北方領土:北方領土を取り戻せ



 今回[北方領土を取り戻す H25]から抜粋しました。
 読み進めていくうちに、北方領土問題が、尖閣問題、竹島問題への日本の弱腰外交がもたらした現状と二重写しに見えてきました。そして、日本人として領土問題を毅然と直視する姿勢が必要なことに気づかされました。是非、原書をお読み下さい。



◇北方領土が日本の領土である根拠

 日本が、北方四島の存在を知ったのは平安時代の中ごろと言われています。十七世紀初頭には松前藩が自藩領と認識してアイヌ原住民と交易をもっており、十八世紀中ごろには国後島にアイヌとの交易をおこなう商場が開かれました。また、松前藩は、寛永十二(一六三五)年に国後、択捉島などの北方の島々の地図を、正保元(一六四四)年には北方四島と千島列島合わせて三十九の島々がほぼ正確に描かれている地図を完成させました。〔ロシアが地図を作成したのは一七三九年が最初〕
 一方、ロシアは、一七一三年に千島列島の北部に現れ、遠征隊の派遣や、アメリカとの合弁会社などを通じて南下し、得撫まで及びました。得撫では、一七七八年、ロシア人から奴隷のように扱われることに我慢できなくなったアイヌが、ロシア人を殺害するという事件が起きました。この事件を知った幕府は天明五(一七八五)年から蝦夷地探検隊を派遣し実地調査を重ね、択捉島などに番所をおき、外国の侵入を防ぐ体制を整えました。このように、日本はロシアの進出を許さずに北方四畠の開拓を進めていきました。
 その後、日本とロシアは四度にわたる国際条約で北方領土周辺の国境について取り決めを行います。
 まず、日露間で初の国際条約となる日露通好条約が安政二(一八五五)年二月七日に結ばれ、両国の国境を択捉島と得撫島との間に定めました(図@)。この国境線は、日露両国の領有の実態を確認したもので、ロシア皇帝ニコライ一世の意向にも沿うものでした。また、樺太については両国民の混住の地と決めました。
 続いて明治七(一八七五)年に樺太千島交換条約(下田条約)が結ばれ、日本は千島列島(占守島から得撫島までの一八島)をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島に対する権原(統治を正当化する法律上の根拠)、権利を譲り渡します(図A)。
 その後、日露戦争の結果、明治三十八(一九〇五)年にポーツマス条約が結ばれ、北緯五〇度以南の南樺太が日本領土となりました(図B)。尚、この北緯五〇度以南というのは、日魯通好条約を結ぶ交渉の際に既に日本が自国領として主張していた範囲でもあります。また、この時日本は樺太全島を占領していましたので、この条約によって樺太の北緯五〇度以北の地をロシアに返還したことになります。日露戦争の賠償金を放棄したことと合わせ、領土においても日本はロシアの立場を尊重した内容の条約を結んでいるのです。
 終戦後、日本は独立を回復した昭和二十六(一九五一)年のサンフランシスコ講和条約で、南樺太と千島列島の権利権原及び請求権を放棄しました(図C)。
 しかし、同条約では日本が放棄した「千島列島」が具体的にどの島々を指すのか決められていません。当然ながら、日本固有の領土である北方四畠が含まれているはずがなく、日本は基本的にこの立場を堅持しています。同条約締結前後、国会答弁等に混乱がみられたようですが、北方領土返還に取り組むに当って、日本は「北方四島は日本固有の領土である」との国家としての見解を確定しています。それは、何より北方四島全ての返還を求める日本国民の強い信念が反映されたものです。
 日本はソ連と、昭和三十一(一九五六)年十月十九日に日ソ共同宣言を結び、平和条約締結後に歯舞・色丹を返還することを明確に約束させるとともに、国後・択捉の返還については今後の交渉によって実現させるという日本の立場を不十分ながらも貫きました。
 このように、北方領土は日本の固有の領土であり、一度もその領有権を他国に譲ったことはありません。
        


◇南樺太や千島列島も、元々は日本の領土だった

 千島列島は、明治七(一八七五)年から、南樺太(北緯五〇度以南部分)は、明治三十八(一九〇五)年から、それぞれ日本の領土と確定しました。
 日本はそれぞれの開発を進め、千島列島には昭和十五 (一九四〇)年時点で約六千人、南樺太には昭和十八(一九四三)年時点で約四十万人の日本人が住んでいました。その暮らしは、北方四島や北海道と同様で、数十年の間、日本の領土としてこの地を故郷とする日本国民の生活が営まれていたのでした。
 ソ連は、これらの地域に終戦前後の昭和二十(一九四五)年八月に侵略して全土を占領、多くの人々を殺害しました。生き残った人々は、北方領土の住民と同じく、ほとんど全て本土に追放されています(日本軍将兵はシベリアに送られ、長期間抑留されました)。
 サンフランシスコ講和条約で、日本はこれらの地域の領有権を放棄しましたが、代わって領有する国がどこになるのか、まだ国際的に決められていません。ソ連=ロシアの占領は、法的な正当性が無く、単に今日まで武力で占領を続けて来たというに過ぎません。ですから、正式に領有する国が決まるまで、日本はこれらの地域に対する潜在的主権を有しているのです。将来的に南樺太や千島列島がどこに帰属するのかを決定する国際会議が開かれる時は、日本は改めて返還・領有を主張することも、決して不可能ではありません。
 明治八(一八七六)年、北海道開拓として屯田兵が配置されたのを皮切りに、北海道開拓を夢見て入植者が全国から集まります。北方領土には明治二十年代から三十年代にかけて入植が始まり、歯舞には北陸地方、国後や択捉には東北や関東地方から多く移り住みました。未開の地とあって、中には縁者と「別れ」の水盃を交わして渡る人もいました。
 明治二十四(一八九一)年には、明治天皇が侍従に北海道及び千島列島の実態を調査するよう命じられます。調査は占守島にまで及び、「北方史に輝く一員を記録した壮挙」といわれています。
 明治の後期に入ると行政措置も確立され、生活も安定してきました。大東亜戦争の終戦時には、北方四島及び千島列島合わせて約一万七千人が住んでいました。択捉・国後に住む人が最も多く、両島で約一万人以上が、漁や缶詰工場などで生計をたてて、居住していました。


◇ロシアはどのようにして侵略してきたのですか

 ソ連は、日本がポツダム宣言を受諾し(昭和二十年八月十四日)、全軍に戦闘停止命令を発した八月十六日の更にその後になって、千島列島北端の島・占守島に武力侵攻してきました(同月十八日)。
 ソ連軍は、占守島を占領後、順次南下して千島列島の全島を占領する計画でした。ところが、島を守る日本軍は、平和裏に進駐してくる連合軍(ソ連軍)に降伏して武器を引き渡す準備をしていましたが、有無を言わせず武力で攻撃してきたソ連軍に対しては、自衛のための防衛戦に立ち上がり、優勢なソ連軍を一度は撃退するほど激しく抗戦したのです。しかし、改めて戦闘停止命令を受け、ソ連軍に降伏することとなりました。以後、ソ連軍は千島列島の日本軍守備隊各隊の降伏を受け入れながら、八月三十一日までに得撫島まで占領しました。
 南樺太では、同年八月九日からソ連軍の攻撃が始まり、防衛する日本軍は粘り強く防戦に徹した戦いを続けました。戦闘は終戦となった十五日以降も継続しました。市民をも対象にした無差別攻撃を繰り返すソ連軍に対し、日本軍も自衛のために戦わざるを得なかったからです。同月二十二日に停戦協定が結ばれましたが、南樺太・真岡市での九人の電話交換手自決の悲劇(二十日)もその時に起こりました。また、北海道に引き揚げる人々を乗せた船三隻がソ連寧に撃沈され、約一七〇〇人が犠牲になった小笠原丸事件(二十二日)も起きています。南樺太全土は二十五日にソ連軍に占領されています。
 なぜ、ソ連軍が無駄に血を流すようなことをしたのか、不可解としか言いようがありません。南樺太では約十万人の一般市民がソ連軍の無差別攻撃の犠牲になったと推定されています。千島列島・南樺太を守った日本軍は懸命に戦い、終戦後も自衛戦闘を継続して多くの戦死者を出しています。また、生き残った将兵もソ連軍に降伏した後、過酷な運命が待っていました。
 北方四島については、南樺太を占領したソ連軍部隊が、同地域にアメリカ軍が進駐していないことを確認したうえで占領を開始、択捉島は八月二十九日、国後島・色丹島は九月一日から「降伏文声調印(九月二日)後の同月四日にかけて占領しました。歯舞諸島の占領は、九月三日から五日にかけてでした。
 ソ連は、それぞれの地域の日本の軍人を捕虜とし、ポツダム宣言に違反してシベリアなど各地へ抑留して、強制労働に服させました(シベリア抑留)。一般市民は、しばらく拘束された後、北方四島から追放されました。

 ■映画「氷雪の門」と、その上映を中止させたソ連の圧力
 ソ連軍の侵攻に直面した南樺太では、終戦後も続くソ連軍の無差別攻撃や残虐行為により多くの犠牲者や避難民が出るなど大混乱に陥りました。その中で、各地の通信連絡を最後まで担ったのが、西海岸にある真岡郵便局の電話交換手でした。昭和二十(一九四五)年八月二十日に真岡に襲来したソ連軍の猛攻に直面し、電話交換手を務める九人の女性たちが、「これが最後です。さようなら、さようなら」との電話連絡を最後に青酸カリによる自決を遂げた悲劇が起こりました。
 戦後、南樺太を望む北海道・稚内市には、南樺太の犠牲者を悼む「氷雪の門」とともに「九人の乙女の碑」が建立されています。昭和四十三(一九八八)年に行幸啓された昭和天皇皇后両陛下は、その前で深く頭を垂れて冥福を祈られました。後日、宮内庁からその折の感懐を詠まれた両陛下の御製・御歌が公表されました。
 昭和天皇御製
樺太に命をすてしたをやめの心を思へばむねはせまりる
 皇后御歌
樺太につゆと消えたる乙女らのみたまやすかれとたゞいのりぬる
 この御製・御歌は、「九人の乙女の像」 の傍の歌碑に刻まれています。
 この悲劇は映画化され、昭和四十九(一九七四)年三月に「樺太一九四五年夏 氷雪の門」(監督・村山三男)として公開される予定でした。ところが、その直前、前売り券が七十万枚も販売されていたにもかかわらず、ソ連が配給会社に圧力をかけ公開中止となりました。その後は有志による上映などが為される程度で、長く日本国民多数の目に触れることはなく、「幻の映画」と言われていました。 それが、フィルム原版が発見されて再編集の後に、平成二十二年(二〇一〇)年七月、改めて公開されました。製作から三十六年、圧力をかけた当のソ連が消滅(平成三〔一九九一〕年)した時から数えても、十九年という歳月を経ての公開実現でした。
 ■北国:抑留者1万人名簿公表…北朝鮮、大連、南樺太は初。2015/05/01
 厚生労働省は30日、終戦後、旧ソ連に抑留され、収容所などで死亡した1万723人の名簿をホームページで公表した。北朝鮮の興南や中国・大連、南樺太(現サハリン南部)などで死亡した2130人が含まれており、これらの地域での死亡者名簿公表は初めて。全体のうち個人が特定できた2660人は漢字の氏名や出身地も掲載している。
 厚労省は1991年以降、ロシア政府などから資料を順次入手し、シベリアとモンゴルで亡くなった約4万2千人の名簿を2007年までに公表済み。北朝鮮などでの死亡者名簿も2006年に入手していたが、個人の特定作業はシベリアなどが優先され、他の地域は後回しになっていた。同省は「戦後70年を迎え遺族が高齢化する申、名簿公表で身元の特定につなげたい」としている。
 公表されたのは、シベリアの8593人のほか、北朝鮮の興南が1853人、元山が11人、中国の大連が178人、南樺太や択捉島などが88人。過去に公表した名簿などと一部重複している可能性があるという。
 片仮名表記の氏名や死亡年月日、死亡(埋葬)場所を掲載。死亡時期は主に1940年代後半で、元の資料には死因などが記載されている人もいる。日本側資料との照合で個人が特定できた興南の261人、シベリアの2399人の計2660人については、漢字表記の氏名と出身の都道府県も掲載した。
 今回の名簿には、旧ソ連が設置した「本国送還第53中継収容所」(輿南)や「本国送遭第14中継収容所」(大達)などで死亡した軍人・軍属や民間人が含まれる。
 厚労省は今後も照合作業を進め、身元が判明した場合は、本籍地の都道府県を通じて遺族に連絡する。遺族が希望すれぼ、抑留登録カードなど保管する全での情報を提供している。
 厚労省の推計では、旧ソ連による抑留者は約57万5千人で、うち約5万5千人がシベリアやモンゴルで死亡。病気やけがで重労働に耐えられなくなった約4方7千人が北朝鮮や旧満州に移送されたとされる。尚、上図は2015/05/01の北国新聞、下図は朝日新聞。
 
 ■産経:抑留死亡者名簿 露「機密解除」進まず、なお1万5000人超。2015/05/01
 旧ソ連による日本人の強制抑留をめぐっては、厚生労働省が死亡したと推定する5万3千人のうち、1万5千人以上に関する資料がロシア側から提供されていない。ロシアで名簿や資料の「機密解除」が進んでいないことが背景にある。
 抑留者に関する調査は1991年4月、当時のゴルバチョフ・ソ連大統領が3万8647人の死亡者名簿を日本政府に引き渡し、本格化。ロシアのエリツィン初代大統領は93年10月の訪日で、抑留を「非人間的な行為」として謝罪した。
 ロシア側はこれまでに、のべ4万人以上の死亡者名簿や約70万枚にのぼる抑留者「登録カード」、護送部隊が抑留者を各地の収容所に移送した際の記録などを日本政府に提供している。これらの照合や分析を経てもなお、1万5千人以上に関する情報がロシア側から得られていない。
 しかし、ロシア側にまとまった資料が眠っている可能性は十分にある。
 2013年9月、「全国強制抑留者協会」(全抑協)がモスクワで開いた日露シンポジウムで、露国立公文書館のロゴワヤ副館長が「当方にも日本人に関する文書がある」と明かし、出席者を驚かせた。
 新たに存在が確認されたのは、その前年に機密解除されたソ連閣僚会議(政府)の送還業務全権代表部が作成した文書など。日本政府が過去に入手したものと重複しているが、現在の北朝鮮での抑留死亡者に関する情報も含まれていた。政府は、同館に依頼して6月にも本格調査を始める。
 ただ、公文書の「機密解除」の手続きには時間を要する。プーチン露政権は、スターリン期のソ連を肯定的にとらえる公式史観の流布に躍起となっており、機密解除が加速するとの見方は少ない。(モスクワ 遠藤良介)


◇北方領土を追われた人々

 ソ連による占領後、北方四島に住んでいた人々は、島から追放されるまでの間、ソ連軍に抑圧された苦しい生活を強いられました。ソ連軍は侵攻後直ちに、日本との連絡を絶つために電話や電信などの通信施設を破壊し、船舶の航行の禁止、島民の行動の制限、労働の強制などをおこないました。
 規律正しい日本軍人とは対照的に、ソ連兵は粗暴で、武器をもった暴力集団そのものでした。恐怖する島民を横目に、彼らは土足で民家にあがり神棚から何から家中を銃でひっかきまわし、時計などの金目のものを略奪し、家畜を奪い、酒樽を囲むなど好き放題に荒らし回りました。なかには脱出を試みる島民がいましたが、ソ連兵に射殺されたり、遭難したりして命を落とした人が相当数いました。
 昭和二十一(一九四六)年に締結された「米ソ引揚協定」によって全島民の引き揚げが決まりました。「引揚者」にとっては、強制的な「追放」との思いが強いものでした。引き揚げは三年に亘って行われましたが、突然ソ連兵に指名され、荷物をまとめる間もなく貨物船に詰め込まれるというやり方で、しかも、貨物の運搬のために樺太を経由したため、本土に到着するのに一カ月以上かかったそうです。移動中は、極寒の中、豚小屋に押し込まれ、豚と一緒に糞尿まみれになったり、雨ざらしの部屋だったりしたため、途中で命を落とす人も多くいました。ようやくたどり着いた本土も、敗戦の荒廃は厳しく、縁故を頼っても受け入れてもらえないことも多く、漁師をやめて農業につくなど苦しい生活が続きました。
 しかし、引揚者は強い望郷の思いで困難を乗り越えて来ました。中には「早く故郷に戻って、日本一の畠にする」という方もいます。そして、終戦から六十年を経て、当初約一方人だった引揚者もその半数は亡くなりました。あと十年でその数は激減すると見られています。
 「早く放郷に戻って、日本一の島に」この元島民の思いを実現するためにも、一刻も早い北方領土の返還が実現されなければならないのです。


◇ソ連は、北海道まで占領するつもりだった

 昭和二十(一九四五)年六月二十六日、モスクワ・クレムリン宮殿で、スターリンをはじめソ連首脳が一堂に会した中、対日参戦後に北海道を占領することが提案されて協議が為されています。この時は決定されませんでしたが、スターリンは、参戦(八月九日)の直前、極東方面のソ連軍司令官に南樺太と千島列島を占領した上で北海道の釧路と留萌を結ぶ線から北の部分を占領するよう秘密指令を与えています。これを受けて北海道占領計画が具体的に作成されました。
 終戦翌日の同年八月十六日、スターリンはアメリカ大統領宛書簡で、日本のシベリア出兵(大正八〔一九一九〕〜同十〔一九二二年)の報復として日本固有の領土の一部を占領地に持ちたいと、北海道北部のソ連軍占領を認めるよう要求し、同時に、南樺太にあった北海道侵攻部隊に上陸作戦の実行を準備するよう通達しました。ところが、アメリカは、翌十七日付の書簡でスターリンの要求を明確に拒否してきたのです。スターリンはやむなく北海道侵攻作戦を中止しました。
 その代わり、不法にも、数十万人の日本軍人がシベリアに抑留され、強制労働を強いられました。


◇ロシアが北方領土を自国の領土とする根拠

 ロシアは、北方領土領有権主張の根拠を「第二次大戦の結果」とし、それが@ヤルタ協定 Aポツダム弓言 Cサンフランシスコ講和条約 C国連憲章一〇七条(旧敵国条項)で認証されたとしています(平成二十三〔二〇一二年二月二十四日・ロシア外務省声明)。
 しかし、ソ連の対日参戦自体が日ソ中立条約を破った不法行為であり、その結果(占領)を容認する正当な根拠など何処にもありません。ロシアの主張がいかにデタラメなのか、四つの文書を検討してみましょう。

@ヤルタ協定(昭和二十〔一九四五〕年二月一日に米英ソ三国首脳間が密約)
 本協定の条約としての法的効力はありません。なぜなら、日本はこの協定に参加も同意もしたことがなく、終戦後の昭和二十一(一九四六)年二月に公表されるまで知らされることもありませんでした。領土保有の当事者が参加も同意もしていない協定に何らの効力もないのです。そのため、ヤルタ協定を結んだ米英両国とも、ヤルタ協定に拘束されて北方領土をソ連・ロシアの領土とすることを支持したことはありません。
 そもそも、日本以外の国に一度も領有されたことがない北方四島が、このヤルタ協定に書かれている「千島列島」に含まれると解釈する余地はありません。ヤルタ協定が、北方領土がソ連の領土になることの根拠には全くならないのです。

 ■産経:米機密文書「北方四島は日本保持」 2014/02/07

 2月7日は北方領土の日。先月31日の日露次官級協議でロシア側は「北方四島は第二次大戦の結果、ロシア領になった」との従来の主張を繰り返した。ロシアが北方四島領有を正当化する根拠としてきたのが1945年2月のヤルタ会談で交わされた「ヤルタ密約」だ。会談直前に米国務省は「北方四島は日本が保持すべきだ」との報告書を作成しながら、ルーズベルト米大統領は一切目を通さず、逆に事前に入手したソ連のスターリン首相が熟読し、ルーズベルトが国務省の進言に従わないことを奇貨として、主導権を握って巧みに北方領土を奪ったことはあまり知られていない。

◆ルーズベルト無視 スターリン諜報駆使

 国務省はクラーク大学のブレイクスリー教授に委嘱して千島列島を調査し、44年12月に「南千島(歯舞、色丹、国後、択捉の4島)は地理的近接性、経済的必要性、歴史的領土保有の観点から日本が保持すべきだ」との極秘報告書を作成、ヤルタ会談前にルーズベルト大統領とステティニアス国務長官に手渡した。
 ワシントン・ポスト紙の元モスクワ支局長、マイケル・ドブズ氏が上梓した近著『ヤルタからヒロシマヘ』によると、スターリンは「盗聴報告のほか、スパイがもたらす米国の説明文書も目にすることができた。共産主義の崩壊後、彼の個人ファイルにはクリール諸島(千島列島)のソ連への割譲に反対する44年12月の米国務省作成の内部文書が含まれていることが分かった。ルーズベルトはこうした問題で自国の専門家の見解を読む気にならなかったが、スターリンはあらゆる微妙な綾までむさぼり読んでいたのである」。そして「ルーズベルトが国務省の助言に従わないことを喜んだ」という。
 またスターリンは往年の覇気を失ったルーズベルトの病名がアルバレス病(動脈硬化に伴う微小脳梗塞の多発)で、精神がもうろうとして正常な判断ができないほど悪化していたことを正確に把握していた。

◆ヤルタ密約で主導権

 スターリンは、インテリジェンス(諜報)を駆使してルーズベルトと米国をを丸裸にして、南樺太同様に「北方四島も日露戦争で奪われた」とルーズベルトを欺いたのである。
 では、なぜルーズベルトは国務省の進言を無視したのだろうか−。
 米軍は日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)になると、日本軍の抵抗で50万人の兵士が犠牲になると推定しており、「背後」からソ連の参戦を望んだためだ。この当時は原爆が完成していなかった。
 米国は1941年4月、モスクワで日ソ中立条約を締結した際、スターリンが松岡洋右外相に「条約締結の見返りに千島列島の譲渡」を要求した、との日本の外交電報を傍受、解読していた。北方四島を含む千島列島に領土的野心を燃やすスターリンの歓心を買おうとしたともいえる。ソ連に大きく譲歩する合意に再考を促したハリマン駐ソ大使に対し、ルーズベルトは「ロシアが対日戦の助っ人になってくれる大きな利益に比べれば、千島は小さな問題だ」と進言を退けたという。
 ルーズベルトの背後で暗躍したのがソ連のスパイたちだった。ルーズベルト政権には200人を超すソ連のスパイや工作員が侵入していたことが米国家安全保障局(NSA)の前身がソ連の暗号を傍受・解読したヴェノナ文書で判明している。側近としてヤルタに同行したアルジャー・ヒスもその一人で、ソ連の軍参謀本部情報総局(GRU)のエージェントだった。
 ステティニアス国務長官の首席顧問としてヤルタに随行したヒスは、国務省を代表してほとんどの会合に出席し、病身の大統領を補佐した。会談19日前、米国の立場に関する全ての最高機密ファイルと文書を与えられ、ヤルタ協定の草案も作成している。そこで北方四島を含む千島列島引き渡しのアウトラインを描いた可能性が高い。ルーズベルトが国務省文書を一顧だにせず北方領土を引き渡した背景にスターリンの意をくんだヒスの働きがあったといえる。

◆プーチン氏も踏襲

 このヤルタ密約を根拠にソ連は、北方四島を占領し、現在も後継国家ロシアは「第二次大戦の結果、自国領になった」と北方領土を領有する歴史的正当性を主張し続けている。プーチン大統領も「ロシアが積極的な役割を果たして達成したヤルタ合意こそ世界に平和をもたらした」と評価し、31日の日露次官級協議でもヤルタ密約をサンフランシスコ講和条約、国連憲章の旧敵国条項などとともに根拠にあげたもようだ。
 しかし、そもそもヤルタ密約は、連合国首脳が交わした軍事協定にすぎず、条約ではないため国際法としての根拠をもっていない。さらに当事国が関与しない領土の移転は無効という国際法にも違反しており、当事国だった米国も法的根拠を与えていない。共和党アイゼンハワー政権は1956年、ヤルタ秘密議定書は、「ルーズベルト個人の文章であり、米国政府の公式文書ではなく無効」との国務省声明を発表。2005年にはブッシュ大統領が「史上最大の過ちの一つ」と批判している。
 「ヤルタ密約」が招いたのは北方領土問題だけではない。中国、北朝鮮などアジアに共産化を引き起こした。2014/02/08ロシア南部のソチで日露首脳会談が行われるが、北方領土問題の原点ともいえる「ヤルタ密約」を克服して国際的に合法な国境画定ができるかが鍵となりそうだ。

◆ヤルタ会談
 昭和20(1945)年2月4日から11日、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、ソ連のスターリン首相がソ連領クリミア半島のヤルタで会談し、ルーズベルトは、スターリンに日ソ中立条約を破棄してドイツ降伏3カ月後に対日参戦するよう要請。見返りとして、北方四島を含む千島列島、南樺太、満州(中国東北部)に日本が有した旅順港や南満洲鉄道などをソ連に与える密約を交わした。ソ連は密約を根拠に、終戦間際の8月9日、満州、千島列島、樺太に侵攻し、北方四島を占領した。

◆北方領土の日
 1855(安政元)年2月7日に日露和親条約が調印され、日露間の国境を「択捉島とウルップ島の間」に画定したことから、北方領土問題に対する関心と理解を深め、全国的な返還運動の推進を図るため同日を「北方領土の日」と定めている。

Aポツダム宣言(昭和二十〔一九四五〕年七月二十五日)
 ソ連は参戦後に参加した米英中三国連名で発表したポツダム宣言については、日本はその条項に従って、日本国の主権は本州、北海道、九州、及び四国並びに連合国が決定する諸小島に限られることを受け入れ、昭和二十六(一九五一)年九月に結ばれたBサンフランシスコ講和条約で、台湾等とともに南樺太及び千島列島の主権を放棄することを、正式に同意しました。
 しかし、ポツダム宣言も、サンフランシスコ講和条約も、日本が放棄した南樺太及び千島列島をソ連に割譲するとは、一言も苦かれていません。それらの地域がどの国に帰属するかを決める国際条約は現在まで結ばれていません。そもそも、ソ連はサンフランシスコ講和条約に署名していません。同条約は第二十五条で、同条約に加わっていない国が同条約によって何らの権利や利益を得られるものではないと規定しており、したがってソ連・ロシアが同条約を根拠として領有権を主張することはできないのです。
 まして、日本は、ポツダム宣言でもサンフランシスコ講和条約でも、北方領土は放棄していません。現在も日本の主権の下にある日本の領土です。

C国連憲章の一〇七条(いわゆる「旧敵国条項」)
 同条は第二次世界大戦中に「連合国の敵国(日本・ドイツなど)」だった国が憲章に違反する行動を起こした場合、国際連合加盟国は国連決議に関係なく単独でも無条件に当該国に対して軍事的制裁を課すことが容認され、この行為は制止できないとしています。国連憲章の成立は、ソ連が対日宣戦する前の昭和二十(一九四五)年六月のことですから、対日侵攻正当化に利用したもののようですが、自国の不法行為を隠蔽するデマゴキーに過ぎません。
 また、仮にソ連の侵攻がこの条項に則った軍事的制裁に当るとしても、この条項を含む国連憲章のどこにも、軍事的制裁によって占領した地域をそのまま領有して良いとは善かれていません。国連憲章は、戦勝国だからといって、敗戦国の領土を勝手に自国の領土に組み入れることを認めるものではありません。しかも、そもそも、この条項は死文化していて平成七(一九九五)年に国連憲章から削除する決議が採択され、ロシアもそれに賛成しています。自らが削除に賛成した死文化条項でさえ、自己正当化に利用しなければならないほど、ロシアの主張には根拠が無いことを示しています。
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 このような状況に対しては、自民党が昭和五十九(一九八四)年に「北方領土地図ミッション」を派米し、米国務省と国連本部、更に米国の地図会社と会談し、「一九四五年以降、ソ連が占領して日本が領有権を主張」と付記することなどの合意を得ています。この合意は現在も有効で、今日のアメリカ作成の地図には良く反映されて来ているようです。しかしながら、世界では依然として「ロシア領」とする地図が多くみられるようです。
 ただ、国家レベルでの北方領土認識は、日本領であるとの正しい意見が大勢を占めています。アメリカは、既に昭和二十七(一九五二)年三月に上院が「南樺太及びこれに近接する島々、千島列島、色丹島、歯舞群島及びその他の領土、権利、権益をソビエト連邦に引き渡すことは、ソ連の利益のためにサンフランシスコ講和条約を曲解するものだ」という趣旨の決議を行っています。これは、平成二十二(二〇一〇)年十一月にフィリップ・クローリー米国務次官補が記者会見で「アメリカは北方領土に対する日本の主権を認めている」旨の表明をしている通り、アメリカの変わらぬ公式見解でもあります。
 更に、欧州連合(EU)は、欧州議会での東アジア安定についての議論の中で、北方領土を日本に返還するようロシアに促す決議を平成十七(二〇〇五)年に採択しています。このことについて、英国選出のグレアム・ワトソン欧州議会議員は「北方領土は第二次大戦でソ連に武力で奪われたが、現在も間違いなく日本の領土だ。問題を平和的に解決するようロシアに圧力をかける必要がある」と欧州と日本の連携を呼びかけています。この決議の背景には、バルト三国や旧東欧諸国など、歴史的にロシアの侵略に苦しめられてきた国々の反ロシアそして日本支援の強い意志が働いているようです。また、ワトソン議員は「ロシアはグルジアやモルドバなどとの間で領土問題を抱えており、将来、紛争の口実になりかねないことを危倶する」とも述べており、ロシアに北方領土問題の解決を促すことがヨーロッパの安全保障につながるとの認識もあるようです。
 北方領土問題の解決については、国際社会の認識が深まるほど日本を支持・支援する声が大きくなります。日本は、そうした良識的な声を挙げる国々と連携し、返還をロシアに強く求めていくべきでしょう。
 ■ソ連の圧力から「北方領土の日」を守り抜いた日本
 二月七日が「北方領土の日」と決められたのは、昭和五十六(一九八一)年一月六日の閣議了解によります。これは国民の間に北方領土返還の強い意思が.示されたことが背景にあります。前年の十一月、衆参山院で北方領土の日制定を含めた「北方領土問題等の解決促進に関する決議」が全会一致で可決され、全国の地方議会でも同様の決議が相次いだのです。これに危機感を覚えたソ連は、一月二十日、「北方領土の日」の決定を「ソ連に対する非友好的でかつソ日関係において達成された肯定的な成果を破綻に導く行為」だと非難し、北方領土を教える我が国の学校教育にも介入して「領土問題は存在しない」と強弁する冒頭声明を発表しました。また、ソ連との善隣友好を訴える日本対外文化協会や日ソ親善協会も、「北方領土の日」の設定が「ソ連の悪感情をつのらせる」と執拗に反対表明を繰り返しました。
 しかし、日本側は、ソ連が「日本国民の総意を無視して北方領土の不法占拠を続けるのみならず、新たな軍力の配備及び施設の構築を行っている」ことこそが「日ソ善隣友好の精神に逆行」する「最も非友好的な行為」だと反論し、この年が最初となる「北方領土の日」に開かれた返還要求の集会に首相など国家指導者が出席、九月には鈴木総理が空から北方領土の視察を行うなど、ソ連側の圧力をはねのけて返還を求める姿勢を強く示したのです。
 今日、「北方領土の日」には、必ず全国で集会や街頭活動が行われるなど定着しているのは、当初から日本側の毅然とした姿勢が貫かれたことによるのです。


◇北方領土は今

 ソ連軍が侵略したのち、ロシア人が北方領土に移住してきました。そして現在、ロシアはサハリン州の行政区分に組み込み、約一万六千人のロシア人が住んでいます。
 国後の居住者が最も多く、歯舞群島には国境警備隊員が駐留しているのみです。
 不法占拠の開始から既に六十年以上が経ち、今や二世三世のロシア人がいます。彼らは幼稚園から教室にロシア大統領の顔写真が掲げられ、ロシアの国旗や国歌について教えるなど、この地がロシアの領土であると幼少から徹底して教え込まれています。
 また、国後にある「故郷博物館」には、北方領Lの歴史について、「ロシアが開拓した地に日本人が侵略し、第二次世界大戦で解放した」との趣旨の展示がなされています。近年、ロシア正教会が建設され司祭が赴任しており、文化面でもロシア化が図られています。経済の中心は漁業や水産加工業で、これらは北海道や日本に「輸出」されるものも多くあります。通貨はルーブルが使用されています。経済状況はロシアの平均より低く、インフラ整備も不十分で、住民の不満は大きいようです。平成六(一九九四)年の北海道東北沖地震での甚大な被害も完全には復興されていません。

 ■レポ船の実態−日本政府の無為が生んだ悲しき「売国」行為
 占拠された北方四島海域では、ソ連警備艇が日本漁船を次々に拿捕しました。賄賂を渡して免れるケースも多かったのですが、その賄賂が金銭や物品から次第に日本国内の情報へと変わっていきます。ソ連に意図的に情報(レポート)を流す船が現れ、それを「レポ船」と呼ぶようになったのです。情報は、新聞や雑誌、地図、返還連動関係団体の名簿、警察や自衛隊の施設に及びました。内容が機密であるほど見返りは大きく、情報を求めて次第に規模が大きくなり、スパイ機関のように組織化されるものまで出てきました。当然、「売国奴」との非難もありましたが、その漁船の水揚げは豊富で、ほど近い根室の経済を潤してもいたのです。こうして、レポ船の実態は公然の秘密となり、長く続けられてきたのです。ソ連崩壊後は活動も弱まったとされますが、領土・領海をを奪われたまま放置されてきた人々の悲劇の一つと言えます。


◇返還に向けて、ソ連とはどのように交渉

 日本が独立を回復し、世界各国との国交を回復したサンフランシスコ講和条約にソ連は署名しなかったため、日ソ間は別に交渉をする必要がありました。その交渉課
題の中には、当然領土問題の解決も含まれていました。しかし、鳩山一郎政権は、領土問題だけでない幾つもの重要課題を抱え込んでいました。その最大課題が、シベリア抑留者の帰還問題でした。ソ連は、終戦前後に捕虜にした日本軍将兵約六十万名、民間人も含めると約百万人に及ぶ日本人を、ポツダム申早言の条項に違反して、シベリアなどソ連各地に連れ去って強制労働に従事させていました。既に米ソ間の協議で帰還は始まっていましたが、度々中断されることから、日本としてはもっと早く取り戻したいとの思いがありました。また、日本が国際連合に加盟して国際社会に復帰するためには、ソ連が拒否権を行使しないよう約束を取り付ける必要がありました。さらに、オホーツク海での漁業が安定して操業できるようにするためには、ソ連との合意が必要でした。
 鳩山首相は、訪ソの前に「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」と語って、領土問題よりもシベリア抑留問題の解決を優先する考えを示していました。
 日ソ交渉妥結の突破口を開いたと言われる河野一郎農相は、漁業問題の解決を最優先課題にしてソ連首脳との直接交渉を行っていました。そのため、日本側の足元を見透かしたソ連側は、交渉以前から言明していた「色丹・歯舞の返還」すら盛り込まない案文を示すなど強硬姿勢を示してきました。慌てた河野農相は、この二島の返還を盛り込んでくれれば、実際の返還は平和条約後で良く、択捉・国後の返還は、当時アメリカが占領中の小笠原諸島と沖縄が返還されない限り日本側からは要求しない、などの密約を持ちかけて大幅に譲歩することになったのです。
 その結果、同年十月十九日に署名されて、日ソ間の戦争状態を終わらせ国交の回復を謳った日ソ共同宣言では、領土問題について、第九項で両国が平和条約を結んだ後に、色丹・歯舞両島を日本に引き渡すことし、引き続き「平和条約の締結に関する交渉を継続する」と書かれることになりました。この継続される交渉の中に領土問題が含まれることは明らかですが、宣言の中で明文化されるには至りませんでした。
 シベリア抑留問題や漁業問題、国連加盟問題などは、この日ソ交渉により一応の解決に向かいましたが、こうした問題を人質にとられた中で領土問題の交渉が行われ、最初から譲歩を余儀なくされたため、千島列島・南樺太の帰属問題は全く取り上げられず、これ以降も交渉の議題に上がったことばありません。
 しかし、ソ連は、時に日ソ共同冒言を無視して「領土問題は解決済み」とする不誠実な態度を示すばかりか、我が国の世論に陰に陽に働きかけ、返還を求める日本国民の声を弱めようとさえしてきました。こうしたソ連の謀略的な態度で、領土問題の実質的な進展は長く見られませんでした。
 北方領土をめぐる交渉が再び実質的な動きを見せるのは、一九九一(平成三)年の十二月にソ連が崩壊してロシア連邦が成立した後のことになります。ソ連崩壊後の混乱から経済的苦境にあったロシアは、北方領土問題で譲歩の姿勢を示し、日本からの経済的な援助を引き出そうとしたのです。
 その結果、エリツィン大統領が訪日した平成五(一九九三)年十月十三日に東京宣言が署名されました。その第二項に、日露間の公式外交文書で初めて、択捉・国後両島の名称が明記されて、日露間の北方領土問題が色丹・歯舞だけでなく、北方四島全体の帰属問題であることが確認されたのです。日本側もこの機会を捉えて積極的にロシアに働きかけま
 プーチン大統領は、エリツィン政権の姿勢を継承することなく、日ソ共同軍言を原点とすると表明し、再び二島返還に立ち返る姿勢を明確にしました。さらに二〇〇八(平成二十)年にメドベージェフ大統領との双頭政権になってからは、より強硬になり、色丹・歯舞を含めて、北方領土はロシアの領土であって、この問題は既に解決している、という姿勢を強めました。そして、大統領以下の政府高官による北方領土踏み入れ、ロシア軍艦船・航空機の北方領土周辺空海域のみならず日本の領域周辺への進出を繰り返して、支配の強化や日本への桐喝を続け、交渉の進展は大変難しい状況にありました。
 再び就付したプーチン大統領がどのような姿勢を示すか柱目されるが、大きな変化は期待できないと思われます。
 ■河野一郎…北方領土返還を妨害 [撃論 2012年10月 第七号]
河野洋平の父一郎はソ連に密約を求めた「日本が国交回復の交渉に応じなければ(北方領土を諦める)、漁業協定に調印しないと、ソ連から日本に圧力を掛けて欲しいと要請した。この要請にソ連側は、自国を貶めてまでソ連からの圧力を頼むのか…」。結果、北方領土返還妨害のお礼として、ソ連から当時20億円を手にしたという。その金は日ソ漁業協定とは別枠で、魚を捕らせた代金だった。尚、当時幹事長の岸信介は、北方領土返還を妨害しているのは河野一郎農林大臣だと確信し、首を締め上げたとの風評があった。
 ■河野洋平…従軍慰安婦を捏造、化学兵器遺棄の捏造
 宮沢内閣当時、毛沢東崇拝の官房長官・河野洋平は、河野談話で従軍慰安婦強制連行をでっち上げた。次に、共産主義者・村山富市首相が「アジア平和基金」を設置し、多くの寄付金を詐称老婆にばらまいた(首相は給料と退職金を頂いている)。[撃論]…安倍内閣で河野談話を否定している。
 小渕内閣の外務大臣・河野洋平は、遺棄していない化学兵器を遺棄したと歴史を偽造し、日中間協定にした。この捏造により、廃棄国の日本は一兆円以上の処理代を払わされて続けている。…日本は敗戦に伴い、国際法に基づく武装解除を通じ、化学兵器を含むすべての兵器をソ連やシナ(蒋介石、毛沢東)に完全無欠に引き渡した。だから、日本は何一つ兵器を遺棄していない。
 尚、河野太郎はこれまで一度も、祖父・父の犯罪を糾弾したことが無い。今、彼の支援する「原発ゼロの会」には左翼の巣窟となっている。


◇日本国民による返還運動

 返還運動は、終戦から間もない昭和二十(一九四五)年十二月一日に、根室市の安東石典町長が対日占領軍司令官マッカーサー宛てに北方領土返還要求の陳情書を提出したことが始まりと言われています。
 この陳情を契機に、北海道内で返還同盟が次々に設立されて大きな運動となり、昭和二十五(一九五〇)年十一月に「千島及び歯舞諸島返還懇請同盟」が設立し、当時「南千島」と呼ばれていた国後・択捉から、占守島までの千島列島全島と、歯舞・色丹の返還を求めていきました。この同盟が千島全島の返還を求めたのは、択捉より北の島峡は樺太千島交換条約で平和裏に日本領土になったのであり、ポツダム宣言が履行するカイロ宣言の「日本国が奪取し、又は占領した一切の島峡」にはあたらないことを認識していたからです。そして何よりも、引揚者の帰郷と経済復旧を願ったからです。
 元島民の切実たる思いは、間もなく全国各地へ広がり日本国民の意思となります。北方領土の出身者が多かった富山県が北海道以外で初めて返還要求団体を昭和二十三(一九四八)年に設立して以降、今岡で県民会議が設立され、昭和六十二(一九八七)年の島根県の設立をもって、全国四十七都道府県にすべて設立されました。このような全国的な運動の広がりによって、北方領土の返還を求める全国署名は現在までに八一九〇万名(平成二十二年十一月現在)が集まり、デモ行進などの活動も各地でおこなわれています。
 国会でも、北方領土の返還を求める決議は累次行われ、全都道府県の議会や多くの市町村議会においても返還を求める決議が採択されています。
 また、全国の運動を取りまとめる「独立行政法人北方領土問題対策協会」(北対協)が政府と連携し、北方領土問題解決のための環境整備を目的とした、旅券(パスポート)、ビザなしによる北方領土訪問が平成三(一九九一)年から始まり毎年行われています。他には高校生の弁論大会や、大学生の研修会も毎年開催されています。
 特に、二月七日の「北方領土の日」(日露通商条約の調印日)には、全国で関連行事が開催されています。これらの活動に興味がある方は是非、各地の県民会議新顔揃にお問い合わせください。


◇北方領土返還に向けての課題は何ですか?

 北方領土返還問題が進展しないのは、我が国に粘り強く断固とした姿勢が不足しているからに他なりません。「友好」「交流」の推進を口実に、「領土を返してもらおう」と何かとロシアのご機嫌をうかがうばかりのような現在の外交姿勢を一大転換する必要があります。平成十七(二〇〇六)年末に、樺太の石油・天然ガス開発プロジェクト「サハリン2」の権益の過半が、それまで開発を主導していた日本の商社からロシア側に奪われた際に、これに怒るどころか、「この結果が北方領土交渉を促進すると信じている」と表明した日本外務省の脳天気な姿勢は、アメリカを驚かせました。同様に、ロシアの「北方領土不法占拠」を明言しようとしなかった政府関係者の姿勢は、即刻改めるべきなのは言うまでもありません。
 北方領土に限らず、我が国の国益を損なうようなあらゆる言動を見逃さず、例え一時的に「友好」が損なわれ、「交流」が停滞しようとも、断固として異を唱える姿勢を貫くことがまず大切です。それが出来た上で、改めて、返還という北方領土問題解決に向けた具体的な提案を発信していくべきでしょう。
 プーチン大統領は選挙期間中に北方領土は返還しない旨を表明しており、「引き分け」提案は、日本から経済的・技術的援助を引き出そうするエサに過ぎない、本気で二島を返すつもりもない、との指摘もあります。我が国としては、このプーチン提案に、領土問題の進展に結びつくかのような幻想を抱いて飛びつくような、足元を見られる醜態をさらしてはならないのは当然です。むしろ、ロシアが占領しているままの南樺太・千島列島の帰属を決定する国際会議の開催を提唱し、両地域の返還を要求することも辞さないという、これまでにない強い姿勢で交渉に当るべきではないでしょうか。いつまでも北方四島を返還しなければ、いずれ南樺太や千島列島をも失うことになりかねない、そういう恐れをロシアに抱かせなくては、問題の進展は望めないように思います。むろん、それだけの強い姿勢を貿くためには、その背景になる実力を養わなければなりません。防衛費を削減している場合ではないのです。
 また、そうした実力は、北方領土だけでなく、尖閣諸島や竹島など領土問題ではいかなる外国にも一歩も引かないという日本の姿勢を支えます。この姿勢が賃かれたならば、ロシアの対日観は、いずれ大きく転換するはずです。
 タフな交渉相手だとの認識は、その反面、味方に付ければ、真の脅威に立ち向かうのに頼りになるとの認識も生みます。それは、北方領土問題について、ロシアの柔軟な姿勢を引き出す契機ともなるはずです。
 いま日本は、近隣諸国との表面的な「友好」を最優先としてきた戦後外交から一大転換を為すべき時を迎えているのは間違いないのです。




◇シベリア抑留風化危機
                            2013/08/08産経
 旧ソ連が第二次世界大戦後、日本人的60万人をシベリアなどに抑留した問題で、慰霊祭などを政府とともに行ってきた財団法人「全国強制抑留者協会」(全抑協)が資金難で存続の危機にある。助成してきた国の基金が解散し、行政の支援が停止しているためだ。元抑留者の平均年齢は90歳を超え、多くが他界。戦後約70年となる今も、十分に明かされていない抑留の実態をどう解明し、次世代に伝えていくかが問われている。
       
■ロシア側が謝罪
 抑留経験者らで組織する全抑協は平成元年に発足。慰霊祭のほか、抑留体験の聞き取りなど問題の風化を防ぐ活動を主導してぎた。だが、活動資金をまかなってきた総務省所管の「平和記念事業特別基金」の解散が22年に決まり、23年度から国の助成がなくなった。基金は今年4月1日に解散。残る資金を取り崩して活動するが、吉田一則事務局次長は13年後には資金が枯渇する」としている。
 埋葬地調査や遺骨収集事業は厚生労働省が行うが、慰霊祭は「政府として実施する予定はない」(総務省大臣官房総務課)としており、全抑協の活動の一部は中止に追い込まれそうだ。
 全抑協はソ連やロシアに、抑留について文書による公式謝罪と、強制労働に対する賃金補償を求めている。抑留は旧日本兵らの本国帰遼を求めたポツダム宣言の規定(第9条)に違反練るため、「補償はロシアが支払うべきだ」との立場からだ。エリツィン露大統礫(当時)は5年に訪日した際、この問題で謝罪。また日ソ共同宣言(昭和31年)では両国とも賠償請求権を放棄しており、「全抑協の要求の実現は困難だ」という意見もある。

■「補償に区切り」
 だが、個人の賠償請求権は放棄されておらず、全抑協会長の相沢英之元衆院議員(94)は「政府、自民党がこの問題を取り上げなくてはならない」と訴える。一方で、「全国抑留者補償協議会」は、元抑留者への給付金支払いなどを定めた「戦後強制抑留者特別措置法」(シベリア特措法、平成22年6月成立)で、日本政府による国家補償は実現したとし、23年5月に解散。同年4月、同協議会の関係者らはNGO「シベリア抑留者支援・記録センター」を設立した。補償協議会の元事務局長で、現在はセンター代表世話人の有光健氏(62)は補償問題はシベリア特措法で「区切りがついた」とし、「今後は抑留の実態解明への協力をロシアに強く求めていくべきではないか」としている。

■日本人抑留問題
 昭西20年8月、日ソ中立条約を破って対日参戦したソ連軍が日本降伏後、満州や樺太などから日本軍将兵や一般邦人ら約60万人を連行し、シベリアなど旧ソ連各地の収容所に抑留した。2〜11年にわたって森林伐採や鉄道敷設などの強制労働を課され、飢えや寒さ、重労働による衰弱で死亡した人数は約5万3千人(厚生労働省推計)にのぼる。ソ連崩壊後、抑留を指示したスターリンの指令文書が発見された。収容所では共産主義を礼賛させ、親ソ派に転向させるための洗脳教育が行われた。




「千島・南樺太は日本領」ソ連結成時作成の地図で明記

 ソ連内務省が1959年に作成したソ連誕生当時(22年)の領土を表す地図が見つかり、千島列島と南樺太は日本の領土と記されていた。ソ連は戦前から、日ソ基本条約で認めたポーツマス条約を事実上否認して南樺太、千島樺太交換条約で日本に帰属していた千島の返還を主張していたが、地図ではポーツマス条約の有効性を認めていたことになる。(編集委員 岡部伸)
 地図はオランダ大使などを務めた大鷹正氏が外務省ソ連課勤務だった60年、日ソ漁業交渉でモスクワを訪問した際に市内の書店で購入したもの。
 地図は、ソ連内務省測地・地図整備総局学術編集地図作製部が54年に原案を作成、59年に同局リガ地図製作所で1万部を製作、「世界の政治地図」として販売された。その一部「ソ連結成時の地図」は、ソビエト政権が誕生した22年当時の連邦を構成したロシアソビエト社会主義共和国をはじめとする各共和国の境界や、近隣諸国の国境線を描いている。
 反革命派のザバイカル政権が誕生し、日本などが出兵した極東シベリアは極東共和国で、領土はウラジオストクから北樺太までで、境界線を隔て南樺太と千島列島は日本とされている。
 一方、第二次大戦直前に侵攻して併合する係争地のフィンランドのカレリア地方は「カレリア労働コミューン」(20年6月8日)と書かれ、独ソ不可侵条約の秘密議定書で40年に併合するバルト三国とポーランドはソ連領と記されていない。
 ソ連は59年当時、参戦前のソ連結成時点では北方四島を明白に日本領と認めていたことがうかがえる。
 日本はソ連誕生から3年後の25年1月、北京でソ連を国家として承認、日ソ基本条約を締結。この際ソ連はシベリア出兵した日本軍の撤退を確実、迅速にするため、南樺太を割譲した日露戦争後のポーツマス条約の有効性を認めた。しかし、同時に条約については、「ソ連政府が政治的責任を帝政政府と分かち合うものではない」との声明も発表している。
 この声明通り、ソ連は40年に日本が不可侵条約を提案した際や41年4月の中立条約締結時などで、ポーツマス条約に拘束されず、南樺太と1875年の千島樺太交換条約で合法的に日本に帰属していた千島列島の返還を要求した。
 ソ連の千島、南樺太に対する執着が大戦末期のヤルタ密約につながり、中立条約を破った対日参戦で南樺太と千島列島を占領。北方領土問題は現在も続いている。
 プーチン政権は、北方領土領有の根拠を「大戦の結果」としているが、スターリンは日本が降伏文書に調印した1945年9月2日の演説で、「歴史に残した汚点を40年間取り除こうと待っていた。南樺太と千島が引き渡され、日本の侵略から防衛する基地となる」と語っている。(産経2014/11/03)
     
 【用語解説】ポーツマス条約
 明治38(1905)年9月、アメリカのポーツマスでセオドア・ルーズベルト米大統領の仲介により結んだ日露戦争の講和条約。樺太(サハリン)南半分の日本への割譲や、旅順・大連の租借権および長春以南の鉄道(南満州鉄道)と付属の利権(炭鉱の採掘権など)の譲渡、日本の朝鮮半島における権益の承認などを決めた。



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