大東亜戦争の真実



 [これだけは知っておきたい大東亜戦争]から、抜粋致しました。
 尚、米国は東京裁判に対し謝罪しています(「非を認め謝罪しているアメリカ」「ブッシュ大統領の靖国参拝の申し出」「ルーズベルトの罪状:日米戦争を起こしたのは誰か」参照)。謝罪の申し出を拒否したのは日本の政界と官僚でした。私達は自力で自虐史観から脱出しなければ成りません!!


本書前書きより


 毎年八月十五日の終戦記念日が近づくたびに、総理の靖国神社参拝や先の大戦を巡っての話題が世間を賑わし、戦争を題材にしたテレビドラマや特集番組も数多く放映されます。しかし、それらのほとんどは、極めて偏った歴史観(自虐史観)に基いて制作されており、終戦六十年を経ても尚、日本人の間にごくごく基本的な歴史事実が誤って信じられていることを強く感じざるを得ません。
 本書は、斯かる状況を憂い、大東亜戦争の基礎的な歴史事実を一人でも多くの方々に知って頂くために製作されました。即ち、20の項目を立て、それぞれについて平易簡潔を旨に約一千字で解説した、いわば入門書のようなものです。




大東亜戦争以前のアジアにおける列強の勢力図


■インド
 紀元前4世紀に統−国家の出現を見たインドは、16世紀にはムガル王朝が成立した。しかし、1600年にイギリスがインドに進出して東インド会社を設立し、度重なる征服戦争を繰り返して全土を征服した。イギリスは、セポイの反乱の武力鎮圧後、1877年にムガル帝国を滅ぼして英領インド帝国を樹立。以後は直接統治を行い、苛酷な植民地経営を行った。

■ミャンマー
 1044年にバガン王朝が全土を統一したが、13世紀の元帝国の侵入後は小国に分裂し、やがてアラウンパヤ王朝が統一を達成した。17世紀以降、イギリスの東インド会社と貿易を行っていたが、イギリスが三度にわたるミャンマー(ビルマ)戦争でこれを征服し、1666年に全土をインド帝国に併合し、植民地化した。


■インドネシア
 14世紀にはジャワ島を中心にマジャバヒト王国が勢力を拡大したが、17世紀にはマタラム王国などイスラム系の群小国が成立した。17世紀よりポルトガル・オランダ・イギリスなどが進出し、1818年にオランダがマタラム王国を滅ぼして植民地にし、17世紀末までにスマトラ・ボルネオを支配し、1904年にオランダ領東インドをつくって植民地体勢を確立した。


■フィリピン
 大小七千余りの島を持つこの地域は、インドシナ系の民族が、イスラム教を信仰していたが、16世紀にマゼラン率いるスペイン遠征隊が侵入。武力でルソン島を平定したスペインは1571年に植民地とし、皇太子フィリップにちなみここをフィリピンと命名した。
 1898年には米西戦争でスペインに勝ったアメリカがフィリピンの植民統治を行い、徹底した英語とキリスト教の普及を押し付けた。


■タイ
 13世紀のスコータイ王朝が最初に民族統一国家を作り、14世紀から四百年続いたアユタヤ王朝を経て、1782年に今日のバンコク王朝が創設された。19世紀から20世紀にかけてイギリスとフランスからの侵攻を受けてラオス・カンボジア・マレーにある領土を取られたが、インドシナ半島の英仏両国の緩衝国家として独立を保った。


■マレーシア
 15世紀にマラッカ王国が成立したが、1511年にポルトガルに支配され、17世紀には紀にはオランダの支配を受けた。18世紀後半に入るとイギリスが進出し、イギリスはペナン・シンガポール・マラツカを海峡植民地として直接統治し、さらにボルネオ・マライ半島への支配を強化して1895年にマライ連邦を結成した。


■インドシナ三国
 中国支配にあったベトナムは、10世紀に独立政権が誕生したが、19世紀にフランスの軍事介入を受け、侵攻された。べトナムの宗主権を主張する清がフランスと戦った(清仏戦争)が敗れたため、1885年フランスの保護国となった。
 カンボジアは、9世紀のアンコール朝がカンボジア最盛期の王朝となったが、14世紀以降は周辺国に侵入を受け衰退し、べトナムがフランスの植民地にされると1863年にフランスの保護国とされた。ラオスも、14世紀半ばにランサン王国が最初の統一国家となったが、1893年にフランスの保護国となった。フランスは、このインドシナ3国を併合して仏領インドシナ連邦(仏印)を形成した。


■清(中国)
 1662年以降、中国を支配した満州族の清は、東インド会社が経営するインドとの貿易を開いていたが、イギリスとのアヘン戦争やアロー戦争の敗北を契機に列強に不平条約を締結させられ、外国の圧力を受けた。特に日清戦争の敗北後は、ロシア・イギリス・フランス・ドイツなどによって鉄道の敷設権や要地の租借権を奪われ、半ば植民地の状態となった。


■朝鮮
 14世紀に李氏が朝鮮半島を統一したが、17世紀に入ると清の攻撃を受けて服属した。19世紀後半、朝鮮が列強の支配下にはいることを恐れた日本は、内政改革による近代化を提案したが、清国はこれを悉く妨害し日清戦争が起こった。この戦争によって日本は、朝鮮が独立国家であることを清国に認めさせたが、今度はロシアが朝鮮国内の守旧派と結び内政改革を妨害、満州に大軍を駐留させたため日露戦争となる。その後も韓国の内政は混乱を極め、1
910年遂に日本は韓国を併合した。
 




幕末の日本を取り巻く国際情勢は?
   欧米列強による植民地化の嵐がアジアを襲っていた。


 嘉永六年(一人五三年)に米国から派遣された東インド艦隊司令長官ペリー提督の要求を容れ、日本はそれまでの鎖国政策を改めました。外国に国を開き国際社会に参加することになつたのです。
 当時は、欧米諸国が自らの利益のために世界各地を征服・分割して植民地とする弱肉強食の時代でした。一五世紀の大航海時代から世界に進出していた欧米列強は、アメリカ大陸ヤアフリカの分割・植民地化を進め、やがてアジアの大部分をも植民地としてしまいます。

 アジアの大国・清は、イギリスからのアヘン輸入を禁じたところ、戦争を仕掛けられて敗北(アヘン戦争)、香港を奪われ、広東の開港を余儀なくされ、次第にイギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどに勢力圏を設定され半植民地化されていきます。インド・パキスタンは、ムガール帝国がイギリスに滅ぼされて完全にイギリスの植民地とされ、隣国ビルマもその英領インドに編入されました。ベトナム・カンボジア・ラオスは、フランスが征服して仏領インドシナとしました。マレーシア・シンガポールはイギリスの植民地、インドネシアはオランダが征服、フィリピンは最初はスペイン、後にアメリカの植民地になりました。
 朝鮮は清の属国でしたが、隣接する満州周辺をおさえたロシアの勢力が目前に迫っていました。アジア諸国の中で独立を保っていたのは、日本を除けば英仏の緩衝地帯としてようやく独立を維持していたシャム(タイ)だけでした。

 このようなアジアの植民地化の実態は、開国以前から日本ではよく知られており、特にアヘン戦争で中国が敗れたことは幕府にも大きな衝撃を与えました。水野忠邦の天保の改革は、アヘン戦争を意識して国内政治を立て直そうとした側面があります。また、開国後は、多くの日本青年が海外に留学・外遊しますが、そこで植民地となったアジアの惨状を目の当たりにして強い危機感を抱き、それが日本の近代国家建設=明治維新への大きな原動力になつたのでした。
 日本の開国は、欧米列強のアジア征服、植民地化の激流に身を投じることを意味していました。その流れに抗して独立を保つためには、西洋の文明をいち早く取り入れて国を富まし、軍隊を強くして、自らの国を自らの力で守れるだけの国力をつける必要がありました。「文明開化」、「富国強兵」が急速に進められた明治時代は、国の独立を保とうとする強い危機感に貫かれた時代だったのです。


 ■高杉晋作が見た中国植民地化の衝撃
 幕末の長州藩志士・高杉晋作は、開園後の文久二年 一八六二年)、藩命で幕府使節随行員として長崎から中国の上海に渡航します。そこで高杉が見たものは、欧米の植民地化が進む中国の実情でした。高杉はその衝撃を日記にこう配しています。
  「上海の形勢を観るに支那人はことごとく外国人の便益のため英仏人街
   を歩行すれば、清人皆避けてかたわらに道を譲る。実に上海の地は
   支那に属すといえども英仏の属地というもまた可なり」
 植民地化の現実を実感した高杉は、日本も国を守るための策を早く為さねば中国の二の舞になってしまう、という強い危携感を持ちます。
 帰国後、高杉は、身分にとらわれず志を持った者で組織された奇兵隊という民兵隊を結成し、藩政改革に決起、倒幕の戦いの先頭に立ちました。高杉が、その短い生涯を駆け抜けていったのは、この上海での衝撃が大きく影響しています。



日清・日露戦争は日本の侵略か?
 朝鮮の独立を阻み、日本の独立を脅かす、清国・ロシアとの闘い。


 明治維新の後、欧米諸国の帝国主義(世界規模の植民地獲得競争)の苛酷さに直面していた日本は、自らの独立を保持するため、近隣のアジア諸国との連携を望んでいました。それなのに、なぜ清との戦争(日清戦争)になつてしまったのでしょうか。

 現在の中国は、日本の 「侵略」的意図が原因だと非難していますが、実際には、朝鮮の
地位をめぐる対立が戦争の原因です。日本にとっての最大の脅威は、次々に南下して勢力
圏を拡大していたロシアでしたが、そのロシアが朝鮮半島へも触手を伸ばし始めていたのです。そこで、当初日本は朝鮮と友好関係を結ぼうとしました。しかし、当時の清は朝鮮を属国にしていたため、日本の影響で朝鮮独立の気運が高まるのを嫌って様々な妨害を加えてきたのです。朝鮮でも、日本と結んで近代化を学び独立国家としての力を養おうとする勢力(独立党)とこれまで通り宗主国清に頼って乗り切ろうとする勢力(事大党)との問で争いが起こりました。
 そして、明治二十七年(一人九四年)、朝鮮国内で「東学党の乱」という農民反乱が発生したことをきっかけに、清は大軍を派遣し朝鮮の支配権を一気に固めようとしました。このため、日本も軍隊を派遣、遂に武力衝突となり、日清戦争が起こつたのでした。
 日清戦争は日本の勝利に終わり、その講和条約によって、清は朝鮮が「完全無欠の独立自主の国」であることを認めました。日清戦争は、朝鮮独立を決定付けた戦争なのです。

 また、その十年後に起こつた日露戦争についても、日本の「大陸侵略」の足がかりとして起こされたという主張がありますが、これも誤りです。
 ロシアは朝鮮と隣接する満州に大軍を駐留させ、日本が独立をもたらした朝鮮に様々な介入を行ってきました。朝鮮が完全にロシアの支配下に入ったら、日本の独立は危機に陥ります。そこで、何とかロシアの勢力を朝鮮から排除しようと立ち上がったのが日露戦争なのです。当時ロシアは日本の十倍の国力・軍事力を持っていたため、日本は戦争よりも交渉で危機を打開したかったのですが、ロシアは開く耳を持たず、日本はやむを得ず開戦に踏み切ったのでした。
 幸い、日本の国力が尽きる前に講和が成立し、勝利した日本は戦争の賠償としてロシアから南満州の権益(南満州の鉄道と附属地の租借権等)を獲得する結果となったのです。この権益は、清がロシアに与えていたものです。しかも、清自身も日本への譲渡に同意して、日本と条約を交わしており、国際法上正当な権利でした。
 なお、満州を戦場とされた清を戦争の被害者とする見方もありますが、実際には、清はロシアと秘密の協定を結んでいて、日露戦争ではロシアを支援する、つまり日本と敵対する立場に立っていました。言わば戦争の当事者であって単純な被害者ではないのです。


 ■中国によって決められた朝鮮の国名
 当時の朝鮮半を支配していたのは、「李氏朝鮮」でしたが、中国とは宗主国と属国の関係=「宗属関係」にありました。その一つの象徴として朝鮮の国号は、中国によって決められたという経緯があります。
 これは、14世紀、李成種の建国時、明(当時の中国)から国号の報告を要請されたのに対し、李が「朝鮮」と「和寧」(李成種の生誕地)を提示して選択を依頼して決めてもらったのでした。明が選んだ「朝鮮」とは、明の方から朝鮮を見ると朝、太陽が出る方向にあり鮮やかと言う意味です。
 因みに、朝鮮では年号(日本では、明治とか昭和とかいうもの)も、日本のように独自のものを使用してきたわけではなく、明国の年号を使用していました。



日露戦争を評価する世界の識者たちの声


◎シャワハルラル・ネルー(イント初代首相)
 「アジアの一国てある日本の勝利は アジアの全ての国々に大きな影響を与えた。∃−ロノハの一大強国か敗れた。とすれはアジアは 昔度々そういうことかあったように、今でもヨ一口ッパを打ち破ることかてきるはすた。ナショナリズムは急速に東方諸国に広かり『アジア人のアジア』の叫ひか起こった。日本の勝利はアジアにとって偉大な救いてあった」


◎ヌルヘル・ヌレシュ(トルコ駐日大使)
 「私は小学校時代 教科書て 東郷元帥は軍人としてたけてなく、人格的にも立派たと教わりました。ロシアのバルチック艦隊を破った元帥は、長年ロシアと戦って勝てなかったトルコ人にとっても英雄てす。あの時トルコもタータマルス海峡を通過するロノアの黒海艦隊を牽制して日本に協力したのてす」


◎孫文(中国民族革命運動の指導者 中華民国初代大統領)
 「これはアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この日本の勝利は全アジアに影響を及ぼし、アジア全体の民族は非常に歓喜し、そして極めて大きな希望をいだくに至った」


◎ハーフイス・イプラヒム(エシフトの詩人)
 「白人は十字架を賭けて/勝つまては死をも辞さぬと誓いを立て/貴人は八百万の神に賭けて/勝利を得ねば剣を鞘に収めじと決意した/そこで白人と貴人とが相まみえるや/大地は山々もろとも揺れ動いた(中略)/東洋人たけか名を呼ばれぬ時代かあった/東洋が誰の心の端にもかからず/忘れ去られていた時代が経過した/だか今や黄人は東洋にかつての日々を取り戻させ黒人も褐色人種も同様の権利を認められたのだ」


◎ヨゼフ・ビウスツキ(ポーラント独立運動指導者 国家元首)
 「あの日露戦争はポーランドの今日をあらしめる重大なる段階でありました。
  私は日本が出す勝つことを期待していました」


◎レシナルト・カーニ−(元ハンプトン大学助教授 アフリカ系米国人)
 「ただ単に、ロシアをやっつけたというだけでなくて、白人が有色人種を支配するという神話を完全に打ち砕き、『他の呪われた有色人種』の秘めた力を引き出すきっかけを作った。それか日本だったのだ。(中略)つまり『黒人の中のヨ一ロッパによる略奪と搾取からアフリカ大陸を取り戻す意識を再び目覚めさせる』時代の到来を予期させるもの。それか日本の勝利だったのだ。
 (中略)
 この戦争を契機に、黒人は日本人が自分達と同じ有色人種だという同胞意識を、強く抱くようになった」


◎フアン・ポイ・チャウ(へトナム独立運動の指導者)
 「日本は、米国の虎やヨ一ロッパの鯨の横暴に対して貴人種として初めて歯止めをかけた。なぜ日本がそれをなし得たか。答えは東京にある。中国・朝鮮・インドの留学生で東京は溢れている。日本に学べ」


◎サヌシ・ハネ(イントネシア歴史家)
 「一九〇五年に、日本がロノアを破ったことは、アジア人もまた西洋人を打ち負かすことができるほど強くなれるという信含を強化させた。それ以後、インドネシア人は、大国として発展する日本にいっそうの注目をそそぎ始めた」


◎フィンランドの東郷ビール
 ロシアの圧迫を受けていたフィンランドでは、日露戦争での日本の勝利に歓喜しました。提督ビールシリーズの中に、日本海軍の指揮官・東郷平八郎元帥のラベルもありました。




日本と中国は何故戦うことになったのか?
   日本は日中を全面戦争に導く共産主義勢力の策に嵌まった。


 昭和十二年(一九三八年)七月七日、北京郊外の慮溝橋で夜間演習中の日本軍に対して夜十時から翌朝五時の間に三度も中国軍(蒋介石率いる国民政府軍)側から不法射撃が浴びせられ、日中両軍が衝突する事件が起こりました。これが慮溝橋事件で、支那事変(日中戦争)の発端となります(日本軍の発砲は八日になつてから)。
 この事件には、中国のもう一つの勢力である中国共産党(中共)の思惑が潜んでいました。もともと中共と国民政府は対立戦闘状態にあり、一時中共は壊滅寸前まで追い込まれていました。しかし、昭和十一年十二月、中共と手を結んだ張学良に蒋介石が逮捕・監禁され、釈放の条件として中共との和解と抗日戦線結成を合意させられた(⇒西安事件)ため、国民政府軍は、日本と戦わざるを得ない立場に置かれていたのです。

 それでは、何故、北京郊外に日本軍はいたのでしょうか。それは、中国に在留する日本人を保護するために軍隊を駐屯させる権利を日本が得ていたからです。本来なら中国に住む外国人の保護は中国政府の責任ですが、一九〇一年の義和団事件(北清事変)で中国政府(当時は清)自身が在留外国人を襲撃して危害を加えたことから、自国民保護のためにそれぞれの国が軍隊を駐屯させる権利を国際条約(北京議定書)で認められたのです。慮溝椿事件当時、日本軍のほかにも、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの軍隊が北京近辺に駐屯していたのでした。
 今日中国を支配する中共政府は、慮溝橋で最初に発砲したのは日本軍の仕業と主張していますが、夜間演習中の日本軍は実弾を装填していませんでしたから、発砲は物理的に不可能でした。実は、中共自身も「七・七事変(慮溝橋事件)は、劉少奇同志(後の中国国家主席)の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもの」と自らが事件を引き起したことを表明しています。この事件は、抗日戦線の形成に成功した中共勢力が、更に進んで国民政府と日本との武力衝突を引き起こして、対日全面戦争を導こうとした陰謀によるものだったのです。(慮溝橋事件はスターリン/毛沢東/近衛文麿の三者が通謀して仕組んだもの⇒[近衛文麿の戦争責任]参照)
 ソ連・コミンテルンも「局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かなければならぬ」という指令を発していました。そのため、現地で両軍の停戦協定が何度結ばれても中国側の発砲で武力衝突が繰り返されました。現地での解決を目指して不拡大の方針だった日本政府も遂に増援軍の派遣を決定します。さらに通州では非戦闘員である日本人男女二二三人が巽東政府の中国保安隊に惨殺される事件が起こり、日中の対立は激化、中共の思惑通り日本と中国は全面戦争に突入していくことになつたのでした。


 ■「漢奸」江兆銘の真実、“和平救国”に込められた悲願
 日本の傀儡・売国奴と酷評されている江兆銘。彼は、孫文が最も信頼する弟子として自らの遺書の代筆を任せた人物です。孫文死後、中国共産党と一時手を結びますが、共産党の正体を知るや方針を転換、蒋介石と共に国民政府を形成して中共努力の排除に努める一方、「日中戦うべからず」との孫文の遺訓を守り、隣国日本との信頼関係構築に努めます。
 その姿勢は、満州事変後、廣田弘毅外相を始めとする日本の対中関係改善の努力と呼応し、支那事変勃発までの数年間、和平の時期をもたらしたのです。しかし、一方で抗日勢力の迎撃にあい、重傷を負ったりもしました。
 やがて、抗日戦争にのめり込む蒋介石とも訣をわかち、日本からの呼びかけに応じて命がけで日本の占領地域に赴き、昭和十五年(一九四〇年)に日本と協力する政府(南京国民政府)を樹立したのでした。
 一方日本は戦争遂行中のことでもあり、なかなか江兆銘の努力に応じきれずにいたのですが、重光辛が中国大便に赴任してからは対等の友好関係樹立の具体化が進み、昭和十八年に日中間の不平等関係を撤廃し、全ての在中日本権益を中国に返遺する協定が結ばれます。これを見た米英の連合国もあわてて同様の協定を蒋介石政権と結んだため、中国はアヘン戦争以降長い間の半植民地状態から完全に脱することになったのです。
 その喜びも束の間、江兆銘は、迎撃されて受けた古傷が悪化し死去しました。昭和十九年十一月十日のことでした。




日本とアメリカは何故戦うことになったのか?
  米国は、中国進出の障壁=日本を敵視し、日本人移民を排斥した。
           「ルーズベルトの罪状:日米戦争を起こしたのは誰か」参照

 日米両国の衝突の芽は、実は日露戦争から十年を遡る日清戦争の頃から芽生え、次第に大きくなっていきました。

 その最初は、アメリカのハワイ併合です。ハワイは今でこそアメリカ五十州の一つですが、日清戦争が起こる明治二十七年(一八九四年)まではハワイ王国という独立国でした。しかし、移民を進めるアメリカ人たちに次第に実権を奪われていきます。このため、ハワイの国王は日本の支援を求めようとしましたが、日本にはこれに応える力がなく、一八九八年、遂にアメリカに併合されてしまうのです。
 同年更にアメリカは、スペインとの間で米西戦争を起してフィリピンをも領有、独立運動を弾圧して全土に英語を強制していきます。そして、翌年には「門戸開放宣言」を発して中国全土での通商上の「機会均等」を主張したのです。列強の中国分割に乗り遅れたアメリカが列強の勢力範囲を超えて中国に進出するのがその真意でした。

 日露戦争での仲介役も、決して日本への好意だけで引き受けたわけではなく、満州進出への機会とする意図がありました。実際に講和直後、日本が獲得した南満州鉄道の買収をはかり、これが頓挫すると、日本の満州権益の伸張を妨害する種々の画策を始めています。
 特にアメリカの日本敵視が露骨に表われたのが、日露戦争直後の一九〇六年(明治三十九年)から表面化した日本人移民排斥の動きです。これは年を追うごとに激しくなり、一九一三年(大正二年)カリフォルニア州議会では日本人の土地所有を禁止する「排日土地法」が可決されました。さらに、一九二四年(大正十三年)には日本から花嫁や親、日本生まれの子供を呼び寄せることを禁じ、移民家庭を崩壊に追い込む「排日移民法」も成立、日本国内では 「アメリカ討つべし」との声が高まっていきます。
 日本人移民排斥と並行して、アメリカは対日戦争計画「オレンジ計画」の策定を進めます。そして第一次大戦終結後のアジア地域の国際秩序を定めた一九二一〜二二年(大正十〜十一年)のワシントン会議で、アメリカは「国際協調」の名のもとに、それまで日本の外交機軸をなしていた日英同盟の廃棄を強要するのです。さらに軍縮条約を結んで日本海軍の軍備を制限し、日本の満州における権益を自ら承認した石井・ランシング協定まで廃棄させ、日本の力を抑える立場を鮮明にします。

 日本はアメリカとの協調を第一として、これらの要求を受け入れたのですが、アメリカの日本敵視は止むことなく、この後、アメリカが進出を目論んだ中国とりわけ満州の問題で対立が激化していくのです。


 ■ペリーの星条旗を揚げた、艦船ミズリー号での降伏文書調印式
 昭和二十年(一九四五年)九月二日、日本の降伏文書粥印式が米戦艦ミズーリ号上で行なわれました。このとき、甲板の砲塔側面に見作れない「星条旗」が掲げられていました。それは、約九十年前ペリーの艦隊が掲げていた「星条旗」だったのです。
 アメリカは、大西洋岸に位置する十三州による建国以来、領土の拡張を続け、さらには太平洋からアジアにまで進出・膨張を続けていました。こうした膨張策は、いつのまにかアメリカの正義、神から与えられた「明白な運命」(マニフェスト・ディステイニィ)として正当化されるようになりました。ペリーの来航も、日本への善意では無論なく、この「明白な運命」を背負った太平洋への進出政策に他なりませんでした。
 そして、この「明白な運命」の前に立ちはだかったのが日本でした。日露戦争以後、日本を敵視し、遂に戦争にまで追い結めるようになったのも、そのためです。日本が降伏した当日のニューヨーク・タイムズの紙面は「われわれは、初めてペリー以来の展望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで中国大陸のマーケットはわれわれのものになるのだ」との趣旨で飾られました。日本が降伏したことは、「明白な運命」の大義の実現とみなされ、ペリーの「星集旗」はその象徴として掲げられたのです。




中国との和平は何故失敗したのか?
  日中和平の妨害と石油供給のストップで、日本を追い詰めた米国。

 日本は、中国との紛争(支那事変)を早期に収拾しょうと大小十数回に及ぶ和平工作を試みています。しかし、これに中国側が応じることは一度もありませんでした。実はアメリカが中国の後ろで和平を妨げていたのです。

 昭和十二年(一九三七年)七月に支那事変が起きると、その年の十月にはルーズベルト大統領が日本を病原菌になぞらえて非難、その隔離を呼びかける演説をします(「隔離演説」)。そして翌年からアメリカは中国に対する経済援助を始め、その額は年を追うごとに巨額になつていきました。さらにアメリカは、中国が勝利するまで戦争を長びかせるという方針を固め、日本に対する圧迫を開始します。昭和十四年、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告し、翌年には中国への軍事援助(五〇機の新式戦闘機の供与と一億ドルの資金援助)に踏み切り、一方で日本への鉄及びくず鉄の輸出禁止を決定しました。昭和十六年には、戦闘機百機と弾薬一五〇万発を中国に援助、四月にはアメリカ人パイロット約二五〇人による義勇軍部隊を編成し、中国に派遣しました。これは「フライング・タイガース」と名付けられ、日本の航空部隊と激戦を繰り広げるのですが、戦後になつてこのパイロットは全員アメリカ陸軍が派遣した正規の軍人であることが判明しています。この時からアメリカは事実上日本に戦争を仕掛けていたことになります。

 同時期に日米交渉が始まりますが、既に戦争を決意していたアメリカは、日本に厳しい条件を提示する一方で、中国には、数千万ドルに及ぶ軍需物資と爆撃機五〇〇機を供与し、軍事顧問団を派遣するなどどんどん肩入れをしていきます。そして、日本が石油の確保を目指してフランス領インドシナ南部(南部仏印=現在のベトナム南部・カンボジア)にフランスの同意を得て軍隊を進駐させると、今度はアメリカはそれを理由に日本への石油の全面禁輸を決定したのです。
 この時、日本は石油を殆どアメリカからの輸入に頼っていたため、手持ちの石油がある間に出来る限りの譲歩をして交渉を妥結させるか、戦争に訴えてアメリカの圧力を跳ね返すか、どちらかの道しかありませんでした。そして、日本は前者、即ち妥協の道を選びました。南部仏印から撤兵する、つまり今後アメリカとは対決しないから、石油禁輸を解いて欲しいと懇願したのです。
 しかし、それに対してアメリカは、満州を含む中国大陸全土からの即時全面撤退を要求する「ハルノート」を日本に突きつけました。日本は全面屈伏を意味するこの要求をのむことは出来ませんでした。日本はここで遂に対米戦争を決意したのです。


 ■日本軍人の書いたルーズベルト大統領への手紙
 小笠原諸島の硫黄島は、米軍が進攻したマリアナ諸島と日本本土の中間に位置する要地で、昭和二十年二月から激戦が繰り広げられました。日本軍は二万余の戦死者を出しましたが、米軍にも戦死者二万六千に及ぶ損害を与え、米軍が一週間はどで占領する予定だったところを一ケ月以上も持ちこたえたのでした。
 その激戦の最中、三月二十六日に米軍が収容した日本軍兵士の連体から、ルーズベルト米大統領への手紙(日英両文)が発見されました。書いた人は、市丸利之助海軍少将。硫黄島の海軍部隊約六千名の指揮官として戦い抜いた軍人です。
 その手舐は四月四日に米本国に打電されましたが、その八日後にはルーズベルトは急死しており、実際読んだかどうかはわかりません。しかし、後に新聞各紙に掲載されるなどして、アメリカで広く知られることになりました。
 市丸少将は、戦争に至るまで日本を追い詰めたアメリカの行動、過去数首年にわたる欧米の世界植民地化への貪欲さを痛烈に批判して、ただ欧米の搾取から免れ、東洋のものを東洋に帰すという希望と、世界平和の一翼として世界人類の安寧幸福を求める日本の真意を説き明かしています。
 市丸少将の手紙は、玉砕するまで戦い抜く日本軍将兵が決して憎悪や狂気に犯されてのことではなく、戦いの大義を深く理解した上での敢闘であったことを、世界に示したのでした。



中国との和平は失敗した!
  共産主義インターナショナルは、
   各国を戦争に誘導し、革命をもたらそうとした

 支那事変勃発や日米交渉時の首相を務めた近衛文麿は、後に当時を振り返って、和平を求めたにもかかわらず戦争への道を進んでしまったとして「見えない力にあやつられていたような気がする」と述べています。日本を戦争に導いた「見えない力」、それが国際共産勢力でした。

 ロシア革命後の一九一九年 (大正八年)、コミンテルン(共産主義インターナショナル)が結成されます。これは世界に共産主義思想を普及させ、革命家を育成してロシア革命を世界革命に発展させることを目的とした組織です。世界各国の共産党は、いずれもコミンテルンの支部として、自国の共産化を目的として活動していました。日本共産党も結成直後の大正十一年(一九二二年)、コミンテルン日本支部として承認されています。
 コミンテルンは一九二八年(昭和三年)第六回大会で帝国主義国家間の戦争を誘発させて共産革命を遂行することを決議しました。当時対立が激化してきた日独と米英の間に戦争を始めさせればソ連は安泰であり、また、その混乱に乗じて共産主義革命をすすめることができる、という戦略でした。
 この戦略が具体化されたのが、支那事変です。コミンテルンは中国共産党と国民党に手を組ませ日本と戦わせるという戦略を描き、一九三六年(昭和十一年)蒋介石を逮捕監禁して中国共産党との和解を強要します(西安事件)。これによって支那事変を起こす中国側の態勢は整い、翌年七月からの日中全面衝突につながっていくのです。

 一方、日本国内では、徹底した取り締まりにあって日本共産党は壊滅状態でしたが、共産主義者の正体を隠し日本の国家中枢に入り込んだのが、ゾルゲのスパイ団でした。
 ゾルゲはナチス党員で駐日ドイツ大使の私設情報官ですが、その正体はソ連の諜報活動のために昭和八年(一九三三年) に日本に潜入したコミンテルンの工作員でした。彼は日本にスパイ網を構築、その中に有名な尾崎秀実もいました。尾崎は朝日新聞記者で後に近衛内閣の嘱託となり、近衛首相のブレーンという立場を利用して日本の機密情報をゾルゲに流したのでした。ゾルゲはそれらをソ連に報告するとともに、尾崎らに中国との戦争を長びかせる論陣を張らせ、和平の動きを妨害する工作を行ないました。さらにソ連を仮想敵国としてきた日本陸軍を米英への対決に向わせる「南進論」に傾倒するよう宣伝工作を展開させるのです。
 ゾルゲらの活動は、昭和十六年(一九四一年)十月に摘発・検挙されて終焉しましたが、既に日本政府の方針は「南進論」でほぼ固っていました。
 毛沢東を救ったゾルゲ
 紅軍の勝利を確定的にしたのは、毛沢東の容赦ない戦略ではなかてた(勝利を決定づけたのは、現在なおほとんど明らかにされていないが、ソ連による援助だった。モスクワはソ連国にトップレベルの軍事顧問団を設けて戦略立案にあたらせ、上海にも軍事委員会を設けてソ連人その他(とくにドイツ人)の軍事顧問を置いた。最も重要な役割を果たしたのはソ連軍参謀本部情報総局(GRU)で、中国国内に一〇〇人以上のスパイを配していた。その大半は紅軍根拠地に近い国民党事務局に浸透させた中国人スパイで、中国共産党に対する情報提供が主たる任務だった。
 一九三〇年初頭、モスクワはこの任務に当たらせるため、ドイツ人とロシア人の血を引く大物スパイ、リヒヤルト・ゾルゲを上海に派遣した。ゾルゲの最大の手柄は、蒋介石の前線情報司令部を支援するドイツ人軍事顧問団に浸透し、顧問の一人シュテルツナーの欲求不満の妻に近づいて国民革命軍の暗号を盗んだことだった。ゾルゲが盗んだ暗号の中には、参謀本部と前線との通信に使われる暗号も含まれていた。ソ連のスパイがもたらした情報は、毛沢東にとって非常に大きな助けとなつた。同時に、中国共産党のほうでも、国民党情報機関の心臓部に独自にスパイを送り込んでいた。その中の一人、銭壮飛は国民党中央調査課主任徐恩曾の秘密管理秘書となり、毛沢東の勝利に大きな役割を果たした。
 ゾルゲは、その後、ヒトラーがヨーロッパ・ロシアに侵攻しても日本にはソビエト極東を攻撃する意図がない、という決定的情報を一九四一年にスターリンにもたらしたことで、スパイとして有名になった。ゾルゲの助手の一人に張文秋という女性がおり、その娘二人はのちに毛沢東の生き残った二人の息子と結婚している。張文秋は、コミンテルンのアメリカ人スパイ、アグネス・スメドレーの紹介でゾルゲと知り合った。


 ■戦争拡大のために暗躍した日米の共産主義者
 ソ連のスパイ=ゾルゲに協力して摘発・処刑された尾崎秀美は、逮捕されるまで、近衛内閣の重要なブレーンの一人として国論の行方に大きな影響を与えていました。
 彼は、支那事変が始まった昭和十二年の「中央公輸一九月号で「南京政府故」を発表して蒋介石政権の正統性を否定し、翌年の近衛首相による「蒋政権相手にせず」声明の呼び水の役割を果しました。この声明により、日本は中国との和平の糸口を失ったと言われます。
 また、昭和十三年には「改造」や「中央公輸」で日中の早期講和に反対し長期戦を正当化する「日中青年戦争論」を展開。こうした言論は、日本を中国との戦争に引きずり込むことが目的でした。さらに、支那事変解決のために日本が進出する方向は、北(ソ連と対決する)か南(東南アジア方面に進出して米英と対決する)かの輸争では、積極的に南進論を支持する論陣を張り、米英対決の道を選ぶように国輸を導いたのでした。
 ハリー・デクスター・ホワイトは、ルーズベルト政権下の財務次官を務めた人物で、日本が最後通牒と受け取ったあの「ハル・ノート」の原案を書いたことで知られています。実は、このホワイトはソ連のスパイでした。アメリカの政治の中枢に潜む共産主義者を摘発したマッカーシーによる疑惑追及の最中、ホワイトは謎の自殺を遂げますが、最近公開されたソ連の横密文書によってスパイ疑惑が裏付けられました。また、このハル・ノートによって日米・開戦を導こうとしたソ連の謀略の全貌も次第に明らかにされつつあります。




大アジア主義は侵略の思想か?
  アジア諸民族の独立を願い、連携を求め続けてきた日本人。


 「大アジア主義」といえば、「日本のアジア侵略を正当化する思想」との批判もありますが、この言葉を最初に唱えたのは、日本人ではなく中国革命の指導者・孫文です。「大アジア主義」は、欧米の植民地主義にアジアが団結して対抗し、解放しようとする考えに他なりません。
 欧米列強のアジア侵出に対し、日本では既に幕末より多くの識者が危機感をもっており、勝海舟など先見性のある人々は、日中韓の三国合同艦隊でもってこれに対抗する策などを構想していました。明治に入り、西郷隆盛がとなえたとされるいわゆる「征韓論」も、その真意は朝鮮へ自ら赴き、友好協力関係の構築を目指して朝鮮開国を求めるという「遣韓論」でした。

 こうしたアジア団結の思想を世界に向って呼びかけたのは、岡倉天心です。彼は、明治三十六年(一九〇三年)、『東洋の理想』を英文で出版、その冒頭で「アジアは一つである」と宣言、欧米の「ひたすら個別的なものに執着」する思想と異なり、中国文明やインド文明も「究極的・普遍的なものに対する広やかな愛情」においてアジアの心として共通なのだ、と説きました。更に『東洋の覚醒』という書では、アジアが欧米に屈従している現状を嘆き、一方で「日本の輝かしい復活は、アジア復興の一つの実例として、きわめて教訓的である」と日本の近代化成功の意義を説き、「不惜身命の四千万の島国の民(日本のこと)がこれを成し遂げたのだ。なぜ四億の支那人と三億のインド人が、略奪を事とする西洋のこれ以上の侵犯を食い止めるために武装してはならないのか」と、アジアの諸民族が立ち上がることを呼びかけたのです。

 これは岡倉一人ではなく、日本人共通の心情でした。「脱亜論」を書いたとされる福沢諭吉も、実際には私財を投じ慶応義塾の塾生を派遣して朝鮮の近代化に尽くしました。また、朝鮮、中国、ベトナム、インドなどからの亡命者たちを助け、その独立闘争を支援したのは、戦後、右翼のレッテルを貼られた玄洋社の頭山浦や黒龍会の内田良平ら民間の日本人有志たちでした。孫文の中国革命を志す組織が最初に結成されたのも、東京の内田良平の家だったのです。

 こうした日本民間に脈々と流れる「大アジア主義」の思想が、今度は日本政府の政策に反映され、国際連盟規約への「人種平等」条項の提案や、満州国建国時の「五族協和」の理想に表われ、遂には、大東亜戦争における「アジア解放」、「大東亜共栄圏」の構築という戦争目的にも繋がっていくのです。


 ■人種平等を訴えた日本−国際連盟委員会での奮闘実らず
 第一次大戦最中の一九一八年(大正七年)、アメリカのウィルソン大統領は講和のための十四か条の原則を発表し、その中で「民族自決」と「国際平和機構(国際連盟)」を提唱しました。「民族自決」とは、各民族が自らのことは自ら決定できる、ということで民族の平等、人種の平等が前提とされるはずのものでした。
 そこで日本もこれに呼応し、第一次大戦の講和会報に全権団を派遣し、国際連盟委会に対して人種平等案を提出させたのです。それは、いかなる国も人種や国籍の別を理由に法律上あるいは事実上何らの差別を設けないことを約束する、というもので、今日から見れば当然の内容です。しかし、これは欧米の植民地体制に苦しむ人々に深い感銘と希望を与えるものでした。日本の全権団のところには感謝と激励の手紙が殺到したといいます。
 逆に、植民地を支配する欧米諸国にとってははなはだ都合の悪い提案で、強硬な反対がありました。しかし、日本の粘り強い説得で、国際連盟委員会の最終票決では、十二対五の多数で人種平等案を支持するに至ったのです。ところが、議長を務めるウィルソンは、「全会一致」の原則を盾に、これを否決するという決定を下したのです。
 結局、ウィルソンが提唱した「民族自決」は欧米人の間にだけ適用され、黄色人種や黒人はその範疇に入らないという現実が暴悪されたのです。
 人種の平等が国際社会の原則となるのは、日本がアジアの植民地主義を武力で打ち破った後の一九四八年(昭和二十三年)の世界人権宣言まで待たねばなりませんでした。




何故大東亜戦争と呼ぶのか?
   戦争の呼称に込められた、人種平等・民族独立の理想「大東亜新秩序」。


 さきの大戦を大東亜戦争と呼ぶのは、昭和十六年十二月十日、この呼称が正式に閣議決定されたことによります。十二日、これを受けて内閣情報局(今の内閣官房に当る)は、「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と呼称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず」と発表しています。わが国の掲げる戦争目的を明確に示す言葉が、大東亜戦争なのです。
 なお、大東亜戦争に支那事変を含めるとは、昭和十二年七月の支那事変の始まりから、ということではなく、対米英戦を始めた昭和十六年十二月八日以降の中国との戦いを含める、という意味です。
 ここにいう「大東亜新秩序」とは、昭和十三年十一月に発表された支那事変における日本の目標を示した「東亜新秩序」(日本、中国、満州国の三国が協力して、国際正義の確立、共同防共、新文化の創造、経済統合を実現するために新たに建設する束アジアの国際秩序)の理念を、アジア全域にまで拡大したものといえます。これは、さらにアジアの植民地解放と相互の平等互恵を理念とする「大東亜共栄圏」構想に受け継がれていきます。

 わが国は、もともと自存自衛のためにやむなく米英との戦争に突入しましたが、当時の日本人は戦いの目的を、自国の生存・独立を保つことに止まらず、欧米の人種差別・民族差別意識に基づくアジア被植民地体制を打破し、宿願である人種平等・民族平等による新たなアジア国際秩序の構築を目指すものと定めたのです。
 この大東亜戦争という呼称のもとに、幾百万の日本の青年、そして植民地解放を目指したアジアの青年たちが立ち上がって戦ったことは、厳然とした事実です。そして、その多くが戦場で斃(たお)れ、命を散らしたことを思えば、あの戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことこそが 正しいと言えるのではないでしょうか。


 ■「大東亜戦争」と「太平洋戦争」の違いは?
 日本が正式に決定した「大東亜戦争」は陸軍が提案したもので、これに対して海軍は「太平洋戦争」の名称を提案していました。それは、「今次の戦争は主に対米戦争であり、従って太平洋戦争であり、主戦場たる太平洋で決定的に戦い全戦力を傾注しなければならない」という戦争指導上の方針に基づく主張からでした。
 しかし、今日広く使われている「太平洋戦争」は、海軍の主張に基づくものではありません。
 敗戦後、日本を占領した連合軍は昭和二十年十二月十五日、いわゆる「神道指令」を発し、その中で「大東亜戦争」などの用括を「国家神社、軍国主義、過激なる国家主点」を連想させるとしてその使用の即刻中止を命令しました。では代わりに何と呼べば良いのか具体的な命令はなく、その代わりに「指令」が出される一週間前から、各新聞社に一斉に「連合軍司令部提供」の「太平洋戦争史」の連載を開始させています。そして、検閲により「大東亜戦争」は全て「太平洋戦争」と書き換えさせたのです。これには一つの例外(目こぼし)もありませんでした。これにより七年間の占領の間に、「大東亜戦争」に代わって「太平洋戦争」の呼称が定着するようになったのです。
 占領軍が提供した「太平洋戦争史」なるものは、この半年後に開廷する東京裁判を倫理的に正当化するため、「侵略戦争」を連行した「戦争犯罪人」だけでなく、「日本国民の責任を明確にする」目的、日本人全体に贖罪意識を植え付けるために、徹頭徹属「侵略戦争」史観で書かれたもので、これは占領軍の宣伝活動である「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(後述)の一環として位置づけられています。
 「大東亜戦争」を否定し、「太平洋戦争」を無批判に使用する今の日本は、占領軍の宣伝活動がいまだに生きているといえます。
 なお、一部で使われている「アジア太平洋戦争」なる用語は、アジアヘの日本人の贖罪意識をより強執して植え付けようとする意図が込められている、占領軍の宣伝活動の発展版に他なりません。

 ■[マスコミ堕落論]の「日本=連合国(国連)自治区説」
 GHQは、略称であって、それだけでは総司令部という意味しか持たない。正式日本語名称を連合国軍最高司令官総司令部である。連合国つまり戦勝国を意味するが、正確には同盟国である。が、一般的に国際連合と呼ばれる組織の発足は、1945年の10月4日だが、40年代初期から戦後組織の構想はアメリカにあり、憲章の一部は1944年に作成されている。直後にポーランドが加わるが50カ国が憲章に署名したのは1945年の6月のことである。
 通称GHQにおいては、同盟国となつているのは、終戦直後であり明確な目的つまり日本占領の目的を持っているからである。連合国という用語については、終戦後の世界体制という大きな枠組みでの結びつきだからだ。そして、名前だけが違う同じ存在を指している。すなわち戦勝国群である。つまり、GHQの主体は連合国(国連)であって、日本は1945年から7年間、連合国(国連)の占領下にあったことになる。
 言うまでもないが、現日本国憲法は、マッカーサー主導のもとGHQが作成した。つまり現在の日本国憲法は連合国(国連)が作成した、連合国(国連)憲法ということになる。
 時代の推移で現在の連合国(国連)加盟国193国のすべてとはもちろん言わないが、連合国(国連)憲法が、発足当時の加盟国51カ国、少なくとも常任理事国5カ国、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、支那の利益を追求するために作成されたという仮説はおよそ可能性のある仮説ではないだろうか。
 とはいえ、5カ国あるということは、5カ国それぞれに国益があるのだから、それぞれの利益を図って貢献させられるということになれば、日本国憲法は実は条約なのではないかという仮説さえ成り立つ。
 昭和27年(1952年)4月28日は我が国が主権を回復した祝福すべき日だが、日本国憲法は改正されなかった。改憲は再軍備とセットになつた議論だつたが、結局、占領憲法、この項でいう連合国(国連)憲法をそのまま持ち続けた。米ソの二極構造は世界史上まれに見る平和状態を生み出し、核の傘というようなことが言われながら、日本は生産と経済成長に励む。そしてソ連の崩壊後、日本の前にやっかいな支那と韓国が現れる。
 日本の、反日マスコミを含む国内反日勢力は世界的に見てもきわめて特異なありかたをしている。アメリカのリベラルは国家の解体を望むだけだが、日本の国内反日勢力はリベラルとはまた違い、必ずどこか、日本以外の国の国益に貢献しようとする。
 それは一国に限ったことではない。きわめて分裂的で、マスコミであれば同じメディアの中で、この言説は支那の国益にかない、あの言説は韓国の国益にかない、あちらはアメリカの国益にかなうという具合に、まだら模様、あるいは重層構造をなしているように見えてならない。
 そして、そこには日本だけがないのである。日本の国益はどうやら犠牲にすべきことだと思われている。これはつまり、日本国憲法を連合国(国連)憲法と仮説した場合に立ち上がる、ひとつのモチーフになりうる。
 憲法が連合国(国連)憲法なら、列島は連合国(国連)の自治区である。かつ、一国支配の自治区ではないのだから、連合国(国連)側の情勢にあわせて多角形的に姿を変えてそれぞれの面を相応する国に見せなければならない。
 そして、これは憲法というよりやはり条約に近いかたちである。だから、アメリカも支那も韓国も平気で日本国憲法に対して言及するのである。韓国などは韓国内で、「九条を守れ」などといったデモまで行う。
 実は、彼らに内政干渉しているつもりなどさらさらないのである。日本国憲法は条約であって、かつ日本列島はみんなの、《平和を愛する諸国民》(占領憲法前文)のものだからだ。恐ろしいことに、恐らく鳩山由紀夫は、実はこの考えの中にいたのである。
 この仮説がもちろんやや強引なファンタジーであることは承知の上だが、しかし私は、外から日本を見る時のひとつのパースペクティブとして、日本にありながら実は外に存在する国内反日ファシズムの行動原理のひとつとして、様々な問題を腑分けしていくときの、思考に与える触媒のひとつとして有効なのではないかと考えている。
 現行憲法は変えなければならない。やはりこれは悪夢だからだ。




日本が負けたからアジア諸国は独立できたのか?
   人材育成と占領地域の独立を着実に実現させていった日本

 日本が戦時中に占領した地域は、戦後、次々と独立を獲得していきました。しかし、それは単に日本が敗れたために実現したのではありません。
 日本は、欧米の植民地にされていたアジア諸国の独立を助ける方針を、戦争の当初から掲げていました。昭和十七年(一九四二年)二月には、東條首相が帝国議会でアジア諸国の独立を支援する方針を演説しています。そして、翌昭和十八年一月、中国(日本占領地域に成立した江兆銘政権)に全ての権益を返還して対等の友好関係を樹立する協定を結び、五月には、当時日本の占領下にあった、フィリピン、ビルマ(現ミャンマー)の独立を容認する決定を下します。
 これを受けて同年八月にビルマが、十月にはフィリピンが独立を宣言しました。また、インドの独立を目指す自由インド仮政府の樹立を支援し、十一月にはこれらの国々の代表を招いた大東亜会議を開催して相互の自主独立と人種差別の撤廃などを謳った「大東亜共同宣言」を発表、同じ月に、日本軍が占領していたインドの一部であるアンダマン・ニコパル両諸島を自由インド仮政府に帰属させることを決定しています。これは、インド独立の承認を意味する画期的な決定でした。更に、昭和二〇年(一九四五年)二月には、インドシナ三国の独立容認を決定、これにより、三月から四月にかけてアンナン(ベトナム)、カンボジア、ラオスが次々と独立を宣言します。同年七月には、インドネシアの独立容認を決定します。

 結局、日本が戦時中に占領したアジア地域で独立容認が決定されなかったのはマレーシア・シンガポールのみでした。しかし、日本はここにも興亜訓練所を設立(昭和十七年にシンガポール、翌年マラッカ)して、マレー人に国家運営の教育を施しています。その結果、イギリスの植民地として満足な教育も受けられなかったマレー人の政治意識は急速に向上しました。マレーシアの歴史学者ザイナル・アビディーンは「日本軍政は、東南アジアの中で最も政治的意識が遅れていたマレー人に、その種を播き、成長を促進させ、マラヤにおける民族主義の台頭と発展に、大きな触媒の役割を果たした」と指摘しています。
 このことからも、日本は決してマレーシアを植民地にするつもりがなく、環境が整い次第、他の地域と同じように独立させるつもりだったことがわかります。

 残るは、日本が統治する朝鮮と台湾です。この両地域については、昭和二十年三月、衆議院議員の定員が朝鮮に十人名、台湾に五名割り当てられました。これについて、当時この政策を推進した重光葵は、「この制度は、アイルランドが独立する前に議員を宗主国のイギリス議会に送った制度に似たもので、独立を直接の目的とするものではないが、自治に向かって一歩を進めるものであった」と回想しています。自治から独立へ進むかどうか、選挙という形で、朝鮮、台湾それぞれ現地の人々の意思を表し得る制度を整えたと言えるでしょう。
 このような事実から類推すると、もし日本が戦争に勝っていたら、アジアに日本の植民地帝国が築かれるのではなく、独立や自治の達成された自由なアジアが生み出されていたと思われます。(⇒[日本はなぜアジアの国々に愛されるのか]参照)

 ■独立するアジアの国々
昭和18年(1943)
  1月 江兆銘の中国南京政府に、日本の全ての特殊権益を返還。
  8月 ビルマ(現ミャンマー)独立。
 10月 フィリピン独立。
    自由インド仮政府成立。
 11月 大東亜会議開催。
昭和20年(1945)
  3月 ベトナム、カンボジア独立。
  4月 ラオス独立。
  7月 インドネシアの独立を決定。
  8月 終戦


 ■インド独立軍の勇士達
 
 


インド独立の英雄チャンドラ・ボースの遺骨を守った蓮光寺

 インドの独立のために英国と戦うボースが、台湾で飛行機事故に遭い亡くなってしまう。英国支配下のインドで弔うことができず、インド独立軍は、米軍占領下の日本でボースを弔い、遺骨を安置することにした。ボースの遺骨の引き取り手が見つからなかったが、蓮光寺が引き受けてくれた。以後、占領下の日本で、連合国側である英国に対し、彼の遺骨を守り抜くことは並大抵のことではなかったという。
 日本が独立を回復し、蓮光寺の住職はボースの遺骨の処置について、ネルーに手紙で問い合わせをした。かくして、昭和31年、インド首相・ネルーは来日し、盟友ボースの霊前に額ずき同志の遺骨を守ってくれた日本人に対して、謝意を示した。また、そのお礼として、ネルーは戦中に像を失った上野動物園に像をプレゼントしてくれたのです。
 インドの人たちは未だに、ボースの生存を信じており、帰ってくると思っている。・・・
 彼は最も賢明で公正な指導者として、知られていた。しかし、彼のともした自由への炎は、より強く大きく燃え上がり、将来における地球上、いわゆる自由の戦士達へ明るい道を照らし示すものである。
 最後にビルマ、インドネシア、マレイシア、フィリピンなどの東南アジア諸国において、独立が連鎖的になされたのは、その自由の炎を日本によって、ともされたことによるものである。これら諸国は日本国民におうところ大である。




独立の意志を貫いたシアヌーク国王
    日本軍を「解放者」と讃える映画も制作


 カンボジアで最も著名な人物、前国王ノロドム・シアヌーク殿下は、フランス保護下の一九四一年(昭和十六年)に国王に即位して以来二〇〇四年(平成十六年)の退位まで、一時期を除きずっと国王(国家元首)の地位にありました。(一九五五年の一時退位以来、「殿下」の称号で呼ばれます。)
 一九四五年三月シアヌーク殿下は、日本軍の支援によりカンボジアが独立したとき、国王として独立を宣言しています。二十二歳の時でした。
 この時の日本軍の姿は、シアヌーク殿下に強い印象を残したようです。殿下には自分で映画を監督・主演する趣味があり、亡命中の一九七九年、ピョンヤンで制作・主演された映画『ポコールの蓄薇』で、殿下は、カンボジアのポコールに進駐した日本軍部隊の指揮官・長谷川一郎大佐を演じています。長谷川大佐が凛々しく「日本はアジアを解放するために戦っている」と演説し、民衆は「解放者」として歓呼の声で迎えるというシーン、日本の降伏後、大佐がピアノで「さくらさくら」を弾き、その旋律が流れるなか、日本の美しい四季が次々と映し出されるシーンなど、日本の気高い精神を描いた映画を製作しているのです。
 一九四五年(昭和二十年)八月、日本の敗戦でカンボジアにはフランスが宗主国として舞い戻り、独立は無効とされました。ここからシアヌーク殿下の独立闘争が始まります。
 殿下はアメリカなど諸国を歴訪してカンボジアの独立を国際世論に訴える戦法に出ました。一九四九年、フランス連合内での独立が認められましたが、依然実権がフランスの手に握られる状況に、殿下は離宮に籠もり、「完全に独立が達成されるまで首都・プノンペンには戻らない」と宣言、これに呼応して全国で独立を求める反仏デモが大きく盛り上った結果、フランスは遂にカンボジアの完全独立を認め、一九五三年に新生「カンボジア王国」が発足したのです。


インドネシア独立に命を捧げた日本軍人
     −オランダとの戦いで一〇〇〇人が戦死


 インドネシアがオランダの植民地となったのは一六〇五年、それ以来三世紀半にわたって、オランダ人はインドネシアを収奪し続けました。しかし、一九四二年三月、日本軍はジャワ島に上陸を敢行するや、僅か十日ほどでオランダ軍を降伏させてしまいました。
 日本軍はオランダ人によって幽閉されていた独立運動家を解放、インドネシア人による義勇軍を組織したり、教育を強化するなどして、インドネシアが独立国となるよう尽力するのです。日本が降伏した後、旧宗主国のオランダが再び支配しようとしたため、インドネシア人は独立の為に銃を持って戦います。連合国に降伏しその支配下に置かれた立場上、日本はインドネシア独立軍とは敵対関係になりましたが、それでも密かに彼らに武器を渡したり、共に戦ったりして独立を支援しました。
 このインドネシア独立の戦いに参加して亡くなった日本人は約一〇〇〇名にのぼると言われています。
 このため、スカルノ大統領は、インドネシア独立の日付を日本の皇紀二六〇五年八月十七日(※)から取って「17805」としました。また、インドネシアの人々は「亜細亜の希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は、私達亜細亜人の戦争を日本が代表して敢行したのです」(元首相モハメッド・ナチール)と、今でも日本に感謝し続けています。
※皇紀とは初代天皇神武天皇がご即位された年を第一年とする日本の紀元です。


日本のために中立を貰いた独立チベット
        〜 米英の要求を断固拒否


 今日、チベットは中国の領土して扱われています。しかし、チベットが中国の支配下に入ったのは、大東亜戦争終結後の一九四九年に中国軍が侵攻・占領してからです。それまでは、チベットは独立国だったのです。
 大東亜戦争の間チベットはいずれの側にも加担せず、中立を貫きました。日本軍がビルマに進攻し、米英から中国の蒋介石政権に物資等を送る「援蒋ルート」が遮断されると、連合国側は、その代わりにぜひともチベットを通過させてほしいと強く要求しましたが、チベットは頑なに中立を守ってこの要求を拒否、連合国側もチベットの立場を尊重しています。
 チベットのこの姿勢は、日本が劣勢に立たされてからも貫かれ、情勢を見極めた世界の多くの国が連合国側に立って、形式的にでも日本に宣戦布告する中で、遂に参戦することはありませんでした。周囲の国々や地域が全て連合国側に立つという情勢でも中立を貫くことは、相当にわが国に好意的な姿勢と言えます。
 現在、インドに逃れた元首ダライ・ラマ法王を中心とした亡命政府が、チベットの自立回復を求めて活動しています。かつてアジア解放の理念を掲げて戦ったわが国にとってチベット問題は、決して無視できる事ではないのです。




本当の終戦の日はいつか?
  サンフランシスコ講和条約(昭和27年)まで戦争は続いていた。


 昭和二十七年(一九五二年)四月二十八日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は連合軍による七年間の占領のくびきを脱し、晴れて独立しました。講和条約には、第一条(a)日本国と各連合国との間の戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。(b)連合国は、日本国及びその領土に対する日本国民の完全な主権を承認する。とあります。つまり、国際法上では、大東亜戦争の終結は一九五二年四月二十八日なのです。一般には昭和二十年八月十五日が「終戦記念日」といわれていますが、ポツダム宣言の受諾決定が八月十四日に行われ、正式に停戦命令が出たのは八月十六日ですし、連合国軍に日本陸海軍が降伏し、降伏文書に調印したのは九月二日です。
 では、八月十五日とは、いかなる日なのでしょうか。昭和二十年のこの日の正午、昭和天皇が「大東亜戦争終結ノ詔書」(詔書の日付は八月十四日)を朗読された録音がラジオ放送されました(玉音放送)。有史以来、初めて天皇陛下が広く国民に御声をかけられたのです。「戦陣に死し、職域に殉じ、非命に集れたる者及其の遺族に想いを致せば五内為に裂く」「時運の趣く所、堪え難きを堪え忍び難きを忍び、以って万世の為に太平を開かむと欲す」と、傷つき倒れた国民を悼み、共に困難を乗り越え復興を願う切々としたお言葉は、全ての日本人が敗戦の重い現実を心に刻み、忘れえぬ日となつたのでした。
 また、昭和三十二年(一九五七年)制定の引揚者給付金等支給法では八月十五日を終戦の基準としていますし、昭和三十人年(一九六三年)の閣議では、全国戦没者追悼式を八月十五日に行うことも決まりました。更に昭和五十七年(一九八二年)には、八月十五日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることも閣議決定されています。以上のような経緯、背景から、八月十五日を「終戦記念日」とするのが慣例になつているのです。
 終戦から六十年が経ち、平成の御代になつた今でも、天皇皇后両陛下は八月十五日の全国戦没者追悼式に御臨席になり、国民と共に平和を祈念し続けておられます。平成十人年十二月二十三日、天皇陛下は御誕生日の記者会見でも「毎年八月十五日にそれら戦陣に散り、戦禍に斃れた人々のことに思いを致し、全国戦没者追悼式に臨んでいます。戦闘に携わった人も戦闘に携わらなかった人々も、国や国民のことを思い、力を尽くして戦い、あるいは働き、亡くなつた人々であり、今日の日本がその人々の犠牲の上に築かれていることを決して忘れてはならないと思います」とお述べになつておられます。


 ■上野動物園の象−日本とインドの友好の絆
 戦争中、上野動物園では米軍の爆撃で檻が壊され猛獣や大型動物が逃げ出して市民に危害を加えないよう、薬殺などの処分が行なわれました。象が殺された悲劇は後に物語にもなりました。
 では、戦後どうやって再び上野動物園に象が飼われるようになったのでしょうか。実は、インドのネルー首相が、上野動物園がある台東区の子供たちの熱望に応え、昭和二十四年に自分の娘の名前を付けた「インディラ」を贈ってくれたことによるのです。
 それは、独立間もないインドが、欧米の植民地から解放されるのに貢献した日本に対して深い好意を持ち、敗戦で打ちひしがれた日本を元気付けたいと思ったからでした。このインドの好意は、今も続いていて、現在上野動物園には、四頭目の象「スーリア」が贈られています。「スーリア」とはヒンズー語で「昇る太陽」、日出ずる国・日本にちなんで命名されたのです。
 インドの独立肥念日(ナショナルデー)は八月十五日で、イギリスからの独立を妃念する日です。このような国の特別の祝日には、何処の国の在外公館でもお祝いのパーティーを開きますが、在日インド大使館だけは、この日が日本人にとって大東亜戦争の戦没者を追悼する特別の思いがこもった日であることに配慮してパーティーをやりません。代わりに日本の国花・桜が満開の春の時期を選んでパーティーを開くことにしているそうです。




満州事変は日本の侵略行為なのか?
     激しさを増す排日、侮日事件に対し関東軍が反撃した


 昭和六年(一九三一年)、関東軍参謀・石原莞爾陸軍大佐を中心とした軍人グループは柳条湖で鉄道を爆破し、これを張学良軍の仕業として、日本軍を出動させました(満州事変)。満州の民衆にはもともと張学良軍閥の重税などに対する根強い反発があったため、事変勃発を機に各地に自治政府が成立、翌年には、満州族が樹てた清朝最後の皇帝・宣統帝=薄儀を首班とする満州国が建国されました。
 これに対し、国際連盟はリットン調査団を派遣して満州事変の背景や満州建国の事情を調査し、報告及び勧告を行ないました(リットン報告書)。これは最終的に満州建国を否定して国際管理に置く内容であったため日本は拒否、国際連盟脱退へと繁っていきます。
 しかし、リットン報告書は、決して日本を一方的に非難している訳ではありません。満州事変を「一国の国境が隣接国の武装軍隊により侵略せられたるが如き簡単なる事件にもあらず」「支邦が外国人に対抗し得んが為には更に根本的な改革を必要としたるも、支邦は斯かる改革を望まざりき」として、中国の態度を批判さえしているのです。
 わが国は、日露戦争の勝利の結果、明治三十人年(一九〇五年)に結ばれたポーツマス条約によりロシアから旅順、大連及び南満州鉄道(満鉄)とその付属地における経済権益を受け継ぎました。これは、同年の満州善隣条約によって中国(清朝)からも承認され、国際的にも正当性のある権益でした。
 ところが、満州の経済覇権を目指した米国は、当時の満州の支配者(軍閥)張作森やその子張学良に対し、大規模な兵器工場建設等の支援を行い、満鉄の経営妨害など日本の権益に対するさまざまな圧力−−排日事件をけしかけてきたのです。ソ連も昭和三年(一九二八年)、満州北西部をその影響下に収めると、ここを拠点に日本権益への共産ゲリラ攻撃を仕掛けてきました。
 さらに、中国統一を目指していた蒋介石の中国国民党の北伐が進み、これに張学良が合流したため、満州の排日事件は一層激しくなりました。満州事変前年の昭和五年には、東満州の間島で日本人四十四名が虐殺される間島事件が起きるなど、満鉄沿線での排日事件は一四三六件にも及ぶようになつていたのです。これらは全て国際条約を無視した暴挙です。
 こうした在満州の日本人の生命.財産の危機に直面した日本政府でしたが、時の幣原喜重郎外相の友好第一とする外交方針は却って、中国側の侮りを招き、排日運動を助長するばかりでした。満州の権益(日本人の生命・財産を含む)を防衛する任にありながら、政府の方針に従って、激化する排日運動に何年間も隠忍自重を続けていた関東軍が、遂にやむにやまれぬ思いで決起したのが満州事変だったのです。([完訳 紫禁城の黄昏]参照)


 ■石原莞爾の「五族協和」の理想
 満州事変を主導した石原発育は、満州を日本領にしようという侵略思想を抱いていた訳ではありません。彼は、満州国に居住する全ての民族が平等に協力して国土を発展させる「五族協和」「王道楽土」建設の理想を抱いていました。五族とは、日本、満州、漢、朝鮮、蒙古(モンゴル)の各民族を指します。
 彼は、覚書の中で「新たに建設さるる満州は、支那のために失地にあらず、日本のために領土にあらず、日支両国共同の独立国家であると共に韓民族協和の理想郷である」「在満日本人は、裸一貫となって諸民族の間に伍し、公平な競争によって生存権を確立すべきであって、満州国成立と同時に治外法権や、付属地行政権などの特権は、即時撤廃しなければならない。法律をもって日本人の特権を保持することは、日本人の優越権を助長し、他民族との不和を醸成し、且つ日本人を堕落に導く」と、日本人が満州国の中で特権を享受し、他の民族より優越的な地位に就くことを固く戒めています。
 石原は満州建国後まもなく日本に帰国したため、彼の方針をそのまま実現することはできませんでしたが、その理想は満州国の国造りの精神的バックボーンになりました。その後、満州国は、毎年百万人以上の中国人が流入するような、人々をひきつける魅力溢れる国として発展していったのです。




南京大虐殺は本当にあったのか?
  証拠の殆んどが伝聞に過ぎず、当時国際問題とした外国もない。


 日本の残虐行為の代名詞のようになっている「南京大虐殺」は、昭和十二年(一九三七年)十二月十三日の南京陥落から六週間にわたって、日本軍が中国の一般市民や捕虜を大量に殺害したとされる事件です。中国政府は、その犠牲者を三十万人以上として、記念館まで建設して対外的な宣伝を続けています。
 中国が主張する虐殺の根拠の一つに、「一晩で五万七四一人名が虐殺されるのを見た」という一人の中国人の証言がありますが、死体一つ数えるのに平均一秒かかったとして、休憩無しで数えても約十六時間が必要ですから、これは到底信じることが出来ません。中国側の証言はこれと類似のものばかりです。

 また、当時南京に残留していた欧米人たちが残した証言や記録による被害者の数は中国側の主張よりずっと少ないのですが、その大部分も伝聞に基くものです。例えば、欧米人で組織され南京市内の一般市民を収容した安全区委員会の「日本軍による暴行」記録にある二十五件の殺人事件の被害者は四十九人ですが、実際に目撃され、事実と確認されたのは僅かに二件、しかも内一件は安全区委員会も「合法的な処刑」と認めています

 一方、この安全区委員会のメンバーの中には、個人としては全く違った証言を残している人もいます。中でも有名なのは、金陵大学歴史学教授ベイツのメモで、四万近くの非武装の人間が殺されたという内容でした。これは南京虐殺を最初に世界に知らせたとされるティンパーリー編著『戦争とは何か』に収録されて「大虐殺」の有力な証拠とされてきました。ところが、中立的な第三者と思われていた欧米人の証言が、実は中国側の宣伝に協力したものであったことが、最近の研究で明らかになってきました。ベイツは南京陥落以前から中国政府の顧問だったこと、そしてティンパーリーは中国国民党の中央宣伝部顧問であり、『戦争とは何か』も同宣伝部の「要請と資金提供」によって書かれた宣伝文書であったことが判明しています。

 南京陥落後の市街の様子については、当時の日本の新聞が「平和甦る南京」「手を振りあって越年」といった平和そのものの情景を写真付きで克明に報道しています。南京には百人以上の日本人ジャーナリストがいて、日本軍将兵への取材や報道には規制があったものの、市内の見開や行動は自由でした。当時大阪朝日新聞上海支局月だった山本治氏は、「夜は皆集まりますが、そんな話は一度も聞いたことはありません。」と述べています。彼らは戦後、発言に規制の必要がなくなつた以降も「大虐殺」など見たこともないと証言しているのです。


 ■「南京事件」−残された論点 [冤罪、南京大虐殺へ
 一般市民を大量に虐殺したという意味での「南京大虐殺」は、もはや事実ではないことは明らかですが、便衣兵や投降兵を処刑した点については、研究者の間で論争が続いています。
 便衣兵とは、軍服を脱いで一般市民に紛れ込んだ中国軍兵士のことで、中には武器を隠し持ち危害を加える者もいたため、日本軍は敗残兵掃討の過程でその一部を処刑したのは事実です。
 「ハーグ陸戦法規」によれば便衣兵は不法戦闘員であり、そのため処刑は合法とする見方と、正式の手続きを踏まないで処刑したのは間虜という見方に分かれています。なお、日本軍は全てを処刑したのではなく、便衣兵の多くは捕虜として収容所に送り、後には日本の盟邦となった江兆銘の南京政権の軍隊に再編成するなどしています。
 また、投降兵とは降伏してきた兵士のことで、これを捕虜とせずその場で処刑した事例が、捕虜の待遇を定めた「ジュネーブ集約」に違反する殺害かどうか、という護論がなされています。
 捕虜とするかどうかは、現場での判断が優先されます。例えば、沖縄戦で手を基丁げて降伏してきた日本軍兵士をアメリカ海兵隊見が火炎放射器で焼き殺したという実際の事例でさえも、「捕虜虐殺」と必ずしも即断できる訳ではないといいます。つまり、ケース・バイ・ケースということす。南京陥落時の中国軍はまったく統制が取れない大混乱の中にあり、しかも事件は戦闘継続中の出来事でしたから、一見「捕虜虐殺」と思われるケースにも緊急避難的な事情があったことを考慮されるべきでしょう。




特攻は狂気の作戦か?
  民間人を巻き込む自爆テロとは全く異なる特攻隊員の崇高な精神。


 レイテ沖海戦さなかの昭和十九年十月二十日、世界戦史上類のない航空特攻隊が敵艦に向け飛び立ちました。
 当時の日本はガダルカナル島・グアム島・サイパン島などを失い、戦局は日に日に悪化していました。こうした敗戦色が濃厚な中、特攻作戦が決行されたのです。苦闘、苦悶の末に特攻隊編成の決意をした大西瀧次郎海軍中将は、「この危機を救えるものは大臣でも、大将でも、軍令部総長でもない。諸子の如く純真にして気力に満ちた若い人々である」「ここで青年が立たなければ、日本は滅びる。しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びない」と隊員に訓示しています。つまり、戦争の勝ち負けの先にある“日本が永遠に続くこと”を願い、特攻隊は編成されたのです。
 特攻は強制ではなく、あくまでも志願制という建て前でした。特攻隊に志願し、出撃した市島保男さんは、出撃前の日記に次のように記しています。
「私は自己の人生は人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んで来たと信じている。精神も肉体も父母から受けた儘で美しく生き抜けたのは神の大いなる愛と私を囲んでいた人々の美しい愛情のお陰であった。今限りなく美しい祖国に我が清き生命を捧げ得ることに大きな誇りと喜びを感じる」
 そして、「輝ける大和島根は万世に栄え栄えて四方照らす国」との遺詠を遺して出撃していきました。

 二〇〇一年 (平成十三年) 九月十一日、ニューヨークの世界貿易センタービルが、テロリストによってハイジャックされた航空機の激突によって倒壊しましたが、この時の彼らの捨身の突撃があたかも特攻隊と同じものであるかのように論じられました。
 しかし、彼らの行為は自らが神に召される為に罪のない民衆を利用し、あるいは標的として犠牲にしたテロリズムに他なりません。
 市島さんの遺書、遺詠からも明らかなように、特攻隊の勇士は家族や友人、そして後世の私たちの為に命を投げ出して飛び立ったのです。攻撃対象も軍事目標(戦艦、空母等)に限られており、一般民間人を標的にしたテロと特攻隊は全く性質をことにするものです。
 特攻隊は航空の他、水中特攻、陸上特攻隊が編成され、六九五二人もの青年が命を投げ出しました。後世を生きる私たちは、この国を守らんとして、尊い命を捧げられた特攻隊の方々の思いに、静かに思いを馳せるべきではないでしょうか。


 ■特攻の「生みの親」大西瀧治郎中将の遺書
 特攻隊出撃を書初に命令した大西中将(第一航空艦隊司令長官)は、特攻隊を編成する際、「これは統率の外道だ」と呟き、「わが声価は、棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」との言葉を残したといいます。生還の可能性が全くない特攻攻撃が軍の作戦としては常軌を逸するものであり、後世長く厳しい評価が自分には下されることを強く自覚していたのです。
 しかし、特攻が始められた昭和十九年十月頃には、もはやそれ以外に米軍に有効な打撃を与える術を日本軍は持っていませんでした。
 特攻隊の出撃は終戦まで続けられ、米軍に大きな恐怖を与えましたが、敗勢そのものを覆すことは出来ませんでした。大西中将は終戦の翌日、介錯をつけずに自刃し、数時間悶え苦しんだ末に息を引き取りました。
 遺書には次のようにあります。
「特攻隊の英才に申す。善く戦ひたり、深謝す。
 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。
 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。
 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
 次に一般青壮年に告ぐ。(中略)
 諸氏は国の寶(たから)なり。
 平時に処し、猶は克く特攻精神を堅持し、
 日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ」
 大西中将の遺書からは、特攻隊の精神が決して狂信的な軍国主義ではなかったことを窺うことができます。それは、特攻隊長の遺書にも見られるように、民族と世界人類の平和のための自己犠牲の崇高な発露であったのです。




日本軍は沖縄県民に集団自決を命じたのか?
   軍は住民の自決申し出を拒否し、生き延びるよう説得。

 沖縄には、昭和二十年三月下旬に米軍が上陸し、六月下旬までの間、激しい戦いが繰り広げられました。そこでは、住民だけで約十万人が犠牲になったと言われています。
 慶良問諸島では多くの住民が集団自決を遂げましたが、これについて、現行の教科書は「軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくぼるなどして集団的な自殺を強制した」(日本書籍新社の『中学歴史』)と記述しています。
 慶良問諸島の渡嘉敷島で約三百三十名の住民が集団自決した際には、島に駐留していた陸軍海上挺進第三戦隊の赤松嘉次大尉が自決命令を下したとされ、同じく座間味島で約百七十名の住民が集団自決した際には、陸軍海上挺進第一戦隊の梅澤裕大尉が命令を下したと言われています。
 しかし、渡嘉敷島の集団自決については、曽野綾子氏が生き残りの住民や関係者などへ聞き取りを徹底して行い、昭和四十人年に『ある神話の背景』という本にまとめ、反論を加えています。そもそも集団自決に軍の命令があったという話は、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発行された『沖縄戦記 鉄の暴風』が最初ですが、曽野氏はその情報源が集団自決を目撃していない二人の伝聞証言によるものであることをつきとめました。そして更に赤桧大尉は自決命令を出したどころか、住民側の自決申し出を拒否して何とか生き延びるよう説得していた事実を、明らかにしたのでした。
 集団自決は、敵軍からの虐殺・凌辱を避けるため、住民たち自身が死を選んだ極限状況の下での悲劇だったのです。
 また、座間味島についても、これが全くの虚構であったことが、昭和六十年の神戸新聞の報道で明らかにされました。生き残った住民の元女子青年団員が梅津大尉の自決命令がなかったことを家族に告白したのです。この人は、集団自決のために弾薬をもらいにいったところ、梅澤大尉に生き延びるよう説得されて帰されたことや、戦後、集団自決の遺族が援護法に基づく年金を受け取れるように、事実と違うことを証言したことなどを打ち明けています。
 しかし、このような真相が明らかにされているにもかかわらず、虚構の話を最初に記した『鉄の暴風』はほとんど訂正されることなく、今も発行され続けています。また、この本を鵜呑みにして、赤松大尉を集団自決の責任者として「あまりに巨きい罪の巨魁」などと指弾した大江健三郎氏の『沖縄ノート』(岩波新書)も、昭和四十五年の発行以来、全く記述を変えることなく、現在でも、この虚構を世に広め続けているのです。
 平成十七年、赤松氏の遺族と梅澤氏は大江氏と岩波書店を相手取り、名誉毀損の損害賠償と謝罪広告を求め訴訟を起こしています。


 沖縄県民斯く戦へり
 昭和二十年(一九四五)三月二十三日、米軍は、戦艦十隻、空母二十隻を含む大小千三百隻からなる部隊で、沖縄への艦砲射撃や空爆を行いました、二十六日には十八万三千の米兵が上陸を開始、これを牛島満中将率いる陸軍第三十二軍と太田実少将の海軍陸戦隊の合計約十万が迎え撃ったのでした。日本軍のなかには、沖縄県民の青年男子によって組織された防衛隊、中学生による鉄血勤皇隊、女学生による救急介謙衛生隊(ひめゆり部隊など)も参加していました。
 火力や兵力で勝っていた米軍は、次第に日本軍を圧迫してゆきましたが、日本軍は急造爆雷を抱いて戦車に突撃してこれを破壊し、夜間は斬り込みによって敵陣地を攪乱するなど、激しい抵抗を続けました。また、沖縄県民も多くの犠牲者を出しながらも、看護、炊飯、弾薬の輸送などで積極的に日本軍に協力しました。
 海軍の太田少将は、守備隊の最期に当たり、沖縄県民の奮闘を称え、「沖縄県民斯く戦へり。後世特別の御高配を賜らんことを」と海軍省宛てに打電しています。また、陸軍の牛島満中将も「沖縄県民はよく尽してくれた。たとえ、日本本土のどこかが戦場になったとしても、これ以上の協力はないであろう」と部下に漏らしています。 六月二十二日、牛島中将が自決し、実に三ケ月に亘って米軍に出血を強いてきた沖縄の日本軍の組織的戦閑は終結しました。




連合国軍の残虐行為はなかったのか?
     多くの残虐行為が戦勝国ゆえに不問に付された。


 イギリス軍の日本軍捕虜に対する虐待行為は、会田雄次著の『アーロン収容所』に詳しく善かれています。例えば、川の中洲に収容所を設けて食事も与えず放置、捕虜達が中洲に生息する赤痢菌に汚染されたカニを捕って食べるように仕向け、やがて捕虜全てが赤痢に侵され死に絶えたのを確認して「病気で全員死亡」と記録する、といった陰湿な「虐殺」行為も紹介されています。このような劣悪な扱いを受けて死亡した日本軍捕虜は、ビルマ・マレー地区だけで約四千人にのほると言われています。
 また、アメリカ軍の残虐行為については、昭和二年(一九二七年)に初の大西洋単独横断に成功した米国人リンドバーグが、南太平洋の前線を視察して著した『リンドバーグ第二次大戦日記』の中で詳細に書き記しています。リンドバーグは、「わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降兵を射殺することしか念頭にない」「捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる者はいないかと質問する。英語を話せる者は尋問を受けるため連行され、あとの連中は『一人も捕虜にされなかった』」と米軍の行為を厳しく批判しています。
 日本軍兵士が捕虜になる事が少なかったのは、昭和十六年に出された「戦陣訓」に「生きて虜囚の辱しめを受けず」とあり、捕虜になるのを拒むよう教育されていたからだ、ということがよく言われますが、それだけが理由ではなかったのです。
 リンドバーグの批判が、彼の特殊な体験にとどまるものではなく、米軍全体にあてはまるものだということを示しているのが、ジョン・ダワー著の『人種偏見』です。これは、米軍の前線各地での残虐行為を記すとともに「日本の輸送船を沈め、その後一時間以上もかけて何百、何千という生き残りの日本兵を銃で撃ち殺したアメリカの潜水艦艦長は、この虐殺をその公式報告書に記録し、しかも上官から公の賛辞を与えられている」事実を紹介、多くの残虐行為が大っぴらに行なわれたことを示唆しているのです。
 こうした残虐行為が、戦場の兵士たちに限定されるのではないことは、アメリカ軍が日本本土の諸都市に行なつた無差別爆撃や、広島・長崎への原爆投下を見れば明らかです。アメリカ軍は、民間人を殺戮することになる「日本の人口密集都市の木と紙でできた家屋を焼き払う、無差別焼夷弾攻撃」計画を、日本の真珠湾攻撃以前から立案し始めていたことが明らかにされています。ところが、明らかに国際法に違反するこれら連合軍による残虐行為は、戦勝国であるが故に、何ら罪に問われず、現在まで免責されたままなのです。


 ■ポツダム宣言の前日に発せられた原爆投下指令
 昭和二十年(一九四五年)七月二十六日、日本の降伏を求めるポツダム宣言が発表されました。その後、八月六日の広島、九日の長崎と、二発の原爆が落とされたのは、時の鈴木貫太郎首相が、七月二十八日に「ポツダム宣言を黙殺する」と記者会見で述べたからだ、と強く非難されてきました。
 しかし、鈴木首相は「黙殺」という首葉は使っておらず、アメリカ側も鈴木首相の記者会見がポツダム宣言の拒否を意味しない、「ノーコメント程度の意味」に過ぎないことを正確に理解していました。それでも原爆が投下されたのは、ポツダム宣言の発表前日、トルーマン米大統領が原爆投下を決定し、軍首脳から投下部隊に準備が整い次第何時でも原爆を投下せよという命令が発せられていたからです。しかもそこには、日本がポツダム宣言を受諾した場合は投下を中止するといった条件付きの指示は何もありませんでした。
 また、トルーマンは、ポツダム宣言に、草案段階ではあった天皇制の保証(当時の日本の言葉では「国体護持」)という日本が最も求めていた条件を敢えて盛り込まずに発表し、日本がポツダム宣言を直ちには受け入れないように画策したのです。アメリカは、日本が降伏する前に原爆を落とし、原爆の威力によって日本が降伏したというシナリオを作りたかったのです。全てはポツダム宣言発表前に仕組まれていたことでした。




アメリカの占領政策の意図は?
  二度と米国に刃向かわないよう日本人の精神的無力化を狙った。


 占領軍 (連合軍最高司令部=GHQ)は日本の降伏後、サンフランシスコ講和条約により占領が解かれるまでの七年間、様々な占領政策を実施します。その中でもとりわけ大きな影響を日本に与えたのは、日本の行った戦争犯罪を強調するため、繰り返し行なわれた「宣伝政策」と、徹底して行われた「検閲」でした。そのねらいは日本人がアメリカとの戦争に傾注した夥しいエネルギーが、二度とアメリカに向けられないように、日本人を精神的に無力化することにありました。

 占領軍による宣伝政策は 「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」と呼ばれるもので、その目的は「東京裁判」等を通じて日本人に戦争への強烈な購罪意識を植え付け、日本と連合国の問の戦いであった戦争を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えることにありました。この宣伝政策と合わせて実施された占領政策が検閲で、以下のように実に巧妙に行われていました。
 まず、占領の初期においては、全ての新聞通信社等の記事は事前に占領軍に提出することが義務付けられていました。これは事前検閲と呼ばれるもので、占領軍の検閲指針に引っかかった記事は全て削除され、別の記事への差し替えが行われます。この検閲指針は三十項目に上り、その中には「SCAP(占領軍)に対する批判」や「東京裁判の批判」、「SCAPが憲法を起草したことに対する批判」や「検閲制度への言及」も含まれていました。また、この検閲指針には「神国日本の宣伝」や「ナショナリズムの宣伝」といった項目が含まれていたため、日本古来の伝統的な価値体系までも、これに含まれるとして全て否定されることになりました。
 占領中期になると、事前検閲は事後検閲に徐々に移行するようになります。これは既に印刷物となつた完成品を占領軍が後で検閲する制度で、占領軍側が気に入らなければその書籍を出版差止めにすることができました。出版差止めになれば大損害を被るので、執筆者や出版社は常に占領軍の検閲官に気に入られる本ばかりを執筆、出版するようになります。かくして日本人は日本人自身による自己検閲を始め、それは占領が終了した後も続けられていくのです。
 また、占領軍は、報道機関の検閲と併わせて私信の開封も行っていました。その数は毎月四百万通にも上り、占領軍は開封した私信を通して世論の動向を探り、占領政策がどれほどの効果を上げているかを探っていました。
 国際法上の戦争は、昭和二十年八月十五日をもって終了したわけではありませんでした。一九五二年(昭和二十七)四月二十八日にサンフランシスコ講和条約が発効するその日まで「戦闘」は続行中で、占領政策とは日本の無力化を狙ったアメリカによる苛烈な追撃戦であったことを我々は決して忘れてはならないのです。


 ■新聞発刊停止命令を受けた朝日新聞
 日本を占領した連合軍は、自らの残虐行為を日本人の目から徹底的に覆い隠そうとしました。そのため、ポツダム宣言第十条の「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし」を無視して、秘密裏に検閲と言論統制を行ないました。 最初にやり玉にあがった新聞は朝日新聞です。朝日新聞は、昭和二十年九月十八日から四十八時間の新聞発行中止を命令されました。その理由は、占領軍将兵による暴行事件を報じたことと、原子爆弾の使用や本土空襲が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であると指摘した鳩山一郎(後の首相)の談話を載せたことにありました。
 この発行仲止以降、朝日新聞は、占領軍の意向に忠実な報道姿勢に大きく転換していったのです。




日本人の贖罪意識はいかにして形成されたのか?
   占領軍が徹底した言論統制の下、日本軍の「残虐行為」を宣伝。


 日本人の贖罪意識の形成に大きな役割を果たしたものは、占領軍が実施した「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」でした。
 この作戦は、敗戦後間もない日本人の心に戦争を起こした国家の罪とその淵源に関する自覚を植えつける目的で開始された、極めて意図的なプロバガンダ(宣伝)でした。占領軍は、このプログラムを通じて敗戦当時の日本人の苦難と窮乏をすべて戦争指導者(軍国主義者)の責任とし、占領軍による「民主化」政策の正当化を図ったのです。
 日本人に購罪意識を植えつけるこのプログラムは、昭和二十年十二月八日に始まった「太平洋戦争史」と題した新聞連載を皮切りに執拗に進められます(十二月八日は、四年前に日本が米国に宣戦を布告した日)。「太平洋戦争史」は、このプログラムの為にCI&E(占領軍の民間情報教育局)によって準備されたもので、それまでの日本人は誰一人として聞いたことも無いような、南京、マニラにおける日本軍の残虐行為を、歴史の「真相」として強調したものでした。占領軍は、この一週間後、「太平洋戦争史」を徹底させるために、「大東亜戦争」という名称の使用そのものを禁止します。
 「太平洋戦争史」は、連載終了後、高山書院より発刊され、翌年一月、占領軍の「依命通牒」により停止となった「国史」等の授業の代わりに、学校教材として用いられ、教育現場に深く浸透することとなりました。このようにして日本人の戦った「大東亜戦争」は、占領軍により「太平洋戦争」へと巧妙にすり替えられてしまうのです。
 こうした宣伝政策は、日本人に贖罪意識が植え付けられるまで執拗に繰り返されますが、その最大のものは、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)に他なりません。これは、戦勝国が日本の戦争指導者を戦犯として一方的に裁いた、裁判とは名ばかりの復讐劇に過ぎませんでしたが、裁判の模様(とりわけ検察側の取り上げる戦犯の罪状)は、占領軍の指示で日本の新聞やラジオでも事細かに伝えられていました。このことからも、東京裁判が日本人に自らの犯した「戦争の罪悪」を見せつけるためのものであったことは明らかです。
 このプログラムによって、占領軍は日本人から自国の歴史に対する自信と誇りを奪い去り、強烈な原罪意識を植え付けることに成功したのでした。

 占領軍検閲の実態:「マニラ虐殺」と相殺された「長崎の鐘」
 昭和二十四年に出版され、その年の内に九万五千部以上という終戦直後の日本としては驚異的なべストセラーを記録した永井隆博士の被爆体験手記「長崎の鐘」も、占領軍の検閲と統制を免れませんでした。
 昭和こ十二年、占領軍の検閲当局に提出された「長崎の鐘」 は、「占領の諸日的にとって確かに有害であり、そして公共の安寧をただちに乱すおそれがあるにとどまらず、ひいては日本国民に、彼らが降伏に先立ち、連合国によって被害を受けたことを絶えず思い出させるのに役立つことにもなるであろう」と評され、あわや出版禁止の措置がとられるところでした。しかし、この本は最終的にに条件付きで出版が許可されることになりました。
 その条件とは、フィリピンをめぐる日米の激戦下で起きたとされる日本軍の「惨殺行為」を描いた「マニラの悲劇」〜QHQの諜報課の執筆で「長崎の鐘」より長文でした〜を付けて一冊にするというものでした。占領軍は原爆投下を正当化するために、マニラの「虐殺」−これも実際は犠牲者の大部分が米軍の無差別砲撃によるものではないかと言われています!を抱き合わせで出版することを強制したのです。
 今日、日本が最初に悪いことをしたのだから原爆を落とされたのは当然だと考える人がいるとすれば、それはアメリカの検閲の影響から、未だに自由になっていないことを意味するのです。




残虐な日本人のイメージは何故世界に広まったのか?
   中国の反日ネットワークによる国際宣伝と日本の無為無策。


 最近、米国の知日派と言われる人々までもが「過去の戦争犯罪に対して謝罪や補償が十分でないため、日本は近隣諸国から信頼されていない」という印象を抱いているようです。
 しかしこれは、在米中国人グループによる意図的なキャンペーンによるものです。彼らが、改めて日本に謝罪と補償を求める米国で最初の組織「対日索賠中華同胞会」を結成したのは、一九八七年(昭和六十二年)のことでした。その後、一九九一年(平成三年)、「南京大虐殺」を世界に広めて日本政府の謝罪と賠償を引き出す目的の「紀念南京大屠殺受難同胞連合会」が結成され、翌年には「過去の日本の侵略に対する批判が高まるよう国際世論を喚起すること」を目的とした「抗日戦争史実維護会」が結成されます。そして、一九九四年(平成六年)、全米各地の同様な組織の連合体として「アジアにおける第二次大戦の歴史を保存する世界連盟」が結成され、以後、米国での反日の動きの殆どにこの組織が関っています。
 彼らは米国の元捕虜団体や韓国系組織、ユダヤ系組織と連携して、日系企業に対して約百二十兆円もの補償を要求する、戦後補償裁判闘争を全米各地で展開しています。スミソニアン博物館で計画された原爆展に、日本軍の「加害」行為の写真を展示するよう主張したり、「南京大虐殺はなかった」と明言した石原慎太郎代議士に抗議する意見広告をニューヨークタイムズに掲載したのも、彼らです。「南京大虐殺」のデマを広めた『レイプ・オブ・ナンキン』の著者アイリス・チャンもこの組織の会員でした。
 この組織の背後にあるのが、中国政府です。中国は冷戦後の日本の政治大国化を阻むため、「過去の問題を取り上げる」という戦略に基づき反日組織を積極的に支援しています。二〇〇二年(平成十四年)には「第二次世界大戦補償問題に関する国際法律会議」を開催して戦後補償問題を後押しし、翌年には第一回「歴史認識と東アジアの平和フォーラム」を開催して、日中韓三カ国共通の歴史教育副教材を作ることに肩入れしました。更に中国は、この年の九月、韓国、北朝鮮、米国、日本、フィリピン、オランダの反日組織のリーダーを集めて「日本の過去の清算を求める国際連帯協議会」という、世界の主要な反日団体がほとんど網羅される大規模な国際反日ネットワークまで結成しています。この組織が呼びかけたのが、日本の国連常任理事国入りに反対するインターネット署名で、ニケ月で全世界から四千二百万人分を集めたといわれています。これは二〇〇五年の中国での反日暴動のきっかけともなりました。
 こうした組織的な反日宣伝により、日本の過去の「悪行」が世界中に広まって、日本に対する誤ったイメージが形成されているのです。


 ■化学兵器を地中に遺棄したのは本当に日本か?
 現在、中国国土の地中に遺棄された化学兵器(毒ガス弾)約七十万発を処理する事業−処理費用は総額一兆円にもなる「最大の戦後処理」−が日本政府によって行れています。
 しかし、この化学兵器を遺棄したのは本当に日本軍なのか、という疑問が多くの識者から寄せられています。なぜなら、日本が受持したポツダム宣言によれば、日本軍が所有する兵器は全て連合軍に引き渡すことになっており、現に台湾などソ連軍以外の連合軍が占領した地域の化学兵器は、全て連合軍に引き渡されているからです。旧満州の分だけ日本軍が勝手に遺棄するのは極めて不自然です。本当は日本軍が引き渡した後、ソ連または中国自身が遺棄したのではないか、それならば、処理費用を負担するのはソ連か中国で、日本が一方的に負担するのは筋違いという訳です。
 けれども、この問題が取り上げられた平成三年当時の日本政府は、その点について厳密に調査することなく、日本軍が遺棄したものと認め、全て日本の負担で処理を行なうことにしたのです。
 ところが、最近の研究・調査により、これらの化学兵器を日本軍が中国側に引き渡したことを示すと見られる資料が発見されています。日本政府は、「資料が発見されれば基本的な枠組みが変わる」と言明していますから、この日本語で書かれた六百冊にも及ぶ「引継書」が本物であることが証明されれば、処理事業自体の根本的見直しが必要になってきます。(※打ち切るべきです。⇒[遺棄化学兵器に投じられた、膨大な無駄遣い])




マッカーサーが対日観を変えた理由は?
    朝鮮戦争を契機に、共産主義の脅威に気づいた米国。


 マッカーサーは東京裁判を開廷させ、大東亜戦争を「侵略戦争」と断罪しました。その判決のわずか二年半後、マッカーサーは大東亜戦争は「自衛戦争」であったと、米国上院軍事外交合同委貞会に於いて証言しています。
「日本が持つ莫大な労働力のためには、その職場が必要
 であった。日本人は工場を建て、労働者もいたが、原
 材料がなかった。実際に日本には蚕以外の原産品は無
 かった。綿花、羊毛、石油、錫、ゴム、その他アジア
 の大地にはある多くの原材料が無かった。
 日本人は、もしこれらの原料供給が止められたら、一
 千万から一千二百万人の失業者が出ることを恐れた。
 それ故に日本が戦争に乗り出した大きな目的は、
 自衛
のためであった」(⇒[マッカーサ証言])
 この演説の半年前、昭和二十五年(一九五○年)六月、朝鮮戦争が勃発します。当時日本の占領軍司令官だったマッカーサーは、ソ連・中国と連帯した北朝鮮の侵攻に直面し、朝鮮半島が共産主義で覆われることが、どれほど日本の安全を危うくするかということを、身をもって味わったのです。そして、共産主義の脅威に直面していた戦前の日本の立場に自らが置かれたことで、漸く日本が戦わざるを得なかった本当の理由に気付いたのでした。
 マッカーサーは、昭和二十年に日本を占領した直後から、戦前の日本を指導した各界各層の人々を「軍国主義者」のレッテルを貼ってその地位から追放していきました(公職追放)。
 その一方で、獄中にあった共産主義者らを解放するなどして、戦前の日本を否定する占領政策を次々と推し進めていきました。しかし、「平和主義者」と思われた共産主義者の正体が、実は革命を志向する暴力集団であることに気付き、朝鮮戦争直前の昭和二十五年(一九五〇年)五月から、最終的に共産党員等を一万人以上公職から追放する、いわゆる「レッドパージ」を行いました。
 また、本国アメリカで多くの共産主義者を政治の中枢から追放したマッカーシズムを強く支持し、共産主義者に対し徹底して反対する姿勢を示すようになったのです。
 また、日本国憲法で日本に非武装を突きつけた張本人のマッカーサーは、この朝鮮戦争を期に、今度は日本の再軍備を進めるようになります。朝鮮戦争勃発の二カ月後、自衛隊の前身である警察予備隊を発足させるのです。
 マッカーサーの豹変は、戦前から戦後にかけて、アメリカがアジアと日本、そして共産主義の脅威について如何に無知であったかということを鮮やかに示しているのです。


 ■張作霖爆殺はソ連(共産党)の仕業明らかになりつつある現代史の闇
 昭和三年(一九二八年)、満州を支配する軍閥張作霖が乗る列車が爆破され、張は死亡しました。この事件は関東軍の仕業とされ、三年後の満州事変の背景ともなったのでした。
 ところが、平成十八年(二〇〇六年)に邦訳が出たユン・チアン「マオー誰も知らなかった毛沢東」(耕放社刊)には、ソ連軍諜報部が真犯人であることが指摘されているのです。指摘は、旧ソ連から出された間接的な資料・証言に依拠しており、決定的な証拠を示しているわけではありませんが、定説となっている「日本軍犯行説」の曖昧さが浮き彫りにされました。
 「日本軍犯行説」の最大の根拠は、事件当時関東軍高級参謀だった河本大作陸一大佐が戦後に発表した「私が張霖を殺した」という告白手記です(「文芸書秋」昭和二十九年十二月号)。しかし、この手記は、河本大佐本人が書いたものではありません。河本大佐は中国の強制収容所に拘禁されていて、手記発表の前年に獄死しています。
 この手配を実際にまとめたのは、同じく拘禁されていた大佐の義弟で作家の平野零児。大佐の口述を基にして筆記したもので、口述テープがある訳でもなく、しかも手記発表時には平野はまだ獄中にいて(釈放は昭和三十一年)中国のコントロール下にあったのです。「日本軍犯行睨」の証拠とされる根本資料が、全く裏づけの取れない−完全な創作の可能性も否定できない−「代筆手記」でしかないとは驚きです。
 現在、旧ソ連の携密資料の公開が進められていますが、いずれ真相が明らかになるでしょう。




アジア共通の歴史認識は可能か?
   安易な妥協を求めず、日本の立場を時間をかけて説明すべき。


 アジアに共通の歴史教科書を作ろう、という動きがあります。これは、一九九二年に西ヨーロッパ十二カ国の歴史家たちによる『ヨーロッパの歴史』という本が刊行された際に、原書にはない「ヨーロッパ共通教科書」(実際には副読本)なる副題が日本語版にだけつけられ、ヨーロッパでやっていることならアジアでも、という幻想が振りまかれたことが一つの背景にあります。
 また、ドイツが戦後、ポーランドやフランスと国際教科書対話を続け、その成果が相互の教科書記述にある程度生かされていることも、国境を超えた教科書づくりが可能だという印象を与えたことも背景にあるようです。
 実際、平成十七年(二〇〇五年)には「日中韓三国共通歴史教材委員会」なる組織が東アジア三国の近現代史についての副教材『未来をひらく歴史』を刊行し、話題になりました。
 しかし、ドイツとポーランド、フランスとの教科書対話では、当初こそ「侵略者」とされたドイツに対する修正勧告が多かったものの、回を重ねるにつれて、むしろポーランドやフランスに対する勧告が多くなっていきました。これを果たして、日本と近隣諸国との関係に当てはめることができるでしょうか。中国や韓国が、自らに対する修正勧告を受け入れる、と期待できるでしょうか。
 『未来をひらく歴史』は、日本、中国、韓国の学者が「ナショナリズムを超えて世界市民的な立場から歴史の共有をめざす」と銘打たれていますが、実際の内容はこの謳い文句から全くかけ離れたものです。
 例えば、「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」など、少なくとも日本では論争のある事例が、確定的な事実として記載されており、否定的な説の存在すら言及しない、あるいは論争をすること自体が歴史の歪曲であるかのような決めつけが行なわれています。その一方で、チベット問題や天安門事件、文化大革命のような中国に都合の悪い事柄は全く記述しない、という極めて不公正な視点で書かれていて、日本側の執筆者が中国・韓国側の歴史観に無批判にすりよっている事がわかります。
 しかも、それほど日本側が妥協をしたにもかかわらず、完全な同意には至らず、この本の日本語版と韓国語版、中国語版には、それぞれ表現の差以上の大きな記述の違いがあることも指摘されています。この『未来をひらく歴史』による歴史認識の共有の試みは完全に失敗だったようです。
 そもそも中国の教科書は国定から検定制度に移行したとは言え、中国共産党政府の完全な統制下にあり、韓国の歴史教科書は今でも国定です。両国がただ一つの歴史観しか認めず、それを日本に押しっける、という姿勢を改めない限り、本当の意味での歴史観の共有はありえず、共通の教科書作成は不可能といわねばならないでしょう。
 もっとも、お互いが完全に歴史認識を一致させたり、共通の教科書をつくることはできなくとも、相互の立場について認識を深め合う余地が全く閉ざされているわけではありません。しつかりとした意識をもった団体(もしくは個人)が毅然とした態度で粘り強く話をすれば有意義な対話も決して不可能ではないと思います。歴史認識の問題は、安易な妥協を求めず、時間をかけて丹念に取り組むべき課題と言えるでしょう。
 平成十八年十二月から始まった日中歴史共同研究は、中国側の反対を押し切り、戦後日本の中国に対する貢献や中国自身が自国民数千万人を殺害した文化大革命などもテーマにすることが決っています。どのような行方となるか大いに注目されるところです。




補足:大東亜戦争への概略

 大東亜戦争は、露西亜革命に始まる共産主義者による策略だったことが、上記により明らかになっています。今後とも、新たな事実が当時の情報開示により明らかになることでしょう。ここでは、日本が共産主義からの自衛、欧米諸国からの経済封鎖に対する自衛のために開戦に踏み切らざる終えない状況に追い込まれるまでの様子を[大東亜戦争は何故起こったのか]から抜粋しました。

ABCD包囲陣
 共産党に後押しされ、英米の支援を頼って際限の.ない抗日戦争を続ける重慶の蒋介石に対する批判は重慶政権内部からも起ってきた。かつて国民党左派の領袖で、今や国民党副総裁・中央政治会議主席の要職にある汪精衛は、このような抗戦が共産党を利するのみで、中国の国土と民衆を犠牲にするばかりであることを憂慮し、蒋に日本との和平を説いたが容れられず、遂に決然重慶を脱出し、日本と提携して南京に反共和平を標模する国民政府を樹立した(昭和十五年三月)。東亜の平和回復を願う決志に発する英雄的行動であった。我国は汪の行動を支持しながらも、江の南京政権と蒋の垂慶政権の合流による中国の統妄希望したが、それが実現する望みはなく、十一月我国は日華基本条約を結んで南京政権を承認した。米国はこれに対して、直ちに重慶への軍事壁折援助強化を以て報復した。東亜に於ける反共和平の重大意義を、米国はついに理解できなかったのである。
 また一方、米国が支那事変と独英戦争に参戦するのを防止する目的で日独伊三国同盟が締結されたこと(昭和十五年九月)は、かえって日米関係を悪化させ、米国は対日禁輸を更に進め、この年末、ルーズヴェルトは、米国は「民主主義の兵器廠」となる旨を宣言したのであった。かくしてABCD(米英支蘭)包囲陣は一段と我国を圧迫し、我国は重大な局面を迎えたのである。


東条内閣の和平努力
 陸海軍を押えて御前会議決定を練り直すことができるのは皇族首班の内閣しかないと主張していた東条陸相が、思いがけず新内閣首班に推されたのは木戸内府らの考えによるものであった。東条新首相に対して、陛下より「九月六日御前会議の決定にとらわれず、慎重に再検討するように」との思召が伝えられた。御前会議の決定を白紙に戻して対米交渉をやり直せ、との意味で、これを「白紙還元の御衣」と云う。
 東条首相はこの御意向を体して、内閣発足するや連日、政府・統帥部連絡会議を開き、その結果、十一月一日から二日未明にかけて甲案・乙案の二葉を最後の外交的打開案として決定した。甲案は支那や仏印からの撤兵について具体的な条件や方法を示すなど我国としては重大な譲歩であり、三国同盟などその他
の問題についても新しい譲歩を含むものであった。東京裁判の米人弁警ブレークニー氏は「日本の真に重大な譲歩は東条内閣の作成した甲案であり、甲案に於いての譲歩は極に達した」とまで論じている。また乙案は、甲案不成立の場合、戦争勃発を未然に防ぐための暫定協定案であった。
 米国はマジックと呼ばれる暗号解読にょって、甲乙両案の内容も、それにかける日本側の切実な気持ちも知り尽していたにも拘らず、野村大使が十一月七日に提出した甲案を拒否した。我国は来栖(三郎)大使を急遽派米して野村大便を援助させ、十一月二十日に両大使はそろって乙案を提出したが、ハル国務長官は同二十六日、乙案をも拒否して有名なハル・ノートを突きつけてきたのである。


開戦を決めたハル・ノート
 ハル・ノート、それは「日本は支那と仏印より一切の兵力と警察力を撤収すること」(第三項)「重慶政府以外のいかなる政権も支持せぬこと」(第四項)「支那に於ける治外法権(租界と義和団事件議定書による権利を含む)を放棄すること」(第五項)など、従来の交渉には持ち出されたことのない全く新規な十項目の提案であった。第三項ほ四年間にわたる支那事変の完全否認を、第四項は満洲国と江政権の解消を意味した。また第五項に至っては満鉄も旅順・大連を含む関東州の租借も放棄せよと要求するもので、米国の仲介で結ばれたポーツマス日露講和条約の解消に他ならない。ハル・ノートは八ヶ月に及ぶ日米交渉の経過を完全に無視するもので、これを受諾することは、日清戦争後の日本に戻ることを意味した。米国の歴史家チャールズ・ビアードがハル・ノートを「全東洋に対する米国の最大限の要求」と呼んだのは適切である。「期限なき最後通牒」−東郷外相はこう評したが、ハル・ノートは正に衝撃的な要求であった。十二月一日、御前会議ほ全員一致で米英蘭に対する開戦を決定、折から北太平洋を東航中のわが海軍は攻撃命令により、十二月八日未明(現地時間七日午前七時五十分)、ハワイの真珠湾を攻撃、かくで大東亜戦争の火蓋は切られたのである。


結 び
 大東亜戦争に至る歴史には、二つの大きな流れを中心に整理することができる。
 一つは、わが大陸政策と、門戸開放主義を理念とする米国極東政策の対立抗争であり、もう一つは共産主義との戦いである。前者は我国の自存(民族生存のための資源と市場の確保)と深く関わっており、後者は我国の自衛(安全)と不可分である。大東亜戦争とは、結局、我国の自存自衛のための戦い、いわば国家民族が生き抜くための最終的な主権の発動だったと云ってよいだろう。このぎりぎりの自存自衛の必要を越えて、我国が他国を侵したことのなかったことほ、日清戦争以来の歴史が明証するところである。
 さて、わが近代史を回顧するとき、ロシア革命以後は、防共への戦いの連続であった。シベリア出兵、満洲事変、支那事変、大東亜戦争−いずれも世界征服を目ざす共産主義の野望からいかに我国と東亜を守り抜くかの問題と切り離すことはできない。共産主義による侵略の脅威のない所に、大東亜戦争は起り得なかったであろう。
 その共産主義体制が、今やソ連と東欧、パルト三国を中心に音を立てて崩れつつある。レーニンの像が各地で地上に引き倒され、共産主義の反人道と政治犯罪の歴史が、民衆によって糾弾され裁かれようとしている。とすれば、その共産主義と戦った日本は基本的には人道の側に立っていたことになり、大筋としては歴史の正しい流れに沿って歩んでいたとの結論になるであろう。
 開戦から半世紀、我々が眼前に見る世界潮流の動きは、大東亜戦争が“侵略戦争”とは実は正反対の、人間を共産主義の抑圧から解放するための聖戦であったことを決定的に示しているのではあるまいか。
(付記)大東亜戦争に至る歴史を更に詳しく知りたい方は、拙著『大東亜戦争への道』参照

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