撫順収容所:日本軍を鬼に人間改造した



 「“人間の皮をかぶった鬼”にされた撫順収容所 高尾栄司」[歴史通 2012年7月号]から抜粋しました。余りにショッキングな内容でした。GHQによる東京裁判史観に加え、毛沢東の子供になった日本人捕虜が自ら嘘の証言を行ったことで、戦後の自虐史観が固定観念的に植え付けられたのだということも納得できます。さらに、韓国が日本に贖罪を求めるのは、日本捕虜の洗脳工作を担当した工作員たちのほとんどが朝鮮族だからです。是非原文の一読をお勧めします。
 『「天皇の軍隊」を改造せよ』(原書房)高尾栄司著。
 加えて、毛沢東の恐怖による洗脳は[マオ 毛沢東の知られざる素顔]参照。



 シベリアに抑留された捕虜を撫順に移送--南京虐殺をはじめとする、ありもしない“戦争犯罪”の数々を拷問と洗脳の果てに告白(坦白)させられる--この冷酷な“人間改造”によって、今なお語りつがれる「日本人の原罪」が巧妙に掛掛られたのだった。……だが、日中国交正常化を目前に微笑外交に転じた周恩来は言った-「認罪はもうしないでくれ。謝罪はしなくていい」と。
 中国にとって、歴史とは「プロパガンダ」そのものといってよいのです。日本人は「歴史はファクト(事実)である」と信じていますが、中国人は自分たちにとって有利になるものなら詐話(つくりばなし)でもいい。いや、むしろ詐話でなければならない、それが中国の常識です。このことが分からない結果、日本人はいまだに自虐史観から抜け出せないままでいる。
 日本政府はいまでも中国・韓国に謝罪を続けています。ところが、そうなることに大きな役割を果たしたのが、実は中国からの帰還日本兵だったのです。彼らは自分たちが中国で学習した中国製の詐話を〝事実″の「語り部」と化して日本に広めていった。しかし、その背後には(中国人工作員を何十万人送りこむよりも、本人に証言させればもっとずっと大きな宣伝果がある)という中国側の巧妙な仕掛けがあったのです。
 その謝罪活動を戦後一貫して積極的に行っていたのが中国帰還者連絡会(中帰連)という数百人からなる団体でした。私は、“謝非”の原点を求め、中帰連の生存者を探してインタビューを行いました。中帰連は2012年に解散していましたが、「撫順の奇跡を受け継ぐ会」がこの後を継ぎ、今もも活動を続けています。なぜ“奇跡″なの?

 ◆ソ連抑留者への洗脳
 捕虜に共産主義思想とソ連への親近感を養成するために、洗脳目的の「日本新聞」も作られました。日本語という活字に飢える者や望郷の念を抱く者が、こぞって読みました。民主運動という名の共産主義教育が行われた結果、多くの抑留された日本人が徐々に洗脳され、スターリン元帥に対する感謝状を捧げ、ソ連に忠誠を誓うようになりました。日本新聞が作成したソ連への感謝状には反動分子以外の者が全員署名をしましたが、内容は馬鹿げていて抑圧状態に置かれた異常性を物語っています。起草文には以下のように書かれています。
「当り前ならば、日本帝囲主義の犠牲となつて死ぬところを、ソ連の参戦によって解放され、しかも天皇制ファシスト軍隊の奴隷兵士から民族独立、平和擁護のスターリン戦士として、真の人間に再生させてくれたこと、在ソ五ケ年間、生活万端にわたって何の不自由もなく、あたたかい配慮を受け、無事に日本に帰国できるようになつたのは、ソ連とその輝かしい指導者スターリン大元帥のおかげである」
 なんとおぞましいことでしょうか。ここまでに人は極限状態に置かれると、望郷の念から洗脳をされてしまうのです。でもこれを責めることはできません。
… 『公安情報 井上太郎著』より
 ■シベリア抑留者への洗脳 … 『夢・大アジア 創刊号』より抜粋
 大東亜戦争で雄々しく戦った日本も、占領のたった七年間であっけなく転んでしまった。屈辱的な東京裁判と日本国憲法をあっけなく受け入れ、戦後七十年間後生大事に守り続けてきた。そのような日本になったのも、敗戦後、自己保身のために変節し、国を売った日本人がいたからに他ならない(※戦後自虐史観も同手法をまねた日本民族への洗脳です)。
 日高清氏は中央アジアに抑留されウズベキスタンにて強制労働を強いられる。シベリア抑留である。ソ連の抑留では、捕虜に対して徹底した思想教育が行われ、日本人の多くは共産主義に染まっていった。革命記念日などに行われる行事では、日本人捕虜が昭和天皇の御乗馬・白雪に見立てた白馬に農民を乗せ、昭和天皇に見立てた人形に手綱を引かせてパレードを行っていた。同じ日本人としてこれほど悲しい光景はなかったと、後年私たちに語ってくださった。
 先生はそのような風潮の中でも、日本人として真っ直ぐに生きようとされた。
 士官だった先生は特に反動分子として烙印を押され、連日の吊し上げと厳しい取調べを受けたが屈しなかった。しかし、激しい飢えの中で心身ともに疲れ果て、土牢の中で立ち上がることもできなくなったこともあった。苦しい日々の中で、ある朝、外から漏れる一条の朝日の上を歩いては戻っていく一匹の蟻を見て、蟻の生命力に感動する。あの蟻のようにもう一度自由の身になりたい、再び生きようと心に誓ったそうだ。(※皇軍軍人を守護する天使たちが希望を与えたのでしょうね。)
 苦難の抑留生活を経て、ようやく日本に帰国することになったのは五年後のことだった。日本人捕虜の復員船には「天皇島敵前上陸」というスローガンが掲げられていた。そのような中で日高先生は一人、日の丸をつけて帰ることを決意する。船が出港するとすぐに赤十字の医務室に駆け込み、赤チンと包帯を調達した。包帯を切って赤チンで丸を作り、日の丸を掃えた。(※日本が独立するまで、GHQにより、国旗国歌が禁じられていた。日本の独立がサンフランシスコで正式に決まった帰路の飛行機の中で、政治家はハンカチに赤チンで日の丸を作って祝ったそうです。)
 日の丸をつけて帰るものはいないかとの呼びかけに応じたのは、初日は千五百人の船の中でたったの九名だった。しかしこの九名で運動を行い、翌日には四百九十名もの同志が甲板に溢れた。(※つまり、神を信じる皇軍軍人でもマインドコントロールから脱することができたのは、三分の一だという事です。)
 日高先生はこの同志たちとともに日の丸をつけて帰国する。先生を副団長とする「日の丸梯団(※大部隊の移動などにあたり、便宜上、幾群かに分けた、その各群)」の日本上陸は新聞にも大きく取り上げられた。帰国後、福岡に戻ってからも、祖国の精神的再建のための活動に献身された。福岡県郷友連盟の事務局長、理事長などを歴任され、日本会議の結成などでは指導的立場からご活躍されていた。
 
 ■北国:抑留者1万人名簿公表…北朝鮮、大連、南樺太は初。2015/05/01
 厚生労働省は30日、終戦後、旧ソ連に抑留され、収容所などで死亡した1万723人の名簿をホームページで公表した。北朝鮮の興南や中国・大連、南樺太(現サハリン南部)などで死亡した2130人が含まれており、これらの地域での死亡者名簿公表は初めて。全体のうち個人が特定できた2660人は漢字の氏名や出身地も掲載している。
 厚労省は1991年以降、ロシア政府などから資料を順次入手し、シベリアとモンゴルで亡くなった約4万2千人の名簿を2007年までに公表済み。北朝鮮などでの死亡者名簿も2006年に入手していたが、個人の特定作業はシベリアなどが優先され、他の地域は後回しになっていた。同省は「戦後70年を迎え遺族が高齢化する申、名簿公表で身元の特定につなげたい」としている。
 公表されたのは、シベリアの8593人のほか、北朝鮮の興南が1853人、元山が11人、中国の大連が178人、南樺太や択捉島などが88人。過去に公表した名簿などと一部重複している可能性があるという。
 片仮名表記の氏名や死亡年月日、死亡(埋葬)場所を掲載。死亡時期は主に1940年代後半で、元の資料には死因などが記載されている人もいる。日本側資料との照合で個人が特定できた興南の261人、シベリアの2399人の計2660人については、漢字表記の氏名と出身の都道府県も掲載した。
 今回の名簿には、旧ソ連が設置した「本国送還第53中継収容所」(輿南)や「本国送遭第14中継収容所」(大達)などで死亡した軍人・軍属や民間人が含まれる。
 厚労省は今後も照合作業を進め、身元が判明した場合は、本籍地の都道府県を通じて遺族に連絡する。遺族が希望すれぼ、抑留登録カードなど保管する全での情報を提供している。
 厚労省の推計では、旧ソ連による抑留者は約57万5千人で、うち約5万5千人がシベリアやモンゴルで死亡。病気やけがで重労働に耐えられなくなった約4方7千人が北朝鮮や旧満州に移送されたとされる。
 ■産経:旧ソ連抑留の114人銃殺判決 旧ソ連、研究者が発表。2018/04/09
 成蹊大の富田武名誉教授(日ソ関係史)は9日、終戦後に旧ソ連に抑留中、軍事法廷で銃殺刑判決を受けたとされる日本人114人分のリストを発表した。ロシアの公文書館で見つけた書類などを基に作成したという。富田氏は「銃殺された日本人がいることはあまり知られていない。国の責任で遺族に最期を伝えるべきだ」と指摘した。
 厚生労働省の担当者は「身元特定は、ロシア政府から正式に提供された資料に基づき進めている。リストについては、既に把握している情報と照合するとともに、外交ルートを通じてロシア側に資料提供を求めたい」としている。

◆南京虐殺の汚点がここに

 “奇跡″というのはアジア、いや世舛最強の「天皇の軍隊」を改造できたことにほかなりません。九百六十九人もの捕虜を洗脳・改造した例は世界中、どこにもありません。だからこそ、中国共産党にとって政治的勝利であり、世界に誇る奇跡だとたいいのです。「撫順の奇跡を受け継ぐ会」は、本人でありながら、これを中国共産党の歴史的事業として確定しようとしているのです。
 生存者たちにインタビューを重ねるにつれて、南京虐殺の際に必ず登場する話、妊婦の腹を割き赤ん坊を拓く突きあげている--例の故アイリス・チャンが全米で吹きまくつた詐話、これに類する話が撫順収容所にあるということも分かってきました。歴史の事実とは実に恐ろしいものです。その事実をありのまま読者に伝えたくて、私は『「天皇の軍隊」を改造せよ』(原書房)を出版したのです。
 敗戦後、「満洲」には約百七十万人の日本人が取り残されていましたが、スターリンの命によって六十万人を超える日本人がシベリアに連行され、強制労働をさせられたのです。抑留中に六万人が亡くなりましたが、残りの日本人捕虜たちは、数年後帰国の途につきました。ところが、それでもまだ残されている者たちがいたんです。その日本人たちは、ソ連にとって利用価値のある「重要な使命」を持っていた人物たちであったためです。毛沢東はそんな彼らに目をつけたのです。
 中国では毛沢東の中国共産党が政権を取ったとはいえ、まだ国民党勢力が滅したわけではなく、米国も欧州も国民党を支持していました。そこで、シベリアに残されていた「重要な使命」を持っていた日本人捕虜を中国に連行して、彼らを“人間改造”して、内外に利用しようとしたのです。中国共産党を友党としてきたソ連のスターリンは、毛沢東からの要請を受けて、日本帰還を待っていた日本人抑留者九百六十九名を中国に移送しました。


◆「通化事件」の詐術

 しかし、こうして九百六十九名もの日本人捕虜を中国の撫順までわざわざ連行してきたものの、今度はこれほどの捕虜を人間改造できるような工作員がそこにはいなかった。そのため、皮肉にもただただ日々が過ぎていきました。
 その日本人捕虜たちが“人問改造”という謝罪の構造に組み入れられていくきっかけとなったのが「通化事件」でした。
 旧満州国の通化は北朝鮮との国境に近いところにある都市です。事件の起こった一九四六年当時、通化の日本人たちは日本が負けてしまったから、誰もが銀行預金をおろして家にしまっておいたのですが、そこに通化事件が起き、すべて八路軍(共産軍)に掠奪されてしまったのです。
 天皇陛下の命令だからといって、正直に武装解除してしまった陸軍がいけなかった。家族や自分の身を守るくらいの武器は最低限持っているベきなのに、大切な武器をそっくり差し出してしまった。その武器はそのまま八路軍の手に渡って、日本人に向けられたんですよ。お人好しも極まれりというべきでしょう。
 しかし、日本側もただ奪われているだけではなかった。赤十字病院の柴田久院長らが八路軍に対してクーデターを画策したんです。でも、情報が筒抜けだったため、作戦は失敗に終わり、通化の日本人は悪者にされ、成人男子全員が投獄されて、拷問を受けたのです。
 鳳城で降伏し、八路軍の空軍創立に協力させられていた林航空部隊も事件に巻き込まれ、ひどい虐待を食けました。その様子を林航空隊員の一人だった中西降氏はこう語っています。
「立たされたまま押し込められた監獄の中は、まるで満員電車のように、ギユーギユーに詰め込まれ、小便をするのにも垂れ流しでまったく身動きがとれなかった。食事も与えられなかったので喉が渇いて、軒下のツララを皆で吸ったりした。餓死者が出た」
 民間人が混じっているにもかかわらず、通化の日本人に対して窓や正面から無差別の銃撃まで行われ、硬直した死体が庭に転がるという悲惨な光景が何週間にもわたって繰り広げられたのです。
 二月という時期もあり凍死者も多く出て、結果、犠牲者は四千人以上になりました。中国共産党が日本人に行った最人の虐殺事件で、これが、「通化事件」です。


◆“懇親会″という吊るし上げ

 そんな通化での地獄の体験をさせられた後、林航空部隊にはもう一つの地獄が待っていました。
 〝懇親会″という名の「吊るし上げ」ショーです。
 林航空部隊二百七十名の航空隊集団を“改造”することを目的にしたもので、その使命を受けていたのは日本人工作員の「杉本一夫」という男以下、数名の日本人部下でした。彼らの命令で全員参加の“学習会”が開かれました。
 もともと林部隊は技術屋集団で、とくに思想的な背景はなかったのですが、事件の後からターゲットが決められ、「おまえはこんな反共的なふるまいをした」とか「中国人に対してこんな残虐なことをした」とか容赦ない吊し上げが始まったのです。
 もし、こうした精神的拷問に批判や反対するような態度を示すと、ターゲットの仲間と目されて攻撃されてしまうので、そうならないためには加害者にならなければならなかった。
 成果報告も要求されたので、焦る隊員たちは拷問から逃れるために、ありもしないことを言って、関係のない人間がターゲットにさせられることもしばしばあったのです。その〝罪状″によって銃殺ショー見学が行われた。その結果、林部隊内には亀裂が生じるようになつてしまったのです。
 この間に隊長の林は自分から進んで毎日学習し、八路軍と、国民党軍や日本軍との根本的な違い、自分と日本軍国主義者との遠いを「理解」するようになっていったといいます。そして、外国人である自分が、中国の大革命の時期に中国国民の解放戦争に参加でき、中国空軍創設に力を尽くすことが出来ることは、この上なく有意義だという考えが心の底にしっかりと板を下ろし、部下の学習にも力を貸すようになつていくんです。林航空部隊は、転変の道を歩んでいったのです。


◆洗脳であり拷問

 中国人たちにとって、杉本以下数名で二百七十人もの航空部隊を改造に導く様は予想外のことでした。まさしく「奇跡」だったでしょう。
 私は、世にも不思議な、日本人が日本人を改造したこの成功がなかったならば、もしかしたら、シベリアから九百六十九名の日本人捕虜が撫順に送られてくることもなかったかも知れないと考えています。
 見事に〝改造″に成功した林航空隊に対するこの手法は毛沢東に高く評価され、撫順に伝わり、撫順の日本人捕虜九百六十九名の改造--“坦自(たんばい)”に使われることになつたのです。坦自とは中国共産党が使う独特の術語で、自分の過ちを暴露し自己批判することをいいます。それは洗脳であり、拷問ですので、完全に国際法に違反している。それにもかかわらず、日本人はこの拷問と洗脳の事実を全く知らないし、知ろうともしません。坦自とは実に巧妙に仕組まれた、恐ろしい人間改造法なのです。
 撫順管理所では、日本人捕虜たちは非常に優遇されました。
「日本兵士に対しては、その倣慢な自尊心を侮辱することではなく、かれらの自尊心を理解してやり、これに逆らわずに、導いてやることである。捕虜を寛大に取り扱うというやり方で、日本の統治者らの反人民的侵略主義が理解されるよう、かれらを導いてやることである」
 毛沢東のこの言葉をもとに、おいしい料理が出され、おかわりも自由でした。スポーツをすることもでき、日本人捕虜たちはシベリアで受けた扱いとの違いに非常に驚いた。もちろん、これが人間改造の第一歩だったことは土言うまでもありません。


◆巧妙な誘導

 やがて、学習会が頻繁に開かれます。同じ資料を読んで、同じテーマで議論をする。そこで捕虜たちに共産主義を叩き込み、自分たちの罪を認識させるんです。でも、はじめは誰も罪を認めようとしなかった。当然です。自ら罪を認めてしまったら、どんな罰が待っているかわかりません。
 すると、「捕虜を寛大に取り扱うというやり方」のもと、認罪を拒む日本人捕虜たちに次のように問いかけて、説得を進めたんです。(※GHQの皇室と政府と国民との分断工作にそっくりです。登録者)
  1. あなたたちはわたしたち中国人に対して加害者であるが、あなたたち自身の立場からすれば被害者でもある。
  2. なぜなら、この戦争を起こしたのは、あなたたちではない。もっと上の人である。
  3. つまり、この戦争を起こした者は、絶対にあなたたちではないことは分かっているので、たとえ認罪したとしても、あなたたちは絶対に死刑にはなりません。だから罪を認めなさい。
  4. あなたたちが中国で罪を犯したのは事実であり、たとえ日本で裁判を受けたいと思っても、今は中国にいて、刑を受けなければならないのだから、この現実を受け入れ認罪をしなさい。

 こう誘導し“教育”していく中で、下士官たちは、自分の罪を認めるだけではなく、面と向かって上官を告発するようになります。それを中国人工作員が優しく慰めながら煽るんです。こうして徐々に人間改造が行われていきました。
 そしてある日をきっかけに、人間改造は大きく進展します。撫順に来て二年目、撫順管理所の孫所長が、館内放送で“認罪”を呼び掛けたのです。「日本人捕虜は、全員が中国で戦争をし、罪を犯したからこそ、ここに入れられた。自分のやったことを外から見ればどうであるかを考えよ」と。捕虜だった国友俊太郎氏は当時の様子をこう語っています。
「突然、所内放送で全員集合がかけられた。指示に従って中庭に整列すると、管理所の職卜貝も全員が北北んでいた。『宮崎弘という大尉が皆の前で認罪発表する。皆注意して聞くように』と孫所長が発表した」


◆顔から血が引いて

 集まった捕虜たちの前で、壇上に現れた大尉の宮崎弘が村民百名を皆殺しにした事件を告白したんです。
「私は部下を連れて部落に乱入し、逃げ遅れていた老人子供を銃剣で突き殺させました。その中には赤ん坊と腹の大きい妊婦もいました。妊婦は裸にして刺殺させて、その昔しむ姿を部下と一緒に見て笑っていたのです。私たちは自楊寺部落一体の中国農民を皆殺しにしたのです。ある者は焼き殺され、石臼で頭を割られて死んでいった老婆もいました。そればかりではありません。農民が辛苦して作った穀物や家畜はすべて奪い去り、住民の家は一軒残らず火をつけて焼き払ったのです。」(※少し後に記述されていますが、偽文書を作成させられ読み上げたのですが、南京虐殺に出てくるシナ側偽文書にそっくりです。登録者)
 話すうちに顔は血が引いて青くなり、声はいつしか絶叫に変わり、涙と汗を流しながらも、「私は人間の皮をかぶった鬼でした。今ここに中国人民にこころからお詫びします。この上はいかなる処罰をも受ける覚悟です」
 この宮崎の告白が大きな突破口となり、“坦白大会”の始まりとなった。
 これ以降どんどん認罪する者が出てくるようになったのです。しかし、こうした坦白が出てきたのも、日本人たちが積極的に学習会を進めてきた成果でした。とはいえ、下士官と違って、将校はなかなか認罪しょうとはしなかった。そこで今度は“やらせ”の坦白--林航空部隊で成功した「吊るし上げ大会」が高級将官をターゲットにして始まるんです。
 その様子を捕虜だった田中魁は著書『法曹』のなかで次のように書いています。
「取調が始って二箇月経過した頃、野外部隊の前の広場に、抑留者全員を集めて坦白大会が行われた。壇上にはマイクを装置し、収容所長と政治指導員が壇上に席を占め、われわれ抑留者千名は広場に座り其周囲には取調官、書記、通訳合計二百名位が取囲むという物々しい雰囲気の中にその会は始められた」

 坦白の口火を切ったのは、戦犯の中でかなりの影響力をもっていた満洲国国務院総務庁次官の古海忠之でした。後に撫順管理所長になつた金源氏が、古海の坦白の様子を著者『奇縁』のなかで証言しています。
「古海は何ら遠慮することなく淡々と自分の罪業を自白した。詳細に罪業を列挙した後、彼は台の上にひざまづいて涙を流し『私はとうてい許されるはずのない罪悪を犯しました。私は中国政府に対して私を極刑に処するよう要求します。私の罪業は千死万死でも償うことはできません!』と述べた。管理所の責任者は彼の誠実な自白態度を評価した。
『過去は敵であったとはいえ、今、彼は武器を捨てて反抗せず、心から過去を悔いているのです。私たちは生きる道を示しているのです。これは中国共産党の一貫した政策です。今日の古海息之は自白によって思想転変の重要な一歩を踏み出しました。私たちは全戦犯がみな古海のように自分の罪を自白し、寛大な処理を獲得するように希望します』」

 ただし、「古海が割合すらすらとやったところを見ると、事前に中国共産党当局と打合せがあったのだろう」と田中魁は前出の著書の中で分析しています。
 こうして古海の自白がきっかけとなり、高級戦犯たちは自分の罪業を少しずつ話すようになりました。でしたが、もちろん、決して穏やかな方法で行われたわけではありません。
 中支方面に駐屯していた富士部隊の中隊長中尉の三輪敬一は、中支作戦時に行った民家の食糧強奪、中国人俘虜の虐殺、軍刀による試し斬り、民家を焼き払った状況を事細かに告発しました。すると兵士たちが、上官の師団長陸軍中将佐々新之助に対して「佐々ッ、前に出ろッ」と叫んで、一時間以上にわたって直立不動で立たせながら罪状を告発し続けました。それからは、将官たちがかつての部下たちから指名告発されて、次々に演壇の下に立たされていきました。
 その日の光景を捕虜だった鵜野晋太郎氏は次のように記しています。


◆異国で友を売る

「佐々中将は、すでにかつての威風はなく、獄服をまとった姿は哀れであった。その時、一人の男が立ちあがって、何事かわめいた。彼は半狂乱、否! 半泣きの態度で叫んだ。『彼ら将官こそ、われわれを殺人鬼にした元凶である! われわれ下級軍人グループは徹底的に自らの罪行バクロの中からキサマたちを摘発粉砕する!』と泣きながら叫び続けていた」
 鵜野氏はこの告発を見て、寒々とした嫌悪感に襲われ、背中が逆撫でされるような感じになったと述べています。このように大勢で囲んで怒号を浴びせ、暴行さえ行われたようです。犯罪事実を知りもしないのに、ひたすら罵言雑言を浴びせて、相手を動揺させ、坦自させようとする。“異国で友を売る”ことに思い悩んだ末、自殺する者まで出ました。
 こうして、坦白大会はエスカレートし、日本人捕虜たちはどんどん人間改造されていったのです。それが他ならぬ日本人の手で行われることこそ中国共産党の狙いでした。彼らは捕虜の思想改造が国際法に違反する行為であることを認識していたため「洗脳は強要ではなく、あくまで日本人捕虜が、自発的に思想研究をやった結果である」ということにしたかったのです。
 日本人捕虜に対して行われた工作は、坦白大会だけではありません。“創作”も重要な工作の一つでした。その目的は、中国共産党の指導によって思想改造を遂げた日本人戦犯による反戦文学を世界に発表させたのです。捕虜だった田中魁は著書(『法曹』前
出)のなかで工作員から受けた脅迫を次のように述べています。
「テーマは過去の半生の体験を通じて、日本帝国主義社会の矛盾、日本帝国主義の残虐性を描写せよというにあった。書けないようでは、未だ立具に自分の犯罪を自覚したとは言い難い。犯罪に対する自覚の無い者は帰国させるわけには行か無い、とこう迫ってくるのである」
 工作員の説得の仕方は巧みで、日本人捕虜が躊躇すると、工作員は、「その描写は事実でなくとも、作りものでいいから」と繰り返し言ったそうです。とにかく、日本人戦犯たちに創作文を書かせることが肝心だったからでしょう。


◆光文社 神吉晴夫氏の役割

 このような「創作活動」と称する工作はおよそ半年間続き、日本人捕虜たちが書かされた多くの作品の中から、優秀作品が選び出されました。これらをまとめた創作集が光文社の神吉晴夫氏の目にとまり、『三光日本人の中国における戦争犯罪の告白』という題名で昭和三十二年三月十日に日本で出版され、数週間で五万部を売りつくすべストセラーになりました。
「三光」は、一般の日本人読者には目新しい言葉であったので、「殺光・焼光・略光、これを三光という・殺しつくし、焼きつくし、奪いつくすことなり」という説明が付けられ、撫順で強制的に捕虜に創作させたものを“事実”として出版したのです。
 時を同じくして、同地で人間改造された“毛沢東の息子たち”になつた日本人捕虜たちが一斉に帰国して工作をし始めていました。そんな彼らの活動と、『三光』のベストセラーが日本国内での「謝罪と暴露」事業の成功を決定づけました。
 撫順での洗脳にはじまる日本の謝罪の構図は、いまの北朝鮮、韓国にもおよんでいます。何故か? 撫順で日本人捕虜を担当した工作員たちのほとんどが朝鮮族だからです。彼らの兄弟・親族は朝鮮半島に散らばって住んでおり、交流も日常的にあるので、日本人捕虜が改造された話は第一級の話題になって伝えられていて、彼らが日本に謝罪を求めてくる構図のもとはここにあるのです。このような現実を見れば李明博から謝罪を求められた時、野田首相は逆にこのことを説明してやらなければならなかった。でも、首相だけでなく、外務省の役人、政治家も日本人全体がこのような歴史捏造の経緯を誰も知らないのです。


周恩来「もう謝罪しないでいい」

 中国に進出している日本企業も洗脳の対象にされるでしょう。日本人にモノを作らせて中国共産党が儲けるという発想ですから、撫順で共産党がやったことと同じです。つまり日本企業は捕虜なので、いざ中国外へ工場を移転しょうとすれば、全部置いていけとなり、反論したら「その態度は何だ、“謝罪”しろ」ということになる。まったく構図は同じです。
 法治なき人治の国だとはいうけれど、その人治の中心には毛沢東主義がある。
 毛沢東の言葉で有名なのが「革命は一人で起こせる」というものです。一発の銃声で慮溝橋のようになるのです。シベリアでひどい扱いを受けていた日本人捕虜たちを歓待し、美味しい食事漬けにした。牡丹餅やら寿司やら、日本食をふるまい、海苔がないとなったら、大連まで行って仕入れてきた。それを二年間やってから、いよいよ人間改造を始める。日本人は人がいいし、恩を受けたら何か報いなければならないと考える。今も昔も優待政策は中国共産党の一つのやり方なのです。そうして油断していると、突然全員集合の放送が流れ、「これから坦白大会だ」「謝罪させよ」ということになる。
 でも日本人は誰も知っていませんが、実はその「謝罪」をやめるように周恩来みずから指示を出していたのです。日中国交正常化の直前に、中帰連の中心メンバーの藤田茂、国友俊太郎らが中国を訪問し、その席で周恩来は藤田にこう掟案したそうです。
「日本にお帰りになったら、あの大東亜戦争の実行されたありのままの戦史をつくらなければいけません。先だって田中首相との国交回復の共同声明を発表しましたが紙の上の約束です。本当の国交回復、友好には永い年月がかかります。私も歳です」

 その後で周恩来は謝罪問題に言及した。その瞬間を今でも中帰連創設者の国友氏は鮮明に記憶しているそうです。彼は、私に、言い残すようにこう語ったのです。
「私は直接聞いているのです。藤田さんと一緒に行ったとき、周総理は人民大会堂で、『認罪はもうしないでくれ、謝罪もしなくてよい』とはつきり言いました。『いつまでも過去のことを話していては前に進みません。これからはもっと前向きなテーマを選んで、それを活動方針にしたらどうでしょう』」

 周恩来は、中国共産党対日工作幹部や軍関係者が同席する前で、謝罪運動に幕を下ろすよう指示を出した。
 しかし、藤田ら中帰連は謝罪一筋でやってきていましたから、会員や報道メディアに「謝罪運動はしないでほしいといわれた」とはとても言えなかった。そのため周恩来の謝罪発言はタブーになつてしまったんです。「革命は一人で起こせる」という毛沢東の言葉どおり、彼らのたった一言の告白で日本の謝罪の歴史も、今の中国や韓国との関係も決定的に変わっていたはずなのにです。
 中国側から与えられた機会を、愚かにも自分たちの保身のために日本人自身が操み消してしまった。これが、現在まで続く謝罪の原点です。

 日本人はのほほんとしている場合ではありません。中国共産党は周恩来の謝罪発言を無視し、「これだったら日本を狙えるぞ」と現実に動き出している。いま日本に中国人は七十万人いるらしいですが、その中には中国共産党の“細胞”もいます。共産党の号令一下、彼らが一斉蜂起することもありえます。中国人の恐ろしさは歴史がいやというほど教えてくれているというのに、外国人参政権を与えようという脳天気な政治家が日本にいます。いま、日本が危ない状況にあるということを日本人ははつきり認識すべきです。

 ◇ ◇ 昭和天皇「君臨すれども親裁せず」

 昭和天皇の戦争兼任について様々な意見が出されてきた。もちろん法的には責任は発生しないが、この間題を語る前に、昭和天皇の政治に対するモットーを述べたい。
 大日本帝国憲法の基本原則は、統治権は天皇が総覧するが、実際の政治は政府が行なうという。よって「君臨すれども親裁せず」というのが昭和天皇の政治姿勢であった。つまり昭和天皇は立憲君主であって、専制君主ではなかった
 これまで述べてきたように、昭和天皇は御前会議の場でも基本的に閣僚たちの意見を聞いているだけで、自らの意見を口にすることはなかった。そして内閣の決めたことには決して異議を挟まなかった。戦争中、軍部は天皇大権である「統帥権」を盾に、すべては天皇陛下の命令であるという体で国民を動かして戦争に突き進んだというのが実態であった。
 昭和天皇がその生涯において、政治的な決断(親裁)を下したのは、二・二六事件と終戦の時だけであった
 昭和二〇年九月二十七日、昭和天皇がアメリカ大使館でマッカーサーと初めて会談した時、マッカーサーは昭和天皇が命乞いをしに来たと思っていた。ところが、そうではなかった。昭和天皇はマッカーサーにこう語った。
「私は、国民が戦争を遂行するにあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私をあなたの代表する諸国の裁定に委ねるためにやって来ました」(『マッカーサー大戦回顧銀』)
 この時、同行していた通訳がまとめた昭和天皇の発言のメモに、翌日、藤田尚徳侍従長が目を通し、回想録に次のように記している。
「陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうとも構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』」(『侍従長の回想』)
 マッカーサーは昭和天皇の言葉に深い感銘を受ける。
「死をともなうほどの責任、私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私は、目の前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
 この時の会談では、車で訪問した天皇をマッカーサーは出迎えなかった。天皇は戦犯候補に挙げられていたので、当然であった。しかし帰る時にはマッカーサーは玄関まで見送りに出ている。おそらく会談中に昭和天皇の人柄に感服したためだと思われる。
 「君臨すれども親裁せず」という存在でありながら、同時に日本の「統治権の総攬者」であった昭和天皇の戦争責任というテーマは、イデオロギーや政治的な立ち位置によって一八〇度見方が変わり、また永久に結論が出ない問題ではある。
 「ご聖断」が遅すぎたという声もある。しかし、仮に半年前に天皇が終戦を決断したとしても、連合国、特にアメリカ政府がそれに同意する保証はないし、日本の陸軍がそれを呑むことはなかっただろう。八月十四日の時点でさえ、陸軍の中には、さらなる犠牲を出しても本土決戦をすべきと主張する者が何人もいたのだ。
 余談だが、戦争中、天皇は一度も皇居から離れなかった。東京は何度もアメリカ軍の大空襲を受けており、周囲の者は疎開を勧めたが、天皇は「目の前で君臣が次々と死んでいくのに、なぜ朕だけが疎開などできようか」と言い、頑として拒否した。昭和天皇は死を覚悟していたのであった
 GHQが日本人に施した洗脳は、戦時中の中国・延安で、中国共産党が日本人捕虜に行なった洗脳の手法を取り入れたものだった。このことは近年、イギリス国立公文書館が所蔵する秘密文書で判明しており、延安でのエ作には、日本人共産主義者、野坂参三の協力があったこともわかっている。
 野坂は戦前、グレートブリテン共産党参加を振り出しに、ソ連に渡ってコミンテルン(共産主義インターナショナル⇒[コミッテルンの陰謀と日本]参照)日本代表となった人物である。戦前のアメリカ共産党とも関係しながら、延安で中国共産党に合流し、中国では「岡野進」の名前で日本人兵士に脱走を勧め、日本帝国主義打倒のための洗脳活動を行なっていた。GHQは野坂に洗脳の具体的な方法を学んだと思われる(⇒[撫順収容所と洗脳])。
 野坂は終戦の翌年の昭和ニー年には日本の衆議院議員となり、一九八〇年代まで日本共産党の議長をも務めた。また一九八〇年代まで日本の文化人や芸能人らとも幅広く交流し、日本における共産主義思想の浸透に貢献した。
 ちなみに、「洗脳」という言葉は今日、英語でも「brain washing」と漢語から直訳されて使われている。「人民」「共和国」「経済」など、現代中国語の多くが、日本語からの借用なのに対し、「洗脳」は希少な漢語オリジナルである。洗脳の際、彼らがまず最初に行なうのが、「自己批判」であり、それにより「罪悪感を植え付ける」のだが、GHQもまさに同じ手法を取り入れた
 「WGIP」が、中国共産党の洗脳に倣ったことを伝える文書は、「ノーマン・ファイル」(KV2/3261)と呼ばれるファイルに残されている。ノーマンとは、日本の軽井沢で生まれ育ったカナダ人外交官、エドガートン・ハーバート・ノーマンのことで、昭和三二年、ソ連のスパイとの疑惑をかけられ自殺した人物である。「ノーマン・ファイル」は、GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官を務めたジョン・エマーソンが、アメリカ上院小委員会でノーマンに関して証言したものである。
 ノーマンのスパイ説と自殺には諸説あるが、イギリスはノーマンをソ連のスパイと断定している。流暢な日本語を操り、マルクス思想に傾倒していたノーマンは、GHQの民政局次長を務め、日本国憲法草案作成の中心的役割を担ったチャールズ・ルイス・ケーディスの右腕ともいえる存在であり、マッカーサーの日本占領政策の方向性に大きな影響を与えたといわれる。
 エマーソンの証言を読むと、戦後の日本は、共産主義者たちの一種の「実験場」にされたようにも見える。中国共産党が延安で成功させた日本人捕虜への洗脳を、日本国民全体に施し、さらに日本国憲法によって再軍備を禁じ、公職追放によって地位を得た共産主義者とそのシンパがGHQ路線を堅持していったのだ
 その結果、日本人に過剰に自己を否定させ、いわゆる自虐史観が蔓延し、「愛国心」まで捨てさせた。そして、後の「河野談話」「村山談話」のような、中国、韓国の反日プロパガンダに容易に乗せられてしまう結果を招いた。共産主義者に影響されたGHQの占領政策は、その後の壮大な「歴史戦」の端緒となった。
 ちなみに戦後、GHQに最も忠実な報道機関となった一つが朝日新聞である。同紙は積極的にGHQの政策を肯定し、マッカーサーを称賛した。昭和二六年に彼が連合国軍最高司令官を罷免され、アメリカに帰国する際にはこう書いた。
「われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった」(昭和二六年四月十二日)
 まるで毛沢東か金日成を礼賛する共産主義国の機関紙のようである。
 呆れたことに、この時、マッカーサーをご神体に据えた「マッカーサー神社」を作ろうという提案がなされ、その発起人に当時の朝日新聞社社長の長谷部忠が名を連ねている(毎日新聞社社長、本田親男の名前もある)。朝日新聞にとって、ダグラス・マッカーサーは現人神だったのであろう。


◆ 毛主席、「天皇制」を肯定、明確な認識は依然謎:2012/06/09時事

 中国の毛沢東主席が1956年に日本人と会見した際、「日本人は天皇制を支持している。(戦争の歴史において)天皇本人は誤ったことをしていない」との主張に同意していたことが、中国外務省档案館(外交史料館)が公開した機密文書で9日までに分かった。毛主席をめぐっては戦中・戦後を通じて日本の天皇制に干渉せず、天皇制を肯定していたとの見方が多かったが、こうした認識を持っていたことが外交文書で裏付けられたのは初めて。
 56年当時、中国政府は、ソ連・中国との融和路線を打ち出した鳩山一郎内閣との間で国交正常化を目指しており、毛氏は天皇を「元首」ととらえ重視していた実態が浮かび上がった。
 この外交文書は、毛氏が56年12月17日夜に北京・中南海で約1時間半にわたり日中輸出入組合の南郷三郎理事長と行った会談などについて、中国側当局者が日本側から聞き取って作成した。
※現在シナでは政権構想が継続中で、次期書記長の太子党・習氏は、毛思想の信奉者。
 日本に対する政治的アプローチと捉えるべきだ。



なぜシベリア抑留者は口を閉ざしたのか ソ連の「赤化教育」の実態は…「やらねば自分がやられる」

  産経:2015/08/11 https://www.sankei.com/premium/news/150811/prm1508110013-n1.html

 ソ連軍によりシベリア抑留され、帰還した日本人将兵は50万人を超えるが、その多くが抑留体験について口を閉ざした。寒さと飢え、重労働、仲間の死-。思いだしたくもないのは当然だが、もう一つ理由があった。日本の共産主義化をもくろむソ連の赤化教育だった。
  「軍隊時代、貴様はみんなに暴力をふるった!」
 極東・ハバロフスクのラーゲリ(収容所)で、1人の男が壇上の男を糾弾すると他も同調した。
  「同感だ!」「この男は反動だ」「つるせ!」-。
 天井の梁に渡したロープが壇上の首に回され、男の体が宙に浮いた。苦悶がにじむ表情に鼻水が垂れ、絶命寸前で男は解放された。
 ラーゲリの隣はソ連極東軍総司令部と裁判所。尋問や裁判で連行された将校や下士官がラーゲリに宿泊する度につるし上げた。
  「嫌だったが、仕方なかった。そうしないと自分がやられた…」
 つるし上げの「議長」(進行役)を務めた元上等兵(90)はこう打ち明けた。
 ハバロフスクのラーゲリで「民主運動」という名の赤化教育が始まったのは昭和21年秋。労働を終えた午後7時ごろから1時間ほど、共産党員だった日本人が「共産党小史」を基に講義した。
 見込みがある者は「小学校」「中学校」と呼ばれる教育機関に入れられ、さらに赤化教育を受けた。「中学校」を卒業した“優秀者”は、各ラーゲリの選抜メンバーとともに1カ所に集められ、3カ月間教育を受けた。収容所に戻ると指導的立場となった。
 民主運動は次第に過激化し、将校や下士官だけでなく、共産主義に賛同しない者も次々に糾弾された。
 日本人同士の密告も横行し、ラーゲリ中に人間不信が広がった。多くの抑留者が口をつぐむ理由はここにある。元上等兵は周囲にこう言い聞かせた。
 「日の丸の赤と白の部分を頭の中で入れ替えろ。赤に染まったようにカムフラージュするんだ」

   × × ×

 ソ連が日本人将兵を抑留したのは「労働力」目当てだったが、途中からアクチブ(活動分子)を養成して日本を共産主義化させようと考えを変えた。
 赤化教育に利用したのが、ソ連軍政治部が週3回発行する抑留者向けのタブロイド紙「日本新聞」だった。編集長はイワン・コワレンコ。後に対日工作の責任者となり「闇の司祭」と呼ばれた男だった。
 共産主義を礼賛し、天皇制や日本の批判を繰り返すプロパガンダ紙だが、日本語に飢えていた抑留者に次第に浸透した。
 共産主義に賛同し、アクチブと認定されれば、ラーゲリでの処遇が改善され、早く帰還できる。実に陰湿な心理作戦だが、効果は大きかった。旧軍の序列を維持しながら助け合ってきた抑留者たちは次第に将校、下士官、兵で反目するようになった。密告も横行し、相互不信が広がった。

   × × ×

 関東軍情報将校(少佐)だった山本明(96)=兵庫県芦屋市在住=は昭和20年11月、タタルスタン・エラブガの将校専用のラーゲリに送られた。23年夏に「ダモイ」(帰還)といわれ、列車に乗せられたが、山本ら情報将校や憲兵約200人はハバロフスクで足止めとなった。
 「天皇制打倒」「生産を上げよ」「スターリンに感謝せよ」-。ラーゲリの入り口にはこんな張り紙がベタベタ張られ、入所者の目には敵意がみなぎっていた。そこは「民主運動」の最前線だった。
  「生きては帰さんぞ…」
 入所早々、反ファシスト委員長を名乗る背の低い男は、山本らを高知なまりでこう脅した。
 その言葉通りつるし上げが連日続いた。「言動が反ソ的」「労働を怠けた」-。ほとんど難癖だった。
 山本も「反動」の烙印を押され、作業中も、食事中も、用便中さえも、大勢に囲まれ、罵倒された。「日本人は中心をなくすと、これほど崩壊してしまう国民性なのか…」。悔しいというより悲しかった。
 24年春、山本はハバロフスクの監獄に移された。雑居房でロシア人らと一緒だったが、ラーゲリよりは居心地がよかった。
 いつも就寝時にたたき起こされ、取調室に連行される。長細い室内にポツンと置かれた机の上には炎がついたろうそくが1本。取調官は引き出しから短銃を出し入れしながら関東軍での任務をしつこく尋問した。
 「なぜこの男はおれの戦時中の言動を知っているんだ?」。取調官の書類をのぞき込みその謎が解けた。かつての部下が詳細な供述をしていたのだ。
 通訳もない裁判が行われ、判決は反ソ諜報罪で強制労働25年だった。
 結局、山本が帰国できたのは31年12月26日。最終引き揚げ者1024人の1人として京都・舞鶴港に降り立った。すでに37歳。父親と妻、初めて会う長男が出迎えてくれた。長男はもう11歳だった。
 32年の正月早々、ある男が神戸市の山本宅を訪ね、玄関先で土下座した。
  「隊長、申し訳ありませんでした」
 密告した部下だった。山本は積年の恨みをグッとのみ込み、「君も何か言わないと帰国できなかったのだろう」と許した。山本は当時をこう振り返る。
  「人間ってのは怖い。追い詰められた人間の心理は本当に怖いよ…」

   × × ×

 ソ連は、共産党への忠誠を誓った「誓約引揚者」を優遇帰国させたが、日本を共産主義化させるというもくろみは外れた。確かに一部は60年安保闘争などで大衆扇動やスパイ活動に従事したが、多くの引き揚げ者は従わなかった。ソ連で共産党の残虐さと非人道性を嫌というほど味わったからだ。ただ、赤化教育のトラウマ(心的外傷)は生涯消えなかった。
 エニセイスクに収容された独立歩兵第78部隊第1中隊の秋元正俊(96)=栃木県日光市在住=も赤化教育の被害者の一人だ。
 秋元は昭和22年のある日、日本新聞で「ロシア語会話通訳試験」の記事を見つけた。ソ連には憎しみこそあれ共感はない。日本新聞もまともに読んでなかったが、「通訳になれば重労働から逃れられるかもしれない」と受験してみた。
 試験は、日本人試験官と簡単な英会話を交わしただけ。合格すると「レーニン・スターリンの原理」という分厚い本を渡され、1カ月半の講習を受けた。終了するとアクチブの証書とバッジを与えられた。
 ラーゲリでの生活は格段に向上した。部屋は一般抑留者と分けられ、1日置きの入浴が許された。食事には副菜がつき、朝食には牛乳、夕食にはウオツカがつき、たばこも週1箱もらえた。秋元はいつも仲間たちに分け与えた。
 ラーゲリ全員に帰還命令が出たのは24年5月初旬。かつて1千人ほどいた抑留者は400人余りに減っていた。秋元ら通訳の十数人は「アクチブの教育が不足している」としてハバロフスクで20日間の再教育を受けた後、帰国した。
 夢にまで見た帰国だったが、現実は厳しかった。「アカ(共産主義者)」のレッテルを貼られていたのだ。
 秋元は京都・舞鶴港で警察に連行され、独房に40日間入れられ、アクチブの活動内容などについて取り調べを受けた。ようやく郷里の栃木県に戻っても、自宅裏のクワ畑には警察官がいつも立っていた。
  「しまった。ソ連に利用されてしまった…」
 秋元は通訳になったことを後悔したが、誤解は解けなかった。出征前に勤務した小学校を訪ねると校長に「職員室に席は置いてやるが、子供の前には出ないでほしい」と言われ、結局、教壇に立てぬまま退職、実家の農業を継いだ。
 秋元が再び教育に関わることができたのは今市市(現日光市)が市制に移行した29年。市教委で定年まで教育行政を担った。子や孫にも恵まれたが、今もシベリアでの悪夢は消えることがない。
 「シベリアでの出来事は何でも思い出せる。それほどつらかった。あの体験がその後の人生に影響したことは何もない。ただ、悪い思い出だけが残った…」 <敬称略>

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