大東亜戦争の真実
  東京裁判史観、戦後自虐史観の嘘を暴く




 [歴史の書き換えが始まった!][日本人に謝りたい]から、抜粋致しました。
 知らないことばかりでしたので、驚きの連続でした。やはり、英霊の方々は信義を通していたのだと分かりました。
 また、東京裁判の虚構について明確に反論しています。加えて、大東亜戦争末期の共産革命について「近衛上奏文」が明確に指摘しています。
 尚、東京裁判については、[世界が裁く東京裁判][東京裁判:日本の弁明]参照。



本書の前書きから

 大東亜戦争の敗戦より五十年経った平成七年、自社さ連立の村山内閣は衆議院で「終戦五十年決議」を行ない、「村山談話」を出した。その内容は、日本が侵略と植民地支配をしたとする自虐的なものであった。一方、世界ではその頃から、歴史資料公開の「五十年ルール」に従って先の大戦にまつわる重要な歴史資料が続々と公開され出した。冷戦の終結に伴い旧ソ連からも次々と秘密資料が公開されている。
 世界は謀略に満ち満ちている。日本人の善意など到底通用しない冷厳な世界史の原理がそこにはある。その世界の現実を直視し、いかにして国家の生存を図るか。それは、幕末明治以来、日本の先人たちが直面し続けた課題でもある。その対応を困難なものにしたのが、ほかならぬコミンテルンの国際謀略だったことを明らかにしたのが本書である。しかも、それは冷戦が崩壊した今でも現在進行形であり、“マルクス主義”の恐るべき人間不信の原理がGHQの占領政策とその固定化としての「戦後レジーム」に入り込み、日本の歴史、文化、伝統を破壊し続けているのである。

 尚、[日本人に謝りたい]については、「日本国憲法の深読み」参照。




自虐史観を覆す、知っておきたいキーワード


◇『ミトローヒン文書

 ■(2005年刊。ミトローヒン、クリストファー・アンドリュー共著、本邦未訳)

 旧ソ連のKGB対外情報局文書課長ミトローヒンは冷戦末期にイギリスに亡命、KGB本部の機密文書を大量に持ち出した。それには欧米、アジアへのKGBの工作活動が活写されている。冷戦期の日本においてもKGBの工作によって、多くの日本の政治家や官僚、マス・メディアが国益に反するような行動に従事していたことが、実名やコ−ドネームで紹介されている。
 特に在モスクワ大使館時代にハニー・トラップ(女性スキャンダルによって弱みを握る手法)に引っかかり、のちに本省に戻って日本の暗号システムも含めクレムリンに大量の極秘情報を流していた日本人外交官「ミーシャ」の例は衝撃的である。


◇『マオ

 ■MAOユン・チアン、ジョン・ハリディ共著。
  邦訳は『マオー誰も知らなかった毛沢東』(2005年、講談社)毛沢東の伝記。

 中華人民共和国建国の「英雄」毛沢東神話を綿密な取材と研究によって打ち砕き、残忍な独裁者としての実像を浮かび上がらせた書。のみならず、我が国にとって切実なのは、『GRU帝国』など機密資料に基づいてこれまでの昭和史の通説を根底から揺るがすような新発見、核心に触れた記述が多いことである。
 例えば、張作霧爆殺がスターリンの命令を受けたナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に化せかけたものだったことや、中国共産党の秘密党員であった張治中がスターリンの指令によって蒋介石の方針に反して、日中を全面戦争へ引き擦り込むべく第二次上海事変を引き起こしたことなどが記されている。


◇『GRU帝国

 ■ アレキサンドル・コルパキディ、ドミトリー・プロコロフ共著、未邦訳。

 GRUとは旧ソ連赤軍参謀本部情報総局のこと。リヒヤルト・ゾルゲもこの機関の諜報工作員であった。そのGRUの未公開文書に基づいて張作霧爆殺など数々の工作活動が明らかにされている(GRU文書そのものについてはプーチン政檜時代になつてアクセスが難しくなりつつある)。


◇『ヴェノナ文書

 ■(VENONA)アメリカ陸軍省内の特殊情報部が、1943年以降、極秘裏に解読してきた
  ソ連情報部暗号の解読内容を、1995年から公開、その文書を指す。

 解読作業はカーター・クラーク将軍が大統領にも秘密で始めたプロジェクトだったが、そこには、第二次大戦の戦前戦中そして戦後、アメリカ政府の中枢にいかに深くソ連の工作活動が浸透していたかが明かされている。
 例えばルーズベルト政権では、常勤スタッフだけで二百数十名、正規職員以外で三百人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいたとされる。同文書はインターネットで誰でも閲覧できるが、本邦未訳。なお、ハルノートを作成したホワイトがソ連のスパイだったことが証明されたとされている。


◇マッカーシズム

 第二次世界大戦後の1948年頃より1950年代前半にかけて行われたアメリカにおける共産党員、およびそのシンパ排除の動き、いわゆる「赤狩り」を指す。
 その推進者だった共和党右派のジョセフ・マッカーシー上院議員の名を取って名づけられた。告発された共産主義者たちは、米政府や軍関係者、ハリウッドの芸能関係者、作家、さらにはカナダ人、イギリス人、日本人などの外国人にまで及び、その影響は西側諸国全体に行き渡った。その反動も大きくマッカーシーは激しい批判に晒されたが、マッカーシーが依拠していた「ヴェノナ文書」が近年公開されたことにより、その正しさが証明された。
 尚、[保守の使命]によれば、連合国が天皇制を破壊しようとして、憲法を押し付けようとしていることが分かり、マッカーサーは天皇制を護持する日本国憲法を押し付けたと云われている。




張作森爆殺事件はコミンテルンの謀略だった

■張作霖(ちょうさくりん、1875〜1928)奉天軍閥。
 国民党との戦いに敗れ、奉天に向かう途中、爆殺された。この爆殺が関東軍の仕業であるとされたことから東京裁判ではこの事件を日本の「侵略戦争」の起点としたが、もしそれがソ連の謀略だったことが証明されれば、東京裁判の評価見直しにも重要な意味合いをもつこととなる。

■河本大作(こうもとだいさく、1883〜1953)
 関東軍高級級参謀。
 戦後は中一国共産党の捕虜となり収容所内で病死。

■田中義一
 元諜報部員で、敗戦直後から、連合軍側の代弁者。
 満州軍参謀であった田中は、ロシアのスパイとして逮捕され、銃殺寸前の張作霖を助命した。張作霖はその恩に報いるべく田中のために精励し、田中は彼のことを「俺が弟」と呼び支援を惜しまなかった。この関係を利用して張作霖は満州全土を支配し、北京を占領した。

■張学良(ちょうがくりょ、1901〜2001)
 張作霖の長男。西安事件を起して国共合作を画策。
 戦後は台湾に長く軟禁された。(⇒[西安事件の真相])

■トロツキー
 ロシア赤軍創設者の一人。
 のちにスターリンと対立して暗殺された。

 河本大介自身の証言ですが、終戦後は中国で国民党軍の顧問になる。共産軍に敗れ、戦犯管理下に置かれて三年後に亡くなっている。彼は手記も何も書いていません。しかし、『文嚢春秋』昭和二十九年十二月号に「私が張作霖を爆殺した」という、河本告自記が掲載されているが、誰が書いたかというと、これは河本の義弟で作家の平野零児が書いている。彼は戦前は治安維持法で何度か警察に捕まっている。当時、ほとんど誰も内容を確認せずにそのまま活字になってしまった。
 ですから、張作霖爆殺が関東軍の仕業だったというのは、当時の流言蜚語、それから東京裁判での田中隆書証言[第一次上海事件を起こすため、中国人を雇って日本人僧侶を狙撃させた]、そしてこの文藝春秋告自記と称するものに基づいている。それで先帝陛下まで、それを信じられて、非常にお怒りになって田中義一首相に詰問なさるった。
 しかし、最近、真相に迫ると思われる文書が出てきた。それが『GRU帝国』というソビエトの情報工作機関の物語を書いた実録、歴史書です。これは『マオ』が引用して、多くの人が知るようになった。ソ連が支配する東支鉄道の利権を脅かす張作霖を暗殺し、より操り易い息子の張学良を使って関東軍との間に対立を起させるようにとのモスクワの指示に従って、ソ連のGRUという軍の情報部が、ハルビンの謀略組織と上海の組織との協力で、日本軍の仕業と見せかけるシナリオを書き、二つの工作を併行させてやっていたということを明らかにしている。

  ■関東軍がやった、と皆に思わせる洗脳工作。
   張作霖を爆殺することによって「満州を押さえられる」という考え方を
   関東軍に吹き込む
  ■ソ連工作員による実際の爆破工作です。

 それを指揮したのはナウム・エイティンゴンという切れ者のソ連工作員。この人は後にトロツキーをメキシコまで追いかけて行って暗殺した下手人で、そのエイティンゴンの指令を受けた部下が実は張作霖と同じ列車に乗っていた。京奉線と満鉄線のこ父差点で皇姑屯で爆発は起こつています。線路に爆弾を仕掛けておいて高速で走る列車の特定客車だけを爆破するというのは非常に難しい。また、壊れた列車の残骸を専門家が分析すると、屋根の上の方が爆破されている。線路に爆弾が仕掛けてあれば、下の車輪部分も全壊しているはずだと。そこで上を通る満鉄線の橋梁下に爆薬が仕掛けられた、と後で言われるのですが、エイティンゴンは、橋梁や線路の爆破ぐらいでは致命傷は与えられないから、自分たちが爆破に直接関係したと言って、客車の写真を撮って、それを自分の功績、証拠として、その壊れた客車の写真を自分の回顧録にわざわざ載せている。自分がやったんだとはっきり言っているんです。


◇張作霖爆殺は「親殺し」!?  [正論 2012年08月号]より抜粋
 〜英国公文書が示唆する事件の黒幕と、日本軍単独犯行説の崩壊〜

 張作霧爆殺事件の真相に関わる重要な新史料が見つかった。
 周知のように、かつては関東軍の河本大作大佐を主犯″とする日本単独説があたかも確定した「史実」であるかのように受取られてきたが、近年、その再検討を迫る新事実が次々と浮上し、論争が続いている。
 そこへ、さらに一石を投じる重要史料が出てきたのである。数行の本文と何やら特殊な書式の英語の公文書の体裁である。その全文を訳すと左のようになる。
 この文書は国王陛下の政府の財産であるから、公的な用途のために要請されない限り、外務省へと返還されるべきである(赤いスタンプ)。
     
 この電報は、ハルビンの信頼性の高い情報源から北京のイギリス公使館宛に英国の特殊暗号によって送付されたものだが、それを公使のマイルズ・ランプソンが自ら解読(暗号解除)した上、至急電でその要旨をロンドンに転電しているものである。通常の外交電とは異なり、極秘情報を扱う特別な形式になっている点が注目される。さらに、ランプソン公使自身、二十世紀のイギリス外交を代表する大物外交官であった点が、この情報の確度と重要性を考える上で一層注目されるのである。
張作霖の長男・張学良は直隷省(現河北省)保定に陣を布き、韓麟春とともに奉天派の精鋭部隊である第三・第四方両軍を指揮した。韓は奉天派の中の「新派」(「旧派」との対照で用いられる。学良が代表的人物)に属していた有力な将領である。「ランプソン電報」の訳文中にある「ヤング・ジェネラル」は学艮を指している。また学良は時に「ヤング・マーシャル」あるいは「少帥」とも呼ばれた。
 「ランプソン」電報で注目されるのは、これがハルビンからの情報であったという点である。当時、ハルビンにはソ連の巨大な諜報機関があり、これが奉天や北京、朝鮮などの周辺地域(恐らくは、時に日本、台湾も含んでいた)を統括していた。「ランプソン電報」に従えば、張学良と楊の計画にはソ連が何らかの形で関与しており、あるいは「総じて信頼できる中国人情報源」もソ連の諜報機関に連なっていたと考えることは、一つの仮説として合理的であろう。またそれ故に、ランプソンがこの情報を一層重視したと推測される。
 「ランプソン電報」がつたえる張学良と楊の謀反計画が本当であったとすれば、それは張作霧爆殺事件の真相関わる重要な事実である。
 一方、中国国内で出版された托托『張氏父子与蘇俄之謎』(二〇〇八年、本邦未訳)はプロホロフらの説を引用するほか、ソ連諜報機関に関する数多くの文献や史料集に基づいて、コミンテルン陰謀説を踏襲・発展させている。念のためこの本のタイトルを日本語訳しておくと『張作需父子(つまり張作森と学良)とソビエト・ロシアの歴となる。この本によれば、一九三六年の二・二六事件のあと、首相を辞任していた岡田啓介がリヒヤルド・ゾルゲの工作を受けてソ連諜報機関に取り込まれたとされ、その関係は戦後も続き岡田は東京裁判に際し、張作霧爆殺事件の首謀者であると「自白する」人物として河本大作をソ連諜報機関に推薦したという。にわかに信じ難い叙述であるが、その典拠としては莫洛佳科夫主編『東京審判之秘聞実録』(歴史遺産出版社、一九九六年版、本邦末訳)と明示されており、注目される。上の例が示すように、托托の本はその叙述内容に必ずしも信憑性があるとは言えないが、巻末には数多くのロシア語の引用文献、史料集が示されており、抜きん出た情報量を含んでいることも付記しておこう。・・・

 ■田中上奏文
昭和二十一年春、中国から帰国したさい、いちはやく「田中上奏文」の正体についての論文を発表されている。(中略)中村氏の説によると、九十パーセント確実な情報として、共産党員王(クサカンムリに冗)生の筆になるものであるという。王とは何者なのか。驚いたことに、張作憲の懐刀であり、息子張学良の秘書役をつとめた男だった。しかも、張作霖も学良も死ぬまで、王が、生粋のコミュニストであったことを知らなかったという。




「田中上奏文」はソ連が作った偽書だった

■偽写真
 最近映画館のスクリーンなどでよく上映される日本軍の空爆などのような『戦争』写真の多くは、ハリウッドまたは設備の良く整った映画産業の施設なら何処でも制作出来るものなのである。南京政府の宣伝広報局は上海の国際租界が保護してくれるのにつけ込んで、世界世論の感情を歪曲すべく計算され尽くした写真や宣伝活動の材料を、この平和の避難所から続々と生み出した。[冤罪の南京大虐殺へ

 偽写真だけじゃなく、偽文書も多く作られました。その最大のものの一つが田中上奏文(田中メモランダム)です。田中義一首相が昭和二年(一九二七)、昭和天皇に日本の国策として大陸侵略を通じ世界征服を目指すべきことを明治天皇以来の日本の大方針だとして上奏したという内容で、「支那を征服せんと欲せば、まず満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ずまず支那を征服せざるべからず」という調子のとんでもない代物ですが、さすがに日本国内では早くから偽書だということは定説化していました。しかし海外は違いました。一九二〇年代末から四〇年代にかけて欧米を含め世界中で広く流布され、アメリカのルーズベルト大統領のようにそれを真実として強く信じていた欧米人も多かったのです。その影響は戦後も長く続き、「侵略国家」日本のイメージを作るのに大きな役割を果し、東京裁判も基本構図において、「上奏文」のイメージをそのまま踏襲しています。中国では今も事実として教科書で取り上げているものも多い。
 ところが、戦後六十年を迎えた平成十七年(二〇〇五)春、モスクワのロシア・テレビラジオ局(RTR)が、シリーズ番組『世界の諜報戦争』の中で、「『田中上奏文』は、日本の国際的信用を失墜させ日本を世界から孤立させる目的で、一九二八年にソ連の諜報機関OGPU(KGBの前身)が、偽造し全世界に流布させたものである」と明らかにしたのです。
 日本としては、大いにこれを宣伝すべきですが、そのような雰囲気が盛り上がっているとは言いがたい。つまり歴史の書き換えが今、必要になっているわけですけれども、その障害となっているのが、日本人の歴史観、あるいは国際社会観、つまり「世界はどういう原理で動いているか」ということに対する無知です。
    


◇偽書「田中上奏文(「田中メモリアル」)」:WiLL2012年5月号

 日本人がいまもって気づいていないことがある。蒋介石政権がアメリカを対日戦争に向かわせるため「田中メモリアル」を大量に印刷し、ばらまき続けた事実である。
 満州事変が起こつた一九三一年に上海で印刷された英語版は、早くも第十一版に達し、日本は満州、蒙古だけでなく、アメリカと世界を征服する計画だと述べていた。
《支那を征服しようと欲するならまず満州と蒙古を征服しなければならない。世界を征
 服しようと欲するなら、必ずまず支那を征服しなければならない。…これすなわち明
 治大帝の遺策である》
 一九三二年には、『日本のマキヤヴュリ 明治天皇が志し、田中首相によって作られた日本の世界征服計画』と超した本がニューヨークで印刷、出版された。「田中メモリアル」の発行は、その後も続く。「南京大虐殺」捏造犯の一人、董顕光は自著『支那と世界の新聞』で、支那事変に際しても「田中メモリアル」を“活用”したと自慢している。
 日本を占領したアメリカは、厳重な秘密体制のもと言論封殺、焚書をやってのけ、さらに日本人を洗脳しようとした。その材科の一つが、占領軍の民問情報教育局が出版した『太平洋戦争史』である。占領軍は各新聞に連載させたあと、十万部を印刷し、教材用に使うことを命じた。この訳者は、『太平洋戦争史』が「田中メモリアル」を下敷きにアメリカの都合に合わせて書き上げた作文に過ぎないことに気づかず、戦勝国のプロパガンダを鵜呑みにして、前書きで次のように論じた。
《この一文によって始めて、われわれは今次戦争の責任ないし原因が太平洋戦争のみに
 在るのではなくして、速く清洲事華に謝るものであることを教えられ、又太平洋戦争
 が如何に日本にとつて無理な戦争であったかを知ることが出来た》


◇プロパガンダ戦争:「田中上奏文」の悪夢再び

 「第二次大戦勝利で得た成果と戦後秩序を守らなければならない」。ロシアを訪問した中国の習近平国家主席は2013年3月23日、いつもの表現で日本を非難した。昨年9月、パネッタ前米国防長官に「日本が反ファシズム戦争勝利の成果を否定、戦後秩序を覆そうとしている」と発言して以来、日本批判を繰り返している。(産経2013/04/03)
 中国は日本政府による尖閣諸島国有化を「戦後秩序に対する著しい挑戦」と位置づけ、「戦勝国」米中露が手をくみ倒した「ファシスト」が再侵略に動き始めたと国際社会に訴えているのだ。ファシストとは一般に民主主義を否定する全体主義者を指すが、日本の指導者にそんな人物はいない。対日非難は事実を捏造したデマだが、中国はデマを承知で国際社会に発信している。
 ジャーナリストの富坂聡氏は「これこそ中国が仕掛ける『宣伝戦』だ。日本にファシストが復活していようがいまいが関係ない。キーワードを連呼し国際世論をあおる。狙いは日米分断と日本孤立だ」と指摘する。
 ■偽書と認識
 『日中歴史認識』(服部龍二著)によると、日本外務省は満州事変前から中国国民政府外交部に「田中上奏文」が事実無根として取り締まりを要請。これに応じて中国は昭和5(1930)年4月12日、機関紙『中央日報』で「田中上奏文」の誤りを報じている。中国は当初から「田中上奏文」を偽書と認識しながら「宣伝戦」を展開、国際社会はそれを信じたのである。




◇真珠湾攻撃へ意図的に日本を追い込んだ米国

 日米戦争の発端とされる真珠湾事件については、グルー大使の日本の攻撃計画の警報は事件の十か月前にハル長官に通報されており、現在インターネットで公開されています。日本暗号解読の事実は、昭和20(1945)年8月末に、米国で公表されているのです。
 要するに、米国は英国と共謀し、欧州戦争に参戦するために、対日戦争を準備したと言うことです。

■駐日大使グルーの国務省あての公電報 より下記抜粋。
  http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-773.html

■米国務省の公文書公開 「真珠湾は奇襲ではなかった」
         東京近代史研究所代表 落合道夫
1.事実
 米国ウィスコンシン大学の国務省外交文書図書館で戦前の駐日大使グルーの国務省あての公電が公開されている。この中に日本の真珠湾攻撃の十ケ月前の1941年1月27日に日本軍の真珠湾攻撃計画を国務省のハル長官に報告したものがある。
 その内容は、「米大使館員が入手した情報によると日米関係が難しくなった場合、日本軍が総力をあげて真珠湾を攻撃する計画があるという。驚くべきことであるが、東京の日本人を含む複数の外交筋からの情報なので急ぎ報告する」というものである。
 これで長年の日本近代史の大きな疑問がひとつ解けたことになる。

2.意義

(1) 反日宣伝からの解放
 日本人は戦後占領軍と左翼に長く真珠湾攻撃が卑怯であるという誤った贖罪感を埋め込まれてきた。しかしこれで解放された。ルーズベルトは明らかに日本の反撃計画を知っていた。その上で対日貿易封鎖をおこない過酷な対日要求ハルノートを出してきたのである。

(2) 歴史の真実
 それでは日本の攻撃を挑発したルーズベルト大統領の狙いは何だったのか。それは言われているように、欧州大戦への参戦契機づくりと満州を狙う邪魔もの日本の排除のためと考えるのが合理的であろう。これで東京裁判史観は誤っていることがわかった。必然的に日本に戦争責任がない新しい近代史観が必要になってきた。

(3) なぜ国務省は公開するのか
 現在の米政府が戦前のルーズベルト外交の対日陰謀の重要証拠文書を公開しているのは、米国の極東政策が戦前とはガラリと変わったからである。戦前の日米は満州を争う競争者だった。しかし今は共通の敵を持つ同盟国である。
 そこで米国は極東の要となる自由主義国家日本を再建したいと考え、そのために日本人の時代遅れの敗戦ボケからの覚醒を待っているのであろう。

・米国ウィスコンシン大学外交文書図書館⇒「ご参照
 問題電報は133ページにある。公文書番号は711.94/1935である。

以上

以下に、英文をまるごと転載します。

711.94/1935 : Telegram
The Ambassador in Japan. (Grew) to the Secretary of State

[Paraphrase]
Tokyo January 27, 1941 一6 p.m
[Received January 27-6:38 a.m]

125. A member of the Embassy was told by my ...colleague that from many quarters, including a Japanese one, he had heard that a surprise mass attack on Pearl Harbor was planned by the Japanese military forces, in case of "trouble" between Japan and the United States ; that the attack would involve the use of all the Japanese military facilities.

My colleague said that he was prompted to pass this on because it had come to him from many sources, although the plan seemed fantastic.




戦後日本はコミュニストが作った
        日本近現代におけるコミンテルン介入史

 占領下の日本に君臨したニューディーラー、彼らは武装解除完了後の軍事占領で、完全に無抵抗状態に置かれたいわゆる日本に乗り込んできたのです。
■ニューディラー
 世界恐慌時、アメリカで社会主義的なニューディール政策を立案、推進したリベラル派のグループ。彼等は日米間戦時の大統領ルーズベルトに影響力を持ち、中華民国の蒋介石を支援する「援蒋政策」と日米開戦を推進。戦後、連合軍総司令部(GHQ)を主導した民政局の主力メンバーもニューディラーだった。




◆ 第一第二の介入(関東大震災と共産主義ネットワーク)

 大正十二年関東大震災が起こった時に、各国の救援団が今の国際NGO」の様な形でたくさん日本に入って来た。当時すてにコミツテルンは 国際NGOを共産王義ネットワークを作る隠れ蓑としてよく利用していた(ベルリンを本拠にしていたコミツテルンの秘密機関はモスクワや日共とは全く別系統の対日秘密工作に早くから着手していた)。そして一辺に大きな秘密ネットワークを日本国内に作り上げてしまった。それが急速に影響力を増して、大正十五年の時点でコミツテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌の十九のメディアをコントロール下においていたというのは、資料的にも明らかになっている。大正末期の日本では、急速に冶安維持法が無くてはならない立法となる。それほど急速に赤化が始まったのには人為的な外からの秘密工作かあったからであり、共産王義に対する日本人の認識か自発的に深まったわけては決して無かった。
 また「東大新人会」というのが吉野作造の指導下てスタートしますが、大正十三年頃には新人会というのは殆とマルクス主義団体になつて、尾崎秀実のようなスパイや野坂参三など多数の日本共産党員が送り出され、その卒業生か満鉄調査部や朝日新聞なとに送り込まれた。「共産主義の脅威」とは何か一言て言うと 国の中枢に隠れ共産主義者や多くのスハイを送り込まれるということ。これが日本の歴史か大きくねじ曲けられてゆく最初の局面だった。これは何とか治安維持法で押し返そうとしたんてすけれとも この法律はスパイ取締りには逆効果たった。そのうちに慮溝橋事件以後の尾崎秀実などに代表される第二番目の流れがあった。とりわけ コミツテルンの指令に従って日本政府の不拡大方針を覆し事変を意図的に泥沼化させ、蒋介石との和平交渉を次々と裏工作て挫折させていった。

モスクワだけではなくて延安、つまり秘密裡に中国共産党の影響が日本の中枢に相当入ってくることです。尾崎の人脈はゾルゲを除けばモスクワというより、ほとんど延安につながる人脈なんですが、このころからコミンテルンに加えて、「テナミンテルン」と私は言っておるんですが、延安を司令塔にした、中共の「東アジア革命」路線に基づく新しい国際ネットワークができてくる。これは、スターリンと毛沢東の棲み分けによって、日本・朝鮮・ベトナムなど東アジアの共産革命の主たる推進者としての中国共産党の責任と影響力が強くなっていく。




◆ 第三の介入(ニューディーラーと日本国憲法)

 戦後初期の占領政策があれほど突出して左派的な傾向を示したのは、GHQ内のニューディーラーがコミンテルンないしソ連諜報部の本格的なスパイ・工作員でありたことが、一九九〇年代後半から進んだヴュノナ文書の精査によってはっきり分かってきた。少なくとも昭和二十三年までのGHQは「コミンテルン・コネクション」の人達が大半を動かしたことが明らかになってきた。「教育の改革」と称する流れもそうでしたが、一番劇的なのは、やはりハーバート・ノーマンだと思う。


 ■「GHQ憲法」/「コミンテルン憲法」
 ノーマンは日本生まれのカナダ人ですが、戦前のイギリス留学時代にコミンテルンに加入して、それ以後、秘密工作員としてカナダ外務省に入り、戦後、マッカーサーの特別の信頼を得て日本に入った時に最初にやったことは、アメリカ共産党の秘密党員だった都留重人との接触を再開し、鈴木安蔵というマルクス主義憲法学者を探し出したことでした。そして、鈴木に「憲法研究会」を作らせたのです。ノーマンは、いずれGHQや日本政府で憲法草案作りが始まることを見越して、日本人の“自発的意思”による「民主的な」憲法草案をマッカーサーに突きつけることで、日本革命への一里塚としての憲法採択を狙ったわけです。
 こうして鈴木らの「憲法研究会」がいわば「やらせ」として作らされた草案が、現行の「日本国憲法」に最も近似したものとされていますが、これは当然のことだった。最近、「九条の会」とか護憲派の人達が、鈴木安蔵の映画を作って、「あの憲法はアメリカが作ったのではない、民主的な日本人の総意が反映しているんだ」という事をしきりに言おうとしている。私はその話を聞いて本当に笑ってしまいました。鈴木安蔵と憲法研究会自体が、実はハーバート・ノーマンによってオーガナイズされたコミンテルンの工作組織の一端だったわけですから。
 さて、そうして鈴木らの草案を元にしてケーディス達が今の日本国憲法の最終草案を作った。そこで、特に重要なのはノーマンが終始重視したのが憲法一条だったということ。憲法一条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」と、ここまではGHQ、つまりアメリカの案なんですが、そのあとの条文には極東委員会から修正案が出されて来ます。それによって、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」となった。“主権の存する日本国民”君主国で「国民主権」をうたっているような憲法は、現日本国憲法だけです。デンマークでもノルウェーでも国民主権というものを真正面からうたっている憲法はありません。にもかかわらず敢えてそういう挿入句を入れさせた勢力は実はソ連なんです。そして具体的にソ連の意を受けて極東委員会に行動を促したのが、ノーマンだった。当時ノーマンは、ワシントンに出張しこの極東委員会に勤務していた。なぜ、この挿入に拘ったのか。それは、「国民の総意」を口実に、いつでも天皇制度を廃止できるようにしておく、というのが一九二〇年代以来、スターリンの対日戦略だったからです。現行の日本国憲法は「GHQ憲法」と称されることもありますが、こういう経緯を知れば、より正確には「コミンテルン憲法」と称したほうがふさわしい。

 この第三の局面はやがてアメリカも気が付いて、GHQの情報部長だったウィロビーの努力やマッカーシズムのいわゆる「赤狩り」の効果もあって、コミンテルン人脈の将校たちが次々と追放され、冷戦構造の中で、日米安保条約体制に移行する(第三段階の終わり)。



◆コミンテルンが歪めた憲法の天皇条項
            [正論 2012年9月号]江崎道朗

●女性宮家問題とヴェノナ文書

 アメリカ国家安全保障局(NSA)が一九九五年に公開したヴェノナ文書には、いわゆる「女性宮家問題」の根本原因を解明する糸口がある。
 ヴェノナ文書とは、第二次世界大戦前後の時期にアメリカ内のソ連のスパイたちがモスクワの諜報本部とやり取りした秘密通信を、アメリカ陸軍情報部が秘密裡に傍受し解読した記録である。この機密文書の公開によって当時、アメリカ政府の内部にソ連・コミンテルンのスパイたちが大量に潜入し、戦前のアメリカ政府の対日政策だけでなく、戦後のGHQの政策にまで影響を及ぼしていることが、判明しつつある。
 特に日本にとって重視すべきは、ヴェノナ文書を研究している歴史家のジョン・アール・ヘインズ民らの業績だ。ヘインズ民らは一九九九年、トーマス・ビッソンという著名なアジア問題の専門家が、「アーサー」というカバーネームを持つソ連のスパイであったことを突き止めたのだ(中西輝政監訳『ヴェノナ』)。
 後述するように、トーマス・ビッソンこそがGHQの一員として現行憲法制定に際して「国民主権」論を確立し、いわゆる女系天皇を可能とする憲法解釈を生んだ張本人なのである。
 周知の通り、現行憲法はアメリカ主導のGHQが日本に押し付けたものだ。
 アメリカは真珠湾攻撃直後から戦後の対日占領政策について議論を始めている。そして一九四二年三月十七日、外交関係評議会の会合において元外交官のロジャー・グリーンが、軍部の特権を剥奪するために憲法を改正すべきだと主張した。公の席で対日占領政策との関連で日本の改憲について言及したのは、グリーンが最初であったと言われている。
 グリーンは戦前、アメリカ世論を反日・親中国に変えるために大々的な反日宣伝を繰り広げた国民運動組織「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」の理事長を務め、日本を戦争に追い詰めた中心人物であった。そして、この「アメリカ委員会」の発起人の一人が、ビッソンなのである。


●コミンテルンの思想的影響下にあったアメリカ

 アメリカ国務省が正式に天皇問題について検討を開始したのは、一九四二年十一月九日のことだった。
 きっかけは、固務省顧問のS・ホーンペック博士が国務省極東課に対して、天皇に関するアメリカ政府の方針を検討するよう要請したことだった。その際、ホーンペック博士は、ウィリアム・C・ラモット「戦後の日本はどうなるか」(『アジア』一九四二年十月号)と共に、『アメラシア』一九四二年十月二十五日号掲載のケネス・コールグローブ教授とケイト・L・ミッチェル女史の論文を参照するよう勧めている。
 『アメラシア』とは、アメリカ共産党の下部組織として創設されたアメリカ中国人民友の会の機関紙『チャイナ・トゥデイ』を引き継ぎ、一九三七年二月に創刊された雑誌だ。当時、アメリカ共産党は「ソ連・コミンテルンとは無関係」と言い張っていたが、ヴェノナ文書によって、アメリカ共産党がソ連・コミンテルンの指示で対米工作をしていたことも判明している。『アメラシア』は、ソ連・コミンテルンによる対米宣伝工作の一環として発刊されていたわけだ。
 そしてこの『アメラシア』編集部の中心者がやはりビッソンであった。ビッソンは一九三七年六月、『アメラシア』編集部として中国の延安を訪問し、毛沢東や周恩来にインタビューするなど中国共産党とも密接なつながりをもっていた。
 当時ノースウエスタン大学政治学部長であったコールグローブ教授はこのような日くつきの雑誌『アメラシア』において、「もしも天皇が、(政府・国会と軍部という)二重政治体制とともに存置されるならば、再び軍国主義の脅威が生じるだけであり、またもや次の大戦を招来することになろう」と指摘し、「天皇制」廃止を検討すべきだと示唆した。一九四五年三月にソ連のスパイ容疑で逮捕された同誌編集委員のミッチェル女史は「多くの日本問題研究者は、日本における天皇制存置は政治上の民主主義の発展と相容れないものであり、今日、日本の政策を支配している侵略的帝国主義的野心の再現を必然的にもたらすことになると信じている」と指摘し、天皇を擁護するジョセフ・グルー大使らを厳しく非難していた。
 国務省極東課は、謂わばソ連・コミンテルンの対米宣伝雑誌に掲載されたこの二つの「天皇制」廃止論を参考にしながら対日占領政策の検討を始めたわけだ。ちなみに、この時ホーンペック博士を補佐していたのがアルジャー・ヒスだ。ヒスはヴュノナ文書によってソ連のスパイであることが判明しており、ホーンペック博士が『アメラシア』を参考にするよう極東課に勧めたのは決して偶然ではない。
 そして昭和二十年十一月、国務省は、日本の憲法改正の基本方針を明記した「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)という政策文書を作成する。この文書では、日本に改憲をさせる目的を、「日本人が、天皇制を廃止するか、あるいはより民主主義的な方向にそれを改革することを奨励支持しなければならない」と定めている。国務省は、日本人の手で「天皇制」を廃止させるか、または民主主義的な「天皇制」へと改革するため、憲法改正をさせるべきだと決定したのである。「天皇制」を解体するために現行憲法は押しっけられたのだ。


●日本政府の果敢な抵抗

 国務省のこの文書は昭和二十一年一月七日、アメリカ政府の方針として正式に決定され、この方針に基づきマッカーサーは二月三日、GHQの民政局に対して日本国憲法改正草案の作成を指示した。
 民政局が僅か十日で英文の改憲草案、いわゆる「総司令部案」を完成させると、GHQは二月十三日、日本政府に対して「前年十二月に創設された極東委員会においてソ連は天皇制廃止を主張している。ソ連の主張を跳ね除けるためにも、『総司令部案』に基いて憲法を改正すべきだ」と強く迫った。
 日本政府は既に独自の改憲草案(いわゆる粉本案)を作成していたが、二月二十二日、GHQの「総司令部案」に沿って憲法を改正する方針を閣議で決定した。そして二十七日に内閣法制局の入江俊郎次長と佐藤達夫第一部長を中心に日本政府案の作成に着手し、三月二日までに日本語で「三月二日案」を作成した(憲法草案条文の変遷については、内閣憲法調査会『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』が詳しい)。
 その際、日本政府がしたたかだったのは、英文の「総司令部案」を直訳するのではなく、問題のある条文はできるだけ削除し、削除できない条文も日本側に有利に解釈できるような日本語に書き換えたことだ。天皇に関わる条文だけでも以下の七項目を改編している。
 @前文については、「我等日本国人民ハ(中略)此ノ憲法ヲ制定確立ス」との一節が、「憲法改正は天皇の発議・裁可によって成立する」という帝国憲法の原則に反しているという理由で、すべで削除した。
 A第一条の「皇帝ハ国家ノ象徴ニシテ又人民ノ統一ノ象徴タルヘシ彼ハ其ノ地位ヲ人民ノ主権意思ヨリケ之ヲ他ノ如何ナル源泉ヨリモ承ケス」については、「人民ノ主権意思」を「日本国民至高ノ総意」と書き換え、「之ヲ他ノ如何ナル源泉ヨリモ承ケス」を削除した。もし「皇位は人民の主権だけに基く」という趣旨のこの一節が残っていたら、皇室のあり方を皇室の伝統に基いて考えていくこと自体が否定されてしまった恐れがあった。
 B第二条の「皇位ノ継承ハ世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範二依ルヘシ」については、皇室典範は皇室の家法であり、その発議権は天皇に留保すべきであるとの考え方から、「国会ノ制定スル」を削除した上で、「第百六条 皇室典範ノ改正ハ天皇第三条ノニ従ヒ議案ヲ国会ニ提出シ法律案卜同一ノ規定こ依り其ノ議決ヲ経ベシ」を追加した。
 C第三条は天皇と内閣、天皇と政治との関係についての条項で、総司令部案にはこう書かれていた。「国事こ関スル皇帝ノ一切ノ行為ニハ内閣ノ助言と承認ヲ要ス而シテ内閣ハ之力責任ヲ負フヘシ。
 皇帝ハ此ノ憲法ノ規定スル国家の機能ヲノミ行フヘシ彼ハ政治上ノ権限ヲ有セス又之ヲ把握シ又ハ賦与セラルルコト無カルヘシ。皇帝ハ其ノ機能ヲ法律ノ定ムル所こ従ヒ委任スルコトヲ得」
 日本側はこの条文を二つに分け、前半を第三条、後半を第四条にした。その上で第三条の「内閣ノ助言卜承認」という表現については、大日本帝国憲法の「輔弼」という言葉に書き換え、「天皇ノ国事二問スル一切ノ行為ハ内閣ノ輔弼ニ依ルコトヲ要ス」とした。内閣は、天皇の行為を補佐すべきであって、目下の者に対するように「助言と承認」を与えるべきではないとの考え方からである。
 後半の第四条は「天皇ハ此ノ憲法二足ムル国務二限り之ヲ行フ。政治ニ関スル権能ハ之ヲ有スルコトナシ。天皇ハ法律ノ定ムル所二依り其ノ権能ノ一部ヲ委任シテ行使セシムルコトヲ得」とした。天皇が国家の歯車であるかのような響きを持つ「国家ノ機能」という言葉は「国務」に、「機能」は「権能」にそれぞれ書き換えることで、天皇が「国務を行う権能」を持っている表現に変更した。
 日本がポツダム宣言受諾を決めることができたのは、昭和天皇のご聖断のおかげである。もし天皇が国務に関する権能を失ったなら、国家存亡の際に日本はどうなるのか、というのが当時の日本の指導者たちの共通の思いであった。


●外国人参政権付与も回避

 D第三章の「国民の権利と義務」では、総司令部案第十二条の冒頭に「日本国ノ封建制度ハ終止スヘシ」という表現があったが、削除した。この一文が残っていたら、廃止すべき「封建制度」とは何かという議論が巻き起こり、日教組などから「国旗日の丸も国歌君が代も封建制度の名残りだ」などと批判され、廃止される事態になったかもしれない。
 E国会議員や地方議員など公務員の選定及び罷免の権利について総司令部案は「第十四条 人民ハ其ノ政府及皇位ノ終局的決者ナリ彼等ハ其ノ公務員ヲ選定及罷免スル不可譲ノ権利ヲ有ス」となっていた。額面通り読めば、「国会議員や地方議員の選出も皇位の決定も人民の権利」ということになってしまう。このままだと、「天皇が皇位を継承するに際しては、在住外国人も含む人民投票でその可否を決定すべきだ」とする左翼学者の主張が政策として採用されてしまう恐れがあった。
 幸いなことに当時の吉田茂外相(後の理大臣)がこの一節を問題視し、三月六日午後、ホイットニー民政局長に直接申し入れ、その変更について了解を勝ち取っている。その結果、「人民ハ其ノ政府及皇位ノ終局的決定者ナリ」は削除され、公務員の選定の権利は「国民」にあるとした。この変更がなければ、永住外国人に参政権を付与することも合意となっていたわけで、吉田茂首相の慧眼に感謝すべきであろう。
 F皇室財産の取り扱いについても論議になった。総司令部案は「第八十二条 世襲財産ヲ除クノ外皇室ノ一切ノ財産ハ国民こ帰属スヘシ」として、皇室財産は世襲財産を除いてすべて国家が没収するという厳しいものであった。日本政府は、国家による没収を定めた一節を削除し、「第九十六条 皇室経費こ関スル予算ハ国ノ予算ノ一部トス。世襲財産ヲ除ク皇室財産こ付生ズル収支亦同ジ」と規定するに留めた。


●民政局による第一次介入

  このように日本政府は「三月二日案」を作成し、三月四日午前、松本桑治国務大臣と佐藤達夫法制局次長がGHQの民政局に掟出したが、民政局は、日本政府による書き換えを問題視した。以後、民政局は天皇条項だけでも三回にわたって介入を繰り返した。
 第一次介入は、日本政府が「三月二日案」を提出した四日の夕方から翌五日午後まで行われた。民政局次長で憲法改正を担当したチャールズ・ケーディス陸軍大佐は日本の「三月二日案」が「総司令部案」と異なつていることに気づき、法制局の佐藤次長を引き留め、その場で修正協議を始めた。徹夜の協議の結果、主として次の四点が大きく変更された。
 @「日本国民ハ(中略)憲法ヲ制定確立シ」とする前文がすべて復活した。
 A第一条の「天皇ハ日本国民至高ノ総意二基キ日本国ノ象徴及日本国民統合ノ標章タル地位ヲ保有ス」が「日本国及其ノ国民統合ノ象 タルベキコト」に変更された。「地位ヲ保有ス」との表現だと、天皇が今までの姿をそのまま維持すると解釈されてしまう恐れがあり、それは「天皇の地位を根本的に変える」というGHQの意図に反するとの考えからである。
 H第八十二条の「皇室典範の発議権を天皇が留意する」という日本政府の掟案は否定され、第二条に「国会ノ議決ヲ経タル皇室典範」という言葉が追加された。民政局は、天皇の発議権を認めるつもりはなかった。この旨を三月五日、幣原総理が昭和天皇に報告したところ、「今となっては致し方あるまいが、皇室典範改正の発議権を留保できないか」と話されたという。
 C皇室財産については、「すべて国に属する」という趣旨が復活し、あくまで皇室財産を没収する方針が強調された。
 かくして三月五日の夕方までに民政局による改悪を経て「憲法改正草案要綱」が完成し、翌六日、政府から公表された。
 佐藤法制局次長とケーディスらとの協議と並行して、白洲次郎中央連絡事務局次長と外務省の萩原徹条約局長がホイットニー民政局長と会談し、@条約の締結に際して戦前と同じく天皇が署名をして御璽を押す「御名御璽」を慣行として続けることと、C天皇の国事行為を規定する第七条に「八 批准及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること」を追加することを認めさせた。その結果、戦後も天皇は対外的に元首として振る舞うことができるようになつた。
 戦後、一部の憲法学者は「天皇は象徴にすぎない」と主張したが、条約への署名や外交文書の認証とそれに伴う外国の賓客の接遇を通じて、国民は「天皇は実質的に国家の代表である」との天皇観を持つことができるよ、つになつた。


●民政局による第二次介入

 政府が口語体による「憲法改正草案」を公表した翌日の四月十八日、「口語化された草案の字句について異議がある」として民政局は日本側を呼び出した。
 ケーディスは内閣による助言と承認に関連して、「第三条と第七条にあるapprovalを日本政府は同意と訳しているが、この言葉の意味について日本人に問いたところ、同意は対等な二者の問で用いられるようだ。しかしGHQの意図は『内閣が天皇の上に立つ』という意味だ」として、右の挙を高く挙げて「これが内閣」、左の拳をその下のほうに置き、「これが天皇」と言った。激しい口調に驚きながらも佐藤法制局次長は「同意は民法で、三十歳以下の息子の結婚に家長が同意するという場合に用いられており、ここでは明らかに対等の関係ではない」と反論した。結局三十時間にわたる長い議論の末、民政局が示した「承認」という言葉を採用することになつた。
 次にケーディスは「advice」なる言葉は補佐と訳きれているが、これはassistanceの意味にして補佐とは下位の者より上位の者に対してのみ言い得ることなので、例えば忠告と修正してはどうか」と述べた。佐藤次長は「忠告」に難色を示し、結局、「補佐」を「助言」に変更することになった。
 ケーディスが「内閣による助言と承認」にこれほどまでにこだわったのは、天皇の地位を内閣の下に置くことが日本の民主化のために必要だという認識があったからである。
 その背景には、当時のアメリカ政府が「日本が侵略戦争をしたのは、天皇を中心とする軍国主義者たちが権力を持っていたからであり、日本に平和な政府を構築するためには、天皇の政治権力を制限することが必要である」との誤解があった。敢えて「誤解」だというのは、日本が大東亜戦争をせざるを得なかったのは、ソ連の南下政策と中国大陸の混乱、欧米の対日圧迫外交によるものであって、日本の政治体制が主因ではないからだ。
 にもかかわらずアメリカ政府が、天皇制こそ侵略戦争の原因だと誤解したのはなぜか。「日本において一八六八年以後に成立した絶対君主制は、その政策は幾多の変化を見たにもかかわらず、無制限の権力をその掌中に維持し、勤労階級に対する抑圧および専横支配のための官僚機構を間断なく作り上げてきた」(一九三二年テーゼ)というコミンテルン史観の影響を受けた雑誌『アメラシア』の論調を参考にして対日政策を立案したことが一因であろう。


●ビッソンと、民政局による第三次介入

 民政局の第二次介入で「内閣による助言と凍認」へと変更させられた「帝国憲法改正案」が衆議院に掟出されたのは昭和二十一年六月二十日のことであった。
 この問、四月十日に衆議院選挙が実施され、日本社会党が九十六議席を獲得するなど躍進を見せ、五月三日には東京裁判が開廷、十九日には皇居前広場で「米よこせデモ」が行われるなど情勢は騒然としていた。東欧情勢をめぐつて米ソの対立も顕在化し、ソ連は極東委員会を通じてアメリカ主導の占領政策に対しても干渉を強めていく。
 衆議院で憲法改正の審議が始まった七月二日、極東委員会は「日本の新憲法についての基本原則」を決定し、現行憲法が盛り込むべき原則を初めて示した。委員会内ではソ連やオーストラリアなどが天皇制否定論を叫んでおり、現行恵法制定を通じて「天皇制を廃止するか、または天皇制をより民主的な方向で改革する」ことをGHQに要求したのだ。
 この極東委員会の方針を踏まえて動き出したのが当時民政局顧問として来日していたビッソンと、マッカーサー司令官の政治顧問のコールグローブ教授であった。二人は民政局のサイラス・ピークと共に七月十一日、ホイットニー民政局長に対して「覚書」を投出し、次のような要請を行ったのだ。
《帝国憲法改正案の第一条は、英文では明らかに「天皇の地位は人民の主権的意思より生ずる」と述べている。しかし、日本語では「天皇の地位は、日本国民の至高の総意に基く」となつていて、「主権」は「至高」に変えられてしまっている。
 第四条では、天皇は「政治に関する権能を有しない」と述べている。しかし日本語訳によれば、天皇は国務に関する権能を行使できることになっている。
 よって、日本人民の自由に表明された意思に基づく真に民主的な政府への道を切り開くよう、条文が改正されることが絶対に必要だ》(要旨。全文は『ビッソン日本占領回想記』参照)
 ビッソンらの要請を受けて、民政局のケーディスは直ちに行動を起こす。第三次介入の始まりである。
 七月十七日、ケーディスは憲法担当の金森徳次郎国務大臣らと会談し、「憲法草案が、アメリカ側が意図したよりも遥かに保守的に解釈されている模様で気にかかる。日本政府に、天皇の地位は『日本国民の至高の総意に基く』を『主権の存する日本国民の総意に基く』へと代えてくれる意思はあるか」と尋ねたが、金森は「至高」が適当であると反論した。
 七月二十三日、ケーディスは再び金森に会って「『主権在民』という考え方はどこかで必ずはっきり述べておかなければならない。特に第一条の最後の部分に『国民に主権がある』という語句を入れるように」と具体的に示した。金森は「そうした変更は難しい」と反論したが、ケーディスは納得しなかった。
 その後も七月二十六日、二十九日の会談でケーディスは日本政府に「主権が国民にある」とはつきり書くように圧力をかけた。最終的に日本政府は「至高」をやめて「主権」を採用し、第一条は「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」となった。
 あわせて、天皇が「憲法の定める国務」に関して「権能」を有すると解釈できた第四条も、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる」と書き換えさせられてしまった。


●女系天皇の根拠を作ったビッソン


 ビッソンらは七月十一日付「覚書」で、もう一つ、問題提起をしている。
《第九十四条において、日本の官僚たちは、「この憲法並びにこれに基いて制定された法律及び条約は、国の最高法規とし」という形で、憲法と同等の地位にあるとみなされるベき法律の存在を明確にしている。
 そして第九十六条(現行憲法第百条)は、憲法とともに特別な地位を与えられる法律は施行前に制定することができるとしているが、これらの法律の範囲と性格に何ら制限を加えていない。しかも憲法と共に特別な地位を与えられるために施行前に制定される法律として日本政府は、皇室典範などを考えているようだ(実際、日本政府は、皇室典範を憲法施行前に制定した)。
 もし第九十四条の規定のまま、皇室典範などが施行前に制定されたら、皇室典範など多くの法律が憲法と同様に国の「最高法規」となり、現行憲法の適用除外の分野が拡大することになる。よって一連の法律の合憲性を判断する最高裁判所の権限は、大幅に縮小されることになるだろう》(要旨)
 ビッソンらのこの要請も民政局に採用され、第九十四条の「この憲法並びにこれに基いて制定された法及び条約は、国の最高法規」のは削除され、憲法と同じく最高法規となる法律の存在は許されないことになつてしまった。
 この変更も、日本にとって大きなダメージとなった。大日本帝国憲法では「皇男子孫之ヲ継承ス」として男系男子による皇位継承を定めていた。しかし、現行憲法は「世襲」と規定するだけで、男系による皇位継承の原則の規定は新皇室典範(「第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」)に移された。
 もしビッソンの介入がなければ、新皇室典範も憲法と同等の最高法規であり、「皇位継承は男系男子による」という原則も最高法規となっていたはずなのだ。しかし新皇室典範が憲法の下位法となつてしまった結果、憲法の男女平等条項に基いて「女系継承もありうる」との解釈が成立してしまう余地が残ってしまった。そしてそれは現実となつた。
 ビッソン介入から五十五年後の平成十三年六月八日、時の福田康夫官房長官が憲法の男女平等条項を踏まえ、「皇統とは男系及び女系の両方の系統を含む」と答弁し、「男系男子による皇位継承」という政府解釈を変更してしまったのだ。この変更により、小泉内閣は女系天皇を認める報告書を出すことができた。
 このようにビッソンらによって現行憲法は「日本の国柄」を歪める方向へ更に改悪された。
 第一に、「天皇は国務に関する一定の権能を有している」との解釈が成り立たないようにしてしまった。
 第二に、「国民主権」が現行憲法の基本原則となつてしまい、皇位について左右できる権限が国民にあるかのような余地を残してしまった′。
 第三に、新皇室典範を現行憲法の下位法とすることで、憲法の男女平等条項に基いて皇室の伝統、特に男系継承の原則を歪める可能性を生じさせた。
 その狙いは何か。ビッソンは、アメリカ政府の対日政策に大きな影響を与えた太平洋問題調査会の機関誌『パシフィック・アフェアーズ』一九四四年三月号で次のように指摘している。
《日本国民が天皇にそむき、天皇を退位させるならば、その行為は賞賛され、支持されなければならない。もしも彼らがそうしないのならば、彼らが必ず黙従すると考えられる根拠があり次第、彼らに代わってただちにその措置をとらなければならない。
「そのような方針は連合国がとりうるものではない。なぜならば、それはきわめて微妙な問題であり、天皇崇拝は、日本国民の意識の中にあまりにも深く板をおろしているからだ」という主張もあろう。こういった反対論に対する答として言えば、だれひとり、一日とか一カ月かのうちに、あるいは米国軍政府の命令によって成果を挙げることは期待していない。深部からの革命による以外には、一夜にして成果をもたらすことはできないであろう》(『資料 日本占領 天皇制』)
 ビッソンは、日本人民をして天島制を打倒させるような「深部からの革命」を起こさせるため、現行憲法の天皇条項を改悪することに奔走したのである。


●十一宮家の皇箱離脱を促した現行憲法

 ちなみに現在、男性皇族が少ないことが問題となっているが、敗戦直後の十一宮家の皇籍離脱がなければこうなつていなかったかもしれない。そもそも、なぜ十一宮家は皇籍離脱をせざるを得なかったのか。その要因の一つとして、現行憲法第八十四条によって皇室財産はすべて国に没収され、多くの宮家を維持できる経済力がなくなってしまったことが挙げられる。
 皇室財産についても民政局と日本政府との問で激しいやり取りがあったが、最終的に「第八十四条 世襲財産以外の皇室の財産は、すべて国に属する」という形で衆議院に掟出された。
 この条文の解釈について衆議院提出前の昭和二十一年四月九日と十二日に、ケーディスと日本改心仰の問で協議が行われた。民政局は、@「国に属する皇室財産」とは株券や御料林など収入をもたらす財産であり、A国に属さない「世襲財産」の中には三種の神器以外にも若干の私的財産が入ると解釈することを認めた。また、皇室に対する経済的特権が廃止されることを受けて「天皇が皇族に対して経済支援をすることは構わない」との言質も民政局から、獲得している。
 ところが衆議院審議中の八月、極東委員会の指摘で「世襲財産を除く」との一文が削除され、「すべての皇室財産は、国に属する」と改悪され、全皇室財産が国に没収されることになった。
 皇室が世襲財産を維持して経済的に自立できていれば宮家の維持は可能であり、十一宮家も皇籍を離脱せずに済んだかもしれない。極東委員会は皇室を経済的に追い詰め、将来、国民の手で「天皇制を廃止」できるよう、天皇条項の改悪に成功したのである。


●天皇条項について六つの留意点

 このように昭和二十一年二月から八月にかけて日本政府はGHQを相手に、憲法の天皇条項をめぐつて熾烈な思想の戦いを繰り広げた。ビッソンらによる介入がなければ、戦後の皇室の姿は現状とは大きく異なり、女系天皇、女性宮家といった議論も起こらずに済んだかもしれない。少なくとも、このような視点を踏まえて、皇室についての議論は進めていくべきである。
 独立回復六十年の今年、自民党とたちあがれ日本が改憲草案を公表し、改憲論議のさらなる活発化が予想される。今回紹介した現行憲法制定史を踏まえ、天皇条項を検討するに際しては最低でも次の六点に留意すべきだ。
 第一に、「主権」の存在だ。当時の日本政府はビッソン介入によって「国民主権」を強制されたあとも、「主権は天皇と国民の協同体にある」(芦田均)との解釈を打ち出すことで「君民一体の国柄は不変である」との最後の一線を守ろうとした。この思いこそ引き継ぐべきであり、ビッソンらソ連のスパイの産物である「国民主権」に拘泥すべきではない。
 第二に、皇室の家法という原点に立ち戻って皇室典範改正の発議権を皇室に認めるようにすべきだろう。
 第三に、皇室典範を憲法と同等の存在に置くべきだ。そうすれば、男女平等など現代の価値観に振り回されることなく、「皇位は男系男子が継ぐ」という皇室の伝統をしっかりと守っていくことができる。また、憲法の政教分離規定に制約を受けることなく、宮中祭祀を行うことができるようになるはずである。
 第四に、GHQから強要され、やむなく「内閣による助言と承認」という言葉を使っているが、この言葉を誤読して、あたかも天皇が内閣の下にあると勘違いする政治家が出てきたことを考えたとき、天皇は元首であることを明記すべきだ。
 第五に、国政と天皇の関係だ。政党間の政争に関与されるべきではないが、他国の君主と同じく国家の重要事について天皇に一定の権能をもっていただくことは必要ではないか。東日本大震災での天皇陛下のご発言が国民を大きく励ましたことを思い起こすべきだろう。
 第六に、皇室が一定の財産を保持できていれば経済的理由での十一宮家の皇籍離脱は避けることができ、男性皇族がここまで減少することはなかったかもしれない。今後、宮家の拡充が必要であることを考えるとき、皇室の経済的自立を縛る規定は削除すべきだ。
 わが国の将来像を考えるにあたっては、占領下でありながら当時の日本政府がGHQ、そしてビッソンらと果敢に戦った歴史を学ばなければならない。



◆ 第四の介入(チナミンチルンと日中国交正常化)

 次の三十年代(一九五〇年代)から「日中国交回復」運動が始まる。これが第四の局面です。中心となったのは近衛内閣の書記官長で戦後、社会党左派の指導者となった風見章、あるいは西園寺公一などで、彼等は皆、尾崎秀実らマルクス主義者の巣窟だった近衛内閣の昭和研究会人脈、私は彼らを「チナミンテルン人脈」と呼んでいますけれども、彼等が戦後この時期から「日中国交回復」運動と称して、日本社会の中に着々と工作拠点を作っていって、昭和四十七年(一九七二)の「日中国交正常化」、台湾との断行に至らしめました。満鉄調査部事件で逮捕された伊藤武雄(『満鉄に生きて』の著者)や横浜事件で逮捕された細川嘉六なども、昭和三十年代、「日中友好」運動で活躍している。
 これは中共が戦前から一貫して、日本の知識人・マスコミを駆使する対日工作戦略を非常に重視してきた証で、これは戦前のコミンテルンと同じような動きとして四十七年の国交正常化以降もさらに活発化し、近年ではODAや歴史問題で中国の主張を補強する国内勢力を作っていっていまった。
 戦前は大本営の情報参謀で戦後は京都産業大学の教授だった西内雅氏が残した「日本解放第二期工作要綱文書」というものが昭和四十年代に香港で中共の秘密文書として流布している。その中には、今起こつているような、主要新聞の編集委員にアプローチして、そして「日中友好」に意見を変えさせていくとか、各地に中国語学校を作って教材を通じて日本人に歴史認識を改めさせていくとか、そういう事細かな指令が書いてある。この文書の真偽はまだ確定していない面も確かにあるんですけれども、昭和四十年代に明らかになつたその文書と、それ以後に起こつてきた事とをつき合わせると非常に符合している。これは「チナミンテルン」の対日工作のフェーズ2である。

■陸軍中野学校
 後方勤務要員養成所を経て諜報、防諜、宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的として昭和15年(1940)に創設。
 日本人の真実を尊ぶ素直な心はもちろん大切なものです。戦前の陸軍中野学校の教育では「誠」ということを強くしつかり敢えていた。と同時に諜報や謀略をやれる人間をつくるにはさらに深い「究極の誠」というものが重要だとも言っていた。その点は中野学校の教育では首尾一貫していたのですけれども、一般の日本人は、国際社会の経験がまだ百数十年ですから、にわかには理解できないのは仕方ない部分もある。しかし、左翼が日本の近代史をハイジャックしてきたことを考えると、そうとばかりも言っておれない。





◆近衛上奏文とノモンハンの真実

  尚、東條英機の防共への思いについては[大東亜戦争の真実:防共]を参照。
■ノモンハン事件(1939年5〜9月)
 当時の満州国とモンゴル人民共和国との間の国境が不明瞭だったノモンハン付近で起きた紛争。
 日本の関東軍とソ連軍が出動、激戦となり、双方に約2万人の死傷者が出た。ソ連側の方が死傷者が多かったどの説もある。同年9月に停戦合意が成立したが、ソ連側が主張していた国境にほぼ沿って停戦ラインが設定された。植田兼吉関東軍司令官、小松原道太郎第23師団長らが引責し予備役編入。小松原氏は40年10月に病死したが、自殺だったとの鋭もある。

 「近衛上奏文」というのがある。これは昭和二十年の二月に近衛文麿元首相が昭和天皇に上奏したものですが、盧溝橋事件以来、近衛自身の言葉でいえば、「何者かによるじに見えない力が働いて」支那事変の果てしない拡大や三国同盟さらには南部仏印進駐とかに日本は追いやられていった。近衛はぎりぎりのところでハタと気が付いて、日米開戦だけは避けようと思っていたのだけれども、「何者か」つまり陸軍、革新官僚、それから民間の、とくに昭和研究会など言論人の中の隠れマルクス主義者達が近衛内閣の中にまで入り込んできて、日本を戦争に引きずり込んだ。それを戦時中のあの時点で近衛は必死の思いで訴えているのですが、大変奇妙なことは、これについて、戦後日本では、歴史学会とか、有名出版社から昭和史の本などを出している歴史家たちがまったく無視している。しかし近衛上奏文の裏の深いところまで読むことが、昭和史の謎の解明の端緒になる。この近衛上奏文を無視するというところからも、戦後の日本近代史学界には明らかにバイアスがかかっていることがわかる。(⇒「英機密文書:日本が共産主義に降伏」参照)
 近衛内閣の周辺には、尾崎秀実をはじめ、コミンテルンの工作員が多数入り込んでいた。彼等の目的は、「ソ連防衛」でした。伝続的に日本軍の仮想敵の第一はソ連でしたから、その矛先をそらすために南進論、つまり対米英戦争をしきりに唱えたのが尾崎らの役割の一つだった。ここで一つだけ彼等によって歪められた情報の典型として挙げておきたいのは、企画院の情報です。企画院とは、首相直属の政府機関で統制経済を推進する部署でしたが、当時、南進論の主張で、「南に行けば石油が手に入る」というものがあって、企画院が何度も南方の石油の見積もり調査をやっている。ところが、それがいかに歪んだ調査報告を出していたかが、開戦後、実際に蘭印を占領して分かった。というのは、蘭印の石油は、重質油で硫黄分が多く、航空燃料にはまったく適していなかった。推定の埋蔵量も三倍に水増しされていた。企画院の中にコミンテルンのスパイがいたことは、ミトローヒン文書などでも明らかになっいる。近衛上奏文が指摘した通り革新官僚と言われた隠れ共産主義者の流した偽宣伝に日本がしてやられたのだった。

 それから、ソ連から公開される文書で私の歴史観を大きく揺さぶったのは、ノモンハンですね。ノモンハン事件というのは、日本が無謀なソ満国境の侵略をしてソ連の機械化部隊によって完膚無きまでに粉砕されたとされ、その戦い方も日本陸軍の精神主義の最も悪い例で、その後の大東亜戦争も結局その過ちを突き進んでしまったので、ああいう結果になってしまった、というふうに流布されてきた。有名な司馬遼太郎さんのノモンハン論もその解釈に立っていますが、下敷きになったのは、昭和四十人年から五十年に週刊誌に連載された五味川純平の『ノモンハン』です。その後のノモンハン論でも、半藤一利さんの『ノモンハンの夏』(文蛮春秋、一九九人年)も津本陽さんの『八月の砲声』(講談社、二〇〇五年)も、ソ連の文書が公開されているのにも拘わらず、未だに同じ画像を書いている。
 九十年代になって初めて明らかになったソ連側の公開文書では、日本側の死傷者一万七千に対し、ソ連軍は二万六千。これは、外蒙軍、つまり共産系モンゴル軍もソ連軍と一緒に日本軍と戦いましたが、その死傷者を含まない数字です。個々の戦闘の報告をみても、ソ蒙軍はほとんど全てにおいて敗北していたとしている。日本軍に至るところで戦線を突破されている。最後の最後に十倍の戦力、つまり日本軍二、三万の兵力に対して二十数万の兵力を投入しやっと日本軍を圧倒しえたのです。そういう事実が出てきたのに、五味川純平以来のあの“ノモンハン・イメージ”は一体何だったのかということになる。彼等が依拠している数字は遡ると、スターリンがノモンハン直後に発表した数字、つまりプロパガンダそのものの数字です。それがずっと戦後日本で踏襲されている。事実が出てきた以上、その根拠はもはやなくなってしまっている。ところが昭和史の本を何十万部と刷る出版社が最近公開された、こうしたソ連の公式文書を全く受け付けない。これ以上正確な事実はないのに、これまでと同様の本を出し続けている。それは、これまでの自分の立場が完全に覆されることへの恐れでしょう。
 近衛文麿の言葉で、「何者か目に見えない力によって日本の歴史は動かされてきた」ここが重要なところである。「何者か目に見えない力」が何であったのか、ということがようやく見えてきた。これを何とか生かさなかったら、我々は未来永劫、日本の歴史を立て直すことはできない。宣伝の恐ろしさですね。正に今、近衛の実感を目に見える形にする時代が到来したということです。



◇ノモンハン事件で新説  2011/12/09北国新聞
  第23師団の小松原道太郎 独断出動の「誕解ける」
  関東軍師団長、ソ連のスパイか?

 ソ連のスパイだった可能性が大きく、関東軍はスターリンの巧妙なわなに陥れられたとの新説を唱えている。
 小松原師団長は陸軍大学校卒で、満州国が建国された32年から約2年間、ハルビン特務機関長を務めるなど主に情報畑を歩んだ。38年に第23師団長に任命され、満州北西部ハイラルに駐屯。39年5月にノモンハン付近で発生した小競り合いに独断で部隊を出動させ、大規模紛争のきっかけをつくった。ソ連は周到な準備で機械化部隊を投入、同師団に壊滅的打撃な与えた。

■ハニートラップ
 黒宮教授が米誌「スラブ軍事研究」12月号に発表した論文によると、小松原師団長は在モスクワ日本大使館付武官だった27年、ソ連情報機関による「ハニートラップ」(女性を使って弱みを握る工作活動)に引っ掛かり、ソ連の対日情報工作に協力するようになったとみられるという。
 ハルビン特務機関長時代には多くの機密情報がソ連側に漏えいした形跡があり、ロシア国立軍事公文書館などにそれを裏付けるファイルが保管されている。

■米大教授が提唱
 太平洋戦争勃発の2年前の1939年、当時の満州国西部国境で日本の関東軍がソ連軍と衝突、大損害を被ったノモンハン事件について、黒宮広昭・米インディアナ大教授(ソ連政治史)が日本とロシアの公文専などを基に、関東軍第23師団の小松原道太郎師団長がノモンハン事件でソ連軍の捕虜となった日本人兵士(ロシア国立写真映画公文草館提供)(時事)従来は関東軍の辻政信参謀(旧山中町出身)らが大本営の意向を無視し暴走したとの見方が通説になっていたが、黒宮教授は「第23師団は国境守備とソ連情報の収集が主任務の新設部隊で、関東軍の中で最も弱かった。なぜ無謀な攻勢に出たのか。小松原師団長の指揮が部下から酷評されるほどまずかったのはなぜか。師団長がソ連側と内通していたとの見方に立てば多くの謎が解ける」と指摘している。(時事)

   





◆福沢諭吉が説いた「怨望」という悪徳


 昭和二十五年にマッカーサーが朝鮮半島での共産軍の南侵という事態で愕然として目が覚めます。日本人は共産主義の危険に早くに気づいていたのに、その日本を叩いて共産主義の増大に途を開いてしまった。彼は「アメリカが過去百年間に犯した最大の政治的過誤」と言っていますが、共産主義の増大を黙認してしまったことに対する深刻な反省を述べている。彼が恐れた意味での共産革命の危険はいまや終熄したと思いますが、今度は思想闘争、精神の問題としての共産主義、マルクス主義との戦いに今、我々は直面している。

 大概の悪徳はどこか相対的性格を有していて美徳に反転する可能性がある。ところが、どうにも役に立たない人間の悪徳がある、それは怨望というものだ、と福沢はいうのです。『学問のすゝめ』の根本理念は、人間は生まれたときは平等だが、のちに大変な不平等が生じてくる。これは何によるか、それは学問をするかしないかによって決まる。これが『学問のすゝめ』の根本テーゼですが、その逆のものとして、自分が向上して幸せになろうとするのではなくて、幸せに暮らしている人を引きずり降ろしてそれによって平等を実現しょうとする衝動というものがある。これが怨望というもので、どこにも美点のみつけようがない、人間の全ての悪の淵源ともいうべきものだという極めて厳しい議論をしている。
 日本の自然科学の水準は世界に誇るべき高度のものであるのに、それにしては意外にノーベル賞受賞者が少ない。それは受賞候補の噂が伝わると、決ってそれを妨害する怨望=嫉妬に駆られた人間が現れる。信じ難い話ですが、誹誇中傷のためにわざわざスウェーデンまで出かけていって妨害活動をするのだそうです。結局結果として日本の学問の進歩を妨げている。同時に思い出すのが、聖徳太子「十七条の憲法」の第十四条「嫉み妬むことあることなかれ」の御教えです。そこでは明瞭に、群臣百僚の相互の嫉妬が賢者の出現を妨げる、つまり国家の治まらざる原因となっている、と説いておられる。
 破壊衝動の転覆工作、サブバージョンという言葉を中西さんはお使いになっておられますが、この転覆工作の現れとしての現在の反社会的、反道徳的な破壊衝動の動機はほとんどそれで解ける気がします。例えば男女共同参画社会基本法にしてもジェンダーフリーにしても、日本社会の構造改革にしてもそうです。その根底に安寧に世を過している人々への嫉妬=怨望からくる破壊衝動があります。


※十七条憲法については「十七条憲法と日本の国体」参照。

※破壊衝動については[民主党政権と破壊衝動 辻貴之著](産経新聞出版)に詳しく書かれています。「平和憲法と破壊衝動」参照。




近衛上奏文

 昭和二十年二月十四日、近衛文麿元首相は、昭和天皇に拝謁し、戦争の終結へ向けた早期和平と共産革命の危機を奏上した。以下、その全文。

 敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の
前提の下に申述候。
 敗戦は我が国体の暇珪たるべきも、英米の輿論は
今日までの所国体の変革とまでは進み居らず(勿論
一部には過激論あり、又将来如何に変化するやは測
知し難し)随て敗戦だけならば国体上はさまで憂ふ
る要なしと存候。国体護持の建前より最も憂ふるべ
きは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産
革命に御座候

 つらつら思ふに我が国内外の情勢は今や共産革命
に向つて急速度に進行しっつありと存候。即ち国外
に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民は
ソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年
人民戦線戦術即ち二段階革命戦術の採用以来、殊に
最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する
傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。
ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧
州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつ
ある次第に御座候。
 ソ連は欧州に於て其周辺諸国にはソビエト的政権
を爾余の諸国には少くとも親ソ容共政権を樹立せん
とし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つ
つある現状に有之候。
 ユーゴーのチトー政権は其の最も典型的なる具体
表現に御座候。ポーランドに対しては予めソ連内に
準備せるポーランド愛国者連盟を中心に新政権を樹
立し、在英亡命政権を問題とせず押切申候。
 ルーマニア、ブルガリア、フィンランドに対する
休戦条件を見るに内政不干渉の原則に立ちつつも、
ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビエ
ト政権に非ざれば存在し得ざる如く強要致し候。
 イランに対しては石油利権の要求に応ぜざる意を
以て、内閣総辞職を強要致し候。
 スイスがソ連との国交開始を提成せるに対しソ連
はスイス政府を以て親枢軸的なりとして一蹴し、之
が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。
 英米占領下のフランス、ベルギー、オランダに於
ては対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深
刻なる闘争続けられ、且之等諸国は何れも政治的危
機に見舞はれつつあり、而して是等武装団を指揮し
つつあるものは主として共産系に御座候、ドイツに
対してはポーランドに於けると向じく已に準備せる
自由ドイツ委員会を中心に新政権を樹立せんとする
意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なり
と存ぜられ候。
 ソ連はかくの如く欧州諸国に対し表面は、内政不
干渉の立場を取るも事実に於ては極度の内政干渉を
なし、国内政治を親ソ的方向に引ずらんと致し居候。
 ソ抽の此意図は東亜に対しても亦同様にして、現
に延安にはモスコーより来れれる岡野(野坂参三)
を中心に日本解放運動連盟組織せられ朝鮮独立同盟、
朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ
居り候

 かくの如き形勢より推して考ふるに、ソ連はやが
て日本の内政に干渉し来る危険十分ありと存ぜられ
候(即ち共産党公認、ドゴール政府、バドリオ政府
に要求せし如く共産主義者の入閣、治安維持法及防
共協定の廃止等々)翻て国内を見るに、共産革命達
成のあらゆる条件日々具備せられゆく観有之候。即
生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵
慢心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運
動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及之を背後よ
り操りつつある左翼分子の暗躍等に御座候。右の内
特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動に有之候。
 少壮軍人の多数は我国体と共産主義は両立するも
のなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調
も亦ここにありと存じ候。皇族方の中にも此の主張
に耳を傾けらるる方ありと灰聞いたし候。職業軍人
の大部分は中流以下の家庭出身者にして、其の多く
は共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、又彼等は
軍隊教育に於て国体観念だけは徹底的に叩き込まれ
居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を
以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。
 抑々満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂
に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識
的計画なりしこと今や明瞭なりと存候。満洲事変当
時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せる
は、有名なる事実に御座候。支那事変当時も「事変
永引くがよろしく事変解決せば国内革新が出来なく
なる」と公言せし
は此の一味の中心的人物に御座候。
 是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは必ずしも共
産軍命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及民
間有志(之を右翼といふも可、左翼といふも可なり、
所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は
意識的に共産軍命にまで引きずらんとする意図を包
蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見
て大過なしと存候。
 此事は過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼の多方
面に亘り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到
達したる結論にして此結論の鏡にかけて過去十年間
の動きを照らし見る時、そこに思ひ当る節々頗る多
きを感ずる次第に御座候。
 不肖は此間二度まで組閣の大命を拝したるが国内
の相克摩擦を避けんが為出来るだけ是等革新論者の
主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せるの結
果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する
能はぎりしは、全く不明の致す所
にして何とも申訳
無之探く賓任を感ずる次第に御座候。
 昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声
次第に勢を加へつつありと存候。かかる主張をなす
者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあ
るは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的
を達せんとする共産分子なりと睨み居り候

 一方に於て徹底的に米英撃滅を唱ふる反面、親ソ
的空気は濃厚になりつつある様に御座候。軍
部の一部にはいかなる犠牲を払ひてもソ連と手を握
るぺしとさえ論ずるものもあり、又延安との提携を
考へ居る者もありとの事に御座候。以上の如く、国
の内外を通じ共産革命に進むべき、あらゆる好条件
が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利とも
ならば、この形勢は急速に進展致すべくと存候。
 戦端の前途につき、何らか一緒でも打開の望みあ
りといふならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に
論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続するは、
全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持
の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講
ずべきものなりと確信仕候。
 戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今
日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内の彼の一
味の存在なりと存候。彼等は己に戦争遂行の自信を
失ひ居るも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者
と存ぜられ候。
 もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の
手を打つ時は、右翼左翼の民間有志、此の一味と響
応して国内に一大混乱を惹起し、所期の目的を達成
し難き恐れ有之候。従て戦争を終結せんとすれば、
先ず其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座
候。
 此の一味さえ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに
右翼左翼の民間分子も、影を潜むべく候。蓋し彼等
は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して
野望を達せんとするものに外ならざるがゆえに、そ
の本を絶てば、枝葉は自ら枯るるものなりと存候。
 尚これは少々希望的観測かは知れず候へども、も
しこれら一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一
変し、米英及重慶の空気或は緩和するに非ざるか。
元来米英及重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと
申し居るも、軍部の性格が変り、其の政策が改らば、
彼等としても戦争の継続につき、考慮するようにな
りはせずやと思はれ候。それはともかくとして、此
の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、
共産革命より日本を政ふ前提先決条件なれば、非常
の御勇断をこそ願はしく奉存候。(外務省編。『日本
外交年表拉主要文書(下)』 より。一部字句修正。
原文正漢字、カタカナ。)

■近衛文麿の苦悩[日本の歴史 昭和編 P95-P98]

 戦時経済統制を実施するための企画院を作った近衛自身も、社会主義的政策に共感を覚える人であったようである。彼は、東大哲学科から京都大学法科に移ったという経歴の持ち主であるが、彼が転学したのは、河上肇に師事したいということが最人の理由であったという。日本におけるマルクス主義経済学の先達とも請うべき人である。
 近衛のために多少弁護するなら、当時の上流階級に属するような青年たちは、自分たちが世襲の財産と地位のおかげで裕福な生活を送っていることに対しての引け目から、左翼思想に惹かれる傾向があった。作家・太宰治もその一例であるが、華族の近衛も同じような感覚であったと思われる。同じ傾向はイギリスの上流社会にも見受けられた。
 近衛は、その後はマルクス主義からは離れたわけだが、社会の貧富に対して良心の呵責を覚えるという姿勢は変わらなかったようである。それは彼が人学卒業後、二十代後半に書いた文章の中にも表れている。この感覚は彼の国際関係にもあらわれ、彼が二十七歳の時(大正七年=一九一八年)に書いた『英米本位の平和主義を排す』は、「持てる国」が、その特権的地位を保持し続けようという利己心から、現状維持の平和主義を主張するのは怪しからんという主旨のものであり、その後のブロック経済に対する態度としては正論と言えよう。これは約二十年後に日本の国策となった「東亜新秩序建設」に通ずるものであった。
 このような社会感覚を持った人が、革新官僚や軍人の唱える「天皇を戴く社会主義」に共感を抱いたのは、ある意味では当然の結果であった。彼らの唱える国家改革プランは、自由主義経済によって財をなした人々からその富を取り上げ、貧しい人に分け与えようというものであるから、近衛も賛成したのである。
 とは言っても、近衛は「右翼の社会主義ならいいだろう」と思って企画院を設立したのではない。彼は、革新官僚たちの主張することが社会主義であり、共産主義に通ずるものであるということに、はじめは気づいていなかったのだ。そうと断試できるのは、終戦直前になって近衛が「右翼も左翼も同じだということに、ようやく気づいた」と告白しているからである。
 昭和二十年(一九四五)二月十四日、近衛文麿は、昭和天皇に上奏文を提出した。青年時代にマルクス思想を学び、そして首相として軍人や官僚たちと仕事をした人の最終意見であるから、まさに注目すべきものであろう。



日本が共産主義に降伏
   〜〜英機密文書:ソ連の浸透説裏付け〜〜   2013/08/11産経

 第二次世界大戦終戦間際の1945(昭和20)年6月、スイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として、「日本政府が共産主義者たちに降伏している」と重慶に機密電報で報告していたことがロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAで明らかになった。戦局が厳しい状況に追いこまれる中、日本がソ連に接近して和平仲介を進めたのは、ソ連およびコミンテルン国際共産主義が日本中枢に浸透していたためとの説を補強するものとして論議を呼びそうだ。

 機密電報は45年6月22日付で、中国国民政府のベルン駐在チッン、陸軍武官が重慶の参謀本部に伝えた。英国のプレッチェリー・パーク(政府暗号学校)が傍受、解読し、ULTRAにまとめ、公文書館に保管されていた。
 電報の内容は「米国から得た最高機密情報」として、「国家を救うため、日本政府の重要メンバーの多くが日本の共産主義者たちに完全に降伏(魂を明け渡)している」と政権中枢がコミンテルンに汚染されていることを指摘。「あらゆる分野で行動することを認められている彼ら(共産主義者たち)は、全ての他国の共産党と連携しながら、モスクワ(ソ連)に助けを求めている」とした。
 そして「日本人は、皇室の維持だけを条件に、完全に共産主義者たちに取り仕切られた日本政府をソ連が助けてくれるはずだと(米英との和平工作を)提案している」と解説している。
 敗色が濃くなった日本では同年5月のドイツ降伏を契機に、ソ連を仲介とする和平案が検討され、電報が打たれた6月には、鈴木貫太郎内閣による最高戦争指導会議で国策として正式に決まった。
 チッン武官は、この電報のほかにも同年2月のヤルタ会談で、ソ連が対日参戦を正式に決めたと打電したほか、5月からベルンで繰り広げられた米国との直接和平工作の動きを察知して逐一報告するなど、日本の動静を詳細に把握していた。


■「中ソと同盟」終戦構想

 ベルン駐在中国国民政府の武官が米国からの最重軍情報として、「日本政府が共産主義者たちに降伏しでいる」と打電した背景には何があるのか。陸軍中枢にはソ連に接近し、天皇制の存続を条件に戦後、ソ連や中国共産党と同盟を結び、共産主義国家の創設を目指す「終戦構想」があった。
 鈴木貫太郎首相(肩書は当時)は昭和20年6月22日の最高戦争指導会議で、ソ連仲介の和平案を国策として決めた際、「(共産党書記長の)スターリンは西郷隆盛に似ているような気がする」と、スターリンを評価する発言をした。
 この発言に影響を与えたとみられるのが、首相秘書官を務めた松谷誠・陸軍大佐が、4月に国家再建策として作成した「終戦処理案」だ。松谷氏は回顧録『大東亜戦収拾の真相』で「スターリンは人情の機微があり、日本の国体を被壊しようとは考えられない」などと、日本が共産化しても天皇制は維持できるとの見方を示していた。
 さらに「戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からむ対ソ接近は可能。米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる」として、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだとしている。
 同年4月に陸軍参謀本部戦争指導班長、種村佐孝大佐がまとめた終戦工作の原案「今後の対ソ施策に対する意見」でも、
@.米国ではなくソ連主導で戦争終結
A.領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる
B.ソ連、中共と同盟結ぶ1と善かれている。
 陸軍内の動きについて、近衛文麿元首相は20年2月、「国体護持にもっとも憂うべき共産革命に急速に進行しっつあり、共産分子は国体(天皇制)と共産主義の両立論で少壮軍人をひきずろうとしている」と上奏文で天皇に警告した。
 また、真珠湾攻撃目前の16年10月、ソ連のスパイ、リヒヤルト・ゾルゲの協力者として逮捕された尾崎秀実は「(われわれの目標は)コミンテルンの最終目標である全世界での共産主義革命の遂行」で、狭義には「ソ連を日本帝国主義から守ること」と供述している。
 岸信介元首相は、25年に出版された三田村武夫著『戦争と共産主義』序文で「近衛、東条英機の両首相をはじめ、大東亜戦争を指導した我々尽スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だった」と振り返っている



■「ソ連工作浸透を浮き彫り」

 コミンテルンの浸透工作など大戦期のインテリジェンスに詳しい中西輝政京都大学名誉教授の話「英国立公文書館所蔵の機密文書の信頼性は高く、第一級の史料である。第三国のインテリジェンスで、日本の指導層とりわけ陸軍中枢にソ連工作が浸透していたことを浮き彫りにしている。米国の最重要情報源とは、OSSのアレン・ダレスで、日本に対するOSSの分析だろう。また当時は国共合作していたため、武官は、中国共産党員の可能性もある。統制派を中心とした日本陸軍の指導層にはソ連に親和性を感じ、ソ連共産党に通じた共産主義者(コミンテルン)がいて、敗戦革命を起こして戦後、ソ連型国家を目指す者がいた
 ゾルゲ=尾崎事件では、軍部は捜査を受けず、人事も刷新されず、コミンテルンによる浸透工作が継続していた。『ヴェノナ』文書により、米国のルーズベルト政権ですら、200人以上のソ連のスパイないし協力者がいたことが判明したが、防諜が弱かった日本でも、総力戦体制(※終戦直前では、経済については国家社会主義の体制に近かった。)の中でソ連の浸透が進んでいた。ソ連を頼り、和平を委ねたのは、日本を共産主義国家へ転換する周到な工作だったとも考えられる
 ■毛沢東を救ったゾルゲ
 紅軍の勝利を確定的にしたのは、毛沢東の容赦ない戦略ではなかてた(勝利を決定づけたのは、現在なおほとんど明らかにされていないが、ソ連による援助だった。モスクワはソ連国にトップレベルの軍事顧問団を設けて戦略立案にあたらせ、上海にも軍事委員会を設けてソ連人その他(とくにドイツ人)の軍事顧問を置いた。最も重要な役割を果たしたのはソ連軍参謀本部情報総局(GRU)で、中国国内に一〇〇人以上のスパイを配していた。その大半は紅軍根拠地に近い国民党事務局に浸透させた中国人スパイで、中国共産党に対する情報提供が主たる任務だった。
 一九三〇年初頭、モスクワはこの任務に当たらせるため、ドイツ人とロシア人の血を引く大物スパイ、リヒヤルト・ゾルゲを上海に派遣した。ゾルゲの最大の手柄は、蒋介石の前線情報司令部を支援するドイツ人軍事顧問団に浸透し、顧問の一人シュテルツナーの欲求不満の妻に近づいて国民革命軍の暗号を盗んだことだった。ゾルゲが盗んだ暗号の中には、参謀本部と前線との通信に使われる暗号も含まれていた。ソ連のスパイがもたらした情報は、毛沢東にとって非常に大きな助けとなつた。同時に、中国共産党のほうでも、国民党情報機関の心臓部に独自にスパイを送り込んでいた。その中の一人、銭壮飛は国民党中央調査課主任徐恩曾の秘密管理秘書となり、毛沢東の勝利に大きな役割を果たした。
 ゾルゲは、その後、ヒトラーがヨーロッパ・ロシアに侵攻しても日本にはソビエト極東を攻撃する意図がない、という決定的情報を一九四一年にスターリンにもたらしたことで、スパイとして有名になった。ゾルゲの助手の一人に張文秋という女性がおり、その娘二人はのちに毛沢東の生き残った二人の息子と結婚している。張文秋は、コミンテルンのアメリカ人スパイ、アグネス・スメドレーの紹介でゾルゲと知り合った。

 ■在日は米軍占領中から日本を転覆しようと企てていた
 吉田茂は、百万人の在日朝鮮人の全員送還を望むと、マッカーサーに訴えている。その理由の一番は、日本の復興に何ら寄与していないばかりか、犯罪を犯す常習犯であること。しかも、かなりの数が共産主義者者で悪質な政治犯罪で、投獄者は常に七千人を超えるからだ[吉田茂=マッカーサー 往復書簡集P448]。
 そして、マッカーサーは吉田に、日本共産党中央委の全員追放を指令している。彼らは憲法に基づく権威を無視し、法と秩序による行動を軽視し、虚偽や煽動その他の手段を用いて社会混乱を引き起こし、遂には日本の立憲政治を力により転覆する段階を生じさせようとしている[往復書簡 P521]。昔から在日と中共は、日本転覆、即ち天皇の処刑を目指していたのだ。だから、半数が不法滞在者だった在日の強制帰国を執行すべきだと思う(⇒[07.目標は天皇の処刑]参照)。
 その後、マッカーサーは吉田に、「赤旗」編集部全員の追放を指令する。赤旗は共産党内部の最も過激な不法分子の話を伝える役割をしており、警察に反抗を仕掛け、経済復興の進展を破壊し、社会不安と大衆暴力を生じさせる無責任な扇動的記事を満載させてきたからだ[往復書簡 P526]。そして、ついにマッカーサーは吉田に、「赤旗」と後継紙の無期限発刊禁止を指令した。その理由は、共産主義が公共の報道機関を利用して破壊的・暴力的綱領を宣伝し、無責任、不法の少数分子を煽動して法に背き秩序を乱し、公共の福祉を損なわせるからだ[往復書簡 P539]。
 だが一番の問題は、吉田が共産党分子に温情的で、積極的に共産党分子を排除しようとしない姿勢だった。そして今、中韓は反米、親支那を日本国内で堂々と行っている。
      
 ■在日を日本から一掃しようと悪戦苦闘した吉田茂
 1946年12月20日、吉田の退陣を要求する在日朝鮮人によって首相官邸を襲撃される。1949年、吉田茂首相は連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥に、『 在日朝鮮人(在日韓国人)の全員送還を望む 』と題する、朝鮮人送還を求める嘆願書を提出。費用は日本が出すとまで言い、在日朝鮮人の本国送還は当時の日本にとって急務であった。
 嘆願書では在日台湾人はあまり問題を起こしていないとして、在日朝鮮人のみの送還を要望。また『 在日朝鮮人(在日韓国人)の半数が不法密入国者 』であることを明らかにした上で、以下の問題点を指摘した。吉田茂首相がマッカーサーに宛てた「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)
 朝鮮人居住者の問題に関しては、早急に解決をはからなければなりません。彼らは総数100万にちかく、その半数は不法入国であります。
 私としては、これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。
 その理由は次の通りであります。
  1. 現在および将来の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。
  2. 大多数の朝鮮人は、日本経済の復興に全く貢献しておりません。
  3. さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな割合を占めております。彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。彼らの多くは共産主義者ならびにそのシンパで、最も悪辣な政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態であります。……
 さて、朝鮮人の本国送還に関する私の見解は次の通りであります。
   (1)原則として、すべての朝鮮人を日本政府の費用で本国に送還すべきである。
   (2)日本への残留を希望する朝鮮人は、日本政府の許可を受けなければならない。
 許可は日本の経済復興の貢献する能力を有すると思われる朝鮮人に与えられる。
 上述のような見解を、原則的に閣下がご承認くださるならば、私は、朝鮮人の本国帰還に関する予算並びに他の具体的措置を提出するものであります。
         敬具 吉田 茂




誰も書かなかった「反日」地方紙の正体を読んで

 これまで、朝日と毎日新聞を中心とする左傾全国紙、左翼マスコミ、左翼学者が、日本国民を洗脳・扇動して日本に左翼革命をもたらそうとしているのだと思っていました。本書によれば、民主党政権を樹立させた勢力の半分以上が、いや朝日毎日以上に地方紙の左傾化による地元住民への洗脳だと述べている。
 地方紙の記者は当該地域では名士であり、地方の政財界に及ぼす影響が非常に大きい。しかし、全国紙のように競争がないため、井の中の蛙であり、視野が狭く独善的な傾向がある。しかも、地方紙の社説は、共同通信のほぼ丸写しだというのだ。つまり、共同通信の主義主張がそのまま地方紙に反映され、地元住民を洗脳してしまう。いまや、地方紙の独善体質と共同通信の論説が、朝日以上に左傾化している事が、朝日の影響以上に民主党政権を誕生を後押しし、亡国へ扇動しているというのです。そのことを、本書より抜粋しました。是非一読をお勧めします!
   ◇
 外国人参政権に前向きな地方紙の社説を調べると、山形、茨城、岐阜、長崎新聞はそれぞれ表題は違うが、中身は全く同じだ。実はこれらの社説にはタネがある。共同通信が配信した「今こそ憲法を考えよう」の論説がそうだ。要するにこれを丸写ししているわけだ。ただ、著名を削除し、自社の社説として掲載している。
 共同通信社は1945年、正確公正な内外ニュースを広く提供し、国民の知る権利に応えるとともに国際相互理解の増進に貢献することを目的に、全国の新聞社、NHKが組織する社団法人として設立。国内外のニュースを取材、編集して新聞社をはじめ、民間放送局や海外メディアに記事、映像を配信している。日本語だけではなく英語や中国語でも配信し、アジアに軸足を置く日本を代表する総合国際通信社である。
 加盟社はNHKを含め56社、加盟社が発行する新聞は67紙に及ぶ。産経、日経のような全国紙、それに地方紙が都道府県ごとに一社は必ず加盟している。加盟社以外に外信記事と運動記事を受ける「契約社」があり、朝日、毎日、東京スポーツなど10社が13紙を発行している。またフジTV、TV朝日、TBSなどのキー局をはじめ地方の主要な民間放送局108社が契約社として、共同通信の配信を受けている。
 地方紙に供給されるニュースは海外ニュースだけではない。むしろ、地方紙にとっては国内ニュースの供給源という役割の方が重く大きい。つまり、地方紙や地方メディアなどは、地元以外での取材活動が人的資金的にもできない、また記事に関しても専門性が要求される場合が多く、専門委員を置くことができないので、今後さらに共同通信からの影響が大きくなってしまう。その意味で、共同通信は自ら発行媒体を持たないものの、地方紙・放送局への影響力は今後ともにさらに絶大といえそうである。
 新聞の社説は、戦前・占領時代から左翼的な価値観を守ろうとする朝日・毎日型と、そうした戦後パラダイムを改めようとする読売・産経型に分かれます。共同通信の論説資料は、地方紙の社説として利用されています。しかし厳密な意味で社説ではなりませんが、その傾向は朝日・毎日以上に左翼的なのです。つまり、地方紙が「共同通信」に頼れば頼るほど、日本の言論バランスは、量的側面だけではなく、地域という側面からも、一方的に大きく振れかねないという懸念がある。
 著者は、自衛隊問題、JR労組訴訟、沖縄基地、他の事例を挙げ、地方紙が共同通信に影響されていることを検証しています。そして、地方紙は全国紙ほど、特色がなく、存在意義があるのかと問うている。(産経新聞出版)




国立歴史民俗博物館が偏向展示、沖縄戦集団自決「軍人の指示」明記:2011/01/06朝刊

 沖縄戦の集団自決に関する展示内容の見直しを進めていた国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)は5日、集団自決について「軍人の指示」があったとする見解をまとめ、公表した。展示は同日付で始まった。集団自決の背景に「軍の関与があった」という表現がないとして沖縄の市民団体などから抗議が相次いでいた。「関与」よりも一歩進んだ「指示」という表現で決着したことに識者からは批判が出そうだ。
 問題の展示は第6展示室の「大量殺戮の時代〜沖縄戦と原爆投下」のコーナー。「犠牲者のなかには、戦闘ばかりでなく『集団自決』による死者が含まれていた」とし、集団自決の背景として「米軍に対する住民の恐怖心のほか、日本軍により軍民一体化が推し進められるなかで、米軍に投降すべきでないとの観念が一般にも浸透したこと、そして手りゅう弾の配布に示される軍人の指示など、住民の意思決定を左右する沖縄戦特有のさまざまな要因があった」などと記述した。同館ではこれまでは「激しい戦闘で多くの人びとが生命を落としたほか、犠牲者の中には戦闘ばかりでなく『集団自決』に追い込まれた人びともいた」と解説。これに沖縄の市民団体などが「集団自決が軍命令だったことは歴史的事実」と反発、「軍の関与」という表現を展示に盛り込むよう求めていた。
 同館は「軍人の指示」という表現について「不測の事態の際、自決を促す意図で配布されたという証言が膨大にあり、研究者間でもそう理解されている」と説明。「軍」「関与」ではなく「軍人」「指示」という表現を用いた点にも「明確に軍が自決を命令した資料は見つかっておらず、『関与』という言葉は不正確で誤解を招きやすい」などと述べた。
 新しい歴史教科書をつくる会の藤岡信勝会長は「軍が自決を命じたととられ、これでは偏向展示だ。私たちの調査では手榴弾配布は、むしろ住民側の要求と分かってきており自決を踏みとどまらせた例もある。史実として未確定の部分も多く公正な歴史記述とは言い難い」と批判している。 産経




父達の満州 「建国から80年」
                    産経新聞に連載(2012/02/25〜)

T.「黒い集団」の衝撃

■「本当の友はいなかった」
 独立美術協会の「独立展」に12回入選の実績を持つ埼玉県行田市の面高春海(75)は、57歳で大手電機メーカーのサラリーマンから画家への転身をはかった。
 定年まであと3年となり、さて残りの人生をどう生きるかと考えたとき、終戦直後の「満州」で目にした風景をどうしても絵に残したいと思ったからだ。

◆脳裏に焼き付いた情景
 面高は昭和11年、満州国(現中国東北部)の大連で生まれた。父の満も名前が示す通り、満州生まれで、当時は満鉄調査部に勤めていた。南満州鉄道会社(満鉄)のシンクタンクである。
 小学校に入る前、祖父が経営していた製材所を父が引き継ぐため首都、新京(現中国吉林省長春)に移る。新京駅の北側にあった製材所の一角に自宅もあり、日本人中心の西広場小学校に通った。
 3年生で終戦を迎えたとき、製材所は中国人による略奪を受け、一家は比較的治安の良い市中心部の祖母の家に移る。家の前にテントを張って食堂を始めた。

 ところが数日後、春海は町の北の方から、「黒い集団」が近づいてくるのに気づいた。全身泥だらけでボロボロの服をまとい、胸に食器代わりの空き缶をぶら下げている。
 足にゲートルを巻いた男性がおり、日本人だとわかった。8月8日、日ソ中立条約を破って満州に攻め込んだソ連軍に追われ、命からがら北部満州から逃げてきた開拓団の人たちだった。
 「日本人が大変だ」という春海の知らせで、祖母らはありったけの材料で食料を作り、一人一人の空き缶に入れる。「黒い集団」は奇妙なほどに整然としていた。食べ物を奪い合うようなこともなかった。諦めのようなものが支配していたのかもしれない。
 だがこの衝撃は「戦争に負けるとはこんなに惨めなのか」と、面高の脳裏に強烈に焼きついた。その「黒い集団」を何とか絵にして残したいと思い、夜間の美術学校に通い始めた。今も同じテーマで描き続けている。
 終戦から1年近く、蒋介石の国民党軍と共産党の八路軍とが市街戦を繰り返す中、一家は身を潜めるように新京で暮らす。満州生まれでほぼネーティブな中国語を話す父も、このまま中国に残るつもりでいたらしい。

◆「トラウマ」背負い帰国
 しかし21年、満州の実権をほぼ握った国民党の方針で在満の日本人は皆、日本に帰ることになった。面高の一家も無蓋の列車に乗り、葫蘆島から引き揚げ船で佐世保に着いた。祖母の実家があった鹿児島市に落ち着く。
 面高は地元の小学校に転入し、一家は新しい生活に入った。だが父親だけは違った。ほとんど働く気を見せず、3年近くも家族から離れ、山の中に小屋を作り一人で暮らしていた。
 「敗戦によって、何十年も一緒に仕事をした仲間のはずの中国人に裏切られ、目の前で財産を略奪された。よほど悔しかったのでしょう」。面高はそう振り返る。父も子も「トラウマ」を背負って帰国したのだろう。
 だが一方で、父親は満州生まれであっても「中国人の友達はいない」と言っていたという。「あくまでも仕事上の主従関係だった。中国人と一緒にやるにはどこか無理があったのです」
 面高の言葉はそのまま、「五族協和」をかかげ、新しい国を目指した満州国の限界を示しているような気がする。父はその後、大学病院の施設などで働き、96歳の長寿を全うした。だが一度も満州を訪ねることはなく、語ることも少なかった。

 その満州国は、関東軍によって起こされた満州事変から半年後の昭和7(1932)年3月1日、建国が宣言された。今からちょうど80年前のことである。
 現在の日本の約3倍もの地に全く新しい国をつくるという壮大な試みだった。順調に経済発展をなしとげ、日本人だけでなく中国人や朝鮮人をもひきつけるフロンティアともなった。
 しかし昭和20年、日本の敗戦により13年余りの短い命を終えた。最大時150万人と言われた満州国の日本人は、あるいは命を失い、あるいは全財産をなくし、石もて追われるごとく日本に引き揚げた。
 一体この地に何を求め、どんな夢を見たのだろう。建国80年の今、彼らの子供の世代の目を通して見つめてみたい。=敬称略(皿木喜久)

【用語解説】五族協和
 満州国が建国に当たって掲げた理念。日・朝・漢・満・蒙の五族が助け合おうという考えだったが、日本主導のもと、ひとつの国に五族が住み分けていたというのが実態に近かった。


U.見果てぬ夢
 昭和10年代中ごろの新京・大同大街。メーンストリートのひとつで、経済発展とともににぎわいを増していった


■「日本に負けない国」目指す
 昭和21年秋、旧満州国の首都、新京(現中国・長春)から一家で鹿児島市に引き揚げてきた当時10歳の面高春海(おもだか・はるみ)(75)が驚いたことが2つあった。
 電話が交換手を通す方式だったのと、くみ取り式トイレである。当時の日本からすれば信じられないことだが、当時の新京にはすでにダイヤル自動式の電話があり、トイレは水洗だったという。


◆平和で豊かな暮らし
 前回書いたように、新京の面高の家は新京駅北側で経営する製材所に隣接していた。れんが造りの2階建て、地下室もあるちょっとした「豪邸」だった。
 日本の戦況が厳しくなるまでは暮らしぶりも豊かだった。自家用の馬車があり、中国人の馭者(ぎょしゃ)もいた。面高は2年生ごろまでこの馬車で小学校に通った。
 面高だけではない。10年前、満州など中国育ちの漫画家たちが当時の思い出を絵と文で描く『中国からの引揚げ 少年たちの記憶』という本がミナトレナトス社から出版された。赤塚不二夫、森田拳次ら豪華なメンバーだ。
 引き揚げのつらさや怖さを描いたものもあるが、多くは平和で豊かな当時の生活である。『あしたのジョー』のちばてつやは、奉天(現瀋陽)の街のにぎわいを再現している。新京で生まれた『釣りバカ日誌』の北見けんいちの思い出は、児玉公園の凍った池での父親とのソリ遊びである。
 昭和7(1932)年3月1日に誕生した満州国は表向き、執政(後に皇帝)の溥儀(ふぎ)を頂点とし立法、行政、司法などの機能を持つ近代国家の装いを整えていた。だが実態は、関東軍が「内面指導」する形で実権を握り、国づくりはほとんど日本人の手に託されていた。
 その基軸となったのが「産業開発5カ年計画」である。それまで満鉄(南満州鉄道会社)の沿線付属地にしかなかった重工業の飛躍をはかるものだ。実施に当たっては、日本の大蔵省や商工省から敏腕の官僚たちが行政の中枢に送り込まれた。後の首相、岸信介もその一人だった。
 昭和12年にスタートした5カ年計画は、この年に起きた日中戦争の激化で修正を余儀なくされたが、日本からの多額の投資や日本企業の満州移転などで、大きな成果をあげる。
 12年には日本から移転した日本産業(日産)と満州国とが折半出資する「満州重工業開発」(満業)が設立された。その傘下には自動車、鉄鋼、航空機メーカー、軽金属、炭鉱、鉱山などの会社が入り、それぞれの生産量は飛躍的に増える。
 14年に任務を終えた岸は、その記者会見で「何もない所に相当なものを、3年ばかりの間に作ったのですから」と胸を張った。
 5カ年計画と、もうひとつの柱「二〇カ年一〇〇万戸移住計画」によって多くの日本人が満州に渡った。一時は150万人を超え、中国や朝鮮からも仕事を求める人がこの地になだれ込んだ。
 新京をはじめ奉天やハルビンなどの大都市は経済力を背景に近代都市に生まれ変わった。その大都市を結ぶ鉄道として満鉄は路線を延ばす一方、時速82.5キロと、日本の特急よりはるかに速い特急「あじあ」号が、大連とハルビンの間を走った。
 工業だけでなく、当時「娯楽の王様」になりつつあった映画界に甘粕正彦(あまかす・まさひこ)が理事長をつとめる満州映画協会(満映)が設立された。李香蘭(り・こうらん)(山口淑子)らのスターを生んでいく。

◆戦後復興のモデルに
 そうした満州の国づくりに当たる日本人に共通していたのは「内地(日本)に負けない国にする」という意識だった。前出の面高によると日本から渡ってきた先生たちも「内地より立派な子供を育てたい」と熱心に教育した。
 一時的だったにせよこの豊かさは、昭和に入っての不況から抜け出せず、日中戦争の泥沼化の中で閉塞感の漂う日本の国民の目に何とも魅力的だった。「お嫁に行くなら満州へ」という若い女性も少なくなかった。
 その魅力も日本が米国との戦争に突入したことで次第にしぼんでゆき、昭和20年の敗戦とソ連軍の侵入であえなくついえた。
 だが満州国を「偽」として認めない中国はその後、満州国の産業やインフラの「遺産」をしっかり活用した。中国の経済成長が旧満州から起きたのがその証しだ。
 一方で、首相になった岸信介が高度成長の基盤を築くなど、満州での試みをもう一度やり直そうとしたのが戦後の日本だったという見方もある。「見果てぬ夢」は形を変え、日本に受け継がれているのかもしれない。=敬称略(皿木喜久)


満州鉄道の権益を放棄 [岸信介と未完の日本 P162-]
 満州の地において、満鉄租借地については、日本の治外法権が認められていた。その治外法権を、昭和十二年十一月に返上撤廃したのである。
  これが、どれだけ大きいことか、なかなか理解しにくい。治外法権を返上するというのは、まず、それまで日本人が満州で享受してきた、決定的な特権を放棄することを意味するのだ。
 日本は、日露戦争の勝利により、南満州鉄道をロシアから譲り受けた。ロシアは、鉄道の敷設にさいして、清に駅を中心とする市街地、鉄路とその周辺の土地、及び鉄道運営に必要な鉱山などの資源と、軍の駐留、治安全般の権利を借り受ける契約を結んでいた。日本はロシアから、満鉄に付随する一切の権利を受け継いだわけで、その地位は、清が倒れ、張作霖、張学良政権、そして満州国に移っても変わらなかった。いわば、満州国が成立した後も、満州の主要な都市部分は、日本の主権の下にあり、日本人は、日本政府によって保護されていたわけである。それを、完全に放棄したわけだから、この意味は大きい。現今の満州国塊偏論では、到底理解できない、実質的な国としての統治実体が、満州国に打ちたてられたのである。
 もちろん、そのためには、それまで近代法制のまったくなかった満州国に、民法、刑法、商法などを作らねばならず、しかもその法を有効にするためには、現地満州族をはじめ諸民族の生活習慣、文化実態に即したものでなければならなかったのである。
 法治は、立法すれば実現するわけではない。裁判所、登記所、警察署、刑務所といった膨大な数の施設、裁判官をはじめとする法務官僚、警察官などの執行組織の整備育成があって、はじめて機能をする。いかに「塊偏国」であろうと、日本が治外法権を放棄するにたるだけの、法治の実態を築かなければならなかった。
 侵略などという言葉では、到底切り捨てられない、崇高な使命感なしには実現できるはずもい難行である。
 大蔵省から満州国に転じ、官僚のトップであった星野は、賀川に、満州を治める者は、国土を崩壊から救う者だというオーエン・ラティモアの言葉をひきつつ、以下のように語ったという。「私たちはこの地にあって、諸民族の協和により自然と人間の再創造を行おうとしている。それは天地人合作の大業である。私たちは今その大業を遂行しっつある」(『私と満州国』)。
 賀川は、キリスト教社会運動家として知られ、労働運動から手を引いた後に、農村で活動していた。大正九年に出版した自伝小説『死線を越えて』は、時代を代表するベストセラーになった。星野の父も牧師で、賀川と信仰を同じくしていた。星野は、率直に云わなかったが、彼にとって満州国建設は、神の御業にほかならなかったのである。それほどの、崇高な使命感をもって当たるべき事業であった。
 草創期の、貴重な努力によって体制が整備されて、はじめて満州国は近代国家として発展するための体裁が整ったわけで、その後の経済的発展もまた、この条件があったからこそ順調に行ったのである。






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