(六月十五日)。
 有名な「六〇年安保闘争」と呼ばれる激しい抗議行動が起こつた。昭和三十五年六月十五日、国会デモで、警官三百八十六人、学生四百九十五人が重軽傷を負った。国会前に並べた警備のトラック十五台をひっくり返し、流れ出た油に火を点け炎上させた。それを乗り越えて、国会の前庭での、もみ合いデモであった。
 だが、岸首相が結んだ改定安保条約の下で、その後の内閣は安心して経済政策を遂行し、それが日本の繁栄をもたらして今日に至っている。「あの時、安保改定をしなかったら、どうなっていたか」と問いたいくらいである。
 岸首相の時代のソ連にかわって、現在、直接の脅威となっているのは中国である。驚異的な経済成長をとげている中国に対して、経済優先の立場から各国は強い態度に出ることができない。中国の露骨な覇権主義にもかかわらず、アメリカは中国への配慮とイスラム諸国のテロなどに対する自国の防衛で手一杯である。だから、いま新々安保条約が必要な時期にきている。おそらくそれは、日本も核をアメリカと共有するというものになるだろう。これだけ核が拡散したなかでは、日本が実際に核攻撃を受けたとしても、アメリカが報復の核を撃つ可能性は低い。報復の核を撃ち込めば、今度はアメリカが報復の対象になるからである。
 大事なのは、アメリカが安心して日本と共有できるような核を持つ方法を考えるということだ。旧安保条約で吉田首相が頼み込むような形で日本の安全をアメリカに委ねた時と同じように、いまの中国と核の脅威が同居する世界における日本は、アメリカの軍事力との協同がなければほとんど丸裸の状態であることを認識しなければならない。
⇒([岸首相][池田首相][反安保])



◆新安保条約とは
 従来の米軍に基地を提供するための、片務的な条約から、日米共同の、双務的な条約に改正する次の如き要点であった。(⇒[池田・岸の安保]参照)
 ◎日本国内の内乱に対して、米軍の出動を認めている「内乱条項を削除」した。
 ◎日本を米軍が守る代わりに。
  在日米軍への攻撃に対しても、自衛隊と在日米軍とで共同で防衛行動を行なう
  「日米共同防衛の明文化」である。
 ◎在日米軍の配置、装備に対し、両国政府の「事前協議制度の設置」、
  日本の意見を含む。

 岸内閣が辞職して、池田勇人氏が戦後の日本経済繁栄の道筋を作った「所得倍増計画」は、「政治主義」から「経済主義」に政治の重点が切り替えられた。
岸信介の覚悟[岸信介と未完の日本 P257-258]
 GHQの戦犯(本当は濡れ衣)に対する非礼と過酷な処断から、小泉大臣、本庄侍従武官長、近衛首相などが次々に自殺した。東條も自殺したが一命を取り留めている。巣鴨プリズンの中で、闊達だったのは、東條,岸信介の両名だったことは有名だ。東條は毅然として日本の戦争は祖国防衛が目的で蟻、天皇に責任は無しと東京裁判の法廷で述べた。
 岸が自殺を思いとどまった理由は、日本の戦争は自衛だったと戦争の正義を語ること、そして大東亜戦争が聖戦であったことの確信こそが、戦後日本の復興の基本でなければならないと考えたからだった。
■初代幹事長・岸信介、自由民主党の政策理念[岸信介と未完の日本 P376]
 自由民主党が発足するとともに、鳩山一郎総理は総辞職にふみきり、第三次鳩山内閣が発足した。岸信介は、自由民主党の、初代幹事長となった。幹事長として岸は、自由民主党の政策は「進歩的」でなければならないとして、このように述べている。

 「進歩的」と云うことは「階級的」と云うことではない。我々は社会党が我々を批判して居るような一部大資本家の利益を擁護する政策を取るものではないと共に、社会党の如く常に階級的立場のみよりする政策を以つて、進歩的なりと考えるものではない。我々は常に国民的立場に立脚する。従つて政策の基調も凡て国家的国民的であることは当然である。国家的国民的立場を基調とする以上、政策の眼目が民族の完全独立の達成と、国家の再建に在る。此の意味に於いて、私が再建連盟当時より同志と共に提唱し来つた自主憲法の制定と防衛体制の確立、自由主義国家群と連繋を強化しつつ東南アジアに対して経済外交を推進すること、及び放漫な自由主義経済政策を是正して計画的自立経済を確立すること、等の主張は、前に日本民主党結成の場合にもその政策の骨子となったものであるとともに、今回の自由民主党の政策の中軸をなしつつあるものであって、此処に階級政党としての社会党に対決する国民政党としての、我が党の政策の基本線があると謂わねばならぬ。
         (「自由民主党の発足に当りて」『風声』昭和三十一年一月号)

 ここで引いた一節に、岸の政治家としての立場と抱負のほぼすべてが記されていると云っていいだろう。
 「階級的」な政党としての社会党にたいして、「国民的」政党として自由民主党を対置するところからはじめて、その国民的立場から、政策の眼目を「民族の完全独立の達成と、国家の再建」に置くと断言するとき、やはり今日においても、強い感動を覚えさせられる。
 さらに岸は、第一の本質的な目標としての、民族の独立と国家の再建において、もっとも肝要なことは、自主憲法の制定と国防体制の確立であると断言している。この二大目標が、この時から半世紀を経て、いまだに実現されていないということを、岸は予想しただろうか。憲法改正と自主防衛を強調する一方で、「放漫な自由主義経済」を認めず、計画的な自立経済政策を推進すると岸は語る。古典的な自由放任経済では、資源をほとんどもたない日本の成長はのぞめないというのが、満州国を短期間に産業国家に成長させた岸の主張であった。
 ここに、自主独立路線と、官民連携による高度経済成長という岸政治の両輪が揃ったことになる。

■日本の軍事協力なければ沖縄撤退 昭和42年に米国防長官:2012/08/01産経
 昭和47年の沖縄返還をめぐり、米政府高官が日本側に対し、米軍の沖縄駐留は日本と東南アジア防衛のためであり、日本が軍事的協力に応じないのであれば米軍は沖縄から撤退する考えを伝えていたことが、公開された外交文書で分かった。米側が日米同盟の片務性に不満を持ち、米軍の沖縄駐留を無条件で継続する意思がなかったことが浮き彫りになった。
 同年1月20日にジェームズ・マーティン米公使が外務省の東郷文彦北米局長との会談で「日本の防衛ということなら沖縄は要らないのであるが、沖縄基地を必要とするのは極東の安全のため」と述べていたことも、同月22日付の極秘文書で判明した。
 マーティン氏は米軍戦闘作戦行動を日米安全保障条約で定めた事前協議の対象外とし、いわゆる「本土並み」を沖縄に適用しないことが返還の前提条件だと強調した。最終的に日本は返還後の基地の自由使用を事実上容認した。

【沖縄返還】外交文書要旨
▽昭和42(1967)年1月22日付、極秘文書
(ジェームズ・マーティン駐沖縄米公使の東郷文彦・外務省北米局艮への発言)
 日本の防衛ということなら沖縄は要らない。沖縄の基地を必要とするのは極東の安全のためだ。自由な基地使用が確保されるなら、いつでも全面返還した方がいいと思っている。

▽42年3月25日付、極秘文書(岸信介元首相とマクナマラ米国防長官の会談)
 岸氏 沖縄の返還は現地住民のみならず日本国民を挙げての悲願。今後どのくらいの期間米国は沖縄に基地を保有する必要があると思われるか。
 マクナマラ氏 米国と政治的関係で協同しつつ、軍事面にもこれを及ぼさんとすることに日本が賛成なら、われわれは沖縄にとどまるであろうが、しからざれば引き揚げる。日本は将来アジアで今の米国に比べたはるかに大きな役割を果たすべきだ。

▽42年7月19日付、極秘文書一(東郷氏とジョンソン駐日米大使の会談)
 東郷氏:沖縄基地の完全な自由使用は国内事情から困難だ。
 ジョンソン氏:(基地の扱いが)「本土並み」なら(沖縄から)引き揚げる。
 東郷氏:自由使用と「本土並み」の闇に、わが方として受諾し得る基地の地位を見いだしたい。

■日華条約交渉、吉田首相が譲歩指示 対米関係重視:2012/08/01産経
 昭和27年に蒋介石率いる中華民国(台湾)との日華平和条約締結交渉が難航した際、当時の吉田茂首相が外務省に対し、早期締結に向け譲歩を指示していたことが外交文書で分かった。日本の独立を回復したサンフランシスコ講和条約批准の見返りに、米側に「反共」姿勢をアピールする必要に迫られていたためとみられる。
 一方、既に大陸を実質支配していた中華人民共和国(共産党政権)との将来の関係改善を見越し、台湾側への過度の肩入れは控えた。戦後外交のかじ取りを担った吉田首相の腐心がうかがえる。
 条約交渉に関わった外務省の後宮虎郎アジア局第2課長が締結直後の27年6月に省内で行った「極秘扱い」の講演記録によると、日本側は蒋介石政権を「落ち目」と軽視。中国大陸への主権を認めることは「(吉田)総理お声掛りのタブー」との構えで交渉に臨んだ。
 台湾側は自らを「正統政府だとはっきりさせる」との姿勢を堅持し、交渉は予想以上に長引いた。外務省は決裂も視野に入れ始めたものの、最終的に吉田首相が「いつまでぐずぐずしているか。簡単なものにして早くまとめよ」と指示。日本側が台湾側の主権に関する主張を一部受け入れる形で妥結に至った。
 前年の26年、吉田氏はダレス米国務省顧問への書簡で中国共産党政権を敵視し、中華民国との条約締結を約束した。日華条約は、47年の日中国交正常化に伴い失効した。
 服部龍二中央大教授(日本外交史)は「中国との関係に配慮し、台湾を地方政権として限定承認するという外務省案に吉田は理解を示していた。最終段階では対米関係を重視する観点から条約締結を急がせ、バランス感覚を示した。その結果として、中国の扱いが将来の課題として残されることになった」と指摘した。



第一次教科書問題 1982年(昭和57年)

 日本の歴史教科書の検閲権と天皇陛下を中国に売り渡した国賊的行為。
 昭和五十六年、自民党の教科書制度改革案に危機感を抱いた左翼の人々は、「日本が再び軍国主義の道を歩む」などと政治問題化させ、その上、ばかげたことに韓国や中国にご注進した。さらに翌五十七年六月二十六日、日本の大新聞がいっせいに驚くべきことを報じた。日本の教科書検定で、中国華北への「侵略」が「進出」に書き換えられたというのだ。これに対して、中国・韓国は日本政府に抗議を申し入れた。ところが、これは誤報であった。にもかかわらず、何を血迷ったか当時の宮澤喜一(宮沢喜一)官房長官が、「近隣の諸国民の感情に配慮した教科書にする」という主旨の発言をし、まったく悪質な「近隣諸国条項」なるものが教科書検定に設けられる。これは百パーセント日本国内の問題である日本の教科書について、韓国や中国の検閲権を認めたようなものだ。日本政府の腰抜け謝罪外交が始まったのは、この「第一次教科書問題」が生じたあとでる。
 宮澤喜一は首相に就任後、さらに国賊的行為をした。一九八九年(平成元年)に起きた天安門事件で、中国は世界中のマスコミが見ている前で民主化を求める非武装の学生・一般市民を大量に殺害し、国際的に孤立した。そこで中国は、日本の天皇を招いて自分たちの存在を世界にアピールし、外交上の挽回をはかろうとした。そして、その中国の要請にしたがって、日本政府は天皇陛下に訪中していただくことを決めてしまったのである(平成四年=一九九二訪中)。中国の思惑どおり、世界中から閉め出されかけでいた中国は国際社会に堂々と戻ることができた。
 諸外国の首脳は天皇陛下に会うと皆、緊張する。昭和四十九年(一九七四)に訪日したフォード米大統領も晩餐会の席で震えるほど緊張したと言われている。平成二十一年(二〇〇九)にはオバマ米大統領が深々と頭を下げて最敬礼した。それくらい天皇に畏敬の念を抱いているのだ。だからこそ、中国は天皇を政治利用した。日本の歴史教科書の検閲権を北京とソウルに売り渡した宮澤首相は、その天皇陛下まで中国に売り渡したのである。
 東アジアにおいては、周辺の国がシナを訪ねることは朝貢と見なされる。シナの都に日本の天皇が行けば、それは日本がシナの家来になったと見なされる。天皇陛下の訪中で中国は感激し、今後、歴史問題には言及しないなどと言ったらしいが、家来になった国との約束を守るはずがない。以後、江沢民や温家宝は、日本に対して非常に倣慢な態度をとるようになった。
 聖徳太子以来、日本の天皇はシナの皇帝と対等の立場をくずしたことはなかった。その積み上げてきた歴史を宮揮首相と加藤紘一官房長官らはいっさい葬り去ってしまったのだ。
 今上天皇にはぜひ長生きして頂き、中国共産党政権の崩壊をご覧になられれば、せめてものお慰めになるのではないかと思う。
⇒([戦後自虐])



尖閣諸島・中国漁船衝突車件 2010年(平成22年)

 戦後の日本人に国家意識を目覚めさせた中国の暴挙と日本政府の失態。
 尖閣諸島は明治十人年(一八八五)以降、日本政府が十分な調査を行い、どこの国にも属していないことを確認して明治二十八年に領有を宣言し、実効支配してきた島々である。カツオ漁の基地ができ、カツオブシ工場も建設され、当然、住民もいた。敗戦後は米軍の占領下に置かれたが、昭和四十七年(一九七二)、沖縄返還とともに沖縄県石垣市に編入された。これをもってしても、当時の連合国も尖閣諸島が日本国の領土であると認めていたことは明らかである。(⇒[尖閣を守れ])
 ところが、その海域に石油を含む豊かな天然資源があることがわかると、突如中国は領有権を主張し始めた。昭和五十三年(一九七人)に来日した老檜な部小平が「この議論は後世に譲りましょう」という発言をした。とかく事なかれ主義の福田剋夫内閣はその言葉に乗ってしまった。このとき断固「交渉の必要なし」とひとこと言っておけばそれで済んだはずであった。
 その後、中国は無断で地下資源を掘り出し始めた。ところが日本側は抗議することなく傍観していた。そんな状況下で、平成二十二年九月七日、中国漁船が領海に侵入し、退去を命じた海上保安庁の船に体当たりを繰り返すという暴挙に出て、改めて「尖閣問題」が浮上した。
 海保は漁船の船長を公務執行妨害で逮捕したが、それですまされる話ではない。これは領海侵犯、漁業権侵犯という重大な罪であり、賠償金も請求できるはずのものであった。ところが日本の民主党政府はその責任を沖縄の検事局に押しっけ、船長をさっさと釈放してしまった。
 日本政府はその模様を収めたビデオをすぐさま世界に公表すべきであった。そうすれば中国漁船が意図的に衝突してきたこと、船長逮捕のために海保が乗り込んだときの中国漁船乗組員たちの暴力などのいっさいが世界に明らかになったはずである。
 民主党政府がビデオを公開しようとしないことを憂いた海上保安官(当時)一色正春によって同年十一月、その一部がインターネットに流れた。にもかかわらず、民主党政府はこのビデオの全貌を依然として隠したままである。領土に対するこの唆味な態度をみて、ロシア(当時ソ連)が戦後不法占拠したままの北方領土をメドベージュフ大統領が訪れ、実効支配の意志を示すという事態を招いた。国家は国民と領土と主権によって成り立つ。その主権と領土が侵され、日本の漁民の生命が危険にさらされているというのに、日本政府は放置したままである。いくら日米安保条約があるといっても、それは日本が戦争に巻き込まれた場合のことであって、日本が戦っていないのにアメリカが助けるということはありえない。尖閣列島に少数であっても自衛隊を置き、ヘリコプター基地をつくるなどの具体的な措置を急ぎ取るべきであろう。
 この尖閣事件は、戦後、安閑と暮らしできた多くの日本人に国家意識を目覚めさせたという意味では、ショック療法的な事件と呼ぶべきものであった。



東日本大震災 2011年(平成23年)

 日本史上最低の民主党政府のときに起きた日本国はじまって以来の大災害。
 日本国はじまって以来の大天災が平成二十三年三月十一日、日本を襲った。天災は自然現象であり、不可避ではあるが、私はオカルト的な要素をも考えたくなるのである。
 この十六年前、平成七年(一九九五)には阪神淡路大震災災が起こった。このときの首相は社会党党首の村山富市であった。そして東日本大震災も、国歌、国旗、国民という言葉が大嫌いで、尖閣問題も棚上げにした市民運動上がりの菅直人政権の下で起こつた。
 戦後の昭和三十年(一九五五)以来、社会党との脱み合いのなかで自民党の一党支配が続いた。これがいわゆる「五五年体制」である。その体制の下で日本は高度経済成長をなしとげた。
 しかし、壊し屋″小沢一郎が自民党の内紛を引き起こし、多くの小政党が乱立して「五五年体制」が崩れ、そのあげく、いったん政権を離れた自民党は平成六年(一九九四)、社会党の村山富市を首相にするという政界の禁じ手を使って政権に復帰した。そしてその村山内閣のときに阪神淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こったのである。
 そして平成二十一年(二〇〇九)、民主党が自民党から政権を奪い、鳩山由紀夫が首相となった。このときの鳩山首相は「日本列島は日本人だけのものではない」という妄言を吐き、小沢一郎幹事長は、天皇の政治利用を画策して中国の習近平副主席との特例会見をゴリ押しした。
 さらに驚くべきことは、土肥隆一民主党議員(その後離党)が、韓国において日本の竹島領有権放棄を求める声明文にサインをするという国賊行為を行った。
 日本人の名誉や人権よりも、チャイナやコリアの主張(そのほとんどはインチキか根拠薄弱な主張)を大切にする政党、外国人から金をもらったり、選挙の際の労務提供を受けたりしても平気で、それが露見しても議員を辞める気のない、そんな人たちに政権を与え、「史上最低の内閣」をつくることを許した国民に、日本の天神地祇が怒って災いを引き起こしたのではないか。そう考えたくなる人が出てきても不思議ではない。しかし、そのために無事の人々が犠牲になるのではたまらない。震災による福島原発事故に対しても、事実をなかなか公表しようとせず、対策は後手後手に回っている。こちらはすでに政治的な人災と言える状況である。
 オカルト的な話は別としても、自衛隊や警察を敵視しながら成長して政治家になった人が首相になると大天災が起こることについて、偶然の暗号とか、ジンクスという言い方は許されるであろう。これから我々日本人は、少なくとも国旗や国歌を尊重し、靖国神社に参拝するような、そして国を護る自衛隊や海上保安官、治安を護る警察官を尊敬する人たちだけを選挙で当選させなければならない。為政者が天の怒りに触れると、犠牲になるのは国民なのだから。
 東日本大震災の被災者の方々に心からご同情申し上げ、一日も早い復興を祈るばかりである。




 天皇陛下は16日午後、テレビを通じた異例の被災者向けメッセージで、「一人でも多くの人の無事が確認されることを願っている」とのお言葉を述べられた。

--- 陛下の全文 ----

 このたびの東北地方太平洋沖地震は、マグニチュード9.0という例を見ない規模の巨大地震であり、被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し、犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。
 また、現在、原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ、関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。
 現在、国を挙げての救援活動が進められていますが、厳しい寒さの中で、多くの人々が、食料、飲料水、燃料などの不足により、極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより、被災者の情況が少しでも好転し、人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずに入られません。 そして何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。
 自衛隊、警察、消防、海上保安庁をはじめとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のために来日した人々、国内の様々な救援組織に属する人々が余震の続く危険な状況の中で日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います。
 今回、世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き、その多くに各国国民の気持ちが被災者と共にあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。
 海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示している事に触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。
 被災者のこれからの苦難の日々を、様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。
 被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。


⇒([陛下・自衛隊][水門閉めた消防団][海外からの応援談
  [凛とした日本人談][自衛隊他の活躍談




◇尖閣購入、都への意見9割が賛成:2012/04/25産経

◇同盟強化妨げ 米は改憲歓迎「反対まったくない」:2012/04/25産経

 日本が現行憲法を変えようとする動きを同盟国の米国はどうみるのか−憲法第9条に基づき、日本は集団的自衛権を行使できないとの解釈が日米同盟強化への大きな障害になるとする認識はいま米側で広範に強まり、改憲自体にも長年の多様な対応を経ながら、現在では党派を問わず反対はなく、むしろ暗に歓迎するという姿勢が大勢となったといえる。
                   ◇
■反対全くない
 石原知事が16日にワシントンでの討論会で憲法破棄を提唱したとき、米側の討論者のリチャード・ローレス元国防副次官は「日本の憲法は確かに米軍占領時代の遺物であり、日本はそれを変える権利も自由も有している」と述べ、日本の憲法改正にいまの米側には抵抗がないことを明示した。同じ討論者のジム・アワー元国防総省日本部長はさらに「米国が反対することはまったくないだろう」と確言した。
 米側には日本の憲法はあくまで主権国家としての日本自身が決める課題であり、米国が是非を表明する立場にはないという建前に近い大前提がある。前記の2元高官もその点を強調した。だがなお米国は日本憲法の起草者である。そのうえ主権中枢の自国の安全保障を現憲法で制限した日本の国家としての欠落を補ってきたのが同盟国の米国だという事実は重い。改憲では米国の意向を考えざるをえない歴史であり現実だろう。
 ローレス、アワー両氏は共和党系の識者だが、日本の改憲を受け入れる基調はすでに党派を超えた。2007年4月、訪米した当時の安倍首相が米側主要議員と会談した際、民主党リベラル派のトム・ラントス下院外交委員長は「日本が安全保障でも大国にふさわしい役割を果たすために安倍首相が憲法を改正しようとすることを強く支持する」と述べたのだった。


■より緊密に防衛協力
 連邦議会の調査機関として中立性を保つ議会調査局も一昨年5月に作成した日米関係の報告書で「日本の憲法が日米防衛協力への障害となる」という見解を記していた。正確には「米国が起草した日本の憲法は日本に集団的自衛を禁ずる第9条の現行解釈のために日米間のより緊密な防衛協力への障害になっている」という記述だった。


■揺れ続けた改憲賛否
 米国の日本憲法への態度は長い年月、錯綜する変遷をたどってきた。記者(古森)が長時間インタビューした憲法起草者で連合国軍総司令部(GHQ)の民政局次長、チャールズ・ケーディス氏は憲法の最大の目的が日本から全ての軍事能力を永久に奪うことだったと率直に回顧した。だからその「日本封殺のための憲法」保持という思考は戦後の長い期間、米側のコンセンサスだった。
 民主党のケネディ政権に重用されたリベラル派の知性ジョン・ガルブレイス氏に1992年に日本の憲法について問うと、「日本は現憲法を絶対にそのまま保つべきだ」という答えがすぐ返ってきた。その数年前のエドウィン・ライシャワー元駐日大使への同様の質問にも、「日本の振り子は激しく揺れすぎる」という表現での改憲反対の見解が示された。
 だが同じ米国でもほぼ同時期に保守系識者の間では日米同盟の強化のために日本が憲法での防衛面での自縛を解くことが米国をも利するという意見が広がってきた。92年にはヘリテージ財団が「米国は非公式に日本に改憲を促すべきだ」とする政策提言を発表した。「マッカーサー憲法は現実の世界で欠かせない力の行使や戦争を全て否定することで日本に例外意識を与え、国際社会の正常な一員となることや日米同盟に十分な寄与をすることを妨げてきた」と説いたのだ。当時の先代ブッシュ大統領も公式会見でこの提言を認め、日本が改憲を求めるならば問題はないと言明した。
 一方、21世紀にもニューヨーク・タイムズ紙社説のように「日本の憲法改正は危険な軍国主義志向」とする日本不信の改憲反対論は一部に存在した。だが国政レベルでは日本が日米同盟を堅持し、民主主義国として米国との共通の価値観を保つという前提での改憲の容認あるいは奨励の見解がここ数年、大多数となった。
 そうした見解の識者でも日本の改憲への賛否を正面から問われると、当面は日本が憲法解釈を変え、集団的自衛権を行使できるようにするだけでも日米同盟強化への効果は十分に大きいと答える向きが少なくない。
 だが民主党クリントン政権で国防総省日本部長を務めたポール・ジアラ氏は「日本の現行憲法は日本の政府や国民に防衛力は保持しても実際の戦闘に使うことは決してないのだという政治心理の枠をはめている点で明白に日米同盟への障壁であり、改憲が好ましい」と述べた。このへんが米側対日安保政策関係者の本音だといえそうである。




 ■河野一郎…北方領土返還を妨害 [撃論 2012年10月 第七号]
河野洋平の父一郎はソ連に密約を求めた「日本が国交回復の交渉に応じなければ(北方領土を諦める)、漁業協定に調印しないと、ソ連から日本に圧力を掛けて欲しいと要請した。この要請にソ連側は、自国を貶めてまでソ連からの圧力を頼むのか…」。結果、北方領土返還妨害のお礼として、ソ連から当時20億円を手にしたという。その金は日ソ漁業協定とは別枠で、魚を捕らせた代金だった。尚、当時幹事長の岸信介は、北方領土返還を妨害しているのは河野一郎農林大臣だと確信し、首を締め上げたとの風評があった。
 ■河野洋平…従軍慰安婦を捏造、化学兵器遺棄の捏造
 宮沢内閣当時、毛沢東崇拝の官房長官・河野洋平は、河野談話で従軍慰安婦強制連行をでっち上げた。次に、共産主義者・村山富市首相が「アジア平和基金」を設置し、多くの寄付金を詐称老婆にばらまいた(首相は給料と退職金を頂いている)。[撃論]…安倍内閣で河野談話を否定している。
 小渕内閣の外務大臣・河野洋平は、遺棄していない化学兵器を遺棄したと歴史を偽造し、日中間協定にした。この捏造により、廃棄国の日本は一兆円以上の処理代を払わされて続けている。…日本は敗戦に伴い、国際法に基づく武装解除を通じ、化学兵器を含むすべての兵器をソ連やシナ(蒋介石、毛沢東)に完全無欠に引き渡した。だから、日本は何一つ兵器を遺棄していない。
 尚、河野太郎はこれまで一度も、祖父・父の犯罪を糾弾したことが無い。今、彼の支援する「原発ゼロの会」には左翼の巣窟となっている。



◇諸悪の根源「戦前暗黒史観」との決別
                        [正論 2013年02月号]渡部昇一

■共産主義が日本を変えた

 このたびの衆院選挙で圧勝した自民党は、憲法を改正して自衛隊を「国防軍」とすることを公約として掲げています。それに対して、野田首相は選挙戦で「時計の針を戦前にまで戻すのか」と批判し、マスコミもその言葉通りに報じました。
 「戦前」という言葉が、当たり前のようにネガティブな意味で使われる。このことは、戦前の日本は「悪くて暗い国だった」という認識が国民の相当数に共有されていることを示しています。私はこれまでも繰り返し、この誤った思い込みを批判してきましたが、戦後の日本が真っ当な国になることを邪魔し続けてきた「戦前晴暗黒観」は、いまだ根強く生き続けているのです。
 日本の近代史は、ロシア・ソ連、そして共産主義というものに大きく害されてきたと私は思っています。明治時代にロシアが満洲や朝鮮半島に進出してこなけれ、日本は日露戦争をする必要もありませんでした。当時ロシアは満洲を実質的に支配し、黄河以北のシナ大陸は 100%ロシア領になりかねない情勢でした。朝鮮も「コリアスタン」化目前で、そうなると壱岐や対馬も目標にされる。旅順に続く不凍港を確保するため長崎辺りまで欲しいとロシアが言い出す可能性すらありました。
 日露戦争(明治三十七〜三十八年)に勝利した後、日本は順調に民主主義の道を歩んでいました。大正二(一九一三)年に成立した第三次桂太郎内閣は、“憲政の神様”と言われる尾崎たちから弾劾演説を受けて潰れました。演説で内閣が倒れるような事態は、イギリスの議会政治が最も栄えたディズレーリやピール首相の時代を思わせます。
 この着実な日本の民主主義国家としての歩みを歪めたのが、第一次大戦(一九一四〜一九一八年)と、それに続くロシア革命(一九一七年)と共産主義でした。日露戦争の勝利から十年後に始まった第一次世界大戦には、当時の国際的な慣習に従って、日本からも観戦武官が派遣されました。ヨーロッパでの戦いを目の当たりにした彼らは、日本はもう戦争できないのではないかという恐怖感を抱いて帰国しました。しかし日露戦争に勝った後で、そんなことを口にすることはできません。
 唯一、口にしたのが日露戦争で活躍した海軍の秋山真之です。彼はフランスで、男がみな戦場に行ってしまって留守になつた工場で、女が働いて武器をつくつていたことに驚きます。国家総力戦(トータル・ウォー)の実態を目の当たりにして、彼は同じことは日本ができるわけがないと感じたのだと思います。
 総力戦体制以上に、誰も口にできない恐ろしいことがありました。石油の出現です。この新しいエネルギーによって、第一次世界大戦の戦いの様相は、石炭エネルギーが主役だった日露戦争とは全く別のものになつていました。イギリス艦隊の燃料は重油になっていました。日露戦争までは陸戦の花だった騎兵にとってかわった戦車や飛行機という新しい兵器の燃料も石油でした。石炭は日本でも豊富に採れましたが石油はまったくありません。その事が、観戦武官たちを震え上がらせたのです。
 総力戦と石油という難題への向き合い方は、陸軍と海軍では違っていました。陸軍の仮想敵国はロシア(ソ連)で、石油の問題はそれほど深刻ではありませんでした。彼らが懸念したのは総力戦への対応です。そこで陸軍には二つのグループができます。一つは皇道派です。陸軍大学に行かないノンキャリアの青年将校たちは、日本を変える手本をソ連に求めます
 一九二九(昭和四)年に世界大恐慌が起きますが、ソ連の経済だけは五カ年計画で着々と伸びていると伝えられていました。そこで皇道派の青年将校たちはソ連に新しい国家体制の手本を求め、元老も華族も資本家も地主もすべて除去して天皇と国民が直接結びつく社会を構想します。天皇を奉るほかは、暴力で体制を変えようとした点も共産主義と変わりません。彼らに影響を与えた北一輝は右翼と言われていますが、実は左翼思想の持ち主でした。彼らは二・二六事件を起こして自爆してしまいます
 もう一つの陸軍のグループは統制派です。こちらはキャリア組です。彼らは日本を総力戦が可能な国へと、暴力によらずに変えようと考えます。二・二六事件で皇道派が自爆したことが統制派に有利に働きました。暴力を使う気はないけれども、「軍部に反対すると、また二・二六のような事件が起こる」と言うだけで、相手を黙らすことができます。そして事件後、広田内閣が陸・海軍大臣の現役制を復活させたこともあって、山本七平さんの言葉によれば、陸軍が「日本国そのものを占領した」のです。
 統制派と憂いを同じくしていたのが、「新官僚」あるいは「革新官僚」と呼ばれた官僚たちです。統制派は彼らと協力して国家改造計画を立てました。シナ事変から大東亜戦争を遂行した日本の体力は、統制派と新官僚が整備したと言えます。彼らの計画がなければ、昭和十年代に数万の飛行機をつくり、大海軍をつくり、シナ事変であれだけ戦って、しかもインフレを起こさないなどということはできませんでした。しかし、これは左翼の計画です。新官僚たちはもともと左翼的で、摘発されて転向したような者たちが多く、彼らの頭の中は左翼のままでした。ただ、天皇を戴いていたので、そのことは当時の日本人には分かりませんでした。
 海軍の反応も二派に分かれました。石油がなければ軍艦を動かせない、戦争ができないとピンと来たのが「条約派」です。彼らが石油資源のことを考えて米英とも妥協したのが、ロンドン及びワシントン海軍軍縮条約です。加藤友三郎や山本五十六がこの条約派です。一方、石油を重視しなかったのが「艦隊派」です。彼らには大砲の大きさや艦船の数だけが重要でした。
 そうやって陸海軍は分かれたけれども、結局日本を制したのは統制派であり、統制派の幹部たちは忠君愛国と言いながら、左翼思想で総力戦体制を作ったのです。だから戦後に内閣に入った軍人でも、実は左翼だったという者も数多くいます。結局、日本の戦時体制は、右翼の衣を着た左翼の体制だったのです。


■GHQと「曳かれ者」による洗脳
     (注)「曳(ひ)かれ者」刑場に曳かれていく罪人に対する侮蔑の言葉です。
 日米戦で、アメリカは日本の強さに驚きました。特攻隊はもちろんですが、航空母艦でもそのことは明らかです。当時はソ連にもドイツにも空母の建造能力はありませんでした。イギリスは空母を保有していましたが、機動部隊として運用していませんでした。空母機動部隊を実戦運用できたのは、世界中でアメリカと日本だけだったのです。アメリカはそんな日本を恐れました。
 アメリカは日本の強さの根源が国民の愛国心にあることを見抜きます。愛国心は歴史からしか生じませんから、日本を弱体化するために国民から歴史を奪おうと考えます。そして日本を占領すると、「このたびの戦争は右翼ファシズムと民主主義の戦いだった」というプロパガンダを始めました。戦前の日本を「右翼ファシズム」と貶める日本人洗脳計画です
 しかし、今考えると、それは笑うべきレッテルでした。日本の「右翼ファシズム」の本質は先述したように左翼でした。「民主主義」陣営にはスターリンのソ連が加わつていました。アメリカのルーズベルト政権もニューディールなどの左翼政策を実施していまたし、三百人ものソ連のスパイが同政権に潜り込んでいたことも近年分かってきました。そのスパイの一人だったハリー・デクスター・ホワイトは、日本に対米開戦を最終的に決意させた「ハル・ノート」の原案を起草した人物です。
 占領軍(連合国軍総司令部= GHQ)は、進駐後に日本の「民主化」政策を次々と打ち出します。その主体だった民政局の顧問は、カナダの外交官だったハーバート・ノーマンでした。ノーマンはソ連のスパイだった可能性が極めて高く、のちにそのことを指摘されて自殺しています。ノーマンの顧問は羽仁五郎です。彼ら共産主義者の影響を受けた GHQは昭和二十一年一月、戦前に相当の地位に就いていた日本人の首を切る公職追放に乗り出しました。二十数万人が追放されたと言われています。
 追放された人たちに代わって、学界やジャーナリズムで重要なポストに誰が就いたのか。山本夏彦さんの言乗によれば、「曳かれ者」たちでした。コミンテルンの工作員やその協力者で牢獄にぶち込まれた戦前の犯罪者、あるいは帝国大学の職を追われたり、戦後に占領軍に尻尾を振ったりした「ならず者」たちです。彼らが国民の意識形成に大きく影響するポストについたことで、彼らの歴史観が日本に蔓延し始めたのです
 例えば東大国際法の教授で、東京裁判の翻訳官を務めた横田喜三郎氏です。東京裁判が国際法違反であることは明確ですが、横田氏は東京裁判が国際法的に支持されると言った世界唯一の国際法学者だと言われています。東大の国際法の講座はほかの大学にはない権威があり、外交官の多くは彼の教えを受けます。東京裁判史観が霞が関に蔓延るうえで彼の影響力は巨大でした
 占領軍は昭和二十年の十二月八日、真珠湾攻撃の日から、日本の新聞に「太平洋戦争史」を連載させます。アメリカの独善的な解釈で満洲事変以降の「日本の悪」を強調するプロパガンダそのもので、これを翻訳したのは中屋健一氏です。通信社に勤めていましたが、のちに東大のアメリカ史の教授になります
 戦後第二代東大総長の矢内原忠雄氏は、専門はマルキシズム的な植民地論で、戦前から日本の大陸政策はすべて悪だと批判していました。助教授時代には「神よ、日本を一度滅ぼしたまえ」という趣旨の論文を書いて辞めさせられた。こういう人たちが戦後、諷爽とアカデミズムに復帰したのです。矢内原氏はプロテスタントで、その信念はキリスト教徒としては立派だったかもしれません。一方で、彼が信奉していたマルキシズムが何をやったかは言いませんでした。これが日本のインテリの欠点です
 満洲事変がなかったら、日露戦争以降、満洲に住んでいた日本人の運命はどうなつていたでしょうか。コミンテルンや中国共産党の排日テロにやられたかもしれません。ソ連は終戦間際には日ソ中立条約を一方的に破棄して侵入し、居留民を虐殺するなど暴虐の限りを尽くしました。そうしたことにも矢内原氏は口をつぐみ続けたのです。
 日露戦争後、満洲は穏やかでした。ところがソ連の共産主義者たちが「日露戦争の復讐だ」と入ってきて、左翼思想でシナ人を排日や抗日へと煽動しました。それが満洲事変やシナ事変の背景になったのですが、矢内原氏はその点も口をつぐんで日本だけ批判してきました。そういう人物が戦後は英雄的に請えられる時代でした。
 東大経済学部教授だった大内兵衛氏は、昭和十三年の人民戦線事件(第二次)で治安維持法違反の罪により起訴され、東大を辞めました。しかし、彼も戦後諷爽として復活し、社会党や社会主義協会の理論的支柱として日本の戦後に大きな影響を与えました。法政大学の総長にもなりました。
 京都大学で昭和八年に起きた「滝川事件」では、法学部の滝川幸辰教授の刑法思想が問題になりました。それは犯罪者が正しくて取り締まる側の当局が悪いという無政府主義でした。そのため文部省が休職処分にしたところ、腹を立てて辞めてしまった。その滝川氏と「一緒に辞めた」というだけで英雄視されたのが末川博氏で、彼は戦後立命館大の総長になりました。平和運動や護憲連動の中心人物の一人です
 一橋大学は都留重人氏が学長になりました。都留氏は高校時代に共産主義にかぶれて、日本にいられなくなったためにアメリカのハーバード大学に留学し、前述したハーバート・ノーマンと共産主義活動を共にしています
 こうした曳かれ者」たちが、自分たちを犯罪者扱いした戦前を良く言うはずがありません。学生たちは彼らの教えを真に受け「戦前の日本は暗くて悪かった」と信じ込んでしまったのです。 GHQのプロパガンダに加えて、この「曳かれ者」たちの教育・学術活動によって、「戦前暗黒史観」は日本に蔓延したのです
 「曳かれ者」たちは、大正十四(一九二五)年に制定された治安維持法を「暗黒の戦前日本」の象徴のように罵つてきました。自分たちを「曳かれ者」にした法律ですからそれも当然なのですが、治安維持法は法治国家には不可欠でした。コミンテルンの「皇室廃止指令」や、ロマノフ王朝一族をはじめ「反革命」というレッテルを張られた人民が大量に虐殺されているという情報を日本は得ていて、共産主義という殺人思想の「輸入」を防ぐ必要があったからです
 治安維持法は運用も穏やかで、「すみませんでした」と言って転向を宣言すれば、その後の就職の障害になることすらありませんでした。この法律で死刑になった者も一人もいません。スパイという疑いを持たれただけで処刑されたソ連とはあまりにも対照的です。治安維持法を制定した加藤高明内閣も、同時に普通選挙法も成立させた民主主義的な内閣です。収入の多寡に関係なく成人男子に等しく選挙権を与えるという当時としては先進的な法律でした。ここにも、「戦前の日本は暗黒だった」という「曳かれ者史観」の嘘があります


■明るく立派だった戦前の日本

 戦前も、普通の国民は明るく生活していました。私は当時、山形県鶴岡市の豊かならざる地域に住んでいて、周辺は貧民とまでは言えませんが細民と言ってもいい暮らしでした。それでも日々の暮らしは明るいものでした。流行歌も蓄音機で聞いていました。シナ事変が始まる前後に聞いていたのは、「もしも月給が上がったら」というデュエットソングです。「もしも月給が上がったら/私はパラソル買いたいわ/僕は帽子と洋服だ/…上がるといいわね/上がるとも/いつごろ上がるの、いつごろよ/そいつがわかれば苦労はない」
 「うちの女房には髭がある」という歌もありました。「『なんです あなた』/『いや別に 僕は その あの』/パピプペ パピプペ パピプペポ…」。歌詞を思い出すだけでも楽しい。世間の雰囲気はそんなものだったんです。
 家には娯楽雑誌として国民的人気だった講談社の『キング』も絵本もありました。暗黒どころか明るさに溢れていました。暗かったのは、プロレタリア文学を書いていた「曳かれ者」たちのほうです。
 戦前の日本が立派であったことを示す例を紹介しましょう。ヒトラーからユダヤ人の取り締まりを要請された時、日本政府は総理大臣、外務大臣、陸・海軍大臣、大蔵大臣でつくる「五相会議」で対応を協議しますが、当時の陸軍大臣・板垣征四郎は、神武天皇の「八紘を掩(おお)いて宇(いえ)となす」という言葉を引用し、「特定の民族を差別することは、神武天皇以来の建国の精神に反する」と言つて、ヒトラーの要請を断ったのです。日本は当時唯一、政府が反ユダヤに与しなかった国でした。イギリスやアメリカは、ポーランドを脱出したユダヤ人たちの船の寄港を許さず、乗っていた人たちが最終的にアウシュビッツ収容所に送られてしまったケースすらありました。あまり言われていないことですが、大量のユダヤ人の命を救ったことで知られる杉原千畝氏がいくらビザを出しても、日本政府が拒否したら日本には入国できなかったのです
 昭和十三年、シベリア鉄道で逃げてきたユダヤ人たちが満洲国の国境で足止めされたときに、当時の特務機関長だった樋口季一郎が関東軍参謀長だった東條英機を説得して入国を許可し、満鉄総裁だった松岡洋右が手配して上海租界まで彼らを運んだんです。樋口は終戦時の占守島の指揮官でソ連軍に痛撃を与えてスターリンから戦犯指定されますが、ユダヤ人たちの救出活動で助かっています
 不思議なことは、東京裁判でユダヤ人問題が取り上げられなかったことです。取り上げられていれば、東條が助けた、松岡が助けた、板垣が助けたとなつて、裁判にさえならなかったはずなのです
 台湾や朝鮮を植民地支配したと日本は批判されますが、日本は台湾や朝鮮から搾取する気などなく、後進国を自分たちの国と同じ水準に持っていこうと統治したのです。日本の統治時代を通じ、台湾でも韓国でも食糧事情や衛生環境は大幅に改善し、人口が急増したことはよく知られています。
 こうした事実を一切消し去って、「戦前の日本は悪くて暗黒だった」とするのが「曳かれ者史観」です占領軍も一時は「曳かれ者史観」に乗りましたが、ソ連や中国共産党政府との冷戦で緊張が高まると、「日本を共産主義にするのか」とアメリカ本国から批判され、逆に曳かれ着たちを抑えにかかります。しかし、昭和二十七年に日本が独立するとその占領軍もいなくなり、曳かれ者の多くはそのまま居座ってしまい、その影響力が今日にまで続いてきたのです


■マッカーサー証言を隠蔽するのは誰だ

 この「曳かれ者史観」を一撃で退治できるのが、一九五一(昭和二十六)年五月三日の米上院軍事外交合同委員会におけるマッカーサーの証言です。彼は「日本が戦争に駆り立てられたのは、主に安全保障上の理由からだった」と述べました。あの戦争は日本の侵略戦争ではなく、自衛戦争だったと断言したのです。日本を侵略国家として裁いた東京裁判を、その実質的な「主宰者」だったマッカーサー自身が、公の場で否定したわけです
 このニュースは、日本のどの新聞も報道しませんでした。私は、育鵬社の中学歴史教科書に、マッカーサーの証言を記載するよう頼んだことがあります。しかし、文科省の教科書調査官から「これを記述すると教科書検定は通りません」と言われて記載できませんでした。これは調査官の個人的な判断とは思えません。今でも「この前の戦争は日本が勝手に起こした侵略戦争だと子供たちに教え続けろ」と命令している政治権力があるということです。
 マッカーサー証言を広めることができれば、「石油を止められて、シナ大陸でテロをやられ、日本は立ち上がるしかなかったのだ」という本当の歴史を日本人は取り戻すことができます。子供たちも「俺たちの国は悪い国ではなかったんだ」と上を向くことができる。それを阻んでいるのは誰なのか。是非国会で調べてほしいと思います





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