語り継ぎたい日本人の物語 (1)



 [別冊正論Extra.16]から抜粋しました。 ⇒(次項へ)


日本人とはいかなる民族か
                      西村慎吾

 平成二十三年三月十一日に発災した東日本の太平洋側を襲った巨大地震と巨大津波は、世界が驚愕する大惨事をもたらすとともに、困難なときに内側から現れてくる日本民族の本質と連続性を顕かにした。
 その本質と連続性は、いざというときの献身となってあらわ顕れるものであった。しかもその顕れ方の特色は、主に有名人や初級人やエリートに頻れるのではなく、無名の人々の中の無数の献身として顕れる。従って、そこに顕れたものは民族の本質的な姿である。
 警察官や消防隊は、津波から住民を護るために水門を閉めに行って津波に呑まれ、あるいは所在の分からなくなった人を探しに行って水没した。 また、南三陸町の若い女性職員は、津波の襲来する直前まで、防災無線で住民に避難を呼びかけ続けて行方不明になった。この若き女性は、六十六年前、ソビエト軍に侵攻される樺太の真岡にあって最後まで電話交換業務に挺身し命を絶った郵便局の九名の乙女達と同じだ。さらに、この職務に従事しでいた人々のみならず、ともに避難している時に、たまたま隣にいる人を排披から救って行方知れずになった多くの人々のことを思ゝつ。
 避難所となっている体育館の前の空き地に、救助ヘリが着陸して救助された人々が降りてきた。その中の一人の男性が出迎えてくれた女性の前で泣いていた。この人は、この女性のお祖父さんを連れて逃げていたという。しかし、一生懸命お祖父さんを引っ張っていたが、後ろを振り向いたときお祖父さんは津波に呑み込まれていった。自分だけ助かり、申し訳ない、申し訳ない、と泣きながら女性に謝っていたのだ。すると肉親を亡くした女性が、その男性の肩を優しくさすり、泣かないでと慰めているのだ。
 この情景、かつて観た。平成十四年九月十七日夕刻、北朝鮮の平壌にいる小泉純一郎総理(当時)からの指示で、内閣官房長官と外務副大臣は、平壌で金正日が小泉総理に語った拉致被害者の「五名生存八名死亡」という安否情報をそのまま東京で待機している拉致被害者の家族に伝えた。その時、生きていると言われた家族が、亡くなったと言われた家族の前で泣いた。すると、亡くなったと言われて悲しみのなかに突き落とされた家族が、生きていると言われた家族を泣かずに優しく「よかったねー」と慰めていたのだ。
 東日本の人々は、亡くなった人も生き抜いている人も、等しく感銘を与えている。
 天皇陛下は、三月十六日に直接国民に対してお言葉を発せられた。そのなかで、被災地の人々に対して、「何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者として自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く心を打たれています」と述べられた。そして、天皇皇后両陛下は、宮中の電灯と暖房を切って生活されたのである。両陛下は、被災地の人々と苦難をともにしようとされたのだ。
 日本文学研究者でコロンビア大学名誉教授のドナルド・キーンさん(八十八歳)は、東日本大震災の後、日本に帰化して日本国籍をとり日本に永住することを決めた。ドナルド・キーンさんは、作家の高見順が、大東亜戦争の末期に、上野駅で我慢強く疎開する人々をみて、「こうした人々と共に生き共に死にたい」、「日本を愛し信じている」と日記に書いていることに触れ、(私は今、高見さんの気持ちが分かる)と語った。
 また、大正十二年九月一日の関東大震災の数日前に横浜に到着して東京で大震災に遭遇したドイツ人のヘルマン・ホイベルス師(後に上智大学学長)は、大震災の夜、自分の宿舎の前の道を、荷物を担いで黙々と避難していく人々の長い列を観て、「日本人が好きになった」と回想している(同師著、「日本で四十年」)。
 私の母(明治四十二年生まれ)も語っていた。昭和に人り人陸で戦争が始まった頃、街に出征した兵士の母や蕃や抑休が、追行く女性に千人針を求めて立つようになった。女性が千針縫ってくれた布を体に巻いて戦場に出れは仰に当たらないと言われていたからだ。母は、そういう人と出会う度にせっせと縫った。そのようなとき、三人の兵士が爆弾を抱えて突っ走って敵陣に飛び込み肉弾となって砕け散って友軍勝利の切っ掛けをつくった、という報道があった。その報道に、千人針を縫った母も多くの女性も、涙があふれ出て止まらなかった。
 東日本大震災で我々が観たものは、我が日本民族の、困難なときに内側から顕れてくる本質であった。それは献身であり忍耐ではないだろうか。そして、我々も、これが日本人だとしみじみ思い、世界もそれを認めた。
 この我が民族の本質は、如何に形成されてきたのか。考えてみれば、我が国には、固有の教学や教典はなく、また思想形僚という枠も存在しない。しかしながら宙事記の記述にある、日本武尊を守るために荒れ狂う海に身を投げた妻、弟橘媛の行為は、日本人の愛と献身の美しい源流として現在に生きているのである。入水直前に夫である日本武尊を振り返って弟橘媛が歌った歌、「さねさし、さがむのをぬに、もゆるひの、ほなかにたちて、とひしきみはも」を口ずさむとき、我々の心に、太古と変わらぬ献身への共感の思いがこみ上げてくる。
 つまり、ことあれば我々に顕れてくる日本民族の本質は、人類における教学や教典の発生以前の「民族生命の原始無限流動的な発現」つまり「神ながら」としか言い表せないものと言えよう。従ってその内実は、我々が接した過去現在そして未来の日本人の生き様の中にあるのであって、教学や教典の中にあるのではない。そして、まさに今、それが東日本の被災地の人々に顕れたのである。


◆陛下のお言葉が示す我らが絆と歴史の連続性

 そこでこれから、私が接した日本人のことを書きたい。日本はこの民族生命の原始無限流動的発現の中にあり、ここから高見順そしてドナルド・キーンのように、「こうした人々と共に生き共に死にたい」、「日本を愛し信じている」という直感的で全一的な確信が生まれるからである。
 まず指摘すべきことは、戦前と戦後をあたかも断絶した国のように観てはならないということである。この戦前戦後を断絶したものと観る史観は、無意識のうちに我々の心理に入り込んでいるが、これはGHQと戦後左実による極めて浅薄な悪意に満ちた「反日的政治運動」の結果にすぎないのだ。
 我が国の歴史に於いて、戦前と戦後は連続しているのである。この度の東日本の被災地に顕れた日本人の姿は、太古からの民族の本質にもとづくものである。
 昭和二十年の樺太の真岡郵便電信局の女性と平成二十三年の南三陸町役場の女性は、共に弟橘媛である。大正十二年九月にドイツ人ヘルマン・ホイベルスが観た関東大震災後の人々と、大東亜戦争末期に高見順の観た上野駅で我慢強く疎開する人々と、現在の我々が観た東日本の我慢強い被災地の人々は同じである。
 さらに、三月十六日の天皇陛下の国民に対するお言葉王こそ、戦前戦後の連続性のうえで述べられている。戦前戦後どころか、このお言葉こそ、万世一系百二十五代、二千六百七十一年にわたる虫と国民との絆を基にして述べられているのだ“そして私は、陛下が、被災地の人々を讃えるに、「雄々しさ」という言葉を使われたことが、心にしみた。
 明治天皇は、日露戦争における兵士の勇戦奮闘の報に接し、また旅順港閉塞作戦における広瀬武夫海軍少佐戦死の報を受けられ、「しきしまの 大和心の ををしさは ことある時ぞ あらわれにける」と歌われた。次に昭和天皇は、敗戦直後の昭和二十一年一月、「ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ」と歌われた。その歴代天皇の御製を踏まえられた上で、今上陛下は、被災地の人々の「雄々しさ」を讃えられたのである。
 また、今上陛下がお言葉の中で、自衛隊を筆頭におかれて、「余震の続く危険な状況の中で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います。」と述べられた時、私は思はず、三島由紀夫の霊に呼びかけた。三島は、自らを違憲とする憲法を守るために命をかける自衛隊の矛盾を嘆き自決した。しかし、三島さんよ、喜べ、万世一系の天皇は、自衛隊の努力に感謝され、その労を深くねぎらわれたのだ。


◆援ける者と撞けられる者の思い

 次に、その雄々しき人々のいる東日本の被災地から始めたい。
 発災直後、北海道比布町の友人鎌田告人さんから、北海道の北部方面総監部と第二師団の自衛隊が被災地救援に出発していったという知らせがあった。そして、こう言ってきた。長年の自衛隊の予算削減で、彼ら自衛官が持たされた食料は一人当たり二、三日分しかない、。れでどうして被災地で活動できるのか、と。しかし彼らは、空腹をものともせずニケ月以上連続して救援活動を続けたのだ。ところが、私の住む大阪に駐屯する部隊には直ちに派遣命令がこなかった。そこで、三月十四日、その部隊の隊員から私に次のメールが届いた。献身の場を求める自衛隊員の素朴な思いが心に伝わる。
「お願いがあります。全自衛隊に出動を命じてください。
 道路の泥一つでも、おにぎりの一つでも、トイレの掃除
 でも、毛布一枚でも、コップ一杯の水でも、何か一つで
 も協力したいです。今は駐屯地で待機しています。
 ただのごくつぶしです。今まで養ってもらった恩返しが
 したいです」

 北海道でも、周りの部隊が次々と被災地に派遣される中で、なかなか派遣命令がなかった部隊がある。本来は災害派遣に用いられないミサイルを扱う高射特科群という部隊である。しかし彼らは、切歯拒腕の思いで待機し、遂に三月二十二日に出ていった。そして、その部隊の幹部(中隊長)は、四月十八日の早朝、鎌田さんに次のメールを送ってきた。
「おはようございます。こちらはいたって元気です。先日、
 瓦礫の中から三歳の男の子を発見しました。お母さんが
 探しておられたのを知っていましたから、連絡して確認
 してもらいました。服装で分かったそうです。
  最後にどうしても抱っこしたいとのことだったので、
 収納袋のまま渡しました。
  その子を抱きしめて『よかったね。自衛隊さん達が助
 けてくれたよ。お前も今度生まれ変わって大きくなった
 ら自衛隊に入れてもらおうね』と泣いていました。
  瓦礫の中でお線香をあげて隊員みんなで見送りました。
  これは、特別じゃなく日常です。
  街は少しずつですがもとの姿を取り戻しっつあります。
 自衛隊は全ての求めに応じ自らは何も求めない、という
 精神をうちの隊員に教育しています。引き続き頑張ります」

 鎌田さんから、このメールを見せてもらい、収納袋の三歳の子を抱きしめて語りかけるお母さんと、それを見つめる自衛隊員の情景が目に浮かび泣かずにはおられなかった。
 彼ら北海道の高射特科群は、三月二十二日に出動し五月二十二日に帰還した。その間休暇は一日だけであった。彼らは隊長以下缶詰ばかり食べていたので、ビタミン不足から口内炎と便秘に苦しんだ。このような、もの言わぬ日本人の献身の姿が被災地の岩手、宮城そして福島にあった。
 六月の初め、私は特定失踪者調査会の荒木和博民らと、政府から六千名の村民の退去を迫られている飯館村に行った。退去直前の役場で事務処理に忙しい菅野典雄村長に会い激励してから、美しい村内をまわって村の郷社綿津鬼神社に参拝し福島市への山道に入った。
 我々の車は、大きな自衛隊車両の後ろを走っていた。すると下り坂で前を走る自衛隊の車両がブレーキをかけて減速し徐行した。見ると、右側の道ばたに小学生の女の子と男の子がいて、「ありがとうございます」と書いた大きな紙を広げて立っていた。そして、自衛隊員達は車両の窓から、その小学生に敬礼しているのだ。後で聞くと、その子供達は姉弟で、毎日道ばたで自衛隊車両、警察車両そして消防車両が通るときに、「ありがとうございます」の紙を広げて立っているということだった。
 この子供達の素朴な感謝の思いに報いるために、救助、救援にあたる全自衛隊員、全警察官そして全消防隊員が敬礼し奮い立っていた。また、この子達は、何としても感謝の想いを伝えずにはおられず、毎日道ばたに立った。これが被災地の日本人の姿だった。
 さらに、この「被災地の日本人」の活動を確保していた自衛官がいたのだ。東日本の被災地から遥か南西の沖縄本島那覇北西一八五キロの東シナ海で、七月五日、航空自衛隊F−15戦闘機の操縦士川久保裕二少佐(三佐)が殉職した。その日の朝、那覇基地の航空自衛隊は、四機のF−15戦闘機を飛ばして東シナ海上空で戦闘訓練を行っていたが、午前十時三十三分、川久保少佐操縦のF−15がレーダーから消えた。海面に激突したのだ。F−15の尾翼の一部は発見されたが、彼自身は、一片の肉片も残さなかった。 昨年九月の尖閣諸島周辺海域での海上保安官が中国船船長を逮捕したものの菅直人内閣が中国に屈服する事件があって以来、我が国領空に接近する中国軍機は、民主党内閣の脆弱性をあざ笑うかのように、また火事場泥棒のように急増し、南西方面における航空自衛隊機のスクランブル発進は以前の三倍の密度に増えている。さらに九月に入り、中国軍戦闘機が我が国の哨戒機を追尾して威嚇しながら領空すれすれに侵入する事態も発生している。
 従って、平和痴呆か中国の手下か、そのどちらかである民主党内閣の面々はいざ知らず、我々は、東日本の被災地に自衛隊の総数の半数にあたる十万人が集中して、救助、救援活動を継続しえたのは、遥か東シナ海で、中国軍の軍事的圧力から我が国の領空領海を守っている航空自衛隊と海上自衛隊の猛訓練の日々があるからだと、今こそ明確に認識する必要がある。同時に、人間の限界を超えた戦闘機であるF−15を操縦してその任務を遂行しっつ殉職した川久保裕二少佐のことを忘れてはならない。彼は、英霊なのだ。
 『文香春秋』(平成二十三年六月号)は、四月二十二日までに福島第一原発の半径二十キロ圏内に放置されたペットを保護するために入った「NPO法人犬猫みなしご救援隊」の報告を次の通り伝えている。
「また、原発近くの浜辺には、津波で流された遺体がたく
 さん放置されていました。南相馬から福富町にかけての
 海辺を走ると、至る所に遺体が『そのまま』の形で残さ
 れています。避難指示が出されていますし、放射能で
 汚染されているということで、回収もされていない。
 私たちの目にも入ってきましたが、遺体を回収するのは
 私たちの仕事ではないので、心の中で『ごめんなさい』
 と謝っていました」
 菅直人の内閣は、福島原発二十キロ圏内で、犬と猫を保護することは認めたが、人間の遺体を放置させた。百五十年前ではない。まさに今、それをしたのだ。私は、この放置されたご遺体の肉親がおられるかも知れない双葉町避難民の方々に猪苗代湖のホテルで話をしたのだ。猪苗代湖畔におられる双葉町から避難された方々の悲しみに耐えながら控えめで静かな様子が心にしみた。


絶望を超えて、被爆三日後に電車を走らせた少女達
                     武田樹里

 広島に原爆が投下され、壊滅的な打撃を受けたこの場所で、その三日後、被爆しながらも、少女たちは運転手や車掌となって、広島電鉄の路面電車を動かした。


◆戦時下の少女たち

 昭和十六年、太平洋戦争に突入し、翌年、日本軍は東南アジアに進撃するが、ミッドウェー海戦で敗れ、戦局は悪化する。市内の電車、バス、広電は、運転手や車掌が次々と召集され、人手不足になっていた。だが、軍都であった広島の交通を止めるわけにはいかない。女子挺身隊からの派遣もあったが、さらなる労働力を確保するために、高等女学校程度の教科を習得しながら、半日は車掌業務をするという特殊学校を開設することにし、県知事より認可を受けた。これが「広島電鉄家政女学校」の始まりである。対象は国民学校高等科卒業の十四歳以上で、全寮制の本科二年、専攻科一年の三年制だった。給料が貰えて女学校の勉強ができ、ミシンやタイプライター、花嫁修業の裁縫、お花、お茶も学べるという触れ込みで、広島や島根県の農山村の子女に募集をかけた。
 昭和十八年四月、入学した第一期生は七十二名。生徒たちには、濃紺の上着とスカートが乗務服として支給された。その後スカートは、裁縫の時間にモンぺに縫い直したそうだ。頭には広電のマークが入った真っ白の鉢巻を締める。宿舎は木造二階建てで、二棟建っていた。部屋は畳敷きの和室。二段ベッドが両側に三個ずつ並び、中央には裁縫机が二個並んでいたという。入学してしばらくの問、消灯後の暗闇は、故郷を想うすすり泣きの大合唱だったそうだ。
 生徒たちの仕事は車掌業務だ。中には、広島市内に来るのが初めてで、路面電車に乗ったこともない子もいたが、一ケ月後には、実務訓練が始まった。当時生徒だった方々の手記を読むと、大きな声で停留所案内をするのが、恥ずかしくてたまらなかった、と書いている。そして護国神社の前では「敬礼願います」というのが習わしで、乗客はみな、神社に向かって頭を下げた。一ケ月の教習期間が終わると、いよいよ車掌として独り立ちする。「起床!」という舎監の声と、カランカランと響き渡る手振りの鐘で飛び起きる。午前番勤務の場合は、朝食後、舎監の点呼を受け、寮の外に整列。二列で行進しながら御幸橋を渡り、本社に出勤する。午後番勤務の場合は朝四時間勉強した後、昼食後から勤務した。
 生徒達は本社に向かうとき、よく歌を歌ったそうだ。予科練の『若鷲の歌』を歌うときは、予科練兵になった気分だったという。母を恋しがり泣いていた彼女たちも、電車乗務を通じて、国を守っているという誇りを抱き、達しくなっていった。 車掌の仕事の中で生徒たちが最も苦戦したのが、電車の上に付いている集電器のポールが、架線から外れないかを見張り、管理することだった。また切符売りの仕事も、手間取るとあっという間に行列ができた(当時の運賃は一律五銭、程なく十銭)。お気に入りの車掌を見つけて、ラブレターを渡す男子学生もいたそうだ。見つ
かると先生に叱られるので、彼女たちは読まずに破って捨てたという。もちろん淡い想いもあった。だが胸にしまい箱に閉じこめたまま、それが開けられる日は来なかった。
 生徒の給与は、正確な記録は残っていないが、証言によると、多い月はだいたい四十円くらいだったらしい。給与から毎月寮費(三食の食費)十二円、学費三円、合計十五円が徴収されていたということなので、残金を仕送りや、お小遣いにしたようだ。
 昭和十九年になると、戦局はさらに苛烈になり、広電の人手不足は深刻になった。車掌業務だけではなく、二年生の体格のいい子から順番に、運転士に選ばれていった。初めて運転したときは、足がガタガタ震えて、髪の毛が全部逆立ったような感じがしたと言う証言が残っている。わずか十五歳で何十人ものお客さんの命を預かることになるのだから、責任も重かっただろう。だが生徒たちは、運転にすぐ慣れた。今そんな話を聞くと、まだ少女なのに可哀想、と思うかもしれない。だが彼女たちは、学徒動員で他の学生もみんな働いていたので、当然だと思っていたし、やらされているとは全く思わなかったそうだ。『義勇報国隊』というワッペンを胸に付け、誇りを持って働いていたという。中には、それだけでは物足りず、血判状を携えて従軍看護婦に志願した生徒もいる。ところが、軍都の人員輸送も国にとっては極めて大事な仕事だと言われ、広電にとどまった。大きな責任を持たされ、誰かの役に立っているという実感は、厳しくなっていく戦況とは裏腹に、少女たちを生き生きさせた。
 昭和二十年になると、米軍による日本本土への空襲がひどくなり、広島では呉市の軍港や、江田島の軍事施設などが破壊された。この頃になると、さらに人手不足となり、勤務は午前、午後、ラッシュ時の三交代制になっており、授業はほとんどなくなっていた。
 そして八月六日。午前八時十五分、米軍は相生橋をめがけて原爆を投下した。広電家政女学校の寮では、朝食の最中だった。大豆ご飯に箸をつけたとき、ピカーッと食堂全体が明るくなった。次の瞬間には天井が傾き、机や椅子とともに、生徒たちは身体ごと吹き飛ばされる。体中にガラスが刺さった子、しばらく気を失った子、瓦礫を押しのけ抜け出した子、生徒たちは必死に逃げた。食堂のおばさんは丸焦げになって亡くなっていたという。外に出ると寮が傾き、隣の専売局が燃えている。あちこちに火の手が上がり、生徒たちは防空壕に飛び込んだ。


◆“その日”の少女たち

 堀本さんもすぐに食堂から防空壕へ逃げた。右耳から出血しており、避難所の実践女学校へ向かう。距離は今の道の最短距離で約九キロ、普通に歩いて二時間弱かかる。が、その前に母を探しに、相生橋へ向かう。その間、防火水槽に頭から突っ込んでいる人、革バンドと靴だけの兵隊、骨格だけの電車…「表現しかねる地獄絵の様子で、私の体から心から感情も力も全部抜け、空っ・ぽの様になった」とある。ようやく着いた相生橋から母のいた旅館の方を見ると、瓦礫しかなかった。しかし今ひとつピンとこなかったという。先程まであった日常が一瞬で消えていた。
 堀本さんが実践女学校に着いたのは、夕方で、そこは負傷者であふれていた。その場で横になった掘本さんの隣に、友人が横たわっていた。顔は熱く、タオルを替えてあげようと頭の髪を撫でたら髪がずるっと抜けた。「背筋がぞーつと冷たくなった」と堀本さんは書いている。夜になって「海は広いな、大きいなー」と歌い出すその友人を抱きしめながら一夜を過ごしたが、翌朝友人は息を引き取った。その後、別の友人と共に母を捜しに市内へ向かう。友人の母は、土橋で半焼けの遺体で見つかったが、二人とも涙もなく、無表情でお骨をハンカチに収めた。
 豊子さんは、原爆が落ちたとき、午前番で乗務しており、閃光を見て、運転席のドアを開けると、衝撃波で車外に吹き飛ばされた。その後の記憶がないが、気づいたら近くの防空壕にいたという。その後、掘本さんと同様、実践女学校へ向かう。焼け跡には右か骨かわからないものがたくさん転がっており、防空壕の中に折り重なる遺体、川には人や犬、馬が水ぶくれになったように膨れ上がり、腹を上に向けて漂っていた。
 それからは、実践女学校に収容された重傷者を、看病する日々が続く。大火傷している人に水を求められても、湿った布で口を浸すくらいしかできず、傷口からウジ虫が湧いて痛がる人がいても、薬もなくどうすることも出来なかったという。毎日もがき苦しみながら亡くなるのを、何人も見送った。亡くなった人は、女の子四人で学校の裏山へ担架で運び、野辺送りをした。


◆自分のためでなく

 その頃市内では、焼け野原に残った鉄路を道標に家族を捜しにくる人々が増えていた。八月八日に市内に入り家族を捜した人が、曲がったレールに槌を振り下ろす作業員たちの姿を目撃している。軌道を真っすぐにし、架線を張り直す。自ら被爆していても、身を押して加わった人もいたそうだ。
 広電の送電線の整備を担当していた中川幸春さんは、物資も人も不足している状況で、何としても電車を走らせる、という意地が原動力だったと話す。七日の朝には社員約五十人が本社に自発的に集まった。広電本社の防空壕の上に立った多山恒次郎社長は、「これくらいのことでへこたれてはならん。会社再建のためにがんばろう」と声を張り上げた。
 みんな包帯姿で、復旧作業に向かったという。広電はすぐに全市の路線の被害調査をし、作業を進めた。広電で運転士だった河野弘さんは、本土決戦に備えて、復旧を急いだからではないかと話す。当時広島市には陸軍の第二総軍の司令部があり、電車は市民だけではなく、軍人や軍関係の物資の輸送を担っていたからだ。
 そして大勢の人たちの努力によって、原爆が投下されてからたったの三日で、被害の少なかった車両を使って、己斐駅(現・西広島駅)から西天満町駅(現・天満町駅辺り)間の往復運転が再開された。街のほとんどを焦土とされ、大勢の人が死に、絶望的になっていた市民にとって、路面電車が走る姿は、どれだけ励みになったことだろう。
 わずか十代半ばの少女たちが、自分も被爆し、家族の安否もわからず、空腹に耐えながらもひたすら看病し、友人を茶毘にふし、そのような状況がゆえに、勇んで乗務した生徒ばかりではなかった。だがそれでも、彼女たちは運転し、車掌となり、電車を動かした。犠牲を払い、誰かのために生きた。軍国主義でそういう時代だったと言う人もいるだろう。しかし私はそれがなくても、やはり電車は走ったと思う。女学生はまだ幼くなにもわかってなかったと思っているのは今の私たちの感覚で、彼女たちの手記を読むと、人として生きる「覚悟」を感じる。これは私たちが東日本大震災の後、取り戻しっつあるものではないだろうか。
 笹口さんは戦後、自分たちが受けた教育も生き方も全て罪悪視されたような社会に変わったことが、まるで「広島電鉄家政女学校時代」までも非難されているような気持ちになったという。だが今でも走り続け、広電の路面電車が「日本一だ」と言われると、我が事のように嬉しいそうだ。血のにじむような日々を過ごしながら、命懸けで守った電車だからだ。
 証言活動を行っていた元生徒たちも、ご高齢のため引退し始めている。彼女たちの想いを私たちの世代、次の世代へと繋げたい。広島電鉄家政女学校は終戦と同時に廃校になり、約二年半の歴史に幕を下ろした。生徒三百九名中三十名と教師一名が、原爆で犠牲となった。広電本社の横にある千田車庫の入り口には、原爆被爆死者と殉職死者の慰霊碑があり、原爆記念日には必ず祈りを捧げている。今の私があるのは、先祖が積み上げた歴史のおかげであり、繋いできた想いを託されたからだと思う。だから、簡単に命を投げ出してはいけないし、同じように他の人の命を大切にしなければならない。

   老いぬれど 命のかぎり熟すべく
   一日ひと日の 今を生き抜く






後生の日本人に望みをかけて
     「護国」の精神に殉じた若者たち

                     宮本雅史

 大東亜戦争末期の特攻作戦で散った英霊のご遺書や手紙は、護国のために自らの命を差し出すまでの思いが繰々綴られており、救国への思いを突きつけられたようで胸が熱くなる。そこには、日本人としての誇りと崇高さを感じる。戦後六十六年経った今、日本人が置き忘れてきたものは、この「任務」という名の下の使命感と誇りではなかったか。
 人間魚雷「回天」。旧日本海軍が世界に誇った九三式酸素魚雷を改造、直径わずか一メートルという狭い操縦席に身を沈め、闇の中を突き進んで敵艦隊に体当たりする文字通りの特攻兵器である。
 頭部には魚雷五本分に相当する一・五五トンの炸薬を装填。針路、速度、深度をセットすれば自動で直進するが、搭乗員は、潜望鏡による短時間の観測で、敵艦隊の針路や速度、距離に応じた射角を決定しなければならないほか、高圧酸素の消費に並行して変化する浮力や釣合いを常に調整しなければならず、敵艦に必申するためには熟練を要した。外界が見えるのは浮上したわずかな時間だけ。あとは、計器と勘に頼る暗闇疾走が続くため、一瞬の判断ミスが生命を奪う。訓練は心身をすり減らす厳しさだった。
 一昭和十九年夏に兵器として完成。回天作戦はこの年の十月から翌二十年八月まで続けられた。このうち、八十九人の搭乗員が戦死し、十五人が訓練中に殉職、二人が終戦時に自決した。また、回天を搭載した潜水艦とともに三十五人の整備員と八百十二人の潜水艦乗組員が海に散っている。
 考案したのは海軍機関学校51期の黒木博司大尉(当時二十二歳、没後少佐)である。
 “必死”を免れぬ特攻兵器の考案に、戦後、少佐の両親や家族は世論の非難の標的にされたというどだが、彼の書き残した遺書や手紙を拝読すると、平時では想像もつかない、時勢に追いつめられた究極の思いと苦渋の選択が伝わってくるのである。
 両親や淋神領子さんに出した手紙では、少佐は大東亜戦争を「挙国以来の最大国難」ととらえ、長期化し苦戦することを危倶、その上で、もし敗れれば「永久に世界より抹殺」される戦争だと位置づけている。少佐はだれよりも、この戦争の持つ意味を理解し、いつか訪れる日本の窮状を予測していた。
 昭和十七年六月のミッドウェー海戦で大敗した日本軍は、十九年にはいると、拠点とするトラック島が大空襲を受け、さらに絶対国防圏の最重要地点であったマリアナ諸島への米軍来襲……と後退の一途をたどっていた。
 少佐は昭和十八年、親友に海軍の現状を「焦燥と不安のみにして大局に徹底せる勇断なし」と嘆き、「特殊潜航艇の使用方法然り。艇の改造然り」の状況で、もはや必死の戦法以外にはなく、艇に自爆装置を付けることについて具申中である旨を伝え、「必死の戦法さえ採用せられ、これを継ぎゆくものさえあらばたとえ明日殉職すとも更に遺憾なし」と語っている。


◆「彼らは確かに日本のために死んだ」

 少佐は悲運にも訓練中の十九年九月六日、大津島で殉職したが、フランス人文学者のモーリス・パンゲは自著『自死の日本史』(ちくま学芸文庫)のなかで、少佐ら特攻隊員の思いを次のように分析している。
「それは日本が誇る自己犠牲の長い伝統の、白熱した、しかし極めて論理的な結論ではなかっただろうか。それを狂信だと人は言う。しかしそれは狂信どころかむしろ、勝利への意志を大前提とし、次いで敵味方の力関係を小前提として立て、そこから結論を引き出した、何物にも曇らされることのない明噺な結論というべきものではないだろうか」

「強制、誘導、報酬、麻薬、洗脳、というような理由づけをわれわれは行った。しかし、実際には、無と同じほどに透明であるがゆえに人の眼には見えない、水晶のごとき自己放棄の精神をそこに見るべきであったのだ。心をひき裂くばかりに悲しいのはこの透明さだ。彼らにふさわしい賞賛と共感を彼らに与えようではないか。彼らは確かに日本のために死んだ」

 少佐が海軍機関学校時代、母親のわきさんが腸閉塞で倒れたことがある。母を見舞った少佐は、「大いなる悲願に立てる国の子の 母をばいかで神うばうべき」「君がため母おきさりて行く我は 尊く悦しくかなしかりけり」「荒波の世に生く子らの楽しみは 両親ありて嬉ぶ見るとき」と三首の歌を詠み、そっと布団の下に忍ばせたという。わきさんが回復すると、「お母さんが御手紙が書けるようになったかと思うと涙が出ました。今日は珍しく早朝手紙が配られ、その中にお母さんの御手紙を拝んで夢かとばかり涙が出てきました」「きっと治るとは信じていたものの何だか夢のように嬉しい。お母さんの字、一字々々が文楽しく私の心を生々と明るく励まして呉れます。再び、明るい明るい心の光明が輝いたような気がします。心も胸も鳩のように膨んで日一日と希望に満ちています」と菩びを伝えている。


◆大義に殉じた隊員たちの言葉
    ■ 未だ生まれない明日の日本に望みをかけて ■

 では、迫り来る危機感に護国を大義に自らの命を差し出したのは黒木少佐だけだったのだろうか。ほかの回天搭乗員たちの思いはどこにあったのか。遺書や手紙からその思いを探ってみる。
「俺等は俺等の親を兄弟を姉妹を愛し、友人を愛し、同胞を愛するが故に、彼等を安泰に置かんがためには自己を犠牲にせねばならぬ。祖国放るれば、親も同胞も安らかに生きてゆくことはできぬのだ。我等の屍によって祖国が勝てるなら、満足ではないか」
 とはいえ、自ら死を選び、それが直前に迫ったとき、搭乗員達の思いはいかほどだったか。
 天武隊の柿崎実中尉(同二十二歳、同少佐)は死生観について、殊に「まず、欲をなくす事だな。欲とは人間の本能だ。本能とは人間に与えられた試練だ。この試練に打ち勝ってこそ、自然の心、不動心、即ち純真さが得られるのだ。純真とは私心のないことだよ。何事にも自「皆未だ生まれていない明日の世界の子供達に望みをかけているのです(中略)物資の統制などしなくても皆が自分を忘れて御国の為に捧げる日本の本当の姿にかえる日を未だ生まれない明日の日本、十年二十年後の日本の子供に望みをかけているのです(中略)しっかりしっかり本当に心して勉学をしなくては駄目です。此の勉強というのは英語とか図画などではありません。本当に御国の為を思う真心の勉強です」
 少佐は敗戦の一因に人材不足を嘆いている。教子さんへの手紙から、いかに子供達への教育の重要性を感じていたか分かる。同時に、死を決意した少佐が、どのような思いで、教子さんに自分の思いとその後の日本を託したのか。期待の大きさを感じずにはいられない。
 前出の久家大尉も殊に「大和撫子として、清く美しく生きてくれ。蓮の花は泥沼のなかにありながら、あのような清らかな花を咲かせる。いかに汚横に充ちた世界にあっても、信念を堅く持っておれば、それには染まらず、生きて行けるものである。妹よ、清純に生きて行け。心のもっとも美しいところで、貴女を愛し続けた兄の最後の言葉を忘れないでくれ」と、戦後日本に向けての思いを託している。

 特攻作戦の生みの親と言われる大西瀧治郎中将は「これは統率の外道である」と自ら語ったように、特攻作戦には当時でも邪道だという認識を誰もが持っていた。平和な世の中になった今、その精神に真に近づくことは困難だ。
 親兄弟や親しい友が、巨大な敵に殺されようとしている。自分の家族をどうすれば守れるか、愛する人々を守るために、自分に何ができるか。そこには、自分さえ助かればいい、自分さえよければいい、という自己中心的な考えは微塵も見られないと同時に、だれ一人として名誉栄達を求めた者はいない。不平や不満もない。あるのは護国の精神と愛情と未来に託する夢だけだ。
 的確な判断を下せるリーダーがいない政治環境や誤った個人主義がはびこる社会環境の中で、家族と郷土と国家を守りたいという一念だけだった。彼らは自分たちの命と引き替えに国を守り、戦後を生きる我々に、独立した国家の再建を託したのである。
彼等の「自己犠牲」の精神は、命の尊さを知っているが故の行動であった。
 戦後六十六年、特攻隊を考えることは、単なる戦術論ではなく、日本人、日本人論、さらには人間論を考えることだと思う。英霊が命にかえて我々に託した思い、それは今の日本と今を生きる日本人に対する警告でもある。



日系人部隊に米最高勲章、終戦65年以上経て:2011/11/03北国

 米連邦議会で2日、第2次大戦中に欧州の激戦地で戦った米軍日系人部隊に対し、米国で最も権威のある勲章の一つ「議会金メダル」を授与する式典が開かれる。日系人が「敵性外国人」として強制収容所に隔離された時代に、米国への忠誠を示すため最前線に向かった兵士らの功績が、終戦から65年以上を経て認められた。
 受章者は米陸軍の第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団、軍情報機関(MIS)の元兵士らで、式典には元兵士や遺族ら千人以上が出席する。


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442日系人部隊の真実:[歴史通 11月号]より抜粋 2010/11/15

 第二次世界大戦中、アメリカ史上最強の陸軍と呼ばれた部隊が居た。それが日系人部隊442である。彼らは祖国アメリカのために大和魂で戦った。その働きは目覚しく、敵性国民として侮蔑され、厄介者扱いされていた彼らは、もっとも有能な部隊として注目される。イタリア,フランスでは、いまも442の名がヒーローとして語り継がれ、感謝と敬意の年を忘れない人々が居る。ところが、祖国日本では、一部の人を除いて知る者が居ない。
 彼らを日本人の、そしてアメリカ人の誇りとして描いたドキュメンタリー映画が、完成した。日本でも十一月よりロードショーが始まる。国家の危機に直面する現在、私たちには実にタイムリーな公演となった。
 442部隊はアメリカの軍隊では必ず教えられる名高い部隊です。現存する八千人ほどの元442兵士たちに金メダル(日本の金鵄勲章に当たる)を授与する法案が、最近国会を通った。これまでの442部隊の映画は、英雄物語であったが、もっと人間の苦しみや戦場の悲惨さ、にもかかわらず前向きな彼らの、かつての日本人的な生き方をベースに、物語性を加えた映画です。
 彼らは日本からの移民、つまり一世のご両親に日本の価値観を教え込まれているので、自分自身を純粋なアメリカ人と信じつつも、日本人的な美徳を備えている。アメリカ人でありながら、日本の誇りをかけて戦った人々なのです。
 真珠湾攻撃から二週間後、日系人とその両親は敵性外国人となり、アメリカの軍服を身につける資格を失った事は、侮辱以外のなにものでもなかった。我々は、パーフェクトな納税者であり、法律を遵守し、日系人の犯罪率は全米で最低だった。
 そこで、善良な市民であることを証明する機会を与えて欲しいと、大統領に陳情し、。大統領が義勇軍への志願を許可した。真珠湾攻撃から約一年後、2660名の日系人が442部隊に志願した。
 入隊の為故郷を離れる時、見送りに来ていた無口な父が「いいか、何を仕様とも、決して、家族と、お前の祖国アメリカ合衆国に不名誉をもたらすことはしないように。この国は私たちによくしてくれた。だから、死ななければならないのなら、名誉ある死を遂げるように」と告げられた。もし、徴兵拒否者になったら、両親は恥じたに違いない。
 彼らは明治生まれの両親に厳しく教え込まれ、名誉・威厳・義理・努力・我慢などの道徳律を忠実に守って生きるよう、常にベストを尽くしてきました。そして、後に続く日系人世代がより良き生活を享受できることを望んでいた。だから、日系日本人は他の人種的背景を持つ多くの兵士たちとは異質でした。何故なら我々は家族に名誉をもたらす事を第一義とし、本当のアメリカ精神とは肌の色とは関係ないことを、証明しなければならない。我々は、戦場でファシズムと戦う事により、アメリカの自由を守るだけでなく、アメリカに蔓延っていた醜い偏見から日系人を解き放つ指名を背負っていた。
 既に六十年がたち、・・・戦争回避の最善の方法は、戦争に対する準備を万全にしておくことです。必要に応じて報復する体制が整っていれば、相手は決して軽挙妄動をすることは無い。国家間の協議や交渉は結構なことだ。しかし、軍事力という筋肉に十分裏打ちされていなければ、気づいたら時既に遅しで、戦争は始まっている。


◆442部隊の一兵士の涙

 一人のドイツ兵士と対峙した。倒れた敵の右手が懐に伸びるのを見た瞬間、反射的にライフルで敵の顔面をしたたかに殴打した。だが、絶命した兵士が手に握り締めていたのは、武器ではなく、妻子たちの写真だった。次の瞬間我に返った。これまで倒してきた多くの兵士たちには、それぞれ家族が居ると悟ったときの衝撃は耐え難いものだった。
 復員後、結婚し、家内と映画を見た。私は涙をこらえきれず、突如泣き出した。彼女の手を取り「見てくれ、私の涙に触れてくれ」と言った。その時まで、私はごく親しい人の葬儀でも決して泣かなかった。味方が倒されるのを見ているうちに、人の痛みを察する感情が失われていたのです。
 世間では、442部隊の兵士たちは戦場で起こった事について何も語らないと言われる。それは、決して自らの行為を恥じたからではない。思い出す事が苦痛で、語れなかっただけの事なのです。


東條首相から日系人への手紙

 日米開戦の半年ほど前でしょうか、ロス市外に或る日本人学校の校長先生が、東條英樹日本国総理大臣から、日系人にとって重要な手紙が来ているので、謹んで聞くようにと前置きした。生徒は直立不動の姿勢で拝聴した。その要旨は下記の通り。
「日系二世は、アメリカ人である。だから、あくまでも自国に忠誠を尽くして
 当然である。」
 当時の日系人社会では、日米いずれに忠誠を尽くすべきかが大問題だった。戦後強制収用所から釈放された後になって、東條があのような手紙を書いたのは、彼が軍人だったからだと確認した。<いかなる国においても、軍人は祖国に忠誠を尽くすべきであり、日系人はアメリカ人なにであるから、君たちが軍人になって、祖国アメリカに忠誠を尽くすのは当然のこと>であると、東條は我々伝えていたに違いない。
 東京裁判で死刑を宣告された東條は、日本はもとより各国で厳しい批判にさらされましたが、彼は武士道の精神をわきまえた日本軍の最高指導者としてしごく当たり前のことだったと、私には思えるのです。


◆汚してはならない日系元兵士の誇り

 親は、広島・江田島から海を渡った。レッドランズは日系2世のワダさんが生まれ育った街、ふるさとだった。先の大戦中、日系人らは「敵性国民」とみなされ、多くが収容所で生活を送った。収容所では、野球やバスケットボール、フットボール、そしてけんかに明け暮れた日々だったという。
 真珠湾攻撃(1941年12月)で始まった戦争。米国からみれば、日系人を収容所に移す政策は自然の流れだったのかもしれないが、自ら米国に渡った日系1世は当時の法律では帰化することができず、忠誠心を示す意思があったとしても、それは、なかなか容易ではなかった。だが、米国生まれの2世らの中には、進んで軍を志願し、忠誠を誓った人も多くいた。
 だから、戦争が終わり、レッドランズに戻ったワダさんも朝鮮戦争が始まったとき、躊躇することはなかった。韓国は「知らない国だった」が、米国民として出兵することを志願した。ワダさんらは2001年に訪韓し、朝鮮戦争で戦死した256人の名前を刻んだ碑を建立した。碑の前に立ったとき、自然に涙があふれそうになったという。
 あの年は、日本の中学歴史教科書の検定結果に対し、韓国が再修正を要求したり、小泉首相が靖国神社を参拝したことなどから日韓関係は冷え込んだ。「日系米国人の名前が刻まれている碑が日韓の懸け橋になってくれれば」との思いをその後も持ち続けたと振り返る。
 昨年夏のことだ。ワダさんは、30年以上住んでいるブエナパーク市の議会で、韓国系住民が推進する「従軍慰安婦」像を建てる提案がなされているのを知った。ワダさんは市議会あてに手紙を送った。自分の経歴や経験を記した上で、《こうした像を設置することは、多様性を認めるわれわれの市の一部の人にしか利益をもたらさない。そればかりか、日系米国人の痛みを深めるだけだ》と書いた。市議会がその後、韓国側の強い働きかけにもかかわらず、「この問題にはかかわらない」と決め、慰安婦像設置の採決を取りやめたことは周知の通りだ。
 「われわれは、韓国の人々がここ米国の地で、私たちをおとしめることを容認するために、命をかけたわけではない。国を愛し、韓国の自由を守るために戦ったのだ」。ワダさんはそう話した。戦争の歴史の中で生きた日本人の血が流れる米国人たちの誇りを感じる。汚してはならない誇りだ。(産経 2014/02/18)




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