従軍慰安婦」さらば河野談話








さらば河野談話:暴かれた杜撰調査
                    [正論 2013年12月号]より抜粋


 やはり虚構だった。平成5年、日本政府が行った韓国の元慰安婦16人への聞き取り調査の詳細な報告書について産経新開が10月16日付け朝刊でスクープした。調査がいかに杜撰なシロモノで億憑性に乏しいかが、明らかになつた。
 本誌でも報告書の全容を明らかにし検証したい。詳細は西岡力氏の論考に委ねるが、一点だけ調査について述べておきたい。それは政府の調査姿勢である。証言はどれも悲惨極まる話ばかりだが、焦点は日本軍による強制連行の有無の一点に絞られる。報告書には「軍慰安所」などあり得ない大阪、下関、台湾などに連れられた、といったおかしな証言や矛盾が随所にある。内容を転々と変遷させた証言も多いが、確認作業や裏付け調査が取られた形跡がない。産経新聞のインタビューに聞き取り調査の事務方のトップ、石原僧雄元内閣官房副長官も「真実を語れる人、というのが調査の前捷だった」と述べ、「その日本側の善意が裏切られたということになる。それに基づいて世界中に強制的に慰変婦にされたということが事実として広まっていくとなると、全く心外な話だ」と述べている。調査自体がそもそもはじめから「結論ありき」「謝罪ありき」の虚構だったということだ。
 河野談話とは、この調査をよりどころに平成5年8月、元慰安婦に「心からのおわびと反省の気持ち」を表明したものだ。宮沢喜一内閣の末期に河野洋平官房長官が発表した心慰安婦の募集に関し、強制連行の存在を示す政府資料が国内外で一切見つかっていないにもかかわらず、「官憲等が直接これに加担したこともあった」「募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」などと強制性を認定した。第一次安倍政権は2007年3月に「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行くという強制性、狭義の強制性を裏付ける証言はなかった」とし「政府が発見した資料の中には、軍や官恵によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」とする政府答弁書を閣議決定するなど、一定の軌道修正を図ったが、河野淡話はわが国の名誉や品位を落とすのに猛威を振るい続けている。
 日本の慰安婦は現在、「セックススレーブ=性奴隷」という不当極まりないレッテルを貼られて世界中に喧伝されている。例えば、国連の拷問禁止委員会は今年(2013年)、慰安婦を「日本軍の性奴隷」と書き日本政府に「関係者の処罰」を求める勧告を出している。2007年6月には、日系米国人、マイク・ホンダ民らによって提案された対日謝罪要求決議が米国下院で採択された。
 本号で大高未貴氏がレポートしているように米・グレンデール市では今年、ソウルの日本犬便館前に設置された「慰安婦の碑」と同じ少女像が設置された。背後にある韓国系米国人のロビー活動は全米で拡大中だ。
 河野談話はそうした日本を貶める活動の根拠として利用され続けてきた。大本の信憑性が乏しいとわかった以上、即刻破棄、もしくは撤回すべきことはいうまでもない。しかし、それだけで済ませてはならない。わが国がこれまで、どれだけのいわれなき対日非難を浴びてきたか。河野談話がわが国に何をもたらしたか。このさい、政府にチームを作ってしっかりと検証すべきである。

 ◇ ◇ 河野談話(外務大臣談話) 2019/07/19

  大韓民国による日韓請求権協定に基づく仲裁に応じる義務の不履行について

【教えて!ワタナベさん】「新河野談話」で日本が制裁宣言![桜R1/7/21]
 日本は法治を旨としているが、現在の韓国は違法状態にある。それで、「韓国が度重なる国際法違反の状態を是正することが必要であり,韓国に対し,そのための具体的な措置を直ちに講ずるよう,改めて強く求めます」とある。必要な措置については、下記が考えられる。
1.ホワイト国から排除された場合、現在の三品目から千品目に拡大される可能性がある。韓国が敵国になった場合、完全に日本からの輸出を止めることができる。
2.韓国に対するノービサでの入国、就労ビザを廃止できる。
 現在日本は韓国を安全な国としていますが、「韓国の日本大使館前で車炎上。車で突入し自殺図巣?車内からはガソリンのような液体が入った20リットルの容器二つと、ブタンガス入りとみられるボンベ20個余りが見つかっている(2019/7/19 日経新聞)」が発生し、危険な国と規定できます。この場合、日本人観光客が韓国へ渡航できなくなる。また、海外渡航警戒レベルがレベル4になった場合、邦人のすべてが退避することが決定されている。
3.現在の韓国の銀行は、日本による間接的な信用保証によって国際決済ができる状況(韓国の銀行が発行する「信用状」を日本が保証している)である。韓国への信用保障の打ち切り、送金停止が行われた場合、韓国は海外との輸出入ができなくなってしまい、通貨危機に陥ることでしょう。
… 下記、アンダーラインと強調については、管理者による。
  1. 日韓両国は,1965年の国交正常化の際に締結された日韓基本条約及びその関連協定の基礎の上に,緊密な友好協力関係を築いてきました。その中核である日韓請求権協定は,日本から韓国に対して,無償3億ドル,有償2億ドルの経済協力を約束する(第1条)とともに,両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産,権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題は「完全かつ最終的に解決」されており,いかなる主張もすることはできない(第2条)ことを定めており,これまでの日韓関係の基礎となってきました。
  2. それにもかかわらず,昨年一連の韓国大法院判決が,日本企業に対し,損害賠償の支払等を命じる判決を確定させました。これらの判決は,日韓請求権協定第2条に明らかに反し,日本企業に対し一層不当な不利益を負わせるものであるばかりか,1965年の国交正常化以来築いてきた日韓の友好協力関係の法的基盤を根本から覆すものであって,極めて遺憾であり,断じて受け入れることはできません
  3. 我が国は,国際社会における法の支配を長く重視してきています。国家は国内事情のいかんを問わず国際法に基づくコミットメントを守ることが重要であるとの強い信念の下,昨年の韓国大法院の判決並びに関連の判決及び手続により韓国が国際法違反の状態にあるとの問題を解決する最初の一歩として,本年1月9日に日韓請求権協定に基づく韓国政府との協議を要請しました
  4. しかしながら,韓国政府がこの協議の要請に応じず,また,韓国大法院判決の執行のための原告による日本企業の財産差押手続が進む中,何らの行動もとらなかったことから,5月20日に韓国政府に対し,日韓請求権協定第3条2に基づく仲裁付託を通告し,仲裁の手続を進めてきました。しかしながら,韓国政府が仲裁委員を任命する義務に加えて,締約国に代わって仲裁委員を指名する第三国を選定する義務についても,同協定に規定された期間内に履行せず,日韓請求権協定第3条の手続に従いませんでした
  5. このことにより,5月20日に付託した日韓請求権協定に基づく仲裁委員会を設置することができなかったことは,極めて遺憾です
  6. 昨年の一連の韓国大法院判決並びに関連の判決及び手続による日韓請求権協定違反に加え,今般,同協定上の紛争解決手続である仲裁に応じなかったことは,韓国によって更なる協定違反が行われたことを意味します。
  7. 日本政府としては,こうした状況を含め,韓国側によって引き起こされた厳しい日韓関係の現状に鑑み,韓国に対し,必要な措置を講じていく考えです。
  8. 本件の解決には,韓国が度重なる国際法違反の状態を是正することが必要であり,韓国に対し,そのための具体的な措置を直ちに講ずるよう,改めて強く求めます
[参考]「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」(1965年12月18日発効)
 第二条
  1.  両締約国は,両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産,権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が,千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて,完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。
  2. (中略)
  3.  2の規定に従うことを条件として,一方の締約国及びその国民の財産,権利及び利益であつてこの協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置並びに一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であつて同日以前に生じた事由に基づくものに関しては,いかなる主張もすることができないものとする。
 第三条
  1.  この協定の解釈及び実施に関する両締約国間の紛争は,まず,外交上の経路を通じて解決するものとする。
  2.  1の規定により解決することができなかつた紛争は,いずれか一方の締約国の政府が他方の締約国の政府から紛争の仲裁を要請する公文を受領した日から三十日の期間内に各締約国政府が任命する各一人の仲裁委員と,こうして選定された二人の仲裁委員が当該期間の後の三十日の期間内に合意する第三の仲裁委員又は当該期間内にその二人の仲裁委員が合意する第三国の政府が指名する第三の仲裁委員との三人の仲裁委員からなる仲裁委員会に決定のため付託するものとする。ただし,第三の仲裁委員は,両締約国のうちいずれかの国民であつてはならない。
  3.  いずれか一方の締約国の政府が当該期間内に仲裁委員を任命しなかつたとき,又は第三の仲裁委員若しくは第三国について当該期間内に合意されなかつたときは,仲裁委員会は,両締約国政府のそれぞれが三十日の期間内に選定する国の政府が指名する各一人の仲裁委員とそれらの政府が協議により決定する第三国の政府が指名する第三の仲裁委員をもつて構成されるものとする。
  4.  両締約国政府は,この条の規定に基づく仲裁委員会の決定に服するものとする。
 ■産経:徴用工問題「支払いは韓国政府」で合意 外務省、日韓協定交渉の資料公表
 外務省は2019/07/29日、いわゆる徴用工問題をめぐり、1965(昭和40)年に締結された日韓請求権協定の交渉過程で、韓国政府が日本側に示した「対日請求要綱」を公表した。要綱には元徴用工らへの補償請求が明記され、この要綱をすべて受け入れる形で計5億ドルの資金供与と請求権問題の「完全かつ最終的」な解決をうたった請求権協定が締結された
 対日請求要綱は8項目で構成され、その中に「被徴用韓人の未収金、補償金及びその他の請求権の弁済を請求する」と記載されている。要綱と併せて公表された交渉議事録によると、1981(昭和36)年5月の交渉で日本側代表が「個人に対して支払ってほしいということか」と尋ねると、韓国側は「国として請求して、国内での支払いは国内措置として必要な範囲でとる」と回答した。
 韓国側が政府への支払いを求めたことを受け、日本政府は韓国政府に無償で3億ドル、有償で2億ドルを供与し、請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決されたこと」を確認する請求権協定を締結した
 しかし、韓国最高裁は昨年、日本企業に元徴用工らへの損害賠償を命じた判決を確定させた。日本政府は「国際法違反」として韓国政府に早期の対応を求めている


◆河野内閣官房長官談話(平成5年8月4日)

 いわゆる従軍賓婦開港については、政府は、一昨年12月より調査を進めてきたが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。
 慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理および慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場含も、甘言、強圧によるなど、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、さらに、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになつた。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島はわが国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘青、強圧によるなど、稔じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深ぐ傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちをわが国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。


◆日本政府による韓国人慰安婦16人
         からの聞き取り調査にある証言

 以下に聞き取り調査報告書を掲載するが、全文のうち証言者のプライバシーと尊厳を考慮し、裁判や各種の調査で姓名が公表されていない証言者については姓のみ掲載した(敬称略)。証言に多数含まれている悲惨で生々しい性的な描写も一部を削除したり、簡潔にしたりした。文体は常体から敬体に改めた。証言中の(1)は慰安婦にさせられた経緯、(2)は慰安所で.の生活、(3)はその後の状況という順番となつている(本誌編集部)。


1.金○○

(1)近辺(全羅南道唐津郡)で、若い娘の供出が行われるとの噂が大きく流れていました。自分は年齢の割に成熟した体つきでしたのでおじ(幼少時に父を亡くしておじの家で世話になっていました)も心配し、「外出するな」と良く言われていました。
 18歳(数え年齢)の時でした。8月に巡査(襟の貴色い制服を来ていたのでそれとわかりました)が1人の朝鮮人男性(年のころ40代くらい。「サイさん」と呼ばれていました)を伴って象に入ってきました。巡査は「ここにこんなに美しい娘がいるではないか。1年だけ工場に働きに出すだけだから良いではないか」などといって連れ出そうとしました。おじは「この子は近々嫁に出すから駄目だ」などといって抵抗しましたが駄目で、結局両脇から腕を掴まれて連れて行かれました。その夜のうちに光州まで連れられ、翌日から更にソウル、仁川、プサンへと移動した後、船で大阪まで連れられました。それから1週間して、大きな船でラングーンまで連れて行かれました。更にラングーンから車で連れられたところが、「軍人慰安所」という看板のかかった建物でした。(巡査と「サイさん」は現地=ビルマ=まで同行していました)
(2)慰安所では「カナタニ・ミツコ」と名乗らされました。午後3時から5時まで、1日20名くらいの軍人の相手をさせられました。それまで男性経験もありませんでしたが、それでも薬を飲まされて無理やり性行為をさせられたりしました。死にたい気持ちになって、食事も食べる気になれなかったりすると、蹴られたりしました。爆撃の際には、軍隊と一緒に防空壕の中に入っていました。生理中だから2〜3日休ませて欲しいと言っても休ませて貰えませんでした。慰安所にいる問、金銭の授受は一切ありませんでした。
(3)ある日、慰安婦だけ集められ、より安全な所へ移送すると言われました。その際に機会を伺って「サイさん」と一緒に逃げ出しました。5カ月ほど、インド人がかくまってくれた後、ラングーンに赴き、そこで終戦を迎えました。英国軍の配慮で、バンコク経由で朝鮮半島に帰遺しました。
 現在は、ソウルのある学校数師の家の手伝いをして生活しています。


2.黄錦周

(1)15歳で養女に行きましたが、18歳のころから、村で娘の供出が行われているという話が広まりました。これを断ると、食糧の配給が止められ、共産主義者と見倣されたのです。19歳のとき、面(村)の班長から養親の家に、白い「令状」が来ました。内容は、20歳になる義姉を供出せよというものでした。期間は3年という話でした。
 面の斑長は、「天皇の命令である。必ず行かなければならない。命令に逆らえば、家族全員が反逆者である」と言い、供出を断ることは不可能な状況でした。義姉は、そのころ、日本の大学に行くことになっていたので、戸籍のない私が義姉のふりをして代わりに行くことになりました。私は工場に働きに行くのだと思っていました。母が令状に印を押し、私は面専務所に行きました。そこには20人くらいの娘が集められていました。
 他の娘と共に駅まで連れて行かれ、軍用列車に乗せられました。訓練兵も乗っていました。窓に黒い紙がはつてありましたが、その隙間からみると憲兵と面の職員が書類を交わしていました。軍用列車に乗せられ、吉林駅に着き、そこからトラックに乗せられて、ひどく寒い場所に連れて行かれました。軍人が絶えず逃げないように見張りをしていました。着いた次の日の朝、兵隊に一人ずつ呼び出され、私はある将校の寝室に連れて行かれました。将校は私に服を脱ぐように命じました。私は工場に行くものだと思っていたので抵抗し、工場に行かせてくれるよう頼みました。将校は「ここは子供を作る工場だ」と言い、抵抗する私を何度も殴りつけ、服を無理やりに脱がせ、下着をナイフで切り裂きました。私は驚いて倒れ気を失ってしまいました。気がついたときには、ベッドの下にいました。下着が破かれ、ひどく痛かった。毛布を身体に巻いて出て行くように言われ、それに従いました。それから、テントの中に宿所を決められ、そこで軍人たちの相手をさせられることになりました。
(2)板の上に毛布を敷いただけの一人がやっと居られるくらいの狭い場所で、軍人たちの相手をさせられました。命令に背いた者は死ぬと言われました。1年目は服、くつ、生理帯などを支給してくれましたが、2年、3年たつと、支給はなくなり、4年目の8月に解放になるまでこのような生活が続きました。
(3)ある朝起きてみると、突然兵隊たちが誰もいなくなりました。偶然戻ってきた一人の兵隊に、朝鮮は解放された、ここにいると中国人に殺されるから逃げろと言われました。金も靴も服もなく途方に暮れました。病気で起きられない人もいましたが、自分たちはいいから逃げてくれと言われたので、軍人の捨てていった左右違う靴をはいてとにかく逃げました。8月15日の夕方にそこを出て、何とか食いつないで歩き12月にソウルに着きました。
 今でも身体に無数の傷痕が残っています。子宮も摘出手術をしました。


3.青○○

(1)数えで17歳の時、娘の供出の噂が広まり、親から外出を禁じられました。父からは「お前は早く結婚しなければいけない」と言われていました。後から知ったことですが戸籍上は結婚させられていたのです。恐らく1940年か41年の秋の頃の夜、表で父が大声を出して騒ぎ、母も泣き叫んでいると思ったら、軍人が家に上がりこんで来ました。軍人は2人で、長い刀を下げていました。
 無理矢理引っ張っていかれ、待機していた幌付きの大きな車に乗せられました。その夜のうちに約30名の娘が集められ、同乗きせられました。一晩中その車に乗った後、埠頭に着きました(恐らくプサンであっただろうと思います)。そこから船に乗せられ長崎まで連れられ、日本語の補習や、軍人への接し方のような授業まがいのものを受けさせられた後、熊本まで連れてこられました。非常に大きな家の中に入れられました。一緒に連れてこられた娘と合わせて全部で30名くらいが、別々に1人1部屋ずつ畳の部屋に入れられました。
(2)家の主人(中村という名前)が始終廊下で見張っており、トイレに行く時のほかはほとんど部屋から外に出られませんでした。恐怖におののいた時など、その場から逃げだそうとすると、殴る蹴るの暴行をどれほど受けたことか分かりませんでした。気絶すれば水をかけられたり、焼きごて(インドウル)を背中に当てられたりもしました。その傷は今でも残っています。
 軍人たちは次から次へと入ってきて行為をしました。1日平均して5人くらいの軍人の相手をさせられました。体が痛く、つらい思いで部屋にうずくまっている時にも、かまわず入ってきて行為をさせられました。
 そこからは移動せず、結局5年間いました。その間に妊娠してしまい、2人子供を生みましたが、いずれも「そんな子供は欲しくない」と思い、臍の緒も食いちぎるようにして放置していると、家の奥さんが自分で育てるといって連れていきました。
(3)ある時爆撃らしきものがあり、周囲に誰もいなくなっているので、必死になって逃げました。銃撃を受けた民家に残った食料を食べるなどして何日かを過ごし、港のある所まで来て、韓国人男性の運転する貨物船に乗せてもらい、帰還しました。


4.李貴粉

(1)12歳のとき、日曜日に家の近所で縄跳びをしていたところ、刀を待った巡査と韓国人通訳がやってきて、「お父さんが探している」と言われたのでついていきました。列車に乗り、ウルサンの「チョウミョンギル下宿屋」に閉じ込められました。その後、商船に乗り下関に着きました。田舎の倉庫のようなところに連れていかれ、日本語や歌を習いました。15日後に台湾に行きました。台湾に到着後、貨物車に乗せられて、「娼家」に連れて行かれました。そこで掃除等を行っていましたが、怖くなり2か月後に脱走し、「藤本」という巡査の家で5年間家政婦として働くことになりました。しかし、その後米軍の爆撃が激しくなりました。「藤本」の家族は帰国しましたが、自分はある朝、伍長と二等兵が乗るトラックに乗せられ、山の慰安所で働かされることとなりました。そこで11か月を過ごしましたが、その後高雄の特攻隊部署の慰安所で働くことになりました。
(2)昼間から一等兵が列をなして並んでいました。お金は支給されませんでした。
(3)終戦後、高雄の海岸にいたところ、米軍の服を着た朝鮮人に助けられ、大極旗(?)を掲げた船で韓国に帰還しました。


5.白○?

(1)15歳のとき、日本で産婆をしている親戚のところに行き産婆の手伝いをしていました。16歳の秋、外で用事をしているとき、洋服姿の男二人がちょつと来いと手招きをしてきました。行ってみると、そばに黒いジープが停まっており、それに乗れと言いました。自分は乗らないと断ったのですが乗せられました。その後、他の4、5人の娘と一緒に汽車と船を乗り継いで、台湾に連れて行かれました。ずっと見張りがいて逃げられない状況でした。トイレに行くときも外に監視がいました。台湾に着くと、日本人の夫と平壌出身の妻の夫婦に引き渡されました。そこには先に15人くらいの娘が来ていました。自分にあてがわれた部屋は、たたみ1枚を敷いたくらいの広さで、ふとん1組と枕2つ以外何もありませんでした。それが、普通の売春宿であったのかどうかわかりません。
 部屋にいると、位の高い軍人が来ました。私はそのようなことをするのは初めてだし、嫌だったので抵抗しました。すると、店の主人がやって来て灰皿でひどく殴られました。今でも頚に傷が残っています。
(2)自分は小柄で処女だったのでなかなか客を受け入れられませんでした。逃げようとすると殴られました。下半身は傷だらけで腫れが固まり痛みましたが、毎日客をとらされました。反抗すると主人に殴られました。昼は兵隊、夜は将校が客としてきていました。
 軍人は帳場に金を払っていましたが、自分はもらえませんでした。主人に言われて、週に1回くらい病院に行き、性病の検査を受けました。
 昭和17年ころ、船でマニラに連れていかれました。港に着くと、軍の車が停まっており、20人位の女性と共にそれに乗せられました。台湾から自分らを連れてきた日本人は帰ってしまいました。着いた日の晩から客をとらされました。多いときは昼だけで35人の客をとったこともあります。その後、部隊に付いていろいろな場所に行かされました。爆撃がひどくなり、山の中で戦傷者の看護もしました。死んだ軍人を運び、埋めるのを手伝ったりもしました。まさに日本人の軍人と苦労を共にしました。
(3)8月15日の解放後、マニラで捕虜収容所に入れられ、3か月後軍艦で韓国に帰されました。お金はまったく持っていませんでした。


6.呂

(1)数え年18歳の時(1938年)、9月ころ、父が病床に伏していたのを看病していた時(母は既に7歳のとき死亡していました)、巡査1名と軍人7〜8名が家に入ってきて無理矢理連れ去られ、汽車で羅州(ナジユ)経由で天津まで連れてこられました。さらに車で奥地の方へ向かい、城砦のような所までいきました。田舎で土地の名前すら教えられませんでした。元中国人の家のような所に入れられました。
(2)午前10時から午後4時30分まで、1日30名くらいの軍人の相手をさせられました。夜は、位の高い軍人がやってきていました。爆撃を受けて足に傷を受け、歩行が不自由になったりした時でも続けて軍人の相手をさせられました。殴られて右目を怪我したりしました。
 避妊具は隊長が保管・管理していたようでしたが、貴重品でした。避妊具を着けない軍人もおり、自分は当時から性病の恐ろしさを知っていたので着用を強く求めましたが、着用を嫌がる軍人から殴られたり切りつけられたりしました。部隊の軍医による身体検査が週に1回ありました。
 合計2年間と少しの問そこにおりました。
(3)中国語と朝鮮語の双方に堪能な通訳がおり、その人の斡旋で、ある時汽車で平壌まで逃げました。平壌出身の女性の家でしばらく世話になった後、終戦を迎え、夜北緯38度線を越えて韓国まで帰遺しました。現在も1人暮らし、足が痛むなどとても辛い生活を続けています。


7.カン○○

(1)「配給を得るために娘を出せ」という話が里長よりなされ、自分が配給をもらいに行きました。その3日後、肩のところに3つの星をつけ、赤い腕章を巻いた日本の軍人が、自分の腕を掴み、連行しました。列車に乗り、釜山到着後、テードン旅館に入れられ、訓練を受けました。そこでは、警察署長のような怖い人が見回りをしており、周りは軍人が監視しておりました。20日後、船に乗り下関に行き、広島に一時滞在した後、軍の責任者と共に船で南方に向かいました。爆撃を受け、船が沈没したが、他の船に救助されてパラオにつきました。3日後、「ホラップ部隊」に連行され、番号のついた小屋で働かされました。
(2)1日に20人から30人の相手をさせられました。「やれない」と言うと、軍人に銃剣で殴られ、背中を刀の部分で切られました。
(3)終戦後に米軍がやってきた後、船に乗って韓国に帰りました。


8.金学順

(1)生後すぐ父を失い、養父について平壌で暮らしていました。数えで14歳の時からキーセン学校に通っていました。これは飲食店ではなく公的な場所で芸を行うことを教える学校で、舞踊、楽器、歌などを覚えました。17歳で卒業しましたが、19歳以下は労働許可が下りませんでした
 数えで17歳の時(1941年春ころ)、少女供出の噂が広まり、養父ともう1人の養女とともに満州方面に逃げました。3日間ほど汽車に乗って北京に着きました。北京で下車し、食堂のようなところで食事を終えて出ると、いきなり軍人が控えており、「朝鮮人か?」などと問われました。怖くて何も答えられずにいると、肩に星を2つ付けた将校風の軍人に連れていかれました。
(2)元中国人の家のような所に入れられて、強姦されました。抵抗すると耳を殴られたり、手を切りつけたりされました。「アイコ」と呼ばれて軍人の相手をさせられるようになりましたが、他にも「シズエ」、「サダコ」、などと呼ばれていた朝鮮人慰安婦がいました。
 2か月ほどして部隊は移動し、自分たちもー緒に移動しました。地名は定かではありませんでしたが、軍人たちはみな「鉄壁鎮」と呼んでいました。県名は「カッカ県」というような名前だったと思います。
 軍人たちは夜になると「討伐だ」とか言って出かけて行きました。昼間から酒を持ち込み、自分たちを膝の上に乗せて騒いだりもしました。結局、合計4か月間ほど、慰安婦とされていたことになります。
(3)ある時、たまたま中国じゅうで商売をしているという朝鮮人の男が入ってきて、事情を話すと、見張りを避けて脱出させてくれました。中国国内を逃げに逃げ、北京、南京等各地を着の身着のままで移動しました。そのまま夫婦同然となり、自分が19歳の時、子供が生まれ、一カ所に定住しなければならなくなつたので、上海に行き、フランス租界の中国人の家を借り質屋を開業しました。そこに終戦まで滞在し、引き揚げ船で帰還しました。


9.石○○

(1)1939年、19歳のとき、班長が来て、「明日7時に若い女性を集めなければならない」との命令が下り、翌日、詰め襟服、帽子をかぶり、剣を肩に付けていた軍人の運転するトラックで駅に連れて行かれました。
 そこで、階章がない服を着た日本人軍属の「ツキモリ」という男に引き渡され、列車に乗りました。南京を経由し船で浜口に到着し、トラックで2時間走った後、谷間にある慰安所に到着し働かされました。この慰安所は部隊にありましたが、その後部隊が移動した際、女性は置いていかれたので、「ショウジュク館」という民間の慰安所に入りました。41年にヴイエトナムに移り、ハイフォン、ハノイの慰安所で働いていました。
(2)慰安所は「出るに出られぬ龍の鳥」でした。部隊の慰安所では無料奉仕でしたが、「ショウジュク館」とヴィエトナムでは6対4の割合で報酬を貰いました。「ショウジュク館」では、言うことを開かなければ殴られたりバケツを持って立たされたりしました。
(3)終戦後、30名ほどの慰安婦と共にハイフォンからプサンに帰還しました。


10.尹○○

(1)自分の家は名家で、祖父は国を奪われてはいけないということで家でハングルを教えていました。1941年3月17日の昼頃、突然、韓国人と軍人が家に入ってきて、祖父を後ろ手に縛り、抱えて連れて行きました。理由は独立運動をしたということでした。私は怖くて部屋の隅で泣いていましたが、腕を捕まえられて門の前に停めてあったトラックに乗せられました。
 そこには軍人がたくさん来ていました。逃げようとしたら足をひどく殴られて逃げることができませんでした。トラックには多くの娘が乗せられ、端に軍人らが座っていました。それから汽車に乗せられて釜山に行き、私を含む33人の娘が倉庫に入れられました。1週間、食事はもらえませんでした。それから船で下関に行き、紡績工場で働かされました。給料は家に帰るときにやるということで、もらえませんでした。
 2年くらいたったある日の昼前ころ、「出てこい」と言われて出ていくと、綺麗な娘ばかり17名が集められ、身体検査を受けさせられたあと大阪に連れて行かれました。3、4日後、4階建ての建物のある部屋に連れていかれました。そこで、韓国語を話す青年に無理やり関係を持たされました。私は必死で抵抗しましたが、抱きすくめられて無理やり関係を持たされました。それから、軍人相手の慰安婦にさせられました。
(2)ドアの外に待合室がありましたが、多いときはその外の廊下にまで客が並び順番待ちをしていました。下腹部が腫れるような時でも相手をさせられました。
 大阪に1年半くらい居た後、下関に連れていかれ、そこでまた軍人たちの相手をさせられました。下関での生括は大阪よりずっとひどく、軍人も不潔で食べ物も粗末でした。ある日、客として来た大男を断ったところ、私の腕を強く後ろにねじ上げ、肘の骨を折りました。骨が折れる音がして私は気を失いました。そうなっても誰も食事を持ってきてくれるわけでも薬をくれるわけでもありませんでした。韓国人の軍人のおかげで病院に連れて行って見てもらつたところ、腕を切るように言われました。私は腕を切るのは嫌だと言って切らずに済みましたが、今でも脱が曲がらずにいます。
(3)戦争の終わる少し前に、精神病患者が大勢いる収容所に連れていかれ、そこで解放を迎えました。9月に収容所を出ましたがお金がありませんでした。6月になってようやく韓国に帰れました。
 家に戻ってみると、家は潰され、財産は全で持ち去られていました。父は炭鉱に連れていかれ死んだと開きました。父の兄弟も満州に連れていかれたきり、行方不明です。身寄りはまったくありませんでした。その後、野良犬か乞食のように生きてきました。3年前くらいからは、「冠岳庵」でごはんをもらって生活しています。


11.金○○

(1)18歳の頃、町内役場の職員が日本人とともに「日本で働けば金が貰える。また徴用中の兄にも会える」との誘いがあり、断ると怖いのでついて行きました。ソウルで汽車に乗り、プサンから下関に渡りました(朝鮮人の役場職員はプサンまで同行しました)。下関到着後、2人の一男に連れられ、ある家に着きました。その夜、軍、服(星が1つついていた)と長い刀が掛かった部屋で、家の主人に強姦されました。その後、「朝鮮へ帰りたい」と訴えていると、数日してからその家の息子に汽車に乗せられ、大阪に連れられました。そこで軍服を着た軍人と思われる人にジープで連行され、倉庫のような建物に連れられました。そこが慰安所でした。
(2)1日に何人もの相手を強要され、抵抗すれば殴られました。慰安所には20〜25名の女性がいましたが、韓国語を使うことは許されず、また外への戸扉には鍵が掛かっていました。
(3)慰安所に来た将校に助けられ、車に乗り、途中の経過は全く記憶にありませんが、とにかくソウル駅に着き、両親の家に戻りました。終戦前のことです。


12.朴福順

(1)15歳の時から、宣教師の家に一人で養女のようにして育てられていました。16歳の時、工場等の働きに行く場所もなく、他の若い朝鮮人もそうしていたように、日本人の家で家事の手伝いをしていました。そこは日本人軍属の家でした。ある時中国方面に働きに行くと言われて、他の娘さん4人と共に汽車でソウルまで行きました。ソウルでは他から来た女性も合流して計220名ほどになり、「ひかり」という名の中国行きの列車で出発しました。天津で降り、更に軍用車で「ペダン」という所まで連れて行かれると、総計50名くらいの女性が集められていました。女性は10名くらいずつのグループに分けられ、それぞれの場所へ赴いていきました。自分は「ナツメキョウ」という所に連れていかれました。翌朝、軍人が「今日からは軍隊の言うとおりにしろ。さもなくば両親のもとにも帰れなくなるぞ」と言われて、天幕を張った個室に皆入れられました。
(2)慰安所では「カネダ・キミコ」と呼ばれていました。夜、軍人は何人も外に並んで順番を待っていました。抵抗すると刀で胸に傷をつけられたりしました。衛生室に行き、傷口を縫って薬を塗り、「ロクロク」と呼ばれる注射をされたりしました。衛生室、慰安所、部隊本隊はそれぞれ幾分離れた所にありました。衛生室では「サエキ軍曹」という人が最高責任者のようでした。
 怖くて別の場所を希望すると、「ソッカザン」という所に移されましたが、そこでもまた「言うことを聞かないと殺す」と脅かされ、ひどい仕打ちを受けました。「ソッカザン」には都合2年間いましたが、部隊が移動する際に、希望して再び「ナツメキョウ」に移動しました。
 その後、部隊はいくつかの小隊に分かれたりして小移動を繰り返し、慰安婦たちも数人ずつに分かれて移動しました。「ユダマル」という地名の田舎にもいたことがありました。結局7年間、東西南北いろいろな所に移動しました。
 通常は1日15〜20名の軍人相手をさせられました。すぐ近くに中国軍がいたようで、軍人が沢山死ぬのを目撃しました。慰安婦たちも、一緒に防空壕に入り、中で餓死したり、ガス中毒死させられる者もいました。そんな中で、時には軍人の看護をせざるを得ない時もありました。
(3)上海にいた時、ある朝鮮人の憲兵隊長と親しくなり、内密にいろいろ便宜を図ってくれて、韓国に帰還することができました。


13.陳○○

(1)14歳のとき、近所の人の紹介で馬山にある軍人の日本人の家で家政婦として働くようになりました。15歳のとき、そこの主人に、友人の軍人についていきなさい、ついていけばいいことがあるよと言われ、ついて行きました。釜山から船で下関に行き、そこから他の韓国人の娘5人、日本人の娘6、7人と一緒に「きよ丸」という船で台湾に行きました。
 台湾に着くと、岡山航空隊に連れていかれました。一航空隊から15分か20分くらい歩いた山の中の洞窟の中に、「新町」と呼ばれる、布で25個くらいの部屋に仕切った場所がありました。
 昼間は看護婦として働いていましたが、1週間くらいした日の夜、そこで初めて客をとらされました。28−29歳くらいの位の高い軍人で名前も覚えています。彼はその後、私の恋人となり、何度も来てくれたが死んでしまいました。慰安婦という意識はありませんでした。幼かつたし、やれと言われたのでやりました。
(2)1年半くらいは、昼は看護婦、夜に呼ばれたときは軍人の相手をするという生活でしたが、その後、新町で慰安婦だけをするようになりました。数年後、陸軍のトラックに乗せられて、「きなり山」というところで慰安婦の生活をさせられました。ここの陸軍の人たちは、航空隊の海軍の人たちと違って優しくなく、刀を抜いて脅されたこともありました。食糧も乏しく、マラリア等の病気も広がり、多くの人が死にました。
(3)解放の翌年の46年、国連が送ってきた船に乗って韓国に帰りました。


14.文○○

(1)17歳の時、ソウルの百貨店で働いていましたが、夜帰宅して食事をしている時、軍人1人と巡査1人(家の近くの顔見知り)が侵入してきて連れられました。ソウル駅から合計100名ほどの女性とともに汽車で、ハルビン経由南京まで連れていかれました。南京から更に船に乗って1時間ほど行きま七た。そこは南京のはずれの方だが、一応市内であるとのことでした。大きな元中国人の家風の建物に入れられました。
(2)玄関には「モリモト」という名前の軍人(軍服に星はなく、おそらく兵卒と思われます)が坐って見張りのようなことをしていました。回廊のようになっている所に部屋が並んでいて慰安婦が1人1人入り、軍人は中庭のような所で列を作って順番を待っていました。一緒にいた女性は100人ほどいましたが、彼女らが全て入つてもまだ部屋が余るほどの大きな建物でした。
 土曜日、日曜日には多くの軍人が来ました。平日は将校が来ていました。軍人は靴も脱がずに入ってきて、いきなり性行為におよびました。遊妊具は使用しましたが、すぐ破れたりしました。性病を患うこともありました。606号という薬を投与されて一応は治りましたがまだ膿が出たりします。「ヨコネ」というリンパ腺の病気にも罹りました。
 3年半、移動せずそこの慰安所にいました。慰安所では1銭も貰っておりません。
(3)慰安所にいた時、そのまま終戦を迎え、「テゴ」という場所から、船で黄海道(北朝鮮)まで行きました。このころ既に北にいる韓国人は速やかに南に帰るようにとの動きがあり、ソウルまで列車で帰還しました。


15.盧清子

(1)1938年、17歳の時、畑仕事をしていると、「若い娘を捜している者がいるので早く逃げろ」との母の言葉に従い逃げようとしました。しかし8〜9人の軍人に掴まり、4日間トラックに乗せられた後(4台のトラック。1台当たり30名くらいの娘が乗っていました)、列車に乗せられ、「テオン」に着きました。軍人の乗ったトラック1台とともに、娘たちはトラック2台に分乗させられ、「オデサン」に連れられました。到着後、慰安所に入れられました。
 3年目に朝鮮人商人とともに天津に逃げようとしましたが掴まり、吉林に連行され、「ヨシムラ大尉」の相手をしました。
(2)朝は弾を拾い、昼は洗濯、午後は将校の靴みがき、夕食後は前線から戻った兵士の相手(10〜20人、多い時は50入)をさせられました。外出には許可が必要でした。慰安所では軍人に抵抗すると殴られ、ひどい時には殺される者もいました。
(3)25歳の時に逃げだして韓国に戻りました。


16.李○○

(1)14歳の時、「工場に就職させてやる」と近所の日本人に誘われ、20人程の女性と一緒に船で連れていかれました。翌日、どこかで更に大きな船に乗せられ、どこかへ連れていかれました。
(2)船から降りると、徒歩で林を抜けて椰子の木の皮で作られた家に連れていかれました。(場所は南洋方面のようでした。)夕方になり、軍人がやってきました。自分は年が若かったので、真っ先に相手をさせられました。軍人は入口のところで金を払っていたようです。
 抵抗すると、噛まれて胸に5〜6センチの傷が出来たり、刀で足に傷をつけられたりしました。主人は給料をくれず、新しい服を買っては天引きのようなことをしていました。戦争が激化し、食料が不足する中、部隊と共に逃げ回りました。死体が沢山転がっている中の移動で、思い出すだに恐ろしいです。そんな状況で終戦を迎えましたが、ガラス瓶の破片で自殺する日本軍人もいました。
 場所については、後で知ったことですが、サイパン、パラオ等を移動していたようです。合計11年間も慰安所生活をしていたことになります。
(3)米軍に救助され、終戦後の12月米軍の船でプサンまで帰還しました。今でも居候生活を続けています。毎日鎮痛剤を飲んでいます。



◆矛盾だらけのお粗末調査

 日本政府が1993年に行った「元慰安婦」16人に対する聞き取り調査記録(報告書)が初めて明らかになった。ここに示された全容は、表現は改められているものの、私が見た報告書全文と同一である。その中に40円でキーセンに売られたと最初の記者会見で話した女性が含まれていた。1人が熊本、1人が大阪と下関、1人が大阪、3人が台湾の慰安所で働かされたと証言している。
 そもそも「軍慰安所」は戦地で軍が業者に作らせたものであれ、合法的な公娼街があった日本国内や台湾には存在しなかった。その点に関する追及を日本政府側は全くしていない。結果として、約半数の7人は強制連行の被害者ではなく、貧困により身売りされた被害者だとすぐ分かる。当時、この事実だけでも公開されていたら、慰安婦証言の償憑性に大きな疑問がかけられ、強制性を認める河野談話は出せなかったかもしれない。


1.自国の名誉を守る意識なき調査

  後で詳しく見るとおり、それ以外にもおかしなことだらけで、16人の中に誰一人権力による強制連行を証明できる者はいなかった。予想はしていたがそれにしてもあまりにずさんな調査の実態を日にして、強い怒りがわいてきた。
 調査を実施した公務員たちには、自国の先人たちの名誉を守るという意識が全くなく、なすべき最低限の事前準備とそれにもとづく確認作業をしていない。政府はプライバシー保護のため調査を非公開にしたと言ってきたが、本当はずさんさが明らかになることをおそれて公開できなかったのではないか。
 私は1991年からこの問題に問わり、「公権力による強制連行はなかった。慰安婦たちは公娼制度があった時代の貧困による被害者だ」という論陣を張り続けてきた。特に米国などの学者、ジャーナリストと議論するとき、もし西岡の言うことが正しいならなぜ、日本政府は河野談話を出して謝ったのかと何回も言われた。その河野談話でわが国政府が、慰安婦連行の「強制性」を認めた根拠がこの聞き取り調査だった。
 1997年3月12日の参議院予算委員会で平林博・外政審議室長(当時)が(政府の発見した資料の中には強制連行を直接示す記述は見当たらなかったが、各種の証言集における記述、韓国における証言聴取、その他種々総合的にやった調査の結果に基づきまして全体として判断した結果、一定の強制性を認めた上であのような文言になった)と答弁しているとおりだ。


2.裏付け調査ゼロのインチキ

 この調査で我が国の名誉は大きく傷つけられたのだが、中身は非公開とされていた。ついにそれが明らかになった。安倍政権は政府として公式にこの記録を公開するとともに、河野談話にかわる新たな官房長官談話を出すとともに、「慰安婦=セックススレーブ」という事実無根のデマ宣伝を払拭するため政府として担当部署を造り本格的に対策を打ち出すべきだ。拉致問題と同程度の規模で、日本国の名誉を守る担当大臣と専従事務局をおくことが必要だという私の持論をここでも繰り返し強調しておく。
 まず、聞き取り調査が行われていた状況を振り返っておく。
 調査は1993年7月26日から30日の5日間、ソウルの太平洋戦争犠牲者遺族会(以下、遺族会)の事務所で行われた。調査に応じたのは16人の「元慰安婦」だった。遺族会は、日本政府を相手に慰安婦や徴用者らへの戦後補償を求める裁判を起こしていた。同会の梁順任代表は朝日新聞植村隆記者の義理の母である。植村記者は、40円でキーセンに売られたと最初の会見で話していた元慰安婦金学順氏を「女子挺身隊として連行された」と大誤報して慰安婦騒動に火を点けた張本人だ。その金学順が16人に含まれていることが今回確認された
 聞き取り調査には遺族会の希望で、野中邦子、福島瑞穂、両弁護士と梁順佳代表が同席した。福島氏によると調査は、日本政府側の謝罪から始まり次のように進んだという。
 一日三、四人が約三時間ずつ話している。政府側は「日本は、やってはいけないことをした。真相究明のために来ました」「つらい話を聞かせていただき、ありがとうございました」「日本政府として、誠実に対応したいと思います」などと、聞き取りの始めと終わりに必ず謝罪の気持ちを表し、誠実な対応を約束しているという。聞き取りでは、証言者が自由に一生懸命に話し、最後に日本側が連れていかれた様子を中心に聞き返す)(朝日93年7月29日)
 日本政府に裁判を起こしている相手に対して、まず謝罪して聞き取りをするというのだから、事実関係を真摯に明らかにしようという姿勢はみられない。また、こちらから疑問点を質問するのでなく、彼女らに自由に話させてそれを聞くという形だから、これは「調査」ではなくただ訴えを聞かされただけだと言える。
 最後に焦点である「連れて行かれた様子」を聞いたというが、それもただ聞いたというだけで、根拠や証拠を問いただしたり、矛盾点を指摘するという最低限のことをしていない。そもそも、通訳を入れて1人3時間だから、聞き取りそのものは1時問半未満ということであり、おざなりというほかない。
 その上、平林外政審議長が「個々の証言を裏づける調査は行っておりません。それの証言を得た上で個々の基づけ調査をしたということはございません。」(97年3月12日参議院予算委員会)と認めている通り、裏付け調査を一切行っていない。


3.見落とせない韓国「遺族会 VS 挺体協」の構図

 当時の状況で見落とせないのは、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が調査に応じた元慰安婦らを非難していたことだ。調査が始まった26日、挺対協は聞き取りを拒否した23人の「元慰安婦」と記者会見して「自分たちが犯した罪をわい小化し、隠そうとする形式的行為にすぎない」とする共同声明を発表して聞き取り調査に反対した。
 つまり、当時、釣40人の元慰安婦が運動に参加していたが、そのうち、日本政府の調査に協力したのが遺族会系の16人、それを拒否したのが挺対協系の23人だった。この二つの対立は、日本政府がアジア女性基金を造り「償い金」を配ろうとしたとき、受け取ろうとした元慰安婦が挺対協から「日本の金を受け取ったら売春婦になる」と激しく非難されたことにつながっていく。
 この調査が行われた時点で、当時運動に参加していた約40人に対して韓国の学者らによる学術的な聞き取り調査が行われていた。安乗直・ソウル大学教授(当時)をリーダーとする挺身隊研究会による調査だ。(以下安乗直調査とする)同研究会は安乗直教授と挺対協の運動家らで構成されていた。
 なお安乗直教授は最初の聞き取り調査終了後、研究会を離れた。安乗直教授は「挺対協の目的が、慰安婦問題の本質を把握し、今日の慰安婦現象の防止につなげることにあるのではなく、単に日本と争うことにあると悟ったからだ」(2006年12月6日韓国MBCテレビ)と研究会を離れた理由を説明している。
 同研究会は92年6月から約半年かけて、四十数人の「元慰安婦」に対して1回数時間の面接調査を5〜6回以上行い、かつ証言を裏付ける記録資料を探したという。安乗直教授によると「証言者が意図的に事実を歪曲していると思われるケース」に出会い、調査を中断したこともあったという。
 その結果、半分以下の19人についての証言集が93年2月に韓国で発表された。証言集発刊直後、韓国外交部の日本課長が訪韓した日本政府関係者に「これに全部出ています」と言って証言集を渡したという。日本語訳は93年12月に発刊されたから聞き取り調査の時点には間に合わなかったが、当然、政府は内部で翻訳をしていたはずだ。私でさえすぐそれを人手し熟読していた。
 また、日本政府を相手に戦後補償を求める裁判を起こしていた「元慰安婦」9人は訴状に詳しく自身の経歴を書いていた。だから、日本政府はこの2種類の資料を聞き取り調査の前に精読し、それを前据に質問をすべきだった。しかし、その最低限のことさえなされていなかった。そのことが、今回暴された。


4.16人の証言はすべて信憑性に乏しい

 表を見て欲しい。日本政府間き取りの16人のうち、安乗直調査と重なるのが1金○○、2黄錦周、4李貴粉、8金学順の4人だ。その4人全員が慰安婦にさせられた経緯について、安乗直調査とは異なることを話している。しかし、日本政府側はその点についての確認作業を一切していない。
 前述のように安乗直訴査は四十数人の中から最終的に19人の証言だけが選ばれた。19人は複数回の聞き取りと裏付け調査を経で「意図的に事実を歪曲していると思われるケース」などを除外した残りである。一方、当時、名乗り出て連動に加わっていた「元慰安婦」は四十数人で、安乗直調査が最初に対象にした人数と一致している。
 したがって、政府間き取りの16人のうち残り12人は安乗直調査で除外された側だったとほぼ言える。裏付け調査の過程で「意図的に事実を歪曲していると思われるケース」などとして除外された側と言うことだ。それであれば余計、政府調査において裏付け調査が必要だった。しかし、繰り返し述べるが、それは全くなされていない。本当にずさんきわまりないというほかない。
 個別の証言を検討する前に結論的に整理すると、16人の内、12人については安乗直調査で信憑性が疑われて除外されたケースが全部かほとんどなのに、裏付け調査が全くなされていない。残りの4人は安乗直調査で裏付け調査を経て最後まで残ったケースだが、その証言が4人とも安乗直調査と重大な相違があり信憑性に欠ける。つまり、この16人の聞き取り調査は全て信憑性に欠けると言わざるを得ない。それをもとに出された河野談話の信憑性も根底からくつがえるのだ
 裁判原告と重なっているのが、1金○○、4李貴粉、8金学順、12朴福順、15盧清子の5人だ。このうち1金○○、4李貴粉、8金学順の3人は慰安婦にさせられた経緯について訴状と異なる話をしている。それなのに、訴えられていた立場の政府が、調査で確認作業を全くしていない。この点も許しがたい怠慢だ。
 その上、16人の内6人、3吉〇〇・熊本、4李貴粉・台湾、5白○?・台湾、10尹〇〇・大阪と下関、11金○〇・大阪、13陳〇・台湾が、日本国内と台湾の慰安所で働かされたと証言していて、軍慰安所ではなく公娼街だった疑いが強いことは本稿冒頭で紹介した通りだ。

 


5.ころころと変わる証言内容

 以上、概観しただけでも聞き取り調査がいかにずさんだったかがよく分かる。次に16人の証言を順に少し詳しく見ていこう。
 1金○○は安乗直調査で採用されており、かつ原告の1人でもある。ただし、慰安婦にさせられた経緯について安乗直調査および訴状の内容と大きく異なつている。
 巡査と朝鮮人男性が工場に働きに出すと言って連行したとされているが、安乗直調査では<国民服(あるいは軍服)を着た三十代の日本人1人と背広を着た四十代の朝鮮人1人が…「日本に行って1年間だけ工場で働けば、たんまり金を稼ぐことができるから、行こう」と言いました。そのまま私は両腕をつかまれて二人に連れて行かれました>とされている。
 訴状では「自宅から憲兵が工場に連れて行くと連行」とされている。巡査が連行に加担したのであれば権力による強制連行になるが、仮に「国民服を着た日本人」が騙して連れて行ったのであればその証拠にはならない。
 安乗直調査によれば、彼女は12歳の時両親が離婚して叔父の家に引き取られていたという。貧困による人身売買の可能性もありうる。なお、全羅南道には聞き取りにある「唐津都」は存在しない。ここでも調査のずさんさが分る。
 2黄錦周は安乗直調査で採用されているが原告には入っていない。やはり、慰安婦にされた経緯が異なつている。
 面の班長から義姉にきた供出「令状」により、身代わりとして工場労働と思って応募したことになつているが、安乗直調査では<(日本人班長)の夫人が村を歩き回つて「日本の軍需工場に三年の契約で仕事をしに行けばお金が儲かる、一家で少なくとも一人は行かなければならない」と暗に脅迫しました。…養母が困っているのを見て、私は自分が行くと告げました>とされ、強制力のある「令状」のことは触れられていない。
 また、彼女は養女となるとき、尊父母に二〇〇円の借金をしたとされているので、貧困のため下女として親に売られ、その後、転売された可能性もありうる。
 3吉○○は安乗直調査で不採用、原告にも入っていない。彼女は熊本の慰安所で働かされたと証言しているが、熊本に本当に軍慰安所があったのかどうかについて追及はなされていない。
 4李貴粉は安乗直調査で採用され、原告にもなつている。なお、安乗直訴査では「挙玉粉」という名前になつている。彼女の話も、政府調査と安乗直氏らの調査、訴状との間で大きな遠いがある。
 刀を持った巡査に連行されて下関から台湾に行ったとされているが、安乗直氏調査では「日本人1人とその手先らしい朝鮮人1人」、訴状では「日本人と朝鮮人通訳の二人連れ」とだけされて、巡査とはされていない。
 台湾の「娼家」に連れて行かれたとされているが、安乗直氏訴査では台湾の「彰化慰安所」、訴状では彰化にある料亭とされているから」「娼家」は「彰化」の聞き取りミスだろう。
 慰安所から逃亡し、日本人巡査の家で家政婦として働いたとされていることは、権力による連行ではなかった証拠と言える。権力による強制なら巡査は彼女を慰安所に送り返すはずだ。そもそも、台湾に軍慰安所はなかったはずだが、その点も全く追及されていない。
 5白○?は、まず、名前が一文字不明のままになつていることから、調査のずさんさが分かる。彼女は安乗直調査で不採用、原告にも入っていない。
 日本で洋服姿の男にジープに乗せられ台湾に連れて行かれたとされている。連れて行かれたところについて、本人も「普通の売春宿であったかどうかわからない」と証言しているが、台特には軍慰安所はなかったから一般の娼家とみるのが順当だろう。その点の追及がない。
 その後、マニラの軍慰安所に連れて行かれたとされている。売春業者によって連れて行かれたとも考えられるが、その点の追及もなきれていない。
 6は姓だけ「呂」とされ名が記されていない。政府調査のずさんさの表れだ。安乗直氏調査で不採用、原告にも入っていない。ただし、高木健一、福島瑞穂弁護士らが92年初めに実施した原告候補に対する聞き取り調査記録に出てくる「呂福実」であることが、内容から分かる。
 彼女は巡査と軍人に強制連行されたと主張しているが、高木民らは「事実関係でさらに調査が必要である」(『ハッキリ通僧』3号15頁、日本の戦後責任をハッキリさせる会)として原告にしなかった。したがって、証言の信憑性は低い。


6.「朝日大誤報」の“主役”も二転三転

 7カン○○○も、安乗直調査不採用、原告でもない。「日本の軍人が、自分の腕を掴み、連行した」と主張しているが、連行の年度が不明であり裏付け調査もなされていない。
 8金学順は、91年8月初めて名乗り出た元慰安婦として有名だ。安乗直調査に採用され、もちろん原告でもある。彼女は91年当初に話していたことを92年安乗直調査の頃から変えた。
 名乗り出た直後は、「生活が苦しくなつた母親によって十四歳の時に平壌にあるキーセンの検番に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れて行かれたところが、華北の日本軍三百名あまりがいる部隊の前だった」(ハンギョレ新聞91年8月15日)と証言していた。
 訴状でも<家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守りや手伝いなどをしていた。金泰元という人の養女となり、十四歳からキーセン学校に三年間通ったが、1939年、十七歳(数え)の春、「そこに行けば金儲けができる」と説得され…義父に連れられて中国に渡った。トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に三日問乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが、「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」であることしかわからなかった。「鉄壁鎮」には夜着いた。小さな部落だった。義父とはそこで別れた>と同趣旨の記述がされて
いる。
 朝日新開が彼女を挺身隊として強制連行された被害者だという大誤報をしたことは本号別稿で書いた通りだ。私はそのことを指摘する論文を『文藝春秋』92年4月号に書いた。その後、彼女は養父に連れられ北京に行き、そこで日本軍人に強制連行されたと証言内容を変えた。
 当初の会見や91年段階で書かれた訴状では、ここで見たように北京でのくだりはないが、政府調査と安乗直調査ではその部分が追加されている。原告は訴状で自己にとって有利になる事実は全部書くはずだ。訴状にもない強制連行体験があとから追加されたため、彼女の証言の膚憑性は大幅に低下した(詳しくは拙著『よくわかる慰安婦問題』草思社文庫)。


6.大阪も熊本も台湾にも「軍慰安所」はなかった

 9石○○は、安乗直調査で不採用、原告にも入っていない。
 1939年、班長の命令で日本人軍属により軍人の運転するトラックで連行され、列車で中国、漢口の慰安所に連れて行かれたと主張している。その後、「部隊が移動した際女性は置いていかれたので、『ショウジュク館』という民間の慰安所に入った」と話している。
 強制連行してわざわざ慰安所を作ったのであれば、部隊移動の際も連れて行くはずだ。最初から民間の施設に売られたのではないかとも思われる。裏付け調査はなされていない。
 10尹○○も、安乗直訴査不採用、原告にむ入っていない。自宅に韓国人と軍人が来て下関の紡績工場へ強制連行され、2年後に慰安婦として大阪の慰安所へ連行されたと主張している。大阪に軍慰安所はなかったから、一般の公娼街で働かされたものと思われる。
 11金○○も、安乗直調査不採用、原告にも入っていない。彼女も、町役場職員と日本人にカネが儲かると騙されて、大阪の慰安所へ連行されたと主張しているが10と同様に一般の公娼街で働かされたものと思われる。
 12朴福順は、安乗直調査不採用だが、原告には「金田きみ子(源氏名)」として入っている。日本人軍属に中国に働きに行くと騙されて天津近くの慰安所に連れて行かれたと話している。裏付け調査はなされていない。
 13陳○は、安乗直訴査不採用、原告にも入っていない。軍人についていくといいことがあるとだまされて台湾の慰安所に行った。昼は看護婦、夜は慰安婦をさせられたと話す。台湾に「軍慰安所」はなかった。
 14文○○も、安乗直調査不採用、原告にも入っていない。自宅に軍人一人と巡査一人が来て南京郊外の慰安所へ強制連行されたと語っている。裏付け調査はなされていない。
 15盧清子は、安乗直調査不採用だが、原告には入っている。8〜9人の軍人に中国オデサン慰安所へ強制連行されたと語っているが、裏付け調査はなされていない。
 16季○○は、安乗直訴査不採用、原告にも入っていない。14歳の時、工場に就職させてやるとだまされてサイパンの慰安所へ連れてこられたと話すが、裏付け調査はなされていない。




米国の「慰安婦」騒動を解決する決定的ロジック
  〜 慰安婦証言は無価値である 〜 [正論2014年1月号 渡辺惣樹]より抜粋


■“クロス”に晒されない証言は無価値

 実は私は従前から河野談話はかなりいい加減な証言を根拠にした、外交的配慮で実施されたものであろうと疑っていた。産軽新開が河野談話の基礎となるいわゆる「慰安婦」証言の実態をスクープ(二〇一三年十月十六日、本誌二〇一三年十二月号にほぼ全文が満載されている)したことで、この考えに問違いないと確信するにいたった。私が確認したかったのは、「慰安婦」であったと証言する女性に対して「クロス cross examination(反対尋問)」がなされたか否かであった。
 彼女たちの主張は、かつての日本が罪を犯したと訴えるものである。その主張は極めてシリアスである。したがって、日本に対する糾弾は法のルール(ロジック)に則るものでなくてはならない。そのルールは法廷の場だけの特殊なものではない。法廷外における論争にも連用される。韓国は、日本国民に対して謝罪と金銭を要求している。法の精神に則った適正な議論(due process)があって当然だ。
 証言が証拠として価値を持ちうるには「反対尋問」に晒されなければならない。法理論の基本中の基本である。私は河野談話発表にいたる過程で、反対尋問あるいはそれに類似のプロセスは踏まれていないだろうと推察していたが、それが産経新聞のスクープで明らかにされたのである。私のいう「反対尋問」とは、彼女たちの人格を否定する作業ではない。証言に矛盾はないか、嘘がないか、伝聞証言ではないか。そうしたことを巌格にチェックするプロセスである
 この問題に挙証責任(burden of proof)があるのは韓国側である。日本にはない。したがって、韓国側が提出する証拠を吟味し、証言に対してはその証言者に「反対尋問」するだけでよい。こちらから「なかった証明」などしなくてよい。それをしたかったらすれば良いがその行為はあくまで外交的配慮であって、日本には挙証責任はない。それが大原則である。「売春婦」ではなく「性奴隷」であったと訴えたければ、挙証責任はあくまでそれを主張する女性の側にある
 日本は、あの時代に売春ビジネスがあったことは否定していない。ただ、あの詐話師吉田清治のファンタジー(軍命令による女性狩り、誘拐など)のような事件などありはしなかった。もちろん性奴隷など存在しない。「それを示す証拠も、信ずるに足る証言もない」。そう反論し、どっしり構えていればよいのである。アメリカでさえネバダ州の一部の地域では売春は依然合法である。当時、売春が合法であったということを理解することはそれほど難しいことではないのだ。
 産経新聞の報道にあるように、自称「慰安婦」の聞き取り調査は「杜撰」であった。しかし北米社会では「杜撰」という言葉は意味をなさない。「杜撰」の本質を明示する必要がある。その本質は、前述のように「慰安婦証言はクロスがなされていない。したがって無価値である」ということなのである。アメリカでもカナダでも陪審制度が根付いている。テレビでは裁判のドキュメント物が人気である。一般人でさえ、証言が「証拠価値のある証言」足りうるには「クロス(反対尋問)」のプロセスが必須であることを理解している。ハルノートの存在を知らない一般人でもこのことはよくわかっているのだ。
 万一カナダで「慰安婦像」設置の動きがあれば、「『クロスのなされていない証言』を証拠として採用しろというのか」と反論すればよいのである。


■河野談話は日本国意法違反

 アメリカやカナダでは上述のように反対尋問権がどれほど重要であるかについては一般人でさえ理解している。この権利が侵害されたら、いつ何時、罪を着せられてしまうか分かりはしないからである。仮に韓国の主張にシンパシーを感ずるカナダ人がいたとしても、「『クロスのなされていない証言』を証拠として採用しろというのか」という反論には怯むのである
 私自身も、アメリカでもカナダでも裁判を経験してきた。相手方弁護士からの尋問に晒された経験は何度もある。嫌味な質問をどれだけ浴びせられたかしれない。しかし私の証言が価値を待つためにはこのプロセスは不可避である。裁判官はクロスのない証言を証拠採用しない。英米型の裁判では民事でも刑事でも反対尋問を軽ない証言は証拠カを持たないという原則が徹底しているのである。
 河野淡話はこのプロセスを無視した。先祖を含む、全ての日本人を侮辱するシリアスな糾弾に対して、最も重要な権利である反対尋問権を行使した日本人擁護の義務を怠ったのである。
 反対尋問権は日本国憲法でもはっきりと重視されている権利である。日本国憲法第三十七条二項にそれが明記されている。
 刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
 日本政府は、糾弾されている日本人のために、「慰安婦」証言に対して反対尋問権を行使しなければならない。もし、韓国側がそれを拒否するのであれば、そのような証書は証拠能力を持たないときって捨てればよい
 左異系の論者の中に、慰安婦証言を「生き証人」によるものだなどと主張するものがいる。これは「証人が生きている」という事実だけの意味しかない。彼らが北米で「生き証人」などという用語を使えば一笑に付されるであろう。証人が生きていようがいまいが、その証言が反対尋問のプロセスにさらされていなかったり、証人が反対尋問を拒否したりしていれば、その主張(証言)には何の信憑性(証拠価値)もないのである
 前述の日本国憲法弟三十七条二項にもあるように反対尋問権は極めて重要な国民の権利である。ところが日本の司法では、反対尋問権を北米ほどには重視しない悪癖がある。反対尋問のプロセスを経ない証言が、時に、こじっけのような例外規定をもってして証拠採用されることがあるのだ。英米法の法プロセスの中で生活するものは、時折、日本の司法判断には、あれ、と思わされることがある。
 日本政府が、河野談話発表前に、日本人の名誉を守るために反対尋問権を行使しなかったことは、私たちの視点からみたら、とても看過できるものではない。日本の有織者がこのことを問題にしないのは、日本の司法システムの特殊性に慣らされた結果ではないかと疑わざるを得ないのである。
 韓国側は、この日本の特殊性を十分に利用した。当たり前の反対尋問権を行使しなかったのは日本政府の責任である。日韓だけのもめごとであれば、弱腰の日本政府の対応を憂えていればそれで足りる。しかし、韓国はそのロビー活動を北米に移してきた。戦いの場を北米にまで広げてきたのである。こちらでは日本のようにはいかない。彼らの主張は北米型の法の考え方に晒されるのである。


■河野談話は親韓政権の「置き土産」

 それでは日本政府が河野談話を発表しているではないかという反論にはどう答えればよいだろうか。私は当時の政権が「親韓政権」であったからと答えるだけでよいと考えている。破棄をしない政権も「親韓政権」であると答えればよい。国家間外交では法の精神を踏みにじったり、脱法的な行動を政府が取ったりすることはよくあることだ。「将来において、日本政府が親韓政権を変更するときには、河野談話は破棄されるでしょう」と答えておけばよいのだ。英米法の世界において、河野談話が存在するからといって、「クロスのない慰安婦証言」が証拠価値を持つことなどあり得ない
 報道によると、アメリカ政府は、日本政府の河野談話見直しに難色を示しているそうだ。この真偽は不明であるが、そんなことをアメリカから言われたとしても、私たちは「アメリカはクロスのなされていない証言に証拠価値を認めろというのですか」と反論すればよいだけである。河野談話のもとになつたいわゆる「慰安婦」証言聞き取りの模様が非公開であることも大いに問題である。彼女たちの証言の模様が公開されていないことは、その価値を二重に減殺させる。これほど重大な日本人に対する糾弾の証言がビデオ録画されていないはずがない。それが非公開であれば、なおさらその証言に証拠価値などありはしない。
 証言がビデオ録画されることは北米の法システムでは常織である。警察の尋問の様子ももちろん録画されている。裁判官も陪審員もその模様をビデオによって確認できる。わたしはふと心配になるのだが、慰安婦問題を聞く北米の人々は、当然のように自称「慰安婦」に対する聞き取り調査(反対尋問)はビデオ録画され、そしてそれは公開されていると思っているはずだ。その上で河野談箭がなされているヒ思い込んでいる可能性が高いのである
 アメリカは現在進行中のTPP交渉の中で、アメリカ型法規範をTPPの仲裁調停の枠組みの根幹に据えようとしている。日本の法システムに対しても証拠開示請求制度の導入を目論んでいる。この制度も反対尋問権が存在しなければ無意味な制度である。アメリカはむしろ「クロスもない証言、ビデオ公開されてもいない証言をもとに日本政府は謝罪したのか」と驚き呆れるのではないか。
 日本の政治家には「慰安婦開港」について、学術的な研究が不十分である、などと緊張感の感じられない呑気な発音をするものもいるようだ。「慰安婦証言」にはなんの証拠能力もないとはつきり主張してくれる政治家の出現を期待したい。もちろん彼女たちはその証言に証拠能力を持たせることはできる。堂々と「反対尋問」に答えればよい。そしてその模様をすべての国民に見せればよい。そこで初めて、彼女たちの証書が証拠の一つとして採用される可能性がでてくるのである。
 かりにこちらの法システムのもとで北米の敏腕弁護士が彼女たちを尋問したら容赦のない質問が浴びせられるだろう。彼らは、「筆舌につくし難い苦痛を味わったことを理解するが」などという枕詞などは使わない。矛盾があれば徹底的に鋭明を求めてくる。「筆舌につくし難い侮辱」を受けているのは北米に暮らす日本人なのである。あの悪夢のような日本人排斥運動にもつながりかねない悪辣な韓国のロビー活動をけつして許してはならない。




「慰安婦=性奴隷」捏造裁判が始まった
   〜 慰安婦=性奴隷を許さない 〜  [正論2014年1月号]より抜粋


秦郁彦
 先日、いわゆる慰安婦問題の専門家といわれる中央大学の吉見義明教授が日本維新の会の桜内文城衆議院議員を名誉棄損で訴えたという報道がありました。
 韓国、中国、米国などを巻き込んで大きな国際問題になっている慰安婦問題をめぐる日本人同士の裁判ということで、おおいに注目されている。

桜内
 ことの発端は、2013年5月27日、日本外国特派員協会において日本維新の会代表である橋下徹大阪市長が記者会見を行ったことです。
 当時、橋下代表がいわゆる慰安婦問題についで発言し、米国を始めとして国際社会でも連日のように報道されていました。ところが英語メディアの中には、慰安婦を「comfort women」ではなく、「sex slaves」「sexual slavery」、つまり「性奴練」と英訳しているところもあったわけです。慰安婦を「性奴隷」と英訳する現状をなんとか是正しなければならないと考えていました。
 橋下代表が外国特派員協会で演説をするとき、誤って英訳されてしまうことは避けなければと考え、党内で相談の上、私が同時通訳のチェックをすることになり、記者会見に同席したわけです。
 当日、記者会見には百人近い外国人特派員たちが集まつていましたが、外国人の司会者が冒頭から“It's show time!”と言って、あたかも橋下代表を小馬鹿にしたような物言いをし、橋下氏を「橋下は、日本軍が強制的に女性を性奴隷にしたという韓国側の証拠に挑戦した」と紹介したのです。
 その後、司会者は「慰安婦に関しては、歴史家の吉見義明のように戦争について嘘偽りなく語った多くの日本歴史の書籍がある。橋下氏は、政治的目的のために歴史を書き換える必要はない」と発言したのです。
 それで私は、慰安婦を「性奴隷」と英訳するのは見過ごせないと思い、その場で「(司会者が紹介の中で)sexual slavery という言葉を使うのはアンフェアではないか。それから吉見さんという方の本を引用されておりましたけれども、これはすでに控造であるということがいろんな証拠によって明らかとされております」と反論したわけです。ここで「捏造だ」と反論したのは、司会者が言った「日本軍が日本統治下の朝鮮半島内において強制的に女性を性奴隷化した」、つまり「慰安婦=性奴隷」という命題に対しでです。
 ところが、記者会見に同席していなかったのに、吉見氏本人が、私の発音をとらえて「自分の著書を捏造だと非難された」として、名誉毀損だと私を訴えてきたのです。
 名誉とか信用が損なわれたと思うのであれば、学者なら学術雑誌等に投稿して反論すればいいはずですが、吉見氏は記者会見でのちょっとした発音をとらえて、政治家相手に裁判を起こしてきたのです。正直、彼は本当に学者なのか、と感じましたね。
 十月七日に東京地裁で第一回の口頭弁論がありました。初回は、代理人の弁護士が訴状と答弁書を読み上げるだけで終わるのが通例です。ところが、初回から原告の吉見氏本人が意見陳述したいということを言ってきました。それならばこちらも意見陳述をしようということで異例ですが、初回から法廷で直接対決するという展開となりました。
 彼は恐らくこの裁判を使って自らの主張を内外に訴えようと考えたからではないかと思います。吉見氏が関係している運動体のホームページでは、裁判の傍聴を事前に呼びかけると共に「この裁判はヘイトスピーチ、ヘイトクライム裁判ということもできます。ヘイトスピーチを許してはならない。ヘイトスピーチは犯罪なのです」と書いているからです。
 このように相手側は、私の名前を挙げてヘイトスピーチは犯罪だと書き、かつこの裁判をヘイトスピーチ裁判だと定義しているわけです。そこで私も裁判において「人を犯罪者呼ばわりするならば、これこそ名誉棄損に当たるので反訴します」と宣言したところ、翌日にはこのホームページの当該部分が削除されていました。


■国際法上も性奴隷説は間違いだ


 訴訟のポイントは「これは捏造」の「これ」が何を指すのかということですね。桜内さんは今までの文脈から「慰安婦=性奴隷という命題が捏造だ」という意味で「これ」を使った。しかし、吉見氏は「これ=私の著書」だと主張しているんですね。
 吉見氏が脚光を浴びるきっかけとなつたのは「日本軍が慰安婦、あるいは慰安所に関与していた証拠を見つけた」という一九九二年一月三日の朝日新開報道に始まる大キャンペーンでした。
 それまで日本政府は「慰安所に関与していない」と言っていたのに実際に関与している証拠が見つかったと朝日新聞が大騒ぎしたわけです。その証拠を「発見」したのが、吉見氏というわけです。
 しかし証拠とされる日本軍の文書はかなり以前から公開されていたものですが、「民間業者が慰安婦の募集にさいし乱暴なやり方をしているという噂があるから、それを取り締まるように」と、陸軍省が注意しただけなんです。それに慰安所は軍人専用ですから、関与していたのは常識です。関与に「良い関与」と「悪い関与」がありますが、これは「良い関与」の方でしょう。
 私は、この朝日報道のほうを「誤報」と既定しています。それも決定的な間違いを二つ、やっています。
 まず朝日新開は解鋭記事の中で「主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した」と書いていますが、挺身隊制度は国家稔動員法にもとづき勤労動員のために昭和十九年から運用された制度で、慰安婦とは関係がありません。これが第一のミスです。
 しかも朝鮮半島において日本軍が慰安婦を強制連行した事実がないことはその後、吉見氏も認めています。「強制連行」説も明らかに誤報です。これが第二のミスです。
 この朝日新聞の「誤報」がきっかけとなつて慰安婦問題が国際問題になったという意味で、朝日新聞は、慰安婦問題を国際問題にした責任があり、その「誤報」に関与したのが吉見氏というわけです。
 吉見氏は、朝日新聞とともに慰安婦強制連行鋭を内外に広めた中心人物ですが、朝鮮半島において慰安婦を強制連行したという証拠が見つからないものですから、最近は、強制連行の有無には触れなくなりました。その代わりに「慰安婦=性奴隷」鋭を強調しています。彼の著書に『従軍慰安婦』という岩波新書があるのですが、これを英訳しコロンビア大出版局から2000年に刊行されたのが『comfort women』です。
 英語版には吉見氏が新たに付け加えた箇所があるのです。例えばタイトルも「従軍慰安婦」だけでなく副題として「Sexual Slavery in the Japanese Military During World War U」となつています。彼は英訳では「慰安婦」のサブタイトルとして「第二次大戦における日本軍の性奴隷」=「軍用性奴隷」と付加したのです。
 彼は当時の慰安所では、「居住の自由、外出の自由、廃業の自由、拒否する自由」の「四つの自由」がなかったから「慰安婦は性奴隷だった」と主張しています。

桜内
 「四つの自由」が保障されなければ「奴隷」と認定すべきだという主張は、国際法の考え方とは異なります。
 国際法では、奴隷は明確に定義されています。奴隷については、複数の国際条約が存在していて、奴隷条約(Slavery Convention = 1926年採択、1927年発効。日本は未締結)ではこう記されています。
 第一条
1.奴隷とは、その者に対して所有権に伴っいずれか又はすべての権限を行使される個人の地位または状態をいう。(桜内議員による仮訳)

 もう一つが国際刑事裁判所に関するローマ規程(1998年採択、2002年発効。日本は2007年に加入)で、次のように記されています。

 第7条
1.この規程の適用上、「人道に対する犯罪」とは、文民たる住人に対する攻撃であって広範又は組織的なものの一部として、そのような攻撃であると認識しつつ行う次のいずれかの行為をいう。
(C)奴隷化すること。
(g)強姦、性的な奴隷、強制売春、強いられた妊娠状態の継続、強制断種その他のあらゆる形態の性的暴力であってこれらと同等の重大性を有するもの。
2.1の規定の適用上、
(C)「奴隷化すること」とは、人に対して所有権に伴ういずれか又はすべての権限を行使することをいい、人(特に女性及び児童)の取引の過程でそのような権限を行使することを含む。
 このように国際法上、奴隷であるかどうかは、所有権の対象となっているかどうかで決まります。彼は国際的な定義を無視しで勝手な自分の定義に置き換え、慰安婦を「奴隷」だと主張しているのです。


 もし慰安婦が国際法上、日本軍の「奴隷」であるならば、日本軍の財産として他の武器などと同様、慰安婦も登録されているはずですが、当然のことながら、そのような登録はないし、名簿もありません。慰安婦は、日本軍の所有権の対象ではなかったからです。つまり、国際条約に照らした場合、慰安婦を「奴隷」と呼ぶことはできないはずなのです。
 実は吉見氏が「性奴隷」の根拠としている「四つの自由」説を自ら否定しています。
 吉見氏が編集した『従軍慰安婦資料集』(大月書店、1992年)の中には、北ビルマで米軍の捕虜となった朝鮮人慰安婦20名の尋問記録が掲載されていますが、それを読むと、慰安婦たちは「外出の自由」は認められていましたし、「廃業の自由」も、接客を「拒否する自由」もあったことがわかります。
 例えば、尋問記録にはこう書かれています。
「欲しい物品を購入するお金はたっぶりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった」
「慰安婦は接客を断る権利を認められていた」
「(借金を返済した)慰安婦は朝鮮に帰ることを許され許された」
「稼ぎの総額の五〇ないし六〇パーセントを受け取って…慰安婦は楼主に(月額千五百円)のうち七百五十円を渡していた」
 ビルマでは、慰安婦は七百五十円の月収を得ていたのですが、この額は、当時の兵士の七十倍、日本赤十字看護婦の約十倍の高給です。奴隷に収入がないのは常識じゃないですか。所有権ってそういうことですからね。こんな高収入があった人をどうしで奴隷と呼べるのでしょうか。
 残るは「居住の自由」なんですが、そもそも戦地で「居住の自由」がある人は存在しませんでした。当然のことながら、戦地では兵隊も看護婦も「居住(地)の自由」はありませんでした
 この「居住の自由」について言えば、サラリーマンをやっていれば、会社から「おまえ、転勤だ」と言われ、強制約に居住を変えさせられることはあるわけです。「外出の自由」にしても、勤務時間が決まっているわけですから、その勤務時間中に外出する自由がないからといって「奴隷」なのかという話ですよ。「四つの自由」が保障されなければ「奴隷」ということならば、サラリーマンも奴隷になつてしまいますよ
 吉見氏の説に従えば、「四つの自由」を認められない日本軍の兵士や看護婦も「奴隷」ということになります
 六月十三日、TBSラジオの番組で慰安婦問題について吉見氏と対論しました。私は吉見氏に「あなたの編纂した資料集の中にある尋問記録を読むと、慰安婦はビルマ方面軍司令官より高い給与を受け取っていた。外出や廃業、接客拒否の自由もあった。それでも慰安婦を性奴隷と呼ぶのですか」と聞いたのですが、吉見氏は「そうです」と即答し、私は二の句が告げなかった。具体的な反論をしてくれば反証を出せたのですが、たぶんそつしたらやぶ蛇になると思ったのでしょう。
 ところが、吉見氏はあちこちで「四つの自由」説を持ち出しています。彼が橋下市長に出している公開質問状にもこの「四つの自由」が出てきます。また、慰安婦は多額の収入があったと言うが、あの頃、南方の日本占領地はひどいインフレで軍票は細くずみたいな価値しかなかったとも反論している。
 しかし、ちょつと考えれば、この説がおかしいことはすぐにわかります。確かにビルマなど南方ではインフレになつていましたが、日本や朝鮮にいる家族に軍事郵便で送金している慰安婦もいました。日本や朝鮮では、日本円は価値があったわけで、それを使えば、現地のインフレは関係なかったわけです。
 慰安婦であることをやめる「廃業の自由」がなかったという批判もしています。確かに慰安婦たちは、身売りした親が背負っている借金を返済しなければ、慰安婦をやめることはできませんでした。内地の公娼も同じでした。

桜内
 それを言うなら、NHKドラマの「おしん」も奴隷なのかとい、現前ですよね。
 彼の「性奴隷説」はどう見ても成り立たない。にもかかわらず、吉見氏は「性奴隷二十万人説」を国際社会に広めているわけです。
 さきほどの『従軍慰安婦』の英訳本の裏表紙には、日本、韓国、フィリピン、台湾、インドネシア、ビルマ、それからオランダ、オーストラリアなどを含め、二十万人の性奴隷がいたというふうに書いてある。ここで書かれているものとほぼ同じような文言が、米国のグレンデール市に建立された慰安婦像の横の石碑に刻まれています。この「日本軍による性奴隷二十万人」説の出典と思われるのが、吉見氏の英訳本なのです


 強制連行が破綻し「戦術転換」した彼の「性奴隷」説を私は「吉見理論」と呼んでいます。苦し紛れに生み出された「吉見理論」は意外にも国際社会では受けたようです。
 ですから彼は、今回の裁判の訴状においても、自分が慰安婦問港の火付け役であることを自慢気にこう書いています。
「日本軍従軍慰安婦問題に関しては一九九二年一月十一日、防衛庁防衛研究所の図書館において慰安婦の募集、慰安所の設置管理等に日本軍が深く関与していた資料を原告が初めて発見して発表したことで、慰安婦問題に関する日本政府の責任が明らかになり、このことが今日に至る日本軍慰安婦問題の浮上のきっかけとなった」
 しかし、この訴状の内容には、疑義があります。吉見氏本人も認めているように、現段階で、日本軍が朝鮮の女性を強制連行して慰安婦にしたことを立証する証拠は見つかっていません。よって吉見氏が火付け役になったことは事実ですが、いたずらに政治問題化させただけで、「慰安婦問題に関する日本政府の責任」が明らかになつたわけではありませんし、明らかに言い過ぎだと思いますね。
 それに、彼の「奴隷」の定義だと世界中が「奴隷」や「性奴隷」に満ちあふれてしまうでしょう。強制連行の時も行き詰まりを見せると「広義の強制性」などという言葉を持ち出したことがありましたが彼は結局、「性奴隷」説に落ち着いていった。しかし私は「四つの自由」理論についても破綻していると思いますよ。


■河野談話は日本政府の正式な文書ではない?


 しかし、残念なことに、日本政府の責任が明らかになりたと誤解される文書が出されていることも事実です。その原点は恐らく平成五年(一九九三年)八月四日に、時の河野洋平官房長官が公表した「河野談話」ではないでしょうか。
 河野談話は、非常に回りくどい言い方をしているという事情もあって、海外では「強制連行を日本政府が認めた」と受け取っているようです。
 河野談話の法的な位置づけは、官房長官談話ではありますが、あれは閣議決定でもなんでもない。河野洋平という政治家個人の意見なのか、それとも官房長官というポストにある特別公務員の意見なのか、という点が判然としない。
 その証拠に外務省のホームページには「河野談話」の英訳が掲載されているのですが、いまだに「Unoffcial Translation(非公式な翻訳)」と書いてあるんですよ。要は、公式の英訳もない文書だと、外務省も認めているわけです。しかし、河野談話は日本政府の公式声明だと言う受け止め方が定着していますよね。

桜内
 官房長官が発表したとなると日本政府の見解だと思われがちですが、閣議決定もされていない文書を政府見解として認めていいのか、そこは極めて曖昧だと思います。しかし、歴代首相が「河野談話を継承する」と言っていますが、法的な根拠がないものを継承すると言っても、もとがダメなんですけどね。
 私が強調したいことは、あのような官房長官談話が出たからといって、それを大前提にして考える必要はない、ということです。特に歴史に関わる問題については、その後の学問的な成果を踏まえ、新しい官房長官談話なり、閣議決定をしていくべきなのです。
 日本政府も、強制連行はなかったという閣議決定をしています。平成十九年の第一次安倍内閣のときの閣議決定で「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」という言い方をしています。
 しかしその一方で、閣議決定をもって今回の安倍内閣も河野談話を「継承している」としています。歴史認識について、学問的な研究成果に基づくのではなく、政治的な判断から曖昧なままで乗り切ろうとしてきた日本政府の弱さがここにははつきりと出ています。
 先ほども指摘したように、もともと河野談話自体が曖昧な法的根拠のものでしかないので、しつかりとした歴史的な事実を踏まえ、新しい閣議決定を行っていくということが必要だと、私は思っています。


 本来ならば、河野洋平さん自身が「あれは自分の判断が問違っていた」、または「自分も騙されていた」みたいな見解を出して、河野談話を撤回してくれればいいのでしょうが、その気配は全然ありませんね。歴史的事実を歪めた責任を感じていないかのよ
うに見受けられますね。
 河野洋平さんは今、全くの私人ですし、河野談話の撤回を強制することもできませんからね。もっとも本人は撤回するつもりはなくて、彼は平成十八年に朝日新聞のインタビューに答えて、河野談話は「大局的な判断に立った」ものであり、それで「良かったと思います」と言っていますからね。
 河野談話の前提になった元慰安婦16人の聞き取り記録を産経新聞(十月十六日付) がスクープしましたね。私も、改めて調べていますが実に屈辱的な環境で聞き取りが行なわれているのです。調査は韓国側の要請なのに聞き取り場所が、運動体である遺族会本部の建物でした。そこをデモ隊が取り囲み、騒ぎ立てる。少なくとも政府の建物内でやるのが国際常識ですよ。
 出てくる慰安婦の基礎データも杜撰で名前がわからない者もいる。半分以上が生年月日もなかった。向こうがしゃべるのをただ聞き取って書くだけ。反論とか、乗っ込んでさらに聞くなど、とてもそういうことはできる状況ではなかったのでしょう。このとき、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)がすでに十九人分の聞き取り報告書をその年の二月に刊行して外務省にも渡していました。日本側は一応基本的なことはみんなわかっている十九人について追加的に聞き取れば、まだいいのにそれをしなかったのです。
 挺対協が協力しないとボイコットしたのも一因でした。それで韓国政府が出してきたのは名前も生年もいい加減な者ばかりだった。そんな状況なら、席を蹴って帰ってもよかったのです。ところが日本政府は、結論は先に出しておいて、聞き取り調査をやったという形式だけが欲しかったのでしょう。でもこれは日本国民を欺瞞するに等しい。挺対協の報告書はその後、日本語訳で刊行されましたが、挺対協の幹部が序文で日本政府の調査を「形だけの行事にすぎないと思われる」と、あざ笑っているのです。

桜内
 何しろ河野談話によって日本政府は慰安婦問題について責任を認めて謝罪したと、国際社会では受け取られています。結局、はじめに結論ありきで問題の根本を解決せずに沈黙してしまってきたことで、日韓関係はますますこじれてしまったのです。
 ですから河野談話は調査不足だったとして葬り去ったうえで、事実に基づく日本政府の立場をしっかりと内外に示すべきなのです。「先送り政治」はもう止めるべきです。


■正しい情報を海外へ発信すべき

桜内
 平成二十四年(二〇一二年)に、日韓併合以降の朝鮮人(韓国人)徴用工の賠償問題について韓国最高裁判所は、「昭和四十年の日韓基本条約とその付属協定によって日韓両国政府間の請求権問題は決着済みとなったが、個人請求権は残っている。よって徴用工とされた韓国人が日本企業を相手に個人賠償を請求できるはずなのに、個人賠償を追及しない韓国政府の対応は違法である」との判決を下しました。
 この韓国最高裁の判決以降、韓国では、新日鉄住金をはじめとする日本企業に対して個人賠償を認めるような判決を出しています。
 しかし日韓両国間の補償問題は、すべて解決済みなのです。財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定に「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と書いてあるのでずから。この条約上の基本原則を日本政府は韓国政府に突き付けるぺきなのに、曖昧な対応に終始してきました。
 それどころか、平成三年八月二十七日、外務省の柳井俊二条約局長は参議院予算委員会において「(日韓基本条約は)いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることができないという意味だ」と答弁し、韓国人が日本企業に対して戦後補償要求訴訟を行うことは可能であるかのような発言をしています。
 ですから、そうなると慰安婦だって個人補償を求める裁判を起こせることになりますから、個人補償という際限のない「地獄」がやって来るのではないかと懸念しています。


 そうなるともはやこれは一企業の問題ではないですね。日本企業に対する個人賠償要求判決に対して、日本政府として出来ることは大別して二つあります。
 第一に、日本政府から韓国政府に対して、今回の韓国最高裁の判決は日韓基本条約等に反するので執行するな、と要求することです。
 しかし、そのような国際常識が通用しない恐れもあるので、第二の対策として、訴えられた日本企業に対して「資産を差し押さえられないよう日本に帰って来なさい。その分の損害については日本政府が補償する」という措置も必要だと思います。
 歴史認識に関する日本の外交当局の動きは一貫して鈍いですね。米国のグレンデール市などで慰安婦像が建てられた際も、ほとんど顔を出さないでしょう。なぜなのか聞くと、外務省としては「河野談話や村山談話で十分にお詫びしており、過去について反省していないという批判は当たらない」という立場なんです

桜内
 日本の大使が国連で反論をするのですが、「十分謝っている」という言い方をしています。これは反論になつていない。例えば、慰安婦を「性奴隷」と表現する人がいれば、「それは捏造だ」としっかりと指摘した上で、個人賠償も含めすべて日本政府は条約等で誠実に決着をつけてきたことを強調すべきなのに、日本の外務省は「慰安婦について日本政府はきちんと謝っています」としか言わない


 残念ながら「性奴隷」について日本政府はほとんど反論していません。事実に反する部分はしっかりと反論するのが日本政府、外交官の責務ですよ。
 臨時国会で国家安全保障会議の設置法案に関する質疑に立った際に私は菅官房長官に対して、情報を集める事も大事だけれども、情報をしっかりと海外に発信していくことも重要ではないか。特に慰安婦問題などで事実無根のことで日本個及び日本国民の名誉が不当に損なわれている状況を座視してはダメだと指摘しました。菅官房長官からは非常に前向きな回答をいただいたので、安倍政権の今後の対応に期待しているところではありますが。
 そもそも、国際社会の中で日本の名誉を守る担当省庁が日本政府の中には存在していませんからね。このまま、内外の政治宣伝や謀略に対する対策を、霞ヶ関に任せていていいのか、という課題があるのではないでしようか。


■日本人の名誉と尊厳が問われる裁判

桜内
 日本の名誉を守るため国際的な発信をしていくことを謳っています。その意味で今回の裁判は、私個人の問題というよりも、日本国の名誉が関わっています。結果的に慰安婦は「性奴隷」と言えるのか杏か、も争点になった。絶対に負けられないと思っています。仮に負けるようなことがあれば、「慰安婦=性奴隷」説にある種のお墨付きを与えてしまうことになるからです。
 その意味で、すべての日本人の名誉と尊厳が問われる裁判だと受け止めでいますし、だからこそ絶対に勝つて、「慰安婦=性奴隷」説の間違いを内外に示したいと思っています。




産経:河野談話に韓国が関与 2014/01/01
  〜 発表2日前まですりあわせ。軍の「意向」→「要請」に修正していた。 〜


 慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の「河野洋平官房長官談話」の作成過程で、韓国側の求めに従い「軍の意向」を「軍の要請」に変更するなど、日韓両政府が談話の内容や字句、表現に至るまで、発表2日前まで綿密にすり合わせていたことが31日、分かった。談話の原案段階から韓国側に提示し、韓国側の指摘を一部取り入れて修正、さらに韓国側の再修正案を受けて検討を重ねた形だ。当時の政府関係者らが詳細に証言した。
 当時、政府は河野談話について、韓国側へは発表直前に趣旨を通知したと説明していた。ところが実際は、強制性の認定をはじめ細部に至るまで韓国の意向を反映させたものだった。
 証言によると、政府は同年7月26日から30日まで、韓国で元慰安婦16人への聞き取り調査を行った後、直ちに談話原案を在日韓国大使館に渡して了解を求めた。これに対し、韓国側は「一部修正を希望する」と回答し、約10カ所の修正を要求したという。原案では「慰安婦の募集については、軍の意向を受けた業者がこれに当たった」とある部分について、韓国側は「意向」を強制性が明らかな「指示」とするよう要求。日本側が「軍が指示した根拠がない」として強い期待を表す「要望」がぎりぎりだと投げ返すと、韓国側は「強く請い求め、必要とすること」を意味する「要請」を提案し、最終的にこの表現を採用した。
 別の箇所でも「軍当局の意向」は「軍当局の要請」に書き換えられた。原案で慰安婦に対し「心からおわび申し上げる」とある箇所は、韓国側に「反省の気持ち」を付け加えるよう指摘され、盛り込まれた。
 修正に応じなかった箇所もある。原案が「(慰宏婦が)意思に反して集められた事例が数多くあり」とする部分で、韓国側は「事例が数多くあり」の削除を求めた。これでは募集全部に強制性が及ぶことになるため、日本側は修正を拒否した。
 政府は、河野談話がほぼ固まった同年8月2日、韓国の閣僚にも案文を伝えた。閣僚は一定の評価をしつつも、「韓国民に、一部の女性は自発的に慰安婦になったという印象を与えるわけにはいかない」と強調したとされる。

 ■日韓合作・河野談話の欺瞞明らかに 産経 2014/01/01
 証拠資料も日本側の証言者も一切ないまま強制性を認めた河野談話をめぐっては、唯一の根拠となった韓国での元慰安婦16人への聞き取り調査も極めてずさんだったことがすでに判明している。今回、談話の文案にまで韓国側が直接関与した事実上の日韓合作だったことが明らかになり、談話の欺瞞性はもう隠しようがなくなった。
 そもそも、当時河野談話作成にかかわった当事者らはこれまで、韓国とのやりとりについてどう語っていたか。河野洋平元官房長官は平成9年3月31日付の朝日新聞のインタビューにこう答えている。
「談話の発表は、事前に韓国外務省に通告したかもしれない。その際、趣旨も伝えたかもしれない。しかし、この問題は韓国とすり合わせるような性格のものではありません」
 河野氏は胸を張るが、政府関係者の証言によると、韓国側はこの言葉とは裏腹に、談話発表の日時にまでたびたび注文をつけていた。当時、宮沢喜一内閣は風前のともしび(談話発表の翌日に総辞職)だったため、談話発表後の実効性を懸念したのだとみられる。
 一方、事務方トップだった石原信雄元官房副長官は同年3月9日付の産経新聞のインタビューで次のように述べていた。
「談話そのものではないが、趣旨は発表直前に(韓国側に)通告した。草案段階でも、内閣外政審議室は強制性を認めるかなどの焦点については、在日韓国大使館と連絡を取り合って作っていたと思う」
 石原氏の方が比較的実態に近いようだが、実際は趣旨どころか談話の原案も最終案も韓国側に提示し、「添削」すら受けていた。河野、石原両氏は外交の現場の実情を把握していなかったのかもしれないが、結果として国民をミスリードしたことは否めない。
 河野談話は日本の政府見解であるのに、自国民より先に韓国側に通報され、その手が加わって成立した。いまなお韓国が執拗(に慰安婦問題で日本を批判しているむなしい現実を思うと、有害無益だったと断じざるを得ない。(阿比留瑠比)

 ■産経:慰安婦認定の政府報告書と河野談話は韓国製。2014/01/08
 慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の「河野洋平官房長官談話」が韓国側の修正要求に沿った「日韓合作」だった問題で、河野談話と同時発表された政府の慰安婦に関する調査結果報告(公式事実認定)も、韓国側の修正要求を大幅に取り入れていたことが7日、分かった。政治性を排除すべき事実認定にまで韓国側の介入を許していたことで、政府の慰安婦問題に対け掲闇識・見解の正当性・信憑性は事実上、失われた。
 当時の政府関係者らが詳細に証言した。韓国側からの調査結果報告への修正要求は、河野談話発表4日前の7月31日に届いた。
 調査結果報告は@慰安所設置の経緯A慰安所が設置された時期B慰安所が存在していた地域C慰安所の総数E慰安婦の出身地E慰安所の経営および管理F慰安婦の募集G慰安婦の輸送等の8点について、政府の事実認定を記述している。
 証言によると、韓国側は@とFに対して、河野談話への修正要求と同じく「軍当局の意向」を強制性が明らかな「指示」と改めるよう求め、協議の末に「要請」で決着した。
 韓国側は、Cに関しては日本側の原案に「慰安所が存在しなかった地域も存在し、また兵隊に対する慰安婦の割合も地域ごとにさまざ患で、書物などの試算が当時の実態と合致していたか否かは全く不明」とある部分の全面削除を要求。
 その上で韓国側は「長期に、また、広範な地域にわたって慰安所が設置されていたことから、相当の数の慰安婦が存在したと推定される」との代替案を示し、これがほぼ日本の事実認定として採用された。
 韓国側はEの部分では、原案の「(慰安婦は)自由な境地とはほど遠いところにあった」という記述について、「自由もない、痛ましい生活を強いられた」と書き換えるよう求め、日本側はそのまま受け入れた。一方で、Fの原案の「業者らが或いは甘言を弄し、或いは畏怖させる等の形で本人たちの意向に反して集めるケースも数多く」の部分では、韓国側は「業者ら」を「官憲または業者ら」にすることなどを求めたが、日本側は拒否した。
 ■産経:河野談話対韓配慮が逆効果 2014/01/08
 「河野談話や村山談話は日本の公式な立場と信じてきたが、最近、日本側から否定する言動が出ている」
 韓国の朴檀恵大統領は6日の年頭記者会見で、河野談話に言及してこう述べた。河野談話本体も、その認識の背景となった日本政府の慰安婦に関する調査結果報告も半ば「韓国製」だったのだから、韓国が厳守を求めるのも当然だろう。
 振り返れば平成5年8月4日、証拠資料も日本側の証言者もないまま河野談話と調査結果報告を発表した河野洋平官房長官(当時)は、記者会見でこう語っていた。
 「調査した結果を淡々とまとめた」
 実態は、淡々とまとめたどころか逐一、韓国側におうかがいを立てて合作した「政治文書」にすぎなかったことが今回、産経新聞の取材で改めて明確化した。
 この記者会見で河野氏は、談話と調査結果報告に対する韓国など関係各国の反応についてこんな自信も示していた。
 「誠心誠意の努力が理解いただけると思う」
 一番激しく対日非難を繰り広げていた韓国の意向・要求を大幅に取り入れてまとめたのだから、「これで問題は一件落着だ」と河野氏ら当時の政府高官は安心していたのかもしれない。
 だが、その後の展開は彼らの甘い予想を裏切った。韓国側は河野談話や調査結果報告作成に大きく介入しておきながら、その後は談話の趣旨を拡大解釈して利用し、世界で日本たたきの材料としている。
 それも韓国のメディアや反日市民団体だけではない。談話作成時の韓国側の関与について事実関係を知りうる立場の朴大統領自身が率先し、各国でこの問題を提起して日本批判を続けているのである。
 国民に実態を知らさず、国民不在のまま政治的につくられた河野談話から読み取れる教訓は何か。政治家や官僚の独り善がりの韓国への譲歩や配慮は逆効果を生むばかりだということではないか。(阿比留瑠比)

 ■産経:慰安婦の実行犯 2014/03/17
 国民不在のまま、韓国に迎合してつくられた平成5年の河野談話の大きな問題点は、慰安婦募集のあり方について証拠資料も裏付けもないのに「官憲等が直接加担したこともあった」と認めたことにある。この一文が拡大解釈されて、日本政府が公式に強制連行を認めたと世界に伝えられ、日本は「性奴隷の国」という言われなき汚名を着せられることになった。
 『官憲等』とは、軍人、巡査、面(当時の村)の職員などを指す。
 地方の巡査クラスや現場の官憲はほとんどが朝鮮人で、面の職員も当然そうだ。昭和6年7月の朝鮮総督府の名簿(コピー)によると、当時の面長(村長)は全員が朝鮮人だ。知事をみても、忠清北道・洪承均▽忠清南道・劉鎮淳▽全羅北道・金瑞圭▽黄海道・韓圭復▽江原道・李範益−とやはりみんな朝鮮人である。警察署の署長は日本人が多いが、ナンバー2にはおおむね朝鮮人が配されてもいる。
 元慰安婦の聞き取りで、巡査と面職員の関与に言及しているが、これが実態だ。現場の官憲はほとんど朝鮮人であり、幹部クラスも別に日本人が独占していたわけでも何でもない。また、河野談話は慰安婦募集に際し「甘言」が用いられたとも指摘している。当時、朝鮮語で「甘言」を巧みに操ることができる日本人は非常に少なかったことを思うと、これも隠された主語は主に朝鮮人の女衒(ぜげん)や業者ということになろう。
 仮に、証拠が見つかっていない官憲の「直接加担」が万が一あったとしても、「強圧的な行為」に加担したのは朝鮮人自身でもある。

 ■産経:慰安婦問題は常識的判断を 2014/03/20
 読売新聞が17日付朝刊で報じた世論調査の記事を読んでいて、慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の河野談話の作成過程を検証する政府方針について「評価する」が50%に上る一方、「評価しない」は30%だったことが目を引いた。密室で韓国と「談合」してつくられた河野談話の怪しさと弊害は、確実に有権者に浸透してきた。
 もう18年前となる平成8年、翌9年春から使われる中学社会科(歴史)の全教科書(7社)に慰安婦の記述が登場することが明らかになり、大きな話題となっていた際のことだ。
 ◇実像知る体験談
 このときは河野談話を評価・擁護する意見が主流だったが、産経新聞には実際に中国や朝鮮半島で暮らし、慰安婦の実像を知る読者から体験談が多く寄せられ、当時、筆者はそのうち幾人かから話を聞いた。
 朝鮮・忠清北道で生まれて小学校までそこで過ごした千葉県我孫子市の大塚さん=当時(76)=の記憶では、朝鮮では警察の巡査はほとんどが朝鮮人で、同胞を強制連行などするはずがなく、できる雰囲気でもなかったという。
 「内地に帰ったとき、最初に手紙をくれたのは朝鮮人の友達。今も韓国の友人と行き来があるが、同年配の女性が強制連行されたなんて聞いたこともない」
 中国・河南省で昭和15年から終戦まで衛生兵を務めた横浜市の木村さん=当時(75)=は性病予防のため、週に1度、慰安婦の衛生検査を行っていた。
 「外出兵にはサックを持たせ、慰安婦の性器検査、・菌検査などを実施したが、それは軍が女性を管理していたのではなく、軍の自衛策だった」
 ◇多くは「出稼ぎ」
 朝鮮人慰安婦の多くが「嫁入り資金を稼ぐため働いている」と話し、木村さんは「彼女たちの行動は自由だった」と振り返った。
 宮城県岩出山町(現大崎市)の佐藤さん=当時(80)=は「公娼制度があった当時を現在の見方で判断するのはおかしい。岩出山でも戦後の昭和35年ぐらいまで、身売りは実際にあった」と証言した。
 満州で満鉄に勤務していた佐藤さんはあるとき、20代前半の朝鮮人娼婦の身上話を聞いた。彼女は「故郷には親も夫もおり、子供もいるが、生活苦のために出稼ぎにきている。2〜3年働いて、家に帰る」と話し、家族の写真を見せた。
 平成22年に亡くなった元朝鮮総督府江原道地方課長、大師堂経慰さんは90歳を超えてからも月刊誌「正論」に「慰安婦強制連行はなかった」という論文を寄せている。
 昭和17年から総督府に勤め、うち1年7カ月間は地方勤務だった大師堂さんはこう強調している。
 「婦女子の強制連行があったとすれば、その目撃者は強制連行された者の何倍もいたはずだし、いかに戦時中であっても大きな抗議運動が展開されて当然であるはずだが、目撃証言も抗議運動も一切なかった」「内鮮一休を唱え、戦争遂行に大きな協力を求めていた総督府の首脳が、施政に当たって最も気を遣っていたのは民心の動向」
 どれも「それはそうだ」と得心がいく話である。歴史問題を考えるときは、当たり前のことを当たり前に、常識的に判断した方がいい。(政治部編集委員)



 ◇河野談話:石原信雄元官房副長官参考人招致 維新・山田宏 2014/02/20

 石原信雄元官房副長官は20日の衆院予算委員会に参考人として出席し、慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の「河野洋平官房長官談話」について、韓国での元慰安婦16人の聞き取り調査に基づいて作成したが、裏付け調査をしなかったことを明らかにした。当時の事務方のトップとして作成過程を初めて公の場で証言した。

 石原氏は、談話作成にあたり、事実関係を明らかにするため関係省庁に資料調査を要請したが、「女性たちを強制的に(慰安婦に)従事させるという種の文書は発見できなかった」と説明。「米国の図書館まで行ったが、女性たちを強制的に集めたことを客観的に裏付けるデータは見つからなかった」とも語った。
 韓国側の強い要求で行われた元慰安婦16人の聞き取り調査については「事実関係の裏付け調査は行われていない」とした上で、「当時の状況として、裏付け調査をこちらが要求するような雰囲気ではなかった」と明言した。
 さらに、談話作成の過程で韓国側とすり合わせをしたことに関し、「私は承知していないが、この種のものをまとめる段階で、何らかの事務的なすり合わせはあったのかもしれない。作成過程で意見のすり合わせは当然行われたと推定される」と指摘した。
 河野談話に対しては「慰安婦の募集は主として業者が行い、その過程で官憲や軍が関わった可能性があるという表現になっている」と述べ、「日本政府や日本軍の直接的な指示で慰安婦を募集したことを認めたわけではない」と強調した。
 石原氏の発言を受け、菅官房長官は答弁で、元慰安婦16人の聞き取り調査報告書の公開に関し「非公開を前提に調査を行っているが、機密を保持する中で検討したい」と述べた。(産経2014/02/20)


 ◇河野談話すり合わせ「日本が要請」 韓国側当事者、初の証言。2014/06/17
 慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話の作成時、駐日韓国大使館で歴史問題を担当していた趙世暎(チョセヨン)元韓国外務省東北アジア局長(現・東西大特任教授)が16日までに、ソウル市内で産経新聞のインタビューに答えた。趙氏は河野談話に関わる日韓間のすり合わせについて、日本側から「内々に相談に乗ってほしい」と要請があったことを証言。また、8月4日の談話発表直前には日本側から「こういう表現だがどうだろうか」と案文の提示があったことも明かした。
 河野談話作成過程における日韓間のすり合わせに関し、韓国側の当事者が証言したのは初めて。日本政府は今年2月、談話作成時の事務方トップだった石原信雄元官房副長官がすり合わせの存在を示唆するまで、韓国との事前協議の事実を否定していた。
 趙氏によると当時、韓国政府は日本側が出すという慰安婦問題に関する談話について「核心は強制性であり、強制性の認定は必要」としながらも、調査結果の中身は「具体的には日本側が自らの判断で発表すべきだ」との立場だった。韓国外務省からは「日本側と談話の案文の交渉はしない」との文書による指示もあったという。
 ところが、趙氏が立ち会った場で日本政府高官から「日本側で決めてほしいという気持ちは分かる。後ですり合わせをしていたことが明らかになれば、世論から批判される恐れがあると心配するのも分かるが、内々に相談に乗ってほしい」と要請があった。
 趙氏はこの高官の名前は明かさなかったが、「後から韓国に責任転嫁するつもりはない」とも述べたといい、趙氏は「韓国が相談に乗ったきっかけは、日本の要請だ」と指摘する。
 こうした経緯から、特に河野談話発表直前にはすり合わせが活発化。趙氏の記憶では、日本側が談話の案文を提示し、韓国側から「談話には『総じて本人たちの意思に反して行われた』と『総じて』とある。こうした表現ならば大丈夫ではないか」などの意思表明をしたという。
 河野談話 平成5年8月、宮沢喜一内閣の河野洋平官房長官が元慰安婦に心からのおわびと反省の気持ちを表明した談話。閣議決定はしていない。政府が非公開としてきた韓国での元慰安婦16人の聞き取り調査を根拠に、「官憲等が直接これに加担したこともあった」「募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」などと強制性を認定した。
 ◇産経:河野談話で、宮沢内閣1意図的な「嘘」。2014/06/17
 河野談話作成に当たり、当時の宮沢喜一内閣が韓国側の指摘に沿って「軍の意向」をより意味の強い「軍の要請」に変更したり、「反省の気持ち」を付け加えたりするなど字句、表現に至るまで綿密にすり合わせていたことは、今年元日の産経紙面で既報のとおり。今回、韓国側の当事者が、すり合わせは日本側の求めに応じたものだと証言したことで、談話の「嘘」がまた一つ明るみに出た形となった。(阿比留瑠比)
 内閣外政審議室が河野談話発表時にまとめた「想定問答」では、「韓国に対しては、発表案文について事前に協議しなかったのか」との問いに、こんな模範解答が示されている。
 「事前協議は行っておらず、今回の調査結果はその発表直前に伝達した」
 真っ赤な嘘であり、宮沢内閣が意図して国民を欺こうとしたことが分かる。それどころか、当時の政府高官らは、身内である後の政府の担当者らにも事実関係を正確に伝えていない。
 河野談話作成時に内閣外政審議室長として河野洋平官房長官を補佐した谷野作太郎氏は平成10年3月、後輩に当たる同室の現職職員らにこう語っていた。
 「韓国政府と二言二句文言を詰めたということは絶対になかった。また、そういうことがあったとの根も葉もない噂が出ること自体も大変遺憾なことだ」
 実際には河野談話は韓国側から約10カ所の修正を迫られており、噂には根も葉もあった。河野氏自身も9年3月31日付の朝日新聞インタビューで「韓国とすり合わせるような性格のものではありません」と事実に反することを語っている。一体、何のためにそうまでして国民の耳目をふさぐ必要があったのだろうか。
 安倍育三内閣は河野談話作成過程に関わる検証チームをつくり、週内に@河野談話の日韓すり合わせの実態A1965年の日韓請求権協定の意義B元慰安婦に「償い金」を支給したアジア女性基金の韓国での対応−の3点について報告書をまとめる。これまで日本政府がなぜか国民に伝えようとしなかった事実関係が開示されるのを期待したい。



産経:河野談話ヒアリング対象者に虚偽証言者
       「奴隷狩り」吉田氏、「従軍」広めた千田氏


 慰安婦募集の強制性を認めた平成5年8月の河野洋平官房長官談話の作成過程にあたる同年1月から5月にかけ、内閣外政審議室が実施したヒアリング(聞き取り)の対象者の全容が、産経新聞が入手した政府文書で明らかになった。
 対象者には、韓国で慰安婦の「奴隷狩り」を行ったと告白したものの、後に全くの虚偽だと発覚した吉田清治と、軍属を連想させる造語「従軍慰安婦」を実際に使われていたかのように広めた作家の千田(せんだ)夏光(かこう)=いずれも故人=が含まれていた。史実や事実関係に基づかない「強制連行説」の原点となった2人の証言に政府が影響を受け、河野談話の強制性認定につながった可能性も否定できない。
 ヒアリング対象者は(1)旧軍関係者12人(2)元朝鮮総督府関係者5人(元経済警察課長、元慶尚北道知事官房主事ら)(3)元慰安所経営者1人(4)元厚生省(現厚生労働省)関係者2人(5)大学教授、研究者3人(6)書物執筆者3人−の計26人。
 このうち(5)の大学教授については、慰安婦性奴隷説を唱える中央大教授、吉見義明とそれを否定する拓殖大教授、秦郁彦の双方から話を聞いており、バランスはとれている。ところが(6)に関しては千田、吉田と『慰安婦たちの太平洋戦争』などの著書がある山田盟子の3人で全員が強制説に立つ作家となっている。
 政府文書では、吉田の肩書について「元労務報国会下関支部動員部長(?)」と疑問符がつけられている。吉田は昭和58年の著書『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』でこの肩書を使って「韓国・済州島で奴隷狩りを行った」「女子挺身隊とは従軍慰安婦のこと」などと記しているが、経歴ははっきりしない。
 同書は韓国でも出版されたが、地元紙「済州新聞」の記者、許栄善が取材すると全くのデタラメだと判明。秦も現地取材を行い、許に会ったところ「何が目的でこんな作り話を書くのか」と聞かれたという。
 吉田は週刊新潮(平成8年5月2・9日合併号)のインタビューでは「本に真実を書いても何の利益もない」「事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやっている」と捏造(ねつぞう)を認めた。
 一方、元毎日新聞記者である千田は昭和48年の著書『従軍慰安婦』で、慰安婦を従軍看護婦や従軍記者のように直接軍の管理下にあるよう印象づけた。ノンフィクションの形をとりながら「女性の大半は朝鮮半島から強制動員した」「慰安婦の総数は昭和13年から同20年まで8万人とも10万人とも言うが、その大半は朝鮮人女性」などと何ら出典も根拠も示さず書いた。
 実際は、秦の推計では慰安婦の総数は2万〜2万数千人であり、そのうち日本人が4割、朝鮮人は2割程度だった。
 産経新聞はヒアリング内容と評価、見解について内閣府に情報公開請求したが「公にすると今後、任意で協力を要請する調査で、公開を前提とした回答しか得られなくなる」との理由で拒否された。
 河野談話は日本国内にとどまらず海外にも弊害をもたらしている。米カリフォルニア州グレンデール市にある「慰安婦」像の撤去を求める訴訟を起こしている目良浩一は19日の記者会見でこう訴えた。「訴訟で中国系団体の介入を招いたのも、真実でないにもかかわらず河野談話があるからだ。日本政府には客観的な事実を広報していただきたい」
(2014/05/20)


産経:軍医論文ヒントに「完全な創作」
   世界に増殖 誤りに謝罪しながら訂正せず (2014/05/20)

 「千田夏光という作家に父が慰安婦制度の考案者のように嘘を書かれ、大変な目に遭った。平成3年ごろから、私の診察室にまで内外からいろんな人が押しかけ『民族のうらみをはらす』とか『謝れ』などといわれ罪人扱いされました」
 こう振り返るのは福岡市在住の産婦人科医、天児都(あまこ・くに)(79)だ。天児によると、千田の著書『従軍慰安婦』には、戦時勤労動員制度の女子挺身隊と慰安婦を同一視するなど63カ所に及ぶ問題記述があるという。
  
 天児の父でやはり産婦人科医だった麻生徹男は戦時中、陸軍軍医少尉として中国各地を転々とした。昭和13年1月に上海で慰安婦約100人の検診をした経験から、14年6月に「花柳病(性病)の積極的予防法」という論文をまとめ上官に提出した。
 麻生はこの中で、検診では「(朝鮮)半島人の内、花柳病の疑いある者は極めて少数なりし」と記し、その理由として日本人慰安婦より若年者が多かったことを挙げている。ただ、軍の命令で行った検診結果の一例を書いただけだが、千田はそれを論理を飛躍させてこうこじつけた。
 「レポートの結果として軍の目は当然のようにそこへ向けられていく。それは同時に、朝鮮人女性の怖るべき恐怖のはじまりでもあった。朝鮮半島が若くて健康、つまり理想的慰安婦の草刈場として、認識されていくことになるのだった」
  千田は別のページにも同様の記述をし、麻生の論文が朝鮮人強制連行のきっかけのように書いているが、同書にはこれに関する実証的な裏付けも何もない。匿名の元経理将校が関連がありそうに証言をしている部分はあるが、この将校が語っているのは13年のエピソードであり、麻生の論文と時期が合わない。
 むしろ麻生は論文で「娼楼にあらざる軍用娯楽所の設立も希望す」「これに代わるものとして、より高尚なる娯楽施設を必要とす。音楽、活動写真、図書あるいは運動が良い」と提言しているのである。
 「千田は自分の都合のいいところだけ拾い読みし、初めから結論ありきで書いている。完全にフィクション(創作)だ」
 こう憤った天児が千田に抗議し、訂正を申し入れたところ、平成8年4月にこんな謝罪の手紙が届いた。
 「朝鮮人女性の比率が高くなったのは麻生論文のためではないということで、ご指摘の通り論文を発表されたのが年のかわってからであったことも明確です。私の記述が誤解をまねき、ご迷惑をかけているとすれば罪は私にあります」
 ところが、作者自身がこれほど明確に著書の根幹部分での間違いを認めたにもかかわらず、結局、それらの部分を訂正した改訂版は出版されず、『従軍慰安婦』の誤った記述が改められることはなかった。
 そして、錯誤の連鎖はこれにとどまらず、「千田が事実として書いた嘘が増殖していった」(天児)のだ。例えば、慰安婦を強制連行された「性奴隷」と認定した1996(平成8)年2月の「クマラスワミ報告書」には、オーストラリア人ジャーナリスト、ジョージ・ヒックスの著書『慰安婦』が引用されているが、天児によると「索引には参考文献がたくさん並んでいて立派な学術書のようだが、千田の本とそれを孫引きした著者のものばかり」だという。吉田清治の名前もある。
 この本には7カ所「ドクター・アソウ」の名が出てくるが、千田の著書を引用する形で「最も健康な慰安婦供給源への基礎をおくのに手助けした」と書いたり、「上海の慰安所の主唱者」と記したり、およそデタラメな記述が多かった。
 さらに『慰安婦』には、麻生が撮った写真が無断掲載されていたため、天児はヒックスに「著作権侵害だ」と手紙を出したが、なしのつぶてだった。
 天児は法的手段に訴えることも考えたが、弁護士は「日本弁護士連合会はあなたと立場が違うから弁護できない」と断られた。日弁連は、慰安婦は「軍事的性奴隷」であり、「軍の強制は明白」との立場を取っているからだ。
 吉田と千田という2人の作家が扇情的に書きつづった創作作品は、当事者や関係者の「それは違う」という異議をかき消し、事実として世界に広まった。それには、検証も確認もせずに彼らを持ち上げ紹介してきたメディアが果たした役割も大きい。

 ■産経:慰安婦問題、クマラスワミ報告書の引用は捏造ばかり。 2014/10/30
 広島県教職員組合と韓国の全国教職員労働組合が共同作成した日韓共通歴史教材「学び、つながる 日本と韓国の近現代史」は、日本軍が朝鮮の女性たちを「戦場に連れていき、性奴隷としての生活を強要しました」と記し、こう決め付けている。
 「望ましいのは、『朝鮮女で、しかも若いほどよい(15歳以下が望ましい)』という軍医の報告により、朝鮮人女性たちが『軍需物資』として犠牲になった」
 ここでいう「軍医」とは産婦人科医の麻生徹男氏のことだろう。麻生氏は陸軍軍医大尉として中国各地を転々とし、上海で慰安婦約100人の検診をした経験から、昭和14年に「花柳病(性病)の積極的予防法」という論文をまとめ、上官に提出した人物だ。
 麻生氏はこの中で、検診では「(朝鮮)半島人の内、花柳病の疑いのある者は極めて少数なりし」と記し、その理由として日本人慰安婦より若年者が多かったことを挙げている。要するに、検診結果の一例を示しただけである。だが、これを作家の千田夏光氏が次のように裏付けなくこじつけて著書に書いた結果、麻生論文が朝鮮人女性の強制連行のきっかけだとの誤解が広まっていく。
「レポートの結果として軍の目は当然のようにそこへ向けられていく。(中略)朝鮮半島が若くて健康、つまり理想的慰安婦の草刈り場として、認識されていくことになる」
 この千田氏の「創作」話が、さらにゆがんで日韓共通歴史教材の記述につながったとみられる。千田氏は軍属を連想させる「従軍慰安婦」という造語の発案者でもある。
 千田氏自身は後に麻生氏の娘である天児都(あまこ・くに)氏からの抗議を受け、手紙で「私の記述が誤解をまねき、ご迷惑をかけているとすれば罪は私にあります」と間違いを認め、謝罪している
 にもかかわらず、虚構は事実を装って独り歩きしていく。
 慰安婦を「性奴隷」と認定した平成8年の「クマラスワミ報告書」には、豪人ジャーナリスト、ジョージ・ヒックス氏の著書が多数引用されている。この本の索引欄を見ると千田氏や、朝日新聞が虚偽と判断して関連記事を取り消した「職業的詐話師」、吉田清治氏らの名前が並んでいるのである。
 ちなみに歴史教材は、拉致されたのは「ほとんどが十代の若い女性たち」とも記す。だが、米軍が昭和19年、ビルマ(現ミャンマー)で捕らえた朝鮮人慰安婦20人に行った尋問記録を読むと、10代女性は1人(19歳)しかいない。
 また、日本軍が朝鮮人女性を「軍需物資」としたとも指摘する。とはいえ、韓国軍が朝鮮戦争期、軍慰安婦を「第5種補給品」と位置づけ各小隊に(ドラム缶に詰めて)支給していたことは、韓国陸軍本部刊行の「後方戦史(人事篇)」に明記されているのである。自らの行為を日本に投影してはいないか。
 こんな教材で子供たちに偽の歴史を植え付けて、日韓が「つながる」道理がない。



産経:グ市の日系人等、慰安婦像の撤去求め提訴へ


 米カリフォルニア州グレンデール市に設置された慰安婦像をめぐり、同市在住の日系人たちがグレンデール市を相手取って、像の撤去を求める訴訟をロサンゼルスにある同州中部地区連邦地裁に起こす。原告側は米国内で広がる慰安婦像・碑の設置の動きや、誤った歴史認識の拡散に歯止めをかけ、慰安婦像の撤去だけでなく、市が慰安婦募集の強制性を裏付ける証拠を持たないきま像を設置したことを明らかにできれば、米国内で生じている慰安婦問題への誤解を解く貴重な機会ともなる。
 原告はグレンデール市在住の日系人とロサンゼルス周辺の日本人在住者でつくるNGO(非政府組織)「歴史の真実を求める世界連合会(GAHT)」のメンバー。21日(米国時間20日)、弁護士を通じて訴状を連邦地裁に提出する。
 グ市の慰安婦像のそばに「戦時中、日本軍が強制連行して性奴隷にした20万人の婦女子が慰安婦にされた」と書かれたプレートが設置されている。訴状によると原告は、慰安婦問題が日韓間の外交問題になっている中、韓国側の「慰安婦は強制的に集められ、ひどい待遇を受けた」との言い分に基づきグ市が像を設置したことは、連邦政府に属する外交権限を侵害していると主張。また、プレートの文言は市議会で承認されていないとし、手続きに瑕疵があったと訴えている。
 原告の一人で、南カリフオルニア在住の目良浩一元ハーバード大助教授(80)は、日本軍が強制連行したと記述されたことなどに義憤″の念を抱き、日本をおとしめようとする試みをただそうと訴訟に踏み切った動機を「日本は捏造された歴史の被害者だ。この被害から逃れるには、積極的に加害者と闘う必要がある。国際社会では自分でやらなければだれも助けてくれない」と語る。
 米国内ではすでに慰安婦像・碑が設けられた4都市以外にも、新たに設置する動きがくすぶっている。原告は訴訟を通じ、将来、提訴される可能性があることを周知することにより、自治体や議会による新たな設置の動きに歯止めをかけようとしている。
 また、グレンデール市が連邦政府の外交権限を侵害していることが認定されれば、「日本海」の表記に代えて韓国政府が主張する「東海」表記を浸透させようとする州レベルの動きに対する牽制にもなる。
 今回の提訴に当たり、原告はオスマン帝国時代によるアルメニア人膚殺に端を発した、さまざまなトルコ対アルメニア訴訟の経験を持つ米国弁護士事務所と契約し、態勢を整えた。
 ただ、最大の懸念は訴訟費用の確保だ。訴訟準備の初期費用は原告が自ら負担したが、訴訟が長期化すれば資金不足となるのは必至。このため、原告の一部がメンバーとなっているNGOのGAHTでは日米両国で寄付金を募る。目良民らは日本人による支援を求めている。
 日本政府は、慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話に縛られて身動きが取れない。(2014/02/21)
 ■グレンデール市の慰安婦像撤去へ立ち上がった日系人
 世界では日本の名誉を貶める運動が盛んに行われています。しかもそれは、自国に都合よく捏造された歴史を流布することによって、日本人の名誉を傷つけ、日本国を残忍な、悪辣国家であると断じているのです。我々は日本国の名誉を保持し、日本人の名声を不当な蔑みから守るために、事実に即した歴史の解釈を世界に発信し、誤解を解くためにこの組織を立ち上げました。訴訟費用の確保が最大の懸念。寄付を募っています。(⇒[歴史の真実を求める世界連合会(GAHT)]

 下記河野談話の説明漫画はネットより。
 


 ■産経:テキサス親父がグレンデール市議会で発言、韓国批判。2014/10/22
 テキサス親父がグレンデール市議会で日本擁護を行った。マラーノ氏は慰安婦像設置に賛成した市議らを前に「慰安婦像は日本人の名誉を毀損している。侮辱している」「今ある慰安婦像が、日本を侮辱する目的で設置したわけではないということを証明できる。この新しい慰安婦のグループのために2つ目の像を考えたらどうだろうか」と、静かに話し始めた。
     
 グ市の慰安婦像のの説明として「20万人の女性が」「日本軍に強制的に慰安婦にされ」「セックス・スレイブとして」などと記されている。これは韓国側の主張だ。グ市がこれを“歴史”として認めるならば、在韓米軍の慰安婦も同じように扱わないと不公平だ、と言っているのだ。だから、マラーノ氏は「今ある慰安婦像のとなりに大理石の記念碑などを設置することをすすめる」と述べたのだ。
 不思議なものだ。在米日本人らが、慰安婦像について反対意見を述べると、「もっと歴史を学ばなければ」「なぜ、過ちを認めない」などとヒステリックに反論していた市議らも、マラーノ氏には何も言わなかった。米国世論に、日本の立場、日本の主張を説明することがいかに重要かを示している。
 慰安婦像設置に賛成した市議らは、マラーノ氏の話を聞き終わると、「サンキュー」と述べた。設置に唯一、反対した市議は「あなたの名前は」と改めて聞いた。




この国に朝日新聞は何をしたのか


 植村氏が名誉毀損で、170人もの人権派弁護団に守られ、訴えを起こしたそうだ。小沢氏は資金力に物を言わせ、最強の弁護団を抱えていたが、170人もの弁護団を要する費用はとても個人ではまかなえないだろう。きっと、朝日にはゾルゲが付いていたように、きっとバックに大物が付いているに違いないと思う。
 そこで、笠倉出版社の[この国に朝日新聞は何をしたのか]から、気になる部分の一部を抜粋しました。そこには、吉田清治のバックに人権派弁護士が付き、植村氏の背後には反日朝鮮人が蠢いているのがよく分かるのです。そして、その共通項がマルクス主義者の福島瑞穂などの人権派弁護士団「というワケなんです。
 だが吉田氏のウソは露呈する。1996年5月2・9日付の週刊新潮インタビュー記事には、吉田氏の次のような告白がある。
「自分の役目は終わった。まあ、本に真実を書いても何の利益もない。関係者に迷惑をかけてはまずいから、カムフラージュした部分もある。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしようがない」
 本人の口からやっと「従軍慰安婦強制連行」の虚偽を認めたのだ。さすがに朝日も翌1997年3月31日に「吉田氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない」との検証記事を掲載したが、訂正記事は出していない。
 1998年9月2日、膨大な取材からこの問題を作り話と断じた歴史研究家の秦郁彦氏は、吉田氏に電話で「著書は小説だった」という声明を出したらどうかと勧めた。すると吉田氏は「人権屋に利用された私が悪かった」とは述べたが、「私にもプライドはあるし、85歳にもなって今さら……。このままにしておきましょう」との返事だったという。
 すでに直腸癌を患い、ほとんど寝たきり状態だった彼は2000年7月30日、86歳で没した。
 秦氏の済州島での現地調査の折り、許記者から、「何が目的でこんな作り話を書くのでしょうか」と聞かれ答えに窮したという。確かにこの「証言」は、単なる詐話師レベルでは終わらない、政治的なスケールを背負ってしまった創作である。世界から日本が大々的に批判されるという結果を作ったその罪は天文学的に大きい。、なぜこんな詐欺的なストーリーを書いたのかという背景こそ、朝日新聞が解明しなければならない最大の闇ではないだろうか(※登録者、この闇こそが朝日新聞の体質そのものだと思う。)。……
 裏も取らずにデマを垂れ流した。朝日には、特定の意図があったと判断せざるを得ない。従軍慰安婦と女子挺身隊の混同の件も含め、朝日新聞が歴史の捏造を図った真の目的を解明すべきではないか。
 1990年のことだ。大分県在住の主婦が韓国に行き、「日本を相手に裁判をしませんか。費用は全部私が持ちます」というビラを撒いた。この主婦は結果的に「原告」探しに失敗するが、日本に帰国後、徴用された人たちの遺族が「やりたい」と申し出てきた。その訴訟過程で登場したのが、元慰安婦の金学傾(キム・ハクスン)というハルモニ(お姿さん)だった。
 しかしこの金ハルモニは40円でキーセンに売られた人だった。強制連行されたわけではない。それを《思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く:1991年8月11日大阪版朝刊》(通称:植村レポート)と報じたのが植村隆記者(当時:大阪社会部)だった。
 金学順という名こそこのレポートには出てこないが、<中国東北部で生まれ、17歳(その後14歳に変わる)の時、だまされて慰安婦にされた。(中略)日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』の一人が名乗り出た>と、報じたのだ。
 植村レポート掲載の3日後、(1991年8月14日)、金ハルモニは記者会見を行い、「母親によって14歳の時にキーセン(芸妓、公鰻)の検番(養成所)に売られた」、「17歳の時に検番の養父に慰安所に連れて行かれた」などと、レポートとは違う身の上話をバラしてしまう。つまり「女子挺身隊」の名で戦場に強制連行されたのではなく「人身売買だった」と語ったのだ。
 これは金ハルモニ会見を記事にした韓国左派系のハンギョレ新聞(1991年8月15日)にも、「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌にあるキーセンの『検番』に売られた」と報道されている。
 また金ハルモニが、その後日本政府に宛てた訴状にも、「14歳の時に40円でキーセンに売られた」とはっきり書いてあるのだが、植村レポ一トやその後の朝日報道には、「親にキーセンに売られた」とは一言も述べられなかった
 植村記者はソウルに留学経験があり、韓国語もできることから「事実」を知っていたはずなのに、わざと書かなかったのではないかとの疑惑が浮上する。また植村記者が独占入手した証言テープにも、「キーセンに売られた」は確実に入っていた
 しかし後日、植村記者は「キーセンだから慰安婦にされても仕方ない、というわけではないと考えた」と釈明し、朝日新聞も「検番とは学校である」と苦しい弁明に終始した。「40円という大金を親が受け取って入学する学校」って、いったいどんな学校というのだろう?
 そもそも、日本大使館前の慰安婦像は、@地元区役所の許可がない無許可の施設であり、A外国公館に対する侮辱・嫌悪施設は認めないというウィーン条約違反であり、B大使館周辺百メートル以内でのデモ・集会禁止という定めにも違反している。こんなむちゃくちゃなことを放置しておくなんて、法治国家が聞いて呆れる。
 ■慰安婦証言は嘘ばかり
 1991年、1992年と日本が韓国に対して朝日の報じた「従軍慰安婦の強制連行説」を謝罪している最中、韓国のソウル大学の韓国史学者として名高い安乗直(アン・ピョンジョク)現名誉教授をキャップとする「挺身隊研究会」が立ち上げられ、元慰安婦40人から聞き取り調査が行われた。
 このうち資料としてまとめることができたのは19人で、半分以上の人は明らかな「なりすまし」として弾かれた。しかも、その中でも「強制」と主張している人はたった4人だった。
 この4人のうちの1人は韓国の釜山で「慰安婦として働かされた」と言い、もう1人は日本の富山県で「慰安婦をさせられた」と語った。しかし両地とも戦地ではない。戦地以外に軍の「慰安所」があるはずもなく、それだけで「慰安婦の強制」ではないことが分かる。
 残る2人は、日本政府を相手どった裁判(原告は遺族会)で訴状を出しているが、訴状にはいずれも「キーセンとして身売りされた」と書かれている。この2人のうちの1人が金ハルモこ、もう一人が文玉珠(ムン・オクチエ)さんだった。
 「挺身隊として現場に行ったのだが、実際は慰安婦にされた」というのが朝日や日韓の反日・左翼勢力の主張だったが、実は金ハルモこを含め「挺身隊という名目で連行され、慰安婦にざれた」と主張している慰安婦ば一人もいなかったのである。
 ちなみに現在「挺対協」や「遺族会」から「日帝の手先」と罵られる安名誉教授は、あるところでこう語っている。
<約20年前、私は「挺対協」という団体と共同で慰安婦問題を調査していた。しかし、次第に「挺対協」の目的が慰安婦問題の本質に迫ることではなく、ただ日本を攻撃することだとわかり、調査団から離れた。その後はお前はバカな親日家だ″などと罵られ、研究者としての任事もしづらくなった。だが、究者の仕事は事実を明らかにすることであり、事実をねじ曲げることではない。その信念は今も変わらない>
 立派な態度といえよう。
 ■マルクスの亡霊に操られる人権派 … 読者より
 吉田清治は詐欺師であり、共産党から立候補した事もある。だが、誰に乗せられたのかというと、彼は人権屋に乗せられたと云って死んだ。
 一方、自称慰安婦婆さんを探しにアジアにでかけたのは、左翼の人権派連中です。
 さて、戦前、ゾルゲは朝日を支配し、言論界や政界に影響を与えていた。戦後、牢獄の左翼が放出され、高官や大学総長などに着いた。彼らが人権派だ。歴史問題が日本を屈服させる武器になると教えたのは、人権派=戦後利得者=ソ連由来の共産主義者です。そして、今彼らは、中韓をも利用して、日本を皇室を滅ぼそうとしている。
 つまり、旧ソ連は滅びたが、日本に巣くうマルクスとスターリンとゾルゲとルーズベルトの亡霊を崇拝する連中に、日本は滅ぼされようとしている。真の敵が誰なのかを知らないと戦えないと思う。そして、名誉毀損で訴え出た植村氏の弁護団には、福島瑞穂のような人権派弁護士が勢揃いしているのだ。本来なら、法廷闘争ではなく、事実を明らかにする言論で反論すべきなのです。この事実を明らかにしようとはせず、法廷闘争という手段に打って出るこの姿勢は、仏紙襲撃事件と本質的には変わらないであろう。

 長年にわたり朝日の「吉田証言」の「女狩り」をベースにして「人権派」と称する弁護士や支援団体が、戦時中に満足な教育を受けられず(朝鮮に学制を敷いたのは日本だが、それでも隅々まで浸透しなかった)、漢江の奇跡(日韓基本条約締結による日本の経済援助で、韓国は急速に経済力をつけた)の恩恵からも漏れた元慰安婦たちを、自分たちの都合がいいように振付けしていったのだ。
 金ハルモニもいつの間にか「父親は独立運動の闘士で日本兵に殺された」とか、「自分は光復軍爪朝鮮独立義勇軍)と同じ船で解放苦れた韓国に凱旋した」と述べるようになる。もう、こうなると韓国の学者でさえサジを投げ出したくなるだろう。
 「従軍慰安婦強制連行」問題で、忘れてならないのは日本の「人権派」弁護士の存在だ。日本政府を相手取った慰安婦による賠償請求訴訟で、弁護団の一員だったのが、後に国政に転じ社民党代表となる参議院議員の福島瑞穂氏だ。1991年1月に代表発起人として「『従軍慰安婦』問題を考える会」を発足させ、関係者から慰安婦についての聞き取りを行った。
 植村レポートをきっかけに福島弁護士は、高木健一弁護士らと共に日本政府に賠償を求め、1991年12月6日に東京地裁に提訴した。植村レポートからわずか4カ月後のことだ。訴訟の原告募集に応募したのが、植村レポートで書かれた「遺族会」所属の第一号・金ハルモニと、第二号の文ハルモニだった。
 金ハルモニは、「14歳で親にキーセンに売られた」と自白″していたが、その後、福島氏が弁護人を務めた裁判では「軍人に無理やり慰安所に連れて行かれた」と証言を変えた。朝日の虚報に乗じて裁判を有利に運ぼうとしたのか。

 <余計なことを言うな!>(産鍾新聞2014年5月25日付)
 この発言は、いつ、どこで、誰によって発せられたのだろうか。1992年8月にソウルで開かれた『挺身隊問題アジア連帯会議』には、各国の慰安婦関係者が集まった。この会議では、台湾代表が個人賠償を求めないことを表明した。また戦時中にインドにいたタイ人女性が「英国兵は日本兵よりもっと酷いことをした」と主張した。この発言の際に横やりを入れる形で飛び出したのが、前記の発言である。発言主は判明しているが、ここでは書かない。
 福島弁護士は「河野談話」作成前の聞き取り調査にもオブザーバーとして同席しているが、その会場は韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」の事務所だった。提訴後の朝日記事の見出しには、《従軍慰安婦にされた朝鮮女性半世紀の『恨』提訴へ》とか、《問われる人権感覚制度の枠超え真の補償を 韓国人従軍慰安婦の提訴》と打たれ、「わずか17歳で慰安婦にさせられた」という大キャンペーンを展開し、朝日は福島・高木両弁護士への援護射撃を続けた。
 しかし「遺族会」は訴訟に敗れ続けた。会員3万人から集めた15億ウォン(約1億1400万円)は露と消え、真偽は定かではないが、梁順任は「職印」を持って一時姿をくらましたとされる。
 元従軍慰安婦だったと称する文ハルモニの訴訟を眺めると噴飯物だ。文ハルモニは、3年間の慰安婦時代に貯金した計2万5145円(当時の金額)の返還要求を日本に起こした。その金額たるや、目の玉が飛び出るほどの高額である。別の慰安婦の体験記によれば「五千円もあれば故郷の大邸に小さな家が一軒買えた」というのだから、いかに高額を受は取っていたかが分かる。
 つまり文ハルモニは、たった3年の間に5軒の大家になれる大金を手にしていたわけだ。もちろん戦時売春婦(朝日はこれを「従軍慰安婦と吹聴じている)として稼いだ金である。
 まさにハイリスク・ハイリターンの世界。そもそも強制連行され奴隷のような扱いを受けたはずの朝鮮女性が、これだけの貯金ができたという事実。彼女らの主張を日本の裁判所が納得するはずがなかった。
 金ハルモニの供述は、証言の度に設定が変わった(二転三転する慰安婦の証言も含め、自称慰安婦の大半が慰安施設の所在地についてとぼけるのは、弁護士から口止めされていたから…)。連行された時期は1939年だったり1941年だったり。あまりのデタラメぶりに秦氏は調査意欲を失い、さすがの人権派弁護士も頭を抱えた。
 植村レポートには<200〜300人の部隊がいる「中国南部」の慰安所に連れて行かれた>と書かれていたが、4日後の顔出し会見では、<検番の養父に連れられて行った所が、「華北」の日本軍300名あまりがいる部隊だった:1991年8月15日ハンギョレ新聞>
 南支と北支ではイタリアとノルウェーくらいの距離と気候の違いがある。証言する元慰安婦が地域と時期を特定すれば、そこに旧日本軍のどの部隊が展開していたか、記録から判別することができる。
 自称慰安婦の大半が慰安施設の所在地についてとぼけるのは、記録との照合を恐れる弁護団から口止めされていたからではないのだろうか。
 次いで金ハルモニは「部隊と共に転々とした」と言い始める。これは地名の記憶をどまかすためと、慰安婦は部隊に同伴したとする「従軍慰安婦」の設定を磐石にするシナリオに則ったものと推測される。
 金ハルモニは慰安所に幽閉された時期を3カ月、植村レポートでは数カ月、挺対協が作成した証言集では4カ月……。いずれも短期アルバイト″の類であり奴隷のそれではない、しかも当時の日本軍の移動としては短かすぎる。
 金ハルモニも、福島弁護士が担当弁護士となった裁判の訴状には、<救出者(アヘンの売人)に付いて南京、蘇州そして上海へ逃げた。上海で二人は夫婦となり、フランス疎開の中で中国人相手の質屋をしながら身を隠し、解放の時まで生活をした)と証言した。上海で金ハルモニ夫妻は、何と貸金業「松井洋行」をオープンしている。第1章で述べた「慰安所脱走」の約2年後だ。
 繰り返し言うが「戦時売春婦(慰安婦)」はたしかに存在した。だが、それは大金を手に入れることを目的に、親や夫に売られ、あるいは騙され(た結果、不本意ながら)、もしくは自由応募で、戦地に赴き、大金を手にした売春婦だったのだ。

 朝日は吉田証言撤回の紙面で、これでもかと言うほど悪あがきしている。つまり、謝罪に見せかけてはいるが、悪質な体質は何ら変わっていないのだ。
 朝日のH26年8月5日付の「吉田証言」撤回の紙面には、次のように記されている。
<(韓国では)軍などが組織的に人さらいのように連行した資料は見つかっていません。一方インドネシアなど日本の占領下にあった地域では、軍が現地の女性を無理やり連行したことを示す資料が確認されています>
 これは1944年にインドネシアで起きたスマラン事件の裁判記録を指しており、性懲りもなく日本軍の「強制性」の証拠として取り上げているのだ。「強制連行があった」という言い分けのようなものである。しかしこの事件は、現地の「オランダ人女性」を連れ出して強姦し慰安婦扱いしたというもので、そういうことがあったのを知った日本軍上層部は、慰安所の閉鎖を命じている。当事者の日本兵士は戦後に、連合国により処刑された。
 つまり一部の旧日本兵の個人犯罪なのだ。組織だって軍が関与したものではない。にもかかわらず、軍命令の痕跡を必死で探そうとしていたようだ。
 このスマラン事件を拠り所に1990年代、高木健一弁護士らの日弁連は、インドネシアにおける慰安婦の対日補償請求運動の支援を行った。1992年、インドネシア外務省は慰安婦問題について、「韓国が(日本に対して)行ったような要求を出すつもりもない」と声明を発表しているのにもかかわちず、翌年1993年4月、高木弁護士や村山晃弁護士等日弁連調査団がインドネシアを訪問し、地元紙に「補償(200万円=現地貨幣価値約2億円)を受けられるから元慰安婦は名乗り出て欲しい」と。そうしたところ、2万人誓い女性が名乗り出た。インドネシア側では「バカバカしい。インドネシア駐留日本軍は2万人。兵士1人に1人の慰安婦がいたのか?」と吐き捨て、当時の社会相も「両国の友好を傷つける日本人がいることが明白になった。我々には日本人への逮捕権がないから日本政府に逮捕してほしい」と訴えたほどだ
 こうした事実があるのに、慰安婦強制連行の証拠探しに躍起な朝日は、2013年11月28日付の紙面で《慰安婦問題インドネシアの女性証言「日本軍のテントに連行された」》という記事を掲載した。結局この記事は、「裏付けは取れなかったが、内容は信用できたと苦しさのにじみ出るような結びとなっている。
 インドネシアとは対照的に、韓国メディアには高木弁護士などの慰安婦問題支援のDNAが脈々と受け継がれているようで、朝日が虚報と認めた事実をどうしても受け入れられないようだ。2014年8月中旬、元国連人権委員会の特別報告官だったスリランカ人法律家・ラディカ・クマラスワミ氏へのインタビュー記事を、韓国メディアが一斉に報じた。後述する国連人権委員会「クマラスワミ報告書」の立役者だ。韓国外務省のお膳立てでのインタビューだった。
 氏が主導した1996年の国連人権委員会への報告書、いわゆる「クマラスワミ報告書」は、詐欺師の吉田証言が引用されているばかりか慰安婦を「性奴隷(セックス・スレイブ)」と断定し、その人数を「20万人」と記述している。氏からは「(日本の姿勢は)再び後退(右傾化)している」との韓国マスコミ同様の日本批判を引き出し、「吉田証言が虚偽だったとしても報告書の内容はなんら変わらない」という言葉をゲットした。韓国メディアの意気揚々ぶりが窺える。
 慰安婦訴訟で暗躍し、日本を世界に対して辱めて、自己満足している人権派弁護士達がいる。
 慰安婦問題に詳しい現代史家の秦郁彦氏が、済州島に取材に行く前、金学順氏に訴えを準備させていた高木健一弁護士に電話をし、「彼女(金学順氏)は(訴状で)キーセンに売られたと書いているし、そう証言してもいるじやないか」と異議を唱えた。その時とき、「あれは玉が悪かった。いま、次のいいのを準備している」と高木氏は反論したのだ。
 「悪玉」と蔑まれた金ハルモニは当時、東京訴訟の原告に祭り上げられていた。原告側弁護団は、真実を吐露した金ハルモニを三流タレント扱いにしていたことがよく分かる。金学順ハルモニは、慰安婦にされたことに我慢がならなくて世間に訴え出たのではない。日本のテレビ局が彼女にインタビューした時、通訳が「おばあちゃん、なぜ(慰安婦として)名乗り出たの?」と聞いた。
 すると金ハルモニは、「寂しかった。親戚も誰も訪ねてこない。食堂でテレビを見ていたら徴用された人が裁判を起こしたと報じられていたから、私も仲間に入りたいと思った」のだと語った。
 金ハルモニに接見した高木弁護士は、金ハルモニの頭の中には「慰安婦」「強制連行」というものはないことを見抜いていたのではないだろうか。本来なら、「あなたは当事者にはなれません」とか「出ない方がいいですよ」とかアドバイスするのが人の道というものだろう。
 また、慰安婦問題で日本の否定的な印象を世界に広めたのは戸塚悦朗弁護士だ。氏は『戦争と性』(第25号2006年5月)で次のように述べる。
<筆者は、1992年2月の国連人権委員会で、朝鮮・韓国人の戦時強制連行問題と「従軍慰安婦」問題をNGO「国際教育開発(IED)」の代表として初めて提起し、日本政府に責任を取るよう求め、国連の対応をも要請した。(中略)それまで「従軍慰安婦」問題に関する国際法上の検討がなされていなかったため、これをどのように評価するか新たに検討せざるをえなかった。結局、筆者は日本帝国軍の「セックス・スレイブ」と規定した>
 と自慢げに述べている。この規定が国際社会における中韓反日謀略のスタートだった。日本人の法律家が、国連まで出向いて自国誹誘を延々と続けるのだから、多くの国の外交官は彼らの言う「セックス・スレイブ」説を真実と信じる。
 1996年、戸塚弁護士の国連ロビー活動は実を結び「セックス・スレイブ」は国連の公式文書に採用されたのである。日本を悪者にしたい輩は朝鮮・韓国、中国だけでなく、なんとわれわれの同胞である日本丸の中にも数多く存在しでいるのだ。
 ■李氏朝鮮の常識!…徴用=性的サービス
 女子挺身隊とは1943年に創設された14歳以上25歳以下の女性が市町村長、町内会、婦人団体などの協力により構成していた勤労奉仕団体のことだ。
 国家総力戦となった第2次大戦では、米英は日本より先に国民総動員体制を敷き、あの英国・エリザベス女王も英陸軍に勤労奉仕した経験を持つ。
 一方、日本統治下にあった朝鮮では、「挺身隊」を「慰安婦」の意味で使う事例が1946年の新聞記事にみられる。1944年7月の朝鮮総督府官制改正の資料には、「未婚の女性が徴用で慰安婦にされるという『荒唐無稽なる流言』が拡散している」という記述があるが、実際に朝鮮人の間では戦前から「挺身隊」と「慰安婦」が混同されていた。
 それはなぜかと言うと、李氏朝鮮時代には下賤階級に生まれた女子は生まれた時から慰安婦候補″であり、両班(朝鮮貴族‥ヤンパン)から常に徴用″され続けていたからだ。朝鮮女性にすれば、日本国民として新たな支配層からの「徴用=挺身隊」はイコール慰安婦と認識されたのも、ある意味仕方のないことだったのかもしれない。
 記事の詳細は後述するが、韓国紙が12歳(11歳との報道もある)で慰安婦にさせられた少女がいた、と報じたことがある。記事には、その子は「勤労挺身隊」で徴用され日本に働きに渡った子だった。
 その子を送り出した教師は、「自分が送り出した子たちの何人かが、終戦後帰国しないのでどうなったかと手紙を出して調べたところ、ソウルに戻らないで地方に戻り全員無事だった」ということが分かる。これ●●●●●●が「12歳の少女も挺身隊(慰安婦)に動員された」という記事になってしまったようだ。

 宮沢政権はその末期に、朝日新聞と人権派弁護士と左翼言論界に攻撃され、ついには韓国政府の口車に乗せられ、河野談話(韓国主導の河野談合)で窮地に陥ってしまいます。
 日本政府の調査では、慰安婦の移送、衛生管理に関する通達や連絡は確認できたが、女性たちを強制的に従事させるという類の資料はまったく発見できなかった。しかし、韓国側がその説明に納得しなかったため、最終手段として行われたのが元慰安婦16人に対する聞き取り調査だった。
 石原元副長官は衆院予算委員会でこう答弁している。
<当方の資料として、直接日本政府あるいは日本が強制的に募集したと裏付けるものはなかった。16人の方の証言を日本側の担当者が聞いて、それを記録して帰国したが、その後、証言(16人)の事実関係を確認する裏付け調査は行われていない
 つまり、石原元副長官が言うには、日本政府や日本軍が強制連行したなどという証拠は、何の裏付け調査もしていない元慰安婦の一方的な証言しかなかったということだ。しかも、これまでの日本国内での報道によれば、韓国側は内々で「とにかく強制連行を認めてくれれば、国家賠償などは求めないし、今後一切このことで新たに日本を責めるようなことほしない」というニュアンスのことをほのめかしたというのだ。そして河野元官房長官はこれに乗った気配があるのだという。こうなると「河野談話」ならぬ「河野談合」であろうか。
 実際に対応にあたった谷野作太郎・外政審議室長は、いわゆる中国語研修を受けた外務官僚で「チャイナスクール」出身者として駐韓国公使、駐中国大使などを歴任し2001年に退官した人物である。内閣外政審議室長としては、河野談話だけでなく、「侵略」や「植民地支配」について公式に謝罪した「村山談話」の作成にも関与しており、内幕を知るキーマンだ。
 その谷野氏は、雑誌「世界」(2013年9月号岩波書店)のインタビュー記事で、河野談話についてこのように内幕を述べている。
<攻撃する方々(韓国側)は、あそこ(官憲による女性への強制連行はなかったとする日本側資料)に書いていないことをあたかも書いてあるように勝手に膨らませ、その上で、その証拠を出せと攻撃する。おかしなことです>
 金学順さんの提訴、朝日記事における金学順さんの「身売り」の事実隠し、同じく朝日の「慰安所への軍関与」記事という流れの中で、前述したように、まず加藤官房長官が「お詫びと反省」を発表し、謝った。1992年1月13日の出来事だが、いま思えば、事実を調べる前にまず謝ってしまったのがいけなかった。いろいろな見方が出来るだろうが、これが日韓関係がこじれる出発点となってしまったのは間違いないようだ。
 そいて、宮沢首相が1992年1月17日に訪韓し、慮泰愚大統領に8回も謝ったのだが、これも事実関係を調べる前のこと。韓国民にしてみれば、日本のクオリティーペーパー(と思われている)朝日新聞が報じ、テレビが毎日のように報道し、日本の総理が韓国にやってきて謝れば、誰だって「従軍慰安婦」の「強制連行」は事実だと思ってしまう。
 《戦中の勤労奉仕隊に11歳の少女も動員:1992年1月15日朝日新聞朝刊》とは朝日記事だが、韓国のテレビドラマで、平和な村に憲兵など(憲兵とは軍人を取り締まる役目、なぜ憲兵なのか意味不明)が現れて十代の女性を強姦し、ジープに乗せてさらって行くという番組が作られたのもこの頃だ。戦前・戦中を知らない若い韓国世代は、あたかも捏造を事実であるかのように受け取ってしまったに違いない。
 朝日新聞の2014年6月21日付け社説は、河野談話を再調査するという意向が感じられる安倍政権の動きを牽制している。
《韓国にすれば、日本側から秘密にしようと持ち掛けられていたことである。それなのに了承もなく、一方的に公表されるのは信義に反する》
《日韓両国に、互いになじり合う余裕はない。河野談話をめぐつて「負の連鎖」を繰り返すことなく、今度こそ問題解決の原点に返るべきだ》
 どこまで韓国側の肩を持つつもりなのだろうか。こんな社説を書いたのは、政治社説担当のK記者。小泉首相の平壌訪問に同行したという朝日の次代を担うとされる気鋭の論説委員だ。
 そんな中、「河野談話」の作成過程を検証した有識者による報告書が出た。今回の報告書では、当時の日韓両政府が談話の文言を原案段階から綿密に擦り合わせていたことが明らかになった。1993年7月の日韓外相会談では、当時の武藤嘉文外相が「文言は内々に事前に相談したい」と申し入れたことを受けて、事務レベルで文言の調整が始まったことも判明した。
 問題は次の2点だ。  要するに、河野談話が言う「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が多くあり、さらに、官憲等が直接これに加担したこともあった」などという軍や警察による「強制連行」は完全に否定されたのである。
 朝日とすれば「吉田証言」否定後も「河野談話」は死守したいところだろう。かつては、韓国のほかフィリピンやインドネシア、さらには親日国である台湾まで巻き込む朝日の慰安婦報道がなされていたのだから。
 北朝鮮や台湾に関する従軍慰安婦の朝日記事には、次のようなものもあった。民間レベルの調査だが、台湾で行なわれた聞き取りでは(十七、十八歳頃、南洋へ派遣された。腕に「慰」の入れ墨をされ、敗戦まで慰安婦にさせられた)という話が出てくる。
 「慰の入れ墨をされ」などとはおどろおどろしい表現だが、台湾人による『台湾人と日本精神』によると、そういう悲惨な話はなかった。一部を引用する。
<引き揚げ者の中には、海南島から日本兵と共に引き揚げてきた20名ほどの台湾人慰安婦の姿もあった。>
<彼女らは口々に、「海南島は儲かるし、それよりも兵隊さんが喜んでくれたのです」と語っていた。>
 著者は、そう記した後、強制連行はなかったと伝えている。親日派が多い台湾ではあるが、全ての人が日本に友好的とは限らない。そのことについて、氏は嘆きの言葉を残している。
 朝日の報道を否定する話はまだまだある。「正論」(1999年8月号)に掲載された許文龍氏(実業家、李登輝元総統の国策顧問)への取材記事では、次のように描かれている。
<日本でくすぶり続ける慰安婦の「強制連行」なる問題に首をかしげた許氏は、戦時中に慰安婦だった女性を集めてその事実を明らかにしたのである。もちろん結果は、日本の一部のマスコミや学識者がヒステリックに訴えるような「強制連行」なる事実は存荏しなかった
 同誌は、米軍による北ビルマのミチナ慰安所の慰安婦からの聞き取り報告も(戦争情報局関係資料、心理戦チーム報告 No49 ビルマ<19944年10月1日>から)掲載している。
 それによれば<日本人の業者が朝鮮半島に赴き><東南アジアにおける「軍慰安業務」のため>に女性を募集したとある。宣伝文句は「高収入、家族の借金返済のための好機、軽労働等」で、多くの女性が応募、当時の金額で200〜300円が支払われたという。今も昔もこの種の業者が使うキャッチフレーズは、さして変わらないらない。
 また、一人に一部屋が与えられ、現金を多く持っていたことから買い物も割と自由だったという。そこでは慰安婦裁判で「宝石を買い漁った」という陳述をした元慰安婦の例が出され、強制性がなかったことが示唆されている。
<ビルマにいる間、彼女ちは(日本軍)将兵とスポーツを楽しんだり、ピクニックや娯楽、夕食会に参加した。彼女らは蓄音機を持っており、町に買い物に出ることを許されていた>(毎日新聞1992年5月22日)
 この記事から連想される世界は、割り切って売春婦となった女性たちの、それなりに平和で長閑な生活である。そんな女性たちが、性奴隷(拉致、監禁、強姦をされた女性)なんかであるはずがない。
 朝日は安倍政権を葬ることもだが、捏造までして日本の負の遺産を告発している。
<韓国の反日・嫌日感情 糾明必要な「日本の負の歴史」:1992年3月7日朝日新聞東京版朝刊>
<これを見ろよ。日本人はあまりにもひどすぎる」。いつも愛想のよい笑顔を振りまいてくれるアパートの守衛が、興奮した口調で新聞の写真を突き付けてきた。>と、これは始まる。
 ちなみに、記事の中で記者が見せられたという、日本兵などが行ったとされる残虐行為の証拠写真の数々は、今日ではそのほとんどが、李承晩政権時代における韓国民・虐殺の写真であることが判明している。つまり、自国の政権が自国民に行なった蛮行を、日本人のせいにしているのだ。(※韓国軍が別な無で行った残虐行為や、朴大統領時代に韓国政府が慰安婦を物資として取り扱っていた事実を、日本人のせいにしているのだ。
 この記事では、韓国人が「嫌日」になったのは、日本が従軍慰安婦を強制連行した「負の歴史」にあると主張したい思いが見え見えだが、その思いがあからさまに過ぎるのが難点だ。あまりにも書いた記者、の主張が強く出過ぎている。「嫌日」にしたのは、朝日新聞が「吉田証言」を勢いづかせたからではないのか。
 ■朝日の誤報同様に責任がある外務省の怠慢(※反日姿勢)
 植民地支配を受けた民族として、もともと基本的に反日・嫌日の韓国だが、その感情をより強く持つに至った責任は、一体誰に、どこにあるのか。
 国連の人権委員会で「吉田証言」は引用され、国連の公式文書には「性奴隷(セックス・スレイブ)」と表現された。日本は国連加盟国のはずだから公式に反論すればいいのに、外務省はそれをやっていない。この外務省の怠慢は、朝日の誤報同様に責任重大で、その結果「セックス・スレイブはあった」ということになってしまった。
 現在、慰安婦問題はアメリカに飛び火している。アメリカの華僑と在米韓国人による反日ネットワークが、この10年くらいの間に急成長している。背後には韓国の左翼勢力と北朝鮮、抗日連合(中国共産党との関係が深い)がいる。
 従軍慰安婦については、アメリカの保守派までもが誤解をし、決議がされようとしているのに、在米日本犬便館では「決議を通さないでくれ」と根回しをするだけ。事実に踏み込んだ検証や説明はしていない。「日本は歴代の総理が謝っている。このことに対する事実誤認がある(謝罪していないと思われている)」というお粗末なことを言ってのける始末だ。
 つまり、やっていることと言えば、「河野談話」から「村山談話」の紹介、そして歴代の総理がアジア女性基金にお金を出す時につけた謝罪の手紙を英訳して配っているだけだ。こういうお役人の対処では、「性奴隷」はあったけれども謝ったのだから決議はやめてくれ、と言っているに等しい。(※逆効果だ。つまり、外務省は反日なのです。)
 韓国外務省報道官は「『河野談話』を見直さないことだけでは問題は解決しない」と、相変わらずの強気な姿勢を示している。それどころか、韓国女性家族省は、慰安婦関連資料をユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界記憶遺産」登録に向け、申請する計画を進めている。日本側がどう対処しようが、韓国側は慰安婦問題の拡大をエスカレートさせる姿勢だ
 現在、アメリカでは「カリフォルニア慰安婦像撤去訴訟」が争われている。やっと日本側が反撃を始めたのだ。原告の一人は南カリフォルニア在住の目良浩一元ハーバード大助教授。「グランデール市議会で行われた公聴会で、訴訟に反対する演説者が「日本軍の兵隊はセックスの褒美をもらうために一生懸命、戦争をしたのだ」と主張したことには呆れたようだ。
 訴訟は最高裁まで視野に入れ、5年がかりの長期戦を想定しているようだ。しかし、日本の名誉がかかったこのような法廷闘争を、個人に任せっばなしでいいのか。日本は国家として対処すべきだろう。
 
 ■従軍慰安婦を勉強させる日教組
 産経新聞は、2014年7月22日付朝刊で韓国ツアー計画の問題点を指摘し、大分県教委は翌23日、大分県教組に対し自粛を含めて対応するよう求めた。しかし予定通り旅行は実施された。県教育委員長が指摘した問題点は2つだ。
  @.募集と代金徴収が旅行業法違反の疑いがある。
  A.訪問先に「日本軍『慰安婦』歴史館」が含まれている。
 また旅費は2万5000円という格安だが、そのからくりはこうだ。ツアー代金には、各学校の学年主任や生徒指導主任などに支給される『主任手当て』が、補助金として充てられていたのだ。
 大分県の場合、主任手当てとして日に200円が支給される。日教組は主任制虔を『管理教育の象徴』などといって表向きは拒否しているが、大分県ではこの手当てが県教組に拠出されてプール金とされ、各種の活動資金に回されてきた。今回もこのプール金からざっと500万円の補助金が出ているのだ。
 大分県教組は1970年代から主任手当ての徴収を行っており、その額は「年に4000万円〜5000万円」という莫大なものだ
 しかし、本来教諭に支払われる手当は、元をたどれば税金である。となると大分県教組は、国民の税金を使って「反日教育」を実施しているわけで、これはいかがなものかと言わざるを得ない。
 これまでも北海道、神奈川県などでこうした「プール金」が、支援党への選挙資金化したことが問題となった。このツアーは今年で12回目が終了したわけだが、「吉田証言」がうそ八百だったことが判明した今、今度はどんな「反日ツアー」を考えるのだろうか。
 
 ■比最高裁が従軍慰安婦の訴えを却下
 フィリピン最高裁が2014年8月12日、旧日本軍の従軍慰安婦だった女性らが、日本政府への謝罪要求を支持するようフィリピン政府に求めていた裁判で、原告らの訴発を却下した。
 最高裁は2010年5月の判決で既に訴えを退けていたが、2011年に韓国の憲法裁判所が元慰安婦の賠償請求について政府が措置を講じなかったのは適意と判断したことを受け、原告側が判決見直しを要求していた。ところが、原告らの訴えが再び退けられたことで、今回の裁判は幕引きとなった。原告側の代理人は「残念だ。フィリピンは戦時に強姦を認めるよう国になってしまう」と、最高裁の判断を批判した。
 フィリピンや台湾の慰安問題で疑問に思うのは、なぜかいつも韓国人の元従軍慰安婦が一緒にメディアに出たり、記事に登場していることだ。慰安婦の陰には必ず韓国がいた、というのは、穿ち過ぎだろうか。(※韓国の反日宣伝工作予算は莫大な額だそうです)

 諸外国との友好関係を損なう日本人グループがいる。
 朝日の慰安婦記事を補強し続けた一人として、先に紹介した記事にたびたび登場した吉見義明中央大学教授がいる。評論家の池田信夫氏ほ2014年8月6日、氏のブログ上でその吉見教授に対する見解を発表した。
 朝日の記事に対して辛辣な意見を持つ池田氏であるが、ここでも朝日の慰安婦報道を嘘と決め付けをつえで(ごまかしの主犯が吉見義明氏だ)と容赦ない。
 池田氏は続けて、吉見氏が1995年に出版した『従軍慰安婦』を引用し、吉見氏がその本の中で(「強制連行」という言葉を使わない)でいたことを指摘している。にもかかわらず、後に慰安婦の強制性を認めるようになった論理として、吉見氏の著作から(たとえ本人が、自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果なのだ『従軍慰安婦』P103)という文言を引用、これに対し、池田氏は“この定義に従えば、募集も斡旋もすべて強制だ”と看破している
 確かに、池田氏が指摘している吉見氏の論理を使えば慰安婦だけではなく、貧乏人や失業者であれば何でも「強制」になってしまう。そして吉見氏に限らず、慰安婦問題を追求する側の論理は、当時どれも似たようなものだったと察せられる。
 インドネシアのスノエ元社会相は、高木弁護士らがインドネシアで従軍慰安婦の名乗り出を募集した時、「インドネシアの恥部をさらけ出し、インドネシア民族の名誉を傷つけ、両国の友好関係を損なう日本人グループがいることが明白になった」と述べた
 この日本人グループこぞが韓国側と連携し、日本人の名誉と日本を腔める活動をした、一群の人々だったのである。
 最終的に元慰安婦16人の聞き取り調査が行われたのだが、石原元宮房副長官は、こう言っている。
<当方は資料として、直接日本政府、あるいは日本が強制的に募集したと裏付けるものはなかった。16人の方の証言を日本側の担当者が聞いて、それを記録して帰ってきたが、その後、この証言の事実関係を確認する裏付け調査は行われていない>
 要点を整理すれば、1〜7のようになるだろう。
  1. 日本側が強制的に慰安婦を集めたという証拠がないことを再三再四にわたり表明したにもかかわらず、韓国側は執拗に再調査を要請してきた。
  2. 韓国側から元慰安婦の話を聞いてほしいと言われて、日本政府は聞き取り調査を行った。韓国側は「元慰安婦は強制的に慰安婦にさせられたと言っているのだから、それを認めろ」と主張した。
  3. そこで日本政府としては、「慰安婦の募集にあたり、業者が甘言を弄するなどして強制的な募集を行ったケースがあり、これに官憲が関与した可能性もある」とあいまいな表現にした。
  4. 元慰安婦の発言に対して裏付けを取っていなかったのは、当時はとてもそんな雰囲気ではなかったから。
  5. 河野談話を発表する前に、韓国側と摂政が行われて、どう談話の内容や文言が決められたのかは、自分は承知していない。しかし、このような文書を発表する際に、韓国側とすり合わせすることは当然あっただろう。
  6. 本来、河野談話を発表した主旨は、未来志向のためであり、これを発表することで、慰安婦問題が決着することを目的としていた。事実、河野談話以降、韓国政府はしばらく慰安婦問題を持ち出すことはなかった。
  7. にもかかわらず、最近は韓国政府が慰安婦問題を世界に広め、慰安婦像まで設置している。
 いずれにしても、日本政府や日本軍が強制連行したという証拠根拠は、裏付けのない元慰安婦の証言だけでしかない。結局この慰安婦問題は、日本が情けを掛けたら見事に仇で返された、という結果となったのである。
 1993年以降、韓国が「河野談話」を切り札にして、日本に対し「歴史問題を直視しろ」と責め立ててきたことに多くの日本人が苛立ってきた。「河野談話」の作成過程や調査に応じた慰安婦の素性などへの疑惑は、かねてから囁かれてきたが、朝日などの一部メディアによって矯小化されたり歪められてきた。安倍政権が再調査というニュアンスをにおわせただけで激しく反発した。
 日本政府は「河野談話」の作成過程の検証を有識者チームに進めさせていたが、2014年6月20日、その結果をまとめる報告書を公表した。
 韓国は「河野談話」の検証がよほど気に障ったのだろう。公表に合わせるかのように、竹島周辺の日本の領海内で射撃訓練まで実施した。
 6月21日の各新聞は、一斉に検証チームによる報告書の内容と論評を掲載した。以下はその見出しである。  「河野談話」が日韓擦り合せの産物であることの動かぬ証拠は、「日本軍による関与」を談話に挿入するように韓国が要求し、当時の金永三大統領も事前に了承していたことが判明したことにある。
 また慰安婦たちの証言も、慰安所のない場所で働いたという証言があるなど杜撰だった韓国お得意の「受難史観」に日本の「自虐史観」のおもねりが合体した「妥協の産物」「日韓合作」だったのである
 ところがこの日の朝日「社説」は、《問題解決の原点に返れ》と題し、<もう談話に疑義をはさむのはやめるべきだ>と、しきりにこの間題の幕引きを図ろうとしていた。
 慰安婦強制連行の証言に踏み切った吉田清治氏を「腹が座っている」と評価した記事の掲載後のことだ。韓国に飛んで元慰安婦に取材した内容や、投書の証言などで構成された北畠記者関与の「女たちの太平洋戦争」という連載が始まった。これは朝日新聞大阪本社と朝日放送(ABC)が組んで行った企画だった。
 この連載はJCJ(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞している。朝日新聞創刊115執念企画で、1994年1月25日の朝日紙面「政治動かした調査報道」では、この企画を取り上げ、自社の慰安婦報道を自画自賛しているが、結果として記事は取り消すハメに陥った。だがJCJ賞はまだ返上してないようだ。
 朝日の自慢する調査報道とは、簡潔に言えば「吉田証言」を幹として枝葉を元慰安婦の証言で補強したものである。朝鮮・韓国だけでなくアジア各国で探し出した慰安婦に、むやみやたら「日本軍による強制連行」「日本兵の残虐性」を叫ばしたに過ぎず、証言が真実かどうかの裏はとれていない。
 本来「調査報道」とは、あるテーマ、事件に対し警察・司法当局や行政官庁、企業側からの情報によるリーク、広報、プレスリリースからだけの情報に頼らず、取材者が主体性と継続性を持って様々なソースから情報を積み上げていくことによって新事実を突き止める報道を指す。裏取りはもっとも重要だろう。
 「官報」「リーク」を中心的な情報源とする報道を「発表報道」という。慰安婦報道に関しては「吉田証言」からの「発表報道」にすぎない。しかもウソの丸写しというマスコミとして絶対にやってはいけないことをしでかしている。
 元同僚記者の証言では、北畠記者は、1988年ごろから吉田氏とひんばんに電話でやり取りし、やがて吉田氏が自分のウソがばれることを恐れて慰安婦の話をしなくなっても、北畠氏は「慰安婦の話をせよ」と電話で説得していたという
 吉田氏は「人権屋にだまされてウソをつき続けました」と後に告白するが、この人権屋とは、北畠記者など調査報道″に携わった朝日記者も含まれているのかもしれない。
 ■日本憎しが先行する異様な韓国の支援団体
 日本政府は国連人権委員会のクマラスワミ報告官から「やれ」と命じられた通り、歴代首相の「謝罪と反省」の手紙を元慰安婦約60人に送付し、彼女らはそれを受け取った。「アジア女性基金」からの支援金も同時期に受け取っている。
 この首相書簡の内容は日本でもほとんど知られていないので、その要約を紹介する。
 従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、日本国の内閣総理大臣として数多くの苦痛を経験され、心身の癒しがたい傷を負われた方々に対し心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。
 わが国としては道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、女性の暴力と尊厳にかかわる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております。
 河野談話をストレートに実行した内容となっている。ここでいう支援とは、前にも触れたが200万円の償い金と医療支援の約束だ。この結果、韓国以外の慰安婦問題は解決した。
 ところが韓国だけは、支援団体の反対などで受け取り拒否者が出て今に至っている。実は、女性基金を受け入れた元慰安婦たちは、支援団体から非難され排除されており、現在の慰安婦は「反日の闘士」に仕立てられ、日本の謝罪と日本からの個人補償にあくまで固執している。
 彼女らは200万円程度のハシタ金は眼中になく、より巨額の補償金、償い金を望んでいるのではないか。同時に日本政府の正式な謝罪も望んでいるのだろう。しかし、日本政府は首相書簡で謝罪している。これ以上の正式謝罪とは何を指すのだろうか、理解しかねる。
 
 ■声の大きな圧力団体が建てた慰安婦像、地元民の評判は良くない
 普通の日本人なら、米国内で慰安婦像を設置することなど慰安婦の痛みを癒すことにはならないと思うだろう。そもぞも慰安婦像の設置計画は、元慰安婦たちが望んだものではない。日帝時代を「世界で最悪の植民地政策」と戦後教育で刷り込まれた韓国人の発想だ。
 ニュージャージー州フォートリー(注:マンハッタン島。米国初の慰安婦記念碑ができたパリセイズパークの隣の市)の慰安婦碑をめぐる記事に寄せられたコメントを紹介しよう。これらのコメントは、韓国のニュースサイトnewsis″が集めたものだ。
  • 「慰安婦碑を取り消せ。感謝もせず脅迫してくる奴らにはそれが答えだ。ネイルサロンとマッサージパーラーを増やせば、奴らは幸せになるのだ」
  • 「奴らがフォートリーに攻め込んで、店と教会と食堂を占領して学校を台なしにしてしまった。そして脅迫までして要求する? 平和なフォートリーに死んだ売春婦を記念する碑石を建てようって? これは必ず中断させなけれぼならない」
  • 「私はフォートリー当局が慰安婦記念碑を建てることが理解できない。慰安婦は韓国と日本の問題だ。これを許容すれば次は、アルメニア対トルコの悲劇の碑を建てようってことになって、その次はアフリカ虐殺碑を建てようってことになるのだ」
 碑建立の主体団体は、米国内では韓国系や中国系の民間団体、韓国では韓国挺身隊問題対策協議会、豪州では全豪中韓反日本戦争犯罪連盟、日本では左翼系団体の「戦争と女性への暴力」日本ネットワークなどだ。
 中国には、世界抗日戦争史実経護連合会という強力な反日団体もあり、各種団体はアメリカなどを舞台に、連携を取り合って日本叩きに狂奔している。
 
 ■TSB・朝日・琉球新報:佐藤元首相の沖縄演説、米圧力で内容修正。2015/01/15
 那覇空港に降り立った佐藤総理は、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって『戦後』が終わっていない」と、後に有名になるこの発言を残しました。一方で、米側が事前に「沖縄の戦略的、軍事的な重要性に言及していない」「極東全般のみならず、日本防衛に有する重要性を述べることを強く希望する」と指摘し、その上で「極東の平和と安定のために沖縄が果たしている役割は極めて重要」という表現を加えるよう要求し、最終的に日本側も受け入たそうだ。
 つまり、これって、米側からの圧力と云うよりも、通常の外交交渉の結果に過ぎない。それを、あたかも、米国からの不当な圧力に日本側が屈したかのように、報じるのは如何にも日米離反をい目論む反日の悪意でしかない。なぜなら、彼らは「韓国の不当な圧力に屈した河野談話」に関しては、水面下での事前交渉を公にせよとは決して報じないだけではなく、蒸し返すことさえ朝日新聞は、<もう談話に疑義をはさむのはやめるべきだ>と報じて禁じようとしたのです。

 人権派弁護士、人権派記者による国連活動により、日本は更なる窮地に立たされる。ここでも、外務省がなにもしていないと云う事は、外務相自身が無能なのではなく、有能な反日に他ならないのだと思ってしまう。
《従軍慰安婦問題で国連調査団が来日:1995年7月23日朝日新聞東京版朝刊》
 ここでは国連人権委員会の特別報告官として、クマラスワミ氏が来日したことを、詳細に伝えている。クマラスワミ氏が国連で問題を追及するスター扱いになっていることをうかがい知ることができるといえる。
《慰安婦問題でNGOが日本政府に批判の矢 '95北京女性会議:1995年8月21日朝日新聞東京版夕刊》
 見出しにあるとおり、同年開かれた「北京女性会議」のことを伝えている記事。この時点ではまだ会議は開かれていない(※これも捏造記事!)。
 この記事には外務省人権難民課の<なぜ50年前のことが取り上げられるのか>という困惑したコメントが載っているが、会議の参加者にはそんなことは関係ない。<過去の例として慰安婦も当然意味するだろう>という会議の事務局長の話は、当時の慰安婦問題追求側の勢いが感じられる。また他にも、フィリピンのNGO代表の話として、慰安婦は<組織化された強姦そのものだ>というコメントも紹介し、慰安婦問題の深刻さを強調している。
 しかしどちらも、現在の問題を扱う場で過去の問題を取り上げるにしては、論理性が感じられない言葉だと思うのは、こちらの思い違いだろうか。
《元従軍慰安婦に補償を 加害者処罰も勧告 国連人権委報告官:1996年2月6日朝日新聞東京版夕刊》
 クマラスワミ氏の活躍はまだまだ続く。ここで氏は6項目の勧告を日本政府にしているが、これらは当然、強制連行があったという事実に基づいたものだ。  この記事はさほど大きくはないが1面に掲載されいて、それだけで当時の朝日が慰安婦問題に力を入れていたことがわかる。しかしこの勧告での厳しい決め付けは、もはや異常ともいえるレベルといえよう。
《慰安婦は「強制労働」「条約違反」と理事会に報告ILO委:1996年3月5日朝日新聞東京版朝刊》
 人権委員会だけで終わらず、国連での火の手はILO(ILO条約勧告専用専門家委員会は、日本を含む20か国、20人の労働法などの専門家で構成されている。)にまで燃え広がった。
 <大阪府特別英語教員組合(OFSET:大阪府近郊に在住する外国人の中から府が英語教師として雇用した人たちの労働組合。大阪高教組の傘下。)から寄せられた投書に対する回答の形で>ILOの報告書(全部で541件あったという)のひとつに、従軍慰安婦が取り上ぼられたという。
 国連人権委員会「クマラスワミ報告」における6項目の日本政府への「勧告」は、日本人には聞くに堪えない内容だ。それも当然で、同報告書は創作、偽証と判明している吉田清治氏の『私の戦争犯罪』(1983年)の中の「慰安婦の強制連行は事実である」という部分を採用しているからだ。
 したがって、同報告書では、女子挺身隊で徴用した少女を含む「20万人」を従軍慰安婦として強制連行したという内容はともかく、結果的には個人補償を拒否している「村山談話」は手ぬるい、と手厳しく指摘している。
 ここで、慰安婦問題にかかわった各氏のクマラスワミ報告に対ずる感想はどんなものなのかを見てみよう。
 ●吉見義明中央大教授
 クマラスワミの訪問を受け、クマラスワミ報告にも氏の持論が採用されている。だからだろう、当初は好意的な評価をしていたようだ。
 ただし、1997年2月27日の朝鮮時報(朝鮮総連機関紙)で「植民地での奴隷狩り的な強制連行は確認されていない」ことを吉見氏は認めており、その観点から言えば前言の評価は、必ずしも的を得た者とは言えないのではないだろうかのではないだろうか。※反日教授でさえ、「クマラスワミ報告書」に疑問を呈していると云う事は、彼女を操っているのは別に居ると言うことだ。
 
 ◇朝日は、国際社会でまかり通る「吉田証言」を全否定せず [正論 2013年8月号]
 吉田清治氏は、1983年に出した著作『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』の中で、軍から、「朝鮮人女子挺身隊を動員せよ」という命令を受け、朝鮮の女性を奴隷狩りして慰安婦にしたという体験を語っている。つまり、「朝鮮人女性を挺身隊として強制連行した」というフィクションのルーツが吉田氏なのである。
 その後、吉田氏本人が、「事実をそのまま喋ったものではない」と発言し、また吉田氏が慰安婦狩りをしたと証言していた済州島では、地元新開の女性記者の取材や秦郁彦氏の調査で、彼の話にはまったく根拠がないことが分かった。慰安婦問題の専門家で、「軍の関与」資料を発掘し、日本の責任追及派の中心人物である吉見義明・中央大学教授も、筆者(西岡力)とのテレビ番組での論争で、「朝鮮半島における権力による強制連行は証明されていない」と認めた。
 そのため朝日新聞も、吉田氏の済州島での慰安婦狩り証言について「真偽は確認できない」とせざるをえなかつたのだろう。
 
 ●現代史家の秦郁彦氏
 「私は訪問を受け『河野談話』の間違いを指摘したが、ぞの部分はしっかり抜け落ちている。だから事実誤認がはなはだしく、学生レポートなら『落第点』だ」という評価を、1999年6月に出したの自身の著書『慰安婦と戦場の性』(新潮社)で下している。
 
 ●大沼保昭東京大学名誉教授(アジア女性基金理事)
 アジア女性基金のサイトに掲載された座談会で「学問的に水準が低く、「信頼できない情報源に依存している」うえ「法的な議論にも問題点がある」と評る価し「本当は落第点としている。
 朝日新聞は、1992年1月11日の記事で、こう書いた。
<太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万人とも20万とも言われる>
 「クマラスワミ報告」はこの朝日報道を基本にしているが、これは2014年8月5、6日の自らの検証記事を受けて、朝日が以下のように訂正した。
<女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、慰安婦とはまったく別です。当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました>
 日本人が「クマラスワミ報告」に屈辱的な6項目を突き付けられているのに、朝日は最後まで悪意を否定している
 それはともかく、慰安婦問題は国連でまたまた火を噴き、さらにアメリカ議会にも飛び火する。《マクドゥーガル報告書(1998年)》と《アメリカ合衆国下院121号決議(2007年)》がそれだ。
 これらの報告書や決議も、日本軍による慰安婦強制連行の証拠として「吉田本」を採用している。また驚くべきことに、「クマラスワミ報告」を含むこれらの報告や決議は、いまだに修正されていない
 2006年の米国下院が、慰安婦問題で対日非難決議案を審議する際の資料とした同議会調査局の報告書でも「日本軍による女性の強制徴用」の有力根拠として「吉田証言」が明記されている。
 その後、日本側の批判を受けて、2007年の改訂版では「吉田証言」が削除された。しかし、2007年2月25日の決議案審議のための公聴会の時点では、この「吉田証言」に基づいた資料を判断材料としたうえで、2007年6月26日にアメリカ合衆国下院121号決議を可決しているのだ。
 2011年8月30日、韓国の憲法裁判所は、「韓国政府が、日本軍慰安婦被害者の賠償請求権に関し具体的解決のために努力していないことは憲法違反」との判決を下した。
 その際、その事実認定の根拠としたのが、クマラスワミ報告、マタドゥーガル報告書、アメリカ合衆国下院121号決議であった。これらすべての資料に通底しているのが「吉田証言」である。つまり「吉田証言」は、事実認定の有力な証拠のひとつとして採用されているのだ。
 このように、日本を苦しめている「従軍慰安婦」問題は、朝日が(虚偽と判断し取り消します)と表明したところで、その害毒は少しもなくならない。
 2006年に安倍晋三内閣が発足ずるや、米議会が「慰安婦は性奴隷であり、日本政府は公式謝罪と補償をせよ」という決議を通そうとした。
 安倍首相が国会で国内での論争の成果に立って、権力による慰安婦連行は証明されていないと答弁したことに対して、米国メディアは激しく非難し、日米関係がおかしくなりかけるという事態にまで発展した。その背景には、日本の人権派弁護士が慰安婦問題を国連に持ち込み、国際問題に発展させようと動いたという事実があり、そのうちの一人が戸塚悦朗弁護士だ。
 そして韓国は再び、「この本一冊だけでも日帝の慰安婦強制連行が立証されるのに十分である」(朝鮮日報2012年9月5日)として、再び「吉田証言」を真実としている。これは朝日の「誤用・記事取り消し」後も変わっていないようだ。
 困ったことに、これまで従軍慰安婦問題の間違いを指摘する情報などは外国語に翻訳されていないため、声が大きな韓国の活動家やロビー団体が米国などで勝手な主張を言い募っても反論もできないし、日系市民団体の力が弱いので、反論してもまったく効果はない。
 朝日はせめてもの罪滅ぼしとして、8月5、6日の特集記事を英訳だけでなく中国語、韓国語、ロシア語、オランダ語などに翻訳して世界に発信すべきではないだろうか。
 ■「マクドゥーガル報告書」は「慰安所を強姦センター」と断罪
 「国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会」は、1998年8月に「マタドゥーガル報告書」なる報告書を作成・採択した。この報告書は、ゲイ・マタドゥーガル戦時性奴隷制特別報告官の、「武力紛争下の組織的強姦・性奴隷制および奴隷制類似慣行に関する最終報告書」のことである。
 この報告書の主な対象は、旧ユーゴスラピアでの戦争とルワンダ虐殺だが、附属文書として日本の慰安婦についても取り上げられた。この附属文書の申で、日本軍の慰安婦制度に関して、クマラスワミ報告書より詳しく調査し、慰安所は性奴隷制度であり女性の人権への著しい侵害の戦争犯罪で、責任者の処罰と被害者への補償を日本政府に求めた。
 同報告は、慰安所を「レイプセンター」と呼び替え、事実認定において強制連行の有無などは問題としていないものの、軍と政府の両方が直接アジアにおける「レイプセンター」の設立に関わり、対象者は11〜20歳が大半であり、生き延びたのは25%だったと述べている。
 アジア女性基金が2004年にまとめた「『慰安婦問題』と『アジア女性基金』」によれば、慰安所をレイプセンターと呼び、慰安婦20万のうち14万人以上の朝鮮人慰安婦が死亡したという内容は、まったく根拠がなく、その原因は、自民党・荒船清十郎代議士(故人)の根拠のない放言にあったと指摘している。
 また、吉見義明中央大教授からも、同報告は学術的姿勢における欠陥がある、と指摘されている。吉見氏は、「マタドゥーガルが日本の政府調査に基づくと報告した中で、実際にはない個所について本人を前に指摘したが、同氏は無視した」という
 「マタドゥーガル報告書」に突如出てきた「荒船放言」とはどんな内容だったのか。『慰安婦問題』と『アジア女性基金』」によると、荒船氏は選挙区(群馬)において、以下のような“放言”をしたとされる。
  • @.朝鮮半島から徴用工に戦争中連れてきて、兵隊にして使ったが、この申で「57万6000人」が死んでいる。
  • A.「慰安婦」は14万2000人が日本軍人の“ヤリ殺し”で死んでいる。合計90万人(注:足し算が間違っている?)も犠牲者になっている。
 「荒船放言」とはこのようなものだが、日韓条約交渉時に韓国側は、韓国人労務者、軍人軍属の合計は103万2684人であり、うち負傷ないし死亡したのは10万2603人だと指摘していた。このとき「慰安婦」のことは一切持ち出していない。
 国連機関の委嘱を受けた責任ある特別報告官のマタドゥーガル氏が、このような信頼できない発言を根拠にして日本を非難しているのは、驚くほかはない。なにがなんでもこの件で日本を責め立てたい、という悪しき意図すら感じさせられる。
 「クマラスワミ報告」は日本での「吉田証言」や「ジョージ・ヒックス」の著作(吉田証言や当時のうわさ話を「歴史的な真実」として記載している)、自称元慰安婦の聞き取りに依拠しており、「クマラスワミ報告」を引用した「マタドゥーガル報告書」は、結果的に「吉田証言」を孫引きしていると言える
 国連人権委員会には、「河野談話」を重要な根拠の一つとして、1996年に「クマラスワミ報告書」が、1998年には「マタドゥーガル報告書」が提出されたわけだ。それぞれ、慰安婦を軍事的性奴隷と位置付け、奴隷狩り同様の強制連行を指摘した内容となっている。ベースに流れている思想は、「戦時下での慰安所、慰安婦の存在は許されない」というものだ。それだったら、世界中の戦地、国々にも当てはまるだろう。なにも日本だけではない。
 2007年の米下院による慰安婦問題に関する対日非難決議も、「河野談話」の存在が遠因といえる。「河野談話」の残した禍根、損ねた国益は計り知れない

 最後に、日本は、外務省の有能な反日に加え、反日マスコミの影響もあり、アメリカを使って日本叩きをする韓国の戦術に翻弄され続けている。その大元が、戦前戦後共に、ゾルゲの謀略を受け継いだ朝日なのです。
 日本の同盟国であるアメリカでも、「従軍慰安婦」の問題は波紋を投げかけ、それは議会での日本批判決議となって日ましにその勢いを増している。由々しき事態と言わざるを得ない。
《米下院の慰安婦決議、割れる評価同情するが事実誤認、償いはアピール不足:2007年6月27日朝日新聞東京版朝刊》
《慰安婦決議、日米に影も 首相発言、不信招く:2007年8月1日朝日新聞朝刊》
 別項でも触れているアメリカ合衆国下院121号決議(従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議=以下121号)とは、2007年に決議された慰安婦に対する日本政府の謝罪を求める合衆国下院決議案である。
 この決議は法的には非拘束であり、上院に送られるものでもないが、反日勢力にとってはありがたい攻撃材料となった。この決議案をまとめるにあたって活躍した人物は、これまでも登場した日系アメリカ人でカリフォルニア州下院議員のマイク・ホンダ氏(日系アメリカ人)だ。
 なお、ホンダ下院議員の選挙資金は、中国ロビー団体の「世界抗日戦争史実維護会」や在米コリアンロビー団体からの献金が多いことで知られている。
 「世界抗日戦争史実維護連合会」とは、中国系アメリカ人による反日華僑組織で、1994年に在外中国系住民により設立され、中国政府とも密接な関係を持ち、日中戦争に関して日本を一貫して非難してきた。
 日本は「セックス・スレイブ」の国ではないと反論しても、ホンダ議員は、「河野談話という形でコメントが出ているし、日本の首相が謝罪しているではないか」とまったく相手にされない。これだけでも、「河野談話」や「村山談話」、そして歴代首相の「お詫び状」というものが、いかに日本に害毒を流し続けているかが分かるだろうだ。
 このように、韓国は国連の人権委員会を巧みに利用し、外交上では考えられないような一方的な戦果を挙げている。人権委員会の戦場では、日本側は韓国側の激しい攻撃の前にタジタジで応戦に出る余裕すらない。これは、アメリカの市民社会において、日系アメリカ人より韓国系アメリカ人の影響力が強いこと、ロビー活動などを通じて韓国系がアメリカで積極的に日本を定める活動を展開していることなどが影響している。
 2つの例を挙げよう。ジュネーブの国連経済・社会・文化的権利委員会(CESCR)は、「日本は、憎悪発言(ヘイトスピーチ)と元慰安婦の女性らに汚名を着せるような行為を防ぐために、国民に慰安婦の強制連行問題を教育するよう願う」と勧告した。要するに国際機構が、慰安婦問題についての日本社会の無理解を指摘し、強力な対策を要求したわけだ。
 また同時期に、国連の拷問禁止委員会(CAT)も日本政府に対し、「従軍慰安婦問題の法的責任を認め、関係者を処罰すべきだ」という勧告を発表している。
 「CAT」は勧告文の中で、「日本政府は慰安婦被害者に賠償し、過ちを繰り返さないため教科書の申に記述しろ」「国会議員を含む日本の政治家や地方政府の高官が事実を否定し、被害者に再び傷を負わせている。日本政府は、こうした発言に対し明確に反論すべき」(韓国中央日報)といった要求を羅列している。
 「CESCR」と「CAT」には、日本人は入っておらず、中韓を中心に構成されている。従って、このような日本非難が出るのは、ある意味当然だ。言われなき中傷を、日本はいつまでもほったらかしにしておいていいのか。
 このように、国連筋の動きはヒートアップしている。「マクドゥーガル報告」や「米国下院決議121号」に継承ぎれた「クワラスワミ報告」には、日本の残虐行為が荒唐無稽な証言によって事実と認定され、採用されている。どんなことが書かれているのか。2,3の例をあげよう。  しかしながら中韓の豊富な資金を使った長年のロビー活動は実を結び、ワシントンの保守系シンクタンク「ヘリテージ財団」の上級職員でさえ「慰安婦の強制連行は事実」と信じて疑わない。オバマ政権やニューヨーク・タイムス、ワシントン・ポストなど有力紙ばかりが「反日」ではないのだ。
 そこには、第二次世界大戦で日本と戦った連合国側の、「日本を悪い国にしておきたい」との意思が透けて見える。これらとどう戦うかが、いま問われているのだが、もともとの原因を作ったのは朝日新聞だ。その朝日による「従軍慰安婦関連記事」の長期にわたる断続的なキャンペーンこそが、糾弾されなければならない。
 ■女性の人権と尊厳にシフトする朝日…反省なんかしていない!
 次の見出しの記事内容について検証しよう。
《慰安婦問題核心は変わらず:2014年8月28日朝日新聞朝刊》
 この記事は、「河野談話は吉田証言に影響を受けたものではない」との主張を展開した記事である。
 だが、1994年1月25日付朝刊における「政治動かした調査報道」では、河野談話につながる一連の政治の動きに、自社の書いた「吉田証言」が大きく関与してきたことを誇らじげに宣言している。
 それがこの8月28日の記事になると、「韓国、元慰安婦証言を重視」との小見出しを付け、現役の韓国政府関係者と韓国元外交官の匿名証言をもとに、吉田証言と韓国での慰安婦問題の過熱ぶりはかかわりがないと言わせた。
 これも、わざと匿名にしたのではないか。というのも、韓国政府が1992年7月に発表した「日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書」では、慰安婦動員の実態について、「奴隷狩りのように連行」と書いた際の証拠資料としているのは、吉田本であり吉田証言だったとはっきり指摘しているからだ。
 1997年3月の「吉田証言の真偽は確認できない」という記事については、社内では「危ない話だから、もう取り上げない」という暗黙の了解があったといわれている。実情を知るのは一握りの関係者だけだからと、社内の「ひそひそ話」で終わって検証もなく、だんまりを決め込んだというのだ。
 そして、今回の「8月28日付特集記事」の大見出しにある《慰安婦問題 核心は変わらず》の記事内容は、「2014年8月5日付特集記事」と照らし合わせてみるとよく分かる。大事なのは、今ではグローバルスタンダードとなった「女性の人権尊厳の問題」だと言いたいのだろう。
 とはいえこの主張も、朝日が積み重ねた誤報を正面からは受け止めず、枝葉末節の問題へとすり替えたものだ、としか思えないのである。
 再び振り返るが、朝日・川崎支社にネタの提供を申し出た最初の「吉田証言」には「慰安婦」は出てこない。話の中心も「徴用工狩り」で、当時の記者はそのことに関しての取材をしていたものと思われる。
 
 ■自分たちへの批判を抹殺する朝日…言論機関の自殺行為だ
 1991年から92年にかけて、日朝間では「金丸訪朝」を起点とする日朝賠償問題が政治懸案になっていた。そうした朝鮮半島全体の政治情勢の中で、朝日の「誤報事件」がピークを迎えたのは偶然だろうか。
 当時、高木健一弁護士などが原告を募って訴訟を起こそうとしていたが、それは人身売買に関するものだった。ところが男の徴用工狩りでは「人身売買」には、あまりなじまない。
 そこで「遺族会」の「戦時動員被害者」に慰安婦を含めようと、梁順任遺族会代表が、娘婿の植村記者に「強制連行」として入れるように画策、操作したのではないか。もちろん、これは推測である。
 金丸訪朝→1兆円賠償の約束→挺対協による慰安婦強制連行キャンペーン→遺族会から植村記者への情報提供→「慰安婦強制連行」記事→宮沢首相が謝罪→河野談話→アジア女性基金。以上のような流れで、日本政府がそれにハメられた、という構図を想像するのは邪推の極みだろうか。
 さらに重要なのは、慰安婦問題が北朝鮮の宣伝工作に利用されたような感じがあることだ。「クマラスワミ報告書」にも北朝鮮が「元従軍慰安婦」の証言を提供しているし、その証言が採用された「国際女性戦犯法廷」で検事をつとめた金虎男は、実は北朝鮮の工作員だった。これは韓国当局も、「挺対協」が関係したスパイ事件として摘発している。また「法廷」を主催したのは、初期に「吉田証言」を重用した松井やより氏だ。
 70年代まで、朝日に限らず日本のメディアは北朝鮮を、歯の浮くような「天国」などと美化するキャンペーンを張った。そしてその美辞麗句にだまされた在日朝鮮人、日本人妻の多くが万景峰号で「北送」され苦難の日々を送った([朝鮮学校「歴史教科書」を読む])。
 さらに1996年の朝日社説では、「国費を支出するという枠組みを解決(慰安婦問題)への一歩とすることが、現実的な道だと思う」と主張している。
 ある記者が吉田証言(徴用工狩り)を報じる→別の記者がコラムなどで吉田氏をヒーローに仕立てる→別の記者が「強制連行」と「慰安婦」を混同させる→社説で「国費支出」を主張する。こうした構図で、朝日一丸となった「慰安婦強制連行とその被害者への国費支出」キャンペーンが行われてきたと見るべきかもしれない。
 最後に指摘しておきたいのは、戦後、朝日の出発点は「悲惨な戦争を招いた戦前の軍部や国家との訣別」であったことだ。敗戦から約3カ月後の1945年11月7日付一面で、朝日は、《国民と共に立たん/本社、新陣容で「建設」へ》
 という宣言を高らかに掲げた。戦争中、軍部に協力した報道責任をとるために、社長以下全役員、全編集幹部が辞職し、今後は「あくまで国民の機関たることをここに宣言する」と述べたのである。
 この「宣言」の起草者は、後にマルクス・レーニン主義を信奉し、毛沢東信者″となる森恭三氏(論説主幹)だった。こういうことを考えると、朝日の記事を「公正中立」だと思って読んではいけないのではないか。公正中立ではないという観点に立って、戦後の諸問題、歴史、反戦記事を読むぺきなのかもしれない。(※戦前は旧ソ連の工作員ゾルゲに支配され、日米英を敵対させ、日・米英戦争を煽った。戦後は戦争責任を逃れようと、心にもない「宣言」を行い、戦前も戦後もゾルゲの謀略を貫き、日本を革命で滅ぼそうとしているのだ。)
 朝日新聞が綱領に掲げる「不偏・不党」を額面通りに受け取ったら、大火傷をすることになりかねないのである。



[崩壊 朝日新聞]

 以下、[崩壊 朝日新聞]WAC 長谷川煕著より抜粋しました。戦線戦後の朝日と共産主義との関係、共産主義者の余りに偏った物の見方(搾取と、階級史観によるプロレタリアート革命)を正義として、ものごとを批判する姿勢が、共産主義者や容共主義者の理性と良心を曇らせ、言論界や政界に影響を与える彼等は、大衆を共産主義革命へと誤導し、この掛け声に乗せられた人々によって、人類は悲劇を招いてきたことが描かれています。是非ご一読をおすすめ致します。尚、北朝鮮と中国の非道については(⇒[北朝鮮 絶望収容所][中国:民族絶滅の危機])参照。
 著者は、「1993年頃、少なくともこの関係の原稿を出している両社会部、論説委員室辺りには、事実を究明するのではなく、日本の旧陸海軍は「悪」という大前提でしか物事を考えず、それに当てはまるような話なら、それは即事実と思ってしまう条件反射的人間、つまり、すぐ後で説明する「パブロフの犬」が大勢いたからだ。偏頗な思考が充満している。この社内では、慰安婦関係の不審な報道にも腕をこまぬくほかなかったのだ。」「下から地道に事実を積み上げるのではなく、上から観念的、教条的に物事を決めつける。これが朝日の伝統の中に過剰にあったことは否定できない。」と、述べている。
 だとすれば、戦後に繰り返されるサンゴ事件、慰安婦事件でも謝罪するまで現地取材した秦氏にインタビューしていない体質は、戦前からの伝統だと云うことになる。
 戦前の朝日新聞は、敗戦革命を目指し、満州事変もシナ事変も大東亜戦争も大いに鼓舞した。一方、戦後にはGHQのお墨付きで共産主義が野放しになれると、朝日は大手をふるって日本を批判している。「ある時期の戦争に伴う日本の「加害」を声高に批判しながらも、中ソのことに関しては声が消えるこの新聞社は、両国のこの大罪の、少なくとも道義的に共犯者とみなされるべきではないのか。」「ソ連については戦前から、中華人民共和国に関しても、戦後にこの共和国が成立してそう経たないうちに、その実態は海外では報道されていた。日本でもメディアによっては両国の実相を全く伝えなかったわけではない。」と、著者は述べている。
 つまり、朝日新聞は、戦前も戦後も尾崎秀実と同じ穴の狢で、戦前は敗戦革命を、戦後は自虐史観による革命を願ってやまないのだ。マルクス主義を信奉しているがゆえに、戦後は「中ソ」=善、「日米」=悪とし、事実を真摯に追求することを止め、教条的に歴史を歪め捏造し、自虐史観を煽ってきたことも、すんなり頷けてしまうのです。
 ちなみに、マルクス主義はキリスト教同様に善悪二元論で、マルクス主義を神としている。だから、マルクス=「善」⇒「ソ連」「中国」「日教組」=「善」で、それ以外は「悪」、特に、 「日米」「自由主義」「人権」=「悪」という結果や結論が絶対ゆえに、自由に都合良く歴史や現実を評価してしまう。そして、都合の悪いことは見ないし、歪める、捏造する、最終手段として粛清することも正当化されてしまう。人民を平然と大虐殺しても、正当化されてしまうのです。
 さて、GHQは日本が世界の植民地を解放した英雄とする声を打ち消し、二発の原子爆弾による虐殺を正当化し、日本人を自虐史観に閉じ込めるという目的のためには手段を選ばなかった。結果(自虐史観)があって、日本=「悪」、「民主主義、平和、人権」=「善」を手段として、自由に都合良く歴史や現実を評価し、都合の悪いことは検閲し、粛清したのです。
 中国人もまた、利益や利権を得ることを目的としている。この目的や結果があって、自由に都合良く歴史や現実を歪め捏造し、都合の悪いことには大声で喚きちらし、粛清する。皇帝=利己主義=「善」、損=「悪」の図式から、支那の人々をまとめるには皇帝制度(=目的を「利権」とした共産主義)が唯一のシステムなのかも知れません。
 以上のように、イスラム教過激派、マルクス主義、GHQの東京裁判、皇帝制は、酷似しており、そのなかでも最悪なのが「皇帝制」のように思われて仕方ありません。何故なら、旧ソ連圏崩壊後、彼等は共産主義以前の民族意識と愛国心を復活させて、自らの国家の独立を果たしているからです。
 ■資本主義は「主義」ではない
 ここで私の見方を記すと、「社会主義」とか「共産主義」とかいう主義は明らかにあるが、「資本主義」という主義はどこにもないと思う。ドイツ語でマルクスが「資本主義」と呼んだものは人間の社会、経済の自然状態を指していて「主義」ではない。人間のこの自然状態に「主義」で介入しても、大混乱を来した末に馳ね返されるだけ、と私は考える。
 
 ■F機関を賞賛する英国
 大東亜戦争の時に「藤原機関」とも呼ばれた「F機関」のことも私を同地に引き付けた。「F機関」とは、南方作戦全体を統轄する南方軍(当時の総司令部はフランス領インドシナ連邦のサイゴン=現ベトナムのホーチミン)の参謀で陸軍参謀本部第八課(謀略、宣撫など)出身の少佐藤原岩市が、第二五軍に投降した英軍のインド将兵らに対して、英領インドの反英決起を呼び掛け、インド国民軍を誕生させたいわば政治作戦の特殊班のことだ。近代戦争史でも無二の戦略で、敗戦後暫くしての英側のある聴聞の中で英側は藤原に「glorius success(輝かしい成功)」と公平な評価をした(藤原岩市著『F機関』一九八五年三月、振学出版刊)。日本の敗戦後、藤原は戦争犯罪人容疑で一年以上もシンガポールとクアラルンプールの獄舎につながれたが、英側は藤原の行為を戦争犯罪とはみなし得ず、藤原を訴追までできず釈放している。

ソ連軍によって「性奴隷」にされた日本人女性の苦難

 …もう一つ柳は、自分の子供の時の体験を語ってくれた。中華民国山西省太原市で父が医師をしていた関係で、柳も一九四一年(昭和十六年)にそこで生まれた。同地の日本軍基地の隣に何か家があって、そこによく女性が屯しでいた。その辺りで遊んでもいたのだろうが、子供の柳はその女たちに可愛がられた。それを知った母からひどく叱られたことがあるが、そこは慰安所で、女は慰安婦だったことが後年になってはっきりした。しかし、柳が「女たちの太平洋戦争」連載の朝日のデスクだった時に、終戦後に朝鮮半島を南下している日本人の引揚者の集団に対し、「女を出せ」と、ソ連兵か朝鮮人らかが襲ってきた時、その引揚者の中の元慰安婦らが「私たちが行きます」と自ら身代わりになり大勢を救っでくれたという投稿が相次ぎ、驚いたということを教えでくれた。
 中華民国在住の民間の日本人も敗戦で引き揚げることになり、柳一家の場合は米軍の舟艇に乗ったが、引き揚げの女性がこの船の中で米側の要員に襲われ、犯される事態が発生していて、柳の母は気が触れた風を装い、なんとか難を逃れた。その話を柳はのちのち、何度も母から聞かされた。その船に身代わりはいなかったらしい。(尚、[人民解放軍性奴隷][韓国軍の越大虐殺]参照)

 第二次世界大戦の時にソ連軍が占領した首都ベルリンを含むドイツの東部、東欧諸国で引き起こされたソ連軍による婦女子らへの非道、暴虐はよく知られでいる。フランスに上陸し、ドイツの西半分を攻略した連合軍、とりわけ米軍が、戦闘しつつ通過中のフランス、占領したドイツで犯したそれと比べでも凄まじいものだったことは各種の文献で跡付けられているが、ソ連軍が、侵略した満洲、朝鮮北部など北東アジアで日本人、現地人の婦女子などに対して犯した暴虐も各種の資料、文献で明白である。生きて帰った人たちが証人だった。朝鮮半島では、ソ連兵士のほかに朝鮮人による暴行も目立ったが、逆に朝鮮人に助けられた詰も伝わっている。
 かつて日本は、併合した朝鮮の北部に、山岳地を利用した水力発電所を次々と建設し、その電力を使う各種の化学工業を展開した。水力発電の最大のものが、朝鮮と満洲を隔てる鴨緑江の本流に、敗戦近い一九四四年(昭和十九年)に完成した水蟄発電所だ。豊富なエネルギー源に支えられたこれら化学工場群の中でも際立った一つが、当時の日本窒素肥料の子会社である朝鮮窒素肥料の興南工場だった。その工場にいた鎌田正二の著書『北鮮の日本人苦難記−日窒興南工場の最後−』(一九七〇年、時事通信社刊)は、終戦時にソ連軍が朝鮮北部を侵略した際、この興南工場の日本人従業員、家族が体験した惨状を記録したものだ。
「数名のソ連兵がピストルを手に、ドヤドヤと靴音たかくはいりこんでくる。(略)妻は子供をいだいて恐怖におののいている。ソ連兵は子供をうばいとって投げ出し、女にいどみかかる。(略)やがてソ連兵はひきあげてゆくが、死んだようになった女は、身を伏したまま泣いている(略)」
「病棟の発疹チフス患者二十名を収容している大広間に、ソ連兵二名が侵入し、患者の十八歳の娘に輪姦する(略)」
 この著者は旧制第一高等学校、東京帝国大学経済学部を卒業して一九四〇年(昭和十五年)からこの興南工場で勤務していた者で、終戦の翌年日本に引き揚げた。全体として押さえた、そしてたどたどしい筆致だが、連日連夜と従業員家族がソ連兵に暴行される状況を、発生したことの一端なのだろうが、よく記録している。娘を守ろうとして殺された父も、自ら抵抗して殺された女性もいた。このようなこともあった。
「(略)葬ってきたソ連兵は、とうとう若い奥さんと娘さんをつかまえ、トラックにのせてしまった。(略)ところが、もと(略)遊郭にいた三人の女が、急をきいてかけっけ、トラックに飛びのると、ソ連兵に媚態をしめしながら、その奥さんと娘さんをトラックから突きおとしたのだった。(略)トラックは三人の女性をのせて行ってしまったが、この三人の行為に、人々は涙で見送っていた(略)」
 いわゆる醜業婦と見ていた女性が神と映ったのではないか。この三人の行方も生死も分からない。
 敗戦直後の一九四五年の十一月十日付の「飢と寒さ迫る満鮮の同胞」という朝日新開の記事は、満洲から脱出して朝鮮北部を南下中か、そこにもともと在住の邦人についての報告であるが、その中にこんな記述もある。
「(略)九月に入ると日本人狩りが一層ひどく、昼間も押入れで飯を食う始末だった。殊に婦女子は悲惨で床下に隠れた妊娠七カ月の母親とその娘が凌辱を受け、母親はその場で自殺した例もあり、平壌市では毎夜女は特殊慰安に引き出され、その内数十名は飛行機で某所へ拉致されたといふ詰もある。現在の満洲、北鮮は全くの暗黒街である(略)」
 満洲から朝鮮半島を経由して、または満洲から直接、あるいは朝鮮そのものから大勢の日本人が、政府が手配した引揚船で博多港その他に帰ったが、暴行による不法妊娠、性病感染の多数の女性を救助する医療陣の奮闘は見逃すことはできない。女性によっては、犯されて腹部が大きくなった身で故郷には帰れないと思ってか、到着港で海に身投げした話を伝える文献もある。
 当時の厚生省に急設された地方引揚援護局の一つの博多引揚援護局の局史によると、この局の場合は、旧愛国婦人会福岡県支部武蔵温泉保養所を借りて、法律では一般的に堕胎が禁止されているのを無視して、多数の女性の不法妊娠の中絶を実施したり、性病治療に当たった。そのために暴行被害を内々に早く届けてもらったり、聴き取れる工夫もなされた。この局史はこう記す。
「昭和二十一年三月中旬、引揚者の大部分は北鮮よりの脱出者であったが、殊に婦女子が多く、その悲惨な姿は見る者をして眼を覆わしめた。これらの婦人の中には、終戦後憐れむべき環境の中で余儀なく汚辱せられ、性病にかかり、或は妊娠した者があるにかかわらず、何らの対策、施設も考慮せられなかった。(筆者注 財団法人)在外同胞援護会救療部は博多港を出港する船舶に対し、船医を送り、輸送間の救療に任じておったが、以上の情況を注視し、船医の意見を徹して、早急にこれら患者のために病院を設立すべきであるとの意見を博多引揚援護局に具申し、両者の協力を以って、之を開設するに決した」(漢字、仮名づかいを旧から新に直した)
 この温泉保養所の緊急施設の場合、一九四六年(昭和二十二年)三月二十五日から十二月三三日までの統計によると、患者総数三百八十人のうち不法妊娠は五割を超える二百十八人に達した。
 この種の緊急対応が日本の各地でなされたが、設備も不備だったし、堕胎が原則禁止されていたためにその関係の医療水準も高くなく、この手術での犠牲者も出た。

「赤ん坊ほうりなげ刺殺」の真相

 一九九一年十一月の取材に戻る。二日にわたってマレーシア・クアラルンプールからヌグリスンビラン州を回った私は、少なくとも三カ所で合わせて九人に話を問いた。いずれも華人の地区だった。その時の取材ノートに残る九人の名前はすべて華人名で、うち四人は、前出の『日治時期森州華族蒙難史料』に出てくる証言者と一致した。中国語の一つの客家語、福建語を使う人もいて、同行した通訳もとまどい、土地の別の華人がそれを北京語、英語に訳してくれたりした。
 冒頭で見た辺りの二、三軒で取材を終え、さて次は、と路上にいたら、直前の取材で同席していた中年の華人女性が外に出てきて、聞いて欲しいと言わんばかりの風情で、まとめると次のように、確か英語と北京語を混ぜて話した。
シンガポールにいるという日本の朝日新聞の女性の記者が、虐殺は日本軍がやったことにしておきなさい、かまわない、と言ったんです
 そして、その女性記者の名前を「マツイ」と述べた。
 シンガポールにいる日本の女性記者の「マツイ」とは朝日新聞社アジア総局員の松井やよりであることは、「日本人女性記者松井やより」のヌグリスンビラン州取材のことが、さきの『日治時期森州華族蒙難史料』に、松井やよりの取材写真と共に大きく掲載されていることからも証明される(訳書には松井やより関係の部分は省略されている)。
 さらに、シンガポールから帰国してからも彼女は、前記のように、日本兵の赤ん坊ほうり投げ刺殺のことを繰り返して書く。
 この赤ん坊問題を巡っては、中島みちが前出の著書で興味深い報告をしている。中島は、その著作の取材中に、ヌグリスンビラン州駐留の第五師団第11連隊第二大隊第七中隊に後に所属したという人から「万が一を疑うとすれば、あの男しかいないと思われる人間が、ある(筆者注日本国内の)小さな島で漁師をしているはず」と聞いた。同州内の住民から証言される「赤ん坊ほうり投げ」刺殺のことも一連の取材の中で当時の将兵らに尋ね、物理的にも無理で荒唐無稽という心証を得ていたが、その中の一人が後に電話でその男のことを伝えて来てくれたのだ。そこで中島は一九九〇年秋、名指された当人に会いに、その島に行ったのである。
 その漁師は、赤ん坊を殺したことがあるかとの中島の問いにも、「ゲリラの赤ん坊を育てる華僑もマレー人もいないから致し方なく」と、殺したことを率直に認めた。
 そこで中島は思い切って、「投げ上げた赤ん坊を……」と尋ねたところ、初め彼は意味が分からなかったようだった。中島は著書でこう記す。
「質問の意味がわかってから浮かべた頼笑みは、妙な質問をする人間もいるもんだ、といったような、如何にもおかしげな笑いであった。(略)それでもなお念のために、答を催促した。
 『で? そんな風に赤ちゃんを……なさったこと、ありました?』
 『誰がぁ?』
 『あなた……あなたがたの隊で』
 『誰が、そんなことするんかい!』
    (略)
 私は、(略)マラヤの日本軍への疑いの最後の一つが、静かに溶けていくのを感じていた」
 日本軍兵士が、赤ん坊を殺した事実はあっても、ほうり投げてまで殺した事実はあったのか。中島はなかったと見なしたのだ。

事実を究明し、事実に徹するという報道の根本はどこに?

 確かに、戦後朝日の路線を決めた一人である森は、性急な共産主義革命は排すべきだと考え、メディア・ゼネスト拒否の後の組合集会の場でも、前述のように、自らその意味のことを主張した。そして著作でも現実のソ連を批判し、あの国家は本当に社会主義なのかと疑問を投げてはいるが、真の社会主義ないし共産主義社会はやがては到来するし、実現すべきものとの立場は崩していない。そこに根本的な問題がある。そもそも「真の社会主義」とか「真の共産主義」とかいうものがあり得るのか。
 階級闘争によって古代奴隷制社会から中世封建社会、そして近代ブルジョア社会へと歴史は必然的に発展してきたとマルクス主義は唱え、そして次はプロレタリア独裁の最終社会へ移ると考えるが、世界のどこでそんな必然的な歴史発展があったのか。
 マルクスはヨーロッパ史を見てそういう主義、理論を作ったが、そこの時代変化にしても、中央アジア、アラブ・イスラム(サラセン)からの民族運動的侵略の繰り返し、北欧からのヴァイキング侵略、欧州内での宗教対立、宗教戦争、魔女裁判、それより前に欧州からアラブ世界を犯した十字軍侵略、そしてペスト(黒死病)の蔓延、気象変動、オリエント(東方世界)との通商の拡大、大航海、蒸気機関の発明など、これらが大きく影響して時代が変わっており、別に階級闘争による必然的歴史発展など、どこにもない。ヨーロッパ以外でも、歴史の性格とはそういうものであった。それにマルクス主義の言う歴史の発展が法則で科学であるなら、そもそも階級闘争なるものを人為的にけしかけることは無用、無意味であり、それを叫ぶのは論理矛盾となる。階級闘争のけしかけも法則の現れと言うのなら、それはこじつけでしかない。(*旧約聖書に神が予言しているユダヤ人の国を建国するため、神の顕現を待たずに自らが国を作ってしまおうとする「シオニズム」と同じだ。彼等は、神に失望し、神に背信しているのです。)

ミンスクの松林で体感したマルクス主義社会の狂気と非道

 マレー半島に行く一九九一年十一月の直前に私は国家崩壊中のソ連を取材していたが、その三年前の一九八八年十一月から八九年一月にかけても私はソ連にいた。『アエラ』に書くためだった。
 一九四〇年(昭和十五年)にソ連に侵略され、なおソ連内の共和国だったバルト三国のいずれにも足を運び、ソ連に対する憎悪の激しさを知らされたが、何より驚博したのは、独立後はベラルーシと呼ばれ、それまでは日本では白ロシアと言われていた、ソ連欧州部の共和国での体験だった。この時の一事が、すでに五十歳台に入っていた私のそれまでの、恐らく全人生以上に自分の思考を鍛えてくれた。
 この白ロシアを訪ねたころ私はモスクワで、たまたま白ロシア出身の有名な作家アレーシ・アダモヴィツチに取材した。彼は、「もし、ソ連にスターリン主義体制への逆戻りが起きたら、経済、道徳、精神、いや、それこそ何でも破壊され、社会は墓場のような状態になってしまうだろう」と、述べた。彼の言葉はむろん、その体制下の社会の様子を述べたのだったが、彼の出身地の白ロシアは、場所によっては文字通りの墓場となっていた。
 私は、ソ連共産党書記長スターリンの時代の中の、ほぼ一九三七年から四〇年にかけてのある時期に白ロシアの首都ミンスクで行なわれた人民大虐殺の現場を、厳しい寒気の中で然るべき地元の人に案内されつつ現認したのだ。
 それはミンスク郊外の広大な松林だった。市民のある人数の中には確率的にある割合の非マルクス主義、反スターリン分子が交ざっているはずとの前提で、日本流に言えば、大都市の例えばある区のある町の一丁目から五丁目までの普通の暮らしの全住民が、幼児も含めた老若男女、職業、その他の別なく、ある夜半に有無を言わさず突然駆り出され、この松林に連行され、射殺されたその凶行の跡地だったのだ。「人民の敵」をこれだけ本日処刑したと、上級の党当局に報告し、共産主義社会を定着させる階級闘争なるものの成績を誇示しょうとしたようだ。
 この場合の大虐殺の規模の正確なところはその取材の時点ではなお不明だったが、すでに一部分は発掘作業が行なわれ、遺骸や残留品などのいわば法医学的、考古学的調査や、虐殺当時から遣る公文書類から虐殺の実相がかなり詳しく判明していた。最末期ではあるが、私が取材した時はまだソ連時代で、とくに白ロシアは共産党の強権色がなお濃厚だったので、そうした発掘作業はなされていても、その現場にまたわざわざどこかの外国人記者、つまり私を連れて来る行為は危険かも、と案内人は思っていたのかも知れない。「早く立ち去りましょう」と、随分急かされた。
 松林には、遺骸を埋め込んだ大きな穴の窪が見渡す限り点在していて、私がある窪みを踏んだら、「そこはまだ遺骸が埋まっでいるかも」と言われ、飛び退いた。ミンスクのこの松林も、とくにスターリン期のソ連全土で凄惨を極めた、「人民の敵」を抹殺する「粛清」と称する虐殺のごく一例でしかない。脚下には、虐殺された老若男女の遺骸があちこちにそのまま集団で埋まっている。白骨ではあるが、虐殺された時の着衣は、ボロ化していても多少は付いていたようだ。まさか殺されるとまでは思わず洗顔用具くらいは携えて行こうとしたのだろうか、それらしき物がそばに残っている遺骸があったことも地元では知られている。
 ここでスターリン期の暴虐を取り上げたのは、慰安婦報道に関する朝日新聞の失態の構造的原因を究明するに当たって、この白ロシアの松林での体験が、しつかりと自分の思考を支えてくれるように感じられるからだ。ある観念(*朝日の場合マルクス主義)を振りかざしで社会を裁断する視野狭窄に陥ってはならないということである。
 私は1933年(昭和八年)生まれで小学校六年の時に終戦に遭っているので、敗戦後のことはもちろん、戦中、そして戦前の社会の様子も少しは記憶に残っている。しかし、軍隊生活も戦闘も知らないし、軍国主義社会での弾圧被害の体験はもとよりない。それらはすべて文字面での知識だ。しかし、ミンスクの松林での、足下の遺骸を通してマルクス主義社会の狂気、非道は直に体感した
 そのときの私は、コートをまとっていても震えた。現場からの離脱を催促する案内人の顔は、何かを予感してか、ひきつっていた。私も不安が高まり、案内人に従った。宿に戻っても、誰かに尾行されてはいなかったか、と落ち着かなかった。以来、この体験を私は反芻し続けている。
 ソ連に限らない。中華人民共和国でも(*北朝鮮でも、他の社会共産主義革命でも)非道、惨事は起きていた。プロレタリア文化大革命の時に限らない。しかし、私が調べ得た限り、そうしたマルクス主義国家の残虐の現場そのものは、東京本社の記者大岩ゆりが、ごくささやかにではあるが、旧ソ連について一九九九年一月五日付の夕刊で報じるまでは、朝日新聞の紙面では見でいない。

ソ連に従った朝日新聞と外務省

 ところが1950年、共産主義国家による日本隣国(南朝鮮)の侵略という重大事態の発生に対処しての非常措置として、GHQは、共産党員ないし共産党同調者というだけでその解雇を報道機関に事実上強制した(日本国憲法の思想及び良心の自由を無視して)。
 GHQからの伝達の実行を巡って朝日新聞社内も紛糾したが、日本占領のGHQの意思は日本国憲法のさらに上位にあることから、抵抗は不可能ということで、結局、朝日新聞は、合わせて百四人(編集三十七、印刷五十六、業務五、出版、総務各三)と、NHKの百十九人に次いで多い共産党員、共産党同調者を解雇した。朝日新聞社でのその解雇は、当時の「新聞協会報」(昭和二十五年七月三十一日付)によると、「やむをえざる社務の都合によるとき」という従業員就業規則の解雇理由の一つをその根拠にしたようだ。
 尚、一九六五年頃、米国議会で朝日や毎日のベトナム報道が偏つていると問題になつた。米上院の外交委員会で、フルブライト委員長と次官ら国務省幹部がやり合うのですが、国務省は「朝毎両紙には共産主義者がたくさんいる。朝日には二百人いる」などと言い放ち、国内でも大騒ぎになった。確かに、ゾルゲ事件、レフチェンコ証言、李春光事件など、戦前から現在までその体質は少しも変わっていない。
 木村は七二年十月上旬のある朝、上司である朝日新開東京本社外報部長から電話で「突然ですが、帰ってもらうことになりました。一週間以内にできるだけ早くモスクワを離れで下さい。理由は帰ってから説明します」と伝えられた。辞令もまだ出ていない、突然の業務命令であった。
 帰国した木村がその外報部長から聞かされたところによると、在日ソ連大使館の報道関係担当一等書記官(後にソ連国家保安委貞会=KGB=の中佐と分かる)から木村特派員を更迭して欲しいとの申し入れがあり、朝日新聞社の人事異動として行なわないならソ連側で措置するとのことなので、木村に傷が付いてはいけないと思い、社内の人事異動として帰ってもらったとのことだった。だが、そうだとしたら、朝日新聞社の人事権が同社内にではなく、実は他国、この場合はソ連にあったということになる。
 むしろ名実ともに「国外追放」にしてもらった方がよかったと、木村は記している。報道の自由を信条とする欧米のメディアにとってソ連からの追放は記者の勲章とされでも、追放を記者本人やその社の傷と考えることはないのではないか、とも。
 ソ連からの追放をその記者の傷と見ることは、朝日新聞社がソ連という国を奉っていたことになる。そのうち、同僚からの私信で木村は、モスクワ退去の人事に日本の外務省高官と東京本社編集局長室の間の話し合いが絡まっていた模様であることを知らされる。そうであるなら、朝日新聞社と日本政府が共謀してソ連に対して節を曲げていたという話になる。朝日新聞社がメディアとして失格であるばかりか、日本政府もソ連の下請けと化し、この件では国家主権を放棄していたことを意味する。(*つまり、外務省のこれまでの反日姿勢の数々は、そのなかの多くがマルクス主義者だと云うことだとなのですね。⇒[外務省の罪を問う]参照)
しかし、ソ連による特派員追放を、同国の望みどおりに隠蔽して自社の人事異動にすり替え、同国に迎合した朝日新聞社であれば、北畠のような記者も次から次へと生み出されていくのであろう。だが、このようなメディアはもはや新聞社とも報道機関とも言えない。ソ連側も内心ではこういう朝日新聞社を軽蔑していたのではないか。

ソ連派と中国派の対決

 同じ共産主義国家のソ連と中国の、とりわけ一九六〇〜七〇年代の深刻な対立は朝日新聞社の上層部にも大きく深い亀裂を生んだ。ソ連派の役員の秦正流対中国派の社長の広岡知男の衝突という形で激化し、この秦の側に渡邊誠毅も加わって最終的に広岡が社長退陣へと追い込まれる結果となるが、秦も広岡もかつては、戦後の労働組合事始めのころの組合仲間だったのだ。だが、万物は流転する。
 ここで問題なのは、懸命に秦がその側に立ったソ連がその後に忽然と歴史から消え、しぶとく広岡が擁護し続けたその中華人民共和国も次第にその実態が明らかになり、今後もどういう運命に陥るのか予測も困難ということである。秦も広岡も、朝日新聞社の上層主流は歴史を完全に読み誤ったということだ。紛い物同士である中ソそのものの対立も凄まじかったが、そんな中で発生した朝日新聞社内における中ソの亜流たちの相克も深刻だった。
 私は、朝日新聞社のソ連、中国に関する報道で一番欠けているのは、この両国で発生した途方もない人民大虐殺、テロの報道、究明であると考えている。従って、それに比すれば、(*戦前は尾崎尾崎秀実の思惑通りに日本と中華民国を互いに消耗させ、ソ連への防御を怠らせて南進に向かわせ、米英との戦争を煽った。つまり、朝日新聞は、敗戦革命を目指し、満州事変もシナ事変も大東亜戦争も大いに鼓舞した。)戦後のある時期の戦争に伴う日本の「加害」を声高に批判しながらも、中ソのことに関しては声が消えるこの新聞社は、両国のこの大罪の、少なくとも道義的に共犯者とみなされるべきではないのか。(つまり、朝日新聞は、戦前も戦後も尾崎秀実と同じ穴の狢で、戦前は敗戦革命を、戦後は自虐史観による革命を願ってやまないのだ。マルクス主義を信奉しているがゆえに、戦後は「中ソ」=善、「日米」=悪とし、歴史を歪め捏造し、自虐史観を煽ってきたことも、すんなり頷けてしまう)。ソ連については戦前から、中華人民共和国に関しても、戦後にこの共和国が成立してそう経たないうちに、その実態は海外では報道されていた。日本でもメディアによっては両国の実相を全く伝えなかったわけではない。
 マルクス主義を国是とする共産主義諸国家における人民大虐殺については、二〇〇一年(平成十三年)に『共産主義黒書(ソ連篇)』(外川継男訳、恵雅堂出版)、二〇〇六年(平成十人年)に『共産主義黒書(コミンテルン・アジア篇)』(高橋武智訳、恵雅堂出版)という一般向けの、しかし赦密な書籍の翻訳が日本でも出ている。


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