日中問題V (謀略・弾圧・侵略の歴史)






 データン氏は、ツィッターで下記のように述べています。
 私は長年をかけて、中国SNSでの民主主義、人権意識などの啓蒙活動や、中国良心犯の支
援活動をやってきましたが、中共は中国人の価値観の投影に過ぎないと悟りました。
 自分も「脱支」思想にたどり着くまでは大変苦労したが、今はそれしか中国を救えないと思っています。つまり、「もう少し時間が経てば中国はもっと良い国になるはず」という性善説は間違いです。
 「中共は中国人の価値観の投影に過ぎない」については、自分も名言だと思います!
 『中国人の少数民族根絶計画』を読んだら、普通の農民が、中共軍がやる残虐非道な虐殺や虐待を南モンゴルで行ったことを知り、唖然としました。結局、中共がもし滅んだとしても、漢人の体質は変わらないと、知りました。そこで、『中国人の少数民族根絶計画 産経NF文庫』より抜粋しました。是非、手にとって読んでいただきたいです。

はじめに

 香港民族は、紀元前から東アジアの南部に暮らしていた「百越」の後裔で、近世の大航海時代に突入してからポルトガル人やイギリス人、中国人難民との混血で融合して形成されたものだ、と主張。漢族の一集団ではなく独自の民族である以上、民族自決権を行使し都市国家を建立すべきだ、と端的に宣言している
 人類は古代において、ギリシヤもローマも都市国家からスタートしている、今一度原点に戻って、人権と民主主義の都市国家を造ろう、という趣旨です。
※アイヌや琉球とは、前提が異なります。アイヌも沖縄も遺伝子的には、親を縄文とすれば、大和と兄弟だとDNA的に判明しています。そして、ウイグル民族やチベット民族、南モンゴル民族にも、自決権があり、香港と同等の権利が有るということです。香港問題は中共の厄介な急所なのです。
 それでも、共産党政権は香港をさんざん利用してきました。香港を窓口にして西側の情報を収集し、金融センターとしての利点を十二分に活用。先端技術と豊富な資金を延々と本土に吸い上げたのです。
 ただし自分が強くなったので香港を切り捨てるかというと、そうもいかない。北京の中国政府にとって、情報収集窓口や金融センターとしての利用価値は下がりつつあるが、それ以上に重要なのは香港が共産党高官たちの「蓄財の要塞」として機能している点です。
 しかし、都市国家建立までの道のりは険しいと予想されます。というのも、中国は今まで以上に苛烈な弾圧を加えるでしょう。たとえトランプ大統領のアメリカ政府が「香港の人権と民主化を守る法案」を成立させたとしても、中国は国際社会を無視し続けるでしょう。というのも、複数の前例があるからです。言い換えれば、中国政府と中国人たちの異民族など中華周辺世界、ひいては国際社会を見る目と、対処の方法が常に自己中心的で、暴力的であるからです。
 シナの中華思想で武装された知識人たちは一度も私たちの立場に立って少数民族政策を考案したことはないのではないでしょうか。中華に同化してどこが悪い。お前らは「立ち遅れた野蛮人はシナに同化することで文明開化しているのではないか」、と彼らはそのように思いこんでいるので、民族問題は発生し続け、解決できないのです。
 私は名実ともにシナに滅ぼされたモンゴル国の生き残った「亡国の知識人」で、亡国の知識人たちの生き方を研究したりしているのです。シナ人は媚びるような笑顔で草原に現れ、粗末な商品で遊牧民を騙して放牧地をのっとる。誠実なシナ人に、ステップの遊牧民はまだ、歴史が始まって以来、一度も出会ったことはありません。シナ人の言うことは信用できないのです。
 かつて人世紀から九世紀にかけてモンゴル高原で活躍したテュルク(突厥)の遊牧民たちは一体の石碑を残しました。石碑はモンゴル高原中央部のホショー・チャイダムに聳え立ち、そこには次のような警世の言葉が刻みこまれています。このように、およそ一五〇〇年前に形成した遊牧民のシナ観はまったく変わっていません。シナは邪悪な存在である、と草原の民はそのように見てきました。
フンナの民は言葉甘く、その絹布も柔らかい。甘い言葉と柔らかいシルクで以てわれわれを欺く
 たとえ北京や上海でも、一歩でも路地裏に入れば、シナ風の猥雑さと非衛生的な現実、そしてその低俗的な反日の精神構造に出会うはずです。中国社会の実態を知らずに、中国人の精神構造を知らずに夢のような「日中友好」を話す人たちの価値観は、小さい時から中国人に虐待され、騙されて育ったモンゴル人とは、生理的に合わないのです。
 私は「日中友好論者」は好きではありませんし、「日中友好」なんかの夢物語も実現できるわけもないと確信しています。なぜかというと、「日中友好」は私たちモンゴル人がいやになるほど聞かされてきた「民族団結」とまったく同じようなレトリックからなっているからです。少しでも中国政府や中国人たちの抑圧的な態度に対して是正を求めると、たちまち「民族分裂的」とされて粛清されてしまいます。ちょっとだけ中国政府にものをいうと、すぐさま「日中友好に不利な言葉を吐いた」とされて批判されるからです。

モンゴル人三〇万人の大虐殺

 一九六六年に中国で文化大革命が勃発した当時、内モンゴル自治区には一五〇万人弱のモンゴル人が住んでいました。その中で少なくとも三四万六〇〇〇人が逮捕され、そのうち二万七九〇〇人が殺されました。ほかに拷問されて身体的な障害が残った人が一ニ万人に達します。平均すれば、ほとんどすべての家庭で少なくとも一人が逮捕され、五〇人に一人が殺害されたことになります。
 もちろん、この数字は中国政府が被害者数を操作し、極小化して発表した公式見解に過ぎません。一九八一年当時の内モンゴル自治区の書記で、中国人の周恵は「隔離され、審査を受けたモンゴル人の数は七九万人に達した」と発言していました。独自に調査したイギリスやアメリカの研究者は、およそ五〇万人のモンゴル人が逮捕され、そのうち殺害された者は一〇万人に達すると見積もっています。
 また、内モンゴル自治区のジャーナリストや研究者たちによれば、直接殺害された人と釈放されて自宅に戻ってから亡くなった人、いわゆる「遅れた死」を合わせれば、モンゴル人犠牲者の数は約三〇万人に達するとしています。私も、これは妥当な算定だと思います。
 殺戮のほかにレイプなど性的犯罪が横行し、強制移住と母国語の使用禁止も一〇年間にわたって強制されました。これらはすべて中国政府と中国人=漢族主導で実施されたものです。その際には、過去に満洲国時代に「日本に協力した罪」と、モンゴル人民共和国との同胞同士の統一合併を目指した「民族自決」の歴史が虐殺の口実とされました。
 この「文化的な革命」が終了した後も、モンゴル人被害者に対する謝罪や補償といった善後措置はほとんど講じられていません。これほどまでに数多くのモンゴル人が殺戮の犠牲となったにもかかわらず、内モンゴルにはモンゴル人犠牲者の名前を刻んだ記念碑ひとつありません。それどころか、虐殺事件について研究することも語ることも厳しく禁止されているのです。
 これが現代の中国政府の標榜する「古くから統一された、多民族国家からなる幸福。な大家族」の実態です。尚、本書でいう中国人(Chinese)とはもっぱら漢族を指します。モンゴル人やチベット人、それにウイグル人は中国人ではありません。国際政治に翻弄されて、仕方なく中国の国籍を選択させられたにすぎないのである。また、モンゴル人やウイグル人たちも中国人をシナ人と呼びますが、こちらも差別用語ではなく、チベット語に由来する古い呼称であります。この点は歴史学者の岡田英弘の見解を集約した『シナ(チャイナ)とは何か』(藤原書店)と、共通しています。

民族全体が人民解放軍の標的

 中国語の中の「批判闘争」は「リンチを加えて吊し上げる」という暴力的な行為を意味しています。つまり、滕海清将軍は暴力を肯定した上で、人民にその行使を促したのです。
 そして一九六八年一月一七日、自治区革命委員会第二回全体拡大会議の席上で、「毛生席の最新指示を綱領とし、プロレタリアート文化大革命の全面勝利を収めよう」と題する講話を発表し、一般的にこの講話の発表をもって「内モンゴル人民革命党員粛清事件」という大虐殺が正式にスタートしたとされています。
 中国共産党に「お墨付き」をもらって展開されたジェノサイドは、凄惨を極めました。内モンゴル人民革命党員と決めつけられた人は、そうであろうとなかろうと、「批判闘争大会」という人民裁判にかけられ、中国人大衆や人員解放軍の兵隊などから、一方的に暴行を受けました。それでも飽き足らない場合は、外に連れ出されてさらにリンチされたのです。
 例えば、自治区政府幹部で、オルドス高原イケジョー盟出身のアムルリングイ(ハンギン旗旗長)は、地面に押さえつけられて、真っ赤に焼いた鉄棒を肛門に入れられ、鉄釘を頭に打ち込まれました。文化庁幹部だったオーノスは鞭で打たれた為、尻の肉が削げ、骨が見えていたといいます。また、あるモンゴル人は、マイナス四〇度まで下がるモンゴル高原の冬に、膝まで水を満だした「水牢」に入れられ、その足は水と共に凍ってしまいました。
 旧満洲国出身で、ハルビン陸軍軍医学校を出たジューテクチという医師は、次々と病院に運ばれてくる患者たちを目の当たりにして、「私は生き地獄を見ました。失明させられた者、腕や足を切断された者、そして頭の中に釘を打ち込まれた人など、言葉で表現できない惨状でした」と語っています。
 そのジューテクチ自身も、リンチの末に生殖器を破壊されるという、大きな障害を負っています。わずか七歳の子供までも、内モンゴル人民革命党員であるとして、「批判闘争大会」に引きずり出され、罵倒されて殴られたといいます。そして、そうした子供たちの中には行方不明になった者が大勢いるといいます(楊海英著『墓標なき草原−内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』岩波現代文庫)。

組織的性犯罪

 モンゴル人女性に対する性的な凌辱は、いわばモンゴル民族に対する完全な征服を意図したものです。中国人たちは、モンゴル人男性を侮辱しようとして、モンゴルの女性たちを公然と凌辱していたのです。
 例えば、樊永貞という人物は以下のように報告しています。ウラーンチャブ盟チャハル右翼後旗のアフダル営という村では、中国人の李善という人物たちが、モンゴル人女性のズボンを脱がせて、粗麻縄と呼ぶ縄でその陰部をノコギリのように繰り返し引いたといいます。モンゴル人の趙桑島と趙傑らによると、ウラーンハダ公社では、女性の顔にブタの糞を塗りつけて舐めさせたほか、内モンゴル人民革命党員同士に公衆の而前で「交配」するように命じました。また、ここでも女性を縄に跨がせて「ノコギリを引いた」のです。
 チャハル右翼後旗のダランタイという人物は、次のように一族が受けた蹂躙を回想しています。
「兄が殺された後、その妻も逮捕された。兄の妻の名はドルジサンで、典型的な牧畜民だった。ある晩、工人毛沢東思想宣伝隊の隊長・張輝根たちは、彼女を裸にしてから手と足を縛った。そして、刀で彼女の乳房を切り裂いてから塩を入れ、箸でかき混ぜた。鮮血は箸に沿って流れ、床一面が真っ赤に染まった。それでも宣伝隊員たちは『お前は早く死にたかろうが、ダメだ。誰が内モンゴル人民革命党員かをちゃんと白状してもらわないと、死なせないぞ』と言った。彼女はこのように十数日間にわたって凌辱されて、ドゥベル上王旗の病院で亡くなった」
 当時、ウラーンハダ人民公社で暮らしていたモンゴル人女性は次のように証言しています。
「内モンゴル人民革命党員の妻や娘たちは、ほとんど例外なく革命委員会の中国人幹部たちに繰り返しレイプされました。あの時代、半径数十キロ以内のモンゴル人女性にはまったく逃げ場がありませんでした。一九六八年夏のある晩、彼らは私たち5人の女性を丸裸にして草原に立たせました。私たちは両足を大きく広げられ、股の下に灯油のラップが置かれました。すると、無数の蚊や蛾などの虫が下半身に群がってきました。このような虐待は、その後何日も続きました。また、中国人たちはSという女性に、彼女の義父と「交配」するように命じていました。このように凌辱されていたとき、いつも大勢の中国人の幹部たちや農民たちが周りで見て、笑っていました」
 ほかにも、ブタやロバとの性行為を強制する、燃えている棍棒を陰部に人れるなど、中国人たちはおよそ人とも思えない残虐な行為を行っていました。こうした性的暴行が、年寄であろうと妊婦であろうと誰彼構わずに行われたのです。
 また、妊娠中の女性の胎内に手を入れて、その胎児を引っ張り出すという凄惨な犯罪も行われ、中国人たちは、これを「芯を抉(えぐ)り出す」と呼んでいました。中国人の白高才と張旺清は、ワンハラというモンゴル人女性を「重要な犯人」だと決めっけ、さまざまな暴力で虐待しただけでなく、手を陰部に入れて子宮にまで達し、すでに四ヵ月になっていた胎児を引き出しました。彼女はこの暴挙が原因で障害者となり、一九七六年に亡くなりました(楊海英編『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料5』風響社)。
 このように、文化大革命中にモンゴル人女性に対して、人民解放軍と共産党幹部たち、それに中国人農民らが犯した罪は枚挙にいとまがありません。これはモンゴルという民族がこの地球上に誕生してから、初めて経験させられた凌辱に違いありません。そして、これは決して過去の問題ではないのです。性的な犯罪を受けたモンゴル人女性は泣き寝入りを強制され、訴え出ることもできないまま今日に至っています
 女性たちが自らの被害について語ることができない中国社会は、二次的な加害行為がいまだに続いている事実を明示しています。文化大革命はモンゴル人にとって、いえ、人類にとって未解決な人道に対する犯罪です。そうである以上、私たちは国際社会および国際人道法廷に訴え続けなければなりません
 モンゴル人ジェノサイドに関して、多くの有識者たちは「未解決の民族問題である」と認識しています。また、「文化大革命は一九七六年に終息した」と中国政府が公式に宣言した後も、モンゴル人に対して一貫して差別的な政策を行っており、中国の民族政策は基本的にまだ「文化大革命的な政治手法」を踏襲しています。
 「文化大革命的な政治手法」とは、つまり、モンゴル人たちが少しでも自らの権利を主張すれば、たちまち「分裂独立志向」とのレッテルを貼るというやり方です。モンゴル人の有識者であるアルタンデレヘイは具体例として、一九八一年秋に内モンゴル自治区で発生した、中国人移民の増加に反対する学生運動を政府が鎮圧した事件を挙げています。この年、中国政府は四川省などから一〇〇万人もの中国人をモンゴル人の草原に移住させようと計画していました。その移民計画が自治区に伝わると、モンゴル人大学生たちは抗議活動を始めたのです。中国政府は誠心誠意に対応せずに、リーダーたちを逮捕して鎖圧しました。文化大革命と一九八一年と、二度にわたる弾圧を経て、モンゴル人たちは民族のエリート階層を失いました。その結果、今日においては、チベットやウイグルよりも「平穏」に見えているのです。モンゴル人たちが有名無実の自治区内で、わずかばかりの「自治権益」を守ろうとすることさえ、中国人はモンゴル国との関連を疑い、あるいは分離独立の動きととらえるのです。
 今日においても、中国共産党は、台湾併合を善なる「祖国統一」 ── 香港も同じ ── としながら、ウイグル人やモンゴル人が同胞との統一を目指すのは悪なる「民族分裂」だと喧伝している以上、「正義の為のジェノサイド」が再び発動される危険性は、常に潜んでいるのではないでしょうか。

南モンゴルの悲しき現実

 内モンゴルのモンゴル人は、もちろん、心情的にはモンゴル国と統一国家を創りたい気持ちはあります。しかし、他の少数民族居住地域に比べて、いち早く始まった「砂を混ぜる」政策によって中国人のほうが圧倒的に多くなっている為、もはや現時点では不可能になっています。モンゴル人の有識者も統一はしないほうがよい、と今や見ています。なぜなら、今統一すれば、内モンゴルに住んでいる中国人も抱え込むことになってしまうからです。
 モンゴル人の人口はモンゴル国の三二〇万人と内モンゴルの約五八〇万人で合計約九〇〇万人に対して、内モンゴルの中国人は三〇〇〇万人以上ですから、新国家の主導権を中国人に握られるのは明らかで、せっかくモンゴル国という、現存する純粋な民族国家が元も子もなくなってしまう。残念ですが、せめて祖先が残した綺麗なままの土地が守られればというのが、有識者の見解です。
 その点でいえば、ウイグルのほうが、内モンゴルより独立の現実味があるかもしれません。まず、中国人との人口比が、まだ内モンゴルほど差が開いてはいません。そして、今後、中国の民族問題において、イスラームの影響力が大きなカギとなってくると思われるからです。一〇〇〇万人を擁するウイグル人も、努力すれば民族自決、独立国家の建立も不可能ではない時代が来るのではないでしょうか。

相容れないチベット仏教圏と中華

 チベットに関しても、唐の時代に皇帝家の娘をチベットに嫁がせたとか、モンゴル人の元朝時代にチベットの高僧に爵位を授けたことなどが、国土領有の法的な根拠に挙げられていますが、チベットの王には六人もの妃かおり、唐の娘と同時にネパールからも王女を妃に迎えています。そして、実際は唐の方がチベットの軍事力に負けていたので、女性を差し向けて平和を乞うていたのです。中国人にとっては、こうした「和親政策」は実際は屈辱的な通婚たったはずです。それが、ウイグル同様、史実が歪曲されているか、無視されて美談に改編されています ── 中国人お得意の嘘を事実のように表現する。
 イスラームと中華が相容れないこととまったく同じ意味で、チベット仏教圏と中華も相容れません。簡単に言えば、「宗教と共産主義との対立 ── 文明の衝突」ということになりますが、それとは別に中国人の宗教観にも関わっていると思います。中国人は基本的に現実主義者であり、現世利益を優先する。何事も利で動くというのが中国人の特徴であり、唯物論的なマルクス主義はピタリと合致する。逆に言えば、利益優先の民族だからこそ、観念的な、スピリチュアルな哲学を否定するようになった。「宗教はアヘンだ」という思想も中華の実利優先の土壌から生まれています。
 一方、仏教圏では読経をして平和に暮らし、今生で善行を積んで来世に生まれ変わ。ることに至上の価値を置いています。中国人の唯物主義と仏教的哲学思想に帰依するチベット人、あるいは自然との調和を旨とするモンゴル人との間に対立が生まれるのは必然でした。
 これは文明間の対立といえるでしょう。チベット仏教圏に属するチベット人、モンゴル人、満洲人と、中華文明に属するシナ人とは相容れない関係なのです。これも今日の民族問題につながる大きな要因だと思います。

国内の不満を外国に向けさせるのは譲渡手段 … 習政権の警鐘

 その後に分かったことですが、このベトナムとの戦争は文化大革命によって高まった自国民の不満を国外へと転換する為に、あえて起こした戦争だったのです。一九六六年から一九七六年まで一〇年間にわたって続いた文化大革命は、少数民族だけではなく、中国人にも大きな不満を生じさせていました。その不満をどうガス抜きしようかと、当時の中国指導者が考えていたのです。
 それまで中国にとっての主敵はソ連でした。一九六〇年代の中ソ対立以来、ソ連あるいはモンゴル人民共和国を修正主義国家と呼んで、激しく対立していました。
 一九六九年春にはダマンスキーという島(中国名は珍宝島)で直接、軍事衝突も発生しました。
 ただ、中ソ対立が幾分和らいできたことと、なによりもソ連という強大な国を「懲罰」するわけにはいかないので、別の対象を選ぶ必要があったわけです。そしてちょうどその頃、ベトナムとの領土問題が噴出したので、渡りに船とばかりにベトナムに狙いを定めたのでした
 社会主義中国にとって、外敵は常に必要不可欠なのです。この中越戦争以外でも、国内問題を解決できなくなると、中国は必ず外敵を作ってきました。一九六二年に発動された中印国境紛争は、一九五九年から続いた大規模な公有化政策で四〇〇〇万人近くの自国民を餓死させた政府の責任から目をそらす為でした。中国国歌には「中華民族はまさに今危機状態にある。立ち上がれ」といった歌詞があります。
 危機的な状況といっても、決して国内的な危機だとは彼らは言いません。そんなことを言えば、共産党による一党独裁の正当性を問われるから、危機は常に外からもたらされるのです。「祖国は西側帝国主義者やソ連修正主義者に虎視眈々と狙われている」と、不信の視線で国際社会を見渡して、建国当初から必要以上に国民に危機感を煽ってきました ── 借金だ借金だと聞きお煽る財務省とそっくり。知恵のない財務省は増税しかできない。景気を回復するだけの智慧がないのがバレるのがエリートとしての沽券に関わるのでしょう。だから、財務省の利権が国益だと妄想することで自己欺瞞を繕っている。
 そしてベトナムの次は、日本が標的になりました。一九八〇年代前半は中曽根首相と胡耀邦主席の間で、ごく短い蜜月期が築かれましたが、中曽根首相の靖国参拝問題と歴史教科書問題が起きて以降は、今日に至るまでずっと日本が国民向けの「敵」になっています。
 今日のスプラトリー(南沙)諸島の問題を見ても、昔からのやり方が再び表れただけで、驚くほどのことではありません。合湾、アメリカ、ソ連、ベトナム、日本ときて、現在はフィリピンも加わりました。様々な国が中国の敵にされています。おそらく中越戦争当時は文化大革命という不満でしたが、今や中国国内に山積する問題は文化大革命以上なので、敵が多ければ多いほど都合がいい。そういう状況ではないかなと思います
 今、中国は経済バブルの問題、あるいはシャドーバンキング問題はあるし、民族問題や漢民族自身の農民問題も解決できてない。(※殺人公害・癌村も放置されている。加えて、サーズや武漢ウイルスや鳥インフルエンザウイルスなど、国内の不満は爆発寸前だと思います。だから、日本の陛下を政治利用したい、日本を敵として官製デモのように使いたい、台湾と一戦交えたい …。2020/02/13)
 そもそも、このまま一党独裁が持つかどうかの問題もあります。中国共産党は四面楚歌の状況なのです。そこで敢えて多くの敵を作って「危機的な状況」を演出し、それと「愛国心」を国内統治に利用しているのです。昨今の中国の急激な膨張策は南へも波及しているので、しばらく忘れられていたベトナムが、再び敵として利用きるようになったということでしょう。
 例えば、尖閣への常時領海侵犯以外にも、すでに日中中問線の真上において、日本名で「樫」や「白樺」という天然ガス田に一方的に油井を立て、日本政府の抗議を無視して掘削している。実質上日本側の海域に眠る天然ガスを吸い上げているのです。資源を先に取り、既成事実化するというのは、南シナ海でも使った手法です。
 今のところ「日本を懲罰する」という行動に出てはいませんが、それはまだ海軍力に自信がないからでしょう。ベトナム海軍に対しては優位に立てても、日本に対してはまだ強硬手段は採れません。しかしながら、近年の中国海軍は空母まで持つようになりました。ひょっとしたら近い将来、複数の空母打撃群を編成できるようになれば、日本に対してもより強硬な態度に出ることがないとも言えません。
 すでに、中国は日本に対する海上侵攻のテスト的な準軍事行動を何回か行っています。例えば、二〇一二年には台風の接近を口実にして、五高列島に一〇〇隻以上の中国漁船が押し寄せ、一時五島列島の漁港を占拠したかのようになった事例があります。五島列島の町長が窓から見ると、真っ赤な五星紅旗を掲げた船が何百隻も湾岸にいるという、日本人が恐怖に襲われるような出来事が実際に起きているのです。
 尖閣諸島においても、すでに一九七八年、数百隻もの中国漁船が周辺海域に現れて領海侵犯をした事件があります ── 他にも赤珊瑚をごっそり盗んでいきました。今現在の中国海軍は正面から海上自衛隊と戦う自信はありませんが、今後、非軍事的な形で人海戦術を仕掛けてくる可能性は大いにあると思います。何しろ人海戦術というのは莫大な人口を抱えた中国の得意技です。
 中国がチベットやウイグル人の東トルキスタン、南モンゴルを侵略していった経緯も、やはり人海戦術でした。まず最初に避難民がやってくるのです。一番早くやってきたのはモンゴルで、一九世紀ごろから、万里の長城の南で食べていけなくなった貧しい中国人たちが、たとえば天秤棒の前後に子どもを一人ずつ乗せたような姿で、悲惨な顔をして満洲や内モンゴルにやってくるのです。
 モンゴル人は最初、彼らに同情していました。食べ物を与えて、モンゴル人の暮らす土地に住むことも許した。ところが、それが後からあとがら無数にやってくるわけです。だんだんとその数は増えてゆき、やがて彼らは中国人村落を作るようになる
そして、ある日気がつくと、その村落の人口のほうがモンゴル人より何倍も多いという現実に気づくわけです ── 沖縄、北海道、対馬の実情にそっくりです。すると、それまで同情していた相手が、「もっと大きい草原をよこせ」とか、「この辺を開墾させろ」と要求するようになってくる。こうなっては人口の面でも太刀打ちできません。
 そして、その後にやってきたのが中国人軍閥でした。軍閥は「中国人の避難民を守る為に来ました」と言って、モンゴル人に対して強権を振るうようになる。あるいは、勢いを得た避難民自体武装化して、先住民のモンゴル人に危害を加えることもありました。そうした状況は新疆やチベットも変わりませんでした。
 もし、五島列島や奄美諸島などに中国人の漁民が頻繁に来るようになり、その後に「難破した同胞を助けに来ました」と中国海軍の軍艦が表れたら、それはまさに一九世紀以降に満洲、モンゴル、東トルキスタン(新疆)へと、彼らが領土拡張してきた方法と同じです。
 人のいい日本人たちは、五島列島に中国漁船が「避難」してきたとき、彼らの食事を心配して熱心に弁当を準備したそうです。しかし、彼らが弁当を用意している隙に、軍艦がやって来る可能性がないとは言えないのです。中国および中国人は、そういう国であり民族であるという性質を、日本人はもっと認識しなければなりません。
 日本は先の戦争を経験して大きく変化しましたが、隣人の本質が少しも変わらないところに、国家存亡の悲劇が潜んでいます。

中国人留学生の恐るべき役割

 中国では二〇一〇年に「国防動員法」という法律が施行されました。この法律では、政府の命令があれば外国にいる中国人も政府の意に沿って動くことになっています。中国から来る中国人留学生の皆が皆スパイとは言わないまでも、いざという場合に非常に恐ろしい存在になると知っておいたほうがいいでしょう。
 すでに、その予兆となる事象も起こっています。二〇〇八年に北京オリンピックの聖火リレーが日本にやってきたとき、チベット人とその支援者が、チベットにおける中国の弾圧の実情を訴えようとしました。その際、中国人留学生あるいは在日中国人が集団で長野県の善光寺まで行き、数の力で封じ込めました。善光寺の僧侶を始め日本の仏教団体も、同じ仏教徒が弾圧されていることに意思表示をしようとしましたが、数の上で中国人に完全に圧倒されてしまいました。当時のメディアの映像や写真を見ればわかりますが、善光寺の前は打ち振られる中国国旗によって真っ赤に染められ。一部では暴力行為もありました。
 彼らの任務はいくつかありますが、その一つは「反動教授」の選定です。もし「反動教授」が講義で「反中国」的な言論をしたら、しっかり抗議しなさいと命じられている。
 もう一つの役割は、少数民族の分離活動を封じ込むということです。これも身近な事例ですが、同じ静岡県立大学にウイグル人の女子学生がいて、日頃から「なんでウイグル人はテロばかりやるんだ」と中国人留学生たちに糾弾されていました。ウイグル人の学生が自民族のおかれている凄惨な立場を述べて反論しても「我が国古来の領土を分裂させようとしている」と一方的に吊し上げられる。中国人学生は多人数で、ウイグル人学生はだったの一人、しかも女子学生です。そうした中国人の容赦のなさ、節度のなさは、モンゴル人を大量虐殺した文革時代と何ら変わっていません。
 静岡県立大学という日本の一地方大学でも、中国人留学生たちが大使館の支援を受けて集団で結束してこれだけ政治的な問題を起こしています。ましてや留学生の人数が多い首都東京は言うまでもありません。一時期、私の友人たちが嘆いていましたが、授業で一番厄介なのが中国人留学生で、彼らが教室にいると正常な学問的な話ができないということでした。
 中国の立場と異なる見解を言えば、「反動」「反中国」であると受け止める。彼らは多様な見方ができないということなのです。これは日本に限った話ではなく、最近ようやく収まりつつあるものの、中国人留学生の偏った感覚は、数年前まで世界中の大学で大きな問題となっていました。
 また、日本の多くの大学などには孔子学院という中国語および中国文化の教育機関が置かれています。この孔子学院についても、危険性を指摘しておかなければなりません。中国から進出してくる組織は本当の意味での民問組織、民間人というものはありません。すべて中国政府教育部の指令を帯びているか、もしくは政府のコントロール下に置かれています。その点を、日本人はもっと知る必要があります。
 孔子学院は世界各国に設置されていますが、欧米などでは中国共産党による洗脳教育が密かに進められているとして、その存在が問題視されることが少なくありません。日本大学は、例えば大隈重信のように、アジアの自由と解放、大アジア主義を実現する人材を育てる為に作った学問の府のはずですが、独裁政治を称賛する中国人に乗っ取られ、牛耳られてしまっては、近代日本が果たしてきた建設的な役割が否定されることになると思います。
 日本人は人が好いので、「日中友好」を唱えていればすぐ友達になれると思ってしまいがちですが、残念ながら中国という相手はそうではない。いざという時にはもう手遅れです。非常に危ない状況だと思います。

沖縄喪失の危険性

 中国人を先兵として送り込むという点では、沖縄などはかなり深刻な状況ではないでしょうか。沖縄については中国のさまざまな新聞で、「琉球問題は未解決だ」とか「琉球は中国の領土だ」、「日本に強奪された領土だ」といったプロパガンダが始まっています。
 驚いたことに、沖縄大学で教える中国人教授も、中国の新聞紙上でそういった趣旨の論文を書いています。『環球時報』という新聞は日本でもよく引用されますが、この新聞に沖縄大学の劉剛教授が書いた「沖縄の帰属は未定。日本にのさばるな」という見出しの記事を目にしました。
 日本の大学で給料をもらいながら、日本を裏切るような文章を書いて中国のプロパガンダエ作に加担しているのです。これは非常に恐ろしい問題だと思います。たとえそう思っていても、日本で給料をもらって生活している以上、普通の感覚なら立場をわきまえるものですが、そうは考えないところがいかにも中国人らしい。彼は記事の中で「友好という幻想に惑わされずに日本に対処しよう」と言っていますが、その言葉をそのままご本人に返したいと思いました。
 こういった人たちが沖縄県民を教化し、中国シンパを作って沖縄をまず日本から分離させておいて、いずれは中国に取り込むべく政治活動しているという指摘もあります。このように、沖縄ではすでにあらゆる分野で半ば中国の工作員のような活動が公然と行われていると考えていいでしょう。
 水面下の浸食は人だけではありません。御承知のように中国が日本全国で土地を人知れず買い漁っているという噂が絶えません。ダミー会社だったり日本人に名義を借りていたりすることが多いので、その実態はなかなか掴みづらいのですが、沖縄県でいえば米軍基地の近隣の土地を中国系資本がかなり買っているといわれます。
 例えば冷戦時代、北海道や東京に来て自衛隊基地周辺の土地を買ったりするようなことは、冷戦時代のソ連すらやらなかった。それが今、この平和な時代に露労に自衛隊の近くの土地を買っていくというのは、どう見てもやはり侵略であり俗骨な情報作戦です。ちなみに、ある意味で中国のミニチュア版ともいえる韓国も同じようなことをしています。
 韓国の場合、対馬の自衛隊基地近くの土地を韓国系資本が大量に買い漁っています。私は実際に二〇一四年二月対馬へ確認しに行きましたが、何を建てるつもりなのか、使用目的は何なのか、地元の人に聞いても誰も知りません。フェンスを作って入れないようにしているのです。
 一ヵ所だけ入れるところは、大変立派なリゾートホテルが建っていましたが、どういう人が泊まりに来ているのか、本当に単なるリゾートホテルなのかも分からないのです。対馬は日露戦争で日本海軍が要塞化していたことからもわかるように、軍事的な要所です。そうした場所の土地を韓国資本が買うということは、明らかに軍事戦略の一環でしょう。
 そのほかにも、日本は水資源も狙われていて、北海道の広大な水源地が中国資本によって買われていることはすでに報道されていますが、静岡県では日本のシンボルである富士山の湧き水が狙われているという報道があります。外国資本による土地購入は、厳しく規制すべきで、日本人はあまりにも天真爛漫過ぎます。一部の識者が以前からこの問題に警鐘を鳴らしているのですが、なかなか前に進みません。
 そして中国は今、「朝貢外交」を復活させようと本気で考えているようなのです。北京の政府系シンクタンクにいる友人に聞いた話ですが、習近平が二〇十二年の暮れに、中国外交部や社会科学院といったシンクタンクの研究者たちを集めてスピーチを行いました。
 習近平以前の中国では建前上、国の大小を問わず対外交渉は対等に行うとして、国是として「平和共存の五原則」を掲げていました。ところが、習近平はその席で、もはやそうした偽善的なお題目はやめようと言ったそうです。国家は実力で外交関係を作るもので、大小を問わず平等などということはあり得ない。これからは周辺国に対して、大国らしく振舞おうと語ったといいます。そうした習近平の意向を受けて、現在、本格的に新たな外交関係の在り方を議論しているらしいのです。その一環となるのが、一種の「朝貢体制」の復活です。これはまさしく先祖返りと言えるでしょう。
 かつて歴代シナ王朝では周辺の小国から使節が来れば、「野蛮人が中華の徳を慕って挨拶に来た」として、宴会を開いて歓待し、お土産を持たせていました。つまり、おとなしく中国の言うことを聞く国には、外交団が来た際に相手が欲しいものを与えて十分に満足させて帰らせ、反対に言うことを闘かない国は、実力行使で懲罰しようということです。
 例えば、現在ならラオスやミャンマー、パキスタンといった「格下」の国が腰を低くして擦り寄ってくれば、気前よく経済援助、軍事援助を施します。逆に反抗する国があれば、かつての中越戦争のように「懲罰」するわけです。最近のベトナムや日本は反抗的なので、そのうち討伐しましょうと宣言したに等しいかもしれません。
 その一方で、外交使節でしょうと貿易でしょうと、シナ側は相手との関係を一方的に自国中心に解釈して、「朝貢」だと決めつけて記録を続けてきました。例えば、明朝時代には長城の北側にいるモンゴル勢力が軍事的に圧倒していて、しばしば首都北京に迫りながらお茶やシルクの供出を求めましたが、こうした外圧は公文書には「朝貢」として記されています。
 また、一九十二年に清朝が崩壊する直前まで、イギリスやフランスなどの西欧列強は、不条理な要求を毎日のように清朝政府に突き付けていましたが、これらの「脅し」もまた「本日、イギリス朝貢に来たり」などと記録されています。このように、いわゆる「朝貢制度」というものは、中華こそが世界の中心であると盲信する中国人たちの、自己満足の為の哀れな妄想でしかないとさえ言えるのです。
 そもそも、「朝貢体制」という言葉も、日本の東洋史研究者らが中国およびアジアの国際関係を相対的に捉える為に作った、学術的な概念に過ぎません。シナの朝廷における外交使節の席の序列や、珍品の儀式的なやり取りのみに注目した為、シナがどのように周辺世界に侵略と虐殺を展開していたかなどの重要な事実を目本の東洋史学者たちは見落としている側面があります。
 清朝(これは満洲人の王朝ですが)までの歴代シナ王朝は、琉球を含めて朝貢をしてくる周辺諸国の支配者の多くに王号を与えて、名誉的に中華の権威をみとめさせていました。これを「冊封」といいます。ただし、それにしても大半は名目上の宗属関係ですから、冊封と領土は無関係です。琉球王が中華の冊封を受けていたからといって、中国の領土であるとの主張は成立しません。儀礼的な「朝貢体制」は、歴史上の国際関係の実態を表してはいないので、「沖縄が中国の属国であった」との根拠にはならないのです。
 沖縄および尖閣諸島の問題は、チベット問題や新疆問題、ひいては内モンゴル問題と本質的には同じだと理解しています。近代に入ってから、厳密にいえば、現代中国がごく最近になって国民国家意識が強まった段階で、領土問題として突出してきたのです。チベットにしても、モンゴル帝国時代に元朝の統治を受けていたとの根拠を無理やり掘り起こして、「歴史的にずっと中国のものだ」と主張してきました。
 しかし、元朝はモンゴル帝国の一部でしかなく、決して中国史という文脈のみで解釈できる歴史ではありません。元朝時代の歴史を都合よく中国史として乱用しているに過ぎないのです。

日中友好の虚像

 問題なのは、日本国内に「日中友好」を絶対的なものであるかのように考えている人々がいることです。中国に対して「中国は問題がある」と指摘すれば、必ず誰かから批判されます。すぐに「日中友好に反する」ということに話を持っていこうとする政治勢力がいるのです。
 しかも、このような未熟な人々は日本国内の自由主義の風土を無視しているだけでなく、なぜか中国政府がチベット人やモンゴル人などの少数民族を弾圧し続けている事実に無関心、あるいは目をつむっていることが多いのです。また、無原則に中国を賞賛する一方で、日本の近代の歴史を批判しがちです。人権抑圧を続ける独裁国家は、褒め称えるに値する理想的な対象でしょうか?
 「民族団結」とは、支配者である中国人と「無条件で仲良くすること」を強制することです。「日中友好」という言葉もそれとまったく同じです。多様な言論を封じ込める為の方便的なスローガンに過ぎません。今の日本では、あたかも日中友好を主張する人々が正統派のようになっていますが、「日中友好」は有毒思想であって、民主主義の制度に反する邪念です。日本の一部の人と中国の一部の人が、「日中友好」によって生まれる共通の利益を守る為に他の言論を封じ込めようという、国際独裁主義の危険な思想です。だからこそ多様な外交関係の構築についても、「日中友好」論者はそれを封殺しようとします。
 日本は隣国である中国とは、嫌も応もなく付き合っていかなければなりません。しかし、健全な両国関係を築く為には、まずは「日中友好」という不自然な発想を捨てるべきではないでしょうか。

ソ連より酷い中共の民族支配

 ソ連の場合は、三〇〇以上の少数民族に対して彼らにも自決権があると明言して、さらに憲法の中で分離独立権を認めるという条文を書き込んでいます。後述するように、ソ連は少数民族を「ランク分け」して、それぞれのランクに応じた自治権を与えて、少数民族を統治しました。
 そのため民族によっては、比較的大きな自治権を持つ場合もありました。とはいえ、頂点に位置するロシア人が少数民族を差別、抑圧、搾取する構図に変わりはなく、現実として分離独立もほぼ不可能でした。ただし、そうした法的根拠が付与されていたからこそ、ソ連は一九九〇年に流血の事態を招くことなしに解体することができたのだと思います。
 すでに民族自決の下地があったので、民族間で殺し合いをすることなく、それぞれが独立国になることができました。私は一九九〇年のソ連の解体は、ソ連圏の諸民族の真の意味での民族自決の実現だったと考えています。そのようなソ述邦の崩壊を民族自決の視点から評価しなければなりません。
 ロシア人には華夷思想がなかったから、ソ連邦の憲法に諸民族の自決権を認めると書けたのです。ソ連の憲法は、いわゆるスターリン憲法やブレジネフ憲法など、その時々の権力者の政治姿勢によって何度か微修正されていますが、しかし、民族自決権に関しては一貫して保証されてきました。
 一方、中国の憲法には「諸民族は古くから我が国の固有の領土に住んできた」と一方的に書かれ、民族の自決権が否定されている。そこが同じ共産主義国でありながらも、ソ連と中国の違いなのです。
 一方、中国共産党は「民族自決」という美しい言葉を一九二〇年代の建党当初から掲げていたのは周知の事実です。中国共産党は国民党と争っている間は、国民党が否定する民族自決を自分たちが実現させる為に努力しているかのように主張していました。毛沢東は、モンゴル、ウイグル、チベットは「中華連邦」を構成する一員として、独立を容認するとはっきり言っていたのです。独立したくない民族がいれば、無理してでも独立させようとまで宣言していました。
 ところが、一九四九年に内戦に勝って政権を握ると「アメリカ帝国主義が新疆とチベット、それに内モンゴルの分離を画策しているので、民族自決ではなく区域自治に変更する」と一方的にそれまでの民族政策を転換させました。諸民族からすれば、それまでの民族自決の約束は、所詮はフロンティアの人々の離反を食い止める為の方便でしかなかったと映りました。
 中国の場合、一党独裁の国ですから共産党が権力を握っています。自治区でも自治州でも自治県でも、あらゆる自治地域では行政のトップこそ少数民族出身者が就いていますが、共産党書記は絶対に漢族すなわち中国人が占めています。これはあからさまな少数民族に対する政治的な抑圧です。行政は党が了承しなければ動けないので、これでは植民地と同じなのです ── 香港の一国二制度もこの方式で崩壊寸前です。
 中国人は少数民族に最後の文化的ジェノサイドのトドメを剌して、「中華」に同化、絶滅することを目論んでいるのです。最も顕著な証左の一つが、中国主導で結成された「上海協力機構」における周辺国への影響力行使でしょう。参加国のカザフスタンやキルギス、それにモンゴル国などに働きかけて、中国領内に住む「テロリストと極端な宗教主義者、民族分裂主義者 … 実は良識のある少数民族」らを、その同胞の拳を借りて叩き潰そうとしています。また、アフリカの独裁者たちに武器を売り渡してジェノサイドに加担しながら、その見返りである現地の資源をひたすら収奪しています。
 シリーンゴル市近郊のモンゴル人牧畜民が、中国人によって殺害されました。天幕の近くで石炭の露天鉱が発見され、連日昼夜に渡って数百合もの中国人のトラックが殺到していました。トラックは草原の上を無秩序に往復し、脆弱な植皮を破壊して沙漠化をもたらし、家畜を櫟き殺しても弁償しようとはしませんでした。たまりかねた牧畜民が抗議すると「モンゴル人を殺しても、わずかばかりのカネを払えば済む」と暴言を吐いて、牧畜民に襲い掛かったのです。
 こうした出来事は氷山の一角に過ぎず、同様の凄惨な事件は現在でも数多く発生しています。モンゴル人が反発すると、中国共産党はそのつど人民解放軍を投入して武力で鎮圧し、資源の掠奪を「開発」と「発展」の為だと正当化してきました。この現実を見る限り、草原を守ろうとするモンゴル人と、開墾開発(実質は略奪と破壊)しようとする中国人の対立は、ニー世紀に入っても何ら変わっていません。
 そして、開発と称する略奪は、インフラ整備にはつながらず、同じ植民地統治でもタチが悪い。新たに編成された階層制度の最底辺に現地の少数民族を追い込む、というのが中国流植民地の目的であり、現在進行形の実態です。モンゴル語の地名は消され、代わりに中国語の地名が登場しています。こうした文化的ジェノサイドは現在も進行中です。
 今日、国営の新華社通信の記者だった楊継縄が政府の公文書を用いた研究によると、文化大革命でおよそ3500万人が餓死したいという(『墓碑1中国六十年代大飢荒紀実』二〇〇八年、香港天地出版)。
 搾取階級のチベット人ラマが子どもを寺院の下に埋め込もうとしている風景を堂々と銅像にして展示している。ありもしないことを事実のようにでっちあげるのは中国の上棟手段です。
 

毛沢東の食人運動

 毛沢東は「地主階級を打倒して、更に足で踏みつけよう」と呼びかけていた。実際、一九六六年から一九七六年にかけて、文化大革命が発動されると、革命的な青年たちはそのように実践しました。それだけではなく「人民の敵を食ってしまえ」、と人間を食べる運動も横行していました。もっとも有名なのは、広西チワン族自治区で発生した「食人運動」です。
 「頼むから、先にとどめを剌してから食べて」
 と至るところで、「反革命分子」とされた人たちはそのように「革命幹部」に懇願した(鄭義『紅色記念碑』 一九九三年、華視文化公司出版)。いまだに、いったいどれはどの人間が「革命の敵」として、共産主義のカニヅアリズムの犠牲者になったか、正確な統計すらない。「革命の食人運動」について調べた正義感ある記者の鄭義もアメリカに亡命せざるを得なかった。
 中国の気骨ある作家の廖亦武はずっと弾圧されてきた「地主」たちの訓査をして、『最後の地主』を二〇〇八年に書き上げて、香港労働改造基金出版から出しています。人間は一旦、「地主階級」に政府によってカウントされると、土地などすべての財産が没収されて、処刑されるだけでなく、その子孫たちも二度と社会的に上昇できないように、徹底的に抑圧する仕組みを中国政府はずっと維持してきました。階級的な身分を明記した「戸籍档案」という制度です。 

⇒(シナの謀略T)
⇒(民族の滅亡U:チベット)
⇒(民族の滅亡T:ウイグル)
⇒(大東和戦争の真実)
⇒(日中問題事系列)
 (TOPへ)