日本の歴史:読む年表より その1



 渡部昇一氏の名著[日本の歴史]から個人の好みで抜粋しました。学校で習った日本史が如何につまらないものだったのか、思い知らされました。GHQにより、奪われた日本の歴史について多くを語っています。是非、山本七平[日本人とは]とあわせ原文をお読み下さいますよう。
 GHQが抹殺した日本史の真実については[GHQ検閲T][GHQ検閲U][GHQ検閲V]を参照下さい。



■大和平定 紀元前660年
 平和宣言「八紘一宇」による日本建国−天孫系と出雲系の合体。
 神武天皇は大和を平定して橿原に都を開き、この地で即位式を行った。これが檀原神宮(奈良県)のもとであるが、そのときにこういうことを言っている。
 「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩(おお)いて宇となさん。また可(よ)からずや」
 この八紘というのは「天の下」という意味で、六合は「国のうち」である。ここから「八紘一宇」という言葉が生まれた。これは、「世界を一つの家とする」ということである。
 戦後は、この「八紘一宇」は、日本の侵略戦争を正当化した言柴として批判されるが、もともとは決してそんな意味ではない。『日本書紀』の原文を読めばわかるように、これは即位式に集まったもろもろの氏族に対しで、「これからは国じゅう一軒の家のように仲よくしていこう」という、長い戦争のあとの平和宣言なのである。
 そしてまた神武天皇は、事代主神と玉櫛媛の娘である媛蹈鞴五十鈴媛命と結婚して正式の妻にした。事代主神というのは大物主神(大国主)の子で、素箋鳴尊の孫にあたる。天孫系の天照大神の子孫である神武天皇が、出雲系の素箋鴨尊の曾孫にあたる娘と結婚したということは、大和朝廷と出雲国とが完全に和解したことの象徴ととらえてもいいだろう。(というより、素箋鴨尊と姉天照大~の血筋である。だから争うようなことはなかった。)
 戦後は、天照大神の天孫糸と素箋峨尊の出雲系があたかも別の国のように争ったようにも言われたが、天孫族も川雲族も姉弟が神々の孫であり、同族である。一族同士のなかで別々の土地に移り住み、交渉があったと考えるほうが適切だろう。
(⇒[日本の建国][国旗国歌])



■ユダヤ人を救った神武天皇の詔
 大和を平定した神武天皇は、都を橿原に開き、この地で即位式を行った。これが橿原神宮(奈良県)のもとであるが、そのときにこういうことを言っておられる。
 「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩いて宇となさん。また可からずや」
 これによって戦時中の日本が多くのユダヤ人を救ったことを忘れてはならない。
 戦時中、日本とドイツは同盟関係にあったから、ドイツは日本に対してユダヤ人迫害政策に協力することを再三申し入れてきた。大切な同盟国からの要求だから、日本政府もこの間題を議論した。
 首相、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、大蔵大臣の五閣僚による、内閣のいちばん重要な会議であった五相会議が開かれたが、その席上、時の陸軍大臣板垣征四郎が、「神武天皇がこの国を開かれたとき、天皇は“八紘を掩いて宇となさん”と仰せられた。ユダヤ人を迫害するのは神武天皇のお言葉に反する」と発言した。これによって、日本はドイツの協力要請を斥けたのである。
 これは日本の国是になった。だから、のちにユダヤ人を助ける杉原千畝のような外交官も出てきたし、満蒙国境を越え、あるいはシベリア鉄道で逃げてきた大勢のユダヤ人を助けた樋口季一郎少将のような軍人もいた。敦賀港や舞鶴港では多くのユダヤ人難民を何度も受け入れ、「人道の港」と呼ばれた。これは、そもそも日本政府がユダヤ人を迫害しないと決めたからである。
 神話だといってバカにしてはならない。二千六百年前に即位した初代天皇の言葉が生きていたのである。
 私はこの事実を東京裁判で訴えるべきだつたと思う。戦争中に国の方針としてユダヤ人を迫害しないと決めた日本のような国はほかになかったのだし、A級戦犯とされた東條英機や板垣征四郎もユダヤ人を助けているのである。それを東京裁判のときに世界に宣伝するセンスが弁護団にあったら、世界中のユダヤ人から東京裁判反対の声があがったのではないか。何しろ、ユダヤ人を大量虐殺したナチスを裁くニュールンベルク裁判の正反対なのだから。そうすれば、東京裁判は中止された可能性もあったのではないかと私は想像する。
 日本の神話はこうして二千六百年も日本の歴史に生きていたのだ。そして、「神武東征」のエピソードに登場する橿原神宮や竜山神社など、日本の神社が神話時代から続いている ことからもわかるように、日本の現在の文化的遺産、つまり古代文化は、エジプトのピラミッドや古代ギリシャの神殿のような単なる遺跡ではなく、現在もなお生きている。つまり「生きもの」であることがその特徴なのである。

 ■中国のシンドラーだって? [WiLL 5月号より抜粋]
 りトアニア駐在の外交官・杉原千畝が、特別ビザを発給して六人をナチスの迫害から救った話は、「日本のシンドラー」としてよく知られている。
 くらべて、杉原よりも二年前(一九三八年)、満州に逃れて来たユダヤ難民に「命のビザ」を与えて救った軍人・樋口季一郎(ハルビン特務機関長)の業績はもうーつ知られていない。
 樋口はこの救済を独断専行した。日独防共協定を結ぶナチスからの抗議で、樋口に出頭命令が下る。樋口は東條英機(関東軍参謀長)に言う。「ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめをしていいのか」と。東條の承諾を得た樋口は松岡洋右(満鉄総裁)を動かし、ユダヤ難民を上海へ輸送する。この「ヒグチ・ルート」は後々まで続き、これによって救われたユダヤ人は杉原のそれに匹敵する。
 この一件から九カ月後、度重なるナチスの抗謙に、廟堂は五相会議(首相、蔵相、外相、陸相、海相)を開いて協議。結果、「ユダヤ人を公正に扱い、排斥してはならぬ」とする国策(ユダヤ人対策要綱)を決定した。五相会議に先立ち、上海から逃れて神戸に結成されたユダヤ人コミュニティに事情聴取した。
 ユダヤの古老が言う。
「我々ユダヤ人はアジア人。日本人もアジア人。ヒトラーは我々の次に日本人を迫害するでしょう」
 のちに樋口は北方軍司令官に転じ、キスカ撤退作戦(五千人の将兵を救出)や占守島の戦いを指揮する。終戦から二日後の八月十七日、ソ連軍は占守島に攻め寄せる。樋口は「断固、反撃」を命じ、ソ連軍は日本側を上回る死傷者を出した。占守島の敢闘がなければ、ソ連は北海道に上陸、日本は分断国家になっていた。
 戦後、ソ連は樋口を戦犯として引き渡せと要求した。これを阻止したのは、かつて樋口に救われたユダヤ人らの画策による。杉原が「命のビザ」を発給したとき(一九四〇年)、すでに日本は「ユダヤ人救済」を国策として決定していた。その国策に沿って杉原はビザを発給した。くらべて樋口の場合は独断専行、自己の一存で「ユダヤ人救済」を始めた。
 なのに、樋口の「ユダヤ人救済」はあまり知られていない。樋口を顕彰すれば、東條英機や松岡洋右にも及ぶ。それが嫌だから樋口の業績は伏せられているフシがある。
 樋口の業練や人物については、早坂隆著『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎」に詳しい。
 さて、本稿のキモはここからだ。
 昨年十月、中国が申請した「南京虐殺」に関する資料がユネスコの「記憶遺産」に登録されて大問題となった。中国は新たに「上海ユダヤ難民資料」の登録申請を準備していると報じられている。
 これは樋口や杉原の功績を、中国が掠め取ろうというトンデモナイ話だ。中国には「上海ユダヤ人難民記念館」があって、杉原を「日本のシンドラー」として紹介するコーナーもあった。ところが昨年九月、「抗日戦争勝利記念日」を機に、杉原に関する展示は大半が撤去された。代わりに、日本が上海北部の日本人居留地に設置した「無国籍難民隔離区」において、「日本軍がユダヤ難民に残虐行為をおこなった」とする展示内容にした。
 むろん、これは虚構・悪質な宣伝でしかない。この「隔離区」は、一九四二年にドイツが「最終解決」と称してユダヤ難民の虐殺を迫って来た際、日本軍がこれを拒否し、その翌年に設けたもので、日本軍はここでユダヤ難民を保護した。
 中国は日本を貶めるだけでなく、何鳳山という人物を「中国のシンドラI」と称して宣伝している。何鳳山は戦時中、国民党政権のウィーン総領事で、共産党政権とは何の関係もない。そもそも当時の上海に流入したユダヤ難民に対して、最も多くのビザを発給したのは日本だ。なかにはヒグチ・ビザやスギハラ・ビザを手にして辿り着いた難民が多い。
 それを中国の手柄のように宣伝されるのは黙っていられない。杉原や樋口の功績が掠め取られるような歴史戦のなかに、いま日本は置かれている。反論すべき点は反論しないといけない……。
 またぞろ始めた中国の捏造を、外務省は知っているのか。まずは「隔離区」を設けた日本人居留他の生き残りや家族を探せ。何鳳山なる人物がユダヤ人に何枚のビザを書いたか、何人が国境を越えたか、ウィーンで取材せよ。
 例によって愚図愚図していると、南京、慰安婦の二の舞なる。国費を頂戴する身なら、少しは国のために働け


■仏教伝来 552年
 仏教が伝来したのは、第二十九代欽明天皇の十三年(552年)のこととされる。実際には北九州など大陸との交通が多かった地域や、帰化人のあいだでは、それ以前から仏教はある程度広まっていたと考えられるが、この年、百済の聖明王から仏像と経典が献上されて仏教の正式渡来ということになったのである。
 このとき欽明天皇に仏像を祀ることを強く勧めたのは朝鮮半島と関係の深い武内宿禰の子孫蘇我氏の稲目であった。これに対して、神武天皇以来の氏族である大伴・物部・中臣氏らの国粋派は、「外国の神を祀れば国つ神の怒りを招くことになりましょう」と猛反対する。
 そこで欽明天皇は蘇我稲目に仏像を下げ渡し、稲目は自分の屋敷のなかに寺を建て仏像を拝み始めたが、その年、疫病が大いに流行し、多くの死者を出した。これは外国の神を拝んだからだというので、物部・中臣両氏は仏像を奪い、寺を焼き払った。
 しかし、蘇我稲目のである堅塩媛の産んだ長男、第三十一代用明天皇は、初めて仏教を信じるようになった天皇である。考えようによっては、天皇が外国の宗教を信じはじめたというのは大変なことで、一種の革命のようなものである。にもかかわらず、当時もいまも、日本人はこれを問題とはせず、それどころか用明天皇に無関心でさえある。これはどういうことだろうか。
 当時の仏教というのは護国、つまり国を護るのに役立つというイメージでとらえられていたようである。それはたとえば、「明治天皇は西洋の憲法を参考にしようと考えられた」と言っても、別にどうということはないのと似たようなものだったと思われる。極言すれば、宗教というよりは、新しい学説を導入したという感じに近いのではないか。
 『日本書紀』には、用明天皇は「仏の法を信じられ、神の道を尊ばれた」とある。仏教も信じたけれども神道も尊んだということだが、「法」と「道」とでは、やはり「道」が優先されるはずである。そして仏のいいところは信じょうとした。この神と仏の共存は以後、日本の伝統となる。



■公地公民制の施行 646年
 失敗に終わった私有財産廃止と土地国有化。
 蘇我蝦夷・入鹿が討たれた、時の天皇(女帝)皇極大皇の四年を大化元年とし、翌二年、「改新の詔」が出され、「大化の改新」(⇒[大化改新はヤマト(ヤハウエの民)の復活])が始まった。この「大化」が日本初の元号と言われる。
 これによって日本は唐の法制の影響を受けた律令国家となり、その後に出された大宝律令(七〇一)、それを改めた養老律令(七一八)によって、一応の完成を見た。
 「改新の詔」には地方行政の整備なども含まれているが、その中心となるのは「公地公民制」であった。これは私有財産の廃止ということでもある。つまり、すべての土地と人民は公有化する、すなわち天皇に帰属するものとした。
 それ以前は、天皇も家族もそれぞれ私的に土地・人民を所有し、支配していた。「改新の詔」第一条はこれを禁止し、私地私民制から公地公民制への転換を宣言するものであった。ところが、この制度はうまくいかなかった。「公地公民制」の基本であり、律令制の根幹でもあった「班田収授法」は、天皇のものである公地を公民に貸し与えるという形をとった。そのために戸籍をつくり、細かい規定にしたがって農民に土地を分け与えたが、その土地は六年後には返還しなければならなかった。これは猛烈な反発を生んだようだ。
 農民は土地を大切にし、土地を肥やして多くの収穫をあげようとするものだからである。苦労して育てた田畑が六年後に取り上げられることがわかっていたら、熱心に畑を耕し、土地の改良などするわけがない。農業は社会主義ではうまくいかないようなのだ。奈良時代の七二三年には「三世一身法」が、二十年後には「墾田永年私財法」が出された。こうして結局、大化の改新の土地国有化は、およそ百年後には実質的に廃止されたことになる。
 とはいえ、いったんは豪族の土地もすべて公地化したのだから、旧来の豪族の勢力は衰退した。そして、律令制度による中央集権国家の官僚たちが、代わって力を持つようになった。彼らは自分たちやその一族に便宜をはかって土地を私有し、かつ広げるようになった。こうして新しい貴族たちが生まれ、中臣鎌足を始祖とする藤原氏が圧倒的に多くの土地を所有し、力を持った。



■『古事記』『日本書紀』成立 712年、720年
 日本人の歴史観を形づくった公平・良心的な史書。
 国史編纂を命じた天武天皇(在位六七二〜六八六)の遺志を継ぎ、息子の草壁皇子の后であった元明天皇が太安万侶に命じて、舎人(天皇・皇族の身の回りの世話をした役人)の稗田阿礼による口述を筆録・編纂させたのが『古事記』である。天武天皇の意図は、『古事記』にくわしく書いてあるとおり、天皇家の系図や古い伝承を保存することにあった。『古事記』は漢文ではなく、漢字を日本語の表音文字として用いているのに対し、八年ほど後、これも女帝である元正天皇が舎人親王を総裁にして編纂させた『日本書紀』は堂々たる漢文で書かれいる。これには帰化人も参加したと思われ、多くの編集員ができるだけの材料を集めて書いたものである。
 『日本書紀』が漢文で書かれたのは、シナ人など外国人に見せてもわかるように、また、シナに対しても恥ずかしくないものをつくろうという意図があったのだろう。とはいえ、シナの歴史書と大いに違うのは、第一巻で神代を扱っている点である。前漢の司馬遷は『史記』を書いたとき、神話・伝説の類を切り捨てる態度で歴史に臨んだ。
 日本ではわざわざ神代巻をつくり、しかも、一つの話には多くの、バリエーションが伝承されていることを認め、それをもすべて記録している。「一書ニ曰ク」という形で、ある本にはこう書いてある、またある本ではこう言っていると、いろいろな部族のそれぞれの伝承を集めて、異説をズラリと並べているのである。こんな書き方はほかに例がない。現代においてすら、これほど客観性を重視した歴史書を持たない国はいくらでもある。
 それに対してシナでは王朝が何度も替わってしまっているので、古代の伝承そのものに対して司馬遷自身の愛着がなかったのではないかとも思われる。
 『古事記』『日本書紀』は先の敗戦まで日本人の歴史観の根底をなしていた。現代において神話を事実と考える人はいないだろうが、しかし、それを信じた人たちが日本を動かしてきたのだということはしっかり認識しておくべきであろう。いにしえのことをいにしえの目で見ようという姿勢を忘れてはならない。



東大寺大仏建立 752年
 民衆がボランティアで参加した国家的プロジェクト。
 和銅三年(七一〇)に藤原京から平城京への遷都があり、第四十四代元正天皇を経て、聖武天皇が神亀元年(七二四)に即位する。
 だが、聖武天皇は仏事に専念することを望んで娘の孝謙天皇に譲位して隠居し、日本各国に七重の塔を持つ国分寺と国分尼寺を建て、かつ東大寺を建造するという大事業を行った。
 そもそも聖武天皇が在位していた八世紀前半に文化の光を浴び、建築や彫刻の美を輝かせていたのはバグダードに都したサラセン国、インドの戒日王朝、そして長安に都していた唐であり、なかでも唐の輝きが最も強かった。
 その時代にあって、東の小さな島の天皇が唐にも天竺にもない大寺院を造ろうと決心したのみならず、それを実現してみせたのである。当時としではまことに壮大な事業であり、これには朝鮮やシナからだけでなく、インドのバラモンやトルコ人まで参加したのである。
 そして東大寺大仏殿は、聖武天皇がめざしたとおり、まさに「三国一の大伽藍」であり、当時では文句なく世界最大の木造建築である。唐にもインドにもこれ以上の規模を持つものはなかった。また、そこに安置されている「奈良の大仏」も、鋳造された仏像としては世界最大のものである。
 しかし、この大仏造営の意義は、その事業の規模にあるのではない。聖武天皇は「大仏造営の詔」で次のような主旨のことを民に呼びかけている。
 自分は天皇であるから、天下の富も力も、すべて自分が有している。だから、自分だけで大仏像を建てることもできる。しかし、そうではなくて仏と縁を結ぶ者が集まって協力して、一枝の草、一握りの土でもいいから資材を持ち寄ってみんなで建設しようではないか−−−。



万葉集の成立 7世紀後半〜8世紀前半
 「歌の前に万人平等」だった「言霊」の栄える国。
 山上憶良は、『万葉集』に収められた「好去好来の歌」で、日本という国を「鬼神の厳しき国」であり、「言霊の幸はふ国」であると定義している。これは神話の時代から王朝が絶えることなく続き、古代から歌があり、古代語で書かれた神話があるという意味である。
 『万葉集』の本質にかかわる大きな特徴は、作者が上は天皇から下は兵士、農民、遊女、乞食に至るまで各階層におよび、身分の差がまったく見られないことである。もちろん、男女の差別もない。地域も東国、北陸、九州の各地方を含んでいる。文字どおり国民的歌集なのである。その選ぶ基準は、純粋に「いい歌かどうか」ということだけであった。当時の観念から言えば、「言霊」が感じられるかどうかである。言霊さえ感じられれば身分は問わない。言い換えれば、日本人は「歌の前に平等」であった。
 ユダヤ=キリスト教圏においては「万人は神の前に平等である」という考え方が支配的である。教会でどれほど高い地位を占めようと、神の目から見れば法皇も奴隷も同じなのだ。またローマでは「法の前に平等である」というのを建前としていた。ローマ帝国は多くの異民族を含んでいたので、それをローマの忠実な市民とするためには公平に扱わなければならず、その基準を「法」におかねばならなかったのである。
 近代の欧米諸国では、だいたいこの二つの「平等」をよりどころにして人々は生きている。毎日の生活においては法の規範に頼り、死後は神の正義に頼るのである。
 ところが日本の万葉時代の人々は、言霊をあやつることについて、和歌の前に万人は平等だった。もっとも、「大宝律令」などを経て身分制度がやかましくなってくると、あまり身分の低い者や問題のある人物の名前を出すことをはばかって「読み人知らず」とするようになる。これは言霊思想と「和歌の前に平等」という意識が緩んできたということにほかならない。
 それでも、和歌の前に身分の上下はないという感覚はかすかながら生き残っていて、現在でも新年に皇居で行われる「歌会始」には誰でも参加できる。作品がよければ皇帝の招待を受けるというような優美な風習は世界中どこにもないであろう。



『源氏物語』成立 1001年
 『源氏物語』の作者の紫式部は、藤頼通長の長女彰子(一条天皇の皇后)に仕える女房であり、和泉式部も同僚であっで、彰子の周期には華麗な文芸サロンが形成されていた。言うまでもないことだが、『源氏物語』は一〇〇一年頃に書かれた世界最古の小説で、しかも女性の手によるものである。
 イタリアのボッカチオが書いた『デカメロン』(一三四八)などと比較しても、六百年も早いのである。女流小説家として考えると、いまも通用する小説家としては、やはり漱石がほめた『高慢と偏見』で知られるイギリスのジェーン・オーステインがいるが、これは八百年後のことである。
 英国の黄金期といわれるヴィクトリア朝時代の道徳心が緩んで、自由主義的な雰囲気が高まっでいた第一次大戦の前後に、インテリや芸術家たちの組織がロンドンに生じた。その仲間であったアーサー・ウェイリー(一八八九〜)が『源氏物語』の英訳『The Talk of Genji』を出版したが(一九二一〜三)、そのときのショックは大きかった。インテリたちは自分たちが世界でいちばん進んだ文化人であり、男女のつきあいを含めて最も洗練された生活をしていると思っていた。ところが、『源氏物語』を読んでみると、およそ千年前の日本で、自分たちよりも洗練された細やかな情緒をたたえながら男女が自由につきあっているというので驚愕し、その絢爛たる他界に圧倒されたのである。アメリカの代表的な日本学者であるドナルド・キーン氏は平安朝を「世界史上最高の文明」と絶賛した。
 紫式部は『源氏物語』を単にフィクションとしで書いただけではない。この物語のなかで紫式部は主人公の光源氏を通じて、フィクションというものは人間の生き方を『日本書紀』より忠実に示していると言わせているのである。そして、そういう空想でつくり上げた物語の実用的価値も、非常に大きいと言っている。これは実に先進的な文学論である。

※登録者
 紫式部は西洋に比べて千年も前に小説を書いた。太子は憲法を制定したが、成文法の制定は米国が初めてだった。ほかにも、世界初の辞書、当時世界最大の東大寺、世界初の小児科などなど数え上げればきりが無い。優れていたのは、なにも文学面だけでない。種子島に流れ着いた鉄砲を世界でトップクラスにまで磨き上げ、信長は長篠の合戦で西洋の百年も前に鉄砲の連射を行った。まさに天才である。西洋のキリスト教徒一体となった植民地支配という外圧を跳ね返すべく、秀吉は朝鮮を経由し明国へ攻め上ろうとした。そこでも明国と比較し、戦闘技術だけではなく、兵器もまた数段勝っていたのだ。
 江戸時代には、ニュートン同様の微分積分の基礎が発達しており、論理面では世界と肩を並べていた。また、西洋に先駆けて、日本は古代から政教分離の国家体制が実現されており、当時世界一の大都市江戸を中心に、これまた世界で初めて豊かな町民文化が花開いた。優れた科学知識があったのだが、これを工学面で発展させることは幕府から禁じられており、残念なことにせいぜいからくり人間までであった。それゆえ、日本に黒船が来たとき、日本人は非常に興味津々だった。黒船が蒸気で動いていると聞いただけで、独自に蒸気船を建造したくらいだ。岩倉使節団が米欧を訪問した当時、西洋の優秀な武器や軍艦は驚異ではあるが、それほど手の届かない技術ではないと日本人は感じていたのだ。日清日露戦争に勝利したことが、このことを証明している。

世界最古の百科辞書
 近ごろ東洋医学が見直されてきているが、これに関しても、平安時代の日本では貴重な文献がまとめられている。
 シナ大陸では古代から医学が発達していた。おそらく、いろいろな民族がさまざまな医療法を行っていたのであろう。とくに房内術、つまりセックスに関することも、仙人の伝説と絡んではなはだしく発達し、隋や唐の時代はそのピークであったことが知られている。しかし、このころの房内術の本はすべて失われ、一冊も伝わつていない。
 だが幸いに、奈良・平安時代にシナに渡った日本の留学生や、帰化人たちによって、多くの医学書が伝えられ、医家のあいだで書写されていたのである。やがて、こういろいろな医書が雑多にあるのでは不便であるというので、医術をもって朝廷に仕えていた丹波康頼が、これらを系続的にまとめて、『医心方』三十巻として第六十四代円融天皇に奉呈した。永観二年(九八四)のことである。
 これは、隋・唐時代のシナの医書約二百部からとったもので、まさに世界的な文献である。漢方医学といえば誰しもシナが本場だと考えるだろうが、それを長く伝えてきたのは日本なのである。幕末の安政七年(一八六〇)、西洋医学を学んだ蘭方医が急速に勢いを伸ばしてきたことに危機感を覚えた漢方医たちが、蘭方医に対抗するため、力を合わせてこの『医心方』を刊行した。
 これは明治三十七年(一九〇四)に日本医学叢書のなかに入れられて、改めて出版されたのだが、おもしろいことには、その印貝い手の多くは当時の清固からの留学生だったという。そして戦後の昭和三十年(一九五五)になってから、現在の北京政府の下で、北京人民衛生出版社が、安政に出た「安政版」を上下二巻に分けて、そのリプリント版を出版した。その後、香港などに行った日本人が、漢方はシナが本場だと思っているから、喜んで買って帰り、奥付を見たら「安政七年」と書いてあったという笑い話もある。
 これなども、日本によってのみ保存され得た古代大陸文化である。
 平安時代の書物となると、どうしても東宮学士(皇太子に経書を進講する役人)であった滋野貞主が第五十三代淳和天皇の命を受けてつくつた類書(一種の百科辞書)である『秘府略』一千巻に触れなくてはならない。
 これは天長八年(八三一)に完成して、現在、そのうち徳富蘇峰の文庫(巻八六四)と前田家の文庫(巻八六人)に現存しているが、これは世界で最古の百科辞書であることに間違いはない。
 シナでは宋の太宗のときに類書『太平御覧』一千巻がつくられたが、これは日本のものと同形式で、しかも日本より約百五十年遅れており、本当に全巻完成したかどうかについては、宋の時代からすでに論議のあるところであった。



足利義満の急死 1408年
 息子を皇位につけるという静作東肝の郵ては「天佑神肋」によって阻まれた。
 室町幕府においては公家と幕府の差は曖昧になった。というのは義満自は武家の棟梁であると同時に公家の支配者にもなろうと考えた。南朝の残党を神社仏閣詣でと莫大な寄附で味方につけたのとは対照的に、公家に対しては、義満は高圧的な態度で臨んだ。身分も気位も高いが、武力のない公家は義満を恐れること鼠が猫を恐れるが如くであった。
 さらに義満は自分の子を天皇にして、自らは太上天皇になろうという野心を抱いた。まず、後小松天皇の生母が重い病気にかかり、命があやぶまれたときに、その代わりとして自分の妻を天皇の母、つまり「准母」(「国母」の代わり)にした。義満自身は「大皇の母の夫」ということになり、それはとりもなおさず太上天皇ということになる。そして、義満はついに一線を越え、溺愛する容姿端麗な息子義嗣を天皇にしようとした。
 義嗣は天皇の養子になり、以後「若宮」(幼少の皇子)と呼ばれるのである。天皇の養子であるから、当然、後小松天皇の後に義嗣が即位してもおかしくなかった。それを止める力は皇室にも公家にも武士にもなかったのである。
 ところが、ここで不思議なことが起こった。義嗣が親王と同様の儀式を行って元服した翌々日、義満が急に咳き込み、発病し十日たらずで死んだのである。いずれにしろ、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、実現せずに終わったのである。
 平清盛が熱病で死んだのも天罰であると言われたくらいであるが、その清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした義満の急死にいたっては、「天佑神助」(夫と神の助け)と言う人があってもおかしくない。



■比叡山焼き討ち 1571年
 信長は、明智光秀の仲介によって接近してきた足利義昭を将軍に奉じて上洛し、わずか十数日で畿内をほとんど平定した。やがて義昭と信長の仲が悪化し、信長は義昭を京都から追放する。これで事実上、足利幕府は滅亡したことになる。足利時代の終わりを象徴するかのように、信長は公家や朝廷に働きかけて元号を「天正」と変えた(一五七三年)。
 しかし、改元前の一五七〇の時点では、反信長勢力である近江の浅井長政、越前の朝倉義景の連合軍が京都に入り、比叡山延暦寺に立てこもる。信長は比叡山に対し、浅井・朝倉の引き渡しを要求するが、比叡山は断固として抑絶した。そのうち六角義賢が甲賀から兵を挙げ、本願寺門徒衆は近江の通路を寒いで、信長の本拠地尾張との交通を断った。伊勢長島一向一揆で、信長の弟信興も自害してしまう。信長は非常に危ない状況にあった。
 信長は正親町天皇の勅命を請い、浅井・朝倉、本願寺といったん講和を結ぶ。そして翌元亀二年、信長は浅井長政の居城となっていた小谷城を攻め、次いで「比叡山焼き討ち」を行った。信長は比叡山の建物すべてを焼き払った。この出来事に対して、江戸中期の儒学者新井白石などは『読史余論』で「比叡山の兇悪を除いたのは大きな功績であった」と評価しでいる。
 世界史的に見て私がおもしろいと思うのは、東の果ての島国の日本と、西の外れの島国イギリスが、ほぼ同じ時期に徹底的な中世破壊を行っていることだ。
 信長は中世のシンボルである比叡山を焼き討ちしたが、イギリスではヘンリー八世が中世以来のカトリックの大修道院をことごとく破壊して、いわゆる宗教改革を行っている。同じ頃に同じようなことが起こり、両国共に中世が終わった。
 天正元年(一五七三)、信長は続けて桟井・朝倉を討ったが、越前の一向一揆が蜂起して信長に降った朝倉の一族の者を滅ぼし、越前は本願寺一向宗徒に占領された。信長は大軍を越前に送り込み、比叡山同様、徹底的な殺戮を行った。こうしてさしもの「一向一揆」も終焉を迎えた。



長篠の戦い 1575年
 長篠の戦いで最も画期的だったのは馬防柵を築いたことだった。その後ろに数千の鉄砲隊を置いて、次から次へ撃てるような工夫をしたのである。しかも馬防柵とのあいだにスペースがあって、そこから槍隊がいつでも飛び出せるようにした。この攻撃を受けて、馬場、山縣、内藤をはじめ武田のおもだった武将は全員、戦死した。武田軍は総崩れとなり、勝頼は甲斐に逃げ戻った。
 信長が考えたこの作戦は非常に画期的かつ近代的なものである。馬防柵で敵を抑えながら一斉射撃を行ったのは、西洋ではハプスブルクの軍隊がオスマントルコ軍を破ったときが最初だった。これは一六九一年、つまり長篠の戦いから百十六年後のことである。信長は鉄砲の本場であるヨーロッパより一世紀以上も先んじていた。まさに大才であった。



秀吉、明の国使をを追い返す 1596年
 朝鮮における戦いで秀吉は負けたとは思っていないから、明との和平交渉に際して七力条の講和条件を考えた。なかで重要なのは、明の皇女を日本の天皇に差し出すこと、足利時代の勘合貿易のような通商を行うこと、京城附近の南部四道を日本に譲ること−−−この三つだった。
 明では、要するに秀吉を日本の王に封ずればいいのだろうくらいにしか考えていない。そのうえ、仲介する人物が皇帝の怒りを怖れて秀吉の条件を明に伝えない。明の考えも秀吉に伝わらない。そんな状態で両方とも講和しょうとしているのである。
 明から下交渉のための使いがきたので、秀吉は厚くもてなしたが、日本側通訳の景轍玄蘇は明の朝廷に対しては「平和になったら日本は明の属国になる」とか、「明の先鋒になってタタールを討つでしょう」などと秀吉が聞いたら怒り狂うようなことを言う。ところが、明や朝鮮からの使節は秀吉が出した講和条件七力条を知っでいる。しかし、明に報告はしない。「こんな条件を突きつけられて帰ってくるバカがあるか」と叱られるから、報告できないのである。
 やがて小西如安という大名が文禄三年に使者として北京に赴き、大歓迎をうけた。如安が交渉したときの文書に「小敵日本、封を求む」という言葉があるから、明としては秀吉を日本本国王に封ずるつもりになった。
 明の朝廷は「天皇という存在があるのになぜ秀吉は国王の地位を求めるのか」ともっともな質問をした。これに対しては、「天皇と国王は同じです。信長が天皇を殺してしまったので、新しく秀吉を立てて国王にするのが国民の望みです」と、これまた無茶苦茶なことを言っている。属国意識の染みついた官僚たちの言動ほ、まるで今日の姿を見るようである。明は「それならよかろう」と、正式な講和の使者を送ることにした。
 秀吉は華美を極めた壮麗な伏見城で迎え、一大軍事パレードを行って明の使者を驚かそうとしていた。ところが、大地震が起きて伏見城は大天守まで崩壊してしまったので、秀吉は比較的被害の少なかった大坂城で明の使者を迎えることになった。明の正使は李宗城であったが、日本は使節の首を斬るつもりだという噂を聞いて李は恐ろしくなり、釜山から逃げ出してしまった。そこで副使の楊方亨が正使となり、沈惟敬は参事官のような形でこれに加わっていた。
 使者は封冊(天子の下す任命書)と金印、べん服(位の高い人の礼装川の冠と衣服)を献上していた。秀吉はべん服を身につけて使者を引見し、僧承に封冊を読ませた。
 小西行長は、前もって「封冊には沈惟敬の言っていることと違うことが書いてあるかも知れませんが、そういうところは読まずに隠してください」と、頼んでおいた。しかし、僧承はかまわず読み上げた。「ここにとくに爾(なんじ)を封じて日本国土と為す」。
 それを聞いて、秀吉は烈火のごとく怒り、明が献上した冠と衣服を脱ぎ捨てると、「国王になど明の小せがれに任じてもらわなくともいつでもなれる。そもそも日本には天皇がおわすことを知らぬのか」と一喝した。そして明の使いを追い返し、秀吉は朝鮮征伐を命じるのである。
   ⇒[日本人奴隷化を拒絶した秀吉][秀吉の朝鮮出兵の目的]参照



■『大日本史』編纂開始 1657年
 完成までに二百五十年を要した世界に誇るべき史書。
 水戸(徳川)光圀の『大日本史』は、その編纂が開始されてから二百年後の幕末尊王思想に大きな影響を与えた史書である。
 光囲は江戸の別邸を「彰考館」と称し、本格的に『大日本史』の編纂に着手した。公の日本正史は奈良平安時代の『日本書紀』以下『日本三代実録』までの「六国史」しかない。その後書かれたものは、どれも個人が勝手に書いたようなものである。そこで、『大日本史』の主旨は孔子の『春秋』のごとく、正しいものと間違ったものを分けることにあった。日本中から学者を集め、天下の副将軍の威光をもって全国の神社や寺にあるさまざまな文書を閲覧し、編纂を開始した。
 『大日本史』には有名な三つの特色がある。一つは神功七后を歴代の天皇に数えずに皇后としたこと。次に、大友皇子を天皇と見なしたこと。もう一つは南北朝のうち南朝の後醍醐天皇家を正統としたこと。
 光圀が元禄十三年(一七〇〇)に亡くなった後も、水戸藩は綿々と編纂を続け、文化七年(一八一〇)には二十六巻を朝廷に献じ、幕末には水戸斉昭が補完して朝廷と幕府に献じでいる。最終的に完成したのは明治三十九年(一九〇六)、日露戦争の翌年だった。全百二巻、完成までに要した期間はなんと二百五十年。これだけの時間を費やして完成したこの歴史書は世界に誇るべきものだ。
 その影響は非常に大きく、しかも光圀は諸侯の尊敬を集めていたから、幕末において尾張の徳川慶勝は「もしも事が起こつたら尾張家は官軍になる、楠木止成が金剛山千早城に立てこもったようにわれわれは木曽に立てこもる」と言った。本家の徳川幕府をあたかも北条幕府か足利幕府になぞらえたようなことを言う徳川家兄弟の大名まで出てきたから、将軍慶喜も謹慎して朝廷とは戦わなかったのである。



■頼山陽『日本外史』を定信に献上 1827年
 日本中の青年たちを感動させ、維新の原動力となった史書。
 幕末に生じた尊皇思想のなかで、最も影響力のあった同時代の歴史家が頼山陽だった。山陽は朱子学者頼春水の息子で、漢文の素養も申し分なかった、が、日本の歴史書が好きで、若い頃から『日本外史』を書きはじめていた。文章が桁外れにうまく、史書といっても講談のようなものだから、そのおもしろさは比類がなかった。松平定信が噂を聞いて読んでみたいと言い出した。山陽は、源氏と平氏が興ったところから徳川政権の始まる前までのさしさわりのない部分だけを定信に献上した。
 定信に献上した二年後に発刊された全二十二巻の内容は、平家の勃興から徳川十二代将軍家慶にわたり、最後の文章は、「源氏、足利以来、軍職にありて太政大臣の官を兼ねる者は、独り公〔家慶〕のみ。蓋し武門の天下を平治すること、是に至りてその盛を極む」で終わっている。幕末の志士たちは、「武門の盛りの極」とは「皇室の衰微の極」であると解釈して憤激したのである。徳川幕府を一言も批判せずに、しかも尊皇の志士を奮起させた山陽の天才、ここに見るべきである。この『日本外史』は幕末から明治にかけて非常によく読まれた。
 次に頼山陽は『日本政記』を書く。この歴史書は神武天皇から始まる天皇家を中心に第一〇七代後陽成天皇の時代まで、つまり秀吉の第二次朝鮮出兵(慶長の役)の終結までを取り上げたものだが、実にコンパクトにまとめ、明快に書いてある。
 維新の志士の中で頼山陽を読まなかった者はいなかったほど、その影響力たるや大変なものであった。木戸孝允も伊藤博文も影響を受けたから、結局、大東亜戦争までの日本の歴史は頼山陽の『日本外史』と『日本政記』が大筋になっていると考えて間違いないと思う。



戊辰戦争 1868年
 天下の大乱を回避させた徳川光圀以来の尊皇思想。
 新政府軍と徳川方旧幕府軍のあいだで起きた鳥称・伏見の戦い(戊応戦争の始まり)においては、旧幕府勢の兵力およそ一万五千、それに対して薩摩・長州を主力とする新政府軍は約五千。ところが、薩長側が「錦の御旗」を押し立てたことが大きかった。これが昔から天皇を奉じる「官軍」の旗印とされていたことは幕末の日本人なら楠木政茂の活躍などを描いた軍記物語『太平記』でよく知っていたから、幕府軍は大いに上気を殺がれ、徳川慶喜も戦意を失った。
 慶喜は水戸の出身であり、光國以来の尊皇的な思想が強く、「官軍」と戦うことを好まなかった。そして江戸に戻ってからは恭順して戦争をしないと決める。このことは日本にとって幸せなことだった。あのときもし慶喜が断固戦うと宣言していたら、大きな内乱が起こり、勝敗もどうなっていたかわからない。というのは、薩長方には軍艦がほとんどく、幕府は開陽丸をはじめ、何隻もの軍艦を持っていたからだ。
 フランスは幕府を援助すると言っていたから、フランスが幕府側につけば薩長にはイギリスが味方する。すると英仏を巻き込んで、どんな戦争になり、どういう結末になったかわからない。
 天下を二分する内乱を避けることができたのは慶喜の功績だが、それは徳川光國にさかのぼる。光國の勤皇思想が幕末の日本を救うことにもなったのである。維新の元勲たちはそのへんをわかっでいたから、まもなく慶喜は晩年には公爵に列せられた。慶喜が隠退した時、円安家から養子に迎えた家達は、後に貴族院議長になった。第一次大戦後のワシントン軍縮会議では全権委員であった。明治維新が西洋やシナのような「革命」でなかったことは、この一例でもよくわかる。
 さらに、大正天皇のお后である貞明皇后が、秩父宮親王に旧会津藩から勢津子妃を迎えたのをはじめ、昭和天皇以外の弟君にもすべて朝敵の側から嫁を迎えるように収り計られた。こうしたことによって、維新の時の嘲幕の戦いの傷は完全に消えたと言ってよい。



■岩倉米欧使節団の派遣 1871年
 白人に屈しなかったアジア唯一の国。
 明治政府の指導者たちがはたと気づいたのは、いざ幕府を倒し、「天皇親政」がなったあと、どのような国家をつくるべきかというビジョンを誰も持っていないという事実であった。
 そこで考えついたのは、岩倉具視を団長とする欧米使節団の派遣(明治四〜六年)という画期的なアイデアであった。不平等条約改正の予備交渉が目的であり、大事なのは、政府の指導者(石倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文)みずからが新しい政策を立てるために先進国を回ったということである。一年十ヶ月もかけて、米・英・仏・独など全部で十二カ国を回っでいる。こんなことは他界史上、例がない。これだけの指導者たちが二年近くも留守にしていたら、その間に、どんな政変が起こるか分からないからだ。にもかかわらず、あえて海を渡ったのは、「ヨーロッパの文明は、実際にこの目で見なくてはわからない」という強い意思によるものだったろう。
 そして、岩倉使節団の山行が「見た」のは、サンフランシスコからワシントンに向かう大陸横断鉄道や、石畳で舗装されたロンドンやパリの道路であった。さらに、立派な道路の両側には、江戸城よりも高い石造りの建物がずらりと並んでいる。聞けば、そこには庶民が住んでいるという。彼らは近代文明の力と結に比例された。
 こうした経験のおかげで大久保や木戸らも腹を折ったのである。「もう士農工商などと言っていてはどうにもならない。工と商をまず振興しなければ欧米諸国の富に敵わない。富なしに強大な武力を持った近代国家にはなれない」という覚悟が自然と生まれた。そのためには徹底した欧化政策をとる以外に道はないという結論に至るのである。このような腹の括り方をした有色人種の国は日本以外になかった。
 だから、これ以降の新政府の施策を見ると、まったく欧化政策に躊躇がない。廃藩置県(明治四年)のみならず、廃刀令(明約九年)などによって士族の特権をまったくゼロにしたのも、また、当時としては途方もない借金をしてでも商工業に投資するという決断をしたのも、この使節団の体験なくしては考えられないのである。



教育勅語発布 1890年(明治23年)
 二重法制国家における実質的な憲法。(⇒[教育勅語の口語文訳])
 明治憲法は文明国の体裁を整えるための借り着″にすぎないとはいっても、国家を運営するにあたって、その国体″に適った基本理念がなければ、それは単なる「烏合の衆」のようなものであり、国家とは呼べない。明治憲法だけでは、やや不十分で、憲法発布の翌年、明治二十三年に教育勅語がつくられた。
 戦前の義務教育では、明治憲法のことをほとんど教えなかったが、そのかわり、子供たちに徹底的に教育勅語を暗記させた。また、入学式や卒業式や式(元旦、紀元節、天長節、明治節)などでは必ず校長が教育勅語を読み上げた。それは教育勅語のはうが、実際の「憲法」であったからだと考えれば分かりやすい。日本という国の体質、つまり国体に合っていたのである。教育勅語は明治憲法のような法律の体をなしていない。大臣の副署もないから、明らかに法律ではない。書いてあるのは理念だけだが、「憲法」は本来、同家としての理念を示すのが目的であって、実際の運用は法律に任せればいいのだから、それでもかまわないのだ。
 教育勅語がまず説くのは、日本人の伝統的な倫理観である。つまり、万世一系の皇室の尊さを述べ、それから「親を大事にせよ」とか「友人や配偶者と仲よくせよ」、「身を謹んで学業に励め」、「人格を修養せよ」というようなことである。このような個人的道徳を並べたのちに、勅語は「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」と言う。
 教育勅語の中で最も重要なこのくだりを読んで、「やはり教育勅語は帝国主義的だ」と思う人もいよう。昭和になってから、教育勅語の中の「天壌撫窮ノ皇運」とか「億兆心ヲ一ニシテ」という部分が強調されるようになったのは事実であるが、それは勅語本来の精神とは別問題である。感覚としでは、「徳川家や大名である主家に対して忠誠を尽くしていた時代は終わった。これからは国家に忠誠を尽くせ」ということを言いたかったのである。
 こうして見ていくと、明治の日本は明治憲法と教育勅語の「二重法制」の国であったということもできる。形式としては明治憲法を日本の法体系の頂点に置くが、実際には教育勅語の精神で国家を統治するというのが、明治政府の本音であった。
 現代人の感覚からすると、二重法制は異常な状態のように思われるかもしれないが、律令と式目の関係をみればわかるように、日本は実はすでに長きにわたって二重法制国家だった。憲法と勅語の両立体制は、貞永式目(御成敗式目)以来、六百五十年におよぶ日本の伝統なのである。憲法上に規定のない首相や.元老制を設置しても誰も文句を言わなかったのは、そうした感覚が日本人の中にあったからだと思われる。



下関条約により韓国独立 1895年(明治28年)
 日清戦争の終結後、明治二十八年に下関で開かれた講和会議では、人きく分けて、@朝鮮の独立承認、A遼東半島・台湾島の割譲、C軍費賠償金二億両の支払い、の三点が決まった。
 この下関条約によって、大韓帝国が成立する。朝鮮半島において「帝国」という名がついた独立国家が生まれ、朝鮮に皇帝が誕生するのは、史上初めてのことであった。
 東アジアの漢字文化圏において、「王」と「帝」とでは、まったくその意味が違う。秦の始皇帝以来、シナの中華思想では、「皇帝」は天下にただ一人、全世界を統治するシナの皇帝のみであって、シナ以外の土地を治める「国王」はみな皇帝の臣下であるというのがその建前である。唯一の例外が、天皇を戴く日本であった。
 こうした中華思想には、当然ながら「外国との貿易」という発想もない。だから、清朝のころにイギリスなどの西洋諸国から外交使節が訪れたときも、臣下の礼をとらねば皇帝に会うことができず、そのため、アヘン戦争で清朝が負けるまでは、シナとの貿易はすべて朝貢貿易の形をとった。
 シナと国境を接する朝鮮にとっては、シナの属国となるしか生き残る道はなかった。李氏朝鮮の太祖・李成桂は元来、高麗の将軍であったが、一三九二年から高麗王の位を奪い、明の太祖(洪武将)より朝鮮王と名乗ることを許されたのである。
 日本だけが首長は天皇、あるいは日本皇帝と名乗った。聖徳太子が惰の国に最初の使者(小野妹子)を送ったとき、その国書に「天子」「東天皇」という言葉を使ったという話は、あまりにも有名である。その文言を見で、隋の暢帝が「悦ばず」、すなわち腹を立てたという記録も残っている。
 ところが日清戦争で日本が勝ち、朝鮮が独立したため、朝鮮民族始まって以来はじめて「大韓帝国」と称し、国王も皇帝と称することができた。その事実は、韓国の独立を象徴的に表現しているのである。



北里柴三郎がノーベル賞候補に 1896年
 徳川幕府や明治政府が多数の留学生を海外に出したことは特筆すべきであろう。十九世紀末の段階で、留学制度を政策として考えた非白人国は日本だけであった。優秀な若者を海外に送り出して勉強させれば、すぐ西洋文明に追いつけるはずだという確信があったのである。
 きわめて独創的だったこの制度は、速やかに効果を上げた。一八九六年に発足したノーベル賞の第一回医学賞の最終候補には、コッホ(結核菌、コレラ例の発見者)とともに日本の北里柴三郎の名前があったという。実際に受賞したのはドイツのベーリングであったが、ノーベル賞の最終候補に残るほどの評価を得た人物が、明治維新からわずか二十余年で現れていることには、今さらながら驚かされる。西洋人が自分たちしかできないと思い込んでいた自然科学の分野でも、日本人は多くの業績を残すようになったのである。
 しかも、ベーリングと北里とは、同じコッホ博上の研究賽の同僚であり、ベーリングの受賞理由となったジフテリア菌の血清療法の研究は、彼が北里と破傷風菌の共同研究を行い、北里が血清療法を創案したことが原点になっているのだから、“本家”の北里にノーベル賞が与えられていても不思議ではなかった。だが、当時は、現在とは比較にならないほどの人種差別があり、しかもそれが美徳ですらあった時代である。また、当時の医学界はドイツが席巻していたという事情もあり、結局、ノーベル賞はドイツ人ベーリングに与えられたのである。
 また、野口英世は明治四十四年(一九一一)に梅毒の病原体スピロヘータを、マヒ性痴呆患者の大脳の中から発見した。これは精神病の痛理を明らかにした最初の成果でもあった。彼もノーベル賞に二回推薦されて最終候補に残っているが、結局、受賞できなかった。
 野口と同じころ、鈴木梅太郎がビタミンB1を主成分とするオリザニンを発見している。史上初めてビタミン類の発見をした鈴木が受賞しなかったのも、じつに不思議な話である。
 細菌学の分野では、赤痢菌を明治三十午(一八九七)に志賀潔が発見している。当時、医学の最先端の分野であった細菌学で日本人が多くの発見をしていることは、日本の医学界が世界のトップを走っていた証明であると言うことができよう。医学以外の分野では、この頃、天文学の木村栄が地球の緯度変化の法則を示す新しい定数「Z項」を発見している。
 日本人初のノーベル賞受賞は、大戦後の昭和二十四年、中間子理論構想を発表した理論物理学の湯川秀樹が最初だが、これは自然科学で有色人種が受賞した初の例でもある(文学賞ではインドのタゴールが一九一二年に受賞している)。
 大東亜戦争によって人種差別が通用しなくなり、続々と独立国が出てくる状況にノーベル賞主催国スウェーデンが適応したということであろう。
 (⇒[江戸時代の科学])



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