東條英機:宣誓供述書 [大東亜戦争の真実]より抜粋


 是非、原書のご一読をお願い致します。
 東條英機の切々とした気持ちが、伝わってきます!!
 時系列の国内外の戦況については、他の冒頭陳述と重なりますが、現場の生々しい状況が伝わってきます。今回、独断と偏見で、東條英機の思想面とその政治的な面に焦点を当てました。
 尚、東條英機の遺書に関しては、[文芸春秋]より抜粋しました。
 そして、昭和天皇の苦しみについて[岸信介と未完の日本]より、下記抜粋しました。


■昭和天皇の苦悩

 陛下の苦しみは、東京裁判の開廷と共に強烈なものになったと云う。他国民に与えた人物的損害や自国民に与えた苦痛を原因とする心の葛藤、退位に関するお気持ちをそのまま、御座所でそのまま訴えておられた。それは大変激しいもので、ご自身を責めにせめておられた。
 また、侍従次長であった徳川義寛の日記に、以下のような記述がある。
 東條らの処刑の日。自分の死ぬべくところを代わってくれたというようなご心境であられたと思う、と村井は遠くから陛下のご様子を拝していたが、当夜、天皇が三谷侍従長と交わされた会話について、直接田島長官から聞く機会があった。村井が書き残したメモに従って再現してみよう。
 陛下
三谷、私は辞めたいと思う。三谷はどう思うか。
 三谷
 お上が、ご苦痛だと思し召すほうをこの際はお選びになるべきであります。お上がおいやになるほうを、ご苦痛と思われるほうをお選びになるべきであります。
   (『徳川義寛終戦日記』)


東条英機宣誓供述書




編者まえがきより抜粋


 私はよく神田の古書店街で、「東條英機 宣誓供述書」を見つけ、私はひどく驚いて、しばし呆然としていたのですが、我に返ってすぐにそれを買いもとめました。
 本の奥付を見ると、昭和二十三年一月二十日、洋洋社発行とあります。後で分かったのですが、この本は、私の祖父である東條英機が陸軍大臣となつた昭和十五年七月から、総理大臣として内閣稔辞職した十九年七月までの四年間の活動について、祖父自身が振り返って語ったものを、主任弁護士の清瀬一郎先生が書き起こしたものだったのです。
 宣誓供述書というのは、裁判を迅速に進行させるために、被告の言い分をあらかじめまとめておく書類のことです。つまりこの書類が裁判の行方を左右することになります。そのためこれを作成するにあたっては、法廷で不備を指摘されないよう、きちっと年代順に、しつかりとした事実に基いて書き進めなければなりません。ですから、この書類の作成にあたった弁護士や秘書官の方々は随分と苦労されたようです。
 一方でまた、祖父の几帳面な性格も幸いしました。祖父は手帳に、自分の言ったことから部下の方々が答えたことまで、細かく記録していました。だからこそ事実に基づいた完壁な宣誓供述書ができ上がったのでしょう。
 それがどういういきさつで洋洋社から出版されることになつたかは不明です。ところが出版されるとすぐ、連合軍総司令官のマッカーサー元帥によって昭和二十年九月から敷かれていた報道管制の一環として、この『東條英機 宣誓供述蓋は「発禁第一号」に指定されてしまいます。そのため、長いあいだ日の目を見ることがなかったというわけです。
 それでも、当時この本が世に出たということは、ひじょうに重要なことだったと私は思うのです。連合軍の検閲によって、発行者には“後ろに手が回る”という危険もあったことでしょう。そのような危険も顧みずこの本を出版した方の「勇気」に、私は敬意を表さずにはいられません。終戦直後の日本にあって、これこそが国民のいちばん欲していたものだったのではないでしょうか。
 この本を読み進むにつれ、私はつくづく祖父の「勇気」に感じ入りました。あれだけの四面楚歌の状況の中で、しかも国際裁判の法廷という場で、日本国の立場を正々堂々と主張していたということが、改めて分かったからです。
 「断じて日本は侵略戦争をしたのではありません、自衛戦争をしたのであります」
 私はこれぞ本物の軍人魂、これぞ日本人だと感じました。死を覚悟していたからこそ、これだけのことが言えたのでしょう。祖父はそのほかにも、自分が開戦の責任者であったこと、日本の国家を弁護するのは自分以外にないということを、はっきりと言い切っています。これだけの強い覚悟、信念があったからこそ、日本国としての主張を堂々と言うことができたのでしょう。読み終えたとき、私は感動を禁じえませんでした。
 戦後、日本は連合軍の政策にすっかり洗脳されてしまいました。日本が行った戦争を「侵略戦争」であったと刷り込まれた上に、GHQの検閲により「自衛戦争」という主張は掻き消されていました。日本人は目も耳も塞がれていたのです。
 いま中国や韓国が盛んに言い立てる靖国の問題にしても、東京裁判に関する問題にしても、すべてはこの「自衛戦争をしたのであります」という一行が鍵を握っていると思います。戦後の日本人が、心して思っていなければならなかった一行です。この一冊の真髄といえる部分だと思います。これさえしっかりと心に持っていれば、こんな日本にはならなかったはずなのです。(東條由布子)




陛下に戦争責任無し

 ハルノートを突きつけられた後に於いても、陛下の御意志は下記のごとく、一貫して米英開戦の回避を望んでおられました。そして、時の首相で或東條英機もまた、陛下の御意志を受け、最後まで開戦を回避しようとされていました。その苦渋の後については、是非原書を手にとって頂きたいと思います。
「十一月三十日午後三時過ぎ突然陛下の御召ありただちに参内拝謁しましたところ、陛下より先程高松宮より海軍は手一杯でできるならこの戦争は避けたしとのことであった。総理の考えはどうかとの御下問でありました。」

 東條英機は、国策の決定に対し、陛下は拒否されることは無いことを以て、陛下に戦争責任無しと断言しております。

 通例の手続により決定したる国策については、内閣および統帥部の輔弼(国務大臣)および輔翼(朝廷の補佐)の責任者においてその全責任を負うべきものでありまして、天皇陛下に御責任はありませぬ。この点に関しては私は既に一部分供述いたしましたが、天皇陛下の御立場に関しては寸毫の誤解を生ずるの余地なからしむるため、ここに更に詳説いたします。これは私に取りて真に重要な事柄であります。
 要するに天皇は自己の自由意思を以て内閣および統帥部の組織を命じられることはありません。内閣及び統帥部の進言は拒否されることはありません。天皇陛下のご希望は内大臣の助言によります。しかもこのご希望が表明されたときにおいてもこれを内閣および統帥部においてその責任において審議し上奏します。この上奏は拒否されることはありません。これが戦争史上空前の重大危機における天皇陛下の御立場であられたのであります。
 現実の慣行が以上のごとくでありますから、政治的、外向的および軍事上の事項決定の責任は全然内閣および統帥部にあるのであります。それゆえ昭和一六年十二月一日開戦の決定の責任もまた内閣閣員および統帥部の者の責任でありまして絶対的に陛下の御責任ではありません。




大東亜政策に関して東條内閣が実現を図りたる諸事項

 そもそも日本の大東亜政策は第一次世界大戦後世界経済のブロック化に伴い近隣相互間の経済提携の必要からこの政策が唱えられるに至つたのであります。その後東亜の赤化と中国の排日政策とにより支那事変は勃発しました。そこで日本は防共と経済提携とによつて日華の国交を調整し以て東亜の安定を回復せんと企図しました。日本は支那事変を解決することを以て東亜政策の骨子としたのであります。しかるに日本の各般の努力にもかかわらず米、英、蘇(ソ連)の直接間接の援蒋行為により事態はますます悪化し、て来ました。日本はこれに努力しましたが、米、英はかえつて対日圧迫の挙に出たのであります。ここにおいて日本は止むを得ず、平和的手段により、仏印、泰更に蘭印と友好的経済的提携に努むるとともに東亜の安定回復を策するの方法をとるに至りました。
 しかるに日本に対する米英蘭の圧迫はますます加重せられ、日米交渉において局面打開不可能となり、日本はやむを得ず自存自衛のため武力を以て包囲陣を脱出するに至りました。
 右武力行使の動機は申すまでもなく日本の自存自衛にありました。


東亜に共栄の新秩序を建設することに努めました。

 大東亜政策の実現の方策としてはまず東亜の解放でありついで各自由かつ独立なる基礎の上に立つ一家としての大東亜の建設であります。
 あたかも約一世紀前の昔ラテンアメリカ人がラテンアメリカ解放のために戦つたのと同様であります。当時、東亜民族が列強の植民地としてまたは半植民地として、他よりの不当なる圧迫のもとに苦悩し、これよりの解放をいかに熱望しておつたかはこの戦争中、一九四三年(昭和十人年)十一月五日、六日東京に開催せられたる大東亜会議における泰国代表ワンワイタヤコーン殿下の演説に述べられた所によりこれを表示することができます。
「特に一世紀前より英国と米国とは大東亜地域に進出し来り、あるいは植民地として、あるいは原料獲得の独占的地域とし、あるいは自己の製品の市場として、領土を獲得したのであります。したがつて大東亜民族はあるいは独立と主権とを失い、あるいは治外法権と不平等条約によつてその独立および主権に種々の制限を受けしかも国際法上の互恵的取扱を得るところがなかつたのであります。かくしてアジアは政治的に結合せる大陸としての性質を喪失して単なる地域的名称に堕したのであります。かかる事情により生れたる苦悩は広く大東亜諸国民の感情と記憶とに永く留まつているのであります」と。
 また同会議において南京政府を代表して江兆銘氏はその演説中において中国の国父として尊敬せられたる孫文氏の一九二四年(大正十三年)十一月二十八日神戸においてなされた演説を引用しております。
「日支両国は兄弟と同様であり日本はかつて不平等条約の束縛を受けたるため発憤興起し初めてその束縛を打破し東方の先進国ならびに世界の強国となつた。中国は現在同様に不平等条約廃棄を獲得せんとしつつあるものであり、日本の十分なる援助を切望するものである。中国の解放はすなわち東亜の解放である」
 以上は単にその一端を述べたるに過ぎませぬ。これが東亜各地に欝積せる不平不満であります。
 一次世界大戦後の講和会議においてはわが国より国際連盟規約中に人種平等主義を挿入することの提案をなしたのであります。しかし、この提案は、あえなくも列強により葬り去られまして、その目的を達しませんでした。よつて東亜民族は大いなる失望を感じました。一九二二年(大正十一年)のワシントン会議においてはなんらこの根本問題に触るることなくむしろ東亜の植民地状態、半植民地状態は九ケ国条約により再確認を与えられた結果となり東亜の解放をねがう東亜民族の希望とはますます背馳するに至つたのであります。ついで一九二四年(大正十三年)五月米国において排日移民条項を含む法律案が両院を通過し、大統領の署名を得て同年七月一日から有効となりました。これより先、すでに一九〇一年(明治三十四年)には濠州政府は黄色人種の移住禁止の政策をとつたのであります。かくのごとく東亜民族の熱望には一顧も与えられずにますますこれと反対の世界政策が着々として実施せられました。
 そこで東亜の安定に特に重大なる関係を有する日本政府としては、戦争の発生とともにこれを以て戦争目的の一つとしたのであります。


■大東亜建設の理念

 大東亜各国はで始まる五つの性格があります。
(一)共同して大東亜の安定を確保し共存共栄の秩序を建設する
大東亜共存共栄の秩序は大東亜固有の道義的精神に基くべきものでありまして、この点において自己の繁栄のために他民族、他国家を犠牲にするごとき旧秩序とは根本的に異なると信じたのであります。
(二)相互に自主独立を重んじ大東亜の親和を確立する
親和の関係は相手方の自主独立を尊重し、他の繁栄により自らも繁栄し以て自他ともに本来の面目を発揮し得るところにのみ生じると信じたのであります。
(三)相互にその伝統を尊重し各民族の創造性を伸長し、大東亜の文化を昂揚する
由来大東亜には優秀なる文化が存しておるのであります。ことに大東亜の精神文化には崇高幽玄なるものがあり、今後これを長養醇化し広く世界に及ぼすことは物質文明の行詰まりを打開し人類全般の福祉に寄与することは少なからずと考えました。
(四)互恵のもと緊密に提携しその経済発展を図り大東亜の繁栄を増進する
大東亜の各国は民生の向上、国力の充実を図るため互恵のもと、緊密なる提携を行い共同して大東亜の繁栄を増進すべきであります。
(五)人種的差別を撤廃し文化を興し進んで資源を開放して世界の進運に貢献する
口に自由平等を唱えつつ他国家他民族にたいし抑圧と差別とをもつて臨み自ら膨大なる土地と資源とを壟断し他の生存を脅威して顧みざるごとき世界全般の進運を阻害するごとき旧秩序であってはならぬと信じたのであります。

 仏印および泰国との国交の展開の上においても、すべて平和的方法によりその達成を期せんとしておることは前にも述べた通りであります。この主旨は一九四三年(昭和十人年)十一月五日開催の大東亜会議に参集しました各国代表の賛同を得て同月六日に大東亜宣言として世界に表示したのであります。


※下記に、米国の意図する東亜諸国の自由と平等について記述します。

 どうしても日米関係の打開を図ろうと、両国首脳会談を申し込んだ日本に対し、1941年10月2日、ハル長官は太平洋の全局の平和維持の為に、予め下記の四項目の了承を必要とし申し出た。ようするに、首脳会談を拒絶したのです。
 この各項目には、東亜諸国の独立と主権尊重は歌われていません。一見、そのように受け取れるのですが、前提は西洋諸国が植民地支配を続けるという条件があることを忘れては成らない。
上記(1)〜(5)の根本理念とは妥協できないことが明確に分かります。だから、日米の和平交渉は成立しなかった一面もあるのでしょう。
1、各国の領土ならびに主権の尊重
2、他国の内政不干渉主義の支持
3、通商上の機会均等を含む均等原則の支持
4、平和的手段によるのほか太平洋における現状の不変更

◇ 1941年11月26日、ハルノート([大東亜戦争の真実 P143])
  1. 日本陸海軍はいうに及ばず警察隊も支那全土(満州含む)および仏印より無条件に撤兵すること。
  2. 満州政府の否認
  3. 南京国民政府の否認
  4. 三国同盟条約の死文化(※米国との交渉を有利にすること、防共協定が目的で、独の参戦要望に対して日本は拒否している。) 

ハルノートの作成者について([日本の歴史E昭和編 P38])
 実際、後に東京裁判のパル裁判官はアメリカの現代史家ノックを引用して、ハル・ノートのような覚書を突きつけられたら、「モナコ王国やルクセンブルク大公国のような小国でも、アメリカに対して矛を取って立ち上がったであろう」と言っているが、まさにそのとおりである。
 ハル・ノートと言われるが、本当はハル国務長官の案ではなく、財務省高官であったハリー・ホワイトが起草し、ルーズベルト大統領が「これで行け」と言ったものであることが戦後明らかになった。野村・ハル会談の流れにない案が突然出てきたのは、この理由からである。
 ホワイトは戦後も要職にあったが、その後スパイ容疑が出て自殺した。ハル・ノートは、ソ連の指導者スターリンの意向を受けて日本を対米戦争に追い込むための条件が書かれた文書と理解してよいであろう。ルーズベルトの周囲には当時、数百人のコミンテルン協力者がいたと言われるが、これもその一例と言える。([コミッテルンの陰謀と日本][近衛文麿の戦争責任][ルーズベルトの罪状])
 アメリカはシナ大陸に利権を求めたいがために、排日移民法を作り、のちには石油を止めることもやった。また真珠湾には大艦隊を集結させた。しかも、近代国家として日本が存在できないような経満封鎖を行った。不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約。一九二八年=昭和三)を提唱したアメリカの国務長官ケロッグも、アメリカ議会における答弁の中で、「侵略戦争とは国境を越えて攻め入るようなことだけでなく、重大な経済的脅威を与えることも侵略戦争と見なされる」という主旨のことを言っている。このケロッグの定義によれば、石油禁輸などは、日本に対する侵略戦争開始と言える




第二次世界大戦の真因([日本の歴史E昭和編 P56])
 「イギリスやアメリカに対抗するためには、日本も自給自足圏を作るしかない」と考える日本人が出てくるのも当然の展開であった。つまり、東アジアにおいて、日本を中心とする経済ブロックを作り、その中でおたがいに貿易を行うことで、この大不況を生き残ろうというのである。その考えは、やがて「日満ブロック政策」(日本と満洲(中国東北部)を一つの経済圏とする政策)となり、これが日本国民の広い層の支持を得ることになった。だが、アメリカやイギリスがブロック経済化する以前は、日満ブロックのような考え方を日本は支持していなかったのである。
 ヨーロッパでもドイツやイタリアのような「持たざる国」では、英米のような「持てる国」の経済ブロック化に対抗して、国家社会主義化(ファッショ化)が国民の支持を得るようになつた。一九三〇年代のファッショ化の引き金は、アメリカとイギリスが引いたのである。
 第二次世界大戦は、ドイツや日本が始めたものだとされるが、本当はドイツや日本を戦争に追い込んだのは「持てる国」がブロック経済をやり出したためである。そのことを最もよく知っているのは正にアメリカやイギリスであった。
 それで大戦の終結が見え出した一九四四年(昭和十九)七月、アメリカのニューハンプシャー州のブレトンウッズで戦後の世界経済を考える会議を開き、自由貿易体制の世界を作る金融機関設置を決めたのである。つまりこの会議は、第二次大戦は自由貿易制度の破壊その元凶は、アメリカのホーリー・スムート法とイギリスのオタワ会議であったことをアメリカとイギリスが、自白したことを示すものであったと言える。



大東亜諸国に対する施策

(A)ビルマ国の独立
 一九四三年(昭和十八年)八月一日、日本はビルマ民族の永年の熱望に答え、そのビルマ国としての独立を認めかつ同日これと対等の地位において日緬同盟条約を締結しました。
 ビルマ民族がその独立をいかに熱望しておつたかは同年十一月六日の大東亜会議におけるビルマ同代表バー・モー氏の演説中に明らかにされております。その中の簡単な一節を引用します。
「わずかに一千六百万のビルマ人が独力で国家として生まれ出づるために闘争したときは常に失敗に終りました。何代にもわたつてわれわれの愛国者は民衆を率い打倒英国に邁進したのでありますがわれわれが東亜の一部に過ぎないこと、一千六百万人の人間がなし得ないことも十億のアジア人が団結するならば容易に成就し得ることこれらの基礎的事実を認識するに至らなかつたためにわれわれの敵に対するあらゆる反抗は仮借するところなく蹂躙されたのであります。かくて今より二十年前に起つた全国的反乱の際にはビルマの村々は焼き払われ婦女子は虐殺され志士は投獄されあるいは絞殺されまたは追放されたのであります。しかしながらこの反乱は敗北に終つたとはいえこの火焔、亜細亜の火焔はビルマ人全部の心中に燃えつづけたのでありまして、反英運動は次から次へと繰りかえされこのようにして闘争は続けられたのであります。しかして今日漸くにしてついにわれわれの力は一千六百万のビルマ人の力のみではなく十億の東亜人の力である日が到来したのであります。すなわち東亜が強力である限りビルマは強力であり不敗である日が到来したのであります」

(B)フィリピン国の独立
 一九四三年(昭和十八年)十月十四日、日本はフィリピンにたいし全国民の総意によるその独立と憲法の制定とを認めました。また同日これと対等の地位において同盟条約を締結しました。

(C)泰(タイ)国の独立と自立
 一九四三年(昭和十八年)十一月六日の大東亜会議において泰国代表ワンワイタヤコーン殿下はこれにつき次のごとく述べております。
「日本政府は宏量、よく泰国の失地回復と民力結集の国民的要望に同情されたのであります(かくて日本政府はマライ四州およびシャン二州の泰国領編入を承認する条約を締結されたのであります。これじつに日本国は泰国の独立および主権を尊重するのみならず、泰国の一致団結と国力の増進を図られたことを証明するものでありまして、泰国官民は日本国民にたいして深甚なる感謝の意を表する次第であります」

(D)インドネシアの独立
 戦略上ビルマなどのように、即独立を認めることは出来ず、将来独立を認めようとしていたのだが、その前に東条内閣は総辞職する。しかし、次の小磯内閣においてインドネシアの独立を声明し、東條自身もこれに賛成している。

(E)インド独立へ
 帝国政府は一九四三年(昭和十八年)十月二十一日自由印度仮政府の誕生を見るにおよび十月二十三日にこれを承認しました。右仮政府は大東亜の地域内に在住せる印度の人民を中心としてシュバス・チャンドラ・ボース氏の統率の下に印度の自由独立および繁栄を目的としてこれを推進する運動より生れたのであります。帝国はこの運動にたいしては大東亜政策の趣旨よりして印度民族の年来の宿望に同情し全幅の支援を与えました。なお一九四三年(昭和十人年)十一月六日の大東亜会議の機会においてわが国の当時の占領地城中唯一の印度領たるアンダマン、ニコパル両諸島を自由印度仮政府の統治下に置く用意ある旨を声明しました。これまたわが大東亜政策の趣旨に基きこれを実行したのであります。


■大東亜会議の模様

 本会議は強制的のものでなかつたことは、その参集者は次のような所感を懐いておることより証明ができます。フィリピン代表のラウレル氏はその演説中において次のごとく述べております。
「私の第一の語はまず本会合を発起せられた大日本帝国に対する深甚なる感謝の辞であります。すなわち、この会合において大東亜諸民族共同の安寧と福祉との諸問題が討議せられまた大東亜諸国家の指導者閣下におかれましては親しく相交ることによりて互に相知りよつて以て亜細亜民族のみならず、全人類の栄光のために大東亜共栄圏の建設およびこれが恒久化に拍車をかけられる次第であります」

 また陪席せる自由印度仮政府代表ボース首班の発言中に下記の様に述べています。
「本会議は戦勝者間の戦利品分割の会議ではありません。それは弱小国家を犠牲に供せんとする陰謀謀略の会議でもなく、また弱小なる隣国を瞞着せんとする会議でもないのでありましてこの会議こそは解放せられたる諸国民の会議でありかつ正義、主権、国際関係における互恵主義および相互援助等の尊厳なる原則に基づいて世界のこの地域に新秩序を創建せんとする会議なのであります」

 更にビルマ代表バーモー氏は本会議を従来の国際会議と比較し次のごとく述べております。
「今日この会議における空気は全く別個のものであります。この会議から生れ出る感情はいかように言い表わしても誇張し過ぎる事はないのであります。多年ビルマにおいて私は亜細亜の夢を夢に見つづけて参りました。私のアジア人としての血は常に他のアジア人に呼びかけて来たのであります。昼となく夜となく私は自分の夢の中でアジアはその子供に呼びかける声を聞くのを常としましたが今日この席において私は初めて夢であらざるアジアの呼声を聞いた次第であります。われわれアジア人はこの呼声、われわれの母の声に答えてここに相集うて来たのであります」



人種平等世界の出発点となった「大東亜会議」
   〜 大東亜会議七十周年記念 〜  (史 2013年11月号より抜粋)


1.戦争目的を世界に向けて宣明

 今から七十年前の昭和十八年十一月五、六日に、大東亜会議が帝国議会(現国会)議事堂において催された。
 議事堂を囲む銀杏が黄ばむころ、東條首相、汪精衛中国(南京政権)行政院長、タイのワンワイタヤコン首相代理殿下、張景恵満州国国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、チャンドラ・ボース自由インド仮政府主席が、一堂に会した。
 この会議は有色人種のリーダーが集って、人種平等を高らかに宣言した人類史上最初のサミットだった。
 大東亜会議はアジアを白人の数世紀にわたる植民地支配による「樫桔(枷)から解放」し、「道義に基く共存共栄の秩序を建設」することを掲げた、大東亜共同宣言を採択した。
 私の亡父は敗戦の九月、東京湾に浮ぶ敵戦艦『ミズーリ』号で行われた降伏調印式に、全権として調印した重光英外相に随行した。重光全権のすぐわきに父が立っている。私は父にその時の心境を、たずねたことがあった。「重光も私も『戦いに敗れたが、日本はアジアを解放し、大きな世界的な使命を果した』誇りをいだいて、甲板を踏んだ」と述懐した。
 日本は国家としては敗れたが、民族として勝ったのだった。
 日本が白人の大帝国ロシアに対する日露戦争に勝ったことによって、全世界の有色民族が覚醒し、前大戦を戦うことによってアジアを解放し、人類にまったく新しい歴史を拓いた。大東亜会議は開戦三年目に入るのに当たって、戦争目的を世界へ向けて宣明するものだった。
 日本はペリー艦隊が江戸湾に侵入し、要求に従わされた後に、西洋列強によって一連の屈辱的な不平等条約を強いられた。
 日本国民は二つの大きな悲願を、いだいた。不平等条約の撤廃と、人種平等の世界を創ることだった。最後の不平等条約は、日露戦争後になって撤廃されたが、人種平等の世界を招き寄せる夢を見つづけた。
 私は一九五〇年代末にアメリカに留学したが、黒人に対する差別は、それは酷いものだった。選挙権も奪われ、教会から水飲み場まで、白人と黒人用に分けられていた。
 日本がアジアを解放すると、その高波がアフリカも洗って、アフリカ諸民族が次々と独立した。アメリカは戦後も、国内で黒人に対する差別を続けた。だが、アフリカの外交官を差別することができなかった。すると、一九六〇年代に黒人による公民権運動が起って、ついに黒人が不当な差別から解放された。
 多くの州で白人と黒人のあいだの性交渉や、結婚を犯罪としていたが、一九六七年になって最後の三つの州で、撤廃された。
 大戦後、アメリカのメジャーリーグで、はじめて黒人がプレイできるようになった。七〇年代に入ると、黒人もテニスやゴルフを楽しめるようになった。
 今日、アメリカで黒人のオバマ大統領が登場したが、先の大戦で生命を捧げた、数百万の御英霊と、国民の犠牲によるものである。
 大東亜会議は人類の長い歴史のはてに、人種平等の理想の世界を創りだした。白人もいまでは、人種差別を行ったことを悔いている。日本は人類の光だった。私たちの幕末からの夢が、結実した。
 昭和十八年十月に、大東亜会議に参加するために、首脳たちがつぎつぎと来京した。インド独立の英雄であるボース主席がいた。ボースは会議で演説して『大東亜宣言』が「全世界の被抑圧人民の憲卓早である」と、結んだ。
 日本はアメリカの不当な圧迫に耐えられず、自衛のために立ち上ったが、大東亜会議こそ今日では当然のことになっている、人種平等の世界の出発点となった。

2.『大東亜会議七十周年』を祝う国民集会

 この十一月六日に 『大東亜会議七十周年』を祝う国民集会を憲政記念館で催す準備を憂国の同志とともに進めており、渡部昇一先生、ニューヨーク・タイムズ元東京支局長のH・ストークス氏、ボース首席の孫のボース氏、私が講演する。
 アジアではチベット、ウィグル、南モンゴル (中国が外モンゴルと呼ぶ)、中国、北朝鮮をはじめとする諸民族が、いまだに過酷な圧政のもとで苦しんでいる。
 アジア解放の夢は、まだ実現していない。私たちは先人たちから、アジア解放の戦いを続けてゆく崇高な使命を、托されている。


3.「君は大東亜会議を知っているか?」

 いったい、今日の日本の若者の何人が、大東亜会議を知っているだろうか。宮沢内閣による教科書の書き直しや、村山首相談話によって、日本は侵略国家の汚名を着せられてきた。
 日本国民が大東亜会議を学ぶことによって、日本がアジアを侵略したのではなく、解放した真実を知ることになるのを、願っている。
 僕(加瀬英明)が中学生になった時に父に、降伏文書の調印の際のミズーリ号の甲板をどういう気持ちで踏んだのかと、質問しました。「重光も同じだったけれど、日本は国家としては敗れたけれど、民族としては勝ったという誇りを抱いて甲板を踏んだ」と父は言いました。それは事実です。
 「日本は国としては負けたけれど、民族としてはこの戦争に勝った」。そのことはまさに民族の誇りとして今の世代にも伝えていかなければいけないと思います。
 
 ◇ 日本を占領したGHQが公開禁止にした、昭和18年のニュース…西村幸祐氏FBより
 貴重な映像がNHKのサイトにありました。昭和18年の大東亜会議開催の報道です。
 日本を占領したGHQが公開禁止にした理由がよく解るのは、「大東亜共同宣言」は昭和16年の米英の大西洋憲章に対峙したものだからです。大東亜会議は世界史上初のアジアサミットで、重光葵が発案しました。ところが、来年が戦後70年になる現在でも、全くこのニュースの意義が報じられないのは、日本がまだ米国を中心とする連合国軍に占領されているということではないでしょうか?
 自由インド仮政府代表のチャンドラ・ボースが羽田に到着するシーンで、上海の朝鮮人によるテロ事件で片足を失った彼が、脚を引きずりボースを迎える光景が非常に印象的です。
 重光は敗戦後のミズーリ艦上の降服文書調印でも有名ですが、東京裁判でA類戦犯として起訴され7年の刑を受けました。日本の主権回復前の昭和25年に仮釈放されますが、主権回復後は連合国と日本のサンフランシスコ講和条約の規定に基づき、日本政府と東京裁判に参加した全ての国の政府との合意で刑の執行を終了しています。
 その後、この偉大な重光葵は自由民主党の結成に参加し、鳩山内閣で外務大臣を務めました。つまり、いわゆる「A級戦犯」のA類戦犯でも外務大臣に就任したわけで、A類戦犯が靖国に祀られているからという理由で日本の政治家の靖国参拝を問題視するのは、幼稚な反日プロパガンダであることがよく解ります。
 
 ■[光は東方よりhttp://ow.ly/Gu6LB
 古きアジアの終焉を告げ、新しき世界歴史の進展を宣言する大東亜会議。大東亜各国代表は、東京羽田飛行場に相次いで到着いたしました。昭和18年11月1日、中華民国代表、行政院院長汪精衛閣下、並びに列席者。続いて満洲国代表、国務総理大臣張景恵閣下、並びに列席者。翌2日、フィリピン国代表、大統領ホセ・ベ・ラウレル閣下、並びに列席者。3日、泰国代表首相代理ワンワイ・タヤコン殿下、並びに列席者。続いてビルマ国代表、内閣総理大臣、ウ・バー・モウ閣下、並びに列席者。これより先10月31日、自由インド仮政府首班、スバス・チャンドラ・ボース閣下は、帝国政府の同政府承認に対し、感謝の意を表明するため来朝し、たまたまこの世紀の大会議に陪席する光栄を担ったのであります。かしこくも天皇陛下には、大東亜会議に列席し、共栄圏の輝ける歴史に燦たる1ページを記録すべき重大使命を担って来朝せる中華民国、泰国、満洲国、フィリピン国、ビルマ国の代表を、11月4日宮中に召させられ、御歓待・御激励の思し召しをもって午餐を御催し遊ばされました。

 5日、この日、世界の視聴を浴びて帝都にそびえる白亜の議事堂に、大東亜6ヶ国の代表、一同に会す。劈頭(へきとう)、帝国代表東條総理立って所見を開陳。
 今次の戦争は大東亜の全民族にとりましては、実にその興廃の分かるる一大決戦であります。この戦いに勝ち抜くことによりまして、初めて大東亜の諸民族は永遠にその存立を大東亜の天地に確保し、共栄の楽しみをともにいたしますることができるのであります。もとより、米英はその頼みとする物質的戦力を挙げて、大東亜に反攻を繰り返すことは当然であります。大東亜の諸国家はその全力を尽くし、これを徹底的に破砕し、さらに彼らに痛撃を加え、もって戦争を完遂して、大東亜永遠の安定を確保しなければならんのであります。道義に基づく大東亜の新建設は、現に(音声中断)の真っ只中にあって着々として、実現を見つつあるのであります。

日本代表東條首相「大東亜共同宣言」
 これより再開をいたします。本日午前の議事におきまして、議案に関する質疑および討論を終了いたしました。よって、ただいまから採決を行います。ここに改めて議案を朗読いたします。大東亜共同宣言。そもそも世界各国が各々そのところを得、相倚り、相扶けて、万邦共栄の楽しみをともにするは、世界平和確立の根本要義なり。しかるに米英は自国の繁栄のためには、他国家他民族を抑圧。特に大東亜に対しては、あくなき侵略、搾取を行い、大東亜隷属化の野望をたくましうし、遂には大東亜の安定を根底より覆さんとせり。大東亜戦争の原因、ここに存す。大東亜各国は相提携して、大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の桎梏(しっこく)より解放して、その自存自衛を全うし、左の綱領に基づき、大東亜を建設、もって世界平和の確立に寄与せんことを期す。一つ、大東亜各国は共同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設す。一つ、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し、互助敦睦の実をあげ、大東亜の親和を確立す。一つ、大東亜各国は相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸暢し、大東亜の文化を高揚す。一つ、大東亜各国は互恵のもと緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進。一つ、大東亜各国は万邦との交誼(こうぎ)を篤うし、人種的差別を撤廃し、あまねく文化を交流し、進んで資源を開放し、もって世界の進運に貢献す。」

≪日本代表東條首相≫ …世界史を画するこの一瞬。
 満場一致をもちまして、事案は採択されました。よってここに、大東亜共同宣言は成立をいたしました。これをもちまして予定の議事を終了いたしましたが、他に別にご発言はありませんか。
 イギリス帝国主義の圧迫のもと、いばらの道をともに歩み励ましあって今日の喜びの日を迎えたビルマ国代表バー・モウ首相立って、自由インド仮政府支援の発言をなす。
 インドの独立なくしてアジアの自由なし。インドとビルマの共同の敵は、かのイギリス帝国である。私は私の闘争の体験から、武力なき戦いは無力であると痛感するに至った。かかる見地から、インドの武力奪還を提唱され、かつ闘争されてきた、我が友スバス・チャンドラ・ボース閣下こそは、独立首相の最適任者である。アジア10億の民衆、団結なった今日、インドの独立、また近きを確信する。
 大東亜会議が送る絶大の支援に対し、自由インド仮政府首班ボース閣下立って、インドにあっては完全なる独立か、しからずんば死滅あるのみと、抗英武力決戦の固き決意を披瀝(ひれき)。熱烈たるその叫びは、深く一同の胸に食い入り、インド4億の民衆の先頭に立ち、イギリス打倒に驀進(ばくしん)する偉大なる指導者に、満場の聴衆、粛然として無言の激励を送る。

≪日本代表東條首相≫…東條首相立って、重大発言を行う

 憂国のインド人は立ち上がり、そのインドを思い、アジアを思う熱情の切々たるものありますることは、ただいま自由インド仮政府首班閣下の演説におきましても、これを明、明らかにされたところであります。同政府のもとに、決起せる同志の(聞き取り困難)、貫徹の気迫、烈々として、結束とみに(聞き取り困難)の現状にかんがみまして、ここにインド独立の第1階梯(かいてい)といたしまして、帝国政府といたしまして、目下帝国軍において占領中のインド領でありまするアンダマン諸島、およびニコバル諸島を、近く自由インド仮政府に帰属せしむるの用意ある旨を、この席上において帝国はこれを闡明(せんめい)いたす次第であります。
 かくて第2日の大東亜共同宣言に見る、偉大なる成果を収めた大東亜会議は、ここに幕を閉じたのであります。




陸軍と政治との関係


 第一次世界大戦後の生産過剰と列強の極端なる利己的保護政策とにより自由貿易は破綻を来したのであります。この自由貿易の破綻はひいては自由主義を基礎とせる資本主義の行き詰まりという一大変革期に日本は当面したのであります。かくして日本の国民経済に大打撃を与え国民生活は極度の窮乏に陥りました。しかも当時世界的不安の風潮は日本にも滔々として流れ込んだのであります。かくて日本は一種の革命期に突入しました。
 この革命期には大別して二種の運動がありました。その一つは急進的な暴力革命の運動であります。他の一つは斬新的で資本主義を是正せんとするいわゆる革新運動であります。急進的暴力革命派は軍人もしくは軍隊を利用せんとし、青年将校等を扇動しかつ巻き込まんとしました。その現れが五・一・五事件(1932年、昭和七年)、二・二・六事件(昭和十一年)等でありました。けだし、農山漁村困窮の実情が農山漁村の子弟たる兵士を通じて軍に反映して青年将校等がこれに同情したことに端を発したのであります。しかして軍は二・二・六事件のごとき暴力行為は軍紀を破壊し国憲を紊乱しその余弊の恐るべきものあるにかんがみ、廣田内閣時代寺内陸相により粛軍を断行しこれを処断するとともに、軍人個々の政治関与を厳禁しました。他面陸軍大臣は国務大臣たる資格と責任において政治的に社会不安(すなわち国民生活の窮乏と思想の混乱)を除去する政策の実行を政府に要求致しました。検事側の問題とする陸海軍現役生の復活もこの必要と粛軍の要求とより出たものであります。かくのごとき関係より軍が政治的発言をなすに至つたのであります。検察側の考えるごとく暴力的処置により軍が政治を支配せんとしたものではないのであって、以上の如き政治情勢が自らしからしむるに至ったのであります。

◇ ABCD経済封鎖(東條英機の証言
 一九三九年(昭和十四年)七月二十六日アメリカのわが国との通商航海条約廃棄通告以来米国のわが国に対する経済圧迫は日々にはなはだしきを加えております。その事実中、わずかばかりを記憶により陳述いたしますれば、一九四〇年(昭和十五年)七月にはルーズベルト大統領は屑鉄、石油等を禁輸品日に追加する旨を発表いたしました。米国政府は同年七月末日に翌八月一日より飛行機用ガソリンの西半球外への輸出禁止を行う旨を発表いたしております。同年十月初旬にはルーズベルト大統領は屑鉄の輸出制限令を発しました。以上のうち特に屑鉄のわが国えの輸出制限は当時の鉄材不足の状態とわが国に行われた製鉄方法にかんがみわが朝野に重大な衝撃を与えたのであります。
 また日本の生存に必要なる米およびゴムをタイ・インドネシアの地区において買取ることの妨害が行われたのであります。日本の食糧事情としては当時(一九四一年頃にあつては)毎年約百五十万トン(日本の量目にて九百万石)の米を仏印および泰より輸入する必要がありました。これらの事情のため日仏印の間に一九四一年(昭和十六年)五月六日に経済協定を結んで七十万トンの米の入手を契約したのでありましたが仏印は契約成立後一ケ月を経過せざる六月に協定に基く同月分契約量十万トンを五万トンに半減方申出て来ました。日本としては止むなくこれを承諾しましたところ七、八月分についてもまた契約量の半減を申出でるという始末であります。泰においては英国は一九四〇年(昭和十五年)未に泰ライス会社にたいしてシンガポール向け泰米六十万トンという大量の発注をなし日本が泰における米の取得を妨害いたしました(ゴムについては仏印のゴムの年産は約六万トンであります。その中日本はわずかに一万五千トンを米ドル払いで入手していたのでありますが、一九四一年(昭和十六年)六月中旬米国は仏印のハノイ領事にたいし仏印生産ゴムの最大量の買付を命じ日本のゴム取得を妨害しまた、英国はその属領にたいし仏印生産ゴムの最大量の買付を命じ日本のゴム取得を妨害しまた、英国はその属領にたいし一九四一年(昭和十六年)五月中旬日本および円ブロック向けゴムの全面的禁止を行いました。
   ⇒[マッカーサ証言]参照




対ソ外交と共産主義(防共)

 尚、[近衛文麿上奏文]にも共産主義による破壊工作が述べられています。

 他面日本帝国は第三インターナショナルの勢力が東亜に進出し来ることに関しては深き関心を払つて来ました。けだし、共産主義政策の東亜への浸透を防御するにあらざれば、国内の治安は破壊せられ、東亜の安定を攪乱し、ひいて世界平和を脅威にするに至るべきことをつとに恐れたからであります。これがため、国内政策としては一九二五年(大正十四年)治安維持法を制定し(若槻内閣時代)一九四一年(昭和十六年)更にこれを改訂し、以て国体変革を戒め、私有財産の保護を目的として共産主義による破壊に備え、また対外政策としては、支那事変において、中国共産党の活動が、日支和平の成立を阻害する重要なる原因の一たるにかんがみ、共同防共を事変解消の一条件とせることも、また東亜各独立国家間において「防共」を以て共通の重要政策の一としたることも、これはいずれも東亜各国共同して東亜を赤化の危機より救い、かつ自ら世界赤化の障壁たらんとしたものであります。これら障壁が世界平和のためいかに重要であつたかは、第二次世界大戦終了後この障壁が崩壊せし二年後の今日の現状が雄弁にこれを物語つております。




敗戦の責任は我にあり

 本供述書は事柄の性質が複雑かつ重大なるよりして期せずして相当長文となりました。ただ私は世界史上長も重大なる時期において、日本国家がいかなる立場にあつたか、また同国の行政司掌の地位に選ばれた者等が、国家の栄誉を保持せんがため真摯に、その権限内において、いかなる政策を樹てかつこれを実施するに努めたかを、この国際的規模における大法廷の判官各位に御了解を請わんがため、各種の困難を克服しつつこれを述べたのであります。
 かくのごとくすることにより私は太平洋戦争勃発に至るの理由および原因を描写せんとしました。私は右等の事実を徹底的に了知する一人として、わが国に取りましては無効かつ惨害をもたらしたところの一九四一年(昭和十六年)十二月八日に発生した戦争なるものは米国を欧州戦争に導入するための連合国側の挑発に原因しわが国の関する限りにおいては自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信するものであります。なお東亜に重大なる利害を有する国々(中国自身をも含めて)がなぜ戦争を欲したのかの理由は他にも多々存在します。これは私の供述の中に含まれております。ただわが国の開戦は最後的手段としてかつ緊迫の必要よりして決せられたものである事を申上げます。
 満州事変、支那事変および大東亜戦争の各場面を通して、その根底に潜む不断の侵略計画ありたりとなす主張にたいしては私はその荒唐無稽なる事を証するため、最も簡潔なる方法を以てこれを反証せんと試みました。わが国の基本的かつ不変の行政組織において多数の吏僚中のうち小数者が、長期にわたり、多の内閣を通じて、一定不変の目的を有す共同謀議(この観念は日本には 在しないが)をなしたなどいう事は理性ある者の到底思考し得ざる事なることがただちに御了解下さるでありましょう。私はなぜに検察側がかかる空想に近き訴追をなさるかを識るに苦しむ者であります。
 日本の主張した大東亜政策なるものは侵略的性格を有するものなる事、これが大東亜戦争開始の計画に追加された事、なおこの政策は白人を東亜の豊富なる地帯より駆逐する計画なる事を証明せんとするため本法廷に多数の証拠が提出せられました。これにたいし私の証言はこの合理にしてかつ自然に発生したる導因の本質を白日のごとく明瞭になしたと信じます。
 私はまた国際法と大東亜戦争の開始に関する問題とにつき触れました。また日本における政府と統帥との関係ことに国事に関する天皇の地位に言及しました。私の説明が私および私の同僚の有罪であるか無罪であるかを御判断下さる上に資する所あらば幸せであります。
 終りに臨み−−恐らくこれが当法廷の規則の上において許さるる最後の機会でありましょうが−−私はここに重ねて申上げます。日本帝国の国策ないしは当年合法にその地位にあつた官吏の採つた方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。一歩は一歩より進み、また適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法および法律に定められた手続きに従いこれを処理して行きましたが、ついにわが国は彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。当年国家の運命を商量較計するのが責任を負荷したわれわれとしては、国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途でありました。われわれは国家の運命を賭しました。しかして敗れました。しかして眼前に見るがごとき事態を惹起したのであります。
 戦争が国際法上より見て正しき戦争であつたか否かの問題と、敗戦の責任いかんとの問題とは、明白に分別のできる二つの異なつた問題であります。
 第一の問題は外国との問題でありかつ法律的性質の問題であります。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。私はいまだかつてわが国が本戦争をなしたことを以て国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、また敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的の国際法上の犯人なり、また条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてはありませぬ。
 第二の問題は、すなわち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず真心より進んでこれを負荷せんことを希望するものであります。


右ハ当立会人ノ面前ニテ宣誓シ且ツ署名捺印シタルコトヲ証明シマス
 同日於同所
                           立会人 清瀬一郎
宣 誓 書
 良心二従ヒ真実ヲ述べ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ
                           署名捺印 東條英機
 昭和二十二年(一九四七年)十二月十九日 於東京、市ヶ谷
                           供述者 東條英機




東條英機元首相公的遺書全文

      『祖父東條英機「一切語るなかれ」』東條由布子 著 (文藝春秋) より


 昭和23年12月22日夜、死刑執行(12月23日零時)数時間前に、東京巣鴨において、教誨師の花山信勝師の前で東条英機が朗読した遺言である。

 開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると、実に断腸の思いがする。今回の刑死は個人的には慰なぐさめられておるが、国内的の自らの責任は死を以もって贖あがなえるものではない。
 しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ力の前に屈服した。自分としては国民に対する責任を負って満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、又下級者にまで刑が及んだことは実に残念である。
 天皇陛下に対し、又国民に対しても申し訳ないことで深く謝罪する。
 元来日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志に依り行動すべきものであったが、一部過ちを犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった。此度の戦争に従事してたおれた人及び此等の人々の遺家族に対しては、実に相済まぬと思って居る。心から陳謝する。
 今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判を待つ。もしこれが永久平和のためということであったら、も少し大きな態度で事に臨まなければならないのではないか。此の裁判は結局は政治的裁判で終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。
 天皇陛下の御地位は動かすべからざるものである。天皇存在の形式については敢えて言わぬ。存在そのものが絶対必要なのである。それは私だけではなく多くの者は同感と思う。空気や地面の如ごとく大きな恩めぐみは忘れられぬものである。
 東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相協力すべきものである。東亜民族も亦他の民族と同様に天地に生きる権利を有べきものであって、その有色たるを寧ろ神の恵みとして居る。印度の判事には尊敬の念を禁じ得ない。これを以もって東亜諸民族の誇りと感じた。
 今回の戦争に因よりて東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら幸いである。列国も排他的の感情を忘れて共栄の心持ちを以て進むべきである。
 現在日本の事実上の統治者である米国人に対して一言するが、どうか日本人の米人に対する心持ちを離れしめざるよう願いたい。又日本人が赤化しないように頼む。大東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにされねばならぬ。実は東亜の他民族の協力を得ることが出来なかったことが、今回の敗戦の原因であったと考えている。
 今後日本は米国の保護の下に生きて行くであろうが、極東の大勢がどうあろうが、終戦後、僅か三年にして、亜細亜大陸赤化の形勢は斯かくの如くである。今後の事を考えれば、実に憂慮にたえぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上もないではないか。
 今、日本は米国より食料の供給その他の援助につき感謝している。しかし、一般人がもしも自己に直接なる生活の困難やインフレや食料の不足などが、米軍が日本に在るが為ためなりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。依って米軍が日本人の心を失わぬよう希望する。
 今次戦争の指導者たる米英側の指導者は大きな失敗を犯した。第一に日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。第二には満州を赤化の根拠地たらしめた。第三は朝鮮を二分して東亜紛争の因たらしめた。米英の指導者は之を救済する責任を負うて居る。従ってトルーマン大統領が再選せられたことはこの点に関し有り難いと思う。
 日本は米軍の指導に基づき武力を全面的に放棄した。これは賢明であったと思う。しかし世界国家が全面的に武装を排除するならばよい。然からざれば、盗人が跋扈する形となる。(泥棒がまだ居るのに警察をやめるようなものである)
 私は戦争を根絶するためには慾心を人間から取り去らねばと思う。現に世界各国、何いずれも自国の存在や自衛権の確保を主として居る(これはお互い慾心を抛棄しておらぬ証拠である)。国家から慾心を除くということは不可能のことである。されば世界より今後も戦争を無くするということは不可能である。これでは結局は人類の自滅に陥るのであるかも判らぬが、事実は此の通りである。それ故、第三次世界大戦は避けることが出来ない。
 第三次世界大戦に於て主なる立場にたつものは米国およびソ連である。第二次世界大戦に於いて日本とドイツというものが取り去られてしまった。それが為、米国とソ連というものが、直接に接触することとなった。米ソ二国の思想上の根本的相違は止むを得ぬ。この見地から見ても、第三次世界大戦は避けることは出来ぬ。
 第三次世界大戦に於いては極東、即ち日本と支那、朝鮮が戦場となる。此の時に当たって米国は武力なき日本を守る策を立てねばならぬ。これは当然米国の責任である。日本を属領と考えるのであれば、また何をか言わんや。そうでなしとすれば、米国は何等かの考えがなければならぬ。米国は日本八千万国民の生きて行ける道を考えてくれなければならない。凡生物として自ら生きる生命は神の恵である。産児制限の如きは神意に反するもので行うべきでない。
 なお言いたき事は、公、教職追放や戦犯容疑者の逮捕の件である。今は既に戦後三年を経過して居るのではないか。従ってこれは速すみやかに止めてほしい。日本国民が正業に安心して就くよう、米国は寛容の気持ちをもってやってもらいたい。
 我々の処刑をもって一段落として、戦死傷者、戦災死者の霊は遺族の申し出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。戦犯者の家族には保護をあたえられたし。
 青少年男女の教育は注意を要する。将来大事な事である。近事、いかがわしき風潮あるは、占領軍の影響から来ているものが少すくなくない。この点については、我が国の古来の美風を保つことが大切である。
 今回の処刑を機として、敵、味方、中立国の国民罹災者の一大追悼慰霊祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたいのである。勿論、日本軍人の一部に間違いを犯した者はあろう。此等これらについては衷心謝罪する。
 然これと同時に無差別爆撃や原子爆弾の投下による悲惨な結果については、米軍側も大いに同情し憐憫して悔悟あるべきである。
 最後に、軍事的問題について一言する。我が国従来の統帥権独立の思想は確に間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない。兵役制については、徴兵制によるか、傭雇兵制によるかは考えなければならない。我が国民性に鑑みて再建軍隊の際に考慮すべし。再建軍隊の教育は精神主義を採らねばならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任観念のないことは淋しさを感じた。この点については、大いに米軍に学ぶべきである。
 学校教育は従前の質実剛健のみでは足らぬ。人として完成を図る教育が大切だ。言いかえれば、宗教教育である。欧米の風俗を知らす事も必要である。俘虜のことについては研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。』

 ◆  辞 世  ◆

  我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば
  さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき




いまだ戦争は終わらず

     日本及び日本人(H14/陽春号) 東條由紀子(東條英機の孫娘)寄稿


 世界中の人々が希望に燃えて迎えた新しい千年紀の幕開けから二年が過ぎた今、世界情勢は騒々しくなってきた。アメリカを直撃した航空機テロ、アフガニスタンに潜むテロヘの徹底反撃、イスラエルとパレステナの戦いも激しさを増してきた。世界中の人々が心を一つにした平穏なあの日はもう一戻らないのだろうか―。
 戦火の中を逃げ惑う幼い子供たち、その頬を伝う涙を見るたびに平和な日本に生きていることの有り難さを思う。しかし、戦争が無いことイコール平和ではない。最近の乱れ放題の社会風潮、どん底の経済不況、続発する政界の不祥事、気付かぬ内に勢力を延ばす反日思想、戦う相手の顔が見えないだけに、日本の将来に危機感を募らせる人は多い。
 戦後の徹底した占領政策が功を奏し伝統的な日本人の価値観が大きく揺らいだことも原因の一つであろう。『国を守る』『日本人としての誇りを持つ』『先人に感謝する』『先輩を敬う』『他人を思いやる』ことなど国家の一員として当然でも、国家という言葉さえ理解できずに育つ子供たちが親になり、教師になり政治家になり、裁判官になる時代になった。自由、平等、人権などが先行する民主主義教育が半世紀をかけて浸透した結果が現代の風潮であれば、それを是正するには長い歳月を要することは言うまでもない。悠久の歴史の中で培われた日本民族の伝統的な精神もその価値観を失ってしまったのだろうか?
 半世紀前、国家存亡の危機に立たされた日本は、国の威信にかけて戦争という苦汁の選択をした。
 若者たちがペンを銃に代え学び舎を離れ、愛しい人々への思いも断ち切って戦場に散った。青春を謳歌することもなく、妻を娶ることもなく、父母の暖かい懐を離れ国家の危急に立上がった彼等の心情を思うと、やり切れない哀しさが込み上げる。記念館に掲げられている出撃前の僅かなひとときを子と戯れる愛くるしい面影を残す若き荒鷲たちの真の思いは知るよしもないが、出撃を前にした彼等の表情の何と凛々しく爽やかなことであろう。訪れる学生たちが感動で目を潤ませているが、事の善し悪しは別にして己の命をかけて国や愛しい人を守った先輩たちの生き方は、彼等が生きてゆく上で、何らかの指針になるかも知れない。

*海軍少佐   西日高光命

 神風特別攻撃隊 爆装零戦に搭乗し南西諸島洋上にて戦死 二十二歳
学鷲は一応インテリです。
そう簡単に勝てるなどとは思っていません。
しかし、負けたとしても、そのあとはどうなるのです…。
おわかりでしょう。
われわれの生命は講和の条件にも、
その後の日本人の運命にもつながっていますよ。
そう、民族の誇りに……。
『靖国』四月号より


 出撃二日前に従軍記者に語った心境だが彼は戦後の国際社会で苦境に立つであろう日本の立場まで推察し、その講和条約における日本の条件が少しでも有利に展開するなら己の命は……。
 個を以て国や同胞を救う民族愛の強さに感動する。彼らが戦場に飛び立つ際に書き残した遺書の行間に祖国を思い肉親の平穏を祈る至純な思いがあふれている。彼等のこうした思いを礎に平和な日本が築かれていることも教えない現代の風潮は、国家を乱す大きな要因であるといつても過言ではない。
 毎年、八月十五日になると繰り返される靖国神社を取り巻くあの騒動を英霊がたは天上でどんな思いで眺めていることだろう。日本のために命を捧げた日本人を祀る聖地に、外圧によって日本の総理が参拝できないという理不尽な風潮は皆で真剣に考え直す時である。
 現在の国の在り方を象徴するように、異国の戦場の洞窟には、いまだ鉄兜を被りロイドメガネをかけ軍靴を履き胸には手櫂弾を抱えた日本の将兵の遺骨が放置されたままである。現代の日本政府が過去の戦争責任を問われるならば、国策として多くの将兵を戦場に送った国家責任はどうなのか? 膨大な赤字債券を抱えてまで利権絡みの膨大な金額のODA支援をする前に、国の責務として異国に放置したままの百二十万柱の同胞の遺骨を帰還させるべきではなかろうか。
 いまだ南浜の果に、凍上の荒野に、孤島の洞窟には百二十万柱の将兵の亡骸が放置されているという事実を知る人は少ない。先人がたへの感謝の心も教えず、ひたすら過去の日本を非難する教育をする国家がどうして栄えよう。
 若い兵士たちが散華する際に書いた遺書を教科書に載せれば当然、先輩を尊敬する気持が湧いてくる。国会を喧騒の場にしている国会議員たちが先人の遺書を座右の書にすれば、国民のための良策が出てくるかも知れない。』   東條由紀子



日本がいまだやり残していること(東條由紀子)
       『私たちが生きた20世紀』(文藝春秋)より

 街の電光掲示板が今世紀の残り日数を刻々と告げている。「二十世紀」という呼び名と別れる寂しさがより募ってくる。今世紀の最後の日、私の心の中の走馬灯には自分の人生に大きな影響を与えた人々の面影が映し出されるに違いない。
 昭和五十年代、我が家には百歳の祖母と四歳の曾孫が同じ屋根の下に暮らし、楽しそうに会話をしていた。母方の祖母マサは長崎で医学を修めた父親の勧めで上京し女子教員を養成する大学に入った。日露戦争が勝利した年、彼女は大学を卒業し郷里に帰り教師になった。ほぼ同じ頃、父方の祖母かつ子も福岡から上京し女子大に入った。平塚女史が女子教育に情熱を傾けていた頃である。三十年後、二人は夫の勤務地である満州で子供たちの結婚話で会うことになる。無論当時はそれを知るよしも無い。祖母たちは髪を桃割れに結い上げ、くくり袴に編み上げ靴を履き平均台を渡リテニスに興じた。新しい国造りの担い手として若者にかけられる期待は大きく、彼等も西欧の知識を精力的に吸収した。祖母が残したノートには初めて見聞きする西欧教育に胸を躍らせる文字が目につく。舞踏会華やかなりし鹿鳴館時代に祖父母たちは青春時代を送った。
 東條家の家系図を見ると軍人は英教、英機の二代だけで、元は『能』の宝生流の宗家だった。曾祖父・英教は山県有朋に見出だされ四人の若者たちの一人としてドイツに留学した。後にメッケル将軍は“東洋にこんな優秀な男がいたのか!”唸ったという。祖父・英機も父親と同じ軍人の道を歩み、女子大の学生だった、かつ子と結婚し陸軍大学に進んだ。
 こうした生活環境の東條家に熊本の片田舎の教師の娘だった母が二十歳で嫁いできた。「東條家にとっての今世紀は?」と問われれば、首相の座にあった栄光の時代から、戦後の四面楚歌の中で人目を避けて生きてきた時代を含め、東條家の歴史と共に歩んできた母の人生と重なる部分が多い。「東條家に嫁いで本当に幸せだった」という母の心には、戦後の悲しい時代は消え東條の祖父母の懐かしい面影と優しい言葉しか残っていない。母が嫁いできたばかりの頃、祖父が買ってくれた若草色のショールと、初孫の兄が生まれた時に、祖父がデパートから買って病院に持って来てくれたベビー布団とお宮参りの祝い着が今も大切に母の箪笥にしまわれ、その機月を物語る。
 母にとって舅・英機は世界中からいかなる謗りを受けようとも最も敬愛する優しい義父であった。弟が小学校に入学した日、担任の女教師から“東條君のお祖父さんは「泥棒」よりも悪いことをした人”と級友に紹介され泣いて帰った時、母は「世間の誰が何と言っても、お祖父さまは御国のために命を捧げられた立派な御方です。東條家に生まれた誇りを持ちなさい」と毅然と言った。この自信に満ちた『誇りを持て』という言葉が戦後の人生を支えてくれた。両親を戦争で亡くした近所の三姉弟に追いかけられ、石をぶつけられ、小さな妹と弟を兄と私が一人ずつ抱えてうずくまり薪で叩かれている時、物心ついていた兄は何を考えて耐えていたのだろうか?また、転校先で担任のなり手が無い時、毎日ポールに登って窓から級友の姿を眺めていた幼い兄の心を思うといじらしくてならない。当時、獄中に在った祖父に兄は幼い文字でその胸中を書き送っている。『僕はお祖父ちゃまのことを誰が何と言っでも黙っています。お父ちゃまがお返しをしてはいけないと言うので殴られても我慢しています。本当は僕だってお返しぐらいは出来るけど!』と。
 獄中の祖父から祖母や父母宛てにくる手紙には、必ず兄「英勝」の名前が見える。傷ついた幼い心が綴ったこの手紙を祖父はどんな思いで読んだのか。
 あれから半世紀が流れたころ、『昭和天皇独自録』が出版された。一人の人間として赤裸々に胸中を述べられた文中に東條に信頼を寄せられている文字が多々あった。長年、鬱積していた思いが吹っ切れた。母の手箱の中に大切に保存されていた膨大な数の祖父母からの手紙や絵葉書や育児日記など、我が家に残された祖父母に関する資料を全て網羅して、家庭を軸にした東條英機像を描いた本を書いた。それが文春文庫に収まっている『祖父東條英機「一切語るなかれ」である。平成十年春には東條英機を主人公に、東京裁判の真相を公開した映画『プライド 運命の瞬間』が上映され百三十万人の観客を動員した。私への取材攻勢からしても、海外のマスコミもいかに東京裁判の真相を知りたがっているかが分かった。大きな時代のうねりが確かにやって来た。“百年の後の名を期せ、真実が明かされる日が必ずやって来る”と言った祖父の言葉が心に甦る。
 祖父の遺書の中に見える一つの悲願成就のために、私は新たな一歩を踏み出した。平成十一年九月十日、日米合同の遺骨収集団の日本側団長として南の島、パラオ・ペリリュー島に渡った。異国の戦場にはいまだ百二十万柱の遺骨が放置されたままである。祖父が生きていたら、飛んで行って詫び自らの手で収集したであろうにと胸が塞がれる思いだった。密林の洞窟の奥深く半世紀もの間、放置されたままの遺骨の前に額ずき"こんなに暗くて寂しい所に、ごめんなさい、 一緒に故郷に帰りましょう″と、温れる涙がハラハラと遺骨を濡らした。若い団員が母のような優しさで遺骨を胸に抱く姿に涙し、かつての敵国だった米国軍人たちが命懸けで日本兵の遺骨を探してくれるその崇高な心に感動した一間もなく忘れ得ぬ激動の二十世紀が終わる。しかし、遺骨収集の旅が終わる日はいつの事か、その目処も立たない。



日本青年への 東條英機首相の遺書

 《日本青年諸君に告げる。》
 《日本青年諸君各位》
 我が日本は神国である。
 この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。
 現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、正義公道は始終一貫して我が国にあるということは少しも疑いを入れない。
 また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、彼らの英魂毅魄は、必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。殉国の烈士は、決して犬死したものではない。

 諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。これこそがまことに私の最後の願いである。
 思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、雷同する者どもが少なからず発生するであろう。しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。

 「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」
 「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」
 「散る花もお散る木の実も心なき さそうはただに嵐のみかば」
 「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」
 という歌を残されて淡々としかし堂々の最後を遂げられました。




東條由布子さん逝去

 2013年2月13日に、享年74歳の人生を閉じられました。心からご冥福をお祈りいたします。
 戦後、東條家の方々は大変苦労されました。弟が小学校に入学した日、担任の女教師から、「東條君のお父さんは泥棒より悪いことをした人」、と級友に紹介され泣いて帰ってきた時、また良心を戦争でなく舌近所の姉妹に石をぶつけられ、小さな妹と弟を兄と私が一人ずつ抱えてうずくまり、薪で叩かれている時、母は「世間に誰が何と言おうと、お父様はお国のために命を捧げられた立派な御方です。東條家に生まれた誇りを持ちなさい」と毅然と言った。この自信に満ちた『誇りを持て』という言葉が戦後の人生を支えてくれたという。
 東條英機が当時の日本の首相として、戦争をしたことや戦争に負けたことに対しての謝罪ではなく、その結果として天皇と国民に惨禍を招いたことに対する責任を取られたのだと思います。一切語るなかれ!という思いは、東條家の一員としてその誹りを受けても耐えなさいということです。GHQや国民からも天皇への戦争責任を追及されることがないよう、自らがその防波堤となることで、天皇が国民を思う気持ちを自らの責任で代弁されのだと思います。GHQに対して日本が侵略戦争をしたという反省と謝罪の為に「一切語るなかれ!」と言ったのではなく、東條家の一員として私と共に、国体護持の為に今は耐えてくれ!と。そして、いつかこの戦争は日本の自衛の為の戦争であったことを証明する時 が来るからと。母はそのことを知って「誇りを持ちなさい」と子供たちに教えたのではないでしょうか。我が国は復讐の為の欺瞞の東京裁判を認めたのではなく、国体護持の為にその諸判決を認めたのでした。
 我が国は先の大戦で反省も謝罪もする必要はありません。それは当時も今も同じです。
 我が国との交戦国ではないシナ・朝鮮に靖国参拝や領土問題を問われる所以は一切ない。将に火事場泥棒です。日米を分断し、日本の国力を弱め、属国にして支配しようとしている。最終的にはチベットのように我が国の国体を破壊することで、彼らは目的を達成しようとしている。そして、太平洋に進出し、次は米国を倒し、全世界を支配しようと狙っているのです。そのことに私達日本国民は気付かなければなりません。
 東條由布子さんこそが、祖父の遺志を継ぐ、天の配剤ではなかったでしょうか。これからも(今までも、今もそうですが)、天上界の神々は、高潔で真摯な方々を、背後から支え続けられることでしょう。一人一人の役割が知らず知らずのうちに。一つの目的を目指している日本国民の姿こそが、世界に対する日本の使命としての天の配剤なのだと思います。
 東條英機が「宣誓供述書」を書き遺し、孫の由布子さんがその本を復刻し世に問われた。その遺志は、今、直系ひ孫の東條英利さんに受け継がれました。こうして一つの目的の為に、時代を超えてその遺志を継承できるのは、目に見えない「日本の家」という血縁によるものだろう。 英利さんは、全国の神社情報「神社人」を主宰し、昨年著書「日本の証明」を出版され、私達がこの日本の国に生まれ、生きている本質的な意味を問うておられます。そのことについて著書の中で、著者ご自身が次のように告白されていることは、私自身(鷹)の思いとも合い通じるものがあるので記して置きたい。
 昔の人は、何かいいアイディアが浮かんだりすりと、これを決して、自分のお蔭、自分の閃きは将に天才的だと自画自賛することはなく、神様がそっと後押しをしてくれたからだと謙遜したという。私もこうした往古の日本人の解釈に習うならば、曾祖父を含めた先人の苦労があったからこそ、自分のやるべき役割の中に、こうした過去と現在の結節点を導き出す宿命を見出せたのだと思う。そして、それはきっと自然の摂理でもあるのだろう。それが、私自身が、何十年とアイデンティティから逃避して来た自分自身の宿命を認識した瞬間であり、自己のアイデンティティと真正面に向かい、熟慮を重ねた自分なりの回答となったのである。東條家というレッテルを貼られることによって、自分を保ってきた。しかし、そこには本質的な自分は存在せず、現実逃避にも似た虚飾にまみれたものだったと言えるだろう。だから、思想的にも右往左往し、空虚なる自我と共にコンプレックスを感じ続けたのである。しかし、海外での体験を通じ、東條という名の以前に存在する日本人というアイデンティティーを感じた結果、わたしは、自分自身の原点と向き合い、その自覚を持つことの大切さを知った。そうした虚と実が一体となった瞬間、そこには、自然と自分の中に日本人としての誇りが見え始めた。現在日本国が陥っている閉塞感は、まさに、この虚実の一体感の無さから来ているのではないだろうか。今の日本人は、物質主義にまみれることで、仮初めの享楽に溺れ、実体のない降伏を求め、もうずっと迷走を 繰り返してきている。仮に、その感覚が無くても、世の中の仕組みを感じ取ろうとしたとき、意識は外に向き、内なる自我に向いていないことは明らかである。
 しかし、ここで一歩立ち止まって、冷静にその足元を見て頂きたい。振り向いてみれば、先人たちがどれだけの奇蹟と可能性を齎してくれていたかが分かるはずである。そのきっかけは自分の原点を見つめるという、ほんの些細な意識の変化でしかない。ただ、多くの人はその術を知らないだけである。・・・」以上

             ありがとうございました。  H25/2/16 追加



ココダの約束 ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

  〜 戦友の骨を拾う約束を25年かけて果たした男 〜



 「もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな」

■1.米軍の「すべての兵士を故郷に帰す」約束

 安倍晋三首相は4月14日、大東亜戦争の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)を訪れ、戦死した日本兵の遺骨収容作業の現場を視察した。記者団に「官邸がリーダーシップをとり遺骨帰還事業を着実に進めたい」と述べ、政府による帰還作業の加速を表明した。
 硫黄島での戦没者約2万2千人のうち、まだ半数の遺骨が収容されずにいる。この実情をアメリカ政府の遺骨収容と比べると対照的だ。米軍は硫黄島で約5千人の死者を出したが、そのうちのただ一人だけまだ遺骨が見つかっていないので、2007(平成19)年に多人数の調査隊を派遣した。
 米軍は「すべての兵士を故郷に帰す」という約束を果たすために、戦死・行方不明になった兵士の捜索や遺体回収を行う専門組織を持っている。そこでは約4百人の専門スタッフが年間50億円の予算を使って活動している。
 戦没者の遺骨が故郷に帰るときは、「ナショナル・ヒーロー」として盛大な歓迎セレモニーが行われ、地元メディアが大々的に報道する事が慣わしになっている。
 国のために戦死した兵士が、母国から見捨てられるとしたら、誰が自分の国を守るために命を掛けるだろうか。そしてそのような国家不信が広がったら、国のために尽くそうとする気風は失われ、国家は自分勝手な人間たちの集合となってしまう。それは国家自滅の道である。
 しかるに我が国は、いまだに海外での戦没者だけでも115万余柱の遺骨を野ざらしにしている。経済的繁栄を追い求めて、国家のために戦死した英霊の遺骨の収容をなおざりにしてきた所に、我が国の戦後思潮の異常さが現れている。
 そうした戦後の思潮を真っ向から否定して、ニューギニアで戦友の遺骨収容に25年もかけた人がいる。本稿では、その人の生き方を辿ることで、遺骨収容の問題を考えてみたい。

■2.ハペル氏の驚き

 オーストラリアのジャーナリスト、チャールズ・ハペル氏が、ニューギニア島東南端の半島を南北に横切るココダ街道を歩いている時、日本語の文字が刻まれた石碑に出くわした。
 現地人のポーターが説明してくれた。「これを建てた人はですね。元日本兵で、戦争が終わってから仲間の遺骨を探しにニューギニアに戻ってきたんですよ。この国に20年以上住んでいました。」
 その人物は戦時中、所属する小隊が全滅して、ただ一人の生存者となり、その後も激戦地を転々として、何度も死線をさまよいながらも、不思議と生き抜いた。そして戦後40年を経て、日本に家族を残して単身ニューギニアに戻り、かつて戦友たちと交わした「死んだら必ず遺骨を拾いに来る」との「約束」を果たすために、25年間も遺骨を収容し続けてきた、というのである。
 この時、ハペル氏は、その凄まじい人生を本にまとめようと決心した。その後、2年がかりの詳細な調査と、本人へのインタビューの結果、一冊の本がまとまった。『ココダの約束』である。こうした機縁で、その人、西村幸吉氏の人生の記録が残された。

■3.小隊56名中、戦死55名

 西村が独力で建てた石碑は、最大の激戦地の一つ、エフォギ村にある。激戦は昭和17(1942)年9月8日に起こった。西村が属する総兵力1万の日本軍は、ニューギニアの英植民地の中心都市であるポートモレスビーを目指していた。劣勢のオーストラリア軍は退却しつつ、要所で日本軍を迎え撃つ戦法をとっていた。
 エフォギ村で、西村の小隊は、待ち構えるオーストラリア軍の背後から奇襲攻撃した。敵兵は、体は大きいが、あどけない顔つきで10代の若者に見えた。「どうして俺は、何の恨みもないこんな子供と戦っているのだ?」という思いが一瞬、よぎった。結局、上陸した際には56名いた西村の小隊は、負傷した彼を除く全員が戦死した。この戦いで、オーストラリア軍も148名もの死者を出した。

■4.「この約束は必ず守る」

 日本軍はポートモレスビーまであと一日の地点まで進攻したが、総兵力1万の半数を失い、補給もつきた状況では、さらにポートモレスビーに構築された敵陣地を攻略できる可能性はなかった。9月25日に撤退命令が出された。これほどの犠牲を出して、ここまで来て、むざむざと、もと来た道を戻るのか、と将兵たちは無念に思った。…歩けない傷病兵たちは担架で運ばれたが、それは疲労困憊した戦友にさらなる重荷を負わせることであった。「どうか、ここに置いていってくれ。死なせてくれ」と彼らは懇願した。
 饑餓やマラリアと闘い、オーストラリア軍の追撃をかわしながら、日本軍は撤退を続けた。招集された頃に、73キロだった西村の体重は30キロに落ち込んでいた。
 最後には自力で歩けない兵士は置いていく、という決定が下された。西村は残される兵士らに向かって、少しでも希望を残そうと、「自分たちはこれから敵陣に潜入して食料を分捕ってくるのだ」と説明し、こう約束した「もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな。」と。
 残留組の約2百人の負傷兵たちは、残された機関銃で10日間も戦い続けた。そして最後に全員、戦死または自決した。彼らが敵を引きつけている間に、撤退組は無事に脱出できたのである。

■5.37年後、再び、ニューギニアに立つ

 敗戦後、帰国した西村は機械工作の会社を興して成功した。いつか戦友の骨を拾いに行く、という条件で結婚し、4人の子供も得た。
 しかし、その間にも、戦友の遺族を訪ねると、戦死した息子が帰ってきたように大喜びしてくれて、遺族の思いに触れた。西村自身も長男を交通事故で亡くし、子を失った親の悲しみを味わった。そんな中で、戦没者のことを忘れたかのような政府と国民の姿勢に、日増しに苛立ちが募っていった。
 昭和54年、59歳になっていた西村は妻と子供たちを集め、「これからニューギニアに渡って、何年かかるかわからないが、戦友の遺骨を拾う」と話した。妻と二人の息子は反対したが、西村は「遺骨収容は結婚の条件だったはずだ。今となって嫌だというなら、離縁する」と言った。
 西村は生活を切り詰め、軍人恩給とわずかな土地を売った代金だけで旅費を工面し、戦友たちの待つニューギニアにやってきたのだった。

■6.「私はニューギニアで弟を亡くしております」

 西村は現地で車両整備工場と自動車学校を設立し、若者たちを育てながら、彼らの協力も得て、遺骨収容を進めた。かつての戦場は深いジャングルに戻っていたので、記憶を頼りに位置を確認し、道を開き、草を刈り、地雷探知機で金属片を探して、反応があると手で土を掘り起こす。そういう作業を20年以上も続けた。
 多くの遺骨は身元が分からなかったため、西村の小屋で大切に保管し、帰国の都度、遺灰にして持ち帰っては、部隊の出身地である高知県の護国神社などに収めた。金属の認識票など、身元の分かるものが見つかると、遺族の許に送り届けた。
 ある海岸では、4つの金歯のある頭蓋骨を収容した。西村は遺骨と共に帰国し、連隊の戦友会から、その海岸で戦死した70名の名簿と遺族の住所を入手した。それから遺族を一軒一軒訪れて、心当たりはないか聞いて回った。遺族の中には、西村にすがって、行方不明のままの身内の遺骨を捜し出してほしい、と懇願する人々もあった。
 68番目の家を訪れた時、年長の男性が出てきて、「私はニューギニアで弟を亡くしております。弟には金歯が4つ、あります」と語った。胸にせりあがる気持ちを抑えつつ、西村は急いで車の中から頭蓋骨を持ち出した。
 男性はその頭蓋骨を受けとり、両手で抱きしめるようにかかえた。そして長い間、じっと見つめていた。長くしまいこんでいた弟の記憶を呼び覚ましているようだった。やがて男性の目に涙が溢れ、喘(あえ)ぐようなすすり泣きと、哀しいうめき声が漏れてきた。

■7.「忠実なる英霊のために」

 このココダ街道とその周辺で、オーストラリア軍と米軍は3095人の戦死者を出した。それらの英霊のために、かつての激戦地にオーストラリア政府はいくつもの記念碑を建て、ボマナ国立墓地がある。自国のために戦って散った兵士を決して忘れはしない。
 一方、日本側は1万3千人も犠牲となったにもかかわらず、日本政府の建てた記念碑は、わずかしかなかった。戦後まもなく建てられた記念碑は、日本政府が維持費を出さないので、地主は西村に援助を頼んできた。
 西村は維持費と土地税のために、私費で毎年1万円を出すことを同意した。他にも日本政府が管理費を出さない記念碑が5つあり、荒れ果てた状態にある。西村はやるべき事をやらない日本政府の姿勢に憤りを感じた。
 自分の戦友たちが次々と倒れたエフォギ村の激戦地で、西村は独力で高さ1.7メートルの記念碑を建てた。戦友たちは、故郷から何千キロも離れたこの場所で、名前さえ忘れ去られようとしている。どう考えてもおかしい。
 西村は戦友たちの故郷の高知県から40センチほどの丸い薄茶色の美しい石を持ってきて、台座の上に据えた。そして、敵味方、現地人の別なく、すべての戦没者を称えるために、「忠実なる英霊のために」とだけ刻んだ。これがチャールズ・ハペル氏を「よろめかせた」石碑である。

■8.果たされた約束、果たされてない約束

 2005(平成17)年、85歳の西村は、病に倒れた。厳しい熱帯の気候の中で、25年間も遺骨収容という重労働を続けていたので、さしもの頑健な体にも限界が来ていた。戦没者を忘れ去っている現代日本の思潮には強く反発しながらも、自分としては、戦友たちとの約束を精一杯果たした、という心の穏やかさを得ていた。
 西村は見事に約束を果たしたが、日本の国民と政府は、戦没者たちとの約束を見捨てたままである。
 安倍首相は硫黄島で、遺骨の前で土下座をして、手を合わせた。国を護るために自らの命を捧げた将兵に対し、首相が国民を代表して手を合わたことは、戦没者に背を向けてきた「戦後レジーム」からの脱却の一歩である。
 我が国が「すべての兵士を故郷に帰す」という決意を取り戻した時、再び、国民の中に国家のために尽くそうという気風が甦り、国全体の元気も回復するであろう。

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