本当の半島の歴史


           



 [日韓がタブーにする半島の歴史 新潮新書][読む年表 中国の歴史 WAC]から抜粋しました。
 古代の朝鮮半島に文明を与えたのは、大和人だった通常は、大陸から半島、そして日本へという流れですが、これが誤りだったことを、半島の古文書[三国史記][三国遣事]から述べている。目から鱗です!
 朝鮮に残る唯一の文献を朝鮮人は無視してしまって、妄想的な自国論を展開している。つまり、古代から半島人は嘘つきで、シナ人・朝鮮人は古代から魔族とでも表現すべき種族だったのです。
 もっとも、長江から半島から九州北部に掛けて、古代シナではここに倭人が住んでいるとしています。この地域にポリネシア系が混交し、稲を改良しジャポニカ米が誕生します。彼ら稲族は、半島を経由せず、直接日本に稲作をもたらしました。
 といっても、縄文時代から日本には都市が有り、狩猟、栗栽培、稲作が行われていました。水田と渡来と共に、栄養事情が良くなった形跡はありません。
 その後、秦の始皇帝の出現により、徐々に押され、半島南部と日本列島が大和人の活動拠点となり、シルクロードが閉鎖されると、イスラエルとの直接の交流が絶えてしまう。その間に除福などのユダヤ人や、シルクロードの交易で利益を得ていた技術集団・秦氏が、半島を経由せずに船で日本に渡来する。当時の大和朝廷は、半島を経由せず直接に、イスラエルの情報を得ようと、シナ大陸との交易を開始した。
 このような状況でも、半島にはシナ経由の文明はもたらされず、大和人の植民地から、文明がもたらされたのです。

 ◇ ◇ ◇

 イギリス人の女性旅行家イザベラ・バードは、1894年から97年にかけて4度にわたって朝鮮半島を旅したが、それを記録した著書でソウルを次のように評している。
「穢きこと臭きこと世界一の都は京城(筆者注・ソウルのこと)乎。(略)市街の中心を西より東に流るる下水道は市中の汚水を夜に昼に絶えず城外に排泄して居る。其の為めに下水道の泥は真黒に幾世も昔からの濁水に染められ悪臭を空中に放散して旅人を悩して居る」(『三十年前の朝鮮』工藤重雄訳、東亜経済時報社)
「北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから! 都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい」(『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』時岡敬子訳、講談社学術文庫)
 また、李氏朝鮮末期に布教活動をしていたフランス人宣教師の残した記録をまとめたシャルル・ダレの『朝鮮事情』(金容権訳、平凡社東洋文庫)には、
「ソウルは、山並みに囲まれており、漢江の流れに沿って位置し、高くて厚い城壁にかこまれた人口の多い大都市であるが、建築物には見るべきものはない。かなり広いいくつかの道路を除いては、曲りくねった路地だけがあり、この路地には空気も流れることなく、足にかかるものといえばごみばかりである。家はふつう瓦で覆われているが、低くて狭い」
「衣服は、白衣ということになつているが、しかし、ちゃんと清潔さを保っているのはとても労力のいることなので、たいていの場合、濃厚な垢のため色変わりしている。不潔ということは朝鮮人の大きな欠陥で、富裕な者でも、しばしば虫がついて破れたままの服を着用している」
「かつての古い経書に書かれているところを除けば、あらゆる官吏の業務が人民の為のものでないことは、もはや誰の目にも明らかである。官吏の地位は公然と売買され、それを買った人は、当然その費用を取り戻そうと努め、そのためには体裁をかまおうとさえしない。上は道知事から最も下級の小役人にいたるまで、徴税や訴訟やその他のすべての機会を利用して、それぞれの官吏は金をかせぐ。国王の御使すらも、極度の破廉恥さでその特権を濫用している」
「朝鮮においても、他のアジア諸国と同じように、風俗は甚だしく腐敗しており、その必然的な結果として、女性の一般的な地位は不快なほどみじめで低い状態にある。女性は、男性の伴侶としてではなく、奴隷もしくは慰みもの、あるいは労働力であるにすぎない」
 などと書かれており、きわめて劣悪な環境だったことがわかる。
 また、産業においてもほとんど原始的な段階で止まっていた。支配層である両班は極度に労働を軽視していたからだ。1904〜05年にかけて朝鮮を訪れたスウェーデン人ジャーナリストのアーソン・グレブストは、日本の支配力が高まりつつある当時の朝鮮に同情しながらも、次のように述べている。
「楽天的な風潮と労働を軽んじる態度は、必要不可欠なもの以外のものの生産にはまったく勢力を注ごうとせぬ結果上してあらわれた。そしてついには、生活必需品ですら仕方なしに、いい加減に製作するありさまである」(『悲劇の朝鮮』河在龍・高演義訳、自帝社)
 しかし、日韓併合により、こうした環境は一変する。



◇序文

 倭人は半島の民族から様々なことを教えられたどころか、半島に初めて統一国家を築く新羅の基礎づくりを指導したのは、実は倭人・倭種であり、新羅も百済も倭国のことを文化大国″として敬仰していたのだ−と。
 「そんなバカな」と、日本人も韓国人も言うだろう。しかし、日本でも韓国でも今や殆んど読まれることがなくなった半島や中国の古史書を素直に″読んでいくと、浮かび上がってくるのは、日本人や韓国人が抱く常識中の常織″とは、およそ懸け離れた列島と半島の古代関係史の姿なのだ。
 例えば、半島に伝わる最古の正史(官撰の歴史書)である『三国史記』には、列島から流れてきた脱解という名の賢者が長い間、新羅の国を実質的に取り仕切り、彼が四代目の王位に即くと、倭人を大輔(総理大臣に該当)に任命したとある。その後、脱解の子孫からは七人が新羅の王位に即き、一方で倭国と戦いながらも新羅の基礎をつくつていったことが記載されているのだ。半島で、半島の史官が、半島の王の命令を受け、半島の王朝と人民のために編纂した半島の正史に、そうした内容が書いてあるのだ。
 あるいは、七世紀半ばに完成した中国の正史『隋書』にはこんな一節がある。
 『三国史記』が出来上がったのは十二世紀、高麗王朝の時代だ。高麗王朝は「伝統ある新羅から禅譲を受けた王朝」という形式を整えつつあった。『三国史記』そのものが、高麗とは山賊が打ち立てた国家″ではなく、「伝統ある新羅から禅譲を受けた国・王朝」であると明示するとともに、「新羅王朝の血脈が高麗の王朝にも流れ込んでいる」と主張することを目的にした正史といえる。そうした高麗王朝にとって、「新羅の基礎は倭人・倭種がつくつた」という危うい話″を正史に記載することに、どんなメリットがあったのか。
 当時、日本と高麗の間に通交はあった。しかし、高麗が求めた医師派遣を日本は断るなど、どちらかと言えば冷たい関係だった。そうした中で、高麗の史官は「新羅の基礎づくりは倭人に指導された」という話をわざわざ控造してまで、正しい史実″を国民に知らせ、かつ後世にも伝えるために編纂する「一国の正史」の中に書き込んだとでも言うのだろうか。
 『三国史記』の成立過程、その記載内容を慎重に検討していくと、上記の話が決して捏造ではないこと−年代には疑問があるにしても、事実の確実な反映であることが見えてくる。考古学の新しい成果や、DNA分析を駆使した植物伝播学の研究も、それを後押ししてくれる。


◇新羅の基礎は倭種が造った

 高麗で最高の功臣かつ実力者であり、儒家としても名高かった金富軾(1075〜1151年)が現役を退いた後に、十七代王である仁宗(在位1123〜46年)の命令を受けて1143年頃に編纂を開始し、1145年に完成した。仁宗の命令は、「三国史記を上進する書」の中に復命する形で引用されている。次のような仁宗の指摘がある。
 そうではない史書−恥部も曝け出して「後世の勧戒」となるような「名文の正史」を編纂しろというのが王命だったのだ。当時の貴族・廷臣にとって王命とは、今日の日本で高級官僚が総理大臣から直々に受けた命令よりも遥かに重みがあっただろう。
 仁宗の命令内容からも解るように、『三国史記』とは書き下しの史書ではない。当時あった多数の古史書(いわゆる『旧三国史記』を含む)を点検し、かつ中国史書を参考にして、半島史に関する高麗王国の統一見解″としてまとめられた正史だ。そうした経緯からして、『三国史記』とは日本でいえば『日本書紀』に相当する。
 『三国遺事』についても説明しておこう。これは高麗の名僧、一然(1206〜89年)が編んだ野史(官撰ではない史書)だ。完成したのは 『三国史記』より百数十年後の1280年代中盤とされている。半島に残る史書としては二番目に古い。
 『三国史記』は古伝の重要部分をカットしたり、歪曲したりしている−との批判が一然の執筆動機とされる。仏教説話を除く部分(紀異論=三国史記の「本紀」とは異なるとの意味)は『三国史記』に対する異説集″といえる。ただし『三国遺事』は、全編を通じて引用が頗る杜撰だ。
 一然は、仏教を事実上の国教としていた高麗で、僧侶の最高位に当たる「国尊」に上り詰めたほどの人物だ。その杜撰さは引用文献を点検することなく、うろ覚えのまま書いたりしたためだろう。そもそも一然は史官ではなかったし、史書の作成を支えるようなスタッフに欠けていたのも明らかだ。
 正体不明の怪しげな史料からの引用もある。これも、『三国史記』に対する異説なら何でも拾い上げようとした一然の編集姿勢の現れといえる。
 儒学者により編纂された由緒ある正史と、それを批判する立場から百数十年後に仏僧により書かれた異説集のような野史−この組み合わせが、半島と列島の古代関係史を探る上で、『日本書紀』と『古事記』の関係とは比べ物にならないほど強力な補完性を発揮してくれる。


◇日本海側の地から来た賢者

 『三国史記』の第一巻(新羅本紀)に、列島から流れてきた賢者が、二代王の長女を娶り、義理の兄弟に当たる三代目の王の死後、四代目の王に即く話が載っている。その賢者の姓は「昔」、名は「脱解」だ。
 「新羅本紀」は脱解王初年(57年)の条で述べている。
「脱解はそもそも多婆那国の生まれだ。その国は倭国の東北一千里にある」
 その生誕説話も載せている。そこには、新羅の初代王である朴赫居世の生誕説話の倍以上の文字数が費やされている。木版の時代、一つの事柄の記述に充てられる文字数は、その事柄に対する編者、著者の重要性認識度に直結していると思う。
 「新羅本紀」を要約すると、こういうことだ。
 女国(『三国遺事』では積女国)から嫁いできた多婆那国の王妃は、妊娠して七年目に、大きな卵を産んだ。王は「人が卵を産むとは不祥である」として、捨てるよう命じた。そのため、王妃は卵を宝物とともに檀に入れて海に流した。
 檀は最初、金官国(金海市)に漂着したが、誰も怪しんで取り上げようとせず、次に辰韓(慶尚道)の海岸に流れ着いた。
 老婆が櫃を開けてみると少年がいた。その時、櫃に従うように鵲(かささぎ)が飛んでいた(筆者註=鶴は、朝鮮半島では古来、吉鳥とされる)。そこで、「鵲」の字の一部を採って、「昔」を姓とした。櫃を開けて取り出したので名を「脱解」とした。
 この説話により、脱解とは卵生と称されていて、その生国である多婆那国とは倭国から東北一千里の海岸に面した地にあったことが解る。
 『三国史記』で用いられている「里」は、隋里(一里=約450M)か、朝鮮里(一里=約400M)か、あるいは両者を混同して使っているとも考えられる。概ね、一里=400M強と見てよい。
 ■韓の出自
 「秦」と「清」の音が同じなので両王朝は同族を意味する。同じく、「漢」と「韓」は音が同じで、同族を意味している。秦の始皇帝の時代、黄河流域にあった「河南省の禹県」が「韓」だった。神話の英雄禹は卵の意味で、檀君神話に卵が出てくるのだろう。とにかく、「河南」=「カナン」で魔族の出自である。


◇倭種とは

 『三国史記』は、脱解王の下で大輔に就く人物について、「倭人」だったと明記している。倭人が新羅の支配体制の重要なポストに就いたことを、何らタブー視していないのだ。
 それなのに、脱解に関しては「倭人」とせず、その生国を「倭国の東北一千里」と紹介している。これは、多婆那国が倭国の支配圏外にあったからだろう。
 『魂志倭人伝』は述べている。
「女王国から東に海を渡って行くこと千余里、まだまだ国々がある。それらの国々の 人民は(韓族やツングース系ではなく)みな倭種だ」
 これは、倭国の圏域外について述べている箇所だ。前後の文脈からして、ここは「倭国の首都から千余里」ではなく、「倭国の東端から千余里」の意味だ(ただし、ここで使われている「里」は隋里ではなく、一里=約75Mの短里だろう)。
 この一節だけ見ても、私は『三国志』が記述対象としている倭国とは、九州北部を主領域とする連合国家だったことが解ると(※畿内王朝とは別の九州王朝のこと)思う(『三国史記』の記述も、倭国が九州を中心とする王朝だったことを窺わせる)。
 『三国志』は、倭国の支配圏外の倭人を「倭種」と表現している。それに従えば、脱解は倭人ではなく、倭種だったのだ。(※九州王朝を倭、畿内王朝も含め、それ以外を倭種としたのでしょう。)


◇白馬と高貴な紫色

 『三国史記・新羅本紀』(以下、「新羅本紀」とする)の場合は簡潔に述べている。
「秦や漠の圧政から逃れてきた人々(原文は「朝鮮過民」)は、慶州の山間部で六つの村(「辰韓の六部」と呼び、初期新羅の中核人民に位置付けられる)に別れて暮らしていた。ある日、一人の村長が林の中で馬が脆いて斯くのを見た。そこへ行ってみると 瓢(ひさご)のような形″の大きな卵があった。卵を割ると男児が出てきた。」
 卵から出てきた男児こそ、十三歳にして新羅の初代王に擁立される朴赫居世だ。
 これに対して『三国遺事』には、次のような記述がある。
「辰韓の六部の村長は、いずれも(地元の山峰に)天から降りてきた」
「六部の人々が子弟を連れて集まり、『君主を立て、都を定めよう』と話し合っていたところ、山の麓に不思議な気配がした。雷のような光が地面に差したかと思うと、そこに一頭の白馬が脆いていて、礼拝するような姿勢をしていた。そこに行ってみると紫色の卵があり、白馬は長く噺いてから天に駆け上がっていった」
 『三国遺事』では、檀の中にいた子供自身が以下のように述べる。
私は龍城国の者だ。……父王の含達婆が積女国の王女を妃に迎え……王妃が卵を産むと、父王は「不吉の兆」とし、七宝と奴姫を船いっぱいに積んで「勝手に縁のある地へ行って家を起こし、国を立てろ」と呪った。すると、にわかに赤い龍が現れて船を護衛し、ここにやってきた。
 龍城国については、一然自身がこういう分註を付けている。
「正明国またはワナ国ともいう。龍城は倭の東北二千里のところにある」
 つまり、異説を収集して載せた『三国遺草』でも、新羅の四代王は脱解であり、その生国は−異なる国号が四種類出てくるが−やはり「倭の東北一千里」だったのだ。

 ■※ 秦氏の初代王・朴は脱解を呼び寄せた!?
 シンの圧政を逃れて、半島経由で九州に渡来した秦氏一族。つまり、初代王・朴は秦や漠の圧政から逃れてきた人々の出身で、これは日本に高度な技術をもたらした秦氏一族の血統とみても良いのではないでしょうか。だから畿内王朝に貢献した秦氏一族は、新羅を建国するために脱解を呼び寄せたと考えられる。思い出されるのは、大国主命の求めに応じて、少名毘古那が海から大国主命の元へ渡来したことです。


◇新羅最初の外交団の首席代表は倭人だった

 三代目の王には息子が二人いた。しかし、脱解を四代王に即けるよう過言して没する。脱解は王位に即くと、翌年にはホゴンを大輔(これは総理大臣に相当する。「新羅本紀」からは、軍事は脱解が掌握していたと読み取れる)に任命する。
 このホゴンは倭人だ。「新羅本紀」の朴赫居世38年(前二〇年)の条に、こうある。
「弧公とは、その族姓は詳らかではないが、そもそも倭人だ。弧を腰に提げて、海
 を渡ってきた。それで弧公と称された」
 「弧を腰に提げて、海を」−私は浦島太郎の姿を思い浮かべてしまうのだが、脱解による弧公の大輔起用の結果、出来上がった体制は、王は倭種、ナンバー2は倭人となった。これは「倭種・倭人が統治する国」に他ならない。新羅に《倭・倭体制》が出来上がったのだ。
 『三国志・韓伝』 の中に、新羅は「辰韓と弁韓を合わせて二十四カ国」の一つとして、「斯慮」の名前で出てくる(中国史書の中で、国号「新羅」の初出は『太平御覧』に引用された『秦書』377年の記事とされる)。馬韓五十数カ国を列挙する中に、百済も「伯済」として出てくる。
 卑弥呼が君臨したのと、ほぼ同じ時代に新羅も百済も存在したことが中国史書により確認できるわけだ。しかし、どちらの国も『倭人伝』のような詳細な説明はない。

※つまり、畿内王朝(倭種)・九州王朝(倭人)の統一王朝が、新羅を支配した。


◇慶州でハイテク産業を営んでいた倭種

 倭種が四代目の王に即き、その下で倭人の弧公が大輔になつたーそうした体制を成り立たせたマクロな状況は、その時代の新羅には、少ない比率ではあれ倭人・倭種が韓族、ツングース系の漬族、中国系流民と共に住んでいて、民族間に先鋭な対立がなかったことだろう。
 『日本書紀』だけ見ていると、新羅と倭国は敵対的な関係にあり、新羅に倭人・倭種が住んでいたとは、とても思えないかもしれない。しかし、考古学はいま、半島南部(弁韓)に限らず、新羅地域(辰韓)にも倭式の墳墓があり、古代から倭人が住んでいたとする(朴天秀『加耶と倭−韓半島と日本列島の考古学』講談社選書メチエ、2007七年=参照)。掘り出せば「倭式の墳墓」と解るほどの遺跡なのだから、被葬者が高い地位にいたことは明らかだ。
 『三国遺事』には、こんな話が載っている。
 脱解は、弧公が住む邸宅を風水地理の吉地と見た。そこで、炭や砥石を密かに埋めておき、役人に「よその村に行っている間に、他人が家を建ててしまったが、ここは私の土地だ」と訴え出る。そして切り札として言う。「私の祖先は鍛冶屋だったから、掘ってみれば砥石や炭がある筈だ」と。果たして……。
 漂着して間もない時期だから、韓族や中国系の民を装うことはできなかったろう。
 それなのに、「私の祖先は……」という話が成り立ったのは、今日でいえば慶州市中心部に当たる地域には、脱解が申し出る時より遥か前から、倭種が営む鍛冶屋だけでも何軒もあったからではないのか。
 鍛冶屋とは、当時のハイテク産業だ。慶州中心部に倭人が営むハイテク工場が何カ所もあり、韓族や中国系流民を相手に商売をしていた−こんな古代風景は、誤った常識からは想像もできまい。
 しかし、三世紀になっても半島の刀剣は鋳鉄だったが、列島では一歩も二歩も進んだ鍛造品が造られていたというのが考古学の常識だ。慶州で倭種がハイテク産業を営んでいた古代風景は、決して不思議ではないのだ。
 「新羅本紀」には、詐取この土地は後に月城=王宮になったとある。風水地理は古代中国に始まるが、今日の韓国人は何かというと風水地理を持ち出す。なんと大統領府でも、事務方が大統領府の建物の配置について、風水師にお伺いを立てていたことが明らかになった。韓国人は、脱解を「半島における風水地理の祖」として崇めなければなるまい。
 つまり、古代の韓族が倭人を明らかな劣等民族として位置づけていたのなら、如何に個人的に才能が優れた倭種であっても、総理大臣に登用したり、王に推されることはあり得なかった。


◇倭国と新羅は地続きだった

 「五九年に倭と国交」は不思議でない。「新羅本紀」には、朴赫居世人年(前50年)に、倭勢力の最初の対新羅出兵記事がある。ここで「倭勢力」というのは、その主体が倭国の指揮系統にあったのかどうか、疑問があるからだ。その二回目の出兵が南解十一年(14年)だ。そして、次の倭国関連記事が、脱解三年(59年)五月、新羅は「倭国と国交を結び、使者を交換した」となる。
 古代史フアンの多くは「そんなことは『古事記』にも『日本書紀』にも載っていないぞ。まさか、一世紀の半ばに倭国と新羅が国交を結んだなんて」と嘲笑するだろう。
 倭の使節が57年に漢漢本土、あるいは平壌に郡治(郡庁所在地)があった楽浪郡(漢の直轄地)を訪問して、光武帝から印綬(印と、そのセットになっている組み紐)を授かったというのだ。その印とは、福岡市の志賀島から出土した「漢委奴国王印(金印)」のことだ。
 『後漢書』の「倭奴国」をどう読むのか、金印の「委奴国」とはどういう関係なのかは、さておく。ここでは、倭人の国は既に一世紀半ばに、中国と正式な外交(金印授受)関係を持ったという事実が重要だ。中国の正史を見れば、この時代、韓族の邑長には「銅印」が授けられた。金と銅の違い、これは絶対格差だ
 漢本土にせよ楽浪郡にせよ、列島から見れば、そこは新羅より遥かに遠い。より近い新羅との間で、59年に国交が結ばれたとしても、何ら不思議ではない。『古事記』も『日本書紀』も、基本的には近畿王朝の史書だ。倭国と新羅との国交の記事が載っていなくても、これまた不思議ではない。
 さらに『後漢書』の編者が「九州北部=倭国の極南界=倭奴国=金印を賜る本国」と認識していることも解る。つまり、「半島の南部=倭国の北部=分国」なのだ。これは『魂志倭人伝』が狗邪韓国(今日の韓国金海市を中心とする地域)を“倭国の北岸”としているのと基本的に同じ地理観だ。当初の倭国とは「倭奴国+半島にある分国」を指していたのだ。
 日本では、「委奴国」を、『魂志倭人伝』に国名が出てくる伊都国に比定する研究者が少なくないようだ。しかし、卑弥呼が 238年に魏から金印(親魂倭王)を授かったのは、「邪馬壹国の女王」としてではない。「連合国家・倭国の王」としてだ。
 『後漢書』中の「倭奴国=委奴国」に該当するのは、単位国家である伊都国ではない。「連合国家の本体である倭奴国=刻印では委奴国」と見るべきだ。もし伊都国が貰ったとしたら銅印だ。


◇金王朝があったのも、脱解がいたから

 73年には倭勢力による小規模な新羅侵攻があり、倭国との局面は変わった。それでも、脱解王の倭・倭コンビは新羅の末代、いや「新羅本紀」の記述上は高麗王室にまで通じる大功績を挙げている。
 金王室の始祖となる赤ん坊を、王族として育てたことだ。
 脱解9年(65年)、脱解は夜、林の中で鶏が鳴く声を聞いた。朝になり、林の中を調べさせると、金の小さな檀が木の枝に引っ掛かっていて、その中に小さな男の子がいた。脱解は「天が世継ぎを下さった」と大喜びする。見付けられた男の子は、金の檀に入っていたので、姓を「金」とする。名は(理由は出ていないが)関智とする。金関智は王にはなれなかったが、後年、大輔に就く。そして、金関智の七世孫が初めて金姓で王位に即き(十三代王)、十七代から五十二代まで、この一族が新羅の王位を独占する。
 馬韓から辰韓に逃げてきて、初期新羅の領域内で、辰韓の六部とは別に(おそらく現在の慶州市付近で)暮らしている集団があった。後代になって王を出し、「金」姓を名乗る集団だ。その一族の娘と脱解が私通して生まれたのが、金閣智だったと理解した方が納得がいくと思う。


◇つい最近まで黒い飯だった半島

 私には、多くの日本人が未だに「稲作は半島からの渡来人に教えられた」と漠然と信じていることが、たいへんに不可解だ。
 なぜなら、稲の日本への伝播が、中国・雲南省から東シナ海を経由して九州に達するルートだったことは、とっくの昔に結論が出ている。佐藤洋一郎(静岡大学助教授)を中心とする DNA解析を駆使した研究の成果だ。「半島経由だ」と主張しているような植物伝播の研究者は、日本はもとより世界にいないだろう。
 韓国の『高等学校国定国史』(第七次教育課程、日本の学習指導要領に該当)ですら、稲作の伝播経路を示す地図の中で、列島への伝播は中国南部から東シナ海経由としている。
 韓国への稲作の伝播は山東半島や遼東半島経由と、韓国の『高等学校国定国史』は記している。そうであったとして、実際に稲作を指導したのは倭種だったのではあるまいか。
 「農業に力を入れよ」と指導した王は、「新羅本紀」にも「百済本紀」にもみられる。しかし、「風雲を占い、水草や穀物の豊凶を予知することができ……人々は聖人といった」−まさに農業に特定したような紹介記事は、『三国史記』全編を通じて伐休王にしかない。個々人の業績を措いた「列伝」の中にも、農業専門家は出てこない。
 ただ、伐休王のような存在がいて稲作を指導していたとしても、その後も新羅の主食は粟だった。新羅の滅亡から、およそ九百年後に日帝″が凄まじい財力を投入して農業基盤整備事業を推進するまで、半島の庶民は銀シャリ(白米一〇〇%の飯)など口にできなかったのだ。
 戦後の韓国で、大手マスコミに勤務する人間は、他から羨まれる高給取りになった。それでも一九八〇年代初頭の韓国で、大手新聞である中央日報社の社員食堂の飯は、依然として大麦や豆の他に様々な雑穀が混じった黒い飯″だった。その当時はまだ、米を炊く際には、一定比率の雑穀を混ぜなければならない「国民の混食義務」があった。
 「韓流ドラマ」に出てくる食事や料理作りの場面に、ゆめゆめ騙されてはいけない。「韓流ドラマ」については、韓国の新聞も「時代考証ゼロ」と批判している。……
 「始作稲田」とは、陸稲のための畑を初めて作らせたという意味だ。中国、半島とも、漢字の「田」は日本の「畑」を意味する。半島では水田を「水田」字で示す。もとより、陸稲の前に水稲があった筈はない。
 では、北部の高句麗は−。『三国史記・高句麗本紀』に見るべき記述はないが、中国史書には面白い記述がある。いくつもの史書に同じような記述があるが、典型とすべきは 『三国志・高句麗伝』だ。意訳すれば、こうなる。
「その地は痩せていて、その民はよく働くが、腹を満たすことは到底できない。それで民は常日頃、食事も満足に摂れないが、王室はそんなことにはお構いなく、宮殿を飾り立てることに熱心だ」「その支配層は短気で凶暴で、しばしば山賊行為を働く」
 高句麗とは、今日の北朝鮮から中国吉林省にかけてあった古代国家だ。言うならば、北朝鮮の前身だ。山賊行為が人身拉致を含むのは当然。となると、良田が無く……山賊行為までの一文は、もしや今日の北朝鮮のことを述べているのではないのかとさえ思えてくる。
 まさに「故事は今を知る所以」だ。ともかく、半島北部は、満足な食事も摂れないような状況が続いていた。この地域は寒冷な気候であり、その主食は満州と同様、稗だったのだろう。
 一方、列島では三千五百年前(縄文後期)には、確実に稲作をしていた。稲の単位面積たりの収穫量は、他の穀物−大麦、小麦、稗、粟などより、大人口を支えやすいわけで、文化力の礎になる。
 佐藤洋一郎によれば、日本の稲作の始まりは、さらに古く、五千年前の縄文中期の遺跡からも米粒が出土している。その中には、朝鮮半島に存在しない品種がある。やはり五千年前の青森県・三内丸山では、既に栗や瓢箪が人工栽培されていたことが DNA解析により確認されている。文明の入り口″とされる北九州から遠く離れた本州の北端にいた倭種も農林業の高度ノウハウを持っていたのだ。そして、縄文時代に関する古いイメージ(漂泊・採取時代)とは懸け離れた「豊かな食生活」を享受していた事実が判明しつつある(佐藤洋一郎『純文農耕の世界−DNA分析で何がわかったか』)。
 DNA分析が示す科学的事実。そして『三国史記』に僅かながらも示されている半島内部の農業史、さらには中国史書を併せ読めば、新羅人や百済人、あるいは高句麗人は、とても倭人に稲作・米作りを伝授したり、農業を指導したりするような立場ではなかったと判断するのが妥当なのではないのか。
 韓族が倭人に稲作をはじめとする農業を教えたのなら、日本の農業関係用語には韓語に似た語彙がたくさんあって然るべきだが、私が知る限り全く存在しない。
 『三国志・韓伝』の「辰韓・弁辰の項」には、「その国は鉄鉱石があり、韓族、滅族、倭人がほしいままに鉄鉱石を採っている」とある。
 『三国志・韓伝』の書き出しは、こうだ。
「韓は帯方郡(ソウルを中心とする地域)の南にあり、東西は海を以って限りとなし、南は倭と接し、四方は各四千里ばかりだ)」(筆者註=里は古代中国の短里)
 それに続く『魂志倭人伝』は、女王国に至る行程を、次のように書き進めている。
「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国(馬韓)をへて、あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗邪韓国に到着するまで、七千余里。初めて海を渡ること千余里、対馬国に至る」
 これは『倭人伝』なのだから、素直に読めば「其の北岸の狗邪韓国」の「其の」とは「倭」のことだ。韓族が主体の国家のことなら、「南岸」でなければならない。つまり、明らかなことは、「狗邪韓国」と号する国家を、三世紀後半の中国人は「辰韓・弁韓24カ国の中の一国」に数えると同時に、「倭国に属する国」と認識していた事実だ。だから、倭国は半島南部から鉄を輸入していたのではなく、植民地から鉄を移入していたのだ。


◇半島西南端の前方後円墳は何を語るか

 新羅より南の地域は「倭」であり、その本拠は海を越えた九州(九州王朝)にある−この古代地勢図を認めないと、倭国勢力による新羅攻撃が、いかにも不可解なことになる。
 即ち、「半島では狗邪韓国だけが倭国の一国」と認めたとしても、狗邪韓国と新羅の間には倭に従わない韓族の国家がいくつもあるのに、倭兵はそうした国家をすり抜けて、山をいくつも越えた向こうにある新羅だけを攻撃していたことになる。
 しかも、その新羅とは、沃地でもなければ、貴重な鉱産物が出る国でもない。新羅は国域を北、南、西の三方に拡大した。
 半島の西南端に当たる栄山江地域に、十数基の前方後円墳があることに着目すべきだ。これらが前方後円墳と確認された瞬間、韓国のマスコミは、日本独特の墓制とされてき前方後円墳も、韓国が起源だったと報じた。しかし、その後の調査で、栄山江地域の前方後円墳は五〜六世紀の築造と明らかになつた。日本の前方後円墳は三世紀には出現している。つまり、五〜六世紀の半島最西南部には、端から端まで百M近い墓を造る倭人・倭種の強力な勢力があった『後漢書・韓伝』は、馬韓の領域について「その北は楽浪郡と、南は倭と接する」と書いている。半島最西南部は、後漠の時代には既に倭人・倭種が支配する領域だったと言っているのだ。
 『宋音』にある倭王・武が478年、宋の順帝に宛てた上表文で述べている「わが祖先は甲宵を身にまとい、山川を駆け巡り……海を渡っては海北の地を平らげること95カ国」とは、そうした状況の回顧だ。(※倭の五王や卑弥呼の記述が記紀に存在しないのは、九州王朝の人物だったからだろう。)
 倭国も新羅も、三世紀後半までには盆地国家を次々と勢力圏に収め、遂には両者の勢力圏が接した。そうでなければ、倭国勢力と新羅の本格的対峙は起こりようもない。
 いずれの年代でも、この倭王は、卑弥呼と壹輿の間にいた男王のことだ。
「卑弥呼の死後、改めて男王を立てたが国中に反発が起こり、殺し合いになった……そこで卑弥呼の同族にいた壹輿を、まだ十三歳だったにもかかわらず王にしたところ、国は平穏に戻った」と、『魂志倭人伝』が末尾に伝えている男王だ。
 その男王には、なぜ国中が反発し、殺し合いが再発したのか−『魂志倭人伝』には何の説明もないが、『三国史記』が補ってくれる。たいへんに誇り高く、かつ短気……で、国が治まらなかったのだろう。
 新羅の領土内で戦い、それが小休止状態になると、倭国の使節が王都を訪れ、新羅側が宴を張ってもてなす。まさに敗戦国の姿ではないか。そして、倭兵が再び主都近くまで侵攻してきて、最高位の王族であり、かつ兵に慕われていた名将が火象りにされても戦争にはならない。新羅は黙っていたのだ。
 これは、倭国が新羅に対して圧倒的優位にあったという以外に、どんな解釈が成り立つのだろうか。
 「新羅本紀」が描く三世紀後半からの倭の圧倒的攻勢も、文明力の違いによったと見るのが素直な解釈ではないのか。一世紀半ばには、倭国は漠(楽浪郡)と直接の繋がりがあった。楽浪郡の遺跡からは賛を尽くした品々が出土するが、それが韓族の領域に広く流れ出ることはなかった。特に新羅の場合は、楽浪郡との間に滅族・ペク族の居住地域があったから、楽浪郡と新羅はほとんど交渉がなかった
 となると、倭人・倭種は韓族から何を習ったのだろうか。
 中華文明は半島を通じて列島に入ってきたと言われる。日本の常識″だ。
 しかし、半島南部に倭人・倭種が確固たる地歩を築いていて、韓族を尻目に早々と漠と直に繋がっていた。であれば、中華文明を列島本国へ伝えたのは、韓族ではなく、半島にいた倭種・倭人だったと見る方が自然だ。
 では漢字や、寺院の建設技術は−。記紀が伝えているのは、大和朝廷に対する公式伝達のことだろう。つまり、それだけ九州王朝は文化水準が高かった。
 一世紀に漠と外交交渉をした倭人が文字を見なかった筈はない。卑弥呼が漢字を読めなかったなら、張政が魏皇帝の詔を持参することも意味をなさない
 『隋書・倭国伝』の「倭国に文字なし」とは固有の文字のことではないのか。そもそも、『隋書』が伝える倭王とは、阿蘇山の近くにいた。卑弥呼と同じ王朝なのだろうか。(※この文字は「漢字」のことで、神代文字を文字と認識していなかったのかも知れない。)
 では、寺院建設の技術はどうなのか。旧百済地域でもいい、旧新羅地域でもいい。半島の古刹を初めて見た日本人は、その柱の歪みの酷さに仰天する。地震がある国では、とても保たない。日本の大工分野の技術用語にも、韓語の面影は発見できまい。


◇安羅は倭人の国だったから

 「新羅本紀」は漠たる筆致で書いているが、『三国遺草』は、新羅にいた高句麗軍兵がその王を殺し、新たな王(十九代王)を立てたと明確に記している。つまり、この一時期、新羅は高句麗の属国になっていたのだ。その間も、南方からは倭国の侵攻が続いて、遂には高句麗と倭国の勢力圏が新羅の王都で接した。
 そうした状況を生々しく伝えてくれるのが、広開土王(高句麗十九代王=在位391〜412年)の碑文だ。
「(四〇〇年)新羅の王城内まで倭兵が満ち、王城を壊し始めた。高句麗は、新羅王が自らを「奴客」とまで謙って記した救援要請を受け、百済を襲撃しようとしていた五万の大軍を、新羅の救援に振り向ける。高旬麓の大軍に追われた倭兵は、半島南部の本拠地である「任那加羅」に向けて敗走する。が、深追いした高句麗軍の脇腹を、安羅の軍兵が突いてきた。そして、安羅軍が慶州を占領してしまった。」
 安羅もまた、明らかな「倭人の国」だった。
 この戦乱の後、新羅は高句麗だけではなく、倭の本国にも前王の子を人質として送った。つまり、新羅を主戦場とした倭と高句麗の対決は−少なくとも新羅の立場から見れば−広開土王碑が示すような“高句麗の圧勝”ではなかったのだ。


◇仲哀天皇とサタン・ダビデの謀略

 神託は間違っており、新羅は、沃地でもなければ、貴重な鉱産物が出る国でもない。だから、仲哀天皇の利に惑わされない神の申し出を断ったのは、正しかったのだ。その点、大東亜戦争直前、朝鮮併合に反対派の伊藤博文が朝鮮人暗殺され、朝鮮人からの申し出により併合したが、朝鮮には鉱物も農産物も文明も無く、日本が莫大な投資を行うことになる。その後、シナ大陸の内乱へと誘導されてしまうのです。では、この神功皇后に憑依した自称神は何故、仲哀天皇を無慈悲にも殺し、新羅を攻めさせたのだろうか。先生から、仲哀天皇を殺した神は、サタン・ダビデだとメモがありました。確かに、正しいことを述べた者を殺してしまうのですから、悪魔に違いない。
 秦帝国が出現する以前は、長江河口から九州に掛けて倭国(九州王朝)だった。秦帝国により、シルクロードが封鎖され、イスラエル人・秦氏・月氏諸々が、日本に亡命してくる端緒となる。そこで、畿内王朝は故郷の情報を得ようと、朝鮮半島に基盤を持とうとした。一方、それまで朝鮮半島を支配していた和国は、秦帝国に圧迫され、九州を本拠地とするようになり、朝鮮半島は資源も無く、ただの通路として放置された。ただ、鉄鉱石採集のために任那を本格的な植民地としたのでしょう。
 そして、三韓は倭国から徐々に離反するようになった。そこで、神功皇后が新羅を含む三韓を征伐したが、賢明にもこの地を併合したり植民地化しなかった。このため、大和朝廷は高句麗と秦帝国と直接対峙せず、秦帝国滅亡の内乱に巻き込まれることは無かった。倭国=和国で、その統一王朝が大和朝廷なのだ。そして、九州王朝と畿内王朝の本当の統一王朝が、応神天皇により実現した。ただ、新羅は高句麗の属国となり、倭国から完全に離反するようになる。そして、白村江の戦いで、天智天皇軍は敗北するのです。
 だから、サタン・ダビデの神託に従い、三韓征伐を行い、大和が本格的に軍を駐留させれば、大東亜戦争の二の舞になっただろう。軍を引き上げたのだが、新羅は大陸側に寝返ってしまい、それが白村江の敗北につながり、大和は漢字化や仏教化を強制されてしまった。そして大和民族=ヤハウエの民がシナ文明に飲み込まれようとした。その時、日本を救ったのは唐の滅亡と、天武天皇だった。

 ■仲哀天皇(148年)〜道鏡事件まで


◇新羅の王族とは近親婚集団

 新羅の王族とは近親婚集団であり、近親婚集団であることを根拠にして、排他的身分階層としての「王族」(王家ではない)を構成していたのだ。
 こうしたことは「新羅本紀」を読めば、誰にでも分かる。何よりも解りやすいのは、金富拭が「論日」(史書の中で編者の個人的意見を述べる欄)で、新羅の王族が近親婚を続けていたことの、どこが悪いのか″と開き直っている部分だ。
 そうした歴史があったのに、韓国人はいま、日本人に向かって「お前たちは淫猥だ」と罵り、その証拠として@兄が死ぬと、弟と捜が結婚する(捜婚制)、A近親婚(いとこ婚)が許されている−ことを挙げる。@Aとも、日本では法的問題は何もない。ただ、@は、最近は殆んど聞いたことがないし、Aも滅多にあるケースではない。ところが韓国人の多くは、@は「そうしなければならないことになっている」、Aは「よくあること」と信じているようだ。
 @もAも、「現代韓国的儒教精神」(本来の儒教とは、様々な点で異なる)からすると「絶対にあってはならないこと」であり、現に韓国では民法が改正されようが、「同姓不婚」の教えは、ほとんど揺るがないようだ。そうした状況を儒教精神上での対日優位″と捉えているから、「日本人=近親婚集団=淫猥」の悪罵になる。


◇物作り劣等の歴史は長い

 新羅は唐に通じるや、国中から美女を選び、唐の皇帝に貢ぎ物として贈ったのだ。「新羅本紀」に最初に出てくるのは、631年だ。「大唐に使いを出し、唐の太宗に美女二人を差し上げた」とある。
 ところが、太宗の側近に賢臣がいた。
 その言に従い、太宗は「村から献ぜられてきたオウムですら、寒さに苦しみ、泣きながら国に帰りたがっている。二人の女は遠くから親族と別れてきたのでは、なおさらだろう」と言い、二人を送り返してきた。
 高句麗も646年、唐に使者を出して謝罪するとともに、美女二人を太宗に献じた。この時も太宗は、新羅に対するのと同様の理由を付けて、美女二人を送り返した。南も北も、《献女外交》をしていたのだ。
 倭国も魂に「生口」、即ち奴隷を貢いでいた。『魂志倭人伝』が伝えている。しかし、三世紀の「貢物としての生口」(倭国の「生口」については、「何らかの技術者だったのだろう」との説もある)と、人世紀末になっても続いていた献女とは、同質とは思いがたい。新羅には、依然として「美女」の他に目玉となる輸出品がなかった事情もあったのだろう。
 そうした状況だったのであればこそ、新羅、百済が、倭国を「多珍物」として「敬仰」していたことも理解できるのではないか。
 列島から半島には、古くは鉄に用いる黒曜石や、玉が大量に流れた。とりわけ珍重されたのはヒスイの勾玉だった。しかし、『隋書』が描く時代ともなれば、ヒスイも枯渇状態に近かったのだろう。奈良時代には産出が完全に止まったとされる。
 もとよりヒスイの勾玉だけでは「多珍物」にはならない。しかし当時の列島に、半島の人民を喜ばせるような自然資源が豊富にあったとは思えない。それなのに、半島の人民から見ると「多珍物」だったのは、手工業製品の質的レベルが全く違っていたからだろう。
 日本は当時からモノづくり列島″だったのだ。いや、五千年前の三内丸山遺跡から出土した精巧きわまる漆器を見れば、その遥かに以前から。『日本書紀』には、任那の使節に赤吊(あかぎぬ)を贈ったところ、新羅がそれを途中で奪ったことが、新羅、任那の長い対立の発端になったとある。
 「養蚕の先進地から来た使節に、絹織物を贈ったとは……」ということで、この話は『日本書紀』の記述内容がデタラメであることの証拠の一つとして扱われてきた。しかし、そうではないのだろう。鉄鉱石の原産地は半島なのに、列島では早々と鍛造品が出回っていたのと同じように、半島の方が養蚕の先進地だったとしても、製品となると雲泥の差があったのだろう。新羅が思わず奪い取りたくなるほどの……。
 昔からの モノづくり列島″と、額に拝して働くことを蔑む儒教文化に染まりきった半島−その差をいま最も分りやすく示してくれるのは、自動車の質だろう。……
 今日の韓国の状況を、韓国人自身が《経歴詐称大国》と自嘲して語るのは、こうした歴史事実と無縁であるまい。およそ韓国人は今日でも「私は両班(貴族)の家系に育った」と言う。大学卒業の偽証明善が簡単に入手できる国情だ。
 「記紀」や『新撰姓氏録』に出てくる新羅の王子″百済の王族″にしても怪しいと見るべきだ。『隋書・百済伝』はじめ様々な史料があるのに、韓国の『高等学校国定国史』は「わが民族は五千年以上の悠久の歴史を持ち、世界史上まれな単一民族国家としての伝統が続いている」と、冒頭から凄じい虚偽を書き連ねて、民族精神を煽っている。
 こうした教科書を持つ国の為政者としては、『三国史記』も中国の正史も国民には読ませたくないだろう。韓国の歴代政権が、国民を漢字から遠ざける政策を採ってきているのは、そのためではあるまいか。


◇卑怯者を祀るOINK(Only IN Corea)

■国際社会よ、決して油断することなかれ

 薩水の戦いの翌622年も、隋は高句麗に出兵する。
 そして、614年にも出兵の準備を始める。この時は高句麗も疲弊が著しく、高句麗の嬰陽王は隋に使臣を遣わし謝罪し、降伏を申し入れる。「高句麗本紀」には、煬帝が大いに喜び兵を退かせたとある。しかし『三国遺事』の「興法篇」には驚博すべき話が載っている。
「王は国書を送って降伏を願い出た。その際、ある者″は小さな石弓を隠していき、船中で煬帝が国書を読んでいる時に、石弓で煬帝の胸を撃った」
 その後の話は載っていないから、煬帝に大きなケガはなかったのだろう。しかし、ここに出てくるある者″とは正使ではなくとも、正式の外交団の随員だ。たとえるならば、降伏文書への署名のため米国大統領に謁見した某国外交団の随員の一人が小型ピストルを隠し持っていて……ということなのだ。ともかく、隋の楊帝は国書を受け取り、出兵を取りやめた。
 すると高句麗は、もう隋の命令(王自身が隋に出向き朝見すること)には従わない。広い国で改めて兵を集め、戦争の準備を整えるまでには、長い時間がかかる。その間に高句麗も態勢を立て直せる(結果としては、そうするうちに、隋は内乱が広がり滅んでしまった)。
 乙支文徳の「降伏」は、いわば出先司令官による口頭の申し入れだった。しかし、614年のそれは、国家として国書をもってする正式な降伏申し入れだ。それすらも、時間稼ぎのための方便に過ぎなかったのだ。
 核問題に関する北朝鮮の対応を見よう。国家として発した声明も、公式の場で署名した国際協定も守らない。「守らない」というよりは、初めから「時間稼ぎ」や「揺さぶり」のための戦術であり、挙げ句の果ては屈理屈を並べて平気で居直る。「故事は今を知る所以」とは、やはり名言だ。北朝鮮の前身、ここにありだ。核問題に関する北朝鮮の受諾声明や、六者会談での合意″の度に、日本のマスコミは「問題解決」とばかり大騒ぎしたが、ようやく解ってきたようだ。
 北朝鮮がある日、「全面降伏する。国を全面開放する」と申し出てきても、国際社会 は決して油断してはならないのだ。

■歴史を捏造する民族約束破りと約束捏造の国

 戦後の「反日」は、マスコミの扇動によるところが大きい。記録映画の中に、何の字幕告示もないまま、フィクションのフィルムを挿入する手法は、かつてテレビの反日キャンペーン番組でよく使われた。
 最近でも二〇〇五年八月十五日に韓国MBCテレビは、夜九時からのニュース番組で「七三一部隊の生体実験の記録画像だ」として、香港映画を放映した。
 MBCは映画関係者からの指摘を受けると、「手違いだった」といったコメントを発した。しかし、わざわざカラーを白黒に焼き直して当時のフイルムであったように装い放映したのだ。国民を騙してでも反日を扇動する″意図だったことは明白だ。
 乙支文徳に関する今日の様々な英雄渾も、マスコミ(映画、テレビ、大衆小説)が伝えるフィクションだ。つまり、乙支文徳に関しては、「高句麗本紀」をはみ出した話は全て史料なき創作なのだ。
 国際金融専門家の間では二〇〇七年頃からか、「0INK(オインク)」という隠語が使われ始めた。「only IN Corea」の略で「韓国でしか、あり得ないこと」という嘲笑的な意味を持つ。これを馬鹿にしてはいけない。
 なぜなら、韓国の国定歴史教科書は今、明らかにこの史観の強い影響を受けている。中高教師も捏造された歴史しか知らず、それを絶対に正しい史実と思い込んで、確信を持って子供に教える。さらに、韓国軍の新兵向け歴史教育は、この史観に基づき実施されている。徴兵制だから、男子は原則として全員が、この史観を学ぶわけで、軍事政権の時代には、偽降伏戦術を「知っている人」も押し黙るほどの状況になつていったのだろう。

 バングラデシュ、インド、モンゴル、韓国の四カ国の中高校生を対象にアンケート調査をして腐敗認識水準を比較したところ、韓国が最低だつたというのだ。社説は書いている。「子どもは大人を映す鏡にすぎない」と。
 関連して思い出したのは、韓国系米国人と思われる全恵星博士(エール大学比較文化研究所の名誉研究部長)へのインタビュー記事だ(『中央日報』二〇〇七年九月九日)。韓国は留学熱が異様に高い国であり、米国の有名大学を卒業することが「エリートにとって、人生の最初の勝利」であるかのように位置付けられている。博士は米国留学中の韓国人高校生について、こう語っている。
 例えば、日本側の技術提供により生産した製品は「韓国内の販売に限る」という「契約」なのに、生産が軌道に乗るや東南アジアに輸出を始め、しかも日本製品と酷似した商標まで付けている。輸出を取りやめるよう申し入れると、「提供された技術による製品は国内販売に限っている。東南アジア向けは、我々が独自に改良した技術による製品だから、問題はない筈だ」。
 他にも「韓国の金融・経済の本質的危うさ」が改めて語られる昨今だから、「通貨安定債」と称する「約束違反」にも触れておこう。
 一九九七年のアジア通貨危機に伴う韓国経済破綻の際、国際通貨基金(IMF)は多額の救済融資を実施するとともに、国債の発行枠を定めた
 ところが、韓国は「国債とは政府が発行する債券であるから、これは違うものだ」という方便で、中央銀行が「通貨安定債」と称する事実上の国債発行に踏み切り、IMFの目を白黒させた。通貨安定債の発行残高は二〇〇八年九月末、「政府発行の国債残高」の七割ほどに達していた。その利払いのため、韓国銀行は世界で唯一の「赤字決算の中央銀行」になっている。まさに0INKだ。
 安重根は一九〇九年、中国ハルビン駅で、日本の枢密院議長だった伊藤博文(初代の
韓国統監府統監)を狙撃し、暗殺した(その後、絞首刑)。
 安重根は、伊藤博文が日韓併合に反対していたことを知っていたのか、どうか。伊藤の死により、併合論が勢い付いて、ついに併合がなった。が、韓国の世論構造は「安重根=愛国者」という絶対不可侵の概念を上位に据えている。だから日本人から「伊藤は併合反対派だった」と聞かされても、聞く耳を持たない。韓国では潜水艦を「海の刺客」と言う。韓国海軍は二〇〇八年六月に進水させた潜水艦を「安重根」と命名した。「テロリスト=悪」の価値観は、ここに存在しないのだ。
 尹奉書は一九三二年、中国・上海の日本人居住地域にあった虹口公園で開催されていた天長節(天皇誕生日)の祝賀行事に爆弾を投げ込み、官民、軍人多数を殺傷した(その後、銃殺刑)。
 宗主国の正規軍と戦ったゲリラの指導者が独立後、「民族の英雄」として顕彰されることは多々ある。独立後の大統領になった例も世界には少なくない。しかし、安重根と尹奉書はテロリストに他ならない。特に尹奉書の場合は、民間人も巻き添えにした無差別爆弾テロ犯だ。
 ところが韓国では、尹奉書もまた「殉国の義士」として、顕彰事業が続けられてきている。そんな国は、非イスラム世界では韓国を除いてあるまい(いや、日本や韓国で「拉致」を実行した人間を、「民族の英雄」として待遇している国家はあるが……)。
 二〇〇七年十二月十九日、ソウルで尹奉書没後七十五周年の追悼式が行われた。これを主催した「尹奉書義士記念事業会」の会長は、何と李明博ソウル市長(〇八年から大統領)だった。
 この追悼式で光復会(反日・愛国団体)の会長は「韓国男児の気概を見せ付けた快挙だった。尹義士の高貴な心は、百年経とうと千年経とうと、われわれの心の中に残り続けるだろう」と述べている(『朝鮮日報』二〇〇七年十二月十九日)。
 卑怯な無差別テロを「韓国男児の気概を見せ付けた快挙」「高貴な心」だと言うのだから、呆れるほかない。しかし「これも0INK」と片付けるべきではない。
 李明博大統領の記者会見に臨む機会のある日本人記者は何故、「あなたがテロとの戦いを述べていることと、あなたがヂ奉書義士記念事業会の会長であることとの関係」を質さないのだろうか。


◇「類似神話」論が秘める大虚構

 「天神の孫が三種の神器を持って降臨してくる朝鮮の神話」とは、「檀君神話」のことを指しているとしか思えない。その「そっくり論議」をよく耳にするのだが、不思議な ことに、私は未だに「檀君神話の全文を読んだ」という日本人に会ったことがない。
 この際、檀君神話の全文(金思燥訳の『完訳・三国遺事』)を示そう。全文といっても、それは分註を含めても漢字で四百字弱しかない。「たった、これだけ。嘘だろ」と言われかねないほど短い。私なりの訳文を示そう(金思偉の訳とは、細部で異なる)。
 『親書』によると、今から二千年前に檀君王倹が現れて、阿斯達〔『経』によると無葉山、または自岳といい、白州の地にある。あるいは開城の東という。今の自岳宮のことだ〕を都とし、国を開いて朝鮮と呼んだという。(※李朝が明王朝に名付けて貰ったのが事実)
 高(筆者注=中国の古代伝説に出てくる五帝の一人である「尭」のこと。東洋の近世までの文筆習慣で、自国の王の諒=没後の誼号=にある字を避けて別の字で表記した)と同じ時代だ。「古記」によると、むかし桓因〔帝釈(天帝)ともいう〕の庶子である桓雄はしばしば天下に思いをめぐらしては、人間社会を非常に欲しがっていた。(※ニニギ命は庶子では無い。人間社会を欲しがってもいない。)
 父は子の心を知り、三つの高い山の一つである太伯を見下ろし、人間に益を広めるべしと結論した。そこで桓雄に天符印三個を授け、人間社会を治めに行かせた。(※三種の神器と、印鑑三つの天符印三個は明らかに異なっている。)
 桓雄は歩兵三千を率いて、山頂〔即ち太伯山、今の妙香山〕の神檀樹の下に降りた。ここを神市と言い、これが桓雄天王だ。風の神、雨の神、雲の神を将いて、穀、命、病、刑、善、悪など、およそ人間の三百六十余事を司り、人間を教化した。
 時に、一頭の熊と、一頭の虎が同じ穴に住んでいて、人になることを願い、桓雄に向かって常に祈った。
 ある時、桓雄は霊験あらたかな艾一束と蒜(ニンニク)二十個を与え、「お前たちがこれを食べ、日光を百日見なければ、人の形になれるだろう」と言った。熊と虎はこれを食べ、忌むこと二十一日(訳註=三×七の意)で、熊は女身になった。虎は忌むことができず、人身に変われなかった。
 しかし、熊女と結婚する者はなく、熊女は檀樹の下に来ては季むことを願った。そこで桓雄が人に化けて熊女と結婚し、子を産んだ。それが檀君王倹だ。
 檀君は唐高(尭) の即位から五十年の庚寅〔唐高の即位元年は戊辰であり、五十年なら丁巳であり、庚寅ではない。本当のところは解らない〕、平壌城〔今の西京(訳註=今日の平壌のこと)〕を都とし、初めて朝鮮と称した。
 やがて都を自岳山の阿斯連、弓〔方〕忽山、今禰達へと移した。その国は一千五百年続いたという。
 周の虎王(訳註=武王のこと)が即位した己卯、箕子(訳註=殷王の親族に当たる賢者)を朝鮮の支配者に任ずると、檀君は蔵唐京に移り、後には阿斯連に隠れ戻り山神になった。没した時は千九百八歳だった。

■「新羅」と「倭」を入れ替えると

 雀南善が言う倭に関する部分を要約すれば、まさに《対日OINK 史観》だ。
  1. 半島や大陸からの逃亡民が倭国を造った。
  2. 倭奴は蒙昧で、半島から行った民があらゆる文化文明を教えてやった。
  3. 新羅は列島に多数の植民地を持っていた。
 今日の韓国人の多くは、この《対日OINK 史観》に染まっている。しかし、この@〜Bをよく見れば、すべて『三国史記』や中国の正史が記していることを、逆さまにした内容であることが解る
 「新羅本紀」は冒頭で、初期新羅の中核国民が「朝鮮遺民」(『三国史記』が編纂された時代の「朝鮮」は、楽浪郡や中国東部を指す)だったこと−つまり、中国や楽浪郡からの逃亡者だったことを述べている。その後、新羅の国づくりを指導したのは脱解や弧公だ。脱解は明らかに多婆那国から追放された人間(卵)として描かれている。
   :
 その暫く後、超高額情報誌に「日本の暴力団員・看板右翼団体所属貞の三剖は在日韓国・朝鮮人であり、北で作られた麻薬が、彼らにより日本で売りさばかれている」との記事を送った。もちろん、確実な筋から得た情報に基づく記事だった。
 ともあれ、前述の内容も今や、北の不審船撃沈事件や、元公安調査庁幹部の講演、日本の大手暴力団組長の証言などで、情報通の間では常識″に属するところになった。




◇韓国の偽造史プロパガンダ
                      [正論 2013年5月号]

 当時の朝鮮では迷信・流言の類が非常に多く、医療分野でも劣悪な治療がなされていた。例えば朝鮮王室では、子供の小便を万病の妙薬と考え、子供を宮中で「便童」と称して養い、国王が危篤になると、その小便を飲ませていた。
 スウェーデン人ジャーナリストのアーソン・グレブストがこの頃の半島をルポした『悲劇の朝鮮』(白帝社)によれば、他にも婦人病の治療として牛の糞を塗るとか、腹痛の薬として生きたカエルを三匹丸呑みする、焼いた犬の足を四本食べる、湯に通した海藻を腹の周りに巻きつける−などもあったという。
 一九二二年に仏教朝鮮教会が編纂した『朝鮮文化の研究』によれば、病気の治療と称して「人肉を食うもの、獣をすするもの、男児の陰部を切って食べるもの、生きた子を酒に浸して飲む、女の陰部、男の畢丸などは得難いからといって珍重する。子供が生まれるときは重病人は外に出す。すなわち死魔が子供を殺すというのである。女が死ぬと不作だからと外へ捨てる」との惨状を伝えている。
 日本では韓流ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」がブームになったが、元来の朝鮮医学とはこのようなものであったことを考えれば、“本物のチャングム”が朝鮮国王中宗にどのような治療をしたかは、たいへん興味深いところではある。


2、対馬仏像窃盗の裏側

 二〇二二年二月二十六日、韓国の大田地裁は、韓国人が対馬の観音寺から盗んだ観世音菩薩坐像の返還を差し止める仮処分決定を出した。この仏像が、日本が十四世紀に韓国から略奪したものではないという「批拠」を示せという内容であった。
 観世音菩薩坐像は結縁文から一三三〇年に造られ、韓国の浮石寺に安置されたものだと考えられるが、浮石寺は李氏朝鮮における仏教弾圧(一四〇七年)下で存続を許された八十八寺院の中にはない。浮石寺は遅くとも十五世紀初頭には廃寺となつていたのである。
 対馬は朝鮮と長く交易を結んでいることから、この仏像は交易か、朝鮮が廃棄したものを得たかということが推察されるが、日本側にそれを証明せよなどというのは、まさに盗人猛々しいというより他はない。
 三月には仏像は自分たちのものだと主張する浮石寺の僧侶が来日し、所有権を主張したが、日本が略奪した根拠を求められると「根拠を示す鑑定書は、仏像を失ったときに、思い出すのが悲しいので捨てた」などとのたまう始末である。
 挙げ句には、仏像を返せない代わりにと、境内で売られている八百七十円のマスコットを持参してきたのだから、笑いを取りにきたのかと疑ってしまうほどだ。
 仏教には窃盗を禁じる「不倫盗」という教えがあるが、この僧侶らは修行によって煩悩を極めたようだ。……
 靖国神社に放火した中国人を日本へ引き渡すことを拒否したように、韓国の司法は政治の顔色をうかがっている。三権分立という近代国家に当然あるべき精神はなく、司法権は独立されていないと考えるべきだ。
 『韓国窃盗ビジネスを追え 狙われる日本の「国宝」』(新潮社)の著者である菅野朋子女史によれば、日本からの窃盗品であれば文化財を捜査すべき警察や鑑定する古美術商もわざと問題としないうえ、韓国によって盗まれた日本の重要文化財は五百八十点にも及ぶという。
 麻生太郎副総理は、朴大統領と会談した際に「日本と韓国は共通の価値観を有する大変重要な隣国同士」だと発言しているが、このような価値観を擁する国とどこが共有しているのか教えていただきたいものだ。


3、秀吉軍による略奪行為のウソ

 韓国側がことあるごとに言い立てる「文化略奪」の代表的な話が、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(明国征伐)である。
 だが実際には多くの朝鮮人が秀吉軍の支援をしたほか、ソウルでの略奪行為を率先して行ったのは、朝鮮王朝に不満を抱く朝鮮の民衆であった。
 奴隷であった子音同らは、日本軍の先導役となり「本府に引き入れ、軍器・倉穀などの物を略奪し、利を分つ」と積極的に協力したほか、朝鮮側の史料である『国朝宝鑑』には、「賊初めて入場するや、宮殿焼尽きて、宗廟独り存す」と、秀吉軍が入場する前に朝鮮民衆によって放火・略奪が行われていたことが書き残されている。
 南山の北麓、旧朝鮮総督府があった丘を、朝鮮人は倭場基と呼んでいた。一見、形勝の地であることから、日本軍が城柵を築いたところだと言われているが、実際は市場のあった場所である。秀吉軍の兵站を担当する武将、増田長盛が駐屯していたため人々が集まって市場を開き、秀吉軍と交易をしたのである。
 秀吉軍が朝鮮に来たことで、彼らにキムチなどには欠かせない唐辛子が伝来したほか、キリスト教や田植えの技術が伝来した。じつは当時の朝鮮では籾種を直接水田に落としただけで、秋まで収穫をただ待つという田植えが一般的であり、正しく稲宙を植え替えるという方法は、秀吉軍から伝来した方法である。朝鮮における稲作で日本が果たした功績は大きいと言わざるを得ない。
 さらに文禄・慶長の役での略奪行為は、日本軍よりも朝鮮を助けにきたはずの明軍による被害のほうが大きかった。
 その最たるものが「天兵(明軍)、各々我が国(朝鮮)女人を繁る(中略)是の如き者、幾んど数万に至る」(『乱中雑録』)との記載である。
 朝鮮の人々は明軍の略奪を避けて山へ逃げ込み、城中は無人となつてしまった。
 また明軍は日本軍のクビを持っていけば出世できるが、日本軍が強いため、日本軍が残した朝鮮人の首をかき集めただけでなく、捕虜までも殺し、日本軍が送り返した朝鮮人の人質さえも首をはねて手柄に組み入れている。
 当時と今の日本人の倫理観を同様であるとは言わないが、すべての罪過を秀吉軍に押し付け「日本に破壊された」「日本に略奪された」と根拠もなく主張する言い分には、私たちの先人の名誉にかけて、毅然とノーを突きつけなければならないことは言うまでもない。


4.「朝鮮通信使が文化を伝えた」という控造

 二〇一一年四月、韓国釜山に「朝鮮通信使歴史館」なるものが開館した。「朝鮮通信使が日本に文化を伝えた」と宣伝するためにつくられた施設であるが、朝鮮通信使たちの目に日本はどう映ったのであろうか?
 第十一次朝鮮通信使(一七六四年)として来日した金仁謙が書いた『日東壮遊歌』の記録を見てみよう。

 ■一月二十二日(大阪)
(前略)富貴な宰相らでも 百聞をもつ邸を建てることはご法度屋根をすべて瓦葺きにしていることに 感心しているのに大したものよ倭人らは 千間もある邸を建て中でも富豪の輩は 銅をもって屋根を葺き黄金をもって家を飾りたてているその奢侈は異常なほどだ
  (中略)
天下広しといえこのような眺めまたいずこの地で見られようか北京を見たという訳官が一行に加わっているが
かの中国の壮麗さも この地には及ばないという
 ■二月十六日 品川と江戸
(前略)楼閣屋敷の賛沢な造り人の賑わい男女の華やかさ
城壁の整然たる棟 橋や舟にいたるまで
大阪城、京都より 三倍は勝って見える
左右にひしめく見物人の数の多さにも日を見張る
拙い我が筆先では とても書き表せない
 通信使たちが日本文化の発展ぶりに驚く様子が鮮明に記載されている。この有様で、一体、日本に何の文化を教えたというのだろうか。
 その他にも通信使であった曹蘭谷の『奉使日本時間見録』には、名古屋人が通信使のために、布団や蚊帳などを揃えようとしたところ、対馬の通訳が「朝鮮人はよく盗んで行くので知り置くように」と止めたことが記載されている (一七四八年六月二十四日)。
 彼らが先進文化を日本に伝えたというのであれば、日本文化に嫉妬し、窃盗までしている様をどのように解釈しろというのだろうか。
 逆に彼らは日本からサツマイモなどを輸入し、飢饉での飢えをしのぐことができた。日本との交流で文化の恩恵を受けたのは朝鮮の方である。


5.「韓国が日本の古代国家を成立させた」という捏造

 朝鮮半島からの文化流人という捏造は、朝鮮通信使に始まったことではない。
 古代史の時代から日本は朝鮮の文化を一方的に受容してきたかのような“演出”がなされている。
 一九八一年の韓国高校歴史教科書『韓国2』(邦訳版・ほるぷ出版)には面白いことが書かれている。「我が国の人々ははやくから日本へ渡っていき、各地で彼らを教化するばかりでなく、高句麗系・百済系・新羅系の人々が持っていった新しい文化がその地の土着社会を刺激して、日本の古代国家を成立させた」
 あたかも古代日本をつくつたのは韓国であるかのような書きぶりに失笑してしまうが、このような認識を抱いている韓国人(日本人も)は少なくはない。
 だが百済の武寧王の王墓からは、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキでつくられていることが判明したほか、日本の青銅器や銅鏡などが朝鮮半島から大量に見つかっている。
 青銅器はこれまで、朝鮮半島から青銅器が伝来したのは弥生時代前期末から中期初頭にかけてであり、明らかに半島のものと異なる青銅器についても、朝鮮半島から渡来した工人がつくつたものと理解されてきた。
 だが、慶尚南道金海で一九一七年、日本製の青銅器である中広銅矛が発見されたほか、現在、釜山市の東亜大学校博物館が所蔵する多くの銅矛が、日本でつくられたものであることが明らかになっている。
 また韓国から伝来した小銅鏡が北九州などで出土しているが、朝鮮半島でも日本の銅鏡が出土し、釜山大学校や韓国国立慶州博物館などで所有されている。
 挙句には一九八三年以降、韓国において前方後円墳が十三基発見されている。前方後円墳とは言うまでもなく日本古墳の特色である。
 前方後円墳は、古墳時代前期には南九州から東北南部へと迅速に拡大した。辻秀人東北学院大学教授は、その理由として地方首長にとって大和政権と組むことは、自らの支配の後ろ盾として大和王権の力を使えることを意味し、大陸との交流においても有効に利用できるものであったからに他ならない。その代償として大和政権は前方後円墳とそれに関する葬祭儀礼を受け入れさせたと述べているが、韓国の前方後円墳も同様の意味だと解釈できる。
 韓国では日本が古代韓国を統治していた決定的証拠となることを恐れ、掘削機で古墳を破壊するなどの暴挙に出た(『朝鮮日報』二〇〇八年五月一日)。
 埋葬者については韓国の豪族や日本人など諸説があり定かではない部分もあるが、日本の影響が韓国にまで及んでいた重要な証拠であることは間違いない。
 全羅南道では、日本の勾玉や直弧文をつけた鹿角製刀装具、珠文鏡などが出土している。発見場所はいずれも韓国南部で、日本にしかない原石からつくられている。
 日本の石を原石とした硬玉製勾玉は新羅国王だけが戴冠できる金冠にもつけられており、それ以外の人物がつける金銅冠には硬玉製勾玉が付けられていない。これは新羅王が当時、日本の後ろ盾を得て権威を示威したいという思いから得たものであり、日本自体が権威の象徴であったことを示している。
 鉄器にしても韓国から日本に伝来したというが、日本では紀元前三世紀〜四世紀には福岡県糸島市の石崎・曲り田遺跡から鉄斧が見つかっている。韓国での鉄器の始まりも紀元前三世紀頃とされており、韓はほぼ同時であり、決して日本が韓国より大幅に遅れていたわけではない。
 韓国が鉄を伝えたという説は、四世紀後半、応信天皇の御世に百済から韓鍛冶卓素が来朝し、敏速天皇十二(五八三)年に新羅から優れた鍛冶工を招いて技術を受けたという記録が根拠となつているのだが、これは日本において技術革新が行われたことを指していると私は解釈している。
 実際に大量の鉄器が日本から見つかるのは六世紀以降であり、おそらくそれまでは製鉄が行われていても、小規模な仕組みであったと考えられる。そこで渡来人の技術を用いて技術革新をしたのだと考えれば、『古事記』や出土史料などと照らし合わせても納得がいく結果になる。
 韓国は日本に文化を伝えたと一方的にほくそ笑むのは勝手だが、最低限、自国の歴史くらいは理解しておかないと恥をかくだけだ。

 ■産経:国内に出土例ない銅剣の「鋳型」1組がほぼ完全な形で出土 2013/08/09
 弥生中期−古墳時代初め(紀元前4世紀〜紀元3世紀)の短剣の鋳型が、滋賀県高島市安曇川町の上御殿遺跡で見つかった。柄の先に円形の装飾が並ぶ「双環柄頭短剣」の鋳型で、中国・華北や内モンゴルに分布するオルドス式短剣に酷似し、この形式では国内初の出土という。銅剣は、朝鮮半島から九州北部に伝わったとされるが、オルドス式は朝鮮半島に出土例がなく、中国大陸から日本海を経て直接もたらされた新たなルートが浮上。青銅器文化のルーツを探る貴重な資料になりそうだ。
 鋳型は泥岩製で、2枚1組がほぼ完全な状態で出土。いずれも長さ30センチ、幅9センチで、柄頭から剣先まで全長28センチの銅剣を一体的に鋳造する構造だった。ただし、鋳造に伴って高温の熱を受けた痕跡がなく、河川跡の斜面に置かれた状態で見つかったことなどから、実際に銅剣を製造せず、祭祀に使われた可能性もあるという。弥生時代の銅剣は、九州北部のほか、国内最多の358本が見つかった荒神谷遺跡(島根県出雲市)など中四国地方で多い一方、近畿は出土例が少ない。上御殿遺跡は、福井・若狭湾まで約30キロと比較的近いことから、日本海を通して中国と交流した可能性が浮かび上がった。
 琵琶湖北西に位置する上御殿遺跡は、奈良や大阪と北陸を結ぶ古代の幹線道路沿いで、琵琶湖の港も近く、陸と海の交通の要衝だったとみられる。


6.竹島は韓国領土という捏造

 先日、訪日した朴模恵韓国大統領と近い人物と酒を酌み交わす機会があった。彼は「日本は、独島(竹島)は日本の領土だと主張するが、我々は対馬を譲ってあげているのだから、そんなに独島が欲しいなら、対馬は私たちが貰って当然だ」などと主張しため、「対馬が韓国の領土など片腹いたい。仮に韓国の領土であるならば、元鬼のとき韓国は対馬で虐殺行為を行い、女子供の手に穴を開けたうえ船の嫁に数珠つなぎにして攻めてきた。日本を攻めるのに、自国民を虐殺したうえに数珠つなぎにするとは、韓国は随分と奇天烈なことをなされる民族なのですな」と言ったところ、閉口してしまった。

 ■韓国の犯罪者の扱いと拷問の写真(真面目に韓国考察 Netより)。
 これは、日本統治前まで行われていた。
  
 上の写真を見た後に韓国が作成した「日本軍による韓国人拷問」を見ると、明らかに朝鮮半島伝来の拷問方法であったことが解る。つまり、日本は韓国人に拷問をしていないし、やったとしたらそれは朝鮮人自身である。日本にはこのような習慣は無いからだ。
   

 ◇ ◇ 韓国に「反共の防波堤」としての価値は無い

 昭和61年、中曽根康弘内閣の文部大臣であった藤尾正行が、『文藝春秋』の対談での失言「韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけでなく韓国側にも責任がある」によって、中曽根総理から罷免されるという事件があった。現在であれば何の問題にもならない発言であった。
 当時はネットが一般利用される前の時代であり、左翼メディアの絶頂期であったから、藤尾大臣は「侵略戦争を肯定した極右」として袋叩きに遭った。
 やがて韓国政府が「極右妄言政治家」と非難を始めるに及んで、中曽根総理は「日韓関係を損なわないようにするため」藤尾大臣を罷免することを決断したのだった。(※麻生総理も、正論を述べた他母神氏を罷免している。)
 当時はまだソ連が崩壊する前の東西冷戦の時代であり、日本では韓国について「共産主義に対する防波堤であり緩衝地帯」という認識だったのである。
 日本にとっては西側の一員である韓国が朝鮮半島に存在することは国防上必要なことであるので、韓国を支援しなければならないと考えられていたのだ。
 だから日本(とアメリカ)は天文学的な額の援助を朝鮮半島と韓国に与え、さらに技術も与えて、戦前戦中を含め韓国の発展に協力してきたのだ。
 韓国は日本の領土である竹島を軍事占領したり、歴史問題で日本に無理難題を吹っかけてくるなど、色々と目に余ることもあったが、反共の防波堤という地政学的な価値から、日本は韓国のやりたい放題を黙認してきたのだ。この冷戦時代の日本による甘やかしによって、韓国は極限まで増長していった。反日をどれだけやっても日本は怒るどころか逆に謝ってくるので、韓国人は「日本には何をしても許される」などと思い込むようになったのだ。日本を敵視して攻撃を加えながらも、困った時は真っ先に日本に助けを求めるという韓国人の理解しがたい性質は、このような原体験によって育まれたのかもしれない。
 そして第二次世界大戦後、朝鮮半島の北朝鮮と韓国として独立した。ここでまた朝鮮半島にある韓国は防波堤としての役割が期待されるようになつた。アメリカからも韓国は、ソ連・中国・北朝鮮から日本を守るための緩衝地帯として位置付けられたのだ。
 だが、ちょつと思い出してほしい。第二次世界大戦後、東側陣営のソ連・中国・北朝鮮と日本は戦争をしていないのだ。
 第二次世界大戦後に日本に戦争を仕掛けてきた唯一の国が、同じ西側陣営の韓国なのである。昭和27(1952年)年、韓国は日本領土である島根県の竹島に軍隊を上陸させて占領し、そして多くの日本人を虐殺しているのだ。
 さらに過去の歴史をたどっていくと、元寇は朝鮮人によって引き
起こされたという見方もあるのだ。中原を制覇したモンゴル(元)が朝鮮半島に迫ってくると、高麗はあっさりと降伏して元の属国となった。高麗王が元の皇帝に対して執拗に日本侵略を勧めていたことが、中国の史書からも明らかになつている。
 1274年の文永の役では、約4万人のモンゴル軍のうち、実はその半数が朝鮮人(高麗人)だったともいわれている。対馬に上陸して非戦闘員の住民を大虐殺し、さらに狩り集めた女性の手に穴を開けて、縄を通して数珠つなぎにして「強制連行」したのが、朝鮮人だったのだ。
 過去の歴史を振り返ると、朝鮮半島が防波堤や緩衝地帯として役に立ったことはなく、それどころか日本は韓国から竹島強奪という領土侵略を受けているのである。
 朝鮮半島とは、常に日本侵略の震源地であり、日本に対してほとんど害しか生み出さない場所なのではないか。
  ■有史以来の属国民
 高麗時代の朝鮮人は、中国に事大して中国人風の名前に「創氏改名」していたが、元の属国になると先を争うようにモンゴル人風の名前に「創氏改名」し、漢民族王朝の明が成立すると、再び中国人風の名前に「創氏改名」したのだ。朝鮮人というのは、ご主人様が変わるたびに名前もコロコロ変えていた。見事なまでの属国根性ではないだろうか。

 ◇ ◇ 韓国への経済制裁

 日本政府は、核兵器や弾道ミサイルの開発を続ける北朝鮮に対して、「安全保障上の脅威」であるとして、国連による制裁だけに留まらず独自の様々な制裁を行なつている。
 それと同様に日本を標的にした反日プロパガンダを展開し、慰安婦問題日韓合意を踏みにじり、ウィーン条約を無視して日本を侮辱し続ける韓国は、広義の「安全保障上の脅威」であるといわなくてはならず、韓国に対してさらなる制裁措置、具体的には輸出規制を含む経済制裁を行なうべきではないだろうか。先端技術、部品、素材、高性能工作機械などの輸出を規制することができれば、その日のうちに韓国経済は崩壊することになるだろう(※韓国の技術は、日本からの部品や基本素材の輸入が止まると、稼働できなくなる)。
 たしかに慰安婦像が撤去されないことだけ、では、経済制裁を行なう理由として不足しているかもしれないが、そこで「竹島カード」の出番である。韓国によって軍事占領されている日本固有の領土・竹島の返還を要求し、それに応じないことを理由に経済制裁を行なえばいいのではないか。
 韓国から入ってくる年間2兆円の貿易黒字がなくなるのは、たしかに大きな問題だろう。だが2兆円を捨てて韓国輸出産業に壊滅的打撃を与えることができれば、韓国が握っている日本と競合する59兆円ものマーケットの大半を、日本が奪うことができるかもしれないのだ。その利益は2兆円を遥かに超えるものである。
 日本の雇用環境も改善されるだろうし、日本の輸出産業が復活して、かつての輝きを取り戻せば、日本社会全体の雰囲気も明るくなるのではないだろうか。なぜなら、韓国は建国以来一貫して反日だったが、李承晩以降の歴代政権は日本から経済援助を得る為に、日本との関係が決定的に悪化しないように最低限度の節度を保っていたからだ。それは、中国についても云える。
 そして、日本にとっての悪夢は、統一朝鮮が誕生することになるだろう。南北朝鮮の対立が消えるということは、軍事力を日本に向ける余裕が生まれるということである。
 統一したばかりの国に対外戦争をする余裕などはないと考えるのが普通だろうが、余裕がないからこそ、外に敵を求めるのである。統一後は経済が大混乱に陥って、国民の不満が高まることは間違いないだろう。国内の不満を逸らすには、民族の共通の敵である日本を攻撃するのが一番手っ取り早いのだ。
 統一朝鮮は核保有国になっている可能性が高いのだ(※米軍は北朝鮮崩壊時、北の核を持ち出す計画があると云う)。北も南も朝鮮人は控造歴史で完全に洗脳されており、自分たちが、ナチスのホロコースト被害者であるユダヤ人と同レベルの被害者であるという妄想を信じ込んでいる者も少なくないのだ。
 韓国人にとって日本人とは、絶対に許すことができない民族の敵であり、韓国人の最大の願望とは「韓日戦争で勝利して日本を滅ぼしたい」というものなのである。対日戦争を実行しないのは、現在の国力(経済力・軍事力)が日本のほうが上だから、まだ勝てる見込みがないから、それで我慢しているだけなのだいつか将来、日本が弱くなつたと確信した時、朝鮮人は躊躇なく襲い掛かってくるであろうことは想像に難くないのだ(※中国共産党も同じ。結局、反日にすべての罪をなすりつければ、反日無罪にしてしまえば、自分の欠点や悪い点を反省し、改める習慣を失い、魂の清らかさとか誠実さも含め良心が育たないので、サイコパスになってしまうのは当たり前だと思う。目的の為には手段を選ばなくして、人間の残虐性のみを発露させる共産主義と、反日無罪は、他人に対して残酷になるように訓練されるのです。それは、自分の良心を抹殺することでもあります。)。
 第二次世界大戦に日本が敗北した瞭間に、戦勝国民を自称して日本人の虐殺を開始したのが朝鮮人だつた。ベトナム戦争に参加した韓国軍兵士が、非武装のベトナム人の村を襲って民間人を殺害し、女性を強姦するなどの残虐行為を繰り返していたことはよく知られている。元冠の時も対馬や壱岐に上陸した朝鮮人は、村を襲って民間人の虐殺、女性の強姦・拉致などを率先して行なっていた。相手が自分より弱いと確信した時の朝鮮民族は、異常なまでの凄まじい残虐性を発揮するのではないだろうか。
 南北が統一された場合、統一朝鮮からの核攻撃に備えるべきだ。日本が核兵器への対抗手段を持っていなければ、韓国人は「核兵器を持たない日本は韓国より弱い国である」と考えるだろう。
 慰安婦問題など過去の歴史を反省しない日本への懲罰、植民地支配されたことへの復讐を行なうことは、韓国人の中では当然の権利ということになっている。報復される心配がなければ、躊躇なく核兵器を使用して日本人を虐殺するであろうことは想像に難くないのだ。核兵器を使用した韓国は、国際社会から非難を浴びて何らかの制裁を受けることになるだろうが、日本が滅んだ後で何が行なわれても、そんなものには何の意味もないのだ。
 核兵器の使用までいかなくても、その照準は間違いなく日本に向けられることになる。そして核兵器をチラつかせて「恫喝外交」を行なうことは間違いないだろう。
 韓国には、映画『ムクゲの花が咲きました』(同名のベストセラー小説が原作)、映画『ユリョン』など、「日本を核兵器で攻撃する」という内容の娯楽作品が数え切れないほど存在している。「日本人を核兵器で滅ぼしたい」という民族的願望のニーズに応えて、今も大量の反日娯楽作品が供給され続けており、老若男女問わず高い人気を博しているという。(※中国でも、中協主導で反日映画がどんどん放映され続けている。だから、中国人の中にも日本を核攻撃せよという人も居る。)


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